practice(99)



九十九





 本当にたくさんの風船を一気に手放したピエロさんは,頭上から屋根の高さ,そして一瞬だけ空を埋め尽くしてもう見えなくなる,色とりどりの催し物みたいなことを見送りながら,身につけていたベストのボタンの一つを触って,それから付け鼻を動かした。赤いお鼻だった。大きかった。ほんの少し前まで,それはピエロさんが高く速く投げていたボールの中に紛れ込んで,バレた慌てたとどたばたした様子で観ている私たちを笑わせてくれた。付け直す,なんて仕草のときにはネジを回すような,でもネジが合わなくて,むりやりキュッと締めたから鼻が痛いといった結末も加えて,実際に見えない襟を正す,無事に身に付いたという証に終わる。それからの演目も,それまでの演目も手渡されていない私たちには楽しみと驚きが満ちていた。失敗みたいなものも,成功しているようなことも,ピエロさんの前では似たようなものになる。連れて来てくれた叔父さんはにこにことそう言って,盛大になる拍手の一つをした。それをあとから追った私。拍手は紛れて,どこかに見えなくなった。落ちたポップコーンを突っつきにきた鳩はいて,私が座る席の通り道を歩く。前の前の席の人が持ってきた飲み物を零した。ここで朝の新聞紙を捨てる人もいる。使われてそのままの大きな道具は二人掛かりで担がれて,後片付けは実は始まっている。束ねられた風船が何個かの塊に分けられて,運ばれてきたのはその後のことだった。理屈好きの靴屋の子の,足を踏み鳴らす音も隣で聞こえて,この後に「僕があの人の靴を作る!」と力強く宣言した。そりゃいい!と,応じたのは声が小さい彼のお爺さん,続けて彼に向けられた言葉は口髭と唇の動きからでも読めなくて,私は「うん。」と言ったのかどうか。
 私とお母さんとの会話。
「いい夢を見ると,見えなくなる。」
「なんで?」
「『男』と名のつく生き物に聞いてごらん。きっと上手には答えられないから。」
 白いお化粧だって,ということも,私は知ってる。さっきまで私たちで座っていた観客席を加えて,扇形になっている会場の真ん中にあって,ピエロさんが風船を一つ一つ手渡しで観に来てくれた子供達に配っている。それを受け取る列は会場脇から出て行く観覧席側の,下り階段の上にまで及んで,子供である私たちもそれに並んだ。靴屋のあの子はいち早くと私たちから数段先に離れていて,お爺さんはそれにくっ付いて並んでいる。今度は私と叔父さんも合わせて,私たちは遅れた。並ぶことに渋る私より,みんなは勿論早かった。形作られていく列にはどんどんと長くなっていきそうな勢いが,もうあった。それに押されて,自分の気持ちも転がって,座っていた叔父さんの手を引いて走り出した私は,座っていた所から駆け上がることになって,早速降り始めた今の位置にいる。
「まあ,大丈夫さ。きちんと貰えるよ。」
「うん。あんなに沢山あるもんね。」
「ああ,しかし,本当に沢山あるな。裏方の人も大変だ。シューシューいってる音が聞こえてきそうだ。」
 叔父さんはそう言って,会場の裏を覗こうとする素振りで時間を潰した。
 私の考え事は,考え始めてもそんなに無かった。拍手が鳴り止んだとはいえ,興奮は続いている。お気に入りのシーンは,私の中でも再び演じられて,実際よりも大きかったり,上手になっていたりするんだと思う。子供ながらでもいいのだから。靴屋のあの子までいかなくても,面白い時間は過ごせた。また来たいとも思う。名残惜しいようにこうして並んでいるのも,また一段と下がるのも,それに近いものなのかなと考えてみてる。でもあのお母さんとの会話。私は今よく思い出している。薄暗いランプの灯りの中。裁縫の手を休めないお母さん。あの会話の前に,私はお母さんに聞いたことはあったのだ。だからあれはお母さんからすると私への返事,そこに聞きたいことが全部詰まっている。でも,足りないことは多かったのだ。今回のことがその一つになる,って誰も言ってくれないけれど,私はそこに会いたかった機会を見つけても,構わないって誰かは言ってくれるんだろうか。
「お,追加されるね。」
叔父さんが言うことを私も一段下がりつつ見ていて,風船に連れて行かれそうな女の人は,ピエロさんの側で補充する風船を手渡す係りの男の人に渡して,真上を向いて一個も逃していないことをしっかりと確認してから,小走りで,次の風船たちを迎えに戻っていた。目立つところにいる,ピエロさんは一個一個を手渡している。
「よく見えるのは,見えるもの,かな?」
 もう一段と降りる前に私が言った確認は,前で別のお母さんに抱かれる男の子を振り向かせた。目が合って,にっこりと笑う。男の子は照れた顔をして,その顔を隠した。それに気付いて,私にも気付いたお母さんは私への返事を男の子に求める,男の子はますます見えなくなって,すっかりと隠れてしまう。そしてそれっきりになってしまった。
 上手に見ないといけない。
「上手に見ないといけないね。」
 重なった叔父さんの言葉は,叔父さんが気にしてるシューシューと空気が送られていそうな裏側のことで,私が気にしてることと違うっていうことを知っている。叔父さんは何となく爪先立ちになって,私の視線に気付いていない。ズボンのポケットからは今日の座席チケットが二枚とも顔といえる印字を見せている。座った『E-15』,続けて『E-16』。
 見えた景色。ピエロという真ん中。
 偶然に助けられるなら,いっぱい助けられた方がいい。私が気付いたことになら悪い虫もそんなにくっ付かないんだから。
 カラフルな色。あんなに沢山あるのだから,私がそこに行くまでに無くなったりはしないんだろう。最後にそれを手渡すピエロさんが,その手を離さない限り,私はそれを受け取れる。有難うにお礼のついでに,赤いお鼻を取ってしまってもいいかな,とも考える。それからパパと呼んでも。失敗は,ピエロの前では似たようなものになるって。
「叔父さんは,夢を上手に見れる?」
 返事は降りながら聞く。階段は最後まで続く。



 
 ー本当にたくさんの風船を一気に手放したピエロは,頭上から屋根の高さ,そして一瞬だけ空を埋め尽くしてもう見えなくなる,色とりどりの催し物みたいなことを見送りながら,身につけていたベストのボタンの一つを触って,それから付け鼻を動かした。赤いお鼻だった。大きかった。それを外して,夢を見る。あの頃よりそれは大きくなって重なって,再会というにはあまりにも違いはあったようだ。それでも分かったのには理由が二つある。一つはチケットを手配していたこと。それを送付して,後は信じて任せていたこと。もう一つはただの必然。彼女の弟が笑顔で立って,彼女が小さくそこに居た。ピエロのことをそう呼んで,ピエロは驚くことしか出来なかったようだ。それはカラフルな驚き。もう手に取れない風船から戻って来た彼の下には,ともに驚き,ともに改め合う,また小さな再会があったようだった。それから先は記者も知らない。風船の行方が,気になって仕方がなかったのだから。


  ある新聞の記事としての出来事。折り畳まれて,もう誰にも読まれない。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-21

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