ペンと教科書と時計の話

ペンと教科書と時計の話


いつもより随分動きが遅いように見える秒針を睨みつけながら、俺は何度目かのペン回しを成功させた。歴史の授業は考える事が無く、ただ覚えるだけの時間であるため、俺の集中力は発揮されない。歴史も数式で解ければいいのに。
俺の後ろの席からは、控え目な舌打ちと呪詛とも取れる声が聞えて来る。光も歴史は嫌いだったか。いや、この男は数学以外の教科全てが嫌いだったな。
廊下側の席に視線を移すと、目立つ金色の髪が視界に入った。珍しくシャーペンを右手に持ち、教科書やノートと真剣に見つめ合っている。そういえば、精神年齢は低くても勉強熱心な男だったような気がする。そう思い、少し関心して彼を見ていると、しばらくして京助は体を起こし、教科書の端を指でつまみ、勢いよく一ページずつ落とし始めた。感心して損をした。あの男は、パラパラ漫画を書いていただけだ。
溜め息をついて窓際後ろから二番目の席に目をやる。そこでは少し茶色っぽい天然パーマが、窓から入る風に揺れていた。相変わらず晴香は夢の中である。その机の上にある英語の教科書は、いったい何のカモフラージュなんだろうか。
他にもぼんやりと窓の外を見つめる者や、教科書を逆さまに持ったまま船をこぎ出す者、挙句の果てには教科書とノートを閉じる者まで現れ、教師は重い溜め息をついた。大変だ、幸せが逃げてしまう。
教師が右手に持った教科書を閉じる音で、教室の空気が一気に動く。それを見て、先生は苦笑いを浮かべた。時計を見上げると、授業終了までには五分ほど余裕がある。

「今日はここまで」

「起立! 礼! 着席解散!」

 日直本人しか付いて来られないような早口の号令を終え、生徒たちは帰宅準備をする。隣の教室はまだ授業中だろうが、そんな事を気にしていられる余裕はない。学生たちは今、授業からの解放感でいっぱいだ。
 俺は教科書とノートを机の中に戻し、マフラーを首に巻いた。後ろの席で、派手に椅子が転ぶ音がした。振り返らず、カバンに筆箱を入れる。

「雄一!」

 京助が俺の名を呼んだ。顔を上げると、歴史の教科書を自慢げに突きつけてきた。例の、京助がにらめっこしていた教科書だ。端には、お世辞にもうまいとは言えないような絵で、ある人物が描かれていた。人物であるかどうかも、怪しい。

「超大作!」

「お前、今日ずっとこれしてたの?」

 百ページ以上にわたるパラパラ漫画に、呆れを通り越して感心する。ものすごくくだらない内容で、思わず笑いが漏れた。
 カバンを肩に担いで、窓際の席をみる。やはりそこでは、光が仁王立ちをして拳を振り上げていた。それは勢いよく振り下ろされ、俺と京助は思わず目を瞑った。
 寝起きの悪い晴香を、ああして乱暴に起こすことができるのは光だけだろうな。遠い目をして、京助が言った。

「帰るぞ!」

 未だ寝ぼけ眼の晴香を引きずって、光が教室から出た。俺たちもそれに続く。首根っこを掴まれた晴香は、苦しそうに床を蹴っていた。ギブギブ、という彼のカバンから、ひらりと一枚の紙切れが落ちた。先日行われた学期末試験の解答用紙だ。満点、とまではいかないものの、見せても恥ずかしくない点数ではある。光は晴香を落とし、テスト用紙を拾い上げた。

「なんでこいつは四六時中寝てるくせに成績は良いんだ! おかしい!」

「逆に光は、意外と真面目に勉強してるのになんで馬鹿なの?」

「殺すぞ!」

 若干涙目の光を見て、少々心配になる。進級は大丈夫なんだろうな、と聞くと、曖昧な返事が返ってきて冷や汗が流れた。
なんでできないのかわからない、と、晴香も京助も、光の勉強を見ている時に首を振っていた。これは、この二人にとっては簡単すぎることが、光にできない訳ではない。光の努力に見合った成果が得られない事実に、二人は言ったのだ。
 昇降口から外に出ると、冷たい風が吹き付けた。光が悲鳴を上げ、罵声を浴びせる。何に? 風に。
 夕方の空は、一日の疲れを含んだような重さで世界を覆っている。さっさと帰ろう。俺たちは足を進めようとした。が、先頭に立つ光が立ち止ったことにより、遮られた。

「どうしたんだよ、光」

 そう聞くと光はその場にしゃがみ込んだ。上から覗き込むと、光は手に何か紐状の物を持っていた。それは、ピンク色のベルトの、かわいらしい腕時計だった。

「落し物か?」

 そういって光は、それを持って立ち上がった。光の手の中を覗き込んだ京助が、かわいい、と感想を告げる。

「こんなの、男子校の生徒が持つ物じゃねえな」

 晴香がキョロキョロと周囲を見渡す。落とし主らしき人物を探しているようだ。俺も周りを見るが、それらしき人物は見当たらない。
 この学校の生徒が落とし主である可能性は低い。男子校の生徒が、このような可愛らしい時計を身に着ける事は無いだろう。もしかしたらあるかもしれないが、その可能性は、最終手段だ。
 隣の中学校の生徒か、はたまた観光客の落とし物か。

「こういうのって、交番だよな」

「だな。雄一、交番ってどこにあったっけ?」

「駅の近くにあるよ。通り道だし、届けに行こうか」

 とりあえず俺たちはその時計を持って交番へ向かった。駅までの道のりは徒歩十分ほどだ。地下道を使えば五分ほどだが、道中で落とし主を見つけられるかもしれないと、あえて遠回りをすることにした。
 先頭に立つ光が、手から時計をぶら下げて歩く。横断歩道に差し掛かり、赤信号で立ち止った時だ。左方向から、ああ、とかわいらしい声が聞こえた。俺たちは、四人そろってそちらを見る。
 立っていたのはセーラー服に身を包んだ中学生位の女の子だった。長い黒髪を背中に流している。彼女は光を指さし、それ、と声を上げた。

「その時計、私のです! 拾ってくれたんですか!」

 少女は大股で光に近づき、光の手を握った。身長差がほとんど無い。京助が吹き出した。
 突然手を握られた光は、言葉が出ない様子で一歩後ずさった。少女は時計を受け取ってからも、光の手を両手で包み込んんだままだ。
 光はうろたえた様子でうろうろと視線を泳がせているようだ。頭が不自然に左右に振られる。何も言えずにいる光を、少女は上目づかいで見つめた。

「本当にありがとうございます! 良かった、困ってたんです。あの、お名前は……」

「な、名乗るほどの者じゃ無いんで」

 やっと光が一言喋ったかと思えば、用意されていたような台詞だった。一度言ってみたい台詞ランキング常に上位にランクインしているその言葉を聞いた少女は、大きな目をキラキラと光らせた。まさか。俺は眉をひそめた。

「かっこいい……あの、彼女とかいますか!」

「へ? あ、いや、その」

 どうやら女性慣れしていないらしい光は、ただどもることしかできない。助けてやりたいが、きっと光よりも俺のほうが女性には慣れていない。オールシーズン、京助と馬鹿みたいに笑いながら過ごしていたことを、少し後悔する。

「ごめんね、お嬢さん。こいつ困ってるから」

 京助が困り果てている光を押しのけ、少女の前に立った。俺とちがい、京助はモテる。この四人の中で一番女性慣れしているのは、間違いなく京助だ。無駄に整った顔と、どこかのホストのような振る舞い、モテないはずが、無い。この男の隅から隅までを知り尽くした俺としては、京助に惹かれる女性すべてに、考え直せと言いたくなるが。
 少女は、突然出てきたイケメンに一瞬見惚れるも、すぐに我に返って名前だけでも、と追いすがる。

「雄一、信号青だけど」

 今まで我関せずといった様子だった晴香が、俺の腕を引いた。前を見ると、既に信号が点滅し始めていた。俺は晴香に引かれる勢いのまま足を踏み出し、反対側の手で光の手首を引っ張った。油断していた光は足をもつれさせたが、何とか立て直して駆け出した。少女の非難するような声と、京助の謝罪しているような声が聞こえる。
 足の速い光は、すぐに俺を追い抜いてしまった。晴香も俺を置いて走る。後から来た京助が、笑いながら背中を押してきた。押されるままに足を動かして、小さな女子中学生から逃げる。ああ、滑稽だ。
 駅に着くと、光が崩れ落ちた。両膝を地面について、苦しそうに息をしている。俺も流石に息を乱した。

「なかなか積極的な子だったね」

 息ひとつ乱していない京助が、苦笑いしながら言った。

「最近の女子中学生はませてるなー」

「無条件に年上をかっこいいと思っちゃう年頃だろーね。同年代はガキ、みたいな。光も身長にさえ目を瞑れば優良物件だからな」

 からかうように笑う京助の顔面に、光の精一杯の拳が飛ぶ。身長の話はやめておけと、何度言っても聞かない奴だ。笑いながら光の拳を受け止める京助を見ると、どうやら改めるつもりは無いらしい。
 すっかり疲弊した様子の光は、小さな体をさらに小さくしながら、とぼとぼと家へ帰って行った。その背中を見送り、俺たちはホームへ向かった。

「光、大丈夫かな」

「さーな。女慣れしてないから、驚いたんだろうな」

「あんなん来たら驚くって。女ってあんなぐいぐい来る?」

 正直、女性は受け身なイメージがある分、あのような積極的な様子に驚いた。なんだか俺まで疲れたような気がする。京助を見てみると、ニヤニヤと気味の悪い顔をしていた。

「雄一、お前だって他人事じゃないぞー。お前が思ってるより、お前はモテてたからな」

「冗談」

 肩をすくめて見せる。

「本当だって。晴香も……晴香、は、関係ないな」

「うるせえ」

 晴香の不満気な顔に、思わず笑ってしまう。京助によると、晴香は本当に、救いようの無いほどモテないらしい。その話はまた今度にしよう。
 走りこんできた電車に乗り込む。電車内は空いていた。俺たちはドア付近に向かい合って立った。
 他愛のない話をする。今日の授業の事や、明日の予定。最近発売したゲームの話や、もちろん、先ほどの出来事の話も。俺たちにとっては、既に笑い話だった。
 電車に乗り込んだ駅から二つ目の駅で、晴香は降りた。俺たちの挨拶に片手を上げるだけの彼は、一日中寝ていたにも関わらず欠伸をしていた。
 俺たちはその二つ後の駅で降りた。京助と俺の家は徒歩五分ほどしか離れていないため、住宅街を京助と一緒に歩く。夕暮れの京助は、いつもより大人しい。

「光にも春が来たかなー」

 空を仰ぎながら、京助が言った。どうだろうな、と俺は返す。あの様子を見ていると、どうやら春には程遠い。

「あいつ女慣れしてなさすぎだろ!」

「意外だよな」

「人見知りなとこあるし、その延長なのかなー。中学時代を見てみたいよ」

 光と俺たちは高校の入学式で出会ったのだ。出会いは何もドラマティックな物じゃない。体育の授業で二人組を作る際、京助が引っ張ってきたのだ。ただそれだけである。最初は口数が少なく、大人しい人間なのかと思っていたが、慣れるとまったくそんなことは無かった。ひどい詐欺だ。
 ちなみに晴香とは中学で出会った。この話も、また今度にしよう。

「それより、見たか?」

 にやりと、悪い顔をして、京助が俺の顔を覗き込んできた。何が、と聞くと姿勢を正して、堪えきれていないような笑いを零した。

「あの子と光! 身長差まったくねえの!」

「あいつ何センチだっけ」

「一五五! あー、男として苦労しそうだな、あいつは!」

 結局家に帰るまで、京助はそのことで笑っていた。自分がでかいからって、ひどい奴だ。光に言うなよ、と忠告してやったが、聞いていないだろう。


☆☆


 翌日、校門から出ようとした俺たちは愕然とした。出てすぐのところに、昨日の少女が立っていたのだ。男子校の前に女子中学生がいる。それはもう、目立つ。まさにオオカミの群れに迷い込んだ一匹の子兎だ。生徒たちの好奇の視線を浴びながらも、彼女は背筋をピンと伸ばして立っていた。その心意気は称賛に値する。
 俺たちが立ち止り、どうすべきか考えあぐねている間に、彼女はこちらに気づいたようだ。パッと顔をほころばせ、片手を大きく振った。
 光の様子を見てみると、少し顔を青ざめさせている。

「もう、昨日急に帰っちゃって……学校終わってからずっと待ってたんですよ!」

 彼女は軽い足取りで光へ駆け寄った。光はまるで磁石のように彼女から離れようとする。
 俺たちの間では既に過去の物となっていた彼女だが、彼女のほうはまったくそんなつもりは無いらしい。ガンガン光を手に入れる気だ。

「私、遠山陽子って言います! お名前教えてください!」

 そう言って彼女は光の両手を握った。その様子を見てか、周りの生徒がざわつき始める。相沢の彼女か、まさか、チビなのに、など、好き勝手言い放題だ。
 その中の言葉を目ざとく聞きとめたのか、少女、遠山さんが顔を綻ばせる。

「相沢さんって言うんですね! あの、名前は」

「あのー、お嬢さん。こいつ困ってるから」

 見かねた京助が、二人の間に割って入った。遠山さんは、今、俺たちの存在に気が付いたといったように目を丸くした。
 京助はやんわりと遠山さんの手を光から離し、遠山さんの前に立った。

「何よ、あなたには関係ないじゃない!」

 先ほどまでの丁寧な態度から一転、挑戦的な目線に、京助の頬が引きつった。礼儀には厳しい京助、通称「オカンモード」が発動するか。俺はハラハラしながら成り行きを見守る。俺の心配なんてつゆ知らず、遠山さんは光に話しかけようとしている。京助は自分を落ち着かせるように深く息を吐き、彼女の両肩を掴んだ。

「あのね! こいつ困ってるから! 迷惑なの、わかる?」

「そんなこと無い! あんたに関係ないでしょ! 相沢さん! 相沢さん、連絡先教えてください!」

 あきらめの悪い遠山さんは、ポケットから携帯を取り出し、光に向かって振る。光は少し引きつった悲鳴を上げ、俺の後ろへ隠れた。

「け、携帯持ってないんで!」

 苦しすぎる嘘だ。当然、そんなことで彼女を騙せるはずがない。光と遠山さんの間に俺と京助をはさみ、甲高い声を上げる遠山さんを京助が抑え、逃げ出したそうな光を俺が隠す。なんだ、この状況は。隣の晴香をみると、顔半分をマフラーで隠しながらも、機嫌の悪そうな顔をしていた。もう一度言いたい。なんだ、この状況は。
 男子校の前で、女子中学生を相手に男三人。通報されたりしないだろうな、と周りを見渡してみる。注目の的になっていることだけわかった。

「おい、お前も迷惑なら迷惑だとはっきり……ってあれ!?」

 イライラしたような表情の京助が振り返り、驚きの声を上げた。つられて俺も彼の視線を追って後ろを振り返ると、先ほどまでそこにいた光の姿が無い。

「あ、相沢さん!」

 遠山さんの声で前を向き直すと、素早く坂を駆け下りていく光の背中が見えた。いつのまに、と俺が呟く前に、遠山さんも走り出す。すぐに後ろを追っていく影が一つ。そういえば、俺の隣に立っていた晴香が、いつのまにか少しずつ移動していたような気がする。
 そういうことか、と理解すると同時に、俺は地面を蹴った。京助もすぐに駆け出し、俺を追い抜かしていく。光はともかく、遠山さんも随分足が速い。俺が坂を降り切ったころには、姿が見えなくなっていた。俺は左右に伸びる道の真ん中でしばらく迷った挙句、駅へと続く道を選んで走った。俺の鈍足じゃ、どうやったって追いつけないだろうけど。
 マフラーは早々に外してカバンの中へ突っ込んだ。運動によって火照った体を、冷たい風が冷やしていく。駅前にたどり着いた俺は、ひやりとした空気に身震いをした。結局、光は見つけられなかった。
 俺がしばらくそこで息を整えていると、不機嫌そうな晴香と京助が歩いて来るのが見えた。何か言い争っているようだ。

「京助、なんであの女止めてなかったんだよ!」

「無茶言うな! 光が瞬間移動してポカンだよこっちは!」

「何のための化け物反射神経だよ!」

「少なくともお前の突飛な行動のためじゃねえ!」

「はいはい、喧嘩やめー」

 京助がこうなってしまっては、止める人間は俺しかいない。俺は至近距離で睨み合っている二人の間に無理やり割って入った。京助の顔を見ると、自分の行動に気づいたのか、バツが悪そうな顔をしていた。

「光はどうだった?」

 聞くと、二人は苦虫を噛んだような顔で首を振った。

「光のことだから、大丈夫だとは思うけど……」

「光の家は?」

「行って、もしあの女に見つかったら厄介だろ」

 晴香の言葉に、それもそうだとうなずく。ストーカー気質のありそうな子だったし、家を知られて付きまとわれでもしたら心配だ。
 放って帰るわけにもいかないし、どうしようかと三人で唸り始めたとき、近くの茂みがガサリと動いた。京助が肩をはねさせ、俺の後ろへ回る。

「怪奇現象!」

 そういえば、この男は幽霊だとか悪霊だとか、ホラーがとことん苦手な奴だった。そんなわけないだろ、と言いながら茂みを覗き込む。ガサガサと擦れ合う草木の間に、黒いふわふわが見える。

「……光?」

「わああ!」

 まさかと思って声をかけてみると、そのふわふわは勢いよく飛び上がった。それは俺の頭に突っ込んできて、避けることは叶わない。ごっ、と鈍い音がして、俺の顔面に激痛が走る。思わずうめき声をあげ、その場に蹲った。

「雄一……大丈夫か」

 京助が心底哀れそうな声色で声をかけてくれた。俺はそれに返す余裕もなく、ただただ自分の顔を抑えていた。幸い眼鏡は無事のようだ。これで眼鏡に傷でも入ろう物なら、俺は後一か月は光を許さないだろう。

「な、なんだ雄一か……驚かせやがって」

 その光は、なんと信じられないことに無傷である。この石頭チビめ、そんな頭だから身長が伸びないんだ、と、言ったら殺されそうな事を考える。

「光、あの女は?」

 何とか痛みが治まって、顔を上げた。光が肩を落としているのが見える。

「何とか撒いた……超怖い……」

 光が疲れ切っているのは、その表情を見てもわかる。マフラーも上着も脱いで、ネクタイすらも緩んでいる。いつもきっちりと入れ込んでいるシャツも出ているし、頭には葉っぱが乗っていた。京助が呆れたようにため息をついて、頭の葉を取ってやる。

「とりあえず、光はもう帰りな。見つからないように、素早く。一人で大丈夫か?」

「大丈夫……じゃあな、お前ら」

 そういって光は、先日よりも体を小さくさせて帰って行った。災難だな。俺のつぶやきに、晴香と京助は曖昧に頷いた。
 それから、日に日に光は弱って行った。ある日は家から出たら鉢合わせた、と涙目になって言ってきた。またある日は、一緒に本屋に行くと目の前に彼女が現れた。そしてある日は、光の家の前でしゃがみ込んでいる彼女に出会った。なんなんだよ、あの子。俺たちは揃いも揃って、ただの中学生女子に怯えていた。純粋に光を想う、あの真っ直ぐな瞳が恐ろしいと思った。
 警察にも相談したが、実害が無いうちは動けないらしい。それもそうだ、と、光は諦めたように言った。
 俺たちはなるべく光を家まで送り届けていた。彼女も、俺たちが光の周りにいる間はあまり姿を現さなかった。光の家族は、いつも心配そうに光を迎えていた。
 そして、彼女が光の前に現れてから、一週間ほど経った日のことだ。光の大きな目の下にはくっきりと隈が出来ており、しきりに自分の背後を気にするようになっていた。そんな光の専らのストレス発散は、彼の趣味でもある料理だった。最近は家に帰ればお菓子作りに励んでいるらしく、晴香は毎日のように光の家へお零れをもらいに行っていた。そしてこの日も、晴香は光のお菓子を貰いに行くらしく、駅前で俺たちへ手を振った。晴香がいれば大丈夫だろう、と、俺たちはいつもの電車へ乗り込んだ。
 俺は十歳になる弟が家に一人にならないように、京助は突然親戚一同が勢ぞろいするらしく、両親に強く呼びつけられため、家に早く帰る必要があったのだ。
 二つほど駅を過ぎたところで、俺の携帯が震えた。見れば晴香からの電話だった。マナー違反だとは重々承知だが、緊急事態かもしれない。俺は京助に目くばせし、声を抑えながら電話に出た。珍しく焦った様子の、晴香の声がした。

『雄一! 京助もいるか!』

「晴香、どうしたんだよ。光に何か……」

『あの女がいたんだ! ああ、もう、とにかく直ぐに来てくれ!』

「わ、わかった!」

 京助が、目でどうした、と聞いてくる。俺は電話を切り、降りるぞ、と言った。丁度電車がホームに滑り込み、俺たちは電車を降りる。すぐに反対側のホームへ回り、電車を待った。十分やそこらが、やけに長く感じた。
 家に一人になる弟が気にかかるが、年齢の割にしっかりした男だから、きっと大丈夫だろう。と、年端もいかない弟に過度な期待をする。


☆☆


 元々女性には苦手意識があった。低い背丈の事で、散々からかわれた経験もある。名前も知らない女子生徒達から、顔を見てきゃあきゃあと騒ぎ立てられたこともあった。あまり、女性に関していい思い出は無い。それにしても、どうして俺がこんな目に合わなきゃならないのか、皆目見当もつかない。ただ落ちていた時計を拾っただけじゃないか。
 どこにいても、彼女がいた。常に見られているような気がして、気分が悪かった。ある日は、家を出たところで鉢合わせた。慌ててドアを閉めようとしたら、彼女は恐ろしいほど素早く、玄関のドアに足を挟み込んだ。熟練のセールスマンでも、こうはいかない。相沢という表札を見て、ここじゃないかと思った。そう彼女は言った。その勘の鋭さにも、表札で家を突き止めようとする執着心にも驚いた。恋する乙女はなんとやら、というが、俺にはこのとき、恋する乙女が恐ろしくて仕方なかった。
 ある日は、雄一と二人で本屋に行くと、まるで待ち構えていたかのような形で彼女と出くわした。実際彼女は、待ってましたと言った。その時俺は、雄一を置いて逃げ帰った。
 ある日は、家の前にしゃがみ込んでいるのに出会った。俺はみっともなく悲鳴を上げてしまった。隣の店にいた父親に助けを求めた。交番の警察を呼んで、彼女を家に帰してもらった。俺はもう、遠山陽子という人間が怖くて仕方なかった。
 背後が常に気になるようになった。セーラー服や長い黒髪が怖くなった。夜中に、少しの物音で飛び起きるようになった。毎日のように、起きれば家中の電気をつけて走り回り、家族を叩き起こした。後で思い返すと、情けない事この上無い状況だった。
 溜まりまくっていたストレスは、料理で発散した。キッチンにはいくつものボウルが積み上がり、家族では食べきれないほどの甘味が出来上がった。
 あの女が俺の前に現れてから一週間程経った今日、俺は晴香と共に帰路についていた。山のように積みあがった甘味を分けるためだ。

「見繕って取ってくるわ。店で待ってて」

「おう」

 晴香を店の中で待たせ、玄関を開けた。父が晴香の名を呼び、歓迎する声が外まで聞こえてきていた。苦笑いしながらも、俺は靴を脱ごうと靴紐に手をかける。そこで、知らない靴があることに気づいた。きれいなローファーだ。サイズは小さい。そっと耳を澄ませてみると、キッチンから物音が聞こえた。ドッと鼓動が早まり、冷や汗が流れた。

「あ、おかえりなさい!」

 高い声が聞こえ、前を向くと、あの女が、あの、恐ろしい女が、立っていた。来客用のスリッパをはいて、家の中に。熱を孕んだ視線が俺を見つめていた。俺は考えるよりも先に行動した。くるりと踵を返し、玄関のドアに手をかける。外に飛び出そうとしたところで、長いマフラーが引っ張られた。思いのほかその力は強く、俺は首が絞めつけられるののを感じた。咄嗟に喉に巻き付くマフラーを強く引き、隙間を作る。

「なんで逃げるんですか! 逃げないでください!」

 倒れこむのを何とか耐え、マフラーを解いた。半開きのドアに半分体当たりするような形で外へ転がりだす。勢いをつけすぎて、地面に倒れこんだ。女の声が背後から聞こえ、俺は痛む体に鞭打って起き上がった。

「逃げないで! 相沢さん、私、あなたが!」

 ねっとりとした視線と声が背中に纏わりつく。ガラスの扉をぶち破るように開け、喫茶店の中へ入った。カウンター席で、晴香が目を大きく見開いていた。

「助けて!」

 客が騒めくのも気にせず、俺はそう叫んだ。同時に、強く左手を引かれた。引きつった悲鳴を上げた。
 晴香が持っていたカップを放り出し、俺に手を伸ばした。俺も、右手を晴香に伸ばす。晴香の手が俺の手首をつかみ、思いっきり引っ張った。俺が晴香の方へ倒れこむとき、勢いよく前に突き出された、晴香の足が見えた。すべて、スローモーションのように。
 俺は良く磨かれた床に身を投げ出した。ってえ、と、文句をつけながら起き上がり、店の外を見ると、あの女も同じように地面に倒れこんでいた。腹を抱えるように、丸くなっている。晴香をみると、ゾッとするような視線を彼女へ向けていた。

「光! 大丈夫か!」

 父さんが、カウンターの中から出て、俺の背を支えてくれた。俺は目頭が熱くなるのを感じた。何かを言う前に、両目から涙が零れ、声は言葉にならず、嗚咽となって外へ出た。晴香が、携帯を耳に当ててどこかへ電話をかけているのが見えたが、それを気にする余裕もなく、俺は、目の前のエプロンにしがみ付いた。
 寒さのためか、それとも、それ以外の理由か。俺の体は、がたがたと震えていた。


☆☆


 俺と京助が光の家に着いた時、光の家族が営む喫茶店の前には、十人ほどの野次馬と、数人の警察官がいた。中心には遠山さんがいて、何か言い争っているようだ。人をかき分け、店内を覗き込むと、椅子がいくつか倒れ、床にカップが転がっていた。ココアと思わしき液体が広がっている。光の姿を探すように見渡すと、奥の席で膝に顔をうずめている癖毛が見えた。隣には、相変わらず無表情の晴香がいる。
 光のお父さんに軽く挨拶をして、奥へ向かう。

「光、晴香」

 京助が呼びかけると、光はゆっくりと顔を上げた。目が赤い。テーブルの上の眼鏡に手を伸ばし、顔にかけると、ああ、と声を上げた。少々掠れているようだ。
 何があった、と聞けば、晴香は簡単に話してくれた。聞いているだけでも、ゾッとするような出来事だった。晴香が女の子を蹴り飛ばした、という点にも驚いたが。
 光は、いつもの強気な姿勢は影を潜めてしまっているようで、先ほどから何も言わず、鼻を啜っている。なんと声をかけていいかわからず、京助に目をやる。すると京助は、カバンの中から一冊の教科書を取り出した。歴史の教科書だ。
 その行動に俺と晴香が首をかしげていると、京助はそれを光に突きつけた。よく見てろ、と、教科書の端をつまみ、一枚一枚勢いよく落としていく。あの、俺があまりの下らなさに笑ってしまったパラパラ漫画だった。

「……ふっ、なんだよそれ。下らねえ」

 光も、そのパラパラ漫画の下らなさに、思わず顔を綻ばせた。その顔を見た京助は、満足そうに笑って言った。

「まだまだ、笑える。大丈夫だ、もう」

 なんだそれ、と、光はさらに笑った。そんな二人の姿に、俺は安堵のため息を吐いた。
 この事件の顛末は、よくある終わり方をした。少女は両親を呼び出され、こってりと絞られたようだった。怒り狂った光の家族に圧倒されて、ひたすら平謝りをしていた。彼女が二度と光の前に現れないようにと、固く約束していた。遠山さんは、晴香に蹴られた場所が痛むのか、はたまた両親に怒られてショックなのか、終始涙を流していた。
 晴香も、警察官からきつく注意されていた。緊急だったとはいえ、晴香が行ったのは暴力である。今回は大事に至らなかったために注意ですんだが、もし、晴香が少女を蹴り飛ばした際に、店の前を車が通ったらと思うと、背筋が冷える思いがした。
 光は、暫くは本調子ではなかったが、元気が無さそうにするたびに京助が例の漫画を見せるので、いい加減にしろと怒鳴り散らしていた。
 俺は何もできなくて、それとなくごめん、と謝ると、光は心底気持ち悪いものを見るような目で俺を見てきた。見上げられているのに、見下されている気分だった。
 高校二年生、冬、大きな出来事が幕を下ろした。光の心に、消えない傷跡を残して。


END

ペンと教科書と時計の話

ペンと教科書と時計の話

シリーズ『Ratel』第三話です。四人の高校時代、相沢光の話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-01

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