恋慕

■一 侵入

「具体的に説明するのは勘弁してくれ。おれの抽象的で曖昧な物言いから、大事なサムシングを感じ取ってほしい」――なんて発言を連発し、自分の主張をはぐらかしてばかりいたら、当然のごとく彼女に振られた。このように、おれは彼女と付き合っていた間、つまり決して長かったとは言えないながらも「では短かったのか」と訊かれれば即応するのにためらってしまう一年と半年という中途半端な期間、希薄で非固定的な表現をずっと好んで囀っていて、彼女に自分の存在をできる限り認知させないかのような振る舞いをし続けていた。だから、五百日程度、あるいはここは一万二千時間と言い換えたほうがよりボリューム感を醸し出せるのかもしれない、それぐらいの時を二人で刻んでいく中で、話題の映画を見に行ったり、買い物に出掛けたり、晩ご飯をとるレストランはどこにしようかと相談したり、近くの川辺に友人たちも呼んでピクニックもどきの活動に勤しんだり、または二人だけで愛を営むのに見合った空間を求めてラブホテル街を彷徨うが空いている部屋が見つからず派手なネオンサインの数々がその日の役割を終えて雑踏から存在感をなくすまでうろうろと歩いたり、時には遠いところに出掛けてみようかと駅前の旅行代理店でパンフレットをたくさんもらってきて計画を練り合ったが結局お互いの都合が合わず最初からそんな計画はなかったかのように有耶無耶にしたり――などといった現代のカップルにふさわしい活動にしばしば互いに身を投じてはいたものの、いつも自分の“濃度”をウェイトレスに下げられる寸前の、飲み残しのアイスコーヒーのような薄っぺらさに保つことに苦心していたおれの表情や声、何を喋っていたかなんてことを果たして彼女が覚えてくれているかどうかについては正直なところあまり自信がない。とはいえ、つい最近まで隣に居るのが当然だった者が急に姿を消したとなれば、やはり一抹の寂しさに捉われるものだ。たとえ若い二人を結んでいたものが、細くて薄っぺらいビニール紐同然の安い絆だったとしても。これが未練と呼べるようなものなのかは、普段から客観的な姿勢を崩さずあまり感情を表に出すこともなくどんな場面でも割と冷静なままでいられるよね君は、という定評を獲得しているおれにはよくわからないのだが、残りカスのような純然としない何かが自分の底に残存していることは知覚できる。
 だから、そのカスのようなものに引っ張られて、おれは今、“元彼女”の家に不法侵入しようとしているのだ。



 こうした行為をストーカーだとか、立派な犯罪であるとか、糾弾する方もおられるだろうが、最初から開き直っていってしまえば、そんなことは十分承知のうえで、おれは今こうして、彼女の家の玄関からにょきっと自らを突き出させているドアノブを、まるで樹齢千年を数えるかのような堂々たる体躯を誇る男性器を愛撫するかのごとく慈愛に満ちた手つきで、柔らかく包み込んでいるのだった。すでに覚悟を決めたうえでの行為なので、おれにとっては後ろめたさよりもこの決死の行為が切り開いてくれるであろう未来への期待感のほうがより大きい。「緊張はないのか?」と訊かれれば、「そんなものはまったくない」と言ってのけることが今の自分にはできる。というのも、この場所には実は付き合っている間に何度も足しげく通っていて、美しい夕日のオレンジ色が廊下に差し込む今の時間帯には、彼女はもちろん、この階に住まう他の三世帯の方々も常に出払っていることを十分承知しているからだ。その、実体験に基づく確固たる知識、いや、過去のおれが慈しんで育んできた叡智の結晶とでもいうべきものを拠り所にして、たった今、おれは堂々とそびえ立つドアノブを反時計回りに捻る。ノブから僅かばかりの喘ぎが聞こえた気がした。しかしそれは幻聴だった。開かない。もちろん予想どおり鍵がかかっていた。だが、そのとき、「カチャ……」という乾いた喘ぎ、いや金属音が思ったよりも大きく廊下に反響したので、おれが先ほどまで持っていた絶対的な万能感は簡単に消失した。額に一筋の冷や汗が流れ、「こんなマンガみたいな大粒の汗が本当に流れるものなんだなぁ」と極度の緊張から、わりとどうでもいいことを夢想したのだった。しかしながらも、ここでずっとドアノブを握っていればいくら人がいない時間帯だったとしても変質者として見つかってしまうことは必然であり、この階の住民ではなくても絡みつくようにノブを掴むおれの姿を視界に入れた近隣のマンションやビルの住人からの通報は免れないので、おれは付き合っていたときに彼女に黙って作っておいた合鍵を使い、ドアを開けた。ギギギ……。ゆっくりと秘密の花園が開く。その隙間に、黒いラインの入ったスニーカーを差し込む……。これでおれは完全に不法侵入したことになる。しばらく味わっていなかった女の部屋らしい甘い芳香が鼻周辺にまとわりつき、その“可憐”な原子分子を思う存分、肺に吸い込んだ。



 小さなキッチンが申し訳程度に付いたワンルームである元彼女の部屋は、二十平米を少し超える程度の面積であり、端的にいえば「狭い」のだが、女性らしい細やかなレイアウトと色彩感覚によって、来客に実際の平米数以上の居住空間を感知させることに成功していた。しかし、別れてまだ一カ月しか経っていないのにもかかわらず、おれが足しげく通ったこの部屋はもう完全に“他人”の部屋となっていて、靴を脱いで一歩踏み出した途端から、おれの存在を排除するかのような圧力を加えてくるのだった。その証左となりうる要因は部屋を見渡すといくつか散見されたのだが、なかでも最も注視すべきと思われる点が、枕が一つになっていることだった。おれが通っていた頃はパイプ式のシングルベッドに彼女の枕とおれが持参した枕の二つがフカフカと仲良く並べられていて、二人ともが枕による就寝時の首と脊椎の安定を享受できるようになっていたのだけれども、どうやら現在その効能をおれがふたたび得ることは不可能になっているようだった。とはいえ物理的には、今おれはこのパイプ式シングルベッドに横たわっていて、彼女のほうの枕に顔を埋めることができるので、そんな圧力など蟻の行進ぐらいに意味のないものだった。枕に顔を押し付けると、彼女の使用している市販のシャンプーと思われる甘すぎるともいえる匂いが鼻腔を刺激し、別れる直前にはほとんどゼロになっていた性的な昂ぶりが突如回復し始め、いけないことだとは思いつつももうすでに不法侵入という犯罪行為に手を染めている身であるのだからこの際どうでもいいだろう、イッちゃえ! と諦めに似ているけれども確実に異なる開き直りの心境に達し、おれはベッドの上でマスターベーションをした。そして、最後にオルガズムを迎えた際には、ベッドの上に鎮座している枕におれを振った彼女のエゴイズムを投影し、そこに向けて発射した。おれの中から出されたものは低反発枕のへこんでいる部分に綺麗に着地し、思わず「ホールインワン!」と叫んだのだった。甘い芳香を漂わせていた女の部屋はオスが一匹性処理を行っただけで、海洋生物を陸に揚げたかのごとく、生臭い匂いで充満するようになった。おれは、この行為はテロだ、と思った。理不尽かつ暴力的な思想の押し付けが今この小さな六畳一間のワンルームで行われているのだ。親しい人間、いや正確にいえばつい最近まで親しかった人間に対して、犯罪行為だけでなくテロ活動までしてしまった自分の愚かさからおれは激しく懺悔し、せめてもの償いとして、帰ってきた彼女がすぐに気付かないように枕を裏表逆にした。精液が付着した面が裏になるようにしたのだ。そのほかにも何か償いをしたかったが、いやそもそもおれを振った女に対してそこまでしてやる義理はない、これぐらいでイーブンなのだと思い直し、あとはクッションの上で横になってテレビを観ながら彼女の帰りを待った。
 おれが彼女に会って何をしようとしているのか、疑問に感じ始めている方もおられるだろう。「すぐに通報されるのではないか?」と心配をお掛けしているかもしれない。それでは時間もまだ十分あることだし、そのことについて説明しておきたい。結論からいうと、おれは「納得がいく答え」を求めているのだった。どこからどうダメだったのか、おれの何が君を不機嫌にさせてしまったのか、それを具体的かつ論理的に教えてくれというのが、おれが彼女に突きつけたい「要求」であった。「別れよう」という要求はこちらが呑んだ、だから次はおれの番というわけだ。前もってこの行動計画を友人に伝えていたところ、彼にはこういわれた。「お前はいかれている」と。そしてそれは正しい。だがちょっと待ってほしい。おれを「いかれ」させたのは、彼女ではないか? だから、おれを「正常」に戻すのも君の役目だろう、おれの要求に応えてくれ、というわけだ。どうだろう、筋が通っていはしないだろうか? 皆さんはどう感じるだろうか?
 だが実際には、その晩、そうした話をすることはなく、いや要求すら突きつけることができず、おれはいそいそと部屋から出ることになった。つまり彼女は、その日帰ってこなかったのだ。それは同時に、彼女がおれと別れてたった一カ月ぐらいで別の男を作りやがったのではないかというシンプルな疑念をも匂わせていた。それに気付いたとき、僅かに残っていた彼女に対する綿菓子のような優しさは霧散し、あんなメス豚はどうにでもなればいいと、おれは枕に拳を叩きつけ、頭突きをし、裏側から漂ってくる海洋軟体生物の体臭のごとき香りを思い切り吸い込んだ。そうして、しばらく怒りに身を震えさせていたときに、さらなる事実に気付いた。彼女が別の男と出来ているということは、おれが座っているこのベッドの上で性行為が行われた可能性が高いということでもあり、それはさらに、いま手にしているこの低反発枕に別の男の汗や涎や精液など体液全般が付着・浸透しているかもしれないという危険性を示していた。すなわち、おれは忌むべき女と憎むべき男の肉欲関係の象徴たるその枕に欲情してしまったというわけだ。自分のしたテロ行為が実は彼女の壮大な陰謀の一部だったかのような感覚に襲われ、激しく打ちのめされたおれは、自分のふがいなさに耐え切れず、始発が出る時間を待って彼女の部屋を飛び出したのだった。

■二 交友

 事の顛末を友人Zに話すことになったのは、それから二日後の夜だった。「友人Z」というと、アルファベット順における最終局面「……XYZ」の一文字であることから、「実際はどんな名前なのだろう?」と思われるかもしれないが、何のことはない、彼の苗字は「前田(ゼンダ)」である。マエダと読まないところが変わっているといえば変わっているのだろうが、別にマエダと呼ばれたところで彼の人生にはさほど支障はないはずで、そして現に初対面の人々には必ずマエダと間違って呼ばれているゼンダは、彼自身もいつか「マエダでも別によかった」と漏らしたことがあった。
 その“どちらでもよい”男である友人Zが、先述した事前に相談をしていた人物でもあり、その後おれがどうなったか心配して連絡をくれたのだった。いや正確にいうと、心配する素振りをしていただけで、本当はおれが警察に捕まったとか、包丁飛び交う凄まじい修羅場になったとか、そういう興味深い展開が繰り広げられたことを期待して連絡を入れてきたのだと思う。
 七時台のテレビアニメを鑑賞して一服したあとに自宅マンションを出たのだからあれは八時過ぎだっただろうか、それぐらいの時間に友人Zと合流し、夜の繁華街――といっても地方の一都市に過ぎないこの街では居酒屋やクラブといった夜間営業している店が少なく、数十メートルごとに看板が点在しているような有様なのだが――をブラブラと歩きながら手頃な飲み屋を探していたら、彼が「いつも利用しているチェーン店でいいじゃないか、安いし」というので、そちらのほうに向かって四車線道路を横切る横断歩道を信号を無視しながら渡っていると、反対側からミニのスカートを履いてすらりとした肢体を強調させている、二十代前半と見られるこの辺りでは少々垢抜けた感じを与える女子二人組とすれ違い、その瞬間、彼女たちの髪の毛からふわりといい匂いがしたからなのか、友人Zは「やっぱりいつものとこは飽きたし、止めとこう。さっきの通りに戻ろう」と踵を返して、おれたちはちょうど彼女たちのすぐ後ろを追いかけるような形となった。友人Zが主導した急な方向転換を何が引き起こしたのかは隣の表情を窺うまでもなく明らかであり、彼のそうした振る舞いはいつものことであったので特に異論を挟まず、おれは「お前も好きだねぇ」とニヒルな態度を演出するために鼻で笑おうとしたのだが、急に身体を反転させたためかタイミングを誤って「おみゃ……お前もしゅきだにぇ」などと台詞を噛み、さらにそのミスが焦りを読んで早口で喋ってしまったので猫の鳴き声のようになってしまい、おれが何をいったのか理解できなかったのか、友人Zも笑っているのか困っているのか判然としない曖昧な表情で応えた。前を歩いている女子たちは後方を横目でちらと窺ったが、それで足早になることもなく、自分たちの髪の残り香を背後霊のようにまとわりつくおれたち男子に吸い込ませるかのごとく、ゆっくりと歩き続けた。
 彼女たちのよく揺れる尻に目をやりながら、いや、凝視しすぎて瞬きを忘れ血管がはち切れそうになっている眼をミニスカートに張り付けながら、友人Zがいった。「で、サトエリちゃんとはどうなったんだよ」。いうまでもなく「サトエリ」とはおれの元彼女を指す渾名ではあるが、彼女の苗字は「サトウ」でも「サトダ」でも「サトカワ」でもない。この渾名で呼ばれている芸能人に二%ぐらい似ているという理由で友人Zが名づけたものであり、二%ということは逆に似ていないといえるわけでそれはかなり失礼なことのように思えるのだが、おれもいつしかZの口ぶりを真似するようになり、やがては彼女の前でも「サトエリ」と呼ぶようになったので同罪である。「サトエリ」ではない彼女が「サトエリ」と呼ばれてどういう気分を味わっていたのか、「自分の苗字は『カクタ』なのだから、これはからかい以外の何者でもない」と実は憤っていたのかは今となっては定かではないが、少なくとも釈然としない気持ちになっていたのは確かなはずで、そういった彼女の名前に対するおれの侮蔑行為を、今この友人Zと文字どおり女の子のケツを追いかけながらぼんやりと思い出していることに対して「おれはなんて最低なゲス野郎なんだ!」と心地よい自己憐憫の海に溺れそうになる。とはいえ、Zの問いにはすぐに答えねばなるまい。おれは「どうにもならなかった」と、おれとサトエリの一年半の関係をすべて凝縮したかのようなパーフェクトな答えを口にし、Zも同じ感想を抱いたらしく、「そうか」と女の子たちの尻に目をやったまま、小さく頷いた。
 やがて女の子たちの足は、白いつやつやとしたタイルが全面に張られた、いくつもの飲食店が入るこの街有数の高層ビルヂングに向かっていった。おれとZも利用したことがある。ビルの外面には、エレベーターを使わなくても二階へすぐに上がれるように、ロココ調の装飾が施された螺旋階段が配置されている。一階と二階だけは吹き抜けの造りになっており、それは目前の通りを行き交う客たちに対して、通常ならばビル外からは窓枠ぐらいからしか覗けない二階に入るテナントの姿を、オープンにして嫌でも見せつけるための仕掛けなのかもしれず、現に今その企みは成功しようとしていた。ビルの前で立ち止まって囁き合っていた女の子たちはやがて、奥のエレベーターには向かわず、螺旋階段の手すりに艶めかしく手のひらを滑らせながらゆっくりと上っていき、一番手前にある洒落た雰囲気のスペイン風居酒屋に入っていった。Zはその様子を階下で窺っていたが、つまりミニスカートから垣間見える“秘境”をちらちらと眺めて目の肥やしにしていたのだが、彼女らが店の中に入ると黙っておれのほうを向いて目配せをしてきた。次のアクションを促しているのだと察したおれは黙ってゆっくりと二度、顎を引き、ゴーサインを出した。相棒の承認を得たZは螺旋階段を勢いよく駆け上り、女の子たちが後ろ手で閉めたばかりのスペイン風居酒屋のドアを思い切りよく開き、彼女らが何事かと振り返り怪訝な表情を見せたタイミングで、「助けてください!」と店内に響き渡るような大声を張り上げたのだった。それほど広くない店内、ウッディーな内装と客たちの楽しそうな囁き声、気さくなスタッフたちなどといったポジティブな要素がバランスよく配置されることで形成されていた寛ぎの空間において、突如発せられた懇願にも命令にもとれる男の咆哮に、店内が静まり返ったのがわかる。ある男性客はパスタを巻いたフォークをテーブルから十五センチのところで停止させ、またある女性客の集団は仲間の恋愛失敗談に全員が手を叩いて笑い、身体がくの字に曲げられた状態で入り口に目をやる。キッチンで調理するスタッフには耳に届かなかったらしく、彼ら彼女らは次々と入るオーダーを処理するため怒声を張り上げ、不意に訪れた静寂のせいでそれがひときわ大きく響くようになり、寛ぎの空間を破壊するのに一役買った。店の入り口に視点を戻すと、目の前の男の発言が聞こえてはいるものの頭には入ってこない様子のミニスカートの女の子たちは「へっ?」と間抜けな声を出す。「助けてください!」と叫びながらも全く困っているように見えない面前の男は、爽やかすぎるくらいの笑顔でもう一度大声を上げた。そして静寂は去り、店の中はにわかにざわつき始める。「えぇと……?」と明らかな困惑を見せる二人の女の子の意向を無視し、Zは「ちょっと来てください! お願いしゃす!」と二人の手をそれぞれ引っ張り、無理矢理に店を出た。来客を相手しようと近付いてきていたスタッフは何がなんだかわからないというような顔で持ち場に戻る。



 Zが二人の女の子の手を引きながら、ニコニコした顔で「お願いしゃす!」を連呼しながら階段の踊り場まで強引に移動する。おれはその後ろにぴったりと付き添っていて、彼のいつもながらの強引かつエネルギッシュなナンパの手法に感心していた。手頃なスペースに移ったのち、Zは自信満々な顔をしておれのほうに向き直ると、さぁどっちか選べといわんばかりに二人の女の子を差し出し、決断を促すように今度はおれに向かって「お願いしゃす!」と叫んだ。彼の口腔から唾液が飛ぶ。女の子たちは相変わらず事の展開が飲み込めないようでZの顔を見上げていたが、おれは彼女たちの脳みそが少々とろいことに同情しながらも、Zの問いに答えるべく、紫色のカットソーを着た、よりセクシーな印象を受ける髪の長い女の子のほうを無言で指差した。その女の子は一拍置いたあと、「え? あたし?」と自分を指差し、おれとZと連れの女の子の顔を見回す。そのたびに彼女の長い髪が振り乱れ、おれは「なかなか色香のある女じゃねぇか……」と心の中で舌なめずりをしたが、角度が変わって照明が当たると、実は彼女がよく知っている顔だと気付き、絶句した。と同時に、彼女も絶句し、おれと彼女の間に出来たシリアスな空気を怪訝に感じたZも、数秒思考して絶句した。髪の長い女の子はサトエリであり、まさに先ほどおれが「どうにもならなかった」と表現した関係をついこの間まで続けていた女だった。サトエリの連れと思われるショートカットの女の子だけが状況を飲み込めず、三人の顔を見回しながら「え? え? え?」とオウムの鳴き声のような規則正しいリズムで疑問符を刻んでいる。Zは何となく気まずいと思ったのか、掴んでいたサトエリの腕を離したが、彼女の腕はそのまま空中に静止し、とても不自然に見えた。おれの頭の中が空白からようやく色を取り戻した始めた頃に、サトエリは「なんで?」と口にした。この状況を指し示す的確かつ包括的な質問であり、おれは素直に感心し「こういう地頭が切れるところに惚れたんだよなぁ」と思ったが、すぐに「いやいや、付き合っていた頃はそんなに頭が切れる場面にはお目にかからなかったぞ。虚像を作るな」と自分を戒める。さて、おれの頭にはこの状況を進展させるアイデアが三つ浮かんできた。一つは「なんで?」という質問にストレートに答え、Zのいつものナンパの手口を事細かに語りながら、こうなってしまった経緯を話すことだ。二つ目はそうした中間説明はすべて省き、質問に覆い被せるように「ごめん!」と高らかに謝罪の言葉を口にすることだ。それにはZもすぐに同調するだろうし、場をごまかせる確率が高そうでもあり、さらにいえば大の男二人が「ごめん!」の合唱をする珍しい場面が通りを歩く人々からも望めるはずだ。最後の三つ目は何もいわずに無視し、背を向けるというものだが、彼女の姿を認識して少々の心苦しさに駆られているおれにそんな非情な真似ができるかどうかは自信がなく、かといって一つ目の案も二つ目の案も自分が彼女よりも格下の立場になるようで、決断するのには躊躇するため、結局のところ第四の案を模索するしかなく、しかしすぐに良いアイデアが浮かぶほどの想像力も持ち合わせていないので、必然としてZに困ったような、助けてほしそうな視線を投げかけることしかできなかったのだが、Zは平然とおれが選べなかった第三の案をおれに対して実行し、下を向いてすべてをシャットダウンした。
 仕方がないのでサトエリの顔に目を戻すと、明らかに訝しむ表情になっており、おれ自身も客観的には「この状況にふさわしいベストな顔はそれである!」と思うのだが、実際自分に向けられると身体のド中心にある大切なコアの部分を針でちくちくと突き刺されているようでとても居心地が悪く、さらに彼女と別れることになった経緯を思い出すと、その刺されて出来たコアの傷が広がってそこから真っ赤なマグマのような怒りがぐつぐつと噴出してくるのを感じるのだった。そして、その怒りとともに脳内に吐き出されるアドレナリンをおれは抑えることができず、ついに彼女に対して武力行使という最も愚かな案――すなわち無言のまま張り手を見舞おうとしたのだが、付き合っている間熱心にボクササイズに精を出していたサトエリが素早いフットワークで避け、反射的に繰り出された強烈な左フックがカウンター気味におれの顎を捉えた。脳を揺さぶった衝撃は音速を超えるスピードで膝に伝わり、おれの脚はがくがくと震え出し、崩れ、身体はファイティングポーズを維持することも叶わずコンクリートの床と密着し、世界が反転したのも束の間、瞼は終演を迎えたミュージカルの緞帳のようにゆっくりと閉じていった。意識が途切れる前に友人Zが慌てているような声がしたが、先ほど助けを求めたのに目も合わさなかったことを根に持っていたおれは、彼を無視して深い眠りに落ちた。

■三 早朝

 チュン、チュン、チュンと、すずめの鳴き声が三回聞こえ、それが朝の訪れだと気付いたことが、一日のスタートとなった。ふむ、始まりとしては悪くない――そう格好をつけて目覚めたが、目を開けてみると自分の部屋ではなくて驚いた。しかし、知らない部屋ではない。この匂い、この雰囲気、つい最近来たことがあるような――そう感じて、ここはサトエリの部屋だと気付く。狭さだけが取柄のようなこの部屋に鎮座しているベッドに寝かされていたのだ。ハッと気付いて枕の下を弄るが、濡れた感触はなく、何かが付着していることもなかった。さすがにあれから日数が経っている、おれの息子たちもそこまでの生命力は持っていないだろう。自分が放出した子どもたちとの邂逅を果たせず、とても安堵したおれがふっと息をついたところで奥の扉が開き、「何をゴソゴソしているの?」と、キャミソールとホットパンツというラフな服装のサトエリが顔を覗かせ、おれはその生活感溢れる姿に深いノスタルジーを覚えて思わず少し涙が出てしまった。
 「いや、何でもない」と寝癖を掻いてごまかし、「ええと……昨日、あのあとどうなったんだ?」と間違いなくこの状況下でおれがまず知るべき事項その一について訊ねてみたが、サトエリは鎖骨の辺りを掻きながら「秘密」といって――その瞬間に物凄く面倒臭そうな顔をしたので、おそらく友人Zが無理矢理サトエリにおれの身柄を預けたのだろう――奥に引っ込んでしまった。それ以上聞いたところでおれにとって意義のある話を引き出せるとは思えなかったので、質問すべき事項その二に移行することにし、「あー……率直に聞くけど」と、その時点ですでに率直ではない前置きをしたのち、「怒ってる?」と訊ねた。ドアの向こう側でサトエリの動きがピタリと止まったような気がした。続いて、「怒るのって相当なエネルギーを使うけど、あなたには私がそんなエネルギーを使うほどの価値があるのかしら」という独り言のような、でもはっきりとおれへの敵意と悪意が込められた言葉が漏れてきた。おれは「価値は……無いかもしれない。だが、チャンスではあるかもな」と曖昧な物言いで返す。間髪入れずに「何の?」と一層低い声で即返答が来たので、「うーん、お前のストレス発散の?」と答えた。その瞬間、ドアの向こうから勢いよくフォークが飛んできて、おれの頬をかすったので、機械的かつ反射的に「危ねぇじゃねぇか、この野郎!」とベタな文句を吐いたのだが、それに対する彼女の反応はなく、おれは「聞こえてんのか、馬鹿野郎!」と同じような台詞を口にした。すると、キッチンのほうから食器類を漁っていると思われる金属音が聞こえてきた。次は包丁が飛んでくるかもしれない――死ぬかもな、おれ。だが、そんなピンチにも関わらず自分が興奮しているのがわかる。この極限状態のスリルに酔っているのだろうか。もし包丁が飛んできたら、左に避けるか右に避けるか。タイミングさえ合えば片手で叩き落とすことも可能かもしれない。いや、先にこちらから仕掛けるという手もあるのだ……。あれ、ていうか、なんで彼女をこんなに怒らせようとしているんだ? こんな修羅場で相手を挑発できるような度胸があったっけ、このおれに……。ああ、やばい。右手に包丁を握った彼女が近付いてくる。顔は見えない。



 ハッとして目が覚める。夢だった。おれにはサトエリに殺されたい願望でもあるのだろうか。
 チュン、チュン、チュンとすずめが外で鳴いている。おれの隣ではサトエリが穏やかな寝息を立てて眠っている。なんで別れた男と同じ布団に? そう思ったが、この狭いワンルームには寝るスペースがこのベッドくらいしかないことに気付いて合点がいった。
 さっき見た夢のせいか、おれの身体は薄っすらと汗をかいており、シャワーで洗い流そうと思って布団からそっと抜け出たが、布が擦れる音にサトエリは無反応だった。すやすやと気持ち良さそうに眠っている彼女を無機質に見下ろしていると、不意に数日前にこの宅に侵入したときの心境がよみがえり、化粧を落としたつるつるすべすべのその顔に精液をぶちまけたくなったが、常人ほどの度胸すら持ち合わせていないおれは、長い睫が目立つ女の横顔と、練乳に片栗粉を溶いた液体とを脳内にイメージしてコラージュさせることで、自分の欲望を満たした。そうして少々の満足と虚しさを覚えたあと、昔は自由に開閉する許可を得ていた(はずの)クローゼットを久しぶりに開き、壁際に置かれた小さな衣装ケースの下から二番目を引っ張ってバスタオルを取り出す。無理矢理トイレと分離させたようなユニットバスに入って、服を脱いで全裸になった。ノズルを捻り湯を出しながら、洗面所の鏡に映る自分の顔に目をやったところで、おれは仰天した。黒いサインペンで至るところに落書きがされていたのだ。額の一番目立つところには「粗チン野郎」と書かれ、鼻の下には当然のごとく蔓のように伸びた髭が描かれ、髪の生え際の辺りには縫い目のような傷が数十個配置され、まるでフランケンシュタインのようになっていた。むしろ落書きされていない部分がほとんどなく、逆に感心させられてしまったおれは、しばらくの間、鏡の前でいろいろな表情を作ってみたのだが、どんなにニコニコしてみても陰鬱な表情にしかならないことに、サトエリがおれに対して抱く敵愾心の深さに敬意を感じざるを得なかった。彼女はここまでおれを嫌って憎んでいたんだなぁと思うと、やはりさっき起き抜けに精液をかけるべきだったという思いがちらりと浮かんだものの、その反面、付き合っている間、おれの所業のせいでこれほどまでの気分にさせてしまったことに申し訳ない気持ちも当たり前だが立ち上ってくるわけで、おれはフランケンの陰鬱な顔のまま鏡に向かって「……すまない」と口にし、シャワーを浴びた。
 風呂から上がって部屋に戻ると、気配に気付いたのかサトエリが目を擦りながら起きてきた。ぼんやりとした顔に目を合わせていると、彼女は小首をかしげ「あれ、もう消えてる……」と消え去りそうな声で呟いた。おれが「目には目を、だ。お前も自分の顔を見てくるといいよ」とにっこりして嘯くと、彼女は瞬間青ざめ、目覚めたばかりだというのにベッドから飛び出し、三段跳びの要領で洗面所に向かった。「あれ、何もないじゃん」というホッとした声がリビングの壁越しに響き、おれは「目が覚めただろ?」と鼻で笑って、テレビのリモコンを押した。そのとき、不意に「なんかまだ付き合ってるみたいだな」と感じたおれは、彼女が部屋に戻ってくると、窓の外に目をやりながら、心情をそのままストレートに「なんかまだ付き合ってるみたいだよなー」と呟いてみたが、サトエリから反応がなかったので表情を窺うと、彼女は目を剥いて硬直していた。その顔を見ておれの胸の奥はちくりと痛んだが、その小さな刺し傷を抉るかのように、彼女はすぐに「勘弁してよ」と完全なる拒否権と長いため息を発し、おれの恋慕とプライドを粉々に打ち砕いた。

■四 帰宅

 人生でたびたび直面する、期待を抱きながらひたすら結果を待っているような場面では、どんなに準備をしていても自分の望む展開は決して起こらないものだ。そして今日もそんな場面と同じく、おれが未練らしきものを抱いている元彼女の家に偶然泊まることになったという胸が躍るような出来事は起きたものの、そこから「じゃあ元どおり付き合おっか?」などという甘酸っぱい展開になることはなく、彼女の「もう帰ってよ」とつれないにも程がある一声で、おれは後ろ髪を引かれながら午前九時前には家を後にすることになったのだった。休日の朝特有の気だるさを感じながら駅まで身体を引きずっていると友人Zに昨夜の顛末を聞いてみることを思いつき、Zに電話をかけてみたが十回以上コールしても出ることはなくまだ寝ているようだったのでメールで「死ね!」と送ったところ、三十秒もしないうちに「愛しの元彼女の家へ“合法的”に侵入することができてよかっただろ?」という返信が来た。もう一度電話をかけ直すが、今度は二十コールしても出ることはなかった。すると、電話を切った直後にふたたびメールを受信し、それには「悪い、いま手は空いているんだが、耳と口は塞がっているんだ」という言い訳が笑顔の顔文字とともに書かれていた。ここで疑問に思うことは二つある。一つは、手は空いているが耳と口は使っている状況とはどういうものなのかということ。そしてもう一つは、メールを作成するのが物凄く早いが、それはいったいどうやっているのかということ。ただ、今のおれにはこの興味深い疑問を深く考察する気力が残っていないので、疑問は疑問のままに置いておくことにした。ついでにZへの返信も放置することにした。



 おれの家は昨日飲みに出掛けた繁華街から車で十分ほど走ったところにある。ほとんど使われていない倉庫や潰れた工場が連なる海に面したエリアで、行き交う人はほとんどおらず、当然のことながら治安はあまりよくはないのだが、家賃の安さと開放感に惹かれ、この侘しく寂しい場所で暮らしている。ただし、そうはいってもこのエリアに住むメリットはいくつかあり、まず人がいないので人ごみや行列に煩わされることは皆無、それに警察のパトロールは年に数回だけなので、ただっ広い道路に堂々と路上駐車していても咎められることはなく、実質、駐車場代がタダである。ただ、おれは車を持っていないのだが。さらにいうと、住人は少ないが、人相の悪い人間は時節見かけることができ、ついでにそういう人間の後をこっそりつけていくと日常ではなかなかお目にかかれない怪しげな取引や物騒な場面を生で鑑賞することが可能だ。活気はない場所だが、退屈とは比較的無縁だといえるだろう。ちなみに、ここのエリアで最も目にする人間は、そういう危険な香りのする人々ではなく、釣り人である。休日の昼間には、岸壁に固まって海釣りに勤しむ親父さんたちが決まって居る。散歩をしながら彼らの呆けた表情を眺めていると、この場所もなかなか悪くないと思うのだ。
 その釣り人が集まる岸壁の、すぐ脇にある古びた青いマンションの五階がおれの住居である。近いうちに間違いなく故障するであろう老朽化も過ぎるエレベーターに乗り込み、ガタゴト揺られながら階に到着したとき、すでに正午は過ぎていたと思う。昨夜サトエリに殴られたダメージは思ったよりも残っていて二日酔いのような頭痛を引き起こしていたので、おれは夕方までもう一眠りしようかと考えていたが、エレベーターから廊下に出ると部屋の前に見知らぬ女が立っているのが目に入り、その考えを一時中断せざるを得なかった。女は背筋を伸ばした姿でこちらをまっすぐ見据えている。本能的にまずい気がしたが、この状況で背を向けて逃げるのも明らかに不審だし、思索しようにも頭が回らないため、おれは彼女が不吉な笑みを浮かべて近付いてくるのを黙って待つしかなかった。一歩、二歩……。廊下にヒールの音を響かせながらゆっくりと歩いてくるたびに、薄黄のワンピースが揺れ、丈の短い裾から艶かしい白い太腿が見え隠れするのだが、今日のおれは何も感じなかった。この女がショートカットだからかもしれない。不思議とおれは昔からショートカットの子にはあまり欲情せず、高校生のとき憧れだった女の先輩が髪の毛をばっさりと切って短くするとそれまで毎晩夢想していたのにもかかわらず急に興味を失ったことすらあった。歩いてくる女をもう一度よく観察すると、眼は大きく、顎は小さくて、憧れた先輩にも少し似ており、なるほど、それなりに整った顔をしているのだなとは思うのだが、テレビの中のタレントを見ているようで現実感がなく、やはりおれは魅力を感じなかった。
 その“魅力を感じない”女は、あまりにもおれが無表情であることが気持ち悪かったのか、それとも女としての可愛らしさがまったく通じていないことに気づき気を悪くしたのか、おれの目前までには来ず、五歩くらいの距離をとって足を止めた。ただ、顔には薄い笑いを浮かべたままだ。もったいぶったような所作が鬱陶しくなったため、おれは「邪魔だ。何の用だ」とストレートに不満と疑問をぶつけた。先制パンチを喰らってペースを乱されたショートの女はしかめっ面をしたが、「カクちゃんのことで話があるんだけど」と意外にも素直に答えた。「カクちゃん? 知らんぞ、そんな奴」とおれがいうと、びっくりした顔をして「あなたの彼女でしょ、昨日の。“元”だけど」と告げた。ああそういえば、あいつはカクタという苗字だったな……まったく意識していなかった。そのとき、この女は昨日サトエリの横にいた連れだと気付いた。「サトエリね。やっぱり知ってたわ。で、あいつが何だよ」と仏頂面のまま話を促すと、ショートの女は無言で素早く二歩近付き、おれの顔を覗き込んだ。急に目前に来られて一瞬気圧されつつも「何だよ」と何とか不満げな声を発すると、女は「あなた、カクちゃんのことまだ好きでしょ? 未練があるんでしょ」と疑問文ながらも断定しているようにとれる口調でいった。さて、ここでおれは何と答えるべきか。
 人のデリケートな部分に、唐突に土足で踏み込むようなその質問に対し、応対の仕方は三つほどあると思われる。一つ目は、そのままストレートに答えること。「ああ、まだ未練があるが、それが何か? お前に関係あるか?」という台詞をぶつけてやるのだ。容赦のない潔さ。二つ目は、「答えない」という反応である。不躾な問いなのだからこちらも不躾に返してやる。あるいは拒絶の態度を超えて、「帰れよ」と自分の前から消えてくれ的な要求をオブラートに包まずにいってやるのもいいだろう。三つ目は、嘘をつくこと。煙に巻くのもいい。「いや、もう未練はないよ。おれもあいつを見習って早く次の恋にいかなきゃな……」などと、晴れた休日にふさわしい爽やかな笑顔の上に遠い眼差しを貼り付けて答えれば、どんな人間も不快には思わないのではないだろうか。ただ、ここでの振る舞いはショートの女からサトエリに直接伝わってしまうことも十二分にあり得ることを考えると、三つ目の方法は避けるべきであろうと直感した。少々の迷いを感じたおれは、やはり、というべきか、自ら考案した三つの選択肢の中から選ぶことなく、結果的には最も素直な答え方を選択した。それはつまり、「……わからない」という呟きだった。おれから捻り出されたその言葉に対して、ショートの女は眉を寄せ口を半開きにした表情で応えたが、すぐに正常な顔に戻って「そっか」と頷き、一応は納得したようではあった。彼女は、自身の白い手首に巻かれた、赤い皮ベルトの腕時計に目を落とす。そのとき、通路を軽やかな風が通り抜け、肩にかかるぐらいで切り揃えられた艶のある黒髪を揺らした。その風が止むのを待って、今度はおれが「もしまだ好きだと答えたら、どうするつもりだったんだ?」と問いかけると、女は何も答えず、にこりと笑って風が吹いてきた方向とは逆に歩き出し、脇を通り抜けた。つまり彼女は二つ目の応対を選んだというわけだ。
 おれはエレベーターホールに向かっていく彼女の背中を見つめながら、今のはどう答えれば正解だったんだろう、と考えた。ショートの女は振り返ることなく、停止していたエレベーターに乗り込んで、現れたときと同じようにおれの前から忽然と姿を消した。

■五 痛飲

 その日の晩、夜八時過ぎまで眠りに落ちていたおれを現実に引っ張り上げたのは、友人Zからの電話だった。案の定、今日も酒席の誘いであり、おれはまたかと呆れたが、よくよく考えると、実は昨日はほとんど飲んでいないのだったことに気付き、Zに昨晩の展開をいろいろと聞きたくもあったので、嫌々誘われている素振りをしながらも割と本心は乗り気で、一時間後に待ち合わせる約束をした。
 一時間後、いつも利用している店内が無駄に明るい安居酒屋で飲み始めると、今日何も口にしていなかったせいか、おれはすぐに酔いが回り饒舌になった。その流れの中で、朝のサトエリ家での出来事を愚痴ると、友人Zは「そりゃサトエリちゃんも帰れっていうだろうよ」と彼にしてはまともな台詞をいった。その言い草が気に入らなかったおれはサトエリと付き合っていた一年と半年という中途半端な期間の中で、おれがどれだけ彼女にとって良いことをしてきたか、彼女に対してどれほど優しく振舞ってきたかといったことをとくとくと語った。するとZは、「優しいだけの男はダメだってよくいわれるよな」とまたも反抗的な意見をぶつけてきたのだった。どうやら今日は元彼女の家を早々に追い出された哀れな男を適当にからかって遊ぶおつもりのようだ。そうはいくまいと、おれは流れを変えるために話を脱線させて、「そうはいうが、優しさってやつをお前は本当に理解しているのか? ん?」と哲学的な議論に持ち込んだ。Zは唐突なテーマの変更に怪訝な顔をしながらも、特に反対はしなかった。それをOKのサインだと受け取り、おれは咳払いをして主張を述べ始めた。
「例えば、濁流の上に架かっている橋、そこにお前がいるとする。滝のような激しい流れだ。橋の左側には長年の片思いを実らせて最近付き合うようになった愛おしい彼女が、右側には自分の腹を痛めてまでお前というクズをこの世に連れてきてくれた母親が、それぞれ溺れている。お前は当然、左側か右側かどちらかにしか飛び込めない。必然、助けられるのは一人となる」
「ふむ、よく聞く設定だ。それで?」と話を促しながら、Zはピンググレープフルーツサワーのジョッキを注文した。
「凡人のお前は、『若いほうを助けるべきだ』などと自分に対して無理矢理な言い訳をして、どちら側に飛び込むかを決めそうなもんだが、本当に優しい奴はそんなことはしない」
「おれのことは放っておけ。で、本当に優しい奴とやらはどうするんだ?」
 おれはすでにこの辺りで酔いが身体を駆け巡っており、呂律がおかしくなっていたが、頭は冴えていた。
「例えば、こういうことをする。自分の左脚を引きちぎり、左側か右側か、とにかく片方に投げる。脚がもげた自分はもう一方に飛び込む。左脚をキャッチした誰かさんはそれを浮き輪代わりにして助かり、飛び込まれたほうの女は身を挺した必死のダイブによって助かる。ただし、自身は出血多量で死んでしまう。自分を犠牲にしてすべての他者を助ける。これが本当に優しい奴のすることだ」
 Zはおれの主張を無言で受け止めると、おれの顔を指差して反論した。
「はっきりいってやろう。それはただのサイコ野郎だ。ついでにいえば、投げ込まれた脚を浮き輪にする奴も、片脚がちぎれた人間に肩を借りる奴も、両方いかれたクズだ。そして、普通そんな救い方をされたら、もし助かったとしても気が狂うに違いない。彼氏や息子という関係であればなおさらだ。さらにいえば、道具なしで自分の脚を引きちぎるのは一般人では無理だ。一流アスリートでも厳しい。大体、滝のような激流の中を浮き輪ごときで助けるのは不可能だし、脚を引きちぎる作業の途中で、助けようとしているターゲットが流されてしまうのは自明だ。二人とも助けようとか、くだらない思考をしている間に、橋の右側か左側かどっちが上流になるのか知らないが、気付いたときには二人とも流されて、同じ側にいるだろうよ。もう見えないほど小さくなっているだろうがな」
 いつになく饒舌になったZがちょど会話の区切りをつけたタイミングで、店員が「お待ち」とピンクグレープフルーツサワーを持ってきてテーブルの上に置いた。ジョッキから生じられた重量感のある、ごん、という鈍い音がまるでボクシングにおけるゴングのごとくラウンドの終了を告げ、Zはおれから目線を外し、まるで勝利者のような余裕の態度を見せて、店員に「待ってないよ」と軽口で答える。その振る舞いが癪に障るのはもちろん、先ほどZが発した言葉がおれの主張すべてを否定していたかのように聞こえ、おれの手元のコップに残っていた芋焼酎の急激な減少に少なからず影響したが、本ラウンドはすでに終わっておりインターバルの時間であるのを自覚していたおれはさらりと受け流すという落ち着きのある対応を見せ、最終的な結論を述べた。
「ま、現実問題として実際にやるかどうかは別にしても、本当に優しい奴ってのはこうやって二人を助ける方法を最後の最後まで考える人間のことをいうのさ。優柔不断極まりないが、実際のところそれが優しさの本質だ」
 ピンクグレープフルーツサワーに口を付けていたZの喉が、ごっくん、という生々しい音を発し、おれは背筋を爪でなぞられたような不気味な感覚に襲われる。Zはゆっくりとジョッキをテーブルに置き、話をつむいだ。
「おれはそうは思わないが。というか、さっきから聞いていて感じたんだが、お前は自分のことを『優しい奴』とでも思っているのか?」
 心の中ではイエスと答えたが、おれは首を捻った。
「さぁ、どうだろうな。少なくとも今のおれにとっては、母親よりも“元”彼女のほうが大事だってことはいえる」
「ということは、さっきの理論からすると、お前に本当の優しさとやらを語る資格はないな。片方のことを優先しちまうような奴には。そうなんだろ? ん?」
 Zの唇が嫌らしく歪み、おれは飲みかけの芋焼酎を彼の顔面にぶちまけたくなったが、Zがすぐに別の話をし出したので、頭の中で一気に領土を拡大し始めていた暴力的な思想はその膨張の速度と同じくらいのスピードで収束することになった。
「ていうかさ、お前、ぶっちゃけどうなのよ? サトエリちゃんと元に戻りたいの?」と珍しくシリアスな顔をして、彼はいうのだった。通常ならば、友人の元彼女に対して馴れなれしく「ちゃん付け」したことに腹を立てるべきかもしれないが、その隙がないほど、彼の顔には硬質な表情が張り付いていた。おれは昼にショートの女に答えたのと同じように、「わからない」と答えた。今度は即答した。ショートの女はがっかりした表情をしたが、友人Zはあっさりと「じゃあもう止めとけ。付きまとうのは」と、ごく当然の結論まで言い切ってきたため、おれのほうががっかりした顔をすることになった。



 店を出たのは夜中の一時過ぎで、冬の訪れを告げるような冷たく鋭い風が、外を歩き始めたばかりのおれとZの間をびゅうっと吹き抜けていった。やさぐれていたおれはまだまだ飲み足りない気分で、さらに妙に澄ました態度を取るZのことも気に入らず、「次の店に行こう」とはしご酒を強く主張したが、Zは首を縦に振ることなく、それでもしつこく五度ほど誘ってみたものの最後には「悪い、今日は帰るわ」と適当な言い訳もせずにはっきりと拒絶し、さっさとタクシーを捕まえてしまった。足早にタクシーに乗り込み窓を開けたZが「お前もさっさと帰れよ。風邪引くぞ」と小学校の先生のような台詞を吐いたため、カッとなったおれはZに向かって唾を吐いたが、すでに彼はパワーウィンドウを上げていたためにおれの焼酎混じりの唾液はZに到達することなく、車窓のガラスで力尽きた。唾を吐かれたことすら気付かないZを乗せてそのままタクシーが去ってしまうと、おれは何とも寂しい気持ちになり、一人でどこかの飲み屋に行き、気分を落ち着かせることに、いや違う、高揚させることにした。あまり大きくはない繁華街ではあるが、片隅に小さな飲み屋が集まった路地があり、そこに行けば今夜何かが起こるのではないかという期待があった。楽しいこと、悲しいこと、気持ちのいいこと、痛いこと……それらのどれかが引き起こされそうな予感がしていた。痛いのは嫌だな……悲しいのはまだいいけど、痛いのは本当に嫌だ……などと、フラフラと街を彷徨い歩きながら、その一角に向かった。



 おれの存在を意に介さず深夜の街を冷ややかに踊る風、その流れに逆らうように黙々と歩いていき、ここに記すべきイベントも特に起こらないまま淡々と目的地に到着する。明らかに周りと雰囲気が違うそのエリアに足を踏み入れると、右前方にすすけた壁に寄りかかって朦朧としている草色のモッズコートを着た若い男が見えた。足元は頼りなく、今にも足がもつれて倒れてしまいそうだが、見ているこちらがひやっとするたびに驚異的なレスポンスで踏ん張る姿に、おれは一度だけ生で見たことがあるバレエの練習を思い出した。もしかしたらこいつもバレリーナの端くれなのかもしれない……。狭い路地で不規則なステップを踏むその「バレリーナかもしれない」男を横目で眺めながら通りを曲がると、続いては左前方に、紫の下地に黄色の文字で「オリオン」と描かれたネオンの看板が目に入った。色彩とはいえぬような灰色の濃淡が支配する世界の中で、そこだけが輝いているように見え、おれは否応なく惹き付けられる。「オリオン」の字の上部には小さく「スナック」という言葉も描かれており、その魅惑的な文様を発見したおれは、一字一字ゆっくりと視認したのちに、低い声で反芻する。ス・ナ・ッ・ク……何と期待を感じさせる響きなのだろうか。ス・ナ・ッ・ク……ス・ナ・ッ・ク……ス・ナ・ッ・ク……。この店ならば、今日、散々おれを傷つけてきた刺すような風を遮断し、なおかつ人肌の温もりを与えてくれるだけでなく、おれが語り合うにふさわしい真の友とでも言うべき人間を提供してくれるに違いない。看板を見ながらもう一度ドアの向こうに広がるであろうワンダーランドを夢想したうえで、勢いよく店のドアを引いた。店内は暗かったが、オレンジ色のランプがところどころで点灯しており、その明かりが遠く向こうのほうまで続いていた。真っ暗なスターバックスみたいだ……。ランプの明かりの列を目でなぞっていってもその終わりは見えず、外観から想像したより店の中は広いようだという認識を新たに得る。暗闇に包まれた奥のほうから、人々の喧騒の音が低く響いてくる。コンビニとか、学校の教室とか、そんな程度の広さではない、もしかすると小規模な音楽ホールぐらいはあるのかもしれない。これがスナック?――疑問が頭を掠めたとき、視界の右側から大きな影が現れ、おれは身構える。店内の暗さゆえおれの見間違いであるかもしれないのだが、じっと目を凝らすとウェイター姿であることがわかり、白いシャツから剥き出した褐色の肌が認められたため、飛び出してきた影の正体は巨躯の黒人だと判断できた。店員と思われる黒人のような男は、己の感情を読み取る間をおれに与えず、「客か。どうしたい?」と端的に聞いてきた。無表情で無愛想な態度。日本語の発音は流暢だが、質問の仕方が曖昧で、拒絶と媚びが入り混じったような不可思議な印象を与える。「どうしたいって何を?」とおれが尋ねると、男は指を三本立てて「一つ、女の子とお喋り、五千円。二つ、女の子二人とソファーでお喋り、一万五千円。三つ、女の子三人とVIPルームで大騒ぎ、三万円」と説明し、念を押すように「どれにしたい?」と付け加えた。それぞれのメニューの利用時間を口にしなかったので、おれが「どれもエンドレスなの?」と重ねて聞くと、男は無言で頷いた。水商売にしてはおかしなサービス体系のように思えるが、これはこれで面白いのかもしれない。未体験ゾーンだ。おれは頬を片手で押さえてしばらく考え込んだのち、手のひらを広げて「五千円のやつで」といった。男はそこで初めて感情を露にし、心底詰まらなさそうに下唇を突き出したが、おれが「もしいいなと思ったら途中で他のコースに切り替えてもいいの?」と問うと、俄然快活な笑顔になって「いいよ、いつでもいったらいいよ!」と親指を立てた。



 「五千円のやつ」の席はバーカウンターだった。最も低料金のコースであるだけに、隣に甘い香りを漂わす綺麗な蝶々たちを侍らして五感を満足させるという前時代的な酒池肉林の発想は叶わないわけだ……。バーカウンターは広大な店内の一番手前に位置し、そこまでのビザしか得ることのできない客とはいえぬような経済力に劣る男どもを嘲笑うかのように他のエリアからは隔絶されており、案の定おれが席に着いたこの瞬間にも他の客はいなかった。案内してくれた黒人のような男はグラスを磨いていたバーテン姿の若い女に指を鳴らし、「おーい、レイちゃん」と声を掛けると、その「レイちゃん」とやらがこちらを向く前に、おれにウィンクして去っていった。そのとき、バーカウンターに備え付けられた卓上ランプから発せられる橙色の光が男の顔をくっきりと照らして、彼の肌が実際には真っ白であることを明らかにし、おれは自分の色彩認識能力の低さに愕然としたのだった。カウンターの向こう側からは暗闇で隠れて見えるはずの、そんなおれの表情を見透かしたかのように、「何をそんなに驚いているの? ふふっ」と可愛らしく笑って話しかけてきたのが「レイちゃん」と呼ばれた女の子であり、一目見た瞬間に、あぁなるほど、これは「エヴァンゲリオン」の綾波レイを思わせる風貌をしているために実に安直にこの源氏名が付けられたのだなとはっきりと理解した。確かに似ていないことはないし、髪の毛はウィッグなのか地毛なのかわからないが、繊細さを感じさせる透き通った水色に染め上げられており、加えてその肌は、ランプの明かりを神々しく反射させていることからわかるとおり、先ほどの「黒人のような白人」よりも白く、生々しき体内組織が薄皮一枚で可憐に包まれているのだろう、弾むようにお喋りをする年頃の少女にしか似合わないような仄かな桃色をところどころに浮かべていることが見て取れたのだが、容姿の面だけで綾波レイの名を語るのは余りにも早計で愚かではないか、そうおれは感じざるを得ず、その違和感を種にして生まれた反骨心を酔いの勢いに任せてむくむくと膨らまそうとした矢先に、彼女が綾波レイの持っていた豊かな母性を存分に表現したかのような柔らかな声で笑いかけてきたものだから、おれは「参ったよ。もう降参、君の魅力には」と手のひらをヒラヒラさせて早々に屈服を宣言した。レイちゃんは目をまん丸にさせて驚き、桃色に染まる頬っぺたを膨らませて一気に吹き出した。ところが、「何それー、何なのよそれー、めっちゃ受ける、ていうかこんなに早くレイに降参した人初めてーっていうかお兄さんすっごいおもしろいねー」とかいって手を叩いてはしゃいだものの、実のところ目は笑っておらず、猛禽類のごとく鋭い眼差しをもって、おれを上から下まで嘗め回し値踏みするのだった。おれという存在が所持しているものすべての中から、啄ばめるところを探しているのだ……。だが、それも一次会のときのZの腑抜けた態度に比べればずっと心地よい。実際、多少なりともお下品に感じられた彼女のはしゃぎ方はおれの趣味ではなく、せっかく右肩上がりで高まりつつあった彼女に対する好感度のグラフはずどんと地に落ちてしまいそうだったのだが、しかしそれを帳消しにするほど、レイちゃん――いや、猛禽類にカテゴライズされうる人類の一人として敬意を示し、ここからはあえて「レイ」と呼ばせてもらおう――レイの放つ鋭い眼差しは魅力的であり、強烈な目線はつまり、おれに高い関心を持っていることの現れに違いないからだ。お返しとばかりにおれも彼女の指の間から髪の生え際、小鼻の膨らみまで、身体の隅々に目を蛞蝓のように這わしてやった。その数秒の間、つい今しがたはしゃいでいた姿が嘘のように、レイは身動き一つせずおれの眼差しに耐え(微かに震えているように見えた)、しかしその数秒間はずっと怪しげで苦しげな笑みを向けてくるのだった。レイの、その誘いかけるかのようにもとれる微笑みに、瘡蓋だらけだった胸の傷口がみるみると癒されていく。
 蛞蝓プレイが一段落し、さぁ蹂躙の開始だといわんばかりにレイは口を開き、自身が持つ“技”の数々を披露し始める。型と型との継ぎ目をまるで感じさせない見事に連結された猛撃を、コンドルが死肉を啄ばむかのごとく、おれに叩き込むのだった。
 ――とりあえずなんかお酒作ろっか何がいい? 焼酎とウィスキーがあるけど別料金で他のも頼めるよ、レイっていまお酒勉強中なの、だからカクテルとか頼んでくれるとうれしいなぁ。あっでもこれって別にそうしてっていってるわけじゃないからね、やだー誤解しないでよー、ていうかていうか乾杯しようよそうしようよー、レイも飲んでいい? ダメ? いいよね? えっほんとにダメなの? マジ? 嘘だよね、なんだー嘘かーもうびっくりしたマジでー。お兄さんほんとうまいんだから、じゃあレイはテキーラのショットにしようかなー。えっカクテルじゃないのかだって? レイ今日は酔いたい気分なのねだからテキーラがんがんいっちゃおうかなーなんて。あっでもでもお兄さんは別に付き合わなくていいんだよ? 自分のペースでゆっくり飲んだらいいからね。カクテルでも全然構わないからね頑張って作るからじゃあレイはお兄さんと出会えたことに感謝しながら早速いただくね。「カン!」あーおいしーもう一杯もらっちゃおうかなーなんて、えっダメ? ペースが早くないかだって? やだー普通だよーお兄さんがゆっくりなんだよーていうかていうかお兄さんもテキーラ飲もうよ。あーなんでそんな嫌な顔するの、レイ悲しいー。そんなに強いの飲んだら酔っ払っちゃうから? 情けないなー男のくせにもう、でもお兄さんそんな可愛いところあるんだちょっと意外、やだー照れてるの? もう可愛いなーなでなでしちゃうじゃあお兄さん可愛いからチャンスあげるー! レイより早く一気できたらチューしたげよっか、っていっても口じゃないからね手だからね手。今エロい想像したでしょーお兄さんほんとやらしいんだからーじゃあはい、これね、イチ、ニのサンでいくからね、じゃあーイチ!「カン!」ごめーん嘘でしたーえっフライングだって? ずるくないよー いいじゃんそれぐらい、もー拗ねちゃってーもうもう、ほんと可愛いんだからーじゃあもう一回しよっかとりあえずその注いだやつ飲んでよ入れられないじゃん。おーいいねーいい飲みっぷりー見直しちゃったーやっぱ男だねぇじゃあもう一杯ね。ちなみにテキーラは別料金だからね。えっ、何か言ったかって? ううん何も言ってないよーお兄さんの空耳なんじゃないのーレイの声が勝手に聞こえるなんて私のことほんと好きなんでしょーもう頷かないでよーやだーエローい。じゃあもう一杯ね今度もさっきと同じでイチでいくからね。もう騙さないよー大丈夫だからー。じゃあいくね、せぇの、イチ!「カン!」あーおいしーあれあれ、だめだよー残しちゃ、はいはいはいはい、イッキイッキイッキイッキ、はいはいはい、イッキイッキイッキ、わーパチパチ。はーいよくできましたーてか口から垂れてるよー受けるー吹いたげるね。あっ、手は触っちゃだめだからーダメダメ。はい、拭けました。なんでそんなに早く飲めるのかって? だってレイの飲んでるの普通の水だもん。ふふふ。嘘だよー嘘に決まってんじゃんもうお兄さん簡単に騙されちゃうんだからーじゃあもう一杯ね。次はそろそろやばいなーあたし。自信ないなー頭ぐるぐるしてきたし。お兄さんちょっと大丈夫? 呂律回ってないよーあははー楽しくなってきたねー。はい、じゃあ次はこれね、いっくよー「カン!」ちょっとーお兄さん全然飲んでないじゃんダメダメ、レイに甘えるのはちゃんと飲んでからだからねー……
 「テキーラ」「飲む」「エロい」「イッキ」「レイね」「可愛いー」「受けるー」――響きだけで意味を持つ呪文のごとき言葉が連呼され、おれは最新のテクノミュージックを愛聴しているかのような感覚に陥り、テンションは止め処なく上昇していった。飲んで、話して、飲んで、飲んで、レイにセクハラまがいの行為を繰り返し、やがて拒否され、また飲んで、何度か黒人のような白人に注意されたものの、それでも飲んで、話して、触って、もう一度触って、飲んで――傍目から見ると、おれはかなり充実した時間を過ごしているように思えただろう。だが、さすがに飲みすぎたのか、いつの間にかカウンターにもたれ掛かるようになり、そして段々と目が霞んできて、最後には気絶するかのようにカウンターに突っ伏した。最後の瞬間、カウンターにショットグラスがたくさん転がっていたことを覚えているように割と意識はあったはずなのだが、身体は痺れて動かなくなり、徐々にレイの声と存在を遠くに感じるようになっていったのが不思議だった。
 次に目を開いたとき、おれの眼は薄汚れた地面を見ていた。何らかの液体に赤黒い蟻が群れていた。どうやら店を追い出されたらしく、路地の片隅で膝を抱えて眠っていたようだ。隣に気配を感じ顔を向けると、昨夜バレリーナのように踊っていた若い男がジャックダニエルの瓶を抱えて仰向けに寝転がっていた。地面を転げ回ったのだろう、顔も髪も服も、彼の存在の至るところに埃や泥が付いていたが、男が浮かべる表情は驚くほど安らかで、とても満足気であった。踊り疲れただろう、バレリーナ、さぁおやすみ……とおれは心の中で呟いた。直後、ひどい頭痛が脳髄を襲い、二日酔いと呼ばれる状態に陥ったことを知覚する。一瞬にして思考能力を失ったおれは、頭の中で脈打つ痛みから逃れたい一身で這うように路地を歩き出した。

■六 発散

 朝、呻きながら帰宅するのはこれで二日連続になってしまうことに気付き、その回避を試みぬまま苦痛を繰り返すような愚行は絶対に犯したくない気持ちに駆られ、気晴らしに突拍子もないことをやってみようとおれは考える。
 昨晩訪れたエリアからそう遠くない街の東端に小さなスーパー「浜田ストア」がある。この浜田ストア――通称「浜スト」では最近よく小火騒ぎが起きており、地元のメディアでたびたびニュースになっていた。犯人は誰なのか? 犯行の動機は何なのか? 浜スト店主に恨みを持つ者の犯行か? ――放火という悪行が繰り返されるにつれ、報道は段々と広がりを見せつつあった。その小火騒ぎが始まったのはおれがちょうどサトエリと別れた頃で、傷心という火口から絶え間なく溢れ出るストレスをどうにか発散しようと、パチンコやらナンパやら合法ドラッグやら路上での自慰行為やら深夜に雄叫びを上げながら疾走したりやら、とにかくいろいろな「チンケなこと」に自暴自棄に手を出していた時期であり、そして、つまり安直なことに、あるいはやはり自明なことに、実はおれが浜スト放火事件の犯人だったりする。すでに五回は火を点けたが、今までまったくバレずにいて、警察を中心としたこの地域の治安維持能力の低さを心配するほどであり、よくニュースで事件の犯人が「何度か繰り返すうちに捕まらないと思い始めて……」などと語るのを聞くが、この調子では彼らがそう思うのも無理はなかろうと同情もし、おれがやがて彼らと同じ思考に辿り着くのは時間の問題だろうと感じるのだった。つまり、小火騒ぎの次元では満足できなくなりつつあって、次の段階に向かうための「脱皮」をおれは必要としており、それがここ最近の放火におけるモチベーションとなっていたのだが、ちょうどこの早朝では店もまだ閉まっているはずなので、今日は小火というレベルでは済まないような騒ぎを起こすにはベストな機会であると思い立ったのだ。二日酔いを吹き飛ばすようなスリルがもたらされるはず、という期待もあった。
 なぜこんな真似を繰り返すのか、そう問われると、これはもう習慣になっているからと述べる以外にない。皆が煙草を吸ったり、お茶を飲んだり、爪を研いだり、週に一度スクラッチくじを買ったりするのと同じ行為であり、おれにとってはそれがたまたま放火だったわけだ。愉悦の度合いとしては、女の子の尻を追いかけたり、友達と夜の街に繰り出したりといった健康的な青年男子が耽りやすい活動よりかは一段劣るぐらいだといえるだろう。つまりは「そこそこ楽しい」レベルであり、すなわちそれは、おれが放火を習慣で、あるいは惰性で続けている証左にほかならない。おれにとっては三日坊主にならずによく続いている、ある種の「善行」だといえた。
 いつもだと火を点けるのは、紙くずやビニール包装など細々したものが詰め込まれたゴミ袋であったり、駐車場の隅に積み上げられた、茄子やキャベツのイラストが淡く描かれている段ボール群であったり、要は屋外に置かれた物品なのだが、今日は小火ではない本物の火事、正真正銘の事件を演出しようとしている以上、もう一歩踏み込んで屋内での放火にチャレンジしてみようと考えた。そうなると浜スト店内に忍び込む必要が生じるわけで、当然おれは事前にそのシミュレーションをしようと、頭の中で「忍び込む」という行為に関して求められるスキルや備えておくべき道具、遂行時の注意点など様々な事柄を思い浮かべ、検討を進めるうちに「おや、こういう活動は数日前に体験したばかりだぞ」と気付くことになる。サトエリ家への侵入とは規模・状況・動機がまるで異なるものの不法侵入という一点で本質は同じであり、無意識のうちに予行演習を実施していたことに対して自身に畏敬の念を抱いたのだが、難しいのは「予行」とは違って「鍵」を持っていないという事実である。これは比喩でもなんでもなく、扉を開けるための鍵がないのだ。ピッキングなどの専門スキルを具備しないおれにとって「鍵がない」という状況は、侵入を諦めるか、扉を壊すなど暴力的手段を行うかの二つに一つしかなく、取りうる選択肢が少なすぎるのは明らかなのだが、「実行手段の少なさ」という詰まらない理由で「習慣」を怠るのはどうにも気持ちが悪いため必然の結果として後者の方法を選択することになる。「ガシャン!」と早朝の静寂に似つかわしくないガラスが派手に破れる音が聞こえ、おれは考えるよりも先に自分が実力行使に出たのだと気付く。手のひらに目を落とすと、裏口の隅に立てかけられていたはずの箒がいつの間にかそこに握られていた。無人の敷地内でシンバルのように響き渡った音は、やがてゆっくりと気配を消していき、朝はふたたび静けさを取り戻す。そのことを確認してから、割れたガラス窓から肌を切らないように注意して腕を入れ、裏側からロックを解除する。ガタついた扉のノブは錆びているようでロックを外すのに少し手間取ったものの、数日前の侵入とは違って冷静さを保つことができていため、その手間取りすら愉しむ余裕を持ちつつおれは店内に侵入することに成功したのだった。古い造りの店だから大丈夫だとは思っていたが、案の定、警報の類が鳴ることもなかった。
 浜スト店内は当然明かりが点いていなかったが、今開けた扉の隙間といくつか点在する窓とから入る日の光のおかげでそれほど苦労することなく、様子を把握することができた。おれは火を点けるなら精肉売り場だと思っていたので、そこに向かって直進する。「生肉には火を」というわけだ。ククク、クク、クククク……。浜ストには何度も来たことがあるため、店内のレイアウトは頭に入っており、迷うことはない。ただ、電灯が点いておらず誰もいないスーパーというのは食料品、別の見方をすれば死体を売る生々しさとそれらを展示・保存する冷蔵庫や棚の無機質さが同居していて気味が悪く、物陰から突然何かが飛び出してきそうな感じさえあった。そしてその予感はすぐに実感に変わる。右手の棚の裏側からゴソゴソという音がしたのだ。それはネズミや虫など小さな生き物が立てたようなものではなく、明らかに人間ほどのサイズの物体が動いたことを示していた。その向こう側にいる「人間のようなもの」は無遠慮に音を立てて近付いてきたこちらの存在に気付いているはずで、おれは不審な音のする右手の缶詰コーナーのほうを向き、向こう側が覗けるように奥のほうまで手を伸ばしてけたたましく棚の内部をまさぐり隙間を開け、僅かに空いたその空間から向こう側を片目で覗く。が、何もない。さらにもう一つ向こうの棚――乾き物コーナーが見えているだけだった。
 しかし次の瞬間、乾き物コーナーの棚まで吹き抜けになっていた空間に、突如大きな眼が出現した。睫の一本一本がはっきりとわかるほど近い。向こうの眼は瞬き一つせずおれを見据えている。あっちもこちらを覗いているのだ。生々しさを感じさせる得体の知れない生物が大きな眼でこちらをじっと捉えている、その異常な状況に陥ったせいで、おれが店内に入るまで保っていた冷静さは消失し、強張りが身体を侵食していったが、あまりの恐ろしさに身動き一つとれずにいた。自然、二人は数秒間、見つめ合うことになる、缶詰が詰められた棚を挟んで。この構図の断面図が頭に浮かび、ふと現在の状況がいかに滑稽なのかを知覚することができ、少し落ち着きを取り戻す。おっと、今日は意外と冴えているのかもしれない……。
 おれは奴から見えないように缶詰を掻き出すための手を棚に忍ばせ、向こうが瞬きをするのを待った。もう見つめ合ってから数十秒は経っていて、その間おれはたびたび瞬きをしているのだが、奴は一切眼を閉じていないようだった。根競べの様相を呈してくる。おかしい。すでに一分は経っているはずだが、奴は動こうとする気配を微塵も見せない。この棚の向こうにいるものは果たして人間なのだろうか……。
 おれは一度深呼吸をして一歩棚から離れてみる。すると、奴も少しだけ距離をとったように見えた。まさか。
 棚の向こうに回り込もうと、右足を踏み込む。数歩で角に到達。そこで手を棚に引っ掛け、遠心力を利用して曲がる。高スピード。いくつかの缶が落ちたけたたましい音が響いた。奴がいた地点に目を向ける。反対側に曲がったところで目にしたのは何もない空間であった。奴はいない。奴がいたはずのところには鏡が置かれていた。正体は鏡だった。おれが見ていたのは鏡だった。奴はおれだったのだ。鏡を置いた人物はおれが睨めっこをしている間にどこかに身を隠したのだろう。いや、もしかすると、そんな人物は最初から居なかったのか? 鏡はずっとここに置かれていた? そうするとさっきの物音は何だったのか? もしや、おれが置いたのか? まさか。いつ? どこから持ってきた?
 辺りにはもはや何の気配もなかった。おれはどこかから自分が観察されいてるのかもしれないという恐れを抱き、耐え切れず店内を放火する――正真正銘の事件を起こすというトライを断念し、入ってきたドアに全速力で戻った。外に出て駐車場の向こうを見ると、界隈には何人かが行き交う時間になっていた。おれは身を隠しながら急いで浜ストを去ろうとする。

■七 快走

 通りを全力で駆けると、よく知っているはずの周りの風景が後方にすごい速さで流れていき、まるで時空を超えて移動しているかのような感覚を覚えるものの、それはやはり錯覚で、全力疾走した結果としては、普段歩くと五分ほどかかるA地点からB地点までのまっすぐな道のりをその二割ほどの時間で踏破できた、ということに過ぎなかった。あるいは、別の見方をすると、疾走の結果、「時間」も「空間」も凝縮できたのだから、「時空を超える」という表現は誇張でも何でもないといえるのかもしれない。それにしても「走る」という行為は不思議だ。まだ肩を揺らして息をし、膝に手をついているぐらい、走り終わって僅かしか経っていないのにもかかわらず、駆けている最中に見た風景はまるで覚えていないのだ。これっぽっちも頭に残っていないのだ。一分ほど駆けたということは三十秒間のテレビCMを二本視聴したのと同じ程度の情報量を受け取っているはずであり、二本分のCMを見て何のメッセージも映像もまったく覚えていないという状態は、その人間が異常に間抜けか、あるいはその“CM”が余程の駄作で退屈な代物でありそれが偶然にも二本続いたか、どちらかとなるのだろう。駆けた道を振り返ってみても、まさしく今ここを自分が疾走した記憶はどうやら自分の中を素通りしたようで、買い物袋を手にして歩くいつもの帰宅の姿しか浮かんでこないのだった。結局、「時空を超える」という行為は、このように圧縮され過ぎて主体性が紙っぺらのように薄くなった無自覚な経験談というところに帰結するのだろう。圧縮されたぶんだけ記憶はごく僅かにしか残らないのだ。逆にいえば、時間をかけたぶんだけ、経験としてはより濃い記憶となるのだ。その理は、元恋人との思い出というセンチメンタルで自己中心的な物語にも適用できる。一年と半年をかけて叙述されたおれの淡い物語は、たとえ当時どんなに無意味で無感動な日々を過ごしたとしても、思い返してみると、たくさんの情景と匂いに彩られているものなのだ。そのときはどんなに煩わしく思っていたとしても、相手の声のトーンや眼の表情、太陽の下で輝く相手の肌の色、振り向いたときに仄かに漂うその人がまとった部屋の匂い、何かを考えているときに傾くいつもの顎の角度、笑ったときに眼尻に寄る皺の数、よく身に着けていた服の色や素材感――そんなことは、歯がゆいぐらい覚えてしまっているものなのだ。そして、相手に向けてしまった自分の愚かな言動の数々も――。
 走って吹き出した汗はもう引いていたが、顔には滴が垂れていた。その滴はちょうど眼のあたりから流れてきたような気がした。でも、おれはそれ以上考えないように、小雨が降ってきたのだと思うことにした。

■八 穴熊

 足早に自宅に戻る。
 途中、コンビニに寄って五百ミリリットル入りのミネラルウォーター一本と鮭やワカメのおにぎりをいくつか買ったのは、今日はしばらく部屋に引き篭もろうと思ったからだ。マンションに入って自分の部屋がある五階までエレベーターで上がり、チーンという音とともにドアが開いたとき、この前のようにサトエリの連れの女が待ち構えているのではないかと危惧して身構えたが、廊下は辺りの工場地帯と同じく生物の気配を感じさせず、静かだった。鍵を開けて部屋に入る。カーテンを締め切っている室内は暗かった。良かった、この気分では明るいのよりは随分ましだ。
 おれはカーテンを開けることなく、電灯やテレビをつけもせず、今買ってきたばかりのおにぎりの包装を力任せに解いた。ペットボトルのキャップを開ける。



 食事をしたあと、眠ってしまったようだった。気付いたとき、壁に掛けられた時計の針は夜九時を指していた。
 手元にあったリモコンを操作してテレビの電源を入れる。三十二インチの液晶画面に点った映像は、十年ぐらい前に流行った洋物のサスペンス映画だった。強引な捜査手法だが実績を着実に積み上げていた若手の刑事が主人公であり、彼は過去にサイコパスの連続殺人犯を騙し、非情かつ暴力的な手段で捕まえたことがあったのだが、その行為が恨みを買ってしまい犯人の脱獄後に愛する妻子を惨殺され、その痛恨の思いから復讐の願望に取り憑かれていき、犯行の痕跡を狂ったように追い続けながら連続殺人犯と犯行に加わった者とに次々と報復をしていくという、ありがちといえばありがちな、どう転んでもエンディングは暗い結末にしかならないだろうと観る前に予測できるような作品だった。しかし、主役を演じたのが当時絶頂期にあったハリウッドスターだったのと、復讐の対象となった連続殺人犯がスーパーモデルから女優に転向したばかりの若いスウェーデン人女性で、一流女優への仲間入りを渇望されていた彼女に関してたびたびメディアで特集が組まれており知名度は十分であったことで、ストーリーに対する評価とは大きく異なって(物語は陳腐なほど単純なほうが万人に受けやすいという面もあるのだろう)、非情に人気を博したのだった。公開当時、高校生だったおれは、いかにもハリウッドといった作品の内容に深みを感じられず行列に並んでまで鑑賞しにいった同級生らを馬鹿にしていたのだが、公開期間の終わりが迫るにつれてどうしても観たくなってしまい、一人でこっそり夜二十時からの回を観にいったのだった。先に述べたとおり、やはりストーリーのほとんどは頭に残らず、派手なアクションばかりが目に付いたが、一つ印象的だったのは、本筋とはほとんど関係がないと思われる静かなシーンだった。その場面が偶然にも、今目の前のテレビから流れようとしている。おれは薄ぼんやりとした頭で画面に集中した。



 晴れた秋の空の下、主人公が紺色のブルゾンのポケットに手を突っ込み、横断歩道の前で信号待ちをしている。そばには、青ざめた顔をした老人がおり、彼の左手は震えていて、右手はしきりに腿をさすっている。主人公は「あんた、大丈夫か? 調子が悪そうだが」と声を掛けるが、老人は無言で頷き、手を振りながら大丈夫だというジェスチャーをした。しかし、どこかが悪いのは明白で、しばらく様子を見ていたものの体調は戻らず、肩で息をし出すのだった。
 たまらず、主人公はもう一度声を掛けた。「手を貸すぞ。どこまで行くんだ?」
 男は空を仰ぎ見たあと、「そうだな。少し助けてもらったほうがいいのかもしれない……。では、すまないがあの横断歩道を渡った先でタクシーを拾うから、そこまで手を貸してくれないだろうか」といった。主人公は彼の肩にそっと手をやり、支えた。二人がゆっくりと横断歩道を渡っていく姿が、引き気味の構図で画面に映し出される。落ち葉が舞う寒空とも相まって、そのシーンは何とも寂しそうな感じを醸し出すのだった。やがてふたたび二人の表情がクローズアップされる。老人の顔はいまだ苦しそうだったが、支えてくれる人が隣にいる安心感からか、先ほどよりは幾分増しになり、目に輝きが戻ってきたかのように見える。
 横断歩道を渡りきったところで、老人は主人公に丁寧に礼をいった。「ありがとう。おかげで助かった。少し楽になったよ」
「大したことはしていない。礼は無用だ。それよりも……差し出がましいかもしれないが、ここでタクシーを拾ったら、まっすぐ家に帰ったらどうだ。大事な用事があるんだろうが、そんなに調子が悪いのに無理して今すぐやることはないんじゃないか?」
 男の様子を慮ったうえでの進言だったが、老人はそのまま押し黙ってしまった。主人公が続けて声を掛ける。
「気分を悪くしてしまったのなら謝るよ。ただ、横断歩道で信号が変わるのを待っているときから見ていたんだが、あんたが今日何か行動できるようようなコンディションじゃないことは明らかだ……」
 老人は何もいわない。主人公は焦れったくなって次のように提案した。
「そんなに重要な用事なのか? よければ聞かせてくれないか。おれは昼過ぎに人と会う予定があるが、それまでだったら時間はある。乗りかかった船だ。できることがあれば手伝わせてもらうが」
 主人公にとってこれが破格の申し出だということは、ここまで復讐心に取り憑かれ、日ごろから狂気と暴力を撒き散らしている振る舞いを観てきた観客ならば誰でも理解できる。しかし、老人は力なく首を振った。
「有難い。本当に有難いよ……。あんたは優しい人だな。だが、こればっかりはどうにもならん。わし一人でやらなきゃいけないんだ。今すぐにな。決着を着けねばならん」
 急に強い決意を見せる老人の眼差しの前に、主人公は気圧されて何もいえない。さらに老人は続ける。「あんたにもあるだろう? あんたが、あんた一人でやらなきゃいけないことが」
 この問いかけが諦めるきっかけとなった。主人公はしばらく沈黙したあと、「そうだな、おれにもあったな。やらなきゃいけないことが」と呟く。「悪かった。じゃあ、あんたのこれからの幸運を祈っているよ」といって手を差し出す。老人はそれに応え、二人は握手をする。
 主人公は上着のポケットにふたたび手を突っ込んで背中を向けて歩き出すが、数歩進んで振り返ってみると、老人はタクシーに乗り込もうとしているところだった。



 このようなシーンであり、この老人の「決意」「やるべきこと」とはいったい何なのか、老人がこれからどうなるのかは、その後も描かれておらず、本作品をすべて観終えたあとで振り返ってみてもやはり全く蛇足な場面にしか思えないのだが、監督はなぜかこの部分を外さなかった。あまりにも抽象的な台詞が交わされ、示唆される教訓・伏線も明らかでないまま、唐突に場面は切り替わり、このあとは穏やかな態度が嘘だったかのように主人公がふたたび復讐の炎に身を滾らせながら、家族殺しの犯人およびその取り巻きを殺戮していくアクションシーンのオンパレードだ。犯人に扮したスウェーデン人女優と対峙するクライマックスでは、女の艶のあるブロンドの髪の毛を乱暴に引っ張る主人公の充血した眼と、血をあちこちに飛び散らせながらハンマーのように振るわれる拳、そして何度も殴打されて無残にも変形していく赤黒く染まった犯人の面貌が繰り返しアップで映され、「あまりにも残虐ではないか」と公開後に議論を巻き起こしたりもした。果たして主人公が作品を通じて「やるべきこと」と示されたのは、このように妻と子どもを殺した犯人に鉄槌を下す――美貌の女性を殺すまで殴り続けることだったのか、最終的におれにはよくわからなかった。ただ、暴力的な映像が次々に現れるこの作品において、突如挿入される先述した穏やかなシーンはおれの中に強い印象を残した。一つの見方として挙げられるのは、老人が見せる決意の眼差しと何気なく発した問いかけが、主人公を復讐行為に駆り立てる最後の一押しとなったのではないかということだ。主人公とは面識がなく、まったく関係ないといっていい第三者のひと言が、だ。すなわち、この作品の監督は、「時と場合によって、関わりのない第三者の行為が、背中を押すことがある」といいたかったのではないだろうか。強引な解釈かもしれないが、先のシーンに映し出された登場人物の挙動、その後語られるストーリーを考慮すると、おれの脳みその処理結果はそういう結論に陥る。
 以前このシーンを観たときと同じように、おれは自分が今、為すべきことを模索する。そして、それはすぐ見つかった。レイの声が頭の中に反響する。レイがおれの第三者となるのだ。
 以前このシーンを観たとき、おれは何をしたか。当時高校生だったおれが何をしたのか。仄かな思いを寄せていた女子に告白する勇気をこの映画からもらったおれは、その娘を学校の人気のない自転車置き場の隅に呼び出し、可愛らしく頬っぺたが膨らんだ綺麗な顔に唾を飛ばしながら、「愛す」ことについて独自の弁舌を繰り出し、危険を感じておれから距離をとろうと細い背中を反らして笑顔を引き攣せた彼女をさらに追い詰めるように、青少年特有の烏賊臭い体臭をより強く放ちながら彼女の後ろにある壁に両手をつきその娘が逃げられないよう取り囲んでみせ、あまりにも怯えた表情を見せる小動物のような彼女の反応にリビドーが臨界点に達し、思わず猿のように腰を振りながら抱きついたのだった。数秒前に予感していたはずの身の危険が予想どおり具現化され、彼女は出来損ないのおもちゃのごとき叫び声を出し、ちょうど、緑の蛍光ペンキで塗装された改造ママチャリに跨ろうとしていた当時高校三年生だったはずの柔道部主将を努めるニキビ面の先輩がその声に気付き、こちらに猛然と駆けて来て、猪のような突進にまったく気付かず彼女を抱きしめ腰を振ることに熱中し野性味溢れる吐息を吐き続けている哀れな後輩を、一本背負いで投げ飛ばしたのだった。哀れな後輩は地面に頭から激突し、次に目覚めたのは学校の保健室で半日ほど経ったあとだったが、経緯が経緯だけに誰も優しく対応してくれるはずもなく、それまでよく面倒を見てくれていた保健室のおばちゃん先生すら軽蔑の眼差しで彼の存在を無視するのだった。その哀れな後輩は、軽率な行動を犯した割にはすぐに聡明な判断力を発揮し、二日後には通っていた高校を辞めた。それから何年か経って耳にしたところによると、哀れな男が恋した栗鼠のような愛くるしい女の子は、ニキビ面で短足で、とても清潔感があるとはいえない容貌の柔道部主将と、自転車置き場の事件がきっかけで付き合い出し、今では人間と猪のハイブリッドたる存在の彼と結婚して三人の子どもを持っているそうだ。少し慰められるのは、噂話を聞いたときに、話していた男Aが「やっぱ三人も子ども産むと、体型も崩れるみたい。前みたいにめっちゃ可愛いくはねーな」といっていたことだった。しかし、そのすぐあとに男Bが「へぇ、そうなん? おれこの前たまたまジャスコで見かけたけど、やっぱすげー可愛かったぞ」と述べていたので、本当にちょっぴりの慰めにしか過ぎなかった。
 ちなみに、この回想シーンに登場した栗鼠のように愛くるしい女子というのが、かなり先のほうで述べた「髪を短く切った先輩」である。このとき、すでにショートカットにしていておれのほうは相当幻滅していたものの、そんな男でも激しく腰を振るってしまうのだから、末恐ろしい魅力の持ち主であったといえるだろう。いや、もしかしたらあれは髪を切る前だったのかもしれない。いずれにせよ、もし付き合ったりしていたのなら、おそらくそこまでの魅力を持つ彼女に対してその意思決定に逆らうことなど決してできなかっただろうから、破滅的な展開を迎えてむしろよかったのかもしれないと今では思う。
 ただし、サトエリに関してはそうは思わない。このときと違って、恋人として別れはしたものの「破滅的な展開」を未だ迎えていない関係であるのだから、逆にそれは、彼女に対して腰を振り続ける――つまりアプローチし続けるべきだともいえるのだ。行動すべきは今だ。さもないと、愛しの姫はまたニキビ面の柔道部主将に騙され、奪われてしまうかもしれないのだ。
 おれはサイドテーブルに置いてあったスマートフォンを手に取り、サトエリに電話を掛けた。……数コールしても出ない。当然かもしれない。このアプローチぐらいの強度では足りないのだ。思いを伝えるには、直接家に赴くしかないだろう。
 おれは服を脱ぎ、爽やかな香りのするローションを素肌に塗りつけたあと、クローゼットを開けて、薄手の水玉のシャツを着て、ブーツカットのジーンズを履く。付き合っていたときにサトエリに唯一褒められた組み合わせであり、今から行われる儀式にふさわしい装いだといえた。
 黒いラインの入ったスニーカーを履き、部屋のドアを開け、エレベーターホールまで急ぐ。

■九 愚行

 途中タクシーを拾い、サトエリのアパートに向かう。すでに二十三時を超えていた。急がなければならない。
 大通りを過ぎ、サトエリ家の前の路地へ曲がる直前で、一人の女の姿が眼に入る。そのラフな格好は数日前に確かに見たことがあった。間違いない、サトエリだ。おれは咄嗟にタクシーの運転手に声を駆け、停めてもらう。彼女まで家三つ分ほどの距離があり、気付かれてはいない。人通りは少なく、タクシーのドアを閉めるときは大きな音が響いたものの、だ。後ろから見ていると、全くこちらの存在を感知していないことがはっきりとわかる。それもそのはず、彼女は今、お喋りに夢中だからだ。誰とか? 彼女の隣にいる迷彩のジャケットを着た男だ。
 あれが最近出来た彼氏か。
 おれは計らずも自分の予感が的中してしまった事態に動揺を隠せない。そのまま後を付けるぐらいしかおれにできることはなかった。
 ここからサトエリ家まで百メートルもない。ぐずぐずしていると、彼女と男は家に入ってしまう。そうなると、さらにおれにできるのは、アパートの前の路地で不審者のごとく部屋内部の成り行きをカーテン越しに眺めることぐらいしかない。それがひどく虚しい結末を迎えるのに間違いないことは、今の時点でも明らかだった。だとすれば、そうなる前に行動を起こさなければならない。頭を振り絞れ。脳みそを捻り上げろ。
 数秒、ゆっくりと歩いて追いかけていると、この事態は昔体験したある状況に似ていることに気付く。このおれの立場は、昔の柔道部先輩と同じではないか? つまり、偶然現れた第三者として振舞えばいいのではないだろうか? あのとき、おれは思い切り第三者に投げ飛ばされた。だとすると、おれも今、数歩先を歩く迷彩ジャケットの彼を投げ飛ばしてもいいのではないだろうか?
 ただし、もちろんそれには、おれが彼を投げ飛ばしてもいい自然な理由が必要である。
 だから、おれは、ゆっくりとスマートフォンを取り出して、友人「Z」に対して電話を掛ける。数十メートル先から90年代を想起させるユーロビートの着メロが聞こえてくる。「Z」が出た。
「どうした? 今日も飲みの誘いか?」
 軽口で応じるZ。それに対し、おれはこう答えた。
「それもいいが、もっといいことがある。以前、お前はおれに『サトエリに未練はあるのか』と聞いたが、自分の気持ちがわかった。今ならはっきりといえる。未練は大ありだ」
 いつもなら鼻で笑うような反応が聞こえてくるはずだが、このときZは無言だった。電話の向こうで静寂が広がる。しばらくして、
「……もう、いい加減にしとけよ」
というため息混じりの応答がある。
 そこでおれはいってやる。
「いい加減にするのはおれのほうか? それともお前のほうか?」
「どういうことだ?」困惑しているのが伝わってくる。
 おれは彼に指示を出す。
「後ろを見ろ」
 前を歩いていた迷彩ジャケットがゆっくりと振り向く。それにつられて、隣の彼女もこちらに顔を向ける。
 暗闇を凝視していた二人は一瞬ののち、水玉シャツのおれの姿を眼に留め、驚愕した表情をする。それを合図として受け取ったおれは、かつて受けたような猪のような突進を繰り出そうと、アスファルトを蹴る。一歩、二歩、進むごとに、太腿の筋肉がぎゅっと縮み、かつてないほど脚力が発揮されていくのがわかる。眼を見開いたZの顔が目前に迫り、襟首を掴もうと手を伸ばす。襟に触れた瞬間、左側から矢のような左フックが飛んできて、おれの頬の下にクリーンヒットする。おれの膝はまたしてもがくんと折れ曲がる。全身の筋肉が唐突に弛緩する。勢いが付いていために、右斜め前方にすっ飛ぶような姿勢で地面に崩れ落ちる。完全に伸びきった身体は無残そのものだ。お気に入りだった水玉のシャツは、地面に倒れたときに擦りむいてしまったのか、胸の辺りが大きく破けている。片方のスニーカーは脱げ、白い靴下が覗いている。タクシーの車内には爽やかなローションの香りが漂っていたが、今はコンクリートの冷たい匂いしかしない。

 どうして。

 どうして。

 おれは、自分がやるべきことを為したかっただけなのに。

 意識が遠のくなか、頭上の男女が何事か呟き、相談しているようにも聞こえるが、何を喋っているかまではわからない。



(終)

恋慕

恋慕

別れた女性に未練がある青年。彼は右往左往しながら、その苦しみからの解放を待っている。日本のとある地方都市を舞台にした混乱気味幻想奇譚小説。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ■一 侵入
  2. ■二 交友
  3. ■三 早朝
  4. ■四 帰宅
  5. ■五 痛飲
  6. ■六 発散
  7. ■七 快走
  8. ■八 穴熊
  9. ■九 愚行