幸せな少年へ

朱く

 ある日の夕方のことです。学校はとうに終わり、子供達はクモの子を散らすように家や公園へと姿を消してゆきました。
 人の気配がなくなった学校というのはなんだか寂しいものです。とは言っても先生達はまだ校内にいますし、何か用があって残っている生徒だっていないわけではありません。それでも、一度子供達に下校を促してしまった校舎というものはどこかいつもと違った雰囲気を醸しだすものなのです。普段と違うその空気は、そこにいる人達にもなんとなく感じられるようです。
 夕焼けに染まり始めた教室では、一人の少年がそわそわした様子で誰かを待っていました。教室の中は少し涼しいくらいなのに、握りしめられた少年の手はじわりと汗ばんでいます。少年は手の平の湿りっ気をズボンにこすりつけて拭うと、窓をわずかに開けてキンと冷えた外の空気を胸一杯に吸い込みました。
 その時です、少年の背後でドアがからからと軽快な音を立てて開きました。そこには少年と同じクラスの少女が立っていました。少女はいつも見ている教室の普段とは違う表情に気圧されてしまったのか、ドアに手をかけたその姿勢のままぼうと突っ立っています。少年もどんな言葉をかければいいのかわからないようで、息を詰めて少女のいるほうを見つめます。
 ちょっぴり、居心地の悪い時間が流れました。
 少女は、放課後になったら教室に来るよう少年から言われてやって来たのです。だと言うのに当の少年がぎこちない表情を浮かべて黙りこくってしまったのでは、てんでお話になりません。自分から声をかけたほうがいいのかと考えたりもしているようですが、それでもなんだか上手く話を切り出せないのは、少女もやっぱり少年と同じような緊張を感じているからなのでしょう。
「……あのさ」
 ようやく少年が口を開き、少女はいくらかほっとした様子で教室の中へと足を踏み入れました。少年はどう話を切り出そうかと少しの間考えていましたが、そう上手いこと閃きはしないようです。結局、悩みに悩んだ少年が発した言葉はひどくありきたりなものでした。
「なんか……話するの久しぶりじゃね?」
 そんな台詞を聞かされて少女のほうも気が抜けてしまったようで、「そだね」なんて素っ気ない返事です。それでも、おかげでどこかギクシャクしていた空気も少しは緩んだというもの。だいぶ肩の力が抜けた様子で、今度は少女のほうが少年に尋ねます。
「で、話って?」
 ん……と、少年はまた言葉に詰まります。しかしこのまま黙っていてもしょうがないとようやく腹をくくったようで、ぽつりぽつりと話し始めました。
「最近、おれ、おまえに避けられてる感じするんだけど」
「……そう?」
「そう……だろ」
「それは、ほら、最近他の子とずっと一緒にいたから声かけられなかったし」
「他の子と、って誰が?」
 少女は口で答える代わりに、腕を伸ばして人差し指をピッと突きつけました。少年は少女の指を見つめ、その示す先をぼんやりと追い……。
「おれが?」
 少女はこくりと頷きました。少年は首でも絞められたようなうめき声をあげると、しどろもどろに言い返しました。
「別にそんなことないし」
「ないことないよ」
「見間違いだろ」
「じゃあ、最近学校の行き帰りとかによく一緒にいる子。あれ誰?」
「っ……そんなのいねえし」
 一瞬、少年は言いよどみました。途端に少女の目つきが鋭くなります。
「そこでウソつく? 一緒にいるでしょ、女の子!」
「いや、なんか勘違いしてるって」
「でも絶対なんか隠してるし!」
 少女はむきになって言い張ります。少年のほうはというと少女に対してあまり強気な物言いはできないようですが、それでも言い分を譲ろうとはしません。少年だって、別にケンカがしたくて少女を呼びつけたわけではないのです。それでも、まだ幼い二人には頑なになっていく態度を抑えるのは難しいのでしょう。ですが、このままではいつまで経っても話の終わりが見えてきませんし、場合によってはもっと泥沼の言い合いになってしまうかもしれません。

 ――その時、窓から緩やかな風が吹き込みました。

 風はカーテンをなびかせ、二人の間を吹き抜けていきます。そして……教卓の上に積み上げられていたプリントの山が風に吹かれて床へと雪崩落ちました。その時、まさにその教卓から「きゃっ」という小さな悲鳴があがりました。
 それは、空気の張りつめた二人っきりの教室には似合わないすっとんきょうな声でした。突然聞こえてきた声に、少女は文字通り目を丸くして教卓のほうを訳もわからず見つめます。そんな少女の視線の先、教卓の陰からおもむろに小さな頭が覗きました。少女と教卓の向こうとで視線がぶつかり、少女の顔にさっと緊張の色が走りました。
「その子……!」
「おまえ、隠れてろって言ったろ!」
 少年がうろたえたのを少女は見逃しません。
「その子でしょ、最近いっつも一緒にいるの」
「別にいつもとかじゃないって」
「でも学校から帰る時も二人でいたの、わたし見てるもん!」
 ここまで言い詰められてなお……いえ、これだけ一方的に言いたい放題にされたからこそでしょうか、少年は何か言い返してやりたそうにむずがゆい表情を浮かべていましたが、ついに観念してがっくりと肩を落としました。少女ともう一人の小さな女の子、その両方にちらりと目をやり、そしてぽつりと言いました。
「そいつ、妹だから」
「いもうと……?」
「親が、こいつ一人だと心配だからって、おれに面倒見ろって……」
「いもうと……」
 呆けたようにオウム返しをする少女を前に、少年は目を泳がせます。気まずさが見え見えです。
「妹なら最初からそう言ってくれればいいのに」
「いや、だって……」
「隠してたら逆に変じゃん」
「だって、妹の面倒見てやってるとか、いちいち言いたくねえし!」
 それは、少年の中で何かが吹っ切れたような大きな声でした。
 お兄ちゃんが妹の世話をしてあげるというのは、案外難しくて、それでいてとても大切なことです。ちゃんとできたことを誇らしく思ってもいいくらいに。それでも、少なくとも少年にとってはそんな「いい子」な姿を友達に知られることが気恥ずかしくてたまらなかったのです。
 少女は呆気にとられた様子でしばらく少年のことを見つめていましたが、やがてにんまりと口角が上がっていきました。それに気付いた少年は一層ふてくされたような表情をしますが、今の少女にはそれすら面白くてたまりません。少女は少年のほうへと詰め寄り、意地悪く顔を覗き込みます。
「妹ちゃんが出てこなかったら、どうやって説明するつもりだったの?」
「それは……なんとかして」
「ふぅん、ムリだと思うけどなぁ」
「うるせえ」
 そして、今度は優しげな眼差しを少年の妹に向けました。
「お兄ちゃん、優しいんだ」
 頭だけ覗かせておどおどしていた小さな女の子は教卓の陰から出てくると、にかっと大きな笑みを浮かべました。
「とにかく、それが言いたかっただけだから。じゃあな」
 すっかりひねてしまった少年は足音も荒く教室を出て行こうとします。
「おい、帰るぞ」
 少年の言葉に慌ててその背中を追いかける妹でしたが、すぐに足を止めると振り返って大きな瞳で少女を見つめました。そこに言葉はなくて、でもその間には確かに何かが通じたのでしょう。少女は口を開きました。
「ねぇ、わたしも一緒に帰っていい?」
 笑みは、どちらからともなくこぼれました。小さな女の子は少女の手を握ってぐいぐいと引っ張ってゆきました。少女の頬に差した朱みは、夕陽では到底塗りつぶせないほどに映えています。
 廊下に出たところで、少女は一度教室を振り返りました。文字通り空気が変わったあの瞬間を思い出し、心の中で小さな奇跡に感謝を告げます。
 三つの小さな影は並んで、弾むように学校を去ってゆきました。

赤く

 空は青々としていて、風一つない日でした。見晴らしが良くて軽いハイキングに向いた山は、家族連れや老夫婦など多くの人でにぎわっています。ビデオカメラ片手に子供達を見守るお父さんがいれば、ベンチに腰掛けてお茶を飲んでいるおばあさんもいます。
 そんな穏やかな風景の中に、少年と少女はいました。
「よかったの? ちゃんと面倒見てあげてないと後で怒られるよ」
「大丈夫だって。別に一人で留守番させてるわけじゃないし」
「ホントに何も言われない?」
 そう言って、少女は半信半疑といった様子で少年のほうに目をやります。
「一緒に連れてきてもよかったんだよ、妹ちゃん」
「本当にいいんだって。……今日くらい」
 素っ気なくそう返すと、少年はついと顔を背けました。
 ……今日くらい。二人で。
 気恥ずかしさで最後までちゃんと口に出してしまえないのが少年の限界です。それでも、少女は全てお見通しといった様子で口元をにやつかせました。顔を背けていても少年には少女が今どんな表情をしているか何となく察しがつくようで、早くもむすっとした様子です。それで仕返しとばかりに少年が少女のほうをじぃっと睨むと、今度は少女のほうが顔を隠すようにふいと少年に背を向け、そそくさとどこかへ歩き出しました。
「おい、どこ行くんだよ」
 少年は少女に尋ねますが、返事はありません。仕方なく少年はその背中を追いかけます。
 少女が向かう先には、柵が並んでいました。そのすぐ先は崖になっていて、眼下の景色が一望できるようになっているのです。柵に手をかけて大きく身を乗り出すと、少女はとても気持ちよさそうに大きく息を吸い込みました。そこから見える景色をまずぼんやりと眺め、それからどこかに見知った建物がないかと目を凝らします。日々を過ごしている場所、それもいつもなら決して狭くは感じないその世界が、山の上からはちんまりとして見えることが少女にとってはなんだか不思議で、それでいてどこかわくわくさせられるようです。
 少女は、目を細めてそれは楽しそうに身体を揺らしています。少年はおずおずと、少女と同じように身体を柵にもたせかけました。少年は少女の顔をのぞき込み、少しだけ不安そうに声をかけました。
「前に出すぎだって。危ないし」
「ヘーキだよ」
 それまでご満悦な様子だった少女は、注意された途端に頬をふくれさせて言い返します。それでも、少年が本当に心配しているのはよくわかっているようです。言われた通り身を乗り出すのはやめて、今度は柵伝いに歩き始めました。
 少年は再び、後に付いて歩き出します。
「なんだかね、時々私達って誰かに助けてもらってるような気がするの」
「は? 誰に?」
「それは、ほら。……『誰か』、かなぁ」
「意味わかんねぇよ」
 少年には、少女の言葉がどこか謎めいて感じられるようです。少なくとも、普段クラスメイトとしている嫌いな授業や好きな給食の話と比べれば、なんだかとっても新鮮です。
「本当に苦しいとか大変とかそういう時じゃなくてね。ちょっとだけ困ってて悲しいなっていう感じの時に、誰かがそっと支えてくれてるような気がする時があるの」
「なんだそりゃ」
「変かなぁ、こういうの。でも、あると思うんだけどな、プチ奇跡みたいな」
「プチ奇跡、か。プチ……」
 少年はぶつぶつと呟いて自分なりの想像を巡らせ始めますが、少女はそれにはお構いなしで勝手に話を続けます。
「それでね、この前なんで呼び出したの?」
「今度は何の話だよ」
「何って、放課後話があるから教室に来いってやつ。あれ、なんで?」
「なんでって……」
 少年はわずかに困惑したような表情を浮かべました。急に話題が変わったことに、頭が追いついていないのです。少女にしてみれば二つの話題には切っても切り離せない結びつきがあって、会話が「プチ奇跡」のことから「夕暮れの教室」での出来事に流れていくのは自然なことなのですが、少年にはそこのところがピンと来ていません。
「だって、おまえがおれのこと避けてたから」
「うん、それはそうなんだけどね」
 少女は少し気まずそうに自分の頭を小突きました。一方、少年はもう少女の話と足がどこに向かっているのか見当も付かず、ただその後をついて行くばかりです。
「でも、そのままにはしなかったわけでしょ? なんとかしてまた話せるようにしてくれたわけだし。ねぇ、なんで?」
「そんなのどうでもいいだろ」
「よくないって! ちゃんと聞きたいもん」
「最近、おまえ、おれのことイジってばっかだよな」
 そう言って、少年はこの頃めっきり板に付いてきたいじけた顔をします。少女はちらりとその表情を窺うと、こみ上げてきた可笑しさにたまりかねて弾けたように笑い出しました。少年は何か文句の一つでも言ってやりたそうにしばらく口をもごもごとさせていましたが、そのむしゃくしゃを少女にぶつける代わりに頭をがしがしと掻いてぶっきらぼうに答えました。
「まあ、その、あのままだとそれはそれで寂しいから」
 まだひぃひぃと笑いの余韻が抜けない少女でしたが、少年のその言葉を聞いた途端、たったの今までの大笑いが嘘のように静かになりました。少女はいつもの小生意気な様子とはうってかわった態度で、おずおずと少年に尋ねました。
「……私と話せないと寂しいんだ?」
「……悪いかよ」
 ずっと連なっていた柵の端まで辿り着いた少女は唐突に立ち止まり、少年のほうへ向き直りました。少女の急な動きに驚いた少年ははたと足を止め、顔を上げました。振り返った少女が人を食ったようなにやけ面を浮かべているところを思い浮かべながら。でも、そこで目にした少女の表情はとても優しげで、どこまでも素直で……それは、少年が初めて見た、少女の何の衒いもない心からの笑顔でした。
 その足元で、土砂が、ぼろりと崩れ去りました。
「……!」
 少年は声にならない声をあげ、とっさに少女のほうへと手を伸ばしました。指先がかすりもしない、それは何の意味もない足掻きでした。

 ――次の瞬間、少女の身体を舞い上げるほどの強い風が吹きすさび……。

 ――なんて、そんな奇蹟は起きるはずもなく。

 少女の身体は重力に曳かれて少年の手の届かないところへ落ちていきました。束の間の静寂。それは少年にとってひどく長く、まるでよれたテープを回すように歪に間延びして感じられたことでしょう。ですが、実際のところそれは少年が事態を正しく呑みこむ隙もないほどのわずかな間でした。それでも、何が起きたのかはすぐに嫌でも思い知らされる羽目になりました。少年の耳に届いた鈍い音が、その全てを物語っていたのです。
 慌てて駆け寄り断崖を覗き込んだ少年の視界には、まだ少女の姿がありました。いっそのこと何も見ずに済めばよかったのです。少年の視線の先、小さな身体は大きな山肌を時に滑り時に跳ね、ぼろになって為す術もなく落ちていき、しまいに鬱蒼と茂る木々の中へと沈んでいきました。
 やがて、そこかしこからヒステリックな囁きが漏れ始めました。そんな中、少年だけが声をあげることもできずにその場にくずおれました。眼下に広がるのは土煙にくすむ黄土色の岩肌と所々撒き散らされた目に痛い赤ばかりです。
「……っ」
 少年の頬を伝った雫は、少女の後を追って奈落へと吸い込まれていきます。少年は、少女の不運を嘆きました。少年は、自らの不幸を呪いました。
 全ては、少年の手の届かないところへ逝ってしまいました。

明く

 少女は唐突に立ち止まり、少年のほうへ向き直りました。少年がそこで目にした少女の表情はとても優しげで、どこまでも素直で……それは、少年が初めて見た、少女の何の衒いもない心からの笑顔でした。
 その足元で、土砂が、ぼろりと崩れ去りました。
「……!」
 少年は声にならない声をあげ、とっさに少女のほうへと手を伸ばしました。指先がかすりもしない、それは何の意味もない足掻きでした。

 ――次の瞬間、少女の体を舞い上げるほどの強い風が吹きすさびました。

 どこからともなく突如として吹き荒れた風は、あたかも凶暴な台風が全てを攫っていくように少女の小さな体を巻き上げました。少女は元いた固い地面の上に荒っぽく投げ出され、その手や膝にいくつもの痛々しい傷を作りました。少年は何が起きたのかわからずに手を伸ばしたその姿勢のまま突っ立っていましたが、やがて恐る恐るといった様子で少女の元へと歩み寄ります。二人はしばらくの間顔を見合わせ、それから深い安堵の息を吐き出しました。お互いが確かにそこにいるという事実を噛み締め、歓び、泣きじゃくりつづけました。二人の耳にはもう、周囲の人々のどよめきも届きません。世界は、幸せに満ちていました……。

 もしそれが、少年と少女を見舞った出来事の顛末であったなら……。
 もちろん、現実はそんな奇蹟が起こるのをそう簡単に許してはくれません。たとえ崖から落ちたのが少女ではなかったとしても、それが人でも物でも、全ては当たり前のように奈落へと呑みこまれたことでしょう。そこにご都合主義の救いはありません。
 でも、いつかの時代にはそんな奇蹟だって案外簡単に起きていたのではないでしょうか。「神風」なんて呼ばれているものがそのいい例です。苦しい状況にいる人々が救いを求めると突然強い風が吹いて恐ろしい敵をやっつけてくれるなんて、まさに奇蹟でしょうから。人々はそんな折、人知を越えた力を持った誰かが自分達を助けてくれたのだと考えて、その「誰か」を神と崇めてきました。
 それならば少女の足が空を掻いたあの時にだって神風が助けてくれてもよかったはずだと、そう思う人もいることでしょう。そんな時に起きてこその奇蹟ではないのか、と。ですが、今ではもうそんな可能性を当てにするわけにはいかなくなってしまったのです。
 むかしむかし、人々が世界のことを理解するための頼みの綱と言えば神仏や魑魅魍魎でした。星が降るのも雷が落ちるのも、全ては神様の為せる業。人が消えたり病に倒れたりするのは、どれもこれも妖怪の仕業。それで説明がついていました。ですが人間はある時から、科学という物差しを使って色々なことを学べるようになりました。その新しい秤を手にした人間には、もう神様なんて必要ありません。そのために、論理的でないものや神秘的なものは全部古くさい迷信だと切り捨てられていったのです。今では、神様なんてものは狭く暗いところへと追いやられるばかり。いつか逃げ場を失って、存在を否定され消されてしまうのかもしれません。
 科学の唱えるお題目では、風というものは何もないところに勝手に生まれはしません。それは気圧の差異だとかのれっきとした理由があって初めて、あるところからある方向へと吹き始めるものだと決まっています。だから、いくら少女が危機に瀕していたからといって、いくら風さえ吹けばその命が助かるからといって、そんな理由で吹きはしないのです。

 ――もし風が吹いていたら。

 もしそんな常識外れな現象が、それもたくさんの人々が見ている中で起きようものならば、それはもう「奇跡」なんて言葉で片づけてはもらえないに違いありません。そんなことはあり得ないと誰かが言い始めるかもしれませんし、誰かがそんな「あり得ない」光景を映像に残しているかもしれません。人々は躍起になって不可思議な現象を調べあげ、その原因がどこにあるのかを暴こうとすることでしょう。絶対の信頼が置ける科学の方程式に数値を当てはめて、それで全てを自分達の理解できる範疇に収めてしまわなければ気が済まないのでしょうから。
 確かに、目の前に広がる謎を暴こうとするのは人間の強みでもあります。人々が今日(こんにち)の便利な生活を手にすることができたのは、まさにそのおかげなのですから。神様が恵みの雨を降らせなくとも、作物を育てるための色々な工夫ができるようになりました。神頼みなんかしなくても、世の中には日々を快適に過ごすための便利な道具があふれています。それは人間が歴史の中で勝ち取った素晴らしい功績です。
 でも同時に、世界は理屈でがんじがらめにされてしまいました。
 今この時代に神風なんてものが吹こうものなら、学者達はこぞってそれを数値にし、計算し、結論を出そうとするでしょう。そして、その答えはいつだって理に適ったものでなければならないのです。もし、その現象を引き起こしていた原因が知られてしまったら。その「原因」が、かつては人々が神様として崇めていた存在の成れの果てだと暴き出されてしまったら……。
 それは、神様にとってはひどく恐ろしいことなのです。一度は人々に畏れられていた神様でも、数字によって割り出されてしまえば、人間はそれを科学で掌握できてしまう程度の存在なのだと割り切ってしまうことでしょう。その時、神様もまた、人間の便利な道具の一つに成り下がるのではないでしょうか。いいえ、そうではありませんね。きっともう、とうの昔から神様は人間の便利な玩具(おもちゃ)なのです。神様自身がそれを認められずにいるだけで。
 信仰というお題目で神様を利用してきた人間には、本物の神様の威光なんてどれほどのものでしょうか。人間は神様の力を自分達のいいように利用しようとすることでしょう。そうすれば、神様はその尊厳を守るためどこまでも抗い続けることになります。だから、神様という存在が科学の力で白日の下に晒された日には、想像もつかないような悲劇が起こるに違いないのです。そんな未来と、少女一人の命が容易く失われる現実、一体どちらがよりおぞましいことなのでしょうか。
 神様はもう、人間に見つかるような危険を冒すわけにはいきません。だから神風は吹かなかったのです。だから「私」(かみさま)は風を吹かせるわけにはいかなかったのです。少女を襲った不幸がもし、いつかの夕暮れの教室のような場所で起きていたならば……。そうすれば、たとえ常識では考えられないような不思議な力を目の当たりにしても、子供達はそれをただ起きたこととして受け入れてくれたかもしれません。「奇跡」と呼ばれてそれでおしまいだったことでしょう。ですが、実際にはそう都合良くはいかないのです。
 少年は神をまやかしと蔑んでくれればいい。呪ってくれたって構いません。それでもいいから、どうか、少女一人の生命も救えないような奇蹟のない世界に生きてくれますように。
 それが君の、幸いなのだから。

幸せな少年へ

幸せな少年へ

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-05-23

Copyrighted
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  1. 朱く
  2. 赤く
  3. 明く