月の雫 ―春霞の抄―
1. 花の名を持つ少女
その昔。
楼蘭国と紗那国は同じ一つの国であった。
物語の発端は、今から七十余年前へ遡る。
時の皇帝は、九代目の陽香。即位の頃は御歳十八。若くして律令統治の礎を築き、都城・黄蓮に条坊制を整えた名君である。
だが、そんな誉れ高き彼も、唯一子宝にだけは恵まれなかった。この若さでは、無理も無い。
治世わずか五年余り。
若すぎる皇帝の突然の崩御――。
青天の霹靂が、長く燻り続けた二大執権家の対立を激化させた。
当時、左の執権と呼ばれた紗那(後の紗那国・初代国王)は、『国家の繁栄は先端技術の発展なくては成し得ず』と説き、産業から政に至るまであらゆるシステムの近代的改変を唱え、中央高官から地方貴族まであらゆる上流階級層の力強い支持を獲得した。
一方、右の執権・蒼緋はこれに反対。『国力は民の知恵と努力によってのみ育まれる』と訴え、数で有産階級者に勝る下層民衆の熱烈な支持を得た。
これら二つの勢力を巡る争いは日ごと激しさを増し、やがては互いに武力の蜂起を決意させるに至った。豊かだった帝国は一変、争いの業火に巻かれたのである。
そうして数年。
戦という大火は、更なる争いと数多の悲劇を生んだ後、ついには楼蘭国そのものを真っ二つに引き裂いてしまった。
同じ起源を持ち、同民族でありながら、別々の国家となってしまった楼蘭と紗那。しかしその一方で、この国の分割という一つの結論が、長岐の戦に一応の終止符を与えたのは幸いと言えよう。
度重なる戦。
失われた数知れぬ命。
血塗られた歴史。
そして、尊い犠牲がもたらした平安――。
戦乱の歴史は終わりを告げ、ようやくここに平和という光が差したように思われた。
しかし実際は、袂を別った後も争いの炎は消えたわけではなかった。争いの矛先は、兵の増強や軍備の拡大へ向けられ、一触即発の危機はこれまで同様に――いや、これまで以上の規模で潜在し続けたのである。
日々、二つの国は互いの懐を探りつつ、時に手を結び時に牽制しながら、辛うじて表向きだけの平穏を保っていたのであった。
* * * * * * * * * * * *
初春のある晴れた日のこと。
宵もそろそろ近づくころ、楼蘭国第三皇子・篠懸を乗せた黒漆塗りの牛車は、予定よりもやや遅れて天飛山の峠に差し掛かった。
一行が目指すは国境の集落・如月である――というのも、ここ数か月もの間、この皇子がたびたび原因不明の発作に苦しめられていたためだ。
これまでにも、国中の名高い医師が内裏へ呼ばれ、幾度となく治療を試みたが、どの医師も原因を特定するには至らず、故に已む無くこの地に住まう祈祷師の神力に縋る運びとなったのである。
太古から呪術や占術が息づく楼蘭国で、病人に対してこういった措置をとることはそれほど珍しいことではない。ここでは、科学的に解明できないものには非科学的な力を用い、非科学的手段で解決できぬ事象は科学の力をもって究明する――といった具合に、一見相反するもの同士がそれぞれの力と領域を認め合うことで、いわば一つ屋根の下に同居しているのである。
まさに今。
薄暮の小径を、わずか数名ばかりの御許を従えた牛車が厳かに進み行く。艶やかな黒漆の屋形が、その縁を彩る金細工を夕陽にきらめかせる光景は、あたかも一枚の絵を眺めるような鮮やかさを放ち、萌える新緑に雅やかに映えていた。
陽は疾うに傾きかけていた。
「皇子様、じき陽も暮れます。少し風が冷たくなって参りましたので、簾をお閉めになったほうが」
傍らに従う若い男が囁いた。皇子の一の側近であり、彼専属の教師である。
「うむ、そうしよう…。それにしても、如月の里とやらはずいぶん遠いのだな、愁」
「!」
『愁』と呼ばれた教師から車内の篠懸の姿はまったく見えない。それでも愁は、主の声色にごく微かな変調を感じたようであった。
「皇子様、今しばらくご辛抱を」
短く言い置いて足早に隊列を追い越した愁は、先頭を歩く近衛・堅海の耳元へ何事かを命じ、程なくして一行は静かに歩みを止めた。
そうして愁は――。
「失礼します!」
言うが早いか牛車へ飛び乗り、簾を一気にめくり上げた。
「……」
果たして、おわす皇子はまだほんの少年なのであった。
年の頃は、十二、三といったところであろうか。碧みがかった銀の髪に、折れそうに華奢な身体。そして、青白く透けるが如き繊細な肌――。
それでも、その幼い顔立ちには、涼やかな気高さが確かに備わり、皇族らしい気品を遺憾なく窺わせる。
篠懸皇子は、細い腕で白磁の頬を支えながら、牛車の縁に寄りかかっていた。
「さ、どうぞお気を楽に」
跪いた愁が懐から取り出した小さな包みは白い粉薬が入っており、気分を落ち着ける作用がある。ぐったりとしな垂れる肩を慣れた手つきで抱き起こし、背後の供人から水の入った器を受け取ると、愁は皇子に薬を飲ませてやった。
小さく喉を鳴らして水を含み――。
「よく分かったな」
「ええ、分かります。もう何年もお世話させていただいておりますから」
ようやく篠懸は深いため息をついた。
遠くの空を、鉤に連なった雁がゆく…。
「もう暫くここで休みましょう。先ほど先方へ使いを遣りましたから、少々遅れても問題はありません」
「そうだな。少し…外の空気が吸いたい」
そっと手を取り、愁は皇子を山路へと導いた。まだ少し優れぬのか、おぼつかなげな足取りが見守る者の眼差しを不安にさせる。
やがて。
ささやかな風に触れ、夕焼けを仰いだ皇子の頬は、ほんのりと朱色に染まった。歳のわりに小さな爪先――それがそっと大地に触れた途端、一斉に沓音が響き、供人らはその場に平伏したのであった。
「ああ、どうか皆、楽にしてくれ。出先でさえその調子では、こちらも肩が凝って仕方がないからな」
照れくさそうにはにかむその姿に、空気がふわりと和らいでゆく心地がした。ここに控える者のみならず、山の木立も下草も、皆の髪をくすぐるそよ風さえも――。
(ああ、篠懸様…。本当にこの方は、何と素晴らしいお方なのだろう…)
まだあどけないこの皇子に、かねてより愁は他の皇族らとは異なる何かを感じていた。いや、愁だけではない。恐らくは、ここに控える誰もがそうだったことだろう。
なぜか。
それは、この国において高位の者が下々に対してこのような気配りを示すなど、あってはならぬことであるからだ。特に、彼のような皇族や高位の貴族が、召使いや下人といった下賤と馴れ合うなど、卑しむべき行為とされている。
だが、そんな風潮の只中に身を置きながら、なぜか篠懸は、自らよりもまず他の者を思いやる心をごく当たり前に備えていた。目上の者であろうと目下の者であろうと、彼の態度に隔てはない。
貴族連中の中にはそんな篠懸を嘲笑し、「これだから庶民出の妾の子などは…」と陰口を叩く輩も大勢あると聞く。それでも、そのすべてを承知しながら篠懸が自らの姿勢を崩すことはなかった。
そして、専属の教師として篠懸のお目付け役を仰せつかっている愁は、学問のみならず、皇族たる立ち振る舞いや心構え、各般の作法に至るまで、あらゆることを彼に身につけさせねばならなかった。つまり、立場上彼は、この篠懸の威厳に欠ける行為を改めさせるべきなのだ。
しかしながら、未だ愁にはそれができずにいる。
それは、無闇に権威を振りかざし、自尊心ばかりを重んじる皇族の在り方に、愁自身がずっと疑問を抱いていたため――そして、篠懸が頑なに持ち続けようとするこの心こそが、今の楼蘭国の指導者に必要不可欠な心だと、堅く信じていたためであった。
ある時、そんな胸の内を打ち明けると、篠懸は朗らかに笑ってこう答えた。
「そんな大げさなことではないよ。ただ、私のことを大切にしてくれる皆のことを、やはり私も同じように大切にしたいと思っている。それだけさ」
さて――。
この篠懸の母親で三番目の后でもある梓は、ある商家の娘であったが、忍びで都を訪れた現皇帝・蘇芳に見初められ、まずは妾として宮中へ召し上げられた。
この時、蘇芳には既に二人の后があったが、彼は殊のほか梓に寵愛を注ぎ、挙句、周囲の反対を押し切って強引に第三の后にしてしまった。
これら三人の后には、それぞれ息子が一人ずつあった。
梓の忘れ形見で、最も末の皇子である篠懸には、当然ながら皇位継承権などありはしない。世継ぎは、第一の后・白露の息子、水紅である。
それでも愁は、良き君主の資質を秘めたこの篠懸こそが世継ぎにふさわしい人物だろうと考えていた。無論、それは彼一人の願いに過ぎないが…。
ぼんやりと耽りながら愁は、御許らと和やかに語らう皇子の姿を見ていた。
今、この胸に湧く温かな想いは、まだ幼い彼を守り育む使命を与えられた自らへの喜び。篠懸という尊い皇子に付き従う、側近としての誇りに相違ない…。
ふと綻んだその時。
「愁!!皇子様を…!」
堅海の声に振り向けば、子連れの大きな獅子が、じっとこちらを睨んでいた。この季節に子育て期に入る天飛の獅子は、気が荒く神経質で、時として天敵であるはずの人をも襲うという。
咄嗟に愁は、篠懸を庇って立ちはだかった。こめかみを嫌な汗が伝う。
「皇子様、このままゆっくりと堅海の元へ。くれぐれも音をお立てにならぬよう」
「わ、分かった…」
深紅の瞳をぎらつかせ、獅子は威嚇を続けていた。激しく蹄が叩き付けられるたび、緊張と土埃が濛々と立ち上り、周囲を白く包んでゆく。
皇子の身柄を部下に預け、改めて短槍を構えた堅海は、身を低くして側面からゆっくりと獅子に近付いていった。
とにかく今は、皇子から注意を逸らさねばならぬ。
こうして武器を携えた人間に奴が素直に恐怖してくれるなら――そして黙って山奥へ退いてくれるのであれば深追いはすまい。
だが、もしも人と交えようというのであれば――。
ぐっと眉を結び、槍を握り直したその時、ついに獅子は堅海を見た。
ところが。
「!!!」
一瞬何かにびくりと身を震わせたかと思うと、なぜか獅子は向き直り、愁めがけて地を蹴ったのである!
轟に猛進してくる獣をしっかりと捉えながら、完全に竦みあがった愁の足はひたすらに凍り付き、もはや自由にはならない。
全身の血が引いてゆく。痛むほどの強烈な鼓動が、どくどくと闇雲に胸を打ちつけている。
「愁!!」
弾けるように叫んで、すぐさま堅海は駆け出した。だが巨大な獅子の足は思いのほか速く、とても間に合いそうにない!
供の静止を振り切り、篠懸もまた愁の元へと走った。
悲鳴が木々の狭間をこだまし、怒涛の地響きが迫り来る。
もはやこれまでか――!!
……。
………。
刹那。
「……?」
一体何が起こったのか誰にも理解できなかった。
「お怪我はありませんか?」
小鳥の囀りを思わせる朗らかな声に我に返った。見れば、ひどく小柄な少女が、愁の腕をしっかりと掴んでいる。
「き…君は…?」
「……」
少女は答えず、代わりに人差し指を唇に当て沈黙を求めると、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。
それでも、今しがたそこを駆け抜けていったばかりの獅子は、再び向きを変え、なぜか執拗に愁ばかりを狙うのである。まだまだ予断を許さぬ状況だ。
ところが、少女はひらりと前へ躍り出て――。
「さあ、森へお帰りなさい」
両手を広げ敵意のないことを示すと、あろうことか少女は獅子へ向かって歩き出した。
一歩。
また一歩…。
ゆっくりとした足取りで、少女は間を詰めてゆく。
「い、一体何を…!!」
誰もが息を呑んだ。
その一方。
滾る獣は一向に落ち着く気配を見せず、この次こそは仕留めてくれようと、けたたましく地を掻きながらこちらの隙を窺っていた。
「危ない…!やめなさい!!」
愁はありったけの声を絞ったが少女はまるで耳を貸さず、慎重かつ確実にその距離を縮めてゆくのである。
「いい子だから森にお帰り。誰も傷つけたりはしないから――」
と――。
まもなく獅子は地を蹴って、再び突進を開始した。
今、獅子の行く手には、少女がただ一人。ところが、少女はまったく逃げようとしない。そればかりか、なんと少女までもが獅子目掛けて地を蹴ったのである。
「!!」
堪らず目を覆う。誰もが最悪の事態を予想した――。
ぐっと狙いを絞り、堅海は槍を振りかぶる!
瞬くほど僅かな切迫の瞬間。
ガツン!
鈍い衝突音がして、立ち上る砂煙に視界一面が覆われた。
果たして少女は…!?
――やがて。
薄れ始めた砂塵の向こうに、誰もが目を疑った。
何ということだろう。
背の丈たった四尺半(約百三十五センチ)ほどのあの少女が、自らの数倍を優に超える大獅子を、易々と素手で押さえ込んでいたのである。
両牙を掴まれ完全に自由を奪われた獅子は、相変わらず猛り狂っている。それでも、そうしてもがいているうちに、獅子は少しずつ落ち着きを取り戻し始めたようだった。
そうして、ややあって――。
少女がそっと首筋をくすぐってやると、あれほど忘我に狂っていた獅子はまるで子犬のように頬を寄せ、気持ちよさそうに瞼を細めるのであった。
「はあ…まったく…。何という娘だ…」
そこかしこからため息が漏れ、ようやく緊張から解き放たれた篠懸もまたへなへなとその場にへたり込んでしまった。
「み、皇子様!?」
あたふたと駆けつけた愁に微笑んで、篠懸は自身の無事を告げた。
だが、それも束の間。
「愁!!おまえ、怪我をしているじゃないか!」
篠懸はぎょっと目を剥いた。
見れば衣の腿の辺りが裂けており、うっすらと血が滲んでいる。獅子が掠めていったらしい。
「ああっ!?ち、血が!あの…っ、大丈夫ですか!?」
血相を変えた少女が駆け寄った頃にはもう、あの獅子の親子の姿は消えていた。
「あ…。そ、そなたは一体…?」
戸惑う篠懸の前に、少女がふわりと跪く。
「はい…。名を紫苑と申します。如月の遊佐様にお仕えする者にございます」
一行の到着があまりに遅いので、心配した遊佐がどうやら迎えとしてこの少女を遣わしたらしい。
いつしか辺りはすっかり闇に覆われ、一行は柔らかな月灯りに照らされている。
「如月の里は、もうすぐそこです。ここから遊佐様のお屋敷まで、紫苑がご案内いたします」
ぺこりとお辞儀をして、紫苑はそそくさと愁の左側へ回った。
「あの…ちょっと背丈が足りないかもしれませんが、よろしければ紫苑に掴まってください。紫苑はとても力持ちですから、遠慮なさらなくても平気です」
言うや否や愁の手を取り、紫苑は先頭に立ってさっさと歩き始めた。
そして、一方――。
牛車に揺られながら、篠懸はこみ上げる笑いと必死に格闘をしいた。華奢ながら、決して小柄とは言えない愁を支えて歩く小さな少女の姿が、簾越しに見えていたからである。そして、そんな少女の付き添いを、何とか丁重に断ろうと四苦八苦している愁の姿も。
「紫苑――。花の名前か…」
ふと、独りごちる。
澄んだ空に丸い月がぽっかりと浮いている。冴え冴えとした夜風が、肌に心地良い。まこと鮮やかな清夜である。
ゆっくりと瞼を閉じれば、今しがたの戦慄の出来事や不思議な少女との思いがけぬ出会い――そんなすべてが、またありありと脳裏を巡る。
ああ、思い返すだけでまた胸がどきどきする。
宮中での退屈な日常の中では、こんな心地は感じたことがなかった…。
うっとりと息をつき、篠懸はまた声を潜めて笑った。
治療だ何だと理由をつけて、たらい回しにされた挙句のこの旅に、正直何の期待もなかったけれど、なぜか今度だけは、自らを変える特別なものになりそうな気がしてならない。
そして篠懸は再び目を閉じた。
そのまま心地良いまどろみの中へ堕ちてゆく…。
道端では、薄紫の紫苑が春風に揺れていた。
2. 仄かな想い
如月の里は、楼蘭国と紗那国の国境付近、天飛の山中に位置する小さな集落である。
ここを目指すには、昼なお暗く足場の悪い細道を何時間も行かねばならず、そういう意味でなら万人が好んで行くような場所とは決して言えない。だが、ここに霊力師であり祈祷師としても名高い遊佐なる人物が住まうとなれば話は別だ。
現人神とも囁かれる彼女に備わる神力はなかなかに確かで、楼蘭の民のみならず、紗那国から密かに国境を越えて訪れる者もあるという。
篠懸一行がこの里に到着したのは、暮れ五つ(午後八時過ぎ)をとっぷり回った頃で、既に周囲の家々からは夕食の香りがこぼれ始めていた。
遊佐の屋敷は、この里の最も奥まったところにあった。
「遊佐様、ただいま戻りました!」
元気に声をあげ、屋敷の奥へ消える紫苑。
待つこと暫し――。
白い小袖に朱色の袴をさっぱりと身に付けたうら若い女性が現れた。艶やかな黒髪を薄い肩の上に横たえ、ほっそりとした面に煌く黒い瞳が印象的な美しい女性である。
「ご一同様には、この夜分に遠路はるばるお疲れ様でございました」
女はふわりと跪き――。
「お初にお目にかかります。遊佐と申します」
手をついて、深々と頭を垂れた。
「ほう…。噂には伺っていたが、よもやこれほどお若く可憐なお方であったとは…」
――と、惚けっぱなしの堅海をこっそり小突き、愁は遊佐の前に突い居った。
「お世話になります。私は愁。こちらの楼蘭国第三皇子・篠懸様付きの教師です。これに控えるは、近衛長の堅海。他数名おりますが、何とぞよろしくお願い申し上げます」
続いて、
「篠懸と申します。どうぞよろしくお願い致します」
篠懸もきちんと居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。
匂い立つような高貴さと皇族らしからぬ謙虚さ、そして何にも染まぬ無垢な心をしかと宿したこの少年に、微笑を浮かべる遊佐であった。
* * * * * * * * * * * *
山間にそぐわぬ立派な屋敷には、供人の一人ひとりに至るまできちんと個室が用意され、愁と堅海の部屋は、篠懸の部屋の手前にそれぞれ整えられていた。何かあればすぐに駆けつけることのできる距離である。
とはいえ、時間が時間なだけに、ひと息つく間もなくじきに夕食となるはずだ。愁は、今夜の篠懸の膳だけは自分が直接部屋へ運ぶよう手配した。例の発作を起こしたばかりの篠懸の身を案じてのことである。
勝手場で膳を受け取り、足早に愁は廊下を進んだ。実のところ、こうして急ぐのにはもう一つわけがある。
ここへ到着後すぐに寝間を敷かせ、くれぐれも横になっておくようにと言い置いた愁なのだ。篠懸の方も素直に頷き、おとなしく寝巻きを着せられていたはずだ。
だが確かにその時、彼らしからぬ妙な素振りが覗いた――ような気がしたのである。いや、それもほんの一瞬のことではあったのだが――。
平素、年頃にそぐわぬ沈着さを備えた篠懸である。きっと宮という特殊な環境がそうさせてしまったのだろう。愁には彼が早く大人になりすぎてしまっているように感じられてならない。
物分りがよく、羽目をはずさず、周りの大人たちが、自分にどんな振る舞いを求めているのかを彼はよく知っている。ゆえに、その姿を当たり前のこととして演じてみせる。その上、堪えることや諦めることにもすっかり慣れてしまっている。自由の許されぬ身の上を、彼は彼なりによく理解している。
否――。
どうしようもないという諦めとともに、彼は自らの不幸を受け入れているのである。
もちろん彼には、それより術はない。だが、そこに無理があるのも事実だろう。そこへかの病がつけ込んでいるのやもしれぬ。
本来の彼なら――もしも彼が、あの年頃のごく普通の少年であるならば、もっと自由に様々な世界に触れ、遊び、学び、行動して、心の向くまま一心に、自らの歩む道を求めて良いはずだった。そうして人は、大人になる。そうして人は、人らしく自分らしく存在する意義を知るのである。
それなのに…。
「……」
ぼんやりと耽り、愁は深いため息をついた。
だからといって、この自分が何をしてやれるでもない。身分は理屈のものではないのだ。
しかし、それにしてもその彼が、先ほど僅かに見せたそわそわしい素振りは何だったのだろう。ややもすると、感情さえ表に出そうとしない彼の、あの不可思議な仕草は。
実はあの時、御許に着替えをさせられながら、篠懸は何度かふらりと眼差しを泳がせた。そして、あたかも夢の中にでもいるかのように何もない空間を眺め、微かなため息をついていたのだ。
幸い、そのおかしな素振りは、ほんの暫くの間に治まったが――あれはもしや。
まさか、また胸に違和感が――。
ところが、
「!」
そそと速められた足は、目指す部屋の目前でぴたりと動きを止めてしまった。
この先から微かに――そう、ちょうど篠懸の部屋の辺りから、何やら楽しそうな話し声が聞こえるのである。さすがに内容までは聞き取れないが、声の感じから察するにどうやら紫苑と篠懸の会話であるようだ。時折、屈託のない笑い声も漏れ届く。
ああ、こんなにあどけない篠懸の声を聞いたのはどれだけぶりだろう――。
そっと襖(ふすま)をずらし中を覗けば、仲良く縁側に並んで腰掛ける二人の子どもの背中が見えた。すっかり会話に夢中とみえ、こちらに気付く素振りもない。
その光景だけを見れば、まるで篠懸が皇子という不自由な立場でも特別な存在でもなく、ただの無邪気な少年のように見える。
ふと胸に、じんわりとしたものがこみ上げた。
そうか。
あの時の皇子様の、妙に浮ついた感じはきっと…。
「失礼します。皇子様、お食事のご用意ができました」
改めて部屋の外から声を掛け襖を開けると、肩を並べた二人が同じ顔をして振り向いた。
「あ…ごめんなさい。長居をしてしまいました」
照れくさそうに紫苑が笑う。
「お二人とも、何のお話をしておられたのです?ずいぶん楽しそうでしたね」
向けられたのは、抑えきれぬ心を映したありのままの少年の顔だった――。
「紫苑の日課について聞いておったのだ」
すっかり興奮しきったようにそう言うと、一体何事を思い出してか、篠懸はくすくすと肩を揺らした。
きょとんとした紫苑の顔が、そんな篠懸と愁の顔を交互に見ている。
「紫苑さんの――日課…ですか?」
膳を整えつつさり気なく問い返すと、篠懸は更に早口で言葉を続けた。
「紫苑はな、毎朝早くここから山頂近くまで歩いて登って、鳥と会っているのだそうだ」
「鳥…って、あの…空を飛んでいる鳥のことですか?」
「うん!それで話を交換するんだそうだよ。紫苑が体験したことや感じたことと、鳥が他の場所で見てきたものなどをさ。他の者が言うなら信じられない話だけれど、私は紫苑が言うなら本当だと思うんだ。だって、さっき獅子とも話をしていたからね」
ふと道中の出来事が思い起こされた。確かにあの時、紫苑はただ語りかけることのみで、荒ぶる獅子をいとも簡単に手懐けてしまったのである。
「なるほど…。しかし、紫苑さんはなぜ生き物の言葉が理解できるんです?何か遊佐様の元で特別な修行でもなさっているのですか?」
紫苑は困惑したようにふるふると首を振った。
「…いいえ。紫苑は遊佐様のお弟子ではないので、修行といったことは何もしておりませんが…。ええと、なぜなんでしょうね。紫苑にもよく分かりません。でも、生まれたときからずっとこうしているので…」
そうしてはにかむ紫苑の横から、突然――。
「あのな、愁…!」
口を挟んだのは、篠懸である。こんなふうに不躾に人の話へ割り込むなど、いつもの彼なら有り得ない。
「は…はい?」
我が目を疑う思いで向き直れば、いつになく真剣な眼差しがじっと注がれている。ただならぬ様子だ。
「どうなさいました、皇子様?」
しかし、その途端。
「あ、あの…」
言いかけては口ごもり、僅かに躊躇う素振りを見せた篠懸は、大きく呼吸して心を整えた後、ひと思いに口を開いた。
「じ、実は私も、その…紫苑とともに頂へ行ってみたいのだが…。構わぬだろうか…?」
さすがの愁も、これにはすっかり面食らってしまった。
天飛の頂上へ向かうとなれば、道は更に細く、恐らく牛車は使えまい。また、先刻のように獅子や他の野生動物に襲われぬとも限らない。
どうしたものか…。
「……」
そんな愁の胸の内を悟ってか、篠懸は小さなため息を漏らし、眼差しを落とした。
「やはり無理か…。いいんだ。困らせてすまなかったな、愁」
あんなに晴れやかで楽しげだった表情が、いつもの彼に戻っている。窮屈な宮中で、肩身の狭い宮中で――我儘の一つも言えず、ただ自分らしさを押し殺して、大人の振りを演じ続けてきたあの篠懸の顔に――。
それは、今の愁にとってたまらなく辛い姿でしかなかった。
「あ…。ええと、そ、そうですね…。堅海に相談してみないことには何とも…。でも、暫くお時間を頂ければ何とかなるかもしれませんね」
苦し紛れに答えると、見る間に篠懸の顔は晴れていった。これでもう愁は後戻りができなくなった。
「愁…!それはまことか!?」
「え…ええ、お約束します――が、いいですか、皇子様。明後日すぐにというわけには参りません。どうかしばらく私に時間をください。それと紫苑さん。あなたにも、色々と協力していただかねばなりません。お願いできますか?」
* * * * * * * * * * * *
紫苑と連れ立って中庭に面した廊下まで戻ると、突然愁は胸を押さえて立ち止まってしまった。
「し、愁様!どうなさいました?どこか具合でも…!?」
俯く顔を、おろおろと紫苑が覗き込んでいる。
「いえ…そんな…。そうじゃないんです。ありがとうございます、紫苑さん。まだ出逢ったばかりだというのに、私は…」
胸がいっぱいで、うまく言葉が続かない。
雲間から差し込む月光が、彼らを白く照らしていた。
「あの…何と申し上げたら良いか――。ただ、私は…。篠懸様のあのようなお顔を――あのように嬉しそうなお姿を久しく目にしていなかったもので、今…本当に嬉しくて仕方がないんです」
うっすらと浮いた涙を堪え、途切れがちに愁は言葉を続けた。
「すべて…あなたのお陰だと思います。今は感謝の気持ちで胸がいっぱいです。本当に…ありがとう」
「篠懸様はお優しくてとても素敵なお方ですね。そして愁様も」
ほっと緩んだ紫苑の顔に穏やかな微笑みが戻った。月映えの笑顔が目映い。
その小さな手を取り、愁は足元に跪いた。
「どうか…どうかお願いです。あなただけは、ずっと皇子様の良きお友達でいてあげてください。いつか皇子様が黄蓮へ戻る日が来ても、どうか時には皇子様のお顔を見に内裏へいらしてあげてください。勝手なお願いなのかもしれませんが、どうか…」
「愁様、紫苑のことは呼び捨てて下さっていいんです」
紫苑はゆっくりと頷いた。柔らかに微笑むその顔は、まるで天から舞い降りた女神だ。
「では…私のこともどうかそのように」
ああ、どうか願わくは、このささやかな絆の永久なることを――。
愁は静かに祈っていた。
* * * * * * * * * * * *
翌朝。
鳥の囀りで、篠懸はいつもより早く目を覚ました。
もちろん宮にも庭はあるし、小鳥の歌声とて聞いたことがないわけではないが、山で聞く鳥の声は、殊更に大きく力強く感じられる。
障子を開けると、生垣の向こうに紫苑の姿が見えた。
そっと目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは出会ったあの時の紫苑の微笑――途端に温かな気持ちがあふれ、篠懸の顔にも独りでに笑みが浮いた。
紫苑。
彼女をひと目見たときから仄かな何かを感じていた。初めて感じるそれが一体何なのか。そしてそれを一体何と呼ぶのか。幼い篠懸には分からない。ただただ彼女と知り合えたこと――それが素直に嬉しい。そう思った。
もっと一緒に――。
もっとたくさん話をしたい。
もっとたくさん話が聞きたい。
心からそう願う。
「紫苑…」
ぽつりと呟いてみる――と、あろうことか生垣の上にぴょこんと本人の顔が覗いた。どうやら聞こえてしまったらしい。
気まずさを覚えた途端。
「!!」
どくん!と、大きな音を立てて胸が震えた。
急に逃げ出したい衝動に駆られ、どぎまぎと慌てふためいているうちに、垣根の外側をぱたぱたと軽やかな足音が駆け抜け、
「篠懸様、おはようございます。気持ちのいい朝ですね!」
庭木の間から箒を持った紫苑がひょっこりと現れた。ふわりと柔らかな笑顔ともに。
「あ…。ああ、すまぬ。掃除中であったか。ん?それは…?」
篠懸の目は一点に釘付けとなってしまった。紫苑の頭の上に小さな青い生き物がちょこんと座っていたためである。
「あ。ええと…昨日お話した紫苑のお友達です。篠懸様のことを話したら是非お会いしたいと言うので…」
「!」
息を呑んだ。
目が覚めるほどの驚きと色鮮やかな喜びが今、篠懸の胸へ一度に打ち寄せ、溶け合いながら幾重にも重なり合って――そうしてそれは、瞬く間に彼の魂の中枢をすべて支配してしまっていた。
全身が熱い。
この感動を伝えたい。
でもうまく言えない。
声も出ない。
もう…体が心についてゆけない。
ああ、こんな時、一体どんな顔をすれば良いのだろう――。
ところが、そんな篠懸とは裏腹に、紫苑の表情はみるみる曇っていってしまうのである。
「あの…ほ、他にもお友達はたくさんいるんですけど、特にこの子はまだ小さいせいか、本当に好奇心が強くて…。で…その、もしやご迷惑でしたか…?」
ひどく不安げな顔を前に、篠懸はとうとう吹き出してしまった。
「あはは!やっぱり紫苑はすごいな!この鳥の名は何というのだ?名前ぐらいあるのだろう!?」
愉快だ、とても。
嬉しくて楽しくて体中がむずむずする。
無作法だろうと行儀が悪かろうと、もうそんなことはどうでもいい。
今はただ無闇に声を上げて大きな声で笑いたい――そんな何とも不思議に誇らしい気持ちだ。体の内から湧き立つ初めての激情に、五感のすべてが震えている…!
と――。
「!?」
ぴったり固まったままの紫苑らと目が合った途端、はっと我に返った篠懸は、慌てて言葉を加えた。
「あ…。い、いや、笑ったりしてすまない。別に馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ私は、そなたのようにいつも明るく自由で朗らかで…そ、その…生き物と自由に話す者を他に知らぬのだ。そなたと知り合えて本当に嬉しい、それだけなんだ。とにかく嬉しくて、楽しくて、つい…。だが、そのことで紫苑が気分を悪くしたのであれば謝る」
更にもうひと言。
「そして、そちらの紫苑の小さな友人にも。大変すまぬことをした」
篠懸は、ひどく神妙な顔になって頭を下げた。
「篠懸様が楽しいと仰ってくださるならば、紫苑も嬉しゅうございます。この子は椿と言うんです。もっとも、名前と言っても紫苑が勝手にそう呼んでいるだけなのですけれど」
「花の…名だな。そなたと同じ」
「はい」
力強い羽音一番、椿は舞い上がった。
頭上を仰いだ二人の上で、大きく旋回した小さな瑠璃は、そうして暫く青空に己の姿を映した後、ふわりと篠懸の肩へ舞い降りた。
忙しなく首を動かし、囀りかける小さな命。
時折頬に当たる微かな感触。
ささやかな鼓動と温もり。
そんな優しい息吹が生き生きと肌へ伝わってくる。
「……」
途端にまた胸が閊えてしまう。
この心はどう言葉にするべきなのだろう。
この感動はどう言えば彼女に伝わるのだろう。
「仲良くしてあげてくださいね、篠懸様」
顔を見合わせ、二人は微笑みを交わすのだった。
* * * * * * * * * * * *
愁と堅海は、離れ座敷で遊佐と向き合っていた。
「呪詛…ですか?」
「ええ。間違いはないかと」
衝撃的な内容とは裏腹に、遊佐の声はひどく冷静だ。
「な、何を馬鹿な!貴殿は、まだ篠懸様をいくらも見てはいないではないか!そんな状態で何が分かると言うのだ!!」
「やめろ、堅海!」
愁は、熱る堅海をすかさず制した。
楼蘭軍随一の巨体に、武人特有の厳しさを備える堅海。そんな彼の威圧的な態度にも、遊佐はまったく動じない。たじろぐどころか眉一つ動かさない。
「あれほどの強い呪詛、少しばかり霊力に覚えのある者ならば、ひと目で感じることもできましょう。もっとも…」
そこで遊佐は、なぜかちらりと愁を見た。
「あの方が体を崩される原因は、それだけではないようですが」
どきりと胸が鳴る。
そう――。
確かに愁には覚えがあったのだ。
もしもこの呪詛の話が事実だとして、それをここでうまく取り除けたとしても、宮にいる以上、篠懸の心が完全に晴れることはないだろう。心が晴れねばいずれまた身体にも影響は出る。つまりは、宮での生活そのものが篠懸の病を引き起こす原因の一つではなかろうか――。
そんな見当ならば、おおよそ愁にも付いていたのである。
だが、当然ながら、第三皇子である篠懸が宮を離れて生きることは叶わない。問題の根本は、篠懸自身が己の背負う宿命に折り合いをつけられるか否かに懸かっているのである。
愁は、そのことも良く分かっていた。
重ねて堅海が問う。
「で――、その呪詛とやらは祓えるのか?」
「そうですね…いくつか方法はありますけれど…」
遊佐は微かに眉を上げた。
「何か問題でも?」
「少々時間がかかります。そう…少なくともふた月…」
「「ふ、ふた月っ!?」」
二人は目をまん丸に剥いた。
内裏の想定では、長くて一週間程度――と踏んでいたのだから無理もない。当然、旅支度もその程度のものだった。
「そりゃまずいな。急ぎ内裏にその旨を伝え、長期療養の支度をさせねば…」
やにわに立ち上がり、堅海はあたふたと部屋を出て行った。部下の元へ向かったようだ。
すると遊佐は、
「うふふふ…」
突然肩を震わせて笑い出したのであった。
一体何がおかしいのか愁には理解できない。
「ええと、あの…遊佐様…?」
「ふふ。だって愁様、望んでおいでだったでしょう?」
「え…?あ、あの…それは一体どういう…?」
「これで皇子様も、暫くは羽を伸ばせましょうね」
胸を突かれた。愁の心は、完全に見透かされてされていたのである。
「確かに呪詛返しには時間がかかりますが、そう…せいぜい一、二週間もあれば、ある程度の成果は出ましょう。あとは皇子様ご自身の問題。篠懸様が、もっとお心を強く持たねば、また何者かに付け入られ、別のあやかしを呼び入れる結果にも繋がりかねませんから」
そこで不意に遊佐は声色を落とした。
「愁様――。真に恐ろしいのは幽霊や怨霊の類ではなく、生きた人間の心です。まだしかと見極めたわけではありませんが、恐らく篠懸様に呪詛を仕掛けた相手は、ごく身近にいらっしゃる今も健在のお方。まず、相手の力をよく知ることが肝要です。その後で、日を追って少しずつ相手に呪いを返します。もちろん相手もただで済むはずはありませんが、現状では、これがもっとも早く効果的な方法と考えられます。そして、こうすれば…」
「篠懸様の身近に存在する――つまり、宮に内在する皇子様の敵も、自ずと炙り出されてくるわけですね…」
愁は目を伏せた。
「ええ…。どうやら、敵にお心当たりがおありのようですね、愁様は」
「心当たりというか…。宮はああいうところですから、皇子様でなくとも身に覚えのない恨みを買ってしまうことは珍しくありません。まして篠懸様には母君のこともありますしね…」
呟く横顔が、何かを思いつめている。
「でも皇子様だけは!少なくとも私にとって、篠懸様はかけがえのない、たった一人の大切なお方。お仕えさせて頂いていることを、誇りにさえ思っているのです。ですから、私は…!」
知らず知らず高揚する自らに、愁はぐっと唇を噛み締めた。
そして、そんな愁の姿が語る痛いほどの想いを、遊佐もまたしっかりと感じ取っていた。
「お護りして差し上げたいですね…」
ふと愁は僅かに首を傾げた。
「遊佐様。あなたと紫苑は、なぜかとてもよく似ていらっしゃる。顔貌ではなくて…何というか、雰囲気――とでも言いましょうか。あの子は、あなたのお弟子でもお女中でもないのですよね?では、紫苑は一体…。あの不思議な少女は、どういう子なのですか?」
「少女――。そう見えますか、あの子が。そうですか…」
途端に遊佐は憂いを見せた。
「え…?あの…まさかとは思うのですが、違うのですか?男の子…??」
「いえ、いいのです。少女に見えるのならそうなのでしょう」
「…?」
やがて、ひどく神妙な眼差しが愁を射る。
「では、あなたにだけお話しましょう。今からお話しすることは、どうかここだけのことにしてください。お約束願えますか?」
遊佐は縁側の遣り戸を閉めた。
3. 胎内の記憶
篠懸は離れ座敷でたった一人、遊佐と向き合っていた。
薄暗い室内には、緊張に似た息苦しさばかりが凝り、時折、行灯の燈がちらついて、二人の影を揺らしている。
動くものといえばそれだけだ。
ひどく長く思えた静寂。先にそれを破ったのは、遊佐の方であった。
「皇子様、母上様のことを覚えておいでですか?」
「え…?」
思いがけぬ言葉だった。自分の病と母――そこに一体何の関係があるというのか?
「ええと…。私の母は、私が生まれてすぐに他界致しましたので、面差しは絵や写真でしか…」
「いえ、そうではなく、母君の胎内で見たことや聞いた音など、ご自身で感じたことを何か一つでも覚えておいでですか?どんな些細なものでも構いませんが」
篠懸は考え込んでしまった。会ったこともない母の記憶、まして胎内の記憶など持っていようはずがないではないか。
だが、そうして戸惑う一方でふと思い起こされたもの――それは、いつか夢で目にした光景であった。
夢であるはずなのに、指先に触れる感触から髪を梳く風の香りまで何もかもが鮮明で、思い起こすほどに体の奥底から無性に懐かしさが込み上げてくる。
あの場所…。
あの不思議な感覚。
もしや、あれがそうなのだろうか?
あれが、胎内の記憶…?
「そう言えば…。あまり関係のないことなのかもしれませんが、昔から…いや、今も時々同じ夢を見ます。一面の白い――淡桃色の花が咲き乱れる丘で、月夜にじっと私自身がうずくまっている光景。ただそれだけなのですが、なぜか妙に印象的で、それでいて穏やかで温かくて…言葉では尽くせぬ心地よさを感じます。でも、ただ…」
瞳を閉じ、改めて記憶を呼び起こす。
あの懐かしさにも似た気持ちをどう伝えればいいだろう。
あの胸に沁みる感情をなんと表現したらいいのだろう。
そして、あの――。
「冴え冴えとしたとても気持ちのいい晩なのに、そこに浮かぶ月が――爪のような月の色が、まるで燃えるような紅い色をしていて…。それを見るのが怖くて、私は俯いて花ばかりを眺めて…。そうすることで、何とか自分を失わずにいられる――そんな感じの夢なのですが」
行灯の燈がふらりと揺れる。
「紅い……三日月…」
ため息交じりに呟いて、遊佐は重い口を開いた。
「そうですか…。母上様も同じお気持ちだったと思います」
魂を貫くほど真っ直ぐな眼差し。その視野に触れているだけで、なぜかひどく心細い気持ちに囚われる。
「やはり梓様は、ご自身に掛けられた呪いの送り主をご存知だったようですね」
「は…母が、呪いを!?」
遊佐は頷き、言葉を続けた。
「篠懸様。胎内に宿ったあなたを、黙って見守るその花――我が身のみならず、我が子にまで迫る狂気を…篠懸様、あなたにだけは見せぬようにと咲き誇るその花こそが、梓様。あなたは、そんな母上様の大きな愛に包まれ、守られながらこの世に生を受けたのです。母上様の深い愛に抱かれ、微笑みながら…」
わななく瞳から大粒の涙が落ちた。
「で、では母は…!!」
悲しみと怒りが、渦を巻いてもつれ合う――。
「ええ。そのためにお命を落とされたのです」
「そんな…そんな…。そんなことっ!私のために母は!!」
握り締めた小さな拳の上に、大粒の雫がぱたぱたと散る。
「いけません、皇子様!決して皇子様のせいなどではないのです。どうかそんなふうにお考えにならないでください」
「しかし…!!」
そう声を上擦らせたきり、篠懸は言葉を失った。止め処ない涙が頬の上を流れては落ちる。
遊佐の瞳は篠懸を見ていた。察した愁らが駆けつけたその瞬間さえも――遊佐の深い瞳は、瞬きもせず篠懸だけをただじっと見ていた…。
「梓様はお幸せだったのです。あなたという素晴らしいご子息を授かり、無事にこの世へ送り出すことができた。その喜びを胸に、天へと上がられたのです。現世に微塵の恨みも残すことなく、今でも…今もあなたのことを、大層誇りに思っておられるのですよ」
「…!!」
ついに篠懸は崩れ落ちた。
(篠懸様…)
堪らず駆け寄り、愁はしゃくりあげる小さな肩をそっと抱き締めてやった。こうする以外、今の篠懸にしてやれることなど愁といえども何もない。
「皇子様…。この愁の気持ちも遊佐様と同じです。どうか、そんなふうにご自身をお責めにならないでください。ですが、篠懸様。愁は泣くなとは申しません。辛いなら…悲しいのなら、どうぞ思い切りお泣きください。私は、いつでもここにこうして控えておりますゆえ…」
篠懸は声を上げて泣きじゃくった。
様々な思いが一度に溢れ、もはや自身にも止めることなどできない。言葉にならぬ思いは涙となって、後から後から瞳を零れては愁の胸を濡らすのだった。
そして――。
もはや慰める言葉も励ます言葉も見つからず、愁は無言で篠懸を抱き締めるのであった。
* * * * * * * * * * * *
眠る篠懸を起こさぬよう、愁はそっと部屋を下がった。
廊下に堅海が控えている。
「皇子様は?」
「少し落ち着かれた様子で、たった今お休みに」
「そうか…」
心配顔がほっと緩む。
「俺は…あんな皇子様の姿を見たのは初めてだ」
「私もだよ。堅海、寄っていくか?」
「ああ…」
愁の部屋は、篠懸の部屋のすぐ隣である。
「辛いな…。篠懸様はまだ十二だというのに、あれでは…」
沈む堅海を横目に愁は窓辺に立ち、鮮やかな蒼天を仰いだ。
「ああ。だが、きっと今の篠懸様なら大丈夫。私はそう思う」
そう、あれでいい――。
ああして素直に気持ちを吐き出すこと。それこそが今の篠懸には必要なのだ。
「堅海、おまえは感じないか?あの方…この如月に来られてから、ずいぶんと表情が豊かになった。屈託なく声を上げて笑い、明け透けに泣きじゃくり――まるで普通の子どもじゃないか。宮中の取り澄ましたお姿よりも、よほど篠懸様を近くに感じられる。私にはそのことの方が嬉しい」
「なにをまた悠長なことを…」
そうして愁を窘めながら、堅海も内心では納得していた。
ところがである。
「ああ、それはそうと堅海。一つ相談があるのだが…」
そして、昨晩篠懸と交わした約束を切り出した途端――。
「愁、おまえは…!おまえという奴は、一体どこまで暢気なのだ!そんな危険なこと、皇子様の警護一切を任されているこの俺に、許せようはずがない!!」
「そう来ると思った…」
正直、予想はしていたことだった。
それでも――。
「当たり前だ!万が一にも皇子様の身に何かあれば…!!」
「無論、その時には私一人が責を負う」
「何を馬鹿な!!首が飛ぶぞ、愁!」
「分かっている。もちろん、分かってはいるが――」
ひたむきな瞳に、揺ぎない決意が宿る。
「あのように嬉しそうな篠懸様のお姿を見て、この私に断れようはずがない」
「な、何を…!!馬鹿者が!!」
「幸いここでの篠懸様に関する全権は、蘇芳帝より直々に私が預かっている。私の独断ということにすれば、堅海に――まして、他の者にも咎が及ぶことはないだろう」
一見、品行方正で温和な愁だが、一旦こうと決めた志は貫徹する強い意志と、とてつもない正義を胸に秘めた男であるということを、堅海は長年の付き合いからよく理解していた。
「家庭教師風情が、たかがこんなことに命を賭する必要はあるまいに…」
「篠懸様のためならば、私は何だってするさ」
愁は肩を竦めて笑った。
* * * * * * * * * * * *
あれから、どのくらいの時が経ったのだろう。
篠懸はふと目を覚ました。
ひどく昂ぶったせいか、まだほんのりと熱を帯びる上体をゆっくりと起こす。鈍い気だるさが体を包んでいる。鏡を見ずとも、瞼がぽってりと腫れているのが分かる。
額にかかる髪を掻きあげ、短いため息を一つつくと、篠懸は室内を見回した。
(誰もいない…)
目を移せば、赤く染まり始めた西の空が障子越しにも窺える。
「もう夕方…か」
誰にともなく呟き、ぼんやりとしていると、縁側の障子の裾で小さな丸い影が跳ねているのに気付いた。
「……?」
そろそろと立ち上がり、障子を開けてみれば――。
「つ、椿!?おまえ、まだこんなところに…!」
ぎょっとする篠懸を気にするでもなく、ひょいと肩に飛び乗った椿は、耳元で忙しく囀り始めた。
「まさかおまえ…。私を心配してくれるのか…?」
翼を震わせ椿は応えた。小さな生命のすべてが、ありったけの気持ちを篠懸に届けてくれようとしているのが分かった。
「そうか…。おまえは優しいな…」
瞼の内に、再び熱いものがじわりと湧いてくる…。
「大丈夫。今日だけだ、椿…。今日だけだから、そう心配するな。明日になればもう…泣いたりしないから…」
瞼を伏せた拍子に頬を伝ったものを、篠懸は衣の袖で何度も拭った。
その時だった。
「皇子様、お食事の用意ができました」
柔らかな声とともに廊下の襖が開き、そこから紫苑の顔が覗いた。
が――。
「ああああっ!椿!?」
ぎくりと体を揺らした椿と篠懸が同時に振り向く。
「すまぬ、紫苑。私が悪いのだ」
そう言ってしまってから篠懸ははっと俯き、照れ臭そうにくしゃくしゃと前髪で顔を隠した。
「椿は私のことを心配してくれただけ。その…だから、どうかあまり叱らないでやってくれ。頼む」
「叱るも何も…」
呆れ顔の紫苑は、篠懸の肩にぐっと顔を近づけ――。
「もう日が暮れるから泊めていただきなさい、椿。今日だけですよ!」
ところが椿ときたら、一向に悪びれるでもなく、相変わらず嬉しそうに囀り続けている。
紫苑はむっかりと顔をしかめたが――。
「……」
その顔を間近にしてか、あるいは熱のせいなのか…。
篠懸は、全身の血液が一気に沸騰するかような妙な感覚に戸惑っていた。
頬がやけに熱い。それを気取られるのが怖くて、それとなく顔を逸らす。
この胸の鼓動を彼女に聞かれてはいまいか――。
何より今は、そのことだけが気がかりだった。
「皇子様?」
恐る恐る視線だけを向けると、いつものきょとんとした顔が首を傾げてこちらを見ている。そんな仕草を見るにつけ、またも心臓がきゅっと縮んだ。
「あの…皇子様。ご迷惑でなければ今晩だけ椿をお願いできますか?朝になったら紫苑がちゃんと山へ送り届けますから」
「……」
無意識に息を止め、頷いた。今の篠懸にはそうするのが精一杯だった。
そして。
「では、お食事はこちらにお運びしますね」
ふわりと微笑みそう言うと、紫苑は部屋を出て行った。
どうやら何事も気付かれずに済んだらしい。張り詰めた糸が切れた途端、篠懸はへなへなとへたり込んでしまった。
「はあ…。一体、何だ?何だというのだ…。なぜこうも胸が早鐘のように…」
涙の跡はとうに乾いてしまっていた。
* * * * * * * * * * * *
障子越しに差す柔らかな月灯りの部屋で、愁はぼんやりと考えを巡らせていた。
「自動人形。そんなものが、実在しているというのか…」
書物の中でなら何度か目にしたことのあるその言葉――。確かそれは、目的に応じて自ら動く機械じかけの人形を指していたはず。
彼の知る限りの自動人形とは、身の丈一尺(約三十センチ)ほどで、お世辞にも人とは言えず、どう贔屓目に見ても、ただの人形以外の何物でもなかった。無表情でつるりとした顔に、関節ごとに切り離された金属製の部品。それらが互いに作用しあって動く仕組みが、挿絵を見ただけでも良く分かった。
(しかし…)
愁は、今朝の遊佐とのやり取りを思い出していた。
あの時――遊佐は、ひどく神妙な面落ちでこう言った。
「では、愁様を見込んで、あなたにだけお話しましょう。今からお話しすることはどうかここだけのことにしてください。お約束願えますか?」
愁が頷くのを見届けると、遊佐は遣り戸を閉めた。
そして。
「信じるも信じないも愁様次第ですが…。あの子は――紫苑は男でも女でもありません。それどころか人ですらないのです」
「!?」
ごくりと息を呑む。
「ここから更に山を分け入った所に古ぼけた小さな庫裡があります。十数年前、私と紫苑はそこで初めて出会いました」
「ど…どういうことなんでしょう?私には皆目…」
「ええ、私にも分かりません。ただ、出会った頃のあの子は――時々は声を出したり動き回ったりもしていましたが、顔に血の色もなく、言葉もひどく片言で…。とても魂を持つ者には見えませんでした。
実際、私がいくらあの子の心を見ようとしても、そこには何も無いがらんとした空虚が広がるばかりで…。虫や花でさえ生きているうちは心もあるし、息吹もちゃんと感じ取ることができます。でも、あの子にはそれがまったくない。それはつまり、生き物ではない――ということを意味していました」
「そんな!!では…。では遊佐様はあの子が人形だとでも仰るのですか!?」
にわかに表情を翳らせ、遊佐は言葉を続けた。
「そう…。確かにそう考えるしかありませんでした。ですが、思い切って名を尋ねてみると、ひと言、シオン――と、あの子は確かにはっきりとそう言いました。恐らくあの子を造った人がそう呼んだのでしょうね…。でも残念ながら、庫裡にそれらしい人物の姿はありませんでした。
それから私はあの子に様々なことを尋ね、様々なことを語り続けました。でもあの子は、時に音のような声のようなものを発するだけで、まるっきり言葉を話しません。そうこうしているうちに、突然シオンは立ち上がり、ふらふらと歩き始めたのです。私は慌てて後を追いました。歩きながらシオンは庭の隅に咲いた春紫苑の花を摘んで、それらを手に庫裡の裏へと回りました。そこには不自然に大きな石が一つ置いてありました。その前に蹲ったシオンは、摘んだ花を静かに手向けました。辺りにはそうして枯れた花々が幾つも散っていました。きっと…あの子は、これまでずっとそんなふうにそこに花を手向け続けてきたのでしょう。そして、きっとあの石は――」
「墓標ですね。恐らくは、紫苑を造った方の…。何と不憫な…」
「ええ…本当に。私もそう思いました」
遊佐は静かに目を伏せた。
「その日のうちに、私は紫苑を連れ帰りました。言葉でも何でも、教えれば教えるほど、紫苑は驚くべき速さでどんどんそれらを身に着けました。そうして言葉を自在に操るようになった頃、あの子は私に言ったのです。
『遊佐様、紫苑はいつか人になりたいのです』
とても驚きました。あの子の中に心が芽生えていると確信したからです。あの何もない空っぽの身体に、温かい赤い血潮が流れ始めた気さえしました。
以来私は、あの子に人の心というものを教えねばなりませんでした。話ができて自由に動けるだけではそれこそただの自動人形に過ぎない。でもあの子は違う。あの子はそんな物ではない。
私はまず、笑うことを教えました。どんなときにどんな顔で笑ったら良いのか。そして、人がどんな理由で、何を思って笑顔を見せるのか。あの子はそんなふうに人らしさを学びながら、今も成長を続けているのです。もちろん身体はあの通り、子どものように小さなままですが――」
――そろりと障子を開け、愁は夜空を仰ぎ見た。
天の真上では月が清しく輝いている。純白の月灯りが冷えた室内に斜めに差し込み、愁の後に長く濃い影を引いた。
と――。
「!」
屋敷から少し離れた岩の上に人がいる。
「あれは…」
紫苑だ――。
膝を抱え、ぼんやりと月を見上げるその顔は、昼間の遊佐の言葉を疑いたくなるほど生き生きと愛らしい。
やがて紫苑は、膝に乗せた頬を傾けた。
遠目だからだろうか。それとも彼女の過去を知ってしまったからだろうか。にわかに憐憫を蘇らせた愁は、再びぴたりと障子を合わせてしまった。
「皇子様がこれを知ったら…」
真っ先にそう思った。
まさか今そんな話を打ち明ける気はこれっぽっちもない。だが、いつかそんな日が来てしまったなら…。
篠懸様は、恐らくあの子に淡い恋心を抱いておられる。だからこそ、この事実が与える衝撃は計り知れない。とにかく今は、何としても篠懸様のお耳に入れるわけにはいかない。
そう改めて胸に誓う愁であった。
* * * * * * * * * * * *
しっとりと夜は明けた。
「おはよう、愁」
障子を開けると、驚いたことに正面の垣根の向こうに、まだ寝巻き姿の篠懸がいた。その上なぜか、彼の頭の上には見たことのない青い小鳥が乗っている。
「み、皇子様!?何というお姿!!」
「あ…。ああ、そうか。すまぬ」
篠懸は恥ずかしそうに笑った。
座椅子に掛けてあった羽織を掴み、慌てて駆け寄ると、篠懸の頭に蹲っていた小鳥があたふたと飛び退いた。
「山の朝は寒うございます。お身体に障りますよ」
「うん…そうだな。すまなかった」
幸い落ち着きを取り戻した様子である。愁は、密かに胸を撫で下ろした。
「おはようございます、皇子様。今朝はずいぶんとお早いですね。もしや、この…小さな鳥のおかげですか?」
「うん。どうしても愁には紹介しておきたかったんだ。私の新しい友達、椿だよ」
そう微笑んで手を差し伸べると、頭上で旋回を続けていた椿はちょこんと篠懸の指に止まった。
「ふふ…」
その姿に思わず目を奪われる。正直な姿をありのままに見せてくれる篠懸が、今はただしみじみと嬉しかった。
そうだ…。
そうなのだ。
紫苑がどういう素性の者であれ、そんなことは一向に構わない。これまで誰もが得られなかった、偽りのない篠懸様の笑顔を、ここにようやく取り戻してくれたのは紛れもなくあの子ではないか――。
篠懸の鼻先で、相変わらず椿は囀り続けていた。指先で軽く頬を撫でてやれば、つぶらな瞳をうっとりと細め、小さな友は応えてくる。
「今度はきっと私がおまえに会いに行くからな。ちゃんとこの顔を覚えておくのだぞ」
その時。
「篠懸様ーっ!」
大きく手を振り、ぱたぱたとこちらへ駆けて来る紫苑が見えた。
「ほら、椿。迎えだ。行って来い!」
再び指を掲げると、あたかもその言葉を理解したように、椿はぱっと飛び立った。
「可愛らしいお友達ですね」
「ふふっ。紫苑の紹介でな。昨晩、椿にも愁と同じことを言われたよ…」
「え…?」
戸惑う愁に、篠懸は穏やかな微笑みを向けた。
「いや、そんな気がしただけさ。辛いときは椿が傍にいる――そう言ってくれたような気がしたんだ」
晴れ晴れとした心を胸に、篠懸はいつまでも小さな友を見送るのだった。
4. たゆたう時の徒(いたづら)に
「なんだと?ふた月!?まったく愁も篠懸様も、公務を一体どのようにお考えなのだ!?」
嫦娥殿へ向かう石畳の廻廊を足早に進みながら、楼蘭国執権・常盤は感情的に声を上げた。薄暗いしじまに野太い怒号がこだまする。
小走りに後を追うのは、堅海の配下であり篠懸専属の近衛を務める久賀だ。この日彼は、篠懸の長期宮禁不在許可を得るために都へ戻って来ていたのである。
「しかし、恐れながらこれは、如月の遊佐様のご指示であり――」
言いかけた久賀を遮り、常盤は更なる大声を放った。
「そんなことは分かっておる!!それでも、だ!あと数日で、紗那の皇子がこちらにお越しになると言うのに、我が国の皇子が出払っておるなど、まるで格好がつかぬではないか!」
威圧的な視線が差し向けられたその時、二人の背後でコツリと微かな靴音が鳴った。
「ほう。では、この私だけでは箔が足らぬと…つまりそう申すのだな、常盤」
声の主を確かめるよりも早く、常盤と久賀は素早く際へ跪き、頭を垂れた。
「め、滅相もございません、水紅様!私は…私めは、決してそのようなこと――」
床を睨む眼を白黒させ、常盤はしどろもどろになって答えたが、その間にも近づく靴音は、一層大きく迫り、やがて平伏す彼の鼻先でぴたりと立ち止まった。
「ならば構わぬだろう?此度の紗那の来訪とて形式的なものなのだし、それに何と言っても篠懸は今、療養中なのだ。それで充分理由は立つではないか」
冷ややかに見下ろすは、年の頃は十八。艶やかな黒髪に切れ長の目元の涼やかな麗人――一見しただけでは女性と見紛うほどの美貌を持つ青年であった。
篠懸とは腹違いの兄・水紅である。
楼蘭国第一皇子で次期皇位継承者の水紅にそう嗜められてしまっては、さすがの常盤も返す言葉がない。じっとりと額に滲む汗を拭いながら、常磐はひたすらに床に額を擦るほかはなかった。
「はっ!仰せのままに…!!」
やがてうっすらと口元を緩めた水紅は、隣の久賀へと目を呉れた。
「戻ってしかと篠懸に伝えよ。公務は可能な限りこの水紅が代わって引き受けよう。そなたは、病を治すことだけに専念しておれば良い。くれぐれも大事に致せ――とな」
「はっ!畏まりました!」
即座に立ち上がるや敬礼し、久賀は速やかに皇子の御前を下がった。その久賀と入れ違う形で現れた男は、水紅皇子付きの教師・臣である。
「皇子様、謁見の時間に遅れます!さあ、お急ぎください!」
いずれ国を継ぐ立場にある水紅は、毎日決まった時間に下々の者と謁見する。こうして皇子と民とが見え、直に言葉を交わすことで、中央へ寄せる民衆の信頼を強固にすることが、その主たる目的だ。
その一方で民は、幾度も内裏へ足を運び、皇族や廷臣に自身を売り込むことで、上手くすれば各宮の出入り許可等、様々な特権を得ることさえ夢でなくなる。従って、謁見を申し出る者は内裏御用達を求める商人や、軍入りを切望する武人などが圧倒的に多い。
ところが、こういった連中は、どういうわけか皆似た雰囲気を持っていて、その上話す内容も、異国で手に入れた珍しい品の話だの名うての剣豪と一戦交えた話だの――と至極似かよったものが多いので、何年もそれらを聞き続けている水紅は、正直すっかり辟易しているのだが、それが公務とあらば、立場上逃げるわけにもいかない。
やれやれと肩を竦めると、水紅は、臣に追い立てられるようにその場を立ち去った。
* * * * * * * * * * * *
水紅が謁見を務める間、暇ができた臣は、中庭に設えられたせせらぎの畔に腰を下ろし、ひっそりと読書に耽っていた。
水面を渡って吹き抜ける風が心地良い。
今でこそ、水紅の専属教師という形でここに収まっている臣だが、元々は異国出の武人で、傭兵として各地を渡り歩いた経歴を持つ。
もっとも、その頃に負った傷が原因で現役を退くことを余儀なくされて以降は、様々な仕事を転々としながら細々と暮らしていたのだが、この特殊な経歴に目を留めた水紅皇子たっての希望で、偽の数学教師として宮中へ上がった。そんな臣が、実際に皇子に教示する学問は軍学である。つまり、表向きでは水紅付きの数学教師としながらも、その実、水紅専属の軍師として彼は仕えているのである。
やがて訪れるであろう戦乱の世に、水紅が――いや、楼蘭国と楼蘭国皇帝たる未来の水紅がきっと勝ち残るために、皇子自身が彼の宮入りを強く求めたのだ。
だが、この事実を知る者は水紅や蘇芳帝が信頼を置くごくわずかの人間に限られている。無論、他言は許されていない。
臣が、元来武人でありながら、堅海や久賀のように筋骨逞しい風貌を持たず、ほっそりと中性的な印象の男であることも、経歴の隠蔽に幸いしていた。
「…?」
突如、膝に広げた誌面に濃い影が落ちる。
「ふっ、今度は何の本だ?また、何事かつまらぬことでも企んでいるのではあるまいな、臣?」
毎度ながらの生意気な物言いに顔を上げると、逆光の中、腕組みをした水紅が臣を見下ろしていた。
「もう終わったんですか?ずいぶんお早いですね」
あてつけがましく音を立てて本を閉じれば、それをひょいと引ったくり、
「ああ、今日は来訪者が少なくてね。それよりおまえ、この本、統計学などではないだろう?」
水紅は、頁をぱらぱらと捲った。
確かに背表紙には『統計学概論』とあるが――。
「皇子様がお探しになっていた東方秘術の書物ですが」
僅かに顔を顰めた後、淡々と言葉を続けた。
「貴族連中は噂好きですからね。このように怪しげな物を堂々と宮に持ち込みなどしたら、何を言われるか…。ですからちょっと細工しておいたんです」
「そうか、待ちかねた。恩に着るよ、臣」
「どういたしまして」
満足げに頷いて、水紅は氷のような笑みを湛えた。
* * * * * * * * * * * *
楼蘭の都・黄蓮の内裏には、政治の実質的な拠所と皇帝の住居を兼ねた巨大な宮殿――嫦娥殿と、祭事の殆どを取り仕切る磨鑛殿、新旧の貴重な書物を納めた校書殿、品々に応じて造られた数々の宝物庫などの他に、それぞれ光の宮・風の宮・星の宮・水の宮と呼ばれる四つの美しい建物が存在する。
廻廊で結ばれたこれら四つの宮は、初代皇帝が后や皇子たちへの愛情の深さを示すために造らせたもので、現在は光の宮は水紅に、風の宮は第二皇子で現在行方の分からない香登に、そして星の宮は第三皇子の篠懸にそれぞれの住居として与えられており、残る水の宮については、この国の誇る宮廷学者らの住居兼書斎として利用されている。
香登皇子が消えたのは、もうずいぶん前のことになる。
香登の母親であり、第二の后・霞深は、ある有力貴族の娘で、まだ若くとても美しかったが人一倍独占欲が強く、金品でも名誉でも男の心でも、欲しいものを手に入れるためには、どんな手段をも厭わない――そんな女性だった。
その霞深が、皇帝の心を欲しいままにした時期もあるにはあったが、第三の后・梓が宮へ来てからはそれも叶わなかった。
霞深にしてみれば、自分よりもずっと齢上の梓ばかりがなぜそうも皇帝に愛されるのか、また、あれほどに自分を愛した皇帝の心がなぜ突然離れていってしまったのか――と、不満や疑念も多かったことだろう。
それが理由なのかどうかは定かでないが、ある日、何の前触れもなく霞深は姿を消した。
まだ幼い香登を宮に残して――。
そのまま香登は、ちょうど今の篠懸のように彼専属の教師・睦や、他の御許らを親代わりに十四歳までを宮中で過ごした。
ところが、今からちょうど二年前のこと。
十五の誕生日を目前にしたある日、彼もまた謎の失踪を遂げてしまう。
その一方。
香登失踪事件直後に専属教師の任を解かれた睦は、今も自らが専門とする学問『星読み(占術のひとつ)』の学者として、宮仕えを続けていた。
それぞれの皇子に付けられる専属教師というのは、その殆どが朝廷の抱える学者である。
彼らは、それぞれが専門の学問分野を持っていて、内裏の厚い擁護の元、日々研鑽を積んでいる。社会的地位も相当に高い。彼らの研究内容が実に多岐に渡っており、求められさえすればそれぞれの分野において、議会や諸大臣、執権、果ては皇帝にまで助言や意見を陳情する権利が認められているためだ。
国内に数多存在する学者連中が例外なく憧れ、その多くが自らの最終到達点と志すこの宮廷学者という身分は、学術研究を生業とする者にとっては羨望の地位であり、ここに学者の一人として名を連ねるということは、当然ながら大変な名誉でもあった。
睦は今、水紅の母・白露の前に跪いていた。
いつものようにさっさと人払いを済ませた白露は、冷酷な光を宿した瞳を細め、青白い右手を差し出した。促されるまま、先ずはその甲へ接吻けた睦は、やがてじっと見下ろす真紅の唇に自らの唇を重ねるのであった。
白露が四十三、睦が二十一――。
親子ほども齢の離れた二人のあからさまな関係は、二年前のあの時から続いていた。
もっとも、それを望んだのは白露の方で、彼女の口添えで何とか内裏に残ることができた睦に、それを跳ね除けられたはずはない。宮で暮らす殆どの人間が、彼らの関係を知りながら、それを公然の秘密としているのは、白露という人物をよく知る者たちがそれを察したためである。
齢を重ねるごとに離れていった夫の気持ち――。
もはや今の白露はそんなものに何の未練も持ち合わせてはいない。今の彼女にしてみれば、身近に置いたこの若いつばめ・睦の存在と、一人息子の水紅の成長こそが生きる支えと言えた。
情事を終えて白露の部屋を下がる時、偶然にも睦は、謁見から戻ったばかりの水紅と臣に出くわした。すぐさま膝を付き頭を垂れる。これがこの国の皇族に対する礼節の形である。
水紅は、ぴたりと歩みを止めた。
「睦。母上様は、変わらず健やかであらせられたか?」
もちろん水紅も彼らの関係を知っている。だからこその皮肉なのである。
折に触れ、睦は色々な人間から、こういった嫌がらせや中傷を受けねばならなかった。己の心の弱さが招いた結果と心の奥底では理解していたが、それでもまだ若い睦には辛いことだ。
「は、はい。水紅皇子様には、ご機嫌麗しく…」
平む睦に目も呉れず、水紅は憮然と鼻を鳴らした。
「ふん…。なにも、そなたが私の機嫌などとる必要はない。そなたは母上様がいつも健やかであるよう、心尽くしておりさえすればそれで良いのだ」
「……」
堪らず睦は目を伏せるのだった。
* * * * * * * * * * * *
篠懸が如月の里に滞在して、はや一週間という月日が過ぎようとしていた。
如月の春は、祭の季節である。
毎年、この時期に訪れる朔の晩に、ここ如月の里では、その年の秋の実りを占う祭が行われる。占者はもちろん、楼蘭の誇る霊能師・遊佐だ。
月明かりのない真っ暗な夜、屋敷近くに設けられた祭壇へと、大きな瑠璃鬼火でこしらえた提灯を手に人々は集い、吉凶の行方を静かに見守るのである。
今年も、いよいよ二日後にその祭が迫っていた。
その情報を聞きつけるや否やすっかり興奮した篠懸は、朝からそわそわと落ち着かなかった。勉強にもまるで身が入らない。
「愁、本当に私が祭を見に行っても構わぬのだな?」
歴史の本を広げていながらこのとおり、学習内容とはまったく関係のないことを口走る始末なのである。これでもう何度目だろうか。
開け放った障子から柔らかなそよ風が入り込んで、篠懸の代わりに本の頁を捲ってゆく…。
苦く笑って愁は空を見上げた。雲一つない上天気だ。
「皇子様――。ですから私は、先ほどから何度も構わないと申し上げておりますよ。但し、堅海も一緒です。よろしいですね?」
「うん、分かった。愁も堅海も一緒だな!」
無邪気な顔が、弾けんばかりに破顔する。
思えば、この屋敷へ来てからというもの、篠懸は一度たりとも発作を起こしてはいない。それどころか、傍目には、みるみる元気を取り戻しているようにも思える。
だが遊佐は、きっぱりとそれを否定した。
「それは、この付近に張り巡らせた結界の成せる業でありましょう。篠懸様のお体が良くなったということではありません。結界のお陰で、悪しき怪にお身体を犯されることがなくなったというだけのこと。長年の悪意に蝕まれたお身体は、そう簡単に癒せはしませぬ」
そんな言葉を思い出し、愁はにわかに神妙になった。
「でも皇子様。一つ愁にお約束ください。ご気分が少しでも悪くなられたなら、我慢せずにきっと私にお教えくださること。それを約束してくださらなければ、このお話はなかったことに」
篠懸はひどく慌てたようだった。
「わ…分かった、約束するぞ、愁!きっとだ!!」
つい愁の顔にも笑みがこぼれる。
「では…。あまり身も入らないようですし、歴史のお勉強はこの辺りで止めて、後は表で植物のお勉強と致しましょう。今日はとてもいいお天気ですよ」
「うん!」
篠懸の瞳は一層の輝きを湛えた。
* * * * * * * * * * * *
一方、その頃。
紫苑はひとり、天飛の山中で薪を拾っていた。小柄な体には不釣合に大きな背負子の脇では、愁に頼まれて摘んでおいた青い鬼灯の実が揺れている。
紫苑は女中でも召使いでもなかったが、この仕事と水汲みだけは、男手のない遊佐の屋敷で唯一力の強い彼女の仕事と決められていた。
適当な小枝を拾いつつ、紫苑は、柔らかな枯葉の積もる道なき道を、更に奥へと踏み入っていった。遊佐の屋敷はおろか如月の里からも離れ、ずいぶんと深く分け入ってしまったが、長くここで暮らす紫苑にとってこの山はどこも庭のようなものである。
突然――。
ぴくりと手を止め、紫苑は辺りを見回した。息を殺し、視線をずっと先へと凝らす。
ふと、遠くで山鳥が啼いた。
「あ!」
見開かれた瞳に映ったものは、一体何であったか…?
抱えていた薪を取り落とし、紫苑は更なる森の奥へと急いだ。そうしてついに辿り着いた場所で、紫苑は呆然と立ち尽くすのだった。
「……」
目前にそびえるは、この辺りでもっとも大きな楠の大木。その根元に、目を覆いたくなるような痕跡が鮮烈に残されていたのである。
剥き出しの根に絡みついた、夥しいほどの赤黒い染み。
何かを擦ったような生々しい跡の残る幹。
真新しい血液で染め上げられた枯れ草――。
尋常ではない。ひどく傷ついた何者かが、たった今しがたまでここに蹲っていたはずだ。
注意深く気配を窺うと、紫苑は、すぐ傍の茂みに慎重に近付いていった。
刹那。
「!!!」
目前の茂みから跳び上がった何かが、紫苑の頭上を飛び越えた。
即座に振り返れば、そこには――。
「……」
大きな鳥の頭を被った奇妙ないでたちの少年が、深々と矢の突き刺さった胸を押さえて立っていたのである。年の頃は篠懸と同じくらいか、もう少し上か――といった、うら若い少年だ。
露骨な警戒心が鋭い眼光へと形を変え、紫苑を一心に貫いている。その間もずっと、胸から滴る鮮血は彼の足元でぱたぱたと小さな音を立て続けていた。
「あ…あなた、血が…!」
言いかけたその時、大量の出血にもはや立ってはいられなくなったのだろう、少年は大きくよろめき、がくりと膝を付いた。
ところが。
「ばーか。迂闊に…寄って来るんじゃねえよ…!」
咄嗟に駆け寄った紫苑に、隠し持っていた苦無を素早く抜き、少年はその切っ先を白い喉元へと突きつけた。
少年の呼吸はひどく浅い。
ここで無理に抗うのは得策ではない――咄嗟にそう判断した紫苑は、そろそろとその場に腰を下ろした。少年の顔色と傷とを観察しながら、とにかく今は頃合を待つべきだと思った。
どうやら少年の方もまた、無下に危害を加える気は無いようだった。
いや、そんな気力も限界に近づいているということか…。
膠着の時――。
気を抜けば朦朧とする意識を、少年は今、持ち前の精神力だけで支えている。それでも血の気が失せたその顔は時折虚ろのものとなり、もはや殆ど焦点の定まらぬ瞳は、小刻みに痙攣を見せ始めている。
紫苑は、その僅かな彼の変調をも見逃しはしなかった。
「やあっ!!」
不意の隙をついて、紫苑は苦無を思い切り蹴り上げた。弾かれた得物が弧を描いて回転し、楠の根に深々と突き刺さる。
やがて、最後の武器を取り上げられた少年は、がくりと糸が切れたようにうなだれた――。
「も、もし…!お気を確かに!!」
しかしその言葉に応えることなく、少年は眠るように意識を失ったのだった。
* * * * * * * * * * * *
「……」
ふと瞼を開けると、少年は広い部屋に横たえられていた。枕元には、身に着けていた鳥の頭と衣服とが、丁寧にたたんで置かれており、更にその横には水差しと、小さな椀が一つ。
胸に刺さっていたはずの矢は、いつの間にかなくなっていた。
ならば――と、起き上がろうとしたが、傷ついた己の体は信じられないほど重く、ほんの少し動かすことさえままならない。その代わり、僅かに体が揺れた拍子に、胸の芯を鋼で抉られるような激痛が走った。
「ぐ…!!」
びくりと大きく身を震わせ、少年は激しく顔を歪めた。
情けない。これでは逃げ出すことはおろか、立ち上がることもできやしない――。
是非もなく、少年は改めて辺りを見回した。
誰か名のある者の屋敷の一角と思しき部屋は、八帖ほどの板間である。片隅では行灯の柔らかな炎が揺らいでいる。だが、それ以外には、家具も飾りも何もない。簡素な客間――といった感じだ。
部屋の北側は、恐らく他の部屋へ通じる廊下だろう。南側は庭に面した縁側であるように見受けられる。とはいえ、今はそれぞれが障子や襖で隔てられており、しかと確認できたものではないが…。
(果たしてここは何処だろう)
ふうっとため息をついたその時――。
「……?」
少年は息を殺し、耳を澄ませた。
察したのは、次第に近付いてくる何者かの話し声だ。すぐさま目を閉じ、少年は意識の戻らぬ振りを装う。
――そっと襖が開く音。
どうやら、誰か入ってきたらしい。
一人?
いや、二人…。
固く眼を閉じたまま、ひたすら気配を探り続ける。
一人が、別のもう一人の人物に囁いた。この声には聞き覚えがあった。
「ですから、だめですってば、篠懸様!ここでお待ちください!そうしていただかなければ、紫苑が愁に叱られてしまいます!!」
もう一人の声が答える。どうやらどちらも子どものようだ。
「そうは言うが、その少年は深い傷を負っているのだろう?それも、私と同じくらいの子どもだと言うではないか。気の毒に…」
「お気持ちは分かりますが、紫苑だって一度は刃を向けられた相手なんです。もしも、篠懸様に何かありでもしたら…」
「だが、今はもう武器など持っていないのだろう?ならば平気だよ」
「そういうことを言っているのではありません。篠懸様、本当にもう…。どうかお許しくださいまし…」
紫苑というのは恐らく、山で出くわしたあの小さな少女のことだろう――と少年は思った。そして、もう一人は篠懸。どこかで聞いた名のような気もする。しかし、それが一体どこで聞いたもので、どんな人物のことであったかというと、いくら考えても思い出せない。
他にもう一つ分かったこと――それは、彼らがどうやら自分に敵対するものではないらしいこと。それだけだった。
「そんなに心配しなくても…まだ動けねえよ、俺は」
小さく口を開いた途端――。
「「えっ…!?」」
戸口で揉みあっていた二人が同じ顔をして振り向いた――と思うと、もう次の瞬間には、結局そのどちらともがぱたぱたと枕元へ駆けつけてきたのだった。
「お気が付かれたのですね!」
少年の顔を覗き込み、紫苑は嬉しそうに声を上げた。
「まあな…」
「まだ傷は痛むのか?」
反対側から、もう一つの顔が覗く。見るからに育ちの良さそうな顔立ちの子どもだ。きっと貴族の子に違いない。
「あ…。ああ、少し…な」
ひどく心配そうな篠懸の顔に少年は驚いた。こんなふうに下賤を気遣う貴族など、初めて目にしたからだ。
「あの、良かったら…お名前をお聞かせくださいますか?」
紫苑は、少年の額に浮いた汗をそっと拭った。
「俺か…。俺は…氷見」
「そうか、氷見。おまえを助けたのは、この紫苑と申す者。そして私は――」
すかさず割り込んだ篠懸に、氷見は思わずくすりと眉を解いた。
「あんた、篠懸…様って、言うんだろう?」
「そなた…。なぜそれを知っておるのだ?」
少し呆れたように笑って、氷見は入り口の戸を顎で指し、
「あんな近くで、やいのやいのと喧嘩されちゃあな…。嫌でも聞こえるさ」
「あ…もしや、私がそなたを起こしてしまったのか?そ、それは…大変に申し訳のないことをした」
「……」
しゅんと小さくなる姿に、またも戸惑う。
実はこの少年――氷見は、卑しい身分であるが故、自分の生まれた土地ですらまともな人間として扱われたことがなかったのである。
「い、いや…。そんなことよりも礼を言う。助かった。心より感謝する」
しっかりとした口ぶりに、紫苑も篠懸もほっとしたようだった。
「さあ、お疲れでしょう?もう少しお休みください。また後で、お食事を持って伺いますから」
乱れた襟元を直してやりながら、紫苑はふわりと微笑んだ。
* * * * * * * * * * * *
紫苑とともに自室の前まで戻ってくると、二人の姿を見つけた堅海が眉を寄せて近付いてきた。
「一体今までどちらにいらっしゃったのです!あちこち探したんですよ、篠懸様っ!!」
大柄である上に元来地声の大きな堅海があまりに強い口調で責めるので、さすがの篠懸もびくりと肩を揺らして首を竦めた。
「い、いや…その…。堅海、実はな…」
まごまごと口ごもっていると、代わりに紫苑が口を開く。
「申し訳ありません、堅海様。篠懸様と一緒に、あの少年――氷見と申すあの少年の様子を窺いに行っておりました」
途端に堅海の表情は豹変した。当然のことである。
「な、何!?そなた、そのような得体の知れぬ相手に皇子様を!?」
「申し訳ございませんっ!」
声を荒げた堅海より先に、紫苑は床へ跪き、ひしと額を擦った。
すると。
「ま…待て!止めよ、堅海!」
慌てて篠懸は二人の間に割って入った。そして、
「紫苑は何も悪くはない!!私が無理についていったのだ!」
身を呈して紫苑を庇う。
とにかく篠懸は必死だった。自分の勝手のために、紫苑が責められる筋合いなどないと思った。
ところが――。
そんな篠懸の態度に胸を射抜かれたのは紫苑ではなく、むしろ堅海の方であったのだ。
「す、篠懸…様…」
背後に紫苑を匿いながら、ぐっとこちらを見据える澄んだ眼。それは、愛する者を守りとおす男の瞳――そのもの。よもや、篠懸のそんな眼差しが、これまで忠実に仕えてきた自分に向けられようとは。
堅海はひどく動揺していた。
と、その時。
「何事ですか、騒々しい!」
現れた愁が目にしたものは――。
「こ、これは一体…?何があったのです??」
毅然として堅海を睨む皇子の姿と、ひたすらにうろたえる少女。そして、すっかり毒気を抜かれて立ち尽くす大男の姿であった。
* * * * * * * * * * * *
自室に堅海を連れ込み、事の顛末を聞いた愁は、珍しく声を上げて笑った。
「わ…笑い事ではないぞ、愁!あの時、本当に俺は…」
必死の弁解を始めた堅海と再び目が合うと、またも愁は肩をひくつかせている。
「しかしすごいな、篠懸様は。堅海ほどの豪傑を、こうも簡単に倒しておしまいになるとは」
「おまえというやつは…。俺がこんなに心を痛めているというのに」
堅海が小さく舌を打つ。
七丈(約二メートル)を超えようかという巨体に、猛々しい筋骨を遺憾なく携えた楼蘭一の武人が、肩を窄め子犬のように小さくなっている。しかもそれが、ほんの齢十二の子どもの仕業というのだから、これを笑わずにいられようか。
ひととおり笑ってようやく落ち着きを取り戻すと、愁は言った。
「この件に関しては、日を改めて私からよく篠懸様にお話しておくことにするよ。それで構わんか、堅海?」
「あ…。ああ」
とはいえ、堅海の心配ももっともである。
「しかし、あの氷見という少年の素性は、少し調べた方がいいだろう。あの奇妙ないでたちは、もしや楼蘭のそれではないかもしれない。頼めるか?」
頷く堅海を認めると、愁は静かに立ち上がり、障子を開けた。
ああ、赤く染まった西の彼方を鳥たちが列をなして飛んでゆく――。
「ここでは誰もが成長し、変わってゆくのだな。何もかも…」
誰に言うでもなく、ぽつりと愁は呟いた。
* * * * * * * * * * * *
その夜遅く、任を終えて堅海の元へ参じた久賀は、任務完了の報告と水紅から預かった篠懸への伝言を具に伝えた。
「そうか。ご苦労だったな、久賀。今日はもう部屋で休んで構わんぞ」
「はい。では…」
一礼して去ろうとすると――。
「ああ、そうだ、久賀。すまないが、その伝言はおまえの口から直接篠懸様にお伝えしてくれ。明日で構わん」
「え…?ああ、はい。でも、どうしてです?」
そう尋ねられても、まさか先刻の篠懸とのやり取りを部下に話すわけにはいかない。狼狽する心を悟られぬよう、堅海は努めて冷静を装った。
「い…いや、俺はその…。少し急ぎの調べものができてな。暫くは手が離せそうにないんだ」
更に、紫苑が拾ってきた少年のことを手短に説明すると、驚いたことに、久賀はそんな輩に心当たりがあると言うのである。
「詳しく話せ」
久賀は、ある子どもたちの話を始めた。
「私も、それほど詳しいわけではありませんが…。人づてに聞いた話ですと、ここから更に北の紗那国・銀鏡の森に『銀鏡の鬼』と呼ばれる連中が隠れ住んでいるそうなんです。彼らは、金さえ払えばどんなに薄汚い仕事でも請け負う節操のない連中で、どうやらその殆どが未成年の捨て子たちで構成されているとのこと。かつて、紗那国のある地域では、口減らしの風習があったそうで、法で禁じられた現在でさえも、脱税目的で幼い子や老いた親を森に捨てに行くことがあるそうですが…」
「ふむ…。して、その薄汚い仕事――というのは?」
尋ね返すと、久賀は表情を翳らせた。
「具体的には、誰かを暗殺するとか、金品を奪取するとか…。要するに、そんな犯罪にも手を貸す連中――ということのようですね」
「な、なんと破廉恥な!」
堅海はにわかに拳を握った。人道を外れたことは許せぬ性質だ。
「その代わり、彼らは、世俗と離れた場所で生きる者――つまり、人間以外の存在であるとして、ひと目でそれと分かるような風変わりな格好をしていると聞きました。国から内々に免税されているとも…。万が一、それが事実なら、その存在は紗那に黙認されている節がありますね」
そこでやおらに久賀は声を潜めた。
「それはつまり、紗那が過去に…あるいは、今現在も、彼らを何らかの目的で利用することがある、そう見て良いのではないでしょうか?」
「……」
ふと注がれる不審の眼を察して、久賀は慌てて言葉を繕った。
「あ!あの、これは…かつて亡命目的で我が国へ侵入した不審者を取り調べた際に、たまたま聞いた話でありまして…。ですから、その…当時の私の上司にも、このことはきちんと報告済みなのですが…」
堅海はこの言葉に強い違和感を覚えた。同じ軍卒であるならば、当然皆が共有していてもおかしくない情報である。
「上司…?誰だ?」
「はい…。あの…臣様ですが…」
「臣…!!あいつか!分かった、久賀。もう下がっていいぞ」
忌々しげに舌を打ち、堅海は唇を噛み締めた。
* * * * * * * * * * * *
一応床に就いてはみたが、なかなか寝付くことができない。軽い気晴らしのつもりで、堅海は屋敷の外へ出た。
山岳特有の冷たい風が、もやもやする頭をすっきりと清めてくれそうな気がした。だが、さすがに新月が近いだけあって、頭上の月は細く痩せ、満足に明かりを得ることもできない。
薄暗い足元に注意を払いつつ、屋敷の裏手へ足を向けると――。
「?」
少し離れた岩の上に、小さな人影がある。
「あれは、紫苑。こんな夜更けに…」
仄かに差す月華の下――抱えた膝に顔を伏せるような格好で、紫苑はじっと静座している。
もしや、一人で泣いているのだろうか。
だとしたらそれは、夕方、自分が彼女を頭ごなしに怒鳴りつけてしまったことが原因では…。
脅かさぬように近付くと、思いがけず愛らしい笑顔が振り向いた。
「あ…堅海様。どうなさいました?まだお眠りにならないのですか?」
良かった…。いつもの紫苑だ。
だがあの時、よく話を聞きもせず、感情に言動を任せてしまったことを、この子が気にせぬわけはあるまい。
「いや、その…紫苑。先ほどはすまなかったな。いきなりそなたを怒鳴りつけてしまって」
堅海は、潔く頭を下げた。
「いえ、そんな…。篠懸様を思えばこそ当然です。堅海様は何も悪くはありません」
ふわりと柔らかな微笑みが向けられる。
月明かりに照らし出されたその顔は、温かく穏やかでまるで菩薩だ。
堅海はしばし目を奪われるのだった――。
「でも、あの篠懸様には驚きましたね」
紫苑はくすりと眉を開いた。
「ん…?あ…ああ、そうだな。あの方があのように激しく感情を剥き出しになさる姿は、正直俺も初めて見た。そなたのことがよほど大切なのだろうな…」
呟いた横顔がにわかに沈む。
「でも皇子様は…堅海様のこともとても大切に思っていらっしゃいますよ。堅海様と愁が祭をご一緒してくださると、それは喜んでおいででしたもの」
さり気ない言葉に救われる。ほっとして顔を上げれば、ちょうど目の前に紫苑の瞳があった。向けられた眼差しには、その中にいるだけで自然と心が安らぐ――そんな優しさを湛えていた。
「そなた…愁とはずいぶんと仲が良いのだな」
「え…?」
「いつも呼び捨てているだろう、あいつを」
「それは、愁がそうするようにと…」
「では俺のことも呼び捨ててくれて構わんぞ」
堅海は、にっと歯を見せた。いつしかその声色も、いつもの彼らしさを取り戻している。
「はい…?」
「年ならば俺の方が少し上だが、位で言うならあいつの方がずっと上だからな」
ようやく肩が軽くなった――と息をついた拍子に、大きなあくびが出た。
「さて、俺もそろそろ眠るか。そなたはどうするのだ?」
「紫苑は…もう暫くここに」
「そうか。ではまた明日な」
「はい。おやすみなさい、堅海…」
ひらひらと手を振り遠ざかる背中に、紫苑はひっそりと呟いた。
* * * * * * * * * * * *
生憎その日は、早朝から雨が篠突いていた。庭の草木を打つ雨音は一向に弱まる気配がなく、昼も間近の今でさえ、引っ切りなしに続いている。
それを耳にするにつけ、今夜の祭を心待ちにしていた篠懸の心は、ずんと沈んだ。
習字の練習もまるで上の空。ややもすると篠懸の筆は止まり、実に恨めしそうに外を睨んでばかりいる。
「皇子様、もう少し集中していただかないと」
そうして嗜めてやれば、また熱心に筆を進め始める。だが、実のところ今日の篠懸は、ずっとこんな調子で、少し書いてはまた休み――を何度も繰り返しているのである。
業を煮やした愁が、障子を閉めようと立ち上がったその時だった。
「皇子様、お勉強中に失礼致します」
すっと廊下の襖が開き、五寸(約十五センチ)ほどもある大きな鬼灯を三つも抱えた紫苑が姿を見せた。
「鬼灯の提灯ができましたのでお持ちしました。こちらに置いて構いませんか?」
紫苑は軒先の雨のかからない場所を選び、一つずつ丁寧に鬼灯を吊るしてゆく。
「しかし、紫苑…。この天気では、祭など――」
すっかりしょげ返った篠懸の傍らに膝を付き、紫苑は彼方の空を指差した。
「大丈夫。もうすぐ雨は止みますよ」
おずおずと顔を上げた篠懸に、
「ほら、篠懸様。向こうの空がもう明るくなってきています」
示されるまま目を凝らせば、確かに黒い雲の隙間に光が差してきている。
篠懸の心の方は一気に快晴へと向かったが――。
「となると、困ったな…。実は皇子様。今朝早く、急な用事で堅海が都へ発ちました」
今度は愁の眉が曇る。
「この雨では祭は延期されるだろうと、今朝方とり急ぎ出立したのです。今晩の供は――そう、久賀にでも頼みましょうか…」
ようやく戻った笑顔がまた沈んだ。
「堅海は…私に黙って帰ってしまったのか…」
篠懸はそっと筆を置いた。
「私があのような態度をとってしまったことを、やはり怒っているのかな…」
「え…!そんな、まさか!誤解です、篠懸様。堅海はまたすぐに戻って参ります。皇子様に黙ってここを発ったのは、本当に急な用事で仕方がなかったからです。朝も早く、まだ篠懸様はお休みでしたし、それに――」
貴い身分の篠懸から見れば、堅海など側近の一人に過ぎない。それでも、そのたかが従者の胸の内をも、これほど彼は気にかけ心を痛めるのである。
愁は、そんな篠懸が心から愛おしく、誇らしく思えた。
「あれほど篠懸様を愛しているあの男が、よもや篠懸様を蔑ろにするはずがないではありませんか」
ため息のように漏らすと、紫苑の口元にもほんのりと微笑みが浮かんだ。
* * * * * * * * * * * *
ちょうど久賀と入れ替わる形で山を降りた堅海は、その日の昼前には都に到着していた。
慌てて戻ってきたのにはわけがある。皇子の楼蘭国訪問を数日後に控えた紗那の使者が、その打ち合わせのために、この日、黄蓮へやって来るのを知っていたからだ。彼らから直接、銀鏡の鬼に関する情報を得ようと堅海は考えたのである。
ところが。
真っ直ぐ内裏へ入り、水の宮へと足を向けたその時、石畳の道の先で、数名の警護兵が慌しく入り乱れているのに気付いた。どうもひと騒ぎ起きているようである。
「なんだ、なんだ!一体何事であるか!」
内裏へ詰める軍卒の中でも、皇族直属の近衛といえば選良中の選良である。警護兵や衛兵などとは格が違う。
兵士らはすぐさまその場を退き、際に控えた。
果たして、そこには――。
両腕を結わえられ、自由を奪われた睦が蹲っていたのである。
乱れた衣の裾は綻び、噛み締められた唇の端には、うっすらと血の朱色が滲んでいる。事情は分からないまでも、睦が彼らに無下に扱われたことだけはひと目で分かった。
「な…!睦殿!?」
ぎょっと目を剥いた堅海は、即座に周囲の警護兵を睨みつけた。
威圧的な眼光に触れ、兵士らは一様に竦みあがる。
「うぬら…!一体これはどういうわけだ!事情を説明しろ!!」
毅然と進み出た一人が、恐る恐る言うことには――。
「恐れながら我々は、皇后・白露様のご命で、罪人を牢へ引っ立てておった次第。その我らが、ここで堅海殿に叱咤を受ける謂れはないと考えますが」
「何だと…!?」
即座に反応した眉が吊り上る。兵士らは再び凍りついた。
「宮廷学者様と言えば、貴様らよりも遥か身分も高く尊いお方ばかり!!どんな理由があるにせよ、それをこのように大勢で…。恥を知れ、馬鹿者が!!牢へは、この堅海が直にお連れする!貴様らはさっさと下れえいッ!!」
有無を許さぬ迫力に、兵士らは逃げるように立ち去ったのだった。
「だ…大丈夫ですか、睦殿。同じ軍卒として、心より申し訳なく――。代わって平にお詫び申し上げます」
堅海は膝を付き、よろめく睦に手を差し伸べた。
「いや…。こちらこそすまなかったな、堅海。しかし…そなた、一体なぜここに?篠懸様の供をしていたのではなかったのか?」
縄を解いてやると、睦は、唇の端に滲む血を袖でそっと拭った。
「はい。少し調べ物があって、今しがた戻りました。折り返しまた如月へ参ります」
「そうか…。それで、皇子様のお加減はどんなご様子だ?お元気にしていらっしゃるのか?」
「ええ、驚くほど顔色も良くなられて…。ところで睦殿。白露様は、一体どういう…。あ、いや、差し支えなければですが…」
手首に残る戒めの傷をさすりつつ、睦は不意に表情を翳らせた。
「ここ数日というもの…あの方は、何かにひどく苛立っておられて…。恥ずかしながら、実はこのようなこともこれが初めてではなくてな」
(やはり、悪いことを尋ねてしまったようだ――)
急にばつが悪くなって堅海は視線を泳がせる。しかし、それでもなぜか睦は言葉を止めようとはしなかった。
それどころか――。
「お飽きになったのかもな、私に」
小さく肩を竦め、睦は笑った。
「え?あ…!い、いや…しかし、それは…」
咄嗟の返答に詰まる。
彼らの公然の秘密については、もちろん堅海とて知っている。しかし、よもやここで、睦本人の口からそんな言葉が出るとは…。
眉を解き、睦は口元を緩めた。
「隠すな、堅海。知っているんだろう?もっとも――この内裏に、私と白露様のことを知らぬ者などないか」
「……」
ろくな言葉も返せぬまま、堅海の視線はついには足元へ落ちてしまった。
「あの方…。近頃は、何かある度にひどく感情的になられて、時折こうして私を牢へ追いやってしまわれる。それなのに、ほとぼりが冷めれば、またその命を取り下げ、その日のうちに私を寝間へお呼びに…。もう、そんな暮らしにも疲れてしまった。こうまでして、あの時内裏に居座らねばならぬ理由など、本当にあったのだろうか。あのまま――香登様同様、私もここから消えてしまえばよかった…。今更ながらそう思う」
「睦殿――」
何も言ってやれなかった。どんな顔をすべきなのかも分からなかった。
「あの篠懸様のお傍で篠懸様のことだけを考え、篠懸様のためだけにすべてを捧げられる。そんな風に生きていられるそなたや愁のことが、私は心から羨ましい。私だって…。私だって、本当はそう在りたかった…」
俯いた顔は枝垂れる前髪にすべて隠れてしまい、もはやその表情まで窺い知ることはできない。
ただ――。
そこから、透明な雫がいくつも散るのを、何とも言えぬ辛い気持ちで堅海は見ていた。持ち合わせた手拭を黙って差し出す――それだけが、今の堅海の精一杯の誠意だった。それ以上、今の彼にしてやれることは何一つないと思えた。
* * * * * * * * * * * *
水の宮の一室では、午前中から打ち合わせが始められていた。
もちろん、本来なら如月にいるはずの堅海に、同席する権利などありはしない。
まだ時間がかかりそうである。
部屋の前に設えられた長椅子に腰を下ろし、おもむろに腕組みをすると、堅海は静かに目を閉じた。
先刻牢へ送り届けた睦のことが頭から離れない。
周囲に蔑まれながら、甘んじて宮中に身を置かねばならぬ辛苦。もちろんそれは、睦自身が望んで招いた結果に他ならない。
だが恐らくはきっと、恵まれた環境で研究を続けたかった――それだけのことなのだろう。当時まだ駆け出しの一学者であった睦が、そんな純粋な欲望を抱いたからといって、誰がどうして責められようか。
(そして、もしも――。もしも、香登様が宮に残っていてくださったなら…)
そう…それだけで、彼の人生は大きく変わっていたはずなのだ。
ずば抜けた星読みの才を持つ睦。もしも今も香登皇子がここにいて、彼がその傍で仕えていられたならば、今頃はきっと宮廷学者の頂点にまで登りつめていたことだろう。
しかし――。
睦が宮を出るなどということを、今更ながら申し出たところで許されるはずはない。かと言って、香登のように極秘裏に宮を抜ければ、間違いなく睦の身はただでは済まぬ。白露とはそういう人物だ。
堅海の胸は、いたたまれぬ思いに沈んでいた。
そうして様々な思いを巡らせながら半時(約一時間)ほど待っていると、ようやく重い扉が開かれ、ぞろぞろと中から人が出てきた。
即座に立ち上がり膝を付く。
すると――。
「堅海殿…?もしや、堅海殿ではないか!?」
嬉しそうに声を上げ、近付いてきたのは、紗那国軍の准将・来栖なる人物であった。
紗那国と楼蘭国では、政府や軍部の組織構図がずいぶん違う。特に紗那軍については機関の細分化が進んでおり、そのため官職の役割や軍職の呼称も楼蘭とはまるで異なる。
この来栖なる人物は、軍職で言うなら上から四番目の地位にある人物であった。
「お久しぶりです、来栖殿」
実は、堅海の目的は、まずこの男に会うことにあった。
「確か、一昨年の大会以来か?まことお変わりなく、嬉しく存ずる」
軍の将校とは思えぬほどの人懐こさを浮かべ、来栖は再会の握手を求めた。
一昨年に開催された、紗那と楼蘭の友好親善を目的とした武闘大会――。その決勝において、この二人は互いに槍を交えた相手である。この勝負では、既のところで何とか勝利を収めた堅海も、腕はほぼ互角であったと記憶している。
「来栖准将、知り合いか?」
別の男が近付いてきた。
服装や物腰から察するに、紗那の――それも軍の者ではなく、政府の人間のようだ。
堅海はさっと踵を合わせた。
「おお、橘殿!紹介致そう。こちらは楼蘭の第三皇子・篠懸様の近衛長を務めておられる堅海殿だ。若いながらも、なかなかに素晴らしい槍の使い手でしてな。この方のお陰で、あの日、私は奇しくも準優勝に甘んじる羽目となってしまった」
無造作に結った頭を掻き、来栖は照れたような苦笑いを浮かべている。
「なるほど、そうであったか…。堅海殿、私は橘と申します。若輩ながら、国では印南宰相の補佐を務めております。以後お見知りおきを」
橘と名乗る若い男は癖の無い微笑みを浮かべ、右手を軽く差し出した。
(この柔らかな物腰と、それでいてどこか抜け目のない雰囲気…。どことなしに愁と似ているな…)
ふと堅海はそう思った。
「おお、ちょうどよい。堅海、そちらのお二方を広間の方へお通ししてくれ」
常磐の声が響く。
* * * * * * * * * * * *
紗那の二人とともに御影石の廻廊を歩きながら、終始堅海は様々に寄せられる質問に答えねばならなかった。幸いその内容は世間的なものばかりで、返答に困るようなことはなかったが――。
「それにしても、この黄蓮の都は本当に美しいところですね。自然と文明との間でうまく調和が図られているのが実によく分かります」
橘は感嘆の声を漏らした。
積極的に近代化を進め、更なる躍進を続ける紗那の政治家とは思えぬこの言葉には、正直、堅海も面食らってしまった。かの国に暮らす彼らにしてみれば、この隣国の田舎ぶり、恐らくは原始的にさえ映るのだろうとすっかり高をくくっていたからだ。
察した橘は言葉を加えた。
「いや…。お恥ずかしい話ですが、我が国の都・扇では、もはやこのように美しく輝くような花木も水も…。そして、この澄んだ大空でさえ目にすることは叶いません。我々はそれまでそこに在った自然の営みを顧みることも忘れ、利便のため効率のためと闇雲に機械化を推し進め、その果てに多くのものを失いました」
隣では神妙な顔をした来栖が俯いている。
「あ…。で、ですが…紗那は、とても暮らし良い国だと言うではありませんか。素晴らしく足の速い乗り物や、遠方の者とでも会話のできる機械など…。お噂は、人づてにこの私も聞き及んでおりますが…」
今の紗那と楼蘭には一応の国交があるとはいえ、それは表向きだけのことでしかなく、互いの国民が国境を自由に行き来することは許されてはいない。つまり、こちらから紗那へ行くことができるのは、目的をはっきりと証明でき、尚且つ朝廷の許可が得られた一握りの人間だけなのだ。従って、堅海ら軍の人間といえども、持ち得る情報は乏しい。
兎にも角にも、知る限りのなけなしの情報を掻き集め、堅海は精一杯無難な言葉を返した――つもりであった。
不意に来栖が振り向いた。
「堅海殿は、それが国の豊かさと同義だとお考えか?」
「いや、それはその…私には、そういったことはよく分かりません。ですが、国家の要人であるはずのお二方が、一兵卒の私などにそういったお話をなさるのはどうも…」
しどろもどろになって言うと、やがて橘はふっと眉を解いた。
「確かに。それはごもっともですね」
「なるほどな…。おかしなことを申してすまなかったな、堅海殿」
再び破顔した来栖は、堅海の肩に手を置いた。
5.空に輝く星のごとく
広間では、紗那の客人をもてなす簡単な宴が催されており、執権・常磐と数名の大臣、そして第一皇子専属教師の臣が、彼らと卓を囲んでいる。
一方。
当然のこととして、そこに加わることの許されぬ堅海は、談笑の漏れる廊下で、またしばらくの時間を潰さねばならなかった。
だが、これさえ済んでしまえば、あの二人にようやく本題が聞き出せる。
ふと目を向けた窓外の彼方に、うっすらと雲を纏った天飛山が見えた。
「皇子様は…まだお怒りでいらっしゃるのだろうか…」
ふと、そんな思いが口をつく。
(結局あれから、お会いすることも言葉を交わすことも出来ずに、黙って屋敷を出てきてしまったが…。もしかしたら、そのことでまた腹を立てておられるかもしれないな)
ぼんやりとため息をついたその時、広間の扉が開き、そこからひょっこり臣が顔を出した。
「堅海。常磐様がお呼びだ。入れ」
「え…?あ、はい。畏まりました」
何がなんだか分からぬまま、それでもとにかく扉の内側へ滑り込めば、取り巻く眼が一斉に堅海を見る。にわかに恐縮しつつ一礼して、堅海は常磐の傍らに跪いた。
「ああ、よいよい堅海。楽にせい。実はこちらの橘様が、そなたを大層気に入られたご様子でな」
顔を向けた拍子に目が合うと、橘はにこりと瞳を細めた。
「私ども相手では退屈かもしれませんが、どうかご一緒してくださいませんか、堅海殿」
「い…いや、退屈などとめっそうもない!では、失礼して…」
あたふたと用意された席に着く。
「堅海殿。今はな、ちょうど――そら、先ほどの自然と都の調和について話しておったのだ」
手ひらの内側で声をひそめるふりをして、来栖はにっと歯を見せた。
「我が国も見習いたいと思ってね…」
そう言って頷くと、橘はおもむろに皆を見渡した。
「そういったわけで――。つきましては我が国の現状を、ご高名なこちらの宮廷学者様方にご覧いただき、貴重なお知恵を拝借願いたいのです。もちろんそのようなこと、今この私の一存のみで決められるものではありませんが、ご了承いただけるのであれば、すぐにでも宰相らと相談させていただきたい。まるで都合の良い話と、皆々様にはさぞ思われることと存じますが、何とぞご一考賜りたく…」
そう言って、紗那の二人は深々と頭を下げた。
これまでにも紗那の使者が楼蘭を訪れることは何度もあったし、それぞれの皇子が互いの国へ出向くのも今回に限ったことことではない。しかし、これほど腰の低い紗那の姿を見た者がここにどれだけあったろう。それも宰相補佐と軍の准将といった、地位も名誉もある人物が――となると尚更である。
会場はにわかにどよめき、誰もが戸惑いを隠せなかった。
常磐の額に玉の汗が噴き上がる。
「い…いや、どうか…!どうかお顔をお上げください、橘様!来栖様も…!!」
そして――。
「ああ、そうだ。この願いが実現した暁には、どうか堅海殿もご一緒に…。是非一度、我が国へお越しください」
顔を上げた橘は、なぜか真っ直ぐ堅海を見ていた。
* * * * * * * * * * * *
その後つつがなく宴は終わり、夕方近くになってようやく堅海は橘らに声をかけることができた。
「橘殿、来栖殿。実は少々お伺いしたいことがあるのです。お手間は取らせませんので、どうか少しばかり私にお時間をいただけないでしょうか?」
警護兵らに下がるよう合図を送り、堅海は紗那の客人を星の宮の庭園へ連れ出した。
内裏に数ある庭園の中でも、特に、この時期のこの庭の美しさは格別だ。
目にも鮮やかな新緑の下では、色とりどりの躑躅の絨毯が広大な庭の奥へ向かって敷き詰められ、脇で枝垂れる小手毬の枝々は、そんな彼らの雄姿にわずかばかりの色を副えるよう可憐な弓を重ねている。中央に鎮座する翡翠色の池では、ひと足早く天を目指し始めた蓮の蕾のいくつかと、周囲を縁取る花菖蒲の紫がそよ風に踊り、負けじと畔で胸を張る立葵――まだ盛りには早いそれらの目前では大輪の芍薬が絢爛たる篝火を点している。
仄かに漂う白丁花の香り――これは、いったいどこから流れてくるものだろうか――。
えもいわれぬ美しさに、二人は素直に息を呑んだ。
「ああ、これはまた美しい」
「なんと幻想的な…」
そんなため息ばかりが漏れる。
「喜んでいただけてよかった。さて、実は――このような場で無粋な話かとは存じますが、此度、私がお尋ねしたいことというのは、銀鏡の鬼――と呼ばれる存在についてなのです。ご存知であられますか?」
そう堅海が切り出した途端。
「――ああ、彼らならば…」
「待て、准将」
素直に応じた来栖をすぐさま制し、橘は訝る素振りを見せたのである。
「堅海殿、なぜ――とお訊きしても構いませんか?一体なぜ、そのようなことをお知りになりたいのです?」
堅海は、昨晩の久賀の言葉を思い出していた。
――その存在は紗那に黙認されている節がありますね。
――それはつまり、紗那が過去に…あるいは今現在も彼らを何らかの目的で利用することがある、そう見て良いのではないでしょうか?
(やはり、何かあるか…!?)
そう察した堅海は、あらかじめ用意しておいた理由をさももっともそうに語った。
「いや…既にお聞き及びのこととは思いますが、実は今、私は第三皇子・篠懸様のお供で、天飛の如月に滞在しておりまして…。銀鏡の鬼という言葉も、そこで偶然に耳にしたものなのです。ただ、隣国といっても、すぐ北の銀鏡の森のこと。そのような近場に怪しい輩が潜んでいるかも知れぬというのに、近衛長のこの私がうかうかもしておれず、ついに上司の命で、この機会に直接お話を伺いに参じたという次第なのです」
さもあろうとばかり、来栖が大きく頷いている。何とか納得は得られたようだ。
「おお、そうであった!第三皇子の篠懸様は、ご病気で療養中だそうですな。お加減はいかがです?少しはお元気になられたか?」
「ええ。まだ暫くはかかりますが、徐々に快方へ向かわれているように感じます」
しばし思いつめた様子を見せ、ようやく橘は重い口を開いた。
「なるほど…。そういうことならばお話しましょうか。銀鏡の鬼――というのは、あの森に巣食う山賊の一団でしてね、実に狡猾で残忍な連中です。近年の近隣への被害増大に伴い、我が国としても適時討伐隊を差し向けて森を浚っているところなのですが――」
来栖が続ける。
「これがなかなかすばしこくてな。何とか数名は捕らえたが、その殆どはまだ見つかってすらおらぬのだ」
確かに昨夜得た情報と比べてみても、それなりに辻褄は合っているようである。
だが。
「しかし、来栖殿。それならば、彼らの住処さえ詳細に特定しておれば、簡単に一網打尽にできたのでは…?」
答えたのは橘の方だった。
「いや、それはもちろん見つけ次第、即刻すべて焼き払ったのですが、恥ずかしながら、どうもこちらの情報が漏れていたらしく、隊が到着した時には、どの住処も蛻けの殻だったのです。子どもながらになかなか頭の切れる連中ですよ」
「ほほう…。子ども…ですか」
唸るように呟いて、堅海はしばし考え込む素振りを見せた。
「だが、天飛ならば相当近い。国境を越えた者がおらぬとも限らぬか。堅海殿、今となってはあまり役に立つ話ではないかもしれぬが、奴らはそれは風変わりな連中でな。鳥の羽根やら熊の毛皮やら、おかしな装飾品を身に着けていることが多いんだ。万が一にもそういった輩を楼蘭国内で発見したなら、どうか遠慮なく私へ知らせてくれ。責任を持って、我が国の軍が捕らえに向かう」
「分かり申した。情報の提供、感謝致します」
そうして来栖の言葉に頷いている間も、鈍い輝きを宿した橘の眼差しは一瞬たりとも逸らされることなく堅海を見ていた。
ところで。
実はこの時、庭園には彼らの他にもう一人、ある人物が潜んでいたのである。堅海らが庭を立ち去る気配をしかと認め、岩陰からその人物はついに姿を現した。
「ふん。なるほどね…」
呟いて、声の主――臣は鼻先で笑った。
各国を渡り歩いた経験のある臣は、先の話を聞かずとも銀鏡の鬼のことはよく知っていた。ある意味では、当時傭兵をしていた自身と何ら変わりのない連中である。貰うものさえ貰えば、何なりと厭うことなくやり遂げる――そういった点では。
ただし臣は、実際の彼らが紗那の言うような輩でないことも知っている。
今の橘らの言葉で、臣は一つ確信していた。
(反体制への見せしめということか。まんまとはめられたな、子鬼ども…)
踵を返すと、臣は自らの主の待つ光の宮へと向かったのだった。
* * * * * * * * * * * *
いつものようにたった数時間で釈放された睦は、自室の椅子に腰掛けてぼんやりとしていた。
机上には、黒曜石で作られた星座盤が無造作に散らばり、傍らでは碧く透き通った天球が、それを支える四本の脚の上でゆっくりと自転を続けている。膝に転がる大粒の霰石の珠――それが時折青白く瞬いても、虚ろな瞳には何が映ることもなかった。
もう何をする気力もない…。
(あの時、堅海につい心を打ち明けてしまったのは、なぜだろう)
睦は、繰り返しそんなことばかり考えていた。
思えば堅海となど、これまでろくに言葉を交わしたこともなかった。たまたま気紛れに優しくされ、つい心絆されてしまった――そういうこと?ならば、気の毒なことをした。無理に不快な話に付き合わされた――今頃はきっとそう思っていることだろう。
彼にしてみれば、薄汚いこの私を軽蔑する理由こそあれ、あんな話に付き合わされる謂れなどなかったのに…。
気だるく髪を掻きあげて、睦は窓の外を眺めた。
もうじきに日が暮れる――。
「また…夜がやってくる…」
ため息のように呟いて立ち上がる。
膝の霰石がゴトリと音を立てて足元を転がり、肩に羽織っていた上掛けがはらりと落ちた。
ぼんやりと窓辺に凭れ、睦は立ち尽くすのだった。
憂鬱な静寂が、今夜もゆっくりと闇の中へ滑り込んでくる…。
「?」
不意の物音に、睦は振り向いた。気のせいか――と改めて耳を澄ませば、確かに聞こえる。この部屋の扉を叩く音だ。
恐る恐る扉を開けると…。
「!!」
瞬間、睦は声を失った。
皇子付きの職を下ろされて以来、この部屋を訪れる人間など白露の使いを除けば皆無に等しかった。まして、軍の人間など――しかも先刻、彼には不愉快な思いをさせてしまったばかりだというのに…。
「睦殿。私はこれから如月へ戻ります」
跪いた堅海は、足元から毅然と睦を見上げていた。
ひたむきな誠実さと揺るぎない意思の宿った真っすぐな眼差し――純潔たるその煌きの前で、私は何を口にし、どう振舞うべきであろうか。一体私は今、どんな顔をすれば良いのだろう――。
そんな畏怖にも似た戸惑いの中で、睦の心はどうしようもなく震えるのだった。
「まずは…私のような身分の者が、差し出がましくも宮廷学者様のお部屋へまで押しかける無礼をお許しいただきたい。ですが、睦殿。失礼を承知で申し上げるが、そのようにあまりご自身ばかりを責めてはいけません。もう一度思い出してください。どんな形であれ、睦殿はご自身の夢を叶えるために、ここに身を置いていらっしゃるはず。断じて白露様のためなどではない!
どうか、もっと胸をお張りなさい。胸を張って、ここであなたの望むことを一心に成せばよいのです。そして…もっとお心を強くお持ちなさい。誹謗や中傷など寄せ付けぬほどに!」
一気に言い尽くすと、堅海は結んだ眉をふっと緩めた。
「そしてもしも…。もしもまたお辛い時があれば、いつでもこの堅海をお呼びください。私などであなたのお役に立てるのであれば、直ちに馳せ参じ、必ずやあなたのお力となりましょう。ですから――よろしいか、睦殿。お願いですから、どうかもうご自身で御身を傷つけるような真似だけはお止めください!」
血を吐くように言うと、堅海は額をひしと床に擦り付けた。
「そ…そんな…。そんな…」
声にならぬ思いが込み上げる。
あまりに思いがけない言葉だった。まさか、こんなふうに自分を思ってくれる者があったなんて――。
わななく瞳に涙が湧き、ついに睦は崩れ落ちた。膝を付いた拍子に瞼を離れた雫が、冷たい床にいくつも散る。
「恐れながら…。身分を弁えぬ非礼の数々、平にお詫び申し上げます。誠に…誠に申し訳ありません!」
額を床に当てたまま、堅海はいつまでも顔を上げようとはしなかった。
類稀なる才能に恵まれ、ここに夢も希望も抱いたはずの若者が、どうにも抗えぬ力に翻弄され、もがき、足掻き、流されるままに己を見失い――。そうしてついには、自らの存在をも卑しめてゆく。
そんな睦の姿が、堅海には悔しくてならなかったのである。
「も…もういい。止めろ。顔を上げよ!!頼むから…頼むから、どうか…もう顔を上げてくれ!お願いだ、堅海…!!」
悲鳴にも似た睦の声は、水の宮にいつまでも響いていた…。
* * * * * * * * * * * *
「これをこうして――と。はい、できました!」
篠懸の鬼灯へ夜光蝶を差し入れると、紫苑はにっこりと微笑んだ。
「本当に行かぬのか、紫苑…?」
篠懸は唇を尖らせた。
陽はとうに暮れ、辺りはすっかり宵闇に染まっている。
鬼灯の提灯が揺れるたび、薄い皮膜の内側に仕込んだ蝶が、ひらりひらりとはためき始める。すると、その透き通った翅はまるで炎のように揺らめいて、蒼白い燐の輝きをほたほたと足元に落とすのであった。
供をする二人の支度を手早く済ました紫苑が、困ったような顔をして振り向いた。
「ごめんなさい、篠懸様。氷見が少し熱を出しているようですし、やっぱり紫苑は屋敷に残ります」
「そうか…」
後ろ髪引かれる篠懸の手を引き門前まで来ると、愁は静かに振り向いた。
「では、紫苑。いってまいります」
「はい、いってらっしゃいませ」
柔らかに微笑み、紫苑は三人を見送った。
* * * * * * * * * * * *
「そっちだ!一匹たりとも逃がすな!!」
「いたぞ!あそこだ!!」
静寂の森に響くは、獲物を追い詰める男らの喊声――。
迫る追っ手から逃れようと、少年らは枝から枝へ跳躍を繰り返す。
「急げ、珠洲!追いつかれる!!」
先頭をゆく風変わりな姿の少年が、振り向きざまに長い槍の柄を差し伸べた。その柄を両手でしっかと握り、珠洲と呼ばれた少女は懸命に声を絞った。
「でも…!でも、雲英が!!それに李燐はどうするの!?」
槍ごと珠洲を引き寄せた後、少年は大木の先端を目指して一気に跳んだ。
眼下に男らの声が聞こえる――。
「もう無理だ!あいつらは死んだ!!」
振り向きもせず答えると、突然珠洲は少年の手を振り払った。
「!?」
驚いて少年は振り返った。
あどけない顔が、汗と涙でぼろぼろに汚れている。傷だらけの手のひらでそれらを一度に拭い、珠洲は気丈な声を張り上げた。
「氷見は…。氷見は、平気なの!?雲英と李燐が死んだなんて!!ひどいよ!そんなの嘘だよ!!」
「馬鹿!平気なわけが――伏せろ、珠洲!!」
咄嗟に氷見は珠洲の頭を抱え、樹上に蹲った。
その次の瞬間。
氷見の纏う鳥の頭から、とりどりの羽根が弾け散る。無数の矢石が二人を襲ったのだ。
「ちっ…!見つかった!」
愛用の槍を咥えると、氷見は震える珠洲を抱いて宙へ跳んだ。
空中にいる間の彼らの影はうまく太陽と重なり、地上で見上げる兵士らからよくは見えない。それでも蛮族成敗の手柄を上げようと、男たちは我勝ちに矢を放ち続けた。
無尽に吹きつける攻撃を縫い、軽やかに木々を渡ってゆくかに見える氷見。だが、その彼とてまだほんの子ども。幼い珠洲を抱えての移動には限界がある。
ある程度敵から離れた場所で珠洲を下ろし、氷見は息を整えもせずにこう言った。
「いいか、珠洲。よく聞けよ。ここからずっと南、楼蘭という国の都・黄蓮に妖がいるはずだ。このままおまえは妖の元へ行け!」
「ひ、氷見は…?氷見も行くんだよね!?」
驚いた珠洲は、氷見の胸にしがみついた。
「俺は後から――。きっと後から追いかける。だからお前は…」
見開かれた瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。
「やだよ!一緒に行こうよ!珠洲一人でなんか絶対無理だよ!行けるわけないよ!!」
今の氷見の心は穏やかだった。
もう心は決まっている。己の守るべきものを最後の最後まで守りきること。それが…それだけが今の彼の望みだった――。
「大丈夫。できるよ、珠洲なら。このままじゃ、どっちも危ないんだ。必ず…必ず後から俺も行く。ちゃんと約束するから…だからおまえは先に行って、このことを妖に伝えてほしい。この紗那の裏切りをな…!!」
生きろ、珠洲。
強く。
もっと強く…!!
氷見は、震える少女を力いっぱい抱き締めた。
そうしてついに――。
「……」
ぎゅっと唇を噛み締め、珠洲はこくりと頷いた。
固く握った拳とは裏腹に、肩はまだ震えている。不安と恐怖と悲しみと…様々な思いにくじけそうな心を懸命に奮い立たせ、幼い少女はしっかりと氷見に頷いて見せたのだった。
「振り向かずに行け。いいな?」
精一杯優しく微笑み、氷見は涙に濡れた顔を拭ってやった。
ところが。
その背中を軽く押してやれば、その勢いで数歩は足を運ぶ珠洲だが、すぐにもじもじと立ち止まってしまう。
そんな彼女の葛藤は氷見にもよく分かっている。
それでも――。
氷見はぐっと眉を結んだ。
「早く!!あいつらが来る前に!行くんだ、珠洲!!」
激しい叱咤にびくりと肩を震わせた後――。
ついに珠洲は、たった一人で空へ跳んだ。木々の間をたどたどしく渡り、振り向かぬまま森の奥へと向かう。時折立ち止まっては顔を拭い、それでも決してこちらを振り返ることなく、何度も跳躍を繰り返す。
そんな健気な後姿を、氷見は黙って見守った。
もう思い残すことはない。
大丈夫だ。
これでいい…。
耳を澄ませば、兵士らの声と乾いた葉を踏み散らす音が、もう間近にまで迫っている。
氷見は、ふっと口元を緩めた。
そうして――。
一陣、鮮やかに空を裂いた長槍が木々の間を鋭く掠め、行軍の只中に深々と突き刺さる。次いで天から放たれたいかづち――苦無が鋼鉄の飛礫となって慄く兵士らを襲った。びゅびゅっと空を切る苦無の音。それらを耳にするや否や、兵士の何人かは悲鳴を上げて枯葉の上に転がった。
やがて地上へ降り立った刹鬼は、目前に刺さった愛用の槍を引き抜き、にやりと舌なめずりを見せた。
「さあ…。死にたい奴から、とっとと前に出な!!」
珠洲との約束を果たす気など初めからなかった。
* * * * * * * * * * * *
「…!!」
はっと目を開けると、すぐ目の前に濡れ手拭いを摘んだ紫苑の手があった。
「あ…氷見…。起こしてしまいましたか?」
「い、いや…構わない…」
氷見の呼吸はひどく浅い。
改めて手拭いをぎゅっと絞り直し、紫苑は氷見の汗を拭ってやった。
「ひどくうなされて…。何か…怖い夢を見ていたようですね」
「まあな…」
細い手のひらが額に宛がわれる。ひんやりとした感触が、熱った肌に心地良い。
(珠洲は…無事に妖の元へたどり着けただろうか…)
深いため息が漏れる。
「この熱…。遊佐様が、傷が癒えるときの熱だと仰っていました。それから、回復があまりに早いのでとても驚いてらっしゃいましたよ。ひと安心ですね」
「そうか…ありがたいことだ。ん…?」
再び手ぬぐいが額へ乗せられたそのときだった。
ただならぬ気配に二人は同時に顔をしかめた。何かがすさまじい勢いでこちらへ近付いてくるのである。
「これは馬の…蹄の音のようですね」
などと言う間に、早くも屋敷へ上がりこんだ気配の主は、どかどかと大きな足音を響かせてこちらへ迫ってくる。
そうして、ややもせず――。
「氷見とやら!!貴様、銀鏡の鬼だな!?」
勢い良く開け放たれた襖から現れたのは、都から愛馬・諫早を駆って戻ったばかりの堅海であった。
慌てて紫苑は立ち上がった。
「止めてください、堅海!氷見は大怪我を負っているんですよ!?」
「だがな、紫苑!こいつは銀鏡の鬼といって、紗那では――!」
「そんなの関係ありません!傷を治すほうが先です!」
背後にしっかと氷見を匿い、紫苑は堅海を見据えた。
「ふっ…銀鏡の鬼…か…。いかにも…俺は銀鏡に棲む鬼。だが…だったら何だってんだ?ろくに身動きすらできぬ子ども相手に…たったその程度のことを言いたくて、こんな夜更けに馬なぞ飛ばして…わざわざここまでまでやって来たってのか、あんた…?」
途切れ途切れに荒い息を吐きながら、氷見は薄ら笑いを浮かべた。
無論堅海も負けてはいない。あからさまな氷見の挑発に、一層威圧的な眼差しで応じている。一触即発。どちらもものすごい剣幕である。
「氷見も…堅海も…!二人とも、もういい加減に止めてください!!」
気丈に言い放ち、紫苑はぐいぐいと堅海の背中を押し遣りながら部屋を出た。小柄ながらに腕力には覚えのある紫苑である。堅海を放り出すぐらいわけはない。
「お…おい、紫苑!!あいつは危険だぞ!分かっているのか!?おまえに…そして万が一にも篠懸様に何かあれば――」
柄にもなく、堅海はうろたえていた。
「何かなんてありません!氷見はそんな人じゃありません!!」
後ろ手に戸を閉めると、紫苑はじっと堅海を見上げた。
だが、そこは堅海も負けてはいない。
「では訊くがな、何を根拠に、おまえにそんなことが分かるというのだ!?何かあってからでは遅――」
「ですから、何もありませんったらありませんっ!!」
再び堅海はたじろいだ。
「だって…。だってあの時、氷見はあんなにたくさん血を流して…。それに今は、熱だってとても高くて…本当に動けないんです。それに、堅海が思っているような悪い人でもありません。確かに…ちょっと意地悪な人ではあるかもしれませんが…。でも、紫苑には分かります。ですから、どうか…もう少し元気をつける時間を与えてあげてください」
* * * * * * * * * * * *
広場に設えられた祭壇には、既にたくさんの村人が集まっていた。
朔の闇に、鬼灯の灯がいくつもゆらゆらと浮かんでいる。そうして瞬きを繰り返す蒼白い焔は、見つめるほどにひどく幻想的で、暫し篠懸は別の世界にいるような不思議な感覚に陥った。
なぜか急に心細くなって、繋いだ愁の手を確かめる。
生活のすべてを遊佐の屋敷の敷地内で過ごしている彼らにとって、こうして里の人々を目にするのは、実にこれが初めてのことであった。
「はあ…。すごい人ですね、愁様。ここにこんなに大勢の方が暮らしていらっしゃったとは、正直…」
「まったくだな…」
そう言葉を交わす二人の間では、篠懸がきょろきょろと首を動かし続けていた。
「あ!愁、あそこ!!あれは何をしているのだ?あの者、あのように敷物を敷いて…!」
抑えきれぬ興奮が繋いだ手からありありと伝わってくる。何かを見つけるたびに無意識に握り返してくる小さな手の力強さが、しみじみと愁には嬉しかった。
「うーん。暗くてよく分かりませんが…。あれは…多分、飴屋…ではないでしょうか…?」
そう言ってちらりと目配せをすると、応えて久賀は篠懸の目線に身を屈めた。
「篠懸様、買って参りましょうか?」
篠懸の頬が、みるみるほうっと上気する。
「う、うん!だがっ…。だが、久賀…!!私は自分で選んでみたい!構わんか、愁…?」
二人の従者の顔色を何度も窺いながら、心配そうに尋ねてくる。そんな幼い主人の姿に、思わずきょとんと顔を見合わせた二人は――。
「いいですよ、篠懸様。では、みんなで買いに行きましょうか?」
はちきれんばかりに綻ばせた顔でぐいぐいと二人を引っぱり、ついに篠懸はお目当ての場所へと辿り着いた。
簡素な店先に並べられたべっ甲飴が、鬼灯の灯にきらきらと煌いている。その様は、まるで色とりどりの宝石を見るようだった。
「うわあ…!とても美しいな!!」
店の真正面を陣取った篠懸が、あどけない歓声を上げている。まるで普通の子どもだ。
「変わられましたね、篠懸様…」
久賀が独り言のように囁く。
黙って頷き、愁はじっと篠懸の背中を見つめていた。
無量の思いに胸が詰まる。このささやかな彼の幸せ――それこそが、傍で守り仕える愁にとっての大きな幸福に相違ない。
顎にたっぷりと髭を蓄えた店主が人懐こい笑顔で言った。
「んんー?どれにするんだい、嬢ちゃん?」
「え…?」
ひょっこり上げた顔が、耳まで真っ赤に染まっている。
「あ…ええと…。わ、私はその…嬢ちゃんなどでは…」
しどろもどろになる篠懸の髪を撫で、愁はくすりと笑った。
「ふふっ。この子は男の子なんですよ」
「あちゃー。そりゃあ悪いこと言っちゃったな。お詫びにどれでも好きなのを一つあげるよ」
広い額をぴしゃり叩いて、髭の飴売りは照れくさそうに歯を見せて笑った。
「何!それはまことか!?ええと、じゃあ…。じゃあ、あれ!!」
篠懸が嬉々として指差したものは、なんと客引き用に置かれた飴細工である。飛び立つ瞬間の水鳥の姿を力強くかつ繊細に表現した、実に見事な一品なのだが…。
「あ…。篠懸様、それは…」
慌てて口を挟もうとした久賀をきっぱり制した飴売りは、おもむろに眉間に皺を寄せ、ううむと腕を組んで見せた。
「……」
途端にみるみる曇ってゆく少年の顔。その顔を、片目でちらりと覗き見て――。
「坊ちゃん、お目が高いねえ。だが俺も男だ、二言はねえよ。持って行きな!」
この男、なかなかに気っ風の良い人物のようである。
「あ…ありがとう!!」
篠懸はうっすらと瞳を潤ませ、心から嬉しそうに微笑むのだった。
「では、飴屋さん。こちらのべっ甲飴をあと三つください。お代はちゃんと支払いますから」
紙袋に包まれた飴細工を受け取りながら、不思議そうに見上げる瞳に、愁はにっこりと微笑みかけた。
「紫苑と氷見、それから堅海の分を選んであげてくださいね、篠懸様」
* * * * * * * * * * * *
月のない、星々だけが瞬く夜。儀式の時が訪れる。
今、祭壇上の大きな篝火の前には朱の唐衣を身に着けた遊佐が静座し、その傍らでは、細かな枠飾りに彩られた玉鏡が、風に踊る火の粉をちりちりと映し続けている。
見守るざわめきのあちこちで、無数の瑠璃鬼灯が揺れている。
刹那――。
突如として風は止み、大太鼓の力強い音が響き渡った。
厳かに頭を垂れた遊佐は、やがて小さく呪文を唱え始めた。轟く太鼓に衣擦れのように清かな声が紛れ、時に大きく時に細く滔々と揺らめきながら、辺りを包み込んでゆく。
そのまま暫し。
ひんやりと研ぎ澄まされた夜気が、如月の空を覆い尽くした。
その時だった。
「!」
遊佐は、両手を差し上げ、何かを捧げるような仕草を見せた。すると、そんな彼女に同調したか、それまで何の変化もなかった玉鏡が、仄かな輝きを宿し始めたのである。
人々のため息をよそに、鏡はじわじわと輝きを増し――やがて、その眩さに目が眩み始めた時、遊佐はそっと鏡面に両の手を宛がった。
途端。
ドオン!!
大きな地響きが上がり、太い光の柱が次々に天空を目指して湧き上がった。
「こ、これは…。まるで星読み…!!」
愁の声は震えていた。
漆黒の夜空をほんの一瞬、真っ白な煌きが覆い、辺りはまるで昼間のような眩さに包まれる。そして呆然と仰ぐ人々の真上でぱあっと弾けた光は、儚げな尾を湛えた雫となって、今度は次々に地上へと降り注いだのであった。
きらきらと煌めいて儚く散り、砕け――それはあたかも空に煌く星々が、手元へこぼれ落ちるてくるような神秘…!
「……」
篠懸、久賀、そして愁さえも――誰もがその幻想の前に瞬きも忘れて息を呑む。安堵と感嘆のため息がそこかしこから漏れ聞こえる。
今年も良い年になりそうだ。
煌々と注ぐ光の粒を受け止めようと、篠懸は小さな両手を夜空へと差し伸べた。あどけない横顔が光に照らされ、仄かに輝いている。
愁はただ一心に祈っていた。
(この方の――篠懸様の笑顔が、どうかこうしていつまでも、ここにありますように…)
* * * * * * * * * * * *
「ただいま!!」
躍る胸を抱え、篠懸は元気に屋敷の門を潜った。ところが、女中らは皆祭の後片付けに出払っており、玄関先に人影はない。
やがて、奥からパタパタと小走りの足音が近づいてきた。紫苑だ。
「お帰りなさいませ。お疲れ様でした!」
紫苑はふわりと微笑んだ。
「楽しんでいらっしゃったようですね」
「うん!ちゃんと土産も買ってきたぞ!」
得意げに差し出された袋の中には、赤いべっ甲飴が入っている。
「わあ、綺麗…!これを紫苑にくださるのですか!?ありがとうございます!」
嬉しそうに声を上げ、紫苑は包みを胸に抱いた。
そして――。
「おかえりなさいませ、篠懸様」
屋敷の奥に控えたもう一人の人物が姿を現したその途端、
「か、堅海…!」
つい取り落としそうになった包みを慌てて握り直し、篠懸は小さく震えた。
「……」
膝を付き、いつもと変わらぬ姿で主を迎えた堅海の前では、泣き出しそうな少年の瞳が揺れていた。
察した愁が小さな背を軽く押してやると、そのままふらふらと歩み寄った篠懸は、
「よく…。よく戻ってくれたな、堅海…」
逞しく温かな腕にしがみ付いた。
「お約束を果たせず、申し訳ありませんでした」
「……」
太い堅海の腕に顔を埋めたまま、篠懸は動かなかった。迂闊に動けば、涙がこぼれてしまいそうだった。
堅海が自分を見限ってしまったのでは――という想いが、本当は、あれからずっと篠懸の心の奥底にこびり付いていた。でも、今はまたこうして堅海が傍にいる。そのことが素直に嬉しくてたまらない。
「そうだ、篠懸様。これを…」
そう言って、堅海が懐から取り出した物――それは、ちょうど篠懸の手に収まるほどの碧く美しい霰石の玉であった。
「これは…?」
「篠懸様に…と、睦殿から預かって参りました。心と体を癒す霊験あらたかな宝玉なのだそうです」
「む、睦が!?私に…?」
顔を見知ってこそいるが、殆ど言葉さえ交わしたことのない睦。そんな彼の思いがけぬ贈り物に、篠懸は戸惑い躊躇した。
これには愁も驚いたようだった。
「それは…。もしや、睦が宮へ来たときからずっと大切にしていた物では…?」
堅海はゆっくりと頷いた。
「睦殿の…お母上の形見なのだそうですよ」
「そ…そんな大切なものを、この私に…!?」
包んだ両手をそっと開いてみる。
手の上の玉は透き通るように碧くつやつやと輝き、篠懸は、まるであの夢のように降り注いだ星々の粒だ――と思った。
6.皇子を囲む者
氷見の部屋は、遊佐の離れ部屋のすぐ隣にあった。
大きく力を発揮するときや集中力を高めるときなど、時折遊佐はこの離れ部屋に篭り、数日もの間、飲まず食わずで過ごすことさえあるという。そして、一旦彼女がそこへ入れば、紫苑を除く他の人物は付近に近寄ることさえ許されず、彼女自身も殆ど外へは出てこない。つまり、遊佐や紫苑を除けば殆ど誰も来ることがない――そんな場所である。
だが無防備なことに、敢えてこの場所に銀鏡の鬼との異名をとるこの少年を置いたのは、他でもない遊佐自身であった。
障子を透かした麗らかな日差しに誘われて、氷見はふと目を覚ました。
昨晩の熱はほぼ下がったようで、呼吸もずいぶん楽になったように思う。いつの間にか昨日紫苑が額に乗せてくれたあの手拭いが、枕元に落ちて乾いている。床に横たわったまま氷見はそれを拾い、そっと手桶へ戻した。
手桶の水はとうに温くなっていた。
ずっとこめかみを締め付けていた頭痛も嘘のように治まっている。鉛のように重かった体の感覚も、いくらかましになった気がする。これならば、ちょっと上体を起こしてみるぐらい造作もないだろう――そう思った。
ところが。
「つ……っ!」
少しばかり腹に力を込めただけで、電光石火の痛みが駆け抜け、ぎくりと体中が強張ってしまう。恐る恐る寝巻きをはだけてみれば、胸の矢傷は思いのほかひどく残っており、他にも、赤みを帯びた刀傷やらかすり傷やらがあちらこちらに残っている。
「まったく…。俺としたことが、様あねえよな…」
思わず苦い笑みをこぼす。
その時、不意に廊下側の襖越しに何者かの気配を察した。全神経を一点へ注ぐ。
と――。
「は…。なんだ、あんたか…」
気配の主は、膳を手にした遊佐であった。
「ずいぶんとお元気になられましたね。もしや、紫苑を待っていらっしゃいましたか?」
「え!?ち、違…!俺はただ――。つか、別にそういう意味じゃ…」
あたふたと布団を掻き寄せ、口ごもる。
遊佐はくすりと笑った。
「紫苑は今、使いに出しておりますゆえ、帰りは真夜中か明日の朝になりましょう。ところで…差し出がましいとは思いましたが、一つお伝えしたいことが」
ひたと手を止め、氷見は訝る眼差しを向けた。
銀鏡の鬼と呼ばれた彼の処世術――それは、身の回りのあらゆる変化をまず疑うこと。そして、仲間以外の誰にも決して心を許さないこと。
既にそんな癖は当たり前に染み付いている。もちろんそれは、これまでを逞しく生き抜いた彼本来の生き様なのであろうが、同時にそれは、まだほんの十五歳の子どもでしかない彼の一番の不幸であるとも言えた。
「何だよ?えらくもったいぶるじゃねえか」
つっけんどんに言い放ち、再び氷見は箸を取った。
「あなたの探し人…。何とか目的の地に辿り着かれたようですよ」
どきりと胸が鳴る。
「な…!?貴様!!」
誰に打ち明けることもできず、それでもずっと心残りにしていた珠洲の動向。なぜそれをこの女が知っているというのか――?
苛立ちがが胸の奥を湧き上がって弾けた。
(珠洲が無事だと?あの日の屈辱、あの悲しみ、あの怒り――それを何一つ知るよしもない人間が軽々しいことを!!)
すぐさま氷見は立ち上がった。
「!!」
つもりだったが…。
深手を負ったばかりの体はそうそう自由に動かない。膝がぐらりとよろめいた拍子に、ろくな受身も取れぬまま、氷見は前のめりに突っ伏す格好で無様に床へ転がった。そしてその衝撃は、氷見の全身に再び耐え難い激痛を走らせたのだった。
「ぐ…ぐああっ!!ああ、もう何だ!!何だってんだよ!ちっくしょおおおっ!!」
痛みに悶え、転げ回り、氷見は感情的に床を殴りつけた。
額にびっしょりと浮いた汗が散る。思い通りにならぬもどかしさに、やるせなさと怒りがこみ上げる。
「ご心配には及びません。あの子は強い子です。あなたの言いつけをよく守ってがんばりましたよ」
「!!」
愕然とした。あの何もかもが遊佐に見透かされているなんて…!
でも――。
如月の遊佐といえば、紗那でもその実力を広く知られた霊能力者である。その噂はこの耳にもしかと届いている。確かにその力を持ってすれば、珠洲の動向を探るぐらい何でもないことなのかもしれない。
(そっか、珠洲が…。あの泣き虫の珠洲が、無事に妖の元に…)
ようやく氷見は胸を撫で下ろした。
ふと、あの日の珠洲の顔が浮かぶ。
あの時――。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、氷見の言葉に健気に頷いた珠洲…。
きっと恐ろしかったろう。
一人きりの寂しさに、何度も押し潰されそうになったろう…。
不覚にも、熱いものが頬を伝った。
今の氷見には、遊佐の言葉の真偽よりも、幾度も祈った珠洲の無事を誰かの口から聞けたということが、しみじみと嬉しかったのだ。
「あなたの胸の内を勝手に覗くような真似をしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
遊佐は手を付いて深々と頭を垂れた。
(し、しかし…。かの有名な楼蘭の霊能者が、敵国のお尋ね者でしかないこの俺を匿っている理由ってのも、さっぱり分かんねえが――。それにしても、あの篠懸といいこの遊佐といい、こいつらのこの態度…。一体どうなってやがんだ、この国は…??)
複雑な思いに暮れる。
『銀鏡の鬼は人の姿をして人にあらず』
紗那にいる頃には、そうして虐げられ、蔑まれ続けた氷見にとって、自分よりも明らかに格高の人物の謙虚な振る舞いなど、到底理解できるものではなかった。
すると、またしても襖が開けられる微かな音。
「あ…っ」
ところが新たな来訪者は、小さく声を上げるや否やすぐに首を引っ込めてしまった。襖の陰でうろたえているのは、紫苑を探して屋敷内を歩き回っていた篠懸であった。
「ふふっ。どうぞ、篠懸様」
そろそろと覗く気まずげな瞳。
「あ…ええと…。構わぬだろうか、氷見?」
「いいよ。入れよ、篠懸」
呆れ顔で答えた後――。
「まったく…。ここの奴らときたら、警戒心ってもんがまるでねえのな…」
本音がぼそりと口を突いた。
* * * * * * * * * * * *
「そうか…。紫苑はおらぬのか」
紫苑の留守を告げられた途端、篠懸はつまらなそうに唇を尖らせた。
「申し訳ありませんが明日までご辛抱くださいませ、篠懸様。その代わり――と言ってはなんですが、氷見の怪我がもう少し良くなったら、件の山頂へ出掛けるというお話、現実のものと致しましょう」
「それは本当か、遊佐様!」
現金な瞳が、瞬く間に輝きを取り戻す。
「…ったく。何の話だか知らねえが、俺、関係ねえし」
そっぽを向いて鼻を鳴らす氷見に――。
「いいえ。あなたにも同行していただきますから」
平然と、そしてきっぱりと遊佐は言うのである。
「はァ!?何で俺がそんなこと!!傷さえ治れば、俺はこんな所に用なんか…!!」
その一瞬、こちらを見た遊佐の瞳がひどく鋭い光を放ったように思えて、氷見はぎくりと口を噤んだ。
「あなたも、皇子様を囲む重要な役者の一人なのです。まだここを出ることはなりません」
皇子を囲む役者――?
いきなりそう言われても、その言葉の意味は篠懸にも、まして氷見にも分からない。
「氷見。何度も言いますが、あの子は無事です。それさえ分かれば、今すぐここを出る必要もないでしょう?」
「はっ!何でもお見通しってわけかよ!何だってんだ、まったく…!」
ぷいと目を逸した先に篠懸がいた。そのひどくきょとんとした面持ちと目が合った途端――。
「ちょっ…ちょっと待て!皇子様って、まさか…こいつ…!?」
ようやく氷見は気付いたのである。
そうだ。
初めて『篠懸』という名を聞いたとき、確かにどこかで聞いた名だと感じた。あの時はまるで思い出せなかったが、多分それは…。
いや、まさか。
でも…!!
「ええ。こちらは楼蘭国・第三皇子篠懸様であらせられます」
にっこりと微笑む遊佐だった。
「は……!?」
痛みを堪えて向き直り、氷見はあたふたと平伏した。
「す、篠懸皇子様!し、知らぬこととは言え、そのっ…ぶ…無礼の数々、何とぞ…!」
畏れ強張る氷見の手に、ひと回り小さな手が重ねられた。ぎょっと顔を上げると、温かな微笑みが氷見を見ている。
「氷見。そなたと私の間でそのようなことは要らぬ。これまでどおりでいて欲しい。私は…。私は、そなたを友達と――そう思いたいのだ」
「そ、そんな!!で、でも…。それは――」
耳を疑った。
銀鏡の鬼として今や紗那に追われる身の俺が、楼蘭の皇子様の友達…?
まさか。
そんなことはあり得ない。
いや、あって良いはずはない――。
氷見は床についた手へ視線を落とした。
『銀鏡の鬼は人の姿をして人にあらず』
すっかり耳にこびり付いてしまった言葉。
かつて何度となく投げつけられた悪意が、今また繰り返しこだまする。ひたすらに耳を塞ぎ、そのすべてを振り切るように氷見は何度も首を振るのだった。
「恐れながら…皇子様。俺は鬼と呼ばれる者。銀鏡の鬼は紗那では人ですらない…。俺のように卑しい者と、楼蘭の尊い皇子であるあなた様が、そのような――」
唇を噛み締め、硬く拳を握る。
「ふふ…。面白いお友達ができましたね、皇子様」
なぜか遊佐は楽しそうだった。
ああ、そうか…。
俺はからかわれているのに違いない。でなければ、こんなのは悪い夢だ。熱が見せる幻覚だ。
きっと俺はまだ眠っていて、今も熱に浮かされている。
だが――。
「……」
おずおずと顔を上げると、潤んだ瞳が呆然と氷見を見ていた。
「なぜ…?なぜ自らを卑しいなどと…。そんなことは断じてあるものか!氷見を…。大切な私の友を…そのように侮辱する者は、例え本人であろうと許さぬ!」
つぶらな瞳いっぱいに涙を湛え、篠懸は打ち震えていた。ともすれば今にもこぼれそうになる涙の向こうから、ひたすら氷見だけに注がれていたのは、悲しさと悔しさと…そして、深い慈愛に澄んだ眼差し――。
(こいつは…。このお方は、何て純真な…)
嬉しかった。
仲間以外の者に、これほど強く温かな感情を向けられたのも、友と呼ばれたのも初めてのことだった。
「す、篠懸…」
そっと呼んでみれば――。
満面の笑顔が頷いた。その拍子に、堪えていた涙がつうっと頬を伝う。
「この俺が…。篠懸…様の、友達…?」
自分に言い聞かせるよう、何度も何度も繰り返す。
何度確かめてみても信じられない。まったく有り得ない。
だけど――。
「もちろん…。氷見が嫌でなければだけど」
氷見の手を取り、篠懸は照れくさそうに笑った。
* * * * * * * * * * * *
日差しが西に傾きかけた頃、愁は一人、北の土蔵の前に佇んでいた。
(もう半時もせぬうちに陽は沈む。こんな時間に、こんな場所で…。篠懸様に関わる重要な話とは一体何事なのだろう)
そろそろ待ち合わせた刻限である。
やがて――。
「お待たせして、申し訳ありませんでした、愁様」
いそいそと遊佐が姿を現した。
「あの、どなたにもこのことは…」
「お言いつけどおり、誰にも言っておりません。私一人です」
「そうですか…。ではこちらへ…」
ほっと頬を緩ませ、遊佐は蔵の錠前に手をかけた。
ごご…ごごご…。
地鳴りのような重い音とともに、ゆっくりと扉が開く。覗いても、そこには真っ暗な闇が広がるばかりで何も見えない。
遊佐は、慣れた手つきで手燭に火をつけた。じっとりと濃密な闇の中に、蝋燭の灯りが届く場所だけがぼおっと仄かに照らされている。傍にいなければ、何も見えなくなりそうだ。
ちらと目配せをしてから、遊佐は歩き出した。
彼女に従い、中へ踏み入った途端、つんと黴臭さが鼻を突き、息苦しいような不快な心地に囚われる。ひどく咽っぽい場所だ。
細く伸びた通路らしき空間の両側には、埃をかぶった葛篭や書物が堆く積み上げられ、それらの手前には古めかしい骨董が所狭しと並んでいる。目にするほどに、そのどれもが歴史学者としての愁の好奇心を大いにくすぐったが、生憎今は、それらにかまけている暇はなさそうだ。
後ろ髪を引かれつつ更に行く。すると、更に奥に簡素な階段のようなものが現れた。階段は二階へと続いている。
「足元が暗いので、お気をつけくださいね」
どうしたわけか、二階には、物らしいものの殆どない小奇麗な空間が広がっていた。
忍び寄る夕焼けの気配が灯窓から差し込み、ほんのりと板張りの床を照らしている。
「……」
ようやく暗さに慣れてきた目で、改めて愁はじっくりと辺りを見回した。
雑然と埃臭い階下と比べ、驚いたことにこの室内には塵一つない。奥の壁には小さな灯窓。その反対側に置かれた台座には、白木でできた細長い箱のようなものが乗せられている。何の装飾も変哲もないその箱は、そうであるが故か、まるで小さな棺のようにも思えてくる。
どうやらこれが、この場所に唯一納められている品であるらしい。何か特別なものなのであろうか?
しかし、こんな奇妙な場所で一体何を…?
やがて――。
窓辺へ向かって歩き始めた遊佐は、白木の箱の前でぴたりと立ち止まった。
「愁様――。篠懸様の呪詛の件ですが…」
「何か分かりましたか!?」
ゆっくりと振り向いて、遊佐はにわかに表情を曇らせた。
「ええ…。その直接の送り主は、どうやら元々は紗那の者のように思えるのです」
「し、紗那…ですか?しかし…」
意外な言葉だ。
紗那と篠懸――どう考えてもそこに接点などはない。
訝る眼差しに何を悟ったか、遊佐は口の端で小さく笑った。
「そうです。かの国と篠懸様には、今はまだ何の縁もありません。ですが、あの方は――篠懸様は、必ずや後の楼蘭…そして紗那に、深く名を残すお方。あまり詳しくは明かせませんが、紗那の某は、どうやら強い霊力を持った御仁。その人物は、二国の未来と自らの人生とに深い因縁を持つ篠懸様の存在を恐れるあまり、このような行動を成した模様なのです。己の命をも賭けた、強固な呪詛を持って――」
そこまで語ると、なぜか遊佐は窓格子の外へ目を遣った。
薄闇が広がり始めている。朱塗りだった空が、今や深い紫へと徐々に色を変えつつあった。
「私のような能力を持つ者は、力の大小さえ問題にしなければ楼蘭にも紗那にも数多くあります。ですが此度の紗那の者、相当な力の使い手でありながら、そのことを先頃までひた隠しにしていた節があるのです。
私たち能力者は、見ようとさえ思えば、これから先に起こる出来事を垣間見ることができる…。でも、だからと言ってそれを世に明かしてしまえば、歴史などまるでたった一握りの権力者の戯言に過ぎない。そうなれば、人々のどんな夢もどんな希望も、意味を失くしてしまうでしょう。ですから本来ならば、未来を変えるなど――例えそれが可能なことであっても――もしもこれから待ち受ける未来がどんなに悲惨なものであったとしても、決して叶えてはならぬことなのです。ですが…この者は、楼蘭の然る人物の依頼から知れた未来を、傲慢にも己が手で捻じ曲げようと…」
「ちょ、ちょっと待ってください。遊佐様は今、楼蘭の然る人物の依頼――と、仰いましたか?」
再び遊佐は棺へと目を落とした。俯く横顔が深い憂いを帯びている。
「はい。残念ながら今はこれ以上多くを語ることができません。ですが、皆様が宮へお帰りになる頃には、きっとその正体も知れましょう」
「……」
それ以上を尋ねることが憚られ、愁は成す術もなく遊佐を見つめるのであった。
やがて。
思いつめたような表情を見せた後、おもむろに遊佐は棺の蓋へと手をかけた。蓋がじりじりと押し開けられ、ついにはごとりと向こう側へ落ちる。
そこで刻は唐突に流れを止めた。
「し、紫苑!?」
棺の中に横たわっていたのは、紛れもなくあの紫苑だったのである。しかしその顔にいつもの笑顔はなく、肌も青磁のように青白くつるりとしていて、むしろ本人によく似せて造ったただの陶人形にも見える。
震える指でそっと頬に触れてみれば、ひんやりと固い感触が伝わった。
まさか…。
あり得ない。
これは紫苑などではない…!
そう繰り返し自分に言い聞かせながら、どうしても愁は五感を欺けずにいた。
本当は分かっている。
これは、紫苑その人に相違ないのである。
「なぜ…どうしてこんな…。この子は一体…?」
愕然として振り向くと、窓辺に佇む遊佐は、またぼんやりと外を眺めていた。その視線の先で、雲に隠れていた月が次第に姿を覗かせ、大地の上に白く目映い面紗を広げ始めている。
柔らかな月光が窓をすり抜け、音もなく伸びてくる。銀の清い光はゆっくりと室内を這い、やがて少女の顔をほんのりと輝かせた。
すると――。
なんということだろう。
その純白の光に応えるが如く、紫苑の顔色がふうっと白く変化した――かと思うと、あれほど冷たく凍っていた肌は、見る見る血色を取り戻し、固く閉じられていた目元も頬も、ふっくらと柔らかみを帯び始めたのである。
「!?」
愁は、発する言葉を失った。
まさにこの瞬間、止まっていた時が動き始めたのだ。清かな生命の息吹とともに――。
「愁様…。この子は――紫苑は、月の光から生きる力を得るのです」
遊佐の言葉にはっと息を呑んだ。夜中に外を眺めると、いつもそこに紫苑が蹲っていたのを思い出したからである。
(命を紡ぐ月光浴――そうか、あれは…そういうことだったのか)
「例え雨が降ろうと空が雲に覆われようと、夜空の下にさえいられれば、この子はそこから僅かな光を感じ、生きる力に替えることができます。でも、なぜか朔の晩にだけはそれができません。つまり――」
「新月の次の日には、こうして人形に戻ってしまうわけですね…」
遊佐は静かに頷いた。
「ええ。朔の晩――子の刻限(午前0時ごろ)になれば、途端にこのように…」
棺では、目覚めたばかりの紫苑がぼんやりと宙を仰いでいる。まだ辺りがよく見えていないのか、紫苑はしきりに瞬きを繰り返していた。
「おはよう、紫苑」
遊佐はふわりと微笑んだ。その声を頼りに、紫苑はひどくぎこちない動きでこちらを見た。
見開かれた瞳が僅かに揺れる。
「しゅ…う…?」
まだよく動かぬ指先が、おずおずと愁の手に触れる。人形などでは決してない、ちゃんと血の通った温かな指だった。
知らず図らず愁の瞼に込み上げていたものが、瞬きをした弾みに頬を伝い、紫苑の手の甲をほとほとと濡らす。
今、無性に愁は――。
「……」
彼女が不憫でならなかった…。
「愁…。紫…苑が…怖い…です…か?」
囁くような言葉はまだ少し片言で、先に聞かされたかつての彼女の生き様を、弥が上にも呼び起こす。
堪らず愁は、小さな少女を抱き締めた。
「そんな…!何を言うんです、紫苑!そんなことがあるはずがないでしょう?ただ…。ただ私は…こんなあなたの姿を見るのが――」
抱いた胸にまたひとつ雫が落ちた。
「こんなあなたを見るのが、とても…。とても辛いんです…」
ありったけの力で声を絞った。こみ上げた感情が、それ以上の言葉を許さなかった。
「ありが…と…愁…」
深く澄んだ瞳が、静やかに愁を映していた。
腕に抱いた紫苑の体は温かく、とても柔らかだった…。
* * * * * * * * * * * *
まだうまく動けぬ紫苑を蔵に残し、愁は遊佐とともに離れ座敷へと戻った。
どうもまだ混乱している。まるで白昼夢の中にあるように手応えのない現実が、頭の中で渦を巻いている。
目にした以上は信じぬわけにはいかない。そう頭では理解していても、理屈で片のつくような奇跡ではなかった。
月影とともに逝き、純白の清暉が再び呼び覚ます無垢なる魂を間近にした今となっては――。
互い沈黙したまま、時がゆく…。
「愁様…。あなたにだけ、あのような紫苑をお見せしたのには、理由があります。どうか…私の願いをお聞き届けください」
遊佐は重い口を開いた。
「願い…?」
問い返すと、遊佐は驚くべき言葉を口にした。
「いつでも構いません、愁様。あなたがそうしたいと感じたときに、あの子を…。紫苑をここから連れ出していただきたいのです」
「な、何ですって!?どういうことですか、あの子を連れ出すというのは…?」
耳を疑った。
「あの子をいつか、あなたに託したい――ということです」
きっぱりと言い放つ。強烈な意思の宿った強い瞳が真正面から愁を射る。
「私に何かあれば、あの子はまた一人きりになってしまう。そうなる前に私は…。愁様、あなたにだけはどうしても話しておきたかった…」
『どくん!』と大きな鼓動が愁の胸を殴りつけた。
まるで自らの運命を予見するかのようなこの言葉。それはもしや、遊佐の命が残り少ない――ということを示唆しているのではあるまいか?
しかし――。
今ここでそれを尋ねてみたところで、恐らく遊佐は未来を明かそうとはしないだろう。
「一つお聞きしたい。なぜ…。なぜ、私なのです?」
すると、僅かに戸惑いを見せた後――。
「それは…あの子とあなたの背負うものが同じだから。そして、その時が来れば、あの子もきっとあなたを選ぶから…」
「背負う…もの?紫苑と私の――」
それっきり遊佐は、口を開こうとはしなかった。
わが子の如く愛する紫苑との決別を確かに予感しながら、敢えて彼女は――その流れに身を任せようというのか…。
遣りきれぬ思いを胸に、愁はただ頷くよりほかになかった。
* * * * * * * * * * * *
「堅海、今いいか?」
自室でひとり、都から持ち帰った資料の数々に目を通していた堅海は、聞き慣れた友の声に顔を上げた。
「ああ…構わん」
ちょうど今から五年ほど前のこと。
堅海が皇子の近衛として星の宮へ着任したばかりの頃、一介の宮廷学者でしかなかった愁もまた篠懸皇子の専属教師に任じられた。当時、堅海は二十一歳。愁は十八歳。どちらもその道では異例の出世である。
生粋の古武術の家系に生まれ、剣術・槍術ともに長けた優秀な兵士であり、純朴だが、やや直情的な一面をも持ち合わせる堅海。一方――常に冷静で思慮深く、温和な人柄の中に芯の強さを秘めた宮廷歴史学者の愁。
一見すれば、まるで正反対の性格を持つこの二人は、今や、年齢や身分の差を越えた固い友情で結ばれていた。
「なんだ?」
堅海は紙面から目を上げたが――。
「……」
肝心の愁は部屋の隅に座り込んだまま、いつまでも畳の目ばかり眺めている。明らかにいつもの彼ではない。
整えた書類を手元に置き、堅海は改めてきちんと向き直った。
「どうした、愁。具合でも悪いのか?」
ひどくぐったりとした瞳が向けられる。
そうして――。
「何か…。もう疲れた」
「は?」
まるで愁らしからぬ後ろ向きな台詞である。
だが、一旦は顔をしかめた堅海も、
「やれやれ…まったくだ。頭の痛いことだな、お互い」
おもむろに胡座をかいて、愁同様にしょげて見せるのであった。
顔を見合わせた二人は同じ顔をして笑った。
時に愁は、こんなふうに堅海の前でだけぽつりと本音を漏らすことがある。普段は品行方正で通っている愁の、唯一弱音を吐ける場所が彼なのだ。
実際堅海の方も、こういった愁の呟きが、本音でありながら本気ではない――ということを良く理解していたし、だからこそそんな場合の対処もちゃんと心得ている。
短いため息をついて愁は、額に枝垂れかかるる髪を掻きあげた。そうして再び堅海を見た時には、あれほど沈んでいた顔はすっかり元の平静を取り戻しているのであった。
「それでどうだった、そちらは?何か分かったか?」
「まあ…ほんの少しはな」
堅海は大仰に肩を竦め、自らの得た情報を愁に聞かせた。
「件の紗那の使者から聞き出せた鬼の情報は、ほぼ久賀の話と同じものだった。銀鏡の鬼という存在が、森に巣食う山賊として忌み嫌われている――という点ではな。氷見がその銀鏡の鬼の一味であることは、本人も認めているところだし、まあ、そこは間違いないだろう。
紗那はつい先頃、その山賊を一掃すべく銀鏡に討伐隊を送っている。時期的にも一致するから、あいつのあの大怪我は、十中八九その時のものと見て良い。
だがな…気になるのはここからだ。紗那の宰相補佐・橘の話によると、討伐隊を森へ差し向けるという情報、どうも事前に鬼たちに漏洩していた形跡があるそうだ。ということは、少なくとも彼らを襲撃する計画が立てられた時点で、鬼たち――あるいはそれを支持する何者かが、何らかの形で紗那政府に入り込んでいたということだろう?
一体、何の目的で?まさか彼らは、こうなることを予見していたのか?
扇の都を遥か離れた銀鏡の森の、たかだか山賊風情がだな、政府をこうまで警戒するというのは…。どうも、やり過ぎている感が否めない。更に加えて、この亡命者の調書だ。一応写しをここへ持ってきてはみたが…」
堅海は、書類の山から紐で丁寧に閉じられた薄い束を引き抜いた。その資料の必要箇所を指し示しながら堅海は説明を続けた。
「これを見るとだな…。この亡命者自身は銀鏡近郊の村の出らしいのだが、驚いたことに忌み嫌われているはずの鬼たちと村ぐるみで親交を持っていたというんだ。彼らが紗那に免税されていただの、恩赦を受けていただのという話はその時の情報らしくてな…。ああ、ほら…ここだ。『銀鏡付近に住む者なら誰もが知っていることだ』と…。
国内では差別的扱いを受け迫害されているはずの彼らが、近隣の村とは密接な付き合いがあったり、政府から特別優遇を受けているなんていう話…。これじゃあ、まるで公の認識と逆じゃないか。
更に解せんのが、それを軽々しく公言する鬼の行動だ。仮にこの内容のすべてが偽りだとして、そこに何の意味がある?免税だの優遇だの――こんな嘘を得意げに語ったところで、政府ともども彼ら自身があちこちから責め立てられるだけだ。隠す必要こそあれ、わざわざ自らの手で表沙汰にすることはないじゃないか。
で、最後の疑問は――。金さえ払えば殺人代行や強奪までも請け負うという凶悪な犯罪者集団を、その存在のみならず居場所さえも承知しながら、今の今まで国が野放しにしておいた理由は何だ?鬼は親に捨てられた子どもばかりで構成されていると聞く。鬼だなどと、さも恐ろしげに呼ばれてはいるが、つまりはたかが子ども。それを退治するのに一体何年かかっていると思う?この調書の日付を見てみろ、愁。これは三年も前の話だぞ?」
「なるほど確かにな。内容のすべてを鵜呑みにはできないが…。それにしても、相当違和感があるな、これは…」
「だろ…?何が目的かは判らんが、とりあえずまだ何か裏があるとは思う」
愁は眉をひそめた。
「で…。おまえの見解は?現時点ということで構わない。堅海はどう思う?」
「それを今まで考えていたんだがな…」
堅海は遠くの空をぼんやりと見ていた。
澄んだ空の彼方に、白く細い月が浮いている。
「銀鏡の鬼が単なる山賊だという話。これは、国民一般にそう思わせておきたいという思惑がため、政府が敢えて流した偽の情報ではないだろうか?そしてこれは久賀の推測で受け売りなんだが、やはり紗那政府は鬼と密接な繋がりを持っている。紗那政府はこの癒着を隠さんがために彼らを完全なる悪者に仕立て上げ――つまりは、表向きでは彼らを蔑んでみせ、国民が自らの手で迫害や差別を加えるように仕向けていったのではないだろうか。しかしその実、裏では免税や恩赦といった優遇措置を施す契約を交わし、それを餌に何年も彼らを利用し暗躍させていた。
ところがどういうわけか、ある時急に彼らが必要ではなくなって、裏のからくりを知る子どもらを根絶やしにしようと考えた、と…。まあ、そんなとこかな」
愁は瞳を伏せた。
「そうか。では、今一度訊くが鬼自身が自らに与えられた裏の優遇を、敢えて近隣に知らしめた理由というのは…?」
「!!」
堅海の表情が一変する。同じ何かを先に察していたであろう愁の表情にも憂いが見えた。
「鬼はそんな自分たちの立場に嫌気が差したわけだな!彼らは、民の不満をより自然な形で国や自分たちに向けさせようと考えた。そうすることで、世論を動かし、果ては――」
「言うな、堅海。それは憶測だ。何の証拠もない」
と、一度は堅海を諌めてはみたが…。
「だが、私も同じ考えだよ。一国の歴史を語る上ではよくある話だ…」
「へえ…宮廷が誇る高名な歴史学者様と、末端の一兵であるこの俺が、同じことを考えているだなんてまったく光栄な話だな」
どっかりと胡座をかき直し、不敵に笑う。
その姿に少し救われた気がして、愁も小さく笑った。
「しかし、隣国ながら紗那の内情となると易々と手に入るものではないし…。後はあの氷見に直接尋ねるほかはないようだな」
「ふん、あのガキが本当のことを話すとも思えんが…」
堅海は不服そうに鼻を鳴らした。
「やれやれ…。さてはおまえ、早速彼に喧嘩を売ったな…?」
愁は苦笑した。
「ば、ばかな!あれは紫苑が…!俺はただあの小僧に話を聞こうとしただけで…」
「怒らせてしまった、と…?」
思わず口を噤む。結局、堅海の威勢もそこまでだ。自分という人間をよく知る愁には、あの時の経緯のすべてが見えているように思えた。
「いいよ、分かった。それじゃあ、私一人で行こう。引き続きおまえは、情報を集めてくれ」
だが――。
「ちょっと待て、愁!」
「!」
立ち上がろうとした細い手首は、あえなく捕まえられてしまった。温かく力強い友の手は、逃げもごまかしも許さぬ迫力を孕んでいる。これこそが彼の――堅海の優しさなのだ。愁はそのこともよく分かっていた。
躊躇も逃げも許さぬ声が問う。
「おまえは――?俺に、何か聞いて欲しいことがあったんじゃないのか?」
誠実な眼差しが、真っ直ぐに愁を見ていた。
(参ったな…。さすがに長い付き合いだ…)
さり気なく目を逸らし、愁は苦い笑みを浮かべた。
「いいんだ…。またにする」
「おまえ…。あまり何もかも一人で抱え込むんじゃないぞ」
軽く嗜めてやると、穏やかに愁は頷き、そのまま出て行ってしまった。
* * * * * * * * * * * *
月明かりの縁側に腰掛け、ぼんやりと氷見は夜空を眺めていた。
こうして物思いに耽れば、脳裏に浮かぶのものは決まっている。幾日幾年過ぎようと、忘れられるはずはない。
そう、あの日――。
里が焼かれ、大勢の仲間たちも殺されて、そして…。
「姉ちゃん…どうしてるかな…」
ぽつりと独りごちる。
夜天に浮かぶは、まだ年端のいかない氷見が銀鏡に保護されて以来、ずっと本当の姉のように世話をしてくれた、二つ年上の少女――李燐の姿であった。
少しばかり心配性で、おせっかいな…。
だけど、いつも優しくて、そして強くて…。
泣き虫な氷見をいつも庇ってくれたあの姉ちゃんが、本当は自分よりもずっとか弱く、泣き虫だと気付いたのはいつの頃だったろう?
自分を守るその背中が、実は自分よりもずっと小さいと気付いたのはいつだったろう?
頭を抱え、うなだれる。
「生きてるよな、きっと。雲英が一緒だもんな。大丈夫…。きっと…大丈夫…」
自らに言い聞かせるよう、何度も唱えた。だが、不安はそう簡単に拭えはしない。
折れそうになる心をかろうじて堪え、膝を抱えた氷見の髪を冷たい夜風がそっと撫でていった。
「少し…失礼しても宜しいですか?」
廊下から若い男の声がする。
「ああ。構わない」
襖を開けて入ってきた男は、その場で大仰に一礼した。
「こうして言葉を交わすのは初めてですね。愁と申します。以後お見知りおきを」
「愁…?ああ、篠懸…いや篠懸様のお付きの先生だろ?」
「おや、もうご存知でしたか」
柔らかに微笑み、愁は氷見の傍らへ膝を付いた。
「あの皇子様、飽きもせず毎日ここへ通って来るもんでね。ひととおりの人間の名は聞かされたよ」
肩を竦めてため息をつくと、氷見はそのまま言葉を続けた。
「で――。早速なんだけどさ。あんたのそのバカ丁寧な言葉、何とかならない?堅海とかいうでっかい男のあの不躾な物言いの方が、まだ好感持てるってもんだぜ?」
一瞬きょとんとした後、突然愁は吹き出した。氷見には、その意味が分からない。
「な…何だよ?何か俺、変なこと言った?」
慌てて愁は言葉を繕った。
「いや、笑ったりしてすみません。なるほど、堅海と喧嘩になるわけですね。私が堅海と出会った頃、ちょうどあなたと同じことを言われましたから」
「同じこと?」
「ええ。彼と私は同じ頃に楼蘭の内裏に上がって以来、ずっと無二の仲なのですが、彼は私のこういう物言いをひどく嫌うんです。初めは、私の方が少しばかり位が高いことを気にしているのかと思いましたが、実はそうじゃなかった。彼に言わせると、改まった言葉は距離を感じるから嫌だ――と。ついよそよそしい印象を与えてしまうのですね…。彼はそれがたまらなく辛いらしいんです」
愁は再びくすりと笑った。
「良くも悪くも正直なんですよ、堅海は。そして…多分あなたも、ね。あなたと堅海は、根っこのところがよく似ているんでしょう。似たもの同士は、喧嘩になると言いますから」
「はあ?あんな偉ぶった野郎と俺が似てるって?やめてくれよ。あんな傲慢な男じゃないぜ、俺は」
うんざりと顔をしかめる。
「堅海は傲慢なんかじゃありませんよ。ただ――彼はいつも一生懸命で必死なんです。ですから時に強いことも言いますし、あの姿形にあの大声ですから、威圧感もありますけど…。でも、きっと今頃後悔していると思いますよ」
なぜか愁は楽しそうだった。
「多分、いきなりあなたを怒鳴りつけてしまったこと、どう詫びるべきかと頭を痛めているはずです。彼はいつもそんな調子ですから…。どうか許してあげてくださいね」
庭に投げ出した自らのつま先を眺め、氷見は微かに微笑んでいた。あの時の堅海に腹を立てている様子などまるでない。
それでも愁は、そんな彼の横顔に潜む深い悲しみを確かに感じ取っていた。
「大丈夫…分かってるよ。守りたいものがあるから強くなれる。そんな言葉だった」
呟く声が掠れている。
「あなたにもあったのですね。守りたいと願うものが」
大きく伸びをした後、改めて氷見は愁へ向き直った。
「ふっ…。ほんと、ここの奴らときたら、どうしてこうなんだろうな。人の心ン中にどかどか入ってきちゃあ、散々に掻き回して――。だけど…なぜか全然嫌じゃない。俺…もしかして、吐き出す場所を探していたのかな。今は心の中の全部をぶちまけて楽になりたい――そんな気分だよ」
「私などで宜しければ」
愁はゆっくりと頷いた。
* * * * * * * * * * * *
さて。
氷見の話をかい摘むとこうだ――。
まず、『銀鏡の鬼』という存在は、近隣を襲う山賊のようなものではなく、言うなれば一部の権力者の私利私欲のために飼われている『犬』といった色合いが濃い。内争や反乱の絶えぬ紗那国の影で暗躍する隠密――と言った方がふさわしいかもしれない。
ただそれは『鬼』の中でも氷見や雲英を始めとした、ごく一部の者に限ったことで、他の者は近隣の集落の畑仕事の手伝いをさせて貰ったり、買い物の代行として街へ出て行ったり――と、そんなことで日銭を稼いで暮らしている。すなわち、山賊だの人殺しだのと悪く呼ばれるのは、ごく一部の者――つまり、氷見たち数名のみを指してのことだし、それも扇の都を中心とした一部地域だけのことらしい。近隣の村では疎まれるどころか親交も厚いという。
隠密の仕事は時々入る。暗殺や窃盗などが主だった内容だ。その範囲は国内外に限らない。依頼は都に住む仲間から伝わる。具体的な出所や理由までは末端には知れない。そんな仕組みだ。
だから氷見たち隠密は、殺せと言われれば何の理由もなく相手を殺すし、奪えと言われればそれがどんなに尊い物でも躊躇なく奪う。その見返りとして大金を手にするというわけである。もちろんその金は里のみんなのものだ。独り占めはしない。
だがある時。
都にいた仲間――妖から、軍の鬼狩りの情報がもたらされた。その後、彼女はぷつりと消息を絶つ。
これまで忠実に任務はこなしてきたし、国に恨まれる理由もない自分たちがなぜ?
子どもたちは困惑した。しかし仲間の情報はいつも確かだ。
早速子どもらは逃走の計画を練った。だが、国籍のない彼らが国を出ることは容易ではない。一人二人ならばそれも可能であったかもしれないが、何十人もいるとなると、まるで至難の業だ。已む無く彼らは、年頃の男性と女性・子どもといったのごく少人数の班を作り、各自の判断で逃走を図ることにした。
氷見はまだ七つの珠洲と姉代わりの李燐を連れ、かねてから目をつけておいた洞穴に潜むことで、一旦ほとぼりが冷めるのを待つことにした。
だがそこもやがて見つかってしまう。大勢の紗那軍を前に、たった一人で仲間を守り、逃げねばならない氷見。ところが、運良くそこに、腕利きの相棒・雲英が駆けつけた。
それまでは良かった。しかし、その時の戦いで、ついに李燐と雲英の二人とは離れ離れになってしまったのだった――。
「堅海が紗那軍の来栖准将に聞いた話では、数人の鬼を捕らえた――ということでした。その中に、姉上様とお友達がいらっしゃることを祈りましょう…。それならばまだいくらか望みもある」
しょんぼりと俯いたまま、氷見はこくりと頷いた。
「聞かせてくれてありがとう。辛かったね…」
髪に温かな手が触れる。そっと瞳だけを動かし、氷見は愁を見上げた。
ここにいると、なぜか子どもに戻ってしまいたくなる。あんなに必死に強くなりたいと――もっと大人になりたいと願った日々は、一体何だったのかと、つい疑いたくなる。
「時に、あなた方銀鏡の鬼は国から免税などの優遇を受けていたということですが、それは本当の話ですか?」
氷見ははっきりと首を横に振った。
「ううん。だって、それは――。俺たち人間じゃないから。あの国じゃ、俺たち国民でもなけりゃ人間ですらないもの。税金って国民が払うもんだろ?その代わり俺たちの声なんかまるで政府は聞いちゃくれないぜ?そういうの優遇って言うのかい?」
「なるほど…そういうことか。確かに、優遇――と言うのはいささか聞こえが良すぎますね」
愁はにわかに眉を寄せた。
「なあ、愁。俺も訊きたいことがあるんだけど…いいか?」
「はい、何なりと」
愁はにっこりと微笑んだ。
「篠懸…様ってさ、あいつ、どういうの?何か…さ、友達になりたい――とかって言うんだけど、でも俺は…」
自分たちが紗那でどんな扱いを受けてきたか、そして自分がどんなに汚いことに手を染めてきたかを語って聞かせた今、やはり氷見は迷っていた。
当然許されるはずなどないと思った。そして、いつまでもこうしてここにいるわけにはいかない――そう思った。
ところが。
「篠懸様のことより、あなたの気持ちはどうなんです?」
返ってきたのは意外な言葉だった。
「え?俺…の?俺の…気持ち…?」
「あなたは篠懸様がお好きですか?あの方をあなたの友として愛してくださいますか?そしてこれから先、あの方と共にありたいと――そう願ってくださいますか?」
正直驚いた。
篠懸だけならまだしも、その第一の側近であり教師でもある愁がこんな風に自分を尊重してくれようとは考えもしなかった。
「あ…えと…。俺は…あいつ、好きだよ…。一緒に話しててもさ、あいつの誠実さとか優しさなんかが、どっと体に流れ込んでくる感じで…それでいてホントとんでもなく正直で真っ直ぐで…。俺、何か自分が恥ずかしくなる…。こんなの初めてだ。あんなヤツ初めて見た…」
氷見は両手で顔を覆った。人を何人も殺め、血と罪に染まった自分が恥ずかしくてたまらなかった。
「ではもうとっくにお友達なんですね」
愁はにっこりと微笑んだ。
「でっ…でも俺なんかが…!」
「そういう卑屈な言い方、あの方はお嫌いですよ」
「あ…。う、うん…そうだな…」
窘めると、氷見は恥ずかしそうに俯いた。
「氷見…あなたが鬼として生きたことを少しでも恥じているのであれば、今から人間に戻ればいい。ここにはあなたを鬼と呼ぶ者はおりません。過ぎたことを悔やむのはそのぐらいでもう止めておきましょう」
握り締めた拳に雫がいくつも落ちるのを知りながら、愁はそっと部屋を後にした。
7.その赤き心に
光の宮に、硬い靴音が響く。
水紅皇子の専属教師・臣は、静寂の雲廊を足早に進み、正面に鎮座する黒檀の扉を静かに叩いた。
「私です。失礼します」
内側で一礼して顔を上げると、窓辺の陽だまりの中、頬杖を付いた水紅が気だるげに振り向く。膝の上には『統計学概論』と偽装された例の本が広げられている。
「どうです?お勉強の方は進みましたか?」
「ふん…。おまえ、わざわざここへ嫌味を言いに来たのか?」
水紅は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
実は、取り寄せてまで手に入れさせた東方秘術の書物ではあったが、その道をかじったことさえない水紅が読んでみたところで、いくらもその内容を理解などできず、当然ながら読書は遅々として進んではいなかった。
そして、そうなるであろうことは百も承知していた臣である。
「ですから何をお知りになりたいのかと、何度も伺っているではありませんか」
「別に…。何でもない」
そうぼそりと言うと、水紅は再び書面へ目を落としてしまった。どうあっても理由を明かす気はないらしい。
とはいえ実は、これでもう何度となく交わされた同じやり取りである。
「願わくはもう少し…私を信用していただきたいものですね…」
ため息交じりに呟いて、
「水紅様、今日はお願いがあって参上しました」
臣は皇子の御前に跪いた。
頁を捲る手がぴたりと止まる。
「明日の紗那の来訪が済み次第、暫くのお暇をいただきたいのです」
途端。
ぱたん――!
どうしたわけか、いつになく感情的に本は閉じられ、ようやく水紅はゆっくりと顔を上げた。それでもその後、彼の端正な顔が臣へと向けられることはついになかった。
「なぜだ?」
伏目がちな眼差しが、密かに臣を捉えている。
「はい。故あって、如月を訪ねたく存じます」
「……」
尋ねておきながら臣を見もせず、頑なに水紅は自らの膝元ばかり睨んでいる。だが、その横顔に宿る真実の感情を、臣は確かに感じ取っていた。
「おまえまでもあいつのもとへ行くというのか…」
それは、ひどくひっそりと、まるで吐息のように漏れた本心――。
水紅のこの言葉――予想はしていた。それでも臣は、敢えて聞こえぬ振りを通すと決めていた。
水紅の胸の内はよく理解しているつもりだ。自分がこう切り出せば彼が深く傷つくであろうことも、そしてそれを下手に気遣えば、そんな臣をも拒絶し、更なる悲しみの淵へ沈みかねないということも。
それが水紅の胸に巣食う孤独。まるで心の内側へ侵食するように、更なる深淵の闇へと己を追い込んでゆく、そんな彼の――彼だけの心の風景なのである。
表層では、強く気高くただひたすらに孤高の頂を求めながら、心の奥底では誰かの差し伸べる手を密かに待ち続けている彼の弱さ。そして、あの篠懸のように誰もに愛され守られたいと確かに願っているのに、それを言葉にすることさえ叶わぬ彼の悲しみ。
本当は、そのどれもを臣は臣なりによく理解していた。
「如月を越えた辺りの紗那領内で、どうも不逞の動きがあるようです。また、その件に関して少々気になることもございますので、行ってこの私が直に確かめて参ります。末の水紅様の世に関わらぬ事態とも限りませんので…。蘇芳帝の許可は、既にいただいております」
結局最後まで水紅は臣の顔を見ようとはしなかった。むしろその姿を避けるように、さり気なく窓の外へと目を背け――。
「そうか…。ではよろしく頼む」
水紅は静かに呟いたのだった。
* * * * * * * * * * * *
紗那の来訪が明日に迫った吉日――。
古より神秘が息づくここ楼蘭国では、大きな行事を迎えるその度に、『星読み』という手法で吉凶を占う慣習がある。
『占い』とひと口に言っても、この国における星読みは、国家そのものを左右するといって過言でないほどの重要な儀式といえる。
なぜなら、ここでもたらされた結果次第では、行事内容を変更したり、日程を先送りにしたり――時には、なんと行事のすべてを白紙に戻してしまうことさえあるからだ。
もっとも、今回は相手のあることなので、容易に延期になどできはしないが、それでも日が近付けばこうして形式的に星読みの儀は開かれる。
まさに今。
内裏中央、磨鑛殿前の広場には、国内屈指と名高いかの人物の星読みをひと目見ようと、内裏内外を問わず大勢の人々が所狭しと集り始めていた。
広く開け放たれた殿中には、皇帝・蘇芳と第一皇子の水紅、第一后の白露、更にその横には臣や常磐ら重臣が静座し、儀式次第を厳かに見守る。
やがて――。
祭司の合図に従いおずおずと祭壇へ上がったのは、真っ白な衣に身を包んだ睦であった。
宮の抱えるどの星読み学者よりも若く、それでいてずば抜けた天賦の才を持つ睦。彼無くして、もはやこの儀式は成り立たない。
彼の星読みは、ここで抱えるどの術師よりも優美華麗な上、何ともいえず色めかしく、また誰の目にも鮮やかで、予見を説く言葉もずばりと鋭く的を射て明確である。これまでに一度とて読みを違えたこともない。
時として向けられる卑劣な陰口そして中傷――にも関わらず、今の彼の地位を揺るぎないものにしているのは、なにも白露の口添えばかりではなかった。
古来の作法に則り、先ずは殿宇へ一拝してから睦は瑠璃色に輝く天球の前へと歩み寄った。
日ごろあれほどおどおどと小さくなっている睦が、この時やけに大きく見えたのは、星読み学者としての彼の存在の確かさを、改めて皆が悟ったからだろう。
ふうっ…と小さくひと呼吸おいて、睦は両手を天球に翳した。
と――。
不思議なことに、辺りで囀っていた鳥や虫の声、また、今まで優しくそよいでいた風さえもがぴたりと止んでしまった。
音を失くした刻と空間とが、ぴんと張りつめてゆく。そして、あらゆる気が、すっかり態を潜めるまさにその瞬間。
「……」
睦の口から微かな呪文のような言葉がこぼれ始めた。よく耳を澄ましてやっと聞こえるかどうかのささやかな声――それがゆったりと漂い、辺りを薄く包み込むと、瑠璃色だった天球が徐々に仄白い輝きを纏(まと)い始めた。天球を包む光は、ゆらゆらと揺らぐように何度も瞬きながら、確実にその強さを増してゆく――。
「は、速い…!!」
この手際の鮮やかさには、さすがの臣も声を漏らさずにはいられなかった。手順こそ同じようなものだが、かつて彼が各地で目にした星読みとはあまりに異なっていたからである。
臣の知るそれは、天球に命を吹き込むまでに確か半時(約一時間)ほどの時間を要していたと記憶している――というより、むしろそれが当たり前なのである。
ところが今、睦がここに要した時間はごく一瞬。
まさしく神の御業としか言いようがない。誰の追随も許さぬ彼の実力のほどを、強烈に知らしめる現実がそこに確かにあったのだ。
やがて、天球の輝きに人々の目が眩しさを覚える頃――。
爆音とともに一斉に地中からせり上がった何かが、睦のみならず聴衆の髪や衣の裾をも一斉に跳ね上げた。
いつしか広場は光の天柱に囲まれていた。幾筋もの白銀の筋が、一心に宙を目指し、高く高く伸びてゆく。
そのさまは、あたかも神仏来光の如し。
よもやこれは夢か。
はたまた現か――。
ついに天上へ昇り詰めた光の柱は、人々の頭上で悉く弾け、ぱっと四方へと飛び散った。
そうして。
天空を次々にこぼれた星々の飛礫が降りしきる只中で、清かに空を仰ぐ睦の姿は、この世のものとは思えぬ神々しさを湛え、ひときわに美しく輝ているのであった――。
ところが。
「光の…指す方へ…」
占いの示す未来が、少しずつ言葉へと紡がれ始めたその時。
「かの光の指す方へとゆく…鳥の如くに…暗雲迫りて、後の世も…荒ぶる時の…定めなればこそ…」
見守る人々の顔が見る間に青ざめてゆく。
「まだなおざりの時なれば…今ここに澱みなく…闇もなお、その姿を潜め…。まだその時ではない…まだかりそめの流れは揺るが…な…い…」
なんと禍々しき言葉なのだろう――!!
何事かある度に、半ば形式的に行われたこの儀式。それを今回、あの睦が行うとあって、ひと際に大勢の人間がここに集い、その星読みに注目していた。だが、その中の誰ひとり、このように不吉な星読みを目の当たりにしたことはなかった…。
彼の異常に真っ先に気付いたのは臣であった。
「睦!!」
咄嗟に立ち上がったその刹那、睦の姿が忽然と消えた。
すぐさま祭壇へ駆け登ると、天球の手前に崩れ落ちた睦が胸を押さえて蹲っている。臣は、震える細い体を抱き起こした。
「う…」
幸い、辛うじて意識だけは保っているようである。しかしながら、血の気が失せた額にはびっしょりと汗が浮き、呼吸もかなり浅い。
不意に誰かの悲鳴が上がると、広場は一気に騒然となった。
術者がこれほど消耗する未来。
そして、悪夢を示唆する数々の言葉。
それは一体――?
「これは何事だ!一体何だと言うのだ!!睦、貴様…っ!!」
「お…お待ちください、蘇芳帝!!」
熱り立つ蘇芳を、懸命に宥めにかかる常磐。その隣で后妃・白露は蒼白の顔で震えていた。
その姿を横目に小さくため息をつき、水紅は静かに立ち上がった。
「臣。睦を連れて、ここは一旦下がれ」
「はっ!畏まりました」
睦を抱えた臣が直ちに立ち去るのを見届けた後、水紅はおもむろに広場へ向き直った。
「ええい、静まれ!たかが予読み。何を怯えることがある!未来はここからいくらでも変わる!星の言葉などに躍らされる私ではない!!」
すると、なんということだろう――。
たったその一声で、あれほどのざわめきがたちどころに消えてしまったのである。
次期皇帝・水紅皇子の堂々たる姿に、聴衆が一様に圧倒された瞬間であった。
そして。
「皇帝陛下。予定はどうかこのままで」
踵を返し、恭しく膝を付くと、水紅は強い眼差しで蘇芳を見据えた。
* * * * * * * * * * * *
「た、大変なご迷惑を…。申し訳ありません」
自室に運ばれた睦は床から僅かに身を起こして言った。
「そういつまでも気に病むな。あとは水紅様が良しなにしてくださる」
再び睦を布団へ押し込め、臣は手桶の手拭いを固く絞った。
「だが…。世辞ではなく、今日は心底驚いた。おまえの星読みを見たのはこれが初めてだが、噂に違わずとんでもない腕をしているな」
「痛み入ります」
差し出された手拭いを受け取り、睦はほっと表情を綻ばせた。
「では、私はひとまず水紅様のもとへ戻る。おまえはここで少し休め。また後ほど様子を見に寄る」
「はい…。ありがとうございます」
素直に閉じられた瞼を見届け、臣は睦の部屋を後にした。
足早に広場へ戻ってみるとあれほどいた物見の姿はなく、皇帝や后も既に下がった後で、柱に背を預けた水紅だけがその場でぼんやりと臣の帰りを待っていた。
「どうだ、睦の様子は?」
「はい、意識はしっかりしておりますので、問題はないかと」
「そうか…。何よりだ」
普段、決して快く思っていないはずの睦を気紛れに気遣う水紅。彼のこういった態度は初めてのことではないが、本来の彼はきっとこういう優しい人物なのだろう――と、密かに臣は感じていた。
だが彼は、いつも無下に周囲を撥ね付けては、立場上の体裁ばかりを取り澄まし、温かな感情を全部殺して自らが創り上げた『水紅皇子』という存在を演じているのである。
「見事、場を収められたようですね。さすがです」
「父上も母上も、呆れるほど役に立たなくてな」
ため息をついて、水紅は鼻先でせせら笑った。
「み、皇子様!このような所で滅多なことを仰っては…!」
「ふっ…そうだな。口が過ぎた」
面倒臭そうに髪を掻きあげると、水紅は臣を従え、内裏の奥へと消えた。
* * * * * * * * * * * *
「妖、お水汲んできたよ!」
手に包んだ小さな椀の水面を気にしながら、少女がそろそろと階段を上がってくる。
鏡の前で化粧を整えていた妖は、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがと。じゃ、こぼさないようにその窓のところに置いてやってくれるかい、珠洲」
そうして、ひゅっ!と窓辺で口笛を鳴らすと、一体どこにいたのか、青空の真ん中に一羽の鳥が姿を現した。
「お帰り、八重」
勝手知ったる様子で欄干へ降り立った隼――八重は、きょろきょろと何度も辺りを見回して安全を確かめると、椀の中の水を飲み始めた。
八重は、まだ妖が紗那にいた頃からずっと一緒に働き、寝食をともにしてきた大切な相棒だ。
銀鏡の出でありながら、里から遠く離れた紗那の首都・扇で暮らしていた彼女の一番の友でもあり、最良の理解者でもある。妖は、この八重を使って請けた仕事を仲間に伝え、また都で得た情報を里へと流していたのである。
実は、紗那政府の鬼狩りを、いち早く銀鏡へ伝えた人物こそ彼女であった。その情報を伝えてすぐ妖は自らに迫る危険を避け、密かに楼蘭国へと逃れた。
誰も知らないはずのその動向を氷見だけが知っていたのは、彼と彼女が単なる仲間同士といった関係でなかったこと。そして、そうであるからこそ、敢えて妖がこの八重を氷見のもとへだけ遣わしたためである。
「ねえ、妖。氷見、まだかな。ほんとに氷見はこの場所知ってるの…?」
いそいそと支度を整えていた手がぎくりと止まる。
「そ、そうだねえ。氷見のことだから、どこかでまた道草でも食ってるのかもしれないね…」
銀鏡でどれほどの惨事があったのか、そしてその後の仲間がどうなってしまったのか――それらは珠洲の話しぶりから見当がつく。
里の仲間の動向は絶望的だ。そしてそれは氷見とて例外ではない。
そう――。
あの日、数十人もの追っ手から幼い珠洲を庇い、何とか国境近くまで逃げ延びた氷見は、最後に己の命を犠牲にしてこの子を妖に託したのである。そんな彼の心は、妖にだって胸が痛いほど理解ができた。
(だって氷見は…。いつだって、あの子はそういう子だったもの…)
そんな風に思えばつい涙がこぼれそうになる。しかし、今ここで涙をこぼしてしまえば珠洲は――。
鏡の中で、しょんぼりと珠洲が俯いている。
振り向いて妖はにっこりと微笑んだ。
「ほら、珠洲。髪を梳いてあげよう。ここにおいで」
珠洲を鏡の前に座らせ、妖はゆっくりと髪を梳かし始めた。
鏡に映る珠洲は、ひたすらに膝の上の自分の手ばかりを見つめている。ぎゅっと握りしめた小さな手には、胸の奥の不安や寂しさが固く包まれているに違いない。不意に解いてしまえば、途端にあふれ出すであろう気持ちをそこに押し込め、ただじっと耐えるばかりの健気な珠洲…。
「まあ、氷見は強い子だからね。きっとそのうちひょっこり帰ってくるさ。元気出しな」
珠洲はぐっと一文字に口を結んで頷いた。
と――。
「太夫、そろそろ御髪とお召し物を…」
引船の女郎が襖越しに囁いた。
「さ、珠洲。表で遊んでおいで」
入ってきた女郎と擦れ違い様ふと足を止め、もう一度珠洲はそっと妖を振り返ってみたが――。
もはやそこにいたのは彼女の知る妖ではなく、絢爛と咲き誇る百花の如き花魁・桔梗太夫その人であった。
* * * * * * * * * * * *
「さて。一体どうしたものでしょうね、あの星読みは…」
臣はひどく退屈そうにため息をついた。
星の宮の一室では、水紅皇子専属教師の臣と執権・常磐ほかの諸大臣らと、睦を除く星読み学者ら数名が、先刻の予見に関する議論を重ねていた。
とうに陽は沈み、卓に並ぶ蝋燭の炎が、集った面々の顔を揺らしている。だが、冴えた表情の者は一人とてない。
「それはそうと、臣。睦はどうしているのだ?やはりこういったことは、本人に直接問いただすのが一番かと思うが」
常磐がそう口を開いた途端――。
「そうだ!あれを読んだのは彼なのだからな、それが筋というものだ!」
「此度こそ、睦には自らの責任を負わせるべきではないのか!」
睦を庇ってしかるべき同僚の星読み学者らから、真っ先に辛辣な言葉が放たれる。
やれやれと頬杖をつく臣をよそに、議場のあちこちからここに居もしない睦を責める言葉が飛び交い始めた。そんな光景を見るほどに、毎度ながら臣はうんざりとするのだった。
「まったく乱暴な方々だな…。彼のあの衰弱ぶりをご覧になったでしょう?それでまだそのように酷なことを仰るとは…。彼はもう充分に働きましたよ」
「だが、仮にも陛下の御前でのあの無礼な振る舞い、黙って見過ごすわけにはゆくまい!」
星読み学者の一人が感情的に拳を振り上げた。
だが、その手が振り下ろされる前に、臣の鋭い眼差しが突き立てられる。一見冷静な瞳の奥には、圧倒的な迫力が確かに存在している。
「無礼だと――?では逆にお尋ねするが、貴殿らが読めば結果が変わったとでも仰るのか!あれほど直ちに明確に、必要の全てを呼び出し、しかと表現できる者がここにただの一人でもいると言うのか!!」
強烈な鋭気を孕んだ眼光が向けられると、あれほど威勢の良かった口はぴたりと噤まれ、再び息苦しいほどの静けさが戻った。
そんな暫しの膠着の後。
学者らがようやく冷静さを取り戻したのを悟ると、再び卓上に肘を付き、臣はおもむろに指を組んだ。
「結果は何も睦の責任などではない。彼は星の言葉を伝えただけのこと。いい加減に、その嫉妬に満ちた物言いはお控え願いたいものだな」
痛烈な嫌味ととれるこの言葉には、さしもの学者らも不快の表情を覗かせた。
「ほう…やけに睦の肩を持つではないか、臣。皇子付き同士の誼みというものか?」
常盤がせせら笑う。しかしながら、国家第二の実力者である常盤のこんな皮肉にも、臣はまったく動じない。若輩ながらも強気な男である。
「肩を持つなど滅相もない。私はただ、客観的に事実を申し上げているだけです。お気に障りましたか?」
その時、小さく扉を叩く音が聞こえた。
「あの…大変遅くなりまして…。申し訳ありません…」
あろうことか、そこに姿を現したのは睦本人であった。
お辞儀をした顔を上げるや否や、一斉に視線が突き刺さる。そんな空気に睦は怯え、びくりと肩を揺らした。
(まったく一体何をしにきたのやら…。これではまた彼らの思う壺ではないか…)
一瞬忌々しげに舌を打ち、臣は静かに瞳を伏せた。
「おお、良いところに来たな、睦」
このとき臣は、したり顔の常磐がこちらを一瞥したのに気付いてはいたが、目を合わせてやる気など更々ない。臣はただぼんやりと目前で揺れる蝋燭の炎を眺めるのだった。
ぺこりともう一度頭を下げ、睦はそそくさと臣の隣の空席に腰を下ろした。
「おまえ、体はもういいのか?」
小声で尋ねてみると、睦は頷き、無心の微笑みを見せた。だが、その素直な顔を見るにつけ存分に呆れ果てた臣は、安堵とも諦めともとれる曖昧なため息をつくのだった。
確かに睦にしてみれば、たった今しがたこの場でどのような会話がなされていたかなど、知る由もない。それでも臣は、あまりに無防備な彼の姿に苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「早速だがな、睦。先刻の星読み、一体どういうことなのか、ここで改めてそなたの口から説明してもらおうか」
学者の一人が厳しい口調で問う。
その物腰にも怯みつつ、睦はたどたどしく自らの見解を語り始めた。
「ええと…。あれは恐らく…星読みの光が風に流された方角――つまり北方で何事か良からぬことが起きる…ということではないかと…私には、そう感じられるのですが…」
ところがである。
まだいくらも話さぬうちに、待ってましたとばかりの叱責が彼を遮ってしまった。
「たわ言もいい加減にせぬか、睦!」
「思われる、だと!?そのように自信のないことでは困るな!あの星読みは、蘇芳様や奥方様も直に見ていらしたのだぞ!?そなた、それを知らぬわけではあるまい!」
「殊、陛下におかれては大層ご立腹だぞ!!貴様、この責任をどう取るつもりだ!?」
入れ替わり立ち代わり、あたかも畳み込むよう口々に責め立てる。
「せ…責任…ですか…?」
睦はぎゅっと胸を押さえた。
「当たり前だ!陛下の御前で、軽々しくもあのように不吉なことを…!貴様、それでもし予見を違えたなどということになったら、その身、無事では済まんぞ!それがそなたのみならず、我々星読み学者の顔にまで泥を塗ることになるというのが分からんか!」
擁護する者などない。またしても睦ひとりを一方的に非難する言葉が、つぶてのように飛び交い始めたのである。
だが。
睦にとっては、ある意味ではいつもの光景と言えた。言葉を返す隙も、言い訳をする間も与えられることなく、大勢の敵意の中で自分の居場所だけがなくなってゆく。
もはや睦に反論する権利などなかった。本来仲間であるはずの同僚らも、決して自分に手を差し伸べてはくれないのは知っていた。
だから――。
(そう…これはいつものこと。こんなのは、いつものことじゃないか…)
こうなっては誠心誠意謝罪するしか術はない。そうする以外の逃げ道は、残されていない――そう思った。
ところがである。
観念して立ち上がったその時、ぐっと睦の袖を引いた者がいた。
「!?」
見れば、時折臣が見せるあの氷刃の瞳がじっと睦を睨んでいる。目が合うと不意に視線を外し、臣はその眼光をそのまま他の学者らへと差し向けた。
「あなた方。責任、責任と先ほどから何度もそう仰るが、それならば、いっそ星読み学者すべてが責を負ったらいかがだ。これだけの雁首を並べ、貴重な血税を浪費し、宮抱えの恩恵を思うままにしておきながら、未だにその誰もが睦という頂を越えられない。その程度のあなた方に、まったく非が無いなどとは笑わせる。
まして一様に同じ道を目指しながら、その頂点に立つ者の言葉を故なく疑い、あまつさえその何もかもを彼一人に背負わせようなど…。人の上に立つ宮廷学者たればこそ、到底許されることではなかろう!下らぬ企てをひねり出している暇があるのならば、仲間の荷をともに担いでやれる実力をさっさとつけていただきたいものだな!まさか今後、あのような場で何時間もかけた挙句に、まるで見当違いのめでたい未来を聞かされるなどという茶番だけは、どうにも御免被るのでね!」
即座に皆凍り付いた。
今しがたあれほど勢いづいていた学者らも、この痛烈な指摘には唇を噛み締めるよりない。
若いながらも、自分たちよりずっと身分の高い臣。そんな彼の発する言葉は、その内容から込められた皮肉に至るまで、いちいち痛烈に図星を突いていたからである。
彼らにとっての睦という存在は羨望の的でありながら、同時に邪魔者であるといえた。ひと際に秀でた能力は、同僚として肩を並べる彼らの劣等感を弥が上にも煽る。その上、誰の目にも麗しい容貌と瑞々しいまでの若さ。更には后妃直々の擁護――である。
確かに、妬みの温床となるも頷けるが、どれも睦本人を責める理由に叶うものではない。
再び隣を見ると、頬を強張らせた睦が目を真ん丸にしたまま固まっている。またしても臣は、うんざりとため息をつくのだった。
「まずは皆さん、彼の話を最後まで聞きましょう。それからでも遅くはない。水紅様はおろかあの篠懸様でさえ、我々の話はきちんと最後までお聞きくださるというのに、大の大人たちが寄ってたかってこの調子では、我が皇子様方に顔向けができぬというものだ」
もう一度そっと袖を引いてやると、ようやく我に戻った睦があたふたと口を開いた。
「あ…!え、え…と、それで…。そ、そうですね…あの…。『後の世』とは、きっと今後のこと…あるいは代替わり後の、そう…もしかしたら、水紅様の時代のことかもしれません。『荒ぶる時』というのは恐らくは戦乱…。ですが、今はまだ静かな時代であるから、と…。敵は…真の我らの敵は、まだその形を潜めているのだから…と。そのような意味と、私には感じられましたけれども…」
「つまり、まだ猶予はあるというのだな、睦。それに、まこと相違ないのだな?」
「あ…えと…」
常磐の威圧にまた怯む。
すると、隣で頬杖をついた臣が鼻先で笑った。
「占いに、確かも何もないでしょう?これは一つの読み方だと、そうお考えになった方が良いのでは?但し、私は信じますがね。我が国の誇る最高の星読みの実力を」
* * * * * * * * * * * *
まだ静かな時代――と睦が読んだことで、議論は一応の目処がついた。長く時間を費やした会議はようやくそこで終わったのである。
速やかに会議室を出た臣が光の宮へ足を向けると、背後から誰かの靴音が迫ってくる。立ち止まり振り向くと、その主は息を切らせた睦であった。
「臣…!あの…先ほどはどうも…。本当に、ありがとうございました」
睦はぺこりと頭を下げた。
「一体何のことだ?」
「で…ですから、その…儀式の後も、それから今も…。色々と…今日は庇っていただいて…。何と言うか、重ね重ね…その…申し訳ありませんでした」
どぎまぎと言葉を紡ぐ。
そんな姿を見るにつけ、臣は三度目のため息をつかねばならないのであった。
敵前に身を守る術を持たず、かといって誰を疑うことも抗うこともしない。
徒に周囲に翻弄されるばかりで、懲りる様子もまるでない。
しかしそれでも彼は、その道では誰もが認める圧倒的な実力者に違いないのだ。
なぜこうも不当に耐える。
なぜこうも自らを貶める。
なぜこうも簡単に――。
突如として怒りがこみ上げた。
次の瞬間。
咄嗟に睦の胸倉を掴み、臣はそのままその細い体を力ずくで壁に叩き付けた。
「…っ!?」
痛みと衝撃に睦は顔を歪めたが、それでも胸の手は緩められず、それどころか一層の力をもって壁に押し付けられる。
戸惑う睦を睨み、臣は激しく声を張った。
「貴様という奴は、なぜそうも簡単に非を認めたがる!?あれほどの力を持ちながら、なぜそういつも自分に自信がないんだ!おまえを見ていると腹の底から苛々する!言いたいことがあるのなら、はっきりとそう言え!!おどおどするな!!」
一気に捲すと、ようやく臣は睦から手を放した。
「おまえの態度は、ただの逃げだ!周りの悪意から逃れようとする余り、流されるままに振る舞い、もはや己自身さえも見失っている!!おまえほどの男が、なぜその愚かさに気付かないんだ!?」
「お、臣――」
ふと、いつかの堅海の言葉が脳裏を過ぎった。
――もっと胸をお張りなさい。胸を張ってあなたの望むことを成せばよいのです。そしてもっとお心を強くお持ちなさい。誹謗や中傷など寄せ付けぬほどに!
言葉は違えど、今まったく同じ思いを浴びせられた気がした。
堅海も臣も…少なくとも彼らだけは、自分という人間をちゃんと認めてくれていたのだと――このとき初めて睦は悟った。
こんな自分に何の偏見も持たずに接してくれる者などないと、いつの間にか頑なにそう思い込んでしまっていた。そうしていつしか、誰かと言葉を交わすことにさえ、怯えるようになっていたのだ。
でも本当は――。
踵を返し、立ち去る後姿を見つめながら、睦は小さく呟いた。
「ありがとう。本当に…ありがとう、臣…」
* * * * * * * * * * * *
扉を叩いて中へ入ると、昼間とまったく同じ場所で水紅はあの本に見入っていた。熱中するあまり、傍らの短檠の灯が細くなっているのにも気付かなかったようだ。
黙って近付き、種油を足してやると――。
「どうした、臣。何かあったか?」
こちらを見るでもないのに、だしぬけに問うてくる。
「え…。なぜそう思うんです?」
問い返すと、ようやく誌面から顔を上げ、水紅は臣の瞳を覗いた。
「おまえにしては珍しく何事かに苛立っているようじゃないか」
「ふっ…。さすがは水紅様ですね。では、少し失礼しても?」
一応口先では断りを入れたが、実際は許可を得る前にさっさと自分の椅子に腰掛け、臣は背凭れに斜めに体を預けた。
衣の内に着込んだシャツの一番上の釦を外し天井を仰ぐ。そうして瞼を閉じると、それまで体中を巡っていた疲れがじわりと滲んでゆくようだった。
「本当に珍しいな。何か私に言えぬようなことか?」
すると臣は少し考え、やがて独り言のように口を開いた。
「結局、私は…。どうせ本物の学者なんかじゃないですから、何度経験を積んだところで、ああいう場には馴染めません。あのように明け透けに下らぬ感情をぶつけ合い、さしたる力もないのに己の保身ばかりを気にする輩は――。こう言っては申し訳ないが、吐き気すら覚える」
つい思いのたけを吐き捨てた拍子に我に返った。横目を遣ると、何とも複雑な表情の水紅が俯いているのが視界の端に映った。
(あなたのそのような顔こそ珍しいではないか)
胸の内で毒づいた。
「すみません。言葉が過ぎました」
「また睦が吊るされたか…」
「ええ…。彼は、突っ込まれる隙が多いですからね」
頷く代わりに肩を竦め、水紅は小さく笑った。
「で、ご用は何です?お呼びになったでしょう?」
気を取り直して向き直ると、水紅は用意してあった小包みを投げてよこした。
「明日のうちに如月に発つんだろう?それをあいつに持っていってやってくれ」
「篠懸様に?これ…中身は何なんです??」
見舞いの贈り物――というには、あまりに小さく粗末な包みである。
「ただの花火さ」
「この季節に花火――ですか?わざわざご自分でお取り寄せに?」
「まあな…。昔、兄弟三人でよく遊んだものだ。私と…香登と篠懸と…な」
なぜか水紅は寂しそうだった。
「……」
不意に見せる憂いに臣は戸惑っていた。
かける言葉が見付からない――。
「まだ…誰もが、自分たちの行く末も存在理由さえも知らずに、ただ毎日、無邪気に笑っていられた頃の…。篠懸は、私や香登とは随分齢が離れているからな。あいつは本当にこんな些細なものが好きで、いつだって嬉しそうにはしゃいでいた。たかがありふれた、ちっぽけな花火だと言うのにな…」
一見穏やかな眼差しは、目前の臣を突き抜けて遥か遠くを眺めている。それはまるで、優しく幸せな記憶の中へ気ままに魂を遊ばせ、かつて感じた温もりを再び全身で受け止めるが如く――。
「……」
だがそれもほんの束の間のことで、じっと注がれた臣の眼差しに気付くとすぐに水紅はいつもの彼に戻ってしまった。
「私があいつにしてやれることと言えばこの程度しかない」
鼻先で笑う。
何を返すこともできず、臣は黙って目を伏せた。いつもするように笑い返してやることなど出来なかった。
* * * * * * * * * * * *
何度も頼み込んでようやく休みをもらった妖は、珠洲を連れて黄蓮の都を歩いていた。
楼蘭に来てから妖とともに置屋で生活している珠洲が、花街の外に出るのは、実にこの日が初めてだ。
紗那の都・扇とも、もちろん銀鏡の里とも違う、素朴で質素な異国の町にすっかり魅了される珠洲であった。
「珠洲は、扇よりこっちの方が好きだなあ」
珠洲は実に嬉しそうだった。銀鏡からたった一人、命からがらここまで逃げ延びた彼女の顔に、これほど屈託のない笑顔が浮かぶのは久しぶりだ。
「今日は一日、ちゃんと珠洲のために空けてあるからね。そうだ!何かおいしいものでも食べようか?」
「うん!!」
こうして笑っていれば、ほんの暫くの間だけでも悲しい記憶をごまかすことが出来る。珠洲の――そして妖自身の胸の痛みは、時間がいつかきっと癒してくれるだろう。絶え間なく続く時が、優しければ優しいほどに――妖はそう考えた。
見れば、都の中央を走る大路に沿って、既に大勢の人が集まっている。
「ねえ、妖。今日、何かあるの?」
不思議と興味をごちゃ混ぜにした顔で、珠洲は無邪気に尋ねてくる。思わず返答に戸惑い、妖は曖昧な表情を浮かべた。
今日は、紗那の皇子と姫皇子が黄蓮へやって来る日だ――。
隣国からやってくる皇子らの姿をひと目見ようと、人々は大路の脇に幾重もの列を成して集まり、その到着を今か今かと待ちわびているのである。
だが、それを珠洲に話してしまえば、この楽しいひとときはきっとそこで終わってしまうだろう。
あの日――。
涙と汗と泥でぐちゃぐちゃになって、ようやく黄蓮の入り口まで辿り着いた珠洲。小さな体に刻まれたあちこちの擦り傷に血を滲ませ、疲労と空腹でふらふらになりながら…。
あの時、たまたま妖がそこを通りかからなければ、それこそどうなっていたか分からない。
仕事帰りの道端で、石のように蹲るぼろぼろの幼子に、もしやと声をかけてみれば、見覚えのあるその少女は恐る恐る顔を上げた。
あの顔。
不意に見せたあの時の珠洲の顔は、果たして泣いていたのか、笑っていたのか――。
思い起こせば、あの日の切なさが痛みとなって、またありありと蘇る。
もうこの子にあんな顔はさせまい。仲間が――あの氷見が自らの命を賭してまで守ったこの子に、もうあんな辛い思いはさせられない。させられるはずがない。
「ええと…そうねえ…。何だろうか…ねえ?」
適当にはぐらかすほかはなかった。強引に珠洲の手を引き、妖は大路とは逆の方向へと歩き出した。
「妖…!妖ってば!痛いよ…!!」
はっと手を放す。知らず知らずのうちに、手に力が入っていたらしい。
「あ…ああ、ごめん…。ごめんね、珠洲…」
珠洲の髪を撫でながら、妖は何度も何度も謝った。
ところが、その時。
シャラン――!
どこからか響いた、澄んだ鈴の音にどきりと胸が鳴る。咄嗟に妖は、珠洲を力いっぱい抱きしめた。
シャラーン!
シャララーン!!
音はゆっくりと近付いてくる。
紗那の一行が黄蓮に到着したのだ。
「妖…?」
にわかに騒然となった大路。
振り向けば、ゆっくりと過ぎゆく立派な黒い唐車が目に留まった。
「妖、ほら見て!!あそこ!すっごい大っきな車ー!!」
初めて目にする雅に、珠洲の無垢な瞳はすっかり虜となってしまった。
そうして、あろうことか次の瞬間――。
「!!」
不意に妖の手をほどき、珠洲は大路へと駆けて行ってしまったのである。
「だ、だめ!だめよ、珠洲!!行かないで…!!」
叫べども、今の彼女の耳に届くはずもない。
「珠洲!珠洲…!!」
群れる人垣を掻き分け必死にその姿を探すが、妖の細い声は、無情にも歓声の波にかき消されてしまう。それでも懸命に声を絞り、妖は何度も珠洲を呼び続けた。
その時だった。
居並ぶ人ごみの向こうに、見覚えのある赤いちりめんの帯がちらりと見えた。あれは間違いなく妖が着せてやったものだ。
「珠洲!!」
なりふり構わず人を分け、やっとのことで捕まえた小さな肩は――。
「!!」
妖はぎくりと凍りついた。恐らく珠洲も同じ気持ちだったに違いない。
「き…ら…?」
細く声を戦慄かせ、珠洲はうわ言のように声を漏らした。
漆箔で飾られたひと際大きな紗那皇子の唐車。その脇には、大勢の供奉が歩みをともにしている。その更に後ろには、皇子たちを護衛する軍人の姿があった。
その中に、二人は確かに見たのだ。かつて寝食をともにした少年の姿を…。
一体なぜ――!?
自分たちを裏切り、大勢の仲間を無残に殺したあの紗那の軍に、なぜ同じ銀鏡の子どもが混ざっているのか?仇敵であるはずの彼らと、あの雲英がなぜ行動をともにしているのか――。
「妖…。何で…なの?どうして雲英、あそこにいるの?なんで紗那の軍服なんか着てるの…!?」
瞼いっぱいに涙を浮かべ、珠洲は何度も問うてくる。しかし、そうして尋ねられても、妖にも分かるはずはない。
と――。
隊列に誘われるように、ふらふらと珠洲は歩き出した。
すかさず珠洲を捕まえる。握ったその手を引き寄せ、妖は力いっぱい珠洲を抱きしめた。
見上げる珠洲の頬を涙が伝う。
「ねえ…あれ雲英だよ。雲英が生きてる…。ほら雲英…。あそこにいるよ、妖…!!」
そして珠洲は、大きく息を吸った。
「ねえ、妖!雲英がそこいるんだよ!待って!行かないでよ!き――」
珠洲は、仲間を呼び止めようと思ったのかもしれない。
咄嗟にその口を手で覆い、妖は速やかにその場を離れた。
腕の中では、珠洲がばたばたともがき続けている。それでも、手を緩めることなく、やっとのことで物陰まで引き擦っていくと、ようやく妖は手を放した。
「どうして!?そこに雲英いるよ!?妖は雲英に会えて嬉しくないの!?」
「嬉しいさ!そりゃあ、嬉しいけど…!!でもね…。でも、あそこでもし雲英に気付かれたら、あたしたちだってただでは済まないんだよ。どうか今は堪えておくれ、珠洲…!」
妖は瞼をぎゅっと押さえた。
「あの子――。なぜ軍服なんか着て…本当にどうして…あの子は…」
不安と悔しさと悲しみが、一度に合わさりもつれ合う。
どうしてこんなことに…!!
「そうだ!じゃあ李燐も…!」
珠洲は、着物の袖でごしごしと涙を拭った。
「あの時、李燐には雲英が付いてたもん、きっと生きてるよ!!だって雲英、強いもん!絶対負けないもん!だから李燐も――!」
「紗那にいるって…言うのかい?」
そうだ…。
一緒にいたはずの雲英が軍に身を置いているということは、李燐も政府あるいは軍に囚われている可能性がある。
ならば――。
「そうか、あの子は…。雲英は、あたしたちを裏切ったわけではないかもしれないね…」
気丈に眉を結び、妖は遠ざかる隊列をじっと見据えた。
* * * * * * * * * * * *
「夜叉よ。貴様、万が一おかしな真似をすれば…分かっておろうな?」
ちらちらと何度も沿道を見る視線に気付いた兵士の一人が、雲英の耳元へ囁いた。
「……」
堅く口を結んだまま、雲英はしっかと頷いた。
「かの有名な銀鏡の夜叉の姿を拝めると楽しみにしていたのに、まさかこのように呆けた小僧だったとは、まったく興醒めだよな」
別の兵士が嘲(あざけ)て笑う。
「……」
あの日、女子どもばかり数名を連れて、氷見らとは別の方向に逃げた雲英は、結局、彼女らを他の仲間に預ける形で里へ戻り、改めて氷見らの後を追った。
恐らくは、十七・八辺りの年齢と思われるこの少年。しかしその風体とは裏腹に、なぜか心は意外なほど幼い。形は立派な大人の体躯を成しているのに、発する言葉の片言さや考えの幼稚さはまるで赤子のそれなのである。
そんな雲英を森の奥から連れ帰り、その後も何かと面倒を見てやっていたのは李燐という少女だった。
一体どうしてそんな場所にたった一人で置き去りにされていたのか――と、何度か本人に尋ねてはみたが、それは無駄な話だった。なぜかと言えば、当時の彼が口にできる言葉が相槌と己の名前だけだったこと。それから、何事か事情があるには違いなさそうだが、どうもその辺りの記憶が曖昧で、その殆どが失われている節があったからだ。
だがそんなことを気に留めるふうもなく、李燐は甲斐甲斐しく雲英と接した。雲英も彼女には殊の外よく懐いた。
否。
雲英にしてみれば、ちょうど同じ年頃の李燐という娘は、ただの仲間などではなく、ただ一人の大切な存在だったのかもしれない。
雲英が危険な仕事に手を染めるようになったのは、彼女が氷見を心配したからだ。
「仲間を危険に晒すぐらいなら俺がやる。俺がうまく立ち回ればそれで誰も傷つかずに済む」
そう言って氷見は、いつも報酬の高い危険な仕事ばかりを選んで請けた。彼を弟のように思い育ててきた李燐にとって、これは辛い言葉だった。
仕事に出かけた弟を心配するあまり、その度に陰で涙をこぼす李燐を傍でずっと見守り続けた雲英は、ある時ついに刀を握り氷見の隣に立つ。
誰かに習ったわけでも、鍛錬を積んだわけでもないのに、雲英の剣技は驚くほど鮮やかで巧みだった。
失う前の記憶が、そこに現れていたとでも言うのだろうか――?
まるで剣舞を演じるような独特な動きで、軽やかに敵の間を縫い、次々に目標を仕留めてゆく。そんな彼の姿は、いつしか『銀鏡の夜叉』と呼ばれるようになり、『銀鏡の火喰鳥』と異名をとる氷見と並び称され、その世界の者をして次第に忌み恐れられるようになっていった。
紗那には今、李燐が囚われていた。雲英の高い戦闘能力に目をつけた軍が、その力を利用せんがために敢えてこの二人を同時に捕らえたのだ。
実際彼女を盾に脅せば、雲英はどんなことも厭わないだろう。そんな彼の純粋過ぎる想いは、今やすっかり軍の手の中に握られているのだ。
雲英は今試されている。その忠義を、純粋さを。
そして、求められさえすれば、紗那の兵士としてその腕を如何なく振るう、ひとつの『兵器』としての彼の存在を――。
隊列は静かに黄蓮の内裏へと進む。
* * * * * * * * * * * *
磨鑛殿前の石畳では、皇帝と皇后、水紅皇子らを始めとした内裏の貴人が出揃い、紗那皇子の到着を待ち詫びていた。
空は麗らかに晴れ渡り、危惧された昨日の案件も取るに足らぬことのように思われた。
風がふわりと新緑の香りを運んでくる。
爽やかな吉日だ。
やがて、ひと際大きな鈴の音が短く二度響いて、先んじて現れた馬廻が、国賓の到着を厳かに告げた。続いて、数台の牛車に守られた黒塗りの唐車が、美しい蒔絵飾りを煌かせながらゆったりと広場を半周して停止すると、それらに従う供奉や兵士は一斉にその場に跪いたのであった。
「臣」
涼しく前を向いたまま発せられたその声は、聞こえるかどうかという程のひどく微かなものだった。
「はい。何です?」
すぐ後ろに控えた臣が、水紅の肩越しに声をひそめる。
すると――。
「彼らの名を忘れた。おまえ、覚えているか?」
臣は苦く笑った。
「ええと…。姉君が月夜様。それから、弟君は海棠様…とか。海棠様は、数えで――そう、確か二十歳になられたはず――ではなかったですか…ね?」
こちらもなにやら自信がなさそうだ。
平静の顔でそれを聞き、水紅は何度か小さく頷いた。
「そうか。月夜様は海棠様の…確か二つ上でいらっしゃったな?」
「ええ、恐らく」
そう答えた後、臣は口を噤み膝をついた。
高らかに紗那皇子の御成が宣言され、唐車から、水紅と変わらぬ背丈の青年と、これまたすらりとした若い女性が現れる。
皇子の訪問は、両国の友好を示すという名目の下、もう何十年もの間、数年の間隔で続けられてきた慣例である。だがそれも、今回に限ってはこの日が実に十年ぶりであった。
十年前の第二后・霞深失踪事件、そして二年前の香登皇子失踪事件。楼蘭で相次いだ、これら不吉な出来事により、前回・前々回と、この行事はことごとく先送りにされていたのである。
今日、ようやく皇子らは、その十年で成長した姿をここに示す。相手の顔形や名前を水紅が良く覚えていないのも、そういう意味では仕方のないことと言えた。
一方。
臣はと言えば、水紅の皇子付きとなってまだ五年。皇子付きとしてひと通り紗那皇子のことを知ってはいても、実際に見えるのはこれが初めてのことだ。
ところが――。
ふと差し上げた臣の眼は、ある一点に釘付けになってしまった。
(あれは…!?)
平素あれほど沈着な彼がにわかに焦燥を見せたのは、紗那皇子らに続いて、唐車から現れた付き人の中に、ここにあるはずのない存在を認めたためであった。
まさか有り得ない!
なぜ――!?
目の当たりにしても、とても信じられなかった。
かの国を後にして以来、ずっとひた隠しにしてきた己の過去。それを知る人物の姿を前に、臣ははっと顔を伏せた。唇をぎりと噛み締める。
(ジャスティ…!ジャスティス=イングラム!!奴がなぜこんな所に…!!)
ジャスティス=イングラム。
彼は、かつて各地を転々としていた臣が、ここから遥か遠く離れた某国の一兵として暮らしていた頃に、ある関わりを持った人物であった。
「どうした?」
察した水紅が密かに横目で尋ねてくる。
「いえ…別に。何でもありません…」
今はそう答えるしかなかった。
俯く臣を訝りながらも気を取り直し、水紅は蘇芳と白露について紗那の皇子のもとへと向かった。その側近である臣も、当然ながら彼の後に控えねばならない。
しかし――。
(悔しいが、この場では…。どうにも避けようがない)
深いため息とともに顔を上げる。
もはや、己の過去が白日に晒されることを覚悟するしかなかった。
* * * * * * * * * * * *
久しく顔を合わせていなかった楼蘭の皇族と紗那皇子らは、互いにうわべの笑みを湛え、形式ばった挨拶を交わした。
その間ずっと、表向きの平静を保ちながら、臣はイングラムの観察を続けていた。決して瞳は上げず顔も向けず、水紅の背中越しにただ一人の気配だけを具(つぶさ)に追う。
言動や表情などから察するに、どうやら彼も自分同様の立場にあるように思えた。
「水紅様、こちらは…?」
姫皇子の月夜が臣を見る。
「ああ…。彼は私付きの教師です」
背後に控えた臣が目礼する。
「臣と申します。以後、お見知りおきを…」
そう口を開いた途端、激しい敵意が突き立てられた。
今更確認するまでもない。眼差しの主は彼――イングラムである。
「私どもの国では教師が専属で付くいうことはないのですけれど、それでも何人か直属の侍従があります。同じようなものと考えてよろしいのでしょうか?」
「そうですね…。そういうことになりましょうね」
水紅は穏やかに頷いた。
「では…。こちらからは、彼を紹介させていただこう。ちょっと強面ですがね、これがなかなかに気の利く男です。こちらへ、蘿月」
弟皇子の海棠が一人の侍従を呼んだ。
その男が前に立っても、臣は暫く顔を上げようとはしなかった。姿など見ずとも、悪意に満ちたその気配だけで十分彼のすべては伝わっていた。
「お初にお目にかかります」
蘿月と呼ばれた大男は、低い声でそう言うとゆっくりと頭を垂れた。
もはやこれまで――。
ついに観念した臣は、真正面から、かの男を見る。こうして近くで見えてみれば、やはり疑いようはない。確かにその人だ。
ところが。
その刹那、なんと蘿月は不敵に瞳を微笑ませたのである。
(……!)
顔にこそ出さなかったが、正直どきりとした。ふてぶてしいその眼が、ようやくおまえを捕まえたぞ――とはっきり語ったように思えたからだ。
(まさか追ってきたのというのか!!私を…!?)
直感した。
だが、もしもそうであるならば、蘿月がここにいる目的などただの一つしか考えられない。到底穏やかとは言えぬ心を平静の仮面で隠し、辛うじて臣は浅い会釈を返すのであった。
* * * * * * * * * * * *
両国の揺ぎない絆を祝う宴が、光の宮で盛大に執り行われている。
その間もずっと、剥き出しの憎悪はしつこく臣に付き纏っていた。
あたかも舐め回すかのような、身体中に絡みつくかのような――それでいて、人を串刺しにするほど激しい憎悪の宿る視線。
(やはりこの禍々しい気配は…)
眉をひそめた臣は、わざと視線の主を睨んで合図を送ると静かに立ち上がった。
「皇子様、少し…気分が優れませんので、申し訳ありませんがここで一旦下がっても構いませんか?」
その言葉に一体何を察したか、水紅は僅かに頷いた。
念押しの意味で、今一度目配せをくれてから広間を出た臣は、足早に石の廊下を進んだ。そうして向かった先は、水紅の部屋でも自室でもなく、この光の宮の裏手にある小さな噴水の畔である。
やがて――。
「久しいな、臣。あれからもう六年になるか…」
果たして、柱の陰に潜む大男が呟いた。
「……」
感情のない眼差しが、じっと声の主を睨んでいる。
「随分探したよ…。やっと会えた」
そして男は、陽光の下にその姿を現す。
癖のかかった金色の長髪に蒼玉を宿した瞳。そして、身の丈七尺(約二メートル)を超える頑強な格幅は、明らかにこの国のそれではない。
「蘿月…とか仰いましたか?どう見ても異国の方だが」
「ふっ…。それはおまえも同じだろう?」
「私は名を偽ってなどおりませんから」
蘿月はにやりと口角を上げた。
「はは…。懐かしきかな、貴様のその減らず口。まこと相変わらずで嬉しいことよ…!」
言い放つや否や瞬時に地を蹴り、蘿月は臣の鼻先へ迫った。
「!!」
即座に伸ばされた巨大な左手――それがおもむろに臣の髪を掴み上げ、同時に懐から抜かれた短刀が、ぴたりと喉元へと宛がわれた。
大柄な図体に似合わず、まるで手馴れた俊敏な動きだった。
蘿月は、僅かに倨傲の表情を窺わせたが――。
その動きのすべてを視界に捉えながら、どういうわけか臣は微塵の抵抗も見せなかった。むしろ相手の何もかもを理解しながら、敢えてされるがままになっている――と言うべきか。
狼狽も動揺もない代わりに、感情のない瞳は氷のような冷淡さを失うことなく、平然と蘿月の姿を映している。
「できるものなら、今ここで貴様の喉笛を思い切り掻き切ってやりたい。そうすれば、その涼しい顔も激しい痛みと苦しみに悶え歪むことだろうにな…!
迸る鮮血の海と、止め処なく滴る血潮が、徐々に貴様の体の熱を奪い去ってゆく様を、ここでこうして眺めるというのもなかなかに楽しかろうぞ」
「はっ。相変わらず悪趣味な人だな…」
臣は薄く笑った。ふてぶてしい、まるで人を食った笑みだった。
あからさまな挑発。
途端、その眼に尋常ならざる殺意を滾(たぎ)らせた蘿月は、更にぐっと刃先を押し付け、白い肌に紅の一筋を伝わせた。
「どうしてもと仰るのなら別に止めはしませんがね…。今更あなたがそうしたところで、あの方がお喜びになるなどとは私にはとても思えません」
「き、貴様っ!貴様のせいで姫様は…!!」
更に逆上した蘿月はついに刀をも投げ捨て、その手で直に臣の首を絞め始めた。
「く…!」
突き立てられた指が薄い皮膚へ食い込むほどについ声が漏れる。
ところが――。
反射的に手首を掴み返しこそしたが、それをこじ開けるでもなく、やはり臣はされるがままになっていた。ただし、相手を見据えた瞳だけは僅かたりとも離さない。
太い指はぐいぐいと喉に沈んでゆく。
ともすれば遠退きそうな意識を、辛うじて気力で保ちながら、それでも臣の表情が苦痛に歪むことはなかった。
その時である。
「うちの者に、それ以上ちょっかいを出すのはご遠慮願おうか」
「!!」
突然の声に怯んだ蘿月は即座に飛び退き、そばの茂みに身を隠した。ここで逃げ場を失っては事だ。
なぜなら、その声の主は――。
「と…水紅様…!!」
苦しげに一声絞ると、臣は何度も咳込んだ。
「ここは我が宮。その主である私が、今ここで大声を出せば、すぐさま我が軍がこの場に大挙押し寄せる。そうなれば、此度のそなたの狼藉は、取り返しの付かぬ国際問題へと発展しよう。異国の者とはいえ、紗那の皇子に仕えるそなたが、まさか我が国と紗那の因縁を知らぬわけではあるまい。
ここは、このまま黙って退く方が得策だと思うがね。今ならば、こちらも敢えて目を瞑ってやろうと思うが――さて、どうする?」
水紅は懐から短筒(銃身の短い鉄砲)を引き抜き、ぴたりと銃口を茂みに合わせた。
ぬるい風が流れ、噴水から落ちる水音がさらさらと大きく耳に障る。
やがて――。
忌々しげに何事かを吐き捨てると、蘿月は速やかに走り去った。
「み、皇子様…。そんな物騒なものを一体どこから…?」
そこまで言うと、臣は再び咳き込んだ。
「ああ、これか?ここへくる前に、おまえの机から拝借した」
さらりと言い放つ。そうして差し出された短筒を素直に受け取ると、臣は首の傷をそっと押さえた。
今の話を聞かれたとなると、もう隠してもおけまい。覚悟はしていたが――そう、できることなら水紅にだけは知られたくなかった…。
「さて。これは一体どういうことだ、臣?」
意外なほど穏やかな声だ。
もう観念するしかなかった。
しかし――。
「こ…これは、その…。私が…かつて某国に、一介の兵として身を置いていた頃の…」
「おまえ、まさかここで死ぬ気だったのか?」
「は…?」
「今ここで、あやつに殺されるつもりだったのかと訊いている!!」
突然水紅は声を荒らげた。
「い、いえ…。決して、そんなつもりは…」
そう否定しながらひどく怯むその姿に、いつもの凛々しさは欠片もない。
水紅はぐっと唇を噛み締めた。
こみ上げる熱い感情をどうすることもできなかった。とにかく無性に悔しく、腹立たしくてならなかった。
こんな臣の姿は見たくなかった…。
「ならば今、私がここに来なかったらどうなっていた!?あのまま放っておいたら、今頃おまえはどうなっていたんだ!!」
にわかにこみ上げる感情のままに、水紅は臣の胸倉を掴んだ。
本当は平然としていて欲しかった。いつものように呆れるほどの悪態をついて、それは誤解だ、勘違いだと軽く笑い飛ばしてくれたなら…。
ところが。
「申し訳……ありません…」
臣はそれ以上の弁明をするでもなく、水紅の視界から逃れようと顔を背けたのだった。
そんな臣の態度が、水紅の苛立ちを否応なく高めてゆく。
一体、どうしてこんなことに――。
(そんなことじゃない。詫びて欲しいわけじゃない!あのいつもの臣はどこへ行った!?いくら追い詰められようと、どれほど責められようと、決して一歩も退かぬ、あの臣の姿は…!!)
彼はこんな男ではないはずだ。
私の見込んだ男は、決してこのような――。
水紅は遣る方のない怒りに震えていた。
「許さんぞ、臣。私に黙って、勝手なことは断じて…!!いかなる理由があろうとも、勝手にあやつにその命くれてやろうなどと努々思うな!あやつだけではない、誰にもだ!終生この私に仕えると誓ったその身、その命、もはや私の物!それを忘れるな!!良いな!!」
感情的に放って臣を睨んだその瞳に、うっすらと光るものがある。
(水紅様…)
崩れるように手を付き、臣は額を伏すのだった。
* * * * * * * * * * * *
広間へ戻ると、先に戻っているはずの蘿月の姿が見当たらない。不審に思った臣は、自分の席から比較的近い位置に座る宰相補佐・橘のもとへ向かった。
「橘様、先日はお疲れ様でした」
まるで何事もなかったように、臣は気さくに微笑んで見せる。
「これは臣殿。先日はどうも」
ふと橘の視線が臣の首元に落ちる――。
先刻の傷は出血こそ止まっているが、臣の白い喉にくっきりと赤く浮いている。襟を立てることでさり気なくごまかそうとしているようだが、彼が動くそのたびに赤い筋や指の跡がちらりと首筋から覗くのだ。
(あの男、早まったことを…!!)
実は、イングラムを遠い異国の出であると知りながら、また、彼が紗那へ来た目的をも承知しながら、敢えて城内に招き入れ皇子直属の位置に置いた人物こそ、橘その人であった。
「おや…?今日は…来栖様はいらしていないのですね?」
「ええ、彼は急な用事ができましてね。残念ながら、今日は城で留守番です」
そのどちらもが終始にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべ、まったく他愛のないことを語っているように見えるが、その実、相手の一挙手一投足を余すところなく観察し、互いの腹の内を探り合っているのである。
「ああ、そう言えば…。来栖様によく似た『彼』はどうされました?先ほどから、お姿が見えないようですが?」
「准将に良く似た…?さて…?」
おもむろに首を捻り、橘は室内を見渡した。
「確か…先ほどお話させていただいた折に、蘿月様――と名乗られましたが…」
この白々しさには、さしもの橘もつい眉をぴくりと動かした。
(今の今まで一緒だったそなたに分からぬものを、私が知るはずなかろうが…!)
しかし、この素振りから、臣は何事かに勘付いたようである。
「ああ、蘿月ですか。そう言えば、先ほど席を外してから戻っておりませんね。探して参りましょうか?」
「いえ、そんな…。それには及びません」
胸の内では毒づきながら平然と嘯く橘に、臣はにっこりと微笑みかける。否。ここは、ふてぶてしさを孕んだ会心の毀笑(きしょう)――とでも表すべきか。
「ただ私は――先刻貴重なお話を聞かせて頂いたお礼を申し上げたかっただけですから…。そうだ、宜しければ、橘様からあの方にお伝え願えませんか?『昔話の続きはまたいずれ是非。これが私からのお返事です』とね…」
* * * * * * * * * * * *
宴が行われているその最中、紗那の護衛らの殆どは、光の宮の周辺で、外部の出入りを警戒しつつ時間を潰さねばならなかった。
普通ならまったく退屈な任務と言えたが、今回に限ってはそうでもない。かの有名な銀鏡の夜叉が、自分たちの中に紛れているというそれだけで、良くも悪くも兵士たちは色めき立っていたのである。
受け持ちを命じられたその場所で、ぴたりと人形のように動かない雲英に時折ちらちらと目を泳がせながら、紗那の兵士らは口々に様々なことを囁きあっていた。
「あの夜叉っていうのは、こんな痩せっぽちのガキだったんだな…。もっとごつくて、厳つい大男かと思っていた」
「わざわざこちらが気を遣って話しかけてやっているのに、あのガキ、にこりともしねえばかりか、声も出しゃあしねえ。可愛い気のねえ小僧だよ、まったく…」
そんな彼らをまるで気に留めるふうもなく、雲英は一心に彼方を見つめている。その表情には、喜びも悲しみも――まして怒りすら浮かばない。ただ無表情に黙りこくったまま、じっと前だけを向いている。
ところが、その時。
「!!」
茂みから飛び出してきた何者かが、思い切り雲英の背中にぶつかってきた。その衝撃で前方に跳ね飛ばされた雲英は、ぺたりと地面に手を付いた。
「……?」
見上げると、それはあの蘿月であった。
「貴ッ様あああっ!!このよう場で何をしている!往来の邪魔だ、どけ!今すぐにだッ!!」
きょとんと小首を傾げる顔に、蘿月は頭ごなしの怒声を浴びせた。
しかし、雲英にしてみれば、命じられた場に立っていただけのことで文句を言われる筋合いのないことである。そもそも、そこに静止している者にいきなり衝突するなど、どう考えても蘿月の前方不注意であり、雲英にそれほどの非があるとは思えない。ひどい話である。
だが、そんな風に思うのは先ほどから雲英を密かに窺っていた兵士らだけで、どういうわけか、当の雲英自身は何とも感じていない様子であった。
すっくと立ち上がりぺこりと頭を下げた後、雲英は宮の玄関方面へと足を向けた。その姿は素直――というよりも、意思や感情といった心の部分が欠落しているようにも感じられた。
ところが。
「おい、貴様…ちょっと待て」
不意に肩を掴んで呼び止める。たった今、せっかくの復讐の機会をふいにされたばかりの蘿月は、あろうことかその苛立ちをこの雲英にぶつけようというのである。
「生意気な小僧だな…!まるであいつのように!!」
忌々しげに舌打ちするや否や、蘿月は猛然と雲英に掴みかかっていった。
ところがである。
その手が届く既で雲英が足を引いたために、振り上げた拳は虚しく空を掻き、蘿月はやや前方へつんのめる格好となってしまった。
お陰で蘿月の苛立ちは、猛烈な怒りへと姿を変えた。
あたかも獣のような雄叫びを上げ、この生意気な小僧を是が非にも捕らえてくれようと蘿月は何度も執拗に手を伸ばす。
一方の雲英はその手を次々にかわし、変わらぬ無表情でするりするりと擦り抜けてゆく。
忘我に眼を滾らせた蘿月は、完全に上気を逸している。だが、そんな彼とは裏腹に、雲英の顔色にはこれっぽっちの変化もなく、息さえもまったく乱れてはいなかった。
そんな雲英の姿と、宿敵・臣の姿が蘿月の中で何度も重なった。
「貴ッ様ああっ、なぜ避ける!大人しくそこへ直れええええっ!」
そう言われた途端、驚いたことに雲英はぴたりと動きを止めた。
そして――。
とうとう太い手に胸を掴まれ、雲英の身体は宙にぶらりと浮いた。雲英を睨む血走った眼は今や激しい怒りに戦慄き、拳はぶるぶると震えている。
傍観を決め込んでいた兵士らも、さすがにこれには面食らった。
「お止めください、蘿月様…!!」
「どうか、どうかここはお収めください!」
口々に叫びつつ、何人もの兵が蘿月の巨体に縋り付く。
紗那の異変に気付いた楼蘭の兵士らも慌てて駆けつけ、光の宮の玄関口は、にわかに騒然となったのだった。
* * * * * * * * * * * *
ひどく慌てた様子で滑り込んできた一人の紗那兵が足元へ突い居り、素早く何事かを囁くと、橘は眉を寄せて静かに立ち上がった。
その様子を自らの席から観察していた臣は、会場の遥か奥で大勢の公賓に囲まれた水紅へ目配せを送る。
遠まきながらに水紅もこの異変には気付いたようだった。微かに返された合図を認めると、臣も密かに席を立ち、橘の後を追った――。
さて。
ひと足先に玄関口へ到着した橘は、入り乱れる兵らを掻き分けながら蘿月と雲英のもとへと急いだ。
「貴様ら、一体何をしている!?恥曝しにも程がある!」
弾けるような怒声に、兵士らはぴたりと動きを止め一斉に膝を付いた。そうして平伏す兵士らの間を、肩を怒らせた橘が迫り来る。
しかし、その姿に気を奪われた蘿月の僅かな隙を、雲英の目はしっかりと捉えていた。
そして――。
パンッ!
乾いた音が上がった拍子に蘿月は大きくよろめいた。宙にぶら下げられた体勢から、雲英が思い切り蘿月の脇腹を蹴り上げたのである。
横っ腹を抉る強烈な痛みに蘿月は激しく顔を歪めた。
一方、勢い良く足を振り上げた反動で、己の身まで空へ放り投げる恰好となった雲英は、そこで宙返りをひとつして、ひらりと大地に降り立った。
「…っ!!」
堪らずがくりと崩れる蘿月。しかし、すぐさま気丈に顔を上げ、すっかり憎悪に支配された眼で雲英を射込む。
そんな二人の間に立ち、再び橘は声を張った。
「貴様ら、いい加減にしろッ!誰かこの馬鹿どもに縄を打て!そして、そのまま車の中にでも押し込めておけ!良いな!!」
口惜しげな顔が、今度は橘を睨む。
すると橘は唇の端を不敵に吊り上げ、蘿月の耳元へと囁いた。
「貴様…。彼奴にはまだ手を出すなとあれほど申し付けておいたというのに、まったく余計なことを――。あまり調子に乗るでないぞ、イングラム。おまえのその首、今ここで刎ねてしまっても、こちらは一向に構わんのだ…!」
橘は、眼光をぎらりと滾らせた。
「両人ともに沙汰は追って申し付ける!さっさと連れて行け!!」
すると、そこを見計らったように――。
「おやおや、これは一体…?何事でしょうか?」
涼しい顔の臣が現れた。
口先では尋ねておきながら、もちろんそのすべてを物陰から目撃し承知している。
臣の目配せを受けた楼蘭兵が一様に頭を下げ、各々の本来の持ち場へ散ってゆく。
(ちっ…!抜け目のないことだ。煮ても焼いても食えんな、この男…)
毒づく本心を打ち殺し、橘はにっこりと微笑んだ。
「いやいや、ただの喧嘩です。お騒がせして申し訳ありません。何分、血気盛んな連中ばかりでしてね」
「それはそれは…。さぞ退屈しておられたのでしょうねえ」
あたかも意味ありげに細められる瞳。
「え…ええ、まあ…」
ようやく橘はこの一部始終が彼に目撃されていたことを悟った。牙を噛む思いで、橘はうっすらと苦い笑みを浮かべるのであった。
* * * * * * * * * * * *
その後、滞りなく時は過ぎて、紗那の皇子らは何事もなかったように楼蘭を後にした。
結局先の騒動については、詫びの言葉を賜るどころか楼蘭側へ知らされることすらなく、また、その場にいた臣にしても水紅以外の人間に報告する気などなかったので、事実上、内々に処理される形となってしまった。
(しかし、あの赤い髪の少年…。確か銀鏡の…)
騒ぎの折、蘿月を蹴り倒したあの少年に、臣は確かに見覚えがあった。
だが。
先日橘らと堅海とのやり取りを立ち聞いた際に得た情報を思えば、彼が紗那軍に身を置いているなど、不自然極まりない。
(一体どういうことだ…?彼が…夜叉が紗那を手引きしたというのか?)
そんなことを考えながら、いつしか水紅皇子の部屋の前にいた。あれほど見慣れたこの扉が、今はやけに重く感じられ、触れることさえためらわれる。
先の報告と、如月への出立の挨拶――今臣は、それを主に伝えねばならない。
しかし――。
意を決して扉を叩こうとした手がまた止まる。今更、何を迷っているでもない。ただ、あんなことの後でどんな顔をすれば良いのか分からなかった。
正直なところを言えば、『もう自分などどうなっても構わない』という思いが、あの時――蘿月と対峙したまさにあの時、臣の脳裏を翳めていたのである。水紅の激しい剣幕に、ついそれを否定してしまったが、過去に己が犯した罪を思えば、あのまま彼になら殺されてやっても良いと――本当はそう思っていた。
ジャスティス=イングラム。
彼がまだ、臣の知る彼のままであるならば、その復讐を遂げるためには、きっとどんな手段をも厭わないはずだ。憎い仇をとことんまで追い詰め、その苦しむ顔を拝むためならば、それこそ彼はどんなことでも――。
(そしていつか…。万が一にも、その手が水紅様に及びでもしたら…)
あの時そう感じた臣は、敢えてあのようにひと気のない場所に彼を誘った。そして、そこまで彼が望むのなら、本懐を遂げさせてやろうとさえ思っていた。
こんな命をくれてやることで、水紅に手出しをされず済むのなら――。臣にしてみれば、それほどまでに己の命は安いものでしかなかったのである。
だが。
――今ここであやつに殺されるつもりだったのかと訊いている!!
あの時の皇子の顔が、ありありと浮かぶ。紛れもなくあれは彼の本心だった。浅はかな臣の行動に、あの水紅が本気で腹を立てていたのだ。
己を偽ることしか知らない彼の心で、他人に対する怒りとも悲しみとも取れる激しい感情が、にわかに爆発したその刹那――。
思い起こして目を伏せた。
嬉しかった。
幸せだと思った。
心から、彼を愛しいと思った。
(あの水紅様が…まさか、私のために泣いてくださるなんてな…)
小さく笑って、ようやく臣は扉を叩いた。
「私です」
いつものように告げて部屋へ入る。
例によってあの本を広げていた水紅が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
穏やかな中に、濃密な孤独を湛えた深い瞳。
その視野に触れた途端、臣は思わずその場に跪いた。見慣れていたはずの姿に、改めて胸に迫るような神々しさを覚えた。どうしたことだろう。なぜか、まともに顔が見れない…。
「ふっ…。えらく他人行儀だな。いつもは、そこの椅子で踏ん反り返っているくせに」
眉を解いて水紅はくすりと笑った。
変わらぬ素振りに救われる。お陰で臣はようやく立ち上がり、いつもの椅子で足を組むことができた。
「あなたにお仕えしている立場の私が、そんなことをするはずがないでしょう?まったく、人聞きの悪いことを仰いますね」
いつものように肘掛で頬杖を付き、いつもと変わらぬ悪態を返す。今の臣の心は深い安らぎの中にあった。
「もう行くのか?」
「ええ…まあ。先日お話した紗那領内の動きと今日のあの騒動、どうも何か関わりがあるようですしね。何やら妙なことになって参りましたよ」
臣は、先の事件の顛末を自らの見解を含めて手短に語った。
「その…先ほどお話した銀鏡の夜叉が、なぜ軍に身を置いているのか。確かにそれも妙な話には違いないのですが、それよりも、あの橘が夜叉をここへ連れて来た理由の方が、私には不可解に思えます。
それに彼は、蘿月と私の間柄についてもどうやらよく御存知のようでしたしね」
白々しく隠す振りをしながら、わざわざ傷を目の前で見せてやっているのに、橘がそれを気にも留めず、また顔色さえ変えなかったのがその証拠だ――と臣は言う。
「大体、さっきまでなかった痣があんなに目立つところについていれば、誰だってどうしたのか――と原因を訊きますよ。でも彼は敢えてそれを無視した。それに、蘿月はどこですかと尋ねたら、彼、笑いましたよ。まるで『おまえ、一緒だったんだろう?』とでも言うようにね。私の下手な演技に呆れて、彼はつい笑ってしまったんです。
つまり、なぜここに傷がついているのか粗方の見当はついている…ということですよね?」
自らの首筋を示して、臣は笑った。
(ああ、いつもの臣がここにいる…)
先ほどの弱々しさはすっかり形を潜め、至極明晰な見解をすらすらと力強く語るその姿。
それこそ我が第一の側近・臣、その人。
おまえがそうしていてくれなければ、私は――。
「なるほど、一理あるな…」
水紅もまた、溶けるような安堵を覚えていた。
「なぜ、あの蘿月をここに連れて来たのでしょう?私への復讐を遂げさせるため?ならば、その利点は何です?仮に私が死んだとして、橘や紗那政府、延いては紗那国が、一体何の得をすると言うのでしょうか?」
彼らしい意地の悪い語り口も心地よい。
「まずはおまえの考えが聞きたいな。その顔…。何か気付いているんだろう?」
「と、そう仰られても証拠は何もなく、憶測の域は出ませんがね…」
臣は目を伏せ、言葉を続けた。
「蘿月――いや、イングラムという人物は、いくら名前を変えようとも、その顔つきや体格から、ひと目で異国の出だと分かります。それをわざわざあのような皇子に近い位置に置いている。
この不自然な配置はなぜか…?
恐らくそれはあなたです。紗那の皇子を利用して、彼をごく自然にあなたの傍に近付かせるため。あなたにさえ近付ければ、私のところまでは容易く行き着くことが出来る。私の元まで来れるようになれば、彼の性格を鑑みても、いつか手を出すことは確実。それも国家元首に一番近しいあなたという目撃者の前でね。
さて――。もしもそこで私が死んでしまったら、水紅様、あなたはどうなさいますか?」
水紅ははっと顔色を変えた。
「紗那の責を…問う。いや、殺す…。紗那に身柄の引き渡しを求めて、きっと彼を処刑する…」
「でも、イングラムは紗那の皇子らの厚い信頼を得ているようですよ?そう簡単に渡してもらえるかどうか…。縦しんば、うまく彼を処刑できたとして、彼を失う紗那の皇子らの心中はいかばかりか?
悲しみが、憎しみに姿を変えるのはよくあること。憎しみを焚きつければ、その火はついに楼蘭にまで飛び火し、互いの敵対心や猜疑心を深める種にもなりかねません。それともう一つ。この場合、異国の騒動が発端だと言い逃れに出る可能性もありますよね。私にしたって彼にしたって、この辺りの出じゃありませんし、我々が争っている内容自体が、そもそも異国の問題なのですから…。
もしそうなれば、紗那はこの責任をイングラム一人に押し付けて、知らぬ存ぜぬの一点張りに出る。きっとどんな求めにも応じませんよ?彼の引渡しも賠償も、謝罪の言葉すらないかもしれない。そして…」
改めて臣は水紅を見据えた。
「結局、何をしたって死んだ私はもう戻っては来ません。それに気付いたあなたはどうなってしまいますか?その時のあなたのお心は…?」
「……」
水紅はじっと俯いていた。脳裏に昼間のあの出来事が蘇る。
「まったく私も迂闊だった…。今思えばあの時、水紅様が駆けつけてくださらなければ、そういうことも有り得たんです。もしも、あのまま放っておいたら…と、あの時、あなたは私に仰いましたが、そう――もしもあのまま私がこの世を去っていたら、今頃あなたは怒りに任せて楼蘭中の兵をここに集め、戦の算段をしていたかもしれないんですよ」
「い、戦…っ!」
声が震えた。まるで思いもしなかったことだ。
今日という日のあの平和な行事の中にそんな闇が潜んでいたとは!紗那の者と相見えるということは、そういうことなのか…!?
「あなたにとってどうでも、他の者から見たら、たかがたった一人、傍付きが死んだという程度のこと。だが、あなたには一国を動かす力がお在りだ。紗那はまさにそれを狙ったのかもしれないんです」
張り詰める刻――。
水紅は、瞬きをすることさえも忘れ、臣を見ている。
臣もまたじっと水紅を見つめ返した。
風に吹かれ、枝を離れた木の葉が窓の外をさらりと流れてゆく。
暫くの沈黙を経た後、先ずは臣が口を開いた。
「あの…皇子様…」
我に返ると、注がれている穏やかな瞳に気付いた。途端にそわそわして、水紅はどぎまぎと視線を泳がせるのだった。
「蘿月と私の因縁――と言うか、単なる昔話なんですが…。その…お聞きになりたいですか?」
あんなところを目の当たりにしておいて、気にならないと言えばそれは嘘だ。だが、これまで頑なに隠していたものを、ここで無闇に尋ねてしまっても良いのだろうか?
「自慢できる話でも面白い話でもないし…。むしろ実に退屈で、不愉快な話でしかないんですけどね。そして本当は――ずっとあなたにだけは知られたくないと思っていたんです。でも今は…」
臣は、ほんのりと微笑んだようだった。
「何と言うか…あなたになら知られてもいいかな、と。但し、本当に私にとっては恥ずかしい話です。命を狙われるほどの恨みを残しているわけですし…つまりは、身から出たまさに錆の部分ですから。
で、あの…。ええと、どうします…?」
そうして言葉を重ねるほどに、水紅は更に慌てた。
「あ…。そ、そうか。いや、おまえが話したいと思うのなら別に私は――。だ…だからと言って、その…無理に訊こうとも思わんが…」
ほっと眉を解いて臣は立ち上がった。
「では、如月から戻ったらお話します。自分でも、まさかこんな日が来るとは思っていなかったので、本当に不思議な気持ちですが、多分…」
そして、扉の手前で歩みを止め――。
「あの言葉が効いたんじゃないですかね?」
「あの言葉…?何だ?」
振り向いた顔は穏やかな微笑みを湛えていた。不安も心配も憂いも、あらゆる蟠りを乗り越えた、そんな安らぎに満ちていた。
「私は、身も心もあなたの物――なんでしょう?本当に凄い口説き文句でしたよ、あれ。
では、行って参ります。なるべく早く戻ります」
やがて、扉の合わさる音がして腹心の姿は見えなくなってしまったが、もはや水紅の心はざわつかない。
小さく笑って、水紅は再び膝の上の本に目を落とした。
8.春の花火
暗い牢の石床で、李燐はひとり、膝を抱えていた。凍える膝へ額を押し当て、固く固く蹲る。
寒さ。
恐怖。
心細さ。
手を放してしまえば、こみ上げる思いに負けてしまいそうだった。
瞳を閉じれば、瞼に浮かぶはあの日の出来事。
あの日、平和だった銀鏡を襲った恐ろしい出来事…。
事前に情報が知れていたお陰で、ある程度の準備はできていたはずだった。
だけど現実は――。
氷見の手引きで、追手から何とか逃げ延びた李燐と珠洲は、彼が見つけたという洞窟に一旦身を隠すことになった。真っ暗な中を手探りで進み、奥の窪みに身を潜める。
意外にも暖かい窟。
だがお世辞にも心地よい場所とは言えない。ひどく湿気が多いのだ。べたべたと纏わりつく空気が、やけに息苦しかった。
「二人とも、絶対ここから出るなよ。いいな?」
そう言って来た道を戻ろうとする腕を、李燐は慌てて捕まえた。
「ちょっ…ちょっと、どこ行くの!?氷見は…あんたはどうしようっていうの!?」
「俺はあいつら撒いてくるから」
見る間に李燐の瞼は涙でいっぱいになった。口を一文字に結び、嫌々と首を振る。その李燐に縋る珠洲も何度も首を振り、大きく肩をしゃくり上げた。
「ね、姉ちゃん…。珠洲…」
二人の涙につい絆されそうになる…。
しかしそんな心を悟られる前に、氷見はふっと頬を緩めた。気丈な彼らしい姿だ。
「ば…馬鹿だな。なんて顔してるんだよ、二人とも。すぐ戻るから大丈夫だって!俺が戻ったらさ、みんなで楼蘭へ行こう。どうせ元は同じ民族なんだ、紛れちまえば分かりゃしねえ。妖もあっちに居るし…。ちゃんと雲英にも言ったんだぜ?後で楼蘭に来いよって。だから…ちょっとだけ待っててくれよ。なっ?」
二人の髪を撫で、しっかりと言い聞かせた。震える少女らを何とか勇気付けようと、氷見はまた白い歯を見せて笑った。
そうして、ついに――。
「姉ちゃん、珠洲を頼む」
この言葉で、ようやく李燐も腹を決めたのだった。
氷見の気配が消えた後は、しんみりと静まり返るばかりだった。
ぽっかりと口を開けた黒い空間には、いくら目を凝らしてみても何もない。耳を澄ましても何も聞こえない。ただ感じられるのは、ごつごつした岩の感触と、どろりと澱んだ濃密な空気。そして、しっとりと濡れた土の匂いだけだった。
静寂というものが、こんなにも重く不安に満ちたものだったなんて――。
小さな珠洲を抱いて、李燐はじっと窪みに蹲っていた。
とても心細かった。
まるで珠洲と二人、生温い泥沼の底へ沈み込んでゆく気がした。
「ねえ…。ちょっとだけ表の様子を見に行こうか…?」
暫し思いあぐね、思い立ったように李燐は言った。
「で…でも!でも氷見、ここにいろって言ったよ?」
「それはそうだけど…。でも、もしここにあいつらが攻めてきたら、あたしたち逃げ場がないじゃない」
そう口では言いながら、実はこの時、李燐の頭の中には別の理由が居座っていた。
(もし氷見が戻らなかったら?氷見にもしも何かあったら…?)
まだほんの子どもの氷見が、世間では凄腕の殺し屋『銀鏡の火喰鳥』などと噂されているのは知っている。
だが、そんなことは何の意味も持たない。彼女にとっての氷見は、どこにでもいるごく普通の十五歳の少年であり、それ以上にかけがえのない弟でしかなかった。そんな彼女に、この深い闇の中で不安に駆られながら彼の帰りをひたすら待ち続けることなど、とてもできたことではなかったのだ。
「そおっと覗いてみるだけだから…。ね?」
右手で珠洲の手を握り左手は洞窟の壁を探りつつ、李燐はゆっくりと入り口へと向かっっていった。
濡れた足場に細心の注意を払い、少しずつ、少しずつ…。
すると、前方の闇の中にぽつりと小さな光が覗いた。
(……?)
ふと脳裏を翳めた違和感は気のせいだろうか。
「出口だ!」
珠洲は声を弾ませたが――。
(出口…?もう少し先だったような気がするんだけど…)
その時、光の点が左右にちらと揺らいだ。
(ち、違う!出口じゃない!人がいる…!!)
直感した。
五感が警笛を鳴らし立て、全身を巡る血液が波のように引いてゆく。
ひと際大きく、どくん!――と、胸を殴りつけた嫌な焦燥。底知れぬ恐怖が、たちまちに胸を支配した。
心臓が早鐘を打ち続けている。
ねっとりとした汗がこめかみを這う。
李燐は震える手で珠洲の肩を抱いた。暗闇の中で顔はよく見えない。それでも、怯える李燐の心はすぐさま珠洲へと伝わった。
「り…李燐…。李燐ってば…」
再び手を握り返すや否や、李燐は――。
「珠洲、下がって!さっきの所まで下がって!!早くッ!!」
小さな背中を無理矢理に押しやると、李燐は珠洲を庇って立ちはだかった。
そうこうする間に、前方で揺れる松明は益々増えて大きくなり、洞内に反響する野太い声がすぐ間近に迫っている。
間違いない。あれは…!
「行きなさい、珠洲!早く!!」
竦んだ体と恐怖に縛められていた小さな足は、この叱咤で不意に自由を取り戻した。あたふたと地べたを探り、ようやく珠洲は今来た道を戻り始めた。
だがこの声が、自らの存在を敵に知らせる結果を招く。
追っ手はもはや、言葉が聞き取れるまでに距離を縮めている。前方の炎が入り乱れる様がはっきりと見て取れる。
そして、ついに――。
目前の黒い岩肌がぼおっと朱く浮かび上がった。炎の揺らめきが岩壁を覆った湿気に反射し、怪しくてらてらと輝いている。
それでも李燐はそこに立っていた。
いくら堪えようとしても、全身の震慄が止まらない。それでも李燐はその場を動こうとはしなかった。
(動けない。今、私がここを動くわけにはいかない…!)
私がここに立っていたからといって何ができるわけでもない。そんなことは分かっている。だけど、こんな私にだって珠洲を逃がす時間ぐらいは稼げるはず――。
「いたぞ!」
「こっちだ!!」
武器を構えた兵士が李燐を取り囲み、逃げ場を塞いだ。
本当は怖くてたまらない――。
ついこぼれそうになる涙を懸命に堪え、李燐は精一杯の気丈な眼で目前の敵を見据えていた。
「こちらです、千歳様!例の少女を発見しました!」
(例の…って…。この人たち、私を探してたの…?)
心臓を鷲掴みに握り潰された気がした。彼らがなぜ自分を求めるのか見当も付かなかった。
「そうか…。ご苦労だった」
驚いたことに、姿を現した男は李燐と同じくらいの年恰好の少年であった。なぜか他の兵士らとは異なる純白の軍服を纏い、軍人らしからぬ繊細な輪郭にきりりとした眉、そしてその下に煌く大きな瞳が印象的な美しい少年だ。
「……」
『千歳』と呼ばれた少年は、すらりと腰の刀を抜いた。刃に反射した炎が眩い。
これまでか…。
ぎゅっと目を閉じ、李燐は首を竦めた。
ところが――。
「!?」
鋼の明光が映し出した影に怯んだのは、意外にも千歳の方であった。
「あ…」
一体何に驚いたのか、小さく声を漏らし後退さる。
一方、一度は観念したものの、なかなか振り下ろされない刀に、李燐は恐る恐る目を開けた。
すぐ目の前に、千歳が呆然と佇んでいる。
刀の光は李燐を照らすと同時に、千歳の顔をもはっきりと浮かび上がらせている。
どう見ても軍人のには見えないその顔――。まるで虫も殺せぬような柔らかく端正な顔立ちに、李燐は一層強い違和感を覚えた。
その時だ。
「李燐ーッ!!」
虚空に響くこの声は――!
直後、頭上の闇を黒い影が舞い、居並ぶ兵士を跳び越えた。漆黒の主は着地と同時に双刀の鯉口を切るや否やすかさずその身を翻し、敵前へと向き直った。
持ち前の赤い髪が、彼の背中で踊っている。
「き、雲英!!」
しっかと刀を構え、雲英は目前の敵――千歳らを見据えている。
煌いた白銀が、雲英の影を浮かび上がらせたその刹那、何の感情もなかった顔に、ほんの僅か怒りのようなものが閃いた。
「し…銀鏡の夜叉…!」
誰ともなく声が漏れる。
視界も足場も悪い上、多勢に無勢。おまけに李燐と珠洲を庇いながらの戦闘では、圧倒的に不利である。とても雲英に分があるとは思えない。
「なるほど…。こやつがあの…」
にやりと口元を吊り上げ、千歳が笑む。
「離れるな、李燐」
雲英は今一歩、千歳との間合いを詰めた。
不敵な笑みを湛えたまま微動だに見せぬ千歳の代わりに、背後の兵士らがたじろいだ。音に聞こえた銀鏡の夜叉の恐ろしさ――それを知らぬ者などここになかった。
ところが。
突如として千歳は刀を払い、元通り腰の鞘へと収めてしまったのである。
「ふん…。思わぬ拾い物だったな。だがこれで手間が省けたというもの。相手にとって不足はない。私が相手になろう。夜叉よ、表に出ろ」
兵士らに両側を固められたまま、李燐と雲英は洞窟を出た。闇に慣れてしまった目が陽光に眩む。
不意に、先頭を歩いていた千歳が振り向いた。
「私を負かせば、おまえもその少女も、そしてそこで窺っている小娘も見逃してやろう」
李燐らの背後を顎で示す。
(え…!?)
はっと振り返れば、洞門の陰に隠しきれなかったお下げ髪が覗いていた。
「珠洲!!」
小さな影がびくっと揺れた。
ついに紗那の手に落ちた李燐と珠洲は、後ろ手に戒められ自由を奪われたまま、対峙する二人の前に晒されていた。
お陰で雲英は、敵前にありながら、つい彼女らを気にして目を泳がせてしまう。これでは集中することができない。
「私の言葉が信用できんか。まあ、それも無理はないが、こちらとて二言はない。悪い条件ではないと思うがな」
一人の兵士が、慌てて口を挟んだ。
「し…しかし千歳様、それでは橘様のご命に…」
だが、それもそこまで――。はっと口を噤んだ兵士の顔が、にわかに青ざめる。浴びせられた眼差しに、身を貫くような鋭さを見たのである。
「ふん…。紗那軍特殊部隊・御神楽が副長、この千歳。見縊ってもらっては困るな。万が一の責は私が負う!それで文句はあるまい!!」
風に揺られた木々の葉が、ざわざわと騒ぎ出す――。
「さあ抜け、夜叉。おまえは二刀。私は一刀。そしてこの決着がつくまでは、この私の名において少女らには手出しはさせぬ。心置きなくかかって来い!」
言うが早いか柄に手を掛け、千歳は雲英の攻撃に身構えた。対して雲英は大きく地を蹴り、一気にその間を詰めにかかった!
軽やかに躍り出たかと思うと翻り、右を薙いだかと思えば次の刹那には左の刀を振り下ろす。まるで舞踊を舞うが如き雲英の、華麗で独特な動きに誰もが目を奪われた。
だが、千歳も然る者。
相手の攻撃を楽しんでいるのか、敢えてその既で切っ先をかわしているのである。更に驚いたことに、その表情には必死さが微塵もない。変わらずの涼しい表情を浮かべたまま、驚異的な雲英の速攻を、彼は易々と避けているのだ。
どちらを取っても、とても同じ人間とは思えぬ身のこなし。まさに人を卓越した神技であった。
そうして今――。
僅かな隙を突いて、ようやく千歳の太刀が抜かれようとしていた。抜きざまに、神速の剣が唸る。
ぎん!!
耳を劈く金属音とともに、雲英の左の刀が天空へと弾かれた。ほんの一瞬の一撃であった。
「雲英!!」
悲鳴のように叫び、少女らは互いの手を握り締めた。里で安穏と暮らす雲英の姿しか知らぬ二人が、彼の戦う姿を目の当たりにするのは初めてのことだった。
あのまるで赤ん坊のように純心な雲英が…。
まさか、こんなに激しい戦い方をするなんて…。
得物を一つ失ったというのまるで顔色を変えることなく、雲英はぺろりと左手に負った傷を舐め上げた。
千歳。そして雲英――。互いに相手を睨んだまま、ぴたりと二人は動きを止めた。
また頭上で風が鳴る。梢を離れた木々の葉が、二人の間をはらはらと舞い落ちてゆく。張り詰めた静寂だけが流れてゆく…。
再びじりじりと二人が間を詰めたその時であった。
蒼黒のいかづちが、居並ぶ兵士らの真ん中に突き刺さった。慄き仰いだ逆光の空に、またも黒い人影が浮いている。次いで放たれた鉄槌の形を視界が捉えたその頃には、兵士の何人かは呻きをあげ、ばたばたと地面に転がっていた。
一閃、戦慄が走る。居竦む兵士らの目前に降り立った人物は――。
「氷見!」
安堵に顔を綻ばせ、李燐は愛する弟の名を口にした。ところが、思いがけずその声は雲英の集中を削ぐ結果となってしまった。
ぎいん――!!
再び、甲高い金属音が耳を裂く。
「……っ!?」
ついに弾かれた最後の得物に、さすがの雲英も表情を歪めた。
「一体どこを見ている!おまえの相手は私だろうが!!」
もはや勝負はあった――。
「いやあああっ!」
不意に少女の悲鳴が上がった。
見れば兵士の一人が珠洲の腕を掴み捩じ上げている。
「珠洲!」
即座に槍を抜き、氷見は珠洲のもとへと走った。
慌てた兵士が刀を抜くより早く、風鬼の槍はずぶりと芯を貫いた。一瞬の間をおいて、あっけなく崩れ落ちた躯。その下から小さな体を引きずり出してやると、珠洲は声も上げずにぽろぽろと大粒の涙をこぼした。氷見の胸に縋る小さな肩は、小刻みに震えていた…。
「つかまってろ、珠洲」
低い声でそう言うと、氷見は珠洲を抱いて頭上の枝へと跳び上がった。
さて、その頃。
果たして地上では、まだ修羅の戦いは続いていた。
敵前にありながらもはや丸腰となった雲英は、僅かな隙を突いて一気に跳躍を試みる。この形成の不利を立て直すべく、とりあえず敵から大きく距離を取った――はずだった。
ところが。
「残念だったな、夜叉」
「!?」
なんと、既に息がかかるほどの距離に千歳の顔が迫っている!すわや!と思われたその刹那、もう彼の切っ先は雲英の胸にぴたりと宛がわれていたのである。
驚異的な速度!
これぞまさに神速の…!
その時。
「李燐!!」
羽交い絞めにされた李燐の姿が視界の端に映った途端、雲英の集中力は一度に目的を失ったのだった。
「これでまだ女を選ぶか。どこまでも甘い奴だ」
がら空きとなった脇腹を蹴り飛ばすや否や、すぐに刀を反転させ、更に千歳は峰で雲英を叩き伏せた。
無様に地を這う雲英に、すかさず刀尖を差し向け、
「誰か、こやつに縄を打て。その少女とともに城に連れ帰る」
そして――。
「……」
樹上では、仲間が無下に捕らえられる様を、氷見と珠洲が無言で見つめていた。
迂闊に近付けば、自分はおろか珠洲の命まで再び危険に晒してしまう…。
氷見は唇を噛み締めるのだった。
* * * * * * * * * * * *
階上へ続く石段から、微かな怒鳴り声が聞こえる。
ややあって、二人の兵士に引き擦られながら降りてきたのは、紗那の軍服を着せられた雲英だった。ひどく乱暴されたのか、顔にはいくつかあざが浮いている。
「蘿月様に喧嘩を売っておいてこの程度で済んじまうなんざァ、貴様、運が良かったな。ほら、今日からは愛する嬢ちゃんと相部屋だ!千歳様の御計らいに感謝するんだな!」
いやらしい薄笑いを浮かべた兵士の一人が格子戸の鍵を開ける――と、もう一人が、戒めを解く前に雲英の背中を力ずくで蹴り飛ばした。お陰で雲英は、あっけなく石床に打ちつけられ、李燐の足もとへと転がった。
「雲英!!」
駆け寄った李燐は、気丈に兵士らを睨みつけた。
「おおっと、怖い姉ちゃんだ。なあに、邪魔はしねえからせいぜいその小僧を可愛がってやんな」
やがて兵士らは、下品にげらげらと笑いながら石段を上がっていった。
「……」
緊張の糸が切れた途端、李燐の目にわっと涙があふれた。悔しくて仕方がなかった。
「ひどい…。ひどいよ、こんなの…」
何度も嗚咽を啜りながら、李燐は雲英の縛めを解いてやり、そして雲英は――。
「李燐…」
ひどく悲しい気持ちで彼女の涙を見ていた。
誰より大切な李燐が自分のために大粒の涙をこぼす姿には耐えられない。しかし、今この無力な手には、いつもの笑顔を取り戻してやる術がない…。
「ごめん。泣かないで、李燐。俺、守るから…。李燐のこと、絶対守るから…」
震える少女を抱き、袖で涙を拭ってやりながら、雲英は何度も同じ言葉を繰り返す。いくら拭っても止まらぬ涙が雲英の胸を濡らしている。
抱いた髪に顔を埋め、そのまま雲英は瞳を閉じた。
* * * * * * * * * * * *
氷見は順調に快方へと向かっていた。あれほど深かった胸の傷も今ではしっかりと塞がり、身体を起こそうと歩き回ろうと、それほどの痛みを感じることもない。
とはいえ、このまま如月に居座っていても何もすることがなく、時折、紫苑の薪拾いの手伝いをするほかは、部屋の縁側でぼーっとしているだけの毎日だ。
見かねた愁は、とんでもないことを言い出した。
「篠懸様と一緒にお勉強しませんか?」
「はァ?」
氷見はきょとんと目を瞬かせた。
(勉強?俺が…??)
考えただけで口元がふにゃりと歪む。とうとう氷見は腹を抱えて笑い出してしまった。
「あははは!無理無理!!俺、字だってほとんど読めないもん!勉強なんて…」
呆れた愁はむっかりと剥れたが――。
それでもすぐに気を取り直し、改めてにんまりと微笑みを浮かべる。いや、微笑みというよりもむしろ、不敵な笑み――という方がこの場合は適切だったかもしれない…。
「そうですか。では読み書きを覚えましょう」
さっさとそう決めてしまったようだ。
しっかと氷見の腕を掴むと、愁は篠懸の部屋へ向かってずんずん歩き出した。
「い…いいよ、愁!俺、勉強なんて…!愁ってば!!」
振り解こうとするが――。
一体、この細い体のどこにこんな力があるのかと問いたくなるほど、力強く掴まれた氷見の腕は、なかなかどうして離れない。
「字ぐらい読めなくてどうします!すぐ覚わりますから、いい加減に観念なさい!!」
やいのやいのと揉み合いながら、ようやく廊下の角を曲がったところで、偶然二人は堅海と擦れ違った。
「……?」
嫌がる氷見を引き擦り、すたすたと目の前を行く愁に、さしもの堅海も瞿然の面持ちで立ち尽くすのであった。
それにしても…。
一旦こうと決めたら、なかなか後へは引かぬこの男の頑固さを知らぬ堅海ではなかったが、平素の彼のおっとりとした物腰を思えば、目の前で繰り広げられている光景はまやかしのようですらある。
はたと目が合ったその時、
「……」
悪戯を始める子どものように、愁は口角を吊り上げた。
(はあ…。またこいつは何を始めたのやら…)
苦笑いが漏れる。
このように、愁が愁らしからぬ行動をとるときは、たいてい何事か別の企てがあってのことだ。そんなことは、これまでの長い付き合いから、誰に言われずとも承知している堅海であった。
「ちょっ…ちょっと堅海、こいつ止めて!このままじゃ俺、勉強させられちまう!!」
ばたばたともがき続ける氷見を、堅海は実に冷めた眼差しで見送った。
「残念だが諦めろ。そうなったら誰の言葉も聞かんぞ、愁は。おとなしく勉強でも何でもさせられてこい」
果たして数分後、氷見は篠懸の隣にちんまりと座らされていた――。
「これからは氷見も一緒ですよ、篠懸様」
二人の前に座った愁は、天使のように悪魔のようににこにこと微笑んだ。
「うんっ!」
「ったく、何で俺が!!」
対して氷見は、すっかりふて腐れてた様子だ。
「頑張って字を覚えて手紙を書きなさい、氷見」
急に神妙な顔になって、愁は氷見へ向き直った。
「は?手紙…?」
「そう、黄蓮にいるというあなたの仲間に。彼らの行方は今、堅海が部下を使って内々に探させています。見つかり次第、その方に手紙を差し上げればいい。そうすれば、あなたの悪夢もいくらかましになるはずだ」
どきりとした。
愁は知っていたのだ。
毎晩氷見が、同じ悪夢にうなされているということを。そして、それを見まいとする余り、氷見が眠りそのものを恐れているということを――。
紗那を逃れたあの日以来、頭の中は昼夜を問わず朦朧としている。暗くなってもよく眠れない日が続いているためだ。眠れば、決まってあの日の夢を見てしまう。眠りに落ちればうなされて、またすぐに目を覚ましてしまう。
氷見は、もうずっとそんなことを繰り返していたのである。
平和だった銀鏡を襲った脅威と、救えなかった仲間の影。そして、後戻りのできぬ記憶に囚われの氷見――。
「いいですか。身体を癒すとはそういうことですよ、氷見。目に見える傷さえ治ればそれで良いというものではないでしょう?逃げてばかりいないで、そろそろ立ち向かうことを考えなさい」
堪らず氷見は俯いた。向けられた真っ直ぐな眼差しが眩しかった。愁の気持ちが痛いほどに胸に沁む。
いつだってそうだ…。
愁は俺を一人の人間として見てくれる。愁は俺を一人の人間として大切にしてくれる。
顔を上げることもできぬまま、氷見はこくりと頷いた。
「ああ、それから篠懸様。例のお約束、明日辺りでいかがです?」
再び愁はにっこりと微笑んだ。
「約束?」
「ええ。先日、紫苑や遊佐様と相談をして、そろそろ…ということになりました。氷見の怪我の具合もだいぶ良いようですし、篠懸様のお顔を椿が忘れてしまわないうちに会いに行きませんとね」
「そ、それはまことか!?愁!!」
篠懸の顔は、見る間にとびきりの輝きを見せるのだった。
* * * * * * * * * * * *
静々と夜は明けて――。
いつもより早く目が覚めた篠懸は、顔を洗った後、一人でさっさと衣に着替えた。いつもならお付きの御許がやってきて着せてくれるのだが、それを待つのももどかしい。
篠懸の心は既に屋敷を遠く離れ、山の頂上へと歩き始めていた。
朝食まではまだ間がある。
篠懸は、縁側からそっと外に出た。
見上げた空はまだ曙。ひんやりと肌に触れる山の空気が心地よかった。透垣に沿って庭を歩き、屋敷の門へ足を向けると――。
「なんだよ、篠懸。えらく早いな。散歩か?」
振り向くと、氷見が立っていた。
「おはよう、氷見」
「ちゃんと寝たのかよ、おまえ」
篠懸は微笑み、頷いて応えたが――。
「そう言う氷見は、また遅くまで起きていたようだな…」
「え…?」
朝焼けが目に眩しい。
山裾を覆っていた霧が、陽光に追われるようにして頂上へと昇ってゆく…。
「私の部屋から障子越しにそなたの部屋の灯りが見える。一晩中灯りが消えぬ日があるのも知っている。それに…今日は顔色も少し悪いようだ。あまり辛いようなら、屋敷で休んでいても構わぬぞ?」
今この胸を殴ったのは、心臓を突き破ってしまいそうなほどの大きな鼓動――。
思わずぱっと顔を伏せた。動揺を悟られるのが怖かった。
「い…いや、大丈夫。少し体を動かした方が眠れると思う」
囁くようにそう言って、氷見は俯いたまま苦く笑った。
(愁も篠懸も…。ここのみんなは何だって俺なんかのこと、こんなに気にかけてくれるのかな…)
そっと目を上げ、篠懸の顔を覗き見る。
澄んだ中に気高さと優しさと強さが同居している――そんな深い瞳だ。自分よりもずっと背は低いし、齢だって三つも下だ。なのに、篠懸という少年は時々やけに大人びて見える。そして、その胸に宿る無垢な心と、それが織り成す言葉の数々は、いつだって氷見の弱い部分を強烈に抉るのだ。この小さな体の中には、とてつもなく強く温かい何かが息づいている――そんなふうに思えて仕方がなかった。
目が合うと、篠懸は少年らしいあどけなさで笑った。釣られて氷見もぎこちなく笑う。
「あの…さ、まだメシまで時間あるからさ…。俺に少し…字を教えてくれよ。書けるんだろ?」
* * * * * * * * * * * *
ただならぬ気配を察し、そっと襖を開ければ、廊下を右往左往する御許と女中らの姿が目に留まった。屋敷の中が、なにやら騒然としているようである。
はてさてと首を捻りながら様子を窺っていると、運良くあたふたと駆けて来た紫苑を捕まえることができた。
「紫苑、一体何事です?朝っぱらから…」
「あ…愁!!ちょうど良かった!あの、篠懸様が…!!」
愁の顔色が一変した。
「篠懸様がいらっしゃらないのです!屋敷のどこを探しても…!!」
にわかに眉根を寄せ、愁は隣の襖を開け放った。
何の変哲も見られぬ篠懸の部屋だ。そこには何者かが侵入した形跡も、激しく争った跡もない。見たところ、特に目立った異変は感じられない。ただ一つ、いつもならあるはずの皇子の姿がない――そのことを除けば。
だが――。
「…?」
愁は、この室内に僅かな違和感を認めたようだった。
そこへ血相を変えた堅海と久賀が駆けつけた。続いて集まり出した御許らに、思いがけず愁は穏やかに尋ねた。
「今日のお召し換えは誰が?」
すると、御許の一人が思い詰めた様子で答えた。
「あの…私がお部屋に伺ったときにはもう…」
その言葉が終わらぬうちに堅海は苛立ち、拳で柱を殴りつけた。こうしている間に篠懸の身に何事かあったなら――と、心配すればこそ気が気ではなかった。
ところが、今にも部屋を飛び出そうとする堅海を、愁は手振りで諌めたのだった。
「なっ…!?愁!何を…!」
逸る堅海とは異なり、愁の顔はなぜかほんのり微笑んでいるようにも見える。大切な皇子の行方が知れぬというのに、まるで平然としたその顔――皇子付きたる彼のその姿は、到底信じられるものではなかった。
その上――。
「皆、もういいから食事をお取りなさい。皇子様は私が探してくるから」
この意外な言葉には堅海らのみならず侍従らも仰天したが、最高責任者たる愁の言葉とあっては逆らうことはできない。
そして、愁の前には紫苑と堅海、久賀の三名が残された。
「あの…私も何かお手伝いを――」
おずおずと申し出た久賀に、愁はふっと眉を解いた。
「いえ、本当に心配には及びません。考えてみてください。こんなに屋敷中で大騒ぎをしているのに、あの氷見の姿が見えない。おかしいでしょう?それに…」
愁はつかつかと篠懸の部屋へ入っていった。
簡素な部屋の片隅には几帳面にたたまれた布団。その上には、これまたきちんとたたまれた寝巻きが置かれている。
その傍らに膝を付き、愁は更に言葉を続けた。
「これ…多分、皇子様ですよ。誰もお召し換えをしていないのに、寝巻きがちゃんとたたんである。恐らく待ちきれなくてご自分でお召しになったんでしょうね」
ここでようやく堅海らにも事の真相が理解できたようだ。堅海はほっと胸を撫で下ろした。
「紫苑、そこの障子を開けてごらんなさい。恐らく履物が消えていますよ」
言われるまま障子を開けてみれば、果たして愁の言う通り履物がない。それどころか、よくよく耳を澄ませば、楽しげな話し声まで微かに聞こえてくるではないか。
ああ、この声は――。
「あ…!!」
紫苑は声を上げて振り向いた。
「ね?」
さすがの観察力である。
「でも…。今度ばかりはちょっとお灸を据えないとだめかな」
愁は困ったような顔で笑った。
* * * * * * * * * * * *
堅海らにも食事を取るよう指示をして、表に出る。
門前へ出て来たところでふと足元を見ると、ごちゃごちゃと何かで引っ掻いたような跡が地面いっぱいについているのに気付いた。
「……?」
精一杯首を捻りながら、何度も立ち位置を変え、角度を工夫しながら眺めれば、どうやら文字のようである。文字は、門扉から屋敷をぐるっと取り囲むようにして裏手の方へと続いていた。
「お屋敷の玄関をこんなにしてしまって…。まったく!」
やれやれと腰に手を当て、愁は盛大にため息をついた。
文字の続いている方向とは逆の位置から二人の声がする。どうやら文字を書きながら移動しているうちに、屋敷を一周してしまったらしい。
土塀の影で息を殺し、そっと覗いてみると――。
少し先に棒切れを手にした二人の後姿が見えた。こちらの存在に気付きもせず、何やら夢中で地面を引っ掻いている。やけに真剣な面持ちだ。
「この字とこの字は良く似ているから気をつけて」
「ええと…こうか…?」
「うん、そう。でもここをもう少しこう…強く払って…」
「こう?」
「うん、そうそう」
時折氷見の手を取り、篠懸は懇切丁寧に綴り方を教えてやっているようだ。一方の氷見は、素直に生徒に徹している様子。
微笑ましい光景である。
熱心に文字を書きながら、腰を屈めた二人の背中がそろそろとこちらへ近付いてくる。こちらに背を向けているせいか、もはや僅か数歩の距離と迫っているというのに、まるで気が付く気配がない。驚いたことに、あれほど警戒心の強い氷見でさえも――。
にやりと口元を緩め、愁は大きく息を吸い込んだ。
「勉強熱心、大いに結構!ですがね、これをどうするおつもりですか、二人とも!!」
二人は、びくりと肩を揺らして振り向いた。
「「し…愁っ!?」」
なんと真正面に仁王立ちした愁がいるではないか。しかも、その顔からはいつもの笑顔が消えている。
「……」
むっと眉を集め、愁は二人の足元を指さした。
我に返って見渡せば、あちこちが棒切れでガリガリと掘り返されてしまっている。そしてあろうことかそれは、屋敷のずっと裏手から続いているのである。
そうだ…。確か、文字を書き始めた時は門の前にいたはず――。
二人は顔を見合わせた。
「紫苑!箒を二本用意してください!」
「あ…!!は、はいっ!!」
垣根の向こうで、こっそりと様子を窺っていた小さな影が揺れる。
「すまぬ、愁…」
篠懸はしゅんと肩を窄めた。氷見もすっかり小さくなっている。
愁はそっと二人の手を取った。
「いいですか、二人とも。あなた方がここでこうして楽しんでいる間に、お屋敷では、篠懸様が消えてしまったと、それは大変な騒ぎになっていたんです。みんな、とても心配したんですよ?そういうこと、分からないあなたではないでしょう、篠懸様?」
そう優しく諭してやると、篠懸はぎゅっと肩を強張らせた。
すると、
「愁…!あのっ。俺が無理に頼んだんだ!字を教えてくれって、俺が…!!」
慌てて前へ割り込み、氷見は必死の弁解を始めた。篠懸が責められる筋合いのことではないと思った。
だが――。
「私が言いたいのはそういうことではありません、氷見。申し上げにくいが、あなたと篠懸様では立場が違う。篠懸様が黙って消えたとあれば、それこそ国を挙げて大勢の人間が動きます。万が一にもその御身に何事かあったとあらば、そこに関わった者は責を問われ、罰を受けねばなりません。ほんの小さな我侭がそんな不幸な結果を生んだとなれば、結局一番胸を痛めるのは篠懸様ご自身。人の心の痛みが分かる篠懸様だからこそ、私はこのようなことを敢えて申し上げているのです」
「……」
しょんぼりとうな垂れ、氷見は口を結んだ。
「でもね、氷見。私だって、こうして楽しいひと時をともにするお二人を邪魔したくはありません。どうか今後、篠懸様とお屋敷を出るときには、私にひと言声を掛けてくださいね。それに…篠懸様はもちろん、あなたがどこかへ消えてしまったとしても、やはり私は同じように心配ですから」
不意に氷見の手を握った小さな手――そこからじんわりと伝わってきた温もりは、篠懸の心そのものに思えた。篠懸も愁と同じ気持ちであるに違いなかった。
その時。
「ああああのっ…愁!こ、これでよろしいでしょうか!?」
あたふたと門を飛び出してきたのは、二本の竹箒を抱えた紫苑だ。
やにわにそれらを受け取り、愁は、
「では…今日のところはこれで勘弁しておくとしましょう」
二人の前に、むんずと箒が差し出される。
「さあ、今からあなた方二人が練習したこの文字を、すべて綺麗に消しなさい!朝食も山登りも、それが済むまでお預けです!いいですね!!」
きっぱりと言い放つと、愁は二人の手にしっかりと箒を握らせた。
そして――。
「それから、紫苑」
「は、はいっ!」
細い肩が再びぴょこんと揺れた。
「決して二人を手伝ったりしないように!」
「あ…。は…はい…」
くれぐれも念を押し悠然と去りゆく背中を、子どもたちは声もなく見送るのだった。
「なあ…」
ぼそりと氷見が呟く――。
「愁ってさ…時々すげえおっかないよな…」
顔を見合わせた三人は、互いの苦笑を確かめ合うのであった。
その頃――自室の縁柱に背を預け、堅海が失笑を漏らしていた。実は、今しがたのやり取りは丸々ここから見えていた。
「どうだ?二人とも真面目にやっているか?」
堅海の背後に、戻ったばかりの愁の顔がひょいと覗いた。
「ああ、ちゃんとやっているさ。お可哀想に…。今回は相当効いたぞ」
「だが、そうそういつも甘い顔もできんだろう?」
「ま…違いないな」
もう一度子どもらを振り返った後、愁が部屋と縁側を隔てる欄間を潜ると、堅海もその後に従い屋敷の奥へと消えた。
* * * * * * * * * * * *
山頂への出発は大いに遅れた。
朝からこってり叱られて、すっかりしょげ返っているかと思いきや、ずっと楽しみにしていた山頂への遠足とあって、今やそれもどこ吹く風。すっかりご機嫌な篠懸である。
道中の供は、当初の予定通り愁、堅海、氷見、そして久賀と紫苑――の五名である。
「紫苑」
長く離れ座敷にこもりきりだった遊佐が、やけに神妙な面持ちをして玄関へ見送りに出ていた。
「何かあったら迷わず力を使いなさい。いいですね」
「え…。で、でも、遊佐様…」
紫苑は何かをためらっているようだった。
「前へ進みたいのでしょう?今は皆様が付いていらっしゃるから大丈夫。くれぐれも迷いを捨てて事に当たること。分かりますね?」
愁だけがその光景を見ていた――。
屋敷の裏手から伸びる山頂への一本道は、何の整備もない細道であった。足元のあちこちで大岩の一部が顔を出しており、時にその隙間を巨木の根が地を這うように伸びている。慎重に足場を選んで歩かねば、蹴躓いてしまいそうだ。
氷見がしきりに篠懸の顔を覗き込んでくる。
「おまえ、ほんとに歩けるの?山の道は平らじゃないんだぜ?」
「……」
その度に、篠懸は憮然とした顔で頷くのだった。
「あの…いつでも負ぶって差し上げますから、遠慮なく仰ってくださいね」
紫苑の言葉で、篠懸は更に膨れた。
「おい…愁…」
今度は堅海が愁の袖を引いた。
「そんなに心配しなくても大丈夫さ」
前を向いたまま愁はくすくすと笑っている。
「篠懸様、歩くのはもっとゆっくりで構いませんから、もしもお疲れになったらいつでも…」
この久賀の気遣いで、ついに堪忍袋の緒は切れてしまった。
「もうっ!誰の助けを得ずともちゃんと一人で歩ける!!皆、私に構うな!!」
愁と堅海は吹き出すも――いや、それを篠懸に知られれば事だ。咄嗟に顔を背け、二人は声を殺して笑った。
道は更に縦横にくねり、進むごとに一層細く険しくなっていくようだ。もうかれこれ半時(約一時間)近くは歩いただろうか――。
「もうちょっとで休憩できますから、がんばってくださいね、篠懸様」
紫苑の差し出した手拭を受け取ると、篠懸は顔を伝う汗を何度も拭った。
「そこで水を一口もらえるだろうか…?」
もう喉がからからなのだ。
「ええ、冷たい井戸水がありますよ」
紫苑はふわりと微笑んだ。
さすがに毎日来ているとあって、彼女の顔にはまるで疲れがない。
「どなたかのお屋敷ですか?」
久賀が問うた。
「いえ、無人の古い庫裡で…。建物自体はもうぼろぼろなんですが、井戸やお庭は綺麗にしてありますから」
(庫裡――?まさか例の…?)
愁は、以前遊佐から聞かされた話を思い出していた。
――ここから更に山を分け入った所に古ぼけた小さな庫裡があります。十数年前、私と紫苑はそこで初めて出会いました。
かつて紫苑が一人で暮らしていたという場所。
そう、確か…。確か紫苑はそこでった一人、自分を造ったであろう人物の墓を守りながらひっそりと生きていたはず。きっと彼女は、今もそうして――。
彼女が毎朝山を登る理由が分かった気がした。
「どうした、愁」
「いや…何も…」
更に進むと――。
(あれが…。あれが紫苑の庫裡…)
やがて木々の間に、朽ち落ちた茅葺の屋根が覗いた。一行は、紫苑に導かれるまま庫裡の板戸を潜る。
聞いたとおり、建物そのものは使えたしろものではなかった。
入母屋は大きく崩れ、柱も傾き歪んでいる。至るところで土壁は剥がれ、床板もあちこちで腐り落ちていて、敷かれていた畳ごと陥没している箇所もいくつか見受けられた。
しかしながら、意外にも広い庭面は、驚くほどきちんと手入れが届いており、折々の前栽の植え物から、石組みに至るまで、何もかもがまこと情緒ゆかしく仕上がっている。更に庭の一角には、長さ三尺(約1メートル)はあろうかという立派な花房をいくつも下げた立派な藤棚まで設えられていた。
篠懸らは歓声を上げて駆け寄った。
「うわあ…!」
「凄えな!こんなの初めて見た…!」
誰もが目を見張り、ため息を漏らした。
やがて、庫裡の裏手から紫苑が現れた。提げた盆には、冷たい井戸水の入った土瓶と人数分の湯のみが乗せられている。
「さ。どうぞ、皆さんそちらで涼んでください」
子どもらは二度目の歓声を上げた。
そんな麗らかな庭を離れ、建物の西側を抜ける――。
愁はひとり、庫裡の裏に佇んでいた。目の前には庭石としてはあまりに不自然に大きな石が置かれている。その傍らでは、故意に植えられたと思しき春紫苑の可憐な花が、いくつも風にそよいでいる。
恐らくこれが、彼の墓標。
かつて紫苑はこの庫裡で生き、ともに暮らしていたであろう自動人形技師の亡骸をここに埋葬したのである。以来毎日、ここに花を手向け続けた。
一体どんな気持ちなのだろう。
たった一人で、二度と戻らぬ人を想い続けるあの子の心は――。
一体どんなものなのだろう。
先の見えぬ長い時間、ただそこに在るだけだったあの子の生は――。
いたたまれぬ思いに、愁は拳を握り締めた。
「ご存知なんですね、愁は…」
いつの間にか、隣に紫苑が立っていた。
「この方…お名前は何と仰るんです…?」
そう問うと、紫苑は微かに憂いを見せた。
「分かりません…。紫苑はずっと法師様とお呼びしていましたが、実際に仏道に帰依された方かどうかも分かりません」
静かに手を合わせると、風が二人の髪を梳き紫苑の花を柔らかに揺らした。
* * * * * * * * * * * *
皆のもとへ戻る道すがら、板塀に凭れた堅海に出会った。
(もしや、裏でのやり取りを探っていたのか――)
そう思い当たるほどに、愁には不愉快に思えてならなかった。
確かに、友を気遣うがゆえ――また、警備責任者である近衛長としての立場上、何の断りもない愁の行動に彼が関心を覚えるのは当然のことだ。それでも、呼ばれぬ以上は堂々と近付くことは叶わない。そうした結果でしかないこの彼の行為に、もちろん悪意など欠片もない。そもそも、そんな下衆な私心を持ち合わせた男ではない。
分かっている。
分かってはいるが――。
「……」
目を合わすこともなく、無言で目前を行く愁を、堅海もまた冷めた眼差しとともに見送った。
こちらから声をかけるでもない。
「何だ?」
ついに眉を寄せ、愁は立ち止まった。訝む眼差しが癇に障ったらしかった。
「別に…。ふっ、安心しろ。紫苑と何事かを話していたのは知っているが、内容までは聞こえちゃいない。人の話を立ち聞くような趣味もない」
嘯く言葉の端々に、いつもの堅海らしからぬ刺を感じる。こちらの心を読みにかかっているのも気に入らない。
結局愁は振り向きもせず、足早にその場を立ち去った。
こうして擦れ違ってしまう心は初めてじゃない――。
ごく稀なことではあるが、時々愁はこんな風に変に意固地になってしまうことがある。
他の者に――例え、それが互い無二の友と認める堅海であったとしても――面倒をかけまいとする余り、厄介事を一人で背負い込もうと、固く心を閉ざしてしまうのである。こんな愁の態度は、従者としていつも傍で控える堅海であればこそ、疾うに承知している彼の姿だ。だが、そうであるからこそ堅海の気懸かりは尽きない。
諦めともとれるため息をつくと、堅海は黙って愁の後に続いた――。
この庫裡を過ぎると山頂はすぐだった。
山頂と言っても、木々の開けた所にちょっとした草原があるだけの野っ原だ。ただ、ちょうどこの場所は山肌から空へ突き出すような格好をしていて、お陰で見晴らしだけはすこぶる良い。
どこまでも続く青い空。
ぼんやりと霞を帯びる彼方の稜線。
眼下一面を覆う広大な森。
木々は今、新緑に萌えている。
それらを一望して、篠懸はまた歓声を上げた。
「素晴らしいな…!!このような景色は本の挿絵でしか見たことがない!」
ひゅっと紫苑の口笛が鳴った途端、一体どこに控えていたのか、蒼天を小鳥の群れが覆った。同じような背格好の鳥が数十羽。いやもっと。
「う、うわっ!何だこれっ!!」
氷見が、目を白黒させている。
さもあろう。
大空に散らばるそれは、まるで蒼に映ゆ、とりどりの宝石。
鮮やかな鳥たちの輪舞――。
「…?」
微かな呼び声を耳にした気がして、篠懸は振り向いた。
そわそわと辺りを見回せば、少し先の空の真ん中で、懸命に羽ばたく小さな姿が目に留まった。他の鳥よりも遅れて羽ばたくやや小柄なその鳥は、ひたすらにこちらを目指している。
瑠璃色の小さな体。
やけにおぼつかぬその仕草。
そして、しきりに囀る真っ赤な嘴――。
そのどれもに篠懸は確かに見覚えがあった。
まさしくそれは…。
「椿!!」
やっとのことで駆けつけた椿は、すっと篠懸の肩に舞い降り、耳元で何事かを語り続けた。初めて出会ったあの日のように。
そんな小さな友の姿に、篠懸はうっとりと目を細めている。心から幸せそうな笑顔だった。
氷見と紫苑、そして篠懸。
無邪気に戯れる子どもらをしかと瞼に焼き付けて、愁は静かに瞳を伏せた。
「おまえが命を賭してまで見たかったのはこれだろう?」
前を向いたまま呟いて、堅海は笑った。
「ああ…。もう十分だ。もう…私はどうなってもいい…」
胸を抱き、ため息をつく。もう胸がいっぱいだった。篠懸がこうしてずっと微笑んでいてくれたなら――心からそう思った。
「ふっ…。また馬鹿なことを」
内心ではほっとしながら、堅海はやれやれと肩を竦めるのだった。
ところがその時。
「!?」
足元がぐらりと揺らいだ――かと思うと、地鳴りのような轟音が地中深くから迫り、山々一帯に鳴り響いた。同時に、鈍い振動が大地をびりびりと震わせ、静かだった森は動物たちのおびただしい悲鳴に包まれた。
果たして、その直後――。
「篠懸様っ!」
蒼天を覆った禍々しい気配を睨み、久賀は腰の刀の鯉口を切った。
刹那!
「!!」
にわかに漂う臭気に振り向けば、ちょうど背後の岩肌を舐めるように這い上がった何かがその異形の姿を露わにしている。
すぐさま愁と堅海は、篠懸のもとへと向かった。
駆けながら堅海は背中の槍を抜き、愁は怯える篠懸を抱いて潅木の茂みへ滑り込む。
あれは一体何だ――?
やがて、巨大な黒い影は大きな翼を羽ばたかせ、見る間に大空へと舞い上がった。
これは…!?
「火喰鳥!?」
氷見の表情が一転した。
翼を広げた渡りは、九尺(約3メートル)ほどはあろうか。鮮やかな紅の巨体に、雪白の冠羽――深い緑の頬羽には、黄金の瞳子がぎらりと煌き、地上の獲物を見定めている。
そして、あろうことか敵は一羽ではなかったのである。
「なんで…。なんでこんな所にこいつら…!」
本来なら遥か北方――年間を通して雪に閉ざされた山岳地帯にのみ生息しているはずだ。それが一体なぜ。
この怪物を実際に捜し求めたことのある氷見には、こうして目の当たりにしたところでとても信じることはできなかった。
火喰鳥はどんどん集まってくる。あれほど平和だった空を一転、猛炎の斑に染め上げて――。
弾けるように堅海が怒鳴った。
「あれはおまえが頭に乗せていた鳥だろう!何なんだ!どういうことだ、これは!?」
「そ、そんなの俺だって知らねーよ!だって、ほんとは寒い地方の鳥なんだ!こんなところにいるはずがない!!」
「実際いるだろうが、そこにッ!!」
けたたましく耳を裂く雄たけび。
旋回しつつ、隙を狙う巨鳥の群れ。
「そんなこと俺に言われても…。つか、武器!誰か何か持ってないのかよ!まさか俺に、丸腰で戦えってのか!?」
すると唐突に、すい…と一本の刀が差し出された。
「!?」
「……」
刀を捧げ持っていたのは、なんと紫苑であった。
「な…!おまえ、どっからこんなもん…」
紫苑の刀は、一般的なものとは少し様子が違っていた。どういうわけか、どこもかしこもすべてが金属で出来ているのである。
その上、鋼鉄の柄には鍔がなく、刀身もまったく見たことのない形状をしている。
「ま、いーや…。久しぶりだな、こういうの。ほら、もういいから下がれよ、紫苑」
満足そうに呟いて、氷見は舌なめずりをした。
「あの…で、でも…」
戸惑う紫苑に、氷見はにっかりと白い歯を見せた。
「こういうのは男の仕事…っ」
言うが早いか刀を斜めに跳ね上げる。それで見事、敵の首を斬り落とした――はずだったが…。
「あ…れ…!?」
何とも手応えがおかしい。
見上げれば、確かに火喰鳥の姿は消えていたが、その代わり頭上一面で白い紙吹雪が舞っていた。それどころか堅海が突いた鳥も、久賀が斬った鳥も――皆、討った途端にどっと弾けるように紙吹雪へと姿を変えてしまったのである。
「何だ…?どういうことだ、これは…!?」
久賀の声が震えている。
「それは恐らく式神です!!」
背後に篠懸らを庇いながら、紫苑は再びどこからか調達したらしいあの不思議な刀をしっかりと構えていた。
「式神?」
問い返すその前に、堅海の激しい喝が飛ぶ。
「まだだ、久賀!来るぞ!」
再び火喰鳥が集まり出している。これではきりがない。
そして更に――。
「堅海、久賀!あれ…!!」
氷見が示すその先に、おびただしい数の斑点が浮かんでいた。
まさかあれは…!
「あれが…全部そうだって言うのか…?」
戦慄が走る。体中の血が引いてゆく。
天翔る巨大な敵を相手に、地上から刀や槍で応戦せねばならぬ人間たち。更にその数で負けているとあらば、もはや我らに勝ち目はない!
万事休す――誰もがそう思ったその時である…!!
「あなた方、こんなところで一体何をしているんです?」
愁らの潜む茂みに、ひょっこりと顔を覗かせた人物がある。それは、あろうことかここに居るはずのない…。
「「お…臣――ッ!?」」
愁と篠懸は、同時に素っ頓狂な声を張り上げた。
「こんにちは、篠懸様。お久し振りですね」
折も折だというのに、臣はにこにこと愛想の良い笑みを浮かべている。
いささか愁は、拍子抜けたようだった。
「お…臣!あなたこそ、どうしてこんなところに!?」
「ん?まあ、何と言うか…。お使いのついでさ」
「お、臣様…?」
今度は、目をまん丸にひん剥いた久賀が振り向いた。
「おや、久賀か。久しいな。ところでおまえたち、さっきから一体何をやっているんだ?」
どうも状況が呑み込めていないようである。
篠懸は、愁の腕の中から懸命に声を絞った。
「お…臣っ、あのっ…。あの大きな鳥が!!だから…それで、みんな…!!」
「鳥…ですか?」
遅ればせながら空を仰ぐ。
つい先刻まで上空にいた数羽は、既に紙吹雪へと姿を変えてしまっていたが、そのまま彼方へ向けられた臣の瞳は、遥か先からこちらを目指す大群の姿をしっかりと捉えていた。
「紙吹雪と鳥――か…」
独り言のように臣は呟いた。
「あの…!式神だと思うんです!!」
「式神だと?」
紫苑のこの言葉に、臣はにわかに顔色を変えた。
すると、突然――。
「状況を理解していただいたのなら、臣殿にも是非お手伝い願いたいものだな!」
一体何を思ってか、振り向きもせず堅海は怒鳴った。
「何…?」
臣は顔をしかめた。否、それは臣でなくとも、この場の誰もが耳を疑った台詞だ。
なぜならば――。
「か、堅海様…?何を仰って…」
おろおろと久賀が目を泳がせている。
「おまえ、学者に剣を振るえと言うのか?」
鼻先で臣が笑う。
ところが、おもむろに堅海は向き直り、自分よりもずっと格上であるはずの臣をぎろりと睨みつけたのである。
「はっ。この期に及んで何を仰いますやら!あなた、学者などではないでしょうに!!」
臣は真っ直ぐ堅海を見ていた。ある意味では臣らしい眼光が、その身を貫いたところでまったく動じず、堅海は更に強気に声を張った。
「今から五年ほど前――紗那国の最南部、百雲地区での民族独立運動。その鎮圧に楼蘭からもいくらか兵を出したこと、ご存知のはずだ!私はあの時あの場にいた!そしてあの時、臣殿も独立義勇軍にいらっしゃったでしょう!?髪の色を変えておられるようだが、あれは間違いなくあなただ!!」
「……」
「……」
炯然の眼差しはひたすらに堅海へ注がれている。身動ぎも瞬きもせず、堅海も臣から目を逸らさない。
二人は暫しそのまま睨みあった。
誰も言葉を挟めなかった。
静寂に張り詰める空気。
重々しい膠着の時。
「馬鹿…。こちらが地毛だ」
観念のため息をつくと、ようやく臣は立ち上がった。
「お嬢さん。申し訳ないがその手に持っておられる刀、私にお貸し願えますか?」
ぎょっと見開かれるいくつもの眼の前で、紫苑の刀を受け取った臣は、驚くほど慣れた手つきでそれを握った。
「まさか、臣…。本当なんですか、今の…?」
愁が声を震わせる。
「ああ、本当だ」
さらりと答えて、髪を結わえていた帯を解く。持ち前の長い栗色の髪が、はらりと彼の肩に落ちた。
「だが…。それにしても話が違うじゃないか。あの時の人間はもう軍に残っていないと聞いていたんだがな」
続いて臣は、金属が剥き出しになっている柄の部分に帯をくるくると巻きつけていった。
「ええ、仰る通り。残っているのは私だけですよ」
堅海が憮然と鼻を鳴らす。
その一方で、かつて彼の下で働いたことのある久賀は、ひどく瞠目してその様を眺めていた。学者としての臣しか知らぬ久賀にしてみれば、今こうして刀を握り、目の前をゆくかつての上司の姿は、例えそれを間近にした今でさえ、にわかに信じられるものではなかった。
無理もない。
「氷見、その刀をこちらに貸せ。こいつと替えてやる」
堅海は自らの槍を放ってよこした。
「え…?」
「おまえにその刀は重過ぎるだろう?その調子じゃ、あといくらももたんぞ。すぐに手を傷めるはずだ」
「あ…う、うん」
差し出された刀を握ると、その感覚を試すように堅海は何度か空を斬った。その横では満足そうに瞳を細めた氷見が、久しぶりに手にした得物をくるりと回している。
今ひとたびの闘いの仕度が整いつつあった。
「断っておくが、こちらの腕のほどは保障しかねるぞ。なにせ、あれから殆ど刀を握っていないからな」
「ふっ、どうだか…」
振り向きもせず、せせら笑う堅海。
「そういちいち突っかかってくるな、おまえは」
やれやれとため息をついて、改めて敵を仰ぎ見る。
既に件の大群は、その姿形が肉眼で確認できるほどの距離にまで迫っていた。もう一刻の猶予もない。
振り向いた臣の顔は既に学者のそれではなく、戦人らしい気鋭と清々しさを宿している。もはやその眼差しを疑う余地はどこにもなかった。
「愁!!篠懸様とその少女を連れて更に後方へ下がれ!久賀、堅海、それからそこの銀鏡の小僧もだ!私の前に出るな!!」
「銀鏡の…って、何でそれを…」
氷見は目を丸くした。
「その話は後だ」
一層に語気を強め、臣は続ける。
「堅海!あの時あそこにいたのなら、言葉の意味が分かるだろう?さっさとこいつらを下げろ!」
ここで何に心当たったか、むんずと久賀らの腕を掴んだ堅海は、素直に後方へと退いた。
「わ!ちょっ…ちょっと、何だよ、一体!?」
「な…何です?何があるんですか、堅海様!?」
「あいつ…。あの距離から飛燕を撃つ気だ。敵の数を減らすつもりだろう」
「飛燕…?」
「なんだそりゃ?」
前衛の臣は大きく深呼吸をすると、深く腰を落とし、刀を脇に構えた。ちょうど鞘から抜刀する姿勢である。
そうして静かに士気を高めているようだ。
その間にも、大群の影は更なる膨張を続けていた。その数ざっと数十羽――!
鈍色の太刀に一閃、凄気が宿る。
「!!」
ふわり。
刀身が瞬き、純白に輝く光の糸のような雲気が現れた―――と思う間に、次々と湧いた光の絹は、生き物のように蠢いては立ち昇り、何度も形を変えながらみるみる輝きを増してゆく。時に纏わり、時に揺らめき、やがて刀全体を包み込んだ触手は、それでも質量を増し続けて…。
ついには臣自身をもその懐に飲み込んでしまったのだ…!!
「な、何だ…?何なんだこれ…!?」
氷見は得体の知れぬ恐怖に震えた。
息を呑んだ。目の前で何が起きているの誰もか理解できなかった。
光の中に臣の背中が溶けゆく刹那、
「うおおおおお!!」
気合の雄たけびが上がり、大きく刀が薙ぎ払われた。
刹那。
大気をびりびりと震わせ、一筋の光華が天空へと飛び立った!
やがて光は一陣の風巻へと姿をやつし、低い唸りを上げながら深緑の縁の上を駆け抜けた。光速の旋風に削られた木の葉たちが、ざあっと音を立てて舞い上がる。
その様は、まさしく白銀のツバメ――。
あたかも幻想のような光景に、誰もが瞬きも忘れて立ち尽くした。
(こ、これが飛燕!なんて技だ…!臣様…この方は格が…。格がまるで違う!!)
久賀は己の魂が戦慄くのを感じた。
人知を超えた神秘の剣技。
あまりに鮮やかな夢想の雅。
その前には感嘆の声を漏らすことさえ叶わない――。
ところが。
「くそっ、だめだ…!」
臣の顔色が変わる。
「すまん、外した。刀が持ち堪えてはくれなかった」
なんということだろう。
振り向いた臣の手に握られていた刀は、差し出されたと同時に亀裂が走り、微塵に砕け散ってしまったのだ。
鋼の刀剣が砕けるほどの大技!?
数年間、学者に徹してきたはずの彼から、まさかこれほどのものが繰り出されようとは!
「小僧!皆を連れてその下の庫裡まで逃げろ!!堅海、久賀、来るぞ!構えろ!!」
檄を飛ばす背後で、今や大群の真下にまで迫った白刃は、飛行角度を垂直に改め、目標目掛けて一気に急上昇を開始。
そして。
燦然と煌くツバメにその身を刻まれるや、巨鳥は爆煙を吹き上げて、次々に紙吹雪へと変化を遂げたのである。空に大量の吹雪が舞い荒び、湧き上がる飛沫は、今までそこにあった青を一面の白へと染め上げた。
しかしながら、技を繰り出す只中で刀に亀裂が生じたため、そのすべてを仕留めることは叶わず、今なお生き残った十数羽は白の吹雪を突き抜けて、今もこちらへ迫っている。
「私が責任を持って篠懸様を庫裡までお連れします。ですからどうかお二人は…!」
久賀は腰に差した太刀を鞘ごと引き抜き、臣の前へ差し出した。これが今の最良の方法だ思った。
「これだけ数が減れば上等だ。あなたと私で、一人当たり七羽…というところですか」
堅海が笑みを浮かべる。
「心得た」
しかと頷き、臣が刀を受け取ったその時――。
「す、篠懸様!」
愁の声に振り向けば、腕の中の篠懸がぐったりとうなだれている。
浅い息と微かに聞こえる独特の呼吸音。間違いない、あの発作だ――。
「篠懸様、しっかり…!!」
「だ…大…丈…」
駆け寄る紫苑に、篠懸は気丈な微笑みを返そうとする。
血相を変えた氷見が弾けるように怒鳴った。
「馬鹿!!もういいから喋るな!愁、こいつを早く!!」
一刻を争う事態だった。
「よし。行くぞ、久賀!!」
例の薬を飲ませた後、しっかりと皇子を抱きかかえ、愁はすっくと立ち上がった。
「篠懸様を頼むぞ」
堅海の言葉に頷いて応え、久賀は皇子らを衛護しつつ庫裡へと急いだ。
そうして――。
山頂には臣と堅海、そして氷見の三人が残された。
「さっさとおまえも行け」
天を睨み臣は言った。
「別に足手纏いにはならないと思うぜ?これで一人、五羽だ」
氷見はにたりと不敵な笑みを浮かべた。
頭上に滞空していた火喰鳥が、次から次へと舞い降りてくる。
三人は素早く武器を構えた。
* * * * * * * * * * * *
堅海らが敵を引き付けてくれるお陰で、庫裡までは難なく逃げ延びることができた。
藤棚の下に自分の上掛けを脱いで敷き、愁はそこに篠懸の体を横たえてやった。そろそろ薬が効いてきたのか、篠懸は少しずつ落ち着きを取り戻し始めたようだった。
井戸水の桶を抱いた紫苑が、傍らに跪いた。
「冷たい…」
宛がわれた手拭の冷たさが心地よい。篠懸はほっと目を閉じた。
見守る三つの表情が、安堵に緩んだその時だった。
「ちっ…!紫苑、こいつを借りるぞ!!」
久賀は立て掛けてあった紫苑の刀を握った。
見上げた先には、遥か上空で大きく旋回を続ける一羽の怪鳥の姿――!
「目敏い連中だな…!」
しかと刀を構え敵を睨む。
しかして目が合った刹那、巨鳥は羽ばたくのをぴたりと止め、地上へ猛降下を開始したのだった。
得物を握る手に力がこもる。
ばさり。
打ち付けるような羽音と捷速の爪が襲い掛かる。瞬時に翻って攻撃をかわし、久賀は刀を水平に構えた。
「はあああッ!!」
切っ先がが大きく弧を描く。そして――。
返す刀を真横に薙ぐと、蒼天に鮮やかな飛沫が弾けた。どっと爆音を上げた紙吹雪は、一旦上空へ吹き上がった後、はらりはらりと地上へ降り注いだ。
純白の花弁の中で、久賀は深い息を吐いた。
臣のような派手さも堅海のような大胆さもないが、彼の確実な剣捌きは、見る者を圧倒させる。久賀もまた相当な手練れであると言えた。
* * * * * * * * * * * *
「おまえ…。私の過去を知りながら、よく五年も黙っていたな。かつての敵だぞ?」
振り下ろされる距爪を巧みにかわしながら臣は言った。
「別に今更騒ぐ必要もないでしょう?恨みがないかと言えば、微妙なところですが」
巨大な嘴を払いつつ堅海も答える。
「だろうな。あの時はこちらも尋常ではなかった」
「は…?」
堅海の真上を滑る石火の剣戟。その直後、あの白い吹雪が宙を舞った。
「ひどく個人的な理由だ」
「……」
「敵と見れば有無を言わさず斬っていた。義勇志士らに雇われていながら、その指示さえまるで無視して斬り込んで――。私の勝手な行動に払った犠牲も大きかったはずだ。どちらに恨まれても文句は言えん」
白刃一閃、臣は袈裟懸けに刀を振り下ろした。また一つ飛沫が上がる。
「あの頃の私は、ただ死に場所を探していたに過ぎん」
間を置かず振り向いて天を突く。するとまた一つ鳥が弾けた。
「どのような理由であれすべて自分で蒔いた種だ。それに、現役を離れたとはいえ、仇と呼ばれて逃げ隠れするほど落ちぶれてもおらん。だが、私を討ちたければ、まず水紅様の許可を得てくれよ」
「何です?水紅様…??」
「勝手に死ぬなとの仰せだ」
水平の構えから、堅海は天空へ向けて刀を振り払った。鋩は鮮やかな半月を描き、開いた嘴から巨鳥の頭は真っ二つに裂けて弾けた。
「忠義なことですね」
「当たり前だ。皇子付きだぞ?」
堅海はふっと笑った。
「お喋りしながらとはさすが余裕あるね、でかい兄さん方」
二人の注意を惹いたのを悟ると、氷見はにっと歯を見せて笑った。空へ突き上げられた槍の先で、怪鳥の体が純白の爆煙を吹いている。
「おっしゃ!あと一羽ああ!」
「へえ…。なかなかやるじゃないか、氷見」
堅海が横目で振り向いた。
「さすがは銀鏡の火喰鳥――ってな」
鼻先で臣が笑う。
「だから何で知ってるんだよ、あんた!!」
三人がそれぞれほぼ同時に最後の一羽を仕留めると、一面の吹雪が頭上を白く覆った。
「新手が来る前に消えるぞ!」
三人は篠懸のもとへ急いだ。
* * * * * * * * * * * *
一方――。
さわさわと鳴く藤の木陰では、愁の腕に抱かれた篠懸が安らかにまどろんでいた。血色も呼吸もすっかり戻ったようである。
そして、あれほど喧騒に満ちていた空は、ようやく本来の蒼天を取り戻し、先刻の妖しの影は跡形もなく消えて去っていた。
庫裡へ戻ったばかりの堅海ら三人はほっと安堵の息をついた。これでようやくひと安心といったところだ。
「良い太刀だった」
「痛み入ります」
刀を受け取り、久賀は深々と頭を下げた。
疾うに中天を過ぎた太陽が、西の寝床へ向かう支度を始めている――。
眠る篠懸を抱いたまま帰途につかんとする愁を、すかさず堅海が引き止めた。
「おまえ、顔色が悪いぞ。篠懸様は俺が背負う。よこせ」
心配げに愁の顔を覗き込む。
「本当に大丈夫か、愁?」
「ああ…。問題ない」
そう答えると、逆から伸びた臣の手が愁の額にひたと触れた。
「馬鹿を言うな。大いに問題だ。熱がある」
さすがに繕うこともできず、愁は口の端で苦く笑った。
* * * * * * * * * * * *
辺りは夕焼けに染まっていた。
疲れた足を引き擦り辿り着いた屋敷の裏門に、遊佐の姿が見える。ようやく帰ってきたのだ。
とにかく今日は、朝からいろいろありすぎた…。誰もがくたくただった。
だが。
一行がほっとするも束の間、唐突に掲げられた彼女の右手から、突如として小さな竜巻が巻き上がった。
「……!」
わけも分からず立ち竦む愁らの回りを、細い竜巻が取り巻いた。
すると、一体いつの間に潜んでいたのか、あの式神の欠片らしきものが、皆の衣服の隙間や髪の中からするすると引き摺り出され、次々に竜巻の中へと吸い込まれていったのである。目を丸くする皆の前で、竜巻は白い螺旋の筋となり、やがて遊佐の手のひらへ消えた。
そして――。
再びそっと開かれた手に、ぽっと小さな蒼い炎が点った――と見た刹那、欠片は細かな灰になり、はらりと砕け散ってしまったのだった…。
「お帰りなさいませ」
遊佐は深々と頭を垂れた。
「あ…。た、ただいま…戻りました」
何とか会釈を返したその時。
「!!」
遊佐の眼が異変を捉えた。すぐさま歩み寄り、愁の懐へ手を入れる。そこから彼女が取り出したもの、それは――。
鳥の形に切り抜かれた一枚の小さな紙片であった。
「こ、これは…。いつの間に…!?」
堅海の声を遠くに聞きながら、そこで愁の意識はぷつりと途切れた。
がくりと崩れ落ちる体を、素早く臣が受け止める。
「早く中へ…!」
* * * * * * * * * * * *
遊佐の離れ座敷で、臣、堅海、氷見、そして紫苑の四人は、無言で静座していた。その前には、先ほどの紙の鳥が置かれている。
「あの…これ、少し見せていただいても構いませんか?」
そう言って紙を手に取った臣は、しげしげとその形を眺めていたが――。
「!?」
摘んだ指先に力を入れた途端、突然鳥は息を吹き返し、その手から逃れようとばたばたと羽を動かして暴れたのだった。
「げ…!?」
氷見がぎくりと跳び上がる。
「臣様は…少し霊力がおありのようですね」
遊佐はそう言って微笑んだ。
「さあ、それはどうですか…。でもこれ、あの式神の正体ですよね?剪紙成兵法とかいうあれですか?」
「ぜんし――?何だって?」
聞きなれぬ言葉だ。氷見がはてなと首を傾げた。
「剪紙成兵法――。東方の秘術で、人間や動物の形にした紙を実体に変えて操る術だ。総じて方術と呼ばれている。しかし、そうだとすると此度の件は、道教の流れを汲む術者の仕業…ということになるのかな」
「やけにその道にお詳しいんですね」
臣を見もせず、堅海が呟く。
「本当におまえ、いちいちなあ…」
くすりと遊佐が笑った。
(ん…?『東方の秘術』――今、私はそう言ったか?)
臣ははっと口を噤んだ。
水紅皇子が長らく探し求めていたあの本。確かあれは…。
そもそも、彼があれほど必死になってあの本を読んでいるのはなぜだ?あの本に関して何を尋ねても、それを頑なに語ろうとしないのはなぜだ…?
(水紅様、あなたは一体…!!)
臣はにわかに眉を曇らせた。
「篠懸様に害を成している例の術者の仕業…。どうやら彼女は相当な力を付けていますね。でも、お陰でこちらも役者が揃った…」
遊佐はやおらに立ち上がり、祭壇に立て掛けてあった二本の槍と二本の刀とを彼らの前に運んだ。
そして――。
柄の部分が青鈍色をした長い槍を堅海。
銅緑色の柄をしたやや小ぶりな槍を氷見。
そして、薄紫色の鞘に収められた刀は紫苑。
深紅の鞘の刀は臣。
遊佐は、それぞれの前にそれらをそっと差し置いた。
「どうか、これをお持ちください。必ずや皆様のお力になりましょう」
「……?」
四人はきょとんと顔を見合わせた。
「あの…お言葉ですが、私は一介の学者。このようなものをいただいても、ただ持て余すだけですが」
「それでもお持ちください。必要と思ったときにお使いくだされば良いのです。抜かずに済むのなら、無論その方が良いのですから」
ある種もっともな臣の言葉にも、遊佐はきっぱりと言葉を返してくる。どうやら引っ込める気はなさそうである。
「このようなものを宮に持ち帰ったら、また何を噂されるか…」
やれやれとため息をついて、臣は刀を手に取った。ずしりとした重さが驚くほど手に馴染む。
どうやら同じことを他の者も感じているようだ。
「この刀が、この槍が選んだあなた方なのです。どうか拒まないで。堅海様の槍は『蒼劉』、氷見の槍は『緑青』、そして紫苑の刀は『紅藤』、臣様の刀は『火蓮』――それぞれそう申します。どれも命あるものです。大切にお傍に置いてやってください」
遊佐は深々と額突いた。
そして――。
「紫苑。あなたはそれで愁様をお守りするのです」
両手で刀を捧げ呆然とする紫苑を、遊佐は真正面から見据えた。
「愁…を…?」
いきなりそう言われても、言葉の真意が分からない。察して遊佐は言葉を続けた。
「時がくればこの言葉の意味が必ず分かるはずです。いいですか、あなたは何があっても愁様を信じなさい。そして必ずやお守りし通しなさい。あの方のお傍にさえいられれば、あなたはずっとあなたのままでいられます。ですから――」
遊佐はふわりと微笑んだ。優しく慈愛に満ちた眼差し――そこに紫苑は何を感じたのだろう…?
「はい…!」
紫苑は力強く頷いたのだった。
* * * * * * * * * * * *
目を覚ますと、そこは自室の布団の中であった。
「あれから…眠ってしまったのか、私は…」
ゆっくりと体を起こす。
みんな、あれからどうしたのだろう――?
ぼんやりとする頭でそんなことを考えていると、そっと襖を開ける音が聞こえた。
「あ…。お目覚めでしたか、篠懸様」
枕もとに膝を付いた久賀がほっと笑みを浮かべた。
ところがその顔を見た途端、昼間の記憶が一ぺんに蘇り、慌てて篠懸は飛び起きた。
「あ…。あのっ…久賀、みんなは!誰も怪我はないか!?」
「え…ええ、まあ、怪我はありませんが…」
そっと肩に上着を掛けてやりながら、久賀は僅かに表情を翳らせた。
「何か…何かあったのか?」
「その…愁様が…」
久賀の言葉が終わらぬうちに、篠懸は血相を変えて隣の部屋へ飛び込んだ。
そこには――。
愁がひっそりと眠っていた。枕もとには、額に乗せられていたであろう手拭いが斜めになって落ちている。
「愁…!!」
篠懸はわなわなとその場に崩れ落ちた。
(己の我侭が招いた結果がこれか――!)
篠懸は自らを激しく責めていた。
怒りとも悲しみともつかぬ思いに、握り締めた拳が震えた。感情が雫となって、次から次へとこぼれては落ち、止まらない。だが、今となっては、どんな後悔も取り返しがつかない…。
震える手で手拭を水に浸し、ぎゅっと絞って愁の額へ乗せる。気付いた愁が瞼を開けても、涙で霞んだ瞳にその姿は映らない。固く口を結んだまま篠懸はひたすらうな垂れていた。小さな肩が、飲み込んだ嗚咽で微かに震えている。
目を覚ました愁に気付き、久賀がそっと部屋を出ていった。
「もう…お加減はよろしいのですか…?」
結ばれた小さな手を握ると――。
「!!」
涙でぼろぼろになった顔がはっと愁を見る。
「愁、愁…っ!!」
顔を見てしまったらもうどうしようもなかった。
いくら拭っても、涙が後から後から止め処なくあふれてくる。ついに篠懸は愁の胸に突っ伏してしまった。何度もしゃくりあげながら、篠懸は大きな声を上げて泣いた。
「す、篠懸様…。ちょっと疲れが出ただけですから。ね?ほんとに少し休めば治りますから…」
優しく髪を撫でながら、愁は何度も宥めたが、それでも篠懸の涙は止まらなかった。
* * * * * * * * * * * *
廊下を歩いていた堅海ら四人は、愁の部屋から漏れる号哭に足を止めた。
「やれやれ…。早速愁を見つけてしまったようだな」
臣が苦笑する。
そろそろと襖を開けてみると、果たして顔も衣もぐちゃぐちゃにしてしまった篠懸と、おろおろと彼をあやす愁がいる。
「篠懸、ほら…もう泣くなよ」
そうして氷見が宥めにかかれば、今度はそちらに縋って涙をこぼす始末。しゃくりあげる肩がなかなか止まらない。
紫苑の差し出す手拭を震える手で受け取り、篠懸はぎゅっと目元を押さえた。
「寝込んでいる愁を見て、ちょっとびっくりしてしまったんですよね」
紫苑が優しく微笑んだ。
「だっ…だって…っ…!わた…っ。わ、私が…わ…我侭…言ったから…!!」
上ずる声を抑えようとするほど逆に声は震え、うまく言葉にならない。
「馬鹿だな。関係ないってそんなの。この程度の熱、ひと晩寝りゃあ治るさ。そうだろ、愁?」
氷見は片目を瞑り、愁へ目配せを送った。
「ほら、もう愁を寝かせてやろうぜ。あっちの部屋行こう?な?」
しゃくり続ける篠懸の腕を抱え、皆には横目で振り向き微笑んで見せてから、氷見は部屋を出て行った。紫苑も続く。
「あいつ…子守りの方もなかなかの手練れだな。あれで本当に十五か?」
そう言って臣は笑った。
「どうだ、具合は…」
堅海が傍らに膝を付く。
「すまんな、心配をかけて」
「おまえが謝ることはない。あの時――やはり俺は無理にでもおまえの話を聞いてやるんだった」
「堅海…?」
浮かぬ顔の友を、愁はじっと見ていた。
(そうか、それで…。庫裡での態度はそういうことだったのか…)
腹心であるはずの自分にさえ心を隠しながら、一人で厄介ごとを抱え込んでゆく愁を、堅海はすぐ隣でずっと心配してくれていたのだ。
そう――堅海はいつも手が届くほど傍にいた。それなのに、自分が差し伸べる手は一向に握られることはなく、そんな不安の中で堅海は愁自身の口から助けを求められるのを待ち侘びていたに違いない。
(そうか…そういう男だったな…)
知らず知らず彼を傷つけていた自分に気付く。
そう…。
こんなふうに擦れ違ってしまうのは初めてじゃない。
だけど…。
「思ったより元気そうで安心した。本当は今夜にでも宮へ戻るつもりでいたが、おまえがその調子ではさっさと帰るわけにもゆくまい。とりあえず、もう一日二日ほどこちらでご厄介になることにする。明日の皇子様の勉強は私が見てやるから、おまえはもう一日ゆっくり休め。では、失礼する」
きっぱりとそれだけ言うと、臣はさっさと部屋を出て行った。
愁はくすりと笑った。
「これまで…臣とはあまりゆっくり話をしたことがなかったが、あれでなかなか気持ちの良い方だな」
「あ…ああ、まあ…そのようなんだがな…」
不意に肩を落とし、堅海は長いため息をついた。
「おまえ、あの方と何かあったのか?臣が来てから少しおかしいぞ?昼間言っていた百雲地区での民族独立運動に何か関係があるのか?」
堅海は暫し考え込んで――。
「彼に…友を殺されたんだ」
ぽつりと吐き捨てるように言った。
庭の木々がざわざわと鳴いている。障子の上を、木の葉の丸い影が滑ってゆく…。
「軍に入って初めてできた心の許せる友だった。名を榊と言った。
あの方は当時敵側――つまり、独立義勇軍に身を置いていた。そう…当時の彼の髪は今のような栗色ではなく、真っ黒な色をしていたな…。
まるで風のように戦場を駆け、驚くべき速さで目前の敵を倒してゆく。そしてあの飛燕で、敵はおろか味方を巻き込んでまでもそのすべてを斬ってしまう――そんな方だった。彼の行く後には何も残らない。当時、紗那軍は本当に彼を恐れていたよ。冷酷非道な化け物だ――ってな。
その頃の俺と榊はまだ駆け出しの一兵で、主に補給物資の運搬を担っていた。武器を携帯してはいたが、使う用事など皆無。そんな部署のはずだった。
だが、そこに彼は現れたんだ。なぜかたった一人で。きっと、補給路を断つべく、奇襲をかけたつもりだったのだろう。
その前に得物を抜く暇もなく、一刀の元に榊の体はぼろきれのように散った。それも俺の目の前でだ。何もできなかった。声さえ上げられなかった。彼の――臣殿の動きがあまりに速すぎて見えなかったんだ。怖かった。初めての実戦経験だった。確かにあの時、俺は槍を抜きはしたが――」
堅海は深いため息をついた。
「実は、あの後何をどうしたのかまるで覚えちゃいない」
「え…?」
「正直、なぜ今生きているのかも分からないんだ。本人に訊いてみればいいんだろうがな、なかなかそれもできんさ。自尊心ってものが邪魔してな」
堅海は小さく笑った。
「後に、水紅様直々のご指名で彼が内裏にやってきたときは本当に驚いた。あの顔を忘れるはずなどない。間違いない、あれは榊の仇だと――確かに最初はそう思ったさ。だが、彼は皇子付きだというじゃないか。手など出せるわけがない。友の仇と知りながら彼に何事か命じられれば黙ってそれに従い、お成りとあれば平伏して、ずっと…。もう五年もそうしてきたが――」
「臣を…討ちたいのか…?」
「いや…もうそんな気もない。駆け出しだったとはいえ、あいつも兵士だ。兵士が戦場で死んだからと言って、いちいち仇だ何だと言っていたのではきりがない。あれも万が一の覚悟ぐらいはあったろうしな…」
愁はほっと胸を撫で下ろした。
「あの方と話していて胸がもやもやするのは、多分、自分の不甲斐なさが思い起こされるからだろうと思う。敵に友を斬らせておいておめおめと自分だけが生き長らえている。そのやりきれない気持ちがまた蘇ってしまうから…。要するにただの八つ当たりだ。全部分かっている」
ふと立ち上がり、堅海は月明かりの差す縁柱へ背を預けた。
「あの時は…臣殿も何事か事情を抱えておられたようだ。俺も、古い柵は早々に流してしまわねばな…」
愁は、友の屈強な背中に微かな憂愁が滲むのを見た。
* * * * * * * * * * * *
篠懸の部屋の襖を、気付かれぬようほんの少しだけ開けてみる。そこから中を覗けば、相変わらず氷見にしがみ付いたままの篠懸の背中が見えた。
どうやら氷見だけが臣の存在に気付いたようである。困り果てた情けない顔が、縋るようにこちらを見ている。
(やはり手を焼いているようだな)
臣はにんまりと笑った。
「失礼します」
一礼して中に入ると、泣き腫らした真っ赤な顔がゆっくりと振り向いた。
「篠懸様、大事をとって明日一日愁を休ませても構いませんか?お勉強は私が代わりに見させていただきますから」
臣は篠懸の傍らに膝を付き、にっこりと微笑んだ。
「ああ、そうそう…。そう言えばすっかり忘れていました。水紅様からお土産を預かっているのですが」
「兄上…から…?」
篠懸は、久しぶりに耳にした兄の名に心惹かれたようだった。
「はい。それは心配していらっしゃいましたよ」
懐の包みを差し出す。
「これ…?」
篠懸は目を丸くした。
「さあ?私も包みの中を見たわけではないので、よくは存じませんが…。確か――元気の素だとか仰ってましたねえ。開けてみたらいかがです?」
本当は中身を知っているはずなのに、しれっと臣は嘯いた。
そして、紫苑と氷見の見守る中、がさがさと包みを開けていくと――果たして『元気の素』は姿を現したのである。
「あ!花火だ…」
「ハナビ?ハナビって何だ?」
「紫苑も実物を見るのは初めてです。これが花火ですか…。へえ…」
氷見と紫苑も興味津々で瞳を輝かせている。
「呆れたな…。おまえたち本当に知らないのか?」
「そんなこと言っても、知らねーもんは知らねーよ!」
むっと口を尖らせる氷見と、何度も首を振る紫苑であった。
と――。
「まだ…春なのに…」
ぼんやりと口をついたのは、まるで風の囁きのよう微かなな言葉…。
「わざわざお取り寄せになったようですよ、あなたのために」
「兄上…」
包みをぎゅっと抱きしめる。
兄の心遣いが嬉しかった。宮で自分を待っていてくれるだろう水紅の姿が、伏せた瞼の裏に浮かんだ。
(言葉はぶっきらぼうだけど、いつも優しい兄上。ちゃんと覚えていてくださったんだ。私が花火が大好きだってこと――)
「ああ、ちょうどいい時間ですね。みなさんでいかがです?氷見も紫苑もやったことがないのでしょう?」
やっと戻った篠懸の笑顔に、氷見と紫苑も釣られて笑った。
「じゃ、決まったところで――はいっ、どうぞ!」
すかさず臣は、衣の袖から燐寸と蝋燭を差し出した。
「何でも出てくるな。包みの中身、知らなかったんじゃねーのかよ?」
にやつく氷見に、臣はすました顔で答えた。
「細かい奴だな。どうでもいいだろう、そんなこと。誰のお陰で花火ができると思っているんだ?」
冴え冴えと浮かんだ月が、縁側に並んで花火を散らす子どもらを清かに見守っていた――。
9. 要らない命
布団の上で、氷見はぼんやりと膝を抱えていた。
退屈な日々の中では、何度となくあの辛い日を思い出したりもするが、色々なことがあったお陰で、今日は考える暇もなかった。
今なら、ぐっすり眠れるだろうか…。
暫く療養していたせいで、すっかり鈍ってしまった身体が気だるい。寝不足のせいか、実は昼間も時々足元がふらついた。
それでも。
何かを考えれば考えるほど、どうしても目を閉じることができない。眠りたいのに眠ってはいけない――やはりどこかでそう思っているのだ。
眠ればきっとまたあの日の夢を見てしまう。あの恐ろしい夢を、また…。
思い耽っていると、不意に廊下の襖が開いた。そこにいたのは目をしょぼつかせた篠懸であった。
「何だよ。こんな夜更けに…」
「……」
しかし篠懸は答えず、眠そうに何度も目を擦りながら氷見の隣にちょこんと座った。
「ひょっとして…寝惚けてるの、おまえ?」
茶化してやると、篠懸はむっと剥れた。
そうして。
「今日はここで寝る!」
それだけ言うと、篠懸はさっさと氷見の布団に潜り込んでしまった。
「はァ?何で!?だって布団、一組しかないんだぜ?」
「だったら一緒に寝たらいいだろう?」
「やめてくれよ、何だって男同士でそんな…。ほら、とっとと部屋へ戻れ!」
「……」
頭から潜り込んだ篠懸は、まったく出てくる気配がない。
「おいってば!ほら、篠懸!」
「……」
「起きろーっ!!」
揺ろうとも叩こうとも、力尽くで布団を引っ張ろうとも、ぎゅっと丸まったまま動かない。
「まさか…もう眠ったのか?」
「眠ってない」
くぐもった声の後、布団から伸びた手がいきなり氷見の手を握った。
「な、何だあっ!?」
びくりと声が裏返る。
「傍に…いるから…」
消え入りそうに小さな声だった。
「私が傍にいるから…もう怖くない」
「え…?」
ようやく篠懸は布団から瞳を覗かせた。
「昔…暗闇が怖くてなかなか寝付けなかったとき、そんな私の手を愁がずっと握っていてくれた。そうしたらちゃんと眠れるようになったんだ。だから…」
そう言いながら、瞳の方は今にも蕩けそうだ。相当眠いに違いない。
「やれやれ…負けたよ。分かったからもうそこで寝ろ。まったく…おまえの頑固は間違いなく愁譲りだな…」
観念して眉を解くと、
「氷見も寝るんだぞ、一緒に」
「はいはい」
そろりと滑り込んだ布団の中で、篠懸の呼吸は既に寝息になっていた。それでも握った手は離さない。
「そうだよな…。疲れたよな、今日は。おまえ、いっぱい頑張ったもんな。俺さ…皇子様ってのは、もっと威張ってて気取った嫌な奴ばっかだって思ってた。だけどほんといい奴だよな、おまえは。こんなにちっちゃいくせにさ。心配してくれてありがとな、篠懸…」
聞こえぬのを承知で語りかける。それはむしろ、聞こえていないからこそ口にできる――そんな台詞。
そのまま氷見は暫く篠懸の寝顔を見ていた。
たちまちこみ上げてきたのは、切ないような懐かしいような温かさ――。
どうしたことだろう。
以前にもこんなことがあった気がする。
まさか…そんなはずはないのに、どうして?
すると何を思ってか、突然氷見はくっくっと声を殺して笑い出した。
「あはは、そっか…。こいつ――姉ちゃんに似てるんだ」
前から、髪の感じが良く似ているとは思っていた。
だが、こうして近くで改めて眺めれば、まるで女の子のような顔立ちも、何でもひとりで決め込んで散々に氷見を振り回す、そんなところもどことなく…。
(そうか、これは――)
まだ幼かった頃、姉代わりの李燐と枕を並べ、手を繋いで眠ったあの時の感覚だ。
またくすりと笑って、瞼を閉じた。じんわりと疲れが体の表面に湧いてくる。
(ああ…。今日こそはいい夢を見よう)
きっと今この胸にある温かい気持ちは、幸せというやつだ。きっとそうに違いないから、もう悲しい夢は止めなくちゃ。ちゃんと前を向いて歩くために。泣いてばかりいたって、何かが変わるわけじゃないんだから…。
次第に意識が遠退いてゆく。氷見は深い眠りの中へと墜ちていった。
* * * * * * * * * * * *
爽やかに夜は明けて――。
篠懸がなかなか起きてこないので様子を見に行くと、部屋に彼の姿はなかった。その代わり、丁寧にたたまれた布団の上には一枚の書き置き。
『氷見と寝ます』
臣は苦笑いを浮かべた。
「おいおい…。男同士で添い寝か?色気も何もあったもんじゃないな」
手紙を摘み上げ、ひらひらと扇がせる。
篠懸の世話に訪れた御許もくすくすと笑った。
(とはいえ、まあ…昨日の今日だからな)
御許に下がるよう指示を出し、臣は氷見の部屋へと向かった。
こっそりと中を覗いてみると、果たして互いに手を繋いだまま仲良く眠る二人の姿が目に入る。もうとっくに夜が明けたというのに、どちらもぐっすりよく眠っているようだ。
「放っておくか…。そのうち起きてくるさ」
臣はそっと襖を閉めた。
ここはひとまず篠懸の部屋へ戻り、彼らがやってくるのを待つとしよう――。
(銀鏡の鬼…か…)
障子の縁に体を預け、臣はぼんやりと彼方の空を眺めた。
――紗那の皇子らが楼蘭を訪れたその晩、黄蓮の都を発った臣は、そのまま真っ直ぐ馬を飛ばして北上。一路、天飛山を目指した。
郊外の小さな農村をいくつか過ぎると、いきなり目の前がぱっと開ける。一面に広がるのは、吹き晒しの荒れ野原だ。更にそこを抜ければ、黒々とした木々の生い茂る山道に入る。道は険しくも一本道。迷うことはない。
やがて如月へ続く山道から外れ、臣は以前に紗那の亡命者より聞き出した獣道を辿った。このまま行けば国境が見えるはず。紗那軍が警備を担当している場所だ。
とはいえ、それは数年前に聞いた話。
適当な場所に馬を隠し、学者の衣を脱ぎ捨てる。その下に着込んでいた服は、彼が傭兵をしていた頃のものだ。
(こういうものを再び握る日が来るとはな…)
薄く笑って、臣は隠し持ってきた一本の長剣を背負った。
曲がりなりにも一国の跡目に仕える身。紗那の者に顔を見られるわけにはいかない。
そこで臣は、敢えて真夜中を選んだ。
運の良いことに、国境の警備は以前に聞いた情報とそっくり同じだった。
二重に張り巡らされた高い柵の中には、聞いていたとおり何匹もの軍用犬が放たれている。更に目を凝らせば、柵に沿ってぽつぽつと松明の炎が揺れている。どうやら見張りの兵士が等間隔に配備されているようだ。
一旦馬へ戻った臣は、脇に下げた麻袋から、道中で捕らえておいた二羽の野うさぎを取り出した。
「すまんが一役買ってくれ。貴殿らの武運長久を心より祈っている。死ぬなよ?」
大仰に言ってにやりと笑うと、臣は柵の中にうさぎを放り込んだ。
程なくして、犬は獲物に反応した。狭い柵の中を縦横に逃げ惑ううさぎを追って狂ったように駆け回っている。
もうもうと立ち込める砂埃。
ぎゃんぎゃんと絡み合ういくつもの犬吠。
そして、まったくこちらの計算どおり、異変に気付いた兵士らが迂闊にも持ち場を離れてゆく――。
その隙を見逃す手はない。軽やかに柵を飛び越え、臣は難なく紗那領内へと潜入した。
国境から充分に距離を取った場所で辺りを窺い、所持していた松明に火を点す。すると、揺れる炎の中に静寂の杜がぼおっと姿を現した。
銀鏡の集落は、このもう少し北のはずだ。
時折、小さな獣の足音が足元を掠めてゆく。自らの気配を闇に忍ばせ、細心の注意を払いつつ臣はひたすらに歩を進めた。
と――。
目的の場所へ迫るほどに、ある独特な臭気が鼻を衝いた。数々の戦場に身を置いたことのある臣は、この異臭の正体を知っている。
一歩また一歩と進むにつれ、鼻腔を抜ける不快さが激しい苛立ちを呼び起こしゆく…。
やがて前方に、焼け落ちた集落跡がちらついた。
不意に。
ざ…ざざ…ざざざざ…ざざざ…ざ…。
風に乗り、途切れ途切れに届いた音は、葉擦れとは明らかに別のものであった。
むしろ、もっと別の――。
何かが這い回るような――。
ざ…ざざざざざ…ざざざざざざ。
更なる気配は、獲物を争う獣たちの荒ぶる鼻息と唸り声。
そして、乾いた葉を闇雲に散らす爪の音。
ようやく視界が捉えたものは、そびえ立つ岩のような何かと、入り乱れる四つ足の黒い影が無数――。
そこへ松明の灯が届こうかという手前で、臣は不意に歩みを止めた。実は、この時点でもう、目前で彼を待つ光景の見当は付いていた。
胸が落ち着かぬ。
ざわざわと腹の底が荒くれる。
暫し何かを躊躇った後、臣はゆっくりと前方へ灯りを向けた。
そして。
「!!!」
堪らず目を背ける。
愕然とした。分かっていても、どうしても凝視はできなかった。
目前に立ちはだる黒い塊、それは――。
「何てこと…何て惨いことを…!!」
松明を握る手が激しい憤りにぶるぶると震えた。
臣の目にしたもの――それは、幾重にも堆く詰まれた数十人もの子どもの屍であった――。
ざざざざざ。
ざざざざざざざざざ。
ざざざざざざざざざざざざざ。
無残に放置された遺体が温む風に煽られ、辺りに強烈な腐臭を漂わせていた。そのすべてに無数の蛆がみっしりと集り、脆く腐った皮膚を食い破っては、その内となり外となりをぞわぞわと蠢いている。
更に、そのどす黒く変色した肉叢を野犬の群れが無心に漁っている。時折、餌をめぐる諍いの声が静寂の森に響いて、狂喜の鼻息の上に重なった。
ぐずり――。
粘りのある嫌な音を立てて肉塊が崩れた。内部で蓄積されていたガスが、何かのはずみに外部へ放出されるのだ。すると、そこを狙って野犬らは、一層がつがつと鼻面を突き立てるのであった。
戦慄く唇をぐっと噛みしめ、臣は子どもたちの元へ向かった。わざと乱暴に枯葉を踏み分け、感情的に剣を引き抜く。
対して、剥き出しの敵意に気付いた獣らは一斉に向きを変え、低い唸りを上げ始める。
思い切り松明を投げつけた刹那、獣たちは大地を蹴り、次々に襲いかかってきた…!
剣聖牙・光焔――!!
差し上げられた刀から、突如として天を突くような火柱が上がった!ごおっという轟音を噴きあげてうねる焔は刀身を取り巻いて大きなとぐろを描き、臣の腕をまるまるその内側に抱き込んでいる。
耿々と燃え盛る炎――それは、今の彼の心そのものだったのかもれない…。
「はああああッ!!」
しかと剣を構え、群れの中心へ跳んだ。しゃにむに突進してくる獣の懐へ敢えて斬り込みながら、臣は夢中で神速の剣を振るった。目にも留まらぬ剣捌きに、紅の残像が幾つも幾つも尾を引いては消えてゆく。暗く沈む木々の狭間に、紅蓮の閃光が激しく強く鮮やかに無数の太刀筋を焼き付ける。
矢継ぎ早に飛びかかる敵を臣の剣は確実に捉え、次々に骸へと刻み続けた。炎の軌跡が紡ぐ幻想に、まるでその身を踊らせるかの如く、身を翻せばその度に、いくつもの命が散ってゆく。怒りと悲しみとで我を忘れた彼の、華麗なる剣舞の前に!!
やがて――。
森は、再び暗闇と静けさを取り戻した。
「はっ…はあ…はあ…っ…はあっ……」
大きく身を屈め目を見開いたまま、臣は肩で息をしていた。深い静寂の中に聞こえるのは、たった一つの激しい息遣いだけ――。
うなだれた顔から、いくつもの雫が散る。
これは汗か。それとも涙か。
鮮血にまみれた足元には、無数の犬の死骸が転がっている。ふらふらと足を引き擦り、臣は子どもらの元へと歩み寄った。
そして――。
「!!」
見るに耐え得ぬ光景を前についにその手の剣を取り落とし、臣はがくりと膝を付いたのだった。
(珠洲――!)
胸の内で一人の少女の名を叫ぶ。ぐっと枯葉を握り締めると、その拳の上にまたいくつも雫が落ちた。
遥か夜天から見下ろすは、冷たく冴えた月華ばかり。
今宵、黒く沈む森の上に、深い悲しみが降り積もる…。
かつては、子どもらの無邪気な笑い声が絶えなかったであろうこの場所。
か弱き子らが、力強く生きたこの場所。
それが今は…。
もはや跡形さえもない…。
やがてゆらりと立ち上がり、臣は遺体の山に火を放った。炎は勢い良く燃え上がり、高く焔の翼を広げ、天を焦がした。濛々と立ち上る煙が、聖なる夜天を白く覆う。
振り上げた剣をその前へ突き刺し、臣は静かに祈るのだった。
それはささやかな墓標の代わり。
罪なき者たちへの精一杯の手向け。
病んだ時空のいたいけなる犠牲者たちよ。
どうか今は安らかに天へ昇れ――。
考え事をしながらぼんやりしていると、ようやくながら寝巻き姿の篠懸と、枕をぶら下げた氷見がやってきた。
ところが――。
「お…臣…!」
縁側に佇むその姿を見た途端、二人はぎくりと固まってしまった。
「おはようございます。いや、こんにちは――と申し上げるべきかな」
ゆっくりと振り向いた臣はふっと口元を緩ませた。
しかしそんな臣とは裏腹に、二人の少年の顔は一層おろおろと所在を失くし――。
「あ、あの…長らく待たせてしまって…。その…。つ、つまり寝坊した!すまぬ!!」
潔く篠懸が頭を垂れると、続いて氷見も慌てて頭を下げた。
「それで…。お二人とも夕べはよく眠れたんですか?」
「うん…」
氷見の頬が僅かに染まった。
「そうですか。それじゃあ勘弁するしかないな。でもその代わり、遊び時間を削ってきっちり二時間お勉強ですよ、二人とも。一分たりとも負かりません」
ところがそう告げた本人は、篠懸に衣を着せ終えるとなぜか部屋から出て行ってしまった。
「……」
「……」
何とはなしに、ぽつんと取り残された感の二人である。
おずおずと見合わせた顔は、どちらの目も点になっている。
てっきりこっぴどく叱られるものと思っていた。約束の時間に遅れてくるなど、宮では決して許されることではなかったからだ。
それに――。
上手く説明できないが、臣という男はどことなく飄々淡々としていて、とっつきにくい雰囲気がある。
思えば、昨日の山頂での一件の時もそうだった。
あれだけ多くの怪物を前にしても、動揺も狼狽も…まして、人が当たり前に感じるような恐怖でさえ、微塵も覗かせはしなかった。
冷静沈着――いや、そんな生半可なものじゃない。むしろ、何も感じていないような冷めた眼差しに平静どおりの声色。そして、あのいかにも堂々とした立ち振る舞いには、違和感さえ覚えたほどだ。
だが、あの時の彼の姿が皆に安堵を与えたのも事実。
そう――確かにあの時、誰もが彼を心から頼りに思った。同時に、彼というたったひとりの存在の特殊さに、あの場の誰もがそれとなく気付いていた。
実は偽の学者だというが――一体彼は何者なのだろう?
つと胸を過ぎる数々の思いに戸惑いながら、とりあえず二人は卓に着いた。
「なんか…あんまり怒ってないみたいだな、臣」
愁が用意してくれた練習帳を卓上に広げ、氷見は篠懸の耳元に囁いた。
「う、うん…。実は今まで臣とは話をする機会があまりなくて、勝手に私はもっと怖い先生かと思っていたのだけれど…」
「やっぱ愁の方が怖いよな」
「う、うん…」
「腹減ったな」
「うん…」
ぽつぽつと話していると、やがて盆を手にした臣が戻ってきた。なぜか衣の袖が襷で捲くり上げられている。
「二人とも、お腹が空いたでしょう?はい、どうぞっ」
得意げに差し出された盆の上には、握り飯が二つと湯呑みが三つ乗せられている。
二人はきょとんと顔を見合わせた。
「台所はもうお昼の支度を始めていたので、今はこれで我慢してくださいね」
「ねえ…。これ、ひょっとして臣が作ったの?」
氷見は目を丸くした。
「私にだってこのぐらいのことはできるさ」
襷を外して茶をすすりながら、涼しい顔で答えてくる。昨日山頂で垣間見た姿を思えば、まったく不似合いなことこの上ない。
「あははは!似合わねー!やめとけよ、そんなの!!」
思わず氷見は吹き出した。篠懸も声を上げて大いに笑った。
「おまえね…。人の親切を笑うか、普通。文句を言うなら食うな」
そう言う臣も笑っていた。
* * * * * * * * * * * *
「お加減はいかがですか、愁?」
紫苑が微笑む。
「ありがとう。もう熱もすっかり下がりました。紫苑にも随分心配をかけてしまったようですね」
上体を起こした愁の肩に堅海がそっと肩掛けを羽織らせた。
だが、紫苑の隣――遊佐の表情がひどく険しい。遊佐はおもむろにあの紙の鳥を取り出し、愁の前へ差し置いた。
「これは…昨日の…?」
遊佐は静かに頷いた。
「昨日、愁様の懐に入っていたものです。術者との繋がりを断ちましたから今はもうただの紙切れですが、私は敵を――篠懸様を狙うあの人物を、どうも見縊っていたようです」
「どういうことです?」
眉をひそめると、遊佐は深いため息をついた。
「皆さんがこちらにいらして以来ずっと、私は篠懸様にかけられた呪詛をひたすらに送り手に返し続けていました。それ自体はうまく運び、ある程度あちら側にも影響を与えることができたはずです。ですが、そうすることで、こちら側にも術者が付いているということが知れてしまった。
そのため、あちらは攻め方を変えました。それがこの式神です。これはつまり、この屋敷の結界を離れたところであれば、如何様にも攻撃が可能であるということ。これら式神は、術者の念によりあらゆる生き物に姿形を変えるわけですから、気付かぬうちに目前に…などということが今後起こらぬとも限らない。正直、彼女がこれほど多様な術を使うなどとは思ってはいませんでした。
そして、最大の失態は、あなたの存在の大きさを敵に知られてしまったことです」
そう言って遊佐は床に手をついた。
「私…ですか?」
「ええ…。あなたの懐にだけこれが忍んでいたのがその証拠。今の篠懸様の最大の弱点は愁様――あなたですから。あのままあなたがこれを屋敷に持ち込んでいたなら、恐らくは今頃――」
「私は…死んでいたわけですね…」
「はい…。もしも今このような形であなたを失えば、篠懸様のお心は別のものへと変わられる。きっとご自分を深く責めて、最後にはその身を持ち崩してしまわれます。それこそが敵の狙いだったろうと思うのです。
山へ行けば何事か起こるであろうことは予測していましたが、まさかこれほどのことが起こるとは――。全て私の失態です。申し訳ありません」
遊佐は深々と平伏した。
「そ、そんな…どうか顔をお上げください。皆、無事に戻れたのですから、もうそれで良いではありませんか。ですからどうか、遊佐様…」
遊佐はおずおずと顔を上げて言った。
「時に愁様、『呪禁師』というものをご存知ですか?」
「呪禁師――。遠い昔に存在したという宮廷呪術師のことですか?」
だが宮廷呪術師は、その昔紗那と楼蘭が分裂し、仮初めの友好関係を築いた頃に役を追われたはずだ。
「ええ…。此度の式神の術、道教の流れを汲んでいます。つまりは、かつて紗那と楼蘭がまだ一つの国であった頃の、呪禁師の家系の者のようなのです」
「以前遊佐様は、依頼者は楼蘭の者で、術者は紗那の者だ――と仰いましたよね?」
「はい…。確かに彼女は紗那の者には違いありませんが、今は楼蘭に住み、宮にも自在に出入りしているようです」
二人はその場に凍りついた。
* * * * * * * * * * * *
熱心に文字を綴りながら、なぜか氷見は時折顔を上げて臣を見る。隣には、せっせと与えられた計算問題をこなす篠懸。
そして、目の前で卓を挟んだ臣はと言えば、静かに読書に耽っている――。
(不思議だな…。こうしていたらただの先生にしか見えないのにな)
氷見は昨日の山頂での出来事を思い出していた。
あの鋭く鮮やかない剣捌き。
力強くも神秘的な技の妙――。
大体臣は、見てくれからしてぜんぜん武人のそれではないのだ。すらりと細くて、むしろ華奢すぎるほどの身体に、傷一つない綺麗な顔。柔らかな栗色の髪。
どれをとっても、まるで戦いの世界からは無縁の人間。
(そうだ、あの技…)
あれだけを見ても普通の剣客とは思えない。あれほどの腕を持ちながら、なぜ学者などという仕事に従事しているのだろう?
そんなことを考えながらまた帳面から目を離した途端、なんと臣本人とぴたりと目が合ってしまった。
「集中しろ」
臣がこちらを睨んでいる。
慌てて顔を伏せ、せっせと鉛筆を動かす…が…。
つい気になってまた顔を上げると、今度はこちらを見もせずに臣は言った。
「さっきから一体何だ、氷見。何か用か?」
「ん…ええと…。あのさ、あれ…どうやってるの?」
「『あれ』とは?」
ようやく臣は本を閉じ、顔を上げて氷見を見た。
「うん、あのさ…。あの飛燕ってやつ」
氷見は、照れ臭そうに身を捩った。
「はあ?まったく…何を言い出すかと思えば」
さもうんざりとばかり、臣は大きなため息をついたが――。
「私も知りたいな」
困ったことに篠懸まで筆を置いてしまったのである。
「また篠懸様まで…。あのですね、あれはそんなに簡単にできるものでもないし、口で説明しろと言われてもうまく言えません。何と言うか…感覚のものですから」
「ねえ、言えないならもっかいやって見せて」
氷見が瞳を輝かせると、同調した篠懸もうんうんと合いの手を打った。
「あなたちねえ…」
大袈裟に肩を竦めた後、臣はしっかりと二人を見据えた。
「いい機会ですからお二人にしっかりと申し上げておきますが、私が剣を振るっただなんて絶対に他言しないでくださいね!蘇芳帝から直々に止められているんですから!大体宮の皇子付きが、実はただの戦争屋でした――なんてこと、万が一にも内裏で噂になどなったら…。いや、それ以上に他国に知られたら、大変なことになってしまいますから!いいですねっ!?」
「うん!じゃあ誰にも言わないから、もっかいだけやって?」
したり顔の氷見が食い下がる。
しまった――と思ったがもう遅い。まんまと氷見の手に乗せられてしまったのを悟る。
「おまえ…。まさか私を脅迫する気か?」
柄にもなく、臣はうろたえていた。
「篠懸の御許にも遊佐の女中にも、紗那に帰ってからも絶ッ対に誰にも言わないから、もう一回だけやって??」
にんまりと細められる瞳。
「やって、やって!」
無邪気に氷見を真似てくる篠懸にも怯む。
「ねえ、やって、やって!見たいよ、俺。もっかい見たいっ」
「私もっ」
放っておけば、いつまでも言いそうだ。
「ねえ、一生のお願いっ」
「一回でいいからお願いっ」
なかなかしつこい。
そうして臣は、ついに二度目のため息をつくのであった。
「…ったく。本当に一回でいいんだな?」
「うんっ!!」
満面笑顔の二人は、すこぶる上等な返事を聞かせた。
* * * * * * * * * * * *
「実は使うものは何でもいいんです。剣や刀でなくてもね。そう…振りやすいものなら…」
と、手元に転がっている鉛筆をおもむろに取り、
「別にこれでもできますよ」
頬杖をついた臣は、摘んだ鉛筆の先をふらふらと動かして見せた。
「でもさ、そんなのじゃあの紫苑の刀みたいに壊れちゃうんじゃないか?」
小さく頷いて、臣はにっと口の端を吊り上げた。
「いい質問だ、氷見。しかしそれは、力の加減の問題だな」
三人は、縁側に並んで腰掛けた。
「裂空斬・飛燕――という技は、見た目は派手に感じるかもしれませんが、理屈は至極単純です。自らの気を飛ばして敵を断つ、ただそれだけ。
でも、昨日は遠くに大勢の敵がいたでしょう?つまりあの時は、通常の飛燕に加えて、遠くまで気を飛ばす力や広範囲の敵に衝撃を与える力なども必要だったわけです。
もちろん、あれを遠くへ飛ばしたり、狙った的に当てたりするのは本人の腕の問題ですが、飛燕そのものは実際の刃を当てる技ではないので、あれだけ巨大な刃を必要とするなら、大量の気をじっくりと時間をかけて溜めねばなりません。それに、あの時のように相手が動く標的であるならば、目標の速度と動き、そしてその間合いや放つ角度なども考慮しつつ、もっとも適した瞬間や位置を選ばなければならない。撃ったはいいが掠りもしない――というのでは、話にならないでしょう?
昨日もあの刃の大きさならあれでぎりぎりの間合いです。あれより早くても遅くても、きっと全然当たらなかったと思いますよ」
「臣…。『気』というのは何だ?」
篠懸が首を傾げる。
「うーん。なかなかうまく言えませんがね…。何かを成そうとする時の気合や気迫――というのに割と近いですかね。いや、むしろ身体や心を動かす原動力とでも言いましょうか。
つまるところそれは、普段は目に見えない内なる力でしかないのです。でも、それを一部とはいえ体外へ飛ばしてしまうわけですから、撃てば多かれ少なかれ体力を消耗します。ですからあまり多用はできないんです。私も駆け出しの頃に一度それで失敗しています」
臣は苦笑した。
「どういうこと?何があったの??」
興味を剥き出しにした氷見が、ぐっと身を乗り出した。
「使いすぎて敵地の真ん中で立てなくなった」
「な、何で臣、生きてるの!?」
「仕方がないので、ずっと物陰に這いつくばって隠れていた」
二人は声を上げて笑った。
「何やら難しいものなのだな」
眉間を寄せた篠懸が顔をしかめた。
「だから初めにそう申し上げたでしょう?で、やり方はですね…」
臣は、指先で摘んだ鉛筆をちょうど二人の目の高さで水平に構えた。
「まず得物をしっかりと構え、その上に気を乗せるような感じで集中します。体の芯からこみ上げるものを感じたら、それを形として思い描くようにするといいですね」
昨日と同じ白光の糸がふわりと立ち上がり、少年たちの胸はわくわくと踊った。
「そのまま集中し続けて、ある程度が溜まったら、目標へ向けて一気に…」
大きく息を吸い込み…。
「放つ!!」
さっと鉛筆を薙ぐと、放たれた小さな気は、真っ直ぐ庭の中央へ飛び立った――と思った瞬間、滑走するツバメのように向きを変え、片隅でひっそりと咲いていた梅の花を一つだけ弾いた。
「うわあー!」
「すっげええー!!」
二人が歓声を上げる。
ふと、篠懸はまじまじと臣の手に残る鉛筆を眺めた。
「壊れなかったな…鉛筆」
「あの程度なら大丈夫」
にっこりと笑う臣。
「でも、力加減を誤ると…」
再び臣は気を溜め始めた。しかし、今度は先ほどのような小さなものではない。鉛筆全体が白いうねりに包まれている。
臣はもう一度光を放った。
びゅっと空を裂いた飛燕は同じようにまた途中で向きを変えたが、今度は篠懸の腕ほどもある梅の木の枝をばっさりと落としてしまったのである!
そして――。
息を呑む二人の前に差し出された鉛筆は、パキン!と乾いた音を立てて、粉々に砕けてしまったのだった。
「!!」
「ね――?このように、与える力が大き過ぎると得物自体が壊れてしまうんです。相手だけではなく、撃った本人と使った得物――そのどちらともに大きな負担がかかる危険な技とも言えますね。
斯く言う私も、飛燕を撃つなど本当に久し振りで…。恥ずかしながら昨日は加減を誤ってしまいました。威力も若干弱かったようですし、速度の方ももう一つといったところ。我ながらよくもここまで腕を鈍らせたものです」
臣は苦く笑った。
(腕が鈍ったって、あれで…?嘘だろ!?)
氷見は目を丸くした。
「はいっ。では、飛燕の話はこれにておしまい!お粗末さまでしたー」
臣はぺこりと頭を下げた。
「すごい!すごーいっ!!」
盛大に手を叩いて子どもらは大いにはしゃいだ。
が――。
「ああ…。お世話になっているお屋敷の庭木をこんなにしてしまって…。どうなさるんです、これ?」
どっかりと組んだ胡坐の上に頬杖をつき、堅海はこれ見よがしのため息をついた。
いつの間にか、隣の縁側から堅海と愁が覗いている。
「おまえたち、いつからそこにいたんだ?」
「最初からいましたが」
しれっと嘯く堅海の横で、愁がくすくすと笑った。
「か、片付ければいいんだろう、片付ければ…!」
むっとして立ち上がると、横から氷見が顔を出した。
「俺が見せてって頼んだんだもん。俺がやるよ!」
「私もっ」
嬉しそうにそう言うと、篠懸も氷見を追って駆けていった。
やがて――。
「全部おまえのせいだぞ、堅海」
子どもらの姿が見えなくなると、ぼそりと臣はそう呟いた。
「は?私ですか?」
きょとんとした顔が振り向く。
「あのなあ、私がかつて傭兵だったというのは、表向きには伏せてある話だ。陛下からも決して他言無きようにと固く仰せつかっている。それなのにおまえは皆の前でべらべらと…。お陰でこのざまだ。今のだってもう一度見せろと、それはしつこく強請られたんだぞ?」
「はは…。あははは!」
それまで俯いて堪えていた愁も、これにはつい吹き出してしまった。目尻には涙がうっすらと浮かんでいる。
「ずっと臣を誤解していたかもしれませんね、私は」
それとなく愁は涙を袖で拭った。
「誤解…?」
「だってあなた、いつも会議で他の方と喧嘩ばかりなさるじゃないですか。随分手厳しい方だなって――私なんか、ちょっと怖いぐらいに思ってましたよ」
まだ愁は肩を震わせている。
「人は見かけに依らないとか言いますしね」
堅海の言葉に、臣はまたうんざりと肩を竦めた。
「またおまえは…。どういう意味だ、それは。私がどんな見かけだと言うんだ?」
「いえ、別に。でも愁の言うことは分かります」
堅海は声を落とした。
「私の知っていたあなたと、今のあなたはどうやら別人だ…」
短いため息をついて顔を上げると、堅海は素直な気持ちで真っ直ぐに臣を見据えた。
「あの時あなたは、私の目の前で友を斬った」
「か、堅海…!」
慌てて諌めようとした愁だったが、もはや堅海は言葉を止めようとはしなかった。
臣はじっと耳を傾けている。
「覚えておいでかどうかは分からないが…。あの百雲の南側にある小さな集落でのことです。当時、私は補給部隊にいました。まだ二十一になったばかり。ほんの駆け出しの頃です。あなたは既に紗那軍の間では有名人でしたよ。賊軍がとんでもない化け物を飼っている――とね。
そんなある日、そこに突然一人で現れたあなたは、姿を見せるなりいきなり彼を斬り捨てた。この私の目の前でね…ほんの一瞬の出来事でした。
その僅か半年後、水紅様の皇子付きであなたが楼蘭に来られたときは、本当に複雑な気持ちでした。憎いというより悔しかった。あの時、友を斬った敵を前に、恐怖に駆られて動けなかった悔恨の念。そして、今、目の前にいる仇に手が届かないという現実。友の無念を晴らすことも、あなたを許すこともできない自分…。そのどれもが本当に悔しくて仕方がなかった…」
すると――。
「そうか、あの時の…。斬った楼蘭兵の後ろで震えながら槍を構えていた若者――あれが堅海だったか…。残念ながらしっかり覚えているよ」
臣は僅かに頬を微笑ませた。
「あの時、恐怖に駆られたのは何もおまえだけじゃないさ」
「……?」
「あの時はこちらが退いたんだ。おまえ、やはり見えていなかったんだな」
「どういうことです?」
言っていることがまったく分からない。
正直、あの時のことは何も覚えてはいないのだ。
「あの時な…。槍を構えるおまえの足元を、なぜか赤ん坊が這っていた。こちらは散々人を斬った後で、体中に返り血を浴びている。おまえはと言えば、正気を失ったかのようにぶるぶると震えていて…それはものすごい形相をしていた。でも――足元の赤ん坊は、そんな我らの間でなぜか楽しそうに笑っているんだ。
おまえの様子がおかしいのにはすぐに気付いた。放っておけばその勢いで目の前の赤ん坊まで斬ってしまいかねなかった。そして…昨日も少し話したが、あの頃はちょうど私も荒れていた時期でな、他人はおろか自分の命の重さすら分からない状態だったのだが――。どういうわけかあの赤ん坊を見た途端、そこに命の重みというものを感じてしまった。おまえがいつその槍を振り下ろすかと思うと気が気じゃなかったよ。この子を救わねばと…守らねばならないと――あの時、なぜか強くそう思ったんだ。そしてそれに気付いてしまったら、もう…。大勢の人の血に染まった自分自身が恐ろしくて仕方がなかった。どれだけの命を奪ったか分からない我が身が、とてつもなくおぞましく思えた。本当に怖かった。剣を持つ手が震えたよ…」
深いため息を交え、臣は言葉を続ける。
「気付いた時には、私は赤ん坊を抱いて逃げ出していた。敵前で背を向けるなど、それまで考えたこともなかったがな」
ついに堅海はがくりと手をついた。緊張が一気に解けた――そんな気分だった。
「そ、そう…だったんですか…」
ほっとした。肩の荷が急に軽くなっていく気がした。
「あの子が私を引き戻してくれた。あのまま修羅に身を置き続けていたなら、それこそ私は…。今頃は、本当の化け物に成り下がっていたかもな。理性も感情も…人らしい心はおよそ失くして、ただ人を斬り殺すだけの化け物に。今、私がこうしていられるのは彼女のお陰だ。心からそう思う」
いつの間にか戻って来た氷見と篠懸が、神妙な顔で俯いている。
小さく笑って臣は二人の頭に手を置いた。
「氷見。おまえに話がある。後で私の部屋に来い。いいな?」
* * * * * * * * * * * *
「良い話と悪い話があるんだ、多分」
「多分?」
氷見はきょとんと首を傾げた。
「ああ。ひょっとすると悪い話ばかりなのかもしれんが…」
臣の顔色は冴えない。
「一体何なんだよ?そっちが呼んだんだろ?」
やおらに臣は立ち上がり、開け放ってあった庭の障子をそっと閉めた。
「先日な…紗那の皇子と姫皇子が黄蓮の内裏へお越しになった。その時に、ちらっと見掛けたんだがな…」
胸が、どくんと大きな音を立てて震えた。
「あいつ…夜叉な、生きてるぞ。おまえの相棒だろう?」
息が止まりそうだった。声も出なかった。
(雲英…。雲英が…生きて――)
目の周りがじんわりと熱くなった。
「但し…だ」
臣は氷見の瞳をじっと見つめた。
「紗那の軍服を着ていた。皇子の護衛の中にいたんだ」
「え…?」
血の気が引いた。
なぜ…?
なぜ雲英が紗那軍に?
俺たちをひどい目に合わせた、あの紗那軍に…?
「個人的な情報筋があってな、かの国の情報は多少なら持っている。何度かおまえたちの噂も聞いたし写真も見たことがあるが、やはりあれは夜叉だったろうと思う。髪も赤かったしな」
嬉しいのになぜか不安でたまらない…。
雲英。
おまえは一体何を――。
顔を両手で覆い、氷見は愕然とうなだれてしまった。
だが、ふと思い立って顔を上げ、
「あの、一緒に女の子はいなかったか!?そう…篠懸みたいな髪の色をしてて、背はもう少し高くて…」
「いや、残念だが彼だけだ」
「そっか…」
そう呟いたきり、氷見は暫し何事かを考え込んでいるようだった。
と――。
「な…んだ。じゃあ…やっぱ姉ちゃんも生きてるんだな…」
ほろりと憂いが解ける。
「何だ?姉上??」
頷いた頬はまだ少し涙で濡れていたが、臣を見る顔つきには何か確信めいたものが宿り始めたようだった。
「夜叉――あいつ、雲英って言うんだけどさ。雲英って奴は、いつだって姉ちゃんの…李燐のことしか頭にないんだ。李燐のためなら何でもするんだよ。他の事は何にもしないくせにな」
濡れた顔をごしごしと拭い、ようやく見せた笑顔には希望めいたものさえ見えた。
「李燐の前であいつが負けるはずなんてない。俺たちを嵌めるほど賢くもない――となると、姉ちゃんはきっとあいつらに…!」
氷見は拳を握り締めた。
「囚われの身ということか…」
しっかと頷くその拍子、拭ったばかりの頬の上をまた一筋の雫が滑っていった。
「あともう一つ。今度は悪い話の方だが…聞くか?」
差し出された手拭を受け取り、氷見はぎゅっと瞼を押さえた。
「ここへ来る前に、所用で紗那に立ち寄った。銀鏡の様子も見てきたが――」
そこまでで臣は黙りこんでしまった。その先を口にするのを躊躇っているのだ。
障子越しに木々が風に揺れる。それ以外の音などない。ひどく重い沈黙だけが、ひっそりとそこを支配していた…。
氷見はじっと臣を見ている。
ただ真っ直ぐに。
ひたすらに。
「俺は大丈夫だよ、臣。言ってよ」
ようやく意を決し、臣は頑なに自分へ注がれている瞳の奥を覗いた。
そこに強さは宿っているか。
彼の心は震えてはいないか。
いや、臆病なのは、むしろ自分か…。
「里は壊滅的だ。焼き尽くされて跡形もない。だが…おまえの仲間の遺体は、そのままそこに放置されていた。その身は腐敗し、無残に獣に喰い荒らされたままで…な」
「……」
ぐっと眉を結び、氷見は握り締めた自らの拳を睨んでいた。涙を溢すまいと耐える肩が小刻みに揺れている。悔しい気持ち。悲しい気持ち――そのすべてを力尽くで噛み殺し、氷見は気丈に自分自身を保とうとしている。
静かに立ち上がり、臣は改めて氷見の傍に膝を付いた。
「我慢などすることはない。おまえ、まだ十五だろう?自分を殺すな。いいんだ、泣いても。辛さを押し込めるな」
肩を抱き寄せてやると、堰を切ったように涙があふれた。
氷見は声を殺して泣きじゃくった。しゃくりあげた嗚咽が、臣の胸から小さく漏れる。
「おまえたち銀鏡の鬼には、実は私も返しきれないほどの恩がある。目にした者はすべて火葬し、弔ってきた。こんなことしかしてやれずに…すまんな」
臣の胸に顔を埋めたまま、氷見は何度も首を振った。
「ううん…。ありがと、臣…。ほんと…ありがとう」
涙でくぐもった声が掠れている。
「俺たち…いっつもそうだ。人間じゃないって言うんだ。みんな、要らないって…要らない命だって…そう言うんだ。弔ってくれる人なんていないんだよ…。喜んでるよ、みんな…。きっと――」
やりきれなかった。
子どもの口から聞くような言葉じゃない。そう思った。
要らない命――?そんなものがあるはずもない。どれも、いつ幸せになってもいいはずの命だ。
それを彼らは…。
「さっき話した赤ん坊な…。おまえたちに託したんだ。おまえたちの集落の近くに置いてきた。銀鏡の子どもたちが彼女を連れて行くのを見た。あの子が今どうしているのか。あの遺体の中にその成長した姿があったのか。それは分からない。何をしてやれるでもない私が知る必要もない。だが、感謝はしている。彼女にもおまえたちにも」
「名前…。名前とか分からないの…?」
「いいんだ、もう…」
臣はふっと笑った。ひどく寂しそうな横顔だった。
「生きていれば六つか七つ。信じるさ…。それでいい」
* * * * * * * * * * * *
「そんな…!おまえ、そんなこと!!ならば篠懸様は…。あの方をどうするつもりだ!?」
堅海は拳を震わせた。
「だからこうして頭を下げている。身勝手と言われればそれまでだが…」
「やめろ、愁!皆、無事に戻った、それで良いと言ったのはおまえだろう!?」
「すまない」
愁は床に手をつき、深々と頭を下げた。
「やめろと言うんだ!!」
やり切れぬ思いに胸を掴む。
それでも、愁は…。
「あれほどおまえに、もしも何かあったらと釘を刺されていたのに、忠告を無視して出掛け、事が起こった。無事かどうかなど問題じゃないさ。万が一の場合の責は私一人がが負うと…あの時もそう言ったろう?」
「だが、ここでおまえがいなくなればあの方は…!!それに、そんなことを上に申し上げて、ただで済むとも思えん!それこそ、おまえ――」
「それも已むを得んな」
「愁!!」
堅海は更に声を荒げる。
いたたまれず、愁は目を背けた。
いつにも増して一本気な姿が嬉しかった。やはり堅海は――彼だけは、もっともかけがえのない友なのだと心から思う。その友に、いつも心配ばかりをかけている自分。
だが、それもこれが最後かもしれない――。
「昨日の朝だって篠懸様や氷見に、勝手な行動は慎めと偉そうに説教をしたばかりだ。それを反故にするわけにもいかん。これで教師だからな、私も。後のことはおまえに任せる。篠懸様を頼む」
「なぜだ!!なぜそういつも一人で決めてしまう!?なぜ全部一人で背負おうとするんだ!なぜ…どうしてそうも頑ななんだ、おまえは!!」
「いつも迷惑ばかりですまんな…」
切なさがこみ上げる。これほど自分は恵まれていたのかと改めて思う。
堅海の――今生無二の友である堅海の、真っ直ぐな心が胸に痛い…。
「……」
やがて胸を掴んだ手を離し、堅海は糸が切れたようにへたり込んでしまった。堅海は、あまりに無力な己を責めていた。
日々これほど傍にいながら、友一人も救ってやれない…そんな己を。
腹心を引き留める言葉の一つも持たない自分を――。
その時、不意に襖が開く。
「大きな声で…。廊下にまでまる聞こえだ」
現れたのは臣であった。
「臣…。あなたが都へ戻るときに、私もご一緒して構いませんか?」
「こちらは別に構わんが」
事務的に答えて、臣は庭側の障子の柱に背を預けた。
再び愁は堅海の正面に向き直った。
「堅海、もう一つだけ私の我侭を聞いてくれないか…?このことを篠懸様に話せば、またきっと深く悲しまれる。おまえが許してくれるなら、私はあの方に黙ってここを発ちたいと思う。どの道、辛い思いをさせてしまうことに変わりはないが、後のことはどうか…」
「……」
もはや堅海は何も答えなかった。
うなだれた表情は窺い知れない。
だが、きっと――。
臣はため息をついた。
「随分と勝手な話だな。だがもう手遅れだ、愁」
言うや否や、臣は勢いよく庭の障子を開け放った。
そう、そこには。
「しゅ…う…」
あろうことか、庭には篠懸本人がいたのである。
見開かれた瞳からは止め処なく涙が流れ、縁側に付いた小さな手には、いくつもの雫がこぼれている。
堪らず愁は駆け寄った。
「皇子様…」
「私を…私を置いてどこへ行く、愁…!なぜだ?なぜ愁が…!!」
我が身に縋る愛しい皇子の髪を、愁は何度も撫で続けた。
「私はあなたの身を任されております。そのあなたをみすみす危険に晒しておいて、何もないというわけには参りません」
「い…嫌だ…。嫌だっ!!どこへも行くな、愁!危険などなかった!何もなかったのだ!私は何も見てはいない!!」
「どうか…お聞き分けください、篠懸様」
「嫌だ!絶対に嫌だっ!許さんぞ、愁!!」
耳を塞ぎ、感情的な声を上げる。その拍子に涙はまたぼろぼろとこぼれ、小さな肩はしゃくりあげて震えた。
それでも、ついに――。
後退り、床に両の手をついた愁は、自らの仕える主人の前に深々と平伏したのであった。まさしくそれは、篠懸皇子付きたる愁の揺るぎない決意の形であった。
「い…や…嫌だ…。嫌だよ…愁…!嫌だあああっ!!」
伏した背中に縋り付き、篠懸は更に大きな声で泣きじゃくった。日ごろあれほど大人びた彼が、人目も省みず明け透けに取り乱す様は、誰の目にも痛い。
「何もなかったよ…ほんとだよ。ほんとなんだよ…ねえ、愁…」
何度も肩を揺すりながら、うわごとのように繰り返す。
伏せた愁もまた唇を噛み締め、懸命にこぼれ落ちるものを耐えていた。
が。
「ええ、仰るとおり!何もありませんでしたよね、篠懸様」
やおらに腕を組み、臣はいつもの涼しい顔で平然と言い放った。
「……」
すっかり涙でぐしゃぐしゃになった顔が臣を仰ぐ。
「臣殿…」
ようやく堅海も顔を上げた。
「まったく皆、大袈裟な…。こちとら日ごろの運動不足が解消できたと密かに喜んでいるぐらいだ。それに、この私が力を貸して万が一などということがあるはずもない。このとおり皆無事だ。誰も掠り傷ひとつない。他に何が要ると言うんだ?」
臣は、さも不愉快だとばかりに鼻を鳴らした。
「少々何かが起きたからといってそれが何だ?尋ねられもしないのに、何もかも馬鹿正直に上へ報告する必要もない。それでいちいち首が飛ぶと言われたら、私など疾うの昔に死んでいる。
大体おまえたち、ここへ何をしに来た?篠懸様の療養に来たんだろうが!こうも毎日篠懸様を泣かせて何が癒やせるものか、馬鹿者が!!」
固く口を結んだ愁は、膝の上の拳を睨み続けている。
「もうこれ以上この方を泣かすなと言っているんだ、愁!誰も望まぬことに、何を意固地になる必要がある!」
苛立たしげにそう言うと、臣はじっと愁を見据えた。言葉の方は相変わらずきついが、込められた思いは皆と同じだ。
すると――。
「もう…敵わないな。みんな強情で…」
愁は肩を竦めた。こみ上げたものを気取られぬよう気丈に笑顔を作る。
「おまえに言えた義理か」
腕を組み直した臣が呟いて笑う。
安堵に潤む胸で、今一度愁は愛する皇子を力いっぱい抱きしめた。細く小さな体から彼を戒めていた悲しみが嘘のように消えてゆく…。
素直に身を預け、篠懸は静かに瞳を閉じた。
「愁…」
囁かれた声は、深い安らぎに満ちている。
「何もありませんでしたよね…」
抱いた手に力を込めると、まだ涙顔の篠懸は幸せそうに微笑んでいた。
* * * * * * * * * * * *
冴え冴えとした銀の月が、空のてっぺんに浮いている。
物音を立てないように注意を払い、紫苑はそっと屋敷を出た。
向かう先は、ここから少し離れた小高い丘。その丘から突き出た岩の上がいつもの場所だ。
足元の草叢に濃い影を落とし、紫苑は静かに歩いていった。
丘の上には大きな桜の木がそびえている。精一杯両手を広げても、幹の半分も抱けない。そんな山桜の老木だ。遅咲きの白い花は今少しずつ散り始め、丘一面を花吹雪がさらさらと舞っている。
ふと見ると、その根元に臣がいた。
月を臨みながら、まるで月明かりを避けるように。
そして巨木の黒い影にその身を深く潜めるように。
舞い散る吹雪に見え隠れする静逸な姿は、なぜか妙に儚く、昼間の彼の精悍さや明るさは、すっかり形を潜めて…。
「……」
なぜか急に心細い気持ちに囚われ、紫苑は瞬きも忘れて立ち尽くすのだった。
閉じられていた瞼がゆっくりと開き、穏やかな眼差しがぼんやりと紫苑を見た。鋭さも厳しさもない深い瞳だった。
「お邪魔かな?」
問われて紫苑は小さく横に首を振った。
「いえ、臣様こそ…。紫苑がここにいても構いませんか?」
「ああ、構わんさ」
臣は口の端で笑った。
「あの…」
声を掛けたはいいが、次の言葉が出てこない。
ただ――。
本当に不思議な人だと思った。
あれほど強く気丈な中に、今、目の前にあるこの静けさ。まるで舞い散る花びらと一緒にどこかへ消えてしまいそうな気さえした。
これは寂しさ?
それとも孤独…?
紫苑はしょんぼりと俯いた。
「どうした?」
恐る恐る顔を上げる。
「いえ…。あの…なぜそんなにお寂しそうなのかな…って…」
つい口をついたのは、ひどく不躾な質問だ。
それを尋ねてどうしようというのか――。
「あ…。いえ…すみません。何でもないんです…ごめんなさい」
臆する紫苑に臣はくすりと笑った。
「そう見えるか?」
「え…あの…。は…い」
紫苑の視線が再び足元に落ちる。
「月明かりが嫌いでな…」
不意に臣は月を見上げた。
「あの下にいると、まるで自分の胸の中まで照らされる気がする。罪に濡れた我が身と、狡猾な生き様――そのすべてを裁かれるような気になる。堪らないんだ。自分のすべてが許せなくなってしまう」
彼の罪と狡猾な生き方――。
紫苑には、その言葉の意味がよく分からなかった。けれども、彼の胸に棲んでいるのは、やはり孤独だ――そう感じた。
「こうしていると昔のことを思い出す。あの頃もやはりこうして…。物陰からいつも月ばかり眺めていた。何も語らず、ただじっと…。そこにあの方さえあれば、私はそれだけで…」
不意にぴたりと口を噤み、臣は自らをごまかすように髪を掻きあげた。
「お喋りが過ぎた」
寂しげな横顔が呟く。
返す言葉もなく、紫苑はただ曖昧な微笑を浮かべるのだった。
と――。
「ときに紫苑。おまえ、妙な術を使うな?」
口調は、既に普段の彼に戻っている。
「え…と…。術…ですか?」
紫苑は首を傾げた。
訝む眼差しが、真っ直ぐに紫苑を貫いている。
「あの時、足元から刀を抜いたな?」
たちまち紫苑はびくりと凍りついた。誰にも見られていないはずだった。
いや、本当は――。
「あの…。は、はい…」
できることなら、こんな自分は誰にも知られたくないと思っていた…。
「何だ、歯切れが悪いな。今更だが見てはならぬものだったのか?」
「……」
にわかにうろたえ、困惑の色を浮かべ――。しかし、紫苑は急に神妙な顔になって向き直った。
「臣様、ごめんなさい。あの刀――あの時壊れてしまったあの刀、あれは紫苑の責任なんです!」
紫苑は深々と頭を下げた。
「何?どういうことだ?」
「刀を抜くの、嫌なんです…本当は。でもあの日は、遊佐様がそうするように、と――必要と思ったら迷わず力を使うようにと、そう仰って…。
でもあの時、紫苑はやっぱり抜くのを迷ったんです。それであのように…。なぜか紫苑は生まれたときからずっとこういうことができるんです。誰に習ったわけでもありません。ですから、術…とかそういうのではないと思います」
紫苑は膝を付き、指先で、とん!と足元の地面をを叩いた。すると、見る間に土は液状に溶け、そこからあの奇妙な刀の柄の部分が、すっと迫り出したのである。
「!!」
柄を一気に引き抜くと、現れたのはまさしくあの刀。
独特な形状。
剥き出しの鋼の柄。
どこもそっくり同じだ。間違いない。
そして刀身が離れた途端、液化していた地面ははすぐにもとの土の状態に戻った――。
それは、臣が昨日山頂で目撃した光景そのものだった。
そう…あの時も、武器を求めた氷見に、紫苑は密かに地面から刀を抜いて差し出したのである。
だが紫苑の考えるとおり、他の者はきっと目にしてはいない。皆、怪鳥に気を取られていたからだ。
「術でないとしたら、おまえ――。紫苑、おまえは一体何者だ?」
突き立てられる眼光の前に成す術もなく、紫苑はおろおろと目を泳がせる。
ここで正体を打ち明けてしまって良いものだろうか?
彼は愁のようにこんな自分を受け入れてくれるだろうか…?
「あの…」
結局言葉に詰まり、紫苑はまた俯いてしまった。
「おどおどせずにはっきり物を言え!まったく、睦みたいな奴だな!」
臣は短いため息をついた。
「では、別なことを尋ねよう。他にも何か出せるのか?いやそれよりも、なぜ刀を抜くの嫌う。あのような芸当、そう誰にでもできるものではないぞ?」
「他の物は出せません。刀だけ…。でも…だから怖いんです。人を傷つけるものだけを造り出し、それこそ、どこにいてもそれを手にすることのできるこの能力を使うのが。なぜこんなこと!こんな力、要らない…!!」
感情的に吐き捨てると、紫苑は両手で顔を覆った。小さな肩が震えている。
「ふむ…。なるほどな…」
投げ捨てられた刀を手に取り、臣はその隅々をまじまじと眺めた。
(妙な刃の形状。無骨な刀身。剥き出しの柄…。一見、形はそっくり同じようだが…)
立ち上がり、振り上げる。頭上から直下へ薙ぎ下ろしてみると、手前に突き出していた桜の枝が、ばさりと音を立てて落ちた。
(いや、この感触――あの時のものと若干違うな。硬度が上がっているのか…?)
にわかに眉を寄せた臣は、紫苑の傍に片膝を付くや否や、その顔を覆っていた手を無理矢理に引き剥がした。
「…っ!!」
言葉はない――。
ぎくりと表情を凍らせ、紫苑は瞳を激しく戦慄かせた。
暫し無言のまま二人はじっと見つめ合っていた。臣の眼はその奥に一層の鋭さを孕み、怯える紫苑を否応もなく竦ませる。
「……」
何もかもが彼の手の内にあるように思え、もはや紫苑は声を出すことも叶わなかった。
とてつもない恐怖と不安が胸を過ぎる。
(怖い――!!)
思わず目を瞑り、紫苑は更にぎゅっと身を強張らせた。
「生まれたときからできると言ったな…。おまえ…もしや人ではないのか?」
「あ…」
紫苑は小さく声を漏らした。
(見破られた…!!)
やがて掴まれた手が開放されると、同時に紫苑はがくりとへたり落ちた。
こうなっては観念するほかはなかった…。
「臣様…。し、紫苑は…紫苑は実は、自動人形なんです…」
「自動人形!?」
これにはさすがの臣も驚いたようだった。
自動人形というものについてまるっきり知識のない臣ではないが、それでもまさかこのように生き生きとした――いやむしろ、彼女のように、まるで普通の人間と隔てのない自動人形など、見たことも聞いたこともなかったのである。
「ま…何にせよ、楼蘭のものではなさそうだな」
低く呟いた後、臣はふっと眉を解いた。先刻の稜々たる迫力はすぐに消え去り、また元どおりの彼に戻る。
「……」
孤影を落としたかと思えば、不意に見せる朗らかな微笑み。飄逸な一面を覗かせたかと思えば、突如として慧敏に冴える瞳。また、時に肌に突き刺さるような激しい凄気を放ったかと思えば、すうっと穏静を取り戻すその声も――そんな臣の姿は、一層紫苑を戸惑わせるのであった。
てっきり、もっと詰責されるものだとばかり思っていた――。
「あの…よく…分かりません…」
「性能がどうのという問題ではない。まるっきりおまえは人と同じだからな。紗那で見た自動人形とは天と地だ。愁や堅海は知っているのか、このことを?」
紫苑は小さく頷いた。
「愁だけです。知っているのは」
「だろうな。他の者――まして篠懸様になど言えることではないな」
ため息混じりに呟いて、臣は刀を紫苑の前へと差し戻した。
「あの…臣様は刀を握るとき、どんな気持ちになりますか?」
「ん…?刀を握る気持ちか…。どうだろうな。特には――と言うより、おまえ、何が訊きたいんだ?」
涼しい顔が問う。
「あの…紫苑は――刀を手にすると何か…いつも胸の中がざわつくんです。落ち着かないと言うか、おかしな衝動が湧くと言うか…。ともすれば、そのまま自分自身を持っていかれそうな…そんな感じで。うまく言えないんですけど…」
そこまで打ち明けると、紫苑は再び俯いてしまった。
「刀を握れば胸がざわざわと落ち着かない、か…。ま、分からんでもないが」
不意に臣は立ち上がり、また月を見上げた。
そこに覗いたのはあの孤独の横顔――。
「己が認めた宿敵と対峙する時、あるいは…」
臣はゆっくりと振り向いた。紫苑は瞬くことも忘れてその顔を見上げている。
二人の視線がぴたりと重なったそのとき――。
「相手を殺したくて仕方がないとき――と、言ったところか。それならばそういうこともあるかもな」
「こ…殺したくて仕方がない……とき…」
乾いた唇が恐怖に震える。
そんな紫苑の傍らに膝をつき、臣は、そのまるで人と変わらぬ柔らかな髪をそっと撫でてやった。
「自動人形と言うが、それでも立派に人の心を持つおまえだ。そう気にすることもあるまい。嫌なら抜かねば良い」
紫苑の胸で何かが音を立てて揺さぶられた。まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
「臣様は…あまり驚かれないのですね…。紫苑のこと、怖くはないのですか?」
「馬鹿な。愁はおまえの正体を知って怯えたか?」
ふっと笑って臣は立ち上がり、月灯りの下へ出て行った。紫苑もその後に続く。
天心に浮かぶ月の鏡が眩しいほどに輝き、二人を煌々と照らしている。止め処なく注ぐ花弁と純白の月光――その中に佇む二つの影…。
「おまえに一つ教えよう。人はな…己の信じるものさえあればそれで良い。誰が何と言おうとな。おまえが人間でなく、人工の産物だとしても、おまえ自身が我が身をどう感じていようとも、私にとってそれは大した問題ではない。己が見て感じたもの、それが全て。それだけが真実に足る。
私がおまえを人だと感じたなら、やはりおまえは人だよ、紫苑。隔てなどないさ。愁も同じ思いを抱いていると思うが」
紫苑はこの時の臣の言葉に融けるような救いを感じていた。悠久の残雪のようにずっと冷たく胸の中心に凝っていた不安が、じんわりと消えてゆくのが分かった…。
「己の見た真実を差し置いて、他人の言葉に踊るなど愚かな話だ。紗那の連中が氷見やその仲間たちをよく知りもしないまま鬼だ、人畜生だと蔑むの同じさ。とても許されたことではない。見えるものを見ようとしない、認めたくないから認めない――それが弱者を虐げる結果となるのなら、それは罪だろう?それのどこが人のすることだ。
これでもな…一度は人の道を踏み外しそうになった私だ。だからこそ、もうあんなことは御免こうむる。私は、私が信じるに値すると思うものだけを信じる。それでいいんだ」
紫苑は泣き出しそうな顔で微笑んでいた。また一人、自分を信じてくれる者があった――そう思うと本当に嬉しかった。
「おまえ、あの時遊佐様に言われたろう?何があっても愁を信じろ、と。どういうつもりでそう仰ったのかは知らんが、それでもおまえはその言葉に頷いたじゃないか。信じる気があるのならそうすれば良い。それでおまえはおまえのままでいられるんだろう?」
「は…はい!」
紫苑はきっぱりと頷いた。微笑んだその顔はいつもの紫苑のものだった。
* * * * * * * * * * * *
翌朝――。
「世話になった」
身支度を終えた臣は玄関先で振り向いて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。道中お気を付けて」
「……」
穏やかに微笑む愁の隣で、篠懸だけがひどく浮かない顔をしている。
臣は、皇子の前に跪いた。
「兄君と宮でお待ち申し上げております」
「うん…。あ…そうだ。あの、臣…これ…」
そう言って篠懸は、丁寧に折りたたまれた二枚の紙を差し出した。
「何です?」
「兄上と睦に便りを書いた。届けてくれるか?」
「水紅様と――睦…ですか?」
「うん。睦には大切な贈り物を貰った。嬉しかったんだ、本当に」
篠懸は、懐の小袋から霰石を差し出した。
「ほう…確かにこれは見事ですね。これだけの大きさにこの色合い――これほどの霰石はさすがにあまり見かけませんね」
「睦がな、大切な宝物を私にくれたんだ。お母上の形見だと聞いた…」
石を握りしめた手に力がこもる。
「なるほど彼らしいですね。お手紙、確かにお預かりしました」
不意に――。
こみ上げるものを堪えられなくなったか、篠懸は土間へ降り立ち、臣の首にしがみついた。
「寂しくなるな…」
臣の肩で、細い声がくぐもった。
たった二日きりのことなのに、臣とともに過ごしたこの数日は、篠懸にとって不思議と何年分にも値するほど貴重なものとなっていた。無論それは臣にしても同じで、篠懸をはじめ愁、堅海、そして氷見や紫苑さえも――今では身内同様にかけがえのない存在へと変わり始めている。
「宮にお戻りになったらいつでも会えますよ」
泣き出しそうな背中を宥めるように、そっと包み抱き締める。
その時。
「お待たせしました、臣様」
屋敷の裏手から一頭の馬を引いた久賀が現れた。氷見も一緒である。
「ああ。ご苦労だったな、久賀」
臣はすらりと笑ったが――。
「う…馬!?あなた、学者のくせに馬なんかでここへお越しになったんですか!まさかその格好で!?」
思わず口をついた堅海の声が完全に裏返っている…。
驚くのも無理はない。
楼蘭の宮廷学者と言えば、知性と教養そして品性の高さが売りである。馬を駆り野山を馳せる――そんな粗野な学者など聞いたことがない。
「悪いか?こんなに遠くへまで歩いてなど来れるものか」
「し、しかし、馬に跨る宮廷学者など、見たことも聞いたことも…。まったく、有り得ない話だな…」
頬を硬く引き攣らせ、堅海は心から絶句していた。
だが、そこへあたかも畳みかけるかのように、今度は久賀が更に信じられない言葉を口にするのである。
「あの…臣様。ひょっとしてこの馬、水紅様の…竜華――ですよ…ね…」
「は!?」
一同、ぎょっと目を剥いた。
改めてよくよく眺めれば、しなやかで無駄のない体つき、くすみ一つない純白のそのいでたち――確かに第一皇子・水紅の愛馬だ。間違いない。
雅馴と才賢を重んじる宮廷学者――その頂点ともいえる『皇子付き』。
そんな崇高な役目に就きながら…。
時期皇帝の第一側近であるはずの彼が…。
あろうことか、己が主人である水紅皇子の愛馬を、まるで我が物顔に乗り回しているという――。
居合わせた眼が一つ残らず点と化している。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。
「何だ?許可は取ったぞ?ちゃんと世話もした!」
「そ、そういう問題ですか!?臣殿、あなた――恐れ多くも皇子様の馬に…!その上、刀まで携えて…。いくら衣をお召しとはいえ、どう見ても学者になど見えませんが」
大仰に肩を窄め、すっかり呆れ果てたふうの堅海――その隣では、斜めに顔を背けた愁が、またもや声を殺して笑っていた。
「またおまえはそうして突っかかる…。だいたいな、刀については遊佐様が持って帰れと仰るのだから仕方がないだろう?だが、学者が馬に乗らぬと言うなら、ここで私が前例になってやるさ」
馬に跨り、臣は不敵に笑った。
「それはそうと氷見。おまえ、篠懸様を傷物にだけはしてくれるなよ?」
「は?何それ?」
氷見は、馬上の臣をきょとんとした面持ちで見上げた。
「嫁取り前の大事なお体だ。それをおまえ、こともあろうか手を繋いで同じ布団で眠っていただろう?」
「う…」
途端に篠懸の頬が染まる――と、同じく真っ赤な顔をした氷見が弾けるように怒鳴った。
「ば…っ!馬鹿なこと言ってんじゃねーよ!!つか、見てたのかよっ!?」
「見たぞ。しっかりとこの目で」
にんまりとしたり顔を見せた後、臣は振り向き、真っ直ぐ紫苑の顔を見た。
紫苑は――。
「……」
ただ安らかに微笑んでいた。まるで春の陽だまりのように温かな、彼女本来の優しい笑顔。もう迷いはない。
「いいか、紫苑。信じるものを守れ。それだけでおまえは生きてゆける」
「はい!」
そう力強く答え、紫苑はぱっと瞳を輝かせた。
「よし、いい顔だ。では皆、元気で」
それだけ言うと、颯爽と馬を駆り、臣は去って行った。
ともに過ごした時はほんの僅かながら、それでも、それぞれの胸に少なからず何かを残して――。
「本当に…」
「ん?」
振り向いた堅海に、愁は晴れ晴れとした顔で言った。
「本当に…まるで風のような方だな。おまえ、そう言ったろう?彼が風のように戦場を駆けた、と。風はどこで吹いてもやはり風さ。冷たい時も暖かい時もあるだろうが、それでも風だ。皆の胸をかき乱して消える風…」
清々しい思いを胸に、愁は遥かな蒼天を仰ぐのだった。
10.月の引力
「こ…この紋章は、我がゼノビア公国・ルントシュテット公の…!!」
その長剣を目にした途端、蘿月は激しい憤りに戦慄いた。血走る瞳に映るは、かつて彼が仕えた王家の証――彼がその命をもって守り続けた尊い紋標であった。
「ふん…。やはりそうか」
手元の書類をぱらぱらと捲りながら、橘は鼻を鳴らした。
「この剣をどこで手に入れたのです!?彼奴がこの紗那に潜伏しているのですか!」
息巻く蘿月に――。
「先日焼き払った銀鏡の里の真ん中に突き刺してあったそうだ。森に巣食う野犬の群れを全滅させ、更にご丁寧なことに、見せしめにとわざわざあの場に残しておいた子鬼の死骸を残らず焼却してな。さしずめこれは墓標のつもりだろう。まったくお優しいことだ。涙が出るね」
至極何の感情もない顔で、橘は手にしていた書類をばさりとテーブルへ投げ置いた。
「一体いつの話です、それは!!」
「国境の警備が今朝方見つけてきた。つまりは、昨晩のことだな」
橘は、懐から取り出した煙草をおもむろに咥え火をつけた。
(臣――!!)
蘿月は拳を震わせた。
「まだいくらでも機会はある。蘿月よ、そう躍起になるな」
嘯く唇の端が吊り上がる。
「彼はこちらに面が割れているからな。まさか紗那に長居などできぬはず。真夜中に忍んで来ているのがその証拠だ。顔を見られるのを嫌ったんだろうよ。貴様がそうして悔しがったところで、今頃彼はとっくに国境を越えて楼蘭に戻っているさ」
「ですが、私は!!」
蘿月は力任せにテーブルを殴りつけた。
その衝撃で卓上の灰皿が大きな音を立てても、平然と蘿月を一瞥した橘は、また先の書類に目を落とす。
「分かっている。六年越しの仇を討ちたいと言うのだろう?確かにこちらとしても、あの皇子付きを亡き者にして貰えるのならありがたい。調査書を見るまでもなく実際に見えても感じたが、あの強かさと皇子への忠誠心、それに加えてこの怪しげな経歴となると――。彼がいつか、私の行く手を塞ぎにかかるであろうことは疑いない。
だが今、両国間に波風を立てるわけにはゆかぬ。大事を運ぶには万全を期さねばな…。なに、必要な時にはちゃんと貴様に討たせてやるさ。そう急くな」
橘は、臣が敢えて残していったであろう剣を手に取った。
「それにしても、こんなものをわざわざ残して行くとは…。ついにあちらも喧嘩腰ということか。もはやいつかのように黙って首を差し出してはくれんぞ、蘿月」
橘はうっすらと瞳を細めた。
「さて…。果たして彼が討てるのかな、貴様に」
「橘殿ッ!」
即座にかっと眼を滾らせ、蘿月は一層声を荒げた。
「聞けば、彼は相当な手練れだそうじゃないか。例の通り名をちょっと出しただけで、あの猊倉のご老体、目を白黒させて震え上がったぞ。私はまた、あのまま天つ国へ旅立たれるのかと思った」
そう言って橘はせせら笑った。
「猊倉様は――猊倉中将殿は、彼奴と剣を交えたことがおありなのですか」
「いや…。だが戦場で何度か目にしたことはあると言っていた。時として摩訶不思議な技を操り、目にも留まらぬ鮮やかさをもって敵を断つ――。なんと居合いのたったひと振りで、味方ごと優に五人は刻んだそうだ。彼の後には何も残らんとさ」
橘はうっとりとため息をついた。
「しかし――それが本当ならまったく素晴らしい。出来ることなら手に入れて、我が御神楽に加えてみたいものだ。だが、楼蘭の皇子付きとなるとそういうわけにもいかんだろうな。実に残念だ」
蘿月は、懐に忍ばせていた赤い薬包を取り出した。
(月華香から生まれし『御神楽』――。神楽獅子衆か…)
蘿月を見る眼差しの端で、怪しい光がぎらりと煌めく。
「それが必要ならいつでも飲めよ。望むままいくらでも神楽が舞えるぞ。別に貴様でなくとも、その薬さえ服用すれば、彼を倒すぐらい造作もないことだ。だが飲んだら最後、後戻りはできん。驚異的な身体能力と引き換えに、一生月華香の虜となる。そら――そこの千歳のようにな」
そうして顎で示された扉の向こうでは、点滴を注された千歳が静かに眠っていた。
「どうかされたのですか、千歳様」
「毎度のことながら、また薬を飲み忘れたんだ。先ほどここで卒倒してな」
橘は鼻先で笑った。
「ふん。どうせわざとそうしているんだろうがな…。まったく甘い奴だ。そんなことで死ねるものか」
やがて、遠ざかる彼らの気配を悟ると、千歳はそっと瞼を開けた。橘と蘿月の会話など本当は全部聞こえていた。
(くそっ!)
感情的に腕の点滴を引き抜く。
(私は…私はこんなところで何を…。なぜまだ生きてるんだろう。どうして、私は…)
どうしようもなく涙がこみ上げた。
本当に命を絶ちたいのなら、いつも携えている刀で己の胸を突けば良いのだ。そう、それだけで簡単に楽になれる。
分かっている。
そんなことは、ちゃんと分かっているのに――。
ごろりと仰向けに寝転び、瞼に腕を押し当てる。
それでも湧いた涙はどうしても止まらなかった。こめかみを通り抜けた雫がつうっと頬を伝い、枕元へと落ちてゆく。もう一度寝返りを打ち、千歳は体を硬く丸めた。
いつも何かあるたびに、取り返しのつかぬ思いに囚われる。
己の甘さ。
己の弱さ。
どうにも贖えぬ過ちの数々。
そんなものに押し潰されそうになる。
責めたところで変わらない。
悔いたところで許されない。
もはや自分ではどうしようもない。
だから、どうか。
どうか、誰か――。
心と躯が、全霊の彼方で悲鳴をあげ、様々な感情が幾重もの渦となって全身を駆け巡り始める。
堪らず胸を掻きむしる。
消えろ!何もかも全部!!
冥境の淵に沈んでしまえ!
苦しい。
苦しい。苦しい。
苦しい。苦しい。苦しい。
苦しくてたまらないんだ。
お願い、誰か。
ダレカ。
ダ レ カ タ ス ケ テ … 。
ふと千歳は、辺りに静けさが戻ったことに気付いた。どうやら蘿月が下がったようである。
それでもそのままじっと気配を探り続けると、やがて扉が開く気配がして、聞き覚えのある靴音が近付いてくるのを感じた。
途端、言い知れぬ恐ろしさに、体が自然と強張ってゆく…。
「おまえ、いつまでそうしているつもりだ」
千歳の枕元へ立つや否や、橘はいきなり布団を剥ぎ取った。
「……っ!」
潤んだ瞳が燃える。いっぱいの涙を湛えたそれは、怒りと悲しみに染まる気丈な瞳――。
「事あるごとに感傷に浸るな、千歳。苦しむだけだと何度言えば分かる。月華香を飲めばもう戻れん――初めにそう言ったはずだ。ちゃんと選ばせてやったろう?」
震える千歳を映す瞳――その奥で、らんらんと迸り始めた狂気が嘲り笑う。そうして浴びせられた言葉は、そんな橘の内なる昂ぶりを否応なく見せ付けるものだった。
「そうさ、おまえが選んだことだ…。薬漬けになりながら、惨めに生き長らえる道をな。こうなることをおまえ自身が望んだんだ」
「の――望んでなんか…ない…っ!」
恐ろしさに耳を塞ぐ。
強気な言葉を吐きつつも、千歳はぶるぶると震えていた。その姿に、雲英と剣を交えたあの日の賢しさは微塵もない…。
現を拒み続ける両の手を無理に引き剥がし、執拗に千歳を覗き込むと、橘は尚も言葉を続けた。
「ははは…!笑わせてくれるな、千歳!!望んでいなかったのなら、今のこの醜態は何だ?居場所がないから、行くところがないから…と、おまえが泣き付いたんだろうが!ここに置いて欲しくてあれを飲んだんだろう?ならば願いは叶ったじゃないか。紗那軍特殊部隊・神楽獅子衆に身を置き、副隊長などと栄えある地位までも得、この薬のお陰で楽しい毎日だって手に入った――違うか!!いや…違うなどとは言わせん。あの日、鬼狩りと称して剣を振るい、逃げ惑う小鬼らを次々に斬り刻んでゆくおまえの顔は、それは狂喜に満ちていたからな!さぞ楽しかったろうな、無抵抗な稚児らの柔肌を裂くのは!噎せ返るほどの返り血に、あの時おまえ、興奮していたろう!?」
見開いた瞳をぎらつかせ、橘は咲笑う。
「ち…ちがっ…。そ…そんな…っ…わた…私は――っ!」
見据える瞳にみるみる涙がこみ上げた。
血の気の引いた白い顔。
痙攣する唇。
今の千歳を支配するのはとてつもない恐怖。そしてやり場のない怒り――。
橘は千歳の髪を掴み強引にベッドから引き摺り下ろした。
「さあ、千歳。お喋りは終わりだ。意識が戻ったのならさっさと任務に戻れ!!」
その足元に無様に這いつくばったまま、暫く千歳はじっと橘を睨んでいたが…。
「…っ!」
やがて、うっすらと血の滲む唇を噛み締めると、逃げるように部屋を飛び出して行った。
「まったく…。少し甘い顔をするとこれだ」
嘲るようなため息をつき、橘は再び煙草に火をつけた。
* * * * * * * * * * * *
どこをどう走ったのか、気が付けば牢へ続く階段を駆け下りていた。
きっと今、この顔は涙で濡れているに違いない。暗い石段の途中で立ち止まり、千歳は袖でごしごしと涙を拭った。
そして。
「……」
千歳は、膝を抱えて蹲った。
(あの娘…。李燐とか言ったな)
この先にいるであろう銀鏡の少女を思う。
白刃に照らし出されたあの顔。
怯えながらも、気丈にこちらを睨みつけたあの顔…。
(どこかあいつに似ていた…)
うな垂れると、ぽたりとまた雫がこぼれた。
もう忘れた。
とっくに何もかも捨てたはずだ。
なのに、なぜ今頃――。
「神の…裁き、か…」
もう一度顔を拭い、千歳はゆらりと立ち上がった。
階下の雲英の腕の中では、涙に瞼を腫らした李燐がようやく小さな寝息を立て始めたところだった。
小さな格子窓から、月が二人を見つめている…。
純白の柔らかな光が棒になって差し込み、身を寄せる二人を優しく包み込む。
音のない静かな晩だった。
ぼんやりと月を仰いだ雲英は、不意に手を差し伸べた。掌を染めた白銀の輝きに触れ、嬉しそうに目を細める。その顔は、まるであどけない幼子のそれだ。
突如。
「!」
何者かの気配を察した雲英は、息を潜め耳を澄ました。
カツン。カツン。カツン…。
ゆっくりと階段を下りる靴音が、少しずつこちらへ近付いてくる。
李燐をすっぽりと腕に包み、雲英は薄明かりの漏れる石段をじっと見据えた。
現れたのは、角灯を下げた千歳であった。
「……」
じりじりと体の向きを変え、自らの背で李燐を庇う。その間も、雲英の視線が千歳から外されることはない。
「ふっ…。おまえがその姫の騎士というわけか。雲英――とか言ったな、確か」
肩を竦める端正な顔に憂いが浮かぶ。
「守る者があるというのはいいな…。羨ましいよ」
千歳は格子の前に座り込んだ。ひっそりと肩を落すその姿は、昼間雲英と剣を交えた彼とはまるで別人のような儚さだ。
「……」
何も答えない代わりに、なぜか雲英は結んでいた眉を解いた。途端に現れた赤子のような眼差しが、きょとんと千歳を見つめ返してくる。
「妙な奴だな、おまえ」
思わず吹き出すと、雲英は不思議そうに首を傾げた。
「おまえの――銀鏡の夜叉の噂は、かねがね耳にしている。あたかも妖麗に舞いながら、その刹那に獲物を狩る。燃える鬣と真紅の瞳を持つ羅刹――そう聞いた。だがそれは、目の前にいるおまえとはまるで似ても似つかぬな」
千歳を見る無垢な瞳に昼間の激しさはない。無表情な中に強い敵意だけを露にしたあの時の彼の顔を、今再び思い起こせばやはりまるっきり別人だ――と千歳は思った。
「昼と夜とで違う顔か…。おまえの方はどこか私に似ているようだ。あいつと私、そして李燐と雲英――か。おかしな巡り合わせだな…」
呟いて千歳はまた笑ったが、雲英にはその言葉の意味が分からなかった。
「彼女はおまえの恋人か?」
そう問うと雲英の表情が少しだけ変わった。考え込むような悩むような複雑な顔をして、じっと李燐の顔を眺めている。答えるべき言葉に迷っているようだ。
「好きなんだろ?」
言葉を改めて訊き返すと、雲英は素直に頷いた。
「ん…」
どうやら李燐が目を覚ましたようだ。
「おっと…。ついに姫を起こしてしまったな」
「!?」
起き抜けに聞こえた声には覚えがある。
瞬く間に蘇ったのは、昼間の恐怖――。
李燐はしがみつく手に力を込めた。相手の姿を見ることもできず、ただひたすらに李燐は雲英の懐で身を強張らせていた。
「すまんな、起こしてしまって」
「…?」
これがあの神速の剣を放った少年?
幾人もの兵を毅然と従えていたあの将校…?
「……」
李燐は恐る恐る顔を覗かせた。
「嫌われたもんだ。ま、それも仕方ないか」
ひどく寂しそうなその声はどうして?
この人、一体…?
「確か、千歳…様…と仰いましたよね?」
「ああ」
囁くような声で尋ねると、千歳は静かに頷いた。
僅かに見せた微笑みには、まだあどけなさも感じられる。見れば見るほど昼間の姿が嘘に思えてくる。
「雲英…。あなた、千歳様とお話してたの…?」
雲英は小さく頷いた。その顔には怒りも憎しみもない。いつもの雲英だ。
雲英と千歳が――?
不思議だった。
一体これはどういうことなのだろう?
彼は憎い仇のはずだ。なのに、なぜ…。
「敬称など要らんぞ。どうやらどちらも私と同じぐらいの齢のようだし、上司だ部下だというような間柄でもないしな」
再び雲英は千歳を見る。感情のない無表情な顔がまた首を傾げている。
そして、唐突に――。
「ち…とせ…?」
片言と雲英はその名を口にしたのだった。
「!?」
目をまん丸にした李燐が振り向く。
心底驚いた。
よく知りもしない人間と口を利くような雲英ではないのである。相手の名前だって、一度や二度顔を合わせた程度では覚えた試しがない。
まして雲英は、彼と一度剣を交え、その足元に叩き伏せられているのである。
それなのに――。
「そうだ、千歳だ。ここではそう呼ばれている。覚えてくれたか、雲英」
千歳は嬉しそうだった。
「さて…。おまえたちに二、三尋ねたいことがあるのだが、構わんかな?」
李燐は雲英の懐から這い出ると、千歳の前にしっかりと向き直った。雲英もその隣にぴたりと寄り添う。
「はい、でも…。必ずお答えするという約束はできません」
李燐はぎゅっと眉を寄せた。気丈な少女だ。
「そうだろうな…。構わないよ、それで」
ふっと短いため息をついた千歳の表情は一変。にわかに厳しさを孕み出す。
千歳は真っ直ぐに李燐を見据えた。
「さて、では――。まず、銀鏡の鬼の首領は一体誰だ?あの中には幼子ばかりがいたように思うが」
「首領というものはおりません」
毅然と答える。
「いない?では、誰がおまえたちを取り仕切っている?例えば、こちらから依頼した仕事をこなすに当たっても、そこにそれを仕切る者が必ずあるはずだろう?」
胸がどきりと鳴った。
(それを言うなら氷見だ――)
咄嗟にそう思いはしたが、李燐は返す言葉に詰るのだった。
政府や軍が持ち込む仕事は、どれも危険なものばかり。これまでだって、それで何人も命を落としている。
結果、今、里でそんな仕事をこなせる者は雲英と氷見だけ。
雲英の方が年齢は上だろうが、彼は従うことしかできない。つまり、妖からの連絡を得て、雲英や他の者に指示を出し、実質上事を運んだ中心は氷見。
李燐の大切な弟、氷見――。
「お答え…できません」
無論、その名を明かせるはずはない。
実は千歳のほうも、彼女が見せたごく一瞬の変化に気付きはしたが、すぐに平静の顔を取り戻し頷いている。どうやら深く追求する気はないらしい。
「そうか…。では質問を変えよう。『月の雫』なるものを知っているか?銀鏡に存在すると聞いたが…」
「月の…雫…?どういうものですか、それは?」
李燐は首を傾げた。
ところがである。
「……」
その言葉を聞いてか否か、なぜかその時、雲英だけが急に視線を逸らしたのである。
千歳の目は、彼のその小さな兆しをも見逃すことはなかった。
(どうも李燐の方は確かに知らぬようだが、雲英は――。今、まさか反応した…のか?)
胸の内で呟くが、顔色は変えない。二人をつぶさに観察しつつ、千歳は更に言葉を続けた。
「一説には、天空から授かった石だとか地中深くに埋もれた宝玉だとか言われているようだが、しかとは分からん。ただ、とてつもない力を持つ物質であるそうだよ。通説では、楼蘭のどこかに密かに存在するというが、この紗那からも多少なり見つかったことがある――そう書かれた古文書が先ごろ発見されたんだ」
尚も俯き続ける雲英。しかし、その挙動は明らかにおかしい。
(やはり彼は何かを知っているな…)
千歳は確信した。
「それが銀鏡だと、そう仰るのですか?」
「ああ。まあ、何分古い文献だし、暗号のようなもので書かれているのでな。もう少し読み進めて、細部を突き詰めねば何とも言えん。しかし、これまでに解読できた部分をかい摘んでみれば、恐らくはその辺りだろうと…な」
千歳は尚も観察を続けていたが、肝心の雲英がなかなか顔を上げようとしない。
「雲英――」
呼ばれて、ようやく顔を上げた雲英。
「どうやらおまえは嘘がつけぬ性分のようだな」
千歳はふっと目を細めた。
「雲英!!あなた、何か知ってるの!?」
すぐさま李燐が向き直った。
「……」
雲英は小さく首を横に振る。閉じられた口元が、更に固く結ばれる。
と――。
「ちゃんとこっち向きなさい、雲英ッ!!」
肩を掴み、再びしょんぼりと俯く顔を強引に覗き込む。なかなか手厳しい娘である。
仕方なく雲英は、瞳を上げたが――。
「……」
唇はぎゅっと瞑ったままだ。雲英はまたふるふると首を振った。
「ぷっ…くく…。あははは…!」
とうとう千歳は吹き出した。
「分かった、分かった。もういいよ、その話は。二人は本当に仲が良いな。だが恋人などとは程遠い。まるで親子のようだぞ!」
くすくすと肩を震わせる。
「こっ…恋人でも親子でもありませんっ!」
李燐が耳まで真っ赤にして怒鳴った。
「どちらにしても羨ましい話だ。親も兄弟も友も――もはや持てるすべてを失くした私から見ればな…」
千歳は短いため息をついた。
「貴重な話をありがとう。今日のところはこれで失礼する。また近いうちに差し入れでも持ってお邪魔するとしよう」
そう言って立ち上がり、千歳はひらひらと手を振りながら去って行ってしまった。
「……」
「……」
残された二人には、ただ後姿を見送るしか術がない。
「千歳って…。彼は――あの人は一体どういう人なの?敵よね、あの人。ね。そうよね、雲英?」
雲英は、いつもの真顔で頷くのだった。
* * * * * * * * * * * *
自室の窓から、千歳はぼんやりと空を仰いだ。
夜空にぽかりと浮かんだ月が無言で地上を見下ろしている。そっと窓を開ければ、ひんやりと透明な夜気が滑り込んでくる。
眠れぬ夜にいつもしているように、千歳は桟に腰掛けた。
天頂で鎮座するあの月の気高さに惹かれる。周囲の星々をも圧倒する圧倒的な存在感。夜天の頂でただ一人、孤独に孤高にいつもそこに在り、暗闇をもかき消してしまう強く清雅なその姿。
その前に何を隠すことができるだろう。
あんなふうに生きたい。あんなふうに気高く強く――。そう彼に思わせるのが月の思惑だろうか。
これが『月の引力』…?
かつて彼に、月の神秘を教えた者がある。こうして夜空を見上げれば、いつだって、ありありとその姿が蘇る。彼にとっては、誰よりも尊いその人物――それは忘れようとして忘れられるものではなかった。
穏やかに微笑み、千歳はそっと瞼を閉じた。
今も胸に残る懐かしい面影に寄り添うように…。
失くした過去の温もりにその身を委ねるかのように…。
「――実は、月と地上の生き物の体には密接な関係があると言われているんですよ」
星屑を散りばめた天鵞絨のような空の下、すらりと背の高い青年は振り向いて微笑んだ。
今宵は見事な天満月――。
真上に浮かぶ丸い月は、鏡さながらの清々しい輝きを放ち、彼らの足元へ濃い影を落としている。
佇む青年のすぐ横で、幼さの残る小さな皇子は、彼の用意した窺天鏡を興味深げに覗き込んでいた。
いつも見ている月が目の前に大きく見える。
ずっと真っ白ののっぺらぼうだと思っていた月が、実はとても変化に富んでいて、その色も白よりはむしろ灰に近いということを、皇子はこの日はじめて知った。
「どういうこと?」
窺天鏡から目を離し、皇子は澄んだ眼差しを青年へ向けた。
「そうですね…。例えば――満月の夜にしか産卵しない海の生物が実際にいるんです。でも、これってどこかおかしいでしょう?いくら水が綺麗であっても、深い海の底から月の姿が拝めるとは限らない。波に揺らいだ水の天井を、彼らがいくら仰ぎ見たところで満月かどうかすら分からない。なのに、その生物は――珊瑚の一種なんですが、彼らはどうやって満月を知るのでしょう?皇子様はどう思います?」
小さな皇子は考え込んでしまった。難しい顔で何度も首を捻るその姿を、青年は穏やかにじっと見守った。
「うーん…。では、仲間の一人が水面まで月の様子を見に行くというのはどうだ?」
再び青年はにっこりと笑った。まるで女のように美しいその顔は、煌々と注ぐ月明かりの中で、ひと際に優しい。
「それはいい考えですね。でもね、皇子様。珊瑚というのは確かに動物には違いありませんが、一旦大人になってしまえば、互いに身を寄せ合い、まるで植物のような格好に姿を変えて生涯を送る風変わりな生物です。一度固く繋がれたその身はもう離れません。さて、どうしましょう?これでは誰も月見には行けませんよ?」
再び皇子は、うーんと眉を寄せ、思案を始めたが――。
ならば…と呟いたきり、ついに皇子は黙り込んでしまった。
「降参します?」
目線に合わせて横に屈むと、皇子は素直に頷いた。
「それは、潮の干満に関わりがあるんです。私たちの住まうこの星の潮の満ち引きは、実はあの遥か彼方に浮かぶ月の引力によるものなんです」
「月の…引力…?」
そっと青年の指差す先を、皇子は目をまん丸にして眺めている。
「ええ。月とこの星は見えない力で常に互いを引っ張り合っているんです。海の水は、その影響で満ち引きを繰り返す」
再び窺天鏡に貼りついた皇子の横で、柔らかな微笑みを湛えた青年は、そのまま言葉を続けた。
「ちょうど満月の頃は大潮と呼ばれていて、もっとも海が満ちる頃合です。それを狙って珊瑚たちは一斉に産卵する。そうすることで、彼らはその子孫を大いなる潮の流れに乗せ、遥か遠くへと旅立たせてやることができる…というわけなのです」
「そうか…。ではつまり、月がなければ彼らの繁栄はないのだな」
皇子は、頭上の宙を仰いだ。
月が地上を見下ろしている。瞬く星々さえも霞ませるほど強く清らかな輝きが、今、彼方の空から我が身の上へと注いでいる。このちっぽけな自分を、凛と清かに照らし出している――。
「そういうことになりますね。でもそれは私も皇子様も同じですよ」
「え…?」
持ち前のつぶらな瞳を一層大きくして、皇子は振り向いた。
「皇子様の体の中にも水はたくさん流れているでしょう?人体は、その八割が水ですから」
「では、この私も月に…引っ張られていると言うのか?」
青年は、柔らかな皇子の髪をそっと撫でた。
「現に、満月の頃は出産が多かったり、病人の血色がひと際良くなったりするそうです。私たちは何気なく日々を過ごしていますが、こうして時に夜空を眺め、己の内なる声に耳を傾ければ、いつか月の引力にだって触れることができるかもしれませんね――」
いつも優しく微笑んでいた青年の顔を思い出して、千歳はまた涙をこぼした。
彼に逢いたくて堪らなかった。彼ならば、きっと罪に穢れた我が身を抱き締めてくれる。きっとこの涙を止めてくれる。
しかし、それはもう決して叶うことのない夢――。
「ごめん…睦。頑張って探してみたけど、やはりどこにも幸せなんかなかったよ。あれほどおまえが願ってくれたのに、いつも私はただおまえを傷つけるばかりで…。本当に…すまない…」
千歳はがくりと泣き崩れた。
* * * * * * * * * * * *
「これでもう何本目だったかな、繭良」
山と書類の積まれた机の引き出しから、男は小さな瓶を取り出した。中には薄桃色の粉末が入っている。
「確か三本目ですわ」
背後から、しなやかな女の細腕が伸びてくる。しかし、それは手の中の小瓶ではなく、彼の耳をするりとなぞり上げ――そのまま女は、胸の内に彼を抱きすくめた。
「そろそろ効果が出てもいいはずだがな…」
熱い吐息が甘く頬の辺りを掠めた後、女の唇は男の首筋を焦らすように沿い、か細い指先は何かをせがむように彼の胸元を弄り続けた。
しかし、それをまるで気に留めるふうもなく男は言葉を続けた。
「おまえ、ちゃんと毎食差し上げているんだろうな?」
「ええ、もちろん…。この私が橘様のご命令に背くなど、有り得ませんでしょう?」
「愛い奴だ」
薄く笑って繭良の顎を引き寄せた。紅く熟れた唇に優しく触れる。
「だが、この唇もこの身体も…。毎夜のようにあの印南に弄ばれているわけか…」
小さくため息を漏らすと、不意に繭良は両手で橘の頬を包み、じっと瞳を覗き込んだ。
「あら…お珍しい。妬いてくださるの?」
「まあ、少しはな」
橘は、長く艶やかな黒髪を指の間に絡め、そっと口付けて笑った。
「では、今夜はどうかその倍も三倍も愛してくださいな。私の心にはあなたしかありませんもの」
魔性の笑みを湛えて橘の膝に腰を下ろした繭良は、彼の手を懐へ導きながら妖艶な視線を注いだ。
「こら。まだ仕事中だ」
一度は拒んで見せたが――。
つんと聞こえぬ振りの繭良は、続く言葉を唇で塞いだ。
同じ夜の只中で、身を切る思いに哀哭する者と、快楽に身を焦がす者。
彼らの上に平等に浮かぶ宙の真澄鏡――互い月に磨かれたその影は、それぞれの真の姿を映し出す。
閉ざされた心は月明の下に震え、偽りの姿はひっそりと月影に濡れてゆく。
それはほんのひと時だけの幻影。
たまゆらの夢幻…。
やがて、幾ばくかの時が過ぎ――。
白々と夜が明けようとしていた。
そそくさと身形を整える繭良の傍らで、裸のままベッドに横たわった橘は、ゆったりと煙をくゆらせていた。ぼんやりと煙に注がれる眼差しはまだ少し眠そうだ。
「随分と早起きなんだな、印南の御仁は…。毎朝これでは堪らんな」
繭良はくすりと笑った。
「あの方もあれでもう結構なお年ですもの。お年寄りってそういうものでしょう?それに…」
繭良は、橘の耳元へするりと唇を沿わせ、昨夜の夢の余韻をせがんだ。
「お食事の支度を他の者にさせるわけには参りませんし」
「それはそうだ」
応えて橘は、彼女の唇に触れた。
「では、橘様。また後ほど」
床で肘を付いたまま、橘は繭良を見送った。
「やれやれ…情の深い女だ。これではこちらも体が持たんな」
橘は鼻先で薄く笑った。
* * * * * * * * * * * *
朝一番で軍の詰め所へ向かう途中、不意に――。
「おはようございます、千歳殿」
振り向くと、通路の奥に来栖が立っている。
千歳はごく事務的な会釈だけを返して、早々に立ち去るつもりだった。
ところが。
「おや?」
愛想良い笑顔で近寄ってくるなり、来栖はおもむろに千歳の顔を覗き込んだ。
「また一晩中泣いておられたのかな?瞼が少し腫れておるようだが…」
千歳は、足元に視線を落としたまま口を開こうともしない。
「ちゃんと睡眠をお取りにならねばお体に障ると、いつもあれほど申し上げているのに…困ったお方ですね」
来栖は肩を竦め、小さくため息をついた。
「またどうしても眠くなってしまったら、いつものように私の部屋においでなさい。あなたが眠っておられる間、他の者には適当にごまかしておきますから」
「いつもすみません、来栖准将」
さっと頭を下げ、踵を返す。
ひどく素っ気のないこの態度――それは彼の罪悪感から来るものだ。来栖はそれを理解している。
しかし――。
「お待ちなさい、千歳殿!!」
すれ違い様、来栖は再び千歳の腕を捕まえた。
「あなた、昨日また倒れられたそうですな?そのお気持ちは分からぬでもないが、どうか薬だけはきちんとお飲みください!もはやあなたはそうするほかにないのだ。辛くとも苦しくとも、簡単に死に逃げてはなりません!」
祖国を捨て、その敵国である紗那で生きる千歳に、来栖はここで唯一優しく接してくれる人物である。
彼の言いたいことはよく分かる。自分のことを心から心配してくれているのも、本当は千歳もよく分かってはいるのだ。
でも…。
「……」
千歳は無言で佇んでいた。振り向きもしなければ頷きもしない。
「千歳殿!」
来栖は僅かに声を荒げた。
すると。
「申し訳ないが、准将。私は亡くなったご子息の代わりになどなれませんよ。どうかこれ以上のお気遣いは無用に願います」
小さな声でそう言うと、千歳は静かに顔を上げた。
「な…何っ?今、何と仰った!?」
来栖の声色が変わる。掴んだ腕を今一度引き戻し、力ずくで千歳を向き直らせると、来栖は彼の瞳を正面から見据えた。
「私のこの名前、事故で亡くなったあなたのご子息のものだそうですね。それに、生きておられれば私と同じくらいの年だとか…。私はあなたの感傷にお付き合いするつもりはありません。正直申し上げて迷惑です」
「……」
そんなつもりなどなかった。しかし、どこかで彼に我が子の面影を追っている自分もまた否定できない。
来栖はそっと手を放した。
「ご存知でしたか…。このような名を付けておいて、確かにそう取られても仕方がない。それがあなたを傷つけてしまったかもしれません。だが、私は感傷に浸るつもりも、千歳殿を我が子と掏り替える気もござらん。失礼だと言うなら謝ります。だが、傷ついた仲間を気遣い心配することがそれほど問題であろうか…?」
千歳とて来栖の思いは分かっているのだ。しかし、どうしてもそれを素直に受け入れることができない。
その優しさを振り切るように、千歳は声を荒げた。
「私は軍や政府の人間に施しを受けるのが嫌なだけだ!!私に構うな!放っておいてくれ!!」
気を抜けばその温もりに甘えてしまいそうになる――。
来栖を思い切り突き飛ばすと、千歳はそこから逃げ出した。
いつも信じるたびに裏切られた。
差し伸べられた優しい手に迂闊に縋れば、また一層の闇に引き摺り込まれる。何度ももがき、何度もあえぎ、もう何度も抗ったじゃないか。
誰かを信じるなんてもうできない。
誰かの思惑に踊るのは、もうたくさんだ――!
「千歳殿…。皇子の気高さだけは、まだお持ちなのだな。何と不憫な…」
ぼんやりと呟いて窓辺に立つ。
眼下では、城の敷地内に植えられた木々が、風に優しく揺れている。しかし、その向こうに広がる空はどんよりと灰色に垂れ込め、あの楼蘭で見た胸の空くような青い空はどこにもない。
同じく続く空の下であるはずなのに、彼の――千歳の故郷と、ここは程遠い。あまりにも違いすぎるのだ。
来栖がかの国で見たもの、それは本来の彼の心の如く健やかで澄みきった蒼穹。幼い日から、彼を守り育んだであろう紺碧の大空であった…。
その身に染み付いた気高さも優しさも、そして胸に残る温かな追憶の日々や、彼自身を固く繋ぎ止めているその理性すらも――。そのすべてを捨ててしまえたなら、千歳は今よりもずっと楽になれるだろう。
しかし、それは彼が自らを葬り去るということだ。
(橘殿――。これは本当に正しい選択か?これがあなたの言う理想のための必要最小限の犠牲か?最小と言うにはあまりに深い…。あまりに痛々しいではないか)
ぐっと握り締めた拳が、微かに震えた。
(千歳――。千歳よ!まだそこに在るか。この大空におまえはまだ息づいているか。今もそこにおまえの魂が宿っているのならば、どうか聞き届けて欲しい。おまえと同じ名のあの方を――どうか彼を、その手で救ってやってくれ…!!)
硝子に額を押し当て、来栖は唇を噛み締めるのだった。
* * * * * * * * * * * *
紗那軍の特殊部隊・神楽獅子衆――通称『御神楽』は、実質橘の私設部隊である。
現在、宰相・印南の片腕として傍に控える橘は、元々は印南専属の医師を務めた人物であった。既にその道を退き、印南の補佐役を務めているが、胸に持病を抱える印南にとって、今もかけがえのない存在であることに変わりはない。そういう意味では、印南の命は橘の手に握られていると言って良かった。
執務室へ入ると、橘は恭しく一礼した。
「先の銀鏡討伐の報告書です。お待たせして申し訳ありません」
軽く咳き込みながら、印南は書類の束を受け取った。部屋の中央に置かれた大きなソファへ腰を下ろし、じっくりと目を通す。読みながら、印南は再び何度か咳き込んだ。
「つまりは、すべて銀鏡の一派の企てということか…。あの辺りは、周辺の集落も含めて反体制分子の動きが顕著だからな。長く捨て置きすぎたようだ。近頃は子どもといえど侮れぬ」
印南は眉を寄せ、またも咳払いを繰り返した。
「ええ。どうやら、敢えて我々との繋がりを公示することで、自身と政府の双方に世の敵意を向けさせること――これがすなわち、彼らの目的であったと思われます。彼らには市民権がありませんから、直接手を下すよりも裏から手を回す方が賢明と考えたんでしょう。言ってみれば謀反の種蒔き。しかし、この死なば諸共という発想は…まったく幼稚な作戦と言わざるを得ませんね」
冷嘲を浮かべ、橘は尚も言葉を続けた。
「ご指示通り残党謀反人への見せしめとして、遺体はその場に置いて参りました。しかし先日――何者かの手でそれも燃やされてしまい、もはや跡形もありません。まるで目が行き届きませんで、面目次第もございません」
「燃やされた?取り逃がしたという子鬼らの仕業か?」
印南はあからさまな不快を覗かせるが、橘については口から放った言葉ほどに感じ入る様子もない。
「さて、それはどうですか…」
ため息混じりに呟くと、橘は背もたれ深くに身を預けた。
その時。
「失礼します」
奥部屋から姿を現したのは、若く、仄かに色めかしい女性だ。初老の印南とは親子ほども年が違うであろうこの人物は、印南の妻・繭良である。
「どうぞ」
たおやかな笑みを浮かべて、そそと歩み寄った繭良は、手にした盆の上のカップを静かに二人の前へ並べた。
「おや、このお茶の香り…。これは舶来のものですか、繭良様?」
繭良は貴やかな微笑を浮かべた。
「ええ…。この銘柄、主人が好きなものですから。ねえ、あなた?」
応える代わりに、印南は誇らしげに瞳を細めている。その眼差しを見れば、彼女に対する印南の愛欲の深さは明らかだ。
橘は、僅かに口角を吊り上げた。
(すっかり彼女に骨抜きか…。何も知らずにお幸せなことだな、この御仁も)
繭良と目が合うと、橘はさり気なく視線を装い、カップを唇に運んだ。
「それはそうと印南様…。先ほどから随分と咳き込んでおられるようですが、お風邪でも召されましたか?」
にわかに鋭い眼差しが、印南へ注がれる。
「いや、そうではなくて…どうもこのごろまた胸の具合が良くないように思う」
そう答えてすぐに印南はまた咳いた。
「私の見立てでは、気管支からくる咳のように思えますが…。以前申し上げたように、煙草の方はお控えいただいているので?」
「まあ、若干減らした…という程度だがな」
「愛煙家の私に言えたことではありませんが、そろそろ本気で辞めていただかないと」
そう改めて念を押し、橘はすっくと立ち上がった。
「さて、そろそろ失礼致します。おいしいお茶をごちそうさまでした」
印南へきちんと一礼してから、ちらと一瞥すると、繭良はうっすらと笑んで応えてくる。
「また例の薬の研究か?多忙な身だな、おまえも」
「宰相補佐と言えど、これで根の方はまだまだ医師なんですよ。それに、御神楽のこともありますしね」
印南を振り向いて微笑み返し、橘は扉に手を掛けた。
* * * * * * * * * * * *
窓の外には真っ青な空が広がっていた。
彼方の山際に、薄灰色の雲堤が伸びている。確かあの雲の下あたりが如月のはずだ。あの様子では、あちらは今ごろ雨でも降っているのではなかろうか…?
麗らかなひととき。
高らかな雲雀の囀りが遠くに聞こえる。開け放った窓から入り込んだ春のそよ風が肌に心地よかった。
太陽は疾うに天の真上を越えていた。
ぱらり。
相変わらず窓辺で読書に耽っていた水紅は、頁を捲る手をぴたりと止めた。微かな馬蹄の音を聞いた気がしたのだ。
「……」
いそいそと立ち上がり外へ目を凝らすと、今まさに大内裏を目指して一直線に駆けて来る真っ白な馬が目に留まった。
あれは、我が愛馬・竜華――。
純白のその背に水紅は見慣れた姿を見つけた。学者の衣を靡かせたその人物が、愛馬とともに裏手へ消えるのを認めると自然と頬が綻ぶ。
「やっと戻ったか…」
無意識に漏らした後、まるで何もなかったかのように水紅は再び椅子へ腰掛けた。あたふたと躍る胸を懸命に落ち着かせ、閉じていた本をまた開き、平静の装いで紙面に目を落とす。
だが――。
まだか。
まだか。
まだ戻らぬか。
待ち人はなかなか現れない。
もどかしさを堪え、まんじりとしていると、ようやく扉の向こうからばたばたとひどく騒がしい足音が聞こえてきた。もちろんその主など承知しているが、なぜかそれはいつもとはまるで違う慌しさなのである。
何事かと不思議に思っていると、やがて扉は乱暴に叩かれた。
「私ですっ。ただ今、戻りました!!」
返事も待たず、ひどく慌てて部屋へ滑り込んできたその男――果たしてそれは、水紅がずっと待ちわびた人物その人なのであった。
「何だ、臣。やけに慌てているな…。おかえり」
水紅はくすりと眉を解いた。
見ればまだたくさんの荷物を抱えたままである。
身を屈め、暫し臣は息を切らせていたが、唐突に顔を上げるなり、むんずと一本の刀を差し出した。深紅の鞘に収まった美しい刀だった。
「これ、預かってください!」
「何だ?刀…?」
臣は卓の上にどん!と、問題の品を置いた。
「あちらで遊佐様からいただいたんですが、まさかこんなもの、自分の部屋へ持ってゆくわけには参りませんからっ」
自分の椅子にどっかりと腰掛け、臣は手拭でぱたぱたと顔を扇いでいる。他の者に刀を見られたくない一心で、らしくもなく相当慌てたようだ。
くすくす笑いながら、水紅は卓の刀を手に取った。紅い鞘から、すらりと刀身を抜いてみる。
と――。
「この刀、少し重いな…」
何度か角度を変えて刀を翳しながら、ふとそう思った。
「え?そうですか?」
「うむ…私にとってはな。これでは身ごと振られそうだ」
臣は、はてと首を捻った。
「ああ…。でも遊佐様、何か妙なことを仰ってましたね、そう言えば」
「妙なこと?」
「刀自身が持ち主を選んだとか何とか…。それに魂のこもったものだ、とも。何だかよく分かりませんが、とにかく持って帰って身近に置くようにと言われ、仕方なくここに…。銘を『火蓮』と言うそうですよ」
刀を受け取り翳してみたが、臣には特に水紅が言うような不快な重さは感じられなかった。
しかし――。
「ん…?」
一体何を気取ったか、臣はにわかに眉を寄せた。
「血を吸っていないな…この刀…」
「そうなのか?」
「ええ、恐らく。ほら、まるっきり刃が曇っていないでしょう?打ちたてなんですかね…」
改めて水紅は、示された刀身をまじまじと眺めた。
きんと透き通るような清輝を纏い、火蓮は冷たく滴るような輝きを放っている。確かに臣の言うように、一点の曇りも見えない。
「そうでなければ、あるいは遊佐様が仰るように、本当にここに魂があるか…。つまりは妖刀の類なのかもしれませんね」
臣は再び刀を収めた。
「と、とにかく、ちょっと荷物を置いてきます」
言うが早いか、臣はそそくさと部屋を下がった。
ぱたんと扉が閉まる音――その後には、また昨日までと同じ静寂が残される。しかしそれも構わない。退屈も不安もすっかり掻き消えた今ならば…。
「妖刀・火蓮…か」
壁の刀架へ掛け置いた真紅の刀を見上げ、水紅は誰にともなく呟いた。
* * * * * * * * * * * *
両手いっぱいに荷物を抱えた臣は、足早に光の宮の廊下を進んでいた。そうして、ちょうど白露の部屋の前を通りかかったその時である。
「!!」
突如開かれた扉から、不躾に飛び出してきた何者かと危うく衝突しそうになったのだ。否――飛び出してきたと言うよりも、何者かに押し出されたと言った方が適切だったように思う。
臣はきょとんと立ち尽くした。
「睦…?」
「……」
ゆっくりと振り向いた力のない瞳が臣を見る。そして、あろうことか、その細い身体はきつく荒縄で拘束されていたのである。
続いて出てきたのは、二人の警護兵だった。
「何だ?どういうことだ、これは…!?睦、説明しろ!!」
だが、睦は口を開こうとはせず、ただひたすらにうな垂れている。
「白露様の命で、罪人を牢へ連れて行くところです」
代わりに警護兵の一人がひどく事務的に答えた。
「罪人…?何をしたんだ、おまえ?」
再び問いかけるが、やはり答えはない。頑なに黙りこくったまま、睦は相変わらず自分の足元ばかりを睨んでいる。
「おい、睦!何をしたのかと訊いているんだ!!」
抱えていた荷物を放り出し、臣は睦の肩を掴んだ。
それでも――。
「……」
睦は口を開くどころか微動だに見せない。
「…ったく」
埒の明かぬ態度に苛立ち、もう一人の当事者に直接問うべく、臣は白露の部屋の扉を叩いた。
「今、よろしいですか、白露様」
途端に睦は目を剥いた。
「ちょ…ちょっと、臣!やめてください!」
「うるさい!黙ってそこで待ってろ!!」
頭ごなしに怒鳴りつけると、臣は返事も待たずにさっさと部屋へ入って行った。
「おや。いやに表が騒がしいと思ったら…。珍しいお客様だこと」
長椅子に寝そべった女が怪しく笑む。
後ろ手に扉を閉め、臣はさっと跪いたが、その時ほんの一瞬――。
「…?」
どうしたことだろう?
微かに臣は、謂れのない違和感のようなものに襲われた。
しかし今は、そんなことに怯む間もない。すぐに気を取り直した臣は、毅然とした眼差しを差し向けた。
「一体これはどういうことなのかご説明ください」
「何が」
気だるげに足を組み直し、涼しい顔で白露は言う。こちらを見もしない。
「なぜ睦が牢へ入らねばならないのです」
「妾に狼藉を働けば当然であろう?」
何を問うても、軽賤の笑みを湛えた目は、ほかの何でもなく朱に塗り上げた自らの爪をひたすらうっとりと眺めているのであった。
「ですから、彼が何をしたと言うんです!!」
つい声を荒げてしまってから、ふと本気で腹を立てている自分に気付いた。
(何だ、この焦燥感…。不安?恐怖…?違うな…。何だというんだ、この苛立ちは。妙に胸がざわつく…)
ちらとほんの一瞬臣を見て、白露は再び瞳を細めた。
「差し出がましくも、たかが学者の分際でこの妾にわけの分からぬ言いがかりをつけおるからよ。見えぬものに縋るなだの、見えるものに惑わされるなだのと――無礼にもほどがある。さっぱりわけが分からぬわ」
声高に笑う。
「あやつ…腕利きの星読みかもしれぬが、こうも覚えのないことを言われてはのう。あまりにしつこいので、警護を呼び罰したまで。なに、暫く頭を冷やせというだけの事。首を刎ねるわけでなし、何の関係もないそなたに、そうも言われる筋合いはないと思うがのう?」
「……っ!」
悔しいが返す言葉もない。
だがどうにも拭い去れないこの胸のもやもやしたものは何だ?
そもそも、彼女はいつからこれほど饒舌になった…?
『見えないもの』と『見えるもの』。
どういうことだ?
星は睦に何を告げた――!?
すっくと臣は立ち上がり、潔く頭を下げた。もはやこれ以上ここにいても、得られるものなどないと思った。
「そうですか…。委細承知。大変失礼致しました」
きっぱりと踵を返したその時だった。
「臣、睦に伝えよ。後で妾に詫びに来るのを忘るな、とな」
その言葉の真意を悟り、唇を噛み締める。返答の代わりに小さく頭を下げ、臣は部屋を後にした。
睦と警護兵は、先ほどと同じ姿のまま部屋の前で待っていた。
戻った臣の気配を察して睦は顔を上げたが――。
ひどく口惜しげなその姿に、睦は中で交わされたやり取りの粗方を理解したようだった。
「あなたでもそういう顔…なさるんですね」
睦は小さく呟いた。
「後で…詫びに来いとさ」
足元を睨んだまま、臣はため息をついた。悔しくて堪らなかった。
それなのに。
「はい」
返ってきたのは意外なほど明るい声――。
驚いて臣は顔を上げた。彼の心が理解できなかった。
目が合うと、睦は柔らかに微笑んだ。
「おまえ、なぜ…」
しかし出てきた言葉はそこまでで、またも臣は言葉を失くした。
傷つきこそすれ、悲しみこそすれ、なぜそうも笑っていられる…?
このような屈辱的な扱いを、どうして彼は受け入れてしまう??
「嬉しかったです、臣」
「は――?」
「私を…心配してくれたんですよね?本当にありがとう…」
ぺこりと頭を下げ、両側の兵に自ら目配せを送った後、睦は大人しく連行されていった。
「あ…睦!!後で部屋へ行く!おまえに話がある!」
やっとのことで声を絞ると、睦は小さく頷いた。振り向いた彼の顔は、やはり穏やかに笑っていた…。
「……!」
睦の姿が消えた後、突如としてやり場のない怒りが湧いた。
それらすべてを拳に握り、臣は思い切り壁に叩きつけた。
だが、拳で感じた衝撃と痛みは、今のやりきれぬ気持ちを一時的に紛らわせるにすぎない。激しく胸を焚きつける苛立ちは、一向に治まる気配もない。
(狼藉だと!?あいつはそんな奴じゃない。あの睦が白露に食ってかかるなど、有り得ないじゃないか…!なぜだ?なぜこんなことになる?我が身寂しさに彼を望んだのは、あの白露本人のはずだ。それをこのように――!)
わだかまりが消えない。
どうしても合点がいかない。
あの嫌な感覚――室内で感じたざらついた空気は何だったんだ…?
(一体何だと言うんだ!どうしてこんなことに!?どこかおかしい。何かが狂ってる…!!)
臣は、薄く血の滲む拳を睨んだ。
* * * * * * * * * * * *
「遅くなりまして」
荷物を自室に運び込んですぐ臣は水紅の部屋へ戻った。
相変わらず水紅は同じ場所であの本を膝に広げている。
あの本――東方秘術に纏わる、あの本…。
「……」
立ち尽くしたまま黙っていると、察した水紅が振り向いた。
「どうした?」
そこで一度に我に返った。
「あ…。いえ…あの、ご報告を…」
「銀鏡の森か」
「はい」
臣は、紗那で目にした一部始終を余すことなく語った。
「なんと惨い。残酷だな…」
にわかに惻然とした面持ちになって、水紅は眉を曇らせた。
「ええ…。ですが、これではっきりしましたね。以前、紗那の使者が来た際に紗那軍准将・来栖は、数名を捕らえたが、他の殆どは見つかってすらいない――と、そう堅海に言いました。しかし、それは事実に反する。
遺体の数と焼け落ちた集落の規模とを比較してみても、ほぼすべての銀鏡の子どもがあそこに積まれていたと思いますよ。来栖と橘の双方が嘘を言った…あるいは事実を知らされていないのではないでしょうか?」
「知らされていない…だと?」
「ええ…。いや、そうは言っても橘は宰相補佐――現時点で紗那政府の実権を握る二番目の人物です。彼が知らないはずはない。となると、来栖だけが事実を知らない可能性が考えられます。しかし、来栖とて軍では上から四番目の実力者。やはりどうも不自然です。さて、これをあなたはどう見ます?」
おもむろに臣は、組んだ片膝を包むように指を組んだ。
「えらく勿体ぶるな…」
「お勉強ですよ。こういうの、暫く振りでしょう?」
水紅は姿勢を改めて向き直った。
「ここはきちんと整理して考えるべきだな。人道を外れた虐殺の事実を、政府の人間の橘は承知しているというのに、軍の将校である来栖はまるで知らない…。橘は、あの銀鏡の夜叉と、臣の命を狙うイングラムという異国の者をわざわざ引き連れて楼蘭へやって来た、まるで掴み所のない人物――」
「そうですね。そういうことですね…」
相槌を打ちながら、臣はなぜか楽しそうだった。
「仮に、そのどちらもが堅海に敢えて嘘の情報を与えたとして、自分たちで殺したはずの彼らを、ここでまだ生きているように見せる意味があるだろうか…。取り逃がした鬼の残党を誘き出すため?彼ら、子鬼が楼蘭に囲われているとでも思っているのか?」
「うーん。多分、それはないですね。銀鏡に近い如月に滞在しているはずの堅海が、わざわざ出向いてまで鬼の話を尋ねている時点で、彼らは、堅海と鬼の関わりを疑ったはずです。燻り出してまで鬼を狩りたいと思うのであれば、とっくに如月へ出張って来てますよ。現に鬼の一人は篠懸様とともに如月にいますし」
「な…何だと…?」
水紅の顔色が変わる。
正直な反応に、臣はくすりと眉を解いた。
「ああ、でもどうかご心配なく。今や彼は篠懸様の大切なご学友ですよ。机を並べて毎日一緒にお勉強しています」
それがどういう状況なのか呑みこめず、複雑な表情を貼りつけたまま水紅は固まってしまった。
「本当に微笑ましいぐらいに仲が良いですよ、お二人とも。彼ら、銀鏡の鬼だなんて怪しげな呼ばれ方をしていますが、実際はまるで普通の子どもです。人を殺めることを生業にしている子も確かにありますがね、それもすべて彼らが仲間とともに生き抜くための術です。仲間を守るためにしていることなんですよ。大体、そんな悪どい仕事を彼らに依頼し、させているのはあの政府だ!」
臣はやや感情的に言い放った。その口ぶりからは、紗那では『鬼』と呼ばれたその子どもに、もはや情が移ってしまっていることが窺える。
ようやく安心したか、水紅は興味深げに身を乗り出した。
「どんな奴だ、そいつは」
「紗那ではかなり有名な少年です。腕利きの殺し屋で、『銀鏡の火喰鳥』という異名を持つ子なんですが、接してみれば何のことはない。素直で純朴なごく普通の十五歳の少年です。なかなかいい子ですよ」
「名を馳せた隣国の殺し屋…か。それはまた…とんでもない友を作ったものだな、あいつも」
そう呟いて、水紅ははっと言葉を止めた。何かに思い当たったようだ。
「なるほど、そうか――」
背もたれに深く身を預ける。
「鬼らは政府に嵌められたわけだな。そして多分、その来栖という人物――いや彼を始めとした紗那軍の中枢もだ。現時点で台頭しているのは政府――恐らくは、橘を含むごく一部の人間のみというわけだ。現在、紗那は事実上の有司専制の下にある…。違うか?」
「さすがは水紅様。素晴らしい見解ですね」
満足げな臣を見て取ると、水紅は更に言葉を続けた。
「…と、いうことはもしや鬼ら、何らか政府に逆らったのではないか?そして、他にも志を同じくする輩がいて、鬼と密接に繋がっている…。遺体を放置したのはそんな連中への見せしめとしか考えられんだろう?」
「うーん。まあ、それはそう…なんでしょうがね、どうも私は…。彼ら、そこまでして国に楯突こうとするのでしょうか?社会的に虐げられ、逆境に耐えながらも懸命に日々を生きる子どもらに、国の将来を案ずる暇があるんでしょうか?ただ生きていくだけで精一杯だろうと思うんですけどね…。篠懸様といるあの子を見ても、どうもちょっと…。そんな大義を抱くような子ではないと思うんですが」
「そうか…」
「ですが、ただ…」
再び臣はきっぱりと顔を上げ、水紅を見た。
「そこに大人の思惑が絡めば話は別です。仕立て上げられた反逆者――謀反の偽装ですよ。その意味で子鬼らは文字通り嵌められた。つまり、彼らは目的のための人柱にされた…と、そう考えた方が自然ではないでしょうかね?
ここだけの話、銀鏡と政府の癒着を世に触れ回ったのは彼らではなく、ずばり政府自身だったのではないかと私は考えています。もしこの推測が当たっていれば、この鬼退治の話、敢えて当然の美談としてそのうち公式発表されるはずですよ。彼らが堅海に語ったのも恐らくはそういうこと…つまり、お国の転覆を図った逆賊を、正当なる裁きとして国が退治した――そういう演出ではなかったか、と。
きっと、そうしてでっち上げた言葉の空々しさは水面下に多数潜むであろう反体制の闘志を存分に刺激します。もちろん政府はそれを承知しながら、その一方で此度の蛮行の証拠を握らせ、世論を煽る。そういう筋書きが政府首脳――いや、その中のごく一握りの人間の野望の内にありはしまいか、と。正直なところそんな気がしているんです」
ごくりと喉が鳴る。まさか簡単に信じられる話ではない。
確かに、彼の言葉はさももっともそうに聞こえるが、その内容は恐ろしくとんでもないのだ。
自らの蛮行を偽りの美談で隠して見せながら、まるで手招きをするかのように真実を暴かせている。それもすべて紗那政府自らの筋書き…?
本当にそんなことが有り得るのだろうか?
「しかし、それでは…。そうだ、来栖は…!?軍はどうなっている?
暗躍する政府の膝元にありながら、武力そのものである彼らが、政府の口車にまんまと乗せられ平和ぼけしているというのでは、まるで話にならぬではないか。大体、実際に非道の手を下したのも軍の人間だろうに」
「ええ、確かに。しかし、あの国の兵の中には、家族を養うために已む無く軍へ身を置く者も少なくありません。地方からの『出稼ぎ軍人』などという言葉もあるほどです。そういった細かな事情の分からぬ兵士にいくらか金でも握らせて、事前に手懐けておきさえすれば、この計画は軍上層に勘付かれる前に楽に遂行できますよ。もしやこの時、実際に現場で指揮を執ったのは軍の人間ではなく、別の立場の人間ではないでしょうか。今の紗那軍そのものが、実はこちらの想像以上に弱体化しているとしたら――どうです?」
だが、それでは得心がいかぬ。軍の働きの本筋に政府が関わってくる事ならあり得ても、現場の指揮となるとまた話が違うではないか。
「軍以外の者が軍の指揮を執って末端の兵を動かしている、と?しかしそうなると、それは恐らく政府の人間。だが現実的にそんなことが…」
臣はにやりと笑った。
「まあ、軍の上層を差し置いて、政府の人間が現場に出向き、指揮を執る――普通はちょっと有り得ませんよね。具体的に誰が…となると、そこまではまだ分かりませんが、今回の鬼狩り――そこかしこに政府の意思のようなものは確かに感じられるでしょう?ここでもし、この不自然さを解消する証拠を我々が掴み、うまくこの仮説が成り立てば、来栖が事実を知らないのも頷ける。そして橘の関与についても辻褄が合ってくるんですよねえ…」
天井を仰いで腕を組み、再び臣はじっと考え込んでしまった。
「ちょっ…ちょっと待て、臣。もう一度話を整理してくれ…!どうも話がとんでもない方向に行っているような気がするのだが…!!」
「ええ。なってますよ、とんでもない話に」
頷いて、臣は横目で水紅を見た。しかしその横にあるのは、いつもの涼しげな表情ではなかった。
「つまり――政府は、銀鏡の子どもたちを偽の反逆者に仕立て上げて処した。それを見せしめと称してその場に放置。だが、この残虐な事実を軍の上層は知らない。派兵しているはずなのにね。
それを知っているのは、直接軍の末端に指示を出した政府の首脳と、まんまと政府に懐柔され、鬼狩りに参加した一部の兵士だけ――いや、彼らがまだ生きているとも限らないか…。真実を知る彼らです。ひょっとして鬼狩りのどさくさで殺されているかもしれませんよね。
さて、ここでまたもう一つ。ただでさえ紛争の多い紗那で、この政府による銀鏡の虐殺事件がもしも公になったとしたら、どうなるでしょうか…?この手のネタで世を騒がせるのはきっと簡単ですよ。反体制の輩というのは、抑圧というものに過敏に反応しますからね。むしろ知名度が高い分、分かり易くて都合がいいんじゃないですか、銀鏡の子どもたちというのは。
紗那政府の嘯く美談を背景とした此度の大量虐殺。政府から人として認知されなかった子どもらは、散々利用された挙句に殺された。なんと悲しい末路――。見せしめとしか思えぬ数々のあの遺体が、反体制の人間の目に触れてさえいれば、これ幸いと彼らは紗那政府の非道ぶりを世に訴えるでしょう。ほんの昨日まで一緒になって銀鏡の子どもを差別していた自らを棚に上げて、人畜生と言えど同じ命あるもの…などと、空々しい熱弁をふるいながらね。
さあ、これで準備は整いました。革命が始まりますよ。ですが、よく考えてみてください。銀鏡での虐殺も周辺への牽制も偽りの武勇伝も――すべてこれ、実は政府のお膳立てなんですよね?これでは自分たちを失脚させるために、政府首脳が国民を焚き付けている――そういう話になりはしませんか?軍だって、上はこの事実を掴んでいないんです。
そこで、もし…ですよ?真実を知る誰かがこのことを白日に晒してしまえば――これ、軍の弱体化を国民に知らしめることになりはしませんかね?それだけで、もう軍は形無しです。意思を持たぬ軍は、ただの政府の犬だ。それこそ正義も大義もあったもんじゃない。それに、そのうち彼らは革命の火種を鎮圧すべく各地に向かわされるわけですよね?使われる兵らにしたら、頼りのない軍部や怪しい政府首脳についていって共倒れるより、ここで反体制に寝返って夢を見る方が得だと感じるんじゃないでしょうか。無能な軍上層に顎で使われ続けていれば、そこに疑念を抱く者も多く出るでしょう。
もう軍も政府もてんでばらばら。国民の信頼も地に落ちます。紗那政府はすっかり孤立無援と相成りました。さて、ここでもう一度考えましょうよ。どういうことですか、これ…?」
すらすらと語られる衝撃的な筋書きに、水紅の瞳はわなわなと震えた。
臣は言葉を止めない。それどころか、その眼光は一層の煌めきを孕み、その言葉も声も、まるで張り詰めるような冷厳さを放ち――。
「現在の紗那の最高権力者は宰相の印南、それから形ばかりとはいえ紗那の皇族――もっとも痛手を受けるのはきっと彼らなんです。国民は反旗を翻し、迎え撃つはずの軍は統制が取れる状態にない。恐らくそこなんでしょう、狙いは。別に武力を行使しなくても、悪の独裁者を倒しさえすれば革命なんてそこで終わります。諸悪の根源という汚名を着せさえすることができれば、相手なんか誰だっていいんです。それで敵を討ち倒しさえすれば、そこに革命の意義が生まれ、革命志士らの言う正義に足る。これで見事、新政府樹立の運びとなります。
でも…。この後、君主には誰がなるのでしょうか?軍を内側から密かに掌握し、国民の心理を巧みに操作し、果ては印南や皇族をもまんまと利用して彼らを自滅させた張本人は一体誰なんでしょうか?」
「君主…?民衆を率いて革命を起こした中心人物…ということか?」
「そう――。目的が達成されれば、革命側は議会を開き、新たな統治者を国民の手で決めようとするでしょう。でもこれも簡単な話。実権を握りたければ、ある程度自分もあちらに名を売っておいてから、発言力のある志士を懐に抱き込めばいいんです。またいつかの出稼ぎ兵のように買収すればいい。ほら、これで簡単に国一つ手に入ります。
さて、話を戻しますが、諸悪の根源・印南の一番近くで彼を謀り、もっとも容易く革命の切り札となり得る人物は誰です?その人物が民衆の前に印南と皇族の首を差し出せば、それでこの揉め事はすぐに全部片が付くんですよ。革命志士らと内々に手を結んでおいて闘志が盛り上がったところで印南を引き渡せば、旧体制など明日にでも崩壊するでしょう?それこそ無血革命も可能です。ああ、そう…無血革命――これは民衆から相当に厚い支持を得るような気がしますねえ…」
「まさか首謀者は…橘…なのか?あの印南もまた彼の掌の上だと――おまえ、そう言いたいのか…?」
水紅の声は震えた。
「しーっ。滅多なことを仰ってはいけません、水紅様。これは全部憶測ですから。例えばの話…ですからね?」
人差し指を口元に当て、臣はわざとらしく声を潜めた。
「ですが――どうやら本腰入れて調べた方が良さそうですね、これは」
「……」
かろうじて表には出さずにいたが、まさか平静などではいられない。
もしもこの憶測がすべて本当だとしたら…。いや、これまでだって事の大小にかかわらず、彼の予測することは概ね外れたことがない。
水紅は深く息をついた。
「たったこれしきの情報から、一国の転覆を弾き出すとは…。まったく大した数学教師だな、おまえは」
「偽者ですけどね」
眉を解き、屈託なく臣は笑った。
すると――。
「いや、でも本当に…。世辞などではなく、とても勉強になる。感謝もしている」
「……?」
日頃、あれほど尊大に振舞う水紅らしくもないこの慎ましさは何だろう?
「また…気持ち悪いぐらい殊勝なことを仰いますね。あなたらしくもない」
いつものように毒づきながらも、臣は観察を続けていた。
これはもしや彼の寂しさ?
彼を一人残して宮を空けたことがそうも堪えたか…?
見つめれば見つめるほど、水紅は照れくさそうに目を逸らす。ほんの僅かながら齢相応の表情がそこにあった。
「そんなに褒めたって何も出ませんよ……と、そう言いたいところなんですが…」
そう言って臣は袖の中をごそごそと探った。
「お土産ならちゃんとあります」
差し出されたそれは、丁寧に四つ折にされた紙片であった。
「何だ…?」
恐々受け取り、中を開く。
それは――。
「篠懸様からのお便りです。花火、とても喜んでいらっしゃいましたよ」
すぐさま文面に目を通す。静かに文字を追う瞳の端に、自ずと柔らかな笑みが浮かんでいるのが分かる。
こんな無意識の仕草が愛おしい。できることなら、ずっとこんな風に…この温かな心を殺さずに、その胸に抱いていてくれたなら…。
ぼんやりと皇子を見つめながら、臣は思った。
「氷見――と言うのか。例の銀鏡の少年は」
紙面に目を落としたまま、水紅は独り言のように口を開いた。
「ええ」
「皇子であると知りながら、自分を呼び捨ててくれる唯一の友だと書いてある」
確かにそうだ…。臣は苦笑した。
「あいつ…どうもしょっちゅう愁に叱られているようだな。だが楽しく過ごしているようで何よりだ」
ため息の如く呟いて、水紅はほっと瞼を伏せた。
「随分変わられたんですよ、篠懸様。良く言えば正直におなりになった。でも悪く言えば少し幼くなられたような気も…。どういうわけか、毎日のようにわんわん泣いておられるんですよね」
如月での数々の出来事を思い起こして、また臣はくすりと笑った。
「まあ、確かにここではあまり弱い顔もできぬからな」
それはあなたも同じだろう――と、喉元まで出掛かったが、敢えて口にするのを止める。
彼はもう十八――。
今更幼い頃に戻ることなど出来はしない。まして感情の赴くままに泣き、怒り、笑うなどということが許される立場でもないのだ。
「あ、あの…水紅様」
静かに水紅は振り向いた。深く澄んだ漆黒の瞳が臣を映す。
「あの…」
だが、臣の言葉はそこまでで消えてしまった。
「何だ…?どうした?」
臣は暫く思いあぐねていたが――。
「あの、如月に発つ前に、昔の…その、イングラムと同じ国にいた頃のことをお話しすると、私は確かそう言いましたよね…」
「!!」
どくん!と胸が大きな音を立てた。そんな自らに驚き、水紅ははっと胸を押さえた。
「あなたが聞きたいと仰るのなら、包み隠さずすべて正直にお話しようと思います。けど…」
この告白にどう応えるべきか、あれから――臣が如月に発ったあの日から、ずっと考えていた。彼が自分に隠し事をしているなど、今までに考えたこともなかった。それほどに信じた。一方ならぬ固い信頼だと思っていた。
もちろん今も、それを疑う余地はないけれど――。
「あの…私もあなたに訊きたいことがあるんです。というか、如月を訪ねたことで、どうしてもお訊きせねばならぬことができてしまったんです。どうか、はぐらかさずに正直に話していただきたいのです。
私は、どんな答えもちゃんと受け止めます。絶対にあなたを裏切ったりしません。どんな突飛な話も全部信じます。だから、どうか…」
まるで痛みを覚えるほど真っ直ぐに訴えてくる眼差し――そこに尋常でないものを感じた水紅は、迷うことなく頷いた。
そして、ほっと表情を緩めた後――。
「……」
そこからの臣は、まるで彼らしくもない態度を取り続けた。何度も躊躇うような素振りを見せ、何度も視線を泳がせてはこちらを見る――。
どうも余程尋ねにくいことのようなのである。
ひたすらに水紅は、臣の言葉を待ち侘びた。
やがて。
「あの本…進みましたか?」
ついに意を決した臣は、意外なほど穏やかに事を切り出したのであった…。
「え…?」
どんな一大事かと身構えていた水紅の心は、ある意味で裏切られたと言えた。
彼が訊きたい事とはそんなこと?
臣が知りたいのはあの本の内容なのか――?
「水紅様、どうかお答えください。あの本、どこまで読みました…?」
しかし臣の目はいつになく真剣だ。
「ど、どこまで…って、あと数十頁を残すのみだが…。おまえ、そんな――」
改めて顔を向けた刹那、水紅は声が出せなくなってしまった。こちらを見る臣の瞳に、とてつもない鋭さを感じたからだ。ところが、そうして自分を見つめる彼の肩は僅かに震えているようにも見える。
(何だ?緊張…?恐怖?一体何だと言うんだ?まさか、臣…おまえ、怯えているのか…?)
こんな彼は見たことがなかった。
「もう…そんなにお読みになったんですか…」
臣は気丈に水紅を睨んでいる。しかしその声は、いつになく密かで覇気がない。それどころか微かに戦慄いているような気がした。
普段の彼を知る者から見れば、意外に思えるほど負の感情を露にする臣。だが今、あの瞳の奥底にあるものが何なのか、水紅本人には見当も付かないのである。
ただ――。
迸る剥き出しの感情だけが、痛烈に水紅の身体を貫いている。水紅が全幅の信頼を置く彼が、震えながら今、目に見えぬ刃を向けている相手もまた自分であること――その現実が水紅にはにわかに信じられなかった。
(あの本――。あの本に何がある…?)
臣を直視しながら、水紅また身動きができずにいた。体が竦んだように動けない。
「では…道教のこと――方術というもの、多少はご存知ですよね…?」
うまく答えられずにまごついていると、突然臣は――。
「どうなんです、水紅様!!お願いですから、ちゃんと答えて!」
血を吐くように怒鳴って、臣は掌を卓の上に叩きつけた。
激しい苛立ちを隠し得ぬその姿に、さすがの水紅もびくりと大きく肩を揺らした。あまりに平静とかけ離れた臣の姿は、激しく水紅を動揺させていた。
「そこまで読んでいるのなら、あなた…これが何だかご存知でしょう!?いや、知らないなどとは言わせない!」
臣は懐から鳥の形に切り抜かれた紙片を取り出し、水紅の目の前へと叩きつけた。
(だめだ、いけない。落ち着け…。落ち着くんだ…。もっと冷静に――)
胸の内で何度も繰り返しながら、どうしようもない不安に激しく昂ぶる。落ち着こうとしても、恐ろしさに体が震えて仕方がない。
水紅を信じていないわけじゃない。
だが、望まぬ答えが今にも聞こえてきそうで――。
臣は、真実に怯える自らを必死に抑えていたのだった。
「これは…。おまえ、これをどこで…?」
囁くような声で、ようやく水紅は言葉を返した。
「あなた…これをご存知…ですよね…?」
声を詰まらせながら臣は言った。ひどく掠れた小さな声だった。
「恐らくこれは式神――。剪紙成兵法で使われる…紙人形…」
そう言いながら水紅は、例の本をぱらぱらと捲った。
そして――。
あろうことか、その隙間からまったく同じ紙の鳥を取り出したのである。
恐る恐る卓上に差し出す。
大きさも形もまったく同じ紙人形が、二人の前に二つ並んだ。
うち一つはあの時、遊佐が愁の懐から取り出したもの。
では、このもう一つは――!?
「!!」
瞬間、声を失った。
とても直視できなかった。ついに顔を背け、臣はぎゅっと目を瞑った。
(なぜ…?なぜこれを水紅様が持っている――!?)
愕然とした。胸を殴りつけた鼓動が一層激しさを増してゆく。
胸が苦しい…。
どうして。
なぜ、こんなことが…!
ずっと恐れていたことが現実になろうとしている…!?
そんな…。
まさか――!
「と…水紅様…何です…これ…?一体…どういうことなんです?なぜ、あなた…。あなた、どうしてこんなものを持っているんです?なぜこれがここにあるんですか!?」
努めて冷静を装い口を開く。
しかし、いくら堪えようとしても発する声はわなわなと震え、ちょっとでも気を抜けば情けなく上擦ってしまう。もう顔も上げられない。
脳裏に浮かんでは強引に掻き消してきた恐ろしい想像が、今再び臣の中で首をもたげ始めた。
(水紅様が篠懸様の呪詛に関わっている…?彼が式神を操っていると?そんな…まさか!あれほど弟君を愛しておられる水紅様が――?馬鹿な!そんなことは有り得ない。そんなはずはないんだ…!)
交雑する思いに臣は何度も首を振った。
嫌だ。
そんなことは信じない。
信じるわけにはいかない――!!
(やめろ…違う…。違うはずだ!どうか…頼むから、嘘だと言ってくれ。たった一言でいい。違う、と…!!)
臣は何度も胸の中でそう繰り返した。
すると――。
「拾った」
「――え?」
蚊の鳴くような声で問い返すと、水紅は大仰にため息をついた。
「な…に…?」
「だから拾ったんだ!半年ほど前に!!」
何度も言わすなとばかりの不機嫌な声に嘘は見えない。
見開かれたままの瞳から、不覚にもつうっと何かがこぼれた。どきりとして顔を伏せる。
ほっと体の力が抜けてゆく。ようやく緊張から解き放たれる…。
「ひ…拾った…?」
確かめるように繰り返し、衣の袖でそれとなく涙を拭う。俯く臣の顔に、ようやく微かな安堵が滲む。
「ああ。そら、そこの廊下でな。式神のことは前に何かの本で読んだ覚えがあって多少なり知っていた。ひどく気になったので何度も探したが、その本が一向に見つからない。本の題すら覚えていない。そこでその類の本をおまえに探させた」
臣は改めて水紅の瞳を覗き込んだ。
「それ、ほんとですよね…?本当に拾ったものなんですね?それだけなんですよね?水紅様はこの式神とは何の関係もないんですよね?」
同じく緊張から解かれた水紅もまた、内心ではほっとしていた。臣の声がすっかりいつもの彼に戻っていたからだ。
「くどいな、臣!天地神明に誓って本当だ。おまえが正直に言えと言うから私は…!」
途端。
急に全身の力が抜け、お陰で臣は文字通り糸が切れたように崩れ落ち――。
「お、おい…」
驚いて水紅は立ち上がった。
「はあ、まったく――。水紅様、腰が…腰が抜けましたよ!どうしてくれるんです!?」
へたり込んだ床からむっかりと水紅を見上げ、臣はこれ見よがしのため息をついた。
「そう…ですよね。ただその時期だけがまるで疑いようもないほどぴったりだった、それだけなんですもん。どうもおかしいと思った…。遊佐様はちゃんと呪詛を相手に返し続けているのに、水紅様にはまるでそんな兆候がないし、にわか仕立ての式神が、あんなに長時間ちゃんと動くはずはないし――。動機だってないんだ。そうだよな…。おかしいよ。そんなの有り得ないのに、まったく…」
ぐったりと肩を落とす。
「大体、水紅様がちゃんと話してくださらないから!何を調べておられるのかと、あれほど何度も伺ったのに!」
そして臣はぶつぶつと、いつもの悪態を吐いている。
「おまえな…よくもぬけぬけと…。全然信じていなかったくせに!」
呆れ顔の水紅があからさまに剥れた。
「信じてましたよ!もちろん信じてましたともっ」
むきになって言い返してから、ふと臣は声を落とした。
「だって…。信じているから心配なんじゃないですか…。もしも万が一――なんてこと、どうでもいい人間に対して思うことじゃないでしょう?」
水紅は心底嬉しそうだった。
情けなく床に座り込んだ臣も力なく笑い返す。
だが、これで問題が解決したわけではない。
「さあ、次はおまえの番だ!ちゃんと説明しろ、臣。この式神は何だ?何かあったのか、如月で」
臣は深いため息をついた。
「ええ。あの…篠懸様が呪詛に苦しめられているというのは先に聞いておられますよね?実は同じ人物から差し向けられたと思しき式神が、先日篠懸様を襲いました。数十羽の巨鳥にその姿を変えてね」
水紅の顔が青ざめる。
「ああ…でも、どうかご心配なく。みなさん、ご無事です。擦り傷ひとつありません。でも…」
臣は不意に眉を寄せた。
「まったく同じ紙の鳥がここにあったということは、かの敵はこの内部――光の宮にいる可能性が出てきましたね。ここの人間、あるいはここに出入りしている人物ということですよね、これ…」
「確かに――そうなるな…」
水紅は改めて紙の人形へと視線を落とした。
「そしてそのお陰で、あれが周到に計画された襲撃であった可能性も出てきた。半年も前にこの鳥が存在していたとなると、相手は相当先を読んで動いていますね。予見の出来る者の仕業かな…」
そこまで言うと、臣は寄せた眉をふっと解いた。
「何だか内にも外にも敵だらけですね。ああ、そうそう。水紅様、ご存知です?方術はその昔、この国にも存在したんですよ」
「何…?東方の秘術ではないのか?」
水紅はにわかに目を見張った。
「はい。多分、水紅様がかつてご覧になったという式神の記述は、この国の呪禁師や宮廷呪術に関するものだろうと思うんですけど」
首を捻りながら立ち上がり、水紅は書棚の一番上から一冊の本を取り出した。色褪せた古い歴史書だ。
ぱらぱらと捲ってみると――。
「ああ、確かにこれだ。あの本――そうか、これであったか…。と言うよりおまえ、よくそんなことを知っていたな」
水紅はようやく見つけた問題の箇所を指でなぞる。
「偽者ながらに一応学者で皇子付きですから、それなりの努力はしています。遊んでばかりいるわけじゃありません」
臣はにっこりと微笑んだ。
「道教の流れを汲む術と宮を追われた呪禁師たち――。彼らと関わりがあるのなら、その血筋を辿るべきか…」
何やら呟き、ようやく臣は立ち上がったが――。
「あ…」
水紅の手元を見るなり、臣は小さく声を上げた。
本を捲る手がぴくりと止まる。
ちょうど今広げられている頁には、六芒星の絵が描かれており、その中心には月と桜のような花を模った楼蘭国の紋章が描かれていた。
「ん…?これか?」
水紅は、広げた頁を差し出した。
「これ…ヒランヤですね。『惨刑のヒランヤ』。この国のはこういう形なんですねえ」
臣はなぜかひどく儚げな表情を見せた。
「何だそれは…?ヒラン…ヤ?」
「水紅様。焼印ってご存知です?」
「焼印とは――罪人が押されるというあれか?国家を揺るがす大罪人にのみ与えられる証と聞いたが…。ある意味では死罪よりも重いとか」
「ええ…そう。国家反逆者とか政治犯なんかが主に押されるようですね。国家に深刻な影響を及ぼしかねない罪を犯した者――その中でも、より罪深いと判断された者が、身体のどこかに直接国の紋章を焼かれて、そのまま国外へ追放されるんです。刻印された国には当然出入り禁止。近付くことさえ許されない。故郷の印など押されたら、親兄弟や子どもとも、もう二度と逢えない。逃れ逃れて遠い異国へ渡ったとしても、印の存在はひた隠し。そうしなければ職にも在り付けないんです。万が一にもばれてしまえば、今度はそこの人々に追われますから。近隣に凶悪犯が潜んでいるなんてことになれば、誰しも心中穏やかとはいきませんよね。当然のことです。
つまり、印を持つ者は、常に周囲の目にに怯えながら、ただ孤独に――そして寂々と惨めに一生を送るほかはない。それだけのことをしたのだろうと言われれば確かにそうですから、何とも申し開きもできませんがね…」
いつもの椅子へ腰掛けると、臣はすっと足を組んだ。
「なるほど…。それは確かに死罪よりも重いと言えるかもしれぬな。人目を逃れ、日々怯えながらの人生――考えただけで気が狂いそうだ」
水紅は紙面に描かれた印をそっと指先でなぞった。
「実際、精神を病んでしまう者も多くあるようです。また、食べてゆけずに道端で野垂れ死ぬ者や、孤独に耐えかねて自害する者もあると聞きました…。印を押される時だって、それはとてつもない苦痛です。大勢の民衆の前に晒されて、麻酔もなしに肌に直接焼き鏝を当てられるわけですから。その痛みに失神する者だって、発狂する者だってあると言います」
「相手が罪人とはいえ、むごい話だな…」
「楼蘭ではそういうことはないのですか?ご覧になったこと、あります?」
再び水紅は本を捲り始めた。そこには惨刑のヒランヤなるものに関する記述が数頁に渡って記されている。
「いや…私の知る限りではないな。こうして記述が残っているのだから、昔はあったのかもしれぬが…。それにしてもそう大勢ではないだろう」
臣は目を伏せ、またも深い憂いを見せた。
そして――。
「なんだ…ご覧になったことないんですか。そうですか…」
消え入りそうに呟くと、なぜか臣はおもむろに衣を脱ぎ捨てた。
「…?」
きょとんと首を傾げる水紅に構わず、臣は小袖の中に着込んだシャツの胸元を大きく広げ、そこから一気に右腕を引き抜いた。
そうして晒されたその右腕には。
「……!!」
思わず息を呑む――。声も出なかった。
「こんなものを…。こんな忌まわしきものを二つも背負ってる人間なんて、世界広しと言えど、そうはいないと思いますよ…」
声を落としてそう言うと、臣は向けられた視線を避けるように俯いた。
あろうことか、彼の二の腕には二つのヒランヤが焼かれていたのである。
どちらも見たこともない紋章だった。一つは、剣と竜の様なものが描かれていて、もう一つの方は獅子のような獣が描かれている。
刹那、鼓動は急激に勢いを増し、水紅の中で無尽に乱れ、暴れ始める。この胸を突き破りそうなほど大きな音。耳を覆ってしまいたくなるほどの――。
「お…おまえ、これは…っ!?一体どういう…!?」
やっとのことで声を絞る。示された現実は、こうして目の当たりにしたところで、とても信じられるものではなかった。
臣が国家を揺るがす大罪人――?
それも一つのみならず、二つの国を追われねばならないほどの大罪を犯した人間だったなんて…!
「ずっと…。ずっと黙っててすみません。ですが、もう…こうなったら、解雇されても文句は言いませんから。隠し事は無しと、先ほど私はあなたにお約束しましたからね」
瞳を伏せたまま、臣は意外なほど穏やかな微笑みを浮かべた。
「どちらもずっと西の…海を越えた更に向こうにある国の紋章です。片方は島国ながらも大きな国でヴィングブルク王国、もう片方はその属国でゼノビア公国のもの。かの地では、当国ばかりか近隣諸国にまで写真が回ってしまったので、私は本当にもうその近海に近付くことすら叶いません。
そして…あのイングラムは、元々はこのゼノビアのルントシュテット大公に仕えていた近衛です」
さあっと血の気が引いた。
ずっと信頼してきた。彼だって忠義に仕えてくれていたじゃないか!
それがこんな――!!
水紅は拳を握り締めた。
落ち着きをなくした唇がわなわなと震える。
「そ、そんな…。一体そこで何をしたんだ、おまえ!!国を追われねばならぬ罪とは何だ…ッ!?何で…何で…こんなこと!」
水紅は驚くほど切なく声を張り上げた。まるで今にも泣き出しそうな声だった。
「あの…ゼノビアの独立同盟を白紙に…。そしてその後、ゼノビア公国はヴィングブルク王国に武力で制圧されて、もはや存在すらしていないそうです。何と言うか…結果的にそうなってしまったんですけど…」
「どういうことだ!?」
一層声を荒げ、水紅は鋭く臣を睨んだ。気丈な眼差しは、信頼を裏切られたことへの怒りの表れなのだろうか…。
だが、床へ落ちた臣の視線は戻らない。今の水紅の心中を思えば、目を合わせることなどできなかった。
「今から…六年ほど前…。当時二十歳そこそこの私は、偶然ゼノビアという国へ流れ着きました。緑豊かで穏やかな土地柄の、本当に素晴らしい国でした。
そこに辿り着いて間もなくのこと。場末の粗末な酒場で一人で飲んでいると、店にある女性が入ってきたんです。
正直、驚きました。だって、もうまるっきり浮いていましたから、彼女…。服装こそ庶民の物を身に着けておられましたが、その立ち振る舞いや仕草、お顔立ちに至るまで、それは高貴で優雅で美しくて…。とてもじゃないが、どこの馬の骨とも知れぬ私程度が出入りするような汚い酒場には、そぐわないお方でした。
無骨な荒くれや怪しげな輩ばかりが屯する店内で、無防備にもにこにこと微笑む彼女――。私は心配になって声を掛けました。彼女の名はクラウディアと言いました。そこでまた色々とごたごたがあったんですが…。まあ、とにかく店から彼女を連れ出し話をしてみると、どうも何も考えずに街を散策しているうちに迷い込んでしまった――ということのようでした。何だかおかしな女性だなとは思いましたが、二人とも似たような齢でしたし、打ち解けるのにさほど時間は要りませんでしたね…。
でも彼女は――。知り合ったその時はお互いに知らなかったんですけど…」
臣はふと窓の外へと目を向けた。いつの間にか空は茜に染まり始めている。
まるで追憶にその身を委ねるように、臣は静かに目を閉じた。
「彼女は、忍びで街を訪れていたゼノビアの姫君だったんです。
まさかそんなこととは知らない私は、その後、ゼノビアの軍に入りました。配属された部署は末端の外人部隊で、持ち場は国境周辺の警備。ですから城の中になどあまり用もなかったですし、当時は私も色々あって、よく牢に放り込まれていたので、あのクラウディアがこの国の姫君だったなんて、最初はまるで気付きませんでした。だいいち公爵家になど興味すらなかった。大公本人の顔すら暫くは知らなかったですよ。軍に身を置いたのも、単に当面の食い扶持が手に入れば良い――という程度の気持ちでしたしね。
でもある時、城で開かれる舞踏会の警護の人員が足りないとかで、私は初めて城の中に呼ばれました。
それで知ったんです。互いに焦がれる相手が、実はどんな人物なのかを。片や一国の姫君、片や末梢の一兵。どう考えても許された話じゃありません。天と地ほどの身分の差です。それに彼女――国の同盟のために、親子ほども齢の離れたヴィングブルクの王に嫁がねばならなかったんです。もうとっくに決まってたんですよ」
不意に。
伸ばされた指先が臣の腕に微かに触れた。
「その…。腕の印に触ってみても…構わんか?」
臣は目を丸くした。意外な言葉だった。
「あ…。え、ええ…」
震える指でそっと触れる。紅く焼かれた肌の瘢痕。痛々しいまでの紅い傷痕。
消えない罪…。
逃れることも抗うことも許されない、忌まわしきその証…。
ついに水紅はその傷痕に額を押し当て、うなだれてしまった。
(水紅様…)
臣の腕に縋ったまま、水紅は微かに呟いた。
「それで…姫は?」
「あ…。ええと…それで…本当ならそこで話は終わりなんですけど、何と言うか、その…。互いの立場の違いに、確かに初めは愕然としましたけど…それでもやっぱり私たちは、相変わらず人目を忍んで逢っていたんです。
場所は決まって城の敷地の外れにある楡の木の下。以前から一人になりたいときには、そこで月を眺めながら考え事をしていました。本当に外れの寂しい場所ですから、人などまるで来ません。まして夜中になど――。更に都合のいいことに、その木の下は城のどこからも陰になって見えなくて、そこが良かったんですけど…。
でもね、後で姫から聞いたんですが、その場所、彼女の部屋からは丸見えだったんだそうですよ」
臣は窓の外を見つめて小さく笑った。
「彼女――クラウディアという女性は、普段は確かに気品あふれる素晴らしい姫君でしたけど、実は少々らしからぬ一面も持っていて…。つまり、ちょっと元気が良すぎて、時々とんでもないことをするんです。
それでその…ある晩のこと、あの場所で一人呆けている私の姿を見つけた彼女は、自室のバルコニーから飛び降りてしまった」
「え…?」
水紅は目を瞬かせた。
「あの場所に彼女が現れた時は、本当にびっくりしました。ですが、以来、彼女は毎晩のようにそこに現れ、私も毎晩そこにいた。とはいえ、本当にただそこで逢って、身を寄せ合い、言葉を交わしているだけでした。物陰に隠れ、月を見上げて…本当に他愛もない話ばかりをいつまでも。それこそ、一晩中語ったことだってあった。その時ばかりは、身分とかそんなくだらない柵は一切関係なかった。
でも、ある時からそれも変わる。正式な婚約の儀が執り行われた某日、またも警備に駆り出された私は終始複雑でした。
宴の真ん中に、華やかに着飾った彼女と、ルントシュテット大公、そして公妃。その隣には、あのヴィングブルク王・ジークフリートがいる。そして、浮かない顔の彼女をよそに、周囲は異様なほど浮かれていて…。だって、それはそうですよ。政略結婚とはいえ、ジークフリートは当時五十歳は優に超えていましたから。まだ十八の彼女には酷な話です。その上あの男――大変な色気違いときている。あの日も物陰に彼女を引きずり込み、手を出そうとしました。見つけて思わず割って入りましたけど…。
でも、あれが後の仇となってしまった」
臣は短いため息をついた。
「その日――ついに彼女に言われましたよ。自分を連れてここから逃げて欲しい、と。いつか言われるだろうとは思っていましたが、でもそんなこと…。到底、私などにできるはずはありません。彼女と二人ここから逃げて、それでどうなるかと――。だって、相手は一国の姫ですよ?私が幸せになどしてやれるはずもない。
心を鬼にして断りましたよ。自分の胸に確かにある彼女への想い。それをを全部殺して、彼女を傷つけた。お国のために犠牲になってくれと言ったんです、私は。心から愛する人に、そんな残酷なことを平然と言ったんですよ。今度こそ、そこで別れるつもりでした。彼女とすっぱり縁を切って、この国を離れようと思っていた。
でも…。そう言いながらその言葉とは裏腹に、私は胸に縋る彼女を抱き締めていました。何か…気持ちがどうしても止まらなくて…。どこかで理性の箍が外れてしまったんですかね。
結局、その晩もその次の晩も…。ずっと、あの木の下で逢瀬を重ねていました。でも、もう以前のようにくだらない話なんかできなくて…。その後は、ただそこで刻々と迫る別れの日を惜しんでいただけです。彼女がかの大国に嫁いでしまえばもう逢えませんから。あの場所で、毎晩彼女を腕に抱いて…時々は思い出したように口付けて…。でもそれだけ。本当にそれだけです。体の関係なんて一切ありません」
「……」
水紅は黙って耳を傾けていた。
そんな過去、臣はこの五年間おくびにも出さなかった。
それでも彼がここに来たばかりの頃、もう既にこの腕にはこの印が刻まれていて、運命に敗れたばかりのその胸は深く傷付いていたはずなのに…。
まるでそんなことは考えもしなかった。
全然気付きもしなかった――。
何も言えず、またヒランヤをなぞる。
「先ほど、姫の部屋からあの場所が見えると申し上げたでしょう?物陰に隠れて忍び逢っていたはずの私たちは、いつしか煌々と降り注ぐ月夕に晒されていました。月の位置というのは日々変わるじゃないですか。きっとそのせいだと思うんですけど…。
お陰で見つかってしまいましたよ。ついに――と言うか、とうとう。実はずっと覚悟はしていました。外れとは言っても一応は城の敷地の中ですから、いつかは…とね。そう思っているうちに、とうとうあの日、あのイングラムに目撃されてしまったんです。
でも――。己の心に正直にいたつもりなんですが、見つかってどこか私はほっとしていました。自分は罰せられるべきだと、いつもどこかでそう感じていた。大体もはやよその男のものですしね、彼女は。ずるずると関係を続けていても、彼女の想いに応えてやれるわけじゃなし、かといってそれを撥ね除けることもできなかった不埒な自分をね…。何だか…誰かに裁いて欲しかったんですよね…。
尊い姫を誑かし、栄えある同盟に水をさした咎とかで、すぐに私は捕えられ、形式だけの裁判もそこそこに大勢の民衆の前に引っ張り出されましてね…。それで即、これですよ。
そうすることで、暗にゼノビアはヴィングブルクに請うたわけです。同盟をふいにしようとした憎き手合いは、極刑に処しました。どうか臍を曲げずに姫をお娶りください、と…ね」
臣は自分の腕の紋章――剣の紋章の方を指し示しながら言った。
「たかが恋――。でも相手は国の未来を担うご結婚を間近に控えた姫君。お陰で私も立派な国家反逆者だ。やれ大切な姫を傷物にしただの、やれ同盟を破棄されたならば云々と、それは散々に責められました。でも、取れと言われて取れるような責任じゃないですしね、こちらだってもう捨て鉢です。今更、どう転んでも自分の人生など台無しだ。別に国がどうなろうと、そんなことは知ったことじゃない。今すぐに首でも何でも刎ねろと、そう思っていた。
そう…身を切るようなあの方の涙を見るまでは――。
あの方を…。できることなら幸せにして差し上げたかった。でも、そう思いながら、結局私はあの方をどこまでも不幸にすることしかできない。確かに印に値する罪だと思いました。あの方も耐え難きを耐えておられる。私だけが死に逃げるわけにはいきません」
そこで臣は、少しばかり考え込むような仕草を見せた。
「ただ、今でも不思議なんですが、私はあの時、国外追放にはならなかったんですよね。忌まわしき証をその腕に焼かれながら、なぜかまだゼノビアの軍に身を置くことを許されていました。ひょっとすると姫がお父上に泣きつかれたのかもしれません。
そんなある時、私はヴィングブルクの某所で起きた戦に駆り出されることになりました。圧政に苦しむ民衆の蜂起ということでしたが、戦況はなかなかに熾烈で、あちこちでゲリラ戦が展開されていたようです。小隊とともに敵地に乗り込み、こちらも抵抗勢力を遊撃するようにと命じられました。とても危険な仕事です。一兵である私が戦で死んだとあれば、姫も諦めがつくだろうと――どうやらそういう意味のようでした。
ヴィングブルクへ発つ前日、あのイングラムが私のところへやって来ました。姫の婚姻を機に、ともにヴィングブルクへ入り、終生彼女に仕え続けるつもりだと彼は告げ、その代わり私には潔く戦地で散って来いと言って…。ほら、これ」
右腕を返すと、肘から手の甲の方に向けて一本の刀傷があった。ちょうど印の下からすっと一本伸びる深い傷跡――。
「これは…?」
「その時に彼に短刀で裂かれました。利き腕を負傷したとあっては、白兵では圧倒的に不利ですから。これね、医者に見せる暇がなくて自分で何とかしたものなんですけど、どうも思ったより深かったみたいで…。恐らく神経を破っているんですよ。実は今でも薬指がうまく動きません。
この先はあなたもご存知の通り――この後もそんな状態のまま、暫くは紗那で傭兵なんかしてましたが…やはりもうだめですね。剣を振るのに左を添えないと簡単に弾かれてしまう。戦うのに不自由で仕方がなかったですよ」
臣は苦笑した。
「イングラムが去った後、その傷を何とか止血し、呆然としていると、今度は何者かが手紙を部屋に差し入れて行きました。そこには、最後に姫にひと目逢ってやって欲しい…と、そう書かれていました。あの場所が見えるバルコニー。今宵、子の頃、そこにきっと彼女は立つから、どうか逢いに来てやって欲しい、と…。正直迷いました。また彼女を徒に惑わす気がして…。
だけど…。
今思えば本当に馬鹿だったと思いますが、結局ね…逢いに行ったんですよ。案の定、バルコニーから舞い降りてきた彼女は、この腕の中で嬉しそうに笑いました。月明かりの中、久しぶりに見た愛しい笑顔。そしてそれが…私の知る最期の彼女の笑顔でした。この空――互いの真上に続いているこの空の下にあなたがある限り、どこにいても何があっても、ずっと私はあなたを想う――と、その晩そう彼女に誓い、翌日私は戦地に赴きました。
ですが…」
急に臣は言葉を詰まらせた。
窓の外はもう宵闇が迫っている。もういくらもせぬうちに、そこには彼の嫌いな月が覗くことだろう。
臣は静かに立ち上がり、傍らの短檠に火を入れた。俯いた横顔は、その先を言葉にするのを躊躇っているようだった。
やがて、再び椅子へ戻った臣は深くうな垂れ、顔を両手で覆った。辛い記憶が蘇ってしまったようだ。
水紅はそんな臣の肩をぎゅっと握った。
「婚礼を…翌日に控えたその晩、泣き濡れる彼女を見かねた誰かが臣は戦地で散ったと――そう申し上げたそうです。それを聞かされた彼女は、刹那的に城の裏手へ走り、そのまま断崖の下に広がる海へと…身を投げてしまった。きっと私の後を追ったつもりだったんでしょうね。
その時、彼女は言ったそうですよ。同じ空の下にいられないのなら生きる意味がない、と――。
でも、それって…私の言葉でしょう?あの時、のこのこ彼女に逢いに行かなければ…。あの時、あんな言葉を吐かなければ…彼女は今も生きていたかもしれないんです」
臣は拳を握り締めた。
「知らせを聞き、急ぎ城へ戻ったときにはもう…葬儀も何もかもすっかり終わっていて彼女の姿はどこにも…。
罰せられている身でありながら勅命を無視し、恩赦として与えられた任務をも投げ出した私は、またそこで投獄されました。
今度こそ殺されると思いました。だが、それも望むところだ。だって、これでやっと楽になれるばかりか、彼女の元へだって行けるじゃないですか。
でも…そんなに甘くはないですね。すぐにヴィングブルクから私の身柄の引き渡し通告が来たそうですよ。同盟の切り札だったクラウディアを失い、途方に暮れていたゼノビアのルントシュテット卿にとって、そんなことであちらの気が済むのなら願ってもないことだ。
私はと言えば、別に…。どこで処刑されても同じですから、そんなことはどうでも良かった。
しかし、ヴィングブルクの王都で私を待っていたのは、絞首台でも断頭台でもありませんでした。またしても、大勢の民衆の好奇と厭忌の目。そして、忌まわしきあの焼き鏝…。ジークフリートは、私の顔を見て、やはりおまえかと笑いましたよ。以前――婚約の儀の時に、私は彼に食って掛かってますからね。どうやら顔を覚えていらしたようです。それにゼノビアでの一件も…なぜか全部ご存知でした。
結局、私は死刑なんかにはならず、数日に渡る鞭打ちと新たな惨刑の焼印。それから国外追放と近隣の立ち入り禁止…。それで事は済んでしまいました。済んでしまえば本当にあっけないものでした。
それからの一年は、ゼノビアを遥か離れた紗那の地で、イングラムに貰った傷と二つの印の痛み、胸の奥底に巣食う疼きや、どうにもならない呵責――ずっとそんなのと格闘しながら生きていました。それでもやはり、私にできる仕事なんか、傭兵や用心棒ぐらいしかなくて…。
利き腕が殆ど使えないままそんな仕事に従事したり、適当なその日暮らしの労働をしてみたり…。何だか呆然と、ただそこで生き恥を晒していました。そんな私程度が、たまたまふらりとこちらへ謁見に伺っただけで、あなたの目に留まってしまった。今でもそれが不思議なぐらいです」
水紅はぼんやりと潤んだ瞳を上げた。
「臣…。もしやイングラムは…姫を密かに慕っていたのではないか…?」
臣は小さく頷いた。
「ええ、多分。彼のクラウディアを見る目、やはりそういう類の目でしたよ。こちらだって気持ちは同じですから、見ていれば何となく分かります。それで復讐がしたいのでしょうね、恐らく」
「しかし、姫は自ら命を絶たれたのだろう!?それでは逆恨みではないか!!」
思いがけず水紅は、感情的な声を上げた。
今この目の前にある姿こそが真実の水紅皇子、その人――。
こうしてすべてを口にするまで、臣は何度となく迷ったのだ。
ありのままの過去を語ってしまったら、彼は臣を拒絶するかもしれない。これまで培ってきた信頼も、ずっと寄せてきた忠誠も、何もかもがなかったことになってしまうかもしれない…と。
だが、今の姿で改めて気付いた。
我が主・水紅皇子は、決して人が言うような冷血な人物でも傲慢な皇子でもない。断じてそんな方ではないのだ。
若いその胸に息づくは、儚くも脆い清浄の心。それを偽りの仮面で覆い、彼はここで生きている。
彼を守りたい。
このままの彼を、すぐ傍で見守っていたい。
誰にも穢させたりしない。
そう…。
今度こそ、きっと――。
こみ上げる思いに微笑み、臣はふっと肩を竦めた。
「そうなんですかね…?確かに私のせいで亡くなったとも言えます。実際、私だって自分が殺した――と、そう思っています。それに、結局ね…あの後、同盟はふいにされたんですよ。元々、私の身柄一つでなど収まる話ではなかったんです。同盟の破棄と同時に、ゼノビアはヴィングブルクに宣戦を布告され、瞬く間に歴史から消されてしまったそうです。彼は――イングラムは、一瞬のうちに愛する姫と祖国の両方を失ったんです。どう詫びても許してもらえることではない。ならばいっそ彼が望むまま殺されてやってもいいのかな…って、そう思ったことも正直ありました」
蘇ったものは、蘿月と対峙したあの日の苛立ち――。
「お、おまえ、また…っ!」
水紅は乱暴に椅子から立ち上がった。弾みで椅子がごとりと床へ転がる。
これほど感情を露にする水紅は珍しい。
嬉しかった。
胸の中にまた温かいものが湧いてくる…。
思えば、どことはなしに、篠懸の感情が湧き出す時と似ている。腹違いと言えど、やはり兄弟なのだな…と、臣はぼんやり思った。
「でも、今また水紅様が死ぬなと仰るなら死にません。死ねるはずなんかないですよ。こんな私でも、まだあなたが必要だと言ってくださるのならば。で、どうなさいます、この大罪人。思い切って今、解雇しておきますか?」
これまでの態度や口ぶりから本当は返答など分かってはいたが、わざと意地悪く尋ねてみる。だが、その空々しさは却って彼の臍を曲げさせてしまったようだ。
ぷいと拗ねた横顔に、思わず綻ぶ。
「さっさとその腕をしまえっ!」
いつも淡々としている彼が、まるで幼い子どものようだった。
言われるまま素直に身形を整えている間も、水紅はまだ憮然と下を向いている。そうして突然、ぱたん!と卓上の本を閉じると、水紅はぎゅっとその手を握り締めた。
「見ていないからな、何も。私は知らぬ!おまえの過去になど興味もない!!」
臣は声を殺して笑っていた。
なんだか嬉しくて仕方がなかった。
ああ…ようやく月が顔を覗かせたようだ――。
柔らかな月の明かりが部屋に差込み、窓辺を照らしている。
あの白い月気は、いつも辛い記憶ばかりを呼び起こす。贖罪すら叶わぬ我が身…。そして、数多の不幸の果てに、思いがけず手にしてしまった幸せな日々。
そのすべてが今、あの神聖なる光の下に晒されている。
こんな卑怯な生き方は許されない。
あの月は、ああして静かにこの身を裁いているのだろう。
数々の罪に濡れ、大勢の血に染まり、ついには愛する者の命まで奪ってしまった罪人の上に、いつまでも安息などあるはずがないと。いくら隠そうともすべてはここに刻まれている――きっとそう言っているに違いない。
月は…あの月はどこにあろうと、いつもそこですべてを見ていたのだから――。
(姫――。あなたをあれほど不幸にしておきながら、あなたの愛する祖国を奪っておきながら…。あろうことか、私はこんなに幸せです。これは罪ですよね。許されたことじゃないですよね…?こんなのは卑怯だと分かっていますけど…。でも、どうしましょう。今はまだ彼のために生きていたいんです。我が身の持てる力をすべて捧げてでも、どうしてもこの方をお守りして差し上げたいんです。
もう少し生きていても構いませんか?どうか、もう少しだけそこで待っていていただけますか…?)
密やかに臣は月を見上げた。
11.大切なひと
牢を出されたその足で、睦は再び白露の元へ出向いた。
まるでいつもと同じに――何事もなかったように彼女は彼を求め、彼も平静の如く応じる。今更抗うこともない。何一つ変わらない、ただ繰り返されるだけの日常。
でも一つだけ――。
最近になってようやく一つ、気付いたことがある。
(なぜ私なのかとずっと不思議に思っていたが、結局は嫉妬なのかな…)
すらりと細く華奢ないでたち。しなやかで張りのある白い肌。端正且つ気品をも備えた、まるで女性の如き淑やかな顔立ち。
すべて、白露も一度は手にしたものである。
だがそんな彼女も今や齢を重ね、事あるごとに身の衰えを憂いている。きめ細かく滑らかだった肌は今やくすみがちになり、ぴんと涼しげだった目元にも細かな皺が刻まれた。皇帝の寵愛を欲しいままにした当時とは別人だ。
彼女は、睦の若さと、男ながらに麗しいその容姿に嫉妬している――。
しかし、いくら嫉まれようと、妬まれようと、睦とて望んでそうなったわけではない。むしろ彼自身はそんな自らを恥じているほどだ。
堅海のように堂々と逞しく、愁のように意思を強く、臣のように聡く気高く――本当はそうなりたい。そんな彼らの姿に憧れる。
この自分がそんな自分であったなら、香登は今でも宮に残っていてくれたかもしれない…。
鬱々とした心を引き摺り自室の前まで戻ってきた睦は、ため息をついて扉に手を掛けた。
そこには――。
「失礼しているぞ、睦。鍵が開いていたのでここで待たせてもらっていた」
頬杖をついた臣が振り向いた。
「あ…いえ、構いません。こちらこそお待たせして申し訳ありませんでした」
「おまえ、いつもそうして謝ってばかりだな」
あからさまに呆れるため息の先で、恥ずかしそうに睦が笑う。
「ほら、土産だ」
臣は折りたたまれた手紙を差し出した。
「お土産…?私にですか?確か、如月へ行っていらしたんですよね…」
そっと中を開いた途端――。
「篠懸様…!!」
沈んでいた睦の顔は、雲の切れ間に覗いた陽だまりのように、鮮やかに晴れてゆくのだった。
やがて、ゆったりと窓辺に寄りかかったきり、睦は動かなくなった。
瞬きも忘れて紙面に見入る瞳や唇から、ふんわりと仄かな笑みがこぼれている…。
再び頬杖をこしらえた臣は、そんな睦の姿をひどくぼんやりと眺めていた。
(篠懸様…か。本当に不思議なお方だな…)
水紅に手紙を手渡したときもそう思った。いや…それ以前に、銀鏡の火喰鳥と異名を取るあの氷見と初めて見えた日にも感じていた。
篠懸という少年は、いつも瞬く間に人の心を虜にしてしまう――。
まさか意図的にそうしているわけではないだろう。だが、時として彼は、人の心の弱っている部分に、それは巧みに飛び込んでしまうのだ。そうしていつしかじっとそこに居座ってしまう。
悲しみや苦しみ――打ちひしがれ固く閉ざされた人の胸を、彼の純真さという剱は容赦なく貫き、あっという間にこじ開けてしまう。
彼の存在は人の心を掴んで放さない。
その笑顔は見た者を不思議と安らかにしてしまう。
そう…。
思えば、臣とて例外ではなかった。
僅かながらも同じ時を過ごし、ともに語らい、その心に触れ――そうしている間に臣の中の篠懸は、もはやかけがえのない存在へと成長してしまっていたのだから。
篠懸の武器――それはその小さな胸に宿る慈悲の心。そしてそこから生まれる、とてつもない強さ。温かく混じりけのない無垢な彼の心のすべてが、ただ一つ最大最強の彼の武器。
「お元気そうですね、篠懸様」
「ああ…」
「あなたのことも書いてありますよ。ええと…堅海はお父さんで、愁はお母さんで、氷見という新しいお友達と臣はお兄さんだ、と――」
「何だそれは…。むさ苦しい家族だな」
嬉しそうに差し出された文面には、確かに篠懸本人の字でそう書いてある。臣は、ふっと眉を解いた。
「あちらには女の子もいるんですね…。あ…でもこの子は家族じゃないんだ?」
「確かにあの子は違うだろうな」
「そうなん…ですか?」
頷いて臣は、卓の上に指を組んだ。
「篠懸様にしてみれば、あの子は恋のお相手さ」
異性という存在を意識してか、いつしか篠懸は軽々しく紫苑の傍に近寄ろうとはしなくなっていた。それでも、確かに気を配っていたようには思う。勘付かれないよう細心の注意を払いながら紫苑の様子を窺う篠懸の姿を、臣は如月で何度も目撃していたのである。
「そうそう――。おまえのあの贈り物、大層喜んでおられたぞ。小さな袋に入れてな、いつも大切に持ち歩いておられるようだ」
「そうですか。喜んでいただけたのなら良かった…」
睦はふわりと瞼を伏せた。篠懸の手紙は、胸に集めた両腕の中に大切に包まれている。
「臣もとても楽しそう…。何だか声が前より明るいですよ」
「そうか?」
きょとんと見返すと、睦はまた嬉しそうに瞳を細め、うんうんと頷いた。
「おまえも…出られるといいんだがな…」
臣はにわかに声を落とした。
「もう皇子付きではないのだから、本来ならいくらでも外へ出て行けるはずだ。それこそあの篠懸様のお見舞いに伺う事だってな。だがそのようなことを、まさかあの年増狐は許しちゃくれんだろうな…」
持て余した指先をふらふらと遊ばせつつ毒づけば、見る間に――。
「あ…あの…っ。い…今、何て仰いました!?と、年増…!?あなた、そんな滅多なことを!!」
まん丸にした眼を白黒させて、睦は一人で慌てている。
「ふん。別に本当のことだろう?今に始まったことではないが、大体あの女、少し頭がどうかしていないか?私に人の好みをどうこう言えた義理ではないが、それにしたってこうも齢の離れた若い男に毎晩毎晩伽の相手をさせるなど…。いい齢をして色惚けもいいところだ。いくら身分が高かろうと、節操の欠片も持ち合わせぬたかが牝犬。ここでどう呼ぼうが私の勝手だ」
けろりと言ってのける。
「ちょ…ちょっと、臣!あなた、何てことを!言葉が過ぎますよ!?」
睦はあたふたと辺りを見回した。もちろん部屋には彼ら以外の人影はない。
白露と言えば、唯一内裏に残る皇帝夫人――しかも、臣本人が仕える第一皇子・水紅の実母。苟も、その従者同等ともいえる立場の彼が、遥か尊いその人物の悪口雑言を好き放題に放っている――。
これが万が一にも誰かの耳に入り、白露の知るところとなれば、とんでもない結果をも招きかねず、そういう意味でこの睦の慌てようは当然のことと言えた。
だが…。
そんな臣の口ぶりを小気味良く思う気持ちも正直ある。胸の内で睦は密かに苦笑していた。
(そうか、臣は…彼はこういう人物だったんだ。全然知らなかったな…)
臣に限らず皇子付きは、常に自らの受け持つ皇子の傍らにある。つまり臣の場合は光の宮、愁は星の宮、そして香登がいた頃の睦は風の宮――というように普段の彼らは、互いに別々の場所で生活しており、その姿を目にすることさえひと月に何度もなかったのである。
従って、同じ職務に従事していた頃にも繋がりなど殆どなかった。
定例の会議で時々顔を合わせ、たまたま廊下で擦れ違えば月並みな挨拶や会釈を交わす――確か臣ともその程度の付き合いだったように思う。
それでも、同じ皇子付きだったということもあって、睦にとっての愁や臣は特別な存在ではあったのだ。
特に会議の場での二人――それはいつだって、それこそどんな議題であろうとも、決して物怖じすることなく、大勢の諸先輩方を前に堂々と意見を戦わせる二人の姿…。
彼らは良くも悪くも目立つ存在だった。
基本的にどちらも若く、態度も物静かな方ではあるが、臣は少しでも得心がゆかぬとなれば、どこまでも強気に食って掛かっていってしまうし、愁などはじっと押し黙っていたかと思うと、不意に発する核心の一言で荒れた議論をも見事に収めてしまう。
いつもおろおろと気後れするばかりで、話の成り行きを見守ることしかできない自分とは大違いだ。
そんな劣等感は、睦の足を更に彼らから遠ざけた。睦にとって、彼らの存在はあまりに眩しすぎた。
(本当は…いつも羨ましくて仕方がなかった…)
そんな心を知ってか知らずか、臣は――。
「まあ…おまえにしてみれば、結局は全部自分で決めたことだからな。辛かろうが苦しかろうが、ある意味では仕方がないと言える。だが、それでももう少し楽に胸の内を吐き出す場が要るな、おまえには。いつか身体を悪くするぞ」
そう言われても返す言葉がない。
だが確かに彼の言うとおり。元はと言えばすべて己の望んだことだ。内裏を出たくない。宮に残りたい。ただその一心で…。
だけど、もう――。
「時におまえ、今日白露様の前で星を読んだろう?あの時何を見た?星はおまえに何を告げた?」
「え…」
睦は俯いていた顔を上げた。
「あの時白露様は、見えるものがどうの見えないものがどうのと言っておられたぞ。あれはどういう意味だ?」
「あ…あの…。あれは、その…」
それこそ今に始まったことではないが、毎度ながら、睦のこれにはいらいらさせられる。
臣の眼がじっとりと据わった。
「はっきり物を言え」
そんな苛立ちを察するほどに睦は萎縮し、ついにはしょんぼりと小さくなってしまった。
だが――。
「もしやあの部屋のあの妙な雰囲気…。あのざらついた空気と何か関係があるのか?」
この言葉ではっと我に返った。
「あ…!あなたも気付かれましたか!?あのおかしな雰囲気!!」
「ああ」
臣は小さく頷いた。
「実はあそこで星を読んだわけではないんです。ここで読みました。ずっとあの変な空気が気になってて…。あの状態、もうひと月近くになるんです。それでどんどん重くなる。でも…私はそう感じているんですけど、当のご本人や御許、それに出入りしている近衛たちに至っても、まったく気付く気配がなくて、もしかしたら私の方がおかしいんじゃないかって――。でも、やっぱり何かあるんだ!早く止めさせなきゃ!」
血相を変えて立ち上がる睦を、すかさず臣は捕まえた。
「懲りん奴だな。迂闊におかしなことを申し上げれば、また牢に放り込まれるぞ。何をそう逸る。止めさせるとはどういうことだ?あの女、何か怪しげなことでもしているのか?」
大きく深呼吸をして一旦心を落ち着けた後、睦は机の引き出しから小さな手鏡を取り出した。
「今、天球は白露様にお貸ししているので」
月が映るように位置を調整して手鏡を据え、その両側にそっと手を添えた瞬間――。
「!!」
鏡面は即座に強い閃光を放った。先日の見事な星読みをも遥かに凌ぐ驚異的な速さである。
急な刺激に眩んだ目が、咄嗟に臣の瞼を閉じさせる。
そんな僅かな隙にすっと鏡から立ち上がった光の一筋は一直線に真上を目指し、やがて――。
「!!」
天井に当たって砕け散り、小さくとも見事に詳細な模擬宇宙を創り上げたのであった。
「あれです、臣。見えますか?」
恐る恐る目を開ければ、指し示された先の空間に恐ろしく紅い三日月が浮いている。だが三日月と呼ぶにはあまりに細い。
例えるならあれは…。
そう、あれはまるで、鮮血を纏った月の剱――。
「あれは…月か…?」
囁くように問うと、思いがけない険しさを見せ、睦はしっかと頷いた。
「そう――。でも、あちらを見て。あちらにも白い弓張りの月が浮いています。なぜか月が二つあるんです、この宙には。常識的にはやや高過ぎる位置に怪しげな緋色の月。一方、通常の位置には清しいほどに純白の弓張月。
分かりますか、あの三日月の正体…。あれ、爪ですよ。女性の紅い爪」
「女の爪…?」
「天を裂く爪です。この夜天は、ここでは太平の世――つまり現在の平和な状況を指しています。そこにあの月。あの高い位置で燃える真紅の三日月。あれは位の高さを表しています。天下の頂点に彼女がいるということなんです。実はここ最近、何を読んでも出てくるんです、あれ」
「なるほど。やはりな…」
ため息が漏れる。
「あ、あなた、ご存知だったんですか?」
「いや、知っていたわけじゃない。ただ…近頃のあの方に何となく妙な雰囲気を感じていただけだ。睦、他に何かないか。彼女に関すること――何でもいい。どんな些細なことでも構わん」
実は、例の本を水紅皇子に手渡して以来ずっと気になっていたことがある。執拗にそれを探させておきながら、水紅がこれまでその目的や理由を明かそうとしなかったことだ。
それこそ臣は何度も尋ねた。一体何をそうも知りたがっているのか――と。だが、その度に彼の言葉は何かとはぐらかされてきたのである。
彼がそうして頑なに理由を隠そうとしたのは、なぜだ?
それはもしや――。
(水紅様が白露様の異変に勘付かれたからではなかったか。いつもあの方は、お母上のことを良くは仰らない。それでも、水紅様にとって白露はたった一人の母親だ。もしや皇子様は、たったお一人でお母上を止めようとなさっているのではなかろうか?
しかし、白露…一体あの女、何を企んでいる?なぜ篠懸様のお命を狙う…!?)
部屋中に散らばっていた光が輝きを失い、ほたほたと足元へ落ちては消えてゆく。星読みの難しさ――それはこの滞空時間の短さに因るものが大きい。
天球や鏡などを媒体に創り出される小宇宙――術者はそれを天空へ打ち上げ、星を読む。散らばる光は星々の粒。新たに出現したもうひとつの夜天は、その晩に浮かぶはずの星座の上に占うべき未来を重ねて映す。
時に写実に、時に抽象に――描かれる結果は常に一定ではない。見えるものも、その表現法も、術者によって様々だ。
術者はその情景を瞬時に記憶し、示された未来を咀嚼して人に伝える。
少しでも何かを見落としたなら、予言は大きく変わってしまう。腕が未熟なら、未来はほんの一部しか映し出されない。伝達技法が稚拙なら、真意を伝えることさえできはしない。
学問と呼ぶにはあまりに難解。そして、並みの努力ではひととおり会得することすら叶わない。睦のように生まれつき備わった才能でもなければ――。
星読み学とはそんな学問だ。
「実は…気になっていることはまだあります」
睦は、臣の前に自分の椅子を運んだ。
「もうそろそろ一年になろうかと思うんですが、白露様の元に時々不思議なお客様があるんです。月に一度あるかどうかという程度ですから、ひょっとしたら臣や水紅様はご存知ないかもしれません。なんでも、古いお友達だとかで、白露様直筆の参謁許可証をお持ちなんだそうです。ですから…つまり、いつでも宮へは自在にお越しになれるわけですが…」
にわかに眉を寄せ、睦はぐっと声を潜めた。
「あの…おかしいんですよ。古いお友達だということなのに、そのお方、どう贔屓目に見ても子どもなんです。それこそ篠懸様ぐらいの少年なんですよ。その少年――千種様と仰るんですが、彼がいらっしゃるといつも私は追い立てられるように部屋から出されます。それで…妙なことにその後は二、三日はお呼びが掛からない。普段は、何と言うか…その…お世話をするにしてもしないにしても、必ず毎日一度はお声が掛かるのに、千種様がいらっしゃると、ぴたりとそれが来なくなる。おかしいでしょう?」
睦は更に言葉を続けた。
「それに、彼が去った後のお部屋の空気は、明らかにその前よりも澱んでいて…。以前はそれも暫くすれば元に戻っていたんですが、この頃はずっとあんな状態で…。
あの…さっき臣の言っていた、空気のざらつく感じというの、確かにそのとおりだと思います。本当にそんな感じなんですよね…。あまりに様子がおかしいので、何をしていらしたのかと何度か尋ねてみましたが、ただ昔話をしていただけと軽くはぐらかされてしまうし、あまりしつこくすると逆上されてあのように――私はまた牢へ押し込められてしまう。
特に、ここ最近というもの本当に顕著です。あの方、前から少し高圧的なところはおありでしたけれど、それにしてもこの頃は本当にひどい。それこそ何がきっかけでそうなるのか分からないほど、突然堰を切ったように感情的になられる。なんだか…私はちょっと…」
睦は卓の上に重ねた手元へ視線を落とした。
「ちょっと心配なんです。どうかするとあの方が…身を持ち崩されてしまいそうな気がして」
「はァ?心配――!?」
臣は素っ頓狂な声を張り上げた。
えらく呆れた話だ。あれほど身も心も弄ばれていながら、白露の身を気遣う心が理解できない。
「何を言っているんだ、おまえは?まさかあのババアに惚れているなどと言い出すのじゃあるまいな!?」
「ば…ババアって…。もう…そういう乱暴な言い方止めてくださいってば。尊いお方なんですから!大体、私はそんなのじゃないです!そんなわけないでしょっ!?」
睦は、半ば呆れ半ばむっとしたようであった。
「睦、おまえ…口は堅いか?」
唐突に臣はそう言って、窓の外へ目を向けた。
「その千種とやらを探りたいのなら、力を貸すぞ」
「え…?」
「だがその代わり、これから見るものを決して口外しないと誓え」
「え…と…。そ、それは、あの…」
まごつくと、即座に臣の眉は反応した。
「はっきりしろっ!!」
「あ…。は、は…はいっ!!」
つい勢いで返事をしてしまった…。
「まずは目立つその学者の衣を脱げ。出かけるぞ」
もう後戻りは出来ない――。
睦はぼんやりとそう思った。
* * * * * * * * * * * *
臣に従い、睦は密かに内裏を出た。蒼く冴えた月が、地上の二人をひっそりと照らしている。
それは見事な月の霜――。
頭上に浮かぶは、先ほど部屋で見たのと同じ真っ白な弓張りの月。そして、それを抱いて霞んだ満天の星夜だ。真夜中だというのに、灯りなどまるで要らない。
思えば昔、風の宮の露台で香登皇子と二人、こうしてよく夜空を仰いだものだった。嬉しそうに窺天鏡を抱えて笑う、あどけない顔が宙に浮かぶ。
今頃どこでどうしているのだろう…?
「香登様…」
愛しいその名を口にすると、じわりと星が滲んだ。
「……!」
はっと我に返れば、臣の背中は随分先だ。潤んだ瞼を袖で拭い、睦は慌てて後を追った。
やがて。
「あの…一体どちらまで?」
二人は、内裏はおろか大内裏をも抜け、都の外れに広がる山林へと歩を進めた。
時折小走りになりながら、それでも睦は懸命に臣について歩く。しかしながら既に額はうっすらと汗ばみ、吐き出す息もやや乱れ始めている。睦にとって臣の歩みは少し速すぎるようである。
「なに、もうじきに着く。だが、そこでのことはくれぐれも他言無用にな。全部だぞ、全部っ」
正反対にけろりと涼しい顔をした臣は、遅れがちな睦を振り返り、二度目の念を押した。
木々に覆われた頼りなげな小径が続いた。慣れぬ悪路に少しばかり不安を覚えながらも大人しくついて行くと、やがて先の高みに粗末な小屋が見えてきた。どうやらあれが目的地であるらしい。
先に辿り着いた臣が小屋の周囲を検めている。
「ふう…」
ようやくながら到着した睦は、さもくたびれたと息をついた。
構わず顎をしゃくり、臣は内部へと睦を促した。
ず…ずずっ…。
古ぼけた木の引き戸は立て付けが悪いのか、やけに重い。
ぐっと肩に体重を集め、睦は力尽くで扉を押し開けた。そこへうまく月光が差して、足元を白く照らしたが、さすがに小屋の奥へまでは届かない。
既に頂点へ達した興味と不安――。胸の鼓動はひたすらどきどきと暴れ、内部へ足を踏み入った睦がその目を凝らすのを急かしていた。
ところが――。
「……?」
そんな睦を待っていたのは、ただがらんと真っ暗なだけの空間なのである。
臣は梁に吊り下げられた洋灯に火を入れた。辺りがほんのりと柔らかい炎に包まれる。
それでも…。
「……」
ようやく隅々まで目にすることのできたその場所は、やはり何の変哲もなく、ひどくありきたりなものであった。
中央に大きな卓と椅子が四つ。そのほかには、南側の壁に小さな突き上げ窓が一つ――たったそれだけ。何者かの気配はおろか、秘密らしきものも何もない。
あれほどしつこく念を押されていただけに、内心ではがっかりしきりの睦であった。
「ここは…?狩猟小屋か何かですか?」
壁に立て掛けられた弓と箙を横目に尋ねてみる。実際、この小屋を知る手掛かりになりそうなものはほかにない。
「多分な」
臣は窓を開け放った。
高台である上に、南の窓の外側がきりぎしの崖になっているため、昼間であればここからは都のすべてが一望できるだろう。とはいえ、もう真夜中。裾に広がる町並みに、明かりは殆ど見当たらない。ひんやりとした夜気が、そろりと滑り込んでくるだけだ。
慣れた手付きで箙から矢を一本取り出し、臣は小さな紙切れのようなものを結わえ始めた。
(あれは…矢文…?)
呆然と見つめる睦に――。
「絶対に誰にも言うなよ」
臣はしっかりと三度目の念を押し、窓辺に立つ。
そして、おもむろに小屋の外へ向けて矢束を引いたのであった。
「ええ!ゆ、弓っ!?あのっ…あなた、できるんですか、そんなの!?――と言うより、これから何を始める気なんです?あなた、さっきから何をしてるんですか??」
睦はぎょっと目を見張った。彼を一介の学者と信じる睦に、まさかこの行動が理解できるはずもない。
窓の外を睨んだ臣は、にやりと笑った。
「ここだけの話、弓はな…唯一まともに五年は習った。得意中の得意だ」
言うが早いか、番えた矢先に狙いをつけ、勢い良く放つ。矢は大きな弧を描き、あっという間に都の方角へと消えた。
「あ…なんだ。習っていらしたんですか…。でも、あの…今のは一体…?何を射たんです?」
と、言ってはみたものの、学者が弓など習う必要があるだろうか。やはり彼の言動はおかしい。
睦はぼんやりと思案を巡らせていた。
「まあ、そう急くな。ちょっと待ってろ。すぐに来るから」
「は…?」
まただ。やっぱり意味が分からない。
だが、その時だった。
「!」
不意に何かを察した臣は、そそくさと窓を閉め、手近な椅子に腰を下ろした。
(何だか…胸がどきどきする。でも、すぐに来る…って――。臣はここで誰かを待っているのか?)
とりあえず彼に習い、睦も向かい側の席に着く。
「これから来る人物な、名を之寿と言う。若いながらも、都ではちょっと名の売れた薬屋だ。まあ、表向きはな」
「表向きって…。臣…あの、あなたというお方はどういう…?」
「――しっ!」
どうやら問題の人物が到着したようだ。人差し指を唇へ押し当て、臣は睦に口を噤むよう促した。
やがて、コツコツ…と、扉は小さく二度叩かれた。
「……」
なおも慎重に気配を探りようやく相手を待ち人と悟ると、臣は自ら扉を開けてやった。
「どうもお待たせしまして」
ぺこりと頭を下げて入ってきた気配の主――之寿は、一本の矢と紙切れを携えている。恐らく臣が結わえていたあの手紙なのだろう。
「ちょっとばかりお久しぶりでしたっけね、臣様?」
年恰好は臣と同じぐらいかもう少し上――そして臣よりも睦よりも若干小柄なその男は、にこにこと愛想よく笑うのだった。
「そうか?まだ一週間ほどしか経っていないと思うがな」
「おや、そうでしたっけ?」
演技がましく肩を竦め、之寿はもう一人の気配に振り向いた。
その眼差しに触れた途端――。
「!」
睦の心臓はびくんと跳ね上がった。
ところが。
「あああーっ!あなた、もしや睦様じゃないですかっ!?いやあ、まさかこんなところであなた様のようなお方とお会いできるなんて!!」
屈託のない声を上げ、之寿はあたふたと睦の足元へ突い居った。
「お、お初にお目にかかります!あの、私、之寿と申します。以前、あなた様の星読みを遠目ながらに拝見し、あまりの雅にいたく感銘を受けました!!まこと噂に違わぬ手際の鮮やかさ!そして神々しいまでの美しさ!!なるほど間近でお会いしてみれば、ご本人の方も確かに端麗でいらっしゃる…!!都でもあなたのことは有名ですよ。見目麗しき宮の星読み――かの睦様は楼蘭一の…いや天下一の星読みだとね!本当ですよ!?」
なぜだか妙に瞳を潤ませ、之寿は一人で捲くし続けている。初対面の相手をも圧倒する人懐こさである。
睦はすっかり面食らってしまっていた。
「あの…之寿様…?ど、どうか、気楽になさってください。私はそんな大層な者ではありませんから…」
しどろもどろに囁きながら、睦は真っ赤になって俯いてしまった。
「いやだな、もう!私のことなど、どうか呼び捨ててくださいよ!恐れながら、あなた様とこうしてお近付きになれて、本当に私は幸せ者です!ああ…次は…そう、次こそはできればあのご高名な歴史学の権威とお会いしたいなあ…!」
どこまでも一人で盛り上がり、勝手に握手を決め込んだ之寿は、睦の両手を嬉しそうに振リ回しながら、ちらりと横目で臣を見た。
すると――。
「あいつは…。愁は今、宮にはいない…。それよりおまえ何だ、その態度の差はっ!?」
「はあ?まったく…何も分かっていらっしゃらないんだから…。あなたねえ、宮廷学者と言えば、学問を志す者なら誰もが焦がれるそれは立派なお仕事ですよ?私だってね、これで多少なり薬学を齧っているんですから、当然羨ましく思っています!憧れてすらいますよ!
それが今日、あなたに呼ばれてここに来て見れば、なんとあの睦様がいらっしゃる!これほど高名な宮廷学者様に、まさかこの私なんかが直接お目にかかれるなんて…もう、光栄の極み!そりゃ興奮もしますって!
大体ねえ、臣様。あなたときたら!あなた、皇子付きなんかしていらっしゃる割に、待てど暮らせどまるで世間に名が届きませんよ?睦様にしても愁様にしても、都では知らぬ者がないほどそれは有名な御仁であらせられるというのに。臣様、あなた、ちゃんと数学者として真面目に学術研究をしておられるんですか!?」
ぴしゃりと皮肉を放ってから改めて睦の手を取り、
「ねえ、睦様?」
おかしな猫なで声を出して之寿は執拗に媚びまくるのだった。
「わ…悪かったな、無名で!」
悔しいが返す言葉もない。
一方、之寿に手を握られたままの睦は、こみ上げる笑いと必死に格闘していた。
(この奔放な毒舌ぶり…。さっきの臣のようだな…)
目尻の涙を拭いながら、睦は思った。
「まあ、でもね――例え誰が知らずとも、臣様は間違いなく史上最強の皇子付きであらせられますよ。それだけはこの私がちゃんと覚えておいて差し上げますから、そうお拗ねにならず…。ね?」
「おまえな…今の今まで散々人を貶しておきながら…。慰めているつもりか、それで!?」
臣はあからさまにむっかりと剥れるのだった。
「で…、ご用は何です?睦様までここにいらっしゃるなんて、余程のことでしょう?」
睦の向かい側に腰掛け、之寿はしっかと二人を見据えた。
「まあな。少し調べて欲しいことがある。急ぎだ」
臣の声音が変わると、之寿の表情は一転――切れ者らしい眼差しが二人へ向けられた。
「かつての宮廷の呪禁師の家系――楼蘭にいる分、そして紗那に渡った分もすべて調べて欲しい。存命の人間だけで構わん。それから宰相補佐・橘の情報が欲しい。できるだけ詳しく…そう、彼の生い立ち・背景・それから城内に上がったきっかけとその経緯、印南との間柄やその交友関係に至るまですべてだ。恐らく彼は何やら怪しげな画策をしているはず。その事実を掴んで来い」
之寿はおもむろに眉を寄せた。
「またえらく難しいことを簡単に仰る。急ぎって、どのくらいですか?ひと月?」
「待てんな。待って半月」
何でもないような顔で、何とも難しいことをしれっと臣は言い放つ。
「えええーっ!?無茶ですよ、そんなの!!」
「無茶でも何でもやってもらう」
言い放って臣は、袖下から取り出した札束を卓上に投げ捨てた。
睦がぎょっと目を見張っている。
「無理無体は百も承知だ。故に料金は弾んでおく。ああ、そうだ。おまえ、近々また子が生まれるそうだな。では、その祝いと――」
もう一束。
「そして、これは睦の依頼分。あとは、出産を控えた多鶴に何かうまい物でも食わせてやれ」
更にひと束ずつ取り出し、計二束をその上に積んだ。
易々と積まれてゆく大金に、睦のみならず、さしもの之寿も相当に仰天していたが、それでもすぐに気を取り直すとやれやれとため息をついた。
「あなた…相変わらず気風だけはいいですねえ…」
「だけとは何だ、だけとはっ」
またもやむっとする臣をつんと無視して、之寿は人懐こい笑顔を睦へ向けた。
「睦様も何かあるんですか?」
「へ!?あ…ああ、えっと…あの…」
慌てた睦は臣に助けを求めんとしたが――なぜか逆に睨み返されてしまったため、そのまま視線は手元へ落ち…。
結局は例のごとく、しょんぼりと俯いてしまった。
臣はまたも存分に呆れ、睦の代わりに彼の依頼を切り出したのだった。
「之寿――おまえ、千種とかいう子どもを知っているか?宮に出入りしているようだが?」
「千種…」
その名を耳にするや、之寿の顔に苦りが走る。
臣は尚も強い調子で言葉を続けた。
「恐らくは怪しげな経歴の持ち主だと思うがな…。あるいは先ほど言った呪禁師の家系の者かもしれん」
やがて――。
観念した之寿は、積まれた紙幣を一束抜き取り、臣の手元へ差し戻してしまった。
「千種なら知ってますよ…と言うか…。申し上げにくいが、実はかつての仲間です。家系のことまでは知りませんがね」
臣と睦――二人の学者の顔色が変わった。
「どうせまたあの御仁、何かおかしなことでもしでかしたんでしょ?大体ね、あの人、子どもなんかじゃないですよ」
之寿は忌々しげに舌を打った。
「確かにあの形ですからそう取られても仕方がないんですがね、あれであの人、いい齢のオバサンです。でも、見た感じはまるでどこぞの小僧みたいだったでしょ?」
「ええ…。でも…あの方って――本当に女性…なんですか?」
首を傾げる睦を覗き込む。
「そうですよ。齢だってあなたよりもずっと上だ。確か…病気か何かで成長が止まっているとか聞きました」
臣は何事かを考え込んでいるようだった。ひじを付いた姿勢のまま、なぜか何もない卓の上ばかり見ている――。
「見てくれがあんな風ですから、普段は別の仲間と角兵衛獅子を装いながらそこらを転々としているみたいですがね、その実、とんでもない奴です。例えば、彼女の身の軽さったらまるで鳥のようですし、誰かさんじゃないですがね、怪しげな術なんか使ったりもしますよ」
即座に、余計なことを言うな――とばかりの強烈な視線が刺さる。
「おや、聞こえていましたか。ちょっと言葉が過ぎましたね、すみません」
口ほどにはあまり悪びれた様子のない之寿であった。
「おまえ、肝心なところがいい加減だな。怪しげな術とは具体的に何だ?」
「えーっと…何て言ったかな…。詳しくはよく知りませんが、確かね…以前私が見たのは、何とか言う召喚術だったと思うんですけど…。何だっけな?何とか道…とか聞いたような?」
臣はうんざりと顔をしかめた。
「陰陽道…。おまえが見たのは恐らく式神の類だな」
それ以上には特に驚いた素振りもない。むしろ、ある程度の想像はしていた――という口ぶりである。それでも先の之寿の言葉は、決して彼が望んだ答えではないらしい。
「ああ、そう!それそれ!それですよ!!」
嬉々と声を上げる之寿の前で、
「はあ…ついに繋がってしまった…」
臣ががくりと肩を落としていた。
「之寿、その千種とやらについて、式神の他に何か聞いてはいないか?そういうことなら、呪術にも相当通じているはずだが」
「うーん…よく覚えていませんねえ…」
「そうか。ではそちらも引き続き頼む」
「……」
彼らの話は難しすぎて、睦にはよく分からない。だが、分からないなりにも、ひどく恐ろしい内容であるらしいことは分かる。
知る限りの臣という人物――その人柄を信じないわけじゃない。
(でもこの妙に得体の知れない感じ…どこか怖い…)
そんな胸中を察した之寿が、気遣わしげに笑い掛けてくる。睦はおずおずと口を開いた。
「あの…之寿…さん。あなたはどういう筋のお方なんですか?あなたと臣は一体どういう…?あの…もちろん、差し支えなければで構いませんが――」
昔の呪禁師に関することや紗那の橘に関する調査依頼。そして、之寿のいうあの千種の話にしても、睦にはまるで別世界のことのように聞こえるのだ。
臣と之寿――この二人はどういう人間なのだろう?
彼らは一体何をしようとしているのだろう?
彼らの目的は一体――?
自分の身近によもやこんな世界が――いや、それ以前にあの臣が、こんな風に当たり前に金で誰かを動かし、情報を得ているだなんて思いもしなかった。
彼は…少なくとも彼は、どう考えてもただの学者なんかじゃない――!
「うーん、私が何者かって…ねえ…?」
雇役されている立場の自分が、この疑問に答えてしまって良いものか――戸惑う眼差しに気付いた臣がそれとなく目配せを返すと、ようやく之寿は意を決して重い口を開いた。
「え…ええとですね、話せば長いんですが――。私は元々紗那軍の人間なんですよ。主に諜報活動を任されていた者です。昔は楼蘭の情報を拾う斥候として黄蓮に潜み、実は薬売りとして宮へも何度か出入りしていました。例の千種はその時の仲間…つまり彼女も元は紗那の斥候なんです。ま、現在の私は本来の名を捨て之寿と名乗り、結婚までしていますけど、そんな暮らしをしていられるのも実は全部、こちらの臣様のお陰なんです」
睦は驚いて臣を見た。今の話が本当なら、臣が自分の一存で紗那の斥候を匿っているということになる。
そんなことが許されるはずはない…!
ところが――である。
信じられないことに当の臣本人はどこ吹く風。先ほど同様頬杖を付き、また何か考え事をしているようだ。
臆する睦を気にするでもなく、またひっそりと何事かに思いを巡らせている…。
之寿は話を続けた。
「ここに潜んでいた頃にですね、ええと四、五年前ですか…。とにかくその時に、楼蘭のある女性――多鶴と言うんですけど、彼女とつい恋仲になってしまいましてね。そんなわけで私は、この国に亡命しようと考えたんですよ。でも、まともに願い出たのでは許可など降りるはずもない。窺見ですからね、私は。楼蘭の情報を敵国に流していた人間なんですから――。
だけど、だからといってこのまま秘密裏に居座るわけにもいきません。だって、私はその時もう父親でしたから。彼女の連れ子はもちろん、更にもう一人。その時すでに、多鶴の腹の中には私の赤ん坊まで息づいていたんです。愛する彼女と我が子らに、日陰の暮らしなんてとてもさせられませんからね…。
もう一種の賭けでした。内裏へ不法に侵入して内々に直訴するしかなかった。別に皇帝陛下でなくとも構わない。誰でもいい、ある程度権力をお持ちで話の分かる誰かに出会えたなら…。そこで思いついたのが彼――臣様です。先ほども申し上げましたが、この方、あの第一皇子の皇子付きでありながら、おかしなことにまったく無名。あの高名な愁様や睦様ならいざ知らず、あまり聞こえのぱっとしない臣様ならうまく騙し《だま》て泣き落とせるかも――なんて勝手に見縊っていたんですよね」
恥ずかしそうにくすりと笑うと、
「ほう…それは初耳だ。おまえ如きに見縊られていたとは知らなかった。傷ついたぞ。慰謝料をよこせ」
積まれた札束から、数十枚の紙幣が乱暴に引き抜かれた。
「あ!ちょ、ちょっと…あなた!聞いていない振りをしてしっかり聞いていらっしゃるんですね!?話を聞くならそう茶々を入れず、最後まで聞いてくださいよっ!!」
慌てた之寿を軽くいなした臣は、またそっぽを向いてしまった。
顔を伏せて睦が笑う。
「ええと…それでですね、私は水紅様の宮へ浸入し、わざと捕まりました。こうすれば、私の取り調べには必ず臣様がいらっしゃるはずと踏んでいた。最初は別の楼蘭兵に取り調べを受けましたが、思ったとおり、やはり最後はこのお方だった。まったくもって計算どおりでした」
なぜだか、また紙幣が抜かれようとしている…。
そこをすかさず――。
「ちょっと!だからちゃんと聞いてくださいってば!!」
これ以上逃すまいと、紙幣の端をしっかと押さえ込む。
そこへ冷ややかな眼差しを呉れてやると、臣は不機嫌そうに鼻を鳴らした。そのままの状態で話は続く。
「と…とにかくまあ、ここまでは予定どおりです。そこで私は事の次第を正直にお話しました。涙を誘うように、ほんの少し話に色を付け、ちょっとした演技なんかを織り交ぜてね…って、あっ!もう、またっ!!」
睦へ微笑み掛けた隙を狙って、素早く伸びてきた手がまた之寿の手から強引に紙幣を抜き取っていった。
「正直だと!?嘘をつけ!おまえ、自分の身分を偽っただろうが。久賀の調書には、おまえがただの農民だと書いてあったぞ?私が知らぬとでも思ったか!」
之寿は苦く笑った。
「ええと…あの時、何とか自分の話にこの方を引き込んで、同情を得ようと思ったんです。自分の事情を圧政に苦しむ農民のお涙ちょうだい話にちょっと仕立て直してね。
でも…何かちょっと勝手が違っていて――ほら、この人ってこういうお方でしょう?私が涙ながらにいくら訴えてみても、じっと真顔で聞いているだけで…。何と言うか…こちらの渾身の演技が全然響いていないようでした。結構な時間を費やして、あの手この手と頑張ってみたんですけどね、それでもやはり臣様の顔色は変わらなかった。そして、ああ、これはもうだめかも…と、半ば諦めかけていた頃に、やっと一言、おまえの腕を買いたい――と、こうですよ。
驚きました。下準備に半年近くを費やし、完璧に偽装されていたはずの私の身分は、あのほんの短時間でまるっきり見抜かれてしまっていたんです。本当にあの時は焦りましたよ…。正体がばれているのでは泣き落としなんか効くわけないですからね。いや…むしろね、もうここから生きては帰れないと思いました。血の気が引きましたよ、ほんと…」
既に睦の瞳は大きく見開かれたまま凍りついてしまっている。時折、思い出したように瞬きがされるのみだ。
「之寿、おまえ馬鹿か?偽装云々の前に、おまえには演技力がまるで足らん。あれで農民だと言う方がおかしいだろう?あの目、どうみても人を謀る目だ。そんな目つきでいくら泣かれようと、心など動くわけがない。
それにあの調書の内容にしても、滑稽としか言いようがなかったぞ。取り調べる前にひととおり目を通したがな、呆れたことにおまえ、あそこで私を名指しにしたそうだな?考えてもみろ。楼蘭の都でさえまるで無名の皇子付きの名を、紗那のたかが農民風情が知るはずがなかろうが。
あとな、私があの話を静聴していたというのも単なるおまえの思い込みだ。あまりに粗の多いその内容に、つい閉口したというだけのことさ」
仕返しとばかり嫌味たっぷりに言い放ち、臣は嘲るように笑った。
「人が命懸けで練った作戦を馬鹿とはひどいな。でも――確かにそう…。そこなんですよね。
私としたことが、本当に迂闊だった。所詮相手は無名の学者と、もう完全に嘗めてかかっていましたからね。まさかそういう些細なことに勘付かれる方だとは思いませんでした。今思えばとんでもない話だ。まったく相手が悪かった。そこは素直に認めますよ。なるほど、あの水紅様の皇子付きたるお方だ――と、心底思い知らされました」
「ふふ…。それが私なら、泣き落とされていたかもしれませんよ。化かす相手が臣じゃ、確かに最悪ですよね」
睦の眉が開く。
「はは…。でもまあ、色々ありましたが最終的にはね…亡命という形で国から認知はしてもらえなかったまでも、こうして名を変え、時々は臣様のお手伝いをするという条件で、極秘裏に釈放して頂けました。でもそれで上等です。私にしたら願ったり叶ったりですよ。ちょっとお手伝いをすればこうやってお給金も頂けるし、望んで已まなかった堅気の人生だって手に入った。
こういうお仕事をするにしても、元々軍の諜報部隊に身を置いていた私ですから、昔の伝が色々とあります。それにあの国にはね、軍や政府の内部にだって内偵者が大勢あるんです。これしきのことお安い御用だ。ちょっとうちの軒下に矢傷が付いてしまうことにさえ目を瞑れば、本当にどうってことありません。それに――」
之寿は先刻の矢文を取り出し、そっと二人の前に置いた。
「本当に危険な仕事は、あまりお申しつけになろうとしませんよね、臣様は。そりゃあ時々はそんなのもありますけど、いつだって必要なものはその細部に至るまですべて先回りして用意してくださるし、命に危険が及んだら無理をせず退けと、口癖のように気遣ってくださる。場合によっては、こうしてお給金も弾んでくださいますしね…。まったく…紗那では有り得ないですよ、こんなの」
「五人の子を路頭に迷わせるわけにはゆくまい」
ふっと口元を緩め、臣は分捕った紙幣を全部之寿の取り分の上に戻した。
「ご…五人っ!?それはまた…随分子沢山なんですね。あ…あの…感服致しました!」
妙に恐縮する睦。そして今度は――。
「では、臣は…。あなたはどういう方なんですか?とてもただの学者には…」
「ああ、私か…?私はこのとおりうだつの上がらぬ無名の数学者だ。ほんの少し弓が得意で、楼蘭国第一皇子・水紅様の皇子付きをしている――それだけだが?」
あっけらかんとした顔で適当なことを堂々と言ってのける。彼の正体を知る之寿だけが、人知れず失笑を漏らしていた。
「あ――。ああ、あとちょっとばかり馬にも乗れる…かな…」
あからさまに剥れた睦を尻目に、臣は気まずそうに言葉を付け足した。
が――。
まったく得心がゆかぬとばかり、睦はぎゅっと眉根を寄せた。
「まあ何だ…。そういちいち細かいことを気にするな、睦」
再び睦を一瞥すると、臣は声を上げて笑った。
「さて、そろそろ私は失礼しようかな。もう他にないですか?」
――と、立ち上がりかけた袖を引き、臣は睦に聞かれぬよう声を潜めた。
「思い出した…もう一つ訊きたい。紗那の軍というのは今、どんな状態だ?その実権はどこにある」
僅かに微笑んで、之寿も声を落とした。
「なんだ――粗方はご存知なんじゃないですか。ええ、お察しのとおり今はひどい有様ですよ。上層がほぼ政府に抱き込まれてしまっています。表向きは文民統制とか言っていますがね…事実上はただの専制政治です。軍の意思すら、ほんのごく一部の政治家の手の上です」
ある程度予想していただけに、臣は眉ひとつ動かさない。
「やはりそうか――。では来栖という人物についてはどうだ。知っているか?」
「ああ…来栖准将ですか。彼が何か?」
「いや、何と言う事もないが…ちょっと彼のことが気になっていてな」
「分かりました。ついでに調べます」
之寿はにやりと笑った。
「……」
向こう側で、何やら二人がこそこそと話しているが、肝心の内容までは聞こえない。しかし彼らのことだ、どうせまた怪しい内容に違いない。
一文字に唇を結び、睦は尚も不審の目を向け続けるのであった。
そんな疑惑の視線を気にしつつ、
「で…では、よろしく頼む。また多鶴の顔でも見がてら、店の方にも寄せてもらう」
臣は小さな紙の包みを差し出した。声色は空々しいほど元に戻っている。
どうも先ほどから見え隠れする彼らの態度は、睦の不信感を沸々と刺激するのである。ぷっくりと頬を膨らませ、睦は尚もじっとりと彼らを観察し続ける。
一方、包みを受け取った之寿は、暫くそれを耳元でかさかさと揺すっていたが――なんとただのそれだけで中身を察したようだった。
「いや、いつもすいませんね、臣様。子どもたちも喜びます」
にっこりと笑って之寿は軽く頭を下げた。
「え…?あの…何なんですか、それ?」
二人の間に不思議そうな顔が割り込む。
「ああ、ただのお菓子ですよ。庶民の口には入らないような珍しいお菓子。よくこうしてお土産にくださるんです。さすがに出所は伏せているんですが、子どもがいつも楽しみにしてましてね」
之寿は実に嬉しそうだった。
「水紅様は甘いものをあまり召し上がらないからな。こういうものを客人に戴いても残る一方だ。こちらも助かっている」
そんな二人のやり取りを前に、睦はぼんやりと思った。
(なんか…仲が良いんだな、お二人とも。敵国の斥候と楼蘭の皇子付き。互い利益を与えることをもって繋がれた絆――確かにそうであるはずなのに、何だかお二人はまるで旧知の友のよう。こんなこともあるんだな…)
どうやら彼らは、単に仕事上の付き合いをしているわけではなさそうだ。胸に居座っていた不安や不審が、徐々に薄まり消えてゆく。
「ふふっ。何だか複雑なお顔ですね。変だと思っているんでしょう、こういうの?本当なら、私と臣様は――そう、睦様とだって、敵味方のはずですものね」
之寿は屈託のない顔で笑うのだった。
「え…いや…。変…と言うか、その…」
戸惑う睦の耳元へ之寿は静かに歩み寄った。
「内緒ですけどね、あの方…臣様って私より五つも齢下なんですよ。でも…それでも私、ちょっとあの方のお人柄を尊敬しています。いや、崇拝していると言った方がいいかな。
確かにね、口も根性もそれは悪いし、ぶっきらぼうでどこか飄々としたおかしな方ですけどもね。それでも一本筋は通っているし、頭など恐ろしく切れますよ。敵に回せば手強い相手でしょうけど、こうして味方となれば心強い…そんなお方だ。
それにね、あの方は信じるに足るものをちゃんとお持ちの方です。あれでなかなか誠実でいらっしゃるし、お気遣いも細やか。偉い肩書きのある方って無駄に威圧的な場合が多いじゃないですか。ここだけの話、陰険で強欲で横暴な宮廷学者様だって大勢存じ上げていますよ、私。でもあの人の言葉にそんなところは微塵もないでしょう?あの口の悪さだってちょっと意地悪なだけですよ。決して本心なんかじゃない。
私ね、時々思うんですよ…。故国に彼のような上司がいてくれたなら、私はまだ紗那で兵士をしてたかもしれないな、ってね。あんな国でも、私にしたら一応は故郷ですから」
「……」
驚きに目を見張ったま、睦は何も言えなかった。正直、どんな顔をしたら良いのかも分からなかった。
だけど――。
「…とまあ、とにかくそういうわけでして、互いに騙し合っているなんて関係じゃないですから、どうかご安心ください。神仏に誓って、私は誠心誠意、あの方を信じてお手伝いさせていただいているつもりですから。
ああ、そうだ。これも何かのご縁ですし、睦様も何かあればお力にならせていただきますよ。いつでも何なりとお申し付けください。睦様のことも尊敬に値する尊いお方と見ましたからね、私は。いや、そんなの却ってご迷惑かな…?」
人懐こい彼の笑顔に、未だ脳裏にこびりついていた微かな疑念もほろりと溶けてゆく。
「あ…ありがとうございます!本当に…あなたと知り合えて良かった…。今後ともどうか、よろしくお願い致します!」
麗しき宮の星読み――そう称される彼が、ようやく覗かせた素直な微笑みは、噂を凌いで余りある美しさだ。
之寿もまたこの睦の姿には心の底から満足したようであった。
ふと――。
いつの間にか卓の向こう側で腰を落ち着けた臣が、ひどく冷めた目で二人を見ている。
「おまえたち…たった三人しかいない密室で内緒話とはいい度胸だ。私の陰口はさぞ楽しかろうな?」
顔を見合わせた二人は、同じ顔をして笑うのだった――。
* * * * * * * * * * * *
その後、之寿とはそこで別れ、臣と睦は同じ道を辿り内裏への帰途に就いていた。肩を並べて歩いているところを見ると、臣は来た時よりも幾分ゆっくりと歩を進めているようである。
足の遅い睦を気遣ってのことだろうか?
いや、どうやらまた何かを考え込んでいるらしい。
大内裏に入る手前で立ち止まり、睦は何か思いつめたように臣の袖を引いた。
「ねえ、臣。繋がった――ってどういうことですか?陰陽道とか式神とか――あなた、何をしているんです?まさか何かあったんですか、如月で…いや、あなたや水紅様の周りで」
そんな睦の顔を臣は暫く黙って見ていたが、やがて小さく肩を竦めた。次いで覗いたのは、思いがけず穏やかな微笑みであった。
「おまえ、その気になればちゃんと自分の意思を口にできるんだな。いつも口ごもってばかりいるのは何だ?演技でもしているのか?」
「え…?」
言われて本人も驚いた。
演技だなんて、そんなつもりはまったくない。でも確かに今夜の自分は、いつになく饒舌だ。
なぜだろう?
どうしてこんなに言葉がすらすら出るんだろう?
「演技だなんて…違います!でも、ほんと…何でかな…。そう仰られても私には皆目…」
複雑な顔で口ごもる。
「あのな、睦。何でも諦めればいいということではないのだぞ?おまえ、いつも逃げるだろう?謝って許されるなら謝る。黙っていて済むのなら黙っている。笑ってやり過ごせるのなら笑っておく。いつもそうだ。おまえの持つおまえらしさ、それを一番殺しているのはそれだ。
白露様がどうの、香登様がどうの――決してそんなことじゃない。おまえだよ。おまえが自分自身でそうしているんだ」
そんな風に見据えられると、不甲斐ない自分が恥ずかしくなる。堪らず睦は視線を落とした。
やっぱり同じだ…。
臣も堅海と同じことを言っている。みんな見ている…ちゃんと私を見てくれているんだ。
私は一人ぼっちなんかじゃなかった――。
「今夜のおまえの口数が多いそのわけ――自分でもなぜだか分からないその理由、教えてやろうか?気付いてしまえば別に何のことはない、おまえが殺し葬ったはずのおまえ自身、それがちょっと蘇っただけさ。
千種のこと…いや、それ以上におまえ、私と之寿の関係に興味を持ったろう?見たい、知りたい、聞きたい、感じたい…これは全部おまえの欲望でありおまえの意思だ。自分を責める者があの場にないと、無意識ながらに悟ったその瞬間、おまえはつい己の欲求に正直になった。密かに望んでいたであろう自由をほんの少しだけ得たんだ――そういうことさ。
之寿はな、嘘偽りなくああいう奴だ。斥候なんかしていた割に、こちらが不思議になるぐらい自分に正直な男さ。嬉しければ手放しで喜んで見せるし、気に入らなければ雇い主である私に対しても容赦なく突っ撥ねて見せる。宮にあんな奔放な奴はいないだろう?おまえもな、奴のああいうところ、少し見習ってみてはどうだ?楽だぞ?」
睦ははっと顔を上げた。
「まさか臣は――わざわざ私を彼に引き合わせてくれたんですか?千種様のことを依頼するという名目で、本当は私を彼に…?」
「さあて、どうだかね…。ああ、そうそう。奴の店はこの先を少し行った所だ。このぐらいの距離なら白露の目を気にせずとも出てこられるだろう?まあ…そうは言っても、あまりゆっくりはできんだろうがな」
そう言って再び臣は歩き始めたが、睦はその場に立ち尽くしたまま、すぐに動くことはできなかった。
(今、この胸にある気持ちを何と呼ぶのだろう?》
つい先日まで、宮中で友と呼べる人間なんか無かったのに…。
もう、臣のことは友と呼んでもいいのかな…?
そうだ、堅海。堅海も友と呼べるのかな…?
臣は、恐ろしく頭の切れる人間――さっき之寿にそう聞いた。之寿という人物は学者に憧れるあまり、その存在に対して熱狂的と思えるほど素直な反応を見せる。そんな彼の心を承知していた臣は、敢えて知名度のある睦を紹介した。
宮の中で不自由な扱いを受けている睦にしても、宮の外の人物――それも明るく人懐こく威勢のいい彼のような人間と近付けば、きっと良い息抜きとなろう。
そしてまんまと彼の読みは当たり、之寿と睦はすぐに心を開いた――。
そういうこと?
そう言えば、ここに来る前に臣は言っていた。
――もう少し楽に胸の内を吐き出す場が要るな、おまえには。いつか身体を悪くするぞ。
(そうか、それで――)
急に嬉しくなって一人で笑顔を作ると、睦は臣の後を追って駆け出した。
* * * * * * * * * * * *
翌朝。
昨夜遅くなってしまったせいでつい寝坊してしまった臣は、起きるや否やあたふたと水紅の部屋へ向かった。
ところが、着いてみればあろうことか、肝心の水紅の姿が見当たらない――。
「……?」
臣は首を捻った。
いつもならばこの時間、彼は朝食を摂っているはず。しかしながら、卓に置かれた朝食は手付かず。謁見の時間にはまだいくらも間がある…。
「まさか…水紅様!」
血相を変え、臣は部屋を飛び出した。
昨日、水紅に式神の話を聞かせた。如月での一件も余すところ無く語った。彼も知り得る限りのことを正直に話してくれた。頑なに…あれほど口を噤んでいたあの本のことも、彼が拾った紙の鳥のことも…。
そう、この廊下で拾ったというあの型紙――。
如月で篠懸を襲った式神の正体とまったく同じあの紙の鳥!
あれを見て、彼が疑わぬはずはない。
そこに自分の母親が関わっているということを!
愛する弟の命を狙った張本人が、実の母親だったということを…!!
白露の部屋の前まで来て、果たして臣は凍りついた。扉から漏れ聞こえる怒声に、血の気が引いてゆく。
自分の失態だ――!
昨日のうちに、しっかりと彼に釘を刺しておくべきだったのに!!
「一体を企んでおられる、母上!!篠懸に――私の弟に何の恨みがおありなのだ!あいつがあなたに何をした!あいつが何の罪を犯したと言うんだ!!」
「と、水紅様…!!お願いですから、どうか落ち着いて!」
この声…。
どうやら睦もいるようである。
「うるさい!私に触るな!!関係のない者が口を挟むんじゃない!母上…母上っ!これは何ですか!?あなたの部屋の前にこれがあった。しかも半年も前だ。随分と周到な話ではないですか!なぜ…どうしてあなたは…!!いつからそんなお方に成り下がったのだ!!」
激しい剣幕の水紅――信じられないほど感情を剥き出しにしている。
しかし。
「言いたいことはそれだけか、水紅。そなたこそ…この母にいつからそのような生意気な口が叩けるようになった…!」
返ってきたのはひどく冷ややかな言葉。しかもその声は、怒りに戦慄き震えている。
その時だった。
「!!」
背後の慌しさに臣ははっと振り向いた。奥の階段を、数名の人影がけたたましく上がってくる。
まさか、これは…!!
(白露…!実の息子相手に警護兵を呼んだのか!?)
もはや幾ばくの猶予もない!
入室の許可も得ぬまま、夢中で部屋へ飛び込んだ。そして、素早く母子の間に分け入った臣は、白露の足元へ深々と平伏したのであった。
「お、臣…!?」
水紅にとってもそれは、わが目を疑う光景であった。
あの誇り高い臣がこんな卑屈な姿を人前に――ましてや主人である自分の前に晒すなど、考えられたことではなかった。
「恐れながら白露様!此度の水紅様の言動、すべては私の監督不行き届きが原因です!どうか平に…平にお許しいただきたい!責めならば、いくらでもこの私が負います!どんな罰も謹んでお受け致します!ですから、どうか白露様、皇子様だけは――何卒、この水紅様だけは…!!」
ひしと額を擦り、臣はひたすらに許しを請うた。それがいくら無様な姿であろうと、それがいくら惨めな結果を招こうと、水紅が放免されるのなら本望だった。
「臣…!!」
驚いた睦が駆け寄っても、臣は拝伏したまま微動だにしない。
やがて白露に呼ばれた数名の警護兵が、どかどかとなだれ込んできたが、それでも臣は――。
「全部…全部、この私の戯言を水紅様が真に受けてしまわれたことが原因。皇子付きとしてあまりに軽率、不誠実な行為でした。その私がここで刑を科せられるのは当然!逃げも隠れも致しません!申し訳ありませんでした!!」
「何を言う!やめろ、臣っ!!」
水紅は弾けるように怒鳴ったが、応えてきっぱりと顔を上げた臣も負けじと大声を放った。
「お黙りなさい、水紅様!!いかなる理由があろうとも、尊いお母上様に楯突くとはどういう了見です!!とはいえ、此度、あなたには何の罪もない。どうかせめてお母上様に対するこの非礼、今ここで一言お詫びください!皇位継承者・第一皇子であるあなた様が、このように礼を弁えぬことでどうします!さあ、ここは潔く謝罪を!!」
それは、あまりに痛ましい忠誠の形…。
堪らず睦は目を背けるのだった。一度は皇子付きを務めた睦だからこそ、今の臣の姿はとても見ていられるものではなかった。
(もしもこれが私だったなら…。きっと私も、同じことをする…)
この楼蘭国において、親への礼を失する振る舞いはもっとも軽蔑される行為とされている。まして、この国の未来の皇帝たる水紅が、自らの母親であり皇帝の后でもある白露に刃向かい散々礼意を欠いた挙句、牢へ送られたとあっては、民に示しなどつくはずがない。それが万が一にも表沙汰になったなら、やがては皇位の継承すら危ぶまれかねない。
ここは是が非でも皇子を牢へなど入れるわけにはいかない。
こんなことで彼の未来を台無しにするわけにはいかない…!!
昨夜――。
睦は臣に連れられ、之寿という人物と初めて見えた。そこで知った数々の信じられない話。そしてそこで目撃した、恐らくは本来の臣の姿。
それを思えば睦の胸はひどく痛んだ。
そう…彼は皇子付き。あの計算高さも怪しげな行動も――何もかもすべては水紅様のため。彼はいつも水紅を思い、水紅のために動いていたのだ。
誰に伝わらずとも、この自分にだけは手に取るように分かる。今の彼を突き動かしているその思い…!
呆然と佇む水紅に、睦は平伏す臣の代わりにゆっくりと頷く。知らず知らず瞳に溜まっていた涙が、その拍子にはらりと床へこぼれ落ちた。
これで良い。
もはや、ほかに選ぶ道はなかったのだ――と。
きっと、まだ水紅には分からぬであろうこの気持ち。ただ安らかに健やかにと――ここでいつか彼が手にするであろう栄華だけを思い願う、この皇子付きの気持ち。
湛えた笑顔に睦は精一杯の思いを込める。
どうしようもなく胸が痛い。
でもこれは臣の痛みだ…。
「申し訳…ありません…でした、母上…」
ぐっと唇を噛み締め、水紅は頭を垂れた。聞こえるかどうかの小さな声だった。
途端。
「ははは!!よくぞ言うた!!」
白露は、高々と声を張り上げて笑った。ふてぶてしく、まるで人を喰った声だった。
「臣よ、貴様、先日も妾に吹っかけたばかりよのう?せっかくだ。おまえの望み、叶えてやろう。さあ、この狼藉者を引っ立てい!」
「はっ!」
踵を合わせる音が響く。兵士が命令を聞き入れた合図だ。
びくりと肩を揺らし、睦は臣の衣を握り締めた。背に縋りついた睦は、ずっと震えていた。
悔しかった。
恐ろしくてならなかった…。
これは、自分が牢に入れられるのとはわけが違う。
自分の場合は、白露の刹那的感情からの投獄――だからこそすぐに出られるのだ。
でも彼は…。
今回ばかりは…。
荒縄を構えた警護兵が、ぐるりと臣を取り囲む。それを一旦、手振りで制した臣は――。
「睦…」
それは思いがけず穏やかな声だった。
「すまんが、これな…如月の愁に届くよう手配してくれるか?」
差し出されたのは一通の封筒だった。
「愁…ですか?」
僅かに頷き、臣は声を潜めた。
「まず、水紅様に中をお見せしてからにしてくれ。気になるのなら、おまえも目を通して構わない。書いてあるのは、恐らくおまえの抱く疑問の答えだ」
「は…はい。しかと…賜りました…」
掠れる声が詰まる。
気を抜けば泣き出してしまいそうになる…。
そして。
ふっと笑んで睦の肩を軽く小突くと、臣は静かに水紅を見上げた。
見上げるそれは、怒りも悲しみもない瞳。
ただ深く穏やかな腹心の眼差し――。
その時、水紅の頬をひと筋の涙が伝った。声も出せず目も逸らさず、ただ目を見開いたまま、水紅は臣を見ていた。
「睦…。水紅様を頼む」
やがて立ち上がった臣に、待ち構えていた警護兵が縄を打つ。
しかし。
「……」
牢へ送られる臣を追うように、数歩足を動かした水紅に――。
「くくく…。水紅よ…早々に次の皇子付きを選んでおくがよいぞ。今度はもっと…そう、品の良い教師をな…」
びくりと肩を震わせ、水紅は立ち止まった。だが振り向きはしない。ぐっと拳を握り締め、水紅はそのまま白露の部屋を後にした。
睦だけが、そんな彼らの心を見ていた。
* * * * * * * * * * * *
いつもなら、臣と二人で歩いた謁見への道だった――。
しかしその日、水紅はたった一人でそこを歩き、努めて平静な振りを貫いたまま謁見を終えた。
費やした時間はほぼいつもどおりだったはずなのに、ずっと長く感じられたのはなぜだろう…。重い心を引き摺って、とぼとぼと戻ってきた自室の前に睦がいた。
「……」
つと立ち止まり呆然とする。
いつもなら、自分の母親と通じている睦に皮肉のひとつも飛ばすところだ。
だが今はそんな元気もない――。
「おかえりなさいませ、水紅様。臣から…あなたに言伝を預かっております」
睦は足元へ突い居った。
だが――。
「……」
水紅は答えず、そのまま睦の横を行き過ぎて自室の扉を開けると、力ない目配せで彼を中へと促した。
(水紅様…)
すっかり打ちひしがれ、いつもの精悍さも強さも――持ち前の自尊心さえも失くしてしまった皇子の姿が悲しかった。胸が苦しくてならなかった。
(このことを言っていたのか、臣は…)
睦は、最後の臣の言葉を思い出していた。
水紅様を頼む――。
いつも気高く、威厳に満ちていた水紅だった。時に向けられる手痛い言葉も、涼やかでむしろ冷たく感じられる眼差しも…何もかもみんな――これまで睦の目にしてきた水紅の在りようすべてを、まさしく彼そのものだとずっと思い込んでいた。
でも、本当は…。
窓辺の椅子に腰掛けた水紅は、すっかり疲れきった瞳でぼんやりと睦を見ていた。
何だか彼がひどく小さくなったように思えた。
深く傷つき翳る姿がひどく痛ましい。
だが恐らくは、今睦の前にいる彼こそが、これまで臣だけが知っていた本当の水紅皇子の姿なのだ。
臣があればこそ彼は、あれほど尊大に振舞えたのに違いない。
臣がいればこそ彼は、何にも怯まず強くいられたのに違いない。
臣がそこで見守っていてくれるからこその強さ――それは裏を返せば今の彼のとてつもない弱さ。まるで翼をもがれた鳥のように…ただ成す術もなく、鳥かごの隅でじっと蹲る惨めな生命。
羽ばたくことを止めてしまった鳥――それはもはや鳥であっても鳥ではない…。
(水紅様…。臣は決してこんなあなたを望んじゃいない――!!)
毅然と眉を結び、睦は水紅の前へ進み出た。
「水紅様、これを」
普段の睦とは異なる口調に仄かな驚きを覚えつつ、水紅は、差し出された手紙を受け取った。
「水紅様にまずお見せしてから、如月の愁の元へ送るよう託っております」
文面に目を落とす否や、水紅の顔色は青ざめた。
「こ、これ…は!」
そこには、これまでに彼が調べ上げた事実とそれらに関する考察、加えて今後起こるであろう懸念などが、何枚にも渡って詳細に記されていたのである。
その内容は銀鏡の一件の真相に始まり、そこから導き出される革命の兆し、更に幾重にも仕組まれた巧妙な罠と、周到に隠蔽されているであろう紗那の企みへと進み、加えて篠懸にかけられた呪詛と例の式神との関係。睦の読んだ紅い月の話…。更には、宮に出入りする千種という怪しい輩の存在とその正体。彼女の操る陰陽道。白露と千種の現在の間柄、水紅の見付けた紙の鳥のことなど――。
そうして、最後に。
『――ここに得た数々の証言と証拠から鑑みても、篠懸様の病と白露の関わりは否定できない。紙の鳥を偶然拾ってしまったことから、水紅様もあの方に疑念を抱いておられる。放っておけば、必ず水紅様はお母上に詰問しようとなさるだろう。だが、それでもあの方は水紅様の大切なお母上様。双方にしこりが残るようなことは避けねばならない。可能不可能に関わらず、我らが彼女に手を下すことはできないのだ。水紅様の将来に影を落とすわけにはいかない。
となると、これは骨の折れる話だ。責めるべきは白露ではなく千種――あるいはその背景に潜む者。今現在、内々に探らせてはいるが、敵は強力な術者でもある。その上、彼女の所在も真の目的も、正直どこまで掴めるか分からない。だが、止めねばならぬ相手には違いないだろう。
場合によっては私が直接手を下す心づもりもある。万が一のその時は、今の地位を捨て、砕身の覚悟を持って事に当たる所存。そこでおまえにひとつ頼みたい。どうか、もしもの場合には――』
じっと見入っていた水紅もついに顔を覆ってしまった。もはやその先を読むことなんかできなかったのだ。
あんなに忠実だった彼を、なぜ私は信じなかったのだろう――!!
(彼は、いつだって私のことを思っていてくれていた…。人に言えぬような秘密も打ち明けてくれた。私のために、あのイングラムに命まで捧げようとしてくれたじゃないか。
そんな彼に私は――!ちゃんと分かっていたのに、どうして…。彼はそういう人間だとちゃんと知っていたのに、私はなんてことを…。
自惚れ、思い上がっていた。自分の母親だから、自分の弟だからと一人で必死になって、意固地になって…。
何度も聞いたあの言葉――そう、彼はいつも言っていた。もっと自分を信じて欲しい、と。私がもっと彼を信じたなら…素直に胸の内を彼に打ち明けていたなら、きっとこんなことには…!!)
浅はかな自分が…。
身勝手な自分が…。
素直になれなかった自分が…。
今、彼の身を謀略の生贄にしようとしている。誰よりもかけがえのない彼を、深刻な危機に晒してしまっているのだ。
「睦…私はどうしたらいい?どうしたら…臣を救える…?」
水紅は声を震わせた。
顔を覆う両手はすっかり涙に濡れている。懸命に嗚咽を堪えながら、まるで幼子のように、肩を震わせて泣く儚げな皇子…。
睦は静かに立ち上がり、肩を抱き寄せてやった。すると、驚いたことにあれほど蔑んでいたはずの睦の胸に、水紅は素直に身を預けてくるのである。
睦の胸は激しく痛んだ――。
「無理ですよね…。他の人間なんて選べませんよね。あなたには、やはりあの臣でなければ…」
震えるこの細い肩――あれほど堂々としていた水紅の、折れそうに繊弱なこの身体。
迂闊に触れれば崩れてしまう。
包んでやらねば消えてしまう。
儚くも脆いこの硝子の心を――。
(そうか、臣はずっと守ってきたんだ…)
もう迷わない。
いつかのように、大切なものを諦めたりは決してしない。
この手が届く限り、この命ある限り――きっと私は守りとおしてみせる…!!
「ねえ、水紅様…。私にとってもね、臣はかけがえのない大切な友人なんです。今のあなたの胸の内と、私の思いはきっと同じ。できることなら今すぐにでも彼をここへ…あなたの元へと連れ戻して差し上げたい。心からそう思っています。
だけど――お母上と不義を重ねたこんな私でも、あなた、信じてくださいますか?意気地なしで弱虫で…いつも卑怯な生き方ばかり選んできたこんな私でも、あなた、信じてくださいますか?」
驚くほどはっきりとした口調で、睦は自分の思いを口にした。
そして――。
見上げる無垢な瞳に、睦は、かつて心から愛した貴い少年を何度も励ましてきた微笑みを見せたのである。柔らかな優しさの中に、揺るぎない意思と忠義を宿した力強い笑顔を。
「ほんと…長いことずっと忘れてしまっていた。私も皇子付きだったんですよね。だから、今日の彼のね…臣の気持ちなんか痛いほど分かります。だってきっと同じですから…香登様を失ったあの時と。
失くしたくなかったんですよ、彼は。あなたのね、あなたたる姿をどうしても守りたかったんです。皇子付きなんてね、たったそんなことで簡単に命すら差し出しますよ。たったそんなことでいくらでも強くなれる。馬鹿と言われたらそれまでですけどね、でもそんなもんです。そういうものなんです」
「睦…」
瞬きもせず、水紅はじっと睦を見ていた。
本当に、見れば見るほど今日の彼は別人のように頼もしく思えてくる。でもその端正な顔立ちは、確かに彼のものに相違ない。
「信じて…いいんだな、おまえのこと。本当に…信じてもいいんだな…?」
「ええ。あなたが信じてくださるなら、私がちゃんと取り戻してみせます。あなたの大切なあの人を」
ふわりと頬を綻ばせ、水紅は睦の胸にそっと額を押し当てた。
* * * * * * * * * * * *
「――と、いうわけです」
格子の前に膝を付いた睦は、皇子と交わしたばかりの約束を声を潜めて語った。
「それはまた…。おまえ、えらく安請け合いをしたものだな」
格子の内側では、壁に凭れた臣がけろりとした顔で笑っている。
「安かろうと高かろうと、そういう問題ではありません。本当に辛かった…。私は水紅様のあんな姿、見たことがなかったですから」
「で…?何か策でもあるのか?」
「全然ないです」
間髪容れずに戻ってきたのは、ひどく途方のない返答である。
思わず臣は吹き出した。
「おまえ、よくそれでそういう約束ができるな!?」
「だ、だってこれから考えるんですから!でもね、とりあえず愁に手紙は出しましたよ。あなたの分と、それから私からもちょっと書いて…。ああ、それから水紅様も、愁と篠懸様に宛てて何か書いていらした。中を見ないですぐに出してしまいましたけど――。水紅様直々に命を下されて右京に持って行かせましたから、今日のうちに如月に届くはずです」
睦はにっこりと微笑んだ。
「やれやれ…愁もさぞ困るだろうな。よってたかってみんなに助けを求められたんじゃあ…」
ぼそりと呟いて、臣は急に真面目な顔になって向き直った。
「そうだ、もしも――もしもな、水紅様に新しい皇子付きを求められたなら、その時は十夜を選ぶといい。水紅様にそう申し上げてくれ」
「どっ、どうして!?まさかそんなこと、私に言えるわけがないじゃありませんか!」
たちまち睦は目を剥いた。
「仕方がないだろう?おまえが嫌だと言うなら」
「ち…違いますよ!嫌って言うか…水紅様にはあなたじゃなきゃだめだと思ったから、私は――」
「これで私と白露様はなかなか気が合うんだ」
臣はにやりと笑った。
「は?」
「まだ今のところ何の沙汰もないが、それでもお互いにそれは嫌い合っているからな。あの方の頭の中など手に取るように分かるさ。水紅様にさっさと別の皇子付きを付けて、この機会に私を宮から追い払おうと考えているはずだ。そのうちそう言ってくると思うがな」
無下に投獄され、これからどんな処遇が待っているかも知れぬというのに、どういうわけか臣の声音も表情もまるっきりいつもと変わらない。
逆に不安に駆られたのは睦の方である。
「臣…あなた、この状況でなぜ簡単にそういうこと仰るんです?あなたこそ何か考えがおありなんですか?ご自分の身のことでしょう?」
「考え…?そんなものないぞ、何も。ただ――ま、単なる慣れだな」
「慣れ?」
睦は目を丸くした。
「これまで牢になど飽きるほど入った。別に珍しくもない。確かに久しぶりではあるが…逆に懐かしくて居心地がいいぐらいだ」
「飽きるほどって…。ほんとにあなたって、どういう…」
「どうもこうも見たままだ」
またも答えをはぐらかされた睦は一瞬むっと膨れたが、それ以上執着するでもなく、すぐに別の話題を切り出した。
「あの…十夜様ってあの常磐様といつもいらっしゃる政治学の方ですよね?」
「ああ。学者連中は基本的に好かん。何と実の伴わぬ輩の多いことか。信用に足る者も、尊敬に値する者も驚くほど少ない。
だが、そんな学者の中にあって、彼は数少ない私の認める人物だ。彼ならば、ある程度気心も知れているし適任だと思うがな…。とにかく皇子付きを求められ、どうにも逃げようのない状況になったなら、臨時にでも彼を指名したらいい。
でもまあ…あいつのことだ、私が牢に入れられたと聞けば、放っておいてもそのうちここへ出向いてくるさ」
「あなた、十夜様ともお友達だったんですか…」
この意外な人物の名は、再び睦を驚かせるのに十分なものであった。臣と十夜――いくら考えても、この二人の間に接点が見出せないのである。
「まあな。おっと…噂をすれば、ほら…。早速誰かさんの気配がする」
耳を澄ませば、確かに階上から靴音が微かに――。
息を詰め、眼差しを向けていると、果たして臣の言うとおり噂の人物はそこにひょっこりと現れたのであった。
顔をのぞかせるなり男は、
「いい格好だな、臣。笑いに来てやったぞ!」
何とも嬉しそうにそう言うと、言葉どおりに笑ったのだった。
「ほらな?こういう奴だ」
肩を竦める臣の前で、ぎこちない愛想笑いを浮かべた睦が固まっている。
壁に据えられた松明に照らし出されたその人物――十夜は、楽しそうににやつきながら睦の隣にどっかりと腰を下ろした。
「奥方様に喧嘩を売ったんだってな。いいねえ、若いというのは」
妙に演技がかった遠い目をして十夜は言うのだった。
政治学の十夜――。
内裏でも一、二を争う長身と、武人と見紛うほど立派な体格を備える一風変わった政治学者だ。
もっとも、持ち前の豊富な知識と思察の深さを買われて、今ではただの学者ではなく執権・常磐の相談役兼秘書のような役割を果たしているが、そこからも分かるようにその道ではちょっとした実力の持ち主なのである。
齢は臣よりもひと回り上だ。かつて水紅の皇子付きになったばかりの臣が、この国の政治について数々の教えを請うた人物――実はその人こそが彼であった。
「おまえもその場にいたそうだな、睦。羨ましいな、私も見たかったよ。ほら、この間のおまえの星読み。あの後の会議も私は急な用事で見逃したんだ。どうせまたあの時のように奥方様に食ってかかったんだろう、こいつ?」
「あ…。え、え…と、そういうのじゃ…ないと思います…けど…」
睦はしどろもどろになって答えた。
初対面の相手の前では、まだうまく言葉が出てきてくれない。
「まったく…。一体どう聞いたんだ、おまえは!あの状況でまさか食ってかかったりなどするものか。一方的に捕らえられてこのざまだ!喧嘩らしい喧嘩もしてはおらん!!」
臣はむっかりと声を荒げた。
「一方的――?なんだ、つまらんな。おまえらしくもない」
どうも本気でがっかりしているようだ。
昨晩といい今日といい、またも風変わりな人物を前に、圧倒されっぱなしの睦なのであった。
(十夜様とは初めて言葉を交わすけど…。この宮にもこんな豪気な方がいらっしゃったんだ?もう六年も宮にいるのに…何だか私の知らないことばかりだな)
「で――どうする、臣。ここで終わりか?」
よいしょと胡坐を組み直し、十夜はにっかりと笑った。
「心配せずとも睦がここから出してくれるそうだ」
不意に呼ばれてはてなと顔を上げたその時、ようやく睦は自分に視線が集まっていることに気付いた。
「え!?え…えっと…」
途端に熱を帯び始めた頬と騒ぎ出す鼓動。そのどれをごまかす術も見つからず、睦はおろおろとうろたえた。
そして、次第にその声は小さくなってゆき――。
「あ、その…。まあ…は…い……」
ついには言うべき言葉にも詰まり、例によって睦はまたしょんぼりと俯いてしまった。
先ほどの強気はどこへやら――今は何とか上目遣いにこちらを覗くばかりである。
「やれやれ…。本当にこれで大丈夫なのか、こいつは」
「さっきまでは威勢が良かったんだがな。ま、ちょっと人見知りするもんでね、彼は」
そそくさと擦り寄った十夜が、俯く睦の前へ回り込み、
「麗しき宮の星読み様――それでこれからどうなさるのですか?この私にも、どうか作戦をお聞かせ願いたいな。不肖ながらこの十夜、多少のお力にはなりましょうぞ…?」
などと努めて優しく――気持ち悪いぐらいに優しく協力を申し出てやるが…。
「え…。えっ…と…」
睦は更に真っ赤になって口ごもってしまった。
完全に逆効果である。
「こら、あまりいじめてやるな。かわいそうに」
するとにっかりと歯を見せて笑い、十夜は改めて睦の前へ向き直った。
「何なら私が上に口を利いてやろうか、睦。そうだな…常磐様か、蘇芳様か…。そうは言っても、どれほどの効果があるか保障はできんが」
「ほ、本当ですか!?」
睦はぱあっと瞳を輝かせた。
「まあ、そのぐらいは何とかな…。だがあまり期待はしてくれるな。白露様はあれで特別なお方だぞ。ご自分の后でありながら、あの蘇芳帝も必要以上に関わろうとなさらぬだろう?業が深いと言うか、得体が知れぬと言うか…どうも人を遠ざける方だ――と、こんなこと、今更私が言わずとも分かるか、毎日お世話しているおまえならば」
「あ…」
小さく声を上げ、またもや睦はしゅんとなってしまった。
「い、いやいや…別に私はな、皮肉っているわけでも、いじめているわけでもないぞ、睦?そういうことではなくてだな…ええと…困ったな…どう言えばいい?臣っ、何か扱いづらいぞ、こいつ!どうすりゃいいんだ!?」
傍観者よろしく胡坐をかき、頬杖をついていた臣がため息混じりに笑う。
「どう扱おうと構わんが、泣かすなよ。私の身柄如何は、今や睦のその細い肩に懸かっているんだからな」
「泣かすなと言われてもな…。疾うに手遅れだろうが…」
十夜は唇を尖らせた。
臣を見る睦の瞼には、うっすらと涙が溜まっている。
「臣は――なぜそう平気なんですか?こんな所に押し込められて、今や明日をも知れぬ身なのに…。白露様はそんな生易しい方じゃないですよ?あの方を怒らせて…それで宮を追い出されて…それであなた、どうするんですか?ここで水紅様を放り出して…それでどうなさるつもりなんです!今、あなたを失ったら…あの水紅様はどうなってしまうんですか…っ!?」
感情的に言葉を吐けば自然と声が上擦ってしまう。睦は袖で何度も目頭を押さえた。
「だからな…睦、今言ったろう?こんな所に入れられたままの私に何ができる?何もかも全部おまえに懸かっているんだ。
おまえ、水紅様に約束してきたんだろう?私を必ず連れ帰ると、自分を信じて待てと――そう申し上げたんだろうが。ならば私もおまえを信じて待っていれば良い…そういうことではないのか?大体おまえ、泣いている暇などないぞ。あの白露がそうのんびり事を構えてくれるとも思えん」
(そ、そうだった…。自分で決めたんだもの!私がしっかりしなきゃ。でなければ何も始まらないんだ!)
ごしごしと涙を拭いて、睦はぐっと眉を結んだ。
「睦、とりあえずは足止めが要るんじゃないのか?あまりさっさと動かれたのでは手の打ちようがないぞ」
十夜の言うのももっともだ。
「足止め…」
そう呟いたきり、睦は何事かを考え込んでいたが、やがて――。
「あの…」
二つの視線が注がれる。
「千種様のこと…上に申し上げてしまいましょうか」
「千種…?誰だ、それは?」
十夜が首を傾げている。
「まだ事の全貌が分からぬのにか?」
「ええ。でも、当面の足止めにさえなれば良いのでしょう?彼女について、今分かっていることだけでも掻い摘んで報告すれば、蘇芳様は元より常磐様が動かぬわけにはいかない。白露様の身辺で何事か不穏が動いたと、そう思わせるだけでいいんです。そうやって白露様の気をそちらに向かせれば、あるいは…」
「つまり、情報を操作するわけだな…」
睦は小さく頷いた。彼なりに勝算の手応えを感じているらしい。
「なあ、話がまるで見えんのだが?」
痺れを切らした十夜が睦の袖を引いた。
「あ…。後で全部ご説明します。構いませんよね、臣?」
「ああ。判断はおまえに任せる」
「はい。では、改めて…」
畏まって向き直り、睦は床に手を付いた。
「どうかご協力ください、十夜様。お願い致します」
丁寧に揃えられた白い指先。
柔らかな仕草。
お辞儀の瞬間に覗いた細い首筋。
「……」
男ながらに妙に艶のある姿に、迂闊にも十夜は暫し目を奪われるのだった。
「い、いや…これほどの美人にこうも頭を下げられたら、無下に断るわけにもいかんさ…。なあ?」
十夜はぎこちなく笑った。
* * * * * * * * * * * *
部屋へ一歩足を踏み入れるなり、睦は呆然と立ち尽くすのだった――。
「何か…全然違う…」
確かに、一介の学者でしかない自分の部屋と、皇帝らから特別な信頼を集める十夜の部屋とを一長一短に比べるわけはゆかぬのだろうが――それにしたって、ゆったりとした間取りから調度家具に至るまで、どれをとってもあまりに違いすぎるのである。狭く質素な自分の部屋を思えば、ここはまるで貴族の屋敷だ。
「同じ学者なのに、常磐様や蘇芳帝に懇意にしていただいているというだけで、こうもお部屋が違うものですか…!?」
「はは…。な、なかなか広かろう?」
恨めしげに歪む顔に苦笑しつつ、とりあえず十夜は睦に席を勧めた。
弾力の効いた洋風の椅子…。これも睦の部屋の物とは違う。
「……」
再びむっと頬を膨らませた睦は、その弾力を確かめるかのように――否、親の仇のように、ぽんぽん椅子を叩きまくっている。座り心地については申し分なさそうだが、とにかく不機嫌になる睦なのだった。
「さっきはどうも態度のはっきりせん奴だと思ったが、なかなかこれで正直な男だな。おまえ…見た目に依らず、少し気が短くないか?」
呆れ顔の十夜が笑う。
その時。
「ようこそいらっしゃいませ、睦様」
澄んだ声に振り向いて、睦はぴたりと固まった。
佇んでいたのは、盆を手にした清楚な女性。
しかし、あろうことかその人物は…。
「み…瑞穂様!え…?あ、あの…これはどういう…?え…??ええーッ!?」
目を白黒させ、睦は一人で混乱している。
「どういういうことかと言われてもな…。まあ、こういうことだな」
顔を見合わせた十夜と瑞穂はくすりと笑った。
「だ…だって、瑞穂様って常磐様のところのお嬢様でしょう!?確か陛下と縁のあるお方とご婚約されたはずじゃあ…」
「あのお話は…結局お断りしたんです」
丁寧に湯呑を並べながら、瑞穂は恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ…。そ、そう…でしたか…。すみません、つい不躾なことを申し上げてしまって…。でもあの…いつの間に…その、お二人がご結婚されていたのかなって…。いや、これも不躾かな…」
「籍など入ってはおらん。とはいえ、まあ当然ながら常磐様はご存知だが」
「内縁の――ということですか…」
にわかに、ぽおっと頬を上気させ、睦はため息を漏らした。
「ま、まあ…そういうことだ。今、下手に祝言など挙げたら、見合いの世話をしたばかりの陛下の面目は丸潰れだろう?それに、たかが一介の学者がだな、かの執権家の一人娘を娶ったとなれば、宮の輩は黙ってはいないぞ。やれ跡目を狙った政略だ、やれ一国を手中に収める気だとな…。もちろんそんな気は毛頭ないが、ここであらぬ噂になるのも忍びない。故に当面はこのままだ。
さて、瑞穂。今日は込み入った話だ。すまんが、おまえ、席を外してくれるか?」
にっこりと笑って頷くと、瑞穂は部屋を出て行った。
が…。
「で――なんなんだおまえ、その顔は!気持ちの悪い奴だなっ」
十夜はじろりと睦を睨んだ。
ところが、ほんのりと頬を染めた睦は、焦点の定まらぬ目線をうっとりと彷徨わせたまま、一人でまだにやけている。
「ああ…すごいなあ…。ほんとに私は…知らないことが多すぎる。そっか…こんなこともあるんだ…。宮で芽生えた恋…かあ…」
やがて睦はまた切なげなため息をついた。
「ったく、本当におかしな奴だな!!臣の話はいいのか!?ええ?」
その言葉でようやく現へ戻った睦は、目を何度か瞬かせて理性を取り戻すと、本題のすべてを余すところなく語ったのであった。
「なるほどな…そういうことか。変に頭が回るからな、あいつは。いつの間にか、とんでもないことを掴んでしまっていたわけだ。だが、奴は今どうにも動きのとれぬ身。涼しい顔をしてはいたが、その心中はさぞ歯痒かろうな…」
睦はこくりと頷いた。
「で、どうする?私は何をすればいい?」
今、真正面から十夜を見る眼差しは、麗しき宮の星読みと称された彼とはまったく一線を画す、切れ者らしきそれである。十夜はしみじみとそんな睦の姿に見入るのだった。
「千種様は、その見てくれからしても怪しさについては申し分ありません。白露様はあの方を旧友だとはっきり私に仰った。でも、見た感じはまるでほんの子どもです。彼女の能力や性別、それから正体については今は伏せておきましょう。そこまでいくと怪し過ぎますから。
今朝の騒動――あの時、水紅様は紙の鳥を白露様へ突きつけてしまっている。ここで私たちが、彼女が実は陰陽師であるという事実を上に申し上げてしまえば、式神と彼女の繋がり…延いては白露様の企みまでも我々が掴んでいると、変に勘ぐられてしまいます。きっと白露様は、水紅様が徒党を組んで自分を陥れようとしているとお思いになるはず。しかし、それはこちらの望むところではない。
これ以上の水紅様の関与を、あの方に悟られるわけにはいきません。未来の皇帝陛下を穢すわけにも参りません」
この時の睦の口調は、驚くほど滑らかで堂々としていた。どもることも閊えることも、声が震えることもない。毅然としたその姿は、いつもの彼を思えば別人だ。
彼は――彼自身はそんな自らの姿に気が付いているのだろうか…?
十夜はふっと眉を解いた。
「そう言えばおまえ、いくつだったかな?確かあいつよりもいくらか下だったように記憶しているが」
「え…?えっと…先月二十一になったばかりですが…」
睦はきょとんと首を傾げた。口調は元に戻りつつある。
「では、皇子付きをしていた頃はほんの十代か。なるほどな…」
「な…何です?」
「いや…妙に納得した。若いながらも確かに皇子付きにふさわしい。我が国の誇る麗しき宮の星読み様は、そのお手並みも然ることながら、実に明晰な頭脳までお持ちだとな…。今、心より感服した。そこに加えてその美貌か。まったく嫉妬するね。世の中は実に不公平にできている」
ゆっくりと立ち上がり、なぜか十夜は奥部屋へ消えた。
「???」
何が何やら、わけが分からない。
やがて、呆然とする睦の元へ二つの皿を手にした十夜が戻ってきた。皿に乗せられたカップから、ほろ苦い香りが立ち上る。
「とっておきだぞ。飲んだことないだろう?」
既に睦の目は、目前に置かれた黒い液体にすっかり釘付けだ。しかし、初めてそれを目にする睦に、味の見当が付くはずはない。
「あの学者嫌いの臣も認めるわけだな…。なるほど、なるほど…」
腕組みした十夜は、何度も頷いて自らの言葉に納得していた――が、固まってしまった睦に気付くと、苦笑しながらカップに砂糖を入れてやった。
「初めは少し苦く感じるかもしれんがな、慣れてしまえばそこが良い。これを出したのはおまえで三人目だ。瑞穂と臣とおまえ、たった三人。あの常磐様にさえお出ししたことがない。光栄に思ってくれて良いぞ」
にんまりと笑い、十夜は珈琲を一口飲んだ。その様子を真似てカップを手に取り、睦は恐る恐る口を付けた。
(ちょっと苦くて、何だか不思議な味…)
一瞬妙な顔をしたが、どうやら気に入ったようだ。
睦は嬉しそうに目を細めた。
「さて、話の続きだ。先の千種とやらに纏わる話な、私の口から上に申し上げるとしようか。正直、白露様と関わりの深いおまえの名を出すことさえ私は危険だと思うぞ。例の千種とやらの怪しげな術――陰陽道な、あれを侮ってはいかん。あれは人の命をもその手中に握る恐ろしい術だ」
「あの…よく分からないのですが、そもそも陰陽道とか呪禁師とか――一体何なんですか?臣も言っていたんですよね、そういうこと…」
待ってましたとばかり、十夜は頷いた。
「いいだろう、教えてやる。こちらもそこは専門だからな。
まず、呪禁師というのはその昔、楼蘭と紗那がまだ一つであった頃に存在していた歴とした官職だ。彼らは、呪禁道と呼ばれる神秘の術を操って国を支えた。主な仕事は、心霊医療と国の防御――であったのだが、そこから転じて、いつしか呪禁師は呪術にも手を染めるようになる。その頃から先の二大執権家の争いは始まったわけだ。左の紗那と右の蒼緋、この二人の争いがな。
大きな戦になる前は、互いに贔屓にしていた呪禁師を巧みに操り動かして、相手を欺き合ったと聞く。
ところが、彼らの抱える術者はどちらもなかなかの使い手で、実力のほどはどうやら互角。争いは熾烈を極めたが、いつまでたっても決着などつきはしない。それでも彼らを巻き込んだままの形でついに戦は始まる。つまり、表では戦いの業火が大地を焼き、裏では呪禁師らが暗躍、互いの懐を狙っていたわけだ。実に卑劣で陰湿な争いだな。
宮中の権力争いに端を発し、やがては国全体を揺るがしたこの戦は――気が遠くなるほど長岐に渡ったこの激しい戦は、その中心だった執権家や皇族、官僚、兵士、更には何の罪もない国民の心までも深く傷つけ、骨の髄まで疲弊させた後に、最終的には国の分割という一つの決着を見るに至った。
しかし、その後も楼蘭では極秘裏に宮廷呪術が息づいていた。それも呪禁道ではない、別の術――同じ道教の流れを汲みながら、そこに方術の息吹を色濃く宿したより強力な術にその姿を変えてな…。
それこそが陰陽道――陰陽師と呼ばれる連中が操る術だ。かの術、予見占いから式神を使った呪殺まで…その形は多様。やがてこの陰陽師も、時代の流れとともに内裏から姿を消してしまったが、民間では今もまだ生きている。おまえも知ってのとおり、この国は紗那国のように非科学を切り捨てることなどできなかったからな。
今でも祈祷だの呪いだのと、目に見えぬ力で食べている者が多くあるだろう?それこそ、篠懸様が滞在しておられる先の遊佐という霊能師――彼女にしてもそうだ。あのお方も、調べてみれば、恐らくは昔宮が抱えた呪禁師か陰陽師の家系の者だろうな」
「はあ…。あの、お話は大変良く分かりました。でも…どうしてそれが十夜様のご専門になるんです?十夜様、政治学を専攻されているんですよね?」
顔をしかめた睦に、十夜はさも得意げに口角を吊り上げた。
「ふふ…なかなかいいツッコミだな。まあ、政治とひと口に言ってもな、その背景には歴史や風土、民族性などが根深く絡んでいる。そういった意味合いに取ってもらえればありがたいが…。ま、これだけ詳しく話せば疑いたくもなるよな。実はな、私自身がこの内裏の陰陽師の家系の者だ」
「!!」
見る間に、睦が青ざめてゆく…。
「こ、こらこら。そう怖がらず、最後まで話を聞け。陰陽師の家系と言ってもな、私にそんな力もなければ具体的な術式も知らん。要するにただの凡人だ。だが、半端な資料だけは自宅に数多く残っていた――それだけだ。私はおろか、両親も祖父も曾祖父の代まで遡ってみても、そのように怪しげで強力な術が使える者は誰一人おらん。たかが末端の弱小陰陽師――唱門師と言ってな、本家の陰陽師の使い走りをしていただけの、まるで程度の低い術者の末裔さ」
睦はほっと胸を撫で下ろした。
「な…なんだ、よかった…。あ!あの、今ちょっと思ったんですけど、もう少し他に協力者が要ると思うんです」
「ん…?仲間を増やすのか?だが、増やしてどうする。あまり多いとかえってばれるぞ?」
「ええ、でも少なくとも一人…。そう、あと一人、口の堅い役者が要ると思います。だって、十夜様が千種様を知っているというの、ちょっと不自然じゃないですか?あの方、いつも内裏に入って真っ直ぐ光の宮にお越しになっているみたいですし、どう頑張っても十夜様の目に触れるはずがないと思うんですけど」
確かにもっともな話である。
宮廷学者には違いないが、今の十夜は扱いが特別だ。従って他の学者のように水の宮に住んでいるわけではない。まして光の宮に出入りする用もない。
十夜は今、皇帝の宮殿である嫦娥殿近くにあるここ青竜殿の一画に居を与えられ、別所帯ながら義父である常盤と一つ屋根の下に暮らしている。そして、毎日ここから嫦娥殿や他の役所へと赴き、蘇芳の話し相手になってやったり、諸大臣らの雑務を片付けてやるなどして常盤の仕事の補佐をしているのである。
つまりところ、同じ内裏の中にありながら水紅や臣とは生活の場所がまったく違うのだ。
「そうだな――。となると、目撃者を仕立てねばなるまい。少々のことには動じず機転が利き、ごく当たり前に光の宮に居られて口が堅く…更に欲を言えば、水紅様や臣に一方ならぬ忠誠心を持っている人間…か。だがそうなると、私は一人しか思いつかんが」
「ですよね…。私も右京ぐらいしか…」
どうやら二人とも同じ人間を思い浮かべたらしい。
「でも、彼は今、臣の手紙を持って如月へ行ってしまってて…。多分、戻るのは夜遅くになると思います」
ふと睦は窓の外へ目を向けた。
もうじきに日が暮れる――。
陽光はその勢いをすっかり弱め、仄かに朱みがかった空を紫へと変えようとしていた。
睦はすっくと立ち上がった。
「これから私が白露様のお部屋へ行って時間を稼ぎ、様子を探ります。十夜様は右京が戻ったら、あの話を彼にしてください。くれぐれも内容は最小に。でないと、右京にまで危険が及ぶ可能性がある。彼は目撃者をただ演じてくれるだけでいい。あとは私たちの仕事です――それで構いませんか、十夜様」
「う、うむ…」
頬杖をついたまま、十夜は複雑な気持ちで彼を見ていた。
白露の元で時間を稼ぐ――その言葉の意味は分かっている。そのようなことをここでさせても良いものか…。だが、彼はずっと前に甘んじてそれを受け、以来白露の世話をし続けている。
一体何が彼をそうさせているのだろう?
「なあ…睦。訊きたいことがあるのだがいいか?答えたくなければ答えずとも構わん」
「はい。何です?」
向けられたのはまるで女の笑顔だ。
しかもとびきり美人ときた。
今、十夜の前に立つ麗人は、屈託のない微笑みを浮かべ、友を救うためにこれから身売りに行くと言う…。
確かに、彼にしてみればそれは日常。何の苦もないように見える。
しかしそれは本当か?
そうやって笑うことで、彼は胸の傷を塗りこめてしまってはいないか?
「おまえ、なぜ身を売ってまで宮にいる」
そう口にした途端――。
「!!」
十夜の言葉は、たちまち睦を凍らせてしまった。瞬きもできず声も出せず、睦はぎゅっと胸を押さえた。
(恐らく…触れてはいけなかったことなのだろう。だが、聞いてやらねばならん。もしかしたら彼は、他人のことに尽力している場合ではないのかもしれぬ。もしも、その胸にひどい辛さや苦しみを抱えているのだとしたら…。敢えて彼がそこに目を向けず、ずっとそれを押し殺して耐え続けているのだとしたら…)
十夜の瞳はじっと睦だけを捉えていた。
(恐らく…いつか彼は崩壊する)
「わ、私…。私はただ…」
わなわなと瞳を震わせて、睦は俯いてしまった。
「好きでそうしているのなら、私などがどうこう言う筋合いのことではない。だが、どうもな…私にはそうは思えんのだ。例え自らを傷つけてでも、ここを離れるわけにゆかぬ理由が何かあるのだろう?まさかそれは――」
「違います!そんなんじゃありません!!」
驚くほど感情的な声を上げ、睦は十夜の言葉を遮った。だがそれは、十夜が言わんとした言葉を肯定したのと同じことだ。
「そうか…。おかしなことを尋ねてすまなかったな…」
言いかけた言葉を胸の底で呟く。
(まさかそれは…香登様の帰りをお待ちするためか…?)
もはや尋ねるまでもない。
やはりそうだったのか――。
睦は逃げるように部屋を出て行った。
「まったく…。皇子付きというのは本当に…どいつもこいつも――」
気だるげに髪を掻きあげ、十夜は誰に言うでもなく呟いたのだった。
* * * * * * * * * * * *
天飛の空には重く分厚い雲が垂れ込めていた。
やがてはあの灰色の雲海から、大粒の雨が落ちるのだろう。
彼らの真上で、彼らの心と同じ色をした涙をきっと流してくれるのだろう。
「馬鹿な!こんな…こんなこと!!」
愁は手紙を握り締めた。
膝の上には臣の遣した手紙がある。そして今、彼の手に握られているのは、睦の書いたものだ。
そこには、今朝起こった事件の詳細と、今現在臣が牢に入れられていて、早急に何か手を打たねばどうなってしまうか分からない――といった内容が丁寧にしたためられていた。
「そしてこれは水紅様から…篠懸様と愁様に、と――」
右京がもう一通の手紙を差し出すと、察した久賀が篠懸を呼びに出て行った。
すぐさま文面を追った愁は――。
いくらも読まぬうちにその紙面を伏せてしまった。とても最後まで見ていられるものではなかったのだ。
まるで懺悔するようなその文面――そこには、どうしようもない悲しみに縁どられた水紅の心が連綿と綴られていた。
つまらぬ意地を張って最後まで臣を信じなかった自分を、水紅はひたすらに責めて続けていた。自分を庇って投獄された彼を、何とかしてやりたいと思ってはいても、実際には何もできない歯痒さと、第一皇子だ次期皇帝だと、いくらちやほやされていても、いざとなれば大切な人間の一人も救ってやれない己の無力さと…。
止め処ない涙。
悲痛な胸。
やりきれない思い…。
彼の心を抉る現実を思えば、とても読むに耐えられたものではなかった。
深く息を吐いて今一度気分を落ち着かせると、再び愁は文面に目を落とした。手紙の終わりは、篠懸への謝罪で締めくくられていた。
『篠懸――。おまえにとってもかけがえのない彼を、あらぬ危険に晒してしまっていることを本当に申し訳なく思う。何とか彼を救うべく睦が動いてくれてはいるが、あの母の性格を思えばどうにも不安だ。
同時に、彼を失うかもしれない現状に、少なからず私は動揺し恐怖を覚えている。恥ずかしい話だが、本当に怖くて仕方がないのだ。この気持ち、同じ皇子であるおまえならば、きっと分かってくれると思う。
どうかおまえは愁を大切に。何があっても彼を信じ、決してその手を放すな。療養中のおまえに、不安を煽ることを言うのもどうかとは思ったが、どうしても今、伝えておきたかった。本当にすまない――』
「……」
居た堪れず、愁は唇を噛み締めた。
三通の手紙には、それぞれの心が綴られていた。互いが互いへ寄せる熱い気持ちが、痛いほどに詰め込まれていたのである。
「こんな馬鹿な話があるか!!右京、おまえは何をしていた!?おまえ、水紅様の近衛だろうが!近衛長なんだろうが!!」
やり切れぬ思いに堅海が床を殴りつけたその時。
「……」
現れたのは久賀を伴った篠懸であった。まだ事態が呑みこめぬも、臣下のただならぬ雰囲気に息を呑む。静かに腰を下ろすと、部屋中の視線が篠懸一点へ注がれた。
「おまえは…右京。どうした?まさか宮で――宮で、何か…あったのか…?」
恐る恐る尋ねるた篠懸に、愁から差し出されたのは水紅のよこした手紙である。受け取る瞬間、ふと篠懸は愁の瞳を覗いた。
「愁…。おまえ…泣いているのか?」
既に愁からは失われてしまったいつもの微笑み。そんな彼の変化を篠懸が見逃すはずはなかった。
「兄上様からですよ…」
それだけ言って、愁は目を伏せた。
そして――。
「こ、これ…っ。これは一体…!?」
一読するや否や、篠懸の手は激しく戦慄き始めたのだった。
「愁!!どうなるか分からないとは、どういうことだ!臣の身に何が起きる!?こんな…こんなの…!」
「恐らくは…皇子付きを外され、宮を出されるかと」
「そ…そんな!!」
縋る思いで周囲を見ても、沈む顔が並ぶばかりで誰も篠懸の求める答えをくれない。
「そんなことって…!!なぜだ!どうして臣が…!」
篠懸は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「も…申し訳ありません、篠懸様!私が…この私がついていながら!!」
右京はひしと床に額を擦り付けた。
「ひどいよ、こんなの…!こんなの嫌だよ!!だって臣も――臣も私の大事な先生なんだ!それなのに宮を追い出されるって…そんなの!だって、あの臣が…。なぜ彼が牢なんかに入らなきゃならない?そんなはずない!そんな人じゃないよ!!ねえ、助けてよ!助けてやってよ、右京!!」
真っ直ぐな言葉が胸に刺さる。床にひれ伏したまま、右京はなかなか顔を上げようとはしなかった。
異変を察して駆けつけた氷見と紫苑も、悲痛の篠懸を前に立ち尽くすばかりだ。
臣に恩義を抱く面々が今ここにすべて揃った。
そして――。
「篠懸様」
ついに眉を結び、愁は静かに口を開いた。いつになく低い冷静な声だった。
「暫くお暇を頂いても宜しいでしょうか」
濡れたつぶらな瞳が愁を見る。同時に、取り巻く視線が一斉に愁の元へ集まった。
「あなたのみならず、彼は我々にとっても恩人です。あの日――天飛の山頂に彼が駆けつけてくれて、皆どれほど心強かったか。あの日の彼の言葉に皆がどれほど救われたか…。そんな彼への恩に、今ここで報いるのは当然のことと存じます」
改めて篠懸へ向き直り、愁は床に両手を付いた。
「し、愁…まさか」
口を挟んだのは堅海であった。
「宮へ戻る気か…?しかし、それは――」
愁はここでの全権を持つ者――最高責任者だ。そんな彼が、主である篠懸の元を離れ、単独で宮へ戻るなどということが許されるのだろうか?
幼い篠懸にとっても、ここで彼が傍を離れるのは酷な話だ。
宮の現状を知った今、篠懸の胸は深く傷ついている。傍で彼を慰め、安心させてやれる誰かが必要なはずだ。それができるのも愁、その人のはず。
「愁…」
篠懸はそっと愁の手を取った。とてつもない不安と心細さが今、篠懸の胸を覆っていた。
しかし、それでも愁は――。
「篠懸様。私は尊いあなたの身を預かる者。その私が自らの判断でここを離れることは叶いません。ですからどうか、あなたの口から命をください。今すぐ宮へ戻れと…!行って彼を救ってこいと、どうか一言――!」
思いがけぬ言葉にはっとした。瞼を見開いた拍子に、また独りでに涙が膝元へ落ちた。
愁はきっと…。
愁ならばきっと臣を救ってくれる…!
篠懸はそう確信していた。
寂しい気持ちも確かにある。だがそれよりも、毅然とした愁の態度に宿る心が篠懸の胸を打ったのである。
気丈に微笑んで、ついに篠懸は頷いた。
「分かった。行って来い、愁。いや、行ってくれ!そして…兄上や睦とともに、必ずや彼を…臣を救って戻って来い!!」
「はっ!畏まりました!」
「し、しかし、篠懸様!!」
正直なところ、堅海はまだ迷っていた。
できることなら自分が行って力になりたい。この場合、それが最良の人選であるはずなのだ。
しかし、相手はあの白露――遥か身分の違う堅海程度が歯の立つ相手とも思えない。
だが、愁ならばあるいは――。
やおらに立ち上がり、愁は棚から薬箱を取り出した。中に入っているのは、篠懸のためにいつも持ち歩いているあの薬である。
「我が名において、ここでの全権をそなた――堅海に今、委譲する。篠懸様をどうか…。よろしく頼む」
そう言って愁は、堅海に薬箱を差し出した。
形式に則っり神妙に命ずる愁。それは揺るぎのない彼の決意の表れといえた。
そして。
愁の腹心であればこそ、堅海はそれを認めぬわけにはいかなかった。
「畏まりました、愁様。ご命令、謹んでお受け致します」
もう一度しっかりと愁の瞳を見、堅海は膝を突いて平伏した。
ここで止めて聞く男ではないのだ。
無論、もう止める気もない。
「案ずるな。事を成し得たらすぐに戻る。その間、そなたらにも皇子様のことを頼んでおく。支えて差し上げてくれ。良いな?」
見守る皆の顔を見渡し、愁はうっすらと微笑んだ。
* * * * * * * * * * * *
月が天の真上に上がった。
格子の嵌った小窓から差し込んだ光が、いつもと同じ強く眩い純白の面持ちで、一人ぼんやりと蹲る臣を見ている。そしてまったくいつもと同じに、臣は明かりの及ばぬ壁際にぴたりと身を寄せるのだった。
(いつまでたっても進歩がない。この齢でまだ牢か。情けない話だな…)
考える時間だけは持て余すほどある。今朝ここに放り込まれてから、その時間の殆どを考え事に使った。
脳裏を巡らせていたのは、愁へ出した手紙と同じことだ。あれから、頭の中を再び整理し、見落としがないか、別な発想はないかとずっと考えを巡らせていた。
だが実のところ、そうしてただ自分をごまかしていたに過ぎない。
水紅のことが気がかりだ。またしても彼を傷つけ、泣かせてしまった。あの紗那の訪問の日も、そしてまた今回も――。
どうせ今頃また泣いている。あの方は弱い方だ。いくら虚勢を張ってみてもその胸はひどく脆い。
彼を守り育てる使命の自分が、逆に彼の心を痛める種となってしまった。すべて自分の責任だ。篠懸様を泣かすな、などと愁を責められた義理ではない。
昼間はいくらでも自分を騙していられる。中身もないのに偉そうに学者の振りなどして、顎で下々を従わせ、次期陛下の皇子付きだ何だと持ち上げられるまま生意気な口を叩き、二流の役者宛らに威張って見せている。
それのどこが尊い?
あの下らぬ学者連とどこが違うというのだ。
所詮は罪人、ただの詐欺師。その程度が、あの水紅皇子の心を開こうなど思い上がりも甚だしい。
偽りの仮面でいつも本心を隠しているあの方を、ただお救いしたいと――いつか皇帝になるその日に民に背を向けられぬようにと、純粋にそう思っていたつもりだった。だがその前に、当の本人が偽者だなんて…。
(そんな私を信じろという方が無理だ。笑い話にもならん)
抱えた膝に額を押し当てる。
どうも夜は勝手が違う。まして月夜など最悪だ。内に隠しておいた弱さが全部あふれ出てきてしまう。
自分が崩れていく。
自分が何者か分からなくなってしまう。
不甲斐ない自分が許せない。
心許なさと苛立ちで、頭の中が真っ白になる――。
何者かの気配に臣はふと顔を上げた。じっと様子を伺っていると、そこに現れたのは…。
「愁!!なぜおまえ…!ここへ何をしに来た!?」
臣はぎょっと目を見張った。
ほっと笑みを浮かべ、愁は格子の前に膝を付く。今しがた宮に着いたばかりなのだろう、その息は僅かに荒い。
「臣…。びっくりしましたよ、もう…」
いるはずのない人物を前に、柄にもなく臣はうろたえた。
「お…おまえ…っ、篠懸様はどうした!?別に私は…そういうつもりであれを書いたわけでは…!」
「その篠懸様のご命令なのですから、忠実なる僕である私としては致し方もありません。右京に頼み込んで、一も二もなく飛んで参りました」
その様を見ただけで、愁がここへ出向くために篠懸に命を『出させた』ことは、容易に想像がついた。
暫し唖然としていた臣も、やがて――。
「あの方…またひどく泣いたろう?」
愁にやや遅れて水紅付きの近衛長・右京が姿を現した。右京は階段を下りたところでさっと頭を下げ、愁の後ろに膝を付いた。
くすりと愁が笑う。
「ええ、今日はあなたのために…。またいつものように号泣です。右京なんか、もう散々に責められて大変でしたよ。ね…?」
「ああ、まあ…でも本当に見ているだけで辛かったですよ。あの篠懸皇子様があんな風に取り乱される姿…私は初めて拝見しましたから」
右京は苦笑した。
「堅海には、近衛のくせに何をしていたと怒鳴られるし、篠懸様には、臣を助けてくれと泣き付かれて…。そんなことを言われても、右京だって困ってしまいますよね」
愁はそこできちんと臣の前へ向き直り、姿勢を正して言った。
「篠懸様を始め、堅海、久賀、紫苑、氷見…そして遊佐様。皆の期待を背負って戻って参りました。我が主、篠懸様の下されたご命令は、あなたをここからお出しすること。何としても臣を救い出して来いとの仰せです。それまではあの方の元へ帰ることもできません」
「……」
強く真剣な眼差しに射抜かれる。思わず言葉を返すことさえも忘れ、臣は呆然と愁を見ていた。
「及ばずながら私もお手伝いさせて頂きたく存じます」
次いで右京が頭を垂れる。
(何だこれ…?何だと言うんだ…?異国出の私などこの国にとって別段大層な人間ではないはずだ。なぜそうも尽くしてくれる?なぜそうも私などのために身を削る…?)
そのとき――。
「……?」
一同は小首を傾げた。誰かの陽気な鼻歌がゆっくりと近付いてくる。
「おや!誰かと思えば愁か!?だが、なぜおまえがここにいる?如月にいるはずだろう?」
階下に着くなり十夜は目を丸くした――が、それは愁や右京にしても同じことだ。
「と、十夜様…あなたこそ…!?これはどういうことです?」
ふと見ると、いつの間にかきちんと姿勢を正した臣が肩を竦めて小さくなっている。様々な思いに胸が痞えて言葉が出ない様子である。
「まあ…その辺はな、後で睦にでも聞いてくれ。此度の作戦の指揮官は、かの有名な麗しき宮の星読み――睦様であらせられますぞ?」
大げさにそう言うと、十夜はにやりと笑った。
「ふふっ。ひょっとして指揮官殿が一番若いんじゃありません?」
愁は柔らかな微笑みを浮かべた。
「ええと、右京は二十七で…愁は二十三だっけな…。となると、違いない。あいつが一番下だ」
「で…、その指揮官殿は今どちらに?」
「ああ、睦か…睦は、その…。万が一のことを考えて…だな、とりあえずの時間を稼ぐと言って…。つまり、その…」
十夜の顔が曇る。
「白露様のところへ行った」
「!!」
息が止まりそうだった。たかが自分一人のために、彼にそんなひどい仕打ちを…!?
臣は十夜の前へ詰め寄り、乱暴に格子を握り締めた。
「十夜!そんなことを許したのか、あいつに!!おまえが傍にいながら何てことを…!!」
声が震えた。
許せなかった。
十夜も…睦も…そして自分自身も何もかも――!!
「すまん…」
小さく呟いて十夜は目を背けた。
「謝って済むことかッ!!」
佇む十夜へ吐き捨てるようにそう浴びせ――。
臣は愕然として崩れ落ちた。
そのままで暫くは時だけが流れた。
誰も口を開けなかった。
内裏は…この場所はあまりに歪んだことが多すぎる――。
「あ!」
聞き覚えのある若い男の声がした。目を向けると、階段の陰から睦の朗らかな顔が覗いている。
「みなさん、いらしてたんですね!」
嬉しそうにそう言うと、睦は皆の元に駆け寄った。
「お久しぶりですね、睦」
「愁もお元気そうで。遠路、ありがとうございます」
平静を装う愁に睦はにこにこと笑いかけたが、その笑顔はかえって皆の胸を締め付けるのだった。
と――。
突然臣は立ち上がり、格子を握った。
「睦、おまえ――!怪我をしているだろう!?」
「え?ああ…これ?でも大した怪我じゃありませんよ」
口をもごもごとさせ、睦は恥ずかしそうに笑った。
どうやら口の中を切っているようだ。
「おまえ何で…何でそんな…。もう…やめろ。頼むからやめてくれ。もういいから…。こんなのもう…たくさんだ」
握った格子に額を当て、また臣はうなだれてしまった。
たかが自分一人のために誰かが傷付き、犠牲になってゆく…。それがどうにも堪らなかった。
そんな自由なら要らない――。
「おまえ、あの女に何をされた?今度は何をされたんだ…?」
臣は微かに震えていた。
「え…?あ…あの、何て言うか…。えと…ちょっとだけ殴られました」
無邪気にはにかむ姿に切れた。
もう見ていられない!
とても耐えられない!!
「貴様、何が…っ!何がおかしいッ!!なぜそうも笑っていられる!?」
格子から伸ばされた手が、不意に睦の胸倉を掴んだ。
引き寄せられた拍子にバランスを崩し、睦は咄嗟に格子にしがみついた。
びっくりして顔を上げると、そこには――。
怒りとも悲しみとも取れる強い瞳が、真正面から睦を睨んでいた。二人を隔てるこの格子さえなければ、とっくに臣は睦を殴っていただろう。
(え?臣が…泣いて…る?どうして…?)
自分の胸を掴まれていることよりも、あの臣の目に涙が浮かんでいることに、睦は激しくうろたえ動揺した。
自分を睨みながら張り上げられたあの声は、今朝彼が水紅のために白露に許しを請うたあの声と同じ…。まるで喉の奥から無理矢理絞り出すかのような悲痛の声だった――。
「やめて!!どうかやめてください、臣!!」
「臣様――!!」
愁と右京が慌てて入り、力ずくで二人を剥がす。
その体に触れてみれば、意外なことに二人ともが震えていた。見開かれた睦の目は臣を凝視したまま動かず、一方で臣もまたそんな睦を睨んでいる。
睦は泣き出しそうになって叫んだ。
「だって…!だって…ほんとに平気なんですもん!!こんなの何でもないです!こんなの、ほんとに――!!」
驚いたことにそこでまた睦は笑顔を作った。目にあふれんばかりの涙を溜めながらも、なぜかそこで睦の顔は笑っていたのだ――。
十夜は静かに立ち上がった。
「ちょっと顔を貸せ、睦」
そう言うや否や、十夜は強引に睦の腕を掴んだ。
「な…何…!?やだ…っ!嫌ですっ!放して、十夜様…っ!!私はまだ――」
睦はじたばたと抵抗したが、十夜はまるで意に介さず、嫌がる睦を引き摺って階段を上がっていった。
そして――。
蹲る臣の前に、愁と右京…そして夜の静寂だけが取り残された。
俯く表情までは窺えないが、床についた手にはいくつもの雫が残っている。恐らくは、この場の誰もが初めて目にした臣の涙である――。
「気持ちは分かります。私だって辛いですけど…でも、彼も――。睦も必死ですから…」
格子に手を差し入れ、愁は震える肩にそっと手を置いた。
「必死だからと言って許せることではない。認めてやることなどできん。あいつに…あんなひどい真似をさせておいて喜べるはずもない!たかが私一人のために…あいつがその身を貶めてゆく様を笑って見てなどいられるか…!!
そうまでしてここを出ようとは思わん!!水紅様にしてもそのようなことは決して望まれん!!」
口惜しそうに言い捨て、臣は手をぐっと握り締めた。
「確かにそうです。そうですけど――。でもね、正直なところ、口では水紅様が…なんて言いながら、実は水紅様を必要としているのはあなた自身でしょう?水紅様なしの人生って考えられますか?いや、五年も皇子付きを務めたあなたが、まさか平気なはずはない。私が同じ状況に置かれたとしても、耐えられることではありませんからね…。
だからこそこんなことが言えるんです。あなたが今どれほど傷付き、彼を求めているか…それこそ我が身のことように感じられる。
ねえ、臣。それは同じ皇子付きを務めた睦にだって、分かるはずのことでしょう?彼は、我々の中で唯一愛してやまない皇子様を失った人間ですよ。想像を絶する辛苦を越えてきた人間だ…。
ただ彼は、同じ思いをあなたにさせたくないんです。水紅様の元にあなたを戻して差し上げたい、確かにそんな思いもあるでしょう。でもきっとそれ以上に、あなたに水紅様を返してあげたい――そう思っているはず。どうかお願いです。彼のその気持ち、少しは汲んでやって頂けませんか…?」
* * * * * * * * * * * *
嫌がる睦を引っ張り、十夜は地下牢から地上へと上がった。そのまま外へと連れてゆく。
睦は金切り声を上げて抵抗し続けた。
「放して――!放してください、十夜様!!私には、まだやらなきゃならないことがいっぱい…!」
やがて、牢舎の裏手まで来たところで、十夜はようやく睦を解放した。しかし、睦は意外なほどの敵対心を露にし、十夜を睨みつけている。
ついに十夜は大きく息をついた。
「睦!おまえ、自分のことをもっとちゃんと考えろ!このままじゃ、本当にいつかおまえ、おかしくなるぞ!!」
すかさず睦はむきになって反論した。
「一体何です?何なんです!?自分のすべきこと、ちゃんと考えてますよ!ちゃんと自分で考えてやってます、全部!!だから、今――」
十夜は睦の両肩を掴み、力ずくで牢舎の壁へと押し付けた。
「違う――!そうじゃない!そういうことを言っているんじゃない!!おまえ、感情を殺しているだろう!?怒りや悲しみ…そんな負の感情を殺し始めているだろう!!そんなことを繰り返していたら、いつか本当に笑うことしかできなくなる。そのうちその涙も出なくなるぞ!辛いことも苦しいことも何もかも…たった一人でその胸の奥にしまい込んで、ただ笑っているだけの人形だ!いいのか、それで!?おまえ、そんなものになりたいのか!」
真剣な眼差しが胸に刺さる。
まただ――。
また同じ話。
堅海も臣も…十夜もみんな結局同じことを言う。
本当は嬉しい。
自分は一人じゃない。みんな傍にいる。大切な友達だ、きっとみんな…。
今は心からそう信じられる。
でも…。
だけどもう…今になってそんなことに気付いても――。
「だって…。だって…今更そんなこと言われても…。だって…っ…!!」
見る間に涙が溜まってゆく。
「おまえ、こんなの本当は嫌なんだろう?望んでなんかいないんだろう?いくら香登様のためとはいえ、毎晩のように白露様の相手をして…もう二年になるじゃないか!そうまでしてここに籍を置いて…。挙句、地位を体で買っただの、欲をかいた娼婦だのと…散々な陰口を叩かれて…。そんなこと、とっくにおまえの本人の耳にも届いているだろう!!」
堪らず睦は耳を覆った。
瞳からは、後から後から涙があふれた。止めたいと思ってもどうしても止まらなかった。
やがて睦はその場に崩れ落ちた。
肩を震わせ声を殺し、ただ僅かに漏れるは嗚咽だけ…。
隣に膝を付き、震える肩を抱いてやると、睦は十夜の肩に顔を埋めて泣いた。
いけない――。
優しくされたらまた甘えてしまう。堅海に胸の内を語ってしまったあの時のように。
「なぜあの時、あの方の誘いをお受けしたのかなどと、今更どうしようもないことは言わん。おまえも言うべきではないぞ、睦。例え自分自身に対してでもな。
しかし…自分自身でも気付いてはいないようだが、臣の言うようにな…おまえ、どこか少しおかしい。喜怒哀楽はまだ辛うじてそこにあるようだが、どうも――精神と肉体が切り離れてしまっているように感じる。
おまえ、辛く苦しい胸の内をずっと誰に打ち明けることもできず、ただ押し込むことでやり過ごしてきたんだろう?笑顔を浮かべ笑い飛ばすことで…そうして自分を偽ってきたんだろう…?
あのな、睦…。逃げられないから、仕方がないからと、無理な理屈で自分を説き伏せ、たった今しがたもあの方の相手をしてきて…。しかも、感情的に暴力まで振るわれて…。それで果たして何ともないなどということがあるか?このぐらい何でもない。本当に何ともない――おまえは何度もそう言ったよな?確かにそれは本心だろう。私から見ても、嘘をついているようにも、耐えているようにも見えなかった。
だがな、それこそが異常だ!!これ以上自分が傷付かないようにと、いつの頃からか自らが張ったその予防線――きっとそれがそうさせているのに違いない。でなければ、あれほどひどい目にあいながら、まるで何もなかったかのような笑顔を浮かべて、何ともないなどと言えるはずがないからな。
睦!いいか、睦、よく聞け!!おまえは既に壊れ始めている。本当だ!!こんなことを続けちゃいけない!今のおまえ…本当ならば、臣のことなど構っている場合じゃないはずだ!あいつを気遣う前に、おまえはまず自分の面倒が見られるようにならねばならなかった!」
十夜は睦の肩をぐっと握った。
「だがこれは、何もかも分かっていながら、これまでずっと手を拱いてきた私たちの責任でもある。おまえはまだ若い。宮に来た頃など、まだ十代――ほんの子どもだった。そんなおまえがあの白露様に逆らえたはずがないんだ…!謝って済むことではないが、本当にかわいそうなことをした」
睦は結んだ手を更に強く握り締めた。細い体がぎゅっと強張る。
「遅ればせながら約束しよう。この件が片付いたら私が必ずおまえを自由にしてやる。宮に残るなり、外へ出るなり好きなようにさせてやる。それまでの辛抱だ。いいな、絶対だ。誓えというなら何にでも誓ってやる。だから信じろ、この十夜をな」
胸の奥をこじ開けられた気がした。
耳を疑った。
今の十夜の言葉は、もうずっと前に睦が諦めていた言葉だった――。
「十夜…様…?」
おずおずと見上げる潤んだ瞳に、十夜はとびきり愛想の良い笑顔を向けた。
「そうしたらおまえ、恋でも何でも思うままだ。それだけの器量があれば女などいくらでも寄ってくるさ」
美しい顔は涙に濡れ、瞼の周りは赤く熱を孕んでいる。その瞳が瞬きをした拍子に、そこに溜まっていた最後の涙が彼の頬を滑り落ちた。
だが、そうしてやっと戻ったのは穏やかな微笑み。
それは作り物ではなく、本心からの笑顔――。
その頭をくしゃくしゃと撫でてやると、まだ泣き顔の睦は照れたように笑った。
* * * * * * * * * * * *
「あの…臣の牢を開けてください。彼と中で話がしたいんです」
無茶な申し出に、牢番達はにわかに動揺した。
「いや…ですが、しかしですねえ…」
あからさまな不審を向けられ、思わず怯む睦。
ところが。
その前にむんずと巨体を割り込ませた十夜は、ぎろりと牢番を見下ろした。
「貴様ら…たかが牢番の分際で偉そうに!私を一体誰だと思っている!!」
にわかに語気を荒げた威圧的な眼差しに、牢番らは一斉に竦み上がった。
「まさかうぬら、この私の言葉が信用できぬなどと、そう言うつもりではあるまいな!?」
「あ…!と、十夜様…っ!!いいえ、そんな、まさか…滅相もありません!では、あの…これ…。お帰りの際にお返しいただければ結構ですから…。我々はここに控えておりますゆえ、万が一にも何事かあった場合は、どうか遠慮なく…!!」
牢番は一様に平伏し、慄きながら鍵を差し出した。それをふてぶてしく奪い取ると、十夜は悠然と階段へ向かった。
その後を、目を白黒させた睦が追う。
あの常磐に仕えているとはいえ、十夜の身分はただの政治学者のはず。その彼に、まさかここまでの権限があったとは…!!
「すごいんですね、十夜様!!皇子付きをしていた頃だって、私にはとてもあんな真似は…」
地下へと続く暗い階段を下りながら、睦は尊敬の眼差しで十夜を見上げる。
が。
「ん?そうか?ただのはったりだが――」
鍵の束を引っ掛け指先でチャリチャリと回しながら、十夜はしれっと答えた。
「え…。は、はった…り…?」
足を止めた睦の目は、すっかり点になっている。
「あのなあ、たかが学者が牢など開けられるはずがないだろう?そんなことができたら、とっくに臣を出してやっている」
十夜は得意げに笑った。
確かにそれはそうだ…。
仰るとおり。
「ふふふ。まったくちょろいもんだ、簡単に騙されおって。我が国の兵は少々弛んどるな。後で右京によく言って聞かせてやらねば…」
にんまりと浮かべた笑みはまるで悪人のそれである。
睦は暫しきょとんとした面持ちで十夜を見つめていたが、やがて肩を震わせ――とうとう堪えきれなくなった睦は、声を上げて笑い出してしまった。
そんな姿を横目で見ながら、内心では十夜もほっと胸をなで下ろしていた。
階段を一番下まで下りきると、その先の地牢に、先ほどとまったく同じ格好で蹲っている臣が見える。こちらに気付いて振り向いた愁も右京もしんみりと口を噤み、暗く沈んだ空気だけが凝っている。
意を決した睦はおずおずと格子に近付いた。
「あの…お話を聞いていただきたいんですけど…。そちらへ行っても構いませんか、臣?」
一瞬横目で睦を見たが、臣は返事をしないばかりか頷きもしない。
「……」
睦は静かに牢の扉を開けた。
「そ…それ、どうしたんですか!?鍵…っ?」
目を見張る愁に――。
「十夜様が牢番から借りてくださいました」
振り向いて微笑んで見せると、睦は臣の真正前に静座した。ひどく取り乱した先ほどとは打って変わり、すっかり落ち着いた様子だ。
一方その前で、一応ながら臣もきちんと姿勢を正しはしたが、それでもやはり視線を合わせてはくれなかった。
「あのね、臣…。香登様がいなくなった二年前のあの晩――本当は私も最後まで皇子様と一緒にいたんです」
「!!」
それは、思いがけない告白だった。
一同は驚いて睦を見たが、それでも臣だけはやや顔を伏せたまま無言だった。
「ちょっと待ってください!だってあなた、あの時陛下に、いつの間にかいなくなった、と…そう申し上げていたじゃないですか!朝、部屋へ出向いたらもういなかった――って。あれは…事細かにあの時の状況を語っていたのは、何だったんです!?まさか全部…嘘!?」
愁の言葉に睦は小さく頷いて答えた。その顔は、寂しげながらどこか穏やかにも見える。
「香登様は――何て言うか、その…ちょっと繊細すぎて…。さっきの十夜様の話じゃないですけど、例え辛い思いをその胸に抱いていたとしても、いつだって人知れずそれを殺し、じっと我慢ばかりしていらっしゃる方でした。普段は明るく素直で朗らかで…とても愛らしい方です。でも、本当はとても弱く儚い方…。小さな頃から、いつもにこにこしていらしたから分からなかったでしょう?私も初めは全然分からなくて…。気付いて差し上げられなくて…。
でも、ある時――そう、あの方の皇子付きになって半年ほど経った頃だったかな…。香登様のお部屋から下がった後で忘れ物に気付いた私は、慌ててあの方のお部屋へ戻りました。
その時のこと、今も忘れられません。
ふと気付くと、さっきまで普通にお話をして一緒に星を眺め、にこやかに笑っていたはずの香登様の頬に、涙の跡が付いていた。あの方、私が下がった後で一人で泣いていらしたんです。私という者がお傍にありながら…わざわざ私がいなくなってから、あの方は泣いていたんです。手にはお母上・霞深様の写真が握られていました。
みなさん、覚えておいでかな…?あの日はね、ちょうど水紅様と白露様が今朝のように遣り合った日です。当時はまだ白露様も今ほど横暴ではなかったし、そもそも親子喧嘩の内容だって今日のようなことじゃなかった。元々は水紅様と香登様の些細な兄弟喧嘩が発端でした。原因は本当に他愛のないことだったんですが、そこで白露様は香登様にこう仰いました。
次期皇帝の兄君に生意気な口を利くな――と。
でもね、その言葉に逆上されたのは、香登様ではなく水紅様の方でした。驚いた香登様は慌てて間に割って入りました。私も臣もそうでしたよね。
あの時の香登様を覚えていますか、臣?
あの方ね…こう言いましたよ。『どんな理由があれ、確かにそのとおり。私が間違っていました。申し訳ありませんでした』と、あの場で…私や他の御許もいる中で、なんと床に手を付いて謝罪された。そして、水紅様にはこう仰った。私なら大丈夫です。庇っていただいてありがとうございました――とね…深く頭を垂れ、笑って見せましたよ」
「覚えている…」
まるで囁くように呟き、臣は僅かに頷いた。
「あの時、あの方、まだ十四です。皇子とはいえ、まだほんの子ども。なのにあの方、顔や言葉を使い分けるんです。無難にその場を凌ぐための顔を、言葉を…。そんな判断が齢十四の少年にできてしまうんですよ。一体どこでそんなことを覚えてしまったのか…って、私、何度も考えました。でもやっぱり見当も付きません。だって、私だってまだ十八…皇子付きになったばかりで、ほんの青二才もいいところ。大して皇子様と齢も違わないじゃありませんか。
だけど…今ならば分かる。ようやくね、皇子様を失って分かりました。
たった一つしか齢の違わない兄弟が、ちょっと喧嘩をしたからといってそれは罪ですか――?
あの方の中では、もうどっちが正しいとかそういうことは問題じゃなかったんです。我が子を愛する余り、つい身贔屓なことを口走った白露様の姿にね、あの方はご自分のお母上を見たんです。香登様はご自分がお母上に捨てられたと、ずっとそう感じておられたようでしたから、白露様からあんな言葉をかけてもらえる水紅様が羨ましくて仕方がなかった。だけど同時に、あの方がああして香登様を否定する姿は、自分を置いて宮を出てしまったお母上そのもの。
霞深様はとても奔放な方だったそうですね。何でも自分の思いどおりにしないと気が済まない――人の心までも自分の手に収めたがる、そんな方だったと聞いています。それでもお母上を思い慕っていた香登様にしてみれば、あの霞深様の失踪は自分への裏切りに等しい。
香登様の性格を思えば、きっとあの方、いつもご自分の心を霞深様の前に差し出しておられたはずです。でもついにそれは受け取ってはいただけなかった…。
ひどいですよね。要らないって言われてるのと同じです。もう本心なんて人前に出せませんよ。また手を返されたら、今度はどれほど傷付くか分からない。それに…あの方、皇子ですから…。水紅様や篠懸様と同じ皇子様ですから――まさか人前で弱音なんて言えるはずがありません。求められるのは皇族たる威厳と自尊心。幼い頃から事あるごとにそう躾けられているんですから。
この国の皇子様方は皆様そうだ。悩み傷付き、心を隠す。水紅様は胸の奥に触れられるのを嫌い人を遠ざける。篠懸様はもうずっとお体を悪くされている。香登様は…耐えることができなかった…。
そんな香登様のところに、ある時、霞深様から便りが届きました。届いたと言ってもどうやって届いたのか分かりません。朝起きたら、部屋の扉の隙間に差し入れられていたと、そう仰っていました。
だけど、香登様にとって、その便りが本物かどうかなんてどうでも良かった。ただ、あの方が言うには、確かに霞深様の字だと…。書かれていた内容は『三日後の子の刻に、風の宮の露台の下に使いをよこすから、その人物とともに宮を出よ』と…。そして最後には、ともに暮らそう。迎えが遅くなって申し訳なかった…と、そんな風に書かれていたそうです。
初めは何としてもお止めせねばと思っていました。そんなことが見つかったら、ただでは済まない。それこそ香登様も私も、霞深様だって――。
ですが…。
手紙を胸に抱いたあの方は、幸せそうに微笑んだまま泣いていました。そう…とても穏やかな笑顔を浮かべて泣いていらした…。皮肉なことに、あの方が私の前で涙を見せてくださったのは、あの時一度きりです。
心から香登様を愛し、大切に思っていました。それは本当です。あの方だっていつも私を慕ってくださいました。それでも、やはり香登様はどこかでいつもお母上を欲しておられた――。
あの方の幸せはここにはない…そう感じた私は、結局その背中を黙って見送りました。
宮をお出になる時、一度だけ――たった一度だけ香登様は私に仰いました。止めるなら今だぞ、と…。でも私は止めることができませんでした。
まさか我が身がこの後どうなるかなんて考えもしなかった。だってそんな必要がないじゃありませんか。だって私はあの時、あの方の幸せだけを祈っていましたから…。いってらっしゃいませ、と…。どうかお幸せに、とそう申し上げるだけで精一杯…。それがすべてでしたから…」
「馬鹿な!!おまえが霞深様の倍も三倍もあの方を愛してやれば良かったじゃないか!あなたには私が付いている、何があってもあなたを守ると、そう言ってやれば良かったじゃないか!!それを、なぜおまえ――!」
臣は睦の肩を強く握った。
臣の目がまだ微かに潤みを帯びている。
あの臣が――いつも羨ましくなるほど強かった彼が、自分のために涙を流してくれた。あの会議の後も、昨日、光の宮の廊下で会った時も――きっと彼はとっくに気付いていた。狂い始めたこの心に…。
だってあんなに見ててくれた。
あんなに心配してくれた。
いつだって本気で怒ってくれたもの――。
「ほんと…そう…。どうしてそう言って差し上げなかったんだろう…。きっとそれを待っていらした。あの時、振り向きもせずたった一度仰った言葉――あの時きっと香登様は泣いていた。あの方、止めて欲しかったのかもしれない。
だけど私…どうしても辛くて…。いくら頑張ってもあの方の心を開いて差し上げられない自分が情けなくて…。
私はあの方の苦しみを知っていながら、結局は最後まで何もして差し上げられなかったんです。
失いたくなかった、本当は…。心から大切な人だった。あの方が欲しがっていた幸せというもの、できればそれを私が差し上げたかった――!!
香登様はそれが霞深様の元にあると、そう思っていたんです。一人、住み慣れた…辛い思い出ばかりの宮を出て、香登様は幸せを探しに行かれた。どこへ向かうのかは、とうとう教えていただけませんでした。どうしていらっしゃるのかも分からない。
だけどね、あの方のことですから、何だかいつかひょっこり帰って来そうな気もしているんです。『睦、ただいま』って、けろっとした笑顔を浮かべて…。私、霞深様のことはよく知りませんが、人伝に聞いた話からも、正直、あの香登様に幸せをくださる方だとは思えませんでした。だからいつか、やっぱりここがいい――って、あのいつもの顔で笑って…そう言って戻って来てくれるような、そんな気が今でもするんです…。
だけど、そうしたら今度は――今度こそはもう放しません。またあの方が泣いて宮を出たがっても、今度は絶対に出しません。あなたの欲しいものは全部私が持っている。探しに行く必要なんかない。私がすべて差し上げると、そう言ってやります。だから…」
睦は袖で瞼を押さえた。
驚くほど気丈に辛い記憶を語った。これまでひた隠しにしてきであろう真実を、その胸の内を、睦らしからぬしっかりとした口調で語った。本当の彼はこんな人間だったのかと、居合わせた誰もが目を疑ったほどだ。
こうなるまでに何度もくじけそうになり、何度も一人で泣いたことだろう…。
だが、それもここまでだった。
睦は肩を激しくしゃくりあげた。話を続けようとしても、涙でうまく声が出ない。どうしても声が上ずってしまう。
「臣はまだ…すぐそこにいる…でしょう…?大切なあの方…まだあなたを…待っててくださるじゃ…ないですか…!まだ…手を…手を伸ばせば…ちゃんと届きます…。届かないと言うなら…背中、押してあげます…だから…!」
細い手を引き寄せると、睦は簡単に臣の胸に飛び込んできた。その肩を黙って抱いてやる。背中に回した手に力を込めると、ずっと一人で堪えていたであろう睦の心は嗚咽となり、やがては泣き声へと変わった。
堰を切ったように睦は泣いた。
ただ声をあげて泣きじゃくった。
夜が更けていく。差し込んだ月灯りが今彼らをしっとりと照らしていた。辛く悲しい秘め事は、今宵すべて月華の下に晒される。
隠すことなんかない。
苦しいならもがけ。
辛いなら足掻け。
疲れたなら時に膝を付いてもいい。
誰かに縋って泣いてもいいんだ――!
一頻り泣いて、ある程度落ち着きを取り戻すと、睦は小さく呟いた。
「私…おかしいんだそうですね…。心が均衡をなくして…狂っているんだそうですね。十夜様にそう言われるまで全然知りませんでした。でも、臣は気付いていたんですよね?それでいつも叱ってくれたんですよね…?」
臣は睦の顔を見つめていた。何かを言いたげに…それでも何も言わず、ただじっと静かに――。
睦の心は澄んだ湖面のように穏やかだった。
もう何の不安もない。
何の迷いもない。
もう一人じゃないから…みんな傍にいるから、きっと大丈夫――。
「あなたをここから出したら、今度は私が頑張ります。だから、今は臣が頑張って…。やめろなんて言わないで。まだ平気です。まだ間に合います。こうしてみんなもついてます。水紅様も寂しさに耐えて待ってます。あなたにも水紅様にも約束したんです。絶対助けるって…私、約束したんですから…」
「そう…だったな…」
頷いて臣はそっと月を見上げた――。
月の雫 ―春霞の抄―