逃走

逃走

逃走


遠く、高速道路の高架橋を越えたあたりから、川は右に曲がっているようで、それに沿って土手もそちらに曲がっていて、行く手を阻む壁のようになっていた。川の曲がり角あたりに水門も見えた。自分はちょうど川っぺりを漕ぐのも飽きてきたので、ここいらで土手を登って街に出てみようと思った。とくに辺りに土手に上がるスロープなども見当たらなかったので、自分はその水門の下らへんで自転車から降りて、斜面を押して登った。登りきると今まで土手の壁で隠されていた町並みが俯瞰できた。ここは広い平野のようで、薄く見える山脈の影の麓まで人が住んでいる気配がある。送電線がその彼方まで続いていた。こちらの水門は、あの大きく曲がって行った川からの支流をおさえていた。その支流は、水門をくぐり抜けてつーっと平野の中を突き抜けていた。その支流がまるで街中の住み分けの境界線になっているようだった。支流の向こう側は、ただの住宅街のようで、支流の手前のこちら側には、空き地にうず高く積み上げられたこげ茶の土が、そこら中にあった。そしてそのそこら中に「残土買取」と看板が建てられていて、オレンジや黄色に塗られたショベルカーたちが、残土の山脈の谷底を縫うように移動し、時に山に登り腕をぐいぐい動かして土を掻っ攫っていった。こちらから見ると、ほとんどのショベルカーの操縦席の部分が残土の山で見えず、鮮やかなショベルの腕の山なりになった関節だけが動いて見えるので、しゃくとり虫みたいだった。そのまわりには、いかつい銀色のパイプがそこらじゅうに生えている工場のような施設が並んでいた。自分は自転車に乗って土手を駆け下りた。
道路はたいてい、人を轢き殺すために作られたような巨大な積土トラックが走っていて、自分の横を通るたんびに地面が震えた。歩道のよこの、錆びたトタンで区切られた空き地にはやはり土が大量に積まれていて、ショベルカーのキャタピラが回るたび土埃をあげていた。自分は少し来たことを後悔した。自分は喘息で、空気に敏感だった。ここの空気はいつ吸っても土の味がした。アスファルトはトラックの平らな轍に沿って茶色くなっていた。横にめずらしく畑の列やビニルハウスが見えると、自分はそちらに曲がって行った。残土処理場の一角が畑になっていて、しばらくはそれに囲まれた抜け道を走ることにした。畑には作業をしている老人もちらほらいたが、こんな環境で野菜をつくって、売れるのだろうか。自分なら絶対に買わないと思った。しばらく残土の山や工場の煙突を遠目に見ながら、でこぼこの道を漕いでゆくと、畑の真ん中に比較的新しい建築が見えた。平屋で、周りに柵がしかれていて、最初はガーデンか何かかと思ったが、ちかくで確認すると動物霊園だった。柵の向こうには、大きな石碑があって、その前に黄色い袈裟をかけた坊主が居るのが確認できた。お経をあげているのだろうが、周りには大型トラックが恐ろしい唸り声を上げながらひた走っているし、工場からは絶えずゴウンゴウンと通奏低音が流れて、そして、埃くさい。こんなところでは動物の霊魂も宓ではないだろうと感じた。
しばらく我慢しながら走ると、ようやくあの水門から分かれていた支流にぶつかった。彼岸には初々しい芝生が敷かれた、小さな土手のような、憩いの場所のようなところがあったので、自分はそこで休憩をすることにした。橋を渡って、自転車を置いて芝生の上に据えられたベンチに腰掛けた。空気が違った。自分の尋常感じているものが、どれほどのものなのか実感できた気がした。ベンチはあの工場地帯に向かっていたので否応なしにそちらが見えたが、後ろを振り返ると本当に住宅街だった。ベンチの前は小さな芝生の崖のようになっていて、その底にはビオトープのようなものがあって、長靴を履いた老夫婦のような人がその田圃で作業をしていた。
腰が落ち着くと非常に安堵の感じが広がった。ずいぶんと今日は遠いとこまできたものだ、と感心した。自転車のカゴからペットボトルを持ってきて、飲んだ。そろそろ引き返そうか。しかし、あの地帯をまた走るのはやっかいだ。別のルートがないものか。時計を見ようと、携帯を開けた。しかし、ディスプレイには何も映らなかった。電池が切れてしまったのだろうか、くそ、出かける前にちゃんと充電しておけばよかったと思った。住宅街のほうにコンビニが見えたのでそちらに行くことにした。広いコンビニの駐車場の隅に自転車を留めた。自転車の鍵をなくしてしまっていたので、そんなことはないだろうが、盗まれてしまっては恐ろしいので、素早く済ませようとした。コンビニの中で時間を確認して、それでついでに飲み物のなんか買おう。中に入り、奥に向かった。飲み物のガラスケースの上に、コンビニのロゴ入りの壁掛けがあった。時は11:59分だった。なんだ、まだ昼か。ということは、ここも自宅から案外近いのかもしれないなと感じた。
しかし自分は気づいた、太陽はあそこまで下がっているのにこの時間はない。発見した。……この壁掛け時計は、秒針が止まっている。店員に言うと、彼は背伸びして時計を取り、事務所に消えていったが、そのまま帰って来なくなった。仕方ないので、携帯の充電器でも買おうとしたが、そういえばコンビニのレシートには日時が出るなと思い出したので、しみたれな自分は適当な飲み物を買ってレシートをもらった。今日の日付の横には、11:59と印刷されていた。自分は店員に、レジの日付がおかしいんじゃないないかと文句をつけた。店員はぽかんとしていたので、自分は先ほどのレシートを見せた。確かに、おかしいですね。と店員は言った。それ以来黙ってレジをいじっているので踏ん切りがついて、今は何時ですかとたずねた。店員は自分の右手につけていた腕時計を見た。
「すみません、電池が切れているようで。」
彼は真っ白になったディジタル時計のディスプレイをこちらに見せた。自分はもういいと言って店を出た。
むかむかした自分を落ち着かせるため無心に自転車を漕がせた。住宅街の中を行き当たりばったりに漕いでいると、公園が見えた。黒い柱の上に電波時計が掲げられているのも見えた。自転車を降りて時計のちかくまで行った。しかし、電波時計には両面とも蜂がびっしりと止まっていて、いくら目を凝らしても蜂が蠢いているようすしか見えなかった。おっぱらってやろうと思ったが、からだを震え上がらせるような羽音とともに彼らがヨーヨーのようにぶんぶん飛び回りながらこちらにやってくるとやる気が削がれて、諦めて公園から離れた。部活帰りだろうか、紺の布のジャージを着て、ラケットのケースらしきものを背負った子供の集団がいたので、今は何時か分かるかと尋ねた。中学生らしき集団は談笑していたが、わたしの声とともにそれはぴたりと止んだ。
「学校に携帯を持って行ってはいけないのでわかりません。向こうの公園に時計があると思いますよ。」
と、彼らは訝しげに言った。
「あの時計はだめだ、蜂がたかって近寄れないんだ。君たちはいつも何時くらいにこうやって部活から帰ってくるんだい?」
「……六時半くらいですけど。」
「じゃあそういう時は六時半くらいだと答えるんじゃないか。」
はい、と少女のひとりが言い終わらないうちに後ろに居た違う子供がぱっと背を向けて一目散に逃げ出した。それを区切りに子供たちは一斉に路地の方へ逃げ出して行った。
「くそが、あいつら嘘こきやがって。」
今が六時半だと?ならあの太陽はなんだ。今は12月だ、六時半ならとっくに日は暮れて真っ暗だろうが。
「すみません、今は何時ですか。」
通りすがりの中年の男へ声をかけた。男は眉を顰めたが、やがてポケットから携帯電話を取り出して確認した。
「11:59。」彼はぶっきらぼうにそう吐き捨てた。
「ばかにするんじゃない。」
男はキョトンとしていた。
「今が11:59なはずがないだろう。正午なら何故太陽が真上にない?きみは空を見ないのか。」
「……そういえばそうっすね。」
中年男はそのたるんだ二重あごを持ち上げ、空を仰いで言った。
「太陽はあそこだ、俺はあのかたむき具合は三時ごろと見た。」
「じゃあそれでいいんじゃないですか、三時で。」
男は無表情でそう言ったが、語気には心底物臭な態度が現れていた。
「そうだな、今は三時だ。」
自分も負けじと彼を罵る口調で言い捨て、その勢いで自転車を漕いでいった。
がむしゃらに漕ぐと土手に突き当たった。そこを登ると、あの自分がかつて自転車を漕いできた川だった。右手にあの大きく曲がった川と土手と、水門が見えた。喉が渇いたので、自転車のカゴの中をまさぐると、ペットボトルの他に、ビニル袋が積んであるのがわかった。なんだろうと袋を開けると、そこには電池があった。
そういえば自分は、今日の朝、電池を買いに家を出たのだった。そしてその買い物ついでに今日は天気もいいから、自転車でそこらを回ってこようとしたのだ、そして、土手を走るのがあまりにも気分がよいものだから調子に乗って漕いでいると、見知らぬ上流まで来てしまって、それで、あの曲がり角や水門を見つけたのだった。
帰ろう、そうだ帰ろう。これ以上恥をかいてられない。自分はペダルをぐいと踏みしめた。
土手の上をもいきり走った。あの薄汚い残土の山脈の向こうにある、工場の太いパイプが陽光を跳ね返してきらきらとしているのが、遠くでもわかった。ふと角の水門を過ぎた辺りで振り返ると、富士が見えた。うすい影を大同団結した雲におとして恥ずかしげにすました態度のそれは、じつにすばらしかった、先程までの一連のいざこざもなかったかのように、自分は晴れやかな壮大な気分になった。
しかし、その感動も漕いでゆくうちに次第に霧散していった。私は太陽が気になった。ひらけた土手では空が大きく、その様子が漕ぎながらでも十分観察できた。太陽はずっと傾いたまま、そのままでいっこうに地平線に退こうとしない。少なくとも、あの自分が降りていった街を出てから二時間くらいは経ったはずだ、だが太陽は微動だにしない。その三十分した後、私は焦る気持ちで土手を駆け下り見知らぬ街を走り、適当なコンビニに入った。壁掛けの時計はやはり11:59だった。こちらの時計は秒針がないタイプのようで、動いているのかないのかさっぱりだった。二分くらい睨みつけたのち、諦めて自分は携帯電話の充電器を買った。レシートの日時は11:59だった。コンビニのまえにあった公園の木のベンチに座り、充電をはじめた。10分もすれば使えるようになるだろう。相変わらず、太陽は不動で、はっとして辺りを見回した時の街もやけにしんとしていた。家々はやけに新築がめだって、アスファルトも黒々としていてはいたが、頽廃の空気を感じずにはいられなかった。
ふと遠くを見た。高速道路の底が赤い高架橋が、真新しい家々の後ろに切れ切れにあるのに気がついた。そこからゴウンゴウンという音がひっそりと空気を伝ってきたのもそこから感じ始めた。歩行者も車道をゆく車もバイクもなく、ただそれだけが、まるで遠くのビル影で大怪獣が唸り声をあげているように聞こえてきた。それだけだった。まるでひとりぽっちになったみたいだ、いや、すぐそこのコンビニでさえ店員が居たのだ、だが、そうさ、この一見ひと気のない真新しい家々だってあの壁の向こう側には人々のそれぞれの暮らしがあって、一体どこに元来であるかのように図々しく蟠踞するそれは孤独?単に指紋の紋様のように区切りがとてもとても細かいだけであって、決してそんなことはないのだ、だが。だがーー
不意に手元の携帯電話を見、電源を入れてみた。電源がすでに溜まっていたようで携帯電話はついた。ぱっとディスプレイが明るくなって会社のロゴが出てきた。待ち受け画面になった。11:59。携帯電話はそう示していた。そこで思い出した。自分は、今日買い物して電池を買いに行ったのは、自分の部屋の壁掛け時計が、朝起きたら止まっていたのを見たからだった。そして電池を買いに街に出たのだった。それで今日の天気が心地よいものだから、そのまま近くの川の土手に自転車で行ったのだった。しばらく走ったら、家に帰ってこの電池を交換してやろうと考えていたのだ。なんだ、なんでこんなことを忘れて居たのだろう。
ぴゅーと風が吹いてレジ袋ががざがざと鳴って、自分は太陽を見た。真っ白で退屈な曇り空の向こうから、微かに光源があるのが分かった。この角度なら、だいたい三時くらいなのだろう。しかし携帯電話は11:59を刺していた。これは、故障だろうか。それとも、本当に今日は今は11:59なのだろうか。自分は帰ることにした。ともかく、この電池を交換してやりたかったのだ。
家に着いたときも空も携帯電話も相変わらずだった。自分は相当に疲れて、部屋に戻るとへにゃへにゃとくたばって布団に転がり込んだ。一日中自転車を漕いでいたので、足はもう棒のようにへばっていた。すこしでも横になって自重から解放してやろう。だが、自分はふと微睡みを見た。寝てはいけないのに、(何故そう思ったかは知らなかったし、そうとも疑問を考える余地も当時なかったのだ)ついうっかりにまぶたを一瞬、ほんの寸陰だけ閉じてしまったのだ。そこで自分は短い夢を見た。
誰かが部屋に入ってくる。自分はその微睡みの中で重たい首を持ち上げて、その侵入者を見た。ぼやけた視界のなかでそいつは、自分には目もくれず、まるであそこには何かで、あっちにはアレが入ってると分かっているかのような、そういった経験を持っている人だと分かった。自分の部屋を周知している、そういう人物に見えた。――親父か?――しかし、……そうだ、親父は今は老人ホームだったっけな、……その人影は自分が半分眠った脳みそでスローモーな思考を展開してるうちに、何か目的を達成したらしく、なれた様子でドアを閉めて出て行ってしまった。自分はそのバタンとしたドアの閉まる音が合図に、意識がぷっつりと急降下していって、再び眠りについてしまった。暫くして落ち着くと、くぐもった聴覚が、遠い彼方で鳴っている、時計の秒針の音をひろった。……カチカチカチ、……カチカチカチ……これが夢の全景である。

逃走

逃走

逃げる話

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted