富くじ善八捕物帖(前編)
夏経院萌華初時代小説。
一
善八は複雑な気持であった。
それは寺社奉行が主催する富くじに当たってしまったからだ。今回は、しめて二百両。かなりの大金だ。ずっしりと重いその大金を持って、しばしば、ため息をついた。善八が富くじに当たるといつも大きな事件が起こる。それは誰にも言っていない。そんなことを言ったらおそらく富くじの善八や富善などと言われる。だから絶対に言うまいと心に決めていた。
善八が初めて富くじを買ったのは岡っ引きになった最初の年。享保十七年のことだ。訳あって岡っ引きになったのだが、それではまったく生活ができなかった。そのため、大工の見習いや用心棒などでなんとか生活をしていた。そんな時、運試しと思って買った富くじが大金をもたらしたのだ。百両と言う大金であった。久々の大金にしばらくは遊んで暮らせると思っていたが、善八の性格からそれはできなかった。岡っ引きの仕事は楽ではなかったが、どこか充実した毎日がそこにあったのだ。だから、大金を手にしてもこの仕事満足をしていたので、しっかりと勤める事にしていた。
だからその大金を常滑焼の壺に隠し、少しずつ使おうと心に決めていた。そしてそう決めたその日の夜。武蔵野の国、川越藩剣術指南役土方良蔵が辻斬りにあったのだ。もちろんその時は善八と富くじの因果関係など露知らず、その事件の解決にまい進していたが、結局、下手人は捕まらず現在に至った。
辻斬り・・・・・・。今でいうところの通り魔みたいなものであろう。そして剣術指南役ほどの腕の立つ者が辻斬りにあったことは江戸中に知れ渡り、下手人は相当の手練れであると判断され北も南の奉行所も警戒を強めていた。特にこの月は善八が当番の北町奉行所で、北町奉行の稲生下野守正武は月番が変わる前までに解決をするよう与力たちに命じていたのだ。月番が変わると南町奉行の大岡忠相に手柄を持って行かれるのを嫌ってのことだった。善八はそんなくだらない矜持を捨てて事件を早急に解決してほしいものだと心に思っていたが、そんなことは言えない。岡っ引きがそんなことを言ったらどうなるかわらない。だから黙って自分のやれる仕事するだけだった。
与力たちは、あちこちと腕の立つ剣士、浪人を引っ張ってきては、むごい拷問をして取り調べを行っていた。それでもとうとう下手人は現れなかった。
そしてこの事件も風化していくのであった。
その事件から五年の月日が経った今日。善八が富くじを当ててしまったのだ。
これまでも1両程度の当選金を当てては事件に巻き込まれることすでに数十回。そして大金を当てると大きな事件が今までもあった。
そして今回の当選金額は大きい。善八は思った。大きな事件が起きなければと。
一旦、善八は長屋に帰り、二百両ものお金をいつもの常滑焼の壺にしまい込み、祈った。今回こそ、何事もないようにと。
帰ってきたが、何をするわけでもない。しばらくは見習い程度の仕事をしなくてもいいわけだから、当分は楽ができる。だから日がまた傾かないうちに善八は長屋を出て酒場に入り酒を飲んでいた。常連の店があるわけではない。江戸の町には幾つもの飯屋。酒場が乱立していた。お金さえあれば食べるのに困らない。それにこういう場所に出入りしていれば色々な情報が得られることも知っていたのだ。七つ半あたりで酒を切り上げたが長い間飲んでいたので、酔いはひどかった。長屋へ帰り、そのまま湯屋にもいかず、いつの間にか眠りこけてしまった。
朝の鐘が鳴り響くと同時に頭の中の鐘も鳴り響いた。昨日の酒が抜けきらない。何かしょっぱい物でも飲みたい。そうだな。しじみ汁でも飲みたい。そんな気分だったが、善八は男やもめ。それすら作ってくれる女房もいない。しかたなく布団の中でウダウダと唸っていると、長屋の引き戸を無理やりに引いた音が聞こえる。善八は少し身構える。
「朝から失礼しますぜ。親分」と現れたのは手先の清次だった。善八の数いる手先の中でも仕事は丁寧でそれでいて江戸の町に明るい。そんな清次が愛想よく入ってきた。
「なんだい。こんな朝っぱらから、騒々しい」自分の声でより一層痛みが頭に響く。
「親分。今、大親分からきいたんですが、昨夜、辻斬りがあったそうで・・・」
「辻斬り。そりゃまた厄介な物を持ってきたなあ」善八の悪い縁起は的中してしまったと心を痛めた。
「へい・・・」清次はまるで自分が厄介な物を持ち込んだかのように小さく縮こまりそう言う。
「だがよ。辻斬りなんてそうあるもんじゃねえ。こんな朝早く知らせてくるもんでもなかろう」そう言うと、清次は神妙な面持ちで
「それがですねぇ。五年前に起こった例の辻斬り。覚えていますよね。」善八はドキリとした。あの事件は結局、酔った勢いでどこかの破落戸と喧嘩になり斬られたと言う事で落着したのだ。善八はそれに納得がいかず、何度も与力に進言していたのだが相手にされなかった。ただでさえ事件の多い江戸の町、それだけに構っていられなかった。やがて善八の中でもその事件は薄れていたのである。それがここに来て再燃したのだ。
「ああ・・・あったな。で、それとどう繋がりがあるんだ」
善八は厭な気持になった。そして清次が言う言葉に冷や汗が出るほどこの事件に因縁があるのだと思った。
「親分。聞いて驚かねえでくだせぇ。今度の辻斬りで殺されたのはこれまた川越藩剣術指南役、佐々本礼次郎という侍だそうだ。」
「川越藩だと!」そう叫ぶと善八の頭は割れそうになった。瞼を閉じ、痛みが去るのを待ってから、目を開けた。
「二日酔いですか」とそれを見た清次が聞いてくる。
「ああ・・・昨日飲み過ぎてな」
「そうでしたか。ではちょっくら待ってて下せぇ」そういうと、清次は長屋を出て、近所の人たちにシジミ汁を分けてくれないかと聞きに回った。
一刻ほどして清次はしじみ汁をお盆に乗せ、
「親分。これでも飲んで少しはすっきりしてくだせぇ」と善八にお椀を渡す。
「おう。すまねえなあ。これはおかえさんのところかい」と言い、一気に飲み干した。
酒のあとのシジミ汁は美味い。体中の酒をしじみの栄養が溶かしてくれるような気分になった。
これでようやく善八の頭が回転をし始める。
「ところで、清次。高端様の見立てはどうなっておる」
高端とは町与力で、二年前に与力になったお方だ。まだ歳は三十七歳。石高は百五十石と与力の中では少ない禄ではあるのだが、前の北町奉行、稲生様や今の石河土佐守政朝様だけでなく、南町奉行の大岡様にも信頼を得ていると言う切れ者であった。そんな高端の見立てが気になりそう聞くと、
「へい。高端様は五年前の辻斬りと今回起きた辻斬りの因果はまだわからないとのこと。
ただ、同じ下手人とは考えてはいないそうです」
「ほう。それはどういうことだ」
「へい。いくら腕の立つ下手人でも五年も経てば腕は落ちると考えられておられるようで。それにどうも切り口が気に入らねぇそうで・・・」
「なるほど。切り口ねえ・・・今から高端様の所に参る。清次、お前さんはもう少し調べておいてくれ」
そういうと善八は長十手を懐に隠し、与力のいる八丁堀に向かった。
二
「おう。善八。耳が早えじゃねえか」
善八が肩を切って屋敷に入るとすでに同心である芝田がすでに馳せ参じていた。
「へい。ちょっと小耳にはさんだもので」と息を整えながらそう言う。
善八はこの芝田はどうも好きになれなかった。人をどこか小馬鹿にする態度が気に入らなかった。できれば、あまり付き合いたくない人だった。しかし、今の自分より年下と言え格が上。そう邪険にもすることができなく。曖昧に返事をしていると、屋敷の遠くの方から、
「ほう。小耳ですか」と声がする。それが与力高端だ。普段から温厚で物腰の柔らかい口調で人々を和ます。それに気を許してしまい、下手人たちも吐いてしまう。
そんな感じであるから皆、彼を高端観音菩薩様と慕い拝んでいた。
座敷の奥ではまだ、朝餉の匂いが仄かに香り漂っていた。
「朝っぱらからすみません。五年前に似た辻斬りがあったと清次に聞いたものでして」
「ほう。それは耳が早い。では、一緒に観に行ってみますか」と高端が奥の座敷から顔を出す。そういうと畏まっていた芝田が横から口をはさむ。
「高端様。岡っ引き如きと同行するのはどうかと思いますが」と芝田は善八を睨む。
「芝田よ。よく聞きなさい。私は与力だとか同心だとか小者だとか格が上とかそういうのはどうでもいいのです。そんなもので縛られて、真実を曇らせてしまうのが一番怖いのです。我々の使命は悪を成敗してこそ我らの道。そうではありませんか」物腰の柔らかさにどこか威圧感があるその眼光に芝田が下を向く。
高端の心にはやはり神と修羅が入りまじっているのだとそう感じた善八だった。
「すみません。浅はかでした」芝田は頭を下げてはいたが、どうも善八が気に入らないのか、やはり善八を睨み続けていた。
それは善八の直属の主は同心芝田のライバル佐久間藤二。
去年の夏、捕物の際、下手人の投げた石が頭に当たり、額から流血した。その後、三日三晩苦しんだのちあっけなく死んでしまったのだ。そして佐久間の死後。佐久間の子飼いの目当たり衆は一時、与力高端が預かることになったのだ。岡っ引きにしては異例の事で同心たちからは岡っ引き同心と揶揄され嫌われていたのだが、高端はこの岡っ引きの善八の洞察力、推理力、行動力、そして、その十手術の腕を買っていたのだ。有能な者は身分にかかわらず、登用する。それが高端の信念でもあった。そんな善八が芝田の目には岡っ引きのくせに生意気だと映っていたのだ。
しかし善八はただの岡っ引きではない。もともと上級武士の出と言う異色の者であった。名のある武士の家柄ゆえ、文武に秀で、末は老中、大老かと言われるほど、未来を約束されていた人物であった。
それが藩主である善八の父がある不正を行い、お家が断絶になってしまったのだ。
もちろんこれは他の藩の策略でまんまと貶められたわけだが、それを明かす証拠などなく、善八の父は屋敷で切腹。母はそれを追う様に自刃を果たした。こうして散り散りになった家族。そしてすべてを失った善八は乞食同然の暮らしを余儀なくされたのだ。
そんな時たまたま、武士時代の仲間に出会ってしまい。そこで嫌味を言われついカッとなり、武士の倅を殴って、怪我を負わしてしてしまったのだ。もちろん、善八は牢屋に繋がれるのであったが、彼の素性と経歴を知る当時の牢屋奉行石出帯刀様が不憫に思い、その方の尽力のお蔭で善八は岡っ引きとして生きていくことを条件に無罪放免となったのだ。
そんな経歴など知らない同心たちは与力達が善八に一目を置く理由などわからず、善八もどこかやりにくさを感じていた。そしてその素性を知る唯一の同心、佐久間もすでにこの世に亡く、他の同心の手前、善八も少しは遠慮をしていたのだったが、高端の方針は、出来る人は身分にかかわらず登用すると言うからまた厄介なのだ。
善八は芝田の顔を見ないでなんとなく会釈をしたがその視線が痛い。そんなやり取りを知ってか知らずか高端は続けて
「それにですね。芝田。この善八は五年前の辻斬りの時にその骸に唯一会っています。連れて行くのは解決の近道だとおもいますが」
そうなるともう芝田はふて腐れるばかりで
「だったらこの芝田も同行いたします」と言う始末。高端も芝田の気持ちはわからないわけではない。だからその気持ちを汲み、
「では。そうしてください」と言うのであった。
骸が眠る奉行所では検死が行われていた。高端もそれをじっくりと観察する。
「善八。どう思いますか。この傷をみて何か思い当たる節はありませんか」
遺体のそばに立つ与力高端が言う。善八はその骸を見る。
川越藩剣術指南役としてはなんと無様な死に方であろう。背中を縦にまっすぐに切られていた。これほど腕の立つ者が背中から切られることはまずありえない。これはよっぽど腕の立つ者か、卑怯者の仕業だと皆が睨んでいた。
「あっしにはまだ何と言えませんが・・・・」そう善八が口火を開くと高端は興味津々に善八を見つめる。善八の一挙手一投足をすべて拾い上げるような目をしている。
「そうですねえ。5年前の傷も背中でした。ただ・・・」
「ただ、どういうことですか。遠慮なく言ってください」
「この下手人は五年前の下手人と同一人物ではないと思われます。その下手人を知っている者の仕業だと思われるのです。」
「ほう。それはどうしてですか」
「では」と言い骸の背中の傷を高端に見せる。
「この骸は左から右に切られています。しかし、五年前の切り口はに右から左に切られていたと覚えております。下手人が両利きで、その左右ともに、これほどの腕の持ち主を斬りつけ死に至らしめる剣士がこの江戸の町にどれほどいるでしょうか」
「なるほど・・・。佐久間が可愛がっていただけのことはありますね。善八。これはまだ秘密にしておいてください。そして善八。お前はその筋で探ってください。私たちは今迄通り、同一人物の線を追ってみます。いいですね。芝田。この件は他言無用でお願いします」
「御意」
「へい。わかりました」
そういうと善八はすぐに手先の清次を呼び出し、情報を集めるよう指示を出した。岡っ引きには通常、数名の手先がいるのだが、善八にはその数倍の手先がいた。それもこれもすべて富くじのお蔭だ。富くじの当選金は日々の暮らしだけでなく。こういう情報戦に対しても有効であることを善八は知っていた。だから、惜しげもなくそれを使ったのだ。
やがて善八の所に一つの情報がもたらされた。事件発生からすでに半月が経っていた。
前の川越藩剣術指南役、土方良蔵には娘がおり、行方知れずだと言う事がわかった。娘の名は早百合。先ほどの辻斬りが起きたあたりから姿を見せないとのことだった。
そして早百合には兄が居て、名を周蔵と言う。周蔵は亡き父同様、剣術に秀で今は多治見藩剣術指南役補佐役の職に就いていた。そして彼もまたその日の足取りが不確かだと言うことだった。
この二人がこの事件に何らかの関わりがあるのなら、すぐさま話を聞かなくてはいけない。
先ずは、娘を見つけ出すことが解決の糸口と考え、一刻も早く娘を見つけるよう手先たちにその号令を掛けたのだ。
三
その日は朝から雨がシトシトと降っていた。濡れたわらじを乾かすと言う名目で善八と清次は朝から居酒屋で飲んでいた。
この居酒屋は一年前にできたばかりの店で酒の肴が美味いと評判の店を清次が情報を仕入れてきたので立ち寄ったのだ。
「どうですか。親分。美味いでしょ」と清次がおしんこを箸でつまみ口に放り込む。
善八もおしんこをつまみ、酒をかっ込む。
「清次。こんな店よく見つけたな」
「いやぁ。江戸の食通家から教わったんですよ。ここ」
「そうか。で。それより娘は見つかったのか」
「面目ねぇ。それがまだ・・・」清次は頭を搔きながら、くいっと酒を飲む。
「それでこの店を見つけたか。あはははは」と冗談ぽく言った。
「すんません」と頭を下げた
「いやあ。気にするな。焦っても、いい仕事はできないからな」といいつつも、事件が起きてからもうすでに二か月。善八にも焦りが沸いてきていた。ここの酒とおしんこは美味いなどと舌鼓を打っている場合ではないのだか、なんだかんだと酒の勢いは止まらなかった。
「それにしても、ここのおしんこは絶品だなあ。なあ。女将」と忙しなく動いている女将に声をかけると、首をこちらを向き
「ありがとうございます。でもそれはうちに最近働き始めたおさえって娘が初め、賄で出した物なんですよ。あまりにおいしいからって、店に出そうってことになってね。それが今ではうちの看板料理。有難いもんです」と言うと女将はまた忙しなく調理場へ入っていった。
「ほう」そういうと善八は腕を組み始める。
「で・・・女将。そのおさえとやらはどこにいるんだ」と調理場から出てきた女将をつかまえ、女将も「ちょっとまってくれよ」と言って他の客につまみを渡してから善八の質問に答えた。
「ああ・・・すみませんね。親分さん。しばらくお暇がほしいということで、もうかれこれ、4日かねぇ。店には出てきませんよ」と言う。そのやり取りを聞いていた清次が
「親分。何か気になることでもあるんすか」と顔色をうかがう
「ああ。この漬物な。美味いのが妙に気になる」そういうと残っていたおしんこ2切れを口の中に放り込んだ。清次にはその言っている意味が分からず首をかしげていたが、善八はお構いなしに
「女将。もう一本つけてくれ」と熱燗をたのんだ。
四
善八は実は元上級武士の倅。その事はまた後の話になるのだが、味には相当うるさいのだ。あの日を境にここの店に毎日のように顔をだし、酒を飲むのが習慣になっていた。
「あら。親分さん。いらっしゃい」
善八が暖簾をくぐると威勢のいい女将がお盆片手に首だけをこちらに向けてそう言う。
いつになく繁盛していて、てんてこ舞いになっていたが、常連になりつつある善八を座敷の奥に案内した。座ぶとんに座るとすぐさま女将が卓に手をつき、顔を近づけ、
「親分さん。会いたがっていたおさえ。今日から出てきてますよ」となんだか嬉しそうな物腰で言う。そして頑張ってねと言うような表情を見せる。どうやら女将は勘違いしているらしい。まあそれはそれでその方が何かとやりやすい。そう思い、
「じゃあ。呼んできておくれ」
「わかりました」
女将はどこか間が抜けた顔をして座敷を出て行く。
やがて酒が運ばれ、ややほろ酔い気分になる頃、
「失礼します」と襖がスーッと開いた。
「おさえでございます」やや緊張し強張った顔をしていた。おそらく女将が余計なことを吹き込んだからだろう。それでもその顔から窺える町娘とは思えない気品さが漂っていた。
「ああ・・・お前さんがおさえか。わしは善八だ。まあ女将になに吹き込まれたか知らんが、ちと。お前さんに聞きたいことがあってな」そういうとすこし身を構えた。
「なんでございましょう」おさえの口元が真一文字に結ばれる。
「いやなあ・・・これだ」と善八はおしんこを箸で指す。
おさえはまだ神妙な面持ちで何も言わない。
「これなあ。本当に美味い。これを漬けたのが娘だと言うのでな。会ってみたいと思ってただけなんだ。忙しいのに悪かったな」
「ああ・・・いや・・・そうでしたか」そういうと真一文字に結ばれた口元の口角が上がり明らかに緊張が解けた様子で
「ありがとうございます。私、女将さんに聞かされて・・・その・・・」
赤らめた顔が少し美人を崩す。
「ああ・・・そんなこったろうと思ったぜ。あはは」善八は大笑いをする。
それにつられておさえも笑う。
「おさえ。お前もいっぱい付き合え」
「では。遠慮なく」
今宵の宴は笑いを肴に酒を飲む。夜も更けていく頃、おさえは女将から今日はもういいから、あがっておしまいと言われる。そしてなぜか女将は善八に目配せをする。完全に勘違いをしていたが、このままにしておこう。
少し早目に長屋へ帰る。善八とおさえは途中までの道中が一緒であったため、話をしながら歩いていた。
他愛もない会話。
話題が尽きるころ、どこか居心地の悪い雰囲気を善八は感じた。
自分が一回りも違う娘とこうして歩き心がなんだか温かい。親兄弟を失い、どこか荒んでいた自分の気持ちを和ませてくれた。淡い恋心。それが善八にとって初めての一目ぼれだったのだ。そんな意識など毛頭なく、初心な善八には、酒の酔いとでも思っていたのだろう。しばし無言の夜道。月明かりが、やけに明るく光っている。
「満月ですね」とおさえがおもむろに声をかけてきて、闇夜に浮かんだ月をぼんやりと眺めている。月明かりが美人のおさえをより美人にさせる。
「そうだな」
善八は照れながらそう言う。上を見ながら二人歩く。すると、おさえが小石につまずき、転びそうになった。それを寸でのところでおさえの手を掴み、善八が懐に抱え込む。着物から香る汗と香の香りにさらに酔う。
「大丈夫か」
「ええ。大丈夫です。すこし酔ってしまわれたみたいです」そういうと足を少し捻ったようで引きずる。
「家まで送っていこう」
そう言ったとき、どこか後悔にも似た感情が胸に感じた。別に変な意味で言ったわけでない。純粋にそう言っただけなのに、どこか善八の心の中の汚れた物を感じ取られたかのように思い、善八はおさえから視線を外す。
「遠慮はいらねえ。わしの肩につかまれ。それともおんぶがいいか」と照れ隠し。
「わかりました。肩をお貸しください」とおさえも少し照れながら俯く。
肩を貸しゆっくりと歩を進める。心の臓が早くなるとそれに合わせて歩も早まる。それを何度も抑えようやく、おさえの住む長屋近くまで歩いてきた。その頃には酔いも冷め始める。
そして、ふと善八は足を止めた。
「おい。さっきから何ちょろちょろしてる。出てきやがれ」
闇夜に隠れていても、その殺気は善八に伝わった。
そして闇夜に紛れていた黒ずくめの男どもがぞろぞろと現れる。五人。いや六人。
「お前ら。何者だ」
「・・・・・」
何も言わない不気味な集団は闇夜の恐怖と共により一層恐怖を与えた。
善八も予想を超える人数に怯んだが、腕には自信がある。おさえを後ろにかばい、自前でこしらえた長十手を取出し構えると、迫りくる刃が善八を襲う。刀をすり抜け、一瞬のうちに二振りの刀をへし折る。その十手の威力に男どもは怯んだ。
この長十手は熱い炎で何日も鍛え、鉄は黒鉄と変わり、それでおこした物。金に物を言わせて知り合いの刀匠に作らせたのだ。業物程度の刀ならこうなるよう作らせた代物だ。
男どもが間合いを詰める。善八はおさえの元に駆け寄り、長十手を構える。ジリジリとわらじを滑らせ、次の一太刀を待つ。
焦れた男が一太刀を浴びせかけたと同時に足を前にだし、やや腰をくねらせ、長十手を盾に刀をさばく。刃を十手で滑らせながら、持っていた十手を手のひらで素早く返し、みぞおちに入れる。男の口からは先ほど食べた物が噴き出し、そのまま後ずさりをして、倒れ込む。その一瞬の出来事にほかの者の手が止まる。だけど善八は攻撃の手を緩めなかった。
長十手を構え、二人目と三人目の肩をめがけて打ち込む。打たれた者は声にならない声を出し倒れ込む。それを見ていた者はその場から足早に逃げていく。倒れた三人も体をくの字に曲げながら「くそ」と悪人が吐くつまらぬことを言って去っていった。
息を切らし、おさえの元に行くと、おさえも匕首を構えていた。
「大丈夫か。っていうか、匕首なんかもっていたのか」
「ええ。護身用でございます。夜道はどうしても怖いものですから・・・それにしても・・あの・・・お強いんですね。びっくりしました」
とおさえの表情は恐怖など感じていない様子でそう言う。
「あの者に見覚えはあるか」その問いにおさえは知らないと言う。
「そうか。わしもだ」そういうとさっきまで死闘を演じ、張りつめていた糸がプツンと切れたように大笑いをした。夜の静寂の中、笑い声は高く鳴り響き、野良猫だけがそれに反応し、逃げていった。
あの大立回りは人々を寄せ付けなかった。誰もが関わり合いたくないのだ。善八はすこし後悔した。手下を一人連れておけば、彼らの素性もわかっただろう。
しかし、これから先、おさえを警護すると言う大義名分はできた。善八はなぜかそれが嬉しかった。
「しかし物騒な世の中だ。まあいい。家までおくってやろう」
「ええ。よろしくお願いします。親分さん」そういうとなぜか肩を寄せ二人はおさえの住む長屋へと消えていった。
五
数日後、その闇討ちの一件は与力高端にまで届いた。
「善八。襲われたと言うのは本当の事ですか」
「へい。ご心配おかけしました」
「まあ。いいでしょう。善八。それが例の辻斬りと関係があるのですか」
「そうですねえ。まだ何とも言えません。高端様。今、あっしが掴んでる情報は元剣術指南役の忘れ形見の早百合殿の行方を追っていることと倅の周蔵殿が当日の足取りがつかめていないと言う事だけです。」
「そうですか」そう言うと、高端は少し困った顔をした。
「高端様。実は決め手がねえんですが・・・・」と善八は今、自分の思っている推理を話した。
「ほほう。なるほど。一理ありますね。では。それで行きましょうか」
「へい。ただ・・・・もう少し待ってくださいませんかねえ」
「お。ははん。また何か企んでる目ですね・・・まあ、いいでしょう。この一件はお前に任せたのですから、お好きにやりなさい」
高端は善八のその願いを聞き入れ、善八は与力高端の屋敷を出た。
八丁堀組屋敷をぬけ、大店を抜け、裏店を抜けると善八の住む長屋だ。
一旦、家で頭を冷やそう。わらじを脱ぎ、ホッとため息をついた。枕を高くし、横になる。仰向けになるといつも薄汚れた天井にうんざりする。だけどしばらくすると天井にぼんやりとみえてくる模様。やがて天井の模様が吉祥天女に見える。寝ながらで無礼であると思いつつもその天女に祈っていた。
吉祥天は戦の神毘沙門天の妹とも妻とも言われているため戦の女神とも言われているが、実は、罪人の懺悔を祈る神様でもあるのだ。だから初めてこの長屋を借りてこの吉祥天女を見つけた時は、お釈迦様はなんでもお見通しだとさえ思ったのだ。それ以来、捜査に行きつまったり、何かの策を講じた時の成功を祈る時にこうして横になり天女を仰ぎ見て、祈るのだ。祈りつつ、微睡む。そうしてなんだかんだと夕七つ。この長屋では夕食の準備のため、へっついから湧き出る穀物の匂いと薪をくべるカタコトという音で目が覚めた。
どうやら寝てしまったようだ。善八は独り者。当然起こしてくれる女房などいない。
井戸で水を汲み、顔を洗う。そして、おさえのいる居酒屋に行く。
店に行くとおさえの警護のため、すでに数人の善八の手先が客のふりをして酒を飲んでいた。
もちろん、その支払いは善八だ。のれんをくぐると女将がこちらを振り向き、それが善八だとわかると愛想のいい声で
「親分さんいらっしゃい」と女将がお盆片手に忙しそうに声を上げる、そして
「おさえちゃん。親分さんいらしたわよ」と頼んでもないのに、気を利かせてか、おさえを呼び、奥の座敷を案内する。
座敷に座り酒とあの美味いおしんこが出され舌鼓を打つ。しばらくするとおさえが善八の元に訪れる。
「どうだい。変わったことはないか」
「ええ。大丈夫です」
「そうか」
「ありがとうございます」
おさえは善八のお猪口に酒を注ぐ。そしてしばらくは言葉を交わさず、酒の肴をつまむ。この静寂が美しい。奥座敷からは酒に酔った品のない笑い声が飛び交っていたが、その声すらここでは気にならない。そして何よりおさえが注いでくれる酒が善八の気持ちを落ち着かせていた。
しかし、善八の顔が赤みを帯びてくるころ、その美しい静寂が崩され汚れたのだった。
「旦那。お楽しみのところ、悪いんですが」と手先の清次が襖越しから声を出した。
まったく品があったもんんじゃねえと思ったが善八は
「別に悪かねえ・・・どうした」
「失礼しやすぜ。」と清次が襖の戸をそっと開けた。
「旦那。多治見藩剣術指南役周蔵が高端様に捕えられました」
その言葉に善八は声をあげた。それに驚いたおさえもまたお猪口を床に落とした。幸い中身は空であり、お猪口だけが、床を右左と転がってみせた。
「清次。それはまことか」
「へい。辻斬りのあったあの晩、どうやら周蔵は佐々本様とお会いになっていたそうで。そのことが高端様の耳に止まり、直接吟味したいということで・・・」
善八はそれを聞き立ち上がった。
「清次。それは一大事だ。それは高端様の勇み足になるぞ。すまんがおさえ。ここはツケておいてくれ」そう言うと善八は腰に隠していた長十手を確かめ、店を出た。
六
川越藩では佐々本の死を弔う間もなく、次期剣術指南役を選定する会議が行われていた。
それには横崎剣吾が選ばれるはずだった。
誰もが剣吾を推薦していた。しかし、藩主秋元喬房は、かつて剣吾が若い頃、素行が悪かったことを知っていた。それを重く用いることは幕府に対しても申し訳が立たないということで保留となった。
その剣吾はその決定に従った。それと同時にこの藩を去る覚悟を決めていた。それが直接の原因ではないが、一因となった。
富くじ善八捕物帖(前編)