食べちゃいたいほど愛してたので食べてみたら(原稿用紙29枚)

 男は時計を見た。午前3時42分。液晶のバックライトの緑が目に染みる。
 目を閉じると涙がわいてくる。頭が余計に冴えて眠れなくなる。
 最近ずっとこんな調子だ、と男は考える。しかし実際のところ、少なくとも数年来はこんな調子だった。最近どころの話ではなかった。
 とはいえ男が「最近」と思ったのには理由がある。
 というのも、男が恋人を食べたのは4日前のことだからだ。

 食べた、というのは比喩ではない。文字通り男は恋人を食べた。
 男は少し特殊な体質だった。人よりも大きく口を開けられたし、人よりも食道の伸縮がゆたかだった。だから食べようと思えば何でも食べられた。
 何でも食べられる男は、4日前に恋人を食べた。一口で丸飲みだった。
 なぜ恋人を食べたのか。そこにきっかけらしいきっかけはなかった。ただ、恋人の寝顔を見ていて、無性に食べなくてはすまない気持ちになった。我を忘れて、気がつけば大きく口を開けて、恋人を丸飲みにしていた。
 腹の減らない4日間、男はひたすらじっとしていた。
 カーテンを閉め切って、壁にもたれてベッドに座っていた。昼が来たのか夜が来たのかもわからなかった。

 午前3時43分41秒を時計が示したとき、男は胃のあたりがぴくんとうごめくのを感じた。空腹の兆しだった。恋人はおおかた消化されたのだ。
 このまま朝になれば、その頃には腹も減っているだろうな、と男は思った。空腹で眠れないだろうから今夜は徹夜だ、とも思った。
 なんで食べたりしたんだろう、と男はいまさらになって悔やんだ。
 後悔ばかりが募った。男はかれこれ38時間目覚めっぱなしだった。

 いつの間にか眠っていたらしい。
 目が覚めると昼過ぎだった。腹が派手に鳴った。
コンビニかなにかで食べ物を買おうと、男は家を出た。実に4日と半日ぶりだった。
 男が恋人と住んでいたのは、マンションの6階だった。エレベーターに乗り、下に降りていく。途中で名前も知らない女とすれ違った。
 マンションを出る直前、男はエントランスの郵便受けのほうに目をやっている自分に気がついた。
 男はふだん郵便受けなど見なかった。見ても仕方ないと思っていたからだ。何かあるかと思って見てみれば、ピザ屋のチラシやらマンションの買い手募集やら新聞の勧誘やら、くだらないものばっかりが詰めこまれていてうんざりするのだ。
 しかしそのときだけは郵便受けをのぞく気になった。
 ナンバーロックの数字をかろうじて思い出し、郵便受けを開けてみる。4日分の郵便物がごっそり入っていた。
 1枚1枚、内容を確認していく。不動産屋のチラシは見るなり捨てた。
 宅配ピザのメニュー表が一枚入っていた。ふと目が留まって、男はメニュー表をじっくり見た。
 ピザの写真は、どれもずるいくらいにおいしそうに写っていた。男は宅配されてくるピザの匂いを思い出した。ピザの入った薄いボール紙の、わくわくするぬくみを思い出した。
 恋人はピザが好きだった。誕生日やクリスマスは必ずピザだった。それ以外の日でも、思いついたように「今日はピザがいい!」と言うことがあった。ピザを注文した日の恋人は、子どものようなはしゃぎようだった。
 別に男はとりたててピザが好きなわけではなかった。でも、宅配ピザを頼んだときにはやっぱり内心わくわくしたし、はしゃいでピザを待つ恋人を見ていると、子どものときに誰かと一緒になって何かを待ちわびたときの気持ちの高ぶりを思い出した。
 ピザでも食べてみようか、と男は思った。メニュー表を右手に持ったまま、男はマンションを出ていった。

 マンションを出ると、日ざしがきつくて目がくらんだ。
 男は宅配ピザ屋まで歩くことにした。店頭で注文して店頭で受け取ったほうが安くなるからだ。
 チラシの地図を見ながら歩いていると、柴犬を連れたおばあさんが向かいからやってきた。男は犬をじっと見つめた。犬も男をじっと見つめた。
 男はその場に腰を下ろして、犬の頭にそっと手を乗せた。犬はしっぽを振って、男のうでに体をすりよせてきた。なんだか無性にかわいく思えて、男は犬の全身をわしわしとなでた。犬は舌を出して息をはずませた。
「犬がお好きなの?」
 おばあさんに声をかけられて、男は顔を上げた。
「いえ、そういうわけじゃ……なかったんですけど。」
 男が言うと、おばあさんは不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「でも、この子もずいぶん喜んでるわ。お兄さん、きっと犬に好かれるたちなのね。」
 どうなんでしょう、と男は笑った。そして恋人のことを思った。恋人は犬が好きだった。
「僕が好きな人が、犬好きだったんです。」
 男が言うと、そうなのねえ、とおばあさんはうなずいた。
「かわいい犬がいるとすぐに立ち止まるんです。飼い主さんの迷惑とか、僕のほうがむしろ気にしちゃって。……あ、ご迷惑じゃないですか。」
「いいえ、全然。」
 おばあさんはしわだらけの顔をにこにこさせた。
「こうして若い人に話しかけてもらったりすると、飼っていてよかったって思うわ。ねえ。」
 おばあさんは柴犬の頭をひとなでした。白くて水分のない小さな手だった。
「よくこの時間にお散歩なさってるんですか。」
 ええ、買い物がてらぐるっとね、とおばあさんは答えた。男はうなずいた。
 それからもう一度犬をくしゃくしゃとなでてから、男は辞去した。

 シーフードピザとコーラとポテトフライ。
30分ほど待つというので、男は外で時間を潰すことにした。
 ピザ屋を出てしばらく行くと、コンビニがあった。入って雑誌コーナーをながめた。「an・an」を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
「モテ美肌は内側から! 今スグ始めたい美肌のための七つの習慣」
 くだらないと思いながら、男はページに目を通した。
 夜更かしは肌の大敵、バランスのいい食生活。……恋人もしょっちゅう言っていた。
 ありがちなことしか書かれていないのに特集になっているのは、みんな読むわりにろくに実行しないからだろう。
 恋人もそうだった。美肌を気にするわりには日々忙しそうにしていた。アルバイトをし、あちこち旅行に行き、大学の自主ゼミの準備に追われていた。夜更かしもしょっちゅうだった。
 こしらえたにきびをたびたび嘆きながら、それでもあちこちを飛び回る恋人が、男にはまぶしく時に憎たらしかった。妬くのは醜いとは分かっていた。それでも、週に何日も家を空けられたときなどには、果たして自分は愛されているのかという思いが煮えくり返った。
 だから食べたんだな。最後まで醜いな、と男は思った。
 雑誌を戻し、ふと自分の頬にふれてみる。荒れているいない以前に、ひげの伸び具合がひどかった。

 一人で食べるピザは味気なかった。半分も食べないうちに胃がもたれた。
 その日は早く寝た。肌のことを気にしたつもりはなかったが、いつまでも起きていても仕方ないと思った。
 男は夢を見た。
 男は溺れかけていた。荒れた黒い海で、男は波にもまれていた。空は厚い雲におおわれていて、どこまでも終わりがなかった。
 もがきながら、男は自分が自分じゃないことに気がつく。いや、少しは自分なのだけれど、自分じゃないところがどこかある。
 そして、黒い海が自分であることにも思い至る。
 男は黒い海になって、自分であり自分でない誰かを溺れさせようと渦巻いている。
 狙いをさだめて、波をかぶせる。浮かんでいた頭が沈んでいく。
 そのとき、男はひらめく。溺れさせたのは自分であり、恋人だった。
 とたん、男は息ができなくなる。男でありその恋人である男は、息ができなくなった。……

 目を覚まして時計を見る。午前8時23分。
 嫌な夢の感触だけが、男の全身をとらえていた。

 男は一つはっきりとさとった。
「自分のなかには今、恋人の想念が残っている。」
 原因は分からなかった。
 心当たりがあるとすれば、丸飲みにしたとき、恋人が生きたままだったことくらいだった。もちろん、説明としてはかなりあやしい。丸飲みにしたからといって、心が乗り移る道理はない。
 しかしそうはいっても、恋人の想念ははっきりと男の中にある。
 男は歯を磨こうと洗面台の前に立った。2本並んだ歯ブラシの、青いほうを手にした。男のものだった。
 が、男はふと思いついて、もう1本のピンクの歯ブラシも手に取ってみた。
 すると、不思議なことに「恋人の歯ブラシを持っている」という感覚が男の心には起こらなかった。代わりに自然と湧き起こったのは、「自分の歯ブラシを持っている」という感覚だった。
 おそらく、恋人が自分のなかにいるからにちがいない。
 青いほうの歯ブラシで歯を磨き、顔を洗い、フルーツグラノーラに牛乳をかける。冷蔵庫に牛乳を戻すとき、ふと野菜ジュースのパックが目に入った。男は野菜ジュースも飲むことにした。

 男は街を歩いてみた。
 確かに、ふとしたときに、恋人が見ていたように物を見ている。
 なんだか面白いなあ、と思いながら、男は街を見回した。
 道端の草花や仲睦まじい親子連れに自然と目がいく。雑貨屋やインテリアショップをのぞいてしまう。犬がいれば立ち止まりたくなる。
 どれも自然な感情だった。男は感心せずにおれなかった。
「お前、こんなふうに物を見てたんだなあ。」
 男は独りごちた。

 ある日、男は一人の女友達に連絡を取った。学生時代、よく時間を一緒につぶして過ごしていた友達だった。もう就職していて、平日は忙しく働いていた。
 土曜日の午後にカフェで会うことになった。男は久しぶりに髭を剃り、比較的まともそうに見える服を選んで出かけた。
 電車で20分くらいの駅の前で待っていると、どんと肩を叩かれた。
「久しぶりじゃん! うわー、元気にしてた?」
「まあね。」
 男ははにかみながら言った。女友達は、髪を暗めに染めなおし、大人びた服装をしていた。
「なんか化粧濃くなった?」
 男が言うと、女友達は笑いながら、
「そうなのー、社会人になってから先輩に『あんた化粧薄すぎる!』ってすっごい言われて。」
 と言った。
「あんたは変わってないねー。その服、大学のときも着てたやつじゃん。」
「いいだろ別に。」
 男は笑った。
 近くのカフェに入って、窓際に席をとった。
「最近どうしてるの?」
 まあ別に普通だよ、と男は答えた。
「あいかわらずフリーター? 派遣とかもやってないの?」
「うん、週4くらいでコンビニやってる。」
 男は答えたが、そのコンビニのバイトも最近やめた。
「ほんとに大丈夫? 私ずっと心配してんだから。」
「ねー、俺もなんとかしなきゃって思ってる。」
 女友達はまったくだ、と言わんばかりにうなずいた。
「あんた、学生時代で止まってるんだもん。服装といい、雰囲気といい、ぜーんぶ。」
「そうかな。」
「そうだよ。なんか、タイムマシンに乗りそびれてここにいるみたいに見えるよ。」
 男は笑った。
「それはキツイな。」
 女友達は一口コーヒーをすすった。そして男の顔をしげしげと見た。
「そいえば、莉子ちゃんはどうしてる?」
 女友達は恋人のことをたずねた。
「それがさ。」
 男はちょっと口ごもってはにかんだ。
「あの、お前にだけ言うけど。」
「なに、別れたの?」
 男は首を横に振る。
「その……食べた。」
「は?」
 女友達は大声をあげた。
「本気で言ってんの?」
 男は黙ってうなずいた。女友達の表情がゆがんだ。
「食べたって……。」
 それきり女友達は黙りこんだ。男は手を色々な仕方でにぎったり、ストローの袋をいじったりしていた。
「それで、どうする気よ。」
 女友達は疲れ果てたように言った。
「警察とか、行く気はないんでしょ?」
「……そういうのは考えてなかったな。」
 女友達は何かを振り落とすように首を振った。
「あたしも別に、聞いたからってどうこうする気はないけどさ。」
 しばらくお互い何も言わなかった。
 先に男が口を開いた。
「食べてからさ、莉子の心で物が見えるんだよ。」
「え?」
「変な話なんだけど。嫌いだった犬が好きになったり、コンビニで気づいたら美容の雑誌とか立ち読みしてたり、あいつの気持ちが乗り移ったみたいなこと、しょっちゅうやっちゃうんだ。エビが嫌いだったのに、シーフードピザ注文して食べたりしたこともあったな。」
「……それ、心が乗り移ってるとか、そういう話?」
「かなあ、って。」
「バカみたい。」
 女友達は言った。
「はっきり言うな。」
「当たり前でしょ。そんなの、失ったあとで大切さに気づきましたー、みたいな勝手なおセンチにしか聞こえないわよ。自分でカノジョ食っといて、後になって勝手に感傷にひたって、そんなの食われた側の莉子ちゃんがいい迷惑じゃないの。」
「そんなことわかってるよ。」
 男は声を大きくした。そして、
「でも、ほんとの話なんだ。」
 と言った。
女友達はため息をついた。
「もしそうだとしても、あんたがやったことは、人殺しとおんなじよ。」
 男は何も言い返さなかった。

 夕方になる前に、男は女友達と別れた。
 別れ際に女友達は、
「せめて、莉子ちゃんの気持ちに死ぬほど耳傾けるくらいはしなさいよ。」
 と言った。ホームで女友達を見送りながら、男はその言葉を繰り返した。

 その日から、男はできるかぎり恋人の気持ちに注意を払いながら過ごした。
 朝起きて、男はまず、恋人の気持ちがどのように一日を過ごしたがっているかを感じとろうとした。感じとれる日もあれば、全く分からない日もあった。感じとれたときには、恋人は実にいろいろなことを考えていた。窓の外を見て、漠然と外に出たがっていたり、図書館に行きたがったり、特定の誰かと会いたがっていたり、実にさまざまだった。
 男は叶えられるかぎり、恋人がやりたいと思っていることを実現しようとした。男は本を読むのが好きではなかったが、恋人が読みたがっていれば読むようにした。人混みは苦手だったし、ひとりの人混みは余計に嫌いだったが、街に出て買い物にも行った。
 恋人がよく行こうとする店はだいたい決まっていた。男はたびたびそこに通い、恋人の気持ちにまかせてあれこれと服を見た。女性ものの服を真剣な顔で物色する男に、店員は初めけげんそうな顔をしていたが、やがて慣れたのか気にされなくなった。
 ときどきすごく気に入った品があると、恋人は衝動的に買おうとした。そういうとき、男は身体すらのっとられかけた。そのときにはさすがに気持ちを制して、男は体をひきずるように店を出た。
 恋人はメンズ向けのショップにもたびたび入りたがった。男としては抵抗なく入店できるからありがたかった。恋人は同じように服をながめ、ときどき体にあてがい、鏡に自分を映して姿を見た。もちろん、鏡に映っていたのは男なのだが。
 
 ときどき恋人は料理をしたがった。そういうとき、男はレシピをインターネットで調べ、材料をスーパーで買うと、恋人に身体をまかせて料理をさせた。
 他人の心が自分の体を操っているというのは、ひどく奇妙だった。しかも、男が少しでも動かそうとすれば、手も指もそのとおりに動いてしまう。素早い包丁さばきや豪快な鍋のふりかたを見ていて、男が変に恐怖心を起こすと、かえって手指がおかしく動いて、あやうくけがをしそうになったりする。
 まるで二人羽織りだ、と最初はおっかなびっくりだった男も、しだいに恋人に自然と体をまかせられるようになった。それどころか、動かされる自分の体を観察しながら、
「へえ、料理ってこうするとうまくいくものなのか。」
 と感心しさえしていた。

 しばらく経った土曜日、また男は女友達をカフェに呼び出した。
「なんか、あんた雰囲気変わったね。服も……それ買った?」
 女友達に言われて、ああ、これね、と男は言った。
「いや、莉子がしきりに買おう買おうって言うからさ、ちょっと買ってみた。結構あいつ、メンズの服屋とかにも入りたがるからさ。」
 女友達は微笑んだ。
「それ、莉子ちゃんがあんたに似合うからって選んでるんだよ。」
「え、そういうこと?」
「そういうことでしょ。」
「気づかなかったなあ。」
 男がそう言うと、なんで分かんないかなー、と女友達はあきれ顔で笑った。男も笑った。
「てかね、思ったんだけど、案外あいつ深くあれこれ考えてるわけじゃないんだなーって気づいた。いくら耳傾けても、一向にくよくよしたり悩んだりしないの。」
「ふうん。」
「なんか、旅行行きたいとか外歩きたいとか、そんなことばっかり考えてる。」
「誰だってそんなもんよ。」
「まさか。」
「ううん、そんなもん。」
 女友達はストローでアイスコーヒーをかきまぜた。
「考えてることなんてそんなもんなのに、いろんなことが邪魔して、みんな悩むのよ。」
「悩んでんの?」
「まあね。」
 女友達は笑った。

 帰り道に、男は本屋に立ち寄った。恋人が旅行ガイドの本をほしがったので、「地球の歩き方 ドイツ」を買った。
 家に帰って、ベッドに寝ころんでページを繰った。異国の風景に想像をめぐらして、男の気持ちは一ページごとにはずんだ。恋人も同じことを思っている、と男は思った。
「まるで二人ならんで読んでるみたいだ。」
 男はぽそっとつぶやいた。

 一週間後に誕生日をひかえた日、男は朝から街に出かけた。
 目を覚ましてすぐ、男の頭には「誕生日プレゼントを見に行く」という想念が、内側からノックするように響いていたからだ。
 その頃には男はよく分かっていた。恋人は男を思って実にさまざまなことを考えていたのだ。どんな服が似合うか、どうしたらおいしい料理を食べてもらえるか、どうしたら男が笑って過ごせるか……。
 男は浮足立った気持ちで家を出た。季節はもう秋の終わりだった。
 都心のデパートまで足を運んだ。恋人は誕生日プレゼントの候補としてマフラーを考えているようだった。
 なんだかサプライズを覗き見しているようで申し訳なくなるな、と男は苦笑いした。
 いくつかショップを見て回り、色や素材を確かめながら真剣にマフラーを見ていく。色はグレーを中心に考えているらしかった。初めは高そうなものばかり見ていたが、どれも値が張りすぎるのにげんなりしたのか、だんだん値段にはこだわらなくなった。
 別に値段はいいのに、と苦笑いしながら、男は嬉しかった。
 十数軒見て回っても、恋人は納得する品を見つけられなかったらしく、若干うんざりした気持ちが伝わってきた。男の足も疲れていた。コーヒースタンドに入り、甘いカフェラテを飲んだ。

 次の日、その次の日と、恋人が探そうとするものは二転三転した。
 腕時計ばかり見ていた日もあった。妙なオモシログッズばかり見ていたときもあった。使いそうにない万年筆やおしゃれなライターを見ていたこともあった。いずれにせよ恋人は真剣だった。
 都心の大型雑貨ショップを見て回りながら、男は恋人の誕生日のことを考えた。これだけ一生懸命祝われているんだから、同じようにして思いを伝えよう。家に置場なんかなさそうな大きな観葉植物の葉をなでながら、男は考えた。
 恋人の誕生日はだいたい2か月後だった。恋人が見てわかるように、手紙を書こうと思った。プレゼントは用意すべきか分からなかった。食べ物を味わえているのか、服にそでを通す感触はあるのか、ということは分からなかったからだ。
 一つ階を上がると、手芸用品のコーナーだった。恋人は気を惹かれたらしかった。
恋人に耳を傾けながら行くと、男の足は色とりどりの毛糸の玉の前で止まった。
「なるほど、ベタですなあ。」
 男は思わず笑った。恋人は真剣に色を選んでいる。グレーだけでも5種類近くあった。
 誕生日までは3日しかなかった。完成できるのかな、と男は毛玉を手に取りながら思った。しかも結局、毛糸を編むのは男の指なのだ。
 男は3色の毛玉を買った。暗めのグレーと紺と深緑だった。一歩歩くごとに、紙袋の中で毛玉はかさかさと音を立ててはずんだ。

 家に帰り、コンビニの弁当と野菜ジュースで夕飯を済ませると、男は毛糸を編みはじめた。編み方はインターネットで調べた。
 きちんと図の入ったサイトを見ながら始めたにもかかわらず、最初はなかなかうまくいかずに苦労した。というより、恋人が苦労していた。図のとおりにやろうとしてうまくいかずに何度もやり直した。どちらかというと、男はそれを見ながらひたすらやきもきした。
 それでも、30分もすると、指は規則的に動くようになり、編み目も整うようになった。
 地道な作業だった。本当に3日で使い物になるマフラーが出来てくれるだろうかと、ぎこちなく動く他人の指のような自分の指をながめた。
 途中で男はラジオをつけた。適当な音楽と適当なトークを、聞くともなく聞いた。ベッドに寝そべり、ひたすら指が動くにまかせた。
 23時くらいになると、男はだんだん眠くなった。せっせと動く指を見ながら、男は恋人に書く手紙に着いて考えた。食べたことを謝りたいな、と思った。謝って済む話じゃないのは分かりすぎるくらい分かっているつもりだった。

 気がつくと男は眠っていた。

 眠りについたときとほとんど同じ姿勢で、男は目を覚ました。カーテンごしに入ってくる外光はほのかにまぶしかった。指には毛糸が巻きついたままだった。
 毛糸を指から外し、男は体をのばした。ベッドから立ち上がってカーテンを開けた。薄い灰色の雲が高いところでどこまでも広がっていた。
 少しだけ窓を開けて風を入れたあと、洗面所で顔を洗った。水が冷たかった。昨晩みがき忘れた歯を磨き、口をすすいだ。
 同じ姿勢でずっと編み物をしていたせいか、背中やら腰やらがきしんだ感じがした。男は体をのばしたりひねったりしてから、ベッドにすとんと腰を下ろす。
「今日はこれの続きか。」
 毛糸を手に取り、指でもてあそんだ。
 そのときに気がついた。男の指は、はたと動きを止めた。
 恋人はもう男の中にはいなかった。
 男ははっきりと、恋人がいないことを理解していた。恋人が位置を占めていたスペースが、今やはっきりと空になっていた。男はその空白をなぞるようにして、恋人のことを思った。
 はじめて男は泣いた。静かに涙をこぼして泣いた。
 毛糸が光を浴びながら、流れるように毛玉までつづいていた。

食べちゃいたいほど愛してたので食べてみたら(原稿用紙29枚)

食べちゃいたいほど愛してたので食べてみたら(原稿用紙29枚)

恋人を食べちゃった男の人の話です。 食べちゃいたいほど愛してても、あんまり食べないほうがいいんじゃないかな、ということで。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-25

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