夜霧と梟
雷神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ
水無月の孤悲
「夜霧の中に梟を見つけると、知恵を授かることができる。」
この地域では、梟は知恵の象徴「神」とされる。誰が最初に言ったのか知らないけれど、ずっと昔から伝え続けられているようだ。私は幼い頃から祖母の話をよく聞いていたので覚えている。母は決まって「からかわれているんだよ。」と言ってまともに取り合わなかったけど、この田舎なからきっとそんなことがあってもおかしくない。
だから、今でも信じている。
私の名前は柊亜麻音。今は事情があって実家の近くに住んでいる。
昔話をしていた祖母は、昨年亡くなったばかりで今一つ現実感がない。またひょっこり電話でも寄こして来るんじゃないかと思う。
港に近い運河のそばのボロマンションが私の住まい。今年も蔦を伸ばし壁を覆ってきている。夏が近い証。その割りには歩いて30分もしないうちに鬱蒼とした森が広がっている場所があり、春には山菜を摘んで食卓に並べたこともある。
私は今日、昔祖母が繰り返し話していた「夜霧の梟」を試してみようと思っていた。知恵の神様に訪ねたいことがあるから。電話口で母と喧嘩をして、夜に出歩きたくなったのかもしれない。とにかく、口実があれば行動に移せる。だから、今夜決行する。
夕方のサイレンと霧笛が鳴って、夕食を簡単に済まし日が暮れるのを待つ。道に迷った時のことも考えて通信機器と懐中電灯は離さず持っておこう。あと鈴も。
「梟さん、出てきてね。」
森の入り口までたどり着いた時祈って、藪の中に分け入って行く。
……。やはりと言うべきか、夜霧のせいで足元がぬかるみ上手に歩けない。入って十分もしていないだろうけど、方向感覚も失ってしまった。まずい。遭難するかな?明け方には出られるだろう。ポジティブとネガティブな感情に揺れながらも、森の中を進む。冷えるといけないからと思って厚着をしてきたけれど、とうとう汗だくになって上着を一枚脱いだ。
昼間は誰しもが親しむ森が、夜になると途端に解らなくなる。よくよく考えてみれば、自然が豊富な山奥にも棲んでいるか危うい貴重な生き物が、港の近くの森に棲んでいるという確証はない。むしろいない確率の方が高い。月も見えない暗闇も手伝って、考え方が傾いてくる。ー私は、一時的な感情でこんな行動をとってよかったのだろうか。ー漠然とした不安ばかりが大きくなっていき、自分が今どこにいるのか判らない不安に追い詰められ、ただ呆然と森の中を進む。
腕時計を確認したら、午後九時半を過ぎたくらいだった。山の斜面は登りきり、その表面を獣道に沿いながら歩いていたら一本の大きな白樺が目の前に堂々と生えていた。幹の太さから、八十年ほどだと考えられる。天然に生えた木なのだろうか、周りを確認したけども同じような白樺はなかった。今日は十分進んだ。初めてのことだったけど、行動はできた。あとは…少し休憩。道標のような白樺に背中を預け、根元に座り込む。少し安心できたのか、空腹に気がついてチョコレートをつまむ。糖分を補給してますます安心したのか、今度は眠気が襲ってきた。でも眠ることはできない。ここは森の中で、熊や野犬がいるかもしれないから。私は眠らないように神経を尖らせて、背中にある木の幹に体重を預ける。すると、目の前が反転して真っ暗になってしまった。
背中から何処かに落ちたような感覚になり、ぎゅっと目をつぶっていたのだが床に落ちた感触がなくて不思議に思い目を開いてみた。目の前は灰色の景色。生暖かい空気。なぜか服は着ていない。「これは夢?」一人つぶやきながら歩こうとしてみるが、床もないこの空間では無意味な動きだった。ふと、後ろの方からクスクスと笑い声が聞こえてきた。驚いて振り返ってみたら今度はうまくいった。
そこには、さっきまで背中を預けていた白樺と梟を肩に乗せた青年がいた。男の人…不意に体を隠そうとするが、着ていた服がどこにも落ちていないので腕で隠すしかなかった。
「そんなものは無意味だよ。この空間に来る礼儀を知らないのかい?」
「礼儀って…貴方が私の服を?」
よく見たら目の前の青年も何も着ていない。私は拐われてきてしまったのだろうか。何をされるのだろうかと良くない考えが浮かぶ。青年は気にした様子もなく近づきながら話しかけてくる。
「夜霧の梟、と、言うそうだね。君の所では。アトゥサはそんなに気になる?私はウェンカムイではないから安心して。でも、君の世界のことを知るにはあの服では足りないな。ウチャロヌンヌンでもしなきゃな。」
「はぁ…?」
所々解らない言葉があるが、ようは私の服などで私の情報を得て私の世界に合う言葉を話しているのだろうか。それよりも知恵の神様なのだとしたら、質問しなくては。
「あの、私は尋ねたいことがあってここに来たんです。だけど気がついたらこんな所にいて…貴方はー」
青年の肩にいた梟が「ホホーッ」と鳴いて飛び立つ。驚いて目を閉じて、再び目を開けた時には白樺の根元に青年と一緒にいた。
「それなら、オンカムイでもしなさい。」
だからそれは何を言っているの?と聞き返そうとしたら、顎に手を添えられキスをされてしまった。それも、しばらくの間。
「んな?!」
反射的に青年の顔を叩こうとしたのだが、やすやすと捉えられてしまった。
「私はコタンコルカムイ…フクロウの神だよ。神は敬わなければね。暴力はいけない。君はカムイサンテクではないが、社にするにはちょうど良い信仰心は持っているようだね。しばらくの間、借りるとしよう。」
「だから、さっきから何なんですか。貴方がフクロウの神だったとしても、私の願いを聞くのが役目ではないんですか?ヤシロにするとか。意味がわかりません。」
これは夢なんだろうとヤケになり、私は少し怒ってみる。すると青年(コタンコルカムイ)は苦笑いをしながら答えた。
「いやぁ、本当はそうしたい所なんだけどね。この白樺が近々役目を終えるようなんだ。私としてもこれには残って欲しかったんだが、人間の都合と言うのもあるんだろう。私はそれを責めないし、報復もしない。その代わりに君の生命を借りようと思うんだ。」
つまり…どう言うこと?白樺が切られるのを我慢する代わりに私に取り憑くって事?と考えを巡らすとカミサマは頷いて私の体を抱きしめる。やだ、思いっきり人間の感触じゃない。
「悪いようにはしない。少し大人しくしていたらね。」
それを聞き終わるかいなや、力が抜け意識も遠くなって行った。
「チュンチュン…チュンチュン」
あぁ、朝。やっぱり夢だったか…。その割りには体が重いな。今何時なんだろうと時計を見ようと寝返りをうったら、そこには昨夜の青年(カミサマ)。
「うぇ、うぇっ?」
昨日のことを思い出しながら硬直し、自分が今も裸だったことにも気づいて思考が止まった。
「……んー。おはよう。」
とりあえず、ビンタ二往復で目を覚ましてあげた。
「痛いなぁ。それが神様にして良いことなの?昨日の君はすごく…可愛らしかったのに…」
更にもう二往復ビンタを食らわせた。昨日のことが靄にかかっているようで思い出せない。灰色の空間は覚えているけども…。
「一体私に何をしたのか、教えてもらいましょうか。」
首に腕をかけて固めて言うと、カミサマは観念したように話しだした。
「君の意識を少しだけもらって、少し、楽しんだだけだよ。グヘェ…!」
少し楽しんだ?まさか私の体を?そう思うと自然に腕が絞め上がってきた。不審者として突き出しても良いのかもしれない。
「ゴホッゴホッ!しょうがないじゃないか。君を知るには意識をもらうのが必要だし、人の形を定着させるには、ああするのが一番手っ取り早い…グホァ!」
涙目で絞めている腕を叩くカミサマ。どうにも人間臭いのは、人間に姿を定着させたからか。コタンコルカムイは色情の神なのか。締め上げながら考えを巡らせていると、小さな声でモウダメ…と落ちそうだったので、とりあえず腕を緩める。ベッドでうつ伏せになりながらゼーハーと荒い息をしているカミサマだったが、潤んだ瞳で抗議した。
「君には異性のように見えたのかもしれないけど、私には性別なんてもの無いんだからね。私は神だから下衆なことはしていないが、繋がることは生物がよくすることじゃないガフッ!」
「カミサマ…それは同意があって初めてすることなんですよ。」
喉仏を押しながら冷徹に。すると、押さえられた喉元から「ごめんなひゃい…」と蚊の鳴くような声が聞こえたので、とりあえず離してやる。………。そういえば、誰かに似てる。
「神様。」
私の問いに一瞬肩をビクリとさせたが、真面目な質問なのを感じ取ってか私の瞳を見つめる。そして、質問をする前に答えられてしまった。
「それは、正しいようで間違っている。私はそれではないし、君もそれを望んでいないから。」
それからーとカミサマは続ける。「あまり私に質問しない方がいい。正しい質問には答えてあげるけど。でないと、人間は考えることをやめてしまうでしょう?」
それもそうか。ならカミサマ…
「名前は何にしますか?これは提案ですよ。人間には名前が必要なのです。」
朝一番の笑顔に、青年は苦笑いをした。
重い体を起こし、机の椅子に座り、カミサマにどんな名前が似合うだろうとPCを立ち上げた。
苗字は神と書いて「じん」と読むのがいいだろう。では名前は?
フクロウは単純すぎるし…何となくフクロウの画像を漁っていたら小さなフクロウの画像に目をとめた。
「コノハミミズクの、コノハでいいんじゃない?」
独り言を言うように青年に問う。
「コノハ…ねぇ。いいんじゃない?」
さして興味もなさそうな返答。今から彼の名前は「神コノハ」になった。
「じゃあ早速だけど、コノハさん。身の回りのことを教えますね。」
私は席を立ち、下着と服を探した。…男物はだいぶ前に処分してしまったから無いけど。
「それには及ばないよ。君の意識をもらえればそれで解るから。少し意識が飛ぶけどね。」
また何かするんじゃないかと怪訝な目でコノハを覗くも、悪意は感じられなかったので従うことにする。
「良いでしょう。閑散期で休みはわりかし取れてますし。お手柔らかにしてくださいね。」
もちろん。コノハは頷くと私を再びベッドにと手招きした。
隣に座ると同時にめまいがして、目の前がぼやけ意識を手放してしまった。
ハタリ、ハタリ、しずくのように
コノハのまいちるしぶきのように
わたしのなかのおんなのこ
サイゴはおうじさまにであえるかしら?
ハタリ、ハタリ、みずのねの
うまれてしまったがさいごのことば
わたしのなかのちいさなこ
あのひとはあのひとではなく
しんだのよ
「…ね。亜麻音。あ、ま、ね!」
ぼやけた視界にコノハが心配そうに入り込む。
「うた、歌ってた?」
「へ?」
「ううん、なんでもない。」
私のとぼけた質問に安心したのか、コノハは微笑んだ。
「唄に聞こえたなら、自分の口で歌っていたよ。無意識だったのかい?」
あの歌は私が歌ったのか。奇妙な感じもするが、どうしてそんな唄を歌ったのか。
「疲れていたのかも。昨日は森中を歩いたから。」
言い聞かせるように声に出す。少し体を起こして窓の方に目を向けると、ついさっきまで朝日が昇っていたはずなのに真っ暗闇に変わっていた。空腹を感じたが、なんだか食欲が出ない。
「コノハさん。明日の朝はネットであなたの服を注文しますから、届いたら外へ出かけましょう。あと、お腹は空いていない?」
カラカラとコノハは笑う。
「私は神だから。意識がもらえれば食物は特段必要ない。亜麻音の用意したものがあれば食べるけどね。」
少しほっとしてベッドの中にもぐりこむ。相変わらず裸のままだが、今日はもう眠ることにしよう。
体を丸めるようにして眠る体勢を作ると、コノハもベッドにもぐりこみ私の背中を抱くように横になる。
「あ、電気。」
と、言葉にしたら「パチン」と消えた。…神様は、便利だな。羽毛にくるまれたような感覚にひどく気が安らいで、あっという間に私は深く眠った。
夜霧と梟
雷神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか妹し思えば