1日の半分は夜空

1日の半分は夜空

私は学校へ向かって歩いている。ただひたすらに。でも何かがおかしいのだ。私は異常な焦りに襲われる。誰かに追われている。私はどんどんと歩をはやめ、ついに走り出した。息が荒くなり呼吸が苦しくなる。それでも何かはついてくる。通学路にいる周りの生徒はそんな私の苦しんでいる姿を嘲笑うかのような目を向ける。私は無我夢中で何かから逃げ続けた。苦しい、苦しい、苦しい。手や足がはち切れそうなくらい痛んだ。
そしてふと私は痛みや苦しみから解放された。どうやら私は倒れ、死んだようだ。そんな私の姿を皆笑い、そして何事もなかったかのように自分の日常に戻っていった。

いつも私はここで目が覚める。
ここのところ毎日同じ夢をみる。枕もとの携帯で時間を確認した。スマホの液晶画面は5月20日火曜日の3時51分をさしていた。どうやら明け方の4時近くのようだ。窓の外はまだ暗く人の気配もない。ひとり目を閉じるとこの世界には自分ひとりしかいないのではないかとゆう錯覚に陥り、恐怖を感じる。その感情を押し鎮めるように私はまた静かに眠りにおちた。
再び私が目を覚ましたのは午前9時過ぎ。高校2年生である私は、本来ならば学校に行っている時間である。しかし私は学校には行っていない。なぜなら私が精神病を患っているからである。

私が精神病患者になったのはいつ頃からであっただろうか。

私は父母をもつごく一般の家庭で生まれ育った。小学校で受験をし、一般的に優秀とされる一貫校に入学。小中と卒業しそのまま高校へ入学した。中学3年のクラスがとても好きであったせいか、高1のクラスにうまく馴染めず、中学生活を毎日のように思い返す日々を過ごしていた。そのまま月日はたち6月初旬のころであっただろうか。私の胃が悲鳴をあげはじめた。毎朝のように襲われる胃痛に耐えながら登校する日々が続いた。胃腸科にかかり胃薬を処方されたものの、効果があらわれることはなかった。クラスに馴染めず、勉強も思うようにうまくいかず、なぜ自分はこんなにもダメなのであろうかと日々自分を責め続けた。そんな日々が4月からずっと続き、1年が終わる12月頃には体重が7キロほど落ちているこに気付いた。
年が明け3学期を迎え、とうとう私の体は狂いはじめた。毎朝頭痛と吐き気に襲われ、重い足を引きずりながら登校した。1時間ほどの通学路は私にとって地獄の道であった。周りの生徒が楽しそうに話す話し声や笑い声が頭に反響する。おそらくそんなはずはないのに自分が後ろ指をさされている感覚。聞こえるはずのない陰口が鮮明に私の耳に届く。見えてはいけないはずのものが見える。
地獄は決して通学路だけではなかった。学校へ行っても同じ症状がずっと続いた。
ひどいときは授業1時間分をトイレに引きこもり過ごした。吐き気が続いて出ようにも出られない。
私はいつまでこの症状に悩み続けなければいけないのだろうかと涙を流した。

このような日々が続き私は気づけば学校を休みがちになっていた。
母はよき理解者であった。私が学校を休むことを怒ることはしなかった。むしろいつも笑顔で私を励まし続けてくれた。

しかし学校を休むようになってからも、1度狂い始めた私の体はもとに戻ることを知らなかった。
学校を休むことによって私の体がもとに戻るなどという考えは私たちの思い込みに過ぎなかった。
本当の戦いはこれからだったのだ。

私はいわゆる不登校になり春休みを迎えた。部屋で引きこもっている毎日もいわゆる幻聴や幻覚がとまることはなかった。
人のなみが目の前にいるように見えたり、頭の中ではひたすら何かがきこえたりした。そんなことはもちろん未経験であった私はそれが恐ろしく毎日のように泣いた。そんな私の様子に見かねた母親が私を心療内科へ連れていくと言い出した。私の中の心療内科のイメージは決して良いものではなかった。そのため私は行くことをかたくなに拒んでいた。そんな私を無理に連れ出すわけにもいかず、親も私を見守るしかなかったのであろう。

幻聴幻覚はとどまることを知らずむしろ日に日に悪化しているようにも思えた。
そんな私は気づけば死にたいと思うようになっていた。机の引き出しを開ければ1本のカッターナイフが入っていた。カチカチと不吉な音を立てながら刃をだし左手首にあてた。ひんやりとした感触が手首から全身にまわった。そして出せる範囲の力を振り絞り刃をひいた。しびれるような痛みが左手首にはしる。つーっと赤い線が浮かび上がったかとおもうとすぐに血がしたたり始めた。
私はその血を見た瞬間なぜかふっと楽になったのだ。
そして懐かしく思ったのだ。

私は中学の頃、怒るとすぐ手をあげる母が嫌でしょうがなかった。たたかれるたび泣き自己嫌悪に陥りすぐに自傷行為、いわゆるリストカットをしていた。リストカットをするとなんとなく気持ちが楽になるからだった。傷跡を見た母はこれまでにない悲しい顔をしていた。しかし癖というものは治すことがなかなか厄介であり、わたしの自傷行為癖もなかなか治るものではなかった。何度目であっただろうか。私の傷跡をみた母が泣きわめき過呼吸になった。私はその母の姿をみて以来リストカットを封印していた。

しかしその封印されていたその癖はあっけなくとかれた。私は何度も何度も手首を切った。もう痛さなど感じなかった。切れば切るほど自分が楽になることを感じた。しかしその快楽が束の間であることも私は知っていた。それでもいいのだ。少しでも楽になるなら切ればいい。本気でそう思っていた。
そして手首にできた傷を見つけた母はとても悲しそうに泣きながら
「ごめんね。」
といった。なぜこの人が謝るのだろうと呆然としながら思っていた。母は私の目の前で泣き続けた。謝り続けながら。
呆然とする私の頭をなでながら母は
「痛かったよね、痛いよねこんなの。」
そう言いながらまたひたすら泣いていた。
私はなんだかやるせない気持ちになっていた。
楽になった気持ちとは裏腹になんだか言い表せない気持ちが見え隠れし複雑だった。
翌日母の左手首には何本もの自傷傷があった。
そして目の前で泣き続ける母を見ながら私は心療内科へ通うことを決意した。

3

私の通うことになった心療内科は私たちの住む隣の駅前にあった。
駅前の地味なビルの3階にあり私と母は黙ったままそこへ向かった。
決して広くはない待合室にクラッシック音楽が流れ数人が静かに待っていた。
自分の名前が呼ばれるまでの時間はひどくながく感じたのは私の気のせいだろうか。

一番奥の診察室1という部屋から自分の名前が呼ばれた。
私はゆっくりと慎重に診察室に歩を進めた。
診察室1とかかれた部屋はさほど広くなく観葉植物がいくつか置かれ、壁には大自然の中のような写真が飾られていた。
私は医師と向かい合って座った。
この病院へ来たからといって私は余計なことを話すつもりもなければ、医師に心を開くつもりもなかった。
しかしぽつり、ぽつりと自分の現状を話し始めるともうそれはせきをきったようにあふれ出した。
幻覚が見えていること、幻聴がきこえること、人が多くいるところに行くと息もできなくなるほどに苦しくなること、、、
できる限り話せる範囲で現状を伝えた。
私の話を聞き終わった医師は静かに語りだした。
「あなたは今脳の病気です。」
と。医師の一言めはそれだった。そして
「あなたの脳で何かの物質が多く出ていたり、また、足りないためにそのような症状がおこるのです。それは薬で治るし心配することはありませんよ。」
と。
正直その言葉で安心できるほど今の私は正常ではない。
薬を飲まなければいけないという不安が頭の中を巡った。
薬を飲むなんて本格的に精神病患者の扱いを受けているような気がして嫌だった。
しかし来てしまった以上は仕方がない。医師の指示に従うしか今の私になす術はなかった。

私と入れ替わるようにして母は診察室に入った。
どのくらい時間がたったのだろうか。
その間私は何をしていたか覚えていない。
診察室から出てきた母は、目を真っ赤に充血させていた。
おそらく医師は私の現状を母に話したのだと思った。
私は母に幻聴幻覚があることを話してはいなかった。少し高齢にして私を生んだ母は、小さいころからかなりの過保護であり、異常なまでに私に愛着があった。そんな母親が、自分の娘に幻聴幻覚といった症状があると知ったらどうなってしまうだろうか。それは目に見えてわかっていた。そのため今まで隠していたというのにあの医師はあっけなくそれを言ってしまったようだ。
私は絶望感あふれる母を隣にし泣きたくなった。
こんなになってしまった自分がただひたすら申し訳なかった。

同じビルの1つ下の階に薬局があったのでそこで処方された薬をもらった。
薬剤師の説明が耳にはいるわけもなくただ渡されるがままに薬を受け取り外に出た。
今まで見えていた外の景色は色あせ、まるでサングラス越しに街を見ているような気がした。
母も同じだろうか。そんなことを考えまた申し訳なくなった。

家に帰ってから母はずっと泣いていた。
「今まで気づいてあげられなくてごめんね、辛かったね。」
とひたすら泣いていた。
私はそんな母になんて声をかけていいかわからずタただ呆然と隣にいることしかできなかった。

それからというもの私と母は毎日のように泣いて過ごした。
この涙はなぜでるのだろう。どれだけさがしても答えは見つからない。
泣いている私を見るたび母も涙した。母はいつしか私に死のうか、とまで提案してきた。そんな思いつめている母はうつ病になりかけてきていた。素人の私がみてもわかるくらいに。
そんな母の姿をみて私は申し訳なかった。どうすればいいのだろうか。ひたすら考え考えそしてどうしようもできない現状に悔しくてまた涙がこぼれた。
薬のせいもあるが、毎日のやる気がいっさいおきず、起きて食事をし排泄をしお風呂に入りそしてまた夜が来ては寝る。毎日なんのために生きているのかわからなくなっていった。生きている意味などあるのだろうか。
薬は無駄に副作用が強いだけであって幻聴や幻覚といった症状がおさまることもない。
週に1回病院へ行くことで薬は変わったりしたがどれもこれといった効果はでない。私はふと医師に聞いた。
「私のこの現状に病名はあるのですか。」
と。すると医師は
「いくつか可能性がありますが、いまのところ挙げられるのは躁うつ病、統合失調症、パニック障害といったところでしょう。」
私は人生の絶望地点に立っていた。

いつしか私を見て泣くばかりの母のことさえもがうっとうしくなり、母がパートに出る日はなんとなく心が落ち着く気がした。
そんな日は決まってスマホのアプリを立ち上げた。
「友達作りのためのチャットアプリ」と称されたそのアプリは目線を変えた見方をすればおそらく出会い系アプリなのだろう。
しかし今の私に人と会う気力などどこにもない。ただの他人と無駄なチャットをし、時間がたつのを少しでも早く感じられればそれでよかった。
平日の昼間、そのアプリにログインしている人は主に大学生などが多い。
自分のプロフィールに適当な顔写真を貼って、適当な自己紹介文を書けば、気にかけてくれた人がチャットを送ってくる。
私はこの自己紹介文であえて自分が精神病患者だということを明かした。
どんな同情文が送られてくるだろうか。そんなひねくれたことを考えていた。
予想通りである。大丈夫?だとか、辛いよね、などといった下心を隠しきれていない同情をかったチャットがいくつもいくつも送られてくる。
このような文章を送ってくるのは決まって異性であり、そのことがこのアプリはほぼ出会い系のアプリだということを私に痛感させた。

大丈夫?などと聞かれても実際大丈夫ではない。しかし大丈夫じゃないと返事を返したところで相手はどうするのだろうか。そんなことを考え面倒くさくなり適当に大丈夫ですという返事をかいて送る。
ある程度チャットをしたところで相手はチャットルームを退室する。ほかでもない私との会話がつまらなかったからであろう。その原因もわかっていた。私があまりにも無機質な返事を送るからであり、かつ私は今人と会える状況ではないということ。会えないと知った途端に相手は返事をしなくなる。
そんなものか、と思いまた新たな他人とチャットをする。
そんな無意味なことをしてただ時間を過ごした。

そんなとき私は送られてきたチャットのなかのひとつに気になるものを発見したのだった。

それは21歳の男性からであったが、他の人とは違う、同情などまるでしていないただの質問文だった。
「あなたの上にある空は晴れていますか?」
と。私の地域の天気が知りたいのかと思い私はすぐに返事をかいた。
「晴れています。雲ひとつない快晴です。」
と。その日は本当に雲ひとつない憎たらしいほどの青空が広がっていた。
すぐに返事が返ってくる。
「そうですか。それは気持ちがいいですね。ではあなたの心の空も快晴でしょうか?」
この人はなにを言っているのだろうか。ずいぶんとメルヘンチックなことを言い出す人だと思った。でも私は少し楽しくなって返事をした。
「いえ。私の心の空には雨が降っています。」
するとその人の返事は私の予想外のものだった。
「そうですか。それはよかったです。その雨はもうすぐやみますか?」
と。雨が降っているということがこの人にとってはいいことなのだろうか。おかしな人だと思いながらまた返事を書いた。
「私の心の雨はやみません。かれこれ1か月くらい降り続いています。」
すると彼は
「それはいいことですね。」
私は疑問に思い返事をした。
「雨が降っているということはいいことなのですか?あなたは雨が好きなんですか?」
と。すると彼は
「決して雨が好きなわけではありませんよ。もしあなたの心の空の雨がほんの5分でやんでしまったらあなたの心には水たまりができてしまうかもしれません。でもあなたの心には雨が降り続いている。それはあなたの心の中が常にきれいに洗い流されていていつでも何かを受け入れられる態勢にあるということだと思うんです。あなたは立ち止まってなんかいませんよ。常に前に1歩踏み出そうとしている証の雨です。」
私はその文章を何度も読み返した。読めば読むほど心に響いて心臓の鼓動が大きくなった。
私はなんと返事をしていいかわからずしばらくなんともいえない感情を抱きながらスマホの画面を見つめていた。
そして私は
「すごく綺麗なお返事に感動しました。ありがとうございます。あなたの心の空はどんな空でしょうか?」
と返事をした。しばらくして
「僕の今日の心の空はきれいに晴れています。」
と。私は
「そうですか。人によって心の空模様は様々ですね。」
と返事をすると彼は、
「たしかに人によって心の空模様は違います。だけど誰もが共通して持っている空はあるんです。」
私はしばらく考えた。
誰もが共通して持っている空…
なんだろう。私はわからず彼に問うた。
「どんな空ですか?」
と。すると彼は
「それは夜空です。誰もの1日の半分は夜空なんです。」
そう書かれていた。
考えもしなかった答えに私は妙に納得した。
そして連投で彼は
「夜空は誰にでもきます。たとえ昼間雨が降っていても曇っていても晴れていても、誰にでも夜空は来るんです。明日の空が絶対に晴れるとは言い切れないときがあっても、明日夜空がこないという日はないんです。」
と。私は彼の考えに自分がなにか心惹かれるものを感じた。
そして私は
「それは心の空も一緒ということですか?」
と聞いた。すると
「僕はそう考えています。1日の半分は夜空。言い換えてみれば人生の半分は夜空なんです。神様は一人一人に同じ数だけの苦しみと喜びを与えたと聞いたことがあります。もしあなたがいまもがき苦しんでいるならそれはあなたにとっての夜空です。だけどそれはあなたの人生の中間地点にすぎません。暗いくらい夜空の下にいるあなたは今すごく苦しいかもしれないけど、いつしか晴れた空の下にでることができます。逆に夜空を経験しない人なんていないんです。その夜空の苦しみの頻度は人それぞれかもしれません。だけど暗い夜空の下苦しんだぶんの喜びは、いつか必ずあなたのもとに訪れます。だから夜空を悪いものだとは思わないでほしい。」
私はいつしか頬をつたう涙に気付いた。
彼の言葉一つ一つが私の中の凝り固まったものを溶かしていくように私の心を和らげた。
こんなに綺麗な涙を流したのは初めてかもしれない。そう思った。

6

例の空の彼と話をしてからというもの、私の心の雲は日に日に晴れていっているように感じた。

パートから帰ってきた母に笑顔でおかえりを言えたのはいつ以来だろうか。
その私の表情を見た母は一瞬驚きそして泣き笑いのような表情を浮かべた。

すべて空の彼の受け売りではあったが、母にも同じ話をした。
人生の半分は夜空だということを。
母は涙を流しながら私の話を聞いていた。
その話を聞いた母は、
「大丈夫だから。なにも心配する必要ないよ。ふたりで力合わせて生きていこう、ね。」
と。母からこんな前向きな言葉が出たのは久しぶりで嬉しかった。

私は、ゆっくりそれは雲の動きよりも遅いぐらいかもしれないが、確実に前に進んでる。
暗い夜空から星の出る夜空へ、そしていつしか太陽が輝く晴れわたる空へと。

あれからというもの私と空の彼は毎日チャットを交わした。
「今日の空はどんな空ですか?」
という書き出しで。私の心の空模様によって彼は様々な言葉で私を毎日前向きに導いた。
私はそれに助けられ、今日も生きる。
彼の名前は幸空(こう)といった。

幸せの空か…

彼は自分の名前通り空によって私を幸せへ導いてくれた。
まだ私の精神病が完治したわけではない。しかしながら私の滞っていた人生の雲を取り払ってくれたのは彼であった。
本当に彼には感謝している。

それから母と私は、私が新たに通えそうな学校を探し、新しい学校への転校が決まった。
これから始まる新たな学校生活に不安は消えない。しかしその時は必ず幸空の話を思い出す。
人生の半分は夜空であるということ、そしてその先には青空が広がるということを。

大丈夫。それほどつかみどころがなく不確かな言葉はないかもしれない。
しかし私はその言葉を信じる。信じてこの空の下突き進む。

いつの間にか1年の中間地点に差し掛かった6月の暖かな日差しが窓から入り込み私を明るく照らした。
あれほど憎らしかった青空が今ではこんなに私の味方をしてくれているではないか。
私はそんな自分に気が付き思わず笑みをこぼした。
ついこの前まで笑うことさえ忘れていた私の人生はゆっくり大きく変わりつつあった。


今を生きるあなたへ。
あなたの心の空はどんな空ですか…?



                                                        END

1日の半分は夜空

1日の半分は夜空

この話は私の実体験をもとにしたほぼノンフィクションの話です。 何かにつまずき苦しんでいる人の支えとなる話を書きたくてかきました。 私の病気はまだ治ったわけではありません。 しかし一番苦しいときは乗り越えられたと思っています。 今を頑張っているすべての人に読んでいただき少しでも前に進む勇気を与えられることができれば幸いです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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