ママゴト

 テレビには夕方六時半のニュースが流れている。日曜日の夕方、ベランダからは夕日が差し込んでいる。
「えー、事件です。渋谷区の一角で、白昼堂々と一家が殺されるという凄惨な出来事が起こりました」
 ニュースキャスターが概略を述べる。渋谷駅にほど近い静かな高級住宅地で、家族四人全員が殺されるという事件が発生したようだ。犯人はまだ逃走しており、警察が必死に行方を追っているらしい。
 陰惨で残酷だが、日々そうしたニュースが流れる現代においては、どこかで聞いたことがあるような、ありきたりと言えばありきたりな事件だった。
 キャスターはしばらく唾を飛ばしながら、「許せないことです」などと自分の心情を交えつつ説明を続けていたが、二分ほど経つともう話すことがなくなったのか、旬のバラエティタレントと最近あまり見なくなった歌手が電撃結婚したというニュースに話題を切り替えた。五年間も世間から隠れて交際していたらしい。
 薫はずっとテレビに目を凝らしていたが、その切り替わったタイミングで安堵したのだろう、背筋を反らして欠伸をした。
「また殺人事件だね。物騒な世の中だね」と一人で呟いている。物騒とは言う割には、その表情に恐れの色が微塵のかけらもない。
「さぁ、夕食の準備でもしようかな」と、薫はテレビの前から立ち上がって台所に向かおうとしたが、ふと海堂の前で立ち止まり、「でもさ、どうして人を殺してはいけないんだろうね? わかる?」と疑問を口にした。薫はいつも、子供のような質問を何の脈絡もなしにそのまま投げかける。今回もストレートだった。
 ソファーに座ってノートパソコンを叩いていた海堂は顔を上げて、「それは人口が減るからだよ」と端的に答えた。明日からはまた出勤だが、その前にやらなければいけない仕事が二、三あった。
 きょとんとした表情を返す薫に対し、海堂はわかりやすく噛み砕いて説明する。
「えーと、まず国としては、人口が減ると経済や社会にいろいろな影響がある。国力の低下ってやつだよ。最近、チャイナ・パワーと呼ばれるように、中国が国際社会で躍進を遂げている一番の理由は、人口が多いからだ。十億も中国に人が住んでいるなんて信じられるかい? それこそ、僕なんかが想像も及ばないぐらいのパワーなんだろうな。そして政治家や官僚や評論家達は、テレビなんかでいつも日本の人口の減少について嘆いているだろ? それぐらい、国にとって人口が減ることは大問題なんだよ。ここまではわかる?」
「人口の減少」
「そう。人口が減ることは国にとって悪いこと」
「でもさ、それが人を殺すことと何の関係があるの?」
「うん。だからさ、国は法律で殺人を禁止してるだろ。殺人者に対して処罰を与えるようになっている。法律で禁止していなかったら、少しムカついた、ぐらいの気持ちで相手を殺しちゃうかも」
「なるかな?」
「なるよ」
「そういものなのかな?」
「そういうものだよ。たぶん、殺人が禁止されていなかったら、普段そこらじゅうで繰り広げられているような痴話喧嘩で人が死んでるだろうね」
「そんなふうに殺しちゃったら、次の日から困るじゃない」
「困るけど、人間は結構、そのときの感情に流されちゃうもんだよ。専業主婦の奥さんなんかは、『あー旦那殺しちゃった、明日からどうやって生活しよう』なんて井戸端会議で近所の人に相談してるかも」
「なんか、残酷だけど可愛らしいね」と薫が笑った。
「まあね。常識から考えると怖いけど、そういう世の中はそういうものとして、案外うまく成り立つのかもしれない。でも、国としては大きな問題だ。痴話喧嘩ぐらいで人口が減ったら、たまったもんじゃない。経済成長の予測も立てられない。警察も毎日忙しい。昔、『不倫は文化だ』って言った俳優がいたけど、そんな世の中で不倫がブームになったら、それこそ不倫が原因で配偶者間での殺人が大量発生、ということにもなりかねない」
「言い切るねぇ。男だねぇ」
「ありがとう」
 薫の相槌はいつもどこかずれているのだが、海堂は軽く礼を言って、彼女の褒め言葉に応えた。
「まぁとにかくさ、だから人を殺しちゃ駄目って小学校でも教えられるし、法律でもそうなってるんだよ。倫理の問題はあるにしてもさ。法律が抑止力になっているから、人を殺しちゃいけない、って言われるんだ。それが現代社会の価値基準」
「抑止力」
「そう、抑止力」
「価値基準」
「そう、価値基準」
 夕日が落ちてきたのか、フローリングの床に映る影の形が少し変わった。薫の表情に明暗ができる。海堂はそれを見て、美しい、と感じた。大きい眼にすっきりした輪郭を持つ彼女の顔は、暗くなってくると、より魅力を増す。
「いつも感心するけど、難しい言葉を知ってるねぇ。どこで覚えるの、そういうの」
「え」
 海堂は頭を掻いた。彼女の表現はストレートだから、たまに気恥ずかしさでまともに顔を見れなくなってしまう。「本とかテレビとかで」と小さな声で呟き、一応質問には答える。
「人は殺しちゃいけない理由は人口が減るからかー」
「まぁ、そんなふうに考えたらわかりやすくない? 道徳的に考えるんじゃなくて。誰かに質問されてもシンプルで答えやすい」と海堂は胸を張った。
「ふーん、なるほどねぇ。でもなんかしっくりくるような、こないような……。こう、あっと驚くような答えを期待してたんだけど」
 海堂は目を剥いた。彼女には、あっと驚く答えを提供したつもりだったのだが。
「むぅ……。薫の質問はいつも難しいんだよ。僕はノーベル賞を取れるような頭脳は持っていないんだから。これでも期待に応えようと、普通の社会人なりに、一生懸命考えたのに」と口を尖らせる。
 薫は、「ごめんね、いじめちゃったね。じゃあ夕食作るよ」と海堂の頭を撫でた。そして立ち上がり、ドアを開けて、部屋から消える。薫が居なくなったことで、部屋に出来ていた影は揺らぎが無くなり、落ち着きを取り戻したかのように見えた。
 しばらくして、野菜をみじん切りする小気味良いリズムが聞こえてきたので、海堂はその音に合わせてノートパソコンのキーボードを叩き始めた。



 夕飯のメインのおかずは豆腐ハンバーグだった。皿からは暖かそうな湯気が立ち上り、食欲を刺激した。
 薫の料理はいつもおいしい。海堂も下手なほうではないが、同棲を始めてからは彼女に任せていた。一緒に住み始めて最初の頃に、気を遣って「今日は僕がやるよ」と台所に立とうとしたが、薫が「私がやるの!」とむくれたので、それからは一切手を出さないようにしている。
「今日もお疲れ様でした」
「お疲れ様でした。いただきます」
 二人で暮らすようになってからというもの、夕飯の食事の前にはこうして挨拶をするのが習わしになっている。海堂は最初、その儀式めいたものを不思議に感じていたが、どうやら薫の実家ではいつもこうやって食事の挨拶をしていたようだ。お父さんが昔気質の職人だったからだろうか、と思った。
「ところでさ」白米を口に運びながら、薫が話を振ってきた。
「ぬぁに?」ちょうどハンバーグを噛み締めているところだったので、相槌がくぐもった声になる。
「――浮気してる?」
 予期せぬ質問に思わず噴き出す。テーブルの上に、口に入れていた食べ物のかけらが舞った。それらをティッシュで吹きながら、「いきなり何言い出すんだよ」と咎める。
「ごめん、そんなにびっくりした?」
 薫が顔の前で軽く手を合わせた。
「さすがに驚くよ。唐突に。食事の時間に」
「いや、ちょっと興味が出てきて。浮気してるのかなー、どうなのかなーって」
「少し興味が出た、ぐらいで訊く質問じゃないよ。一応真面目に答えるけど、してません」
「なんで?」
「なんでって言われても困るけど、してないものはしてない」
「怪しい」演技なのだろうが、いかにも怪しんでいる視線を投げてくる。そんな薫を諭すように言った。
「あのね、僕は浮気をする人間じゃないの。それは、良いとか悪いとかじゃなくて、しないって決めてるんだ」
「なんで?」
「理由は三つあります」
 海堂は箸を置いた。その様子に、薫も姿勢を正して訊く態勢を整える。
「一つ目は、依存性の問題」
「出た、難しい言葉」
「茶化さないでくれよ」
「ごめんごめん」
「どこから浮気って言うかって問題はもちろんあるんだけど、それはとりあえず置いておいて……浮気って、アルコール依存症と似てると思うんだよね。アルコール依存症はお酒に対してだけど、浮気はセックスとか恋愛感情、スリルなんかに依存してるよね? どちらも快楽だ」
「うんうん」
「でも完全に違うところがある。お酒はモノで、浮気はヒト相手だ。お酒が人に依存することはない。でも、浮気相手が自分に依存することはある。人は変わるからさ、自分がどんなに割り切った関係だと思っていても、たとえ相手と約束していたとしても、状況しだいで相手が自分に依存し始めることはある。僕は依存することはないけど、それだけに『依存される』側の人間なんだ。それに、もし浮気をしたら『依存される』関係に依存してしまうかも。そういうのは煩わしいし、依存関係が出来てしまうと、自分にどれくらい正当性があっても、恋人の前で引け目を感じちゃう。それが嫌なんだ。ただ単純に面倒くさい」
「なるほど」
「だからさ、よく女の子なんかは『風俗はいいけど、普通の子と浮気されるのは嫌』なんて言うんじゃないのかな? そういうことが本能的にわかっているんじゃないのかな。風俗店の場合、人は商品だからね。依存される可能性はないに等しい」
 薫は食事を再開し始めている。思ったよりも話が長くなりそうだから、料理が冷めることを気にしているのかもしれない。「ちゃんと訊いてる?」と問うと、「訊いてるよ」と箸を動かしながら答えた。
「じゃあ次、二つ目だけど、それは費用対効果の問題です」
「費用対効果?」
「うん。これはシンプルだけど、セックスという快楽を得るために、僕は相手に対していくらお金と時間を使うのか、ということだ。すごーく単純に言うと、食欲とおんなじ。例えば、カップラーメンを食べて満足感を得るために、数時間かけてお店を探し回って、何万円も使って、カップラーメンに対していろんな愛想を振りまいて、というのと似てると思う。たかが数分間の満足感のために」
「なんかその例え、やだ」薫は露骨に嫌悪感を示した。
「例えだよ」
「うーん」納得がいかないようだ。
「まぁ僕はそれだけのために、お金と時間をかけるのは馬鹿らしいと思っちゃうんだ」
「それは極論じゃない?」
「極論だけど、結論でもある」
 味噌汁に口をつける。喋りすぎて口が渇いた。胃の中が、温もりで満たされる。
「それで最後の三つ目は、これが一番大事なとこなんだけど……僕はそれほどモテる人間じゃないってことだ」
「そうかな。口が上手いし」
「皮肉かい? ありがとう。でも薫が思っているほど僕がモテないことは、僕自身が何よりわかっている」
「そっかー。それは、恋人として、なんか残念でもあるよね」
「うーん、そう言われると返す言葉がないんだけど……」
 あからさまに悲しい表情を作り、海堂はたくあんに箸を伸ばす。薫もちょうど同じものを取ろうとし、箸と箸がぶつかった。
「――間接キスだ」薫が言う。
「偶然だね」海堂が答える。
「私たち、仲良しだね」
「……うん、仲良しだね」
 思いがけない気の合いように、二人とも笑ってしまう。食事中だが、箸を置いて、薫の額にキスをした。薫は嬉しそうに俯いた。
 ――食事が終わって薫が流しで洗い物をしているとき、今度は逆に海堂から訊いた。
「じゃあ薫はさ、さっきの質問で僕がイエスって答えたらどうしてた?」
「どの質問?」
「浮気してるかってやつ」
「あーあれね」薫は頭の切り替えが早い。いや切り替えが早いというより、もう忘れている。
 しばらく思案した後、「日本の人口を一人減らしちゃうかも」と真顔で言った。
「……そっか。薫ならそういうことを言うかなと思ったよ」と海堂は笑って返した。



 就寝の時間、海堂は明かりを消した部屋でベッドに入り、薫の身体の温もりを背中に感じながら、あぁ今日も嘘を付いちゃったな、と少し反省した。
 そう、ああいう言い訳が言えるのは、海堂が浮気をしているからなのだ。
 そして実は、薫がのほほんとした顔をしながら、隠れて男と会っていることも知っている。相手は海堂の知人だ。知人づたいに訊いてしまって、何をするわけでもなくそのままにしている。自分のほうも大っぴらに言えないことをしている、という引け目からなのか。
 それでも――サーカスの綱渡りのように、ギリギリのところで何とかうまく暮らしていけている。

ママゴト

ママゴト

海堂と薫は同棲している。ある日曜日の夕方の、優しく美しい愛のエピソード。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-02

Copyrighted
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