欠損
ミクシィ上のコミュニティ企画作品。
歩く足を沈める枯れ葉。地面を覆うそれは森の湿り気を吸い、独特の臭いを放っている。
小枝や朽ちて苔に覆われた大木がさらに歩きづらくさせ、ここが人が立ち入らない獣の領域であること改めて感じさせる。
どれくらい歩いただろうか。男の足取りは次第に疲れから、もつれ始めていた。もはや戻る道は分からない。いや、そもそも戻る気はなかったのである。
男の年は40ほど。白髪の混じった頭に疲れきった顔。恐らく同年代より遙かに年老いて見えることだろう。名をトビアス・イェンネフェルト。背負っていたナップザックからタバコを取り出すと火をつけ、深く吸い込んでから近くの岩に腰を降ろした。
都心から何度も鉄道を乗り換え、山ばかりの景色になった所で駅に降りる。人が二人も通れば横幅が埋まってしまうような小さなホームを降りた。そこから古びたバスに乗り、山の登山口までたどり着く。それが昼過ぎのこと。今は大分陽が傾いており登山者用の歩道からは大分外れていて、すれ違う人間はいない。
トビアスは目の前を通りすぎるリスを見た。小刻みに素早く動いては止まり、また素早く動くとどこかへ消えていった。トビアスの頭の中は暗く淀んでいた。長年心血注いで勤めた会社をまるで厄介者を追い払うかのように解雇され、それを待っていたかのように妻は最もらしい《一緒にいられない理由》を告げ、去っていった。何を考えてもたどり着くのはどうしようもない未来だった。絶望は様々な気力を奪い始めた。友人と話す気力を奪い、歯を磨くことも食べることも面倒になり最後に残った生きる気力さえも蝕み始めた。
《幸せとは幻想であり、同様に不幸もまた幻想である》つまりは何事も考えようであると。はるか昔、トビアスが大学の研究生であった時、女の子に振られてばかりの同級生にそんな感じの、どこぞの本から拝借した言葉で慰めていた。いざ自分が不幸に絡めとられると、それは本当にどうしようもない底なし沼だった。そんなちんけな言葉なぞ、なんの役に立つと言うのだろうか?
大学時代、充実した時を過ごし、未来は明るく輝きを放っていた。
トビアスがナップザックから、近所のホームセンターで買ったビニルコーティングのロープを取り出した時、その音を聞いた。
小さくどこかザラザラとした息づかい。
トビアスの目の前、3メートルほど。いつの間に近づいたのか黄色い殺気に満ちた目を向けた狼がいた。
その顔面の半分は醜くただれていた。息を飲むトビアス。ほんのつかの間、死へ臨もうとしていたのにも関わらず、目の前の死の恐怖に体が震えている。
痩せ細った体躯をしならせトビアスに飛びかかる狼。
その瞬間、銃声が鳴り響く。
狼は宙で体を仰け反らせ、トビアスの目の前に落ちる。生気を失い明後日を向いた目に、口からだらしなく飛び出した舌。眉間に命中した銃弾により狼は即死したようだ。
体を強ばらせ、両腕で無様に自身を庇っていたトビアスは銃声のした方を振り返る。15メートルほど先の木々の間にライフルを構えた初老の男性が立っていた。
ゆっくりとライフルを降ろすと、狼の方へと近づいていく。そしてトビアスを見ずに話しかける。
「大丈夫かね……」
「はい、なんとか……」
呆然と初老の男性を眺めながら、なんとも間抜けな声色が出てしまう。初老の男性は倒れた狼の元へとしゃがみこむ。トビアスの方へ向いた男性の瞳は青く澄んでいて知的な雰囲気を感じさせる。
「君、この狼を見てみなさい」
トビアスは言われた通り、今しがた自分の命を奪おうとした獣の元へと向かった。両の手に皮の手袋をはめている男性は左の手で狼のただれた口元を開いて見せた。
「仲間同士の喧嘩か、さらに大きな動物にやられたのかは解らんが」
トビアスは今にもその狼が起き上がり噛みつくのではないかとビクビクしていた。
「右側の門歯が一つと犬歯と小臼歯を二つ、前顎骨ごと失っている。加えてこの傷跡は化膿して酷い臭いだ。君を食おうが食いまいがそう長くは生きられはしなかっただろうな」
「は、はぁ……あの、ありがとうございます。助けて頂いて」
「そうか、ありがとうか。私はてっきり邪魔をしてしまったのかと思ったよ」
「……は?」
「私はヴィクトール・ノルドマン。A市の大学で講師をしている者だ。すまんな、こんな場所で人を見かけるのが珍しくて、少し前から君をつけていた。良ければ、名前を教えてくれないか?」
「ぼ、僕はトビアス、トビアス・イェンネフェルトと言います」
トビアスは握手をするため右手を差し出した。
「こちらの手は義手でね。左手で願えるかな」
よく見れば、彼の右手の指先は動かず固まったままだ。先ほども右腕は銃を抱えるように支えていた。トビアスはぎこちなく今度は左手を差し出す。ヴィクトールは力強く握手を返してきた。
「大分前に戦争でね。二の腕のこの部分からそっくり持っていかれてしまったよ」
「そう……なんですか。それは大変でしょう」
「ま、そうだね。それなりに。だが、なんとかなるもんだ。人間の世界は楽なもんだよ。野生の世界では体の一部でも失う事は死を意味するがね」
二人の間で倒れた狼の頭から血の染みが枯れ葉に広がっていた。
ヴィクトールは簡易なキャンプセットを持ち寄っており、コーヒーを淹れてくれた。琥珀色の液体から湯気があがり、それを飲み干すと胃の腑に熱が染み渡り、体が冷えきっていた事を知る。
「ライフルを扱った事はあるかね」
ヴィクトールは古めかしいライフルをトビアスに見せる。
「いえ……」
「これはボルトアクション方式といってね。操作方法は簡単だ。このボルトハンドルを引き上げ、手前に引く事で排莢。押しもどす事で銃弾が装填される。後はトリガーを引くだけだ」
右手が使えないため、ヴィクトールはライフルを膝の上に乗せ左手だけで操作をこなす。
「安物のロープで首を吊るより、よっぽど楽だ。良ければこれを使いたまえ」
「え……」
ヴィクトールは茶話の一環という感じでライフルをトビアスへ手渡す。ライフルは見た目以上にずしりと重く、確かな存在感があった。トビアスが銃身に触れると先ほど放たれた銃弾により熱くなっていた。その刹那、宙で体を反らせる狼が脳を掠める。
「私がいては集中できないかね。どれ……」
ヴィクトールはゆっくりとコーヒーカップを置くと、立ち上がる。
「ヴィ、ヴィクトールさん」
トビアスは立ち上がりライフルをヴィクトールへ返した。
「いりません。僕にはこれは……いりません」
「そうかね」
ヴィクトールは青い瞳でトビアスの茶色の瞳を見据えた。まるで心の中が読みとれるかのように。
「15年前、私も君と同じ顔、同じ目的でこの森に入ったんだ。このライフルを持ってね。やはり私も撃てなかったよ。まだ、生きたいという力は残っていたんだね」
森の遠くから野鳥のけたたましい鳴き声が響く。空は色を落とし、闇が近づいていた。
「さぁ、暗くなる前に山を降りよう。トビアス君、それを飲んでしまってくれ」
「はい……」
最寄りの駅にヴィクトールとトビアスが着いた時には辺りはすっかりと暗くなっていた。ヴィクトールは休暇で宿をとっているらしく、駅で別れる事になった。
それからのトビアスの生活は決して順調とは言えないが、それなりに軌道に乗った。思いもよらない小さな幸運、そして友人の助け。悪い事もあれば良い事もある。当たり前だが、そのいずれもが完全に予想できた事は一つもないんだ。
そう、未来は何一つ決まってはいないんだ。
欠損