まよい路の三爺

まよい路の三爺

一、日暮れの路地

 小学校の終わりの会のときから、みゆきは憂鬱でした。日直をしている同級生や、先生の声が聞こえますが、みゆきの耳には右から左へ抜けているようです。
 みゆきは顎を机の上のランドセルにのせたまま、日直の頭上の時計を見ました。この会が終わるのは、あと数分。家に帰るのに、ゆっくり歩くと二十分ほど、それからまた三十分立てば、お習字教室に行かなければいけません。毎週この曜日には、朝のうちにお稽古カバンを用意するので、帰れば玄関で猫のイラストのカバンが迎えてくれる事でしょう。それを考えるだけでため息が出ました。今日は友達との約束だってできないのです。
 ぼっーっと時計を眺めているとチャイムが鳴りました。日直の声とともに、立ちあがって帰りの挨拶をします。多くの子どもたちが、早く帰って出来るだけ沢山遊ぼうと、一斉に教室を飛び出します。
 みゆきも友達に、またね、と、手を振りましたが、足どりは重く、ずるずる踵を引き摺りながら教室を出ます。
 校門をくぐっても家に帰る気になれなかったみゆきは、少し遠まわりをしようと思いました。夏休み前の今は、まだいくらか風も涼しいですし、良い気分転換になる事でしょう。
 校門を出て一つ二つ道を挟んだ先には線路が走っています。その線路を越えて家に帰るためには、学校の近くの駅の下をくぐるか、線路沿いに少し歩いた先にある、神社の前の踏切を通らなければいけませんでした。
 みゆきの家は、神社とは反対の方向にあるので、いつも駅の下をくぐって家へ帰っていました。お母さんとの買い物も、その駅をくぐった先に伸びた商店街くらいしか行った事がありません。みゆきは神社側の道に興味がわいてきました。そちらの方向は、二度か三度、友達に連れられて通ったくらいですが、みゆきは、自分は迷いはしないだろうという自信がありました。
 時間までにはきっと帰れる、そう思って、みゆきは神社の方へ線路沿いに歩き出しました。
 神社の前まで来て道を折れ、踏切を越えると広い道が横切ります。それに沿うように立ち並ぶ小さいビルの陰から、車一台がやっと走れるくらいの細い道が伸びていました。道に入ると、色んな家がまぜこぜに建ち並び、車道は家々を避けるように身をくねらせて伸び、時折、人しか通れないような小路が民家の脇に浸みこんでいました。友達に連れられて来た時には、そういう小路に入る事が無かったみゆきは、知らない道を探検したくなりました。
 熱くなって脱いだ、薄いジャンパーを腰に巻きつけ、どんどん奥に入って行きます。
 道から道へと歩いて行っても、すれ違う人はいませんでしたが、建ち並んだ家から、たまあに、赤ちゃんの泣く声が聞こえたり、少し気の早いごはんの匂いがしたりします。
 ふと見上げれば本当に色んなお家があって、蔦を絡ませた家や二階建ての小さなアパート、洋風に建てられた家、もう誰も住んでいなさそうな壊れた家、あるいは、まさに長屋といったような、いくつも連なった平屋の並ぶような小道がありました。そんな道はコンクリートではなく砂利が弾いてあって、みゆきを驚かせました。
 入り組んだ道だけに、行き止まりに突き当たってしまう事もあって、そのときには引き返したりしながらも、ひと気のない路地を、家へ向かって独り歩いていきました。
 しばらくすると屋根の向こうに竹林が見えました。
 あの竹林をみゆきは知っていました。あそこを正しい方向に抜けたら、商店街の横腹の入口までの、近道になるはずです。
 しかし林の中に、道らしい道はありませんでした。人が歩いたあとが、芝を枯らしてうっすら残っているほどです。しかもうっそうとした林の中は、ゆるやかな坂になっていて、先を見通すのは難しそうでした。ちゃんと真っすぐ商店街までたどり着けるのでしょうか。迷ってしまったら、尋ねる人もいません。
 みゆきは少しためらいましたが、覚悟を決めて上着をはおり、薄暗い中に足を踏み入れました。知らない道を歩いて、いつもより疲れを感じていたみゆきの足に、土の道は柔らかく感じられました。
 しかし、それも少しの事でした。
 竹林の真ん中でみゆきは立ち止りました。自分が進んでる方向が正しいのかどうか、わからなくなってしまったのです。
 時計が無いので、どのくらい時間が立ったのかわかりませんが、足はとっても痛いし、林の中をもうずいぶん歩いたような気がします。そもそも林に入る前、入り組んだ路地を歩いていた時から、みゆきはどこを向いてるのかよく分からなくなってしまっていました。
 みゆきは途方にくれました。
 いつの間にか、日も傾いたような気がします。みゆきは、早く帰ってお習字に行かなければいけなかったのに、ちゃんと間に合うのでしょうか。
 黙って遅くに帰り、お習字に行かなかった事を怒るお母さんの顔が浮かびました。お母さんは怒るととっても怖く、厳しいのです。それを思うとお腹が痛くなり、みゆきは一生懸命言い訳を考えていましたが、そもそも帰る道がわかりません。足が痛くて座り込んでしまいたかったけど、歩かないと帰り路を見つける事も出来ずに日が暮れてしまいます。
 カラスの鳴き声が、ずいぶん遠くで聞こえました。
 みゆきは気が急くのに帰り道がわからず、どんどん心細くなって来て涙が出そうでした。でも自分の招いた失敗のために自分を可哀想に思うのは馬鹿らしく感じたので、気の強いみゆきは悲しい気持ちを飲み込みました。
 それでも心細さと足の痛みは消えません。どちらに向かって歩いて行けばいいのでしょうか。
 また熱くなってくる鼻をこすりながら、肩に食い込むランドセルを下ろして、みゆきは足元を見つめました。
「お嬢ちゃん、どっか具合悪いのかい?」
 後ろから突然声がかかりました。みゆきは驚いて振り返ります。
「え、どっからきたんだい?」
 さっきまで誰もいなかった影から杖を持った三人のお爺さん達が現れました。心配そうにみゆきの顔を覗き込みます。
 一体いままでどこに居たのでしょうか。三人とも白髪を長くのばして和服を着ています。ちょっと変わった風貌にみゆきは警戒して口を閉じました。
「なあ、ヌルさん。この子は人の子じゃないか?」
 三人の中でも一番きちっとして、しわの伸びた和服を身につけ、絹のように真っ白な髪を襟もとで結ったお爺さんが言いました。
「ありゃ。そうかね。そうだったら場所を聞いても、きっとわからんなぁ。どうしよう。」
 隣に立ったお爺さんが顎の先に芝生のように生やしたひげをなでながら答えます。
 そのおじいさんは落ち武者のように前からてっぺんまで禿げていて、横に垂れた少し黄ばんでしまっている白髪を三つ編みに結っていました。皺を深く彫り込んだ目元を細め、杖を抱き込んで腕を組みます。
「ほれ、娘さん。なんとか言わんと、じじい達が困っちょる」
 杖の先にヒョウタンをくくりつけて鼻を赤くしているお爺さんが他の二人のお爺さんの挙動を見て、わははと笑いました。
 彼は一番体が大きく肩まである髪を前髪だけ後ろでまとめ、あとはぼさぼさと散らしていました。いっけん怖そうな見た目の割に太くて温かみのある声で、みゆきに声を掛けます。
 その声とお爺さんたちのひょうきんな様子に励まされ、みゆきは声を絞り出しました。
「……お爺さんたち、だれ、ですか」
 言ってみてから、ハッとして唇を触ります。きのう見たアニメで、「名を尋ねるときは、まず己から名乗るものだ」という事を、厳めしい老人が言っていたのを思い出したのでした。お爺さんたちに謝るか、名前を言うか、みゆきが迷っていましたら目元のしわの深いお爺さんが、そうだそうだと手を打ちました。
「こんな怪しい爺に囲まれてさぞ怖いに違いないね。あたしの名前は、“ヌル ”といいます」
 そう言って、あとの二人も促します。
「私は、“ムイ ”と言います」
 この三人の中では一番年上なんだよと、絹のような髪のお爺さんが手を差し出しました。みゆきはおっかなびっくり、その綺麗な手と握手をします。
「わしは“ノサ ”ってんだ。よろしくな」
 体の大きなお爺さんがみゆきの頭を撫でました。初対面の人に頭を触られるのは何となく嫌でしたが、あまり乱暴じゃなかったのと、ノサ爺さんの見た目がちょっと怖いので、みゆきはじっとしていました。でも手が離れた後でこっそり自分の短い髪を撫でつけました。
「お嬢ちゃんはなんていうんだい?」
 優しい目元のヌル爺さんは息を吐きながら、みゆきの前でゆっくり体をかがめました。すると、だいたい同じくらいの目線になります。
「……みゆき、です」
 声を小さくして、みゆきは名乗りました。
「みゆきちゃんかぁ。そんな子、近所におったかなぁ。ヨネさんちには娘さんがいたが、そんなハイカラな名前じゃなかったろ?」
「さっき、ムエさんが言ってたじゃんよぉ。ヌルさん、この子たぶん人の子だ」
 みゆきの縮こまった態度を意に介す様子も無く、立ちあがったヌル爺さんとノサ爺さんが話し出します。ヌル爺さんがヒゲを触るのは、どうも考え事をしてるときの癖のようでした。
 一体なんの話しをしてるのかわからないみゆきは、キョロキョロと三人を見ました。すると、ムエ爺さんと目が合いました。
 するとムエ爺さんが不安そうな少女に微笑みかけました。
「私たちはね、言うとこの、妖怪とか妖精とか、そういうものなんだよ。なんか変な格好をしているでしょう」
「お爺さんたちは、ずっとここに居たんですか?わたし、一人ぼっちだと思ってて…」
 みゆきは、どう聞けばいいのか考えながら、やっとの思いで尋ねました。
「ええ。ここに居たと言うよりは、そこの影の小屋で三人でお喋りして暇をつぶしていたんだけれどもね」
 ムエ爺さんがそう言って、まさにみゆきが来た方向を指さします。そんな所に小屋があったでしょうか。みゆきはまた考えこみました。
「それにしたって、こんなとこに人が来るなんて珍しいな、ムエさん」
 ヌル爺さんと、みゆきのランドセルがどうとか服がどうとか話していたノサ爺さんが言いました。
 どう言う意味なのでしょうか。みゆきはお爺さんたちの言うことに首をかしげてばかりいました。だってここは、たしかに道のない竹林ですが、人の通った跡がちゃんと残っていました。何より、ここら辺で二、三番目くらいには便利な商店街への近道のはずです。すぐそこは民家だらけだし、珍しいと言われるほど人が通らないはずないと、みゆきは思いました。
「お嬢ちゃんどうやって、こんなとこ来たんだい」
 ノサ爺さんに言われて、まったく見当違いの事を考えていたみゆきはハッとしました。今は、そんなこと気にしている場合ではないはずです。
「道に……迷って。だから、わからないんです」
「そうだったのかぁ…」
 ノサ爺さんが、悲しそうに太い眉をハの字にして言いました。みゆきはまた、自分が可哀想になってきました。
「こらこら、あんたが悲しい顔するんじゃないよ、ノサ」
 ヌル爺さんがそれを窘めて、しょぼくれたみゆきの背中に手をあててくれました。
「荷物を下ろして佇んでたのは、そういうわけだったのかい。どのくらい歩いてきたかは知らないが、疲れたろうね」
 ムエ爺さんが、そう言ってみゆきを労いました。
 知らないお爺さんに囲まれて、帰り道もわからず、不安だったみゆきは、少しホッとしたような気持になりました。

ニ、家

 みゆきは両親から、知らない人についていくなと教わっていましたが、帰り道を聞くには今しかありません。お爺さんたちの、何となく丁寧で優しそうな雰囲気を信じて、覚悟を決めました。
「あの、葛花町の方に行きたいん、です、けど、尾花商店街は、どこですか。そこまでいけたら、後はわかるんですけど…」
 口ぐちに話しをしていたお爺さんたちが、口を閉ざしてみゆきを見ました。次に、ヌル爺さんに視線が集まります。
 ヌル爺さんは、毛玉が出来てしまいそうなくらいひげをごしごしとこすりました。
「尾花商店街は、あるにはぁ、ある。……まぁ、とりあえず行ってみるかい?」
 どうも言いにくそうな様子が気になりますが、それでもみゆきは少しホッとして頷き、三人と歩き出しました。
 歩いてるあいだ三人のお爺さんは、ずうっとみゆきと楽しい話しをしてくれました。
 なんと言ったって、あんなに警戒していたみゆきが初対面の人と話す気恥しさを忘れるほどでした。
 体の大きいノサ爺さんが一番若く明るい性格のようで、みんな“ヌルさん ”“ムエさん ”と呼び合うなか、一人だけ“ノサ ”と、呼び捨てにされていました。ノサ爺さんはとにかく良く喋り、自分達の家族のことや近所付き合いの事を言っては、ガハハと一人で笑っていました。ムエ爺さんが勢いよく話すノサ爺さんの言葉の説明をして、ヌル爺さんはいつもみゆきを気遣って会話の輪に入れてくれました。
 ノサ爺さんの話す大人の付き合いの事は、8歳のみゆきにはよく分かりませんでしたが、ノサ爺さんの話し方と、楽しい笑い声につられてたくさん笑いました。
 そんな風にしていましたら、竹の間からあっという間に商店街の看板が見えました。
 みゆきは胸がどきどきとして来ました。このドキドキは、やっと帰れる喜びでしょうか。
 初めて一人で知らない道を歩いて、知らないお爺さんと出会って、とうとうここまで来れました。アーチから覗く商店街を見つめながら、みゆきはまだ少し夢見心地なようです。
 「商店街を行き交う人がいないが、もう夕方だからだろう。早く帰らなくては」そう、みゆきは思いました。
 自然と早まった足で、アーチの下まで来ます。そこで一行は、立ち止まりました。
 商店街では、買い物をする人どころか、客を呼ぶ店員の姿すらありません。けどお店は荒れた様子も無く、ただ整然と立ち並んでいます。うそのように静まった商店街で、建物だけは生活感を保っているのが異様でした。
「どうかな。ここは、みゆきちゃんの知ってる尾花商店街と同じかい?」
 ヌル爺さんが言いました。
 みゆきは自分の見てる光景も、ヌル爺さんの言葉の意味もよくわからなくて、首を振りながら言葉も無くヌル爺さんを見上げました。
 胸によみがえった不安が噴水のようにはじけてしまいそうでした。
「やっぱり普通の方法では駄目なんだろうね。ちょっとそこに座らないかい?」
 四人は商店街の入口のすみにポツンと置かれたベンチに腰掛けました。
 みゆきはヌル爺さんとムエ爺さんに挟まれて座り、混乱しながらもゆっくりと呼吸を繰り返します。
「みゆきちゃんが来たのはね、この町ではあるんだけども、こことは違う世界なんだよ」
 どうやって説明したものかと、ヌル爺さんが髭をなでながら語ります。
「さっき、私たちが妖怪や妖精みたいなものだ、と言ったのは信じるかい?」
 ムエ爺さんが言いました。
 「変な格好をしてるでしょ」と言われた所まで思い出して、みゆきはとりあえず頷きました。
「ここはね、その、人じゃないモノが住む側の世界なの」
「……でかた、分からないの?」
 みゆきが、目に不安と疑問をいっぱいに浮かべて尋ねました。
「…そうだね。わたし達には、みゆきちゃんがどうやってここに入って来たのかさえ、わからないんだよ」
 ムエ爺さんが淡々と言います。
 ヌル爺さんが、泣きだしてしまいそうな、みゆきの背を一生懸命にさすりました。
「でも、ね、ほら、あたし達ゃ暇だから。いっぺん、みゆきちゃん家の方にも行ってみよう。なんだったら来た道も通って理由を探そう。おそくなったら、みゆきちゃんのお母さんにも一緒に謝ってあげるさぁ」
 優しいお爺さんたちは、みんな「そうだそうだ。暇人も働かねば」と、ヌル爺さんに同意しました。
「……うん」
 それから一行は、少し黙り込みました。すると、いつの間にやらノサ爺さんがいません。
「おーい」
 ノサ爺さんは、すぐに商店街の奥からどてどてと走って戻ってきました。手にはいくつか缶ジュースを持っているようです。目の前まで来ると、それをみゆきの足下に並べました。
「どれが飲みたい?」
 なんだか嬉しそうに言います。
 並べられた缶ジュースを見ると、桃の絵が書いてあるものと青い模様で涼しげなもの、緑のマークに泡のイラスト付いているもの、そして、黄色い液体が印刷されたモノがありました。
 みゆきが迷っていると、ムエ爺さんがさっと黄色い缶を地面から取りあげました。
「お嬢さんの前になんてものを並べるんだ、お前は。これは私が頂くからな」
「あぁっ、俺のビール!」
「さっき飲んだのが今日の分だって言っていたろう。奥さんの言う事は聞きなさい」
「……さいきん孫も酒を控えろってうるさいし、なんだってんだ」
「お前さんの、その真っ赤な顔を気にしてるんだろうさ」
 ヌル爺さんが笑いました。
 みゆきは間違ってビールを飲んでしまわずに済んでほっとして、桃の絵のついた缶を手に取りました。缶の爪が引けず悪戦苦闘していると、ムエ爺さんが綺麗な手で開けてくれました。お爺さんたちに囲まれて背中を優しくさすられながら甘いジュースを飲んでいると、どくどく鳴り響いていたみゆきの心臓は静かになって行きました。そうして少しだけベンチで休憩して、三人は再び歩き出しました。
 ここから一番近い、みゆきの家に向かいます。
 みゆきがムエ爺さんの手を引きながら、三人を案内します。ここからはお母さんともよく歩く道なので、街並みは変わらないと言うのなら、みゆきは自信を持って歩けました。
 さっき入って来たアーチの真正面口から出たらもうそこは住宅地で、あとは道なりに進めばみゆきの家につきます。
 みゆきは道すがら、お爺さんたち以外の妖怪はどうしているのか尋ねました。
「普通この時間は、みんな家に居るな」
「昼寝とか、家でボーっとしてたりだな。みゆきちゃんたちみたいに夜寝ないから、夕暮れになるとみんな家から出てきて騒ぐんだよ」
「お爺ちゃんたちは、なんで外に居たの?」
「……家に居づらくてなぁ」
 三人のお爺さんは遠い目をしてため息をつきます。
「どうして?」
「そりゃあ…」
 ノサ爺さんが答えます。
「家に居たらお母ちゃんの小言を聞いてにゃあならんし、それが済んだと思ったらこき使われるわ、娘や孫に邪険にされるわ……」
 言葉の終わりのあたりには、ずいぶんとため息交じりに語ります。
「まぁ、なんだ……、今日はちょっと居心地が悪くてだねぇ」
 ヌル爺さんが言い訳がましく半笑いで言うと、同調するようにムエ爺さんも唸りながら顎を引きます。
 みゆきが視線と歩調を落としました。
「わたしのお母さんもよく怒る……」
「ん、あんなとこで迷ってたのは、もしかしてそこに原因があるのかい?」
 ムエ爺さんが手をつないだみゆきの顔を覗き込んみました。みゆきは、しかし、あいまいに首をかしげます。
「……でも、うん。きょう、習い事があったんだけど、あの、あんまり、行きたくなかったの」
 少し言いづらそうに口をもごもごさせながら、みゆきは言いました。
「ありゃあ!すっぽかしたの!」
 ノサ爺さんが大げさに言うと、みゆきは嫌そうな顔でノサ爺さんの足下を見ました。若干の罪悪感のためか、三人から顔を隠します。
「行くつもりだったの……!でも迷っちゃったんだもん!」
 みゆきの声は少し震えていたでしょうか。みゆきは、一度言葉を切って唇を噛みました。
「ちゃんと帰って行くつもりだったもん……。今日だけだもん……」
 弱々しく言って、ムエ爺さんと繋いだ手を緩めました。ムエ爺さんはそう強く握っていなかったので、手はゆっくりと降りて、みゆきのシャツの裾を掴みました。
「今日だけちょっと、逃げてきちゃったか」
「逃げたんじゃないよ……」
 みゆきは握ったシャツの裾を見つめながら、ぼそぼそと、ノサ爺さんに言い訳しました。
「そうかそうか、行くつもりだったんなら早く帰らんとね!お母さんも心配してらっしゃるだろうしね」
 ヌル爺さんは、みゆきの言い訳も鵜呑みにしたように、明るく言って、みゆきの背をトンと叩きました。
 みゆきは、こっくり答えて、またお爺さんたちと並んで歩き出しました。
 道のわきに、みゆきの家の生垣が見えてきました。週末だけ家に居るお父さんが、大事にしているサザンカです。まだ時期でも無いのに、ちらほらと花が咲いています。やはり普通の世界ではなさそうで、みゆきは早くもがっかりしましたが、いつまでもうじうじしていても仕方がありません。とりあえず、玄関の前に立ちました。
 表札にはちゃんと「庵原(いおはら)」と、みゆきの名字が入っています。しかし例によって、人の気配はまったくありません。
 みゆきは、何となく他人の家のような気がして躊躇いましたが、お爺さんたちに促され、扉をあけました。みゆきの家はいつも誰かが居ることが多く、鍵が閉まってる事は少ないのですが、この世界でも扉は鍵を使うことなく開きました。
 なんとなく忍び足で家に上がり、お爺さんたちは入ってすぐそばのダイニングで腰を落ち着けました。
「ちょっと失礼するね」
「いやぁ、さすがにちょっと、よく歩き過ぎだ」
 ムエ爺さんとノサ爺さんが、なにやら言いながらテーブルに備え付けられた椅子に腰を下ろします。ヌル爺さんも同じようにしてから、自分の杖にしがみつくようにもたれ掛かっていました。
 みゆきが冷蔵庫を開けてみると、なんとお茶が入っていたので、匂いを嗅いでみてから四人で飲みました。
 どうも自分の家のようなのでみゆきは安心したと同時に、お母さんに会わなかったことにもホッとしたようでした。

三、喧嘩と後悔

「ねぇ。あんまり休んでたら、日が暮れちゃうよ」
 自分の家に居る事で少し強気になったみゆきが、それでも控えめな口調で三人に言いました。
「たぶん大丈夫だろう」
 ノサ爺さんがこともなげに言います。
「なんで?」
「前に来たあっちの人が、なんか言っとった」
 よくわからないノサ爺さんの言い分に首をかしげたみゆきの為、ムエ爺さんが説明してくれました。
 どうやらお爺さんたちは、過去にも迷い込んだ<人間>と話した事があるそうなのです。その人は彼方から此方へ来たときに、ハッキリと空の色が変わり、さわやかな朝だったのが燃えるような夕暮れ時になって、まるで天変地異のようだったと語っていたとの事で、だからノサ爺さんは、とりあえず、なんとなく、ついては勘で、いま三人のいるこちら側とみゆきが元居たあちら側に、時間の関係は無いと思ったのだろうと、ムエ爺さんが言いました。
「そう、そうなんだよ。わしの勘はなかなか冴えてるよ?」
「じゃあ、その人はどうやって帰ったの?」
「うん……。ちょっと一緒に茶を飲んだくらいで、……あとはどこに行ったんだかなぁ」
 ノサ爺さんが首をひねりました。
 みゆきがいい加減なノサ爺さんに向けて目をすがめます。
「……なんだその目は」
「ううん」
 みゆきは何でもないように答えました。
「やっぱり、帰りに通った道をもう一回行った方がいいかなぁ」
 正面に座るノサ爺さんから大きく視線をずらし、隣りのヌル爺さんに尋ねます。
 みゆきの足は随分歩かされて疲れていたはずでしたが、いつの間に疲れが飛んで行ってしまったのか、落ち着いてこれからの道のりについて考える事が出来ました。
 杖にすがっていたヌル爺さんも、杖を適当に立て掛けて、椅子の上にちょんと座っていました。
「そうだねぇ、その帰り道に何かがあったんだろうし…。もう一度、学校から歩く元気はあるかね?」
「わたし大丈夫!」
「最高齢のムエさんさえ良けりゃね」
 茶化したノサ爺さんをみゆきはじとっと見ましたが、こんどは誰も気にしませんでした。
 家を出る前、みゆきは履く人のない靴の揃った玄関に自分のお稽古カバンがないことに気づきました。お爺さんたちが荷物もないのにノロノロと身支度を整えていたので、その間に自分の部屋に探しに行くと、猫のイラストが入ったお稽古カバンは、ちゃんとかばん掛に下がっていました。
 さて、三人はさっそく学校にきました。
 お爺さんたちはあまりこの辺に来ないのだと言って、物珍しそうに学校を眺めました。
「あの……」
 みゆきが何故かモジモジしながら三人に声をかけます。
「おや、やっぱり疲れちゃったかい?」
 ヌル爺さんが言いました。
「違うくて…。あの……トイレ」
 商店街や家で飲むだけ飲んで、すっかりお手洗いに行くのを忘れていたようです。
 せっかくここまで来たのですから、学校で借りるしかありません。
 しかしみゆきの学校は校門から校舎までに緩やかなU字の坂があって、わざわざみんなで中まで往復するのもないだろうと、ノサ爺さんがひとり付き添うことになりました。
「せっかくだから中を見物したいしなぁ!」
 みゆきがとうとうあからさまに嫌そうな顔をしましたが声を上げることはなかったので、そのまま二人で行くことになりました。
 下駄箱から一番近いトイレで用を済ませ手を洗っていると、突然トイレの天井近くにある窓が開きました。
 みゆきが驚きに体を弾ませて目を向けると、そこにはアニメや映画でみた天狗のように鼻の高い人が、身をかがめて窓枠に挟まっていました。
「こんな所にいたのか。さ、行こうお嬢ちゃん」
 その人は猫なで声で、筋張った手を差し出しました。お爺さんたちと同じように和服をまとい、顎の周りに黒い無精ひげを生やして、にたりと歯を見せる姿はとても怪しげでした。
「帰り道、わかる…ですか」
 みゆきはうまくポケットからハンカチが取り出せずズボンで手を拭きながら、おずおずと尋ねました。見た目に関してはあの三人のお爺さんも相当に怪しかったし、この天狗のような人はここに迷い込んだみゆきの案内に来てくれたのかもしれません。さっきノサ爺さんの言っていた人は、そうして帰って行ったのかもしれないと、みゆきは思いました。
「帰り道?うん。わかるわかる。さ、さ、おいで。おじちゃんが自慢の羽で送ってってあげよう」
 みゆきは直ぐにもその手を取ろうとしましたが、ちらりと三人の友人たちのことを思い出しました。
「あの、ちょっと待っててください」
 みゆきが言うと、天狗は何かを勘違いした様子で慌てて窓枠から身を乗り出し、みゆきの腕を引っ掴みました。
「こーらこらこら。何考えてんだか知らないが、逃がさないぞ!」
 何を言ってるのかみゆきにはさっぱりわかりませんでしたが、突然掴まれた驚きで足をもつれさせて転び、トイレのドアを強く蹴飛ばしてしまいました。
「大丈夫かぁ?」
 呑気に言いながら、音を聞きつけたノサ爺さんが女子トイレに入ってきました。みゆきは全く気が動転して、体をめちゃくちゃにバタつかせながら、ノサ爺さんに向かって手を振り上げました。
「いっ……!」
 なんとその手はノサ爺さんの目に当たってしまったのでした。声にならない声を上げてノサ爺さんが目を抑えます。
「なんかよくわからんが、でかした!」
 天狗はもう一度みゆきの腕を掴み直し、戸惑うみゆきを窓の外へ引っ張り出すと、上掛けに隠していた翼を広げて飛び立ちます。
 みゆきは何もわからないまま天狗に抱えられ、ノサ爺さんを打ってしまったことにただ罪悪感を感じていました。
 さて、瞬きを何度も何度も繰り返し、やっと視界がまともになったノサ爺さんは、杖を振り回しながら慌ててU字の坂を駆け下りました。
「大変だ!嬢ちゃんが天狗に攫われた!」
 ヌル爺さんとムエ爺さんが目に入ると、それはもう大きな声で叫びます。
 側まで駆け寄るとムエ爺さんの杖で足を叩かれました。
「それで何でお前は、ここでどかどか騒いでるんだ!」
「だって…」
 ムエ爺さんに怒鳴られては、体の大きなノサ爺さんも思わず縮こまります。
「知ってるやつだったかい?」
 ヌル爺さんが、苛々とした様子を隠さないムエ爺さんをよそに尋ねました。
「ことわっておくが、友達ではないぞ。しかし踏切のわきの神社に住みついてる奴のようだった」
「そういうことか。あそこのやつ、最近になって悪さばかりしやがる」
 ムエ爺さんが毒づくと、三人はそれ以上交わす言葉も無く、空高く跳び上がりました。杖が邪魔にならないように脇に添え、屋根やら電柱やらを足場にして神社のある方まで跳んで行きます。
 神社を目前にしたビルの上で、三人は立ち止りました。
「ヌルさん、体力は大丈夫なのか?」
「なんども休憩したし、普通に歩くよりはずっと楽さね。……しかし、ムエさんに心配されるとは、あんたはいつまでも若いね」
「私は普段から身体には気を使ってるからね」
 ヌル爺さんとムエ爺さんがそんな会話をしている間、ノサ爺さんは地上に目を凝らして天狗を探していました。神社の鐘楼の屋根の下にみゆきの影を見つけ、あっと声をあげます。
「視力だけは最年少に勝てんがね」
 ムエ爺さんが呟き、三人はビルから飛び降りました。
 みゆきがうずくまって鐘楼の段差に腰掛けていると、頭の上でザリッと砂を踏む音がしました。天狗が戻って来たのかと顔をあげたら、そこには三人のお爺さんの姿がありました。
 みゆきは先ほどのノサ爺さんとの攻防を思い出して戸惑い、目を泳がせましたが、ノサ爺さんがみゆきの手をがっしりと握りました。
「無事でよかった…!天狗になにも悪さをされとらんだろな!」
 太い声を感動に震わせてノサ爺さんは言いました。みゆきが後ろの二人に目を向けると、二人とも、よかったよかったと、ノサ爺さんの背を撫でながらみゆきに笑顔を向けます。
「の、ノサ爺ちゃん……」
 みゆきがやっとノサ爺さんを見て声を掛けると、ノサ爺さんは嬉しそうな顔のまま黙ってみゆきを見つめ返しました。
「さっき、目を叩いちゃって……ごめんなさい」
 そういうと一旦辺りが静まり返り、始めにノサ爺さんが快活に笑い出しました。
「そんなことがあったのかい?」
「悪さをしたのは、ノサの方だったのか!」
 ムエ爺さんと、ヌル爺さんが言います。みゆきが事のあらましを説明すると、二人ともノサ爺さんが悪いと言い、本人にまで謝られ、みゆきは勝手におお事にした自分がなんだか恥ずかしくなってしまって、顔を俯かせました。
「あっ!てめぇ等、いつの間に!」
 四人が顔をあげると、鐘楼の屋根の上にさっきの天狗が居ました。
「現れたな悪ガキが!最近町内でも一発殴りたい奴だと有名だぞ!」
「ち、違う…!帰り道がわかるって!」
 太い声を唸らせ、すぐにも飛びかかりそうなノサ爺さんにみゆきは言いました。
「なに?」
 ノサ爺さんとムエ爺さんは天狗を睨んだまま、ヌル爺さんが振り返ります。
「つ、つれて帰ってくれるって!」
「そんなことがあるかよぉ。天狗は昔から人攫いって決まってんだ!」
 間髪いれず、ノサ爺さんが言います。
「なんでぇ」
「なんでも!だいたい、このあほ面が俺達でも知らん人間界への行き来の仕方を知ってるはずがないっ!」
「しっつれいな!現にそのお嬢ちゃんを連れてきたのは俺だろうが!」
 みゆきとノサ爺さんの会話に、とうとう天狗が口を挟みました。
「……ほう。行き来の仕方は本当に知っているらしい」
 ムエ爺さんが天狗に向き直りました。
「しかし知ってるなら、使わん手はないね?」
 ヌル爺さんが、優しい目元のしわを深めて杖を槍のように構えます。
「とっちめてやるわくそ餓鬼ぃ!」
「掛ってこいやぁじじいどもぉ!」
 ノサ爺さんの怒声に天狗が答え、四人は跳び上がりました。
「おいおい。お嬢ちゃんを独りにして良いのか?」
 天狗が挑発するように言いました。
「それもそうだな。代わる代わる、一人づつお嬢ちゃんが見えるとこに居るとしよう」
 ヌル爺さんが提案し身を引くと、まずノサ爺さんとムエ爺さんが杖を振りかぶって天狗に飛びかかりました。天狗は扇で風を起こして、ノサ爺さんの杖をいなします。避け切れずにムエ爺さんの杖が脇腹を殴りましたが、空中だったためか、その衝撃も和らげてしまいました。
「脳なし鬼のそれもジジイが、喧嘩なんて似合わねぇことしてんじゃねえよ!」
 天狗が嘲笑いながら扇を扇ぐと旋風がおじいさんたちに向かってきました。
 ムエ爺さんが咄嗟に着物の袖で顔を覆うと、なんとその風は、着物をうっすら切り裂いてしまいました。風を受けたところ全体に所々切り傷が出来てしまっています。
 同じくまばらに切り傷を負ったノサ爺さんはそれを意に介さず、地上ですばやく身を立て直し、天狗が止まろうとしていた木をなぎ倒しました。突然のことに天狗がいくらか体勢を崩すと、跳ねあがって頭めがけて身体を捻りますが、天狗がとっさに頭を守ったので、ノサ爺さんの足は奇しくも天狗の腕に当たりました。
 天狗は蹴られた勢いのままにノサ爺さんから距離をとり、しびれる腕を抱き込みました。
「っ……いってぇーよ!ジジイ!」
「……扇頼みの若造が、きゃんきゃん喚きやがる」
 ムエ爺さんの声が低く響きました。境内の杉の木の上で唸ると、その額からめりめりと二本のツノが生えてきました。
「ありゃ。ヌルさん、交代!」
「ほいさ」
 凄い形相のムエ爺さんを見たノサ爺さんが、ヌル爺さんと立ち位置を変わります。ヌル爺さんは、すっとムエ爺さんの斜め後ろに身を構えました。
 ムエ爺さんは細い杖をまるで棍棒のように振り回し、天狗の送る風を叩き割るようにその後ろを追いかけます。ときどき拡散した風に着物が切り裂かれ、ムエ爺さんの髪を束ねていた糸もいつの間にか切れてなくなってしまっていました。
 それでも切れない杖と、躊躇いなく真っ直ぐ跳ねあがってくるムエ爺さんに背を向けて飛ぶ天狗は、慄き、逃げ惑っているかのように見えましたが、硬い足場を見つけると膝を深く曲げて弾みをつけ、振りかぶったムエ爺さんの杖に扇を直接ぶつけました。するとなんと、その風をまとった扇が杖を切り裂こうと金切り声をあげます。
 ムエ爺さんが扇を流して次の動作に入ろうと力をゆるめますと、ぶつかった衝撃が今頃返ってきて、ムエ爺さんも天狗も後ろに吹っ飛びました。すかさず、ヌル爺さんが小柄な肢体を不思議なクッションのように柔らかいばねにして、頭一つ分くらい大きなムエ爺さんを抱きとめます。
「ええぃ……」
 地面に降りたつと、ムエ爺さんはすぐに己の足で地面を蹴り、お堂の屋根の上に落ちた天狗を追います。
 高く跳ねあがり、瓦に埋まった天狗めがけてムエ爺さんが拳を振りかぶると、その様子を地上で見ていたヌル爺さんが突然に怒鳴りました。
「よけろ!まじないだ!」
 一言目で無理矢理身体を捻ったムエ爺さんの側を竜巻が昇っていきます。
 屋根の上で倒れながら天狗が扇に唱えていたのを、ヌル爺さんは聴いていたのでした。
「なんで聞こえるの……?」
 同じ境内の中、鐘楼の小屋の影に隠れているみゆきが、ノサ爺さんに尋ねました。
「ああ、あのお人は相当耳が良いからなぁ」
 事も無さげに言いますが、みゆきはまったく腑に落ちません。
 目の前で行われている喧嘩にはまったく現実味がなく、なんだか他人事のようにそれを眺めてしまいました。よたよた一緒に歩いていたお爺さんたちが、跳ぶわ跳ねるわ角まで生えて、これではまるでアニメの世界です。
「あ……そうかぁ。お爺ちゃんたちは妖怪なんだね?」
「ムエさんも天狗も言ってたろうが」
 二人は屋根の上で弾け跳ぶ瓦を遠目に見ながら、のんびり談笑しました。
 屋根の上に落ちたとき、まったく受け身をとれずまともに衝撃を受けた天狗は折れたかひびが入ったか、とにかく翼が動かせずもがいていました。視界の端にムエ爺さんが跳び上がるのが見えて、慌てて風を起こす扇に呪文を唱え、命をつないだと思ったものの、直後に跳びかかって来たヌル爺さんに、取り押さえられてしまいました。
「っじじぃ……」
 天狗の上に座ってヌル爺さんが笑います。
「私の杖は不思議な杖でね、傷みを取ってくれたり、それをどっかに移したりね、色々できるんだよ」
「おどしかよ…っ」
「うん。そうなのよ。脅しにのってくれるかな」
「もぉおおおお、いいよぉおおお痛いのやだもぉお!」
 天狗はくしゃくしゃに顔をゆがめて、よれよれの身体をヌル爺さんに支えられ、地面まで降りてきました。

四、きっかけは

 天狗が手と羽根を縛られて地面に座り込みます。そして三人のお爺さんに囲まれると、ムエ爺さんとノサ爺さんから一発ずつ力いっぱい殴られてしまいました。
「いったぃー!」
 非難がましく天狗がわめきます。
「この扇、風鬼んとこから盗んだやつだな?」
 角が消え、元の姿に戻ったムエ爺さんが天狗の持っていた扇を手にして言いました。
「……おうよ。そういうのは間抜けな鬼よりも、賢い天狗が持ってる方がかっこいいだろうが」
 天狗が悪びれずに言うと、ノサ爺さんが地を蹴ります。
「くぁ~!地方では山の神だとか言われてるかしらねぇが、天狗になりやがって、ちょっとまやかしが使えるだけのくせに!」
「まぁ、天狗だしな」と、ムエ爺さんが言います。
「……とりあえず、慢心しやがってってことだ!」
「慢心なんかじゃねぇや!天狗はなぁ、他のやつらと違って美しい翼をもち知性にあふれ、さっきうっかり口を滑らせたが、こちらとあちらを自由に行き来することのできる特別な存在だって、うちのとっつぁんが言ってたんだからな!」
「おまえんとこの“とっつぁん ”なんてしらねぇよ!自分から白旗あげたくせして見上げた根性だな」
 ノサ爺さんは天狗の達者な口と負けても変わらない尊大な態度に、開いた口が塞がらないようでした。
「お前らが多勢に無勢で殴りかかって来たんじゃねぇか卑怯者!」
「お前がそうするように挑発したんだろう」
 わめく天狗にムエ爺さんも相当あきれた顔を見せました。本当にこの愚かな天狗はみゆきを元の世界に返す力を持っているのでしょうか。半信半疑で尋ねます。
「で、お前達はその<特別な能力>で、人間をこちらに連れてきてるのか」
「そうさぁ!」
 天狗が自慢げに言います。
「ただ自分が行き来するのとはわけが違う。他人を動かすのにはちょっと脳が居るんだ」
 天狗がもったいぶって四人を見渡しました。
「ほう。その違いって言うのはどんなだい」
 ヌル爺さんが先を促すと、天狗は鼻の穴をふくらませて続きを語ります。
「他人を動かすには、それ相応のタイミングって言うのを計らなきゃならねぇ。本人の意思と違った動作をさせようとすると、かならず拒否反応が起きてこっちが怪我する事になっちまうのさ。だから現実から離れたがってるやつに力を使うんだ。そして恩を着せ、飽きるまで小間使いにするのさ!」
 どうだ!とでも言いたげに、天狗は長い鼻で天を指しました。
「それで?お前の小間遣いは今どこに居る」
「もう帰しちまったよ。だからその子を呼んだんじゃないか」
 ムエ爺さんが尋ねると、天狗が興を削がれたように言いました。この愚かな天狗がしたい事はどうにもわかりませんでしたが、力があることは本当のようです。すると、ノサ爺さんがみゆきを見ました。
「お嬢ちゃん、そんなにお稽古が嫌だったのか?」
「そ、んなことないよ……、だってお母さんが……」
 みゆきは俯いて、林の中で会った時のようにもごもごと言い始めました。
「母ちゃんの顔見るのがそんなに嫌か?」
「違うよ!お母さん、やめたければやめろって言って……くれるもん……」
「……じゃあやめれば良いじゃないか」
 みゆきをからかうつもりで居たノサ爺さんでしたが、言い訳じみた事を言いながらウジウジとしたみゆきの態度に、少し語気を強くして言いました。
「……やめないもん」
「そんなに嫌なのにか」
「……やめないもん……!」
「じゃあなんで此処に来れたんだ。林で座り込んでたのだって逃げてきたからだろうが!もごもごとハッキリしない!言い訳してんじゃねぇ!」
「……」
 ノサ爺さんの太い声が乱暴に鼓膜を震わせて、みゆきは胸に顎を押し付けて黙りこくってしまいました。
 ヌル爺さんが杖を支えにして、みゆきの前にしゃがみ、その頭にそっと手を置きました。
「つい迷っちゃっただけで、本当は行くつもりだったんだものね?」
「……うん」
 ヌル爺さんがあくまで穏やかに、肯定的に話しかけると、少し間を空けてみゆきは答えました。
「どうして道に迷ってたのかな」
「いつもとは違う道で帰ろうって。ちゃんと出かける時間に間に合うって思ったの……」
「違う道だったから迷っちゃったの」
「……うん」
「でもちゃんと時間には間に合うようにって思ったんだね」
「だってね、いつもね、お母さんが車で教室まで送っていってくれるから、待っててくれるから、ちゃんと帰らないと……」
「お母さんのために帰るのかい?」
「うん」
「お母さんに怒られるかも知れないが、やっぱり帰りたいかい?」
「……」
 みゆきがまた口を閉ざしても、ヌル爺さんは辛抱強く待ちました。するとみゆきは小さな声でまた話し出しました。
「……お母さんが怒る理由もちゃんとわかってるよ?わたしが、お習字行きたいって言ったからだもん」
「みゆきちゃんはお習字が好きかな」
 ただ静かに二人が会話する境内に風が吹き降りて、みゆきの体を後ろから押します。
「好きだよ……」
 みゆきは答えました。
「友達と遊びに行けなくてもかい」
「やりたかったら遊びにいけないのは、だって、しょーがないもん」
「そうなの?」
 ヌル爺さんの短い問い掛けに、みゆきがようやく顔を少し上げました。ずっと影になっていた瞳が光を反射します。
「うん。でもね、でも、教室に行けばそこの友達に会えるよ。ときどき退屈だけどお習字するの楽しいもん。……だからやめたくない」
「そうかい、じゃあ早く帰らないとね」
 やっとみゆきの顔を見ることができたヌル爺さんが微笑んで、みゆきの頭から手を離しました。
 すると不思議なことに、みゆきの心や肩に重くのし掛っていた何かがふわりと無くなってしまった様な心地がして、みゆきは立ち上がったヌル爺さんを見上げました。
 ずっと下げていた頭を急に上げたせいか、ふらついて後ろに仰け反ると、背中を暖かくて力強い何かに支えられました。頭だけ振り返ると、ノサ爺さんがそこにいました。
「……」
 ノサ爺さんは何も言いませんでしたが、みゆきはその手を嫌な感じに思わず、さっきの言い合いももう気になりませんでした。ただ、ノサ爺さんの大きな手に体を預けます。
 今まで黙って聞いていた天狗がムエ爺さんに促され、むすっとした顔でみゆきを見ました。
「嬢ちゃん」
「……」
「帰りたいか」
「……」
 みゆきは一瞬声が出なくて唇を舐め、もう一度口を開きました。
 帰りたい。そう言うと目の前の景色が突然変わりました。辺りを見回してみても天狗も三人のお爺さんもいません。
 ここは、みゆきが迷っていた竹林のようです。目の前にはもう商店街のアーチが見え、中を行き交う人々の声がします。どうやら戻ってきたようです。
 何かに背中を押され、みゆきは家まで駆け出しました。
 青々としたサザンカの生垣をぬけて家に帰ると、お母さんが怖い顔でダイニングにいました。時計を見れば、お稽古に出かけるギリギリの時間でした。
「どこへ行ってたの!今日はもう休みますって連絡入れましたからね!」
 みゆきが「ただいま」を言い切るのと同時に、お母さんは厳しい口調で言いました。椅子に座って、ダイニングの扉の側で立ちすくむみゆきを見つめます。
 みゆきはすぐにでも扉から外へ出て部屋に逃げたい気持ちになりましたが、すくむ足を踏みしめました。そして今日、習い事が億劫で寄り道をしてしまったことと、道の途中で迷って帰りが遅くなってしまったことを説明しました。
 つっかえつっかえ、時に消え入りそうな声で話すのを、お母さんはただ黙って聞いていました。
 みゆきがひと通り話し終え、ごめんなさいと言うと、お母さんは立ちっぱなしだったみゆきを座るように促しました。
 みゆきが言われた通りにお母さんの正面の椅子に座ると、お母さんの強い目が静かにみゆきを責めました。それでもみゆきは、精一杯お母さんを見つめ返しました。みゆきにはとても長く感じるほどの沈黙のあと、お母さんはひとつ息を吐いてから言いました。
「私は毎月みゆきの習い事にお金を払ってるの。みゆきに必要だと思うからよ。しかもみゆきが自分からしたいと言った事には、それなりに責任を取らなきゃいけないって言ったでしょ」
「……はい」
「それでも、どうしても頑張れない時は、黙ってどこかへ行くんじゃなくて、ちゃんと言いなさい。心配するでしょう」
 お母さんの声は静かでしたが、みゆきが怖いと感じる時のように硬く強い言葉でした。
 でもどうしてでしょう。みゆきは胸が、体中が、じんわりと温かくなってきました。それと一緒に喉の奥から色んな事がこみ上げてきて、みゆきは強く顎を引いてお母さんから顔を隠しました。
 みゆきはやっと家に帰ってこられたのです。また思い出されてきた足の痛みも、安心して休めることができるのです。でも、その代わりきっとあのお爺さん達にはもう会えないのでしょう。あんなに素敵な出会いだったのに「さよなら」も言えなかった寂しさを、みゆきはテーブルの影にこぼしました。
「おかえり」
 テーブルに額をつけてうずくまるみゆきの髪をお母さんの手がそっと撫でて、部屋には晩ご飯の匂いが漂いました。



終わり

登場人物

-庵原みゆき
小学三年生・書道を習っている
責任感ある少女。それが仇となって母との小さな確執を抱える。

- 三人組
林に住む鬼。三人で飲んでいたところ少女を発見。

・ぬるさん(よびな)
楽観的でゆるいおじいさん。三人のうち一番小さい。

・むえさん(よびな)
知的な紳士。物事に細かい性格。一番年寄り。

・のさ(よびな)
ずぼらなお調子者。よく笑う。子どものような理由で怒る。一番若い。

-天狗
物を盗んだり人をさらったり姑息なことをして生活している。

まよい路の三爺

完結したのでひとつにまとめました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。

まよい路の三爺

迷子の少女みゆきが出会った3人の爺ちゃんとの珍道中。帰り道はきっとそこにある。(爺ちゃんのバトルシーンも有る。)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-20

CC BY-NC
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CC BY-NC
  1. 一、日暮れの路地
  2. ニ、家
  3. 三、喧嘩と後悔
  4. 四、きっかけは
  5. 登場人物