A LOST SILENCE ―軽音―

辺りを見渡せば青々とした木々たちが、その存在を主張するかのように、逞しくそびえ立っている。夏も終わりを告げようとする8月の下旬にも関わらず、この茂みの中は結構涼しく、気持ちがいい。透き通る空気もまた、歩き疲れて荒々しくなった自分の呼吸をも吸収し、浄化してくれているようだ。この山の頂まで登りきろうと決意し、歩を進めて1時間半程度経つのだが、ぜぇぜぇと息を切らしているにも関わらず、気持ちはどこか晴れやかだ。こんな気持ちになるのは久しぶりだった。いっそ頂へと辿り着かず、このまま歩いていたいとさえ思えたのだ。ここでは都会の喧騒や忙殺した人の群れを忘れることができた。汗が伝っては、帽子を脱いでタオルで額の汗を拭った。薄ぐらいなか天を仰げば、枝葉の隙間から木漏れ日が射していた。
歩を進めて行くにつれて、目の前の微かな光りが広がっていくのを感じた。遠くに見てちた光りが眼前に広がる――。それは暗くて長いトンネルを抜ける時のような気分だった。木々の中を抜け出すと、一気に空から光りが射した。見上げると、青い空にモクモクとした夏らしい雲が浮かんでいる。それまでの草道から変わり、地面は土の色を主張していた。終わったんだ、そう思うと、身体全体の力が抜け、代わりに充実感で満たされた。目の前には公園の広場のような、休憩するには充分の広いスペースがあった。広場で休憩している登山客がそれぞれ達成感に満ちた顔で休憩していたが、休むよりも先にここからの景色を見たい、という自分の好奇心に従って、同じような気持ちで集まってる人だかりを発見しては、すぐに山頂から辺りを見渡そうとした。
眼前には小さな家で形成された、小さな街が広がっていた。小さな街、という表現は適切ではないかもしれない。なぜなら、この街自体はたくさんの家があり、店があり、学校、病院、公園、様々な施設が多数存在していて、充実しているからだ。単に広さを言っても、特別狭くはない。だが、その街の全体がこの視界に全て収まっていた。それはこの頂まで辿り着いた者だけが目にすることのできる景色なのである。優越感など欠片も感じることはなかった。その代わりに達成感に溢れた気がした。心の隙間を広げると同時に――。

第1話

「んー」
手を後ろに伸ばし背筋を反らすようにして伸びをしている浅木賢吾が唸る。たった今授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったところである。大学の授業の大半は高校の授業と違って楽であった。居眠りしても怒られなければ、スマホをいじっていようと咎めようとする人などいない。教授が嫌いなのは、まともに自分の話を聞こうとしない私語の多い教室なのだ。それは賢吾にとっては都合の良いことだった。賢吾は教授の話に飽きては居眠りしていた。
授業も終わり、帰ろうと立ち上がったときに、よく知っている顔が目に入った。
「あ、賢吾」
賢吾の友人の高田弘輝も同時に友人に気づいた。
「次授業ここ?」
「そうだよ。お前もう終わり?いいなぁ。」
弘輝が羨ましいといった調子でぼやいた。弘輝は「じゃあ」というと、一緒に来た友人と座る席を探し始めた。

弘輝は賢吾にとって、大学の中では数少ない、気の許せる友人だ。賢吾は口数が多い訳でもなく、友達を楽しませようとはしゃぐこともなければ、「趣味は何?」と聞かれても「何もない」としか応えない。入学して早々、勇気を持って話しかけた人も賢吾のあまりに素っ気ない対応にガックリしてしまうのであるが、賢吾にとって、趣味とか好きなものというのはパッと思い付くものではないのである。受験から解放され、友達作りに励もうとする人や、浮かれ気分の学生が多い中、淡々とした対応をしてしまう賢吾は、話したところでつまらないと思われがちなのであった。そんな状況の中でも、会うと必ず弘樹は「おはよう」だとか「うーっす」だとか明るい声のトーンで挨拶してきた。始めはぎこちなく接していた賢吾も、今は弘樹の明るさに安心感を覚えたりするのであった。

学校を出ると、暑いながら真夏とは違った爽やかな風を感じ、賢吾は思わず目をつぶった。この学校がある京都という町の夏は非常の暑かったが、東京のアスファルトから放つ痛々しい熱気と照りつける光熱に比べれば苦痛に感じることはなかった。本格的に秋になれば、紅葉が古都の町を鮮やかな色に染めるのだろうと思うと、思わず胸が弾む。写真で見た秋の清水寺や哲学の道も綺麗に紅葉で染まって感激したものだが、実際に目にするその景色はさぞ美しかろう。賢吾はそんなことを思いながら自転車に跨がった。自転車を漕ぎ始めた頃には「これからバイト」という現実に気持ちが引き戻され、自然に溜め息が漏れたが、全ては初秋の風に吸い込まれた。


賢吾が自転車を漕いでいると、前から大学生と思われる男が学校の方へ向かって自転車を漕いでいた。男の背中に抱えていた縦長の黒い荷物を見て、賢吾はその男が軽音部の人間であることが推測できたのは、高校のときに似たような鞄にギターを入れて毎日通学していた友人の姿を追憶したからだ。4限が終わり、もう5限も間に合わないであろう時間に学校へ行くことを不思議に思ったが、賢吾は思考をやめ、気に止めずにそのまま2人はすれ違った。
この男の名は矢田瀬遥。勿論、このとき互いが各々の名を知ってるはずもない――。

次の日もいつも通り賢吾は自転車に乗って学校へ行っていた。自転車置き場から出てくると、学校の北門の周辺で数人の学生が何かを配っていた。近づくと軽音サークルのライブを告知するビラであることがわかった。
「あ、浅木くん?」
急に名字を呼ばれて驚いた賢吾が声の方へ振り返った。
「えっと…、あぁ。南さん」
賢吾が返答した相手は南春香という女性だ。現在は夏休みの後期授業が始まっているが、前期のときにクラスが一緒であった。しかし、弘樹とは違いほとんど会話することもなかったので、今話しかけられたときも一瞬名前が頭に浮かばなかったのだ。賢吾はそのことを少し申し訳なく思った。
「南さん軽音やってるんだ、知らなかったなぁ」
「そうだよ。あのね、今度うちのサークル学内でライブするんだ。時間があいてたら是非来てね。私も出演するんだぁ」
そう楽しそうに言った言葉の語尾は常に上げ調子だった。ぱっつん髪を揺らし、女性というよりは女の子という表現が適切だと思うほど、幼く無邪気な笑顔であった。賢吾は思わずどきっとして、その瞬間、会話の内容がすっかり頭から飛んでいた。
春香が差し出したビラを受け取って、紙面を眺めた。
「何の楽器やってるの?」
「キーボードだよ」
春香はにこやかに応えた。肩にぎりぎりかかる程度の長さの髪を揺らしながら、指を巧みに動かし、楽しげに演奏している春香の姿を賢吾は想像した。
「そうなんだ。授業もバイトもなかったら行くことにするよ」
賢吾がそう言うと、春香は嬉しそうににっと笑った。

A LOST SILENCE ―軽音―

A LOST SILENCE ―軽音―

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-24

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