世界中の幸せを集めても

世界中の幸せを集めても

ほんの3年の結婚生活で、彼女は僕に永遠の別れを告げた。
失いたくないと懸命に願いながらも、指先からこぼれおちる幸せ。

でも、失われて行くものと同じくらいに、まだ残されたものも有るんだ。

 ラジオのニュースで聞いた。カンボジアかどこかの世界遺産レベルの寺院が、保存状態が悪くて廃墟になりつつあるという。
貴重なものが失われることに人々は心を痛める。でも世界中には、どんなに心を痛めても失われてしまうものが沢山あるのだ。



「お兄ちゃん。どうしたの。具合悪いの。」
「ううん。ちょっと考え事をしてただけさ。」
「何考えてたの。」
「世界中の人をみんな幸せにするにはどうしたらいいかってね。」
うつむいて公園のベンチに座っている僕の姿は、よほど具合が悪そうにでも見えたのだろう。その子は、僕の隣にちょこんと座りこんで、僕の顔を覗き込んだ。
「でも、お兄ちゃんがどうしてそんな事を心配してるの。」
「それはね、僕が世界中どころか、世界の中のたった一人の人も、幸せにしてあげられなかったからなんだ。」
「なあんだ。お兄ちゃん、もしかして失恋したの。」
小学生の口からでた、そんなおませな言葉に、僕は思わず笑いそうになる。
そう、そういう意味では、僕は失恋した事になるのだろう。長かった彼女との日々は、もう二度と戻らないのだから。


 僕と佑香は中学時代からの同級生だった。単なるクラスメートから、特別な気持ちに変わったのは、高校のクラブ活動でだった。僕は、軽音楽同好会で、ギターを弾いていた。そのクラブに、ヴォーカルとして参加した彼女は、そのルックスと声と、アンマッチな唄い方で、学校内の人気者になったのだ。
 当然、誰が彼女と付き合うか、男達の中での競争になった。抜け駆けや暗躍やらの中で、正攻法での攻略で僕達がカップルになった時には、その結果に多くの同級生達が諦めのため息を漏らしたものだった。まあ、彼女の一番近くに居て、色々な面でサポートもしていたのだから、当然と言えば当然の結果と、誰もが認めたのも事実だった。
 高校三年の学園祭のステージは、僕達にとって輝かしい記念のステージになった。彼女は、そのアニメ声と呼ばれるような、ハードロックと似つかわしく無い声で、自分で選んだ曲を唄った。ジャニスジョップリンやスージークワトロなど、古典ロックと呼ばれるような曲を、完璧に歌いこなした彼女は、会場の皆から万雷の拍手を浴びたのだった。
 その後も、周囲の破局を期待する眼差しを裏切って僕らの交際は続き、大学を卒業して就職するのとほぼ同時に、結婚したのだった。


こんな見ず知らずの小学生に、そんな話をしても仕方ないと思いつつも、僕はその子に少しづつそんな話を語っていた。
「そうだね。失恋といえば失恋なんだろうね。もう居なくなっちゃったんだからね。」
「恋人どうしだったの。」
「ううん。奥さんなんだ。結婚したんだよ。」
「結婚したのに失恋したの。奥さんと離婚しちゃったの。」
「そうじゃないんだ。離婚はしてないんだ。」
こんな小学生に、これ以上深刻な話をしても、困らせるだけだろうと思い、僕は曖昧な笑いを浮かべ、言葉を濁した。


 佑香と僕の結婚生活は、順調な滑り出しだった。新居に選んだ借家には、新婚らしい家具も揃え、朝一緒に家を出て、それぞれの仕事に向かった。帰宅すると、分担して家事を済ませ、一緒にくつろぎ、夜を過ごし朝を迎える生活だった。週末や記念日には外出して楽しんだ。仕事は全く別の職種で、お互いの話も解からない事ばかりだったが、それが生活と仕事の区切りになってもいた。
 そんな生活が数年続いた後、佑香の態度がわずかづつ変わって行ったのだ。


「大好きで結婚したのに、奥さんは居なくなっちゃたんだ。お兄ちゃん悲しいね。」
「そうだね。とっても悲しくて、今日も会社を休んじゃったんだ。」
「大人の人でも、そんな事でお休みしちゃうんだね。まあいいか、お母さんに怒られないものね。」


 佑香の就職先は、海外のインテリア小物を輸入する小さな会社だった。社員は十人も居ない。そして商品を仕入れる為に、海外と連絡を取ったり出かけて行く事も頻繁に有る。もちろん佑香にそんな仕事が任される事は無い。佑香の役割は仕入れた品物を取引先に売り込んだり、発送したりすることだった。
 ところがその会社には、佑香の四才上の先輩で、仕入れの担当で海外を飛び回っている人がいた。入社したての頃は、雲の上の存在で、素敵な先輩という目で見ていたのだが、その先輩が帰国するたびに、佑香に土産をくれたりするようになったのだ。
 その先輩が、どんなつもりだったのかは知らない。単に後輩の女の子への好意だったのか、下心が有ったのかは、今となっては誰にも解からないのだ。
ただ、その事実が僕たち夫婦に影響を与えたのは確かだ。佑香の話の中に「先輩」という名前が上るたびに、僕は僅かな嫉妬を感じるようになっていった。
 佑香が持ち帰る土産を見ると、確かに先輩のセンスの良さは感じる。そういうセンスが無ければ、こんな仕事は出来ないだろう。だが、自分の妻にそういう好意を示す男に対して、寛大な気持ちに成れるほど、僕は大人では無かった。
 そして、僕が不機嫌な表情を見せると、佑香はそれに不満の意を示した。
「別に浮気をしているわけでもないのに、そんなに不機嫌な顔をしないでよ。」
そんな言葉に対して、僕の苛立ちはいっそう高まった。
 先輩は優しい。先輩はセンスが良い。先輩は寛大だ。先輩は有能だ。そんな言葉の一つ一つが、口には出ない「僕と比較して」というセンテンスを余計に感じさせた。
 僕の仕事は、従業員百人程の精密機器製造会社での装置管理だった。プログラミングからメンテナンスまでの全てを担当し、装置を相手にした仕事だった。海外出張も無ければ、国際電話での取引も無い。職場での女性と言えば事務所の庶務のおばちゃんくらいだ。佑香の職場とのギャップが大きな違いに感じられた。


「じゃあ、奥さんはその人と浮気したの。」
「そうじゃないと思うよ。ちょっとカッコいいなと思ったくらいだろう。」
「そういうのは浮気って言わないの。」
小学生相手に浮気の定義を話すのも、ちょっと困ってしまう。確かに文字にすれば、気持ちが浮わつくのが浮気だろうから、夫以外の男に好意を持つのもそう呼べるかも知れない。でも、男なら街を歩いて、美人に目が惹きつけられる事は有るだろうから、その程度は許されそうだ。小学生の言葉に、そんな余計なことまで考えて動揺するのも、大人として情けない気はする。


 部屋の中に増えて行く小物が、次第に僕と佑香の壁に感じられるようになっていった。佑香はもうそれが土産なのか、仕事で扱う商品なのかを、僕に告げなくなっていた。
 僕らはお互いに距離を感じ、それを理由にさらに距離を離すようになった。
 それは、仕事が遅くなっても帰宅して食事をしていたのが、同僚と外食するようになったり、会社の飲み会も一次会だけでなく二次会まで参加したりと、ささやかな事だった。
 だが僕にとって、会社の同僚とは先輩という言葉と同意語だったし、二次会もそこに先輩がいるのは当然の事だった。
 疑心暗義に陥っている僕に、佑香は真剣に食い下がって否定をした。僕も内心では佑香の言葉を信じていた。佑香が浮気をしているのではない。僕が嫉妬しているだけなのだ。それは、先輩や、佑香の職場や、華やかな職場の雰囲気に合うように変わってゆく佑香など全てに対しての複雑な感情だった。


 結婚三周年を迎える前夜、僕は思いなおした。佑香と過ごした今までの時間を、こんなつまらない諍いで失いたくは無い。お互いの気持ちがちょっとぶつかりあっただけなのだ。きちんと仲直りして、これからの長い人生を一緒に生きて行きたい。やり直しは出来るのだ、と。

 しかし、運命は皮肉なものだった。結婚記念日、残業で遅くなった会社帰り、佑香は送ってくれるという先輩の好意に甘え、車の助手席に乗り込んだ。そして、途中の交差点で信号を無視したトラックと衝突し、車は大破した。乗っていた二人は即死だった。
 会社にとっても、先輩の家族にとっても、そして僕にとっても、取り返しのつかない大きな痛手だった。結婚式の日に約束した言葉が、繰り返し思い出された。
 僕は佑香を幸せにすると、約束したのだ。たった三年で終わってしまうとは思いもしなかった。僕は佑香を幸せに出来たのだろうか。事あるごとにそんな自省に陥っていた。


 さすがに佑香の死を、小学生に語るのはためらわれる。僕が言い淀んでいると、そんな気配を子供なりに察知したのだろう。ベンチから立ち上がり、ひらひらしたスカートのお尻をパンパンと払う仕草をする。そして僕の方に向き、僕の肩に手を掛けてこう言った。
「お兄ちゃんも大変だったんだね。でも、奥さんのこと愛してたんでしょう。仲直りするつもりだったんだよね。じゃあ、奥さんが居なくなっちゃったんなら、私がお友達になってあげるよ。」
こんな子供に、優しい言葉をかけてもらえるなんて、まだ僕の人生にも良い事が残されているのかな、などと、良い方に考える。もうベンチにかなり長い事座り込んでいる。この子に話すことで、心の中の整理も一段階進んだような気持ちになる。

「ねえ、お兄ちゃん。ゆうかね、喉乾いちゃった。」
その言葉に僕は驚く。妻の名前は、この子には話していない。ただ「奥さん」と言っただけだ。偶然の一致というのも有るものなのだと、運命の悪戯を考えてしまう。
「そうだね。ジュースでも飲もうか。」
そう言って、小学生のゆうかちゃんの手を取る。親娘には見えないかな。平日のこんな時間に、なにか誤解されたらどうしよう、などと思いながら、僕たちは自動販売機の方に向かう。歩きながら僕は、今日はこんなに良い出会いが有った、明日からはもう少しだけ元気を出して生きてみようなどと考えていた。



世界には失われてしまうものが溢れている。でも、失われずに残されているものも、まだ沢山あるのだ。



              了

世界中の幸せを集めても

このストーリーが頭に浮かんだのは、冒頭のニュースを聴いた時でした。
文化遺産だろうが、貴重な命だろうが、失われてしまう事は避けられない。
ミケランジェロの絵でも、原爆ドームでも、ピラミッドやピサの斜塔でもいづれは風化してしまうのだろう。
そして人の命も、いつかは失われて行く。たとえどんなに失いたく無くても・・・

そんな想いと同時に、その限られた時間の中での幸せの事も考えました。
世界中を幸せにするには、一人一人の願いが叶う事が、最良なのだろうか?
ショッカーを満足させるには、世界征服を手伝ってやる事が、ショッカーの幸せなのだろうか。
そんな訳の解らない話まで頭に浮かんだ結果、出てきたお話です。

彼女にとっての幸せとは? そして、僕にとっての幸せとは?
そんなふうに大上段に「幸せ」なんていう言葉を振りかざすのも、気恥かしいのですが、
ちょっとだけ、自分に当てはめて想像してみてください。



もともとの話を無理やり原稿用紙10枚に押し込めて、新聞の文芸欄に投稿したのですが
ストーリーがいかにも作り物めいてると酷評されました。やっぱり、長さを気にして
書きたい事を省略するとダメですね。本来言いたかった事が正しく伝えられなかったようです。
ここに掲載したものが、本来の長さのストーリーです。

世界中の幸せを集めても

ほんの3年の結婚生活で、彼女は僕に永遠の別れを告げた。 失いたくないと懸命に願いながらも、指先からこぼれおちる幸せ。 でも、失われて行くものと同じくらいに、まだ残されたものも有るんだ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-12

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