頭を抱えた羊
まんまるい窓枠に切り取られた部分以外、全てが真っ白な部屋の中、大事な相棒である柵を抱き締めながら僕は、情けなくも途方に暮れていました。
なにも、見たことがない場所に放り出されたわけではありません。
ここの主は、間違いなくこの「僕」です。
悩みの種は僕自身ではなく。
それは僕の足元で縋るように蹲る、白くとても柔らかい物体、いや「彼」の方なのです。
一ヶ所しかない、貴重な出入り口用のドアを蹴破ってしまいそうな勢いで飛び込んで来たかとと思えば、迷うことなく僕の足首へと襲いかかってきました。
もちろん、知り合いです。少々特異な間にあるこの場所へ、一切、迷うことなく踏み込んで来ることができる数少ない友人なのです。が、
「あのね、フトン君。僕はこれから仕事なんだよ」
平べったい面にバランスよく配置された、ぱっちり二重としっかり目線を合わせつつ、僕は窓を指差しました。
毎日丁寧に磨いている丸ガラスの外側で、こっくり濃い群青が、一本の横線となってしまった頼りない橙色飲み込み、さらに下へと沈み込もうとしています。
そう、夜がきたのです。
身を潜めた太陽に押し出された星々を連れ立ち広がる夜空に、ぽっかり浮かんでは落ちていく月と同じく、僕には決して他の人に任せることのできない仕事があります。
しかし、
「分かっているよ、ヒツジ君。でも、今日、いや今じゃないと駄目なんだ。お願いだよ、邪魔はしないから!」
「や、そうは言ってもさ……」
「僕が、僕が自分勝手に話を進めていくからさ。君は好きなところで相槌を打ってくれさえすればいいんだよ。なっ、頼む!」
「なんだ。勝手に話すなら、独り言でもいいじゃないか」
「違うよ! 君に聞いて欲しいんだ。できるだけ静かに語るし、短く端折るから!」
「短くって。嘘だろう、君の話はいつだって長くなる」
「……今日は気を付ける。なぁ、頼むよ、ヒツジ君」
聞いてくれよ、と。延々、必死に頭を下げる友人を追い返すこともできず、結局、僕が折れました。いつものこと、と認めてしまえばそれまでなのですが、毎回気が付けば彼の思惑通りに動いてしまう自分に思わず溜め息が漏れてしまいます。
とは言っても。受け入れてしまったのですから、仕方ありません。それに、ほんの雨粒一滴程度ですが、気にもなります。どうしても、「繰り返し」が続くこととなる仕事の合間、よい退屈しのぎです。
気持ちが悪いほどぺっとりと張り付く彼に離れるよう指示した後。腕いっぱいに抱えていた柵を順序良く、円状となるべく並べ、僕はその真ん中に静かに腰を落としました。緩めていたネクタイを絞り上げ、きゅっと首筋も引き締めます。
さあ、準備は整ったから、あとは君が好きなように話すといい――このように、円の内側から手招きするのもいったい何度目でしょうか。
「数えたことなどない」と言うよりも、「数えたくない」ほどです。そんなこちらの心情を、さも理解しているとでも言いたげに、申し訳なさそうにしながらも、彼は嬉しげに笑いました。
そして。
そそくさと僕の前まで這って来るなり、とある名前を呼んだのです。
言いたくて堪らなかったのか、上擦った色の声が示したのは、聞き覚えのあり過ぎる名でした。
内心、「まだ諦めていなかったのか」と勝手ですが吃驚したものです。
その人は彼の同居人の一人であり、そして彼を恋する男、すなわち、ただの腑抜けへと変えている張本人でもあるのです。
僕自身、彼女のことは二、三度ほど、遠目に見掛けたことがあります。が、予期せぬ行動を起こしそうな、爆弾、そんな印象しか持てなかったのは、僕が気の優しい静かな女性を求めるからでしょう。
そんな僕の好みと真逆である彼女と、「雪を一緒に眺めた」だ、「雨の日は一日中僕の上で寛いでいる」だの。散々、無駄な惚気話を零した後、急に真剣な声音になって彼は、さらに語り出しました。
「僕はね、ヒツジ君。彼女に最高の眠りを届けるだけでいい、それだけで全てが幸せなんだと思っていたんだ」
「あの、しなやかな身体が温かさを望むのならば、一日中、焼けるような陽の眩しさにだって耐えられるし、冷たさを欲するのならば、森深くの冷え切った湖の中、この身を浸して僕の体温は捨ててやる――それくらいの覚悟なんだ」
ほんの一瞬。体を駆けた寒気とともに理解しがたいもやつきが、頭の胸の内を掠めました。けれど、突っ込む場所ではないのでしょう、僕は黙って聞き流しました。
「でもさ、僕は彼女とは違う。見た目もなにもかも、ね。最初はそれでもいいやと思った。誰よりも近くにいたし、何より僕はお気に入りだから」
だけど――……。
張りのあった表情から一変、弱弱しい一言を吐き出し、彼は大層苦しそうに顔を歪めたのです。楽しげに上を向いていた視線が下を向いてしまいました。御自慢の羽毛も心なしか縮んでしまって見えます。明るさが何より取り柄であるはずの友さえも落ち込ませる「何か」なんて、できることならば、触れたくありません。しかし、突っ込まなくては話の進みが淀みます。躊躇いつつも、僕は口を開きました。
「フトン君、もしかして」
「ああ、そうだよ。やっぱり……やっぱり僕からも触れたいんだよ。包み込むだけじゃなくて、こう、もっと抱き締めたいんだ」
だから、僕。腕が欲しくてたまらなくなった。
別に、逞しくなくても良いんだ。半歩離れた彼女を手繰り寄せられる長さがあればいい。
やはり――。
今回の相談事はなんとも厄介だと、単純な僕は思いました。
甘味の強い、密かで独り善がりな恋心を楽しむだけでは、とうとう我慢できなくなったのでしょう。
慈しみ育てれば育てるほど、欲が出てきてしまうのは当然です。成り立っていない不完全な愛ならば、なおさら、なのかもしれません。
しかし、彼には彼のために与えられた姿があります。眠りを誘うもの、眠りを届けるものとしての務めがまずは主です。なんの代償もなく作られた型を脱ぎ去ることなど、しがない布団にすぎない彼にも、羊である僕にもできやしません。
仮に望むものを手に入れたとしてもどうでしょう、今の形だからこそ、そこそこ気に入っているに違いない彼女が喜んでくれるとは到底思えないのが、僕の答えでした。かと言って、
「気持ち悪がられるから、やめなよ」
僕が僕の思うままに伝えては、彼を傷つけてしまうことが目に見えています。
さて、どう励ましたものかと考えを巡らし始めた僕でしたが――忘れていたのです。
いえ、考え付かなかったと言った方が良いかもしれません。
フトン君が自分の願望だけを語りにこの場へやって来たことなど、今の今まで、一度もなかったことを。
「そう、思い始めた頃に、ね」
出会ったんだ――ぽつり、呟いた彼の声はひどく掠れていました。
驚きました。影が差していたはずの両の目にふたたび強い光が灯り、こちらを刺したのです。力いっぱい見開かれたそこに映し出されているのは、僕の姿だけではありません。
ここにはいない彼の人も一緒に思い描いているのでしょうが、爛々と輝きを増し、挙句、血走り始めてさえいる様は、緩んだ口元と合わさり、もはや狂気です。
抑え込むことができないほどの興奮に、恍惚とした色が全身から滲んでいるようで、僕は無意識のうちに唾を飲み込んでしまいました。妙な凄みに気圧されたのです。
「な、何に出会ったんだい?」
「運命を変える本だよ」
「本?」
全くもって浮かびもしなかった答えに、僕は考える間もなく聞き返してしまいました。
と、彼の腕(もしくは足)にあたるに違いない四隅が、激しく羽ばたいたではありませんか。頷いているのです。
「そう。本当にあったサクセス・ストーリっていう本の一遍なんだ」
あまりに胡散臭い題名に、僕は掛ける言葉を失いました。
「小生意気だけれど、なかなか賢い魔女が、えっ? いや、あっちから勝手に寄って来たんだ、僕からは話しかけてないよ、たぶん奥様の知り合いだと思う。うん、そう。その人が教えてくれたんだ。本当僕の求めている通りで驚いたよ!」
「僕が欲しがっていたものを、あんな小娘に見透かされていたのは正直腹立たしい、でも凄いんだ、凄いんだよ。カエルが、醜いカエルが、人間へと生まれ変わったんだ」
「ねぇ、ヒツジ君。方法はなんだと思う? キス、だよ。キス!」
「ああ、分かるよ、あまりに美味しい話だから、僕も最初は疑ったよ。変身するためにどんな恐ろしい仕打ちを受けるのか、考えを巡らせただけで冷や汗が出てさ、もう、大事な羽毛がぐしょぐしょになっちゃって」
「ただね。こっちからではなくて、心を通わせた相手から受け取る必要があるみたいなんだ」
「しかも、今日が最高のタイミングらしくて、だから……その、試す、いや、絶対叶えたくて」
「違う! 確かに彼女の唇が、ぼ、僕の身体に触れるなんて日常茶飯事だよ。でも、それじゃ駄目なんだ。彼女自身が僕を変えてあげたいって気持ちか、愛する心を持って口づけてもらわないと、掛からない魔法だって何度も言われてっ、あっ、ぐっ……げほっ!」
尋ねる僕の言葉を矢継ぎ早に遮って。一人、一気に捲し立てた隙に、毛羽立った羽毛を、本来いるべきブロックとは別なブロックに詰まらせてしまったようです。大げさなほどに、その身をくの字に折り曲げて彼は咳き込みました。
軟く頼りない身体を震わせるたび、目の縁いっぱいに滲んでいた涙が耐え切れずにぽろぽろと、彼自身に向かって落ちていきます。一際、大きな空気の塊を吐き出したことで、やっと楽になったらしく顔を上げました。
と、
「ずいぶん、小さくなったね」
急に現実(こちら)へと戻ってきた彼が、僕を見るなり言いました。
「……まあ、ね。今夜は眠れないモノが多いみたいだ」
せっせと僕を数えては、眠りの精を何匹も呼んでいるよ。
大きく顎を反らせて彼に視線を合わせつつ、僕は答えました。もはや、ずっしりと構えそびえ立つ立派な壁です。越えることなど、到底出来やしない高さです。突っ立てた柵の外側から、しげしげと覗きこんで来る巨大な二つの目玉。もちろん、見知っている目だとは言え、少なからず恐怖を感じます、が、潤んだ瞳の表面はやけにつるりとしていて、綺麗だなと思ってしまうあたり、自分でも自分が滑稽です。
「なあ。小さくなりすぎてこの場から消えてしまう、なんてことはないのかい?」
「さあ? 眠りに落ちたモノの傍からはすぐに引き上げてくるから、どんなに忙しくても毛の一欠片ぐらいは残るんじゃないか、と思っているよ」
「……あやふやだな」
どうも納得がいかないと、彼は何度も目を細めました。自分だって言わば喋る布切れのくせに、そんなことはすっかり忘れているようです。
「そんな存在が、僕だからね。一体いつからこんなことしているのか、誰よりも先に僕が聞きたいよ」
わざと不機嫌さを装って腕を組んで見上げれば、気のいい彼は、いとも簡単に慌て出してしまいました。
「ごめんよ」
と、それは、それは見事な八の字を描く眉を張り付けては、枕ほどの大きさしかなくなった自分に何度も謝ってくれるので、たまらず、
「すまない、気にしないでくれ」
僕も謝ってしまいました。居心地が悪くなったのです。
「でも」
「いいんだ。本当に。それよりもさ」
僕の不自然な態度が腑に落ちなかったらしく、彼は喰い下がってきました。
後ろめたさから引き攣る頬に苦労しつつも。どうにか笑みらしい形を(仕事柄、笑顔は得意なのです)浮かべながら、僕へと逸れてしまった話を、元に戻そうとした、その矢先でした。
小さな叫び声とともに、フトン君が背を向けたのです。とたん、強く吹き抜けた風が僕の厚ぼったい毛を容赦なく乱しました。見えぬ空気の流れに潰され詰まる息。危険だと苦しがった鼻が、喉が奇妙すぎる音を吐き出しました。無理です、止められません。
「ぐ、うへっ」
「あっ! ご、ごめん」
一息つき間もなく、正面へと向き直られたことで、またも風が起こります。
防ぎ切れず、さらに乱れ狂った毛に僕の視界は消えました。
「ひ、ヒツジ君!」
「大丈夫だから。次からはゆっくり頼むよ」
ああ、いちいち小さくなるのも考えものです。もう少し軽ければ、身体ごと攫われてしまうかもしれなかったのです。
「で、どうしたんだい?」
目に覆い被さった毛の塊を払いのけ、視線を投げると、どこか緊張した面持ちで彼は口を開きました。
「眠るみたいだ」
なんと、恋しい彼女が、彼の本来居るべき場所へと向かっているようです。
「あの、その、僕は」
どうしたらよいかと、急にそわそわとし始めました。いまさらです。
「なに、面と向かって言えないのならば、彼女の夢に入ればいいじゃないか。ここに訳なく入って来られる君だもの、失敗することは、まずないよ」
柔らかくも真剣に語りかけてみたならば、案外思いが通じるかもしれない。そこで本題を伝え、協力してもらえばいい。
中には仲が良いからこそ踏み込みにくい事柄もあると聞きます、されど
「時には、積極的にならなくちゃ。押すことは得意だろう?」
茶化すように笑いかければ、いくぶん彼の表情も緩みました。
「そうするよ。ありがとう」
良い結果を報告しに来るからね。
開かれたドアの隙間、急いたように消えていく厚みのある白を目の端で見送った僕は、改めて、残りの仕事に意識を向けました。
月が昇り切っています。僕も彼も。これからが、本番なのです。
***
うっすらと力を取り戻し始めた暖色が、薄まり始めた群青の切れ間から幾筋も差し込み始めたころ、呼ばれていたはずだった名も知らない誰かの「現と夢の入口」から、僕は弾き出されました。
右も左も分からない、唐突に現れた真っ暗闇にどっぷり全身を飲み込まれた、そう思った瞬間には、もう、真っ白な自分の部屋に立っている――仕事の終わりは、いつも不意打ち唐突です。
これから先の時間に働く「睡眠導入係」は、新たなヒツジ(あるいは他の誰か)へと滞りなく引き継がれているのかもしれませんが、知る術はありません。
なんにせよ、日が落ちるまでは自由時間です。今日はなかなかに飛び回りました。不思議と嫌ではない疲労感が全身を包みます。
さて、一旦はひと眠りしようかと大きく伸びをした、まさにその時でした。
出入り口のドアが開いたのです。
こんな朝早くに一体誰が?
蝶番の軋む音に、慌てて振り向いた僕は、
「えっ……?」
自分の目が急に信じられなくなりました。
我が物顔で白い床を踏み締める、黒く細い足。気だるげに揺れる長い尻尾が追いかけては壁をなぞります。
なぜ、ここにいるのか。
後ろから白い影がくっついて来ているのではないかと思いましたが、一向にそんな気配はやって来ません。
「……君も、フトン君と同じなの?」
現(うつつ)を混ぜた夢の尾を渡って来なければ、この場に辿り着くことはできません。
道となる材料が極端に少ないわけではありません。現と混ざってしまった夢自体は、ぽつぽつ至る所で生まれています。
しかしながら、現実と夢は隔ててあることが本来の姿であり、余計な混合、深入りは命をも脅かします。
生きているモノはなにかと死を遠ざけます。身近であることを認識しつつも、上手に頭の中から消すのです。
多くの生者が持ち得る「生きる」ための「危険を避ける」という無意識によって、固く包み隠されているその道は、確かにあったとしても見出すのがとても困難なのです。
眠りと密接に関係するフトン君ならば、と納得していましたが、まさか。
「眩しくはなかったのかい?」
夢は灯火です。膜の内、閉じ込められたとしても、彼らの芯は衰えていません。限られた空間で密着しているからこそ明るさが増します。
君らの瞳は光に敏感だと聞くよ?
しかし。上辺ばかりの心遣いであると透けてしまっていたのでしょうか。僕の問い掛けすべてを綺麗に無視して、無言でこちらへと駆け寄ってきました。首に巻かれた赤い輪にぶら下がる小振りな鈴が、朝を迎え入れ始めた部屋の中、不気味に鳴り響きます。
逃げる間はありませんでした。十歩もない距離です。
あっという間に間は埋まり、気が付けば、向かい合っていました。腰を下ろし、整然と両足を揃えて見上げてくる彼女の表情は無に近くてよく分かりません。
さすがに。自分自身が好いている相手の表情の読み方など、フトン君も教えてはくれませんでした。
ただ、少々強すぎる視線に内心寒気を感じつつ、丁寧に僕は切り出しました。粗い波風を嫌う「穏やかさ」だけが取り柄なのです。
「初めまして。と言いたいところだけれど、僕は君を間接的にはよく知っているし、君もここがどこか知っているね。お一人みたいだが、さて。何の用だろう?」
わざわざ訪ねてきた理由をどうか教えてはくれないかい?
腰を曲げて、なるべく目線も下げました。
それなのに。
聞いているのか、いないのか。彼女は何も言いません。動きません。
「? 寝ぼけてやって来たなんて」
言わないよね? そう、投げかけるつもりが。
――唖然としました。驚き過ぎると声が出なくなるとは、どうやら本当のことのようです。
僕が一度瞬いた間に。小さな獣だったはずの彼女が人の姿となったのです。
シンプルな黒いノースリーブを纏った少女、その首元で揺れる鈴と濃い緑の光彩が、目の前で起きた光景は決して見間違いなんかではないことを、痛いくらいに告げてきます。
ありえません。いとも容易く形を捨てたのです。
強く背筋を走った得体の知れない気持ち悪さに、たまらず僕は後ずさりました。
その分だけ。黒髪を柔らかく揺らし、その人は間を詰めてきます。縮まらない一定の距離。今までの乏しさが嘘だったのかと見間違うほどに、弧を描く口元がどうしようもなく嘘っぽく見えて、僕は唾を飲みました。
「……もしかして、き、君がフトン君の話していた魔女なのか?」
本性を隠し、日々彼を欺いているのか、と。恐る恐る絞り出した僕の問いに、ぴたり、彼女の歩みが止まりました。
ほんの一瞬のことでした。思案するような顔つきから一変、さも「可笑しい」と言いたげな笑みが、どこかまだ幼げな顔全体に広がったのです。
そして、冷やかな色を纏った目で僕を刺しながら、透けるほどに白い指先で交互に自身の唇と喉元を指差すと、その首を横に軽く振りました。「喋れない」のだと示しているようです。
しかし。
物語を読み聞かせたのではなく、差し出しただけに過ぎないかもしれないし、そもそも、この行動自体が演技なのかもしれません。
なにかと物珍しすぎる彼です。その実態を知識として変換することは、「理」と「混沌」を愛するという彼女らにとって、とても有意義なことなのでしょう。
恋焦がれる相手が猫ではなく、まさかの人でさらに魔女だったとしても、すでに手遅れぎみな彼の目です。あっけないほど容易くは覚めないかもしれません。が、見知った人物を実験体にされては、困ります。知らぬ振りでは、さすがに寝起きが悪そうです。
じわり、じわりと追い詰められ、取り返しがつかなくなってからでは遅いだろう、と。
数少ない友のために意を決し、問い詰めようと前に出て彼女に手を伸ばした僕でした、が――。
「うわっ」
逆に掴まれてしまった右腕を、思いっきり前へと引っ張られたのです。さらにもう一歩踏み出そうとしていた僕は、あっけないほどバランスを崩してしまいました。咄嗟にぶつかることを避けようと身体を逸らしたのに、今度はネクタイを掴まれ、引き戻されて。
見開いた僕の瞳の中、きゅっと目尻の上がった勝気な緑の目が、楽しげに狭まりました。
そして、なんと。
瑞々しく艶やかな赤で彩られた彼女の唇と、ふかふかの白い巻き毛にたっぷり覆われた僕の唇が重なったのです。
「なっ、なにを!」
あまりにも突拍子すぎる出来事の連続に、驚き、混乱した僕は腰を抜かしてしまいました。足にばかり気を取られすぎていたのです。僕を見下ろす目を指差し、どうにか口を開くも、言葉にならない音ばかりが落ちていきます。
何をしたのか。何がしたいのか。相手が間違っているよ。いやいや、違う。そうじゃない。
言いたいことも言えず、開いて閉じては余計な空気を取り入れているだけの僕を一瞥して、彼女は背を向けました。
「ちょ、ちょっと待って!」
首を振って体勢を立ち直したときには、もう、彼女は扉の前でした。
ちらり。
一度だけこちらを振り返り、ひどく意地の悪い顔をしたかと思えば。
光も音もなく元の小さな姿へと戻り、ドアの隙間、吸い込まれるように消えてしまいました。
静かに佇むドアは役目を終えたとでも言いたげに、朝日を浴びています。
まるで、嵐です。
たった数秒、それでも唸りを上げる暴風で僕の思考回路をめちゃくちゃにしていったのです。浅はかにも夢だと思っても、はっきりと残された感触に嫌でも意識が持っていかれてしまって、駄目でした。
消し去りたい。
自分以外の熱を持ってしまった唇に――触れようと伸ばした指先の、その見た目に愕然としました。
震え始めた身体で奥の風呂場へと掛け込み、僕は洗面台に嵌め込まれた鏡と向き合いました。曇りないその面に映り込む、青ざめた――
「そ、そんな」
幾度見直しても変わりません。
鏡の中の見知らぬ男も同じように、額から大粒の汗を流しているのです。
近付いても、遠くから眺めても。決して消えることなく、そいつは僕と同じ動きを繰り返します。
――良い結果を報告しに来るからね。
思い出したくもないのに。頼もしげに部屋を去っていた友人の姿が、ありありと浮かび上がっては、目の前をちらつきました。
彼が尋ねてきてしまう前に、この悪い夢の副作用は醒めるのでしょうか。今宵の僕は軽々と柵を飛び越えることができるのでしょうか。
二重の秘密と不安を抱えることとなった僕は。
じわじわと鈍く痛み始めた頭を抱えて、止めどない溜め息を吐くことしかできませんでした。
***
***
様々な大きさの灯火が、重なり、混ざり合うように漂っては、辺り一面を眩いほどに照らし出します。
燃える光に染め上げられる砂浜によく似た地面、その柔らかい橙色は消して落ちることのない夕陽です。
現の混じった夢の尾――穴倉みたく半円を描いたその道の上を、一匹の黒猫が歩いていました。
軽やかな足取りに、ピンっと上に伸び上がった尻尾。隠しきれない上機嫌さを滲ませつつ、その子は歩を進めて行きます。
と。その目の前を、じゅっ、と小さな音を立てて、一つの灯火が消えました。
終わりを迎える時は、自らその身を走らせ、白い靄で作られた膜の外を流れる「現」の奔流に飛び込んでいくようです。
青白い煌めきを纏った黒い流れへ、一筋の光が迷いもなく消えて行く様子を。
立ち止まり、しげしげと眺め見ていた黒猫は、ふと、後ろを振り向きました。
進んだ距離からしても。先ほど潜った白い扉は、視界の端でさえ捕らえることはもうありません。
しかし。なにかを見透かすように、丸みを帯びていた緑色の目が薄く細まりました。
自分の身に起きたことを、まだ、慌てふためいているかしら?
とたん。うっすらと持ち上がった口の端を、ちらり、赤い舌が躍りました。
まさに――笑っているようです。
アイツに夢を渡らせるなんて。私の大事な睡眠時間がどれだけ削られたか。
せいぜい二人で、気まずくなってしまえばいい。
厄介な知恵を教え込んだ、大馬鹿野郎には最高の仕置きだわ。
ああ。早く帰って、眠りたい。
気を抜くと、またも漏れ出そうになる欠伸を噛み殺して、ふたたび、黒猫は歩き出しました。
ひと眠りしたら、今度は魔女(あの子)への仕返しを考えなくては。
迫りくる眠気とはまた別に。ふつふつと湧き立ち始めた、新たな「楽しみ」は、彼女の瞳をより一層輝かせました。
そして。
「僕の毛、僕の巻き毛……」
まさか自分が、思いがけない怒りを買っていたことなど。
部屋の中で独りもんもんと沈み込む哀れな羊には、もちろん知る由もありませんでした。
頭を抱えた羊