乗り換え駅
望む出逢いと望まぬ出逢いが紙一重で交差する
乗り換え駅
郷主徒流太
ターミナル駅のプラットホーム。先頭に並ぶと、この始発電車のドアを開くのを待っていた。
ゴールデンウイークが始まったばかりの祝日の朝だった。この日のためにブティックで買ったお気に入りのワンピースを着て。
知的でクールなグラフィックなモノトーンを避け、春を感じさせる大人の女らしさを求めた。印象派の絵画のようなバラをあしらった柔らかなパステルタッチが気に入っていた。
自分を変えたい、小さな冒険だった。
ドアが開くと最後尾の車両の一番後ろの席に駆け込むようにこの席に座った
赤羽駅のプラットホームからこの席を目指す彼と出逢うために、連絡を取り合っていた。
新宿行きの快速だった。ほとんどの乗客が座席に座っていた。
武蔵浦和駅を過ぎると反対側の窓の景色は何人ものの身体で何も見えなくなっていた。まだらに佇む乗客も荒川を渡り、都内に入るころには座席の目の前に人が横に並んで吊り革を持ち始めるほど混み始めていた。
もうすぐだ。次の駅で彼が乗ってくる。
今日の予定は彼と逢ってから、お茶でもしながら二人で決めるつもりだった。
行先はどこでもいい。彼と一緒にいられるなら・・・・・・。
人影が静かに揺れる車内。誰かが私を見ている?・・・・・・。
人垣の隙間から私の顔を見ている男の顔が正面にあった。驚きのあまり思わず声を上げそうになった。嫌悪が背中をはい上がり、息をする首を絞めた。
半年前に別れた男だった。結婚している男。報われぬ不倫の恋。二人だけの秘密の恋。私はこの男を忘れて出直すために、憐れな負け犬のようにその会社を去っていた。
正社員の座を捨てた。会社に残ることは耐えられなかった。生活は一変した。やっと、三か月前に仕事を見つけた。派遣だけど贅沢は言っていられなかった。
細い女の手が男の膝の上にあった、男の手の甲を愛の余韻を楽しむように撫でまわしている。重なり合う人と人の隙間は細くて女の顔は見えない。
きっと愛する奥さんの手なのだろう。奥さんの顔は知らないけど、私の結婚の要求が煩わしくなって、奥さんのもとへ逃げ帰ったのだから・・・・・・。
せっかくの日なのに私を捨てた男に会うなんて、なんてこと。気分が良くない。
妻に気づかれぬように何気なく澄ました男の顔が人と人の隙間に揺れていた。
私たちはもう他人なのだ。何も関係ない。ただ電車で乗り合わせた他人の関係・・・・・・この男が奥さんと出かけているだけ・・・・・・。
あと一駅だけ我慢すればいい。次は赤羽なのだから・・・・・・でも、このままでは、彼が電車に乗ってくる・・・・・・奥さんと幸せそうにしているこの男を見返してやりたい・・・・・・何を考えているの?私はバカな女。そんなことをすれば、今の彼も失う・・・・・・このままでは、最悪。鉢合わせだけは避けなければ・・・・・・。
身体が横に大きく揺れた。急ブレーキの悲鳴が床をひっかくように軋む。
人垣が膝からくずおれるようにニ三歩進行方向に流れた。隙間が大きく開いた。
一瞬、隣の女の顔が見えた。男に向かってほほ笑む顔が目に飛び込んできた。
嘘だ!・・・・・・この女は奥さんじゃない!
私がいた元の会社の同僚の独身の女、綾香だ!
人の流れが反動で元の位置に戻った。幕は閉じた。綾香は私に気づかなかった。
私は奥さんに負けたんじゃない・・・・・・奥さんでもない女に男を盗られた屈辱・・・・・・うるさく結婚をせがむ女が煩わしくなって乗り換えたんだ。私は遊びだけの軽い女だったんだ・・・・・・自分だけが真剣になって、傷ついたことさえばかばかしい。
もう、ここにいることは我慢できなかった。激しい動悸と憎悪で吐き気をおぼえると席を立った。ふらつく身体を人垣の波を分け入るようにねじ入れる。最後尾のドアに一目散に向かっていた。
「イテッ」男が大声を張り上げた。
ハットすると、スポーツ新聞をたたんで見ている柄の悪そうな中年の男の足をハイヒールで踏んでいた。
「オイ!お姉ちゃん。痛えんだよ!」
満員の乗客の視線が一斉に私に向かった。
「ご、ごめんなさい!」
私は慌てると大きく頭を下げた。美容院でカットしたばかりの髪が顔を覆い隠していた。
「チッ!気をつけろ」
私は綾香から背を向けるようにしてドアに向かった。
ちらっと振り返ると、綾香が驚いたようにこちらを見て目が合うと慌てて目をそむけた。
いたたまれない気持ちが胸にこみ上げる。
綾香は偶然乗り合わせただけだと思うだろうか?私と目が合って逃げるように見えただろうか?不審な行動に見えたかもしれない。でも、あの男との関係は知らないはずだ。彼女たちは今、不倫の恋の関係なのだ。彼女たちも見られたくないはず。私のことをあの男は何と言って綾香を言いくるめるのか。もうそんなことはどうでもいい。
赤羽駅のプラットホームが近づいてくる。
プラットホームに並んでいる人の列にあいつがいる。顔が見えた。こちらを食い入るように見つめている。目が合うと優しそうにほほ笑んだ。
停車するとプシュッとドアが開いた。
私は開ききらないドアからすり抜けるように飛び降りた。
そしてこの男の胸に飛び込んだ。
「どうしたの?」
戸惑う彼の吐息が耳を撫でた。彼の目をすぐには見つめられない。
「ちょっと、気分が・・・・・・」
「だいじょうぶかい?」
「すこし、ベンチで休みたい」
彼は私の肩を抱くと人の列から外れるように下がった。
「ねえ、私を愛している?」
彼の目を見ると、勢いで言っていた。どうしても言ってほしかった
「はあ?」
「ねえ!」
「こんなところで、突然、何を言い出すんだ?」
彼は照れると周りを見回した。誰も見ていない。乗客たちは急ぐようにドアの内側に身体をねじ入れると初めて気づいたように、無表情な顔だけをこちらに向けている。
「ネッ、今言って。早く!」
「エッ!?なんだよ!?・・・・・・」
「早く!」
私の目は彼の目を見つめたまま放さなかった。
「・・・・・・君が、好きだ」
ほとんど一方的。自分のわがままだった。
彼はためらうと一気に言い放った。言い終わると照れて苦笑していた。
「うれしい!」
私は背伸びするように彼に抱きつくと彼の唇を奪っていた。
乗り換えのアナウンスが終わるとオルゴールの電子音がプラットホームに鳴り響く。
ドアが閉まった。
あっけにとられた男と女の顔が窓越しにあった。秘密の恋を楽しむ男と女が電車の窓を振り返って見ていた。私と目が合うと二人とも驚いたように顔をそむける。そのまま隣の綾香の後ろ姿へ何事か語りかけると苦しまぎれに笑ったように見えた。
電車がゆっくりと走り始めるとプラットホームを去ってゆく。
もう電車の過去の男の横顔は消えて黒い後ろ姿がいくつも並んでいるだけだった。さよなら。もう二度と私の前に現れないで・・・・・・。
プラットホームから電車はどんどん離れて小さく消えていった。
「・・・・・・パパ、おなかすいた」
聞き覚えのある声。ハッとすると、私は彼から飛び退くように離れた。
取り乱していたせいか、どこにいたのかまったく気づかなかった。いつのまにか、小さな男の子が彼の脚の裏に縋り付くと半分だけ顔を出して、不安そうに私の顔を見上げていた。
「ウワッ!亮太君,いたんだ」
「ごめん、今日は保育園、休みなんだ。お袋も急用ができて・・・・・・」
彼は私に苦笑すると、脚の後ろに佇む息子を上から振り返ると、ほほ笑んだ。
「そうだよね。ゴールデンウイークだもんね。ごめんね、亮太君・・・・・・じゃあ、今日は三人でデイトだ。まず地下のお店で何か食べようか?」
私は自分の顔を亮太の顔の高さまで膝を折るとほほ笑んだ。
「おねえさん、パパにキスしたでしょ?」
あどけない顔のなかに、怒っていいのか、妬きもちなのか、どうしたらいいのかわからない顔があった。
パパをたぶらかす悪い女と思われたかもしれない・・・・・・。
「亮太くんにもしちゃおうかな」
私はおどけて言ってみた。
もじもじしながら「いやだ!」
亮太は彼の後ろ脚に縋り付いたまま顔を隠した。
「アハハハ、嘘よ。今日はしないよ」
亮太は不思議そうに私を見ると、パパの顔を見上げた。
彼は息子の顔を見ると、だいじょうぶ安心するようにとでもいうように優しく笑ってくれた。
彼はもう気づいているのかもしれない。それでも気づかないふりをしてくれているのかもしれない。私みたいなドジな女のわがままも受け入れてくれる。彼の優しさを気づかない愚かな自分。たとえ気づいても手遅れになって、気づいたときはもうどうにもならない、失敗を繰り返すかもしれないと思うと怖い。
怒りたいときは怒って欲しい。でも、今のままの彼ならば一緒に前を向いて歩けるかもしれない。
私はうれしくなって、亮太に手を差し出す・・・・・・戸惑いが亮太の顔に浮かぶ。亮太がおっかなびっくり手を出すと、初めて私の手を握ってくれた。
小さくて暖かい手だった。
「遊園地でも行こうか?」
「ボク、海で泳いでいるクジラが見たい」
「へえー。海かー・・・・・・お姉さんもクジラ、見たくなっちゃった」
「ヤッター!」
彼は困ったように苦笑すると亮太と私を見て笑っていた。
私たち三人は親子のように、亮太を挟んで手を握ると吊り下げる。
三人の笑い声が階段を一歩ずつ降りていった。
了
乗り換え駅