ハルちゃんの家出
一
十月も半ばを過ぎ、十一月の声を聞く頃になると、いつの頃からか街は新しいカボチャのお祭で賑わうようになり、私の事務所界隈でもカボチャを模したイラストやらオブジェを飾る店が、年々増える傾向にあった。世間では、このカボチャが新しいビジネスチャンスを産み出しているらしいのだが、どうやら私には無縁のようで、西日しか射さない上に風通しが悪い私の事務所は、時の流れに取り残されたかのように閑散としていた。
その日も朝から無聊をかこっていた私は、以前に古書店の依頼を受けた際、報酬の代わりとして譲り受けた大佛次郎の『天皇の世紀』が、事務所の本棚にしまったままであることを思い出して、一巻から読み始めることにした。この黒船来航から戊辰戦争までを綴った壮大な「小説のような歴史書」、いや「歴史書のような小説」は、時間をつぶすには恰好のアイテムだった。つい読み耽ってしまった私が、さすがに空腹を覚えて時計を見ると、すでに十三時を回っていた。
私は読みかけの『天皇の世紀』に栞を挟んで、煙草をくわえた。ブックマッチを使って火をつける。
――さて、馴染みの〈オリオンズ〉で、いつもの〝特製ランチ〟にするか。それとも〈三幸園〉のもやしソバか、サンマーメンにするか。ああ、今日は土曜だから〈三幸園〉は休みだ。となると、久しぶりに〈キッチン南海〉のカツカレーもいい
その男の子が飛び込んできたのは、私が昼食のメニューを思案し始めたまさにそのときだった。
えんじ色のセーターを着て、首からなにかをぶら下げたその男の子が
――トリック・オア・トリート!
と叫んでいたら、私の事務所もついに時流に乗るときがやって来た、と未来に希望が持てたに違いない。もっとも、この事務所にはお菓子の類がないので、いたずらをされてしまうのがオチなのだが。
ところが、男の子が口にした言葉は、カボチャのお祭の決まり文句ではなかった。男の子は私の事務所に入ってくるなり、丁寧にお辞儀をして自己紹介を始めた。「こんにちは! ボクの名前は、カトーショータです!」
私は、ここにはお菓子がないことを見越した男の子が、早速いたずらを始めたのかと思い、煙草をくわえたまま言葉を失ってしまった。
呆気にとられる私に男の子――ショータが言った。「ここは、タンテージムショですか?」
「そうだけど……」
「じゃあ、おじさん……タンテーなんですか?」
私がくわえ煙草のまま頷くと、ショータ――年の頃は、小学校の一、二年生といったところだろうか――は、「ボク、本物のタンテーに会うの初めてなんだ」と言って、満面に笑みを作った。
物珍しそうに私の事務所を見渡すショータに私は言った。「……で、ショータ、お前はなにしに来たんだ?」
ショータは私の質問にうつむいてモジモジすると、首からぶら下げた水色のなにか――よく見ると、子供用の携帯電話だった――を右手でぎゅっと握った。
「なにしに来たんだ? ここは、子供が――」
「秘密道具を見せてください!」ショータが私の言葉を遮り、またお辞儀をした。今度は先刻より深々と。
「秘密道具?」
「うん。おじさんはタンテーなんでしょ? ボク、本物のタンテーが使ってる本物の秘密道具が見たいんだ」
「そんなもん、あるわけないだろ」
「嘘だァ。だって――」ショータは、テレビで見た〝見た目は子供で、中身は大人のタンテー〟は、眼鏡やら腕時計やらの秘密道具で事件を解決するんだ、と説明をした。
生憎とその〝見た目は子供で、中身は大人のタンテー〟が活躍する番組を、私は見たことがなかった。それに、私は見た目も中身も、もういい歳をした大人であり、ショータの言う秘密道具で依頼――いや、ショータに言わせれば、〝事件〟を解決したこともない。ましてや、この稼業で殺人事件などは扱ったことなどなかった。この稼業は、先輩にあたる男に言わせれば〝犬も食わないような事件を食いものにする山犬〟のようなものなのだそうで、テレビやら映画のように恰好いいものではないのだが――さて、それをこのショータにどうやって説明しようか。
「――わかった。秘密道具だから、事件もないのに見せちゃだめなんだね」真剣に悩む私を余所に、ショータは彼なりの〝理論〟で秘密道具の件を解決したようだった。
「そういうことだ」私は秘密道具の件――そんなものは、端からない――は、ショータの〝理論〟に合わせることにした。そして、煙草を消しながら〝いい歳をした大人〟として、ショータにしなければならない質問をした。「ショータ、お前ひとりで来たのか?」
私の事務所は、人通りの少ない路地裏に面した雑居ビルの五階にある。しかも、この雑居ビルの入居者で、ショータのような子供を相手に商売をしている者はいなかった。子供ひとりで来たとは考えにくい。
「ううん。千葉から、ハルちゃんと電車で来たんだよ」
「ハルちゃん?」
「そうだよ」
「その……ハルちゃんっていうのは、大人か?」
「うん」
「じゃあ、ハルちゃんは、今どこにいるんだ?」
「ハルちゃんは、〝みのじい〟のところ」
「〝みのじい〟のところ?」
「そう、ここの隣だよ」
このフロアには私の事務所のほかに、鈴木という男がやっている事務所がある。事務所の名前は〈鈴木みのる事務所〉、鈴木みのる――〝みのじい〟だ。
「そのハルちゃんっていう人は、隣の事務所にいるんだな?」私は立ち上がって、ショータに言った。
「そうだけど……」ショータが首からぶら下げた携帯電話を握りしめて、はにかんだ。「ちょっと待って。ボクが、今からハルちゃんを呼ぶから」
どうやらショータは、彼にとっての秘密道具を使いたくてしょうがないようだった。しかし、自慢げに携帯電話を操作して耳に当てるショータの得意満面な顔が曇り始めた。「あれェ? ハルちゃんが出ない……」
「ショータ……お前、間違えたんじゃないか?」
「そんなことないよ。お父さんに、ちゃんと登録してもらったもん」一度、電話を切ったショータが、再び携帯電話を操作した。「やっぱり出ない……どうしたんだろう……」ショータの声が段々と、か細くなる。
「そのハルちゃんは、隣の事務所……〝みのじい〟のところにいるんだよな?」私は応接セットを指差した。「俺が行ってくるから、そこに座ってなさい」
「待って!」ショータが、小さい手で携帯電話をいじりながら、私を制した。
この場の主導権は、どうやらショータに握られてしまったようだ。悔しい気もするが、私はショータの気が済むまでやらせることにした。
「〝みのじい〟の電話番号も、登録してもらってるから」
子供用の携帯電話には、いくつかの電話番号を短縮登録できるそうだ。〝みのじい〟の電話番号が登録されているということは、ショータは〝みのじい〟――鈴木の孫なのだろうか。鈴木の年齢は六十代の半ばといったところ、ショータぐらいの年頃の孫がいてもおかしくはない。
やがて――五コール分くらいだろうか――ショータが、私を得意げに見つめた。「もしもし、〝みのじい〟?……うん、ボク? ボクは〝みのじい〟の隣のタンテージムショにいるよ……そうだよ……わかった。じゃあ、タンテージムショで待ってるね。じゃあねェ」
電話を終えたショータが私に言った。「〝みのじい〟が、こっち来るって」
「わかった。じゃあ、ショータ、お前はそこに座って待ってなさい」私は再び応接セットを指差した。
「はい」ショータは、今度はおとなしく従うと、応接セットにちょこんと腰をかけた。足をリズミカルにブラブラさせながら、興味深げに私の事務所を見回した。〝秘密道具〟の隠し場所を探しているに違いない。
〝みのじい〟が私の事務所に訪れたのは、それから五分ほどしてからだった。きれいに額が禿げあがった中肉中背の六十代半ばの男――〝みのじい〟は、私が思ったとおり、隣で事務所を営む鈴木だった。
鈴木は、まずは私に「ご迷惑をおかけしました」と、ショータの突然の訪問について詫びた。
私が応接セットに座るショータを示すと、鈴木はショータに声をかけた。「ショータ、勝手にうろちょろしたらダメだって、〝みのじい〟言ったよね?」
「だって……〝みのじい〟がさ、隣はタンテージムショだって言うから、ボク……本物のタンテーに会いたくて、それで……」
「トイレに行くなんて嘘ついて……嘘はつかない。言い訳はしない。いつも、〝みのじい〟も、ハルちゃんも言ってるよね」
「嘘ついてないよ。トイレには行ったよ」
「じゃあ、なんですぐ帰ってこなかったの?」
「だから、〝みのじい〟が……」
「ショータ、言い訳はしない」
鈴木が口調をちょっと強めると、小さなショータは応接セットでさらに小さくなった。「ごめんなさい」
「おじさんもお仕事が忙しいんだよ。お仕事の邪魔しちゃダメじゃないか」
ショータが、鈴木に促されて今度は私に謝った。「おじさん……忙しいのに、ごめんなさい」
鈴木の余計な一言に戸惑いながらも、私はふたりに「まァ、気にせずに」と返した。嘘をついたのではない。見栄を張っただけだ。我ながら、随分と情けない見栄ではあるのだが。
「トイレに行ったきり帰ってこないから、ハルちゃん、ショータを捜しに行ってるんだよ」
「ホントに?」
「そうだよ」
「でも、ハルちゃんに電話しても、出てくれないんだよ」
「電話に出ないの? ハルちゃん」
「うん。ハルちゃん、電話に出なかったよね。おじさん」
ショータが私の方に視線を移したので、私は頷いて応えた。
鈴木は紺色のカーディガンのポケットからスマートホンを取り出して、慣れた手つきで電話をかけた。やがて曇り始めた鈴木の表情からすると、結果はショータと同じだったようだ。
「ね、電話に出てくれないでしょ」困惑する鈴木にショータが言った。
「なにをやってんだ、あの子は」
「なにやってるんだろうね。ハルちゃん……」そこまで言って、ショータが膝をポンと叩いた。「あ、わかった」
「なにが、わかったの?」と鈴木。
「〝みのじい〟、ハルちゃんは――」
話を続けようとするショータを、質問した本人の鈴木が止めた。「やっぱり、そうか」
「そうだよ」ショータは、なにやら楽しそうだった。
「あの……なにが、〝そう〟なんです?」
ふたりの会話に割って入った私に、ショータが自らの推理を披露した。「ハルちゃんね、ケータイ忘れてきたんだよ。絶対にそうだよ。ね、〝みのじい〟?」
ショータの隣で、鈴木が頷いた。それから大きくため息をついた。「そんなことだろうと思って、一応ここにいるって、張り紙はしてきたけど……まさかねェ」
同じフロア、それも隣に事務所を構える鈴木が、私の事務所を訪れるのに〝五分〟もかかった理由が、これでわかった。
「よく、携帯電話を忘れるんですか? その……ハルちゃんは」
ショータが笑顔で私に言った。「うん。よく忘れるんだよ。この前なんかね――」
ショータが楽しげに話そうとするハルちゃんのエピソードも気にはなったが、事務所のドアがノックされたので、私はそちらに向かって「どうぞ」と応えた。
ドアを開けて入ってきたのは、眼鏡をかけた女だった。幼い顔立ちをしているのでわかりにくいが、年の頃は三十代の前半といったところだろう。秋物のベージュのコートを羽織った女は恐縮して、私に「あのォ……鈴木の事務所に、こちらにいると張り紙がしてあったもので……」と言った。
「ハルちゃん、どこ行ってたの?」私が答える前に、ショータが声を上げた。
「〝どこに行ってたの?〟ってあなたを捜しに行ってたのよ。トイレに行ったんじゃないの?」
「トイレには行ったよ。その後で、このタンテージムショに来たんだよ」
「〝みのじい〟と一緒に?」
ショータと鈴木が首を横に振って、彼女――ハルちゃんに応えた。
ハルちゃんはショータに歩み寄ると、腰をかがめて視線の高さを合わせてから、きつい口調で言った。「ひとりで、勝手にどっか行っちゃダメって、言ったでしょ」
「ごめんなさい」
ショータが素直に謝ると、ハルちゃんの矛先は鈴木に向かった。「おじさ……〝みのじい〟も、ショータを見つけたら、すぐに連絡してよ」
「いや、ハルちゃん……」
「本当に、心配したんだからね」
ハルちゃんの言葉に、ショータはうなだれて小さくなった。ハルちゃんの剣幕に押されたのか、なぜか鈴木もショータの隣で、一緒になってうなだれていた。
ここは私の事務所なのだが、どうやら主である私自身が部外者になってしまったようだ。私は自分のデスクに腰を降ろして、新しい煙草をくわえた。ブックマッチを使って煙草に火をつける。薄く開けた窓の外に煙を吐き出しながら、私の事務所を占拠した三人の関係について考えた。
先刻、鈴木のことを〝おじさん〟と、言いかけたことから察するに、ハルちゃんは鈴木の姪か、なにか親戚筋に当たるのだろう。ただ、ハルちゃんとショータの関係が、私にはよくわからなかった。最近では、自分の子供と友達感覚でつき合うことを良しとして、わざと名前やあだ名で呼ばせる父親や母親もいるそうだが、ハルちゃんは、そういったタイプには見受けられなかった。
思案を巡らす私が吐き出す煙の匂いに気づいたのか、鈴木がこちらを向いた。目が合うと、鈴木はすまなそうに目礼をしたので、私は苦笑を返した。
――さてさて、ここは私の事務所だということを思い出してもらわねば
私は三分の二ほど残った煙草を、デスクの灰皿で揉み消して、ハルちゃんに声をかけた。「まァ、とにかく……ショータ君も、あなたも無事だったということで、ひとまず一件落着ということにしませんか」
「そうだよ、ハルちゃん。この辺にしとこう……」鈴木が後に続いた。
ショータを叱っていたハルちゃんが、私の方を向いて、深々と頭を下げた。「ショータが、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした――ほら、ショータも謝りなさい」
ショータは、「ごめんなさい」と、今日だけでも何度目かになる科白を私に言ってから、ハルちゃんを見上げた。「でも、ハルちゃん――」
「なに?」
「ハルちゃんだって、ケータイをを忘れてきたんじゃないの?」
ハルちゃんは眼鏡の奥の目を開いて、返した。「なに言ってるの。ちゃんと、持ってきてるわよ」
「じゃあ、ボクがかけてみるから」ショータはいたずらっぽい笑みを浮かべて、首からぶら下げた自慢の〝秘密道具〟を操作した。
ハルちゃんは、少し恐い顔をしてショータ、鈴木、そして私――どうして、私まで恐い顔をされなければならないのだろう――に視線を動かしてから、コートのポケットを探った。続いて捜索の手は、コートの下の上着に移り、そしてハンドバッグへ。ハンドバッグを開いたハルちゃんは、目を閉じて大きくため息をつくと、肩を落とした。
「ほら、忘れてきてるじゃん」
今度はハルちゃんが、うなだれる番だった。「ごめん……」
そのハルちゃんに近づき、ショータがハンドバッグの中を覗き込んだ。「ハルちゃん。これ、エアコンのリモコンだよ」
顔を真っ赤にしたハルちゃんの隣で、楽しそうに笑った。時に子供というのは、残酷な生き物になるものだ。
「もういい加減にしなさい。ショータ、お前が勝手に出かけたりするから、こんなことになってるんだぞ。わかってるのか?」
見かねた鈴木がショータを叱ると、ショータは少しふてくされたように「はァい」と、答えた。鈴木は、そのショータの頭を軽くこづいて、ふたりに告げた。「さて、そろそろお暇しようか」
鈴木の言葉にショータとハルちゃんは、ここが私の事務所だということを思い出したようだ。ハルちゃんは顔を真っ赤にしたまま「お騒がせしました」と言い、まだ〝秘密道具〟が気になるのか、ショータは名残惜しそうに「タンテーのおじさん、バイバイ」と言って手を振った。
それから三人は、ドアのところで私に最敬礼をして、〝私の〟事務所を後にした。
これが私とショータ、そしてハルちゃんとの出会いだった。
二
メニュー選考が中断されてしまったこともあり、昼食は路地を出てすぐの角にある立ち食い蕎麦屋で、たぬき蕎麦をかき込むことで済ませた。帰りしなには、少し遠回りをして煙草を買い足し、事務所に戻った。
ショータとハルちゃんは、私が外出している間に鈴木の事務所から帰ったようで、ふたりが秘密道具の捜索に再び訪れることはなかった。もっとも、喉から手が出るほど欲しい依頼人も姿を見せることはなく、二度ほどトイレに立っただけで、午後は自分のデスクで『天皇の世紀』を読んで過ごすことになった。
遠くから「夕焼け小焼け」のメロディが聞こえてきた頃、私は三分の一ほど読み進めた『天皇の世紀』の第一巻を閉じた。忌々しい西日は、路地を挟んで建つビルにすっかり隠れていたので、降ろしっぱなしにしていたブラインドを上げて、煙草に火をつけた。冷え切ってしまった今日何杯目かのコーヒーをすする。途中、思わぬ来訪者があったとはいえ、日がな一日読書をして過ごすというのも悪くない。ただ、〝たまの一日〟なら、いい骨休めなのだろうが、これが毎日続くようでは――カボチャなり、〝秘密道具〟を置くことも、真面目に検討した方が、いいのかもしれない。
――とにかく、昼食が慌ただしかったこともある。夕食に美味いものでも食べて、明日からのことを考えよう。さて、なにを食べようか。昼に食いそびれた〈キッチン南海〉のカツカレーにするか、いっそのこと景気づけに〈新世界菜館〉で、上海蟹という手もある
明日に繋がる夕食の候補を上げ始めたとき、事務所のドアがノックされた。どうやら、今日はメニューの選考をすると、誰かが訪れるようだ。
今度こそ、依頼人であってくれればいいのだが――期待を込めて、私は「どうぞ」とノックに応えた。
事務所のドアを開けて入ってきたのは、鈴木だった。「今日は、本当に申し訳ない」
「いや、気になさらずに。今日は、取り立ててやることも、なかったですし……」今さら見栄を張ってもしょうがない。私は正直に現状を話した。
「――でも、お邪魔は、お邪魔でしたでしょう?」
言葉を選んだのか、言葉を失ったのか、少し間を置いた鈴木の問いかけに、適当な答えが見つからなかった。確かに仕事をしている最中であったなら、ショータであろうと誰であろうと怒鳴りつけてでも、追い返していただろう。しかし、今日のこの様子では――私は、曖昧に笑みを返した。
「今日は、これからお仕事は?」
「見てのとおりですよ。なにも、やることはありません。ちょうど、今晩なにを食おうか、考えていたところでしてね」
「良かった。お詫びと言っちゃあ、なんなんだけど……これから一杯奢らせてもらえませんか?」鈴木は〝一杯〟のところで、杯を傾ける仕種をした。「いける口なんでしょう?」
どうして、私が〝いける口〟であることが、鈴木はわかったのだろう――この雑居ビルで事務所を構えるようになってから随分と経つのだが、入居者とのつき合いはエレベータで乗り合わせた際に、挨拶をする程度のもので、酒を酌み交わすようなことは一度もなかった。なにしろ、私は鈴木の事務所がなにを扱っているのか、いまだに知らないのだ。それに、宿酔いで仕事をこなすことは、ままあることなのだが、デスクの抽斗にしまっておいたバーボンのボトルを、なにかにつけては取り出して呷るような安っぽいハードボイルド小説の真似などしたこともない。
なんにせよ、目の前にタダ酒をぶら下げられてしまえば、どうでもいい問題だ。私は自分が卑しい顔をしていないか、気をつけながら答えた。「お言葉に甘えさせてもらいます」
「じゃあ、私も支度をしてくるんで……十分後に下ということで、いかがですか?」鈴木が腕時計を覗き込んだ。「近くに、行きつけの店があるんです」
「構いませんよ」
「それじゃあ、十分後に」鈴木は顔をゆるませて、小走りに私の事務所を出て行った。その表情を見る限り、おそらく彼も〝いける口〟なのに違いない。どうやら〝呑んべえ〟というヤツは、同類を嗅ぎわける鼻を持っているらしい。
それから私は、喫いかけの煙草をきっちりと根元まで喫い、パソコンの電源と事務所の電灯を落としてから――今日一日を暇に過ごした私の支度など、この程度のものだ――事務所を出て、一階に向かった。
鈴木は、彼自身が指定したちょうど十分後、十七時十八分に姿を見せた。少しくたびれた感のあるグレーのコートに、ハンチング帽をかぶった鈴木は、一昔前のドラマに登場する老練なベテラン刑事のようだった。
鈴木の案内に従い、路地を出て左に折れてから一ブロック歩いた私の行きつけ〈オリオンズ〉の二軒先に、目指す店はあった。
「この店です」鈴木が指差した色褪せた暖簾には、〈やまだ屋〉と記されていた。
ここは、前々から気にはなっていたが、まだ入ったことのない店だった。引き戸を開けた鈴木の後に続いて、〈やまだ屋〉の暖簾をくぐる。
〈やまだ屋〉はカウンターに十席ほどと、小上がりの座敷があるこぢんまりとした居酒屋で、ベット・ミドラーの『ローズ』が流れる店の中は、まだ宵の口ということもあってカウンターの端でフライトジャケットを着た男が、ひとりで生ビールを飲んでいるだけだった。
「あら、いらっしゃい」カウンターの中から出て来た割烹着姿の女将が、鈴木からハンチング帽とコートを受け取った。私はコートを着ていないので、女将に「結構です」と伝えた。
「カウンターでいいかな?」鈴木のハンチング帽とコートを持って店の奥に消えた女将に、鈴木が訊いた。
店の奥から「どうぞ」と返ってきたので、先客の男から一番離れたカウンター席に、私たちは並んで腰を降ろした。
「取り敢えずビールということで、いいですか?」席に着くなり切り出した問いに私が頷いて応えると、鈴木は戻ってきた女将に生ビールをふたつ注文した。
女将は「あいよ」と明るく答えて、大振りのジョッキに生ビールを、素早い手つきで注いだ。目の前に並べられたジョッキには、ビールと泡が理想的な八対二の割合――七対三という輩もいるようだが、私はそうは思わない――で、注がれていた。
私たちは、どちらからともなく「お疲れ様」を合い言葉に乾杯して、生ビールに口をつけた。私はジョッキの半分ほどを、鈴木は三分の一ほどを、喉を鳴らして飲んだ。不思議なもので、忙しかろうと暇であろうと、一日の終わりに飲むビールほど美味いものはない。しばしの間、喉を通り過ぎて腹の底に溜まった冷たいビールの余韻を楽しむ。
つきだし――卯の花の炒り煮だった――の入った小鉢を運んできた女将が、鈴木に訊いた。「ねえ、〝みのさん〟、こちらの方は? ひょっとして……息子さん?」
この店では〝みのじい〟は〝みのさん〟になるらしい。その〝みのさん〟こと、鈴木が顔の前で手を振った。
「そうよねェ」女将が品定めをするように私を見つめてから、おどけて言った。「息子さんってことは、ないわよね。〝みのさん〟と違ってイイ男だもの」
「ちょっと、ひどいなァ」女将に抗議をしてから、鈴木はビールを一口含んだ。「……こちらは、うちの隣で、事務所を開いてる探偵さん」
「へええ、探偵さんなんだ」女将が目を丸くした。「あたし、本物の探偵さんに会うのは初めてなんだけど……」
私は、女将が〝秘密道具〟を見せてくれと、言い出さないことを祈りながら、ビールを飲んだ。
「大変なお仕事なんでしょうね」女将はショータとは違って〝大人の回答〟を返してくれた。
「どうなんでしょうね。どの仕事も、大変なんじゃないんですか?」
「またァ、ご謙遜を」芝居がかった口調で言った後、女将はころころと楽しそうに笑った。決して美人とは言えない顔立ちだが、愛嬌のある人だ。「探偵さん、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」私は女将にお辞儀を返した。
「さて、ご注文は?」と女将。
こちらを向いた鈴木が言った。「なんにします?」
「今日は、お任せします」
「そう……じゃあ、ポテトサラダと、かき揚げと、ニラ玉ね」メニューも見ずに、鈴木が注文をした。この店か、あるいは鈴木の定番メニューなのだろう。女将は、再び「あいよ」と返事をして、私たちの前を離れた。
鈴木は上着から煙草――最近、メビウスと名前を変えたヤツだ――を取り出して、一本くわえると使い捨てライターで火をつけた。最初の一服を美味そうに吐き出す。
私は少し離れた場所にあった灰皿を引き寄せて、鈴木の前に置いた。「しかし、なんですなァ……ショータ君は、元気なお子さんですね」
「元気なのは、いいことだけどね。元気すぎるのも、困りものだよ……あいつが来ると、疲れてしょうがない」口をついて出た言葉とは裏腹に、鈴木の表情は穏やかだった。
「じゃあ、お母さん……ハルちゃんも大変ですね。毎日、一緒にいるんだから」私も煙草に火をつけた。
「大変だろうね」灰皿の淵で煙草を叩いて、灰を落とした。「でも、よくやってるよ。ハルエは」
「ハルちゃん……ハルエさんは、鈴木さんの姪御さんですか?」
「そう。弟の一人娘。弟――ケンゾウっていうんだけど、早くに女房を亡くしてね。男手ひとつでハルエを育てたんだ。ケンゾウの商売柄、転勤が多いこともあって、なかなか友だちができなかったりさ、寂しい思いをしてるんだよ、あの子は」鈴木は、卯の花の炒り煮を口に放り込んだ。おからを充分に噛み締めてからビールで流し込むと、話を続けた。「そこにきてケンゾウは、あの子が大学生の頃に、ぽっくり逝っちまうし……だからなのかな、あの子は家庭っていうか、家族っていうのに、憧れみたいなもんがあったんだと思う」
「家族への憧れ……ですか」
「そう。だから、ショータとも上手くやってけるんだよ」
「〝ショータとも上手くやってける〟? すると、ショータ君とハルエさんは――」
「そう。実の親子じゃない。ショータが三歳のときにね、タカアキ君と結婚したんだよ」
「じゃァ、ショータ君が彼女のことを〝ハルちゃん〟って呼んでたのは……」
「ほんとは、〝お母さん〟って呼ばれたいんだろうけど……向こうの家庭の事情もあるだろうし」鈴木が再びビールを口にした。先刻、鈴木が流し込んだのはおからだったが、今度は別のなにかだった。
私もジョッキを傾けて、残りのビールを飲み干した。仕事でもない以上、他人の家庭事情を聞き出すのも、ここまでだった。私はそこまで悪趣味ではない。
灰皿で煙草を揉み消してから、少し声を高くして鈴木が言った。「やっぱり、本職だな。話を聞き出すのが、お上手だ。相当、優秀な探偵さんですな、あなたは」
「からかわないでくださいよ。今日一日、暇にしてたのは、ご存じでしょう?」
「知ってますよ。昨日も、そんなにお忙しくは、なかったんじゃないですか?」そう言って、鈴木がいたずらっぽく笑った。血は繋がっていないのに、ハルエが携帯電話を忘れてきたのを見つけたショータの笑顔と、どことなく似ていた。
「ひどいなァ」私は苦笑混じりに、煙を吐き出した。
「まァ、大丈夫ですよ。仕事なんてのは、水物なんだから」
「本当ですか?」
「ええ。仕事の内容は違いますけどね。あなたよりも長いこと、ひとりで商売してますから」
「先輩の言葉を、信じさせていただきます」
カウンターに手をついて頭を下げた私の肩を、鈴木は「大丈夫、大丈夫」と言って叩いた。
「盛り上がってるところ、申し訳ないけど」と断って、女将が私たちの会話に割って入ってきた。「ニラ玉と、ポテトサラダです。お待ちどおさま。かき揚げは、もうちょっと待ってくださいね」
女将から皿を受け取った鈴木が「ああ、そうだ」と、なにかを思い出した。足下に置いたカバンからA4サイズほどの紙包みを取り出して、女将に渡す。「これ……この間、頼まれたヤツ」
女将は紙包みを受け取ったまま、首をかしげた。どうやら頼んだ本人の女将が、なにを頼んだのか忘れてしまっているらしい。
「鮒寿司だよ。今日、ハルエがうちの事務所に来てね。置いてったんだ」
「ありがとう」頼み事を思い出した女将の声が、ひとつ高くなった。「そうよね、〝みのさん〟に頼んでたわね」
「私は、どうも苦手でね」
「まあねェ。匂いがきついから、ダメな人は本当にダメなのよね。でも、あたしは好きよ」
「先週、ハルエが彦根に行くっていうからさ、頼んどいたんだ」
鮒寿司の紙包みを押し抱いた女将が、鈴木に訊いた。「ハルちゃん、また彦根に行ったの? この間……いつだったかしら。とにかく前も行ってなかった?」
「うん……なんでも、今でも仲のいい友だちがさ、何人か彦根にいるらしいんだよ。その友だちのひとりが、ちょっと体調を崩してて、お見舞いに行ってきたらしい。あと、ついでに他の友だちと、彦根城から琵琶湖に沈む夕陽を眺めたりしてきたみたい。その夕陽を眺めてると、心が癒されるんだってさ」
「そう……ハルちゃん、中学の三年間が彦根だったのよね?」
鈴木はハルエの事情を女将にも話しているらしい。鈴木がビールを呑みながら頷いた。
「一番、多感な年頃だもんね……なんだか、わかるな。いつまでも、記憶に残る景色ってあるのよねェ。あたしの場合は、油山の夜景ね」女将が遠い目をして呟いた。
油山という地名が出てくるということは、女将は福岡の出身なのだろうか。それにしては彼女の言葉遣いは、関東特有の歯切れのいいものだった。まあ、これはどうでもいいことなのだが。
鈴木は私の空のジョッキを指差すと、気持ちをどこかへやった女将に告げた。「ねえ、思い出にひたるのもいいけどさ。こちら、ビール無くなってるよ」
「あらら、ごめんなさい。なんになさいます?」
現実に戻ってきた女将に、私は空のジョッキを手渡して、お代わりを頼んだ。
鈴木が箸を手にして言った。「さ、食べましょう。ここの料理いけるんですよ」
お代わりを女将から受け取った私は、まずはニラ玉に箸をのばした。ふんわりと焼かれた玉子が変に甘くないせいで、噛み締めるたびにニラの風味が口いっぱいに広がる――美味い。
ポテトサラダは、完全にすりつぶしていないジャガイモ、キュウリ、タマネギ、ハムとこれといって特別な具材は使われていないからか、どこかホッとする味だった。その後、遅れて出てきた桜エビと笹掻きゴボウのかき揚げは、ゴボウの泥臭さがアクセントになっていて――どちらも美味い。
ただ残念なことに、私はアルコールを口にすると食べ物を受けつけなくなるので、ニラ玉も、ポテトサラダも、かき揚げも一口ずつ箸をつけただけだった。逆に鈴木は、歳の割には――奢ってもらっておいて失礼な言い方だが――健啖家で、生ビールを呑みながら三品を平らげ、熱燗と一緒にカレイの煮付けを注文すると「ごめんね。私、食べながらじゃないと飲めないもんで……」と、照れくさそうに言った。
二杯目の生ビールを飲み干した私は、カウンター席についたときから目をつけておいた奥の棚に鎮座まします好みの焼酎――紅乙女のお湯割りを注文して、自分の体質を鈴木に告白した。
「じゃァ、あんたは本当に〝いける口〟なんだね」私が酌をした熱燗をすすって、楽しそうに鈴木が笑った。酔いのせいか、鈴木の口調は砕けたものになっていた。
私たちが飲み始めてから二時間ほど――十九時半になる頃には、〈やまだ屋〉には〝呑んべえ〟たちが集い、これからが本業だとばかりに、それぞれが好みの料理と酒を楽しんでいた。
鈴木はカレイの煮付けを、骨格標本を作るかのようにきれいに食べた後で、熱燗を一本お代わりして、カンパチの刺身と肉じゃがを注文した。私の方はといえば、常連客が姿を見せるたびに、女将に呼びつけられて自己紹介をさせられ――途中、小川という男には冷酒に、松本という女には酎ハイにつき合わされる目に遭いながら、紅乙女のお湯割りを飲み続けた。
鈴木が熱燗を四合開けたところで、女将からオーダーストップの厳命が下り、お開きとすることになった。早い時間から飲み始めたこともあって、時間は二十一時を回ったぐらいだったのだが、私も相当に酔っぱらっていた。紅乙女だけでも五合は飲んだと思う。
約束どおり勘定は、鈴木が持ってくれた。店を出て、私が「次回は、奢らせて欲しい」と社交辞令を抜きに申し出ると、ハンチング帽をかぶりながら鈴木は「楽しみにしてるよ」と不敵に笑った。
鈴木とは、そのまま店の前で別れた。少し足元をふらつかせながら、夜の街に消えていくベテラン刑事さながらの後ろ姿を見ながら、私は鈴木の事務所がなにを扱っているのか、聞き出すのを忘れたことに気づいた。
三
鈴木と〈やまだ屋〉で飲んだくれた翌朝、軽い宿酔いで事務所に赴いた私は、いつもより濃いめのコーヒーをすすりながら、パソコンのメールボックスをチェックしていた。残念なことに、いかがわしいサイトやら胡散臭いサークルへの勧誘――いわゆる迷惑メールばかりで、ブックマッチで火をつけた煙草の煙を、ため息混じりに吐き出すしかなかった。
――どうやら今日も読書で過ごす一日になりそうだ
事務所の電話が鳴ったのは、今日一日を諦めた私がデスクの上に置きっぱなしにしていた『天皇の世紀』に手を伸ばしたときだった。電話の相手は、かつて仕事を手助けしたことのある同業者で、久しぶりに聞いた声は二年前よりも活力に満ちていた。
互いに久闊を叙してから、同業者は「依頼人を紹介したい」と言い出した。
突然、目の前にぶら下げられたエサに目がくらみそうになったが、私は同業者に依頼人を紹介する理由を尋ねた。他人に食い扶持を分け与えてやるようなボランティア精神を持ち合わせた人物は、この稼業ではまずいないからだ。
同業者は、私の質問に「別の依頼で手一杯だ」とうらやましい限りの理由を答えてから、言葉を続けた。
――あなたに助けてもらった盗難車の捜索がきっかけで、あのときの依頼人である高級外車の中古車ディーラーが〝得意先〟になった。おかげで事務所は人を雇えるまでに大きくなった。だから、その恩返しがしたい
図らずも私は同業者の〝踏み台〟になっていたようだった。どうりで声に張りがあるわけだ。私は同業者の厚意を受けることにした。
小さく笑って「本当は、またお逢いしたいんだけど……」とささやく彼女に、胸の裡に湧いた甘い予感を悟られぬよう気をつけながら、私はお礼を言って電話を切った。
彼女の紹介を受けた依頼人――渋谷にあるIT関連企業の社長は、昼過ぎに私の事務所を訪れた。彼の依頼は、彼の会社の専務に関する調査だった。彼は専務のリストラを考えているらしく「自分が出張に出ている間、専務の素行を調べて、どんな些細なことでもいいから報告して欲しい」と言った。
経営者からこの手の依頼を受けることは珍しいことではないのだが、〝専務〟が彼の妻であり、〝一週間の出張〟が、次期専務候補の女性社員との京都への研修旅行――こちらが訊きもしないのに、社長は自慢げに私に話した――とあって、私は気乗りしなかった。
しかし背に腹は代えられず、また胸の裡にある甘い予感もあり、この社長の依頼を引き受けることにした。
三日後に社長が〝出張〟に向かってからの一週間、私は〝専務〟の素行を調査した。調査の結果わかったのは、この〝専務〟もなかなかのやり手ということだった。〝専務〟は、急成長を続ける取引先の若い社長の元への〝転職〟を計画していたのだ。
社長は京都から戻ってきたその足で、〝次期専務候補〟を同伴して私の事務所を再び訪れた。〝次期専務候補〟は悔しいことになかなかの美人だった。彼女は社長が報告書に目を通している間は表情を変えずにいたが、報告書を読み終えた社長が「これは辞めていただくしかないね」と呟くと、満足そうに微笑んだ。本当の依頼主は、彼女だったのかもしれない。
それから社長は依頼料――私は少しだけ金額を上乗せしていた――を払い、〝次期専務〟に昇格したらしい女の腰を抱いて帰っていった。
私はしばらくの間、煙草を吹かしながら社長が残していった依頼料の入った封筒を眺めていた。社長を紹介した同業者から電話が入ったのは、三本目の煙草に火をつけたときだった。開口一番、彼女は「お役に立てたかしら?」と言った。私は当座を凌げるだけの稼ぎを分け与えてくれた彼女に謝辞を述べて、「二度と俺に、あんな依頼人を紹介するんじゃない」ときつく釘を差した。そして、受話器の向こうで戸惑う彼女をそのままにして、一方的に電話を切った。もう彼女に〝お逢い〟できることもないだろう。長いお別れになりそうだった。胸の裡にあった甘い予感は、コーヒーの苦みでかき消した。
ただ、この一件が呼び水となったのか、この日から立て続けに四件の依頼が寄せられてきた。
――脳に電波を送られているという男の「電波の発信元に関する調査」
――先年、友人を亡くしたという女の「新宿をさまよう友人の魂の捜索」
この二件を除いた「来春に結婚する婚約者の素行調査」と「土地の売買に絡んだ個人投資家の身辺調査」を引き受けて、依頼をまっとうする頃には、一カ月ほどが過ぎ去っていた。
四
〝初ガツオ〟と同じで、味よりも世界で一番早く飲めることに浮かれ騒ぐ――もっとも、世界で最初に飲める国は、実際のところ我が国ではなく「キリバス共和国」なのだそうだが――ワインのお祭りが、深夜に催された日のことだった。
〈オリオンズ〉の〝特製ランチ〟――ポーク・ピカタを堪能して戻ってくると、事務所の前に私と同年配の眼鏡をかけた男が立っていた。私の姿を認めて会釈をした男は、いきなり声をかけてくるような真似はせず、私がそばに近づくまで待ってから口を開いた。「こちらの事務所の方でしょうか?」
私は「そうだ」と答えて、用件を訊いた。
「お願いしたいことがございまして……お時間を頂戴しても、よろしいでしょうか?」チャコールグレーの折り目正しいスーツを着た男は、折り目正しく答えた。
彼が依頼人だとすれば、あのいけ好かない社長の依頼から、立て続けに四件の依頼が舞い込んできたことになる。
――仕事なんてのは、水物だ
〈やまだ屋〉で鈴木がアドバイスした一言は、見事に的中した。
私は昼食に出かけるだけだったので、鍵をかけていなかったドアを開けて、「どうぞ」と男を事務所に招じ入れた。彼を応接セットに通して、先日仕入れたばかりのコーヒーを淹れる。
私がコーヒーカップを前に置くまで、立ったまま私を待っていた彼は「お構いなく」と言ってから、名刺を差し出した。新入社員教育の教材に使えるビジネスマナーで差し出された名刺には、我が国でも有数のメガバンクの名前とロゴが刷り込まれ、千葉市内の支店名の下に〈融資課長 加藤高明〉と書かれていた。
加藤は、私が差し出した名刺を「頂戴します」と恭しく受け取り――なにも、そこまでしなくてもいいのだが――私の「おかけください」という言葉を合図に、応接セットに腰を降ろした。
「今日は、まさか私に融資をしていただけ……」
「いいえ。違います」加藤は、私の発した融資という言葉を即座に否定した。
「でしょうねェ……」淹れたてのコーヒーを加藤に勧めて、私も一口すすった。
しわひとつないスーツ、派手すぎない青を基調にしたネクタイ、先刻のしゃちほこ張った応対――冗談を言ってはいけない相手に、私は軽口を叩いてしまったようだ。立て続けに飛び込んできた依頼に浮かれすぎている。もう一口コーヒーを飲んで、気を引き締める。「では、どういったご用件で?」
「お恥ずかしい話なんですが……」そこまで言って、辺りを気にした視線の先には隣の事務所――〈鈴木みのる事務所〉があった。
この雑居ビルは、築三十年は過ぎた古い建物ではあるけれど、隣の事務所に音が漏れるようなことはない、私はそう説明して、加藤を落ち着かせるために再度コーヒーを勧めた。
「それでは、いただきます」と断ってから、加藤はコーヒーカップにそっと口をつけた。一口飲んだ加藤が少しだけ肩の力を抜いた。
「……美味しいですね。インスタントとは、香りが違います」
「豆のブレンドには、気を遣ってましてね」
「そうですか。いつも、インスタントしか飲まないものですから……本当に、美味しいコーヒーです」
ここ一カ月の〝好景気〟のおかげで、久しぶりに黄金比率のブレンド――キリマンジャロが「2」、モカが「1」、ブルーマウンテンが「3」――のコーヒーを仕入れることができた、という事実は言わずに「ありがとうございます」とだけ答えた。
コーヒーカップをテーブルに置いた加藤は、居住まいを正してから話し始めた。「あの……妻が家出をしておりまして……」
女房が家出をすることは、相当に恥ずかしいことのようで、先刻よりも声をひそめていた。彼のような職業では、女房の家出というのは出処進退に関わる大事件に属するのだろう。ただ、私の稼業はその〝恥ずかしいこと〟で成り立っているのだ。私は加藤にトーンを合わせることなく言った。「家出をされた奥さんを捜して欲しい……と、まァ、こう仰りたいわけですね」
加藤が頷いて答えた。
「いつ、家出をされたんです?」
「昨日です」
「それはまた、随分と急ですねェ……」
「急に家を出るから、家出と言うんじゃないんですか?」
「いや、そうじゃなくて……昨日の今日でしょう? 私のところに来る前に、まずは自分で捜したりすることを考えなかったんですか? 金がかかるんですよ、私に頼むと」
「確かに、仰るとおりです。ただ、私も仕事があるもので……」加藤が殊更、恐縮して答えた。
我が国有数のメガバンク、融資課長――それなりに忙しいのかもしれないが、理由はそれだけではなさそうだ。私は加藤の目を正面から覗いて訊いた。「なにか、他の理由がありますね?」
私から目をそらした加藤は、コーヒーに手を伸ばすと宙に目をやり、カップを手にしたまま答えた。「実は、妻が息子の携帯電話を持って行ってしまったんです。息子にとって携帯電話は、宝物なもので……すぐにでも捜して欲しいというわけなんです」
「息子さんというのは、おいくつなんですか?」
「今年、七歳になります。携帯電話は、息子が小学校に入学したときに、防犯の意味もあって買ってやったものです」
「……ということは、子供用の携帯電話ということですよね」
「そうです」結局、加藤はコーヒーを飲まずに、カップを元の位置に戻した。
「子供用の携帯電話なら、GPSが付いてるんじゃないんですか?」
最近の携帯電話――特に子供用、あるいは老人向けの機種では、外部からGPSを利用して居場所を確認できる。金を払ってまで家出した妻を捜して欲しいという依頼人を前にした私が言うのも、おかしな話なのだが。
「どうも、電源を切られてしまってるようで、GPSが使えないんです」
「なるほどねェ。それでは、無理ですなァ……当然、奥さんの携帯電話は、連絡がつかないんですよね」最先端の電子機器も万能ではない。だからこそ、私のようなオールドスクールな稼業の生きる道もあるのだ。
「はい。これもお恥ずかしい話なんですが、妻は、息子の携帯電話と自分のを、取り違えたようでして……妻の携帯電話は、私の手元にあるんです」
「携帯電話を取り違えた?」
「はい。妻は、おっちょこちょいというんでしょうか……よく携帯電話を、別のものと取り違えて出かけてしまうんです。大抵の場合は、エアコンのリモコンとかなんですが」加藤がコーヒーカップを再び持ち上げて、今度は一口飲んだ。「今回に限って、なぜか息子の携帯電話なんです」
――おっちょこちょいの妻が、携帯電話と別のなにかと取り違える
どこかで聞いたようなシチュエーションだった。「ちなみに、奥さんのお名前は?」
「ハルエといいます。四季の〝春〟に〝栄〟える、と書きます」
「息子さんのお名前は、ショータ……君?」
「そうです、飛翔の〝翔〟に〝太〟いという字です」加藤はテーブルの上を、指先でなぞりながら答えた。
――こんにちは! ボクの名前は、カトーショータです!
先月、カボチャのお祭の頃に、事務所に飛び込んできた男の子が最初に叫んだ言葉。〝カトーショータ〟は加藤翔太で、〝ハルちゃん〟こと〝ハルエ〟は加藤春栄ということになる。
「こちらをお伺いさせていただいたのも、近所のこういった事務所だと外聞が良くないといいますか……ただですね、隣の事務所の鈴木という方は、春栄の親戚筋にあたりまして……以前、こちらにも……」
「要するに、翔太君に〝みのじい〟の隣は探偵事務所で一度行ったことがある、と聞いたからでしょう?」私は、だらだらと言葉を並べるだけの加藤の後を継いだ。
「そうです。それで、お伺いさせていただきました」
加藤に「失礼」と一言断ってから、私は自分のデスクに戻った。煙草をくわえて、ブックマッチで火をつける。吐き出した煙が辺りに漂う。煙の向こうに、大切な〝秘密道具〟を奪われてしまった翔太の姿が浮かんで見えた。しかも〝秘密道具〟を翔太の手から奪ったのは、先日楽しげにじゃれ合っていたハルちゃんだった。〝みのじい〟やハルちゃんに叱られたときよりも、しょげかえる翔太――
私は、後を追いかけてデスクの向こう側に立った加藤に答えた。「お引き受けしましょう」
「ありがとうございます」加藤が私の事務所を訪れてから初めて声を高くした。
「――では、最初にお訊ねしますが、今までで、奥さんが家出をするようなことはありましたか?」
「ありません。たまに旅行をするようなことは、ありましたけど……突然、姿を消すようなことは、ありませんでした」
家出、あるいは失踪した人間が、居場所を悟られぬよう携帯電話を置いたまま姿を消すことは、決して珍しいことではない。さらには、今まで使っていた携帯電話を捨てて、別名義で携帯電話を手に入れることも、さほど難しいことではない。しかし、自分の携帯電話を残していく代わりに、息子――春栄の場合、血は繋がってないのだが――の携帯電話を持ち出した失踪者の捜索というのは、経験がなかった。
やはり春栄は一カ月ほど前に鈴木と翔太が、そして今、私の事務所を訪れている加藤が言うように、携帯電話を取り違えて飛び出したのだろうか。
「あの……妻の携帯電話なんですけど、今日は持参してきたんです」
「奥さんの携帯電話ですか?」
「はい、持ってきました。ただ……」
「ただ?」私は煙草を消して、加藤と一緒に応接セットに戻った。「ただ、どうしたんです?」
加藤はカバンから春栄の携帯電話――白いスマートホンを取り出した。「画面ロックが、かけられてるんです。何度か解除を試みたんですけど、パスワードとかそう言った解除の方法が、私にはわからなくて……」
「そうですか」
「解除の方法を、なにかご存じないですか? もしくは、ここからデータを引き抜く方法とか」
私は首を横に振った。画面ロックのかかったスマートホンから情報を抜き出すという技術を、私は持っていない――そんな技術があれば、もう少し別の稼業をやっている――とにかく、春栄のスマートホンから、手がかりを見つけることが難しいのであれば、やはりオーソドックスな手法で取り組むしかない。
「では、奥さん……春栄さんの友人とか、立ち回りそうな場所とか、ご存じないですかね?」
「妻の友人関係ですか……私は何人か名前がわかる程度でして、連絡先までは、ちょっと……」加藤が目を伏せた。「彼女にもプライバシーというものがありますから……」
個人情報について、そこかしこでやかましいこのご時世、夫婦の間でもプライバシーの保護は必要なことなのだろうが、夫が妻の友人について詳しく知らないことは、個人情報だのプライバシーの保護だのといった面倒な問題とは無関係で、むしろ個人情報の宝庫とも言える携帯電話、いやスマートホンから勝手に情報を引き抜くことの方が、その手の問題と深く関わっているはずなのだが――とはいえ、妻の友人関係について、連絡先まですべて把握しきっている夫というのも、なにやら気味の悪い話だった。なんにせよ、次の作戦を立てなければならならず、私はカフェインの力を借りるため、コーヒーに手を伸ばした。
「今日は、木曜ですよね?」私に合わせてコーヒーカップを手にした加藤が、少しだけ声を高くした。なにかを思い出したようだ。
「……ええ、今日は二十一日の木曜ですが」黄金比率のコーヒーで気持ちを落ち着かせて、私は答えた。
「明日の五時から、翔太の同級生のお母さんたちと、なにか打ち合わせをするとか……家のカレンダーに書き込んでありました」
「明日の五時から打ち合わせ、ですか。それは、どこで集まるんです?」
コーヒーカップを口元まで持っていった加藤の動きが止まった。「そこまでは……カレンダーに書いていませんでした」
「そうですか……」私は立ち上がり、自分のデスクに戻って煙草をくわえた。
加藤は先刻のように私についてくるようなことはしなかった。
「――しかし、なんですな。奥さんが家出したとなると、翔太君の面倒を見るのも大変でしょう」私はデスクの端に寄りかかって言った。「あなたは、お忙しいようですし」
「いいえ、翔太は祖母と同居してるんです……あ、祖母と言っても翔太にとっての祖母ということですよ。私の祖母は五年前に亡くなってますから」加藤が〝丁寧すぎる〟回答を返す。
私は煙草にブックマッチで火をつけて、最初の一服を深く喫い込みゆっくりと吐き出した。それからしばらく黙ったまま、煙草を喫い続けた。加藤はその間、おとなしく応接セットでコーヒーを飲んでいた。
三分の二ほどまで煙草を喫ってから吐き出したのは、煙とは別のものだった。「翔太のばあさんに会ってみるか……」
「え? 今、なんて仰いましたか?」と加藤。
「翔太君のおばあさんに会ってみます」私は言葉遣いを変えて、加藤に告げた。
「いや、しかし……春栄の友人の連絡先までは、わからないと思いますけど」
「なにもしないよりマシでしょう。多分、あなたより春栄さんと接している時間は長いでしょうから」私は灰皿で煙草を消した。「ところで、奥さん……春栄さんは、専業主婦ですか?」
「ええ。そうです」
「おばあさんは?」
「昨年から、家で書道教室を始めました。ですが……仕事というほどのものではありません。ほとんど、家にいます」
「だったら、なおさらだ。おばあさんなら、春栄さんの行く先とか、なんらかの手がかりを知っているかもしれませんよ」
「そう……ですね。それでは、お願いします」そう言って加藤は上着から手帳を取り出すと、さらさらとなにかを書き始めた。「申し訳ないんですが、私、仕事を抜け出してきてまして、これから寄っておきたいところがあるんです」
「どちらに行かれるんですか?」翔太は、私の事務所を訪れたとき、〝千葉から、ハルちゃんと電車で来た〟と言っていた。加藤の名刺にある支店の名前も、千葉市内のものだった。家に戻ることはできなくでも、道すがらもう少し情報収集をしておきたかった。
「本店です。先輩がそちらにいるものですから、ちょっと顔を出しておこうかな、と」メモを書き終えた加藤が、手帳から一ページ分を破いた。「せこい話ですけど、そうすることで交通費も経費で落とせそうですしね」
「アリバイ……作りですか」
「そういうことになります」加藤は立ち上がると、私に先刻書いたメモを渡してきた。「こちらが、住所です」
手渡されたメモには、自宅住所、電話番号、そして翔太の祖母の名前――加藤時子とあった――が、思った以上に見事な筆跡で書かれていた。その下には、最寄りの駅から自宅までの地図も記されている。
今日のところは、加藤から情報を収集することは諦めた方が良さそうだ。
「あなたが伺うことは、私から電話を入れますので」
「それは、ありがたいですね。私もすぐに千葉に向かいます」
それから加藤は、コーヒーを飲み干すとコートを小脇に抱えて、アリバイ作りへと向かった。
私はコーヒーカップを流しに落とし込んだ後で、気合いを入れるためにニコチンを煙草一本分だけ注入して、事務所を後にした。鈴木の事務所の前を通ると、ドアには「本日は、一日不在です」との張り紙がしてあった。
いろいろと聞きたいこともあったのだが――
五
地下鉄と総武線を乗り継いで千葉に向かい、目的の駅で黄色い車両から降りたときには、時計は十五時を回っていた。急速に発展を続ける新都心の最寄り駅から一駅しか進んでいないのに、やけに薄暗くひっそりとした駅のひとつしかない改札口を通り抜け、南口へ出る。
駅を出てすぐのパン屋の前に灰皿が置かれているのを見つけた私は、吸い寄せられるように灰皿の横に立ち、煙草に火をつけた。加藤が事務所で書いたメモをコートのポケットから取り出して、事務所からおよそ二時間の小旅行で切れてしまったニコチンを補充しながら、四角で囲われた駅名から伸びる線と、実際の景色と照らし合わせた。
煙草をきっちりと一本喫ってから、私はパン屋の前から出発した。バスターミナルを抜けて、そのままバス通りを十分ほど歩くと、十字路にぶつかった。真っ直ぐに進む道は東京湾へと続き、十字路から急に下り始めている。私が思った以上に、ここは高台になっているようで、遠浅の海を埋め立てた新興の住宅街が眼下に広がり、その住宅地の向こうでは傾き始めた太陽が新都心にそびえる高層ビル群のシルエットを作っていた。
加藤の書いた地図によれば、彼の自宅はこの十字路を左に曲がった方にあるということだったので、私はメモに従って歩き続けた。元からの陸地であるこの辺りは、先刻眺めた新興住宅街とは違い、建物も区画も統一されていなかった。強くなってきた北風にさらされながら歩いていると、暮れてゆく町並みがひどく鄙びているように感じられた。
十字路から五分ほど歩いたところが目的地だった。加藤の地図は正確そのもので、そのおかげで私は迷わずに目的地でたどり着くことができたのだが、彼の地図の目的地――加藤の自宅に記された小さな家の絵は、正確なものではなかった。隣に比べると倍はありそうな敷地は、きれいに手入れをされたウバメガシの生垣に囲われ、その生垣沿いに進んだ先にある数寄屋門は、相当に年季の入ったものだった。勤務先が我が国有数のメガバンクとはいえ、加藤の稼ぎだけでこの〝お屋敷〟を購入できたとは思えない。加藤は〝大層な資産家のご子息〟のようだった。
私は居住まいを正してから、表札の下にあるインターホンを押した。
「どちら様ですか?」しばらくして女の声で返事が返ってきた。
インターホンに近づいて、加藤高明に紹介された旨を前口上にして続けた。「あの……ちょっと、お話を聞かせていただきたいんですが」
「申し訳ありませんが、もう少し離れていただけませんか」返ってきたのは、言葉は丁寧だがきつい口調の回答――いや命令だった。
仕方なく二歩下がると、「そこで結構です」とインターホンから聞こえてきたので、私はもう一度、訪問の理由を告げた。先刻よりも少し声を張ったせいか、なにやら道場破りにでもなった気分だった。
「そこで少々お待ちください」
――二言三言しか交わしていないが、声の主が翔太の祖母だとすれば、なかなか手強そうな相手だ
首を回して肩の力を抜いた私は、門の庇にドーム型の防犯カメラが設置されていることに気がついた。私がインターホンに近づきすぎたため、防犯カメラの死角に入ってしまったらしい。インターホンの向こうにいた声の主が、私に下がるよう命じたのは、そのせいなのだろう。
やがて、真っ赤なセーターに花柄のスカートを身につけた黒髪の女が玄関から出てくると、数寄屋門の格子越しに私を認めて一礼した。「翔太の祖母でございます。わざわざ遠いところまで、ご足労をおかけしました」
〝お屋敷〟の佇まいから、翔太の祖母は和装のしっとりとした老女――と勝手に想像していたこともあって、私はいささか面食らってしまった。「あなたが、加藤時子さん……」
「はい。わたくしが時子でございます」女――翔太の祖母、時子が数寄屋門の中に招いた。「話は高明さんから聞いております。どうぞ、お入りください」
時子の後について、御影石の敷石を踏んで玄関へと向かい三和土を上がると、招かれるままにきれいに拭き上げられた廊下を渡り、客間へと通された。私が客間に入るなり時子は「おかけになって、お待ちください。お茶をお持ちします」と告げて、そそくさと出て行ったので、私は彼女の背中に「お構いなく」とだけ返すのがやっとだった。
五分ほどしてお盆を手にして戻ってきた時子は、私の前には茶托に載せられた九谷焼の湯飲み――雀が描かれていた――を、自らの前には古備前の湯飲みを置いて、私と向き合う恰好で腰を降ろした。
正面に座った時子をよく見れば、黒々とした髪も、張りのありすぎる肌も、ウバメガシの生垣並みに金をかけて手入れをした成果のようだった。だが、声の張りだけは、どんなに金をかけても年相応のものであること隠せず、その見た目とのアンバランスさが彼女の年齢を一層際だたせていた。
「粗茶ですが、どうぞ」と決まり文句で勧められたお茶を、私は一口飲んだ。私は日本茶には詳しくないが、煎れ方なのか、茶葉なのか、もちろんその両方なのかもしれないが、勧められたお茶は品のいい甘みがあった。
私が湯飲みを茶托に戻すのを合図に、時子が口火を切った。「今日は、春栄のことでいらしたんでしょう?」
「はい。家出してしまった春栄さんについてなんですが、彼女が立ち回りそうなところをですね……おばあさんなら、ご存じではないかと、思いまして」
左手を添えて口元に運んだ湯飲み越しに、時子が私を睨みつけた。「――わたくし、あなたにおばあさんと呼ばれる筋合いは、ございません」
「申し訳ありません。では、なんとお呼びすれば……」
「それは、お任せします」
「……そうですか。では、時子さんでよろしいですか?」
私の問いには答えずに、時子は黙って古備前の湯飲みからお茶を飲んでいた。私はそれを〝問題なし〟と回答したのだと好意的に解釈して――やれやれ、なかなかに手強いババア、いや〝時子さん〟だ――もう一度同じ質問をした。「春栄さんですが、ここ最近でなんか様子が変わったとか……例えば、旅行の準備をしているとか、時子さんはなにかお気づきになりませんでしたか?」
「春栄の様子ですか……なにも変わってなかったと思いますが」
「そうですか。では、春栄さんが家出をして立ち回りそうな場所とか、時子さんはご存じないですか?」
「さあ、存じ上げません」時子はそう即答すると、唇をキッと難く結んで外の景色に目を移した。
嫁と姑の間になにがあったのかは、わからない。ただひとつ言えるのは、時子から春栄に関して客観的な情報を得ることは、難しそうだということだった。
時子の視線の先――客間の外へ視線を動かした。植えられている花木を見る限り、春先は随分と賑やかになるのだろう。夕陽にさらされた庭は、芝がきれいに手入れをされているだけで、寂しげな風景に見えた。ひっそりと咲くヒイラギかシクラメンでもあれば、少しは印象が変わるだろうに。
私も庭を眺めていることに気づいた時子が、こちらに向き直って言った。「ひとつ、わたくしの方からお聞きしてもいいかしら?」
「どうぞ」と私は答えた。
「あなた、煙草をお喫みになるでしょう?」
駅前のパン屋から数寄屋門にあった監視カメラの前まで、私は煙草を喫っていない。なぜ、わかったのだろう。これが〝亀の甲より年の功〟ということなのだろうか。
私が答えずにいると、時子はちょっとだけ表情をゆるめた。「匂いがしますもの」
「匂い……ですか?」
「ええ。少々お待ちください」時子は、立ち上がって客間を出ていった。
煙草を喫わない人間は、煙草の匂いに敏感だというが――時子が姿を消している間、自分の上着に鼻をあててみたが、私には煙草の匂いを嗅ぎ当てることができなかった。
さほど時間をかけずに戻ってきた時子は、手にした灰皿――伊万里焼だった――を私と彼女のちょうど中間に置いた。「どうぞ、お喫みになってください」
「よろしいんですか?」私は、床の間の掛軸を時子に見えるよう腰をずらした。最近ではこの手のものは、〝お宝〟などと呼ばれて、結構な高値で取引をされることもあるらしい。「せっかくの掛軸が、煙草のヤニで汚れてしまっては、もったいないでしょう?」
「あら、あなた、この書がおわかりになるの?」
「孟浩然ですよね」
時子は目を細めて私を見つめてから、フフっと鼻で笑った。「タカハシコシュウ先生の書ですわ。わたくしの書道のお師匠ですのよ」
私は掛軸に書かれた五言絶句を綴った詩人の名前を答えたのだが、彼女が返してきたのは掛軸に五言絶句を書いた書家の名前だった。
「コシュウ先生の書は、素晴らしいでしょう。雄大で心を揺さぶられるわ」時子は〝タカハシコシュウ先生〟の書に視線を向けた。
〝タカハシコシュウ先生〟が誰なのか、そしてその書が雄大で心を揺さぶられるのかどうかは、私にはその道の素養がないのでわからない。ただ時子が、この五言絶句の内容を解していないということは確信できた。床の間に掛けられた掛軸の書き出しには〝春眠不覚暁〟とある。
これは孟浩然の『春暁』――〝春〟の詩だ。同じ孟浩然なら、今の季節であれば『建徳江に宿る』がふさわしい。寂しげな庭の景色を、引き立てることにもなるだろうに。
「まあ、あの子たちよりはマシですわね。高明さんも春栄も、こういうものにまったく興味を示さないんですもの。あなたは、高明さんと同じ年頃だけど、なかなか勉強されているようね」
「さァ、どうなんでしょうね」私は掛軸の内容には敢えて触れずに、適当にはぐらかした。
ただ、掛軸の書について話題を振ったのが功を奏して、時子は私に対して警戒心を解き始めたようだった。煙草を勧める口調は、先刻よりも柔らかかった。「どうぞ、お喫みになって。あなたがお喫みになりづらいのなら、わたくしに一本いただけます?」
嫌煙権なるものがはびこるようになった現在では考えられないことだろうが、かつて煙草は有用なコミュニケーションツールだったのだ。私は彼女の言葉に従い、ワイシャツの胸ポケットから煙草を箱ごと取り出して、彼女に一本手渡した。「煙草、喫われるんですね」
「先年、亡くなった主人は煙草が好きな人でしてね。わたくしも、たまにおつきあいしてましたのよ」時子は私の差し出したブックマッチの火に煙草を近づけると、あまり深く喫い込まずに最初の一服を吐き出した。「久しぶりに喫うと、美味しいわね」
私も自分の煙草にも火をつけて、吐き出した煙でブックマッチの火を吹き消した。
「実は、主人を肺ガンで亡くたこともあって、高明さんには禁煙させたんです」時子の煙草を喫う様は、堂に入っていた。「高明さんには禁煙させておいて、わたくしが禁煙していないのは、おかしいとお思いになられるでしょう?」
「そうですね。喫煙者としては納得がいきませんね」
「確かにそうですわね。でも、高明さんには翔太の父親として、早死にしてもらっては困るんです。翔太は、加藤家の大事な跡取りですから。翔太の父親である高明さんは、老い先の短いわたくしとは違います」
いまどき〝大事な跡取り〟などという単語は、そう出てこない。しかし、その時代がかった言葉に説得力を持たせるだけの佇まいがこの〝お屋敷〟にはあった。
「それなのに、あの子ときたら……」煙を吐きながら時子が毒づいた。
「あの子とは、春栄さん……のことですか?」
「そうです。春栄のことですわ。家出だなんて、加藤家の恥もいいとこだわ」
「加藤家の恥、ですか。その……加藤家というのは、大変由緒ある家柄なんでしょうなァ」
私の言葉を聞いた時子が、まだ二口しか喫っていない煙草を伊万里焼の灰皿に押しつけた。他人に言わせると私は〝口が悪い〟のだそうだ。これは前の稼業の頃から言われてきたことで、どうやら今回も時子を怒らせてしまったらしい。
「すいません……なにか、ご気分を害してしまったようで」この場を取り繕うため、私は箱から煙草をもう一本振り出して、時子に勧めた。
時子は「もう結構です」と言って、煙草を断ると、古備前の湯飲みからお茶を一口含んだ。ひとりで煙草を喫うのもいたたまれず、私も煙草を消した。
「あら、あなたはお喫みになってください。わたくしは、もう充分ですから」
「いやあ、しかしですね……」
「お喫みになってください。わたくしからのお願いです」
「……そうですか。では、お言葉に甘えて」時子の〝命令〟に従って新しい煙草に火をつけた。「なにか嫌なことを、思い出させてしまったようですね」
「まあ嫌なことは、思い出しましたけど……あなたは気になさらないで」時子が古備前の湯飲みを座卓に置いた。「でもね、嫌なことだけではなくて、ひとつ思い出したことがあるんですの」
私は煙草を深く喫い込んで、もったいぶった言い方をする時子の次の言葉を待った。
「春栄はね、よく電話をする人がいるのね」
「誰です?」と私は訊いた。
「さあ、カオルちゃん、カオルちゃんって呼んでましたわ」
「どういった関係かは……」
「わたくしに、わかるわけがございません。男の人かもしれませんし――今頃は、そのカオルとかいう男の人のところにでも、いるんじゃないかしら」目をつり上げて、時子が吐き捨てた。
「まァ、カオルという名前だけで、男というのも……」
「でも、カオルという名前の男性もいらっしゃるでしょう?」
「確かにそうですが……」
「春栄をおかばいになられるの?」からかうような口調で、時子が言い放った。
「かばうとか、かばわないとか、そういうことでは、ありません」
「だとしたら、どうしてですの?」
「確証がないからです。電話の声をお聞きになられたんですか?」
「聞いてはいません」時子の頬がピクリと動いた。
私は煙草一服分の間を置いて言った。「私の仕事は、春栄さんを見つけ出すことです。そのために必要なのは、確実な情報です。あなたの身勝手な憶測などは、必要ないんです」
「身勝手な憶測……随分なことを仰るわね」
「口が悪いことについては、謝罪します」私はまだ長いままの煙草を、伊万里焼の灰皿で揉み消した。やはり喫う気もないのに喫ったせいで、まったく美味くない。「ただ、私に必要な情報が、どういったものであるのかは、ご理解ください」
頬を振るわせて話を聞いていた時子が、灰皿をつかんだ。そのまま灰皿を投げつけてくるかと思ったが、そうはせずに――今の彼女にも、一分の理性はあるらしい――すっと立ち上がると、私を見下ろして言った。「それぐらいのことは、存じ上げております」
〝出て行け〟とはっきり口にされる前に「これで、失礼します」と私も脇に置いたコートを手にして、立ち上がった。これ以上、時子から役に立ちそうな情報を得ることは、できそうにない。
一言も発しない時子に玄関まで見送られた。立ち去り際に、念のため名刺を渡したのだが、彼女から連絡が来ることはないだろう。
コートを羽織って、敷石を踏みながら数寄屋門へ向かうと、小さな人影がちょうど門をくぐるところだった。学校を終えて帰宅した翔太だった。ランドセルを背負った翔太は、最初いぶかしげな顔をした。それから私に気づいて、翔太は顔いっぱいに笑顔を作った。「タンテーのおじさんだ」
「久しぶりだな。翔太」
声をかけてやると、翔太が駆け寄って来た。「タンテーのおじさん、なんでボクの家にいるの?」
当然の質問だが、翔太は春栄が家出をしていることを知っているのだろうか。私は答えに窮した。
「――わかった。ハルちゃんを捜してくれるんだね。ハルちゃん、昨日からいなくなっちゃったんだよ」先月、私の事務所を訪れたときのように、翔太は彼なりの〝理論〟で、私がここにいる理由を推理してみせた。今回は、この間の〝秘密道具〟のときとは違って正解を導き出した。
私は腰をかがめて翔太に視線を合わせてから「そうだ」と答えた。
「タンテーのおじさん、ハルちゃんを見つけて。お願いだよ」
「携帯電話も……だろ?」
「そうだけど……やっぱり、ハルちゃんを見つけて」
正面から私を見つめる翔太の頭を撫でてやり、私は大きく頷いた。そして、小さな依頼人に言った。「ハルちゃんも、お前の携帯電話も、見つけてやる」
六
代々木駅で発生した人身事故の影響により総武線が大幅に遅れたせいで、都内に入ったときにはすっかり日が暮れていた。
事務所に戻った私は、パソコンが起動するまでの間に淹れたコーヒーをすすりながら、調査初日を振り返った。手がかりになる情報が明らかに少ない。だからといって、逃げ出すわけにもいかなかった。翔太に啖呵を切った手前もあるが、私にも少なからずのプライドはある。
昼間に加藤が言っていた〝同級生のお母さんたちとの会合〟に、押しかけるのもひとつの手だと思い立ち、加藤の携帯電話に連絡を入れてみた。しかし、留守番電話に転送されてしまったので「〝お母さんたちとの会合〟の件について、場所など詳細を調べておいて欲しい」との伝言を吹き込んでから、念のため同じ内容の文面でメールを送信しておいた。
あとは鈴木と話ができればいいのだが、彼の事務所のドアには「本日は、一日不在です」との張り紙がしてあった。まずは明朝一番に鈴木の事務所を訪問することにして、今日のところは店じまいとすることにした私が事務所を出るときには、二十時になろうとしていた。
帰宅がてら覗いてみた〈オリオンズ〉では、残念なことに水上という男の会社が貸し切りにして、なにやらパーティーを開いていた。店の中から手招きする水上には気づかない振りをして――パーティーというヤツは、どうも苦手だ。ましてや、私が見知っている顔は水上だけなのだ――私は二軒先の〈やまだ屋〉へと向かった。先月、鈴木と飲んだくれてから〈やまだ屋〉には、何度かひとりで訪れていた。どうやら私は、〈オリオンズ〉とは違う雰囲気を漂わせる〈やまだ屋〉の常連になりつつあった。ただ不思議なことに、鈴木と顔を合わせることは一度もなかった。
色褪せた暖簾をくぐると、店はいつもどおり〝呑んべえ〟たちで賑わい、店の中から有線で流れるロバータ・フラックの『やさしく歌って』が聞こえた。
「あら、いらっしゃい」カウンターの奥から、割烹着姿の女将が声をかけてきた。
私は女将が招く近頃では私の指定席になりつつあるカウンターの端――初めて、この店を訪れたときにフライトジャケットを着た男が、ひとりで生ビールを飲んでいた席だ――ではなく、カウンターに突っ伏している男の隣の席に向かった。まだ二十時を回っていないこの時間から〝できあがってしまっている〟男の両側は、空席になっていた。普段ならそんな男の隣には頼まれても座らないのだが、突っ伏している男が鈴木であるなら話は別だ。
「あっちが空いてるのに、いいんですか?」と女将。
「ここが、いいんです。ちょっと……鈴木さんに用がありまして」
「〝みのさん〟、そうなったら、あと一時間は起きないですよ」
「構いませんよ」女将の方が、鈴木とのつき合いは長い。彼女の見立てに間違いはないだろう。第一、この様子では鈴木がこちらの聞き出したいことを答えてくれるのか、どうかはわからない。しかし、明朝一番の約束をつけることぐらいならできそうだった。
「そう……でしたら、ゆっくりしてってくださいね」女将は愛嬌のある笑みをみせて、調理場に戻った。
私はブックマッチで煙草に火をつけて、女将の料理が出てくるのを待った。女将はアルコールを口にすると食べ物を受けつけなくなる私の体質を知ってからというもの、料理を二品平らげてからでないと、酒を飲ませてくれないのだ。
しばらくして、私の前にイワシの南蛮漬けとジャコとネギの炒飯、つきだしのきんぴらゴボウが並べられた。南蛮漬けは程良い酸味が美味かった。三匹のイワシを口にして、一緒に漬けられたタマネギは、後々の酒のアテに残しておく。ゴマ油の風味が効いた炒飯も温かいうちに、あっという間に私の胃袋の中に収まった――早々に酒が飲みたいがために、ノルマをこなしているのではない。空腹だったこともある。また、私自身が前の稼業で〝早メシ〟を修得させられたせいもある。それよりも、なにより女将の出す料理が、掛け値なしに美味いからだ。
空いた炒飯の皿を女将に返して、私は熱燗を頼んだ。紅乙女では、飲み過ぎてしまう恐れがあった。私好みの熱々に燗された辛口の日本酒をちびちびと舐めながら、女将や他の常連客を交えて他愛のない話をして、時間を過ごした。
鈴木が目を覚ましたのは、女将の予想どおりに一時間が経過した二十一時過ぎのことだった。予想を的中させた女将は、腰に手をあてて誇らしげなポーズをして私におどけてみせると、酎ハイ用の大ぶりなグラスに氷水を作った。
鈴木は両手でしきりと顔をこすってから、右手の人差し指を一本立てて「水」と、女将に言った。女将が「あいよ」と答え、氷水を手渡す。グラスを受け取った鈴木は、氷水を美味そうに喉を鳴らして飲んだ。鈴木のすべてを心得たかのような見事なタイミングで、女将と鈴木のつき合いの深さを感じさせた。
グラスの氷水を飲み干した鈴木は大きく息をつくと、煙草に使い捨てライターで火をつけた。ぼんやりと宙
に視線をおいたまま、煙を吐き出す。
その様子を眺めていた女将が私に視線を移し、声には出さず口の動きだけで「どうぞ」と私に告げた。
私は猪口の熱燗で口の中を湿らせてから、鈴木に声をかけた。「相当、お疲れのようですね」
「あら……あんたが、なんでここにいるの?」煙草をぷかりと吹かしてから、鈴木が続けた。「なんでってことはないか……あんた、呑み助だからね」
呂律は少し怪しいものの、明朝に面会する約束を取りつけることぐらいなら、できそうだった。
「なんにしろ、カッコ悪いところみせちゃったな」鈴木は禿げあがった頭をかきながら、自嘲気味に笑った。
「そんなことは、ないですよ。酔っぱらいというのは、恰好悪いものです。恰好つけたがる酔っぱらいほど、質の悪いものはない」
「あんた、面白いこと言うねェ」いつぞやのように、鈴木が私の肩を叩いた。酔いが回っているせいか、先日よりも力がこもっていた。おかげで、右手に持っていた猪口の熱燗がカウンターに少しだけこぼれた。
私はおしぼりでカウンターを拭きながら訊いた。「それにしても、今日はお忙しかったようで――」
「ああ、ちょっとした野暮用でね。本当は、事務所に戻って一仕事しようかと思ったんだけど、ここの明かりを見ちゃったらさ。つい……」
「あら、うちのせいなの?」
空いたグラスを下げに来た女将が怖い顔をすると、鈴木は首をすくめて答えた。「いや、そういうわけじゃないけどさ……」
「まァいいわ。〝みのさん〟、探偵さんがね、〝みのさん〟に話があるみたいよ」
「私に?」鈴木が自分の顔を指差した。
煙草をくわえて、私は頷いた。「ええ、詳しいことは明日の朝、事務所にお伺いしてお聞きしますが……明日は、事務所にいらっしゃいますよね」
「いますけど……なんの用なんです?」鈴木が灰皿で煙草を消した。「――まさか、今日の私の野暮用について、ですか?」
「違います」やはり今日のところは、鈴木から話を聞き出すのは無理そうだ。鈴木の酔いは、完全に醒めていない。私はブックマッチをこすって火をつけた。「春栄さんのことです」
「春栄のこと? 春栄なら昨日から、また彦根に行っちゃったよ」鈴木はふてくされたように言った。私が聞き出したいことが、自分のことではないからだろうか。いや、鈴木がふてくされた理由など、この際どうでもいい。
「春栄さん、彦根にいるんですか?」
「そうだよ。今日、電話があったんだよ。なんでもさ、急に彦根に行かなきゃならなくなったんだって。それで慌てて飛び出したらさ、あいつ、自分の携帯と翔太の携帯、間違えて持ってちゃったらしくてさ――」そこまで言って、鈴木は楽しそうに笑った。「そそっかしいというか、おっちょこちょいというか」
私は最初、耳を疑った。次いで、自分が酔っていないかを確認した。二合徳利には、まだ半分近く熱燗は残っている。私の酒量では、まだ酔うほどではない。
「火……消えてるよ」マッチ指差して、鈴木が言った。
私は燃えさしのマッチを灰皿に捨てて、新しいマッチで煙草に火をつけた。「それで、春栄さんは彦根のどこにいるのか、ご存じですか?」
「ああ、いつもと同じホテルに泊まってるって言ってたよ」
「いつもと同じ……そこは、どこです? ホテルの名前は?」
「ええとね。事務所に戻れば、わかるんだけどなァ……」
私は立ち上がろうとする鈴木を押しとどめた。鈴木の足元が、先月飲んだときよりもおぼつかなかったからだった。「詳しいことは、明日の朝にお伺いして、お訊きしますから」
「そうよ。〝みのさん〟、明日にしなさい」私たちのやり取りを聞いていた女将が援軍になった。「今日のところは帰った方がいいわ」
「そうかな?」鈴木が新しい煙草をくわえた。締まりのない口元から、煙草がだらりと垂れている。
女将がその煙草を、鈴木の口からそっと引き抜いた。「今日は疲れてるみたいだし……その上、飲み過ぎなのよ。ねェ、探偵さん。明日でもいいんでしょ?」
「構いません」
「……じゃあ、明日の朝ということで、いいのかな」女将から返された煙草を箱に戻しながら鈴木が言った。
鈴木の隣で私は頷いた。約束を取りつけただけでも、〝御の字〟とするべきだった。「ええ、今日はお帰りください。引き留めてしまったようで、すいません」
「いいのよ。飲み過ぎは〝みのさん〟が悪いんだから」女将は店の奥に入っていくと、鈴木のコートとハンチング帽を持って戻ってきた。
「では、お先に」
女将にコートを着せられてから、右手を挙げ挨拶をする鈴木に、私は会釈を返した。
「ちょっと、店を空けますけど、お待ちになっててくださいね」女将は私を含めた店の客にそう告げて、鈴木の肩を支えながら店を出て行った。
酔いつぶれた客を女将が駅まで送っていってやることは、私が通うようになったこの一カ月ほどでも、何度か目の当たりにするこの店では良くある光景だった。私よりもこの店での経歴が長い他の客たちは、何事もなかったかのように、それぞれが自分たちのペースを守って飲み続けていた。それでいて、勘定をごまかそうとする不逞の輩がひとりもいないのは、女将の人徳なのだろう。
いつもより早い時間に店へ戻ってきた女将は、私の隣――鈴木のいた席を片づけ始めた。「駅までは、とても無理ね。タクシーに乗せちゃった」
「そんなに、飲んだんですか?」
「うちではそんなに飲ませないから……どこかで、先に飲んできたんでしょ」
「……鈴木さん、なにかあったんですかね?」私と同じ匂いのする〝呑んべえ〟の鈴木だが、酔って乱れるタイプのようには、思えなかった。
「〝みのさん〟、別れたご家族に会いに行ってたの」
私は煙草を一服してから、熱燗を一口すすった。熱燗は、すっかりぬるくなっていた。
女将が話を続けた。「〝みのさん〟、元々はどこかのお役所の偉いさんだったんだけど――趣味が高じて、今のお仕事始めたのね」
「鈴木さんの……今のお仕事は?」
「あたしも、よくわかんないんだけど……お役所に勤めてた頃より収入が減ったのは、確かね」重ねた皿を手にして、女将がカウンターの中に戻った。「まァ、収入が減るとか、増えるとかよりも、なんの相談もなく勝手にお役所を辞めたことがきっかけになってね、奥さんとお嬢さんが出ていっちゃったのよ」
「そうだったんですか……」
「それで〝みのさん〟、お嬢さんが結婚するって話を聞きつけて、今日は群馬までお嬢さんに会いに行って来たんだけど、会わせてもらえなかったんだって」
――あの子は家庭っていうか、家族っていうのに、憧れみたいなもんがあったんだと思う
春栄に対して発せられた言葉は、そのまま鈴木の心の裡をさらけ出したものだったのだ。もしかしたら、家庭や家族への憧れは、春栄より鈴木の方が強いのかもしれない。
「それにしても、随分とお詳しいですね」と私は訊いた。
「だって……あたし、愛人だもの」カウンターから顔を寄せて女将がささやいた。
くわえ煙草のまま私が言葉を失ったままでいると、女将が続けた。「いやァねェ、冗談よ。〝みのさん〟の義理の妹。娘に会わせない〝いけず〟な奥さんが、あたしのお姉さんなのよ」
「勘弁してくださいよ、もう……」私は煙草を消して呟いた。
そんな私を見て、女将がおかしそうにころころと笑った。「お酒、冷めちゃったでしょ。今、お燗し直してあげるから。これは、サービスね」
私が〈やまだ屋〉を後にしたのは、女将のサービス品――熱燗二合を飲みきってからのことだった。店の外に出た私は、両手で自分の頬を打った。
すべては明朝、仕切り直しだ。
七
翌朝、私が雑居ビルの五階まで上がると、事務所の前で鈴木がすでに待っていた。
鈴木はいったいなんの仕事をしているのか、今日こそ彼の事務所でじっくり見聞しようという私の目論見は外れてしまったようで、私はドアを開けて事務所の中に鈴木を招き入れることにした。
「昨日は申し訳ない」事務所に入るなり、鈴木は恐縮して頭を下げた。顔色があまり良くない。
「宿酔いですか?」私は応接セットのソファを勧めて訊いた。
鈴木は上目遣いで私を見てから、恥ずかしそうに答えた。「少し頭が痛いね」
「コーヒーいかがです? ちょっとだけ濃いめに淹れますけど、私が宿酔いのときに飲んでるものです」
「いや、結構」と、鈴木は顔の前で手を振った。
宿酔いを治す手立ては人それぞれだ。私や鈴木のような〝呑べえ〟なら、なおのこと自分なりの流儀がある。私は無理強いすることなく、デスクの上にあった灰皿を手にして鈴木の正面に腰を降ろした。
「確か、春栄のことを聞きたいって言ってたね」鈴木から話を切り出してきた。
「ええ、そうです。昨日の夜、春栄さんが彦根にいると、仰いましたよね。その宿泊先を教えていただきたいんです」
「それは、問題ないけど……どうして、なのかな? 二、三日すれば帰ってくるんじゃない。今すぐ連絡つけなきゃならないことでもあったの?」
「今すぐとか、そういうことではないんですが……春栄さんが、家出をしたんです――」
私が事のあらましを話している間、鈴木はずっと目を閉じて聞いていた。私が話を終えると、目を閉じたまま「なるほどねェ。春栄が家出……ですか」と呟いてから、目を開いて私に言った。「やっぱりコーヒーいただけますか? その……濃いめのヤツを」
私は頷いて応えて、事務所にある申し訳程度の流しに向かった。黄金比率でブレンドされたコーヒー豆を入れたパーコレータが沸騰し始める頃、応接セットからは煙草の匂いが漂ってきた。
私がコーヒーカップをふたつ手にして戻ると、鈴木は短くなった煙草を、新しい煙草の先に押しつけて火をつけていた。三回、新しい煙草を吹かしてから短い煙草を灰皿で消す。
私に気づいた鈴木が訊いてきた。「春栄に、なにがあったんだろう?」
家庭とか家族といったものへの憧れの強い女が、やっと作り上げた家族の元を離れる――それなりの決心があったに違いない。春栄より憧れの強い鈴木が、気にかけるのも無理はなかった。
「さァ、わかりません」私は濃いめに淹れたコーヒーを鈴木の前に置いた。「私の仕事は春栄さんの居場所を探すことでしてね。彼女が家を出ていった理由を探ることじゃないんですよ。むしろ、居場所さえわかれば、彼女が家出した理由なんてのは、どうでもいいことなんです」
私の言葉に鈴木は目の色を変えた。怖い目だった。しかし、怖い目で私を見つめていた鈴木の表情は、やがて寂しげなものに変わった。「そう思わなければ、あなたのような仕事はやってけないんだね……いや、違うな。あなたのような人が、この仕事を続けるには、そう思わなきゃいけないんだね」
「それは、私を買い被りすぎです」私はコーヒーをすすった。ブックマッチを使って、煙草に火をつける。
今度は、鈴木はふっと顔をほころばせた。そして、紺色のカーディガンのポケットから、折りたたんだパンフレットを取り出した。「春栄が泊まってるホテルはここだよ。なんでも、ここの支配人が同級生だとかで、予約が取りやすいんだって」
手渡されたパンフレットの表紙には、琵琶湖をバックにした夕陽に染まったホテルが収まっていた。ホテルの名前は〈レイクサイド彦根〉とある。
「春栄を連れ戻しに、ここへ行くのかい?」
「春栄さんが、このホテルにいるのかを確認しに行かなきゃならないでしょうね。でも、誰が連れ戻すかは、依頼人が決めることです」
「依頼人ねェ……どうせ、あのババアだろ? 〝家出をするなんて、加藤家の恥でございます〟とか、なんとか言ったんじゃないの?」
依頼人は〝あのババア〟――加藤時子ではない。ただ、この稼業にも職業倫理なるものが存在していて、私は第三者に依頼人の名前を明かせないことになっている。鈴木にはなにも答えず、私は煙草を喫い続けた。
「あんたも会ったんだろうからわかると思うけど、あのババアさ、ここの大家に似てるんだよ」
確かに鈴木の言うとおり、時子の佇まいはこの雑居ビルの大家――あの因業ババアに似ていた。私があの〝お屋敷〟で、時子に対していらだちを覚えた理由がわかった。さらに、鈴木が時子の科白を言い当てたこともあって、私は笑みがこぼれそうになるのをこらえた。
「まァいいや」鈴木が灰皿に煙草を押しつけて消した。
コーヒーを一口飲んで、私は気になることを鈴木に訊いた。春栄の居場所がわかった以上、そう重要なことではないのだが、念のためだった。「ところで、春栄さんの友人に〝カオルちゃん〟という人がいるらしいんですが、なにかご存じですか?」
鈴木があっさりと答えた。「〝カオルちゃん〟? ああ、〈やまだ屋〉の女将のことだよ」
「あそこの女将さん……カオルっていうんですか?」
「そうだよ。それで、私の愛人なんだ」鈴木がニヤリと顔をゆるませた。
〈やまだ屋〉では、誰もが彼女のことを〝女将さん〟あるいは〝おねえさん〟としか呼ばない。私が女将の名前を知らないのも無理はなかった。とにかく、私は〈やまだ屋〉の女将――カオルとまったく同じ鈴木の冗談を聞き流して続けた。「春栄さん、その……カオルさんによく電話をしているらしいんですが」
「みたいだね。男の私には、できない相談っていうの……なんかそんなことをしてるそうだよ」そう答えてから、鈴木は慌てて弁明した。「あ、カオルが愛人ってのは、冗談だよ。あの人は、私の女房の妹だから」
「そうですか」昨晩のうちに、女将からその件は聞いたとは答えづらく、私は煙草を喫って頷いた。
「……で、これから、すぐにでも彦根に?」私が興味を持っていないことがわかって、鈴木が話題を変えた。
「その前に、依頼人と連絡をつけます」私は煙草を消した。「それこそ、誰が連れ戻すのかを決めなければなりませんし」
「そう、春栄のこと、頼んだよ」鈴木が身を乗り出して、私の手をつかんだ。「……翔太のためにも、頼みます」
正面から私を見据える鈴木は、春栄の居場所を確認することや、連れ戻すことだけを頼んでいるのではない。
本当の依頼人、小さな依頼人に続いて現れた年老いた依頼人は、もっと別のなにかを願っている。
それは、一番厄介なものだった。
鈴木がコーヒーを飲み干して事務所を去った後――宿酔いが治ったのか、どうかはわからない――私は早速、依頼人である加藤に電話を入れた。〝忙しい〟加藤は電話には出ずに、私は昨晩と同じように留守番電話に「春栄の居場所がわかった」とだけ吹き込み、同じ内容のメールを送った。
それからは、起ち上げたパソコンで新幹線の時刻表を調べたり、新たな依頼が届いていないかメールのチェックをしたりして過ごした。残念なことに新しい依頼は届いていなかった。まだ見ぬ依頼人より、目の前の依頼に集中しろという忠告だと思うことにした。
十時過ぎ、加藤から「十一時頃、改めて電話をする」という旨のメールが返信されてきた。
八
「留守番電話を聞きました……あ、当然、メールも読んでます」
十一時を二分ほど過ぎた頃、加藤から事務所に電話が入った。私が読みかけの『天皇の世紀』第二巻に栞を挟んで受話器を取ると、加藤は相変わらず〝丁寧すぎる〟応対をしてきた。
受話器の向こうからは、どこかの駅前であろう雑踏の音が聞こえた。「今、大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です」と加藤。
いわゆる外回りの最中なのだろう。誰が聞き耳を立てているのかわからない銀行内よりも、外出先の方が加藤にとっては安全な場所なのだ。
「それで、携帯電話が見つかったそうですね」声を抑えてはいるものの、その口調から彼が相当に興奮していることが計り知れた。
「……はい。春栄さんの居場所がわかりました」
「どこにいるんです、春栄は? それで、翔太の携帯電話は?」加藤は矢継ぎ早に質問を返してきた。
「彦根です。これから私は彦根に向かうつもりです。春栄さんが本当にいるのかどうか、確認してきます。どうでしょう、私が彼女を連れ――」
「私も行きます」私に最後まで言葉を継がせずに加藤が言った。「今すぐ……というわけにはいかないですが、都合がつき次第、そちらにお伺いします。翔太の携帯電話を、見つけなければならないんです。こちらを出る前に、またご連絡します」
一方的に電話が切られた。母といい息子といい、こうも独善的なのは、由緒ある家柄だからなのだろうか。なんにせよ、扱いづらい母子であることには変わりはない。受話器を戻して、煙草をくわえた。私は〝血統書付き〟ではないが、感情にまかせて受話器を叩きつけないぐらいの〝お行儀〟は身につけているつもりだ。
新幹線の中でシウマイ弁当を食べる心づもりが外れてしまった私は、近所のコンビニエンスストアに少し早めの昼食を買いに行った。味など関係なく素早く済ませられるという理由で選んだサンドウィッチ――ハムサンドとタマゴサンドを、『天皇の世紀』の続きを読みながらトマトジュースで流し込んだ。しかし、『天皇の世紀』は字面を追っているだけで、頭の中に入ってくることはなく、二ページだけ読み進めて本を閉じた。私は申し訳程度の流しで、パーコレータに残っていたコーヒーを火にかけた。それから、時間をかけて煙草を喫っては、温め直したコーヒーを飲むことを繰り返して、加藤からの連絡を待った。
依頼人がいるというのに――しかも、今回は〝三人〟もいる――仕事がないときと、まったく同じ時間の過ごし方に、私の心はささくれ始めていた。これをいい経験として、今後少しは営業活動に真面目に取り組むべきなのかもしれない。もっとも、根が〝ぐうたら〟な私に、そんなことができればの話だが。
そろそろ十六時を迎える頃、加藤から「これから、そちらにお伺いします」という内容のメールが届いた。加藤の自宅最寄り駅からなら、およそ二時間ほどだろう。加藤には、これから連絡をする際には携帯電話宛にするよう返信をして、私は事務所を後にした。
事務所を出ると、エレベータに入る男女を見送る鈴木がいた。見送られている男も女も二十代の後半といったところだろう。エレベータに乗り込むと、男は深々と頭を下げ続け、女は鈴木に向かって笑顔で手を振り続けていた。鈴木は黙ったままドアが閉まるまで、ふたりを見送っていた。
エレベータが動き出したのを確認してから、私は鈴木の背中に声をかけた。
鈴木とエレベータのふたりがおよそビジネスの間柄でないことは、誰が見ても明らかだった。しかし、鈴木は私が〈やまだ屋〉の女将、カオルから鈴木の身の上話を聞いていることを知らない。私は一芝居打って訊いた。「今の人たちは、お客さんですか? 繁盛してますね」
「違うよ……娘とその結婚相手」振り向いた鈴木の目は、少し潤んでいるように見えた。「なんか、わざわざ仕事休んでまでして、私のところに挨拶に来たんだよ」
私は芝居を続けた。「お嬢さん、結婚されるんですか。おめでとうございます」
「ありがとう」鈴木は照れくさそうに頭をかいた。
「ちょっと見ただけですけど……相手の方は、真面目そうな人じゃないですか」
「真面目ねェ……」鈴木はフンと鼻を鳴らした。「真面目過ぎちゃってさ、酒も煙草もやらないっていうんだよ。面白くないヤツだよ、まったく」
毒づいた言葉とは裏腹の表情をしていた。翔太が訪れると疲れてしょうがないといったときのように。
「――ところで、あなたはお出かけかい?」と鈴木が訊いた。
私が、しばらく事務所を離れるので訪問者があったときには、事務所の前で待つように伝えて欲しいと頼むと、鈴木は快く引き受けてくれた。
私は鈴木にお礼を言って、階段を使って一階まで降りた。路地を抜けて近くにある大型書店に向かい、旅行関連の書籍があるコーナーで春栄がいるというホテル――〈レイクサイド彦根〉周辺について調べた。この程度のことなら、今のご時世、事務所のパソコンを使えば簡単に検索できる。むしろインターネットの方が情報量としては多いだろう。それを承知でわざわざここまできたのは、ただ単に私が外の空気を吸いたかっただけ、だからだ。
〈レイクサイド彦根〉の調査ついでに古書店巡り――要するに立ち読みだ――をして暇をつぶした私が戻ってきて十分後、事務所のドアがノックされた。
私が「どうぞ」と応える前にドアを開けて飛び込んできたのは、三人いる依頼人のなかで一番小さな依頼人だった。その小さな依頼人が最初に口にしたのは、初めて訪れたときのように自己紹介でもなく、ましてや季節はずれの決まり文句〝トリック・オア・トリート〟でもなかった。
「ハルちゃん、見つかったんだって!」紺色のピーコートを着た小さな依頼人――翔太が、デスクの前まで駆け寄ってきた。春栄に取り違えられた〝秘密道具〟である携帯電話の代わりに、今日は二十三世紀からやって来た猫型ロボットがデザインされた彼には少し大きい水色のカバンを襷がけにしていた。
デスクの向こうから顔だけ覗かせた翔太に訊いた。「お前、なんでここにいるんだ?」
「お父さんと、一緒に来たんだよ」
「お父さん?……お父さんは、どこにいるんだ?」
「隣だよ。〝みのじい〟のところ」
「〝みのじい〟のところ?」
「うん。それでね、お父さんと〝みのじい〟が、おじさんのところで待ってなさいって」
大きく息をついて、私は立ち上がった。事務所の窓を半分ほど開けて、煙草に火をつける。
「タンテーのおじさん、ハルちゃんはどこにいるの?」
「大人にしか話さない」
「そんなのずるいよォ」
地団駄を踏む翔太を見て、私の回答は随分と大人気ないものだったことに気づかされた。私は翔太に背を向けたまま、窓の外に向かって煙を吐き出した。冷たい風に当たり、私にとっての精神安定剤――ニコチンを注入したおかげで、煙草を三服する頃には私も冷静さを取り戻した。そして、この事務所がある雑居ビルの前に、ワンボックスカーが駐車されていることに気がついた。
私はワンボックスカーを眺めながら訊いた。「翔太……お前、車で来たのか?」
「そうだよ。お父さん、運転上手いんだよ」誇らしげに答える翔太の声が、背中越しに聞こえた。
「そうか、運転上手いのか……」
よく見れば隣のビルの前にも、もう一台が駐車されていた。日が落ちてしまったせいで、車種を特定することはできなかったが。
――この寂れた路地裏に車が二台も入ってくるとは、珍しいこともあるものだ
それにしても、加藤は車で彦根まで行こうとしているのだろうか。彦根なら新幹線を使えば三時間程度で到着するはずで、最終電車までには充分に時間があった。とにかく、話をつけるのは、ここまで連れてこられた翔太のことと併せて、鈴木の事務所にいるという加藤が私の事務所に姿を見せてからだ。
そんなことを考えて煙草を喫っていると、私は背後にかすかな気配を感じた。振り返ると、デスクの向こうにいたはずの翔太が、こちら側に忍び込もうとしていた。私が背を向けて煙草を喫っている隙を狙った〝秘密道具〟目当ての〝犯行〟だった。
やましいことはとにかく笑って済ませてしまおうというのは、年齢に関係ないことなのだろうか。私に感づかれた翔太は動きを止めて、ばつが悪そうに小さく笑った。
「翔太……お前、なにをしようとしてる。ここにお前のお目当ての〝秘密道具〟なんかないぞ」小さな依頼人でもあり、〝不法侵入の現行犯〟でもある翔太に、この際ばかりと私は現実を突きつけてやった。
「じゃあ、どこにあるの?」
諦めが悪いのか、私が思う以上に心が強いのか――事務所のドアがノックされたのは、腰に手を当てた翔太と私が睨み合う恰好になったときだった。
「多分……お父さんだ」そう言って、翔太は後ろへ三歩下がった。ただ、私から視線を外そうとはしなかった。
私が応えないので、もう一度ドアがノックされた。
「翔太、開けてやれ。お父さんだ」
ようやく目をそらした翔太がドアを開けてやると、カーディガン姿の鈴木が顔を出し、継いでコートとカバンを小脇に抱えたスーツ姿の加藤が事務所に入ってきた。
「加藤さん、ちょっと……」私は加藤をデスクに呼びつけた。
それを見て、鈴木は翔太を捕まえて応接セットへと向かった。
「なんで、翔太君を連れてきたんです?」
「いや、あの、お母さんたちの会合にですね、春栄の代わりに、ウチの……」
鈴木からの情報がなければ、私がなんとかして潜り込もうとしていた〝お母さんたちの会合〟は、確か今日の十七時だと聞いている。「その会合には、時子さんが出ることになった。それで?」
「はい、そうです。ただその会合の後、今日は書道仲間との食事会があるとかで、翔太の面倒は見れないと言うものですから……」
「それで、翔太君をここに連れてきた……ということは、翔太君は鈴木さんに預けていくんですよね?」
「そのつもりだったんですが……」歯切れの悪い回答しかしない加藤は、その原因と思われる応接セットの鈴木に目をやった。鈴木は応接セットに座らせた翔太と、なにやら話し込んでいる。
私と加藤の視線に気づいた鈴木が言った。「翔太を連れて行ってやってくれないかな」
「鈴木さん……」
「私が高明君に頼んだんだ。翔太を一緒に連れて行ってやってくれ。頼むよ……探偵さん」
彼は面倒な子守を私に押しつけようとしているわけではない。鈴木の表情と口調で、私は今朝、鈴木にされた依頼を思い出した。これが一番厄介な依頼なのだが、この稼業は依頼人の言うことは絶対なのだ。
「――わかりました。三人で行きましょう」
私と鈴木のやり取りを真剣な表情で見ていた翔太が、私の回答を聞いて目を輝かせた。どうやら〝冒険旅行〟にでも連れて行ってもらえると思っているようだった。
デスクの灰皿で煙草を消して、私は加藤に訊いた。「彦根までは、車で行くんですか?」
「はい。バスを乗り継いで通勤しているせいなのか、私は電車に乗り慣れていないものでして……車で移動する方が楽なんです」
車で彦根まで行ったとして、かかる時間はおそらく六時間近くになるはずだ。〝いい歳をした〟私と加藤はいいとして、翔太は耐えられるのだろうか。
ちらりと翔太に視線を移した私に、加藤が言った。「翔太なら大丈夫です。車での移動には慣れてますから」
「おじさん、ボクなら大丈夫だよ」翔太がさらりと言ってのけた。
そう答える翔太の向こうで、鈴木が黙って頷いていた。三人いる依頼人の中で一番信用できる男の回答を見て、私も腹を括った。
「――それで、すぐ出発しますか?」
「できれば、今すぐにでも」と加藤。
「そうですか……私にも準備がありますので、先に車で待っていてください。このビルの前に駐車している車ですよね?」
「そうです。ビルの前に停めたエスティマです」
「すぐに追いかけます」
加藤は翔太を連れて、ドアの方へと向かった。〝冒険旅行〟へ出発する翔太の足取りは軽く、襷がけにされた水色のカバンが翔太の動きに合わせて弾んでいた。鈴木は少し遅れて私の事務所を後にした。
三人を見送った私はデスクに腰をかけ、新しい煙草にブックマッチで火をつけて、時間をかけてゆっくりと喫った。おそらく加藤の車は禁煙だろうから、今のうちにニコチンを補充しておく。根元まできっちりと喫った煙草を灰皿で消してから、窓を閉めて事務所の電灯を落とした。コートを羽織りながら、階段を使って一階まで降りて、雑居ビルの前に駐車されたシルバーのエスティマに向かった。
運転席から降りてきた加藤が開けてくれた助手席のドアに手をかけたとき、ふと路地を見やると隣のビルの前には、まだ車が停められていた。
――珍しいこともあるものだ
九
〈代官町〉の入口から首都高に乗り、都心環状線を走る。〈谷町ジャンクション〉を抜けて〈用賀インター〉から東名高速に入った。翔太が私に自慢したように加藤の運転は巧みで、東名高速に入る直前、〈大橋ジャンクション〉付近で発生する〝恒例〟の渋滞を上手くすり抜けられたのも、彼のハンドル捌きのおかげだった。ここまでは順調なペースで進んでいると言っていいだろう。
後部座席の背もたれを倒してベッド代わりにしたスペースで、毛布にくるまっていた翔太が「お腹が空いた」と訴えたのは、〈横浜青葉 市ケ尾〉と記された標識が、私の視界を通り過ぎていったときのことだった。
運転に集中しているのか、なにも応えない加藤に代わり、私が後部座席を振り向いて言った。「翔太……もう少し、我慢できるか?」
「大丈夫、我慢できるよ」上半身だけ起こして翔太が答えた。
健気に答える翔太に頷いて応えてやってから、私は運転席の加藤に言った。「〈港北〉で一旦、休みませんか?」
運転に集中しているのか、加藤が無反応だったので、私は先刻よりも語気を強めて言った。「加藤さん、〈港北〉で休みましょう」
「……しょうがありませんね」ようやく加藤が前を見つめたまま、呟くように返事をした。
エスティマは減速しながら一番左の車線に移り、〈港北パーキングエリア〉へと入っていった。加藤はエスティマを一番奥の駐車スペースに滑り込ませると、後部座席の翔太に「ちょっと、待っていなさい」と声をかけて、真っ先に車を降りた。そして、外から後部座席のドアを開けて、翔太を降ろしてやる。
〈港北パーキングエリア〉で休もうと言い出した当の本人が取り残される恰好になってしまい、私も慌てて助手席から車を降りた。加藤はリモコンでエスティマに施錠して、翔太の手を引いて歩き始めた。ふたりは〈港北パーキングエリア〉を使うことに慣れているのか、迷うことなくフードコートへと向かい、食券の販売機に並んだ。当然、私もそれに従う。加藤と翔太は醤油ラーメンを、私は〝腹持ち〟が良さそうという理由だけで、カレーライスを注文した。てっきりカウンターで食券を渡すのかと思いきや、親子は食券を手にしたまま四人掛けのテーブルに並んで腰を降ろした。注文の仕方のわからない私は、遅れてふたりの正面に座った。
子供心にも私は挙動不審に見えたのだろうか、翔太が私に言った。「番号が呼ばれるから、そうしたら取りに行けばいいんだよ」
翔太が指差した先――厨房の上にモニターが設置されていて、料理が出来上がると食券の番号が表示されるシステムになっていた。
「よく来るのか? ここに」
「うんとね……」翔太が指を折りながら言った。「大垣のおばあちゃんのお家に行くときに、三回ぐらい。そうだよね、お父さん」
翔太の祖母は、あの因業ババアに似た雰囲気を持つ時子と、春栄の――いや、春栄はすでに両親を亡くしている。ということは、先妻の実家のことなのだろうか。
「大垣は、私の祖母の在所です。祖母は五年前に亡くなりましたけど、まだ親戚が残っているものですから、たまに顔を見せに行くんです」
「そのときも、車で?」
「ええ、基本的に移動は、車ですね――」
私と世間話を始めた加藤の腕を翔太がつつき、厨房の上にあるモニターを指差した。『108』と『109』が点滅して、ふたりの醤油ラーメンが出来上がったことを知らせていた。
「ちょっと、行ってきます」立ち上がった加藤が醤油ラーメンを受け取りに行った。
「おじさんは、なにを頼んだの?」
「カレーライス」
「ふゥん……普通だね」
――大きなお世話だ。醤油ラーメンと違って、カレーライスに〝外れ〟は少ないのだ
小学生相手に言うことでもないので、〝いい歳をした大人〟である私はため息をついてやり過ごした。醤油ラーメンを受け取った加藤がテーブルに戻る頃、先刻のモニターに翔太曰く〝普通のメニュー〟であるカレーライスが出来上がったことを知らせる『110』の番号――偶然とはいえ、忌々しい番号だ――が点滅した。
私は戻ってきた加藤に「失礼」と言って立ち上がり、カウンターに向かった。カレーライスを受け取った私が、再びふたりの前に腰を降ろすと、加藤は翔太のコートを脱がせてシャツの袖をまくってやっていた。先刻、翔太と私が〈港北パーキングエリア〉での休憩を申し出たときからは考えられない甲斐甲斐しい加藤の様子から察するに、彼は〝ハンドルを握ると人格が変わるタイプ〟なのかもしれなかった。
辺りを見回せば、〈港北パーキングエリア〉は東名高速で最初の休憩所ということのせいか、いわゆる〝トイレ休憩〟の客がほとんどで、食事をしている客はまばらだった。しかも、食事をしている客層は、長距離ドライバーや営業先から戻るサラリーマンが中心で、子供を連れているのは私たちだけだった。行き交う客は、私たちのテーブルを必ず興味深げに一瞥していく。必至に醤油ラーメンをすする翔太と、その食事を世話する加藤は、誰から見ても実の親子に映るだろう。その正面でカレーライスを食べる私は、親子連れにつきまとう借金取りか、あるいは出来の悪い加藤の兄弟かなにかに思われているのに違いない。もっとも、ここで私が素性を明らかにしたとしても、彼らの私を見る目が変わることはないのだが。
いつもより時間をかけてカレーライスを食べたつもりだったのだが――味はいたって〝普通〟だった――ふたりの丼には、まだ醤油ラーメンが半分ほど残っていた。
私は加藤に煙草を喫ってくると断りを入れて、席を離れた。カウンターに食器を下げて、敷地内の一番奥にある喫煙所へと向かう。いまや日陰者になってしまった同志たちの中に入り、煙草をくわえた。次に喫煙できる機会がいつ巡ってくるのかわからないので、食後の一服である一本目を早々に喫い切ると、すぐに新しい煙草にブックマッチを使って火をつけた。噛み締めるようにして紫煙を味わう。二本目を喫い終わり、三本目の煙草に火をつけるかどうかを迷っていると、フードコートから出てきた翔太が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
私を認めた翔太が叫んだ。「おじさん、出発するよ!」
私は取り出した三本目の煙草を箱に戻した。
さあ、〝冒険旅行〟の再開だ。
腹がくちた翔太はエスティマの後部座席に乗るなり、毛布にくるまって横になった。保土ケ谷バイパスへの分岐でもある〈横浜町田インター〉を過ぎる頃には、後部座席から規則的な寝息が聞こえてきた。
〝ハンドルを握ると人格の変わる〟加藤が運転に集中してしまったので、私は助手席で前を見つめたまま、次はどこで煙草を喫えるのかをぼんやりと考えていた。
追越車線を八〇キロでのんびりと走る大型トラックに前方を塞がれると、加藤は左に車線変更して走行車線から追い抜き、充分に車間距離を取ってから、追越車線にエスティマを戻した。後続の車も同じようにして、大型トラックを追い抜く。
それから二十分ほど巡航して、加藤はエスティマを走行車線へと移した。先刻、エスティマと同じように大型トラックを追い抜いた後続車も左に車線変更した。
〈港北パーキングエリア〉を出発してから、ここまでなにも言わなかった加藤が呟いた。「ダメだ……」
「なにが、ダメなんです?」私はバックミラーで後続車を気にしながら訊いた
「すいません。夕飯を食べたら、急に眠気が襲ってきまして……」加藤は眼鏡の奥で、目をしばたたかせていた。「運転、代わっていただけます?」
「……わかりました。〈海老名〉で交代しましょう」
先刻、通り過ぎていった標識に〈海老名サービスエリア〉まで二キロとあった。
「申し訳ないですけど……お願いします」加藤は左手で軽く自分の頬を叩いた。
やがて〈海老名サービスエリア〉が近づいてきた。左側に進入レーンが伸びてゆく。加藤が左にウインカーを出した。後続車も左にウインカーを出しているのが、バックミラーに映っていた。
「加藤さん、〈海老名〉はやめましょう。ここは騒々しい。せっかく寝ついた翔太君が目を覚ましてしまうかもしれない。次の〈中井〉で交代しましょう」私は助手席から手を伸ばして、ハンドルを軽くつかんだ。
ちらりと後部座席で眠る翔太に視線を移して、加藤が答えた。「……そうですね。〈中井〉にしましょう」
加藤がハンドルを右に切り、〈海老名サービスエリア〉の進入レーンに入りかけたエスティマを本線に戻した。
「〈中井〉まで、ここから二十分ぐらいですけど……〝どうしても〟のときは、正直に言ってください。路肩に停めて、交代しましょう」私はハンドルから手を離した。
「〈中井〉までなら我慢できます。路肩に停める方が恐い……」加藤が小さく笑った。
「じゃァ、〈中井〉まで頼みます」私も加藤に笑みを返しながら、後続車が左に出したウインカーを戻したことを、私はバックミラー越しに見逃さなかった。そして、進入レーンの外灯に照らされた後続車のフロントグリルに、ライオンのエンブレムが刻まれていることを確認した。
〝後続車〟――もう尾行者と言い換えても差し支えはないだろう――を従えて、〈中井パーキングエリア〉に到着したときには、二十一時になろうとしていた。
加藤はエスティマをトイレに近い駐車スペースに停めると、眼鏡を外して目を閉じた。右手の親指と人差し指でまぶたの上からしきりと目を揉む。「すいません。今朝は、早かったもので……」
「お疲れなのは、しょうがありませんよ」私のように不規則極まりない稼業とは違って、規則正しい生活をしている加藤にとって、金曜の夜は一週間の疲れがどっと出る時間帯だ。無理もない。「さァ、運転を代わりましょう」助手席のドアを開けて、エスティマから降りた。
「あの……」運転席から降りた加藤が、私になにかを話しかけようとしてやめた。慌てて上着からスマートホン――マナーモードにしてあったのだろう――を取り出した。スマートホンの画面を見て加藤が言った。「支店長からです」
私は加藤に身振りで、電話に出ることを促した。箱から煙草を一本振り出してくわえると、少しだけ加藤から離れて煙草にブックマッチを使って火をつけた。狭い車内からようやく解放されて身体を伸ばしているフリをして、辺りを探ってみる。
私たちの乗るエスティマから三台挟んだ一列後ろの駐車スペースに、フロントグリルにライオンのエンブレムが刻まれた青いプジョーが駐車されていた。トイレに立つでもなく、買い物をするでもなくヘッドライトを点けたままのプジョーの車内には、ふたつの人影があった。助手席の男がこちらを見つめ、運転席の女は正面を見つめてなにやら口を動かしていた。よく見ると、女は右の耳にイヤホンをしている。電話をしているようだ。こちらを見つめる男はまったく知らない顔だったが、女の横顔はどこかで見覚えがあった。名前までは思い出せない。とにかく、もう少し近づいて女の顔を見てみれば、思い出すだろう。
「すいません!」くわえ煙草のまま、今度は缶コーヒーでも買いに行く芝居をしてプジョーに近づこうとした私を、加藤が呼び止めた。「春栄は彦根のどこにいるんですか?」
「春栄さん……ですか?」他人様に聞かせる話ではないので、私は加藤に歩み寄った。
「そうです」加藤はまだ電話の途中のようで、送話口を左手で押さえていた。
「春栄さんは……」プジョーの女が口の動きを止めていることを、私は視界の端に捉えていた。「春栄さんは、〈サザンレイク彦根〉というホテルにいます」
「そうですか。ありがとうございます」私に背を向けて電話を続けた。なにを話しているかは聞こえなかった。
こちらに横顔を見せている女の口が、再び動き出した。まさかとは思うが、用心に越したことはない。
「お騒がせしました」電話を終えた加藤がこちらを振り返った。「今日は大垣にいる私の親戚が、彦根の病院に入院したので、お見舞いに行かなきゃならないと言って早引けしたものですから……支店長が状況報告をしろと言ってきたんです」
「そうですか……あなたも大変ですね」
「まァ、仕方がないです。ところで、あの……ちょっと、トイレに行ってきてもいいですか?」
「どうぞ。私はここでお待ちしています」
私はエスティマに寄りかかって、トイレに行く加藤を見送った。視界の端でプジョーを――ようやくヘッドライトを消していた――捉える。男と女は車内でなにやら話し込んでいた。女がちらりとこちらを見た。正面を向いた女の顔を見て、私はようやく女のことを思い出した。
――ヘッドライトを点けたまま駐車するなんざ、相変わらずどこか抜けているヤツだ。それにしても、ただ単に家出した妻に会いに行くだけの親子を、なぜあの女が尾行するのだろうか
煙草を喫いながら、そんなことを考えた。
――まあ、いいさ。とにかく、運転を交代した後で、あいつらを〝まいて〟しまえばいい
早々に結論づけて、私は携帯用灰皿に煙草を押し込んだ。
やがて、トイレから帰ってきた加藤が「それでは、お願いします」と言って、助手席に乗り込んだ。
左の掌に右の拳を叩きつけ、自らに気合いを入れて運転席に座った私に加藤が訊いてきた。「運転、お好きなんですか?」
「……そう、見えますか?」
「はい。なんだか、楽しそうですよ」と加藤。
――だとしたら、それは運転ができるからじゃない。もっと別のことのせいだ
「楽しい……ですね。さて、出発しますよ」私はエスティマを発進させた。
私たちが出発するのを確認したプジョーのヘッドライトが点灯する。尾行を再開させたプジョーは強引な割り込みをしたせいで、その後ろから来るマイクロバスにクラクションを鳴らされていた。
――まぬけな尾行者だ
私は自分の唇の端が上がっていることに気づいた。
「そういえば、春栄は翔太の携帯電話を、ちゃんと持ってるんでしょうね?」走行車線を八〇キロでエスティマを走らせる私に加藤が訊いてきた。
「さァ……私は彼女の居場所を調査しただけ、ですからねェ。携帯電話については、春栄さんに訊いてください」今度は本当のことを答えた。
「確かに、そうですね」加藤は私の返答に納得して、眼鏡を外すと上着のポケットにしまった。「すいません。ちょっと寝かせていただきます」
「どうぞ。ゆっくり休んでください」
腕を組んで目を閉じた加藤は、〈大井松田インター〉を過ぎる頃には小さく鼾をかき始めた。こうも親子揃って寝付きがいいとは。
バックミラーに目をやると、プジョーが一定の車間距離を保ってついてくるのが見えた。もう間もなく、東名高速は〈右ルート〉と〈左ルート〉に分岐する。そこからが勝負だ。
誰かをつけ回すのが私の稼業だ。誰かにつけ回されているようでは、この稼業をやっていけない。
十
勾配のきつい〈大井松田インター〉―〈御殿場インター〉間は、上下線ともかつて渋滞の名所だった。この渋滞を解消するため、新しい上り線が建設された。そして、これまで上り線だった道路は下り線〈右ルート〉と名称を変えて車線を増設させることとなり、従来の下り線は〈左ルート〉と呼ばれるようになった。その〈右ルート〉と〈左ルート〉の分岐が目の前に迫ってきた。前を行く夜行バスと大型トラックは、従来の下り線である〈左ルート〉を選択していく。〈右ルート〉は勾配がきつい上、元々が上り線だったことから構造上〝逆走〟することになるため、〈左ルート〉よりも運転が難しい。大型車が、走りやすい〈左ルート〉を選ぶのは当然だった。
私はエスティマを〈右ルート〉に乗せた。尾行者であるプジョーを気にしながら、大型車にも気を配るのは私にとって難しいことだった。
〈右ルート〉と〈左ルート〉の分岐を越えると、追越車線から来るヘッドライトがあっという間に大きくなり、爆音を立ててプジョーとエスティマを追い抜いていった。ガンメタリックのスカイライン――おそらく一昔前の型式であるR32だろう――だった。少なくとも一三〇キロは出しているはずだ。〈右ルート〉は大型車が少ないこともあり、あの手の〝腕自慢〟を称する輩が、結構なスピードで走行している。
流れに乗せるため、私はアクセルを踏んだ。スピードメーターが一〇〇キロを示す。当然、プジョーもスピードを上げてついてきた。プジョーの様子を見る限り、私が彼女たちの尾行に気づいているとは考えていないようだった。
左に大きく曲がるカーブを抜けると、前方にテールランプが迫ってきた。私はナンバーが確認できるまでエスティマを近づけると、アクセルをゆるめて充分な車間距離を取った。スピードメーターには、七〇キロの表示。
――インプレッサなら、もう少し速く走れるだろうに。
先を行くインプレッサの前方に〈吾妻山トンネル〉が見えた。中央線が車線変更禁止を意味する黄色に変わる。インプレッサに続いて、〈吾妻山トンネル〉に入った。プジョーのヘッドライトが遠のく。やはり彼女たちは、私にまだ気づかれていないと思っている。トンネル内の外灯で照らされることで、尾行を感づかれることを嫌ったのだ。
私は大きく息をついて、右手、左手の順にズボンで汗を拭った。次の〈都夫良野トンネル〉が勝負だ。〈吾妻山トンネル〉から〈都夫良野トンネル〉まで、さほど距離はない。プジョーのヘッドライトは先刻から遠いままだった。私はゆっくりとアクセルを踏み、もう一度ナンバーが確認できる距離までエスティマを近づけた。そのまま二台連なって〈都夫良野トンネル〉に入る。まだ〈都夫良野トンネル〉に進入していないプジョーからは、エスティマと先を行くインプレッサの距離を性格につかむことは難しいはずだ。私に〝煽られた〟恰好で――ドライバーからすればいい迷惑だろう――インプレッサがスピードを上げる。スピードメーターの表示は八〇キロ。
〈都夫良野トンネル〉の出口が見えた。ここが勝負のポイントだ。右の車線を確かめる。後方から来る車はない。インプレッサが〈都夫良野トンネル〉を出る。続いてエスティマがトンネル出口を通過――
私はエスティマのライトを落とした。ウインカーを出さずに、ハンドルを右に切ってアクセルを踏みつける。インプレッサのヘッドライトを頼りに一気に右側から追い抜き、左のサイドミラーにヘッドライトがふたつ映ったのを確認して、車線を左に戻した。再びエスティマのヘッドライトを灯す。
そのままスピードを落とさず、左右に続くコーナーを一気に駆け抜けた。インプレッサのヘッドライトがあっという間に遠ざかる。その後ろに控えるプジョーのヘッドライトは〈都夫良野トンネル〉進入前よりも小さく見えた。〈右ルート〉が〈左ルート〉に合流するまでに、プジョーとの距離を広げておかなければならない。昼間であれば、この辺りなら箱根山系の紅葉を楽しめただろうが、たとえ昼間であったとしても、今の私にそんな余裕はなかっただろう。ハンドルを握る私の掌には、じっとりと汗がにじんでいた。私は久しぶりに味わうこの手のスリルに年甲斐もなく心を躍らせていていた。〝冒険旅行〟を一番楽しんでいるのは、後部座席で眠る翔太ではなく、私だった。自動車教習所推奨の〝十時十分〟の形でハンドルを握り、右に大きく曲がるきついカーブを抜ける。エスティマの右側を通り過ぎて行く青い看板が、静岡県に入ったことを告げていた。間もなく〈右ルート〉と〈左ルート〉が合流する――
〈右ルート〉と〈左ルート〉の合流地点を過ぎてから、私は少しだけスピードを落とした。今度は三車線ある下り線を目一杯活用して、〈左ルート〉から合流してきた大型車の間を縫うようにして追い越して行く。
いくら楽しい〝冒険旅行〟とはいえ、いつまでもこんな運転を続けているわけにはいかなかった。さすがに私の緊張感も限界を迎えようとしていた。
――この一カ月、立て続けに舞い込んできた依頼を真面目にこなしてきたんだ。そろそろ〝日頃の行い〟が報われてもいいはずだ
私の思いが報われたのは、〈足柄サービスエリア〉を通過したときのことだった。
〝幸運の女神〟が、赤いパトランプを点滅させて私の背後からやって来たのだ。
「……じゃあ、運転手さん、ここからは安全運転でお願いしますよ」
二十歳そこそこの警官に説教された私は、彼とコンビを組む中年の女性警官が差し出すティッシュペーパーで右の人差し指を拭った。
「ちっちゃいお子さんも乗せてるんだから、頼みますね」
あからさまな作り笑顔で言う女性警官の向こうに、一番左の車線を駆け抜けていく青いプジョーが見えた。
「ちょっと、なにニヤついてんだよ! あんた、ちゃんと話聞いてんの?」
「よしなさい、片桐君」まだ若造の警官を、女性警官がたしなめた。
思わず顔に出てしまうとは、私もまだまだ修行不足のようだ。図らずも浮いてしまった笑みを消して殊勝な顔を作り、肩をすぼめてうつむいた。ついでに、上目遣いでふたりを見る。
「もう一度、言います」女性警官は作り笑顔のまま――目だけは笑っていなかったが――私に言った。「お子さんのためにも、この先は安全運転でお願いしますね」
私はふたりに恭しく「申し訳ありませんでした」と頭を下げて、覆面パトカーを降りた。覆面パトカーを運転していたのが、本当に女性警官だったことにはいささか驚かされたが、手続きを済ませてしまえば彼女は〝幸運の女神〟でもなんでもなく、ただの警官だった。事実、彼女は「さよなら」も言わずに、新たな〝容疑者〟を捜しに覆面パトカーを発進させた。
コートはエスティマの中なので、吹きつける寒風が身に染みた。路肩に停められたエスティマに向かう私の横を、先刻〈右ルート〉で追い越した白いインプレッサが通り抜ける。車内では〝ほら、言わんこっちゃない〟などと呟かれているだろう。
エスティマの中では、助手席で加藤が携帯電話でなにやら話し込んでいた。また支店長からの電話なのだろうか。私は煙草をくわえると、上着を使って風を遮り、ブックマッチで火をつけた。
尾行を〝まく〟ということは尾行者の前から姿を消すことだ。しかし、そのための手段は、猛スピードで尾行者から逃げ切ってしまうことだけではない。もうひとつ、尾行者の背後に回り込んでしまうという手があるのだ。そこで考えた手段が、私たちが警察の厄介になることだった。高速道路上であれば、私たちが警察に足止めを食らっている間でも、尾行者は先に進まねばならない。しかも、私たちをつけ回しているのは、あの女だ。〝脛に傷を持つ〟あの女が、自ら進んで警察に近づいてくるような真似をするわけがない。そして、幸いなことに〈大井松田インター〉―〈御殿場インター〉間は、〈右ルート〉と〈左ルート〉の分岐で私たちを追い抜いていったスカイラインのような〝腕自慢〟たちが数多く出没するため、覆面パトカーが巡回をして目を光らせている区間だった。
いささか賭けの要素があったことは否めないが、ここ一カ月の〝日頃の行い〟が良かったおかげで、尾行者をやり過ごす――つまりは、あの女を〝まく〟ことができた。
――作戦成功。ただし、二〇キロの速度超過による減点「2」。罰金一万五千円なり
煙草を喫い終わってエスティマを見ると、電話を終えた加藤が助手席から不機嫌そうに私を見ていた。私は煙草を携帯用灰皿で消して、運転席のドアを開けた。
「運転がお好きなのはわかりますけどね、もうちょっと安全運転でお願いしますよ。翔太も乗ってるんですよ」運転席に乗り込んだ私に加藤が言ったのは、覆面パトカーでされた説教とまったく同じことだった。
「いやァ……すいません」私は恐縮して答えた。後部座席を見れば、翔太は何事もなかったかのように熟睡している。〝もっけの幸い〟だった。
「行き先がわかってるから、いいようなものの……気をつけてくださいよ」
「……本当に、すいません」私はエンジンをかけて、エスティマをゆっくりと発進させた。「これからは、安全に運転できそうです」
――罰金一万五千円なり。これは、経費に計上できるのだろうか
彦根に向けて再び出発してからは、彼の機嫌をこれ以上損ねないように、一番左の車線で八〇キロをキープしたまま走り続けた。〈御殿場インター〉を通過するときには、あの女が待ち受けていないか、気を配ってみたが、青いプジョーの姿はなかった。
東名高速と新東名高速が分岐する〈御殿場ジャンクション〉を前にして、加藤は「新東名を走ってください」と言った。私は加藤の指示におとなしく従い、エスティマを新東名高速に乗せた。
我が国の新たな大動脈の走行は快適だった。〝新〟東名と名乗るだけのことはある。なにか新しい工法で舗装が整備されているのか、車内の騒音は静かで、これならドライブ中の会話も弾むだろう。もっとも、我らがエスティマの車内といえば、後部座席で翔太が熟睡、そして気がつけば加藤も眼鏡をかけたまま寝息を立ててしまったせいで、話し相手のいなくなってしまった私は、アクセルを踏んで一〇〇キロまで速度を上げると、時折右側の追越車線を駆け抜けて車に言葉を投げかけて――〝スピード違反で捕まっちまえ〟〝一発免停になってしまえ〟など――持て余した暇をつぶしながら、〝安全〟運転で一路西に向かった。
そろそろ日付が変わろうとする頃、私はエスティマのガソリンメーターが、最後の一目盛りを切ったことに気がついた。ところが、新東名高速はサービスエリアやパーキングエリアが東名高速よりも少なく、ガス欠の恐怖が頭をよぎったが、次のサービスエリアである〈浜松サービスエリア〉の標識からガソリンスタンドが併設されていることがわかり、私の心配は杞憂に終わった。
〈浜松サービスエリア〉に乗り入れてすぐのガソリンスタンドにエスティマを停めた。ガソリンスタンドには先客がいて、まだあどけなさの残る店員はそちらの相手をしていた。私が運転席から降りると、先客のフロントガラスを拭いていた店員が「少々、お待ちください!」と覇気のある声で言った。
煌々と照らされるガソリンスタンドの照明に目がちらついた。さすがに私も疲れていた。両の手を使って目をマッサージしてやる。
しばらくして、給油と窓拭きを終えた先客がガソリンスタンドを出ていった。
「ありがとうございました!」と店員は顔を膝につけんばかりのお辞儀で見送ると、私のところに駆け寄ってきて、声のボリュームをそのままに挨拶した。「いらっしゃいませ!」
この店の接客マニュアルに従っているだけなのだろうが、まだあどけなさを残す店員の声は、今の私には耳をつんざく騒音でしかなかった。
「どうなさいますか!」店員は私の鼓膜を破らんばかりの大声で続けた。
私は店員の声、いや彼の若さからくる勢いに負けてしまったようで、思わず「レギュラー、満タン、現金で」と答えてしまっていた。今の状態で満タンにした場合、ガソリン代がいくらになるのか、私は知らない。こればかりは加藤に教えを乞わねばならず、私が運転席のドアを開けると、眼鏡をかけたまま眠っていた加藤は、ちょうど目を覚ましたところだった。
「給油……ですか?」寝起き特有のしゃがれ声で、加藤が言った。
「ええ。満タンで問題ないですよね。この車、どれだけ入るんですか?」私は財布を探った。
加藤が上着の内ポケットに入れた右手を押さえた。「あァ、大丈夫です。私が払います」
「いいですよ。これぐらいなら、私でも払えますから」どれほどの金額になるのか、わかっていないが。
「いいえ。あなたがここで払っても、結局は経費として私が払うことになるんですから……」毛布代わりにしていたコートに袖を通しながら、加藤が助手席から降りた。「あ……先ほどの罰金は、経費にはならないですからね」
――罰金一万五千円、経費計上に失敗せり
十一
〈浜松サービスエリア〉で仮眠を取ろうと言い出したのは、加藤だった。
私は加藤の提案に同意した。情けない話になるが、私も眠気に襲われつつあった。あの女を〝まく〟ことに、気力、体力ともに奪われてしまったようだ。
あの顔と膝をくっつけるお辞儀に見送られ、ガソリンスタンドを後にした。深夜帯ということを考慮してなのか、控え目な外灯に照らされた〈浜松サービスエリア〉の駐車スペースには、大型トラックも含めて十数台が停められていた。私は喫煙所の近くにある駐車スペースにエスティマに停めた。
「お疲れでしょう……ここまで、ありがとうございました」助手席から加藤が言った。
「いやァ、お恥ずかしいところを見せてしまったようで……」
「終わったことですけど、一歩間違えば、事故になってたかもしれないんですよ。以後、気をつけてください」
「申し訳ありませんでした」私は深々と頭を下げて謝罪した。先刻のガソリンスタンドの店員には及ばないが。
「今……私、〝以後、気をつけてください〟って言ってしまいましたね。すいません。最近、部下に注意を促すことが多くて……口癖みたいになってしまって」
「いやァ……行き先がわかってるとはいえ、私もちょっと調子に乗ってしまいました」
「そうですね。行き先がわかってても、急がなければならなくても、スピード違反までして急いで行く必要はないんです」
銀行で部下を叱る加藤の姿を想像した。大声で怒鳴りつけるのではなく、静かに部下を諭しているのだろう。部下を叱る本人は感情的にならずに、理詰めで忠告をしているつもりなのだろうが、言葉の端々に感情だとか、本心を吐露させてしまっている。良い言い方をすれば、加藤は〝嘘がつけない男〟なのだ。
「仮眠の後は、私が運転します」加藤が言った。
「わかりました……お願いします」
エスティマを降りようと、運転席のドアに手をかけた私に加藤が言った。「煙草を喫われるんですか?」
「ええ、そうですけど」
「ちょっと、待っててください」助手席の加藤が、先にエスティマを降りた。コートを羽織りながら、パーキングエリアの建物に向かって走っていく。
遅れて車を降りた私は、運転している間ずっと尻に敷いていたせいで、しわくちゃになってしまったコートに袖を通して、加藤が戻ってくるのを待った。
やがて、息を切らして戻ってきた加藤が、温かい缶コーヒーを私に差し出した。「あなたの事務所で、ごちそうになったものに比べれば、味は及ばないと思いますけど……」
「いいえ。いただきます」私は缶コーヒーをありがたく受け取った。ただ、私が事務所で出すコーヒーには砂糖もミルクもつけていないのだが、缶コーヒーにはパイプをくわえた男のロゴの下に〝微糖〟と記されていた。
「おそらくブラックの方が、お好みだと思うんですけど……疲れを取るには、甘いものを採った方がいいですから」
「ありがとうございます」そう言って、缶コーヒーのプルトップを引いて一口飲んだ。〝微糖〟とは名ばかりで甘い。しかし、加藤の厚意は甘んじて受け入れることにする。
この寒空の中、加藤はコートのポケットからコーラを取り出して、喉を鳴らして飲み始めた。
「コーラ、なんですか?」
「……ええ。好きなんですよ」おそらく半分ほどを一気に飲んで、加藤が答えた。「うちはこういう場合、飲むものが決まってるんです。私はコーラ、翔太はオレンジジュース、春栄はミルクティーなんです」
人の好みにあれこれ言うのは失礼なので、コーラの件にはこれ以上触れずに、私は煙草を一本振り出してくわえた。その私を加藤が見つめていた。なにかを言いたげなので、私の方から訊いた。「なんです……なにか、ありましたか?」
「いや……あの……」加藤がモジモジと身をよじった。親子だから当然と言えば当然なのだが、初めて私の事務所を訪れた際、翔太が見せた仕種と瓜ふたつだった。そして、あのときの翔太と同じように深々とお辞儀をした。「煙草を一本いただけませんか」
私は思わず苦笑した。そして加藤に煙草を一本渡して、ブックマッチで火をつけてやる。
「煙草……やめられてたんですよね?」加藤の〝お屋敷〟で、時子に聞かされた話を思い出した。
「ええ。やめさせられました」加藤がそっと煙を吐き出した。「いやァ、久しぶりだし、セブンスターだし……クラクラしますね」
「あまり、無理はしない方がいいですよ」新しいブックマッチで、自分の煙草に火をつけた。「でも、おばあさん……いや、時子さんは、たまに喫われるみたいですね。自分は喫うくせに、他人には禁煙させるなんて、実の親とはいえ、納得いかないでしょう?」
加藤はなにも答えず、コートの前を掻き合わせた。風はないが、底冷えがする。そんな場所であり、もうそんな季節だった。それから加藤は、夜空に向かって煙を吐いてから言った。「私、実の息子ではないんです。婿養子なんです。前の妻、つまりは翔太にとっては産みの親――アイっていうんですけど、アイが一人娘だということで、私が婿入りしたんです」
私は黙ったまま、地面に向かって煙を吐き出した。
煙草を口元から話して加藤が続けた。「加藤の家は、あの辺では有名な土地持ちでして、同僚には〝逆タマ〟なんて、からかわれたんですよ」
「では、時子さんと本当に血が繋がっているのは……」
「ええ。翔太だけです。だから、翔太がちゃんと成人するまでは、私に死んでもらっては困ると、アイの葬式で言われました」
「前の奥さんが亡くなられたのは、翔太君が産まれてすぐ?」
「そうです。翔太が二歳になる前に。胃ガンでした。ガンが見つかったときには、随分と進行していて……もう手の施しようがないと、医者に言われました」
口の中が苦い。私は缶コーヒーを一口含んだ。人工甘味料もこんなときには、役に立つ。
「春栄は、アイが入院していた病院で看護婦……ごめんなさい。今は看護師っていうんですよね。その……看護師だった春栄は、翔太を連れてお見舞いに行くと、翔太の面倒を良く見てくれたんです。翔太の方もハルちゃん、ハルちゃんって懐くようになって……」
加藤の煙草の灰が長くなっている。私は携帯用灰皿を差し出した。
「どうも」と頭を下げて、加藤は携帯用灰皿に灰を落とした。「アイが亡くなってから、翔太が〝ハルちゃんと遊びたい〟なんて、ダダをこねるようになりましてね。それで、翔太を春栄に会いに行かせているうちにつき合うようになって……それで、私たちは結婚することにしました」
「なるほどね。では、翔太君が、ふたりのキューピッドなわけだ……」
「そういう……ことになりますね」加藤が振り返って、エスティマの方を見やった。見つめる加藤の目は、私が見た中で、一番柔らかい目をしていた。守るべき小さなものを持つ父親特有の目だった。
加藤は三分の一ほど残した煙草を、携帯用灰皿で消した。「久しぶりに喫いましたけど、美味しいですね」
「五年ぶり……ぐらいになるんですかね」
「いや、これまでも飲み会なんかで、たまに〝もらい煙草〟なんかをしてたんですけど……セブンスターはきついです」
「まァ、無理して喫うほどのものではないですから」
「そうですね」ふっと微笑みを浮かべてから、加藤が言った。「……だけど、どうして春栄は、彦根にいるんでしょうか?」
「理由はわかりません。でも、春栄さんは……中学の三年間を、彦根で過ごしたそうじゃないですか」
「ええ、聞いています。その頃の友だちが体調を崩したとかで、お見舞いがてら同窓会みたいになったと……」
「そのようですね。それと、彦根城から見る琵琶湖に沈む夕陽を眺めていると、心が癒されると周囲に漏らしていたそうです」
「そうなんですか……そんなことを言ってたんですね」加藤が再び夜空を見上げた。「私は知りませんでした。おかしなものですね。夫の私より、あなたの方が春栄のことをご存じだ」
私は携帯用灰皿で煙草を消した。そして「お節介なことを言うようですが」と前置きをして、加藤に言った。「彦根で春栄さんに会われたら、ゆっくり話し合いでもされたらどうですか?」
――おいおい、随分と殊勝なことを言うじゃないか、探偵。いつから、そんな人情味あふれる男になったんだ?
「そうですね」加藤が必至に笑顔を作った。「……では、私は休みます」
「どうぞ、私は、もう一本喫わせてもらいます。〝これ〟……ありがとうございました」私は〝これ〟のところで、手にした缶コーヒーを振った。
「あなたも、早く休んでください。では、おやすみなさい」と言って、加藤はエスティマの後部座席に乗り込んだ。
私はもう一本煙草を喫って、缶コーヒーを飲み干した。柄にもない科白を言ってしまったのは、年老いた依頼人のせいだと自分を納得させた。それから、空き缶を捨てるついでにトイレで用を足して、エスティマに戻った。後部座席の加藤は、すでに翔太の横で小さな鼾をかいていた。
私は助手席に乗り込み、控え目に背もたれを倒してから、コートを毛布代わりにして目を閉じた。なかなか眠りに落ちなかった。加藤親子に負けず劣らず、私も寝付きはいいはずなのだが。
最初に目を覚ましたのは、私だった。腕時計を見ると、四時を過ぎていた。寝付きは悪かったものの、三時間は眠ったようだ。今回の〝冒険旅行〟のきっかけとなった加藤親子は後部座席に並んで横たわり、今は夢の世界を旅していた。静かな車内でまんじりともせず、じっとしているのが億劫だったので、私はエスティマから降りて煙草をくわえた。しかし、夜明け前の突き刺すような冷え込みに耐えきれず、パーキングエリアの建物の中に逃げ込んだ。建物をうろつき、寒さを凌げて煙草が喫える場所を探した。ようやく二十四時間営業のコーヒーショップを見つけて、一番大きいカップのコーヒーを買い、ガラスで仕切られた喫煙席に座る。さすがにこの時間ともなると、コーヒーショップには私の他に客の姿はなかった。私はくわえたままだった煙草に火をつけた。このまま、窓の向こうに見える浜名湖と、その先にある遠州灘から昇る朝陽でも眺めようかと思ったが、元よりそんな景色が拝めるのかどうかを知らなかった。さらには、どんよりと重たい雲が覆っているのが夜空でもはっきりとわかり、私は朝陽を眺めることは諦めた。それからしばらくは、なにも考えずにコーヒーを飲み、煙草を喫った。
三本目の煙草を喫い終えたとき、今回の依頼について、一度整理してみようと思い立った。
――気になることはふたつ
ひとつ目は、私たちをつけ回したあの女の存在だった。あの女は儲け話にしか近寄ってこない。そして、これまで私の知る限り、あの女が関わる儲け話とは、決して〝お行儀の良い〟話ではなかった。春栄の家出に、なぜあの女が顔を出しているのだろうか。
もうひとつは、やけに翔太の携帯電話に固執する加藤のことだった。確かに、甲斐甲斐しく食事の世話をしたり、翔太に添い寝をする加藤の姿を見れば、翔太の大事な〝秘密道具〟をいち早く手元に戻してやろうとする態度は、彼なりの親心の発露なのだと言われれば、そこまでなのだが。
――なんにせよ、彦根に行けば、すべてがはっきりとするはずだ
そう結論づけた。そして、私は再び考えることをやめて、ぼんやりと外を眺めながら煙草を喫って、コーヒーを飲んだ。
ようやく空が白んでくる頃には、私の目の前にある灰皿には――ここまで長居する客がいないことを見越して、灰皿自体が小さいということもあるのだが――喫い殻がうずたかく積もっていた。私は最後の一本になった煙草を喫い殻の山に押し込んで、その上から飲み残したコーヒーをかけて火を消した。
ガソリンスタンドの店員とそう歳は変わらないはずの女性店員は、店を出て行く私に「ありがとうございました」の一言もなく、ただ一瞥をくれただけだった。彼女にとっては、こんな時間に喫煙室に居座り続ける男など、ありがたい客でもなんでもなく、迷惑極まりない不法占拠者なのだ。
併設されたコンビニエンスストアで煙草を買い足してから表に出た。相変わらず冷え込みは強く、私はコートの前を閉めてエスティマへと向かった。耳が即座に痛くなる。
エスティマの前ではこの冷え込みの中、コートを着込んだ加藤が眠気覚ましなのか、屈伸運動をしていた。とにかく、彼もつい今し方、起きたようだった。
「おはようございます」私に気づいた加藤が言った。
「おはようございます」寝ていないせいなのか、煙草を喫い過ぎたのか、挨拶を返す私の声は、自分でも驚くほどしゃがれていた。「眠れましたか?」
「ええ。ぐっすり……とは、いきませんが」加藤の目は赤く充血していた。
「すぐにでも、出発しますか?」
「できれば。でも、その前に眠気覚ましに、一本いただけませんか?」加藤がいたずらっぽく笑った。やはり親子だ。鈴木が〈やまだ屋〉で見せた笑みよりも、翔太に良く似ていた。
私も笑みを返して、新しい煙草の封を切った。
〈浜松サービスエリア〉を出発して、彦根に向かい新東名高速を順調に走り出したエスティマは〈三ケ日ジャンクション〉で東名高速に合流した後、〈豊田ジャンクション〉を手前に渋滞に捕まってしまった。どうやら、事故による渋滞のようだった。車列は三十分ほど動くことはなく、ハンドルを握る加藤も助手席の私もいらだっていたようで、眠気覚ましに始めた世間話の内容も、毒が混じるようになっていた。
「お腹空いた」突然、後部座席から翔太が訴えた。
加藤はバックミラー越しに翔太が目を覚ましていることには気づいていたらしく――私はまだ眠ってものだと思っていたので、ドキリとさせられたのだが――落ち着いた口調で答えた。「翔太、見てご覧。車がいっぱいで動かないんだ」
だが、翔太も負けていなかった。先刻よりも声を上げて、自分の窮状を訴えた。「お腹空いた!」
加藤は大きくため息をついてから、前を向いたまま翔太に言った。「後ろにお父さんのカバンがあるだろ。その中にお菓子が入っているから、それを食べて少し我慢しなさい」
加藤がすべてを言い終わる前に、翔太は加藤のカバンを探っていた。そして、シリアルバーを見つけて、にんまりと笑う。バックミラーにシリアルバーを映して言った。「お父さん、これ?」
「そうだ」
加藤が返事を返すやいなや、翔太はシリアルバーの封を開けて頬張ると、ムシャムシャと口を動かした。
「外回りなんかで昼食がとれなかったり、残業で遅くなったときのために、いつも二、三本入れてあるんです」加藤が助手席の私の方をちらりと見て言った。
後部座席を見れば、翔太はすでに二本目を口にしていた。
加藤が振り向かずに、バックミラーに映る翔太に言った。「翔太、そこまでにしときなさい。次のサービスエリアで、ちゃんと朝ご飯にするから」
「はァい」後部座席の翔太が、行儀良く口の中のシリアルバーを飲み込んでから答えた。
それから再び私をちらりと見て加藤が言った。「いいですよね?」
助手席の私は黙って頷いた。ところが、この事故渋滞を抜けて、次のサービスエリア――〈上郷サービスエリア〉に到着するまでには、さらに一時間ほどかかる羽目になり、エスティマを停めるまでの三十分間、車内は無言になった。
加藤親子は〈上郷サービスエリア〉には通い慣れていないようで、物珍しそうに辺りに目を配りながら、手を繋いだままサービスエリアの建物の中に入っていった。
スパイスメーカーのお膝元というだけあって、〈上郷サービスエリア〉の中はカレーの匂いが充満して、フードコートもカレー味のメニューが充実していた。食券販売機の前で加藤親子は散々悩んでから、加藤はきしめんを、翔太はカレーライスを選んだ。
翔太のカレーライスをトレーに乗せた後で、ふたりは麺類のコーナーに並ぶ私の後ろについた。翔太が私を見上げて言った。「おじさん、なんにしたの?」
「お父さんと同じきしめんだ。翔太、お前はカレーか?」
「そうだよ」翔太は朝一番にカレーライスを食える若さを、満面の笑みで自慢した。
「普通だな」私は昨晩の仕返してやった。
翔太はぷくっと頬をふくらませて、私を睨みつけた。
翔太が口をきいてくれなくなったこともあって、早々にきしめんを平らげた私は、煙草を喫ってくると加藤に告げて席を立った。カレーライスに挑む翔太の世話で、きしめんに手をつけられない加藤のうらやましげに見つめる視線を振り切り、フードコートを後にした。時計は九時半になろうとしていた。建物の外にあるベンチに腰を降ろして、鈴木に電話をする。〝気になるふたつのこと〟のため、念には念を入れたかった。
私は電話に出た鈴木に、〈上郷サービスエリア〉までたどり着いたことを報告した後で言った。「頼みたいことがあるんです」
「頼みたいこと?」
「ええ。そうです――」彦根の到着予想時間を伝えてから、私はひとつの頼み事をした。
私の話を最後まで聞いた鈴木が言った。「――できないことじゃないけど、どうして?」
「感動の再会っちゅうんですかね。こう……せっかくだから、ドラマチックにしたいじゃないですか」
「ドラマチックねェ。私にはよくわからないけど……」
「だから、鈴木さんにしかできないことなんです」
「私にしかできない?」
「ええ。春栄さんの連絡先を知っているのは、鈴木さんだけなんですから」
「そこまで言われたらね」自分にしかできない――この一言が功を奏して、鈴木は私の頼み事を引き受けてくれることになった。鈴木は「スピード違反なんかで捕まらないでよ」と余計な一言で締めて電話を切った。
電話を終えてからも、私は喫煙所には行かずに、そのままベンチに腰を降ろしていた。浜松であれだけ空を覆っていた雲が切れ始め、雲の隙間から陽光が漏れていた。しばらくは心地良い陽光に当たっていたかった。見れば雲は東に流れていて、この様子では心が癒されるという琵琶湖に沈む夕陽を、眺めることができそうだった。
――〝感動の再会〟に花を添えてくれれば、いいのだが
時計の針が十時を指す頃、加藤と翔太が食事を終えて外に出てきた。エスティマに乗車する際に、私が翔太にカレーライスの味を訊いてみたら、「普通」と返された。それを聞いた加藤は運転席でひとしきり笑ってから、「すいません」と謝り、車を発進させた。
それから、途中二度の〝トイレ休憩〟を入れつつ東名高速、そして名神高速を西に向かってひた走った。大垣より西に行ったことがないという翔太は初めて見る景色に興奮し、加藤は私からの〝もらい煙草〟に味を占めたらしく二度の〝トイレ休憩〟で翔太に隠れて煙草を喫い、やることのない私は明け方に考えていた〝気になるふたつ〟のことについて、頭の中でもう一度整理をしていた。
こうして我らが〝冒険旅行〟も、ついに目的地である彦根にたどり着いた。
十二
「えェと、ホテルの名前はなんでしたっけね?」名神高速を〈彦根インター〉で下りてすぐに加藤が訊いてきた。〝もらい煙草〟の効果なのか、加藤の私に対する口調は随分と親しげなものに変わっていた。
「実はホテルではなく、別の場所で会うことになっています」
「別の場所……ですか。どこなんです?」
「彦根城です」
「そうですか……」加藤は道路標識を確認して、彦根城に向かった。
加藤のエスティマには、今どき珍しいことにカーナビが装備されていない。事故渋滞にはまっている間の世間話で、その理由を訊いてみたところ、加藤は「機械に命令されているみたいで嫌なんですよ。車の運転ぐらい自由にやりたいですからね」と回答した。加藤は〝ハンドルを握ると人格が変わる〟のではなく、彼が自分をさらけ出せる場所が車の中だけなのかもしなかった。
「しかし、なんで彦根城なんですかね?」
「さァ、なんででしょうねェ……彼女にとって思い出の場所だからじゃないですか?」と私はとぼけた。
彦根城を指定したのは私だった。私はこの辺りのランドマークを彦根城しか知らない。〝春栄の思い出の地〟というのは、鈴木から聞いた話を思い出してつけ足したものだった。それでも、加藤は納得してくれたらしく、これ以降はなにも訊いてはこなかった。一方で翔太は〝彦根城〟というキーワードに敏感に反応し、加藤は質問責めに合う羽目になった。加藤が彦根城は国宝であることを即座に回答したところを見ると、彼は時子が思っているほど〝勉強〟していないわけではなさそうだった。
およそ十分後に加藤はエスティマを〈二の丸駐車場〉に駐車した。時計は十二時を十五分ほど回っていた。私は翔太が今朝のようにまた「腹が減った」と騒ぎ出さないかと心配したが、翔太は初めて見る彦根城とそこにいるはずの春栄のことで頭がいっぱいのようで、車を降りてもじっと彦根城を見上げていた。私たち三人はお堀沿いに〈大手門〉に向かって歩き始めた。当然、翔太のペースに合わせることになるので、ゆっくりとしたものになる。
先頭を歩いていた私は〈大手門〉の前で振り向いて言った。「まずは、私が先に春栄さんに会ってきます。あなたと翔太君は、ここで少し待っていてください」
「どうして……です? 一緒には――」と加藤。
「もしも、彼女があなたに会いたくないと言ったら?」
「いや、それは……」
私たちは翔太には聞こえないよう小声でやり取りしていた。
「家出をした人間ってのは、そんなもんです。目の前の現実から逃げ出してきたんです。あなたを見たら、また逃げ出してしまうかもしれない。だから、私が先に行って、あなたたちがここまで来たことを伝えます」
「それでも、春栄が会いたくないと……言ったら?」
「あなたたちに会うよう説得しましょう。あるいは……そうですね、首に縄を括りつけてでも、ここに連れて来いというのなら、そうしますが」
私の軽口には反応せず、加藤は目を閉じて眉間に左の拳を押し当てた。傍らで翔太がそんな父親をじっと見つめている。
「わかりました」しばらくして、目を開いた加藤が私に言った。「……ただ、もし春栄が会いたくないと言っても、翔太の携帯電話は返してもらってきてください」
「了解しました」
私たちが小声で話していたことを聞き取っていたのか、それとも私たちの雰囲気から感じたのか、翔太が私のそばに寄ってきて言った。「ねえ、タンテーのおじさん……ハルちゃんに、もう会えないの?」
私は翔太の目線に合うように腰をかがめて、小さな依頼人の目を正面から見つめた。「会わせてやるさ。約束しただろ」
「お願いだよ」という翔太の声に見送られて、私は〈天守〉に向かって歩き始めた。
〈大手門〉をくぐって、待ち合わせの場所である〈天守〉まで歩く。土曜日ということもあり、かなりの数の観光客がいた。私と同じタイミングで〈大手門〉をくぐった二十人ほどの団体客の中に、昨今流行りの〝歴女〟と思しき女がいて、パンフレットも〝あんちょこ〟も見ずにガイドの説明よりも詳しく彦根城と城主である井伊家について語っていた。私は早々にその団体客を追い抜き、先を急いだ。
国宝だけあって、ほぼ手つかずの〈天守〉へと続く道は、往事を偲ばせる佇まいがあった。ただ、その分だけ、観光客のことをまったく考えていない城だった。石段の幅が不規則に変化して歩きにくく、城というものが町おこしの観光施設ではなく、かつての軍事施設であることを思い知らされる。
早足で来たせいか、〈太鼓門櫓〉にたどり着いたときには、私はうっすらと汗をかいていた。コートを脱いで、小脇に抱えて歩き続ける。〈着見台〉で一休みして、汗を引かせる。煙草が喫えればいいのだが、国宝でそんなことができるわけもなく、我慢するしかなかった。人生に悩む青年が国宝に火を放ったのなら、文豪たちの手により高尚な文学に生まれ変わるだろう。しかし、ただ人生を漂うだけの私が喫った煙草の火種が――たとえ失火であったとしても――国宝を燃やしてしまったとしたら、三面記事を賑わして末代まで恥をさらすだけだ。
汗が引いてから、身体が冷え切る前に抱えていたコートを羽織った。先刻、追い抜いてきた団体客も登ってきた。いつのまにか、先頭はあの〝歴女〟が務め、私が背にする〈着見台〉の説明をしていた。私は団体客に紛れ込んでしまう前に、再び〈天守〉へと歩き始める。今度は、先刻よりも少しだけペースを落とした。汗だくで春栄に会いたくない。
ようやくたどり着いた〈天守〉には少しだけ風があった。風に吹かれながら辺りを探ると、うろこ雲が浮かぶ空に向かってそびえる〈天守〉の脇に設置されたベンチに、若い女が座っていた。ダークグレーのダウンジャケットにジーンズ姿の女は、琵琶湖の方を眺めていた。
私は彼女に近づいて、声をかけた。振り向いた女は眼鏡をかけていた。化粧っ気のない女の眼鏡の奥で、目がいぶかしげに細くなった。「探偵さん?」
私が頷いて応えると、女――春栄の厳しかった表情が柔らかくなった。ただ、一カ月前は長かった髪を肩の辺りで揃えていたせいなのか、私の事務所で会ったときとは、少しだけ印象が変わって見えた。
「お久しぶりです」春栄が言った。
「こちらこそ」私は微笑みを返した。「私を覚えていてくれたようで、ありがとうございます」
「わたし、以前は看護師をやってたんです。看護師って、患者さんの顔を覚えるのも仕事なんですよ。退院した後、まだ通院される方もいますし、入退院を繰り返す方もいますから」
「大変なお仕事ですね」
「そんなことはないです。大変なのは、どの仕事も同じなんじゃないですか」
「そうですかねェ――」
「あ、ごめんなさい」ベンチの春栄が慌てて左に腰をずらして、私が座れるスペースを作った。「立ち話をさせてしまって……こちら、どうぞ」
「失礼します」と言って、私は春栄の隣に腰をかけた。本題に入るには、いいタイミングだ。「今日、ここには私だけで来たんじゃないんです。実は……」
「鈴木の伯父に、話は聞いています。加藤は、どこにいるんですか?」
「今は、下で待ってもらっています」
「そうですか……」
「会ってもらえますね?」と私は訊いた。
春栄は私には答えずに、正面を見据えた。そのまま、しばらくなにも言わなかった。
そのうちに、例の団体客が〈天守〉まで登ってきた。先陣を切ったあの〝歴女〟はなにを興奮しているのか、大きな声で彦根藩の初代藩主〝人斬り兵部〟こと井伊直政について語っていた。観光気分でここに腰をかけていれば、無料で聞ける解説に耳を傾けていたろうが、今の私たちには雑音でしかない。〝歴女〟を先頭にして〈天守〉に近づいてきた団体客は、そのまま私たちが座るベンチの前を行き過ぎ、〈天守〉の中には入らずに〈黒門〉の方へ向かっていった。
〝歴女〟が遠ざかるのを合図に、春栄が口を開いた。「正直、今は会いたくありません」
「会いたくない?」
「ええ。今は……加藤に会う気持ちには、なれません」
「無理……ですか?」
「申し訳ありません……」春栄が座ったまま、頭を深々と下げた。
「まァ、私に謝られても、困るんですけどね」
「そうでしたね」私の軽口で、初めて春栄が笑みを見せた。
私は春栄の左手の薬指に、まだ指輪がはめられていることを認めた。小さな笑みを返して、春栄に訊いた。「……では、翔太君に会うことも無理ですか?」
「翔太? 翔太が来てるんですか?」春栄が声を挙げて、訊いてきた。
「はい。あなたに会いに。一緒に来ています」
「伯父は、あなたと加藤が行くからと……」
翔太を連れていくようにと、加藤に頼んだのは鈴木だった。その鈴木は、なぜ春栄に翔太のことを告げなかったのだろう――鈴木なりに〝感動の再会〟を演出したかったのだろうか。
「翔太も来てるんですか……翔太、怒ってませんでした? わたしが携帯電話を持っていってしまったんで。そうだ……」春栄がダウンジャケットの右ポケットに手を入れて、水色の携帯電話――翔太の〝秘密道具〟を取り出した。「これ、翔太に返していただけますか」
「それは、あなたが直接、翔太君に返した方がいい」
「もう、いいんです。ただ、翔太には私が謝っていたと伝えておいてください」
「申し訳ないですが、お断りします。もう一度、言いますが……それは、あなたが返すべきだ」私は春栄を正面から見つめて言った。「それとね……翔太君は、あなたに怒ってなんかいない。ただ、あなたに会いたいとだけ、言ってました」
春栄の私を見る目が、徐々に潤み始めた。最初は唇を噛み締めて耐えていた春栄だったが、やがて両手で顔を覆ってうつむいた。肩が小さく震えている。春栄は逃げ出してきた現実を思い知らされたのだ。
私は春栄の肩に、そっと手をかけてやった。「会って……いただけますね」
その恰好のまま、春栄は首を縦に振った。
〈天守〉に登ってきた観光客が、私たちを遠巻きに見ていた。国宝を見に来た彼らからすれば、とんだ愁嘆場に出くわした恰好になる。おそらく別れ話をしている男女だと思われていることだろう。もっとも、春栄が〝わけあり〟であることには変わりないのだが。
私はベンチから立ち上がり、携帯電話を取り出して加藤に連絡をした。
待ち合わせ場所は当初予定していた〈天守〉ではなく、〈太鼓門櫓〉に変えることにした。翔太の足では、ここまで登ってくるのに時間がかかる。私と春栄は肩を並べて、〈太鼓門櫓〉まで降りていった。道すがらした世間話でわかったのは、春栄が何度か彦根を訪れていた理由だった。それは、鈴木が私に教えてくれたとおりで、春栄は大病をした友人のお見舞いのためだった。家を飛び出した後、まだ入院中だという友人を思い出して、もうひとりの友人であるホテル〈レイクサイド彦根〉の支配人に頼んで、部屋を用意してもらったのだそうだ。
先に〈太鼓門櫓〉に到着した私たちが、五分も待たないうちに加藤と翔太が姿を見せた。翔太は、私の隣にいるのが誰であるのかをすぐに理解したようで、明らかに足取りの重い加藤を置き去りにして駆け登ってくると「ハルちゃん」と名前を呼んで、春栄に飛びついた。
春栄は翔太を抱きしめると、駆けてきたせいで汗びっしょりになった翔太の額を両手で拭ってやり、ピーコートの前を開けてやった。確かにあの汗のかきようでコートを着込んでいたら、翔太は風邪を引いてしまう。
遅れてきた加藤も額に汗を浮かばせていた。今になって気づいたのだが、加藤は昨日の夜からネクタイをきっちりと締めていた。加藤の銀行では〝いかなるときでもネクタイは外してはならない〟という規則でもあるのだろうか。加藤は私の方を見て小さく頭を下げた。
私は加藤のネクタイをゆるめてやることも、汗を拭ってやることもせずに、ただ目礼を返した。
――あとは彼らの時間だ
私は加藤と春栄に「失礼」と告げて、〈大手門〉に向かって歩き出した。
「ありがとうございます」という私に対するお礼の言葉の後で、加藤が春栄に「翔太の携帯電話はどこにある?」と言ったのが背中越しに聞こえた。
――また、携帯電話だ
気にはなったが、今の私には確かめなければならないことがある。
〈大手門〉をくぐり抜けて、最初に見つけたタクシーに乗り込むと、私は運転手に「ホテル〈サザンレイク彦根〉」と行き先を告げた。
十三
書店で春栄が宿泊しているという〈レイクサイド彦根〉の情報を収集している際に、〈サザンレイク彦根〉というホテルが私の目に留まった。この似たような名前の〈サザンレイク彦根〉は、春栄の同級生が支配人のよくある観光ホテル〈レイクサイド彦根〉とは違って、コンドミニアム形式の会員制リゾートホテルであり、このご時世でも繁盛しているというのが、目に留まった理由だった。
運転手はおしゃべりな男で、こちらが訊きもしないのに〈サザンレイク彦根〉について、あれこれとしゃべり始めた。運転手によれば、ホテルの経営者も客層の中心も、私と同年代なのだそうだ。バブルと呼ばれた時代に、金をばらまいて浮かれ騒ぐ大人たちを複雑な目で見ていた若者たちも、時が経てば札束を振りかざすことを覚えて、日夜〝高級〟な遊びにいそしんでいるらしい。
私は相槌も打たずにいたのだが、なにを期待しているのか、運転手は浮ついた口調で話し続けた。「あのホテルに行くなんて、お客さん、セレブなんやねェ……〝勝ち組〟っちゅうヤツや」
「悪いが、そこまで下品じゃない」
それきり運転手が話しかけてくることはなく、ようやく車内は静かになった。
琵琶湖畔を走る湖岸道路を南に二十分ほど進み、コンビニエンスストアのある交差点を琵琶湖に向かって右折をすると、〈サザンレイク彦根〉の入口に続く道路に入った。アメリカの西海岸辺りを意識しているのか、道の両側にはパームツリーが植えられているのだが、すっかり枯れてしまっていて、異国情緒よりも我が国の深まる秋を一層強く醸し出していた。パームツリーに囲まれて三〇〇メートル走った先に駐車場があり、その奥に受付とゲートが見えた。ゴルフ場の入口のようなゲートに掲げられた看板には〝メンバーズオンリー〟と英語で記されている。
車寄せにタクシーを停めた運転手に少し待つように告げて、私は後部差席から降りた。十五台停められる駐車場の三分の一が埋まっていた。ベンツ、アウディ、ジャガー、フェラーリ、そして青いプジョー――
青いプジョーの中に人影はひとつだけだった。あの女ではない。私は煙草をくわえて、プジョーに近づいた。助手席側に回り、ウインドウをノックする。反応がないので、私はもう一度ノックした。中の男が面倒くさそうにウインドウを降ろした。
私は中を覗き込みながら、くわえ煙草のまま言った。「火を貸してくれないかな?」
車内から私を睨みつけてきた男は、年の頃は私より少し年下の三十代半ばといったところで、鼻が大きすぎて顔全体のバランスが崩れていた。
「火、貸してくれないか?」
「俺は煙草喫わねェよ」
〈中井パーキングエリア〉であの女が電話をしている間、私たちを監視していたのはこの男だった。暗がりだったとはいえ、私の顔を覚えていないようでは尾行者失格だ。
――この程度の男につけ回されていたとは
私はブックマッチを使って、煙草に火をつけた。
「おい……マッチ持ってんじゃねェか」
「マッチを持ってたら、火を貸してもらっちゃいかんのか?」
「お前、馬鹿か? いい加減にしろよ」
「おい……馬鹿はないだろォ、馬鹿は」私は火のついた煙草を、車内の男に向かって指で弾いて捨てた。
男は太股の上に落ちた火のついた煙草を拾い上げると、助手席から飛び出した。私より少しだけ背の高い男は、助手席のドアを下がって避けた私の足元に、まだ長いままの煙草を投げつけた。
「もったいない真似すんなよ……」
煙草を拾い上げようとした私の胸ぐらを男がつかんだ。「てめェ、なめてんじゃねェぞ!」
「そういうつもりじゃねェけどさ……」私は男の肩越しに視線を送った。「あれ……アケミじゃないの?」
男が首をひねって後ろを見た。胸ぐらをつかむ力がゆるくなっている。チャンスだ――
私は男が首を戻すと、両耳をつかんで大きな鼻に勢いをつけて額をぶつけた。男が私の胸ぐらから手を離して、顔を押さえた。指の隙間から血が滴り落ちている。私は背後に回って、男の股間を右足で蹴り上げた。右手で鼻を、左手で股間を押さえて、男が膝から崩れ落ちた。髪をつかんで、顔を引き起こす。
「ごめんな……卑怯な手、使って」右の拳を顎の先端に思い切り叩きつけた。
目がぐるりと回って白くなり、男は動かなくなった。私は男が先刻投げ捨てた煙草を拾い、携帯用灰皿に入れてから、プジョーのボンネットに腰を降ろして息を整えた。新しい煙草をくわえて、火をつける。
武道の達人に言わせれば、武道の極意とは〝後の先〟――相手の仕掛けをかわして、こちらが仕掛ける――あるいは〝先の先〟――相手がなにかを仕掛けようとする前に、こちらが仕掛ける――ことらしいのだが、達人にはほど遠い私のような凡人に残された手は、不意討ちしかない。
息が整った頃、受付に併設されたトイレから出てくる女が見えた。
女はプジョーのボンネットに腰かけた気づいて叫んだ。「ちょっと! 他人の車でなにやってんの!」
レザーコートを着てサングラスをかけた女が駆け寄ってきた。幸運なことに助手席側で気を失っている男は、女からは死角に入っていて見えていない。気を失っている男に気づいたら、あの女のことだ。薄情だとか、卑怯だとか、なにを言われようが一目散に逃げ出している。
女は三メートルほど手前で立ち止まり、サングラスを外して私の顔をまじまじと見た。
「久しぶりだな」私の方から声をかけた。
「なんで、あんたがこんなところにいるの?」ようやく、女は私が誰だかわかったようだ。
「お前こそ、ここでなにしてるんだ?」
女の名前は山本明美。私が知っているだけでも前科三犯――脅迫、強請りの常習犯だ。前の稼業で二回、私は明美に関わっている。今の稼業になってからも、一度だけ出くわしたことがあるのだが、彼女は私が前の稼業を辞めたことを知らなかった。おそらく今も、私は前の稼業のままだと思っている。
「なんでって……私がここにいちゃいけないの?」明美が笑って、とぼけてみせた。私より年上だとは思えないほど、きれいな顔立ちをしているのだが、目尻の辺りに年齢と根性の悪さがにじみ出ていた。
「お前、加藤って銀行員を尾行してたろ?」私は短くなった煙草を携帯用灰皿で消した。
「なんで知ってるの……」
――俺も一緒にいただろうに
喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。相変わらず、この女はこういうところが抜けている。だから、小悪党止まりなのだが。
「尾行の理由って言われても……」明美が辺りに視線を配った。
私は彼女から死角になっている助手席側を指差した。「お前が当てにしてる男なら、そこで倒れてるよ」
明美が私から向かって左に身体をずらした。そして、助手席のそばで気を失っている男を見つけて、息を呑んだ。
「さて、尾行した理由を話してもらおうじゃないか」
最初は戸惑いを見せた明美だったが、私が睨みつけると加藤を尾行した理由を話し始めた。
明美の話を聞き終えたとき、私がしたことは、右の拳をプジョーのボンネットに叩きつけることだった。その私を見て、話し終えた明美が肩をすくめて怯えた。
「――わかった。じゃァ、携帯電話と加藤に見せた名刺を出せ」
「どうして?」怯えたまま明美が訊いた。
「携帯電話と名刺を出せば、今回は見逃してやる」と私が言うと、明美は名刺と携帯電話を差し出した。名刺には〈フリーライター 山本明美〉とあった。偽名でも使えばいいものを――この女は昔から自己顕示欲だけは強かった。
「お前がひとつだけってことは、ないよな?」私は差し出された携帯電話を明美に示した。
私の言葉に明美は顔をくしゃくしゃにした。それから、すべてを諦めてレザーコートの内ポケットからスマートホンを取り出すと、おずおずと差し出した。
「……で、連絡を取り合っているのは、どっちだ?」
「スマホ……」と明美が小さく答えた。
私はスマートホン――びっちりとデコレーションされていた――と最初に手渡された携帯電話を、コートのポケットにしまった。
「これで、見逃してくれる?」
「ああ。それよりも……」私はボンネットから腰を上げた。「あいつを介抱してやれ。このままじゃ、風邪引いちまうぞ」
倒れている男の元に駆け寄る明美とすれ違いに、私は車寄せに向かって歩き出した。車寄せにいるはずのタクシーが姿を消していた。私はまだ運賃を払っていない。男と私の立ち回りを見て、関わり合いたくないとして逃げ出したのだろうか。私の胸にも、少しだけ罪悪感が宿った。
仕方なくパームツリーに囲まれた道路を歩いて帰ることにする。一〇〇メートルほど歩いてから、私は加藤に電話をかけた。五コール目で加藤が出た。
「今……どちらですか?」
「まだ彦根城にいます。翔太がはしゃいじゃって……それに、なんかイベントが始まったみたいで、翔太が春栄を連れて見に行っちゃったんですよ」
「そうですか……それはそうと、あなたにお伝えしておかなきゃならないことが、ありましてね。お恥ずかしいことなんですけど……春栄さんのホテルの名前なんですが、間違ってました」
「ええ? そうなんですか?」
「はい……〈サザンレイク彦根〉と言ったかと思うんですが、実際には〈レイクサイド彦根〉でした」
「〈レイクサイド彦根〉、ですね、わかりました」加藤は怒り出さなかった。「ところで、今、どこにいるんです?」
「その……間違えて教えてしまった〈サザンレイク彦根〉です」
「そうですか。では、これから迎えに行きますよ。どの辺りなんですか?」加藤が申し出た。
私がタクシーで通った彦根城から〈サザンレイク彦根〉までの道順を教えると、加藤は「では、そのコンビニで待っててください」と言って、電話を切った。
携帯電話をズボンのポケットにしまい、待ち合わせ場所となったコンビニエンスストアに向かって歩き始めた。十メートルも進まないうちに、コートのポケットで着信音が鳴った。取り出してみると、鳴っているのはスマートホンではなく携帯電話の方だった。山本明美が見せた最後の抵抗に、私は少しだけ感心した。
ふたつ折りの携帯電話を開いてディスプレイを見た。そこには、私が予想したとおりの電話番号と名前が表示されていた。私は電話に出なかった。やがて七コール目で着信音が消えた。
私は山本明美の携帯電話をコートのポケットにしまい、デコレーションされたスマートホンを右手に握った。そして、びっちりとデコレーションされたスマートホンを、少し助走をつけてパームツリーの向こうに投げ捨てた。
十四
待ち合わせの場所になったコンビニエンスストアまで歩いて戻って、時計を見ると十四時を過ぎていた。さすがに空腹を覚えた私は、コンビニエンスストアに入り、この時間なら翔太たちもなにかを食べているだろうという理由で、カレーパンとトマトジュースを買った。ついでに、マッチ――ブックマッチを売っていなかったので、仕方なく箱型のマッチにした――と、ポケットボトルのジャックダニエルも買っておいた。どちらも、今日のうちに必要になる。
店の外に出て、マッチはコートのポケットに、ジャックダニエルは上着の内ポケットにしまった。駐車場の車止めに腰を降ろして、カレーパンとトマトジュースを早々に胃袋に収める。カレーパンの袋とトマトジュースのペットボトル、そして山本明美の携帯電話をゴミ箱に入れてから、店の前に設置された灰皿の横で煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。煙草を喫いながら、あれやこれやと整理してみる。整理する必要があったのは、頭の中に散らばる情報ではなく、その情報で散らかってしまった心の中だった。
まだ整理しきれないうちに、加藤のエスティマが、コンビニエンスストアの駐車場に滑り込んできた。後部座席のドアが開き、翔太、春栄の順で降りてきた。駆け寄ってきた翔太が、赤い頭形兜をかぶった猫のぬいぐるみを私につき出した。「おじさん、すごいでしょ」
「買ってもらったのか?」
「違うよ。鉄砲で当てたんだよ」
翔太の言葉に戸惑う私に、少し遅れてきた春栄が補足してくれた。「お祭りみたいなことやってたんです。そこの射的で当てたんです」
「一発で当てたんだよ。これでボクもタンテーになれるね」
――翔太、この稼業に射撃は必要ないぞ
私は複雑な思いを微笑みに変えて、翔太の頭を撫でてやった。
「翔太、それよりトイレでしょ」
春栄が声をかけると、翔太は「そうだった!」と言って、慌ててコンビニエンスストアの中に入っていった。私に会釈をしてから、春栄が翔太を追いかける。
エスティマを降りた加藤が私の横に立ったので、私は店の中から見えないように死角を作ってやり、煙草を加藤に勧めた。しかし、加藤が黙って首を横に振って断ったので、箱から振り出した煙草は私が喫うことにした。最後の一本になったブックマッチで火をつける。
「これから、どうされますか?」
この彦根で〝ケリをつける〟こともできるだろう。ただ、翔太と春栄がいる手前、すべてを話してしまっていいものなのか、どうか――私は迷っていた。
私が黙ったままでいると、加藤がひとつ提案をした。「でしたら、一緒に泊まっていきませんか? ここに来る途中で車の中で、翔太が言い出したことなんですけどね。泊まるところは……今、春栄がお世話になってるホテルを手配しようかと思ってるんですけど」
私は煙草を深く喫い込んで、煙をゆっくりと吐き出した。
「予定があるのなら、無理していただかなくて結構です。翔太のわがままが――」
加藤の言葉を遮るように、翔太が「お父さん!」と声を上げて、コンビニエンスストアから飛び出してきた。右手にオレンジジュースのペットボトルを持っていた。翔太は振り向いて、ぬいぐるみを抱え、ビニール袋をぶら下げてコンビニエンスストアから出てくる春栄を急かした。声のトーンが、明らかに午前中よりも高い。「ハルちゃん、早く!」
小走りで寄ってきた春栄が、私にビニール袋の中身を見せた。「お好きなのをどうぞ」
ビニール袋の中にはミルクティー、日本茶、コーラが入っていた。昨晩、彼らの好みについて、加藤から聞かされている以上、私に選択肢はなかった。日本茶を迷わず抜き取る。「ありがとうございます。では、これをいただきます」
「ねえ、おじさん。今日、一緒に泊まっていこうよ」翔太が私のそばに来て言った。
加藤にコーラを渡した春栄が――私が見る限り、ふたりは目を合わせなかった。やれやれ、だ――翔太に言った。「翔太、おじさんもお忙しいのよ」
子供の要求に対して、どうして我々大人は〝忙しい〟という言葉だけで、その要求を引き下げさせようとするのだろうか。大人同士であるならば、〝忙しい〟理由を事細かに述べて、相手を納得させるのだが――そんな余計なことを考えている私の左手を翔太が握った。「ねェ……おじさん、泊まってこォよォ」
春栄の目が険しいものになったのを見て、私は慌てて答えた。「わかった。一緒に泊まろう」
「やったァ!」私の手を離した翔太が、両手を挙げて飛び跳ねた。
コーラを飲んで私たちのやり取りを見ていた加藤は口を〝への字〟にして目礼し、飛び跳ねるのをやめない翔太をたしなめてから春栄は少し首をすくめた。
春栄が上目遣いに訊いた。「いいんですか?」
「はい」私は頷いて答えた。
私には、まだ年老いた依頼人からの〝一番厄介な依頼〟が残されていた。
それから私が煙草を喫う間、コンビニエンスストアの前で過ごした。エスティマには再び助手席に座ることになったのだが、私のために空けてくれたということでは、なさそうだった。
――やれやれ、だ
エスティマは日が傾き始めた湖岸道路を北上し、春栄の宿泊先〈レイクサイド彦根〉へと向かった。途中、車窓に映る景色を見ていた翔太が琵琶湖で遊びたいと言い出した。最初は春栄が、途中からは加藤も加わって、翔太をたしなめたのだが――今回の理由は〝忙しいから〟ではなく、〝寒いから〟だった――最後は、翔太が後部座席でぐずり始めた。ここまでわがままを言う翔太は初めてだった。ただ、それは私だけでなく、加藤も春栄も同じだったようで、加藤は翔太のわがままに折れる形で、エスティマを左折させた。湖に近づいて、路上駐車をする。真っ先にエスティマを降りた翔太が――まさに〝泣いたナントカがもう笑った〟だ――春栄の手を引いて、一直線に走っていった。私と加藤は少し遅れて、古くは〝ちかつあわうみ〟と呼ばれた湖畔に立った。
対岸にある比良山系から吹き下ろす風が蒼い湖面に波を立たせている。その比良山系の稜線は沈み始めた太陽によって黄金色に輝き、秋雲たなびく空は稜線から遠ざかるほどに朱、紫、群青――さまざまな色をにじませていた。この景色を描くとすれば、おそらく油彩画ではなく水彩画になるだろうと私は思った。
水辺で戯れている翔太と春栄を、加藤と私は離れたところで見ていた。私は加藤に水辺に行くよう身振りで促したが、加藤は小さく首を振るだけで動こうとはしなかった。翔太と春栄の歓声が、刻々と色を変えていく夕空に吸い込まれていく。それを見守る加藤の顔は黄金色に照らされていた。
私は加藤からそっと離れて、湖畔に引き揚げられたボートの船縁に腰をかけた。加藤は私に気づくことなく、ふたりを眺めていた。
水辺ではしゃぐ翔太、それに笑顔で応える春栄、そしてそのふたりを柔らかい眼差しで見守る加藤――たとえ、加藤と春栄の間に距離があったとしても、この淡い夕景の中でひとつの絵画になった三人の間に、私が入り込む余地はなかった。
十五
〈レイクサイド彦根〉に到着する頃には、空からは朱の色がほとんどなくなっていた。
春栄は中学時代の同級生だというこのホテルの支配人――井上に加藤と翔太を紹介した後、私を紹介する段になって動きを止めると、私、加藤の順で視線を送った。私も加藤も回答に窮していると、翔太が「タンテーのおじさんだよ」と井上に言ったので、この際ばかりと私は、面倒な説明を一切省くことにして「どうも、タンテーのおじさんです」と強引に支配人の手を握って、自己紹介した。
それから、春栄が井上と交渉をして、加藤、春栄、翔太の三人は〝偶然〟空いていたという――こればかりは、支配人の言葉を信じるしかない――ツインルームに宿泊することとなり、私は今日まで春栄が泊まっていたシングルルームに入れ替わりで泊まることになった。
「ただ……時間も時間だから、これから夕食の準備をするのは、ちょっと難しいぜ」井上が春栄に言った。同級生相手だけに、口調が軽い。
「でも、なんか作ってくれない?」それは春栄も同じだった。
「カレーとか、スパゲティとか……軽食なら、なんとか」
「それで、いいわ」交渉を成立させた春栄が、腰をかがめて翔太の視線に合わせて訊いた。「ねェ……翔太、なにが食べたい? ホテルのおじさんが、作ってくれるって」
翔太は生意気に難しい顔して思案すると、私を意味ありげに見て答えた。「ボク、カレーが食べたい」
小さいとはいえ依頼人には応えてやるしかなく、私が決まり文句の「普通だな」を返してやると、翔太が楽しそうに笑った。
夕食のメニューについての交渉も成立した後で、加藤と翔太はあてがわれた部屋へと向かった。
残った春栄がダウンジャケットのポケットから、水色の携帯電話を取り出した。「あの……これ、預かっていただけます?」
「なぜ……です? これは、あなたから翔太君に返すべきものでしょう」
「ええ。ですけど、わたしが言うまで、あなたに持っていて欲しいんです」
春栄はこの携帯電話について、なにも知らないはずだが――〝女の勘〟というヤツなのだろうか。ただ、加藤の目の前でちらつかせない方がいいことだけは理解しているようだ。
私は春栄から携帯電話を受け取り、コートのポケットにしまった。
「ありがとうございます。じゃァ、すぐに部屋を空けますね」春栄がドアを開けたまま彼女を待つ加藤と翔太の元へ走っていった。
春栄が部屋を出るまで待たなければならない私は、ロビーで井上と取り残される恰好になった。〝タンテーのおじさん〟とふたりきりになってしまった井上は、年の割には後退してしまった生え際に手をやり「お客様も、カレーでよろしいですか?」と訊いてきた。
私はロビーの奥にある看板を指差した。〈ラウンジ 湖畔〉とある。「あそこで一杯やるんで……私は、夕食は結構です」
「かしこまりました」井上はホテルマンに戻って答えると、これをきっかけとばかりに、そそくさとロビーから立ち去った。得体の知れない〝タンテーのおじさん〟と、いつまでも一緒にいたくないという彼の気持ちが、痛いほど伝わってきた。
二十分ほどロビーで待たされた後、私は春栄の空けてくれたシングルルームに通された。残念なことに〈レイクサイド彦根〉は全室禁煙で、ライティングデスクに置かれたホテルのパンフレットには〝お煙草は一階の喫煙室でお願いします〟と記されていた。コートと上着を脱いで、とりあえずベッドに横になった。さすがに私も疲れていたようで、いつのまにか眠りに落ちていた。
目を覚まして時計を見ると、十九時になろうとしていた。やはり短時間でも睡眠はとるもので、首の辺りが軽く感じられた。それから服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。ついでに、二日分の無精髭を剃ってユニットバスから出ると、脱ぎ捨てた服を着て部屋を後にした。〈ラウンジ 湖畔〉と対角の位置に設置されたガラス張りの喫煙室に入って、煙草を一本喫ってから、私は〈ラウンジ 湖畔〉の扉を開いた。
〈ラウンジ 湖畔〉は、この手のホテルによくある〝スナックに毛が生えた〟あるいは〝バーから毛を三本抜いた〟中途半端な佇まいの店で、カウンターの他にテーブル席が四つほどしつらえてあった。店の扉にはカウベルがぶら下げられていて、それが揺らされる音を聞いた和服姿のママが、カウンターの奥から姿を見せた。
私は夕食どきということもあって、まだ客のいない店のカウンター席に腰を降ろした。
「あら、いらっしゃい」酒灼けしているのか、しゃがれた声でママが、私の前に灰皿とおしぼりを置いた。「お早いのね。もう夕食は済まされたの」
私は適当に「もう済ませた」と答えて、ママの背後に見える棚に並べられたボトルを調べ、目に留まったフォアローゼスのソーダ割りを注文した。顔の造作がすべて大きいママは、手際良くソーダ割りを作ると「申し訳ないんやけど、まだ仕込みの最中やねん」と謝って、カウンターの奥に戻っていった。
食欲があるわけでもなく、時間つぶしに立ち寄っただけだった。私はタンブラーのソーダ割りをすすり、店内を見渡した。店の奥にカラオケのセットが置かれていた。もしかしたら、ママのしゃがれ声はこのカラオケのせいかもしれない。
半分ほどタンブラーの中身をすすった頃、来客を告げるカウベルが鳴り、二番手の客が入店した。二番手の客は、カラオケが設置されていることもあって遮音のために分厚くなっている〈ラウンジ 湖畔〉の扉を、身体全部を使って押し開いて入ってきた。
入浴を済ませたのだろう子供用の浴衣を身につけた二番手の客――翔太は、よじ登るようにして私の隣のスツールに腰をかけた。
「翔太、ここは子供が来るところじゃないぞ」私は翔太に言った。
「知ってるよ」
「じゃァ、なんで来たんだ?」
「ハルちゃんのお友だちが、おじさんはここにいるよって教えてくれたから……」
ハルちゃんのお友だち――支配人の井上だ。私の行き先は彼しか知らない。
カウベルの音に気づいたママがカウンターの奥から姿を見せた。私と並んで座る翔太を見て、大きな目をさらに大きくさせた。「あら、かわいい子やねェ。お客さんのお子さん?……ボク、なに飲む?」
翔太がなにも応えずにいるので、私が黙って首を横に振ると、ママは再びカウンターの奥に消えた。
「あのね、おじさん」翔太がカウンターに視線を落としたまま言った。「一緒にカレー食べよ」
翔太の横顔が、ぞっとするほど小さく見えた。
「お願い……一緒に食べよ」翔太は絞り出すように言った。
私はカウンターのママを呼び出して、勘定を済ませてから、翔太を抱えてスツールから降ろしてやった。「カレーか……普通だな」
私の言ったカレーの決まり文句を聞いて、翔太は私を見上げたものの楽しげに笑うことはなく、なにも言わずに私の右手を握った。今度は私が扉を開けてやり、翔太と手を繋いで〈ラウンジ 湖畔〉を後にした。
店を出ると、ロビーで春栄と井上が話し込んでいるのが見えた。井上がこちらを示していることから、春栄が翔太の行方を捜していることは、すぐにわかった。春栄が私たちに気がつき、駆け寄ってくる。春栄は浴衣姿ではなく、ダウンジャケットを脱いだだけのジーンズにタートルネックのセーター姿だった。
翔太は気がついていないのか、春栄に声をかけることなく私の手を引いて、受付の横にあるレストランへの入口に向かって歩き出した。
追いついた春栄が翔太に言った。「もう、勝手に出てっちゃダメでしょ」
翔太は黙ったまま私の手を引いて、店の中を歩いていく。私の様子を見て――情けない話だが、私は翔太に引きずられている恰好だ――険しい目だった春栄の目が、申し訳なさそうに細くなった。
一番奥の角にある四人がけのテーブルに、加藤がひとり浴衣姿で座っていた。翔太は加藤の正面に腰を降ろした。手を繋がれたままだった私は翔太の隣に座らされることになり、遅れて来た春栄の席はなにも置かれていない加藤の隣になった。
私の正面に座った春栄が、私の前にあったカレーライスを自分の方に引き寄せて言った。「あなたは夕飯をどうされているんだろうねと翔太が訊いたので、ひとりで食べてるんじゃないかしらと答えたんです。そしたら、私を押しのけて……」
「……飛び出してしまったわけですね」私はそう答えて、先刻〈ラウンジ 湖畔〉で翔太を見たときから気になっていた浴衣の帯を直してやった。この位置では上にありすぎて、あまり賢く見えない。
翔太は会話には入ってこようとはせずに、正面をじっと見つめていた。翔太の正面には、隣り合って座った加藤と春栄――まだ、少し間を置いているのだが――この小さな依頼人は、なかなかの策士だ。
私はふたりに言った。「構いませんよ。一緒にいただきましょう。お邪魔でなければ」
「お邪魔だなんて、とんでもない」加藤が大袈裟に手を振って答えると、隣の春栄がウエイトレスを呼び出してカレーライスの追加注文をした。
三人ともカレーライスに手をつけずにいるので――よく見ると翔太の分だけ、カレーの色が薄かった。甘めにつくってあるのか、通常のカレーを急遽、子供用に牛乳で薄く延ばしたのか――私は「お先にどうぞ。多分、私が一番に食べ終わるでしょうから」と食事を続けるよう促した。
「嘘だァ、絶対にボクが一番だもんね」翔太がカレーライスに挑み始めた。
春栄と加藤も、翔太の様子をうかがいながら、食事を再開した。私は、ようやくいつもの調子に戻った翔太を見て、少しだけ安心した。
十分ほどして、ウエイトレスが私の前にカレーライスを運んできた。実を言えば、食欲がないところにアルコールを口にしてしまったので、カレーライスを食べきる自信は私にはなかったのだが、この際仕方がなかった。世の親というものは、こうやって子供の前で無理をすることもあるのだと自分を納得させて、最初の一口を食べた。
結局のところ、カレーライスを最初に平らげたのは、私だった。そしてカレーライスの味は、いたって〝普通〟だった。
夕食を終えてから、私たちはそれぞれの部屋に戻った。私は三階、翔太たちは五階に。
部屋に入った私は、椅子に腰かけてライティングデスクに足を乗せた。少量とはいえアルコールを口にして、腹がくちてしまうと、人間という生き物は眠気に襲われてしまうようだ。不安定な恰好のまま、私は眠りに落ちていた。小一時間ほどまどろんだ後、目を覚ました私は洗面所で顔を洗い、気合いを入れ直した。
そろそろ、翔太は眠っているだろう。私が加藤たちの部屋を訪れてもいい頃合いだ。問題は五階のふたりが〝犬も食わない〟状況なのかどうかだった。〝犬も食わない〟状況なら、この稼業ではメシのタネになるのだが――そうでなければ私は〝馬に蹴られて死んでしまう〟ことになる。それだけは、ごめんだ。
部屋の内線が鳴ったのは、私が柄にもなく五階を訪問することを逡巡していたときだった。
「もしもし、起きてらっしゃいますか」受話器の向こうから、春栄の声がした。私が「起きてましたよ」と答えると、春栄が言った。「今すぐ、わたしたちの部屋に来ていただけますか?」
〝馬に蹴られて死んでしまう〟恐れのなくなった私は「すぐに伺います」と答え、受話器を置いた。
私は春栄から預かった〝秘密道具〟をコートから上着に移して、シングルルームを後にした。何気なく自分の携帯電話を見ると、着信があったことを報せるランプが点滅していた。私がまどろんでいる間に着信したようで、留守番電話に一件のメッセージが録音されていた。
十六
加藤たちの部屋――五〇五号室をノックした。
ドアが開いて顔を覗かせたのは、内線をかけてきた春栄だった。「どうぞ、お入り下さい」
春栄に招かれるまま五〇五号室に入ると、部屋の中では、浴衣姿の加藤が椅子に腰かけて待っていた。「すいません。妻が、お呼び立てしてしまって……」
翔太は、彼にとっては広すぎるベッドで眠っていた。
私の後から来た春栄が、翔太の眠るベッドに腰を降ろしたのを合図に加藤が口を開いた。「この人を呼んで、君はどうしようというんだ?」
「わたしに言えないことがあるなら、この人に言えばいいでしょ」
「なにを言い出すんだ。僕が言いたいのは、そういうことじゃない」
「じゃァ、どういうことなのよ」
夫婦の罵り合いが続いた。翔太はピクリとも動かずに、眠り続けていた。不思議なもので、夫婦というのは子供を起こさない程度の声量で罵り合う技術をいつの間にか身につけるようだ。
口を挟む隙も、居場所もない私は椅子の抜かれたライティングデスクに寄りかかり、〝犬も食わないもの〟を眺めていた。
「わたしは、あの人を信じられないの。あの家で、わたしが信じられるのは、あなたと翔太だけなの。あなたが、あの人になにも言えないことは、わかってるわ」
「僕だって、あの人になにも言えないわけじゃないさ。君だって、あの人をなんで信じられないのか、ちゃんと教えてくれなければ、僕だってなにも言えないじゃないか」
「……だったら、あなたがちゃんと話をしてよ。あなたを信じられなければ、わたしだって言えないでしょ」
「それは……」
「翔太の携帯電話になにがあるの? なんで、そこまで翔太の携帯電話にこだわるのよ……」
ふたりの話す〝あの人〟が誰なのか、〝あの人〟が春栄になにを言い続けてきたのかを私は知っている。加藤が翔太の〝秘密道具〟に、こだわる理由も山本明美から聞いてわかっている。
そして、小さな〝キューピッド〟が、不毛な自己主張を続けるふたりを気に病んでいることも。
――一緒にカレー食べよ
翔太の小さくなった横顔が、脳裏に浮かんだ。この場を立ち去りたい衝動を、奥歯を噛み締めて耐える。眠っているとはいえ、翔太ですら、このくだらない言い争いが続く部屋に残っているのだ。
気がつけば、五〇五号室にようやく静寂が戻っていた。言葉の弾丸を使い果たしたふたりが、一時休戦としたのだ。そのふたりが、揃って私を見ている。
「ここ、禁煙ですよ」見事なユニゾンだった。
無意識のうちに煙草をくわえていた。私はフィルターに歯形のついてしまった煙草を箱に戻した。なんにせよ、私が話を切り出すにはいいタイミングだと思った。
「春栄さん……これを聞いていただけますか?」私は自分の携帯電話を取り出して、春栄に手渡した。録音されたメッセージの再生方法を教えて、加藤を部屋の隅に呼び出した。
春栄が教えた手順どおりに私の携帯電話を操作して耳に当てるのを見て、上着のポケットから水色の携帯電話を取り出した。
「なんで、あなたが翔太の携帯電話を持ってるんですか?」
「春栄さんから、預かりました。このホテルに着いたときにね。彼女はこの携帯電話がどういったものなのか、はっきりとはわかっていないようです……ただ、あなたがここまで来た本当の目的が、この携帯電話であることは理解しているようでした」
「なに言ってるんですか。私は妻に会いにここまできたんですよ。それは、翔太が大切にしているものだから……」
「嘘は言わない方がいい」私は春栄に背を向けた。ここから先は、あまり春栄には聞かせたくなかった。「あなたは、この翔太君の携帯電話のSDカードに、ある〝データ〟を仕込んでますね?」
「どうして、それを……」
「この女に聞きました」私は山本明美の名刺を加藤に見せた。「この女……ご存じですね」
「知ってます。なんだ、あなたもご存じでしたか」名刺の名前を見た加藤の目が輝いた。
「加藤さん、あなたはこの女に、SDカードに保存した〝データ〟を売ろうとしましたね。一千万円で」
加藤は唇を噛むと私から目を外して、春栄に視線を移した。春栄は私の携帯電話に吹き込まれたメッセージに聞き入っていた。
私は話を続けた。「子供用の携帯電話ならGPSもついているから、〝データ〟の所在をいつでも確認することができる。翔太君のあの様子なら、携帯電話を手放すことはない。仮に翔太君がどこかで携帯電話を落としてしまったとしても、捜すことだって簡単だ。いい隠し場所を思いついたもんですねェ」
「そういう言い方は、やめてください」
「ところが……だ。家出をした春栄さんが、翔太君の携帯電話を持っていってしまった。慌てたあなたは、私に彼女の捜索、いや携帯電話の捜索を依頼したんです」
「だから、そんな言い方は……」
「春栄さんの居場所が彦根だとわかったあなたは、私と一緒に同行して、春栄さんから携帯電話を取り戻し、この女――山本明美に携帯電話に仕込んだ〝データ〟を売りつける計画だった」
「売りつけるって……彼女はフリーライターで、その〝データ〟を利用した記事で、銀行の闇を暴こうと……お金だって、その謝礼です」
「残念ながらね、この女はフリーライターでも、正義の味方でもなんでもない。この山本明美は、強請りだとか、脅迫だとかの常習犯です。第一、あの女に一千万も出せるわけがない。おそらく、この〝データ〟を使って、あなた自身か、あるいはあなたの銀行を脅して、大金をせしめるつもりだったんでしょうなァ」
「そんな……」加藤の目から輝きが消えていった。
「まァ、この女には私の方で、この件から手を引くように説得したので……もう、あなたの前に現れることはないでしょう」説得するのに使った右の拳が少し腫れていることに、私は気づいた。
私の話はここまでだった。振り向くと、春栄がメッセージを聞き終えていたので、私は彼女が握りしめている私の携帯電話と翔太の〝秘密道具〟を交換した。
春栄は、翔太の〝秘密道具〟を握りしめ、うつむいたまま動かなかった。呆然と水色の携帯電話に視線を送っていた加藤は、倒れ込むように先刻まで座っていた椅子に腰を降ろした。
「後はおふたりで、話し合いでも罵り合いでも、どうぞご自由にやってください。私は家裁の人間でもなければ、離婚の調停員でもない。ただのしがない探偵だ。だけど、ひとつ言わせてください。大人のあなたたちが、これから先どう生きようと、私の知ったことじゃない」私はベッドで眠る翔太を指で差した。「ただね、あいつを悲しませる結論だけは……いや、違うな。どういう結論をだそうと、あいつをこれ以上、苦しませるような真似だけは、どうかしないで欲しい」
私はふたりを残して、五〇五号室を後にした。
部屋に戻った私は、ライティングデスクに置いておいたジャックダニエルのポケットボトルを開けて、一口飲んだ。ウイスキーが喉を灼いていく感覚を味わいながら、あのコンビニエンスストアで、このポケットボトルを購入したことは、我ながら懸命な判断をしたのだと思った。それから、部屋で煙草が喫えないことに腹が立ち、ポケットボトルを握りしめて、一階の喫煙室へと向かった。喫煙室にあるテーブルタイプの空気清浄機にポケットボトルを乗せて、煙草に箱形マッチで火をつける。最初の一服を深く喫い込んで吐き出し、ジャックダニエルを呷る――
五〇〇ミリリットルの缶ビールを手に、加藤が喫煙室に入ってきたのは、私が二本目の煙草を消した頃合いだった。加藤は私が煙草を勧める前に、浴衣の袂から自分の煙草を取り出した。銘柄は私の知らないものだったが、箱の色が緑なので、メンソールの煙草なのだろう。
使い捨てライターで、煙草に火をつけた加藤が話し始めた。「春栄が、少しひとりっきりで考えたい……と。あの電話、なんだったんですか?」
実は春栄は妊娠をしている。結婚当初から時子に、その手の報告は加藤より先にするようにと厳命されていた春栄は言いつけを守って、まずは時子に妊娠の報告をした。それに対する時子の回答は、ただ一言〝産んでくれるな〟だった。これが、春栄が衝動的に家を飛び出した理由だ。
春栄が聞いたメッセージ――それは、時子からの弁明だった。婿養子である加藤と春栄の間に授かる子供には〝加藤家〟の血が流れていないこと、そして女というのは実子にしか愛情をそそげないものだから、理解をして欲しかったのだ、と。ただ、春栄が姿を消した当日、時子は翔太から、〝ハルちゃんがいなくなったのは、お祖母ちゃんがハルちゃんにいじわるを言ったからだ。ハルちゃんがいなくて寂しい〟となじられ、自分のしたことの大きさを知った――ここでも、小さな依頼人は家族のために奔走している――だから、翔太のためにも、帰ってきて欲しい。一言謝らせて欲しい、と自己憐憫と自己防衛に満ちた口調で、吹き込まれていた。
私は、ひとりで考えたいという春栄の意志を尊重した。私が言うべきことではない。回答を出すのは彼女で、それを聞くのは加藤だ。
黙ったまま煙草を喫う私を見て、加藤が話題を変えた。「あの〝データ〟のことなんですけど……正直に言います。翔太の携帯電話に保存していたSDカードには、うちの銀行で行われている不正融資に関する資料が保存されています。僕と先輩――あの、あなたの事務所に伺ったとき、帰りしなに挨拶に行きたいと言った先輩です。その先輩とふたりで、二年がかりで調べ上げました。〝データ〟の保存場所を、翔太の携帯電話にしようと提案したのは、僕です。理由は、あなたが仰ったとおりです。翔太の携帯電話が一番安全だと思いました。先輩は、あの〝データ〟を使ってうちの銀行を救いたかったんです。このままじゃ、うちの銀行はダメになってしまう……そのために、マスコミを使おうということになりました。そのとき、近づいてきたのが山本明美さんです。あなたに言われるまで、僕も先輩も、彼女は正義のフリーライターだと信じていました。先輩は彼女の書く記事で告発してもらい、銀行の建て直しを図る計画を立てました――」
加藤がまくし立てた。私はなにも言わず、煙草を喫ってポケットボトルに口をつけた。
加藤の告白が続く。「あの〝データ〟を高値で売りたいと、言ったのは僕です。僕は今の支店で融資課長なんかをやらせてもらってますが、それは実力なんかじゃありません。〝加藤〟の名前なんです。〝加藤〟の家は、あの辺でも指折りの資産家ですからね。僕が取ってきた大口の融資なんか、〝加藤〟の名前がなければ、取れっこないものですよ。自分の実力で……たいした実力じゃないですけど、自力で勝負がしたい……そんなことを考えている頃、先輩から不正融資に関する資料を調べる手伝いをしてくれと頼まれました。資料を調べているうち、今度は銀行自体にいること自体が、嫌になってきて……」加藤がメンソールの煙草を一服して、間を取った。「僕は今回の件を機に、銀行を辞めます。自分の力で勝負をしたいんです……でも、僕にも生活があります。春栄と翔太がいます。彼女たちに安定した生活を与えなければなりません。そのために、当座のお金を要求したんです。先輩にも相談して、理解をしてもらいました。先輩は、銀行に残って改革を進める気ですけどね。僕は、もう……自分の力で生きていくことにしたんです。要求した一千万は、高すぎるかもしれないですが、家族の暮らしを守ることのなにが間違っているんですか? 家族の幸せを守ろうとすることが、どうして信用ならないんですか?」
「俺に御託を並べるんじゃない」私はポケットボトルのジャックダニエルを一口飲んだ。
「御託……ってそんな言い方ないじゃないですか。僕は、正直に話をしたんですよ」
「あんたが正直に話そうが、どうしようが……俺にとっては御託だよ。あんたが今言ったことは、俺に言うべきことじゃない。彼女に言うべきことだ」
「確かにそうですけど……僕はどうしたら、いいんですか。僕らにはもう……手段がないじゃないですか」
「あんたがどうしようと、俺の知ったことじゃない。ただひとつ言えるのは、あんたはここで御託を並べてる場合じゃないってことだ」私は加藤の手から缶ビールを引ったくった。「出てってくれ。俺はひとりで飲みたいんだ」
加藤は力無く煙草を灰皿に放ると、肩を落として喫煙室を出ていった。私はそれを見送りながら、ポケットボトルに口をつけた。ひとりきりになった喫煙室のガラスに卑しい顔をした野良犬が映っていた。
――調子に乗るなよ、探偵
野良犬の顔を眺めながら、大人たちの軽率さと愚かさへの怒りをジャックダニエルで流し込んだ。ビールをチェイサー代わりにして、ポケットボトルのウイスキーを飲み尽くした私が喫煙室を出ると、ちょうど客を見送っていた〈ラウンジ 湖畔〉のママと目があった。顔の造作が大きいママは、私に気づくと年甲斐もなく飛び跳ねて私を呼び込んだ。私はママに招かれるままに、〈ラウンジ 湖畔〉のカウンターに河岸を移して、最初に訪れたときと同じフォアローゼスを、ソーダ割りではなくロックで注文した。それから、ママの歌う〝都はるみメドレー〟をBGMに飲み続けた。ボトルを半分空けたところまでは、覚えている――
気づいたときには、ホテルの自室で服を着たままベッドで横になっていた。
時計を見れば、四時を三分ほど回っていた。喉が渇いていたので、私は部屋の冷蔵庫にあったミネラルウオーターを一息に半分飲んでから、煙草をくわえた。上着のポケットを探り始めて、このホテルは全室禁煙だったことを思い出し、煙草は諦めた。しばらく火のついていない煙草をくわえながら、再びベッドに横たわった。そして、この時間でも電話をかけられる相手がいることを思い出して、上着から携帯電話を取り出した。相手は三コール目で出た。しばらく電話をした後、煙草を箱に戻して、私はそのまま眠りに落ちた。
その後、モーニングコールで起こされたが、丁重に朝食を断ってから、チェックアウトまで寝かしてくれと頼んだ。それから一時間ほど惰眠を貪った後、洗面を済ませてから、私は一階のロビーに降りた。
ロビーで加藤に出くわした。加藤は、今日はネクタイを外していたのだが、その姿がまったく似合っていなかった。昨晩のこともあって、お互いに気まずい雰囲気のまま挨拶を交わすと、加藤からホテルの支払いは済ませたと報告された。
「……これから、どうされます? 私たちは車で帰りますけど」
「春栄さんは?」
「一緒に帰ります。明日は翔太の学校もありますしね」
「そうですか……私は、ここでお別れということにしましょう」
「一緒に帰っていただけないんですか?」
加藤の問いかけに私は黙って頷いた。
「私たちがどう帰ろうと、知ったことではない……ということですか」加藤が苦笑混じりに言った。
「そういうことです」私も微笑みを返した。「あ、そうだ……」
私はコートのポケットから、部屋を出る前に書いたメモを加藤に渡した。
「これは?」
メモには、昨晩――正確に言えば、今日の明け方に電話をした相手の名前と連絡先を書いておいた。「昔からつき合いのある新聞記者です。申し訳ないですが、あなたから昨日の夜に聞いた話を、この男にさせてもらいました。それでね……彼が言うには、興味深い話だから、ぜひとも詳しいことを聞かせて欲しいと」
「本当……ですか?」メモを持つ加藤の手が震えていた。
「ええ。少し軽い感じはしますが、昔気質で腕っこきのブン屋です。信用のできる男だということだけは、伝えておきます」
「ありがとうございます」今度は声を震わせて、加藤が頭を下げた。
それから、加藤とは今回の依頼料について簡単な打ち合わせをした。なにかと忙しくなるであろう彼に、依頼料は振り込みにするよう伝え、後日メールで振込先を教えることにした。
翔太と春栄が、エレベータから降りてきた。水色のカバンを襷がけにして、首から〝秘密道具〟をぶら下げた翔太が「おじさん、おはよう」と言ったので、私も「おはよう」と挨拶をした。
「おはようございます。昨日は……失礼しました」キャリーバッグを引きながら来た春栄の眼鏡の奥は、少し腫れぼったかった。
「まァ、昨日のことは、昨日のことですよ」と私は返した。
「ありがとうございます」春栄が深々と頭を下げた。
「……さて、私はここで失礼します」
加藤と春栄に挟まれて立った翔太が言った。「ええェ、おじさん、一緒に帰ってくれないの?」
「ああ。新しい仕事が入ってね。すぐに帰らなきゃならない」
「新しい仕事って、事件のこと?」
私の言葉に目を輝かせた翔太に「そうだ」と答えた。これぐらいの嘘は許されるだろう。
「すごいなァ……おじさん、ボクね。大きくなったらタンテーになるんだ。やっぱりカッコいいもん。おじさんは、ハルちゃんをすぐに見つけてくれたし」
この稼業は恰好のいいものではない。ましてや、今回の依頼では、春栄の居場所は最初から鈴木が知っていたのだ。ただ、私が翔太の夢をつぶしてしまうのもいたたまれず、曖昧な笑みを返して、彼の将来は両親に任せることにした。
「……では、失礼します。運転、気をつけてくださいね」
「さようなら」と返した加藤の目は、〝あなたにだけは、言われたくない〟と語っていた。春栄は笑みを浮かべて頭を下げ、翔太は私に「バイバイ」と手を振った。
私は腰をかがめると、翔太の顔を正面から覗いて、右手を差し出した。「翔太……男同士ってのはな、こうやって、さよならをするんだ」
戸惑う翔太の肩に、加藤と春栄が両側からそっと手を置いた。勇気をもらった翔太が、私の差し出した右手を握った。
「じゃァな、翔太」
翔太は照れくさそうに加藤と春栄を見上げてから、私に満面の笑みを返して言った。「じゃァね、おじさん」
私は加藤と春栄に目礼をして振り向くと、〈レイクサイド彦根〉を後にした。
これが私と翔太、春栄、そして加藤との別れになった。
それから、三人には会っていない。
十七
あの〝冒険旅行〟から数週間ほどして、とあるメガバンクによる巨額の不正融資を、竹橋にある新聞社が一面ですっぱ抜いた。記事が掲載された日の夕刻、私の事務所に武中という新聞記者から電話が入った。武中が言うには、各社とも内偵を進めていたのだが、決定的な証拠をつかむことができずにいたところに、内部告発による情報提供があったので、他社を出し抜くことができたのだそうだ。武中は興奮気味に「新聞協会賞を受賞できるかもしれない。お礼に今度、担々麺を奢らせて欲しい」と言ったので、私は冷静に「期待しないで、待っている」と答えて、電話を切った。
事態が歴代の頭取が国会に召喚されて、現頭取の引責辞任にまで及ぶ頃になると、内部告発をした本店の融資部長代理は実名でマスコミの作った舞台に登場するようになり、彼は銀行を救うべく立ち上がった勇気あるヒーローとして、スポットライトを浴びることとなった。この告発のために尽力した後、自らの可能性に賭けることを理由に、早々に舞台から降りた千葉の片隅にある支店の〝元〟融資課長の名前が、世間で語られることはなかった。やがてクリスマスを迎える頃になると、世間の目はある芸能人が麻薬所持で逮捕された事件へと移り、内部告発者の名前を目にすることは、日に日に少なくなっていった。
私の元に一通の手紙が届けられたのは、新年の仕事始め当日から読書にいそしむ生活を送っていた昼過ぎのことだった。年賀状代わりの手紙には、送り主が医薬品を扱う会社の経理に転職をしたこと、姑と和解した妻は看護師として再就職を決めたこと、そして一人息子の将来の夢が〝タンテー〟から〝恐竜博士〟に変わってしまったことが報告され、最後に妻の友人の快気祝いで訪れた琵琶湖で年を越すことになったので、写真を同封すると結ばれていた。手紙に同封された写真には、家族三人の笑顔が琵琶湖に沈む夕陽を背景に収められていた。
私は読み終えた手紙をデスクの抽斗にしまうと、今年初めて事務所で喫うことになる煙草をくわえた。そして、小さな依頼人が飛び込んでくる恐れのなくなった事務所のドアを見つめながら、ブックマッチを使って火をつけた。
ハルちゃんの家出