中庭の在る家

中庭の在る家

 帰りが遅い。遅過ぎる。酷く。

 3人分の夕食はとうに冷めてしまった。電子レンジであたためた料理を嫌いと言う癖には、時間通りには帰って来ないのが夫、隆彦の常習的犯行だった。
 五歳になる娘が眠たそうに目を擦っている。「パパはまだ帰って来ないの?」
 舌足らずな物言いが愛おしく、私は反射的に娘を抱きしめる。ごめんね、と言って娘の頭を撫でると「今日はもう寝なさい」と伝えて部屋を後にさせた。

 娘は残念そうな顔をしつつも、睡魔には勝てずにおとなしく寝室へと消えた。残された私はひとり憤慨する。
 あの人は今何処で何を?携帯電話に連絡ひとつ寄越さない夫の身勝手さにいい加減、業を煮やした私は直接電話をかけてやる事にした。
 1コール…
 2コール…

 …
 ……出ない。
 時刻はすでに零時をまわろうとして居た。いくら徒歩通勤だからと言って、あまりに勝手をされては食事の用意をするこちらの身も心も持たない。今日は必ず早く帰ると言った癖に、一体どういう了見なのだろうか。

 そうしていると、玄関からガチャガチャというドアノブが動く音が聞こえた。私ははっとして音のする方向を振り向く。隆彦が帰って来たに違いない。
 私は玄関まで小走りで行くと、ドアについた磨りガラスの小窓に近付いてノブを動かす人影に向かい言い放った。
「今何時だと思っているの?」
 返答はなかった。しかし、人影はドアの前から動いていないのが見える。
「ドアは開けないわよ。入る前に一言謝って」
 またしても、返答が無い。酔っているのだろうか?私は夫であろう人影を訝しんで観察する。

 磨りガラスにうつる影は私より背が高いのだろう、黒っぽく、隆彦ほどの身長までガラスに黒く透けている。更にしばらくすると、人影はドアの前から姿を消してしまった。座り込んだのだろうか。私は声を大きくして再度言い放つ。「謝ったら入れてあげるわよ」

 …沈黙。
 何かおかしい。隆彦では無いのだろうか?恐怖を感じた私はインターホンのカメラを使って外の様子を確認する事にした。
 リビングに戻り、インターホンの通話と書かれたボタンを押す。画質の悪いカメラが我が家の暗い軒先を映し出した。

 …誰も居ない?

 カメラの死角に隠れて居るのだろうか?いや、そんな馬鹿な悪戯をする意味はない。いくら酔っていても2月の深夜では息も白い。我の強い隆彦ではあるが、土下座してでも入れてくれと言って来る筈だ。
 ……あの人影が隆彦であるのならば。
 私は少し気味が悪くなり、インターホンの画面からそろそろと離れた。不審者だったらどうしよう。警察に電話するべきか。そんな事が頭をよぎった。

 その時、ふと家の外周に何かが当った様な音がした。がり、という硬いなにかが壁をこすった様な、そんな音。
 私は警戒して音に耳を澄ませる。音のやんだ静寂からは何も聞こえない。
 雨?聞き間違い?いや、そんな筈は無かった。何者かが家の回りをうろついて居る。そして、その何者かが家に石か何かを投げたのだ。
 その何者とは、隆彦でなければ誰なのか。

 私はその人物が隆彦である事を祈って、もう一度握っていた携帯電話で電話をかける。外の人物が隆彦なら、家の中まで着信音が聞こえるのではないかと思ったのだ。

 静寂の中に、電子音で構成されたヒットシングルが単調に繰り返し流れ出す。
 ……鳴っている。私はその音を聞いて安堵した。やはり酔った隆彦のイタズラだったのだ。私はそうと解ると、外の隆彦に無性に腹がたって仕方が無かった。
 その直後、私は違和感を感じて冷静を取り戻す。
 音のする位置が、家の中である気がしたのだ。

 私は音の方向へ静かに、携帯電話を金属探知機のように前方に突き出しながらじりじりと探り当てる様に移動し始めた。
 音というものは、壁をひとつはさむと何処で鳴っているのかいまいち良くわからなくなる。
 私は注意深く音を聴き、そしてついにその音がトイレに置き忘れた隆彦の携帯電話から放たれているのを確認すると、それを手にして自分の名前が表示されて居るのを見た。
 私は無言のままにその着信を切る。成る程、これでは連絡したくても連絡のしようがない。それにしても携帯電話をトイレに置き忘れて出社するなど、社会人としての夫が少し情けなくなった。

 溜息。その瞬間、ひっと思わず声を出してしまった。
 トイレの窓から、誰かが顔を近づけてじろじろ覗き込んで居た気がした。無論再度窓を確認すればそんな事はなく、そこには何の姿も影もない。
 私は胸の動悸を感じながらトイレから出ると後ろ手に扉を閉める。周囲からはいぜん、音もなにもしない。携帯電話の画面を見れば、先程から10分しか経っていなかった。

 私は外の人物が夫かどうかを確かめなければならないと思い、思い切って扉の外に出てみようかという気持ちになった。
 不審者であれば行動がいまいち不自然であるし、なにより、折角購入したマイホームの前で世帯主に凍死されては、家族どころか近所に合わせる顔もないというものだ。

 私はそう腹を括ると、そろそろとドアに近付いて鍵に手をかける。うちの鍵は二段になっているが、一つ目を外した時に予想以上に大きな音がしたため二段目を開ける手前で身体が強ばってしまった。
 その瞬間、私は急にドアの外から聞こえて来たバタバタという足音に身を強ばらせた。
 ハアハアと息を切らせる音と、靴底が敷石を踏む足音に私は「ひっ」と小さく声を漏らしてしまう。

 一段目の鍵を思わずガチャリと閉め直す。ドアから一歩下がり、視線を小窓から動かさない様にして玄関に置いてある傘を思わず手にする。
 ガチャガチャ、とドアノブが大きな音を立てる。
 来るなら来い。私は不審者がドアを蹴破って入ってくるのではないかと思って恐怖した。傘を握る手に汗が滲む。

 しかしその時の感情とは裏腹に、ドアの外からは「おい?」と気の抜けた声が聞こえて来た。
 聞き慣れた声だ。私は隆彦が帰って来たのだと解ると、傘を仕舞うのも忘れてドアに近付いた。
「……あなた?」
「遅くなった。すまない、携帯電話を忘れた。急に仕事が増えてしまって」

 さっき見つけたわ、と私はドアの外の隆彦に向かって話しかけた。私は先刻までの恐怖も忘れ、気味の悪さから解放された安堵感で思わず笑みをこぼした。
「今開けるわ」
 ガチャリ、と鍵の外れたドアから転がり込む様に息をきらせた隆彦が入って来る。頬が赤くなっており、外気にさらされた肌は実に寒そうだった。
「悪かったな、連絡もしないで」
「仕事だったんでしょ?仕方ないじゃない。それよりさっき不審者がドアを開けようとしてて、すごい怖かったんだから」
「不審者?」
 靴を脱ぎながら、隆彦が妙な顔をして見せる。
 私はジャスチャーを交えて、先程起こった事の経緯を伝えてやった。
「ああ、そういえば」
 隆彦は何かを思い出したような風で視線を泳がせる。
「最近金持ち目当てで空き巣が流行ってるらしいなあ。なんでも、中庭の有る様な豪邸ばっかり狙ってるそうだ。まあ、家みたいな貧乏が心配する事じゃないよ」
 にや、とくずした笑みを見せる隆彦。でもドアを開けられそうになったのよ、と私が言おうとした瞬間、ぺたぺたと裸足の小さな足音が聞こえた。
「パパ……?」
 娘が物音を聞いて起きて来ていた。隆彦が笑って近寄る。
「なんだ、まだ起きてたのか。いや……俺を待ってたんだよな、悪いな。ただいま」
「パパ」
 隆彦の手が娘の頭に伸びる。娘は撫でられるのかと思いきや、何故か一歩下がって隆彦を見た。
「どうしたの?」
 私は不思議に思って娘の顔を見た。娘は隆彦の顔をじっと見ている。

 隆彦の顔?

 違う。もっと別の……その後ろを見ている。
 一体、何を……「パパ、後ろの黒い人だれ?ねえ誰?その人誰?ねえ誰なの?ねえママ、あの人誰?誰なの?ねえ誰?パパ誰?ママ、誰?ねえ、誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰なの?ねえ?ママ、パパ、誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰?誰?ねえ」

中庭の在る家

中庭の在る家

娘と2人、深夜の留守番。ドアの向こうには、夫ではない誰かの気配がしている。

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-05-21

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