今は違う季節
遊ぶ事をメインにしたサークル活動で、僕は彼女と良き時代を過ごした。
日々を刹那に楽しんだあの頃。それは今思い返すと、真夏の灼熱の日々のように
若さを燃やしつくした季節でもあった。
人はそれを春に例える。また青い季節とも呼ぶ。でも今になって思い起こせば、それは春と言うよりは、夏のカルナバルのような、熱い季節だった気がする。それは熱狂のなかに過ぎ去った季節だった。
まだ二十歳を一つ二つ過ぎたばかりの頃、僕は長野のとある街で大学生をやっていた。
学生とは言ってもその実、生活費を稼ぐためのバイトに日々を費やして、その合い間にキャンパスに顔を出せば、教室や研究室でなくサークルの部室で過す時間のほうがずっと多いという、不真面目な学生だった。
サークルは音楽系のサークルで、部室には楽器も置いてあって、ギターを鳴らしていることが多かったが、本当のところ、部室で何人か揃うと、誰かのアパートで麻雀を打つか酒を飲むことの方がメインのサークルだった。
まあ、音楽サークルという看板を偽らない程度には音楽活動もやっていたし、新人もそれなりには楽器が上達し、人前での演奏の機会も作っていたので、名ばかりのサークルと云う訳でもなかった。
彼女は僕が四回生の時の新入生だった。
当時、音楽をやる新人は男ならギターが多かったし、女の子は小さい頃からピアノを習っていましたって言う娘が多かった。その中で彼女は珍しくギターとピアノの両方をそれなりに弾ける新入生だった。
でもそれよりも上級生が気に留めるのは、新人の女の子だったら、容姿と酒の飲み方だった。そのどちらも僕が彼女に合格点をつけたのは、言うまでも無い。まあどちらも好みの問題が大きいから、万人受けするとは言えなかった。
僕としては酒を飲む時も、ちょっとの酒で「私酔っちゃった・・・」という娘より、男たちと対等に飲み比べをするような娘が好みだっただけの話だ。
好みとはいえ、今ほどには男女の関係も簡単ではなかったし、その頃の僕には、サークル内に何年も付き合った同学年の彼女がいて、それが公認されていたのだからから、彼女を口説いたわけではない。
楽器を持ってセッションをしたり、暇な時にお茶をおごったり、車でどこかに走りに行ったりと、まあ妹のようなものだった。
それまでも新入生が入ってくるたびに、それぞれのメンバーにお気に入りが一人や二人出来て、派閥と言うわけではないがそれなりに固まるようになっていて、音楽を建前にしてバンドを組んだりしていたのだから、僕だけがそんなだったわけでもない。
音楽系の軟弱なサークルだったので、先輩後輩の差もあまり無かったし、男女の付き合いも当人同士の自由だったから、けっこうカップルが出来たり壊れたりしてもいた。
毎年新入生に手を出すようないい加減なヤツもいたが、そういうヤツの噂は誰かが新入生にすぐ情報として流すから、それなりにバランスは取れていた。
そんな男と女の話で言えば、彼女は僕から見てもかなり危なっかしい女だった。自分の彼女ではないにしても、それな りに可愛がっている娘だから、出来れば普通にまじめな男と付き合えば良いのにと思うのだが、彼女の好みなのか、好奇心なのか、あちらこちらで危なそうな男に引っかかりそうになる事が多かった。
そういうことに関しては僕としても、周りの男どもも、はっきりと「あいつは止めとけ」とは言わない。当事者でないのだからそこまでは踏み込まない。そんな風潮だった。
おそらく一方的に熱を上げた相手まで数えると片手くらいは居るだろう。「あの先輩かっこいい」ってみんなの居る前で宣言したことや、一緒に車でどこかに消えて二時間ほど帰って来なかった事とか、いろんな相手が居たはずだ。
そんな中で不思議と僕は彼女の一番近くに居ながら、そういう関係にはならなかった。
まるで兄のように彼女を見守って居ただけだった。
音楽面では真剣にいろんなパターンで組んだ。
アコースティックギター2本でデュオをやったり、彼女のヴォーカルに僕のギター1本で伴奏を付けたり、4,5人で僕がベース、彼女がキーボードでバンドを組んだりもした。
サークル内での即席バンドでは、上手い下手を言い始めると、初心者が浮いてしまうことがよくあるので、上手くバランスが取れるような組み合わせも考えて、くじ引きでメンバー編成をやったりもした。
もっともくじ引きというのは苦肉の策で、それ以前にサークル幹部の先輩達が裏で上手く糸を引いてグループを組ませるのが普通だった。そんな状況のなかで僕と彼女が組むように仕組むことは簡単だった。
彼女の音楽の好みや演奏に対する考え方が、僕と似ていたからだろう。そういう面では、とても息は会っていた。
音楽もまだ現在のように複雑になっていない頃だったが、どうしてもアマチュアのサークルではバンドの構成に限界がある。
ギターやピアノは大勢居るのだが、ドラムが居ないとか、きちんと唄えるヤツが居なくて、メンバーが持ち回りでヴォーカルをやるとか、レベルは低かった。ベースなども、人数のバランスが取れなくなると、ギター弾きがベースにまわるのが普通だった。
そもそも、聞いている曲と出来る曲の差が、大きかったのだ。
何時だったか、新人が曲を選ぶ時に、クイーンのボヘミアンラプソディを持ってきたことがあった。そいつはギター弾きで、このギターが弾きたいと言うのだ。もちろん周囲から一蹴された。お前が歌え!コーラスのメンバーも探して来い!と言われたのだ。
まだ流行り廃れが今ほどではなかったので、何年も前のフォークソングをやっても陳腐ではなかった。
だから陽水や拓郎、かぐや姫なんていうあたりから、ユーミン、オフコース、ふきのとうなど、何でもありだった。
かぐや姫のレパートリーは結構多かった。一般的に知られていた「神田川」「妹」などから「南風知らん顔」とか「おはようおやすみ日曜日」などアルバム内の知られざる名曲までさまざまあった。
その中で僕と彼女の共通のお気に入りは「今は違う季節」という曲だった。特別理由は無いが、「壊れた置時計」や「風を忘れた風鈴」などの言葉に、共鳴するところが有ったのだろう。
そういう学生生活を一年間過ごし、僕はキャンパスを離れた。彼女も進級してそれなりの学生生活を過ごしていたはずだ。
社会人になってからも僕は、OBとしてサークルには時々顔を出していた。
学生と社会人の差で一番大きかったのは収入の差だ。学生のバイトでは月に数万円を稼ぐのがやっとだ。家からの仕送りや奨学金などが有っても、やはり倹約を強いられる。
ところが、社会人になったとたんに、月に十数万の収入が入るようになったのだ。貯金や奨学金の返済に充てても、まだ多額の金が残る。
しかも会社勤めをしていると、ウイークディに金を使うような場面はあまり無い。朝、朝食を食べて出勤し、昼食を会社の社員食堂で食べ、帰宅して夕飯を食べる。午前と午後のお茶の時間に飲み物を買ってもたかが知れている。
機会を見つけてはサークルに顔を出し、後輩に奢った。もちろん彼女もそんな後輩の中の一人だった。
さまざまな新入生がサークルに入り、ある者は数か月で自然に足が遠退き、ある者はちょっとした事件をきっかけに退部したりと、顔ぶれも変化していった。
ちょっとした事件などと言っても、大抵は男女間の揉め事が多かった。
高校時代からのクラブ活動、特に体育会系のクラブの統制が取れた行動との差が大きいと、理想論を語った挙句、周囲から相手にされず消えて行く者も居た。
こういうサークルでは、自分がいつまで活動に参加するかは、それぞれ個人の判断になる。
体育系では定期的に試合や大会などが有るのだろうから、決まった大会に参加した後に、引退というケースが多いが、うちのサークルなどはあちらこちらで活動をしているから、本人が引退って言い出した時が、引退になる。
大学祭だったり、スプリングコンサートだったり時期はさまざまだ。
三年生になってすぐ、引退してしまうメンバーも居れば、四年生の大学祭まで残る者も居る。決まった時間に練習が有るわけでもなく、全員が揃うのは部会の時だけで、後は個人で好き勝手にやったり、何人かでグループを組んで集まったりするだけなので、問題は無いのだ。
中には引退ライヴを三回やったという強者の先輩も居た。この先輩は三年生になってすぐのスプリングコンサートで「もう引退する。」と宣言した後で、秋の大学祭でステージに出て、四年生になってからもさらに、サマーコンサートに出演した。
さすがに三度目には、後輩たちも「またか」という想いが有ったから、引退セレモニーもやらず「大学祭も出るんでしょう。」などと、からかい半分で声をかけただけだった。
彼女が引退したのはいつだったか、はっきりした記憶は無い。1、2年生の頃は頻繁にサークルに顔を出しても、その後は活動をペースダウンさせていき、フェードアウトするようなメンバーも多かったから、そんな形で姿を消して行ったのかもしれない。
イベントにエントリーをしなければ、「今回はパス」なのか「もう出ないよ」なのかも判らないままで、参加者が中心になって物事は進行してしまう。そうやって引退宣言をしないままで、卒業するメンバーも多かったのだ。
だがサークルの運営とは別に、人と人の付き合いは残る。声をかけて一緒に飲んだり、遊んだりもする。
僕もOBとして、それなりの情報源は持っていたから、後輩の動向も大まかには知っていた。
そんな後輩の一人から僕に連絡が入った。彼女が入院したというのだ。
卒業まで半年を残した夏の頃だった。僕は慌てて見舞いに行った。それまでも手紙や電話で、彼女とはやりとりしていたので、そんな事態になっているとは思っても居なかったのだ。
病室で退屈を持て余した彼女は、意外に元気そうな笑顔だった。免疫系が弱くなる病気だと言って、ベッドの頭部には除菌用の大きなエアフィルタを付けていたが、本人は別段、具合が悪そうな様子を見せなかった。
体のだるさは有るけれど、入院してベッドに押し込まれてる方が、退屈で苦痛だというようだった。
免疫系の病気だから、感染症を恐れて、必要最小限しかベッドから出られないという事で、気晴らしに病院内を散歩も出来ないと、笑いながら訴えた。
僕は閑を見つけては、病院に見舞った。手土産は本とカセットテープ。彼女の好みそうな小説を探し、好きな音楽をテープに編集しては持参した。
そうやって見舞いの為に私が彼女の居る街に通うようになっておよそ一年が過ぎた。
一時期は退院もして、自宅で療養していたのだが、病気には安静と滅菌を必要だった事から、再度入院したりもした。
その間に私は、初めての海外旅行に行ったり、そこで新たな恋人を作ったりもした。
旅行土産を持参して、その事を報告すると、我が事のように喜んでくれて、結婚するなら式には呼んでくれと言われた。もちろん私もそのつもりだった。
彼女を見舞うのは月に一、二度程度だったが、行く度に病室で何時間も話をして過ごした。時には彼女の家族が訪れる時も有ったが、自然に同席していた。顔を知った友人や、まったく私とは面識のない彼女の友人とも一緒になる事も有った。
ある日は彼女の父親が訪れたのだが、私たちの会話に加われず、五分ほどで帰ってしまった事も有った。後で家族に愚痴を言っていたと聞かされて、申し訳ない事をしたとは思ったが、それほどに会話する時間が楽しく貴重なものだったのだ。
就職先も決まって居たのだが、それも一年延期になった。採用試験には合格していたので、それが反故にされるわけでは無く、就職と同時に休職という扱いになるような話だった。
まあ、こうやって病院で治療をしているのだし、多少の時間はかかっても、いずれは回復して、社会人に成れるのだろうと思っていた。
卒業単位に不足は無かったし、卒論も提出できる程度の骨子は出来ているという話は聞いていたので、何も思い煩うような問題は無いものだと信じ切っていたのだ。
ところが、夏も過ぎ去った頃に、突然、後輩から連絡が入った。
彼女の訃報だった。
携帯も無い時代だったから、連絡も様々な処を経由して、僕に届いた時にはすでに葬儀も済んだ後だった。
僕は慌てて、後輩に道案内を頼み、彼女の実家に弔問に訪れた。
訪問前に、彼女とよく行っていた喫茶店に寄りその話をすると、マスターも訃報を知らなかったそうで、花を墓前に供えてくれるように私に託した。
花束を抱えて彼女の家を訪ねる。
まあ、そんな関係では無いにしろ、恥ずかしかったり照れくさかったりするはずのシュチエーションも、この時は悲しみの中で、そんな事を思う余裕も無かった。
それに、その花束を渡す相手は、黒枠の額の中なのだ。
花束を彼女の母親に手渡し、線香を立て、香典を供え、取り留めも無い思い出話をポツリポツリと話し、彼女の家を辞した。
「薬の副作用で髪が抜けるケースが多いと聞いたけれど、あの娘はそれが無くて、最後まで黒髪の姿を保っていた。」
などと、彼女の母親が涙をこらえながら話してくれる話に、ただ相槌を打つくらいしか出来なかったのだ。
残された者の喪失感は言葉で癒されるものでは無いだろうし、私自身も同じように喪失感を抱えていたのだから、母親の感情を宥める事が出来るはずも無かった。
その後、後輩の部屋で飲みながら、ひたすらTVゲームでの対戦をした。彼女の話題に触れると、言いようのない想いが零れ落ちて来てしまいそうで、二人とも何も語らなかった。
彼女に貸した本は、その時の私の一番のお気に入りだった本だが、彼女の母親はそれについてこう語った。
「本やテープや、誰に借りたのか本人でなければ判らない物が沢山有って困惑していますけど、もう全てお見舞いの品として墓前に供えてしまおうと思っています。」
その言葉を示すように、遺影の前には様々なものが供えてあった。
私の貸した本も、その中に見えたが、今さら
「あれは私が貸したものだから返してほしい。」
とは言えなかったし、言う気も無かった。
彼女はその本を読んでくれたのだろうか。
読んで同じような感想を持ってくれたのだろうか。
その本を貸した私の心情を受け止めてくれたのだろうか。
せめて、亡くなる前の一時でも、安らぎになれたのだろうか。
そんな事の方が、先に脳裏に浮かんだ。
今でも、古本屋などで同じ本を見かける事がある。手に取ろうか、買い求めてみようか、毎回そんな思いに囚われる。
だが、実際にはその本には手を触れず、心の中に思い描くだけなのだ。
その本に書かれたストーリーと、それを読んでいる彼女の姿を。
もう、何十年も昔の話だ。
その後、私も家庭を持ち、娘もすでに彼女が亡くなった歳ほどになっている。
特別な約束をしたわけでもなく、特別な関係でもなんでもなかったのだから、こだわりも後ろめたさも無い。
ただ、妹のように大事にしていた友人を一人、若くして失ったという、悲しい思い出だけだ。
もう、人生の冬の季節に差し掛かった私にとって、眩しすぎるほどの夏のような記憶が、懐かしく蘇るだけなのだ。
「なにもかもが昔、今は違う季節、そして僕の心も変わってしまった。」
という、あのメロディを聞くたびに。
今は違う季節
学生時代、特に大学時代というのは人生の中でも、最も自由な時間かもしれません。
まして、高校までを自宅で親と共に生活していて、大学で独り暮らしを始めた人にしてみれば
二十四時間が自由に使える時間ですから、その自由度は飛躍的です。
とある地方大学で学生生活を送った私にしてみれば、それは象徴的な「良き時代」でした。
でも、刹那的に過ごしたその日々の中にも、さまざまな出会いや別れ、愛情や葛藤なども存在したのです。
あくまでも小説ですからフィクションですが、その実、私小説でもあります。
こんな古き良き時代を記憶している人が、少しでも共感を覚えてくれたらありがたいです。
S大学の卒業生、サークル「Kの木」の皆さん、そして・・・このストーリーのヒロインK嬢に、
この文章を贈ります。
「君は若くして逝ってしまったけど、未だ君の存在した事を記憶に残しているヤツも居るんだよ。
安らかに眠れ。そして私がそちらの岸に行ったら、また会おう。」