Selfish

(1)

 いつも通りの時間。いつも通りの朝。いつも通りのスーツに身を包む。職場のオフィスへと続くビルに入るまでは何もかもがいつも通りだ。しかしオフィスである4Fを押さず、そのまま屋上のRのボタンを押した瞬間、私の中のこれまでの通常がそうではなくなるのだなという強い実感となって心を波打った。
エレベーターの扉が開き、目の前に更に両開きの頑丈そうな扉が待ち構える。私はノブに手をかけ前へと押し出す。屈強な見た目とは違い、ドアはすんなりと私を迎え入れてくれた。
 空が開けた。
自由気ままに流れる雲。彼らが羨ましいなと思いながら歩を進める。簡易ベンチと手薄なフェンスで四方を囲まれたこの空間には結構お世話になっていた。入社したての頃から昼食の弁当を空を眺めながら食べたり、疲れた時のリフレッシュがてらに一息つくのにも幾度となく使わせてもらった。私と同じような理由でこの空間を使う人も少なくはない。同じ会社の人間はもちろん、他のフロアで働く別会社の人間も、皆ここがそれなりに好きなようだった。
 ごめんなさい。
 そう、言うべきなんだろうか。でも、そんな事に気をまわす心の余白は今の私にはない。
 もう疲れた。
 意味なんてあるの。
 きっとないよ。
 だからもう。
 終わりでいいや。

(2)

「あれ、工藤さん何やってんですか?」
 そんな思いがけない声が背後から聞こえたのはちょうどフェンスの柵に手をかけた時だった。
 どんな顔をすればいいんだろう。自分の中で答えが定まらないまま、でもそのままじっとしている訳にもいかないかと思い微妙な苦笑を浮かべたまま私は後ろを振り返った。
 紺色がかかったスーツとシャツはぱりっと引き締まっているのに、ぶっきらぼうにポケットに手を突っ込んだその様と、ガムでも噛んでいるのかくちゃくちゃと動く口元と一歩間違えれば寝癖ともとれる無造作ヘアーのせいで全体的にだらしない印象を与える。それに加えいつも以上に纏っている気怠さのおかげでそのだらしなさには拍車がかかっている。
「安藤君こそ。」
 今日ここに、この時間に誰かが来るなんて思っていなかった。ましてや同じ会社の人間ならなおさらである。今日は土曜日で世間は休日。私の会社もよっぽどの事がなければまず休日出勤などありえない所だ。調査の為に何度か休日のこの時間帯に屋上を確認に来た事はあるが、他に人がいた事なんてなかった。それなのに今日に限って。
「いやー、ちょっと。」
 安藤君はバツが悪い表情を浮かべながらぽりぽりと襟足のあたりを片手でかいた。何か自分にとってあまりよくない事がある時はいつもそうするのが彼の癖だった。
「で、工藤さんは?」
「え?」
「いや、工藤さんこそわざわざ休日出勤だなんて。そんなに仕事溜まってましたっけ?」
「う……ん。ちょっとやらないといけない事があって……。」
「ふーん。そうなんですね。」
 つかつかと安藤君はこちらに歩み寄ってくる。寝起きなのか、ふわあっと欠伸をもらしている。初対面の人間が見ればあまり良い印象を与えないように思われる男だが、私はこの安藤君に対してなかなかに好感を抱いている。それは決して好意ではないが、私のように彼の事を良く思っている人間は多い。というより皆彼の事がなんだかんだ好きと言っても過言ではない。
 安藤光則。歳は確か25歳。私より3つ年下だ。特別人より気が利くというわけでもないし、先輩に対してそれはと思うような言葉遣いであったり、普通の人だったらあまり良く思われないような事も彼という人間を通すとなぜかそこに愛らしさすら感じさせる不思議な魅力。簡単に言えば愛されキャラというやつだ。誰とでも何故か自然に上手く人間関係を築ける。彼を見ていると羨ましいなと感じるときも多い。若干周りからの親しみと言う名の猛烈ないじりを受けている姿を見ると大変だなと思う時もあるが。
 安藤君は私の隣まで来ると、つい先程私がしていたのと同じようにフェンスへと手を伸ばして街並みを見下ろしていた。
 「ここ、いいですよね。」
 暢気なセリフを吐く安藤君だが、私はどうするべきか分からなくなっていた。完全に予定が狂ってしまった。
どうする。
ここで安藤君を追い払ったとしても、もう今日は無理だろうか。ならば明日か。でも、明日になって私の決意は揺らがないだろうか。一瞬のうちに頭の中を様々な思考と感情が駆け回るが明確な答えには行き着かない。
 「すんません、多分俺、邪魔しちゃってますよね。」
 襟足を掻きながら安藤君は苦い表情で私の方を見た。
 いや、そうなのだが安藤君は何も悪くない。
大丈夫だよ。そう言おうとしたが、その言葉は安藤君の次の言葉で遮られた。
「工藤さん、今日死にに来たんでしょ。ここに。」

(3)

 ぴたっと時間が止まったように思えた。
 何故安藤君にそんな事が分かるのか。
 そうだ。私は今日死ぬ為にここに来た。
 理由はいろいろある。
 何となく続く今という現状に疲れた。明るい未来が想像出来なかった。
 いつも惰性で生きてきてなんとかなってきた。でも惰性にも限界がある。
 私は一度たりとも頑張ったと思える事がなかった。
 運動も、勉強も、なんとなく出来てしまった。
 本腰を入れて何かに取り組むという事が出来なかった。
今の仕事についてからもそうだ。最初は分からない事だらけでいろいろ戸惑った。でもだんだんとなんとなくやる事を覚えていって、時間が経つごとに深い知識を蓄積させる事もなく、ただただ目の前の雑務をこなす為だけの知識を蓄えていって、結果残ったものは誰とでも交換出来るレベルの人材という立ち位置だった。
恋愛だってそうだ。周りの女性がイケメンとくくられる男性陣にときめく中で自分の中にはそういった熱流は全くこみ上げなかった。告白されて付き合った男性は数人いるがどれも告白されたから付き合っただけで、付き合う前も後も申し訳ないが本気で好きになる事はなかった。そんなこんなで気付けばもう30歳手前。結婚していく級友達には置いていかれる形となった。
別に結婚を焦る気持ちはなかった。ただ、こんな薄い感情のまま生きてこの先何があるのだろうか。ふとそれを考えた時、驚くほどに何もなかった。何も見えてこなかった。途端にずんと体が重くなった。なんだ、じゃあ意味ないじゃない。疲れるだけじゃない。だったら。
私は死を強くイメージするようになった。いろんな死に方があるが一番自分の中でうまくイメージ出来たのが高い所から落下していく自分の姿だった。まるで空を飛んでいるかのような感覚。どうせなら気持ちよく死んでやろう。空を飛んで死んでやるんだ。地上の人達には迷惑千万な話だろうが、悪いがそれは知った事ではない。なんせその時にはもう私はそこにいないのだから。
そう思っていたのに。
「どうして、分かるの?」
 安藤君はそんな私の死に場所となる場面に遭遇し、しかも私が死ぬ事を見抜いてしまった。
「いやだって、わざわざやる事あるのになんで屋上なんて来てるんですか。それに工藤さん、会社の自分の席に何も置いてなかったし。」
 そうだ。私は会社に寄らず直接屋上に来てしまったのだ。
「ええ、そうよ。君が来なければ滞りなく飛べたのに。とんだお邪魔虫だよ。」
「それは、すんません。でも良かった。もし俺が来てなかったら先輩死んでたかもしれないですもんね。」
「良くないわよ、死にに来たんだから。っていうか……。」
っていうか、なんなんだ君は。なんなんだそのテンションは。
「なんでそんなに冷静なのよ君。」
 私は安藤君の態度がしっくり来ない。普通もっと慌てるものじゃないのだろうか。
「え?なんかもっと、バタバタした方がいいですか?早まるんじゃない!とか言って。」
「うんまあそのイメージで合ってるんだけど、全然驚いてもいないし。もし今まさに飛ぶ瞬間だったとしても君止めなさそうな感じすらするし。」
 そう言うと、あーと言いながらうんうんと首を小刻みに縦に動かす。その反応を見て私は少しぎょっとした。そして追い打ちのように、
「全力では止めないでしょうね。」
 なんて言ってのけてしまった。途端に安藤君という男に対して持っていたイメージが激しく音を立てて崩れていく。
「マジ……?」
「マジです。」
「それは、どういう感情からなの?」
「そうですね。あ、ってか工藤さんから見て俺ってどんな風に見えます?」
「はい?」
 質問してるのは私の方なのに安藤君からは返答の代わりに質問が覆いかぶさってきてしまった。全く分からない。
「どんなって、どんなよ。」
「だから、どう思うかって事ですよ。優しいとか怖いとか俺って工藤さんから見てどう映ってるかって事ですよ。」
 なんでそんな事を答えないといけないのだ。私は今日死ぬのだ。その期限が彼のせいでどんどん延びていく。それに比例するように私の決意も揺らいでいく。ただどうも口振り的にはもう死ぬからいいと一言断りを入れればどうぞと言ってくれる勢いはある。これが人生最後の会話かと思うと何とも言えない気分ではあるが、とりあえず彼の話に付き合う事に決めた。
「安藤君のイメージねえ。なんか器用でもない癖に人間関係上手って感じかな。誰とでも苦労なく仲良くなれちゃう感じは羨ましいかなって思うけど。愛されキャラってやつ?」
 私の言葉を安藤君は静かに聞いていたが言い終わるとはあっとため息をついた。
「何よ、その反応。ご不満?」
「いや、違いますよ。やっぱそうなんだなって思っただけですよ。」
「なんか嫌味な感じね。いい事じゃない。人の世に生きる上ですごい武器じゃない。」
「皆はなんで俺の事そんなに好きなんでしょうね。」
「自分でそれよく言えちゃうわね。まあ間違ってないと思うけど。」
「俺はそんな好きじゃないんですけどね。」
 不意に背中を刺されるような、ひやりとした雫が心臓に落ちた。
「俺ってね。」
 安藤君はフェンスを背中に預ける形に態勢を変えた。
「上手い事やってるとは思うんですよ、なんだかんだ。それは俺なりの秘訣というかルールがあってそれを見つけてからそれを実践してて、そしたらまあまあ上手くいくなっていう感じがあったから、ずっと今もそうやってるんですよ。」
 安藤君はつらつらと語り始めた。その様子はいつもの見知っている誰とでも仲良くしている朗らかな彼ではなく、疲れ果て、諦めに着地して身動きがとれなくなったまるで別人のそれだった。
「瀧と俺って友達に見えます?」
「瀧ちゃん?」
 瀧ちゃんとは安藤君の同期の女性社員だ。
どうだろう。私と安藤君と神城という私の同期の男社員と4人グループで定期的によく遊んだり、飲みに行ったりするのだがその時の様子を見ている限り、お互い良い同期の友達というふうに私には映っている。
「友達って言っていいと思うけど。仲良さそうじゃない。」
「そうですね、俺も友達って思ってますよ。でも多分あいつのそれと俺のそれは違うんですよ。」
「どういう意味?」
「あいつはきっと俺の事信用してますよ。良い奴でそれなりに面白くてって思ってくれてるから多分本人に聞いても即答してくれますよ。でも俺はそこまでじゃないんですよ。」
「信用してないの?」
「それ以前ですよ。どっちでもいいんです、そういうの。」
「大事な事じゃないの、それって。」
「俺からしたら、うまくやる分に必要な人間関係築くには重要事項じゃないです。俺あれなんですよ。根本人に興味ないんですよ。休日に何してるとか、どんな映画見てるとか、本読んでるとか何にはまってるとか。話してて面白いかどうか、会話の空気があうかどうかが一番重要なんです。その人の趣味とかそんなの会話の材料に過ぎなくてそいつ自身に別に興味があるからとかじゃないんですよね。」
 驚いた。本心ではそんな事を思っていたなんて彼は普段微塵も感じさせなかったからだ。
「一緒にいておもしろいかおもしろくないか、ただそれだけでとりあえずいいんじゃないかって。別にわざわざ深い関係性とか築くだけしんどいなって思って。だから広く浅く方針に切り替えたというか。その方がいろいろ気楽にやれるって分かって。」
「だからこそ、あんなにうまくやれてんだ。」
「そういう意味じゃ、俺工藤さんの事結構好きですよ。」
「え!?」
「あ、違いますよ。違いますよってのも失礼ですけど。この会社にいる人達の中ではかなり面白いなって実は思ってるんですよ。だから飲みに行ったりすんの楽しみにしてたり、実際行くとすげえ楽しいし。」
 なんだ。一瞬どきっとした自分が恥ずかしいが褒められてはいるので気分はそう悪くはならなかった。
「瀧とか神城さんだってそうなんですよ。一緒にいて面白いから。逆に言えば自分にとってそこまでの関係性でしかないんですけど。」
「まあ深入りするとしんどいってのは確かに分かるわ。そういうやり方もいいと思うよ。」
 悠長な会話に巻き込まれた中で、そういえば私は一体いつになったら死ねるのかとふと思い出した。多分まだかかるのだろう。それを察したのか、安藤君はあっと声をあげ
「俺だいぶ邪魔してますよね。そういえば。」
 と彼も私が死ぬ事への配慮を思い出した。
「こんな事になるなんて思ってなかったわ。で、結局君は私が死ぬの止めるの、止めないの?」
「そうだ、その話をしてたんだ。」
 また襟足を掻く。何か都合が良くないのだろうか。
「結局、工藤さんとの関係もそうなんですよね。だから工藤さんの為に死ぬって事に対してどうこう言える程のもんがないんだなってのと、工藤さんにもいろいろ事情があってそうしないといけなくなったんだろうなって思うと、あんま強く言えないですよね。」
「深い付き合いだったらまず出てくる言葉じゃないわね。」
「そうでしょ。だから工藤さんの為には全力では止めないなって思って。」
 あまりに正直な意見に私は思わず笑ってしまった。
「やっぱりそういうとこね。気兼ねしない距離にいるから変に取り入る事もないしそうやって自然にいれるのよ。そういう人って案外いないもんよ。だから重宝されるんじゃない。安藤君みたいな人。」
 そうなんですかね、と安藤君は空を眺めてふうっと息を吐いた。そして改まった顔をして私の方に顔を向けた。
「じゃあ、そんな俺から一言。あ、決してこれは工藤さんの為に言うわけじゃないですよ。これはあくまで俺自身の為に言うだけですから。」
「何よ。」
「死なないで下さいよ。」

(4)

 不意をつかれたというか、流れ的にもう絶対彼の口から聞く事は出来ないと思ったセリフは、いとも簡単に安藤君から解き放たれた。
「……ちょっと待ってよ。君の話を聞いてきた限り別に私が死んだって構わないんじゃなかったの。私が死ぬ事を止めないって安藤君言ったじゃない。」
「言いましたよ。でも死んだって構わないなんて俺は思ってないです。少なくとも工藤さんに対しては。」
「……え。」
「さっきも言いましたけど、俺は工藤さんの事情を知りません。というより興味ないですよ。何で今日ここで死のうと思ったかなんて聞きたくもないです。話したいなら別ですけど。」
「……。」
「でも工藤さんはそんな話俺にしないですよ。そんな話しても面白くもなんともないって工藤さんも分かってるでしょ?」
 ことごとく私の気持ちを安藤君は言い当てていく。簡単に心の中に土足で踏み入られているのにそれがここでのマナーだからと言わんばかりの堂々としたものに私はどこか清々しさと心地よさすら感じていた。やっぱりこいつ、ずるいな。でも私の気分が悪くならないのはきっとまた別の理由だ。
「だから俺、工藤さんの事好きなんですよね。よく分かってるんですよそこらへん。だからここにいるのが工藤さんじゃなかったら、こんな事言ってないですよ。」
「私だったから……。」
「工藤さんと俺って似てるんですよ、なんか。」
 それだ。そうなんだ。こうやって今日の彼の本心を聞いて分かった。人に対しての考え方がどこか似ているのだ。
「だから屋上の扉を開いて先輩の姿見た時、この人死ぬんだなって分かって。それが自分にとってどうかって考えた時単純に思ったんですよね。それは嫌だなって。なんだか仲間が消えちゃうような感じがして。」
 その瞬間少しだけ。ほんの少しだけ視界が揺らいだような気がした。気がしただけだと思った。
「だから、死なないで下さいよ。」
 もう駄目だった。一瞬で世界が水没した。
 どうしてなんだろう。
 嬉しかったのだろうか。
 分からないけど、自信は持てないけど、そうなんだろう。
「これはあくまで、俺のわがままです。それでも死ぬっていうなら俺は今すぐここを離れます。」
 にしたって、こいつは本当にどこまで正直に喋るんだ。
「安藤君。」
「はい。」
「わがまますぎ。」 
「知ってます。そういう生き方でいいって思ってますから。」
「そっか。」
 私はフェンスから遠ざかった。
安藤君の為なんかじゃない。
 私自身の為に。
 私が死ねば、このひねくれた正直者と話す事も出来なくなる。
 それは、なんか嫌だな。そう思った。
 空なんか別に飛べなくたっていいじゃないか。
「ところで安藤君こそ何しに来たのよ。仕事ってわけじゃないでしょ。」
「ああ、まあそれは似た者同士って事ですよ。」
「え?」
「でも、今日来てよかった。ここに工藤さんがいてくれて良かった。」
「安藤君……。」
 彼にだって、私の知らない事情がたくさんあるんだ。でもそんな事、私には興味がない。それでいいんだ。
「じゃあまあとりあえず、帰りましょうか。」
「そうね。それじゃあ。」
「はい、じゃあまた。」
 じゃあまたと言える存在がいる。言ってくれる存在がいる。
 わがままも言ってみるものだな。

Selfish

Selfish

いつもの朝、いつもの景色。全てがいつも通り。 今日私が死ぬことを除けば。 死を決意した私が屋上から飛び降りようと思ったその時現れたのは、誰からも慕われる後輩の安藤君だった。 「工藤さん、死にに来たんでしょ、ここに。」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-01

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