死神の鏡身

一章

死神の鏡身


 この世界は悲しみに浮いている。
 涙を食らって生きている。
 だから人はいつだって悲しみから開放されないし、それを忘れることだって、絶対にできない。
 だって、そうしないと世界は回って行かないのだから。 

「なるほど、うまい比喩だ」
 シャオはそううなづき、身の丈を超える巨大な石板を優しくなぞる、風化しはっきりしないその文字は、こすられることでさらに形を失っていく。
 これでまた、この石版につづられた思いは、消滅に一歩近づいたことになる。
 シャオは手についた粉を払う、すると白い煙がうっすらと白い線を引き、空に昇る。
 それを追ってシャオが空を見上げると、今日も晴天だった。
 ここからなら空が見える。
 抜けるほどの青空、そして視線を下ろすと膝まで満たす青い水。
「確かに、悲しまずにはいられないよ。いくらのんびりした世界だとしても、それは確実に訪れる、みんな知らないだけだ。人が死ぬってこと」
 今でも思い出せる、自分に起きた、悲しいこと。
「ぐったりしたからだ、わずかばかりの頼りない体温、肩にかけた腕には力がなくて、そして……」
 そうシャオは思い出す。あの日のこと。別れの光景、最後の言葉。
『あの子をよろしく』
 そんな悲しい出来事を、シャオは今でもたまに思い出す。
「ああ、だめだな、湿っぽくなったらだめだ。今日は、今日は会いに行ける日なのに」
 そうシャオは無理やり得我を作ると、重心を後ろにかけた。
水面に吸い込まれるように、ゆっくりと背中から倒れて、そして。
ぱしゃんと、水の柱を上げて、水のなかへと沈んでいく。
自分を水の中に吸い込もうとする落下する力と、上へと浮上させる浮力が釣り合ったとき、シャオは目をあけた。
差し込む光で水は輝き、シャオのまき立てた泡が収まるのを待って、両脇ふさぐ頑丈な意志に触れ、水の流れに抗うことなく、揺らりゆらりとただ流される。
 はるか先まで続く水の水路を進むシャオは、何を思ったのか切なげに微笑んだ。

*   *

 この世界は水で満たされている。人が住める場所はほんの少ししかない。そもそも生き物が生きられる場所がほんの少し。
 それでも生き物は生きている。
世界のほとんどは涙の海で。入り込めば最後、悲しくてしょっぱくて生きていけないと言われている。それに対して真水がわくわずかな一帯に住める場所を確保して、人間たちは生きていた。
 それが『都』だ。
 永久機関により水に浮き、人間が住める陸地となっている建造物。
 しかし、水に浮いていると言っても、その半分が水の中にあるので、人々の生活からは水は排除できず。
 居住区と呼ばれる、生活スペースは半分が水に浸ってる。
 そのため、居住区のある階層はほとんどのものが石造りとなっている、通路も、壁も。橋も家もみな石。
 天上さえ石が覆っている。だけど薄暗いということはない。
 町中に張り巡らされた水路から光がわき出ているからだ。その光だ広く空を覆う天上で揺らめき、わずかに反射し町に降りる。
 それはとても幻想的な風景だった。
 だがシャオはそれを感慨もなく見下ろしている。
 シャオは現在、都を貫くようにそびえる塔『機関』の内部を走る、円筒状エレベーターの中にいた。
 ごうんごうんと唸りを上げてシャオを上に運んでいくエレベーター、シャオはその側面をぐるりと覆うガラスに背を預けて、ぼーっとエレベーターランプを見上げる。
 そして唐突に、エレベーターの唸りがくぐもったものに変わった、一瞬の暗転。
 次いで、目に突き刺さるような刺激的な陽光が、エレベーター内部に降り注いだ。居住区の皆底から湧く光と違って、肌を焦がすような熱を持つ光。それは太陽光で、居住区の上に出た証拠だった。
 そこは中層と呼ばれる階層。
 一面に緑の大地が広がり、ところどころ茶色になっている区画があるのは、牛や羊が食べ過ぎたからか、野菜を育てるために耕している場所だった。
 そう、ここ中層では主に食料の生産を行っている。
 シャオが見下ろせば、小さな点となって動物たちが群れており、それを管理する人が草原に横になって居眠りをしていた。
 そのほかには木製の建物がいくつかあり、一際大きな建造物は学び舎として少年少女の集う場所となっている。
 それらが太陽の光を受けて、全て輝いて見えた。
「今日も本当に天気がいい」
 そうシャオは空を見上げる、空には白く燃える太陽がある。
だが都を覆うように、天蓋と呼ばれる大きなガラスの傘がかぶせられているので、ぼやけて見えた。
 そのままシャオは機関塔の天辺に視線を移す、天蓋を支える最上階の一つ下がシャオの目的地だからだ。
 そして、その目的地まではあと少し。シャオは防水ポーチから一枚の紙を取り出す。
「どういうつもり何だか」
 そうシャオは深くため息をついた。

*    *

 シャオは機関塔のエントランスにいた。
 大きなガラス窓から中層を見下ろす。
 シャオはエントランスで門前払いを食らっていたのだ。
『オトヅメアキラは忙しい』
その一点張りで、オトヅメアキラへの確認すらしてくれない。
(連絡もなしに会いに来たんだ、通してくれなくても当然か)
 シャオは再び紙に視線を戻す。そこにはこう書かれていた。
『探索員シャオは一時その任を時、教師の職に就くことを命じる』
 シャオはその文面を読み返すと、紙を丸めてそこらへんに投げた。ふてくされた表情が寄り添った窓ガラスにうっすら映る。
機関は、というより『オトヅメ』の名前を持った人たちは、この都で重要な役目を請け負っていて、その一つに都に住んでいる人間の仕事を決められる権利というものがあった。
実際は本人の自由意思で仕事を選べるので、こんな権限行使すること自体異例だ。
だから、この異例な事態がなぜ自分の身に降りかかったのか説明を求めようと、ここまで来たのだ。
(ずるいよな、こんなこと)
 シャオは無意識のうちに窓ガラスに指をついた、窓ガラスがこすれる独特の音、それがエントランスに強く響く。
(こんな風に連絡されたら、会いに来ないといけなくなるだろ。お前から会いに来いよ)
そうどうしようもなくなったシャオはため息をついて窓ガラスに寄り添った。
その瞬間、背後から凛とした声が一つ、聞こえた。
「こら、窓が汚れるでしょう、素手で触らないでください、誰が磨くと思っているんですか?」
 シャオはそれを聞いて思わずにやりと笑った。
「お前はまだ窓拭きなんて雑用をやってるのか、巫女と呼ばれるくらい偉くなったのに」
「偉いや、偉くないは関係ないのです。なぜならその仕事は私が幼いころから欠かさず続けてきた仕事なんですから、だから今もやり続ける、それだけです」
 その声の主は、会話を重ねるほどにシャオに近づき、そしてシャオの脇に立つ。首だけ回してみれば、そこには小柄な少女が立っていた。
 長い黒髪に、呪詛の書かれた長い紙を何枚も織り交ぜ白い袖に赤く丈の短い袴、そこから伸びる足は陶器のように白い。
「お前は、暇なのか?」
「そうですね、あなたなんかにわざわざ会いにくるくらいなんですから、暇なんでしょう、私は」
 少女はシャオを見上げていった。感情を覗かせない冷えた目がシャオを写す。
「ひどい言い草だ」
 だが、シャオは知っている。もともと目つきが悪いだけで、こうやって何の感情もなく相手を見つめている時は、リラックスしている状態だということを。
(特に警戒心は見えないから、鬱陶しがられているわけではないと思うんだけど、どうだろう)
「皮肉ですよ、実際はすごく忙しいんです、ただでさえ忙しいのに、たった今仕事が増えましたから、あなたの指紋が付いた窓を拭くという仕事がね」
「お前が呼び出したくせに……」
 まったく、そう悪態をつきながらシャオは次の言葉を探した。何気なく会話を始めてしまったが、実質会うのは二年ぶり、だから何を離せばいいかわからなくなってしまったのだ。
「久しぶり、アキラ。元気そうで何よりだ」
 そうシャオが言うと、今日初めて少女が微笑みを浮かべた。
「ええ、久しぶりですね。シャオ……」
 花が咲くような笑顔、殺気の無表情ぶりからは想像できないほどに、うれしくてたまらないという感情が伝わってくる。その笑顔が、二人の間を隔てていた二年という時間の壁を取り払ったように思えた。
「二年ぶりだよな」
 シャオと、アキラは所謂幼馴染というやつだ。とある人物を介して知り合い、その人物につれられるままにシャオはアキラと幼少時代を過ごした。
「ええ、二年。私からするとあっという間でした」
 そう、二年。二年間二人は逢えなかった。事件が起こり、でも決定的な何かが二人を別ったわけではないのに、自然と会わなくなった。
そして、会わなければ会いにくくなるという心理から、シャオは今まで会いに行けなかった。アキラがオトヅメになったことを知った時でさえ会いに行かなかったのだ。
「そういえば、オトヅメ就任おめでとう、これで夢に少し近づいたな」
「夢?」
 オトヅメとは階級の名前だ。
役割としては、政治をつかさどる『機関』その祭りの運営を行う際に、神話を語り継ぐ役割を担う者。
そして、普段は機関の中で行政を行うが、神話上の世界の終わりが発現した場合その身を以て終わりを止める役割を持つ『巫女』の予備。それがオトヅメだ、選ばれるための要素は単純に仕事ができるかどうか。
「だって、巫女になるのが夢なんだろ」
「私そんなこと一度でも言ったことありましたっけ?」
「あれ? 勘違いだったか? 仕事熱心なのは巫女を目指しているからだと思っていたのに」
 オトヅメは機関で働く人間の中でも特別に優秀な人間がつける役職だった。
その役職に就けるというのは名誉なことだし。うまくすればこの都の祭事の中心、ひいてはこの都の最高権力者の一人『巫女』になることも夢ではない立ち位置。
 「私は別に巫女の地位を意識したことはないですよ。私のやるべきことをやっていたら、いつの間にかこの地位にいた、それだけです」
「それはそれは、優秀なことで」
 シャオはそう言って笑った。
「あいつも俺もお前が巫女になること、信じて疑わなかったんだけどな」
 シャオは思い出す。昔を、昔のアキラのことを。
 幼少期のアキラは泣き虫で、心穏やかでとても可愛らしい少女だった。純真無垢で可憐、いつも白いワンピースを着ていたのを覚えている。
 思えばそのころはシャオに毒を吐くことはなかった。だからそれから少しして、とある人物の影響を受け続けて、いつの間にかシャオを顎で使う、乱暴に扱うのが普通になってしまった。
 こんかいの件でもそうだ、シャオの意志とは関係なしで役職の変更をしようとしている。
(あ、そうだった、俺はその話をしに来てるんだ)
 そうシャオは物思いから帰り、アキラへと向き直る。
 するとアキラは、窓ガラスの向う、都の中層ではないはるか遠くの海を見ていた。
 陽光を受けて煌く海は今日も綺麗だった。
「アキラ、どうした。お前も考え事か」
「ええ、そうですね。思い出していました」
 アキラはさっきまでの笑みを消して、悲しそうな表情で海を見ていた。思い出しているんだろう、アキラにあった悲しいことを。
(もしかしたら、俺たちはあいつがいないと繋がれないのかもしれないな)
 今でも覚えてる。葬儀に参列するアキラは、痛む心を引きちぎり、捨ててしまったのかと思うほどに無表情で、同時にとても痛々しかった。
だが、今は違う。
さっきの微笑みからも感じたように、アキラは表情を取り戻した。普段は冷たい目をしていても笑うし、悲しむ。
普段のアキラからはわかりにくいが、本当は天真爛漫な少女なのだ。
 その時、目の前でアキラがくるりと回った、長い美しい髪がふわりと舞い、短いスカートもそれにつられてふわりとまった、表情を見れば祈るように目を閉じていて、その回転で平衡感覚が狂ったのか、よろよろとシャオから一歩二歩距離をとる。
「何を考えているのですか?」
「何も」
 シャオは後悔していた、まだ会いに来るべきではなかったのかもしれないと。シャオはシャオの傷を癒しきれていなかった、そして自分自身を許せてもいなかった、そんな今アキラにあっても、気まずくなるのは必然ではなかったのか。
「シャオ」
 そう、穏やかな声。
「……、どうした?」
「なんでそんなに気のない返事を返すのですか」
「ごめん、考え事していた」
「もう、シャオはぼんやりしたところが治ってませんね、それとお話に花が咲くのはうれしいのですが、そろそろ本題に入らないと、時間が無くなってしまいます」
 用があるのでしょう?
 そうアキラは、照れくさそうに笑う。
「ああ、えっと。人事異動の件な。あれやめてほしい」
「却下します」
 シャオの言葉を叩き返すように、アキラはそう言った。
「なんでだよ! 勝手すぎるだろ」
「だってあなた、今何もしていないでしょ」
「してるよ、ちゃんと仕事してる」
「声を荒げないでください、ちょっとうるさい」
 シャオは探索員だ、そその仕事の形態は二つ。
 帰還からの依頼を受けて調査を行う、そしてもう一つ、自分から調査をしてその結果を機関に提出し、お金をもらう。
 そしてシャオは断然、自分から移籍を解明していくことの方が多かった。
「ちゃんと成果は上げてるはずだ」
「報告書にはちゃんと目を通していますよ、けどあなたの本来の能力から見たら仕事量が少なすぎる」
 それにはわけがあったが、それをここで話すことはできない、そうシャオは喉元にまで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ちゃんと成果は上げているだろ」
「いいわけないでしょ、あなたはクジュさんを養っているんですよ、彼女の招来を考えたらお金はいくらあってもいいはずです」
 シャオの脳裏に一人の少女の姿が浮かび上がる。特徴的な赤髪を型の間で切りそろえ、明るい笑みを浮かべる少女の姿。
「だから、仕事をあっせんしてあげようと思いまして」
「教師役は十二分に足りてるはずだ」
「彼らは最近発見された、巨大な遺跡の調査に出向いてもらっています」
 それは小耳にはさんだことがあった、なんでも巨大すぎて手が回らず、探索員を引退し教職という腰に優しい仕事についた、古株たちすら駆り出される始末。
 まるで機関が焦っているようだと、そんな噂をシャオは聞いたことがあったが、こんな風に自分に火の粉が降りかかるとはだれが予想しただろうか。
「俺を探索の方に回せよ、そっちなら喜んで行ってやる」
「……。うーん。だめっ」
 目を閉じコクリとうなづいて、アキラはそう言った。
「俺素人だから、うまく教えられる気がしないから」
「あなたなら十分に子供たちのお手本になれますよ、私が保証します」
「俺が嫌だし」
「あなたの意見は却下することになってます」
「なんでそんな横暴なんだ」
「偉くなった特権を使ってみたいと思いまして」
「俺に試し打ちするなよ」
「それに私もフォローに入るから大丈夫だと思いますよ」
「フォロー?」
 シャオはアキラが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
「一緒に教師やるのか?」
「そんなわけないじゃないですか、私は探索のことに関して何も知らないんですよ。だから参加するんです、授業に。あなたの授業にね」
「……おまえ、再教育受けるつもりか?」
 シャオは深くため息をつく。
「むちゃくちゃだ」
「そうですか? 前例もあることですよ」
「だとしても……。いやその必要性とかはわからないけどさ。でもまさか再教育を自分から志願するなんて」
「より良い政治を、より良い職場管理を行うために、探索班について深く知っておきたい、それではだめですか?」
 シャオは頭を抱えた。厄介なことに巻き込まれたと思ったのだ。
こんなの職権乱用もいいところ、もっと厄介な、子供のわがままだ。そう思ったのだ。
(こんなむちゃくちゃ、あいつでさえ言わないぞ)
 都では職種が三種類に分かれている。政治をつかさどる『機関』食料の獲得を主とする『生活班』そして『探索班』
都の教育は、八歳から十二歳の初等部で生活に使う基礎的な知識を身につけさせ。十三歳から、三つのどの種類の仕事につくのかを選択、そこから四年で仕事についての知識を詰め込む。
ちなみに飛び級や別の職種を学びなおすことも可能で、アキラはその制度を使い探索について学びなおそうとしているらしい。
「だめじゃないけど、絶対なんか裏があるよな」
「な、何のことでしょうか」
「しかして、その実態は?」
 シャオのじとっとした視線に耐えきれなくなったのか、アキラはどもり気味に語り出す。
「ただ。クジュさんといちゃいちゃしたいだけ」
「まさか、お前。そこまで示し合わせたのか。ほんとすごい権力だ」
「ええ、そうです、すごいでしょう」
「開き直るなよ、それほんとに、よく通ったな!」
 そう胸をはるアキラの表情は自身で満ちていた、どうやらアキラは本気のようで足場も固め済み。
(これはもう逃げられないかも奈、どうあっても押し通す気でいる……)
「それに、もう一度制服を着てみたかったんですよね」
「は?」
 アキラが夢でも見るかのように、両の手を組み語りだす。
「制服。私あの感じ好きなんですよ。清楚なのに布は薄いじゃないですか? スカートも、先生に隠れて短くしたこともありましたっけ。ドキドキしたのを覚えてます。そしてその青春時代真っ盛りの少女たちの中で暮らせると思うと……。何よりそこにはクジュさんがいますし」
(俺が教師になってもならなくても、こいつはクジュのクラスに編入するんだろうな)
なにかシャオは不穏な空気を感じた、このままではクジュの身が危ない。
アキラを監視するために教師役をやるのも悪くないんじゃないだろうかとシャオは本気で思った
「ああ、なんだか考えただけでむずむずしてきました。ねぇシャオ」
「なんだ?」
「今すぐクジュさんに会いに行きませんか?」 

*   *

 2人の乗り込んだエレベーターが止まる、急減速によって圧力をかけられるこの感覚は、何度乗っても慣れないなと、シャオは自嘲気味に笑った。
そして、高い音を鳴らしてエレベーター度扉が開き、同時に。湿った空気がなだれ込んできた。
「わぁ。相変わらず綺麗ですね」
それは光で飾られた町並みだった。
光がなければ、単なる無味簡素で色彩にも乏しい町だが、水路を通して沸く光りに照らされ、幻想的に見える。
人々の顔を下から照らす明りは、その人の印象をガラッと変えるように、町にも不思議な空気があふれているんだと、アキラは言った。
「そうなのか? 俺は見慣れてるから分からないけど」
そうシャオそっけなく言葉をかけ、先導して歩き出す。
「私は塔から出ませんからね、だからどうしても比較してしまうんですよ。塔の中はデザイン性も何もなく機能美だけを追求していますからつまらない、けれどここは綺麗です」
 アキラの言う塔とは機関塔のことだ、外周数キロで1フロアが幾層にも重なってできている広大な機関塔の中は、四割程度が生活スペースとなっていて、そこには医療関係、食品市場、ジムに学校等、人の生活に必要な要素すべてが存在する。
 もはや塔の中に居を構えてしまえば、外に出る必要はないということだ。
「それこそ、居住区に降りるのは二年ぶりか?」
「ええ、祭りの準備で中層に降りることは多々あるのですけどね」
 シャオはあたりを見渡す、石造りの町並みを。
意志の歩道は頻繁に上がる水しぶきのせいで黒くつやを持ち、町中に張り巡らされた水路は物売りの船でにぎわっていた。そして船の隙間を縫うように子供たちが泳いでいく。
「学校の帰りか、なんだかすこし遅めだな」
「おそらく、祭りが近いせいですよ。準備を手伝っていたから遅いのではないでしょうか」
 ふーんとシャオは興味なさげに、流れていく子供たちを見送る。
 その中の一人、疲れて水の流れに身を任せるままだった少年が船の縁に頭をぶつけ、その音が町の中に大きく響いた。
「まつりか……」
「まさか、忘れていたのですか?」
「まぁ、あんまり俺には関係ないし」
「あなたは祭りが好きなイメージがありましたけどね」
「それは……」
シャオは次につながる言葉を飲み下す。
 そして、その後につながる言葉がきになったのか、アキラが催促しようとした瞬間だった。
 シャオの背後から。声が聞こえた。
「お兄ぃ!」
 声に反応して振り返るシャオ、すると水路の真ん中を見慣れた赤髪が流れていく途中だった。
「やっぱお兄ぃだ、って……アキラだ!」
 そう手を振った赤毛の少女は一度潜水し、勢いをためて一気に浮上する、その反動を利用し陸に上がる。
 赤い髪から水滴を払い、笑顔を向ける。
「ああ、クジュさん!」
その少女こそクジュだった、シャオの妹分であるぞの少女は。肩で切りそろえられた髪をふって水気をきり二人に向き直る。
赤を基調とした、全身を覆うタイプの水着を着ていて、腰には防水のポーチをつけている。
これは水路を使うことを前提とした居住区に住む人間の普段着で、子供や探索員はよくこの格好でその辺をうろついている。
「アキラ、久しぶり!」
「クジュ、元気にしていましたか」
 そう街中で抱き合う二人。
 お互いに二年ぶりの再会、二人はまるで姉妹のように仲が良かったから、久しぶりに会えてうれしいんだろう。
(それはわかるんだけどさ)
 クジュは濡れていて、アキラは巫女服だ。どうしても透ける。
 透けてうっすらと下着が見えてしまっている。
「お前、それ……」
クジュは何もわかっていない、無邪気な笑顔でアキラと再会を喜んでいる、そのためシャオの視線には一切気づかない、だからアキラの服の透明度がじわじわと上がっていく。
特にクジュの身長が問題だった。クジュはまだ十二歳身長はアキラの腹部ほど、そんなクジュがアキラとじゃれ合うと、目のやり場に困ることになる。
(アキラって無防備だよな、まえから思っていたけど。でも、それにしても)
 シャオはその光景をみて思った、育ったなと。
 緩い服の上からだと体のラインはわかりずらかったが。水を吸った巫女服は透けるし張り付く。
 今や巫女服は、体のラインをばっちり強調させる服となった。
「何を見ているんですか……」
 クジュに視線を落としたアキラは、口元だけをにやりと釣り上げた。
「……お前水着、着てこなかったのか」
「だって、時間がなかったものですから」
そうアキラさらにニヤッと笑う、それ見てシャオは思う。
(わざとか……)
見せつけているんだろうか。アキラは意地悪くシャオに笑いかけた。
普通、居住区では撥水性の服を身につけるか、水着を着るかが常識だ。湿っぽいし、いつ水をかけられるか分からないほどに水であふれている。
こんな風に。
「ああ、全く。うちで着替えないと。ほら行くぞ」
「え? お兄ちゃんどうしたのそんなに急いで」
 アキラから離れたクジュが、きょとんとシャオを見つめる。
「いや、クジュがアキラを人前に出られない、あられもない姿にしたから、新しい服を着せたいんだよ、じゃないとアキラ恥ずかしいだろ」
「私は別に大丈夫ですよ、見られて困る体はしていませんから」
 そうアキラは腰に手を当ててポーズを決めた。
「……。だったら下着とって裸で歩けよおまえ」
「ちょ! お兄ちゃん何言ってるの!」
 そう慌てふためいたクジュが顔を真っ赤にして手をぶんぶん回す。その腕が吸い込まれるようにシャオの鳩尾に入った。
「がっ!」
 シャオの腹部に残る、鈍い痛み、思わずシャオはうずくまった。それにクジュが駆け寄る。
「大丈夫?」
「……。まぁ。でもそうですね」
「なにがだよ……」
「体調管理も仕事のうちかなって思ってきました。お言葉に甘えさせていただいて、着替えさせていただこうかと思います」
 アキラが半ば同情するように、半ばからかうようにシャオの背中をつついた。
「え……。じゃあちょっと待ってね」
 それを聞いたクジュはどこからともなくバックを取り出し上着を身に着ける。撥水する半そでの上着、水を吸わない材質の短パン。どれも若草色を基調としていて少女の赤い髪とよくあった。
「いいよ、行こうお兄ちゃん」
 クジュのお許しが出たのでアキラは歩き出す、けれど。
「どうしたのシャオ」
「もう少し待ってくれ」
 あの細腕にどれだけの力があったのだろうか、シャオの腹部のダメージが全然抜けなかった。
(この怪力、さすが、あいつの妹だ。末恐ろしいよ)
 そうシャオはふらりと立ち上がる。すると先に歩き出していたクジュとアキラが振り返り、早く来いと手招きをする。
 シャオは浮かんだ笑みを隠すように手の甲で頬をぬぐい、二人に追いつくために駆けだした。

*   *

 居住区はもともと、とても広大な廃虚だった。無数に点在する遺跡を壊したり、そのまま利用したりして、この世界の人々は住まいを作り出している。
 ゆえに、快適さは全くなく、石の床に石の壁、石の天上、それに気の扉を立てかけて暮らしている、それはシャオ達も例外ではない。
「それにしても暮らしづらそうですね」
「そうか?」
 この世界で最もいい暮らしをしているアキラにとっては暮らしづらいだろうが、シャオ達にとってこれは当たり前の暮らしだ、なので判断がつかない。
「アキラ、お湯沸いたよ、熱いから水で薄めて使ってね」
 そうクジュがアキラにシャワーの使い方を説明する。タンクにお湯を入れ、好きな温度になるまで水を入れる、そして蛇口をひねれば上からお湯が降り注ぐ、そういう作りのシャワールームだった。
「おいおい、別に服を着替えるだけでいいだろ、そこまで体が冷えてるわけでもないだろうし」
「え? 言ってなかったっけ? アキラ泊まるんだよ、だかシャワー浴びるのは当たり前でしょ?」
「いつそんな話になった?」
「今さっき」
「あ、そう」
 その時、不意に衣擦れの音が聞こえた。
 この空間で布を纏っているのはアキラのみ。
(ということは、脱ぎだしたのか)
 反射的に振り返りそうになるシャオ、その足を思い切り踏んづけて止めるクジュ。
 そんなサイレントコントが見えていないのか、アキラが一人心地につぶやいた。
「不便ですね」
「機関には、電気でお湯を沸かせる装置があるんだろ? 確かにそれと比べたらめんどくさいかもしれないけど、まぁ今回限りだと思うし、我慢してくれ」
「ええ」
「あとお姉ちゃんの服と下着しか合いそうなものなかった。使う?」
 そうクジュが差し出す衣類。泊まる準備などしていないアキラへの配慮。それは白いふわっとしたパジャマと下着。
「おまえ、いくらサイズが近いからって他人の下着使いたがるわけ……」
 スッと白くしなやかな腕がシャオの意見を遮るように伸ばされる。
「私、これでいいですよ 入ってきますね」
 アキラはそう微笑む、満面の笑みと共に着替え一式を胸に抱きしめ、すりガラスの戸を閉めた。
「いいのか、他人のでも」
「アキラって、お姉ちゃんのこと大好きだったし、別に平気なんじゃない? それよりご飯作ろうよ」
 そう言ってクジュは奥の台所へ入っていった。
 シャオの住む家はいったって無味簡素だ。
 部屋には最低限のテーブルとハンモックがあるばかり、それは別に貧乏だからというわけではなく、余計な部屋はいらないとクジュが望んだからだ。
シャオは職業柄この家でご飯を食べて寝ることしかしない、それなら部屋が多くあると掃除とかのときに手間がかかる、だから広い家は要らない。
(そう、広い部屋は要らない。そう言ってあいつと俺が一緒に暮らし始めて二年)
今でも、少し狭い気はしているが特に不自由はしていない、二人で仲良く暮らしている。
「でも、なぁクジュは自分の部屋欲しかったりしないのか?」
 シャオは部屋の片隅に壁を背にして座り、そう声をかけた。声に反応しクジュが調理場から顔をだす。
「なんで? どうしたの、いきなり」
「お前も、いい年だからな」
 そう言われてクジュは考え込むようなしぐさをする。首を傾けて上を向く。その姿は見ていて愛らしい。
(そういえば、あいつもそんなしぐさたまに見せてたっけ)
 今日はよく昔を思い出す日だ。昔見たあいつの姿が、クジュに重なって見える。
 本当にそっくりだと思った、クジュとは違い小生意気ではあったけど、笑った顔の愛らしさは全くいっしょ。
(そういえば、教師ってあいつのなりたい職業だったよな。子供が好きだからって)
 ふと視線を落とすと、クジュが両手をついて覗き込むようにシャオを見ていた、目と目が合う。
「どうした、クジュ?」
「このままでいいと思うよ」
「なにが?」
「へや……。いらないって話、ただでさえ少ないお兄ちゃんとの時間が、もっと少なくなるよ」
 そうクジュが顔を近づけた、それはまるでシャオの表情を必死に読み取ろうとしているように見えた。
「そんなの、いやだから」
「クジュ……」
 シャオはクジュを抱き寄せる。そして頭を撫でた。
 手のひらに、柔らかい毛の感触があった、細やかな息遣いそれがあまりに不安そうでシャオは両腕に力を込めた。
「あっ」
 そしてその時、がらりとシャワールームの戸が開く音がした。
「……。何をしているのですか。ろりこん」
「えっ」
 シャオの顔面温度が一気に上がっていく。
「あっ、いやこれはだな……って!」
 シャオの顔が見たことないほどの速度で動いた。アキラの声がしたほうを向いて、そこから。
見てはならないものを見て、顔をそらす。
「お前バスタオルのままうろうろするな!」
アキラはシャワーに時間をかけないタイプらしい。
濡れた髪もそのままに、バスタオル一朝に仁王立ちで一部始終を見守っていたらしい。
「脱げたらどうするんだ」
「あなたのほうがまずいでしょう 人がいるのを忘れて情事ですか、しかも相手は妹。しかも十二歳」
アキラは冷たい目でシャオをにらんだ。その視線が深く深くシャオに突き刺さる。
「違う、これは兄妹のスキンシップだ」
「そうだよアキラ。私は十三歳で血はつながってないからセーフだよ」
何を言っているんだろう、今クジュは恐ろしいことを言っているのではないかと、シャオの思考が冷えていく。そんな中やっとの思い出でシャオはクジュを引き剥がした。
「というより、私のクジュに手を出すとどうなるか。海の藻屑にしてあげましょうか」
「違うって言ってるだろ、話を聞いてくれ。本当に何もないんだ」
「問答無用!」
 その瞬間だった、シャオは自分のバスタオルの裾を掴み、引きちぎるように脱いで見せた。
 そこでシャオの思考はいったん停止する。
 まるで脱いだかのように見えたからだ、だが違った。アキラはバスタオルを翻してうまくシャオの視界を遮り、その不意を衝いてアキラは渾身の一撃をシャオの鳩尾に叩き込む。
(今日……二度目か)
 シャオは意識が霞行く中、そう思い、そしてわずかに微笑んだ。

*   *

 シャオの日課はいくつかあるが、特に意識的に行っていることと言えば。
 クジュが学校でどう過ごしているか聞く、という会話だ。
「最近何も変わらないよ、いつもと同じ」
 クジュは知らないのだ、食卓でこのような質問を投げかけるお父さん方は、何も楽しい小話が訊きたくてこのような質問を投げているわけではなくて、そのいつもと変わらない何かを聞きたいと思っているのだ。
 そしてシャオとて例外ではない。
「それじゃわからない、もう少し詳しく教えてくれよ。俺も明日行くんだから」
 内心、行く気なんてさらさらないのだが、シャオは平然とそう言ってのけた。
「そうだね…………。うーん、知っておいた方がいいことか」
 クジュは真剣に悩み、あれでもないこれでもないと、ぶつぶつつぶやいている。
 確かに、クジュにとっては毎日同じ日々の繰り返しかもしれないが、それが宝物になるといつか知る時が来るだろう。
 そうシャオはちらりとアキラに視線を送る。
 アキラはお行儀よく魚を口に運んでいてシャオの視線に気づきもしない。
「あ……」
 そしてクジュが、頬を掻きながら、思い出したくないことを思い出してしまったとでも言いたげな表情をシャオに向ける。
「どうした?」
「最近の私たちのトレンドはね」
「ああ、流行な」
「そう、流行はね、死神の話」

*   *

 それが、つい先ほどまでの、食卓での会話。
 シャオはそれを思い返しながら、冷たい水にもまれていた。
 夜になれば水流の勢いは増す。安易に水路に飛び込めば思わぬ場所に流されてしまうなんてざらだ。
 そんな夜の闇を深く吸い込み重たい色に変わった水に、胎児のような恰好でシャオは身をゆだねていた。
 はやる気持ちを抑えつけながら、何度も脳内では死神の話が頭の中を巡っている。
 死神とは、この世界で水子、カイリュウに並ぶもっともポピュラな神々の一人、有名な伝説の一つ。
 死ぬ前に自分のそっくりの人間が、鏡の世界から現れて殺しにくる。
という、よくありがちな伝承。
 その時、その死神に狙われた人間は、鏡や見ずに姿が映らなくなり、影がなくなるらしい。
 

*    *

「死神はですね」
 アキラが言う
「自分とそっくりな姿形で自分を殺しにくるらしいですね、死神が活動している間は鏡に姿が映らなくなって、その目標に死を与えると中に帰っていく」
 食事を全て食べ終わったアキラはごちそうさまと両手を合わせた。
「それがどうした? おとぎ話だろ。いまさら誰が信じる?」
「それがね、友達の友達が死神に会って、死んじゃったって」
「友達の友達に聞いた話ってくだりは、よくある作り話って感じですね」
 コップ一杯の酒を煽ってアキラが言う。
「けれど、あながちウソでもないかもしれないと、私は思っています。機関塔の職員の中にも、死神を見て死んでしまったという人が何人かいるらしいですし」
「うん、その子もそう言ってた。否定したくてもできないって」
 シャオは空になったアキラのコップに新しく酒を注ぐ。アキラが酒を飲むところは初めて見たが、もうシャオの倍は飲んでいる。
「それにしても。いまさら何でそのような噂が流行っているのですか? それとも学生の間では定期的にそのような噂が流行るのですか?」
「私たちを子供って言うほどアキラは年とってないくせに」
 そう薄く笑うクジュ。そのリアクションにシャオは違和感を覚える。
「どうかしたのか?」
「うん、それがね。その子も見たらしいの、死神を。友達の友達が死ぬのを見て、それから少しして、鏡の外に自分がいるの見たって、鏡に自分が映らないのも確認したんだって」

*   *

 その後シャオは、泥酔したアキラと、アキラに組み付かれて動けないクジュ、二人が寝静まったころに抜け出して、水路に飛び込んだ。
 シャオはどうしてもその死神という存在が気になったのだ。
 姿かたちが一緒で、死を与えるその神。
 その存在のことを考えると、うまく寝付けなかったのだ。
 いつも胸片隅にあるはずの白いもやが、今では頭の中を覆い尽くして、沸騰しそうだった。
「世界は悲しみに浮いている」
 そう口ぱくでつぶやいて、シャオは暗い水から顔を出す。水の流れならもう止まっていた。
終着の浜、そこには水路のような壁は無く、白い砂でできた、泉のような場所だった。
岸が遠くに見える、普段は仰ぎみることのできない、遮るものの何もない空が視界一面に広がっていた。
ここは都のはずれなのだ。だから天蓋に遮られることなく空が見渡せる。小さな満月と無数の星がまるでシャオを歓迎しているようにも感じられた。。
そしてシャオはしんと冷えた空気を、胸いっぱいに吸い込むと、肺にたまった熱い空気を吐き出して、ゆっくり上がった。
髪が吸った水を搾り取り、砂浜を裸足で踏みしめ、歩いていく。
真っ白い砂浜はとにかく広いが、その白い砂浜に、青い生物が寝そべっているのが見えた。
それは三メートルほどのトカゲのような生き物で、首は細く、胴が太く、短い脚が四本ついている。背中には翼があり、それで空を飛んだりもできるのだが、体を見比べると、なぜ飛べるのかと首をかしげたくなるほどに小さく、かわいい。
そんな不思議生命体の名前はカイリュウ。本来ならば伝説上の生き物。
「……。カイリュウ。おきてるか?」
実はその生物とシャオは毎日顔を合わせるくらいには仲がよかった。
「ごめんな。おこして」
 その通りだ、とでもいわんばかりにカイリュウは目を瞬かせる
「けど、寝る時間はいっぱいあるんだろ。ちょっと俺の話に付き合ってくれよ」
 そうシャオはカイリュウの近くに腰をおろし。背を預ける、つるりとした質感の中に確かな温かさがあり、それをシャオは心地いいと感じた。
「今日はあいつのこと、よく思い出す日だったんだ」
 シャオは、前置きとしてそんな文言から会話を始めた、はやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと、カイリュウの反応を見るように、言葉を続ける。
「今日、しばらく会ってなかった友達にあってさ。でも本当のことを言うと会いたくなかった。アキラはあいつのこと、本当に好きだったからさ。それこそ……」
 シャオの脳裏に浮かぶのは、港から流される白い棺、そして。壁一枚向こう側で泣き叫ぶアキラの声。
「それこそ、その死を受け止められないくらいに、アキラはあいつのこと好きだった」
 アキラはその人物に対しては屈託のない笑顔を向けていた。
 シャオはそれをよく覚えている。
 自分に向ける、柔らかな笑みではなく。輝くような笑顔。それが永久に失われた瞬間だとシャオは、その鳴き声を聞きながら思ったのだ。
「だから俺は思った、アキラは俺のこと嫌いになったのかもしれないって。けど違った、前みたいな笑顔を向けてくれた」
 シャオは両手を伸ばす、月へと。
「きっと、あの月を掴むよりは簡単なことだったと思う、あの右手を掴むのは」
 シャオは意を決した、一つ息をすい、吐き。心を落ち着かせるために奥歯を強くかみしめる。そしてずっと聞けなかったその質問を、カイリュウに投げかける。
「俺だけを、なんで助けたんだ」
 その瞬間、カイリュウが大きく目を見開いた。
「助けてもらったことには感謝してる、今ではあそこで死ななくてよかったと思う、けどあの時は、思ったよ、なんでおれだけ助かったのかって」
 シャオは思い返す。
 錆びついて朽ち落ちる寸前の鉄骨、大きな力で捻じ曲げられた柵、螺旋状に下へ続く、水浸しの通路をシャオは、少女を抱えて降りていた。
 あたりは薄暗く、少女は何度声をかけても目を覚まさない、後ろには闇があり。下に進む以外にとれる手段はなく、シャオは追い立てられるように下へ下へと進んでいった。
「その先で、俺はお前と出会って」
 言葉が通じることに気が付いた瞬間、シャオは叫んでいた。
『こいつを助けてくれ! 頼む。俺はどうなってもいいから!』
 
その少女は数時間前に眠りに落ちたっきり、呻くことも身じろぎすることもなかった。

 こうなってしまったのは、シャオのせいだ。落ちてきた瓦礫からシャオをかばい、頭にそれを受けたから。
 そしてその瓦礫で、帰り道は閉じられてしまった。

 シャオが今いるのは、未開の遺跡の、最奥。

『私たちが行かなくてどうするのよ』

「助けてくれ! あんたカイリュウだろ、ここから出られる道を教えてくれ、連れ出してくれ」
 シャオはシトルを担ぎなおす、重さが先ほどより増している気がした、体に完全に力が入っていない。
「こいつ、早く医者に見せないと、落ちてきた瓦礫が頭に当たったんだ」
 そう必死に訴えるシャオにカイリュウは近寄り、その大きな目で二人を凝視した。
 やがてカイリュウは少女の服の裾を口にはさむとシャオから奪い取り、そして。
 床に横たえた。
「おい、なんで!」
 そしてカイリュウが次にとったのは単純な行動、伸び上がり両手でシャオを抱え、そして飛び立つ。
「おい! やめろ、違う俺じゃない! 俺じゃないんだ。俺は死んでもいい、だから頼む、あいつを!」

 その日、シャオ達は世界の中心を失った。
 アキラからもクジュからも世界の中心を奪った。
 その時の記憶は思い出そうとすると曖昧で、けれど。一度思い出せば時系列関係なく思い出されてしまう。
 それが二年前あった、かなしいこと。
 
「あの時、何度も言ったよな、あいつを助けてくれって、なのにカイリュウは俺を助けた」
 そう責めるような口調でカイリュウにはいっているが、シャオ自身はもう理解していた。
 死んだ人間を助けて、生きている人間を置いていっては何にもならない。
 そう、シトルはもうあの時死んでいた、シャオはそれを一番理解していたはずなのに。
 その事実を無視したのだ。
「俺、少し思うんだ、あの時、お前があいつを連れて帰るって選択肢もありだったんじゃないかって。だって、ほらそのほうが少し、楽だったろ?」
 その時カイリュウが体制を変えた、その長い首を持ちあげシャオをじっと見つめる。
「怒ってるのか? 生きることをあきらめるなって? 心配するなよ、ちょっとした、たとえ噺だから」
 シャオはカイリュウに微笑みかける、するとカイリュウは首をかしげておかしそうに眼を細めた。
「生きて帰れたことで、今はいろんな人の助けになれてる、それは価値のあることだって思う。だからさ心配なんてしなくていいよ、すこし死生観について考えたくなっただけなんだ」
 そこでシャオは思い出す、こんな夜遅くにカイリュウに会いに来た理由を。
「あ、そうだ。そうだった、忘れてたよカイリュウ。今日俺はこれをききに来たんだ、なぁ、死神っているのか?」
 フッとカイリュウは息を吐き出す、それは呆れているようにも、笑っているようにもとらえることができた。
 それがシャオの問いに対する答えなのだろうか、それ以外まったく反応を見せないカイリュウの真意がシャオには全く持って不明だった。
「お前が人の言葉を話せたらいいのに」
 カイリュウは、人間の言葉を離せない。
 都では神のように祭り上げられているが、シャオはカイリュウのことを変わった動物としか認識していなかった。
「じゃあ、聞くだけ聞いてくれよ。俺の話」
 シャオは改めてカイリュウに背を預ける。
「死神の話だ、死神はその人間の死に際に現れるって話をよく聞くよな、自分そっくりの分身で、その死神が死を与える。なぁカイリュウ、死神って本当にいるのか? いるとしたらお前にも死神は来るのか?」
 カイリュウは何も答えない。
(あいつも死神を見たのかな)
 もしもの話だ、シトルの死神が出現していて、それが何らかの拍子に入れ替わってしまう。そしてあの時シャオが抱えていたのが死神の方なら、本物のシトルはどこかで生きているかもしれない。
(我ながら、ばかばかしすぎて笑える)
 そうだ、可能性はゼロに低い、穴だらけの理論。もはやそんなもの妄想だ。
 だがシャオはその考えに至ってしまった、もしかしたらあいつが、シトルが生きているかもしれない。
 そんな張りぼての希望、それを持ってしまった。
 シャオはそれを自分で否定することはないだろう。
 彼女は生きているかもしれない、この世界のどこか、もしくは別の世界で。別の人生を送っている。
 自分のいないところで、きっと笑っている。

 そんな悲しい希望にすがって、シャオは微笑みを一つ作ってみせた。

 心のどこかで、悲しいほどにシャオはそれを求め続けている。
 たった一つの命、それがどうにかこの世に戻らないか、そんなことを考えながら過ごした弐年間。
 それは彼女の背中を追いかけ、歩んだ日々だった。
「シトル、俺、うまくやれてるかな」
 シャオは月に向かって手を伸ばし、そして目をゆっくりとじる。
「せめて、夢の中でくらい」
 笑った顔が見たい、そうつぶやいてシャオは眠りに落ちた。

*   *

 シャオが眠ったのを確認したカイリュウは、瞼をゆっくり持ち上げた。
 潮風に紛れ、血の香りが漂ってくることに、ずいぶん前から気が付いていたのだ。
 そしてその香りは、シャオが眠るのと同時に濃くなった。
 カイリュウが長い首を持ち上げ、月を見上げる。
 はるか向こうには、石板やら鉄骨やらで築き上げられた鉄骨の山があったが、いつからいたのだろうか、その山の天辺に分厚いコートを着込んだ人物が独り立っていた。
 その影が一瞬揺らぎ、姿を消す、次いで、ちゃぽんと水に小石が投げ入れられたかのような音がした。
 音の方を振り向くカイリュウ。そこには星の明かりを受けて煌く泉が存在し、その中心に少女が立っていた。
 水に太もものあたりまでつかり、長い黒髪が水につからないギリギリのラインで揺れている、細身のラインに、面積の少ない水着。
 どうやら血の臭いはその少女から漂っているらしい。それを確認したカイリュウは頭を定位置に戻してまた目を閉じた。
カイリュウにとっては些細なことなのかもしれない、長く生きているこの生物にとって、血の臭いが染み付いた人間も、あふれ出る殺気も。
水に姿が映らないことも。
気にすることではないのかもしれない。
カイリュウは目を閉じる、そのうち薄れていく意識の片隅で、ざぱーんと水を割る激しい音を聞いた。
静まり返る水辺、冷涼な風が少年とカイリュウをなぜる。



 

死神の鏡身

死神の鏡身

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-27

Copyrighted
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