スパイラル

【朝焼け・後悔・足跡】

 まだ暗いうちに家を出た。月は誰も見ていないと思っているのか、手を抜いたように淡く光っている。自転車のタイヤがアスファルトを転がって、軽い力で私は進む。昼間とはうって変わって冷たい空気が夏服の袖を通り抜ける。小さく身震いをしながらペダルを漕いだ。私の存在に気付いたように月が追いかけてくる。
 すっかり力尽きた月が、白み始めた東の空の明るさに負ける頃、私は自転車を停めて目の前の建物を見上げた。再開発のための取り壊しの途中で計画が中止されて、入り口の立ち入り禁止の札が下げられたトラロープが色あせている廃ビル。その裏手の螺旋階段。私は大きな深呼吸をひとつして、歩き始めた。
 まだ太陽の全貌が見えない明け方の薄闇に、ローファの足音が静かに溶ける。錆びれた螺旋階段は所々穴が開いて、いつ踏み抜いてしまってもおかしくないような危うさを孕んでいる。私は足元を見ずにゆっくりと階段を上り続けた。
 八階建てのビルを七階まで上り終えると私は今上ってきた赤茶色の階段を振り返った。あるはずのない足跡が見えるような気がして、確かにここまで上ってきた満足感を噛みしめる。そしてその場に腰を下ろした。手すりの柵の間から足を投げ出して柵の向こう側を見つめる。
 白い建物。たくさんの人がいるはずなのに、その気配を無理やり抑え込んだような無機質なにおいの空間。
 並んだ窓を見つめながら、そのどれかにいるはずの彼女を思い浮かべた。六人部屋の一角のカーテンに仕切られた小さな空間で過ごす彼女。実年齢よりもずっと若い心の彼女。私の知らない時間を生きている彼女。
 私のことを知らない彼女。
 父さんは仕方がないんだと言った。彼女の意思とは関係なく、忘れてしまうのだと。
 私のことを、忘れてしまった母さん。
 私の生まれるずっと前の、私と同じくらいの頃の記憶で生きている母さん。
 私を友達の誰かだと思っている無邪気な笑顔や、何度訪ねても初めましてから始まる会話が苦しくて、少しずつ病室から足が遠のいた。
 母さんは私を生んだことを後悔しているのかも知れない。だから、私が生まれる前の、父さんとも出会う前の自分に戻ってしまったのかもしれない。何度違うと諭されても、私の中でその考えが消えなくて視界を滲ませる。
 朝焼けが稜線を赤く染めている。夜が忘れていった明るい星が慌てて空を去って行く。白い建物が温かな光を浴びて輝く。その中で夜を越えられなかった命があったかもしれないことをお伽噺にしてしまうみたいに、ただ朝を喜ぶような白さ。私は日差しの届かない錆びれた螺旋階段に掌を這わせた。錆びて落ちた金属の欠片がチクチクと肌を刺す。
 人々に忘れられた建物。忘れられた自分。太陽にも忘れ去られて、今日がやってこないこの場所で私はひとり、掌の痛みだけを確かめるように抱きしめた。

スパイラル

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-28

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