野球の神様は広場も見にくる

野球の神様は広場も見にくる

はじめてのコールド勝ち

 公式戦でいっしょにプレーするのは小学校では最後となるこの大会で、次男はさっきとは違って迷いのないバックホームを投じた。
(相手が兄ちゃんだと遠慮なくできるな…)
  しかし、ボールは3塁ランナーのぎりぎり横を通り過ぎていった。6年生としては平均的な身長の長男は自分より顔一つ大きなランナーの目の前でそれを受け止めることになった。その夏、高知の四万十市が史上最高気温を記録した同じ日に僅差で2位となったこの街は残暑が厳しく、長男は汗でマスク越しのランナーがよく見 えていなかった。気付いたときにはそのランナーはすぐ目の前にいた。
(テッカイ!)
 当時よく真似をしていたバリアの類の技を繰り出すときの呪文が聞こえたような気がした。少しジャンプして着地した時の姿勢でそこに残ったのは小さい方のプレーヤーだった。少年野球の試合で最も盛り上がるプレーの一つである「本塁刺殺」でこちらへの流れは決定的となった。
 試合が始まる前のキャッチボールを部外者が見たら、10人中9人は向こうのチームが勝つと答えただろう。しかし、余裕を含んだ表情で先発した相手のピッチャーは初回を終える前に正反対の表情をすることになった。
  うちのチームの1番バッターは本来背番号「0」を背負う選手ではなく4番を打つべきだとチームの父兄の中では何度も話題になっていたが、監督である彼の父親は彼の名前をメンバー票の一番上に書き続けた。小学生最後の公式戦で自分がどういう選手なのか、チームで語り継がれるシーンを彼はいきなり見せつけた。
 (先頭打者ホームラン)
これ自体は少年野球では必ずしも珍しくはないのだが、よくある外野の間を抜ける当たりではなく、ライトを真後ろに走らせる大きな当たり…でも、それはそのシーンの序章に過ぎなかった。相手ピッチャーの表情からは試合前にあった余裕は消えていた。一見頼りな さそうに見えるうちのチームメイトたちは皆お人好しで今までそれができなかったのだが、最後の公式戦の出鼻を挫かれて動揺した相手ピッチャーを助けない選球を披露し、打順は一巡した。そしてそのシーンが生まれた…
 これまでうちの対戦相手がしたことがない深い位置に相手のライトは移動していた。しかし、試合開始時とは全く違う表情のそのライトは今度は右斜め後ろに走らされることになった。同一選手による1イニングで2ホームラン…この象徴的なシーンをひっくり返す実力差は両チームには存在しなかった。
いや、まだ続きがあった。彼の3打席目は相手のライトとレフトが交代し、見たことのない深い守備位置をとってきた。少年野球はライトゴロでアウトを取れるため実はライトの比重は低くないのだが、明らかにライトを強化する交代だった。しかし、彼は三度ライトに仕事をさせた。
 「よくヒットに抑えたぞ!」と喜ぶ相手ベンチをみて、隣に座る監督さんの横顔を覗かずにはいられなかった。このセリフをこれまで自分が「ドンマイ」の代わりに何度グランドに向けて放った事か。まさか相手にこのセリフを言わせる時が来るなんて…
(2年間の監督さんの指導に子供たちが応えている。)
そして、チームははじめての経験となる「公式戦でのコールド勝ち」を収めたのである。

監督さんとの出会い

 監督さんとの出会いは長男が幼稚園に通っていたころに遡る。友達のお父さんにそういう人がいる、と話では聞いていた。何かの発表会のとき、 その場にあまり似つかわしくない目の鋭い人が他の父兄の目線とは明らかに違う方向にあるグランドを見つめていた。いかにも二遊間を守りそうな、背は高くなく反復横跳びが得意そうな体格だった。気が付くと私は自分が中日ファンであることを彼に話し始めていた。巨人ファンが多いこの地で彼も巨人ファンではなかった(そう言えば少し鳥谷選手に似ていた)。幼稚園の送り迎えで野球の話を父兄とするのはそれが初めてだった。
 当時の私はそれまでの仕事の内容とは違った、「研究」というものをしていた。それを一生続けるわけではなく、本来ならおかしな位置づけだが時限的な仕事と理解していた。そのおかげで火曜日は幼稚園への送り迎えをすることができたのだ。自分が通った以外は来たことがない幼稚園の園庭というものは、自分の位置取りやだれと何を話すべきかについてかなりの分析を要し、決して安らぐ場ではなかった。そういう状況で彼と出会えたことは私にとって幸運だった。
 でも、その時の彼との関係性はまだ幼稚園で野球の話をする人ができたというだけのもので、まさか甲子園で強豪校の2塁ランナーを牽制死した時にランナーにタッチしたというキャリアを持つ彼と同じユニフォームを着てベンチに入り、子供たちを指導することになろうとは思いもよらなかった。

はじめはサッカーだった。

 実は、最初はサッカーだった。地元にJリーグのチームがあり幼稚園生を募集していた。妻からサッカーという言葉が出るとは正直意外だったが反対はしなかった。むしろ、何かスポーツをやっている方がいいと前向きにとらえた。
  何回か長男の練習を見たが、彼がその集団の中でどれくらいに位置するのかというような発想を私は持たなかった。それは鬼ごっこをしている息子をどれくらい活躍するだろうかという観点で見ないのと同じだった。しかし、妻はそうではなかったようだ。どうしてボールを獲りに行かないのか長男に訊いたところ、
「他人のものを獲りたくない」と答えたらしい…
  エスコートキッズをした時も、同じ格好をした子供たちは先を争って同じユニフォームの選手たちのもとに走って手をつないだのだが、長男は正反対の色のユニフォームの一番後ろで少し離れたところにいた、必ずしも子供に愛嬌を振りまかない選手をみつけるのがやっとだった。でも、彼が前の選手と少し離れて歩いてくれたおかげで、まだアナログ放送だった中継録画はスローモーションが必要ではあったが、長男だけ一瞬顔が映ることになった。
 しかし、その選手は後に髪の色が変わり、ワールドカップサッカー・ブラジル大会で日本代表の背番号4を背負うことになる。家にはその顔がやっと判明できる映像しかなかったのだが、後にその時の鮮明な写真を手渡されたときには長男はACミランというチームがどういうチームかという事よりも大リーグで川崎選手がメジャーに昇格できるかの方が大事な中学生になっていた。
 「向いてない…」と思った。でも、正直ホッとした。長男がサッカーを辞めるときに私は反対しなかった。私が同じくらいの年齢の頃と違って、今はクラスで運動神経がいい子はまずサッカーチームに入るらしい。それで将来的に目が出ないと思って違うスポーツに転向するとき、野球は他のスポーツと同じ選択肢の一つに位置が変わっているようだ。今思えば長男はこれの先を行っていたのかもしれない。

野球のはじまり

 妻は実際に目にしないと決して物を買わない(ネット通販なんてとんでもない)20世紀に棲む人で、それを必ずしも重視しない私の歯止めになっている。ユメノ・ベースボールクラブに入るのも当然体験してからの決定だった。「体験」とは子供だけではなく親が試合の相手になるところも含まれていた。
 「お父さんもよろしければお願いします。」クラブは親子試合に送り迎えの父兄を誘う事が多かった。
「パパって野球できるんだ!」
 公園で同じことをするよりグランドではその価値が高まる事を教わった。私たち親子にとってグランドで過ごす時間が大きな存在になっていった。そしてクラブの活動は私の中のある感情の認知につながった。
(自分も野球が好きなんだ。それもプレーするのが…)
  家の土間のある部屋は格好の練習場となった。クラブが呼んでくれた元プロ野球選手との交流は私の方がうらやましいほどだったが、基本を大事にする姿勢を子供たちのキャリアの始めに体験できたのは幸運だった。その中で紹介されたゴロ捕りの格好でショートバウンドで捕るハンドリング練習を、私たちは「練習場」で飽きずに続けた。いやその「遊び」を子供たちにリクエストされたという方が正確かもしれない。長男は小学校と同敷地内の中学に進み、外部から入学 してきた実績のあるチームで主力を張っていた選手たちと切磋琢磨することになるのだが、ハンドリング数だけは負けないはずだ…
 クラブに入って子供たちと野球の話をすることが増えた。放映される野球だけではなく、自分がしていた中学の野球の話もそれらのなかに含まれた。中1の時に新しく来た顧問の意向でレギュラーキャッ チャーとなり、居残りで毎日セカンドベースからバックネットに向かって投げていたこと、バッターボックスではいつもピッチャーの顔に向かってライナーを打とうとしていたこと…お互いのなかに、その話であれば優先的に入ってくる場所があるという事は親子とはいえ当然ではないかもしれない。それをはっきり認識 したのは長男の卒業文集に父親のコメントを考えることになった時だった。字数を削るのに手間を要していると、他のお父さん方とは逆の作業をしていると妻に言われた。
 そうなると子供たちがその質問をするのは自然な発想であろう。
「なんで高校では野球をしなかったの?」
 自分に対しては通学に片道1時間半もかかったから、と答えていたが、自分と同じ中学から同じ高校に進んで野球をしていたのがいるので、それが答えではないと知っていた。いや、その質問に向き合わなくても先に進めたから答えずにそのままにしていただけだった。子供たちにもはじめ同じように答えたが、言い直した。
「高校受験に失敗し、親に申し訳ないと思ったから…野球なんかやってはいけないと思ったから…」
自分の両親がそう思うはずはない、ということも同時に分かった。この台詞を口にすることができたのも野球と再会したおかげだった。

スポーツ少年団に移る

 我が家で最も多くスポーツ少年団の野球を見てきたのは、間違いなく妻の方だ。甥っ子がうちのチームにいた時からだから、悠に10年以上…私より、この地域でのスポ少の野球がどういうものかという「範囲」を知っていた。私は、自分が経験した中学野球しか知らなかった。その長年の観察から、クラブからスポ少に移るべきだと判断したのも妻だった。小学校3年で長男はスポ少にお世話になることになった。
 しかし、その「範囲」は私のものと一致する事はほとんどなかった。チームにいたひとりだけ厳しい、といっても自分としては当然の指導をする、80年代の言語を話す父兄がチームで唯一理解できる存在だった。でも、その存在は自分の「気づき」をむしろ先に送ったのかもしれない。

 代が変わった。6年生だけでも一人余るということがスポ少に於いてとてつもない価値を持つことをその時はまだ分かっていなかった。その事より、自分の「範囲」との一致点の少なさが気になってばかりいた。
  自分の「範囲」とは、30年前の首都圏の公立中学の野球部の姿に過ぎない。顧問が変わり、1年生のキャッチャーとサードとピッチャーをレギュラーにしたことは、 先輩のしごきとなって返ってきた。でも、暗くした部室で殴られることに自分達は想像以上に早く適応し、逆に1年の3人で向こうの1名にその闇の中で仕返しすることまで発想させた。
 自分たちは同じ立場になったときそれらをしなかった。
「俺たちはやめよう」といってもドラマのようにカッコいい感じではなく、新人戦で市のチャンピオンとなり、違う事の方が面白くなっていたという方が近かったのかもしれない。サードが主将となりその一声でそれらはなくなった。
  野球部を3年まで続けたという事が一定の評価を得られる時代にそれをしてきた身からは到底受け入れられない「フワフワ」したものにチームは占められていた。失敗するからではない。取り組む姿勢に我慢ならず、シートノックでキャッチャーを手伝っていたのだが、レフトにボールを投げつけた。
「捕ってこい!」
 私の声の大きさは中学時代に鍛えられてしまった。声が小さければ尻バットだからそれは自動的に習得された。一度東京ドームで、
「勝負しろー!ノウミーーー」と響かせたことがある。いや、中学の頃ベンチから野次ったのと同じつもりだったのに相当の人々の視線を浴びてしまい、人生で一番大きな声を出したのは、それが最後になるだろう。
 妻が差し違えるような勢いで、それをやめなければ長男を退部させると談判してきた。内容というより声の大きさが尋常ではないと言うのである。
(チームに気合を入れて何が悪いのか・・・)
 もしその反応が妻だけだったら、それを変えようとせず我が家のスポ少活動は破滅的な結果となっていたかもしれない。長男が止めてほしいと言っている…それを知ってやっと自分のしていることをもう一人の自分が審判し始めた。
(お前は小学校の時の野球のことをほとんど覚えていないだろうに)
  その後、チームといや21世紀の少年野球というものと折り合いをつけることを度々突きつけられることになるのだが、長男が進んだ同じ敷地内の中学に外部か ら入ってきた新しいチームメイト達は、私がスポ少の指導で使ったよりもよほどきつい言い回しで、誰に言われたからでもなく、
「おまえら、声出せー!」と盛り上がりだした。自分たちがプレーしていたチームとのあまりの差に、いてもたってもいられなくなったのだろう。長男も追随して自分から声を出してプレーする野球の面白さを満喫しだした。その日、校舎を隔てたこちら(スポ少)の広場にもここ数年聞いたことのない轟が聞こえてきた。
(うちの中学の野球部が変わる…)
ただ、「野球の神様はいる」と実感させられた長男と彼らとの出会いは、ずっと後の事である。

6年生が多くても勝ちきれなかった

 6年生だけで9人揃うという事がどういう価値を持つのか、その時はまだ分かっていなかった。シーズン最初の市の大会。ベスト4をかけた試合の相手は強豪で、今そのチームと対戦するならば、コールド負けをいかに逃れるか…がメインの検討課題になるはずである。
 6年生の父兄はその価値を知っていた。明らかにギアが変わりチームとして気合が入っていくのが分かったので、逆に私は準備していなかった。
「8番ライト…」
(えっ!長男が先発?)
 この相手はチームが越えなければならない大きなヤマ。ここで4年生は使わないだろうとビデオカメラも家に置いてきていた。しかし、当の本人はおそらく狼狽えが表情に出ていたであろう私とは違って、集中した顔をしていた。
 「よし、全部見てやるぞ!」と私も覚悟を決めた。有利に試合を進めていたのを1点差に追いつかれた後の先頭バッターとして長男がバッターボックスに立つことになった。
 (ここで回ってきたか…)
 この頃はとんでもない高めに手を出すことはもうしなくなっていた。いや、むしろいい見送り方をした…
「フォアボール」
 よく選んだ!流れを止めた良い出塁だった。
 スポ少では2塁の盗塁は刺せないことが多いのだが、相手のバッテリーはちゃんとした野球選手の動きをしていた…うちは6年生でも盗塁を試していなかった。
(ここはじっくりと…あっ、バカ!)
 2塁ベース上で「どうだ!」という顔をした。当時はまだ「暴走癖」があった。「のどから心臓が飛び出そう」とはこういうことを言うのだろう。
 結局、1番キャプテンのホームランでダメ押しとなりベスト4進出が決まった。帰宅後長男にあの打席で何を考えていたのか訊いた。
「絶対塁に出てやる。」と答えた。守備機会は無かったものの、レフトが後逸したホームランのときはそのすぐ横にいたし、セカンドが後方のフライを危なっかしい追い方で捕ったときも、そのすぐ後ろでカバーしていた。この試合以降、私はプレーヤーとしての長男の見方が少し変わった。
  ところで、オレンジがよく似合う向こうの共に5年生の三遊間は私に強い印象を残す事になった。その試合は半分くらいそうだったのでは?と感じたが、この二人の守備機会のあったゴロはすべてアウトになった。それも送球は全部ワンバンでファーストはほとんど左右に動かなかった。その後うちのチームに「彼女たち」よりうまい内野手は出現していない。おそらくこの先もうちの三遊間のファーストへの送球はワンバンのままだろう。
 こちらの地域では地元新聞社主催のこの大会をメインとする人の方が多い。6年生だけでレギュラーを固めることができる構成はこの先何年も、いやこの代が最後になる可能性すらある。
  しかし、暑さは選手たちの血管内の水分バランスを狂わせ、さらに、当時はその言葉は存在しなかったが、いわゆるゲリラ豪雨がうちにとって最悪のタイミングで試合を切った。終わってみればあっけないものだった。私はその選手の介抱をしていたから、よく見ていないうちに「勝負の試合」は終わってしまったのである。
 次の日の未明、ライブではあまり見ないサッカーの試合を観た。起きてテレビを点けたらやっていたという方がより正確だったろう。まして女子サッカーをテレビで見るのは初めてだった。しかし、さらに初めてのことが起きた。
  延長後半の残り5分、追いすがるドイツの猛攻から、なでしこJAPANの選手たちはチームの勝利のために集中して逃げていた。追いつかれるイメージは浮かばなかった。 むしろ容赦なく引き離していた。チームが勝利のために徹していることを理解した時、頬を涙が落ちていた。
 前日の試合を思い出した。
(勝つとは、相手が追う事をあきらめるほど徹して逃げる事なのでは…)
 長男は囲碁を習っていたことがある。囲碁の大会の会場では立って泣きながら打っている幼稚園くらいの子もいた。そういう相手でも止めをさす…やるかやられるか。うちの6年生たちは追いすがる者の手を踏んでまで「勝利」という場所に逃げ切る事に徹することができなかったのでは…
 この代が6年でレギュラーを固めても勝てなかったという結果は勝つために必要なものが何であるのか、私に探させることになった。

心の制御

 東北楽天イーグルスの嶋選手のあの演説の翌日、スポ少の保護者会が行われ半年後の秋から私が背番号「29」(主任コーチ)を付けることが内定した。背番号「30」(監督)は…幼稚園で逢った「あの人」である。うちの長男の名前から「郎」をとった名前のお子さんも入部していたのである。ただ、 彼は私と違って、はじめは「ボール拾い」に徹していた。この辺りは、この人がこのチームでは例外的な2年という時間監督をしている間に私は学んでいくことになった。
 当初、私はチームの本拠地である広場で心をコントロールできていなかった。それに気づいてすらいなかった。実は、情けないことにそれはただ体力的な事情によるものが大きかった。暑い中屋外でただ4時間立っているだけで、その日他の事は何もできなくなってしまう体力しかなかったのである。長男がチームにお世話になってすぐは、子供たちのカバーをしているだけでその様であった。
「あと何年子供たちの相手になれるのか・・・」イメージできた期間はまさか2ケタではなく、四捨五入すればゼロになってしまう年数でしかなかった。
  トレーニングの内容が変わった。しかし、夏に屋外にいることそのものがそれには必要だった。筋トレもインナーマッスル強化もそのための十分なトレーニングにはなり得なかった。土日のスポ少野球の練習に「付き合う」だけのことがこれまで体験したどんなダイエットよりも有効だった。
 自分の野球の記憶は中学の経験によって塗り替えられ、少年野球の記憶は実はあまり覚えていない。練習でできている選手が試合で活躍できないことの人文科学的な分析も有意義であった。今の子供たちにとって、よく鍛えられた守備の8人に大きな声を出して睨まれる事は、非日常的どころか今までの人生で経験したことがない状況にちがいない。それを経ずに生きてきた身にとって、バッターボックスでの活躍、特に試合に於いては余程の集中が必要になるはずである。
 銀傘の下で足が震える経験を跳ね返したのは「気合」だったと、貴重な経験の数々から得た結論を監督さんは選手たちに授けようとしたが、それを使ったことも見たことすらない小学生にとっては、伝えるのにはあまりに難しい概念だった。
  自信が持てない子供に自分の活躍をイメージしてもらう一番の近道は、この年齢の場合母親である。ヒットを打って殊勲のポーズをとったときの目線の先は、例外なくベンチではない。お父さんでもない。スタンドの母親なのである。活躍する子は母親も戦っている…大事な人のために戦う子は自分の中で眠る潜在能力を呼び起こす。小学生では8人を相手に一人では戦えない。あきらめて見られている子はあの場で戦えないのかもしれない。
 もう一つ、これまでにしたことがない行動をするようになった。何となく録っておいた名著のサマリーの番組を端から見始めた。スポ少の手伝いをしていなければ、レコーダーのメモリーが一杯になってメディアにダビングされてお蔵入りしていたであろう金言の数々。私は自分の心を見つめるためのツールとしてこれほど文学を用いたことはこれまでなかった。
「なぜ、子供相手に怒ってしまうのか…」
 古今東西、同じようなテーマについて悩み考えられてきたことは、私にとって救いだった。特にブッダの「真理の言葉」は助かった。
 「自分の心の状態がどうなっているか、きちんと把握する」
 「自分を救ってくれるのは正しい心で考える自分のみ」
 「正しい心で考えるには集中する事が必要」
 始めは子供たちに送るために読み始めていたが、これらはむしろ自分のためのものだった。困っている事の原因を客観的に「正しい心」で考え、対応する…問われているのはこちらの方だった。
 ただ、これらは自発的な試みではなく、それをしなければコーチを続ける事が許されない状況で必死に「救い」を求めた結果だった。

次男の試合デビュー

 本来であれば一番の味方になってくれるはずなのに、なぜか気になってしまう存在…弟が試合で打ち、ストライクをポンポン取ることを長男が素直に喜べるようになるには、精神的な成長より技術的な向上が必要だった。ユメノベースボールクラブでも、「練習場」でも二人はいつも一緒だった。2学年下なのに背はほとんど同じ。ともするとバットに当てるのは向こうの方が少し上手かったかもしれない。そして、当たったときは自分より飛ぶ…
「自分は思いっきりひっぱたいているのになぜ?」
 プレッシャーに感じるなという方が無理な話だった。向こうはヘッドを走らせている…と参考にする対象にはできなかった。
 でも、努力した。長男が「トス」と呼ぶ室内でプラスチックボールをフルに打つ練習に私の方から誘ったことはもう覚えていない。4年生のシーズンから週に5日はやり続けた。
  次男は初めての夏は2年生で迎えた。秋に5年生以下の大会があり、「ジュニア」の試合が組まれた。自分が子供のころと違って、今は小学生で野球をする方が 「なんで?」と言われる状況なのかもしれない。軟球をグローブで捕れる順番にポジションに着くと、その2年生の試合デビューは「サード」になった。相手からすれば、4年生には見えるだろうから違和感はなかったかもしれない。
 初めての守備機会は軟球独特の高いバウンドの打球だった。前に突っ込まな くては捕ってもセーフになってしまう状況で慣れない選手にそれをしてもらう事はこのチームでは簡単ではないのだが、次男はそのための工夫を要しない子だっ た。初めての試合でも当たり前のようにそうした。いわゆる「入っちゃった」であったのは捕ってすぐに投げなかったからバレテしまったが、結果的にいい送球 でアウトにしてしまった。
 しかし、サードの起用にプレーで応えてしまった事がその後そこを守る機会を増やし、彼の肘に負担をかけていくことになった。この苦い経験は私にとっての絶対的な基準につながった。すなわち、
「(両肩を結んだ線より」肘を下げて投げてはいけない」
 それは上手いか下手か、頑張っているかさぼっているかなどとは異なる絶対的な禁忌であり、私の中では「人のそばでバットを振ってはいけない」と同じ禁止事項となった。

ネット上のライバル

 うちのチームは父親が監督をする決まりで、長男が3年生でお世話になってから毎年監督が替わってきた。だから、彼が2年務めたのはチームと しては例外的だった。「少年野球とはこういうものか」と分かり始めたころには1年という時間は過ぎてしまう、という話を上級生の父兄から聞くのは1回や2回ではなかった。チームにはその貴重な経験を継承していくという仕組み、いや「空気」がなかった。
 彼のもとで2年間コーチをすることができるため、「少年野球とはこういうものか」を始めから探さなくても済むはずだった。でも、実際は彼の足を引っ張らないように、自分の野球観、すなわち30年前に中学で経験してきたものとのギャップを理解することにかなりのエネルギーをかけなければならなかった。ある騒動の後で去っていく父兄に、今後のチームのリスクは自分だと告げられたときには全く聞く耳を持たなかったが、まさにその通りになってしまうのである。
 そのギャップを埋めるべく、私はネット上で「ノウハウ」を探した。ネット上には同じ「現場」での体験で得たノウハウを共有することをコンセプトにした良質なサイトが複数あった。自分の息子が入っているチームの指導者を経験した人たちのブログには、私がこのチームと係っていくうちに「これからこんな事が起きていくのでは」とイメージされるシナリオがこれでもかと盛り込まれていた。選手たちの技術的な面ばかりでなく、「今の子供たちは・・・」で検索すれば真摯に検討された内容とそれに対する方策が数多くヒットした。中には私も辿り着いた人文学的なアプローチからコメントされているものもあった。それらのノウハウを知ることによって、私はなんとかチームを壊さずに済んだのかもしれない
 その中で私たち親子はライバル、いや目標となる選手と出会った。彼は海の向こうで、正直野球と いう言葉からは発想されない国でプロの野球選手を目指していた。長男より2学年上のその子のスイングやピッチングフォームを私たち親子ははじめ憧れた。私たち親子にはおかげで「井の中の蛙」という概念は存在しないのかもしれない。彼らのキャリアのごく初期に、いきなり同世代の子の眩しいほどのプレーを動画で見てしまったからだ。
 多くのトレーニングメソッドの映像を今はネットで見る事ができるが、うちの親子の場合そこでプレーしているのはその子だった。サンプルが大人だと課題が上手くできなかったときに逃げ道が見えてしまうかもしれない。彼はそれらのトレーニングに於いて、うちの子たちの先輩になってくれた。彼がいつか楓のマークのユニフォームを着てワールドベースボールクラッシックに出てくるのを私は密かに待っている。
 そのギャップを埋める「救い」の中にはブロガーではなくコメンテーターも含まれた。長男ははじめナイター中継に向かって応援やヤジを言う私と距離をとっていたが、ある選手を好きになることで、「こっち側」に来た。もしもクラスでそのチームのファンの人がいるか挙手を促されても、この町では誰も手を上げないにちがいない。決めるのに時間がかかるが、一度決めたら他に流されないのは妻の方のDNAだろう。
 その年の夏休みは開催地というよりもそのチームが対戦相手になるカードを手配した。通常と異なる側にフランチャイズのファンが座る、なだらかな丘に穴を掘ったような球場の一塁側の席に着くとお目当ての川崎選手がティーバッティングをしていた。わざと詰まったようにフライを打つような、子供の目にはスッキリしない練習をしていた。試合中に彼がサード後方の安打を打ったとき、それが狙って行われていることが分かり、思わず子供たちと目を見合わせた。
 そのコメンテーターはそこが勤め先だった。お土産で買ったタオルと同じデザインの旗とCMでシリーズ化しているしゃべる白いイヌを贈ってくれた。誰か知らないけど応援してくれる人…当時のうちの子供たちにとっては望外な励みとなり、それらは今でも部屋に飾られている。

公園で野球をしてはいけない

 子供たちが歩くようになってそのグランドに行かない週末はなかった。県庁から車で5分とかからないのに、統合のために使われなくなった小学校の校庭で、だれにも何も言われず、思いっきり走って、投げて、蹴って…バッタやトカゲやトンボを追いかけた。
 二人が離れた小学校に通うようになると、その校庭には市役所建て替えのために仮庁舎が建てられた。今の時代は友達と野球遊びをするような場所が本当にないのである。それは必ずしも設備だけの問題ではなかった。
 県の公園の広場で遊んでいるときに柔らかいボールとプラスチックのバットで野球を始めると、管理事務所の放送が始まった。
「…野球、サッカー、ゴルフなどの練習はご遠慮…」
 その人が放送の前に事務所に入ったとそこにいた子供たちのだれかが話した。顎鬚を長く生やした老人はさらにうちの子たちを呼び寄せ、放送と同様の趣旨のことが書いてある看板を読めと言って来たらしい。私は、顔の血液がちゃんと心臓に戻らない状態でそこに近付いた。
「練習ではない、遊びだ。」と抗議するつもりだった。
 すると次男が、終わりの方の文をみんなに聞こえる声で読みだした。
「この広場で、犬を散歩させないで下さい…」
 その老人は犬を引っ張って広場から道路に出て行った。そのような人がいるから何もできない公園になってしまうのだ…
 その方がいいやり方だと感心して終わったはずだったが、後日に県の少子化対策のニュースを聞いてまた思い出してしまった。
(何が少子化対策だ…)
 市にメールを送った。
 「○○小学校跡地は私達の練習場でした。公園の広場にも河原にも『野球の練習をするな』という看板があります。私達親子がキャッチボールをすることができる場所をご案内ください。」
  その跡地に建てられた仮庁舎に居るであろう担当者は、想定外の対応をした。そもそも電話が来るとは思っていなかったからこちらの方が戸惑ってしまった。本来管轄が違う「県の」公園事務所や河川担当に確認し、親子の触れ合いレベルのキャッチボールは可能だという答えを用意していた。さらに、このような状況、すなわち子供たちが遊ぶ場所が充実しているとは言えない事を部署の課題として俎上に上げた、とまで報告した。
 充分だった。最後に一つお願いした。新しい市役所が完成して仮庁舎が無くなった跡地には子供たちのための施設も造ってほしい。県都の市役所仮庁舎の跡地に子供たちのための施設…これは一定のメッセージとなるはずである。その候補として私は「ブルペン」をお願いした。
 しかし、その跡地には高齢者のための施設が作られることが決まったようだ…

良いチームとは

 6年生だけでレギュラーが組めた代が影響を与えたのはチーム内だけではなかった。その反応の方が自然だったのかもしれない。
 彼らは弱かったわけではない。シーズン初めの大会で市のベスト4になった。実際次の代から今までその結果はチームにとって目標でなく夢に近い存在である。
 向学のためにと大会の続きを覗きに行くと、試合を終えた人懐っこい表情の子供たちに囲まれた。
「あ、○○の人ですよね。○○はどうだったんですか?」
「うん、コールドで負けちゃった…」
 それを聞いたその子たちの反応は意外なものだった。彼らは大騒ぎとなり、チームメイトの誰かを呼びに行く子も現れた。
「本当にコールドで負けちゃったんですか?」と改めて同じ子に訊かれた。
「うちは、6年生が抜けちゃって変わっちゃったんだよ…」
(この子たちは何でこんなにショックを受けているのか、逆に平気でいる私たちは何なのか…)
 去年、うちはこの子たちに打ち勝っていたのだ。そう、打ち勝つチームだった。
 私は、早々に引き上げた。自分たちがもしここに勝ち上がっていたら?観戦中それをイメージすることができなかったからだ。
 「なぜ、あの代は勝ちきれなかったのか?」その答えを探した。それとかなり近い質問と答えがパソコンの画面に現れた。
 ベスト4にはなるが優勝ができない…急いでスクロールして答えを表示させた。
「それには、良いチームになる…」本当にずっこけそうになった。
(ハズレをつかまされた…)
 続きがあった。
「それでは良いチームとは?」クリックしないで読み続けることになった。
「良い選手、良い指導者、良いベンチ、良いスタンド…では、良い選手とは?」
 その後の言葉が、今のうちのチームのポリシーとなっている。
・大きな声で返事をする。
・自分から挨拶をする。
・仲間を大事にする。
 ずっこけるどころではなかった。
(ぜんぜんできていないじゃないか…)
 今の代だけではない。いやもしかするとここ数年では今の方ができているかもしれない…準決勝や決勝に行けるようになったらそこで勝てるチーム、すなわち「良いチーム」には弱くても先になることができるはずだ。
 ほかにも探した。うちの子たちに物足りないと思う事…それらは「成功のための7つの習慣」にあった。
・自分から進んでやる(人の所為にしない)。
・目的を理解してやる。
・大事な事からすぐやる。
 もう十分だった。どうすればいいのか彷徨わなくなった。そして、妻が学校の父兄向けの講演で聴いてきたという、
「子供にはスポンジに水を浸すように…」が加わると、私はグランドで怒鳴らなくなっていった。
 

「グランドで泣くな」を守った

 うちのチームは選手の父親が監督をするので、あれだけのキャリアを持つ監督さんはチームにはもう現れないだろう。彼は自分の息子ではなく、シーズンを通して4年生を「4番」に据え続けた。
 しかし、うちの次男は当時はまだ投げるときに両肩を結んだ線より肘が下がっていた。私はそのことの怖さを認識していなかった。3年生の初夏から3カ月、彼は手首だけで投げることをトレーニングとして位置付けたが、私は主治医の言葉から逃げたくなった。
(2年生にサードをやらせるなんて…)
 そのプレッシャーが私を無明にしていった。当時のチームはアウトを取るのは三振かピッチャーフライ。ピッチャーゴロもファーストへの送球が下投げで間に合うものだけ…それを何とも思わないような、向上しようという姿勢が見えないナインに心が折れた。
 その頃は長男も私の大きな声にアレルギーを起こさなくなっていた。
「パパの気持ちもわかるよ…」
 彼は週に4日は必ず自分からバッティング練習のサポートをリクエストしてきた。
「こっちはこれだけやっているのに…」という思いが影を落とした。
 こちらでは「少年野球の夏の甲子園」と言われるメインの大会で、その年市のチャンピオンとなるチームと対戦した。去年のうちの6年よりも余程中学生のようなバッター達に対して四球の連続はなかったし、同チームと対戦した前年の秋より試合になっていた。
 しかし、車に戻って長男が監督の言葉を必死に守っていたことを知った。
 長男より2学年上のピッチャーが、自分の打席で三振に抑えられたのを引きずってマウンドで涙し勝ちきれなかったのを、私も良くないと捉えていた。監督の
「グランドで泣くな」という指示は目指すべきテーマとして私も共有していた。
「もう少し捕ってくれたっていいじゃないか!」長男がこんなに大きな声が出るとは知らなかった。確かに、もしマウンドにいるのが自分だったら、試合中けんかになったかもしれない。
(息子をこんな目に合わせていいのだろうか)
 しかし、私だったらしたであろう愚挙には出ずに監督の指示を守った長男は仲間たちと野球を続ける事を選んだ。そのご褒美を小学校最後の公式戦で野球の神様から頂く事に…
「最後の公式戦で初めてのコールド勝ち」
さらに中学進学後に外部から有望な選手たちが多数入部してくれることになるのである。
 一方、私の方はまだご褒美を得るに至らず、
「周りの底上げをするにはどうしたら…」と利己的に考えていた。

従弟のバット

 うちの二人には身近にヒーローがいる。うちのチームが最後に県大会に出場したのは彼が6年生の時だった。そのとき彼はすでに身長が170㎝もあった。
  義姉はこれまで妻に引っ越しの荷物のような量の服をくれたが、彼が使っていたバットはうちには来なかった。それは彼が照れ屋だからでもなく思春期にありがちなポーズでもなかった。高校に進みボールが変わるから…理由はそれだけではなかったはずだ。お父さんの形見のバットたちは、どれもタイカップ・グリップで同じグリップテープが巻いてあった。
 小学生最後に使っていたであろうバットは、チームで今使われているものとは一線を画していた。
(重い…)
 これはうちの子たちは6年になっても振ることはできないだろう。でも、このバットを振り込んでいこう。小学校最後の勝負の試合の朝にこのバットを振ってから出発しよう。
  彼が進んだのは父親の母校だった。階段を一段上がった彼は、くれたものとは桁が違う重さのマスコットバットを数種、時に部屋を暗くして毎日20分は振っているようだった。県の高校野球の決勝が行われる球場で、1年生で場外弾を放ったとき、彼のお父さんはレフトスタンドの空で雄叫びを上げていたにちがいない。

富士の麓の試合

 卒団式の後の懇親の場で最も多くの父兄がその試合をベストゲームとして挙げた。
 その代(長男の一つ上)は何にしてもくじ運が良くなかった。その年の市で一番強いチームから順番に当たっていった。その大会は市で予選を勝ち抜くのではなく、県のどの出場チームとも対戦する可能性があった。市内のどこのグランドで行われるか、くらいで影響を受けていた私は富士山の麓の球場となると思考が停止した。監督さんが高校時代に自転車でそのグランドに通ったというエピソードを聞いて少し気が楽になった。
 それにしてもまたもや相手が悪かった。なぜ県で3本の指に入るピッチャーと初戦で対戦したいのか…しかし、その情報も監督さんが向こうの出身でなければ得られなかったかもしれない。
「昨年のこの大会の優勝チームはそのチームの3・4番と勝負しない…」
「その3本の指に入るピッチャーは120㎞/h出るらしい…」
「○○(うちの西隣の市の強豪)はそこと対戦が決まってからバッティング練習しかしていないらしい…」
 先に○○さんが対戦した。目の前で西では強豪の一角が完封された。そして、逆に内角低めのいいボールがレフトをライナーで越えた…
(これは久しぶりに20点級の試合か…)
 私はあの試合で、うちの子たちがなんであんな力を発揮できたのか、本当のところ今も分かっていない。
自棄になっていた?いや、うちのチームはこれまでもそんなことはなかった。目の前で敗れたチームの方が明らかにうちより実力は上のはず。しかし、子供たちは直接対戦の経験がない相手を見ただけでは評価できないのか…
 いつもより声が出ていた。二人の6年生のうちの一人が試合開始直後、その120㎞/hに食い下がったのが大きかった。ファールで粘って、結局デッドボールで出塁した時のベンチの盛り上がりは、相手に(何だ、こいつら)という表情をさせた。
  監督さんは中学生みたいな体格とスイングの3・4番と勝負の指示をした。うちの外野も頑張った。いつもだったら「ホームラン」の当たりで、本来進むべき塁に彼らを立たせたプレーは1回ではなかった。彼らは複数の内野フライも打ち、スコアボードに彼らが書いた一番大きな数字は「4」だった。
 このような、いやどんな相手とも制限時間内に正規の7回まで戦う事はこの代はなかった。むしろ5回コールドをどうやって免れるか…そういう戦いばかりだった。 6回裏のこちらの守りを5分で切り抜ければ最終回の攻撃に進めるという状況で、チームは最終回の攻撃につなげるだけでなく2点をもぎ取った。
 気が付くとバックスクリーンの向こうに巨大な夏の富士が現れた…あきらめずに頑張る選手に、野球の神様がご褒美をくれるのを見る事が出来た。そう、野球の神様はいる…

試合後の記念写真

 長男が6年のシーズンとなり、唯一の全国大会につながる大会である学童大会の市予選を向かえたが、子供たちにとって、いや正直私にとってもそれは「公式戦」の一つに過ぎなかった。長男はそれより前のシーズン最初の公式戦で悪弊の「ナチュラルチェンジアップ」(4本指)で投げていたことが録画で判明した。そのこと自体よりも、それを試合後に気づいたということに向き合うべきだった。
5回表、8-0。ここで2点入れないとコールド負けになってしまう…
 (コールド負けだけはさせたくない)
 その思いは選手たちの方が強かったようだ。なんと一気に10点を取って逆転してしまったのだ。それも一年前に20点以上取られて負けた相手から…
 (さあ、ここを抑えれば県大会が見えてくる)
今思えばこれがいけなかった。うちのふたり(長男:投手、次男:捕手)にその余力は残っていなかった。あれはストライクだと次男が後で言ったがそれは捕ってから言うべきだった。
 実は私自身が勝つためにすべきことを探していなかったということを思い知らされた。公式戦でリードするという状況は初めての事だったので、その後どういうことが起き得るのか検討するよりもそのことを喜んでしまった。
しかし、ベンチで一人監督だけはそれを知っていた。
「まだ勝ってない!」
私はそれを共に子供たちに伝えようとしなかった…
リードしていることを喜んでいても勝利は得られない。追いすがる者の手を踏んづけてでも逃げなければ、それは得られないのだ。あの場面でどうするとそれは得られたのか…彼らの母親は気付いていた。彼女はベンチの後ろで必死に何かを叫んでいたが、勝利を確信していた私には届かなかった。
  答えはピッチャー、いやキャッチャーの交代だった。その時次男はもうキャッチャーではいられなかった。少年野球では暑さの中で、主審のすぐ目の前のプレーヤーも体力を消耗する。あの時交代を進言できたのはベンチの中では私だけだった。しかし、長男もあの時マスクをかぶれたかどうか…サヨナラのフォアボールの後、あいさつした長男はよく分からず相手側のベンチに歩き出していたのだから。
 死闘だった…
 帰りの車内で泣いたのは次男の方だった。
「一年前は20点以上とられて負けた相手…いい試合ができた!」
  家に戻ると、リビングに貼られた「よくがんばったね」という書が迎えてくれた。グランドから戻るまでに彼女が普段それを書くのに使うような時間はなかったはずだ。免状をいただくのに800枚以上書いたがあまり自分の書を写真に撮るような人ではなかった。彼女はその書の前に立つ私たち3人の写真を撮った。そういえば試合後に写真を撮ったのも初めてだった。
2年後、同じグランドの同じベンチで、私は背番号30を背負った。私の前にそれを背負っていた人はバックネット裏から何度も援護してくれて、私はその都度タイムをかけてホームベースの方に走った。そして、子供たちは再逆転の上、その時と同じ12-11でシーズン唯一の公式戦勝利をプレゼントしてくれた。

小さな県チャンピオン

学童の優勝チーム(県代表)がテレビで紹介されたのを見て、私は負ける理由として持っていた本質的ないくつかを放棄しなくてはならなくなった。
部員数11人、レギュラーの3人が4年生。
(うちの方が人数も多いし、背も大きい…)
 幸い仕事の帰りに少し足を延ばせば寄れるところ…ほかのチームを見に行くのは初めてではなかったが、見学初日、ついに私は練習を見る事はできなかった。到着すると指導者の方が身振りを交えてバッティングフォームの話しをしていた。しかし、話は終わらない…隣の農協に車を停めていたのだが、帰り始めた職員がこちらを見ていった。3人目の時に初日はこれで帰ることにしたが、聴いている選手たちの姿勢が良い姿勢のままで集中して聴いている事に気づいた。
(うちのチームはこれだけの時間、だれも聴くことができないのでは…そもそも私が話す事ができない…)
 それから平日の週に2日、仕事の帰りは遠回りすることになった。
 見たことのないロングティだった。トスのインターバルが絶妙なのである。少し早めで1セット20スイングはゆうに超えた。帰宅後うちの子たちとやってみた。このインターバルの早さで連続して打つとトップをしっかり作るようになり、投げる前に始動するようになる。長男の欠点である「上体に力が入り過ぎる」も続けていくうちになくなっていった。
 ネクストバッターは同じタイミングで振って待っていたのだが、うちのチームでこれを完遂する選手はイメージできなかった。
 それと球拾いなのだが、逆にセンターの方に大人がいてそこに返球していた。確かにその方が練習が止まらない。それと中継の投げ方の練習にもなっていた。それらが一つの練習で行われていたのである。
 実はもう一つ印象的な練習があったのだが、それは、次男の代が6年生のメインの大会が終わったころにやっと試す事ができたのだが、少数精鋭のチャンピオンは4年生もやっていた事になる。
 細長いグランドの端でキャッチボールをするのだが、わざとショートバウンドを投げるのである。止められなければ、150mくらい追っかける事になる…それを10球ずつくらい。
 この感じが強豪チームとうちのチームの違いだったのかもしれない。
(悔しかったら止めてみろ)
 うちのチームではこの練習は成立しないと感じた。それを何のためにするのか、を共有できないからだ。
 チャンピオンにはそうなる理由がたくさんあった。私はその後うちのチームの子供たちにテクニックを教える割合が少なくなった。試合でたたかう意識がなければ無意味だからだ。しかし、もうスピリットは教えなくていい、という時は来なかった。

いつもの広場が特別な広場に

 全国につながる春の公式戦の県大会の決勝戦に臨むチームが、うちのチームがいつも練習している「広場」でアップしている…
 その時点ではそのチームにゆかりのある者はうちのチームには誰もいなかった。ただ、うちの前監督の先輩が決勝に臨むそのチームの監督をしていた。縦の関係はいつまでも続くようだった。実はうちのチームは県大会の決勝の会場から最も近くに位置していることを認識させられた。
 学校には他チームと一緒に活動するときには、当然の事ではあるがうちのチームが一緒にそこに居なくてはならない、という決まりがあった。うちの通常の練習時間より早くそのチームは現れた。「踊る大捜査線」の特殊部隊のように揃って扉が開いて、チームの動きは到着したというよりは出動してきたという感じだった。それと、うちのチームではあり得ないことだが、大人と子供達の人数がほぼ一緒だった。

 一人でできる範囲のグランドの準備をしたつもりだったが、水はけの悪い「広場」ではそれが限界だった。すると、二人係りで見たことがないブラシの使い方で水たまりごと水を外に掃き出した。
(ああやってやるんだ…)
 アップが始まった。キャッチボールでは子供たち同士でやっているのは2~3組で、あとはみんな「県大会に出たことのある」大人とキャッチボールをしていた。グランドの一部を貸すのではなく、うちのチームの子たちとコーチと共にそれを見る事にした。うちのチームからすればそれはアップではなく、こんな練習したこともないような整然とした本格的なものだった。本番前に2~3イニングやったようなもの?
 このチームは2年前にも同じ経緯でここでアップしていったことがあったので、私が中学の時のような空気になるのは私は分かっていたが、その時とも違っていた。一番大きな声を出していたのは、いや正確に言うと一番怖そうな人は、10番の「選手」だった。
 そのキャプテンは本当にすごかった。うちの選手がだれも入れたことがないプールに最初の選手が大ファールを打つと、
「引っ張るなって言われてんだろ!」と叱りつけられた。それは大人にではなくキャプテンにだった…
 彼らの一番大きな選手よりも背が高いのがうちに2人、同じくらいのが1人いたが、うちの選手たちは動けなくなっていた。これを見る事ができたのはうちの選手たちにとって貴重な経験になった。同じ小学生がここまで準備する姿を見てしまった。それまで私がしてきた昔話は作り話ではなく、今も強豪チームでは行われている。それも小学生が自分たちから自らやっていることだった。

 その年は、そのチームは3回その「広場」でアップする事になった。私は3回共整備して出迎えた。それは決してやらされ仕事ではなく、もはやファンとしてやっていたのかもしれない。決勝の日の日中、丁重な、そして最高の内容のメールが届いた。うちのチームの本拠地、おそらく県内で最も水はけが悪くバックネットもないその「広場」は学童大会県代表チームが決勝戦のアップに使った広場になった。

 そして、その「10番」はU-12侍JAPANでも10番を背負った。

野球の神様は広場も見にくる

野球の神様は広場も見にくる

家族で戦ってきた少年野球の記録。その舞台はグランドとはとても呼べない小石だらけの水はけの悪い広場… 自分の野球観とあまりに違うチームの空気。しかし、コーチとは子供たちを「活躍」に連れて行くのが役割だと気付く。 2×対0と打ちのめされても仲間たちと手を取り合い、自分から進んで努力した。 そして野球の神様はご褒美をくれる。最後の公式戦でチーム初めてとなるコールド勝ち… 中学に入ってきたのは県大会の決勝で対戦したエースと4番、さらに県レベルのチームのバッテリーや主将達… これまで浸ったことのない大きな声の中、新たな野球が始まる。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-26

Copyrighted
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Copyrighted
  1. はじめてのコールド勝ち
  2. 監督さんとの出会い
  3. はじめはサッカーだった。
  4. 野球のはじまり
  5. スポーツ少年団に移る
  6. 6年生が多くても勝ちきれなかった
  7. 心の制御
  8. 次男の試合デビュー
  9. ネット上のライバル
  10. 公園で野球をしてはいけない
  11. 良いチームとは
  12. 「グランドで泣くな」を守った
  13. 従弟のバット
  14. 富士の麓の試合
  15. 試合後の記念写真
  16. 小さな県チャンピオン
  17. いつもの広場が特別な広場に