街外れの塾にて
01.出逢い
燻っていた自分を変えてくれる出会い。
それは、運命だなんて信じた覚えのない言葉を使ってもいいと思えるくらいに、素敵なものだったりもする。
築何年になろうかというほど古ぼけたその建物に入るのは、とても勇気が要った。まるで昔住んでいた田舎にある、『山姥の家』と呼ばれていたあの不気味な一軒家のようで。
間違っている、とは思えない。ここまで歩いてきた道はちゃんと事前に教えられた通りのはずだし、何より――古くて読みにくいものの――そこにはきちんと看板が立っている。
ここが、今日から通う塾なのだ。
とにかく入ってみよう。それしかない。
覚悟を決め、ごくり、と息を呑む。そして、藤野奈月はようやく立て付けの悪い入口のドア(というより戸)を開いた。
◆◆◆
「あなたは今日から、わたくしが引き取って育てますわ」
唯一の家族だった父親の葬儀の日、奈月の前に現れた女性はそう言って微笑んだ。
「今日からようやく、一緒に暮らせますわね」
その女性は、奈月のことをよく知っているようだった。
誰、だっけ……?
奈月は最初その人が誰なのか――その人が、自分にとってどのような存在なのか、分からなかった。
このまま誰だか分からぬままおどおどしていても仕方がない、と悟った奈月は、勇気を振り絞って女性に尋ねてみた。
「あの、失礼ですが……」
しかし、奈月はすぐに後悔した。尋ねたとたん、女性が酷く傷ついたような顔をしたからだ。
「っ……ごめんなさい。わたし……」
急いで謝ると、女性は淡く微笑みながら黙って首を振った。
「いいの。あなたがわたくしのことを忘れてしまっているのは、仕方のないことですもの。これから、徐々に分かっていけばいいの。ね?」
女性はふわりと奈月の頭を撫でた。
「では手始めに、自己紹介を致しましょうね。わたくしの名前は西村咲葵子。もっとも、昔は藤野咲葵子と名乗っていましたけれど」
穏やかな口調と柔らかな笑顔。頭を撫でられる感触。近づいた時にふわりと鼻を掠めた、安らぐような甘い匂い。そして、咲葵子という彼女の名前。
それらが全て繋がった時、奈月の心を懐かしさが支配した。同時に、今まで封印してきた昔の記憶がどんどん甦ってきた。
あぁ……そうだ。この人は……。
「もしかして、あなたは……わたしの」
「そうよ。思い出してくれたのね」
女性は嬉しそうな、あどけない笑みを浮かべた。
「わたくしは、あなたの母親よ。奈月」
――今日から、塾に行くのよ。
十数年ぶりに共に暮らすことになった母親・咲葵子の、最初の言い付けはそれだった。
奈月は、彼女が何故いきなりそんなことを言い出すのか疑問だった。もともと塾へ行かなければならないほど成績は悪くなかったはずだ。それなのに、どうして今さら?
尋ねると、咲葵子は少しきまり悪そうに目を泳がせた。
「それは、その……ね」
「咲葵子さん?」
呼びかけると、びくりと咲葵子の肩がはねた。しばらく見つめていると、やがて観念したのか、俯いたまま小さな声で言った。
「……あなたには、心のケアというものが必要だと思ったの」
「心の、ケア?」
「そうよ。あなたは色々苦労したのでしょう。それで疲れていると思ったから、心のケアも兼ねて塾へ通ってもらおうと思って」
何でそれで塾が出てくるんだ? と思ったが、これ以上追求するのはやめておくことにした。掘り下げたところで意味がないだろうし、これ以上自分に不利な状況を作りたくないと思ったからだ。
「そうですか……わかりました」
今のところは、この人に従っておこう。
自分なりに利己的だと思う判断を下し、奈月は塾へ行くことを了承した。
◆◆◆
「それにしても、咲葵子さんの意図が全く理解できない……」
指定された無人の教室で、ぼんやりと窓の外を見ながら奈月は呟いた。
「だいたいこの年になっていきなり一緒に暮らそうだなんて、虫が良すぎるんじゃない? 知らない人と一緒にいるみたいで具合が悪いよ」
血の繋がった親子だからといって、今さら甘えることなんか出来ない。素直になるには、受け入れるには、いささか大人になりすぎた。
それに、わたしは母親のことなんか忘れたんだから。もう昔のことなんて思い出したくなかったんだから……。
そこまで考えて、酷く憂鬱な気分になった。思わずため息をついてしまう。
同時に、今まで閉めていた教室の入口が、耳障りな音を立てて開いた。
「……っ!」
思わず驚き、とっさに振り向く。
入口の前に立っていたのは、ふわふわとした茶髪と童顔が特徴の、ラフな格好をした男性だった。
男性は奈月の挙動不審な反応に驚いたのか、少しばかり目を見開いていた。が、それも一瞬のこと。彼はすぐに奈月に向かって、屈託なく笑いかけてきた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
警戒心を解かぬまま、奈月も形だけの挨拶を返す。すると男性はむぅ、と不満げに唇を尖らせた。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないか。傷つくなぁ」
「こ、怖がってなんかないです!」
「震えながら否定されても、まったく説得力ないんだけど」
はは、と男性は笑った。機嫌を損ねてしまったかと奈月は内心不安だったが、その無垢な笑顔からはそういった感情は読み取れない。どうやら本当に怒っているわけではないようだ。
「……さて、とりあえず」
気を取り直すように男性は口を開いた。
「君が、藤野奈月さん。ってことでいいんだよね」
突然現れた男はやたらフレンドリーなうえに、自分の名前を知っている。この状況はいったいどういうことなのだと、奈月はちょっとしたパニックに陥っていた。普段聡明である奈月ならばすぐに答えがわかるはずなのだが、どうも頭がうまく回っていないようだ。
「……そう、ですけど」
やはり警戒心は解かぬまま――むしろさらに強めて――奈月は答えた。
「というか、あ、あなた、一体誰なんですか。いきなり現れて、人の名前呼んで……ぶしつけにも、程がありますよ」
「ぶしつけ、か……君、結構手厳しいね」
まぁ、こちらも自己紹介をしていないから悪いんだけれど。
そう言って、男性は困ったように笑った。
「――では、改めまして」
居住まいを正すと、男性はいまだ固まっている奈月に向かって、無邪気に笑いかけた。
「今日から君の担当をすることになった、塾講師の桜井健人です。よろしくね、藤野」
◆◆◆
それから奈月は毎週決まった曜日に、街外れの塾へと通うようになった。
初めは突然現れた男性――塾講師の桜井に対して警戒心を抱いていた奈月だったが、桜井が子供のように無邪気で朗らかな性格だったこともあり、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
――ひょっとしたら、この人なら本当にわたしを変えてくれるかもしれない……。
「……藤野? どうしたの」
向かいの席で参考書を開こうとしていた桜井が、きょとんとしながら首をかしげる。どうやら知らぬ間に、ぼうっとしながら彼を見つめていたらしい。
「……いいえ、なんでもありません」
どこからでしたっけ、と言いながら、奈月も自らの参考書に手を伸ばした。
02.情の温かさ
雨は湿っぽくて、鬱陶しいと嫌う人も多い。
それでも――……そんな梅雨ならではの過ごし方がちゃんとあるってこと、彼らはきっと知らないんだ。
街外れの塾にて。
内装と同じく古びた玄関には、忘れ物なのか、それとも単に置いてあるだけなのか……そんな所在のない傘が何本もしまわれている傘立てと、傍らには何故かパイプ椅子が一つだけ、出入口と内部を繋ぐ廊下から背を向けるようにして置かれている。
現在そこに座っている少女――藤野奈月は、外で響く雨の音を聴きながら、開いた化学の参考書に目を落としていた。
今やここは、ほとんど物音の聞こえない、奈月好みの静かで落ち着いた場所となっていた。講師や生徒の数がそんなに少ないというわけではないみたいだけれど、今はもうそのほとんどが帰路に着いた後らしく、後ろから時折聞こえる足音以外にその気配は感じられない。
出入口や窓に雨の当たる、パラパラという独特の音が、奈月はとても好きだった。まるで心が洗われるような、清らかな気分にさせてくれる。
「――あれ、まだ残ってたの」
不意に頭上から声が降ってきて、奈月は緩慢な仕草で頭を上げた。表情を一切変えぬまま、それでも声色だけは驚いたような様子で、それまで閉ざされていた唇を動かし言葉を紡ぐ。
「桜井先生」
目の前に立って奈月を見下ろしていたのは、二か月ほど前から奈月の担当をしてくれている塾講師――桜井健人。湿気の影響か、いつもよりさらに跳ねまくった茶髪をふわりと揺らしながら、今日もその童顔に人懐っこい笑みを浮かべている。
「何してるの?」
不意にそう問われ、奈月は膝に置いていた参考書を桜井の前に掲げてみせた。その状態のまま、ぶっきらぼうな声で答える。
「ご覧のとおりですよ」
「咲葵子さんには、お迎え頼めないの?」
咲葵子――戸籍上奈月の母親に当たる、その人の名前を出されたことに、奈月はほんの少しだけ眉根を寄せた。
「あの人は、免許を持っていませんから」
感情を込めず、淡々とした早口で答える。
「こんな雨じゃ、傘を持っていても濡れるでしょうし……だから少しでも落ち着くまで、こうして時間を潰すことにしたんです」
正直、これは言い訳だった。
本当は、家に帰るのが憂鬱だったから……少しでもその時間を遅らせようと思って、こうしてここにいるだけにすぎないのだ。
でも、この人にそこまで言う義理はきっとない。いくら、とっくに見透かされている事実だったとしても。
内心から込み上げてきそうな感情を押しとどめるため、まるで何も考えていなさそうな目の前の男を強気に睨む。しかし当の桜井はその視線に少しもひるむことなく、ただいつものようににっこりと笑った。
「そっかぁ」
じゃあ、俺も付き合うよ。
何でもないことのように自然と続けられたその言葉に、奈月は一瞬目を見開いた。
てっきり、『そっかぁ、早く雨が上がるといいね。じゃあまた明日』なんて言い残して、すぐにこの場を去ると思っていたのに。……いや、この人のことだから、そんな冷たいことは言わないんじゃないかとも一瞬思ったけれど。
だけど、でも……。
「今までみたいにおとなしくここで勉強していますから、結構です。それに……先生にだって、お仕事があるでしょう」
「大丈夫、俺もちょうど休憩したいと思ってたところだし。それに……」
そこで言葉を切った桜井は、奈月の手から開かれたままの参考書を取り上げた。あっ、と思わず漏れた奈月の抗議の声にも構わず、いまだ付箋のなされていないページを惜しげもなくぱたりと閉じてしまう。
返してください、と口を開きかけた奈月を遮るように、桜井は続けた。
「ここで一人放置したら、また君は根詰めて勉強ばかりするんだろう?」
寂しげに揺れる茶色い瞳と、差し向けられたその言葉に、ドキリとした。彼の言うことは、まさに図星だったから。
反論しようと、震える唇を開く。
「だって……」
だって、それしか方法を知らない。
これまで構ってくれる親も友人もなく、一人っきりで過ごすことにすっかり慣れきってしまっていた奈月は、ぽっかりと空いた時間を過ごす術を一つしか知らなかった。
とにかく時間を無駄にせず、自分なりに知識を蓄えること。
そうすることでしか、奈月は一人の時間を埋めることができなかった。
言葉と共に、これまで我慢していたものが全部出て行ってしまいそうで、思わず唇と目をきつく閉じる。
うつむいた奈月の頭に、不意にぽふり、と温かいものが落ちてきた。何事かと、閉じていた目をそっと開く。顔を上げれば、柔らかく微笑む桜井と視線がかち合った。
ふと視線をずらすと、彼の左手がこちらに伸びているのが見えて――そこでようやく奈月は、頭の上に乗っているのが彼の手のひらであるということに気付いた。
自分のものより大きくてしっかりとしたそれが、奈月の頭に触れながら、時折髪を梳くようにして幾度か動く。初めての感触に戸惑いながらも、不思議と気持ちが和らいでいくのが分かった。
母親には、何度かこうして頭を撫でられたことがある。けれど、それ以外の人に――ましてや男の人に、こんなにも優しい手つきで撫でてもらうのは初めてだった。
心地よさのままに目を閉じると、瞼の裏に父親の姿が浮かぶ。最後にあの人が触れてくれたのは、一体何年前だろう……。
ポンッ、と頭の上で弾んだ手に、奈月はハッと我に返った。いつの間にか目の前でしゃがみこんでいた桜井に、一瞬びくっとしてしまう。
「せっかくだし、落ち着くまで何か話そうよ」
『落ち着くまで』の主語には、きっと言うまでもなく『外が』とつくのだろう。けれど奈月には何故か、別の意味に聞こえたような気がした。
にっこりと屈託なく笑まれれば、反論する気も不思議と失せてしまう。それが何だか悔しくて、口をつぐんだまま、奈月はこくりとうなずいた。
03.細やかな愛情
あー夏休み! なんて言ってはしゃいでいる人もいるけれど……。
夏休みだからこそ頑張り時だからと暑い中勉強を強いられるのは、正直どうかと思う。
「暑いねぇ……」
街外れの塾にて。汗だくになりながら、教室の真ん中の席にだらりと座っていた青年――塾講師・桜井健人が力なく呟いた。
「本当に暑いですね。この教室、クーラーないんですか」
桜井の向かいで、時折浮かんだ汗を拭いながら問題集とにらみ合っている女子生徒――藤野奈月は僅かに苛立ったような表情で文句を言った。
桜井は困ったように笑いながら、頭を掻いた。
「残念ながら貧乏なんだよねぇ、うちの塾って……」
「じゃあせめて扇風機は」
「あぁ、あるよ。さすがにこの季節、何もないのはしんどいからね」
ちなみに今つけてるよ、と言いながら桜井は教室の端を指差した。確かにそこにはせわしなく首を動かす扇風機が一台だけある。それでもくるくると回る羽根からは、申し訳程度の生ぬるい風しか伝わってこなかった。
奈月は諦めたようにため息をついた。
「本当に……わたし、どうしてこんな塾に来たんだろ」
そもそも、咲葵子さんがあんなこと言わなければ……。
そんな風に思いながら小さく悪態をつくと、それに呼応するように桜井も唇を尖らせながら呟いた。
「俺も……何でこんな塾で働いてんのかな」
「あなたが言わないでくださいよ」
「まぁ細かいことは気にしないで。……あ、そうだ!」
言いながら、桜井はおもむろに立ち上がった。その目はまるで、名案を思いついた子供のように無邪気に輝いている。そのまま「ちょっと待ってて」と言い残し、教室を出て行った。
◆◆◆
「――遅い」
奈月は頬杖をつきながら、壁に掛けられた時計を一瞥した。
何せ桜井が教室を出て行ってから、もうかれこれ三十分近く経っていたのだ。クーラーもなく扇風機も効かないこの部屋でこれ以上桜井の帰りを待つことは、奈月にとって拷問以外の何者でもなかった。
もしやあの人はわたしを置いて、今頃涼しい部屋で一人サボっているのだろうか……。
ぼうっとする頭で、奈月はふとそんな疑念を抱いた。桜井は「貧乏なんだよねぇ」なんて言って誤魔化していたけれど、奈月はちゃんと知っていた。桜井を始めとする講師たちの仕事場には、クーラーがきちんと完備されているということを。
もちろんその疑惑を否定する気持ちが全くないわけではない。だけどなんだか空しくなって、そう思う自分にひどく腹が立った。
奈月は勉強道具を一旦全て片づけると、机に顔をつけた。頬に当たるひんやりとした木の素材が心地いい。
「ずるいですよ……先生の馬鹿」
寝そべったままポツリと、そんな独り言を漏らしたとき。
――突然首筋に、気温の高い部屋には場違いな鋭い冷気を感じた。
「ひゃっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、奈月は飛ぶような勢いで起き上がった。両手で首を押さえながら、何事かと言いたげな眼差しで隣を見る。
奈月の視線の先には、いつの間に戻ってきたのか、先ほどよりさらに汗だくになった桜井がニコニコ顔で立っていた。棒アイスが入った袋を両手に一つずつ持っている。どうやら、先ほどの刺すような冷気の原因はそれらしい。
「最初は冷蔵庫にアイスあるかな~と思って行ったんだけど、生憎ストックが切れててさ。コンビニまで買出しに行ってたら遅くなっちゃった」
いまだに首を押さえたまま呆然としている奈月に、桜井はそう語りながら持っていたアイスの一つを差し出した。我に返った奈月は「ありがとうございます」と掠れた声を出し、受け取る。
冷蔵庫、あったんですね。
そう続けようとしたけれど、それ以上声はでなかった。
こんなに優しい人を、さっきまで疑っていたなんて……。
なんだか泣きたくなって、奈月はそのままうつむいてしまった。
「……ごめんね?」
黙り込んでしまった奈月の顔を覗き込み、桜井は恐る恐る謝罪の言葉を口にした。反省しているのだろう。自分が遅れてしまったせいで奈月に余計な心配をさせてしまったのではないか、と。
奈月は逆に謝りたい気持ちでいっぱいになった。だけど、どうも素直になることができない。大人ぶってはいても、こういうところでやっぱりまだまだ自分は子供なのだと思い知らされる。
ふと、彼の手に目がいった。少し前の雨の日に、一度だけ頭を撫でてもらったことのある、包み込むように大きくて優しくて――気持ちが落ち着いて、思わず甘えたくなるような、不思議な力を持ったそれ。
もう一度頭を撫でてくれたら許す、と――そう素直に言えたら、どれだけいいだろう。
けれど……。
代わりにぼそりと、一言だけ呟いた。
「先生の、馬鹿」
「え、えええええ!? 本当ごめんなさい!!」
おろおろする桜井に背を向け、奈月はさっさと棒アイスの袋を開けると中身を口に放り込んだ。ソーダ味のひんやりとしたそれは、火照った身体を冷ますのにうってつけだった。
04.真の魅力
『秋は夕暮れ』と、どこぞの誰かがそんなことを言っていた。
秋といえばいろいろあるけれど、やっぱり秋の夕暮れは格別だと思う。
というわけで。
「海へ行こう!」
街外れの塾で仕事をしていた塾講師――桜井健人は突然立ち上がったかと思うと、明らかに季節はずれの発言をした。
「いや……なんでいきなり海なんですか?冒頭では夕焼けのこと語ってたくせに。それに、海って普通夏に行くものでしょう?秋に行くものではないと思いますけど」
隣の席に座ってお茶を啜っていた女子生徒――藤野奈月はその発言に対し、少し顔をしかめながら淡々と正当な意見を言った。
それに構わず桜井は、奈月の顔の前でちっちっち、と指を振って見せた。
「わかってないなぁ。藤野は。秋に海で沈む夕陽を見るのが、一番ロマンチックで素敵なんじゃないか」
やっぱ夕暮れといったら海だろ~、と一人で納得している桜井を見て、奈月は大きなため息をついた。
「先生……そういうのは恋人と行ってくださいよ。何もわたしを連れて行く必要はないじゃないですか」
呆れてそう言うと、桜井は唇を尖らせた。
「俺に恋人がいるとでも思ってるのか?」
「いないんですか」
「いないよ、悲しいことにな」
「あぁ……ふっ、やっぱりそうでしたか」
「やっぱりって何!」
大人のくせに、しかも講師のくせに相変わらず桜井はぎゃあぎゃあと騒いでいる。
「というか君さ、最近俺に対する物言いが最初より酷くなってきてない!?」
その言葉に、奈月は一瞬動きを止めた。
確かにここ最近――正確には、一度桜井に対して「馬鹿」と言い放った日から――割と彼に対して、何でも言いたいことを素直に言えるようになった気がする。……まぁ、思い返せば最初から失礼な物言いしかしていないような気もするが。
桜井を見ながらそんなことをいろいろと考えていた奈月だったが、当の桜井はそんな彼女に気が付いていない様子……というか全く気にしていない様子で、すぐさま立ち直ったかと思うと、奈月に向かって無邪気に笑った。
「まぁとにかく。今日はもう塾終わりだし、早速行こう!」
「え、じゃあ咲葵子さんに……」
「こら。咲葵子さん、じゃないでしょ?」
「っ……」
また、だ。
桜井からこの指摘を受けるのは、もう何度目になるか分からない。彼女を名前で呼ぶたび、桜井は同じようにやんわりと否定の言葉を重ねてくる。
一緒に暮らすようになってもう結構経つが、奈月は未だに咲葵子を『母親』と呼ぶことが出来ていなかった。憎んでいる訳ではない。ただ、『母親』という存在をなかなか素直に認識することができないだけ。
自分に母親がいるという事実を、受け入れられないだけだ。
「……ごめんなさい。今はまだ、あの人を母親とは呼べないんです」
勘弁、していただけますか。
落胆したように俯いて、ぼそりと呟いた。
「……そっか。まだ、無理か」
先走らせてごめんね、と囁き、桜井は奈月の頭を慈しむように撫でた。久し振りに感じる温かく心地の良い大きな掌に、ふっと目を閉じる。
しばらく桜井は無言で奈月の頭を撫でていたが、手を離してからは全く何事もなかったかのように、
「まだ暗くなってないから、お家に連絡しなくても大丈夫だよ。もし遅れても、塾で遅くなったことにすればいいさ」
と、先ほどまでなされていた会話を再開させた。
「……そんな無茶な」
奈月は話題が戻ったことに心からホッとしながら、会話を続けた。
「それより、仕事はしなくてもいいんですか」
「気にするな。後でどうにかする」
「どうにかなるものなんですか、それって……」
「大丈夫だって。それより早く行こう、早く!」
「子供ですか。全く……後でどうなっても知りませんからね?」
◆◆◆
塾を出て十五分ほど歩くと、海のある場所に到着した。海岸へと降りる階段の前には、特徴的な人魚の像が二つ、まるで二人を迎えるかのようにそびえ立っている。
「お~、綺麗だなぁ!」
着いた瞬間から年甲斐もなくはしゃいでいる馬鹿な大人(桜井)を、奈月は呆れながらも優しい目で見守っていた。
海水浴シーズンも過ぎ、夕方であることもあってか、海には人がほとんどいなかった。しかし、カップルらしき男女が夕陽を見に来ている姿はちらほらと見かける。みんなロマンチックな雰囲気に弱いのだろうか……。
「藤野!こっちこっち!」
そんなことを考えていると、いつの間にやら桜井が場所を取っておいてくれたようだ。奈月は両手を振っている桜井のもとへ小走りで駆け寄った。
「ここからだときっと、夕日が綺麗に見えるよ!」
「そうですね……あ、もうすぐ陽が落ちるみたいですよ」
桜井はとたんに目を輝かせ、空の方へと視線をやった。奈月もまた、陽の落ち始めた空を見やった。
――オレンジ色に染まった空と沈む太陽が映る海は、桜井の言ったとおりロマンチックで綺麗だった。
「……夕暮れはやっぱり、海で見るのが一番綺麗ですね」
奈月が呟くと、桜井は今まで空にやっていた視線を彼女に向け、得意げに微笑んだ。
「そうだろう?」
「はい、来てよかったです。ありがとうございました」
そう言って、あまり慣れていない笑みを作ってみる。桜井は一瞬驚いた顔をしたが、やがて照れたように笑った。
いつもの笑顔も今日は、夕陽に照らされて特別綺麗に見えた気がした。
「なんだか、魔法みたい」
太陽が完全に沈んだ頃。いまだ名残惜しげに空を見つめる桜井の横顔を見て、奈月はポツリとそう口にした。
「……え?」
桜井が奈月を見て不思議そうに首をかしげる。
「今の、どういう意味?」
奈月はそんな桜井に向かってつっけんどんに言った。
「内緒です。先生には教えてあげません」
桜井は不満げな顔で「なんだよー」と言いながら唇を尖らせた。そんな桜井を横目に見ながら、奈月は満足げな表情をした。
05.あなたに微笑む
とても寒い日に、人間の街へ温かい手袋を買いに行く、子狐のお話。
遠い昔、そんな物語を読んだことがあったような……。
「そういえば今日、雪が降るそうですよ」
ある寒い日のこと、街外れの塾で勉強をしていた少女――藤野奈月が、不意に窓の外を見ながらそう言った。
奈月と向かい合って勉強を教えていた塾講師――桜井健人は、その言葉に過剰反応した。
「え、まじで!? やったぁ!!」
教える手を止めたかと思うと、とたんに目をきらきらと輝かせながら身を乗り出す。相変わらず子供のような男だ。
「多分、塾が終わる頃にはもう降っているんじゃないでしょうか」
奈月が再び外を見つめて言うと、桜井は相変わらず目を輝かせながら
「じゃあ早く今日の分終わらせちゃおう!」
と張り切る。早く終わらせた所で時間が進む訳じゃないのに……と半ば呆れながら、奈月は頷いた。
「そうですね」
「――よし、じゃあ今日はここまでにしておこうか」
「はい」
いつもの如く授業(といっても個人授業だが)が終わると、奈月はふと窓を見た。うっすらと雪の積もった景色が目に入る。どうやら、勉強をしている間に少し降ったらしい。
「先生、よかったですね。雪が少し積もってますよ」
奈月が言い終わるか終わらないかのうちに、桜井はがたんと音を立てて椅子から立ち上がった。大急ぎで窓を開け、身を乗り出す。
「本当だ!」
心底嬉しそうに、両手を広げて降る雪を掴もうとする。そんな様子が可愛くて、奈月は思わず目を和ませた。
「本当に雪が好きなんですね」
「だって綺麗なんだもん。それに、」
桜井はそこで言葉を止めると、奈月の方を振り返ってにっこりと笑った。
「いっぱい降ったら、外で遊べるしね!」
「そうですか」
奈月はそう言った後、桜井に一つ提案をした。
「じゃあ……今から少し外へ出てみましょうか?」
桜井はさっきよりも目を輝かせながら、元気よく頷いた。
「うん!」
◆◆◆
「寒っ……」
自分から外へ出ようと提案したにもかかわらず、奈月は盛大に顔をしかめていた。ストーブがついていて暖かかった教室とは違って、外は身が締まるほどの冷気をまとっている。
そんな中、桜井はというと……。
「やった、雪だ雪だ!!」
はしゃぎながらあちこちを走り回っている。本当にこの人講師なのか?と心の中で疑問に思いながら、奈月ははしゃぐ桜井の後をゆっくり歩きながら追いかけていた。
――しかし突然、奈月は立ち止まってその場にしゃがみ込んだ。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
先ほどまではしゃいでいた桜井もさすがに気がついたようだ。気遣う言葉を掛けながら、奈月の側にしゃがみ込む。奈月は大丈夫だというように表情を和らげた。
「いいえ、違います」
「じゃあ、何でいきなり座り込んだりなんかしたんだい?」
桜井が首をかしげる。奈月はそっと地面を指差した。
そこには、薄く雪が積もった桃色の手袋が片方落ちていた。サイズからして、おそらく子供のものだろう。
「可哀想に……落とした子供はきっと悲しんでいるでしょうね」
奈月は暗い表情でその手袋を拾い上げ、おもむろに立ち上がった。
「わたし小さい頃、手袋を片方落としちゃったことがあるんですよ」
――それは、奈月がまだ幼い頃。
両親の離婚が成立した翌日。奈月は厳格な父親の目を盗んで、雪が降る中を駆け出していた。離婚と共に出て行ってしまった、母親の咲葵子に会いに行くために。
だからといって、宛てがあった訳でもない。幼い奈月には母親の行き先などわかるはずがなかった。
だから、走った。雪に足を取られながらも、必死に走った。辺りを見回し、母親の姿を探し、何度も『おかあさん!』と叫びながら。
途中で何度も転んだ。寒くて、痛くて、たまらなかったけれど、奈月はぐっと堪えた。母親に会えたら、笑顔を見せたいと思っていたから。
しかしどれだけ走っても、母親は見つからなかった。奈月はとうとう走り疲れて、雪の積もった地面に座り込んだ。
ふと気付くと、右手が異常な冷たさに包まれていた。ずっとはめていたはずの手袋が、右手だけなくなっていたのだ。不器用ながらも母親が作ってくれた、暖かい、この世に一つしかない大事な手袋だったのに。
すっかり赤くなった自らの右手を見つめて、奈月は漠然と思った。
もう二度と、母親には会えないのだと。会ってはいけないのだと。
堪えていた涙が溢れてきた。もう止まらなかった。どれだけ願っても、もう母親には会えない。あの人はもう、わたしの母親ではない。楽しかった時は、もう戻りはしない……。
唇をかみしめて、奈月はもう片方残っていた手袋を捨てた。そしてその場で、声を押し殺して泣いた。
娘の不在を知った父親が、不機嫌な顔で彼女を迎えに来るまで。
「――……あの日、手袋と一緒にわたしは失ったんです。大切だった、あの手袋と一緒に……あの人との思い出も、子供の無邪気な感情も……」
奈月の唇は震えていて、その顔は今にも泣きそうに歪んでいた。桜井の表情も自然に暗くなっていく。
「……なんてね、」
しかしすぐに奈月は桜井のほうへ向き直ると、まるで暗い過去を払拭するかのように精一杯笑顔を作った。
「昔のことです。この手袋を見て、ちょっと思い出しただけですよ」
「……」
「きっとこの手袋を落とした子も、どこかで泣いているはずですよね。たとえそれが一時的な少しの悲しみだったとしても、わたしは、子供のそんな姿を見たくない……」
「そっか……」
奈月の心情を察したのか、桜井は穏やかな表情を浮かべた。
「君は、優しいいい子だね」
桜井らしい真っ直ぐな褒め言葉に、奈月は思わず目を逸らした。
「そ、そんなこと……ただ自分と重ねてしまって、つらいだけです」
口篭もった彼女の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。桜井は一瞬微笑んで、よし、と声を上げて立ち上がる。そして励ますように、俯く奈月の頭をポンと叩いた。
「じゃあ、落とし主を探しに行かなくちゃね」
振り返って歩き出そうとした時、とある親子らしき女性と少女の姿が二人の視界に入った。今にも泣きそうな顔をしている少女を、隣の女性が慰めているようだ。
奈月の表情が曇る。それに気付いた桜井が、
「困ってるみたいだよ。声、掛けてみようか」
小声で奈月に囁いた。奈月は力なくこくり、と頷く。
奈月の返事を確認した後、桜井は奈月を誘導し、それとなく二人に近づいていった。そして、交互に声を掛けた。
「あの、どうかなさいましたか?」
「……何か、お探し物でも?」
女性は言いにくそうに告げる。
「あの……この子が、手袋を片方どこかに落としてしまったらしくて」
「凄く気に入ってたのよ。なのにね、なくなっちゃったの」
女性に続いて、少女が泣き声で言った。
奈月と桜井は、一つの心当たりにたどり着いた。互いに顔を見合わせる。
「もしかして……」
「何かご存じなのですか?」
その様子を見た女性が首をかしげた。奈月はしゃがんで少女と視線を合わせ、尋ねた。
「ねぇ。あなたが無くした手袋って、もしかして桃色?」
「そうよ。これと同じもの」
少女は答え、片手を差し出した。小さなその手は、淡い桃色のふわふわとした手袋に包まれている。二人はそれを見て確信した。
桜井はポケットから先ほど奈月が拾った手袋を取り出し、少しかがんだ。にっこりと笑いながら、それを少女に差し出す。
「君の落とした手袋は、これだね?」
「そうよ!」
少女はとたんに嬉しそうに顔を綻ばせ、桜井の手から手袋を受け取った。いとおしそうに抱き締め、飛び跳ねている。女性は驚いたように目を見開いていたが、やがて優しく微笑み、少女の頭を撫でた。
「よかったね、ちぃ」
「うん!」
帰り際、女性は奈月と桜井のほうへ深々と頭を下げた。少女は無邪気に笑い、二人に向かって手袋をはめた両手をぶんぶんと振った。
「どうも、ありがとうございました。それでは失礼致します」
「ありがとう、またね! お姉ちゃん、おじちゃん!!」
「おじ……」
桜井が傷ついたような、複雑な表情をした。奈月は思わず噴出しそうになるのを堪え、少女に手を振り返した。
「またね!」
親子は嬉しそうに微笑みあいながら、手をつないで帰っていった。
「……よかった」
遠ざかる親子を見つめ、奈月が明るい声で呟いた。
「やけに嬉しそうだね」
桜井が目をぱちくりさせながら思ったままのことを言った。奈月は彼を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しいですよ。あの子の悲しみを取り除けて、本当によかった」
滅多に見せることのない、心からの純粋な笑みだった。少し潤んだその目には、温かさが宿っている。彼女の表情にほんの少し目を見開いた桜井は、やがてつられるように微笑んだ。
二人の間に少しだけ、温かいかすかな灯火のような時間が流れた。
「じゃあ、そろそろ塾のほうへ戻りましょうか。おじちゃん」
しばらくすると、奈月はいつもの皮肉っぽい表情に戻った。
「ちょ、おじちゃんって言うな!」
ショックを受けたような表情の桜井をよそに、奈月は機嫌よさそうに、鼻歌を歌いながら雪の中を駆けて行った。桜井は少しの間眩しげな表情で奈月の後姿を見つめていたが、やがて苦笑を浮かべて彼女を追いかけた。
「待ってくれよ、藤野!」
「――遅いですよ、おじちゃん」
「おじちゃんとは失礼だな。俺はまだ二十代だよ?」
「おじちゃんじゃないですか。まぁ、中身はまだまだ子供レベルですけどね」
「むぅ……。相変わらず手厳しいな、君は……」
閑話休題1.美しいが冷淡
「じゃあ、お疲れ。また来週ね」
「ありがとうございました」
いったん外出していたところから、元の街外れの塾に戻ってきた桜井と奈月。既に授業を終え帰り支度も整えていたため、二人は教室でしばし暖まってから解散することにした。
外はもう、すっかり暗くなっている。本当は送って行ってあげられればいいのだが、奈月自身『一人で帰れる』と言って聞かないし、桜井にもまだ仕事が残っているため断念することにした。
「気をつけて」
出ていこうとする姿に声を掛ければ、「はい」という澄んだ声と共にいつもの無表情が返ってくる。先ほど外で一瞬だけ見せてくれた笑みは、もう跡形もない。ひょっとしてあれは幻だったのだろうか……と、そんな疑いを抱いてしまうほど。
ガラガラ、ピシャリ。
古いタイプの引き戸が閉まり、遠ざかっていく足音を後ろで聞きながら、桜井は職員室へ戻るための準備をする。
ふと窓の外に目をやれば、白い雪が再びちらついているのが見えた。今夜は寒くなるのだろうか、とふと考える。
白く染まった地面に、彼女の顔が――今日見た様々な表情が、ぼんやりと浮かんでは消えていく。
――雪に埋もれた小さな手袋を見つけた時の、寂しそうな横顔。
自らの口から過去を語って聞かせた奈月の、潤む瞳と震える唇が、ひどく儚げだったのを思い出す。
――手をつないで去っていく母と娘の後姿を、無言で見送っていた時の、どこかすっきりとしたような表情。
あの時彼女は、母娘の幸福をまるで自分のものと錯覚していたのだろうか。それとも、決して手に入らない何かに憧れ、焦がれていたのだろうか。
そして――……そのあと彼女が見せた、純粋で柔らかな、自然さを伴った微笑み。
初めて目にした彼女の綺麗な表情に、桜井は思わず息を詰め、見惚れてしまいそうになってしまった。
その夢のような笑みはほんの少しの間だけで、すぐにいつもの皮肉げな無表情へと戻ってしまったのだけれど……それでもその一瞬は確かに桜井の胸に刻みつけられ、しっかりと残った。
目を閉じれば、すぐにでも鮮やかに浮かんでくる。誰もが心を奪われるであろう程の、純真無垢なあの笑顔。
あの時、桜井は実感した。いつでもあんな風に笑えるようになれば、彼女はもっと魅力的な女性になるのだ、と。
奈月の母親は、きっとそれを望んでいるのだ、と。
きっと彼女は、本当はあんな冷たい無表情を浮かべるような子じゃないはず。だから……本来の姿を、取り戻してあげたいと思った。母親の望みを、叶えてあげなければならない、とも。
けれど、それ以上に――……あんな風に笑う彼女の姿を、この目でもっと見たい、と思った。塾講師としての務めとか、そういうことじゃなくて。
ただ、単純に。
「笑った顔を、もっと見たい……なぁ」
懇願の響きを伴った自らの声に、思わず苦笑した。
外を見れば、さっき見た時よりも強くなった無数の雪が、覆うようにあたりを白く染めている。奈月はちゃんと家に帰れただろうか、と桜井は一瞬考えた。
「……いいや、あとで電話してみよう」
呟きながら荷物を纏めた桜井は、足を進め外に出ると、煌々と部屋中を明るく照らしていた電気を消す。窓にぼぅっと浮かび上がった小さな雪景色が、どこか神秘的に映った。
――廊下を歩きながら、ふと思いついたことがあった。
冬が過ぎて、外が暖かくなったら、彼女を誘ってどこか遠出でもしてみよう。今までみたいに近くの海や塾の周りじゃなくて、もっと遠く……そう、車を使って行くような、そんな場所に。
そうしたら、彼女の無表情を少しずつ和らげることができるかもしれない。あの時のような花開くような笑みを、もう一度……いや、もしかしたらいつでも、見ることができるようになるかもしれない。
そんな、そう遠くないかもしれない将来に想いを馳せながら、桜井はゆるりと唇に弧を描いた。
06.皆を楽しませる
特定の時期にしか楽しめない事というのはたくさんある。だから楽しめるそのうちに、人生を謳歌しておこう。
たまには……羽目を外すのも悪くないだろう?
そのお誘いは、突然だった。
「春だし、どっか出かけようか。藤野」
いつも通りの授業中、街外れの塾に勤務する塾講師・桜井健人がいきなりそんなことを言った。
「……先生? 唐突に何を言い出すんです」
彼の生徒である藤野奈月は、持っていたシャープペンシルをくるくると手で弄びながら、少々呆れ気味に尋ねた。
「いや、別に唐突じゃないよ?」
至極不思議そうな表情で桜井は答えた。どうやら自らが変なことを口走ったという自覚はないようだ。
「ただ、毎日いい天気なのに、こんな古い建物の中で鬱々と閉じこもってるのもなぁ……と思ってさ」
桜井は窓の外をうっとりとした眼差しで眺めた。
「鬱々と閉じこもっているわけではないでしょう。一応は勉強しているんですから。……まぁ、確かにいい天気ではありますけれど」
奈月もぼんやりと窓の外を眺めながら答えた。穏やかな日の光が、塾の周りに生える木々や花々に優しく降り注いでいる。なるほど、桜井が外に出たくなる気持ちも分からないではない。
桜井は同意を得られたのがよほど嬉しかったのか、目をキラキラさせながら奈月を見た。
「でしょ!? やっぱりさぁ、こういう時はどっか出かけるべきだよねぇ……ほら、あるじゃん。バイキングとかさ」
「それを言うならハイキング、ですよ。先生。バイキングは食べ放題です」
「あれ、そうだっけ」
奈月の冷静な突込みに、桜井は頭を掻きながら首をかしげる。間違えたことが多少恥ずかしかったのか、その頬は少しだけ染まっていた。
「とにかく、どっか行こうよ! 明日日曜日だしちょうどいいからさ」
だんだん、と机を両手でたたきながら、駄々をこねるように桜井が言う。奈月は思わず苦笑した。
「……そうですね、たまには気分転換も必要ですし。行きましょうか」
◆◆◆
桜井は律儀にも、家まで迎えに来てくれた。
「では、奈月さんを一日お預かりさせて頂きます」
自家用車から降りた桜井は、出迎えた奈月の母親・咲葵子にぺこりと礼をした。咲葵子も深々と礼をする。
「こちらこそ、奈月をよろしくお願いいたしますわね」
男性と二人で出かけるというと、普通の親ならば反対するだろう――奈月もそう思っていた――が、咲葵子は存外あっさりと許した。それどころか逆に張り切り、早起きして作った沢山の料理を詰めた重箱を奈月に持たせたぐらいである。
「奈月、楽しんでいらっしゃい」
そう奈月に囁いた咲葵子は、自分が行くわけでもないのにやたらうきうきとした表情をしていた。
母親とは、得てしてこんなものなのか……?
長らく母親という存在が傍になかった奈月には、理解不能な世界だった。
見送る咲葵子に手を振り返し、桜井の車の助手席に乗り込むと、奈月は早速気になったことがあったので尋ねた。
「先生って、免許持っていらしたんですか」
「そりゃ、成人してるし」
桜井はエンジンをかける仕草をしながら、まるで何でもないことだといった風に答えた。奈月がシートベルトを着けたのを横目で確認すると、さっさと車を発進させる。
「一応仕事もしてるわけだから、やっぱり免許は取っておいた方がいいでしょ?」
「ほえー」
奈月は思わず気の抜けたような声を上げた。今まで聞いたことのないようなその反応に、桜井はつい吹き出してしまう。
「何だい、その声」
「笑わないで下さいよ」
拗ねたように唇を尖らせながら、奈月は運転する桜井の横顔を見た。
「意外だったんです。そんなイメージないんで」
「それ、遠回しに俺がガキだって言ってない?」
「あら、ばれましたか」
「ちょっとは否定してよ!」
よほどショックだったのか、桜井は勢いよく奈月の方を向いた。
「ちょ、先生!!」
奈月は思わず焦って声を荒げる。
「前見てくださいよ、前!」
「うぉ、やっべ!!」
――若干てんやわんやしながらも、二人を乗せた車は何とか目的地にたどり着いた。
桜井が指定した目的地は、とある公園だった。
塾や奈月の家からは少し遠い場所に位置するそこは、普通の公園にしてはやや大きめだった。春の風物詩である桜を始め、チューリップやすみれ、パンジー、マリーゴールドなどの色とりどりの花が周りを囲んでいる。それらは穏やかな太陽の光を浴びながら、そよそよと控えめに吹く春風に気持ちよさそうに揺れていた。
桜の木の下では、花見客と思しき団体の人たちが宴会をしている。別の場所では、プランターに植えられた花々を見ながら楽しそうに話す親子の姿も見えた。
奈月と桜井は空いていたベンチを見つけると、そこに腰を落ち着けることにした。
「ふう……」
桜井は奈月が持ってきた、咲葵子手作りのお弁当が入った重箱をベンチの上に置いた。続いて自らもベンチに腰を下ろす。
「すみません……持っていただいてしまって」
奈月は立ったまま、きまり悪そうにうつむいた。
「気にしなくてもいいよ。荷物を持つのは、男の役目でしょ?」
桜井はにっこり笑ってそう言うと、自らの隣を指し示した。
「とりあえず、座ろう?」
早くこのお弁当、食べたいしね。
そう言っていつも通り朗らかに笑う桜井の姿に、奈月はなんとなく安堵を覚えた。
「――おぉ、美味しそうじゃん!」
「すごいですね」
三段ある重箱をそれぞれ開くと、色々な料理が隙間なく敷き詰められていた。一段目は炊き込みご飯、二段目は卵焼きや唐揚げなどといった定番のおかず。そして……。
「これ……」
三段目を開き、奈月は思わず手を止めた。そこに入っていたのは、半分は果物。そして、もう半分は……。
「チーズケーキ?」
桜井が中身を見て、声を上げた。
ぶどうやイチゴなどの果物たちとは隔離されたスペースに、綺麗に切り分けられたチーズケーキが入っていた。
「チーズケーキって普通お弁当には入れないけど……?」
桜井が不思議そうに首をかしげる。奈月は目線をさまよわせながら、小さな声で答えた。
「小さいころ……あの人がよく、チーズケーキを焼いてくれたんです。わたしの一番の好物でした」
それを聞いた桜井は初め、びっくりしたように目を見開いていたが、やがて微笑ましげに目を細めた。
「お母さんは、君の好物をちゃんと覚えていてくれたんだ」
「…………」
「帰ったら、ちゃんとお礼言わなくちゃ。ね?」
うつむく奈月の顔を覗き込み、桜井はいたわるように微笑んだ。
「……そう、ですね」
ようやくそれだけ答えると、奈月は曖昧な笑みを返した。
桜井はそんな奈月の頭を軽く撫でると、気を取り直したように自らの割り箸を取り、それで重箱を幾度か叩いた。コンコン、という無機質同士がぶつかる音がする。
「さ、食べようか」
その音と桜井の言葉で我に返った奈月は「はい」と小さな声で答え、自らの分の割り箸を手に取った。
お弁当はいつもと何ら変わらない、咲葵子の手料理の味がした。思えば昔はこの味が好きだったんだよな、と、味わいながら奈月は振り返る。
桜井も「美味しいね」と言って、たくさん食べてくれた。自分が作ったわけではないのに、なぜだか嬉しくなってしまう。
そして、幼少期に好物だった、母親手作りのチーズケーキ。
具体的にどんな味だったかなんて、昔のこと過ぎて正直あまり覚えていなかった。それでもその優しい味は、不思議と奈月の心を懐かしさでいっぱいにした。
桜井はケーキを一切れ口に運ぶと、何も言わず微笑んだ。母親の愛情が詰まったチーズケーキの味を、うまく言い表す言葉が見つからなかったのかもしれない。
思い出したくもなかったはずの、幼少期。
だけどいつかはその思い出とも、しっかり向き合わなければいけない時が来るのだろう。
そして、母親とも……。
――今はまだ心の整理がつかないから、それはできないのだけれど。
◆◆◆
重箱三段分のお弁当を二人ですっかり空にしてしまったあとは、二人で公園を散策したり、桜井の車で適当な場所へドライブしたりして過ごした。
普段学校や塾で勉強して過ごすことは、別に奈月にとって苦痛だったわけではない。それは昔からずっとやっていたことだ。
けれど桜井といろいろな場所に行って過ごす時間は、休息や娯楽というものをあまり知らなかった奈月にとって、とても新鮮なものだった。
「――今日はありがとうございました。楽しかったです」
夕方ごろ、桜井に家まで送ってもらった奈月は、運転席の桜井に深々と礼をした。
「どういたしまして」
桜井はひらひらと手を振り、朗らかに笑う。
「先生」
「なぁに?」
奈月が呼び掛けると、桜井はコテンと首をかしげた。
「わたし、今日はちゃんと咲葵子さんとお話しする時間を作ろうと思います。いつもは気まずくて、あまり話せないので」
そう言って照れ臭そうにはにかんだ奈月に、桜井は「そっか」と呟き、優しく微笑んだ。
「……さて、そろそろ帰るね」
「はい。ありがとうございました」
「どういたしまして」
奈月が改まったようにもう一度お辞儀をすると、桜井もにっこりと笑って返した。そして……。
「じゃあ、また。今度は君の手作り弁当が食べたいな」
最後にウインクとともにどこぞのチャラ男が言いそうなセリフを奈月に投げつけた桜井は、悠々と車を走らせ帰っていった。
奈月は不意打ちのその言葉にしばし唖然としながら、去っていく車を見送っていた。
07.若い恋人同士のように
露店、花火、エトセトラ。
いつの時代も、祭りというものは人の心を弾ませるものだと思う。
日が落ちて、そろそろ暗くなってくる頃。普段なら大抵の人は家路につくため人通りは少ないのだが、今日は色とりどりの浴衣や甚平を着た人々でごった返している。今日は近くの神社で祭りがあるからだ。
そんな人々が流れるように進んでいくのをぼうっと見つめながら、神社の鳥居にもたれている一人の少女がいた。
「もうっ、遅いなぁ……」
淡い黄色の浴衣を着て、いつもは下ろしている黒髪を一つに結った少女――藤野奈月は、下駄に包まれた素足をぶらつかせながら一人ぶつぶつと文句を垂れていた。待ち人来たらず、の図である。
――塾講師・桜井健人の突然の思い付きは、どういうわけか昨年の秋頃からちょくちょく増えてきていた。それも最初はこの塾の近くを当てもなくうろつくだけだったのに、今年の春になってからはやたらと遠くの方に連れて行かれるようになったのだ。
そして今回、桜井は奈月を夏祭りに誘った。しかも、まるでデートのようなシチュエーションをオプションに付けて。
それを聞いた母親の咲葵子は、やはり特に反対するでもなく「あらまぁ、デートみたいね」などと悠長なことを言った。そして、せっかくだからお洒落な格好がいいわ、と嬉しそうに鼻歌を歌いながら、せっせと奈月に浴衣を着せたのだった。
それだけ(母親が)気合を入れたというのに、誘った張本人である桜井はいまだ来る気配がない。奈月が待ち合わせの場所に着いてから、もう結構な時間が経っていた。奈月はもう何度目になるか分からないため息をつく。
もしかして、まだ塾にいるのかな……。ちょっと行ってみようか。
人の流れに逆らって歩き出そうと足を踏み出したとき、不意に後ろから乱れた吐息が聞こえた。
「ごめんっ……遅く、なっちゃった」
振り返ると、膝に手をついて息を整えている黒い甚平姿の青年がいた。汗による湿気のためか、それとも単に寝癖を直していないだけなのか……ふわふわとした茶髪が、いつも以上に酷く跳ねている。
奈月は腕を組み、きっぱりと言い放った。
「遅いです、先生。お仕事が長引いたんですか。それともうたた寝でもしていらっしゃったんですか」
先生と呼ばれた青年――桜井はその言葉に顔を上げ、少々目を泳がせた。そして気まずそうに、小さな声でボソッと呟いた。
「……ごめんなさい、後者です」
奈月は盛大にため息をついた。
「全く、あなたという人は……。もういいですよ。あまり遅くなるのもいけませんし、行きましょう。息はもう整いましたか」
「うん……ごめんね、もう大丈夫。じゃあ行こうか」
「――あれ、そういえば君浴衣だね。髪もくくってるし」
屋台が多く揃っている場所まで二人で並んで歩いている時、桜井が不意に奈月をまじまじと見つめながらそう言った。
「まぁ、祭りですから。たまにはいいんじゃないですか」
奈月が当り障りなく答えると、桜井はにぱぁっと笑った。子供の如くはしゃぐその姿は、やはりいつも通りの彼だ。
「うん! よく似合ってるよ、可愛い」
満面の笑みで言われ、奈月は思わず顔を真っ赤にした。桜井に悟られないよう一つ咳払いをすると、仕切り直すように
「先生も今日はわりとシックな甚平姿ですね。いつもガキっぽいですけど、大人っぽく見えますよ」
と皮肉混じりに言ってやった。桜井は案の定ぷくぅっと頬を膨らませ、反論してきた。
「ひどいな、俺はいつも大人じゃん!」
「どこがですか」
「どこがって……全部だよ」
「見た目だけでしょう。見た目は大人、頭脳は子供……っていう表現がぴったりですね」
「なにそのどこかで聞いたようなフレーズ! 不本意なんだけど!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ出す桜井を見て、奈月は思わず笑ってしまった。
「まぁまぁ、気にしないで。早くしないと売り切れちゃいますよ?たこ焼きとか、わたあめとか、クレープとか」
「あっ……そうだ、そうだよ!」
桜井は我に返ると、慌てたように奈月の手を引いて早足で歩き出した。奈月は一瞬びくっと肩を震わせたが、彼の手を振り払うことはなく、引っ張られるままに歩き出した。
「藤野、早く早く!」
「はいはい……わかりましたから、そんなに引っ張らないで下さい」
◆◆◆
「あ~、やっぱり屋台はいいね! 藤野!」
わたあめやイカ焼きなどを器用に片手に持ち、たこ焼きなどを入れた袋を腕にかけた状態で、満足そうに桜井は言った。
「屋台を満喫しているのはほとんどあなたですけどね」
桜井の隣を歩きながら、奈月は呆れたような表情で控えめにクレープを齧っていた。
「でもまぁ……ありがとうございます。奢っていただいちゃって」
「気にしないで。元々は俺が誘ったんだし……それに、最初長いこと待たせちゃったしね」
女の子を待たせるのは男としてさすがにダメだもんね~、と恥ずかしそうに笑った桜井を、奈月はまともに見ることが出来なかった。思わず顔を逸らした奈月に、桜井がおどおどといった様子で話し掛ける。
「もしかして……まだ、怒ってる?」
「怒ってなんて、いませんよ。最初から」
顔を逸らしたまま奈月は、先ほどの流れでいまだに繋がれていたままの手に、少しだけ力を込めた。
「……先生と一緒に過ごせるのは、楽しい、ですから」
聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声。それでも桜井にはしっかり聞こえていたらしい。
「そっか……楽しい、か」
桜井は一回り小さく柔らかな手をそっと握り返すと、その言葉を嬉しそうに、かみしめるように繰り返し呟いた。
08.お似合いの二人
青春の一ページにしっかりと刻まれる、学校行事。
そんなちょっとだけ特別な日には、既に知っているはずの人の、ちょっと違ったところを見ることができたりもする。
華やかに飾られた校門に足を踏み入れると、中が装飾以上に華やかな空気をまとっているのを感じる。いつも見る学校よりひときわ盛り上がりを見せるのが、この日――学校祭というものだろう。
普段体育館と呼ばれ、体育の授業で使用するはずの場所では演劇などが催され、普段授業が行われているはずのあちこちの教室ではクラス企画という名の発表会があり、売り物も多い。
もしこれが自分の通う学校で、自らもその空気を作り出す者の一員ならば。クラスメイトないし部活仲間と共に一つのものを作り上げ、成功を喜ぶことが出来たなら……と、学校内を一人眺め歩く少女――藤野奈月は漠然と思った。
もちろん彼女とてその空気を感じた経験がない訳ではない。ただ、今日は違っていた。
唯一の友人――中学時代からの付き合いで、今は奈月とは違う隣町の高校に通っている――から、このたび「うちの学校祭においで」というお誘いを受けたのだ。つまり彼女は今日、『部外者』という立場にある。
「さて、と」
手にした学内の地図を見つめながら、奈月は途方に暮れたように呟いた。
「困ったな……教室がわからない」
◆◆◆
「あ、奈月! 来てくれたんだ」
指定されたクラスの前までどうにかたどり着くと、明るい声と共に黒い服を着た少女――彼女を誘った張本人こと、東雲くるみが出てきた。
「迷わなかった?」
悪戯っぽい目でそう尋ねてきたくるみに、奈月は少々視線を彷徨わせぼそりと言った。
「……ちょっと」
とたん、くるみは腹を抱えて笑い出した。
「あはは、やっぱりねぇ~。あんた普段はしっかりしてるくせに、方向感覚だけは皆無だものね」
「うぅ、うるさいな。ほっといてよ」
奈月は苦虫を噛み潰したような複雑な表情で、唯一自分の弱点を知る友人を睨んだ。
「やぁ、東雲。なんだか楽しそうだね?」
くるみとしばしじゃれあっていると、後ろから人懐っこい無邪気な男性の声がした。気付いたくるみは早速、その人に向かって声をかけた。
「あ、桜井先生。ようこそいらっしゃいました! うちのクラスの出し物、楽しんでいただけましたか?」
「うーん。『占いの舘』ってあんまりにもベタだね。でも楽しかったよ」
あはは、と笑う特徴的な声と、『桜井先生』という呼称に奈月は覚えがあった。まさかと思い、恐る恐る振り返る。
そこには普段奈月に勉強を教えてくれている塾講師であるはずの若い青年が、普段よりもきちっとしたスーツ姿で立っていた。
「桜井、先生……!?」
「あ、藤野!」
向こうも気付いたようだ。しかし、奈月の存在に驚いた様子はあまり無い。ニコニコ笑顔で手を振ってくる桜井を見てポカンとする奈月に、くるみが横から話し掛けてきた。
「なぁに? 奈月、桜井先生と知りあいだったの?」
その声は明らかに面白がっている。
「いや……まぁ、その」
「もしかして、」
「彼女は俺の教え子だよ。街外れにある塾で勉強を教えてるの」
口篭もる奈月に追い打ちをかけようとしたくるみの言葉を遮るかのごとく、青年――桜井健人は笑顔でさらりと言ってのけた。とたんにくるみは残念そうな顔をした。
「えぇ~、何だ。てっきり付き合ってるのかと思ったのにな」
「どうしてそうなるの!」
奈月は思わず赤くなった顔で反論しつつ、桜井を見た。幸い桜井は気にしていないらしく、微笑ましそうにこちらを見ている。ほっとしていると、くるみは意味ありげな視線を送ってきた。奈月の耳元に唇を寄せてきたかと思うと、期待のこもった声で囁かれる。
「前言ってた、影響を受けた素敵な塾の先生……って、桜井先生のことなんでしょ」
「た、確かにそうだけれど! それはそういう意味じゃなくて……っていうか、素敵とは一言も言ってない!」
「そうだっけ? ……まぁそんなことよりさ、見たよ? この前、あんたと桜井先生が祭りに来てたの」
「なっ――……!?」
「いい感じの雰囲気で、しかも手なんて繋いじゃってさ」
「っ!!」
ますます顔が紅潮していくのが自分でもわかった。いくら流れとはいえ、手を繋いでるところなんて見られていたとは――!!
普段あまり表情を変えない奈月の貴重な百面相を見て、くるみは満足そうに笑った。
「ふふっ。じゃあ、ごゆっくり」
ひらりと手を振ると、彼女は「交代するよー」とクラスメイトに声を掛けながら教室へ入っていったのだった。
「……まったくもう、くるみちゃんの馬鹿」
「どうしたの、藤野?」
奈月の心中など全く知らない桜井は、顔を真っ赤にしながら友人の背中を睨みつける奈月を見て、不思議そうに首をかしげた。そのあまりにも純真無垢な様子に毒気を抜かれた奈月は、一つため息をつくと、気持ちを落ち着けるように幾度か深呼吸をした。
「何でもありませんよ」
「そう?」
「えぇ。――ところで先生」
首をかしげたままの桜井に、奈月は視線を戻し尋ねた。
「どうしてこの学校に居るんですか」
さっき会ってから、ずっと不思議に思っていたのだ。塾講師であるはずの桜井が、どうして友人が通うこの学校に当たり前のように居るのか。これでは、まるで――……。
「東雲から聞いてない?」
不思議そうに桜井が尋ねてくる。
そんなこと、くるみから聞いているわけなどない。ぶんぶんと首を横に振れば、桜井はそうなんだ……と一瞬声を落とした。
「俺、この学校に勤務してるんだよ」
「……え?」
まぁ非常勤講師なんだけどねー、と照れたように笑う桜井に、奈月は絶句した。もちろん勘のいい彼女はある程度感づいていたけれど、それを改めて口に出されると、やはり驚きの方が強い。
何でちゃんとした教師にならないで塾講師なんてやっているんだ? とか、まさかこっちが本業で塾講師はバイトだったのか? とか、どっちかの仕事だけでは食べていけないのか? とか、いろいろ聞きたいことは山ほどあったけれど、とりあえず一言だけ。
「あなたにもそういった仕事が出来るんですね」
とたんにぽかり、と頭を叩かれた。
「いたっ!?」
突然の痛みに思わず顔を上げると、小動物のように頬を膨らませた桜井が奈月の頭付近で拳を作っていた。
「ひどいなぁ! これでも大学は出てるんだからね」
今までと変わらない表情と、今まで感じたことのなかった痛みのギャップに、奈月は思わず吹き出した。桜井がきょとんとした顔になる。
「どしたの、藤野」
「いえいえ」
生理的に出てきた涙を指で拭い、どうにか笑いを抑え、奈月は答えた。
「先生はやっぱり『先生』なんだな、って」
「そりゃあ、先生だもん」
自慢するように胸を張る桜井を見ていると、抑えていた笑いが再びこみ上げてくる。悟られないように、奈月は笑顔を作った。
「先生」
「なぁに?」
「これから、暇ですか」
「暇だよ~。借り出される仕事はもうないし」
「そうですか、じゃあ……一緒に回りませんか?」
「うん!」
桜井は頷くと、無邪気な声色のまま続けた。
「いろいろ案内するよ。君、案外方向音痴らしいし」
「聞いていたんですか!」
「聞こえたの」
桜井は悪びれた様子もなく、満面の笑みを浮かべると、奈月に向かって手を差し出した。
「ほら、早く行こう」
夏祭り以来、桜井はためらいなくこうして手を差し出してくることが多くなった。そのたびに気恥ずかしいような、それでも嬉しいような、そんな気がしていたのだが……なんだか今日は釈然としない。
奈月は機嫌を損ねた猫のような表情を浮かべながら、目の前の大きな手を取ったのだった。
「――いやぁ、まさか君にそんな所があったなんて。新たな一面だね」
「あんまり言わないで下さい。っていうか、それはこっちの台詞ですよ」
「まぁまぁ。そんなことより、どこへ行こうか?」
「まぁまぁじゃないですよ、全く。……先生の行きたいところで、いいです」
09.伸びゆく姿
新年の始まりに、目標を立てよう。
その行動こそが、自分を変える一つのきっかけになるのだから……。
「あけましておめでとう、奈月」
「あけましておめでとうございます」
正月の朝。
自宅で早々と起床した藤野奈月は、朗らかな表情の母親・咲葵子と新年の挨拶を交わした。
奈月が咲葵子と暮らし始めて、もう二年が経とうとしている。それでもまだ奈月は母親というものに慣れておらず、実の母親だというのにいまだに何処か他人行儀で、ぎくしゃくとしていた。
今年は受験を始め、いつもより様々な変化がある年だ。今年中には自らも、何かしら変わらなくては……。
奈月はひそかに決心を固めていた。
◆◆◆
そうと決めたら、休んでいる暇はない。みんなが頑張っていない正月の頃から、こつこつ努力を続けなければ。
奈月は咲葵子の作ったお雑煮やおせち料理をさっさと食べてしまうと、早速自室に戻って勉強を始めた。
一時間ほど経った頃だろうか。
「――ひゃっ!?」
突然、奈月の携帯電話から着信音が鳴り響いた。
奈月は一瞬驚いて心臓が止まりそうになってしまった。集中していたからという理由もあるが、普段から携帯電話が鳴ることなど滅多になかったため、何事かと思ってしまったのだ。
自らの携帯電話が震えながら光っているのを見て、奈月はホッと息をついた。
「なんだ、わたしの携帯の音か……」
まだ完全には落ち着いていない心臓を抑え、一度深呼吸する。そうしてからようやく、奈月は携帯電話を手に取った。
「――あ、もしもし藤野?」
通話ボタンを押すなり、聞きなれた能天気な声が聞こえてくる。
「桜井先生ですか……」
声の主は、奈月が通う塾に勤務する講師・桜井健人だった。なんとなく気の抜けた声を出すと、とたんにむぅ、と不満そうに唸る声が返ってくる。
「なんだい、その言い方は。失礼だなぁ」
相変わらずの口調に可笑しさと懐かしさを感じながら、奈月は思わず笑ってしまった。
「そういう意味じゃないですって。前触れもなくいきなり電話が鳴ったものですから、誰っ!? って思っちゃって」
「あ~、びびってたんだ」
「な……びびってなんかないですっ!」
「ふふっ……あ、そうだ。君に言わなきゃいけないことがあったね」
控えめに笑ったあと、桜井が急に神妙な口調でそんなことを言うので、奈月は少し構えた。
「な、何ですか……?」
「んーとね、」
奈月のいぶかしげな声など全く意に介していないというように、桜井は朗らかな声で続けた。
「あけましておめでとう!」
奈月は思わず、座っていた椅子から落ちそうになった。
なんだ……そんなことか。何か重要なことを言われるのではないかと緊張してしまった、さっきの時間を返してほしい。
けれど、こんな何気ない会話も……そういえば、もうすぐ当たり前ではなくなってしまうんだ。
今年受験が終わったら、塾を辞めなければならないのだから。
そんな考えがふっと頭をよぎって、奈月は少し淋しい気持ちになった。
「……どうしたの?」
「いいえ、何でも」
心配そうな桜井の声に苦笑気味に答えながら、奈月は体勢を立て直す。そして、自らもめいっぱい朗らかに言ったのだった。
「あけまして、おめでとうございます」
――そのあと桜井の思い付きにより、午後から一緒に初詣に行こうという流れになった。
あなたが唐突なのはいつものことですが……それにしても、何故いきなりそんなことを?
何気なく尋ねると、電話口で桜井は「そりゃあもちろん、君の合格祈願だよ」と、まるで何でもない事のように言った。
が。
「それに……元気そうな君の声を聞いたら、なんだか急に会いたくなっちゃったんだもん」
その直後にぽつりと発された桜井の言葉に、奈月は不覚にもドキッとしてしまった。
わたしだって会いたいですよ――という、恋人にすら恥ずかしくてかけられないであろう言葉が、思わず喉元まで出かかった。けれどそんな甘い言葉は自分には吐けない……と我に返り、寸でのところでどうにか飲み込む。
結局奈月は、少しぶっきらぼうに「じゃあ、これから会いましょうか」と了承の返事を返した。
◆◆◆
「お正月なんだから、やっぱり着物を着ていった方がいいんじゃない?」という咲葵子の提案をやんわりと断って、奈月は桜井との待ち合わせ場所である神社へと向かった。
神社の前へ着くと、鳥居のところに既に桜井がいた。冬なのでコートを羽織ってはいたが、その中は今まで会っていた時と同じような、比較的ラフな格好だ。
奈月の姿を見つけるとたちまち笑顔になり、まるで母親を見つけた子供のように「やっほー」と言いながら、こちらに手をぶんぶん振ってきた。変に目立っているが、桜井に気にした様子はない。
若干頬を赤らめながらも、奈月は桜井のところまで足を進めた。
「先生、今回はわたしより先に来ていらっしゃったんですね」
開口一番に奈月が言ってやると、桜井は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「さすがに、また遅刻なんてしたら……まずいでしょ」
何度も女の子を待たせちゃうなんて、男失格だもん。
桜井は顔を赤らめたまま、はにかんだ。
昨年の夏祭りの時、桜井は寝過ごしてしまい、奈月との待ち合わせに大遅刻した。奈月はあまり気にしていないのだが、桜井は今でもそのことを、一生の不覚とばかりに反省しているらしい。
「先生は、男失格なんかじゃないですよ?」
桜井を励ますつもりで、奈月は上目づかいで桜井を見ながら言った。
「先生は……十分、男性らしくて……かっこ、いいです」
桜井の頬がさらに赤く染まる。それを見て、奈月は急に恥ずかしくなってしまった。
「あ、ありがとう……」
「いえ……」
「じゃ、じゃあそろそろ行こうか……?」
「はいっ……」
二人して顔を赤らめながら、奈月と桜井は連れだって人ごみの中を歩いて行ったのだった。
――神社の境内へどうにかたどり着くと、二人はお賽銭を入れるため財布を取り出した。
「何円入れたらいいんでしょう、こういう時は」
「うーん……五円?」
桜井がとりあえずといったように五円玉をかざし、困ったように笑いながらコテンと首を傾げる。どうやら桜井にもよくわからないらしい。そんなんでよく「初詣に行こう」などと言えたな……と、奈月は内心呆れていた。
「というか、これって合格祈願ですよね。一体何に対するご縁を願うっていうんですか……」
「そりゃあ、合格のご縁でしょ」
それは果たしてご縁というのだろうか……?
なんとなくよく分からないままではあったが、とりあえず奈月は桜井に倣って五円玉を賽銭箱に入れた。ガラガラと鈴を鳴らし、手を叩き、二人で手を合わせてお祈りする。
それから売店で合格祈願のお守りを購入して、帰路に就くことにした。
「今年も、いい年になるといいね」
帰り道、桜井がそう言って無邪気に笑った。
「そうですね……」
答えながら、奈月はこれからのことに思いを馳せた。
今年はきっと、今までとは違う一年になるのだろう。……いや、今までとは違う一年に、しなければならない。
改めて決意を固め、奈月は呟いた。
「頑張らなくちゃ」
閑話休題2.揺れる心
「桜井先生~、水臭いじゃないですか」
九月初め、学校が二学期に入って間もない頃。
久しぶりに顔を出した勤務先での授業が終了すると、ちょうどこれから昼休みが始まる時間帯になっていた。教室内では生徒たちが各々持参の弁当を広げたり、購買へパンなどの食料調達に行ったりと、わりかし自由な時間を過ごし始める。
そんな中、自分の方にニヤニヤしながら近づいてきた一人の女子生徒――東雲くるみが発したその言葉に、桜井は小さく首を傾げた。
「何がだい?」
だいたい、この少女と自分は『水臭い』などと言うほどの深い付き合いではないはず。話をすることはおろか、こうして顔を合わせることだってほとんどないというのに……。
いや、それとも――単に自分が知らなかったり忘れていたりするだけで、彼女との間にはどこかで何かのつながりがあったりするのだろうか?
そんなことをあれこれ考えている間に、くるみはしびれを切らしたらしく、先ほどよりずっと近くまで、ずいっと顔を寄せてきた。慣れない距離に、照れよりも驚きと戸惑いの方が大きくて、どうしていいか分からなくなった桜井はさらにしどろもどろになってしまう。
教卓越しから顔を近づけてくる彼女の表情は、何故だかひどく楽しそうで――……そのことに気付いた瞬間、桜井は背筋が急にぞわっと泡立ったのを感じた。
なんだか、すごく嫌な予感が……。
そんな桜井の懸念は、見事に的中した。リップクリームでも塗っているのであろうつややかな唇が、弾むような音とともに続きを紡ぐ。
瞬間、桜井の顔がカッと赤く染まった。
「八月の夏祭り……来てたでしょ? 女の子と一緒に」
何の話ぃ? などと言いながら次から次へと寄って来ようとする他の生徒たち――おそらくみんな、くるみの友人なのだろう――を曖昧にかわしながら、桜井は直ちにくるみを連れて教室を出た。
近くの使用されていない空き教室に連れ込み、そこでようやく足を止める。桜井が早足だったからか、同じ速度で半ば引っ張られながら歩いていたくるみは少し息を切らしていた。
「手、せんせ……わかったから、離して」
「あぁ、ごめん」
掴んでいた彼女の腕を離してやると、くるみはようやくふぅ、と安堵の息をついた。息が整ってきたらしく、今度はふふっ、と思い出し笑いのように笑みをこぼす。
「そんなに、照れなくたっていいのに」
悪戯っぽい目で見上げられ、桜井は決まり悪そうに目を逸らした。唇を尖らせながら「別に照れてるとかじゃないもん……」と、まるで不機嫌な子供のようなことを言い訳がましく呟く。
くるみはクスリ、と小さく笑った。
この人を見るたびにいつも思うけれど――やっぱり、彼女の口から語られる人物像そのものだ、と。
「んで?」
せっかくこうして二人きりになれる機会をもらったのだ。普段なら聞けないようなプライベートなことを、隅々まで聞いてやろうじゃないか。
くるみは一人、そんな企みを胸に秘めていた。
「んで、って……」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを湛えながら、一歩、また一歩と近づいてくる年下であるはずの少女を前に、まるで怯えるように桜井は後ずさった。それでもかまわず、くるみは問いかけてくる。
「あの時一緒にいた子……藤野奈月とは、どういう関係です?」
まさか彼女の口からその名が出るとは思わなかった桜井は、呆気に取られたようにぽかんと口を開いた。
藤野奈月――彼女は桜井が本職である塾講師をしている、街外れの塾での教え子だ。他に受け持つ生徒とは少し違った事情があるものの、基本的にはそのスタンスはさして変わらない……はず、だったのだが。
桜井は近頃、そんな彼女に対する気持ちが少しずつ変化し始めているのを感じていた。彼女を連れて遠出するようになってからは、なおさら。
――……というか、そんなことは今どうでもよくて。
我に返った桜井は、期待のまなざしでこちらを見つめるくるみの問いに答えようと、あわてて口を開いた。
「藤野は、俺が勤務してる塾での教え子だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
「へぇ、それにしては」
「……っていうか、君こそどうして彼女を知っているの?」
くるみの追及にかぶせるように、疑問を呈する。くるみはほんの少し悔しそうな表情を浮かべた後、あぁ、と呟きごく気軽に答えた。
「あたし、奈月とは中学時代からの付き合いなんです」
予想だにしない答えに、目をぱちくりさせる。
いや、だって。こんなこと、すごく、すごく失礼なことだってわかってるんだけど……。
「藤野、友達いたんだ……」
心からの大真面目な呟きに、くるみはプッと吹きだした。
「失礼ですよ、先生。あの子が聞いたら、なんて言うか」
「だよね……お願いだから、このこと彼女には内緒にして」
手を合わせて頼み込めば、どぉしよっかな~、なんていう妙に思わせぶりな返事。そこをなんとか、とさらに拝めば、くるみは明るい色の瞳をキラン、と光らせた。
……あぁ、また何か嫌な予感。
グイ、と腕を引かれ、自然とくるみと顔を近づける体制になる。この状況、本日何度目だろう……などと至極くだらないことを一瞬考えていると、くるみが耳元で楽しそうに囁いた。
「正直に打ち明けてくれれば、さっきのことはチャラにしてあげます。……実際、どうなんです? 二人っきりで夏祭りに行くなんて……しかも手を繋いで歩くなんて、普通の先生と教え子の関係じゃありえないじゃないですか」
再び顔が熱くなるのを感じながら、桜井は思わずといったように眉をひそめた。同じように声を落とし、答える。
「……本当に、何もないよ」
えー、とくるみが不服そうな声を上げる。こんな話を聞いて何が楽しいのかは、残念ながらさっぱりわからない。
彼女が疑うのも、もっともなんだと思う。けれど……実際そうなのだから仕方ない。
「じゃあ、この間の夏祭りは?」
くるみは、なおも食い下がってくる。案外しぶといらしい。
夏祭りに奈月を連れて行ったことに、正直下心が全くなかったというわけじゃない。塾のことは別として、個人的に彼女とデートめいたことをしてみたかった、という気持ちがあったのは事実なのだから。
けれど……易々と打ち明ければ、絶対にこの子はその件をネタに自分をからかってくるだろう。奈月の友人なのだから、別に悪い子じゃないとは思うのだけれど……何となく、そんな気がしてならないのだ。
苦し紛れと知りながらも、言い訳めいた答えを返す。
「授業の一環だよ。勉強することだけが、学生の性分ってわけじゃないしね。それを、彼女に教えていただけさ。手を繋いだのは、人込みではぐれたら困るから……ただ、それだけだよ」
さ、この話は終わり。君も早くご飯食べなきゃ、昼休み終わっちゃうよ。
誤魔化すように早口で教師らしいことを告げれば、くるみはさらに不満げな声を上げる。
「ほら、早く教室戻りなよ。俺も、職員室戻るから」
ちょっと先生! というくるみの抗議の声にも構わず、赤くなった顔を隠すように、桜井はそちらから背を向けた。
10.私の心に安らぎを
陽の光がのどかに差す春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散り急ぐのだろうか?
「花の命は短くて……なんて言いますからね」
街外れの塾にて。窓際の席に座って頬杖をついている女子生徒――藤野奈月が気だるげに言った。
「それじゃさ、生き急いでるみたいじゃん。春なんだからもっとゆっくりしてもいいんじゃないかと思うよ。俺は」
奈月の向かいの席に座り、今にも机に倒れこみそうになっている塾講師――桜井健人が眠そうに答えた。
受験勉強をしばし放置して、二人でのんびりと窓の外に広がる景色を見る。よく晴れた青空の下、大きな桜の木が見頃を迎えていた。少し開けられた窓からはふわりと春風が吹き、さらに止めとでも言わんばかりに穏やかな春の陽射しが教室まで入ってくる。二人ともすっかり睡魔のお誘いを受け、うつらうつらし始めていた。
先に限界を迎えたのは桜井だった。普段から言動が子供じみている桜井だが、このようなところもやはり子供のようだ。
「藤野……俺、もう駄目……だ……」
呂律が充分に回っていない声がしたかと思うと、桜井の身体からぐったりと力が抜けた。いきなり周りが静かになる。
「先生……?」
不審に思った奈月は席から立ち上がり、桜井の顔を覗き込んだ。
桜井は完全に机に突っ伏していた。顔が横を向いているので、閉じられたまぶたや半開きの唇がこちらからも伺える。背中が上下し、規則正しい寝息がかすかに聞こえた。
いい大人とは思えないほど無防備なその寝顔を、奈月はしばらく考え事をするようにぼうっと見つめていた。が、やがてはっとした表情をすると、ぶんぶんと首を横に振った。
「わたしったら、一体何考えてるの……」
ぶつぶつと、自分に言い聞かせるように呟いた。
ひらり、
満開の桜から、薄桃色の花びらが次々と巣立っていく。一つ、また一つ。ひらひらと、ひらひらと。その儚くも美しい風景を、奈月は何気なく目で追っていった。
重力に抗うことなく、舞い踊るように落ちてくる。そのうちの一つが、春風と共に教室内へ入ってきた。そして優しく、音もなく、眠っている桜井のふわふわとした茶髪の上に着地した。
思うより先に、半ば反射的に奈月は手を伸ばした。目の前の柔らかな茶髪にそっと触れる。花びらを取ろうとしただけのはずだったのに、何故だか伸ばした手を引っ込めようという気が起こらない。奈月はまるで髪の感触を楽しむように、しばらく手をそのまま逡巡させた。
撫でるたびに甘く、それでいてどこかさわやかな、不思議な香りが鼻をくすぐる。桜井がいつも使っているシャンプーの匂いだろうか…。
「んっ……」
そこまで思った時、不意に桜井が声を上げた。奈月は一瞬ビクッと肩を震わせ、急いでその手を引っ込めた。間髪いれず、閉じられていた瞳がゆっくりと開く。上手いこと焦点のあっていないであろう茶色い瞳が、奈月の姿を捉えた。
「ん……藤野?」
「先生、おはようございます」
奈月は無理矢理笑顔を作った。ようやく作り笑顔も板についてきたとはいえ、こういう状況で笑うのはまだ苦手だ。バレやしないだろうかと内心びくびくしながら、そっと引っ込めていた手を桜井の前に差し出した。その手には、先ほどまで桜井の髪に留まっていた一枚の花びらが乗っている。
「これ、ついてたので。取っておきました」
奈月が今言ったことを理解したのか、奈月の心中を目ざとく察したのか、それともただ寝ぼけているだけなのか……。桜井はいつも以上に締まりのない表情をした。そうしてこちらへゆっくりと手を伸ばしてくる。奈月は思わず、固く目を閉じた。
体温の高い大きな手が、奈月のサラサラとした黒髪に触れた。しかしそれは一瞬で、すぐに離れた。
恐る恐る閉じていた目を開ける。とろんとした笑顔の桜井が、先ほど奈月に触れた手を差し出していた。
「君にもついていたよ、これ」
その手には、薄桃色の花びらがもう一枚乗っていた。
11.小悪魔的な思い
ふわり、ふわりと身体が揺れる。
この不思議な感覚は、きっと暑さのせいだけじゃないはずだ。
蝉は鳴き、太陽は無駄に活発に働き、じりじりと人間の体力を奪っていく、そんな季節。
藤野奈月は油断した。
夏休みは、塾に行く以外ほぼ外出する用事がない。昨年は桜井の突然の思い付きで、たびたび出かけることがあったのだが、今年は受験の年であるためか、それもあまりなくなっていた。
用事のない日、彼女は主にクーラーの効いた部屋で勉強をして過ごす。だから特に喉が渇くことなどはなく、ここのところあまり水分を摂っていなかった。どうやらそれが仇になったらしい。
その日、塾があったため久しぶりに外出した奈月は、異様な眩暈を覚えながら教室へと向かっていた。
それでもどうにか古びた建物へたどり着くと、ミシミシと音のする階段を昇り切り、やっとの思いで教室に辿り着く。
力のあまり入らない手で、ゆっくりとドアを開けた。
「――にちは」
いつも通り天真爛漫な笑顔で迎えてくれている(はずの)塾講師・桜井健人の顔も、言葉も、もはやよくわからない。
「――藤野?」
「せ、せ……」
『先生』と呼ぼうとしたけれど、舌が回らない。一体どうしてしまったというのだろう。さっきから、頭がくらくらして、正気ではいられないのだ。
「――した、調子悪いのか?」
桜井の心配そうな声に、大丈夫です、と答えようとしたちょうどその時。
ぐらり、と重心が傾く。体勢を立て直すこともできぬまま、奈月は力なくその場に倒れこんだ。
「――藤野!」
最後に奈月が認識できたのは、びっくりしたような桜井の顔と、焦ったような声だった。
◆◆◆
意識を失った奈月を医務室に運び、一つだけ置かれたベッドにそろそろと横たえる。奈月はすっかりぐったりとしていて、先ほどからされるがままだ。ずいぶんやられているな、と呟き、桜井はエアコンのスイッチを入れた。
この塾には、医務室と職員室にだけエアコンがついている(とはいっても、随分ガタがきている古いタイプのものだ)。教室にもエアコンを入れろ、と思うのだが、なんせ空き教室が無駄に多い為、全てにつけると予算が半端ないことになってしまうのだ――と、塾長の青柳が前に言っていた。
「だったら職員室じゃなくて、生徒の来る教室に優先してつければいいものを……全く、柳さんって人は」
そういう気遣いがあの人には足りないよ、などと塾長への文句を言いながら、桜井は手早く氷枕とスポーツドリンクを奈月のもとへ持っていった。
エアコンが効いてきたのか、部屋は先ほどよりだいぶ涼しい。氷枕を首の下にあてがってやると、奈月は冷たさのせいかぴくり、と反応した。
「んぅ、ひやってする……」
可愛らしいことを言うんだな、と桜井は少し笑ってしまった。呼応するように、ゆっくりと奈月の瞳が開く。
「せんせ……?」
「やぁ、気が付いたようだね」
桜井は奈月を安心させるように目を細め、彼女の汗でうっすらと濡れた前髪を梳くように撫でてやった。奈月は「ん……」と声を上げながら、一瞬気持ちよさそうに目を閉じる。まるで猫みたいだな、と桜井は思った。
「わ、たし……」
「教室に来たとたん倒れたんだよ。多分、熱中症だ」
ちゃんと水分摂ってなかったんだろう、と軽く嗜めるような言葉を掛けながら、桜井は先ほど持ってきたスポーツドリンクを奈月に差し出した。
「ほら。自分で飲める?」
「ん……」
奈月は一見肯定とも否定とも取れる唸りを上げたが、手元がおぼつかないところを見ると、どうやらまだ自らで水分を取るのは無理らしい。
見かねた桜井がペットボトルの蓋を開け、奈月の口元まで持っていってやった。最初はためらうように口を開閉させていた奈月だが、やがてこくこく、と遠慮がちに液体を飲み込む音がした。
「ぷは、」
「どう? 少しは楽になった?」
こくり、と奈月は頷いた。さっきと比べると随分顔色もよくなっている。桜井は安堵したように微笑むと、奈月の髪を数回撫でた。
「今日の授業はなしにするから、もう少しここで休んでいるといいよ。君のことだから、普段から睡眠時間も短いんだろう」
「そんな、こと……ないです」
若干頬を染めながらきまり悪そうに否定する奈月を、桜井は可愛らしいなと思った。
「……ほら、もうお休み」
安心させるように頭をポンポンと軽く叩き、薄布団をかけてやる。とたんに奈月はとろんとした目になった。
「……しょ」
桜井が医務室から出て行こうとすると、小さく呟く奈月の声がした。思わず振り向き、聞き返す。
「え?」
「……ね、ちゅ……しょ……」
それは眠りにつく寸前の、ほんの戯言にすぎないようだった。先ほど桜井が言った『熱中症』という言葉が耳に残って、なんとなく復唱したのだろう。しかし彼女が発した言葉はひどくたどたどしく、聴く人によっては誤解を招きかねない。
現に桜井には、それがいかがわしいワードにしか聞こえなかった。その場面をうっかり想像してしまい、どんどん顔が熱くなっていくのが分かる。
「……っ、何考えてんだ、俺は」
きっと今、自分の顔は手遅れなほど真っ赤になっていることだろう。全く、これで人に――特に塾長に――会ってしまったらどうしてくれる。
無意識とはいえ、また奈月にやり込められてしまったような気がして、桜井は悔しくなった。きびすを返し、ふくれっつらで奈月のもとへ戻っていく。
「全く……俺はいつも君に負けちゃってるよね。ほら、現に今日だって」
奈月の傍らに跪き、すっかり夢の中へ入ってしまったらしい奈月の前髪をそっと除けた。
「だからさ、これぐらいの悪戯、許されてもいいんじゃない?」
桜井は囁くと、口元を意地悪く吊り上げ、いじめっ子のような笑みを浮かべる。そしてあらわになった奈月の額に唇を寄せ、わざとリップ音を立てて口付けた。
「お休み」
得意げに小さく笑って立ち上がり、桜井は今度こそ医務室を後にした。
「……ばか」
――その後、奈月が真っ赤な顔で額を抑え、潤んだ瞳で医務室のドアを睨んでいたことなど、桜井は知る由もなかった。
12.わが胸の悲しみ:前篇
秋は別れの季節と、昔から言うけれど……。
秋風が吹き、周りの木々が揺れた。枝についた色とりどりの葉がそのたびに、かさかさと控えめな音を立てる。はらりと落ちてくる紅葉や銀杏の葉を一瞥しながら、藤野奈月は目の前の背中を追って、石階段を歩いていた。
奈月の前を歩く、奈月よりも大きな背中の持ち主――桜井健人は、ただ黙々と石階段を上っていた。時折振り返り微笑むのは、奈月がきちんと着いて来ているかを確かめて安心するためだろう。
気遣いは嬉しいですが、なんだかいつもと違うから調子が狂っちゃいますよ、先生……。
そう、奈月は桜井の背中に訴えた。
思えば今日の桜井は、様子がおかしい。顔を合わせたときから、奈月はそう感じていた。
そう、奈月をこの場所まで誘った時も――。
◆◆◆
「ねぇ、藤野」
街外れの塾での、いつも通りの授業中。桜井は唐突に奈月を呼んだ。
「何ですか」
「あのさぁ……今日この後、時間ある?」
桜井は上目遣いで奈月を見ると、遠慮がちに尋ねてきた。その様子になんとなく違和感があったことが気になり、奈月は小首を傾げた。
「ありますけど……どうかしましたか?」
「うん……あのね、ちょっと付き合って欲しい所があるんだけど」
桜井がそんなことを言うのは珍しかった。行きたい所があるならいつも唐突に、有無を言わさず奈月を連れて行こうとするのに。
思えば今日の桜井は、ずっと様子がおかしかった。いつものテンションの高さはまるでないし、子供じみたふざけた言動もない。普段の桜井とは真逆の、人前に出ずいつも隠れているような消極的な子供を見ているようだった。
もしかしたら、何かあったのかもしれない。
奈月がそんなことを考えながら黙っていると、「駄目……かな?」とためらいがちな声がした。
「……いえ、大丈夫です」
「ありがとう。……ごめんね。大事な時期なのに、時間取らせるようなことして」
「構いませんよ」
ひどく弱々しい様子の桜井を少しでも安心させるため、奈月は出来得る限りの満面の笑みで応じた。桜井も安心したように微笑む。
「ところで、どこに行くんですか」
「場所は……とりあえず今は伏せるね。俺についてきてくれればいいから」
桜井はその事についてそれ以上は何も言わず、それからすぐに授業を再開させた。
やっぱり、変だ。
◆◆◆
授業後、奈月は桜井の車に乗り込んだ。車内でも桜井は静かで、ずっと前を見つめていた。その様子は、かたくなに運転することへ意識を集中させようとしているようにも見える。
やがて車は低い山道に入った。
「ここから、ちょっと歩くけど、いいかな」
手ごろな場所で車を止めると、桜井が口を開いた。奈月は不安げな目で桜井を見つめたあと、黙ってうなずいた。
途中で買った花を桜井が抱え、車内に乗っていたさまざまな小物を奈月が持つ。まるでお盆に実家へ帰り、親の墓参りをしに行くような……。
桜井は奈月の準備が整ったことを確認すると、「じゃあ、ついてきて」とだけ言って、山道に作られた石段を登り始めた。
――そして、現在に至る。
桜井は相変わらず喋らない。奈月も、いつもと雰囲気が違う桜井に話しかけるのをためらっていた。聞こえるのはただ、ザッ、ザッ、という二人の足音と、時折聞こえる葉擦れの音だけだ。
いい加減、どこへ行くのか教えてもらってもいいですか。
この状況を打開するため、奈月は思い切って桜井に話しかけてみることにした。
「あの、」
「やぁ、健人。来てくれたんだね」
奈月が口を開いた、まさにその時。
二人とすれ違おうとした男性が、桜井に向かって親しげに話しかけた。
「柳さん……」
ん?
桜井が呟いたその呼称に、奈月は聞き覚えがあった。恐る恐る男性の方を見ると、よく知った顔がそこにあった。
「青柳(あおやぎ)塾長!」
四十代ぐらいの、落ち着いた雰囲気の男性。彼は街外れの塾で一番偉い立場にいるはずの人――塾長だった。
奈月の声に気づいたのか、塾長こと青柳は桜井の後ろへと視線をやった。奈月の姿を見つけ、にっこりと笑いかける。
「おや、奈月君。君も来ていたのかい」
「あ、はい」
「ふぅん……」
青柳は軽く唸り、桜井へ再び視線をやる。薄い唇が、ゆるやかに弧を描いた。
「奈月君を、連れてきたんだね」
桜井はきまり悪そうに目を泳がせた。うなだれるように俯き、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でぼそりと呟く。
「だって……こんなとこ、俺一人じゃ絶対来れなかった」
覗き込んでみると、桜井は唇を尖らせていた。その部分だけ見ると不機嫌そうに見えるが、瞳はひどく悲しげに揺れていた。
青柳はそんな桜井をいたわるかのように、優しく目を細めた。
「お前が今日こうして来てくれただけでも、あいつは喜んでいることだろうよ」
どういうことだろう。全く話が伝わってこない。
奈月は訝しげに首を傾げながら、二人が話しているのを聞いていた。
◆◆◆
途中で青柳も同行し、三人は長い石段を登り切った。
足場がきれいに整った広いその場所には、それぞれ名前が刻まれた墓石が敷き詰められていた。墓石は最近作られたと思しき真新しいものから、まだ日本が土葬を行っていた時代の古いものまでたくさんあり、その大小も様々だ。
奈月はその光景を見て、一瞬で悟った。
――ここは、墓地だ。
青柳が先頭を歩き、桜井が奈月の手を引く。そんな風にしてしばらく墓と墓の隙間を進んでいたが、やがて一行は一つの墓の前で立ち止まった。
『桜井家先祖代々之墓』
黒みがかったその石はまだ新しかったが、側面にはすでに幾人かの戒名が刻まれていた。
その一つを、青柳が優しく撫でる。桜井はつらそうな表情で唇をかみしめながら、それを見つめていた。奈月もそれを追うように、青柳の手を見つめた。
「これは……一体、どなたのものなんですか」
奈月が思い切って尋ねる。
「これはね、」
「柳さん。俺から、言わせてもらってもいいですか」
青柳が説明しようとしたところに、黙っていた桜井が突然そう言った。青柳は待ってましたとばかりに微笑むと、鷹揚にうなずいた。
青柳の反応を確認した後、桜井は意を決したように口を開いた。
「これは、見ての通り俺の家族のお墓だよ。そして……今、柳さんが触れているその戒名は」
そこでいったん切り、桜井は深呼吸をした。すぅ、という音が、静かな墓地に響き渡る。
桜井は目を凝らすように開き、墓地を――戒名を真っ直ぐ見つめた。
「その戒名は、今日命日を迎えた人――俺の、父親のものなんだ」
奈月は初めて聞く真実に、ただ目を見開くことしかできなかった。
13.わが胸の悲しみ:中篇
桜井は視線を落とし、小さな声で話し始める。
「彼は生真面目で頑固な人だった。俺はそんな彼に、ずっと反発していたんだ。融通が利かなくて、面白くもなんともなくて……毎日毎日、喧嘩ばかりしていた」
青柳はその間、まるでわが子を見守るような優しい目で桜井を見つめていた。奈月もまた、痛みをこらえるように唇をかみしめながら、それでも桜井の一挙一動を見逃すまいとばかりに、目をそらすことなくじっと見ていた。
「俺は……彼が大嫌いだった。一生分かり合えないって、ずっと思ってた。むしろ分かり合いたくもなかった。父親と呼んだことなんて、一度もなかった」
あぁ、そうだったのか。と、奈月はようやく理解した。
桜井が子供っぽい楽天的な性格をしているのは、元来のものではなかったのかもしれない。それは生真面目な父親に対するあてつけで……同時に、自らを守るための処世術だったのかもしれない。
奈月には桜井の気持ちがなんとなくわかったけれど、やっぱり自分と桜井は違う、と思った。
奈月にも厳格で生真面目な父親がいたが、奈月は彼の言動に反発などすることなく、ただ黙って従うだけだった。それが正解なのだと、信じて疑わずに。
結果……自分と桜井は同じ立場にいながら、まったく正反対の人間になってしまったのだ。
桜井が弱々しげに、再び口を開く。
「そんなある日、彼が事故に遭ったからすぐ病院に来てくれ、という連絡が入った。けど俺は……」
唐突に、そこで言葉が切られた。いつまで経っても発せられない次の言葉に、奈月が不思議に思って彼を見る。
桜井はただ、言葉もなく肩を震わせていた。強く握られた拳も小刻みに震えている。うつむいていたため表情はよく見えなかったけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない。
「俺は、行かなかった」
落ち着くように、桜井は吐息交じりの声で呟いた。
「どうして……行かなかったんですか」
思い切って、奈月が声を上げた。桜井は奈月の方へ視線を向けると、淋しげに笑った。
「どうしても、行くわけにはいかなかった。俺のちっぽけなプライドが、行っちゃダメだって、俺を止めた。それで、結局……」
桜井はそこで再び視線を落とす。彼の目は、少し潤んでいた。
「結局、彼はそのまま死んでしまった」
「……」
「俺はついぞ、彼を父親と呼べないまま……二度と、会えなくなってしまったんだ」
親孝行、したい時には親はなし。
そんな言葉を、奈月は思い出していた。
当の親が亡くなってしまったあとでは、何をすることもできはしない。後になってそれに気が付いた、桜井の抱える痛みと悲しみはどれほどのものなのだろう……と、奈月は思った。間接的に話を聞いているだけの自分でさえ、こんなに痛いのに。
それはきっと、自分にはわからないほどに……計り知れないものなのかもしれない。
うなだれる桜井になんと言葉をかけていいかわからないまま、奈月はただ、切なげな眼で桜井を見つめていた。
桜井が、震える声で呟く。
「今更……反省したって、遅いから。だから俺は今までずっと、何度命日がやってきても、この場所に足を運ぶことができなかった」
再び顔を上げ、桜井は黒々と光る墓石を見つめた。
「彼は……こんな俺を、一生許してはくれないだろう。俺に愛情なんて、もしかしたらひとかけらも抱いていなかったかもしれない」
「それは、どうかな」
凛とした声が、静かな墓地に響いた。桜井と奈月は弾かれたように、揃って声の主――青柳の方を見る。
青柳はいつもより穏やかな、優しい表情で桜井を見ていた。
「知っているかい、健人」
辺りをゆっくりと歩きながら、青柳が語りだす。
「親というのはね、我が子のことが何よりも愛しいし、どんなものをかなぐり捨ててでも守りたいと思うものなんだよ。それこそどんな仕打ちを受けても、許してしまえるほどにね」
「ま、まさか」
桜井が驚愕したように目を見開き、震える声で反論した。
「あの人が……そんな甘ったるい感情、抱くはずない」
ふふ、と青柳は笑った。
「確かに、そんなイメージはないだろうね。君の父親は……葉一(よういち)は、ひどく堅物だったから」
まるで桜井たちのことをよく知っているような青柳の言い方に、奈月はきょとんとして首を傾げた。 そんな奈月の様子に気づいたのか、青柳は丁寧に解説をくれた。
「私はね、彼の父親とは――葉一とは、長年の友人だったんだよ」
「そう、だったんですか」
「あぁ。今日この場所にいたのも、友人の墓参りをしていたからというわけだ」
なるほど、と奈月は思った。
つまり、桜井と青柳が互いを『柳さん』『健人』と親しげに呼び合うのも、そういう付き合いがあったからだったのだ。
奈月が納得したのを確かめると、青柳は再び桜井の方を向いた。
「だけどね、健人。私はずっと、葉一から相談を受けていたんだよ。彼は頭がよかったから、自分の性格についてもちゃんと理解していた。息子がそんな自分を嫌っていたということも」
「そんな……わかってたくせに、何で」
「葉一はね、びっくりするぐらい不器用な男だったんだよ。大切に思うからこそ、その思いをどうやって伝えたらいいのかわからない。ましてやその人は自分を嫌っている。だから、なおさらどう接していいかわからなかった」
その気持ちは、奈月にもなんとなくわかるような気がした。
しかし桜井はまだ納得がいっていないようで、険しい顔で腕を組み、幾度か首を左右に傾げていた。
「まだ……にわかには、信じがたいようだね」
そんな桜井を見て、青柳は苦笑した。
「ならば、これを見れば……信じてもらえるかな」
青柳は桜井に、一つのビデオを手渡した。
「何ですか、これ」
「見てもらえればわかるよ」
青柳はにっこりと笑ってそう言うだけで、それ以上は何も語らなかった。
桜井が受け取ったことを確かめると、青柳は「では、また」と言って踵を返す。そのまま軽く手を振りながら、悠々と立ち去って行った。
「先生……今日は、もう帰りましょうか」
青柳の後姿を見つめたまま茫然としていた桜井に、奈月が声をかける。桜井は言葉もなく、こくりとうなずいた。
14.わが胸の悲しみ:後篇
二日後。
その日は休日で、本来ならば塾はないはずだったのだが、奈月は朝から塾へと向かっていた。桜井に呼ばれたのだ。桜井はいつもの教室ではなく、講師たちが集まる職員室のような場所を指定した。
奈月が到着すると、桜井は既にいた。彼のほかには誰もおらず、閑散としている。桜井は設置されたテレビの前に座り、不安げな表情で手にしたビデオを所在無く弄んでいた。
「先生?」
声をかけると、我に返ったように奈月を見る。奈月と目が合った瞬間、ほっとしたように微笑んだ。
「藤野。来てくれてありがとう」
「それ、見るんですか」
桜井の隣に腰をおろしながら、できるだけ何気なく聞こえるように尋ねる。桜井は気まずそうに視線を泳がせた。
「うん……まぁね。一人じゃやっぱり見る勇気なくて、君を呼んじゃった」
ごめんね? と言って、桜井が首を傾げる。その瞳は不安げに揺れていて、思わず『大丈夫だよ』と言って抱きしめてあげたくなってしまうほどに弱々しいものだった。
さすがに抱きしめるまでは出来ないので、代わりに奈月は桜井の手をぎゅっと握った。
「大丈夫です。わたしが、ちゃんと傍についてますから」
こわばっていた桜井の表情が、少し和らいだ。
「ありがとう……」
ビデオをデッキに入れ(古い塾だけあって、デッキはまだDVD対応ではなくビデオ対応のものだった)、再生ボタンを押す。
しばしの沈黙の後、画面に現れたのは、桜井によく似た男性だった。眉間にしわを寄せ、気難しそうな顔をしている。桜井とは正反対の表情だ。
瞬間、桜井が奈月の手を強く握りしめる。この人が桜井の父親なのだと、すぐに奈月は理解した。
男性は仏頂面で、しばらくきまり悪そうに視線をさまよわせながら口を開閉させていたが、『ちょっとー、お父さん! 早く言いなさいよぉ』という柔らかな女性の声が向こうから聞こえてくると、『わ、わかっている』と、焦ったように口を開いた。
「この声は多分、母さんだ……」
独り言のように、桜井が呟いた。
「まだお若いところを見ると……結構昔に撮られたもののようですね」
「そうだね……もう、何年前になるんだろう」
桜井は少し寂しそうな眼差しで、画面を見つめていた。
画面の向こうでは、相変わらず『早く~、お父さん。言うって言ったのはお父さんでしょお?』『ちょ、ちょっと待て。心の準備が……』などといったごたごた(?)が繰り広げられている。
やがて女性の声が無理やりカウントダウンを始めたため、男性は諦めたように咳払いをし、話し始めた。
『あー、えー……健人。お前がこれを見ているということは、龍次(りゅうじ)はちゃんと成人になったお前にこれを渡してくれたんだな。よかったよかった』
龍次というのは、確か青柳塾長の下の名前だったような……と、奈月はぼんやり思い出していた。
「何が……良かっただよ。ばーか」
桜井が絞り出すような声で呟く。その表情は、無理に強がっているようにも見えた。
男性はしばらく何を言おうか迷っているようだったが、『思うことを、素直に言えばいいのよ』という向こうからの言葉が聞こえると、少し安心したような表情になった。
『思うことを、素直に……か。そうだな……』
男性は少し頬をゆるめたようだった。桜井が信じられないというように目を見開く。多分、父親のそんな表情を見たのは初めてだったのだろう。
コホン、と咳払いをして、姿勢を改めながら男性はカメラの方を――画面の向こうにいる、桜井と奈月の方を――しっかりと見据えた。
『俺は……こんな性格だから、なかなか……お前とはちゃんと話すことができずにいるな。顔を合わせば喧嘩ばっかりして。改善したいとは思うのだが、なかなか難しいんだ。こんな俺を、お前が嫌っているのも知っている』
淡々と、男性が話す。桜井は食い入るように、たどたどしく紡がれる言葉を聞いていた。
『けど……けど、俺は。お前がこの世に存在してくれていることが、何よりも嬉しいと感じている。何年たっても、その気持ちはずっと変わらないだろう』
桜井の目が潤み始めた。奈月の目頭も、自然に熱くなっていく。
『生まれてきてくれてありがとう、健人。不器用な俺だけど……これからも、親子でいてほしい』
桜井の目から、耐え切れなかった一筋の涙がこぼれ落ちた。
「これからも、だなんて……もう遅いよ。馬鹿……」
堰を切ったように、桜井の目からは大粒の涙がとめどなくあふれ出した。
「父さん……父、さん……」
今まで言えなかった言葉を幾度も繰り返しながら、桜井は泣きじゃくっていた。奈月はただ隣で、そんな彼の手を握ることしかできなかった。
◆◆◆
「こうして……何のためらいもなく、この場所に来れたのは初めてだよ」
黒みがかった墓石に花を手向けながら、桜井が穏やかな表情で言った。
「君の、おかげだ」
「わたしは何も……むしろ、きっかけをくれたのは塾長ですよ」
線香に火をつけながら、奈月は微笑んだ。
桜井は黙って首を振った。
「柳さんももちろんだけど……もし君がいなかったら、俺は……ずっとあのままだったと思う。君がいてくれたから、俺は逃げずに向き合えたんだ。本当に、感謝してもしきれないくらいだよ」
桜井の爽やかな笑顔に、奈月は思わず顔を赤らめた。「どう、いたしまして」ともごもご呟きながら、先端の赤く光った線香の束を手渡す。
桜井は「ありがとう」と言ってそれを受け取ったが……。
「せっかくだから、君も参ってくれるかな」
「わたしも?」
桜井は無邪気にうなずき、奈月に数本線香を手渡した。奈月は少しためらうそぶりを見せたものの、おどおどとそれを受け取った。
「いい、んですか?」
「うん。むしろ、参ってほしい」
憑き物が取れたかのような、爽やかな笑顔。どうやら彼の中で、ようやく色々と整理がついたようだ。
奈月は安堵の笑みを浮かべながら、うなずいた。
「わかりました」
「――あの日、父さんの命日の日」
墓参りを終えた帰りの車内で、桜井は唐突に語り始めた。
「君を呼んだのは、俺が不安だったからっていうのもあるけど……もう一つ、理由があったんだ」
「理由、ですか?」
前を見たまま、こくり、と桜井はうなずいた。
「君に、俺と同じ後悔を味わわせたくないと思った。早く、実行してほしかった。もうすぐ俺は……君に、先生らしいことを何もしてあげられなくなってしまうから」
そう言うと、桜井は少しだけ淋しげな表情をした。
桜井から明確な別れを示唆するような言葉が発されるのは初めてだ……と、奈月は思った。それはもうすぐそこまで来ているのだと、改めて思い知らされる。
「俺にはもういないから、いまさら言ったって遅いけど……君のお母さんは、まだ元気にしているだろう?」
奈月はようやく、桜井の言わんとすることの意味が分かった。桜井だけじゃない。ついに自分にも、行動を起こさなければいけない時が来たのだ。
「今のうちに……ちゃんと『お母さん』って、呼んであげてほしい」
それで俺も、報われるような気がするんだ。
昔の奈月ならば、拒否してしまうであろう言葉。しかし今の奈月は、それをすんなりと受け入れられるような気がした。
「……そう、ですね」
後悔だけはしたくない。ちゃんと、すべきことはしなくちゃ。
今年こそ変わらなくちゃって、決めたんだから。
◆◆◆
「か、帰りました」
「お帰りなさい、奈月」
相変わらずおっとりとした母親に少しだけ拍子抜けしながらも、奈月は心の準備をするかのように、すぅ、と息を吸った。
「もうすぐ夕飯ができるから、もう少しだけ待ってね」
「はい、おかあさん」
言った後、奈月はすぐに気恥ずかしくなった。心臓がどくどくと音を立て、血流が一気に良くなったような気さえする。
「じゃ、じゃあ後で!」
もつれる舌でどうにか言い捨てるように叫び、奈月はパタパタと足音をさせながら忙しなく自室へ走っていった。
しばしの沈黙の後、後ろで震える吐息とすすり泣きの声が聞こえたけれど、奈月は気づかないふりをした。
閑話休題3.あなたを支える
「そっか、ついに……おかあさん、って呼べたんだ」
「はい」
奈月の口からその知らせを聞いた時、桜井はまるで自分のことのように嬉しくて、どうしようもなく心が躍るのを感じていた。
「おめでとう、藤野」
自然にこぼれた笑みと共に祝福の言葉を告げれば、「ありがとうございます」という少し照れたような言葉と、はにかむような可愛らしい笑みが返ってくる。その表情は出会った頃よりずっと魅力的で、やはり彼女にぴったりだと思った。
それから、ひと月ほどが経って――……。
十二月ごろになると、次の年に行われるセンター試験や入試などに向けた受験生たちの追い込みがとうとう本格化する。それは街外れの塾に通う生徒たちも例外ではなく……。
塾での仕事に、非常勤講師として勤めている高校での仕事。そんなたくさんのことが次々と重なって、桜井の周りは少しずつ慌ただしくなってきていた。
例年通りのこととはいえ、やはりこの疲労には慣れない。まぁ、慣れたいとも思わないけれど。
でも、今年は……。
今はただ、できるだけ働いていたい、と桜井は思った。働いていれば、その分余計なことを考えなくていいから。混沌した自分の気持ちと、しっかり向き合うほどの暇がないから。
――いや、余裕がない、といった方が本当は正しいのかもしれない。それはもちろん時間的な意味でもだけれど、やっぱり気持ち的な意味でというのが一番大きい。
いくら、逃げの一手だと誰かにあざ笑われたとしても……そうすることしか、今の自分にはできない気がした。
◆◆◆
「はぁ、疲れたなぁ……」
一人暮らしのアパートに戻ると、リビングの大きなソファーへそのまま身を沈める。
本当は、この街に実家がちゃんとあるのだ。そこには母親も姉夫婦もいるから、頼ればいつでも世話をしてもらえるし、むしろ勤務先へ行くにはそっちからの方が近い。
けれど桜井には、あの家に戻ることのできない事情があった。言わずもがな、父親との確執だ。
自分にも他人にも厳しく、おまけに不器用のかたまりだった父親に、桜井は小さい頃からずっと反発してきた。彼が突然の事故で亡くなってからも、ずっと素直になることができず……その愛情から、長い間ずっと目を背け続けていた。
凝り固まったその心をほぐし、彼をもう一度『父さん』と呼ぶためのきっかけをくれたのは、彼の友人だった人で、今や桜井の直属の上司である塾長の青柳。彼が父親から預かっていたビデオを渡してくれなければ、桜井は一生父親の想いを知ることはなかっただろう。
そして……迷っていた桜井の傍にそっと寄り添い、励まし支えてくれたのは、同じ悩みと迷いを抱えているはずだった教え子の少女。
震える手を握ってくれた少女――奈月の、小さいけれど温かな、柔らかい手の感触を思い出す。あの時つないだ手はいつもよりずっとしっかりしていて、桜井の心をホッとさせてくれた。
彼女がいてくれなければ、もう一度父親と向き合おうとなんて思わなかったかもしれない。ずっと、彼の面影から目を逸らし続けたまま、これからも生き続けていたかもしれない。
そんな彼女に、心から感謝しているのは本当だ。
けれど、それ以上に……。
そこまで考えて、桜井はハッと我に返った。俺は馬鹿じゃないのか、と自分に対する戒めを口にしながら、勢いよく首を横に振る。
空き時間を一人で過ごすと、あれこれ考えてしまうからいけない。だからこそ自分は、一人っきりの暇な時間があまり好きではないのかもしれないと思う。
ソファーに座った状態から、ゆっくりと身体を横に傾け、うつぶせの状態で身体ごと沈み込む。
近頃の自分は、少しおかしいのだ。……いや、実はおかしいのは結構前からなのかもしれないけれど。
他とは違う事情を抱えているとはいえ、藤野奈月は桜井にとって、教え子の一人に変わりない。いくら似通った事情を抱え、その感情がシンクロしていたとしても……その根本だけは、絶対に揺るぎようがないのに。
彼女が大学に合格し、高校を卒業してしまえば、この関係は消えてなくなってしまうのに。
それなのに……それを差し引いたとしても、どうして自分は奈月のことをこんなにも特別だと感じてしまっているのだろう。
どうしてあの時……母親の件について報告してきた時、奈月が見せたはにかむような笑顔に、あんなにも胸を高鳴らせてしまったのだろう。
どうして、徐々に近づいてくる別れの時が、こんなにも惜しいと思うのだろう。
どうして、これからこうして会えなくなると考えるだけで、こんなにも胸がきつく締め付けられるのだろう。
どうして――あの時支えてくれた彼女のことを、今度は自分が支えたい、だなんて考えてしまっているのだろう。
あー、とかうー、とか言葉にならない唸りを上げながら、桜井はとっさに近くにあったクッションを掴み、フカフカとしたそれに顔をうずめる。
「何なんだよ、俺は……」
くぐもったその呟きが、彼以外の誰かに届くことはもちろんない。
悲痛さを帯びた自分の声に、桜井はただ一人、馬鹿じゃないのかと自嘲した。
15.あなたを信じます
どんなつらいことでも、苦しいことでも……あなたが導いてくれるなら、きっと乗り越えられる。
そう思っても、いいですか?
「おかあさん」
年明けのある日の早朝、玄関先にて。
靴を履き、学校へ向かう準備をすっかり整えると、藤野奈月は見送りに来ていた母親を呼んだ。
「なぁに、奈月」
奈月の母親・咲葵子はそれに対し、嬉しそうに微笑みながら返事をした。
奈月にとって忘れられない日となった、秋のある日。奈月は初めて咲葵子を『おかあさん』と呼んだ。
奈月はあのあと顔から火を噴きそうなほど照れてしまい、すぐに自室へと戻ったが……一瞬見えた彼女の表情は驚きに満ち、白い頬には一筋の涙が伝っていた。
――それ以来、ずっとだ。
奈月が頬を染め、不器用ながらも「おかあさん」と呼ぶと、咲葵子はこんな風に至極幸せそうな、とろけそうな微笑みを見せる。
その笑顔を見るたびに奈月は、なんだかいたたまれないような、それでも嬉しいような、不思議な気分になるのであった。
その日も奈月は変に照れ臭くなってしまい、コホンと咳払いをした後、できるだけ冷静な声を保ちながら、言おうとしていたことを咲葵子に告げた。
「……今日は塾があるので、いつもより帰りが遅くなると思います」
「わかったわ」
咲葵子は微笑みながら、特に何でもない事と言った様子で了承した。可愛らしく手をひらひらと振り、見送りの言葉を告げる。
「楽しんでいらっしゃいね」
楽しんで、の意味はよく分からなかった。塾へ行って勉強するのに、何を楽しむというのだろう。
……まぁ、塾講師の彼と過ごす時間は、確かに楽しいのだけれど。
心の中でひそかにそんなことを思いながら、奈月は母親に向かって微笑んだ。
「では行ってきますね、おかあさん」
◆◆◆
「ふぅ……」
その日の夕方、街外れの塾にて。
奈月は目の前の問題集をあらかた終わらせると、辟易したように力を抜いて椅子にもたれた。
「お疲れ様。追い込みって、結構疲れるよね」
俺も経験したから分かるよ~、と言いながら、塾講師――桜井健人は奈月に温かい飲み物が入った缶を手渡した。
「ミルクティーでよかった?」
「はい、ありがとうございます」
ありがたく受け取り、早速プルタブを起こす。ふぅ、ふぅと息を吹きかけながら、火傷しないようにそっと口をつけた。
「はぁ……落ち着く」
一口飲んで、思わず気の抜けた声が漏れる。
あまり見られない奈月の珍しく脱力した姿に、桜井は笑ってしまった。
「たまには息抜きも必要だよ。あまり根詰めてもよくないしね」
桜井も奈月の向かいの席に腰を下ろすと、自分用に買ってきたのであろう缶コーヒーのプルタブを起こし、こくこくと飲み始める。
ぷは、と息をついた後、桜井は唐突に尋ねてきた。
「ところで、センター試験っていつだっけ?」
「明日ですけど~」
だらけた姿勢のまま、奈月が答える。
「そっかそっか、明日か~」
桜井もまた、語尾を伸ばすようにして答える。が……その意味を理解したのか、一瞬その状態で固まった。
「……って、明日!?」
事実を知っても嫌に落ち着いている奈月とは反対に、桜井はうっわ、まじかよ~、などと唸りながら困ったように頭を抱える。
「まだ一週間くらい先だと思ってたぁぁぁ……どうしよう。藤野はともかく、他の生徒に対してはだいぶ悠長にやりすぎてたかも……」
「どうしてわたしは『ともかく』なんですか」
桜井の発した言葉が気になって尋ねると、桜井は顔を上げた。ふくれっ面で、若干涙目になっている。不甲斐ない自分に対して怒っているようだ。
「だって……君は、俺がどうこう言わなくても頑張ってくれるし。現に今日だって」
桜井はおもむろに奈月の目の前の問題集を指さした。
「問題を解きたいのでしばらく一人にしてくれますか、って」
奈月は姿勢を正すと、はぁぁぁぁ、と大きなため息をついた。
「当たり前じゃないですか。本番前日なんだから、集中したいに決まってます。大体……」
今までだれていたのが嘘のように、奈月はきびきびと立ち上がると腕を組み、座っている桜井を見下ろした。
「大体、生徒が真面目モードになったら本番が近いんだなって気づくでしょう? 何でアホみたいにギリギリまで悠長に授業やろうとしてるんですか! センターの日程も知らない塾講師なんて普通信じられませんよ」
「うぅ……ごめん。だって君以外の生徒は皆、今週は塾を休むっていうから……実際先週までしか授業やってなくて」
「それはみんな、それぞれ家で追い込みかけてるんです!」
「え、そうなの!?」
「そうです! いい加減生徒の心理に気づいてくださいよ!!」
「……ごめんなさい」
桜井が反省するようにしゅんとうなだれたところで、奈月の説教タイムはようやく終わりを告げた。
「……まったくもう。今度からはちゃんとしてくださいよ」
「はぁい……」
身体を縮こまらせながら上目づかいで奈月を見る桜井は、さながら小動物……具体的に例えるならば、耳が垂れ下がったウサギのようだった。
「そんなに落ち込まないで下さいよ、先生」
相変わらず子供っぽい桜井が可愛くて、奈月は思わず笑ってしまった。珍しく自分よりも下にある桜井の顔を、目を和ませながら見つめる。
「わたしも少し……きつく、言い過ぎました。ごめんなさい」
言いながら、なんとなく手を伸ばす。目の前に見えるふわふわとした茶色の髪を、桜井がいつも奈月にしているように、軽く撫でてみた。
桜井が一瞬目を見開く。しかしすぐに気持ちよさそうに目を細めると、「たまにはこういうのもいいね」と小さな声で呟いた。
「――さて、センターが明日となると……俺が言うことじゃないけど、もう明日に備えてゆっくり休むしかないね」
ため息をつき、桜井が言った。
さすがに不安な気持ちになって、奈月は目を伏せる。桜井はそんな彼女に目ざとく気付いたのか、奈月に向かって元気づけるように微笑んだ。
「自分を、信じなきゃ」
「はい」
奈月もつられるように、はにかんだ。
「よし。……さて、じゃあ」
奈月が浮上したのを確認すると、桜井はおもむろに立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
それだけ告げて、桜井は再び教室を出て行った。
――五分ほどで戻ってきた桜井は、両手に何かを持っていた。
「何ですか、それ。端切れと、綿と、たこ糸……と、サインペン?」
まさか、これから工作でもするというのか……?
呆気にとられる奈月をよそに、桜井はそれらを使って何かを作り始めた。綿を適量、端切れに包み、たこ糸で結び……綿の入った丸い部分に、サインペンで何かを書き込んでいく。
やがて書き終えたのか、サインペンを置いた桜井は、にっこり笑いながらそれをこちらへ向けてきた。
「じゃん!」
「……てるてる、坊主……?」
桜井が作ったのは、にっこり笑顔のてるてる坊主だった。
わけがわからずぽかんとする奈月に、桜井がふふん、と自慢げに鼻を鳴らしながら説明を始める。
「明日はコンディションも大事だけど、天気もやっぱり大事じゃん? ほら……雪とか降ってそもそも会場に行けない、とかなったら悔しいし」
思わず窓の外へ目をやる。幸い、今は雨や雪といった類のものは降っていなかったが……確かに、この季節だ。必ずしも何らかのアクシデントが起こらないとも言い切れない。
桜井はそんなことまで考えていたのか、と奈月は感心した。
そうこうしているうちに桜井は、同じものを二つ、三つと作っていく。三つのてるてる坊主が出来上がったところで、桜井はそのうちの一つを奈月に手渡した。
「……くれるんですか」
「うん。君の家にも飾っておくといいよ」
「あとの二つはどうするんですか?」
一つは奈月の家に、というのは何となくわかった。が、それ以外に二つも用意する必要というのはどこにあるのだろう。聡明な奈月にも、その辺のことは思いつかなかった。
「決まってるじゃん。一つはここに飾って……」
桜井はそう言って、先ほどまで見ていた塾の窓を指さす。
「もう一つは」
「もう一つは……俺の家!」
「先生の?」
奈月の家、そして塾……というのは、かろうじて理解できる。しかし、何故桜井の家にまで?
疑問が尽きない奈月に、桜井は晴れ晴れとした表情で言った。
「俺も、君と一緒に祈りたいんだよ」
その一言で、奈月はなんだか心が軽くなった気がした。それまで感じていたはずの不安も、追いつめられる焦りも、イライラも、全部吹っ飛んでいくようだった。
桜井と一緒なら、何でもできるような気がする。
そんな、心強い気分になった。
「ありがとうございます」
奈月は微笑みながら、桜井に礼を言った。
「これで明日は、絶対大丈夫な気がします」
「もちろんさ」
桜井はえっへん、と胸を張った。
「だって俺が作ったんだよ? 絶対、御利益あるに決まってる!」
その満面の笑みは、てるてる坊主が浮かべるものと全く同じ、晴れ晴れとしたものだった。
◆◆◆
「ただいま帰りました、おかあさん」
「お帰り、奈月。……あら、可愛いてるてる坊主ね」
帰宅後。桜井特製てるてる坊主に、早速咲葵子が食いついた。奈月は何故だか嬉しくなった。説明する口が、思わず緩む。
「桜井先生に頂いたんです」
「あら、そうなの。よかったわね」
見守るように目を細めながら咲葵子が言う。笑顔になったまま、奈月は「はい」と弾むような声を返した。
「――奈月」
夕食を終え、自室へと足を運ぼうとした時。咲葵子がいきなり、真剣な声で奈月を呼びとめた。
「何ですか、おかあさん」
首を傾げながら、奈月は振り向く。
咲葵子は案じるような、それでいて芯の通った、射るような視線を奈月に向けていた。
「頑張りなさいね」
明日のセンター試験のことだろうか、と思い、返事をしようと口を開く。が、声を出す前に咲葵子がさらに言葉を続けた。
「もうすぐ……答えを出さなければいけない時が来る。その時に後悔しないように、ちゃんと考えるのよ」
いつものおっとりした声とは違う、諭すような、しっかりした声。
それがどういう意味なのか、その時の奈月にはわからなかった。けれどその時の彼女が醸していた、張り詰めたような雰囲気に、抗うことはどうしても出来ず……圧されるように、つられるように、奈月はゆっくりとうなずいていた。
自室の窓のサッシに、早速てるてる坊主を吊るす。垂れ下がる笑顔のそれを指でぷらぷらと揺らしながら、奈月は今更になって、咲葵子の言った言葉を思いだしていた。
――答えを、出さなければいけない時が来る。
時間がないというのは、奈月もなんとなくどこかで感じていた。
春になれば、今より周りを取り巻く環境はずっと変わるだろう。高校とは違う出会いがたくさんあるだろうし、責任も多くなる。
そして、桜井との関係も……。
次のステップへ進むために、自分はどうしなければいけないのか……咲葵子が言っていた『答え』というのは、多分そういうことなのだろう。
だけどそれは、今考えることじゃない。今はただ、目の前の試練に立ち向かうだけだ。他でもない、自分のために。
親孝行らしいことをほとんどしていないし、ひどい態度もたくさん取ってきたのに……それでもそんな自分を愛し、身を案じてくれる、咲葵子のために。
そして今まで自分のことを体を張って支えてくれて、現に今も自分を応援してくれている……桜井のために。
ぐるぐると駆け巡る邪魔な考えを断ち切り、奈月は寝る準備に入った。
16.答えをください:その1
今までを振り返り、全てを踏まえて結論を出す。それは決して容易いことじゃないって、思ってた。
だけど、本当は……。
かねてより志望していた大学の入試も、ようやく終わりを告げた。
長かった日程が全て終了した後の帰り道、白い息を吐きながら藤野奈月は万感の思いで携帯を取り出した。慣れた手つきである一つの番号を呼び出し、耳に当てる。
数回のコール音のあと、ブッという少々耳障りな音が鳴る。間もなく受話器からは、聞き慣れた特徴的な声が聞こえてきた。
「もしもし、藤野?」
「桜井先生」
思わず緩んでしまう頬を周りに見られないよう片手で押さえながら、奈月は電話の相手――塾講師・桜井健人に落ち着き払った声で告げた。
「今、受験が全て終わりました」
「そっか、お疲れ様」
気遣うような優しい声で、ねぎらいの言葉を掛けられる。それだけで、不思議とこれまでの疲れが全部吹き飛んでいくような気がした。
「合格発表はいつ?」
「え、と……十日後だそうです」
「長いね。まぁ、もう終わったんだし気長に待つしかないよ」
桜井は相変わらず能天気だ。少し吹き出しそうになったが、どうにか押さえた。
「お疲れ様。ゆっくりお休み」
「ありがとうございます」
彼に真っ先に連絡したのは、きっと彼の声で紡がれるこの言葉が聞きたかったからなのだ……と、奈月は再確認した。
電話を切り、家路へ急ぐ。
何故だか肩の荷が降り、さっきよりも身体が軽くなったような気がした。
帰宅するなり、心配そうな顔をした母親・咲葵子が「どうだった?」と尋ねてきた。
受験が近づいてきてからというもの、咲葵子はずっとこんな表情だった。それほど自分を案じてくれていたのだな……と思い、少しだけくすぐったい気持ちになる。彼女の不安を少しでも取り除こうと、奈月は「手応えは、それなりに」と答え、にっこり笑ってみせた。
それから咲葵子に「とりあえず、少し休みます」と告げ、自室へ向かう。その間、奈月はふと考えていたことがあった。
そう言えば咲葵子は、当然のように試験の出来について尋ねてきた――普通の人ならば、そうするだろう――が、桜井はそういったことについて一言も尋ねてこなかった。
センターの日程すら頭からすっぽり抜け落ちていた彼のことだから、単に聞くのを忘れていたということもあり得る。だけど……もしかしたら、という淡い期待にも似た考えが頭をよぎった。
もしかしたら彼は、敢えて言わないでくれたのかも知れない。奈月のことを、ちゃんと信頼してくれていたから。
そうだといいな、と呟きながら、自室のドアを開ける。今ではすっかり慣れたその場所へ入るなり、奈月はそのままの格好でベッドへ勢いよくダイブした。
◆◆◆
数日後、高校の卒業式があった。
クラスメイトたちや先生たちと写真を撮ったりなどしながら、別れを惜しんでいく。そういったことも今まであまりなかったので、奈月は嬉しくも少しだけ照れ臭い気持ちになった。
中でも奈月にとって一番嬉しかったのは、母親の咲葵子が卒業式を見に来てくれたことだった。
咲葵子が家を出ていってしまってから、入学式や卒業式などの行事ごとには誰も来てくれたことがなかった。唯一の家族だった父親は仕事第一の人で、家族のことを――奈月のことをかえりみてくれたことなど皆無に近かったのだ。
友人もほとんどおらず、見守ってくれる家族だって一人もいなかった。常にそんな孤独な日々を送っていた奈月にとって、行事ごとというものは苦痛でしかなかった。
でも、今は――……。
「なっちゃん、今度はあたしたちと写真撮ろっ!」
「えー、ダメだよ。次は私たちと写真撮るんだよ。ね、なっちゃん」
「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて……」
「あ、なっちゃん顔赤くなってる!」
「かーわいーっ」
「あらあら、奈月ったら人気者ね」
こんな風に……一緒に笑い合える友人たちも、温かい目で見守ってくれる家族もいて。
嬉しくて、ちょっとだけくすぐったくて、だけどすごく幸せで。
こんなに満ち足りた日々は、自分にはもう二度とやって来ない。そういう世界は、自分にとって全く無縁なものなのだ。ずっとそう、思っていたのに……。
願わくは、こんな日々がこれからもずっと続いていって欲しい……と奈月は心から思った。
それから合格発表日までの日々も、ゆるゆると過ぎて行った。度々高校のクラスで打ち上げがあったりということはあったものの、基本は今までと何ら変わらない。
けれどただ一つ、いつも通りではなかったこと。
それは、高校に入学した時から欠かさず通っていたあの場所に――街外れの塾に、あれ以来一度も行っていないこと。
塾講師である桜井と、一度も関わりをもたなくなったことだった。
17.答えをください:その2
第一志望にしていた大学の合格発表を、翌日に控えたある日。奈月の携帯にメールの着信があった。
「誰だろう……?」
普段奈月が使用するのは主に電話なので、メールが来るのは珍しい。ごく稀に来るメルマガめいたものだろうか……? と首を傾げながら、携帯を開き送信者を確かめる。
そこで奈月は、驚いたように目を見開いた。
「くるみちゃん……?」
奈月にメールを送ってきた相手は、中学時代から交流のある、友人の東雲くるみだった。
中学時代は同じクラスだったこともあり、厳格な父親に隠れて頻繁に会っていたものだが……高校で別れてからはお互い予定が合わず、連絡することも減っていた。
そんな彼女からの久しぶりの連絡。少しびっくりはしたが、やはり嬉しいものだ。奈月は思わず頬を緩ませた。
メール画面には、相変わらずテンションが高そうな文字が並んでいた。
『やっほー、久しぶり! 元気してる? お互い受験も終わったことだし、久しぶりに会いたいな。これからちょっとお茶でもしようよ!』
奈月ははやる気持ちを抑えながら、拙い手つきで――メールをあまりしないため、操作に慣れていないのだ――返信した。
『いいよ。じゃあ、いつもの喫茶店でいい?』
すると、一分もしないうちに返信がきた。さすがは現代っ子。これぐらいのメール操作はお手のものらしい。
『イエース。じゃ、三時に現地集合ね』
『了解』
手短に返事を打ち、着替えと身支度にかかる。
三時の十五分前に準備を整え終え部屋を出ると、リビングでパソコンに向かう咲葵子に告げた。
「おかあさん、ちょっと出掛けてきます」
「あら、遊びにでも行くのかしら?」
咲葵子がとたんにパソコンから目を離し、嬉しそうに言う。その少女のような無邪気な反応に、奈月は苦笑した。
「えぇ、まぁ。ちょっと友人に会ってきます」
「そう。気をつけて行ってらっしゃいね」
にこっと笑い、咲葵子は再びパソコンに目を向ける。時計で時間を確認し、奈月は家を出た。
「行ってきます」
いつもの喫茶店――外でくるみと会う時は、決まってこの場所だ――に着いた時には、まだ約束の五分前だった。
まだ来ていないだろうか、と思いながら、喫茶店に入り中を確かめる。きょろきょろと辺りを見回していると、奥の席からこちらへ手を振るお洒落な女の子の姿が見えた。
「お客様、一名様でよろしいですか」と尋ねてくる店員に「いえ、待ち合わせです」と手短に告げ、奈月は女の子――東雲くるみのもとへ歩み寄った。
「久しぶり、奈月」
ボブカットの明るい髪をふわりと揺らし、くりっとした丸い目を親しげに細めて笑う。薄化粧を施したその可愛らしい顔や、ファッション雑誌に載りそうなほどセンスのいい服装や持ち物が、まさに『今時の女の子』という雰囲気を漂わせる。
奈月は正直、そういった女の子はあまり得意ではなかった。なんというか、あまりにもテンションが高くて着いていけないのだ。楽しむだけならいいのだが、腹を割って話すにはやはり向かない。
だけどくるみは常に周りに気を配り、気遣い、テンションもちゃんと相手が疲れない程度の高さに合わせてくれる。だから奈月も、くるみの前では自然体でいることができるし、何でも話せるのだった。
くるみは立ったままの奈月に「座りなよ」と促し、そそくさとメニューを開いた。
「せっかくだしさ、飲み物以外にも何か頼まない? 受験頑張ったご褒美で、さ」
そうだね、と笑顔でうなずき、奈月もくるみと一緒にメニューを覗き込む。どれにしようか……としばらく話し合い、結局奈月はキャラメルケーキと紅茶を、くるみはモンブランと珈琲をそれぞれ頼むことにした。
注文したものが来るまで、お互いの志望校や受験についての話をした。
「そういえば、くるみちゃんは推薦で受かってるんだよね」
「うん。あそこの大学なら偏差値もなんとか大丈夫だったし」
「推薦ってどんなことしたの?」
今まで一般入試にしか縁のなかった奈月には、未知の世界だった。
「小論と面接。でも小論はあたし苦手だったから、全然できなくて。だから……」
そこまで言うと、くるみは少し声を潜める。奈月も自然と前屈みになった。
「代わりに面接で、これでもかっていうくらいアピールしたの」
だから合格できたんだよ、と、くるみは軽くウインクした。奈月は思わず笑ってしまう。
「何か、くるみちゃんらしいね」
「そう?」
ふふ、と悪戯っぽくくるみも笑った。
「奈月は? こないだ受験だったんでしょ」
「わたしは……そうだね、まぁまぁかな」
曖昧に答える。
くるみはちょっと顔をしかめ、納得いかないというように首をかしげた。
「奈月ならもっと上狙えたんじゃないの? ……まぁ、同じ大学行けるのは嬉しいけどさ」
そう。奈月が受けた大学は、くるみと同じ地元の大学だった。奈月の家から優に通える距離に位置する、街中では少しばかり名の知れた中堅大学だ。
偏差値だけで言えば、中の上ぐらい。奈月の学力ならば、もう少し上を狙っても良かったのだ。
だけど、あえてそうしなかったのは――……。
「やっぱり、お母さんと暮らしたかったから?」
恐る恐るというように、くるみが尋ねる。奈月は微笑んで、ゆっくりとうなずいた。
「やっぱり、今まで一緒に暮らせなかったからっていうのもあるけど……やっとあの人を『おかあさん』って呼べるようになったのに、また離れるなんて嫌だったから」
「そっか……」
くるみが切なげに瞳を揺らす。いくら友人でも、家庭の事情にまで首を突っ込むことはできない……そんなもどかしさを感じているようだった。
そんなタイミングで、ちょうど図ったかのように注文の品がやってきた。二人はそれぞれ自分の分を取り、しばらく言葉もなくちびちびと食べ始める。
やがて再び、くるみが口を開いた。
「そういえば、奈月」
「何?」
フォークを口にくわえたまま、奈月が顔を上げる。妙に年相応に見えて、くるみは思わず笑ってしまった。奈月が怪訝そうに顔をしかめたのに気付き、慌てて抑える。
「いや、ごめん……」
それから言おうとしていたことを思いだしたのか、くるみは急に真剣な顔つきになった。
「桜井先生のこと、どうなってるの」
「どうって……?」
奈月が心底不思議そうに首をかしげる。じれったい、と呟き、くるみはテーブルに手をつき前のめりになった。びっくりして奈月がのけ反るのにも構わず、まくし立てる。
「だから! いい加減あんたは答えを出したのかって聞いてるの!!」
「答、え……」
その言葉に、奈月はハッとした。
かつて咲葵子にも、『答えを出さなければならない日が来る』と言われた。けれど……今は考える時じゃないからと、ずっと逃げていたのだ。
塾へ入ってから――桜井に出会ってから、今まで数えられないぐらいたくさんの出来事があった。色々な場所に連れていってもらったし、多くのことを教えてもらった。
同時に彼の様々な面を見てきた。子供っぽく無邪気で手がかかるところも、大人のように頼もしく何でも受け止めてくれるところも……守ってあげたくなるような弱々しいところも、立ち止まってしまう奈月をぐいぐい引っ張っていってくれる、強い意志にあふれたところも。
彼と塾で過ごしたり、どこかに出掛けたりするのは楽しかった。彼に触れてもらえるのは嬉しかった。彼の笑顔にはいつも元気付けられた。彼の隣にいるのは、いつだって心地が良かった。
そんな数々の思い出が導き出す、一つの答え。それはただ――……。
「……答えなんて、ずっと前から出ていたんだよ」
ただ、考えるのを避けていただけ。
「わたしは、」
わたしは、彼のことを。
「彼を……心から愛しいと思っている」
ただ、それだけなの。
絞り出すような声で、奈月は言った。
くるみは我が子を見守るような目で、奈月の頭を撫でた。
「じゃあ、伝えなきゃ。ちゃんと伝えたら、先生からも答えを貰うの。できるよね?」
奈月はただ、黙ったまま小さくうなずいた。
◆◆◆
「おかあさん。わたし、明日答えを出してきます」
くるみと別れ、帰宅したあと、奈月はリビングにいた咲葵子に向かってそう宣言した。
何の、とは言わなかった。けれど咲葵子にはちゃんとわかったようで、ただ穏やかな微笑みを浮かべながら
「頑張りなさい」
とだけ言った。
自室で携帯を開き、久しぶりに見る名前と番号を呼び出す。単調なコール音が鳴り続けるのを、奈月は心臓を押さえながら聞いていた。
やがて留守電に切り替わった。今日はどうも忙しい日だったらしい。彼が電話口に出なかったことに落胆したものの、何故か少しだけ安堵している自分もいた。
メッセージをどうぞ、というアナウンスが聞こえると、奈月はすぅ、と息を吸った。
「先生、藤野です」
それから一気に用件を、言葉に詰まらないうちに早口で告げたのだった。
「明日、塾へ行きます。いつもの教室で待っていていただけますか」
18.答えをください:その3
三月も終わりに差し掛かり、各地の大学では続々と受験結果の開示――つまり、合格発表が行われ始めていた。
「――おぉ、マジでか! 頑張った証やな。先生も嬉しいわ。ホンマおめでとう!!」
「そっか、駄目だったか……。そんなに気を落とさないで。先生だって浪人したことあるし、何かあったらいつでも相談に乗るから。ね? だから頑張ろう」
街外れの塾に勤務する講師たちは、担当する教え子たちからひっきりなしにくる合否の連絡への対応に時間を割いていた。
が……それらに一喜一憂する間もなく、彼らにはほかにもまだまだ仕事があった。
新規申し込みや解約手続きなどの、細かな対応と手続き。来年度使用するテキストや参考書の発注。講師の入れ替わりなどといった、塾内部の編成……などなど、いちいち挙げていくとキリがない。
この時期の学習塾は、一番忙しいといわれる。それは普段わりかしゆったりとしている街外れの塾でも例外ではなく……。
まさに猫の手も借りたいとはこのことだ、と半ば本気で思いながら、桜井も周りの講師たちに交じって忙しなく動いていた。
暗くなってきた頃に、ようやく一息ついた。
講師たちはみんな自分の席で、燃え尽きたかのようにぐったりとしている。桜井も椅子の背凭れに力なく体を預けながら、ふと机に散乱する資料などに紛れていた自分の携帯電話へと目をやった。
今日は忙しくて全く確認していなかったけれど、何か連絡などはあっただろうか……。
手に取って確認すると、大量のメルマガとともに、一件の着信が来ていることに気付いた。留守電メッセージが入っているようだ。
誰からだろう……? と不思議に思いながらも、慣れた手つきで留守電に繋ぎ、恐る恐る携帯電話を耳にあてた。
アナウンスの後聴こえてきた声に、桜井は頬が綻んでいくのを感じた。
『先生、藤野です』
それは、最近めっきり会わなくなった彼女――教え子である藤野奈月のものだった。
いつもの凛とした鈴の音のような落ち着いた声は、どこか思いつめたように強張っていた。聞いているこちらも、自然と息が詰まってしまう。
少しだけ間があって……すぅ、という息の音が聞こえたかと思うと、その声はまくしたてるようにこう告げた。
『明日、塾へ行きます。いつもの教室で待っていていただけますか』
◆◆◆
電話を切って初めて、肝心の時間を告げていないことに気付く。
そんな基本的なことにも構っていられないほどに、先ほどまでの自分は焦っていたのか……と、冷静になった奈月は思わずがくりと肩を落とした。
また掛け直そうか、とも思ったが、電話に出なかったということは忙しいのだろうから、迷惑をかけてしまうかもしれない……と思い直した。多くの留守電メッセージを残すのも、なんとなく気が引ける。しばらく悩んで、結局やめておくことにした。
結果がわかったら、すぐに塾へ行こうと奈月は決めていた。それで桜井がまだ来ていなければ、来るまでずっと待っていればいい。
「待っていていただけますか」とは言ったけれど、桜井にも都合があるだろうから、彼が先に待っているとは思えない。それにそもそも自分が呼び出したのだし、自分は待つことには慣れている。
だけどもし言われた通り、彼が先に待っていたとしたら……?
……仕方ない。その時は、謝ろう。
「よし」
深呼吸して、声を上げる。ほどなくして咲葵子の夕飯を告げる声がしたので、奈月は「はい」と返事を返し、部屋を出た。
◆◆◆
合否の発表は、郵送で奈月の家に届いた。簡素な封筒を開け、中身を確かめる。奈月は中身を見てもほとんど表情を変えることはなかったが、揺れるその瞳が代わりに、彼女の感情を十分すぎるほど物語っていた。
不安そうに見守る咲葵子に、無言で預ける。それを目にした咲葵子が何か言う前に、奈月は身支度を整え家を出た。
いつも通っていたのと同じ道を、無言ですたすたと歩く。十分ほどで、奈月はそこへたどり着いた。
築何年になろうかというほどに古ぼけた建物――もとい、街外れの塾。
最初来たときは『山姥の家』のようだと思って、入るのにちょっとばかり勇気がいったっけ……と、あの時から少しも変わらない姿を見上げながら、奈月は思い返していた。
だけど今はそんなこと、露ほども思わない。むしろ見かけるたびに、心のどこかで安らぎを覚えるほどだ。そう思う原因は、この塾自体にももちろんあるけれど……やっぱり彼がいるから、というのが一番大きいのだろう。
試験前のように――むしろ、試験前以上に――緊張で強張る身体をどうにか和らげようと、奈月は立てつけの悪い戸を開ける前に、一つ深呼吸をした。
――古い階段を、ミシミシと音を鳴らしながら登っていく。
いつもの教室へ行く前に、奈月は塾長室へと寄った。
軽くノックし、柔らかな声の返事が返ってくるのを確かめる。「失礼します」と申し訳程度の挨拶をしながらドアを開けると、想像通り、上品な雰囲気をまとった四十代ぐらいの男性――塾長の青柳が、変わらぬ体制で椅子に座っていた。奈月を見るなり、穏やかな笑顔で「やぁ、奈月君。久しぶりだね」と気軽に声をかけてくれる。
「お久しぶりです、青柳塾長」
恭しく礼をし、奈月はさっそく青柳に試験の結果を報告した。
それから少しの間、受験の話やプライベートの話など、他愛もない会話をして……十分ほど滞在していただろうか。
「せっかく来たのだから、お茶でもどうだい」という青柳の言葉を、奈月は「申し訳ありません、急いでいるので」と申し訳なさそうに断った。青柳は別段気を悪くした様子もなく、むしろ奈月の心情を見透かしたかのように意地悪く笑った。
「なるほど。これから、健人に会いに行くんだね」
「っ……」
図星なので、どうとも反論することができない。相変わらず鋭い人だ、と奈月は思う。
青柳は愉快そうな表情を崩さぬまま、「まぁ、頑張りたまえ」と言ってひらひらと片手を振った。そんな青柳に、奈月は顔を赤くしたままぺこりと礼をする。それからこれ以上の感情を悟られないうちに、足早に塾長室を出た。
うつむいたまま廊下を歩いていると、やがて教室が多く並ぶ棟へたどり着く。手前から数えて三番目の教室が、いつも桜井に勉強を教えてもらっていた場所――奈月が今回、桜井を呼び出した場所だった。
入り口の前に立つと、急に足がすくんだ。気持ちを落ち着けようと、胸に手を当ててみる。心臓はいつもの奈月らしくないほどにトクトクと早鐘を打っていた。
胸に当てた手はそのままに、奈月は幾度か深呼吸を繰り返した。そうしているうちに少し落ち着いた気がしたので、気合を入れるため「よし」と声を上げる。
そうしてようやく、意を決したように教室の戸を開けた。
教室に足を踏み入れた瞬間、奈月は思わず息を詰まらせた。
まだいるはずがないだろうと、高をくくっていたのに。せっかく落ち着けたはずの心臓が、再び早鐘を打ち始める。
誰もいないはずのそこには、既に見慣れたシルエットが――跳ねた茶髪のラフな服装をした男性が、窓のサッシ部分に身体を預けていた。
19.答えをください:その4
「――やぁ」
奈月の存在に気付いた男性――桜井はそのままの姿勢で微笑みながら、軽く片手を上げる。たったそれだけの仕草なのに、妙に様になっているのが悔しい……と奈月は思った。
「試験はどうだった? 今日、結果発表だったんだろう」
「えぇ、おかげさまで受かっていましたよ」
近づきながらそう告げると、桜井は嬉しそうににっこり笑った。
「そっか、おめでとう」
「ありがとう、ございます」
なんとなく照れくさくなって、奈月は小さな声でぶっきらぼうに礼を言った。そんな彼女の頭を撫でながら、桜井がポツリとつぶやく。
「……君も、とうとう大学生なんだね……」
少し寂しそうな響きを伴ったその言葉に、奈月は胸が締め付けられるような心地になった。
桜井から目をそらしながら、話を変えるように奈月は言った。
「……先に、来てらしたんですね」
桜井は「なんだいそれ」と言って軽く笑った。
「待っていろと言ったのは、君のほうじゃないか」
「そう、ですけど……時間、言ってなかったのに」
「言われなくても大体分かるよ」
「でも……」
奈月は思わず、恨めし気に桜井を見上げた。
「昨日、電話に出てくださらなかったから。今日も忙しいんだろうな、と思って……こっちが待つ覚悟、していたのに」
予定が狂いました。どうしてくれるんですか。
桜井はしばらくきょとんとしたように目をぱちくりさせていたが、やがてゆっくりと破顔した。
「言ったでしょ? 女の子を待たせるのは、男として駄目だって」
「っ……」
何で、こんな時にそんなことを言うのか。
彼はいつもそうだ。そうやって、思わせぶりなことを言って……いつもいつも、その言動に惑わせられて。
あなたのその真意は、一体何なのか。
「……先、生」
たどたどしく、彼を呼ぶ。桜井はいつものように笑いながら「なぁに?」と無邪気に首をかしげた。
そんな桜井を直視できず、視線を床に落としたまま奈月は尋ねた。
「あなたは、わたしに対してどんな答えを持っていらっしゃいますか」
「え……?」
当惑したような声が降ってくる。おそらく、きょとんとした表情をしているんだろう。けれど奈月はそれを確かめようとしなかった。
「わたしは、」
うつむいたまま、苦しげに言葉を続ける。
「わたしは、あなたに対する答えを……感情を、余りあるぐらい持っています。それこそ、一言じゃ言い表せないくらい……たくさん、たくさん持っているんです」
「藤野……」
桜井がかすれた声を上げる。そのあまりにも弱々しい呼びかけに、奈月は思わず顔を上げた。
桜井は切なげに瞳を揺らしながらも……それでも優しく微笑みながら、奈月を見ていた。
何も言えず見入ってしまった奈月に、桜井が口を開く。
「俺に、聞かせてくれる? その……『答え』を」
いくらでも、時間をかけて構わないから。
優しい言葉とその表情から、奈月は彼が自分の話を真剣に聞こうとしてくれているのだということを察した。
すぅ、と軽く息を吸い、奈月は一言ずつ語り始める。
「先生は……今までわたしが知らなかったこととか、大事なことをたくさん教えてくれました。あなたに出会っていなければ、わたしはきっと今も、うまく笑えていなかった。おかあさんにもきっと、正面から向き合えていなかった。全部、全部先生のおかげです。先生が、わたしを変えてくれました」
桜井は奈月が話している間、一度たりとも言葉をさしはさむことはなかった。ただ黙ったまま、優しい瞳で奈月を見つめながら、たどたどしく紡がれていく言葉を聞いていた。
「先生が完璧人間じゃない、なんてことは最初から知っていました。駄目な部分も、弱い部分も、いっぱい見てきたから。それでも先生が、そんな部分までわたしにさらけ出してくれて……そこまでして、わたしを救ってくれて。正直、嬉しかったんです。『先生』っていう肩書はあったけれど、『先生と生徒』なんて関係じゃなくて。そうじゃなくて、わたしは先生と対等に接することができているんだ……って。勝手ですけど、そんな風に思っていたんです」
そこまで言ったところで、奈月は少し視界がぼやけていることに気付いた。感極まってきたのだろうか……と、話しているうちに冷静を取り戻した心で考える。
再び深呼吸をする。嗚咽で喋れなくならないうちに話してしまおうと、奈月は心持早口になって続けた。
「あなたと色んなところに出掛けることが、とても楽しかった。あなたに頭を撫でられたり、手をつないでもらったりすることが、とても嬉しかった。あなたの笑顔には、いつも元気付けられた。打算抜きで……あなたの隣にいるのは、とても心地が良かった」
く、と顔を傾け、桜井の眼を見据える。
そうして意を決したように、奈月ははっきり告げた。
「あなたが、好きです。ずっと傍にいたいって思えるくらいに。どうしようもないくらいに、あなたのことが好きなんです」
桜井が大きく目を見開く。そんな桜井の表情の変化など構わず、奈月は安堵の息をついた。同時に、目に溜まっていたのであろう水滴が一滴、頬を伝う。
とにかく、言いたかったことは全部言った。答えは、全て彼にぶつけた。
あとは……彼の答えを聞くだけだ。
桜井は何かを言い淀んでいるようだった。瞳を泳がせ、口を幾度も開閉させている。そんな彼に、奈月は冷静な声で言った。
「わたしの答えは、これで全てですよ。先生」
あなたの答えを、お聞かせください。
奈月の強気な言葉と視線に、桜井は苦笑した。
「君、案外したたかなんだね。……わかった。俺も、教えようじゃないか」
俺が持っている、君への答えを。
まぁ、本当はそんなもの単純明快なんだけどね……と奈月に聞こえないほどの小さな声で呟くと、桜井は潤んだままの奈月の目を見据えながら、口を開いた。
「初めに柳さんから君のことを聞いたとき、俺は君に親近感を覚えたんだ。君にも、厳格な父親がいたっていうことだね。でも……話を聞いているうちに、やっぱり違うんだな、って思った。俺は父親に反発したせいでこんな性格になったけれど、君は父親に従っていたせいで俺とは正反対の性格になった。同じようで違う、違うようで同じ……そんな君を少しでも助けることが、俺にできたら、って思って。それで、君の担当を受けたんだ」
そのあたりのことを聞いたのは、初めてだった。今まで桜井はもちろんのこと、青柳や咲葵子でさえ詳しく教えてくれたことがなかったのだから。
目をぱちくりさせる奈月を見て少し笑い、それからまた桜井は口を開く。
「出会って、勉強を教えて……一緒に出掛けたりもして。最初は君を変えるための、授業の一環のつもりだった。そう自分に言い聞かせてた、って言った方が正しいかもしれない。だけど回数を重ねていくうちに……そうだね、バイキングに行った時ぐらいか」
「ハイキング、です。先生」
すかさず奈月が突っ込みを入れる。いつまで間違えるおつもりですか、と呆れたような表情をする奈月に、桜井は照れたように笑った。
「ごめんごめん、何でか覚えられなくて」
「いい加減覚えてくださいよ。……まったく、今までのシリアスな雰囲気はどこにいったんですか」
「あはは、本当だね。……じゃ、戻そうか」
ひとしきり笑った後、桜井は再び真剣な表情に戻った。
「……とにかくそれぐらいの時に、はっきり気づいちゃったんだ。君と一緒に時間を過ごすことを、俺自身も楽しんでいるんだってことに。俺が、何よりも君の傍にいることを望んでいるってことに」
だから手をつないだり、額にキスしたりするようになったのかもね。
桜井は特に意識した様子もなくサラッと口にしたが、奈月はそれらの出来事を思い出して、一気に顔が熱くなるのを感じた。
桜井が不思議そうに首をかしげる。
「あれ、どうしたの? 顔赤いけど……」
「あなたのせいですよ! もぅ……早く続けてください」
不機嫌そうに唇を尖らせ、熱くなった顔をパタパタと手で仰ぎながら言うと、桜井は「あ、うん。そうだね」と焦ったように答えた。
「……君との別れが近くなった、と感じた、あの秋の日。その時になって、結局俺は何もしてあげられていないんじゃないか……って気持ちになった。俺個人の気持ちとしては、やっぱり君と咲葵子さんとの関係を修復してあげたいって気持ちが強かったから。だから……ちょっとためらいはしたけれど、彼の命日に、彼のところへ君を連れて行くことにしたんだ」
結果、それがいろいろと功を奏したんだよね。
そう言って、嬉しそうに桜井は笑った。奈月もつられて微笑む。
あの日確かに、奈月は救われた。そして同時に、桜井自身も救われたのだ……と、奈月は思った。
それから桜井は、慈しむように瞳を細めて奈月を見た。
「まぁ……そうだね。あれが決定的だったのかな。俺の答えは多分、そこで既に出ていたんだよ」
急に緊張の面持ちになった奈月に、桜井は安心させるかのように柔らかく微笑む。
そして、奈月が聞きたかった『答え』をようやく口にした。
「俺は、君と離れたくない。君のことが好きなんだ」
その瞬間、止まっていたはずの涙が再びこみあげてきた。不安や恐怖……そんな負の思いが渦巻いていた、先ほどの涙とは違う。この思いを何と呼べばいいのか、奈月にはわからなかった。けれど多分嬉しいのだと思う。
桜井は手を伸ばし、奈月の涙を指で優しく拭った。この上なくいとおしそうな目で、言葉を続ける。
「だから、たとえ……今の『先生と生徒』っていう関係性が失われたとしても。これからもずっと、俺の傍にいてほしい」
頬に添えられた暖かく大きな手に、自らの手をそっと重ねる。それから奈月は濡れた瞳を細め、幸福に満ちた笑みを浮かべた。
「もちろんです」
街外れの塾にて
実はこのお話、『街恋物語』というシリーズ(全3作)の第1弾にあたるものです。
第2弾以降、また番外編などを載せた完全版は『小説家になろう』の方にありますので、もし本作をお読みいただいて興味が湧いたという方は、ぜひとも覗いてみてください。
http://ncode.syosetu.com/s1138b/