雪だるまにうってつけの日
2004年頃に書いた古い作品です。
2025年に一部を改訂し、改めて掲載します。
クリスマス・イヴの朝、僕は山田理髪店に髪を切りに行った。
客は僕一人だけ。主人のふるうハサミとテレビの音だけが店内に響いている。
主人は、初老の男性だ。白髪の混じる短い髪を頭頂部だけピョコタンと立たせている。ちょっと疲れたオンドリを思わせる髪型だ。そして横に長い黒縁メガネをかけている。顎には髭がちょびっと無造作に残されている。
真剣に僕の髪を見つめる眼差しは床屋というより、彫刻家か何かを思わせる。これから仕上げるべき作品の完成形を見通すような芸術家のそれだ。髪に櫛を当てカットする瞬間、主人の目はギラリと光り、指先のハサミに鋭利なパワーがみなぎる。そしてザクリと髪が落ちる。その連続である。有無を言わさぬ切りっぷりだ。少々、自分の希望と違った仕上がりになったとしても、それで結構でございます、と納得させてしまうような清々しさがある。
僕がこの床屋を気に入っている理由は、その理髪への芸術的なアプローチだけではない。主人がしゃべりすぎないってことも重要なポイントの一つだ。以前、通っていた床屋の主人は気さくなおじさんで、人はいいんだけれど、のべつ幕なしにしゃべり続けるのがいけなかった。僕は適当でラフな世間話っていうのが、どうも苦手なのだ。プロ野球のこととか、景気のこととか、政局のこととかを、まるで他人事のように話したり、批評したり、受け流したりするのがうまくできない。いきなり「いやあ、最近めっきり寒くなってきましたな。どうです、最近の調子は?」などと話しかけられても、はて、何をどう答えたものやら戸惑ってしまうばかりなのだ。
その点、この床屋の主人はむっつりと黙ったきり、しゃべらない。一般的には愛想が悪いってやつなのだろう。だから客も少ない。でも僕にとっては、なかなか気楽で居心地の良い床屋なのだ。
目の前の鏡の中には、左右さかさまのテレビ画面が見える。僕は床屋に来るたびに、なんで鏡の中のものは左右反対に見えるんだろう、どうして上下さかさまじゃないんだろうって考えてしまう。一度調べてみなくてはって思うのだけれど、床屋を出たとたん忘れてしまうから、未だに調べたことはない。
鏡に映るテレビでは朝の情報番組が流れている。今日はクリスマス・イヴってこともあり、恋人同士で過ごすおしゃれスポットの紹介ばかりやっている。代官山にできた新しいレストラン、青山にオープンしたばかりの北欧風のカフェ、湾岸のおすすめ夜景スポットなど。いずれの場所でも恋人とおぼしき男女が実にロマンチックなムードに浸り、ご満悦の映像ばかり流されている。
それに引きかえ……。僕は考えこんだ。今年もまた一人きりのクリスマス・イヴだ。
決して彼女がいないわけじゃない。でも、高校の美術科を卒業してデザイン事務所で働く彼女は今夜も残業らしい。年末の追い込みでイヴどころじゃないそうだ。僕だってイヴには彼女と過ごさなければならぬという強迫観念を持っているわけじゃないが、やはり寂しい気持ちが無いといえば嘘になる。
テレビを見つめながら深く深く思案に沈みこんでいる僕を見て、主人がボソリと声をかけてきた。
「近ごろのクリスマスには、どうも違和感を感じますな」
おおっ、この主人にしては珍しい世間話だ。僕は例によって世間話が苦手なので「ん、ああ、そうですかね」などと煮え切らない返事をする。
僕のどっちつかずの反応にもお構いなしに主人は語り続けた。
「私の子どもの頃のクリスマスっていうのは、こんなんじゃなかったですね。何というかなぁ……。もっと素朴で、おごそかで、家族みんなで温かく過ごしたものだったんですがね。それに比べると、今どきのクリスマスは、どうもいけない」
「ああ、わかります」
僕はうなずいた。「きっと今のクリスマスはちょっと純粋じゃない感じがするんですよね。そういう浮ついたムードがお嫌いなんでしょう」
主人は、梳きバサミをチョキチョキ動かしながら微笑んだ。
「いや、クリスマスの演出そのものはけっして嫌いというわけじゃないのですよ」
「はあ、じゃあ何がいけないのです?」
「私が思うに、最近はクリスマス商戦が始まるのがやたら早すぎるんです。商売の都合か何か知りませんが、十一月も早い頃から町中クリスマス一色になるでしょう――建物にキラキラした飾り付けして、ツリーが立てられて、クリスマス・ソングが聞こえてきて。だから本来のクリスマスの時期が来たときには、もう飽きてウンザリしちゃってるわけです。昔は、クリスマスって騒ぎ始めるのはせいぜい一、二週間前からでしたからね」
なるほどなぁ、って思いながら、またテレビ画面を見た。既に情報番組は終わっていて天気予報をやっている。関東地方の天気図を指し示しながら、気象予報士の女性が解説をしている。BGMにはワム!の「ラスト・クリスマス」がジャズ・ピアノっぽいアレンジで静かに流されている。
「……大陸からシベリア寒気団が張り出してきており、冬型の気圧配置が一段と強まるでしょう。そこに南から前線をともなった低気圧が近づくため、湿った空気が流れ込みます。そのため、お昼過ぎから関東甲信越の広い範囲で雪が降り、今宵はホワイトクリスマスとなりそうです――」
その時、画像が乱れ、ガガガという雑音が聞こえた。でも、それは一瞬のことで、またすぐに正常に戻った。画面の女性は天気予報を続ける。
「――さて、各地のお天気です。今夜の東京は〝雪だるま〟が降るでしょう」
そうかぁ、今夜は雪だるまが降るか……んん、雪だるま?
「あの……、今、天気予報で雪だるまが降るって言いましたよね?」
僕は主人に言った。
「いやぁ、私はちゃんと聞いてなかったけれど」
主人がハサミをふるう手を止めた。「――でも、雪だるまが降るなんておかしいでしょう。雪ならばともかく」
「そうですよねぇ」
僕と主人は、もう一度テレビを見た。気象予報士とアナウンサーは、既に全国各地の週間予報を紹介している。晴れとか、雪とか、曇りとか、いたって当たり前の予報だ。
「おそらくマークを見て勘違いされたんでしょう。晴れならお日さま、雨なら雨傘、曇りなら灰色の雲っていうあれですよ。雪だから雪だるまのマークだったんじゃないですか」
主人は笑いながら言った。まあ、彼の言う通りなのかもしれない。ボヤッとしていたから聞き間違えたんだろう。
「さぁ仕上がりましたよ。どうです、こんなもんですかね?」
主人は手鏡を使って後頭部まで見えるようにしてくれた。ちょっとばかし僕のオーダーとは違っていて、売れない演歌歌手の髪型みたいに見えなくもなかったが、「ええ、これで結構です」って僕は答えた。
山田理髪店から出ると、僕は目黒線に乗って奥沢駅へ向かった。
奥沢駅から自由が丘方向へ、少し坂道を下りたところにその店はあった。焼きたてのパンを売るベーカリーで、店内にはちょっとしたカフェが設けられている。
理紗は僕が店内に入ってきたのを見つけると、左手を軽く上げて合図した。彼女は既にテーブルに座り、カフェ・マキアートを飲み、小さなクロワッサンを食べていた。店内にはワルツ・フォー・デビイが流れていた。
僕は、レジカウンターでホットココアとベーコンエピを買ってから、彼女の待つテーブルへ向かった。
「待たせちゃったかな?」
「ううん、私もついさっき来たばかり」
理紗は、そう言いながら僕の頭をチラチラと見上げた。髪型を見ているらしい。もしかしたら売れない演歌歌手みたいだと思っているのかもしれない。
しかし彼女は、僕の髪型については何のコメントをせずに、「ごめんね、急に呼び出しちゃって」と言った。
理紗は、僕の彼女ではない。東野という大学の友人の恋人だ。
クリスマス・イヴに友人の彼女と二人っきりで会うなんて穏やかじゃないけれど、今朝、電話で僕を呼びだしたのは彼女のほうなのだ。電話を受けたとき僕は、実のところ……少しだけ胸がときめいた。
――イヴの日に一体、僕に何の用があるのだろう。もしかして理紗は僕のことを……。
だけど、「彼のことでちょっと相談にのってほしいのよ」と彼女が言った瞬間、膨らみかけた妄想はショボンとしぼんでしまった。
彼女は僕を目の前にしても、しばらくは東野のことを話題に出さなかった。この店はオープンして間もないけれど評判がいいのよ、などと言っている。僕も店内をグルリと見回した。なるほど確かに客でいっぱいだ。レジの女性も笑顔が明るくて素敵だ。奥のパン工房のスタッフもきびきびと働いている。何もかも山田理髪店とは正反対の雰囲気だった。
僕はベーコンエピを少しちぎって口に入れた。黒胡椒がピリリとよく利いていて僕好みの味だ。僕はモシャモシャとベーコンエピを噛みしめながら尋ねた。
「ところで、相談って? 東野がどうかしたの」
理紗は急に表情を曇らせて話しはじめた。
「聞いてくれる? 彼ったら今夜の約束、昨日になってドタキャンしてきたの」
彼女は、クロワッサンの最後の一かけらを指先でもてあそびながら続けた。
「十月の私の誕生日もそうだったわ。付き合いはじめて二周年の記念日を迎えた先月もそうだった。彼、私に隠し事しているんじゃないかしら」
「ふーん」
僕はうなった。東野が最近、理紗から距離を置きたがっている理由を僕は知っている。それは彼女の〝目ぢから〟のせいだ。東野に言わせると、理紗は文句のつけようのない彼女なのだそうだ。浮気はしないし、めったに怒らない。会いたいときにいつでも会ってくれる。
「でもなぁ、最近あいつの〝目ぢから〟が気になり始めてなぁ」と東野は言った。「あいつのグイッとこちらを見据える目を前にすると、何もかも見透かされているような気がするんだ。どうにも気がゆるせなくなってくるんだ」
確かに、理紗は強い意志を感じさせる目をしている。でも、僕には特別に怪しい眼力の持ち主のようには見えなかった。むしろ、それは彼女のチャームポイントの一つだと言えると思った。地に足がついていない女の子たちが増えるなかで、賞賛してもよい美点だとさえ思った。
でも、その目が気になるっていうことは、むしろ東野のほうに見透かされたくない何か後ろめたさがあるんだろう――。
でも、理紗には〝目ぢから〟のことは言わずにおいた。彼女にその魅力的な目を失ってほしくなかったからだ。ただ、「あいつも、このところ忙しいみたいだからなぁ」と言葉を濁すにとどめておいた。
理紗にしても、別段僕から解決策が聞けると期待していたわけではないらしい。ひとしきり愚痴を吐き終えるとやけにスッキリした表情をした。そして「どうなの、あなたは? 今夜はもちろん優子さんと過ごすのでしょう」と言って僕の顔をのぞき込んできた。
僕は、彼女の目を避け、レジカウンター脇のカゴに無造作に立てかけられた七本のバゲットを横目で見ながら答えた。
「いや、会ってくれないんだよ。あいつ、今夜も仕事で忙しいって」
理紗はふふっと笑った。
「じゃあ、私と同じだったわけね。ごめんね、自分の愚痴ばかり聞かせちゃって」
「ううん。一人きりのイヴを過ごすのが僕だけじゃないって安心したよ」そう言って僕は舌をペロリと出した。
「寂しい者同士か……」
理紗はため息をついた。
「もし良かったら……」僕は恐る恐る言った。「寂しい者同士、今夜どこかで過ごさない?」
「ごめん。そうやって傷をなめ合うのって、私の主義じゃないから」
理紗は、やけにはっきりと言った。
「うーん、君にもフラれちゃったな。今宵は寂しさが骨にまでしみそうだな」
僕は笑った。
理紗はずっと指先でもてあそんでいたクロワッサンの小片を口に入れ、モグモグと食べた。
「そうだ。さっき、床屋のテレビで天気予報見たんだけど」と僕は言った。
理紗はマキアートをすすりながら、目だけ動かして、もう一度僕の頭を見つめた。
「床屋……、やっぱりカットしたてだったのね。どうりで、いつもと感じが違うと思ったわ」
僕はドキリとした。やはり売れない演歌歌手のように見えるのだろうか。
「……おかしいかい?」
「ううん、よく似合ってるわ。あなたらしい」
「……」
僕は少し複雑な気持ちで黙りこんだ。
「で、天気予報がどうしたの?」と理紗がうながす。
そうだ、そうだ、床屋で見てたテレビでさ――。僕は、天気予報で聞いたことを彼女に説明した。
「ありえないわ」彼女は一言でかたづけた。「いくら何でも雪だるまが降ってくるわけないじゃないの。誰が作るのよ、その雪だるま。まさか、雲の上の雪の神様?」
「いやあ、そうなんだよなあ。やっぱり僕の聞き間違いかなぁ」
僕の困りきった顔を見て、理紗はクスッと笑った。
「でも、そうなふうに楽しく聞き間違うあなたって、とてもいいと思うわよ。優子さんがうらやましい」
ほめられたのか、どうだか自分でもよくわからなかった。
理紗と別れてから、しばらく自由が丘界隈をあてもなくそぞろ歩いた。
洋菓子店から、小学生の男の子がクリスマスケーキの箱を抱えて出てきた。隣にはお母さんが寄り添っている。幸せそうな顔だ。こんな年頃が一番、純粋にクリスマスを楽しめるのかもしれない。
僕は、自由が丘駅から東横線に乗り、渋谷へと向かった。
電車が中目黒を過ぎる辺りから、だんだん雲行きが怪しくなりはじめた。僕は車窓から空を見上げて思った。おおっ、今まさに、はるばるシベリアからやって来た寒気団と太平洋の湿った空気がこの上空でせめぎ合っているのだな。
渋谷駅に到着し街に出た時には雪がちらつきはじめた。
やっぱり雪だ。雪だるまなんかじゃない。
僕は人混みにおされるようにして、街の中を行き当たりばったりに歩き始めた。センター街の途中から右に折れて、スペイン坂を上り、パルコの横から公園通り方面に向かった。
かなり冷えてきたので、道沿いのカフェに入って熱いコーヒーをすすりこんだ。何げなしに道行く人々を窓越しに眺めていると、見慣れた顔が前を通り過ぎた。
――優子。
彼女は知らない男と手をつないで歩いていた。楽しそうだった。朝の情報番組でロマンチックなムードに浸りきって、ご満悦していたカップルたちと同種の笑みを浮かべていた。
僕は、そのまま座り続け、コーヒーをすすった。もしかすると人違いかもしれない。だって、僕は天気予報でもありえない聞き間違いをするくらいなのだ。それに彼女は今も年末の追い込みの仕事中でイヴどころではないはずだ。
確認しようと思えばまだ間に合った。肩を並べて歩み去って行く二人の後ろ姿は、なお視界の隅にあった。でも、僕は立たずにコーヒーを飲み続けた。
その時、頭の中で、ガガガという雑音が聞こえた。一瞬、渋谷の街がゆがんだように見えた。
それをきっかけに、僕の中で何かが変わった。街のざわめきが遠のき、窓ガラスに映る自分の顔も知らない誰かのように見えた。見慣れた街の風景が、まったく新しい色に染まっていった。
そうだ、僕は気づいていたんだ。優子の心が離れつつあること、その傍らに誰かの影があることに。ただ、何も見ようとしなかっただけなのだ。
手もとのスマホがブルブルッと震えた。理紗からだった。
「今どこにいるの?」
「渋谷――公園通り」
「どうしたの? 声、沈んでるわよ」
「そんなことないよ」
「そうかしら? それより、空を見上げてよ」
「えっ、何?」
僕は、カフェの窓から空を見上げた。最初は目にゴミが入ったのかと思った。でも、それはゴミではなかった。白いものがフワフワフワフワと空から降りてくる。
「雪だるまだ」
それは、次から次へと舞い降りてきた。赤いマフラーを首に巻いたもの、グリーンの小さなバケツを帽子代わりにかぶったもの……、黒いサングラスをかけた雪だるままでいた。手塚マンガのヒョウタンツギみたいに上下さかさまに降りてくるものもいる。
雪だるまたちは、その重さを全く感じさせずに、フワリフワリと降りてきた。
地上へ降りるとそのままの形状を保つものも、着地に失敗して崩れてしまうものもいた。中には、自動車にひかれてペシャンコになってしまうものもいた。壊れながらも、つぶらな石の瞳が路上に残り、上空を見上げていた。
「ほんとだったのね。あなたの聞いた天気予報。ありえないけど」
電話口で、理紗はつぶやいた。僕は、彼女にそっとささやいた。
「僕を信じてくれるのかい?」
「ええ。あなたは嘘をつかないもの」
僕は、もう一度空を見上げた。雪だるまたちは、まだ降り続けていた。
「ハッピー・クリスマス、理紗」
電話の向こうで、彼女が微かに笑う声が聞こえた。
雪だるまにうってつけの日