半熟卵の黄身と青

たいせつなものが愛おしくなったり憎くなったりする話

半熟卵の黄身と青  Hanjuku-tamago-no-kimi-to-ao
 
 日のかげってきた部屋で、寝ては起きてを繰り返し、彼は夢をむさぼり続けた。起きたかと思うと、すごく美味しかった、また買おうね、と何やらヘンテコな近況報告を一方的に呟いて、再びよく分からぬ美味しいものを食べに、そちら側へとゆっくり潜水していった。
 彼は目が覚めかける度に、意識の浅瀬に浮かびながらベッドサイドに座って携帯端末やら文庫本やらをなぞっている私の冷えた手を揉んだり、腹を抱き寄せたりした。ごめんね、を繰り返し、手の甲を何度も撫でたり、私の背中に頬を摺り寄せたりもした。しかし、それは数分もしないうちに沈んでいった。私が少しでも力を入れれば、大きな手のひらや太い腕だけでなく、柔らかい声までも、いとも簡単に私から離れ、彼が私のものである証拠という証拠は、綺麗さっぱり浅瀬の波にもみくちゃにされてちりぢりになった。
 彼がそれを繰り返すたび、私の内臓は私のことをくすくす笑った。自意識過剰だろうか、それとも腹が空いてきたからだろうか。回数を重ねるごとに笑い声は大きくなり、私の咽頭を強く絞った。その度に私の肺やら心臓がむくむくと熱を帯びて膨らんだ。
 うるせえな、ほっとけ。
 私はとうとう彼に背を向けて横になった。許可などは得ずに太い腕を枕にして、背中をわざと押し付けてやる。もちろん反応はない。隣の妹の部屋にある、安い時計の秒針がよく聞こえた。
 どんなに美味しいものを食べたのだろうか。夢の中の私と。
 私の上に妙な嫉妬とくだらない思考と空腹が幾重にも折り重なって、どうしようもない重量で圧迫した。それによって押し出された水分が頬をなぞり、鼻の凹凸を越えて反対側の頬と枕の間に温い水たまりを作っていく。濡れた部分が塩分の所為で徐々に痒くなり、たまらなくなった私は大きなくしゃみをした。やはり、それでも平行して存在する世界へ行ってしまったこの人の耳へ届くことはなく、私を唯一満たすのはすっきりとした鼻腔の感覚のみだった。痒みは脈打ち、指先に届いた。
 くさめをしても、ひとり。
 内臓に笑われる前に、母の呼ぶ声がした。その声を聞くこともなく三回目を聞いてから、私は身体を起こした。ベッドを軋ませ、反動をつけて床に降りる。手を伸ばせばすぐそこにドアノブがあった。
何かが私の腕を触る。その何かを知りながら、振り返り、上から眺めた。
 ぼんやりと開かれた相変わらず細い眼は、未だ夢を映しているようで、その瞳に私の姿はない。ただ、朝顔の蔓が細い支えに絡むように、しかし蔓というにはあまりにもしなやかさにはかけるゴツゴツとした太い指が、私の手首に絡んでいた。
 私は、母が私に求めるであろう用事と、その朝顔の支えになることのどちらが、天秤にかけて傾くかを知っていた。知りながら私は、天秤を倒した。突き放すように離した手のひらが、私を向いて何もない場所で寂しげに揺れるのを見て、私は恍惚とした。
どこ行くの。
 どこだっていいだろ。あたしの勝手だ。
 母の用事は私の想像を上回って甚だどうでもよいものであった。さすがは母だと、浴槽に黴臭いスポンジを押し付けながら思う。もうもうと湿気の立ち込める四畳もない、この四角い部屋で、私はなにを求めていたのだろうか。窓から外が見える。いつもは薄暗くて汚らしいゴミ置き場が、薄紫で綺麗になっていた。化学薬品のアルカリ系の臭いがむせ返るほどに濃い。いつもは気にならない薄橙の蛍光灯が、今日は妙に目に痛い。
 濡れてふやけた指を擦りながら暗い階段を上がり自室に戻ると、案の定、彼はベッドの上でカエルのように腹をゆっくり膨らませたり萎ませたりして、それはもう健やかに甘味と寝息を口の中で転がしていた。
 知ってたさ。
 私はしょっぱいものを一思いに飲み込んだ。飲み込んでも、もうベッドサイドに居場所を求めようとも思わなくなっていた。私はベッドを背もたれに床に腰を下ろし、苔色のクッションを手繰り寄せた。なんの抵抗も、不平も、不満もないそれを胸に抱くと、買った雑貨屋の匂いと日に当てられた埃の匂いがした。そして、転がっていた文庫本を拾い上げ、頁に指をかけた。
 落ちかけた日が、熟れた甘い果実のように赤い。いや、もっと橙がかったそれは、先日の朝餉に出てきた目玉焼きの黄身とよく似ていた。部屋が半熟のぬろ、としたそれでみるみる内に満たされ、すっかり浸かり、照る。それに反して、東の空は夜に飲まれ、濁った泥水のようになっていた。
 彼の白い左頬が橙の黄身に濡れて、実に美味そうだ。
 そんなに美味しい夢ならば、私も一緒に頬張りたいものだ。彼のことだから、脳の味噌までとろけるほどに甘い夢に違いない。私はそれほど甘味に飢えていない。醤油に合うほうがずっと好みだ。だが、彼が差し出したものならば、私は間違いなく口に含むだろう。口一杯に溢れんばかりに頬張って、甘い汁でべたべたになるのも悪くはない。
 早いとこ、帰ってきてはくれないだろうか。
頁を指でなじるのを止め、私は半熟で美味そうな頬を齧った。実に柔らかくて、甘ったるい頬だった。この分なら、血も肉も肝も、きっと甘いのだろう。
醤油を持ってくれば良かった。
目玉から垂れる塩では、あまりにも辛すぎるのだ。

半熟卵の黄身と青

半熟卵の黄身と青

いらいらしたり、うじうじしたり、かなしくなったり、こいしたり。 なんでこんなに、大変なんだろうっていつも思ってた思春期。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-31

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