【ピアノ・長椅子・エスカレーター】

 椅子に浅く腰掛ける。自然に背筋はピンと伸び、指先が静かに鍵盤に触れる頃、私の世界は白と黒だけになる。ひとつずつ指を動かす。軽い力で鍵盤は沈み、空気を震わせる。鍵盤に跳ね返されるまま指を次の鍵盤へ。61個の白と黒。その鍵の上で、私はどこまでも自由になりたかった。
 天才、神童、そんな風に最初に呼んだのは誰だったのだろう。物心がついたころには、すでに私はそう呼ばれていた。二本足で立つより先に、ピアノに触れていたらしい。コンクールでたくさん賞を取り、テレビや雑誌にも何度も取り上げられた。私が望んだわけではないが、音大の付属中学に入学し、エスカレーター式で高校に上がった。
 高いミの音が耳に余韻を残す。私はこの音が一番好きだ。心が軽く弾むような音だと思う。
「恋に落ちるとき、一番好きな音が聞こえるんだよ。」
 そんな風に私に教えてくれたのは、小学生の時に同じ先生の元でピアノを習っていた女の子だった。あの子は中学に上がる前にピアノを辞めてしまった。
 将来有望。周囲の大人はことあるごとに私をそう評価し、様々な課題を提示してきた。私はそれを、ひとつずつあっという間に突破して大学生になった。
 世界的にどうとか、人々を魅了するとか、そんなことはどうでもよくて、私は白と黒の世界で誰よりも自由でいたかった。白鍵の白、黒鍵の黒、譜面の紙の白、印字の黒。ピアノに向き合うとき、私の世界にそれ以外の物は必要なかった。
 一度、大学のオーケストラ部の練習を見学したことがある。別に興味はなかったが、同じ学科の友人数名に誘われたのだ。生でオーケストラの演奏を聴くことは何度もあったが、どれも世界的に名高い楽団もので、いくらここが有名音大だとしても、到底及ばないものだった。
 演奏が始まって数分で私は気分が悪くなった。音楽的にというよりは、その見た目の賑やかしさに眩暈がした。管楽器特有のメタリックな輝きや、弦楽器の木目、揃って動く弓、それを持つ手の皮膚、扇状に並ぶ人の顔、顔、顔。
 友人たちに一言断りを入れてその場を中座した。
 柔らかな日差しが差し込む廊下に出ると少し気分が安らいだ。顔を上げると、廊下の長椅子に座った一人の男性と目が合った。彼は銀色のトランペットを膝の上で大事そうに抱えて、目が合った私に笑みを投げかける。
 「座りますか」というように傍らに広げたケースを片付ける。私は素直にその誘いを受けた。俯いて自分の黒のパンツと白のブラウスを見つめる。腿の上で握った手の甲も、安心するほど白い。子供の頃から、あまり日を浴びずに育ってきたのだ。運動が苦手なわけではなかったが、手を怪我することを恐れて、あまり活発にはなれなかった。
 隣の彼を横目に見る。音大に通っている人に、あまり逞しい人はいない。みんな似たような色白で、繊細そうな、神経質そうな面立ち。しかし、彼は少し違った。繊細そうではあるが、肌は日に焼けていて、大らかそうな印象を受けた。
 視線に気付いてこちらを見た彼と目が合う。眼鏡の奥の涼しげな目元。白目と黒目、私の好きな、白と黒の世界。吸い込まれるように、見つめ続ける。彼は瞬きもせずに見つめ返した。
どこかで高いミの音が鳴った。
 あの日から白と黒の世界の中心に、いつも彼がいる。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-21

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