practice(100)






 冷たい水の,取り替えられたときから置かれるその場所は開け放たれた木枠の上で,言い換えれば何かの拍子に青い空の外へと,あるいは微睡む部屋の中へとがしゃんと傾きかねない。けれどこちらは単に閉じ忘れた,壁に面するベッドの頭上に心地良さげな風を送り込む四角い小枠に語られて,オレンジのカーテンと気楽に扱われる。その「心配性」,という言葉は辞書にきちんと載っていて,捲りながらでも,一杯なんて飲めればいい。と語られる間もないまま,伸ばせない皺くちゃのシーツはそのままにするしかない。撃退するみたいに蹴っ飛ばされた,タオルケットは冷えの悪い冷蔵庫の前から無事に救出できたのを良しとする,物分りのいいジグソーパズルの『娘』は額縁に収まってるのも有難いと思える。そこから広げ直して,掛け直すコツ。ひと一人分で,足を伸ばすには絶好のポジションとばかりに,張り替え前のところとベッドの隙間に挟まっているのは元気な証拠と見るべきか。子供も大人も関係ない,ということは多いに違いないけれど,元気過ぎるというものまた,同じことだと思われるのだ。日焼けが目立つ,白い壁とクリーム色のサンドイッチに朝食の時間を加えて,時計は無事に時刻を指す。重要なものに構うのだ,と思うとどれも重要に思えてくる。それはとても良いことであると,天井に届きそうな背の高い頭を誰かが撫でて欲しい。
 お湯は湧きそうにないのだ。冷たい水を用意して,コップを並べて準備する。
 書類と付箋紙に順番を付けて,持ち手付きの鞄の中で仕切りごとに振り分ける。取り出しやすいように,しかし確実に持っていける程にパンパンに詰め込んで,抜かりはない。はず,と確認をしようと思い始めたところでトースターの焦げ目は付く。行方不明になりやすかったバターナイフは興味を失くした彼女が無事に彼を所定の場所に返してくれたから,すぐに見つかった。半分を切った長方形のバターの塊の一角を切り崩し,食べれればいいぐらいに塗り込んで,口に頬張るひとくち目,咀嚼には時間がかかるタイプであると自認しているのに,ダイヤル式の我が家を鳴らすのは誰なのか。もぐもぐと近寄りつつ,昨日から歩いたままの不揃いなスリッパに躓いたのは僕だけの秘密にして受話器を取った。「ハロー。」と相手に言えるぐらいの,余裕は口の中に作っていた。
「ハイ,準備出来た?」
 と聞くのが妻である。言いたいことは山ほどあった。そのために急いで飲み込んだものも大きかった。
「電話で確認する,ということは君は準備完了でないことを予測しているね?」
「ええ,その通りよ。」
 実に素直な妻である。だから彼女とは馬が合わない。
「それをこうして確認する,というのは時間の無駄だとは思わないかい?」
「ええ,そうね。でも,確認はしたいじゃない?」
「準備する時間を割いてでもかい?」
「だから早く準備してね,って催促も出来るし。ね,都合がいいでしょ?」
 言葉を無くしそうな勢いのため息は,ふた口目の炭水化物でどうにか押し留めたけれども,受話器を持つ気持ちがシャツに手をかけ,トランクケースの上で折り畳みを始めたので,「じゃあ。」と言って切るつもりだった。それを押し留める彼女の声が聞こえても。でも,切実なトーンは息を飲んで聞こえるものだ。「あ,」と途切れるときの彼女はそこに気持ちを置きすぎている。
「なんだい?」
「うん,」
「なに?」
 と待つ彼女。僕はパンを持っている。
「あの子は?」
 その質問に添えられることは,僕の方で決めて答えた。
「元気に寝てる。それで,今日会うことも知ってるいるよ。」
「あなたが話したの?」
「ああ,僕が話した。」
「それで?」
「彼女の反応かい?」
 と聞けるのは,僕である。僕は彼女の反応を待った。
「ええ。」
 と言い,「それで?」と彼女は同じことを聞いた。
「大切に話してね,って言われたよ。それであの子は自分の希望を決めるんだと。」
「私達の話し合いが終わってから?」
「ああ,それで自分も話に加えて欲しい,そう言ってたよ。」
「そう。」
「ああ,そうさ。これでいいかい?これ以上は,時間が無いんだ。」
 僕は本当に時計を見ながら,電話口の彼女に伝えた。本当に時間はない。
「ありがとう。教えてくれて。」
「いいさ。大事なことだ。」
「それと,」
 と彼女は続ける。
「それと,ワガママも。育ててくれた時間は,私にとっても同じだったから。ありがとう。」
 そう言って彼女は電話を切った。僕の返事は待っていなかった。
 『蜂のマルコが胸を刺す。』。駆け出しの頃にそういうタイトルで彼女が描いた落書きが,妙にコミカルな表情で,今もそこの壁に残っている。
 勿論,受話器は元の位置に戻す。もう一口を頬張って,残り半分以下になったパンは小皿に千切って分けて,ともに作った餌かごに乗せた。数羽で鳴き声は聞こえるから,そのうちにきっと来るだろう。そのときまでこの部屋に僕は居れないけれど,それで彼女が起きてもいい。一番下の妹には少し経ってから電話するだろう。自転車の音が到着するまで,木枠に腰掛けることを程々にしているのなら,洗面も済ませてベッドメイキングをして着替えてから,外のブロックを数えつつゆっくりと出来上がりを待てるなら,それでもいい。けれどデートは駄目だ。真面目なあの子でも駄目だ。まだ早いんだ,ということは一応ここに来る妹には再三のかたちで言付けておく。
 日めくりカレンダーも捲っておく。椅子を使ってもまだ手が届かないから,その代わりになっておく。
 さあ,と声に出さずに畳んだシャツを中に詰めて,トランクの鍵を閉めたら,木枠の上で休んでいる,小瓶に挿している花に止まる。陽に背を向けて,すでに咲いて,大切にしてもらえている。冷たい水に,取り替えられる前から,これは名前を付けて貰えていないけれど,大切に観察して,毎日描いて,同じ枚数が続く。今日から最後の数頁を数えて,新しいノートは現地で調達する約束である。書きやすいものをという,約束である。
 小瓶に挿している花はすでに咲いたあとではある。けれど,貰われて,こうして大切にされている。
 寄り添った,古い方の壁はベッドに沿った部屋の一部で,そこにある,貼り紙を沢山剥がし損ねたような跡にはない独特のクリーム色が,見に行ったときに気に入った。それは彼女も同じだった。日入りが悪く,一日の大半が薄暗いアパートとアパートの間にあったのは安価で大事な出会いの始まりを優先してのことで,また歩み出す。一番取り出しやすいクリアファイルに挟み直して,一番取りにくいクリップで挟んで。彼女が提示する新居の高さには覚悟をして,二匹目の『パオロ』には大人しく翔んでいてもらうしかない。何なら僕が描いてもいいだろう。一番下手くそな僕が描いて,羽根さえあれば,大抵はどうにかなるのだから。
 あとは僕の味方として。針さえ抜いて,どうにかなるのだから。
 アラームが鳴る前。手配していた飛行機の時間に間に合うには,ここからトランクを担ぎ,それを降ろしてショルダーバックを肩から掛けて,チャックを閉めて,チャックを開けて,大事な忘れ物が無いことを確認してからジッパーを引っ張り,最後まで閉まらなくて慌てる。しかし時間はもう無いのだ。二度目のトランクを担ぎ,部屋の中の穏やかな時間を壊さないように,薄氷のような我が家の床を歩みながら,オレンジのカーテンと気楽に扱われる。こちらは単に閉じ忘れた,壁に面するベッドの頭上に心地良さげな風を送り込む四角い小枠に語られて,苦笑も確かに笑みになるのだ。この子に「おやすみ。」を言えるのなら,それもまた悪くない。
 重い荷物で,玄関を開けるのだ。天井に届きそうな頭に気を付けて,一番早い朝を迎えて。



 最後に。
 洗面所から浴室に足を向けて,容器に入っている洗髪剤の残りを手に持っていた。さっと振って,重さを一度に味わってからもとの場所に戻す,それから投げられ尽くした昨晩の闘いを乗り越え,浴槽の見えない内側にその身を隠していたボールの生存確認。それのスタンバイをし終えておく。片手にあるうちに軽く磨いたのは,一方的なハイタッチみたいなものだろう。速球派になれると見込んでいるから,メジャーなんて飛び越えて欲しい。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-23

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