タマちゃんに謝れッ!

2004年作 保管用です

 Ⅰ
 
 冬のはじめだった。夕暮れ前の一刻、僕らは腕に鈍く根強い疲労の感覚、そこだけにヘドロの重く詰まったような気だるい感覚を残しながら、ようやく大型ケージの積み込みを終え、運搬車へと乗り込んだ。西の空が、いま妖しいまでのエメラルド色にそまりながら、遠く山の端の彼方へと悶えるように滲み落ちていた。
 すでに彼たちの仕事を終えた数人の若い荒くれたちは、最後にまた一度僕たちに無言で凄むような視線を向けると、いち早く引き上げてしまっていた。彼たちがまるで蛮勇の狩猟民のごとく勇ましくジープを駆りたてながら出ていった後も、倉庫内にはいまだ彼らの残していった獣じみた体臭がいばらのごとく鼻刺して漂っていた。
 また僕ら三人も早急に出発せねばならなかった。海獣運搬用のケージ、これは“海獣飼育員”が半年前ほどに廃業したという近郊の水族館から払い受けてきたものだった。この鉄製の水槽は、青年の象一匹分ほどの容積をもっていた。底に六つ、運搬用の小さな車輪がつけられていたが、それらは手入れ不足のためひどく錆ついており、僕らの作業を手こずらせた。僕たちはひどく汗をかいていた、重ねて着込んだスウェットシャツの中に生ぐさい汗の熱気がもわもわと気味悪くむしていた。車内には冬らしく乾いた空気が埃っぽくただよってい、その中を粘り濃くにおいたつ僕らの汗や、衣服に跳ねた鉄くさいグリスのかおり、壁やシートにしみ込んだ煙草のにおいなどが強く濃く混じりあっていた。
 雇い主から、それは僕の実の祖父にあたる人間なのだったが、僕は三人のリーダー役をいい任されていた。僕たち三人の請け負った仕事、それは、やはり祖父の息のかかった団体の若者たちがまさにいま生け捕りにしてきた一匹の海獣を、新潟県内に施設をもつある動物愛護団体の元へと、それも秘密裏に運搬し送り届けるという、そのような奇妙でひどく後ろめたい気のするものだった。
 歳すでに七十を越えた僕の祖父は、ある右翼団体の長老であった。だが、僕はこれまでにその団体とは、それどころか祖父自身とさえほとんど何の関わり合いをもったこともなかった。祖父の一人息子である父は、青年の頃すでに彼から一方的に縁を切られており、父もまた僕に祖父と連絡をとることを強く禁じていた。だからこそ僕もまた、恐ろしげな祖父の存在こそは知っていたものの、しかし彼と直裁に接した記憶は何一つもってはいなかった。
 僕の元へと突然、その祖父からの電話がかかってきたのは、今から二週間ほど前のことになる。祖父は、演説慣れのしたほとんど潰れてしまったような嗄れ声をして、僕に上記したようなことを一方的に依頼してきた。それは激しく、傲然と押しつけるように、もはや確定されてしまったことを伝えるかのような口調で。
 そのあまりの唐突さと剣幕とに、僕はただ呆然となって受話機に耳を傾けていた。また曖昧に口ごもりながら聞いている僕へ対して、続けて祖父は、おまえもそろそろ仕事をしなくてはならないよ、青年時代だからこそこういう面白い仕事をやっておかないと、おまえもじきにあいつのように無気力でどうしようもない人間になってしまうよ、などと恐ろしげに声を高ぶらせては僕に迫った。僕にはそれが、ひどく非現実的で、またうんざりとさせられるような幼さ子めいた老人の戯言のように聞こえていた。
 また僕は話のいち早くから、そこにおぼろ気ながらもある不安の感覚、毒々しい紫色をした危険性の芽を感じ取っていた。ともかく早く、それも断固としてこれを断らなければならない。僕はそうした決心の核を喉元にいよいよと高まらせながら、まさにいまかとそれを切り出すタイミングを見計らっていた。しかし、僕はいつまでも受話機を片手にうつむいて、ただ彼の聞くなりになるままだった。僕にはどうしても、断固たる拒絶の一言それをうまく爆発へと導くことが出来なかった。
 僕の不安は、今回の仕事の内容部分についてもさることながら、リーダー役という自らに科せられたその分不相応の配役に対しても当てられていた。野鳩のような臆病者で、精神的な部分がひどく脆弱な僕という人間にとって、見ず知らずの他人を、それも自らの技に自負をもっている彼らのようなプロパーたちをまとめあげるという仕事は、思い上がりじみた、ほとほとうんざりするような面倒であるように思われた。
 だが、祖父が僕へと呈した報酬は、また凄まじいほどに高額のものであった。その額、二百万円。この息を飲むほどの報酬金は、僕に仕事への一層もの凄い危険性を感じさせるとともに、やはり茫漠(ぼうばく)とした強い魅力を放ち迫り寄ってきた。結局、僕は彼に押し切られる形で、やはり曖昧に口ごもりながらではあったもののこれを引き受けた。今日すでに僕はこの仕事の報酬で、来月からの大学の冬季休暇にミクロネシアの小島へといくヴァカンスの計画をたてていた。

 さあ 立ち上がり イニスフリィへ出かけよう 
 湖島では すこしは安息が得られよう 
 湖島では 夜半は隈なく微光に包まれ 真昼間は紫の光に輝き 夕暮は紅雀の翼で埋め尽くされる 
 湖島では 昼夜をわかず 湖水の水ひそやかに 岸辺を洗う音が聞こえてくる 
 さあ 立ち上がり イニスフリィへ出かけよう

 あぁ……なんていい。窓の外へ、僕はうっとりとしながら実に幻想的に美しげな一つの叙景詩、イェイツの残した一篇の詩を想い浮かべていた。南洋の島上空に広がるまっ青な空の光が、キラキラと白く輝く浜辺のきめ細やかな砂が、そして夜の浜を洗う穏やかな波音が、生活での些細事に疲れ果てた僕にも、わずかながらの怠惰な安息の時を与えてくれるはずだった。そのためにも、僕はこの仕事をなんとしてでも成功させねばならなかった。『さあ、立ち上がり、出かけよう!』僕は自らをそう励ましていった。
「さあ、出発しましょう。あいつらにも十分に気をつけて」
 僕がこのように、極めて明るく振る舞いながら、しかしやはりそれが彼らの自尊心をいささかも傷つけることのないように遠慮を込めていうと、運転席の“闇ドライヴァー”が、いかにもつまらなそうな顔をして答えた。
「わかってるよ、俺はプロだよ。いつもの俺が運んでいるのは、こんな生やさしいものなんかじゃないんだよ、俺は本職の闇運送屋だよ」
「しかしあの人たちは、やはりどこかファナティックなところがありますよ、気をつけていくに越したことはないですよ」
 後ろからこのように、老人の“海獣飼育員”がやはり遠慮がちにいうと、“闇ドライヴァー”はひどく苛立ったように強い舌打ちを返した。それから少し怒ったようなシニックな口調になって、「だから、俺はさっきから慎重に慎重すぎるほど気をつかってやっているよ、あんたたちにいわれるまでもなく!」と断固としていった。僕と“海獣飼育員”が、それは我々余計なことを、と詫びを入れても、彼は「ここへ車を持ってくるのにも、幾度も幾度も回り道をしてやってきたんだよ俺は」と執拗にこだわり続けた。
 ああ、早くも僕は彼を怒らせてしまった……。わずかな後悔を浮かべながらふとバックミラーを見上げると、僕は自分の顔色が弱り切ったネズミの皮のように薄汚い灰色をしていることに気づいた。ああ、僕はいつだってこのようにして自涜の後の中学生のようにみにくく汚く疲れ込んだ顔をしているのだな、と考えると、僕は途端に気だるく投げ遣りな気分になった。僕にはいつも心の中に、こういった暗い方低い方へと向かう風だけが吹いているようだった。
 僕らの水色の運搬車が、臆病な小動物のように倉庫の出口からそろそろと顔を出した時、西日が鋭く撃つように車内へと射しこんでき、僕ら三人はきゃっと叫んで眩しがった。僕たちの“闇ドライヴァー”は、その汗と脂とでぬるぬるとした太い首を鳩のようにすばしこく回転させて、確かに慎重すぎるほどにじっくりと付近の様子をうかがった。辺りに追跡者のものらしき影のないことがわかると、彼は狡猾な野ネズミのような急速さで、それから唐突にアクセルを踏み込んだ。
 Tインターチェンジから高速道へと入ると、僕たちの肥満体型のドライヴァーには、ある一点の、ファナティックともいえるような明らかな変化が現れた。彼は頬を赤々と紅潮させて、それまでとは一転まるで獰猛な獣にでも憑かれたような顔つきになり、急激にアクセルを踏みつけた。僕たち、僕と老人“海獣飼育員”のかける遠慮がちなたしなめ、哀願の言葉にもまったくのうわのそらで、独り上擦った声で熱病患者のあげるような脈絡のないうわごと、……未来通信オーケー? 未来通信了解……! まったくの意味不明語をまくしたてながら、彼は危険なまでの速域へまで猛烈に踏み込んでいった。僕らスピード狂のドライヴァーは、ほとんど彼らをおびやかすようにして次々と、時には無謀なまでに車体を接近させながら前方の車を追い越していった。気違いじみた、まるで爆撃機のような金属音を轟かせながら、はじかれた弾丸僕らの車は、郊外へと向けてまさにジェット機並のスピードで滑走していくのだった。
 狂った猛獣、僕らの車がその速力を増すごとに、“闇ドライヴァー”の饒舌はいよいよ荒々しく、燃えるように猛り上がった。フロントガラスへ大粒の唾を吹き飛ばしながら彼は哄笑した。
「こいつら、まさか俺たちが、あのタマちゃんを運んでいるとは思わないだろうなあ!」
「ええ、そうでしょうね……」
 後ろの席から、小柄な老年の“海獣飼育員”が、怯え切った草食動物のような小さく震えた声を出した。それでも彼は、それから何かを決意するような小さな間を空けて、しかしやはり遠慮がちに、「しかし、こんなに揺れるような運転をしては……」と蚊の鳴くような声で弱々しく訴えた。すると、“闇ドライヴァー”はいよいよ火を噴くような口調になって、「やっぱりタマちゃんが<<かわいそう>>っていうわけか、どいつもこいつも、動物相手に<<かわいそう>><<かわいそう>>って馬鹿みたいだなあ。俺らがどんなに食うに困っても、哀れみのびた一文ともわけてくれないような奴らがなあ!」と皮肉をいった。それから、荒々しいがなり声で脅迫するような笑い声をあげながら、「おい坊ちゃん、あんたもそう思うだろう」と今度は僕の反応をうながした。
 確かにそれは彼のいう通りなのだった。連日、ワイドショーなどを通して伝えられるタマちゃんファンたち彼らの姿は、吐き気がするほど滑稽で愚かしかった。カメラに向かって、マイクを向けられた一人の中年女性は「私はタマちゃんがこの川の汚い水で皮膚病にかかっていると聞いて、清掃運動を始めました。私たちはタマちゃんに謝らないといけません、私たちは我々のつかってきた傲慢で怠惰な無責任の日々を恥ずかしく思わねばいけません!」とヒステリックに叫びたてていた。たかが一匹のアザラシ相手に、ここまでも精一杯になれる彼彼女らのお気楽ぶり、マヌケぶりには僕もほとほとうんざりするものを感じていたのだ。しかし、彼らは最低クラスのそれとはいえ、やはり自らの関心を外へ向けて何かしら思うところを表現することのできる、一応の社会派であるわけだった。
 それにひきかえ、この僕は憂鬱気質のどうしようもない内向派なのに過ぎなかった。<<憂鬱病の青年>>! 残念ながら、僕は今そう自らを断じねばなるまい。心の隅の暗い茂みに、憂鬱の獣を爆発物のようにいつも大切そうに抱え込んでいて身動きがとれず、たえず苛つき疲れ切っているのが僕ら<<憂鬱病の青年>>の特徴であるとするならば、僕は間違いなくその恥ずかしき一員なのだ。焼けつくような怒りの咆吼をあげながら、隙あらば僕の足元にからみついてくるこれら獣たちとのたえ間のない格闘、こうした類の実に内的で非生産的な闘争は、何かを始めようとする僕を、それを前にしていつも徹底的に疲労させ打ちのめした。僕は毎晩、眠りにつく前に自らの燃えるような未来生活、燃え尽くし爆発するような灼熱の未来生活を夢想せずにはいられない未来派青年隊の一志願員でありながら、しかしやはり実際には外へ対して何一つ踏み出せないでいる、明らかに非未来的な<<憂鬱病の青年>>の一人に過ぎないのだった。僕には時折、テレビの前で堂々と恥ずかしげもなく、「さあ、タマちゃんに謝りましょう!」正義の解説を始める彼たちが、どうしようもなく羨ましく思えることすらあったのだ。
「確かに馬鹿げてます。しかし、これは仕事です。僕らはこの仕事で破格ともいえるペイを保証されています」僕がそう答えると、“闇ドライヴァー”は期待を裏切られて憤ったように「これはこれはご立派な! リーダー気取りというわけだなあ。大物叔父きの、期待の期待のお坊ちゃんというわけだなあ」と食ってかかってきた。
「だが、破格のペイというのは取り消してもらうぜ。なんといっても、これは危険な仕事だよ。もしもこいつが死ぬようなことがあったら、その時こそ俺たちはあんたのヤクザものの爺様にどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない。坊ちゃん、あんたには関係ないだろうが、それこそ俺とこの爺さんは冷たい海の底に沈められるかもしれんよ」
 そして僕は、ミラーに映った後ろの小さな老人が真っ青な顔をして猿のように震えているのを見た。卑劣で、悪趣味な脅迫だった。僕はこのみにくい化け物、全身から傲慢の酸っぱい臭いを強烈ににおいたてている歪んだ脂肪の怪物に、憤りを覚えずにはいられなかった。いま僕は怒りの血がこめかみあたりに猛然と集まってくるのを感じていた。
「しかし俺もプロだよ! だからこそ俺は、いち早くこいつを北極の海へ返してやろうと必死だよ、今や俺もが、やつらに一種のシンパを感じてるというわけだよ」
 そう皮肉そうにいってから、“闇ドライヴァー”は不機嫌に黙り込んだ。老人“海獣飼育員”は恥じるようにうつむいたまま、ただ固く身体を強張らせ小さくなっていた。僕はほとほとうんざりして、いち早くこの仕事の終わることだけを願うのだった。苛立ち疲労し尽くしながらの忍耐、それだけが僕がこれまで生きてきた中で唯一育て得た得意事なのであるはずだった。必死で僕は憂鬱の魔物をなだめようと、闇硝子の向こうに南洋の島の青い空を、オレンジ色の溌剌とした太陽を映そうとこころみるのだった。


 Ⅱ


「少し休もう、そろそろあんたらも小便がしたくなったんじゃないか」
 誰もが重たく押し黙ったまま、ひどく心地の悪い一時間ほどが経過した頃、“闇ドライヴァー”が不意に思いついたように休憩の提案をおこなった。その口調には、しかしどこかしら僕らに対して取り繕うような優しさが感じ取れた。単純ながら、僕はそれに嬉しくなって同意した。
「ええ、ええ、そうすることにしましょう。小腹も空いてきたことですし」
 僕は一生、この男と顔を付き合わせて生きていかねばならないわけではない。いま、この任務の時だけを出来るだけ大過なく共に勤めることが出来れば、それでベストなのだ。そのように考えると僕は急に気が楽になった。車は徐々にスピードをゆるめ、群馬県内のHというパーキングエリアへ入った。
 エリア内の駐車場はもはや一面を漆黒の暗闇に包まれてい、また夜気が濃く霧のようにけぶっていた。僕たちは車を停め、オーヴァーを厚く着込み、また一応の用心に周辺を見回してから車外へと出た。途端、夜露にぬれた草木のたてる濃密な匂いが僕らの鼻孔へと鋭く射るように差し込んでき、また凍てつかんばかりの激甚な寒気が、暖房にほてりきった僕らの身体を小刻みに震わせた。休憩所へと僕たちは小走りで駆けていった。見上げれば、上空の山際にもまた黒雲が低く垂れ込めている。雨の気配が近づいているようだった。
 “闇ドライヴァー”は僕たちに、俺はまず向こうで煙草をふかしてくるから、20分後にはそれぞれ車に戻っているように、と指示を出し、まばらな人混みに消えていった。やはり彼もまた、どこかしら僕たちに遠慮めいたものを感じていたのかもしれない。僕と“海獣飼育員”とは少し安心したような気分になって、小便をすませ、休憩所内のソバ屋へとはいった。
 僕は祖父から、彼が日本で初めにアザラシの飼育をてがけたという、元超一流の海獣飼育員であったことを聞かされていた。僕たちはソバを注文し、窓際の隅はしの席へと腰掛けた。
 テーブルの上には、冬の衰弱した蝿が重たそうに羽を引きずってはジリジリと這っていた。“海獣飼育員”はそれをぷっと一息に吹き飛ばすと、コップの水でいく粒かの錠剤を飲み込んだ。沁(しみ)やそばかすのひどく目立つ彼の顔つきは、いかにも水辺仕事をしてきた人間のものらしく褐色に焼けて鉛のような鈍い光沢を放ってい、また眼は疲れきったように赤黄色くにごっていた。
「いまでも、私にはこれが良いことなのか、悪いことなのか、見当もつかんのですよ」
 運ばれてきたソバへ彼は大切そうに生タマゴを割り入れながら、僕の目も見ず、何か一人言でもいうようにぼそぼそとつぶやいた。
「良くも悪くも、一概にすることは出来ないと思いますよ」と僕はいった。
 こうした倫理の問題は、考えることに怠惰な僕のような若者にとってはやっかいなテーマだった。僕はなおも逃げごまかすようにいった。
「ただ、少なくとも僕はいま罪悪感は感じていません。祖父のやり方は確かに強硬的かもしれませんが、ただ彼のいうことが明らかに間違っているとは思えない」
 ちらとみて、彼は僕の目色をうかがった。いってから、僕はどことなく彼に胸の内を見透かされているような、不安で後ろめたい気持ちになった。
 胸は間違いなく超一流! と祖父が断固としてまでの信頼を寄せているこの老人は、間違ってはいない、それはそうかもしれない、それが懸命な言い方なのかも知れないねえ、と曖昧に咀嚼しながらいった。そして、なにやら少し考えたあと、「確かにねえ、そういうことをまじまじと考え始めてしまうのが間違いなのかもしれんが、私はねえ、人間がやはりあいつら動物に、ちと干渉し過ぎているようにも思えるんだなあ」と、やはりどこか空へ向けていうような感じでいった。
 戸惑って僕が曖昧な頷きを返すと、彼は、もっとも、と断ってから「元水族館勤めの私がいえた台詞ではないでしょうがね」とかすれた声で自嘲的に笑った。
「愛しているんですね、彼たちのことを」
 そして、僕は唐突に愚にもつかぬようなことをいった、途端僕は深く恥じいって赤面した。しかし、彼の方では別段恥ずかしがる様子もなく、ああ、愛していたとも、と即答したのだった。
 彼はもう一度ちらっと僕の方を見て、それから小さくもらすようにいった。
「そうでなければ、40年もやる前にとっくにやめていただろうよ。しかしね、だからこそ質(たち)が悪かった。これまで、私ほど多く海獣たちを殺してきた男はおらんだろうよ」
 続けて“海獣飼育員”は、私が仕事を辞めたのはね、と僕らの間に広がったむずがゆいような沈黙に、ある覚悟を決めた人間のものらしい独特の図々しさでなおも突き進もうとした。
「私がやめたのは、最近の水族館のやり方が過剰になり過ぎたからですよ。本来は人間同様、いやそれ以上に実にデリケートな生き物であるあいつらに、派手さ一辺倒の芸当をいよいよ残酷なまでに強いてね。死ぬ寸前までこき使ってやろうとする最近のやり方に、私は嫌気がさしたのですよ」
 彼は熱病にでも憑かれたように、独り目の底に暗い熱情を秘めて語り続けた。
「私は、確かにあのゴマヒゲアザラシの子を、あいつの生まれた海へと戻してやることが出来たらばどんなにいいことかと思います。あの“白装束会”の人たちはその準備を進めていると、そう聞いたからこそ、私は引き受けたのです」
 そこまでいって、彼の顔つきが憂鬱気味に曇った。しかし、といって彼は辛そうに息を飲んだ。
「しかし、果たしてあの子がこれからの過酷な旅程に耐えることができるかと考えると、私はやはり暗い予測をせずにはおれないのですよ。見ればわかります、あの子はすでに神経質に弱り切っておる。恐らく、ひどい環境病にでもかかっているに違いありません。もっとも、いつだって悪く考え過ぎてしまうのが私という人間の悪い癖なのですが」
 そうこうと彼の話を聞いているうち、僕にも段々と彼の深刻さが伝染病のように重く気だるくのしかかってくるように感じられた。これまで考えつきもしなかった近未来におけるタマちゃんの死という暗黒色の出来事、それも僕らの運搬中での死という、重く不吉な想念がいま初めて僕の脳裏にも鮮やかに芽吹こうとしていた。
『最悪の暴挙! タマちゃんを狂愛した若者、タマちゃんを麻酔銃で撃ち帷子(かたびら)川から捕獲後、運搬中に死なす』
『身勝手な人間のエゴが最悪の惨劇を招いた! タマちゃん輸送中に死ぬ』
 そのような恐ろしい字面が、逃げまどう兎、僕の頭上暗雲たちこめる漆黒の上空にはげ鷹のように旋回し始めた。もしも、本当にそのようなことが起きてしまったとしたら……。僕は途端胃袋が鉛のように重く波打ってくるのを感じ、まったくの食欲を失った。僕は丼に食べかけのまま箸をおき、コップの水を飲み干した。
「こちらよろしいでしょうか?」
 その時だった。突然、背後で男の声がした。はっとして全身を強張らせ僕たちは身構えた、振り向くと、いつの間に近づいたのだろう。僕たちの席のすぐ後ろに、黒服を着た長身の若者が一人立ってい、いまにも僕らの脇へと割り込むように腰掛けようとしていた。それはまるで、本当に先ほどまで上空を舞っていた不吉な影が、突如僕らの目の前に舞い降りてきたかのように見えた。見れば、痩身で青白い頬をした学生風の眼鏡青年だ。見るからに妖しげに人民服を思わせる独特の服装に身を包んでいる。
「やあ、驚かせてしまいましたか、すみません! いえ、なにかこちらでアザラシとかいう言葉が聞こえたものですから」
 これまでの漠然とした嫌な予感が、ここにきて途端僕の胸中に明確な形を帯び始めた。僕らは蒼白になって、ただ首を振った。だが彼は一方的にしゃべりたて続けた。実に無邪気に、口元に好意的な微笑をさえ含ませながら。
「いや、僕もアザラシが大好きなんです、ほら、タマちゃんって知ってますでしょう? 僕らの仲間も大好きでいつも帷子川へ見にいっているんです。タマちゃん、本当にかわいらしいですよねえ」
「え、ええ」
 曖昧に頷く僕らに、彼は一人喜ばしげな表情と恥ずかしそうな身振りとを示しながら続けた。
「本当、都会に現れた神の癒し子という感じさえするでしょう? 先月から、僕もあそこの清掃団体に混ぜてもらって、毎朝ゴミ拾いなんかもしているんです。ほら、川の水が汚れていたら、タマちゃんがうまくエサが見つけることができないでしょう? 寄生虫なんかもつくだろうし、僕たちはタマちゃんが安心して過ごせるように、あの川をなんとかして洗浄しようとしているのです」
 ここまで聞いて、僕はもはや間違いようのないことを悟った。彼はどこかの“会”の者なのだ。やはり僕たちは<<つけられていた>>のだ! この青年は、まず僕たちを挑発するために仲間たちから差し向けられてやってきたのに違いない。まずい、これは相当まずいことになった! 丁度その時、硝子窓の向こうからこちらへと“闇ドライヴァー”がのろのろと歩いてくるのが見えた。僕と“海獣飼育員”はめくばせをして即座に立ち上がった。途端、青年は驚いたように口をおり、当惑したような表情を浮かべた。
「すみません、先を急ぐものですから」僕は手短にそう断って、彼を後にし歩き出した。
 急がなくてはならなかった。全身に冷たい汗が吹き出して、たらたらと流れ出した。僕と“海獣飼育員”は逃げるようにソバ屋を出ると、驚く“闇ドライヴァー”をも連れ去るばかりの勢いで車へと向け歩き出した。
「おい、一体どうしたっていうんだ? 電話で爺さんが急げとでもいうのか」
 早足で歩かせられながら、しかし“闇ドライヴァー”はいまだ納得出来ないという感情を露わにして不満げにいった。いいんです、後で話しますから、と、しかし僕らは彼を抑えて、とにかくずんずんと進んでいった。
 だが、その時だった。行く手に駐まった一台のワゴンの影から、それはまさに一瞬の出来事だった、妖しげな黒い影いの者たちが鋭くバッタのように飛び出してき、即座に僕たちを薄暗い物陰に取り巻いた。
「何だ? ああ、おまえら何なんだ?」
 ああ……僕はすべてを覚悟してうつむいた。それでも一人、いまだ取り乱したように騒ぎたてる“闇ドライヴァー”へ突如強烈な一撃が入れられた。おうえっ、脇腹を突かれ“闇ドライヴァー”はわずかな吐瀉物を吐き散らしながら、実に情けない悲鳴をたてて崩れ落ちた。彼はアスファルトへと顔をうずめ、病気の獣のような弱々しいうめき声をだしながら悶絶した。それをあざ笑うかのように見下して、連中の真っ先に立ったその小太りの男、強撃の主は静かにいった。
「私は空手の有段者です」
 少し咽にかかった、それはぞっと鳥肌の立つような声だった。車と車に挟まれたわずかばかりの間隙に、五、六人の男連中がいま僕たちを傲然と挟み込みながら立ちはだかっている。いまにも与えられようとしている物理的な苦痛、生々しい暴力への恐怖感が僕の背筋へと冷たい電流を流し込む。
「一体、なな、何なんです……。私たちが、何をしたというのです……」
 “海獣飼育員”が、間近にオペを待つ少年のような怯えた声を出すのを、彼らはにやにやと優越がにじみ出すような笑みを浮かべて見下している。小太りの男、どうやら連中のリーダー格と見える彼が、いやに優しい甘えるような猫なで声を出して、しかしそれが鋭い悪意にかけられた薄く柔らかな布であるのに過ぎないことは明白な言い方で僕らに迫った。
「いや、それはあなた方が一番。ねぇ、わかっているのでしょう」
 いま、脇の“海獣飼育員”が暗がりに置かれた灰色の石像のように見えた。僕たちは全身を恐怖に冷たく震わせて、とうとう追いつめられたサバンナの草食動物、逃げることに疲れ切った子鹿のような目でうつむいていた。
「私たちのタマちゃんに……あなたたちは、大変なことをしてしまいました。人間の持つエゴの身勝手さゆえに、恐るべき愚かなことを」
 連中のリーダー兼スポークスマン彼は、自らの悪意ある残酷な優しさを楽しむかのようにいった。それの終わるのを待ち切れぬとばかりに、今度は後ろの若者たちが堰を切ったように荒々しい怒声を張り上げた。
「この、ヴァギナ野郎らがっ!」
「この、自分勝手のオナニー中毒のエゴ野郎連中らめが!! この性感野郎っ! クリトリス野郎らめがっ!!」
 若者たちは、僕ら弱者を相手にいまいかんなく発揮されている自らの怒りの威力を楽しむかのように、役者のような大げさな抑揚をつけながら、畳みかけるように罵声をあげた。凶器のような顔つきをした一人の若者が更に鋭く迫り出て、クリトリス野郎ッ! クリトリス野郎ッ! とますます力を込めて連呼してみせた。周りの連中たちもまた、どこかくすくす笑いを押さえつけたような、とってつけたような厳粛さを身にまとっては、しかし目つきには明らかに獰猛獣の凶暴性を帯びさせて、じわじわと押しつぶすように僕らを囲みにじりよってきた。
 ここで連中を制するように、またしても一回りの年輩の小太りの男が口を開いた。彼はいま一度威厳をもって、しかし冷酷に突き放すような口調で僕たちを弾劾した。
「あなた方は罪を償わなくてはならない、これは仕方のないことです、あなた方はそれだけのことをしてしまったのだから。しかし、まずはタマちゃんのことが先決です。さあ、早く我々に車を渡しなさい」
「わかった。わかったから、頼むから乱暴はよしてくれ! 俺は頼まれただけなんだよ、この連中に雇われて仕方なくやっただけなんだよ俺は!」
 男の足元にすがりつかんとするばかりに、“闇ドライヴァー”はボロボロと大粒の涙を流しながら懇願した。
「ふざけるのもいい加減になさい! 一刻一秒に命が、タマちゃんの命がかかっていることなのですよ!」
 振り払うように“闇ドライヴァー”を容赦なく蹴り飛ばし、小太りの男は不意に声を高めて激しく恫喝した。ひッ、わかりましたっ、“闇ドライヴァー”はうめきながら、大焦りになってポケットを探った。
 ああ……と、いよいよ僕は絶望した。僕らはこれから、車を引き渡し、奴らから手ひどい目に合わされるのだろう。殴打、監禁、拷問、そして……僕は最悪の事態をまでも想像し、内臓の中へと冷たく重い刃を差し込まれるような底深い恐怖へと陥った。
「鍵です、こ、これが鍵です! ど、どうかっ!」
 とうとう“闇ドライヴァー”は鍵を取り出して、まるで恐慌に憑かれた狂人のように叫んだ。鍵を手に差し出したその腕は、ぶるぶると見えるほどに震えていた。
 だが、その時だった。
「渡してはいけないっ!」
 ほんの先ほどまで、僕の隣で力なく項垂れていたはずの“海獣飼育員”が突如怒声を張ってその手を制した。それには連中も、僕らでさえもが呆然として息を飲んだ。あの臆病な老人の発したものとは決して信じられない、もの凄いばかりの大声を張り上げて、彼はなおも激しくいった。それは厳しく、一切の非難、抗議も許さぬ傲然とした威勢を放って。
「連中にそれを渡すことはならないっ!!」
 小太りの男は、一瞬面喰らったかのように息を飲み、しかしすぐにも猛然とした露わな怒りを取り戻して、いまにも“海獣飼育員”を殴りつけようとせんばかりに踏み込んで怒鳴り声をあげた。
「だまらっしゃい! まだわからないのですかっ!! すべてが手遅れになる前に、早く鍵を渡すのです」
 しかし、対して“海獣飼育員”はまたしても傲然と一喝した。「黙るのはあなたたちです! 私は本職の海獣飼育員です!」
「こうしている間にもタマちゃんはどんどん弱ってきています。確かに我々のしていたことは独善的な勝手行為ともいえたかも知れません。しかし、ここまできてしまったからには、それはこの私が責任を持ってやりとげます! それを邪魔するというのが、本当にタマちゃんのことを想う人間たちのすることですかっ!!」
 続けて彼は、このようにはっきりとした口調でさらにもいい放った、まるで連中たちを叱りつけでもしているような、実に毅然とした眼差しを彼たちへと向けて。
 あ、ああ……。
 とても信じられないようなことだったが、しかし彼らには明らかに狼狽の顔付きが見えた。
「さあ、通して下さい。我々に任せて下さい。きっと万事やり遂げてみせます」
 暗がりに眼だけを爛々(らんらん)と光らせて、まさに小怪物のような迫力で、“海獣飼育員”は連中たちを押しのけた。
「さあ、急ぐのです」
 彼は鋭くいって僕たちをうながした。彼自ら、“闇ドライヴァー”の手をとって、後ずさりオシのように黙り込んでいる彼らの間隙を僕たちは素速くすり抜けて車へと走った。
 爺さん、俺が本当にすまなかった、許してくれよ……。車に戻って、“闇ドライヴァー”は小さくそうすすり泣くようにいった。僕にもまた、いま熱々とした感情がむせびかえすほどに強く胸へと込み上げてきていた。
 そうだ、ここまで来てしまったからには、やらねばならない。そういった熱っぽい共感めいたものが、いま初めて僕ら三人を包んでいた。


 Ⅲ


 ただちにギアを入れ、“闇ドライヴァー”は迅速に出発した。僕らの運搬車は、駐車中の車の群をすばしこく縫うようにして出口へと向かった。僕はいつまでも連中の動向が気になって、注意深く前後左右の暗中を見渡した。後部座席に座った“海獣飼育員”は、いまだ険しい表情を微塵も崩さずに、目の前の宙一点を睨み続けていた。
「次で降りよう。やつら、まだまだしつっこく追いかけてくるかも知れねえ。ほんの少しだけ遠回りにはなるが、下の道をいこう。この辺はよく知ってる」
 “闇ドライヴァー”は熱っぽく義憤に燃えたような口ぶりで、僕らに頼り甲斐を見せていった。すぐさま“海獣飼育員”もその案に同意した。
「それでいきましょう」
 僕もまた頷いて、決定の判断を下した。またいつ連中たちの気が変わり、すったもんだの事になるともわからない。それからふとして僕は、果たして僕はあいつらに顔を覚えられただろうか……、などと一人嫌らしく保身的な不安に捕らわれた。
 10分ほどを飛ばして走り、僕たちは次のインターチェンジで高速道路を降りた。続いて半時間ほどでstableに舗装された有料道路も終わり、道はそして、いまだ未舗装の闇深い林道へと入っていった。車は砂利道を車体をゴツゴツと揺らしながら走った。僕は再び、全身に深い疲労の感覚を感じ、また軽い吐き気を催した。しかし、いまや僕らの義憤に燃えた“闇ドライヴァー”は、それでも最大限に安定した運転をしようと努めているようだった。
「ふとな、俺はガキの頃、拾った鳥の仔が死んじまった時のことを思い出したよ」
 慎重にハンドルを握りながら、“闇ドライヴァー”が不意に優しい声を出していった。
「その時俺は、わんわんいって泣いたものさ。馬鹿みてえな甘い話だけど、俺にはそれが悲しくて仕方がなかった。スポイトでエサをやったり、必死になって自転車をこいで隣町の医者へ連れていったりもしたのによ。二日三日であっけなく死んじまったんだ」
 この“闇ドライヴァー”が、小鳥が死んだくらいで泣いただなんて。それが僕には、とても意外な話のように思えた。そういえば僕も猫を飼っていたな、聞いていて僕もまた少年時代に可愛がっていたオレンジ色の縞猫のことを思い出した。あの猫は、最後どうなったのだったろうか。しばらく考えてみて、そして僕は思い出した。ある日突然、猫は僕の手元からいなくなってしまったのだった。
「僕もむかし、可愛がっていた猫がいなくなってしまった時、それこそ必死になって辺り中を探し回ったことがありますよ。結局、猫は二度と戻らなかったけど。僕は悲しかった」
「手塩にかけて可愛がっていた動物が死んでしまう。唐突に手元からいなくなってしまう。それは幾度経験しても慣れないことでねえ、私みたいな歳になっても、いつまでも子供の頃と変わらずに悲しいことなんだねえ」
 不意に“海獣飼育員”が、後ろからしみじみといった。
「しかし、そういう風に小さな愛を無条件にそそぎ込める存在だからこそ、私たちは動物を手元に置いておきたいとも思うんだろうねえ」
 それから、もっとも、といって彼はさも虚しそうに付け加えた。
「もっとも、それは人間の勝手な言い分で、奴らにとっちゃいい迷惑なのには違わないんだろうが」
「いいえ、そんなことはないと思います!」
 思いがけず、僕は声を高めていった。
「“海獣飼育員”さんみたいな人に育てられた海獣たちは、本当に幸せだったと思います。死んでしまって、魂になっても、きっとそいつらはあなたのことを忘れていないと思う」
 僕はそして、いま自身が魂などという言葉をつかったことに驚いた。僕はこれまで、人間や動物だって所詮は物質に過ぎないのだ、と考えていた。人間は偶然に意識として生まれて、それは死ねば完璧に消滅する、そういう唯物論的な考え方が僕の憂鬱症的な気質にはしっくりとくるように感じていた。しかし、僕がいま口走ったこともまた、口先だけの言葉ではない、そうそう無意味なことではないように思えた。
 俺もそうだと思うよ、と“闇ドライヴァー”もまた頷いた。
「爺さんは立派だよ。あんたみたいな人に心底入れ込んでもらえて、きっとアザラシたちも嬉しかったんじゃねえか」
 しかし、“海獣飼育員”は照れる様子もなく、それどころか暗い顔つきをして黙り込んだ。そして小さく、吐き捨てるようにつぶやいた。
「何が立派なものか。我々は飼育員なんかじゃない、あいつらを好き勝手に捕まえて来て、狭い檻や水槽の中に放り込んで、いいようにして。最後まで手元に閉じこめたまま死なそうとする。罪深い、勝手な動物殺しだよ」
 彼はそう懺悔するようにいってうつむいた。バックミラーに映った彼の冷たい瞳は、まるで死んだ海獣たちの顔をいま一匹ごとに思い返してでもいるようだった。

 車は、峠道のカーブを回り、再びなだらかに下る森の道へと入った。その時、“闇ドライヴァー”が小さく、絞り出すような声を出した。
「おい、何かきてやがる」
 後方を映したバックミラーに、不意に現れた後続車両のライトがまぶしげに映り込んできた。見るみるうちにその光は強烈なまでにまばゆさを増し、膨れ上がるかのように近づいてくる。
 突如激しく、後方から警告するようなブザーが鳴り響いた。 
「畜生、あいつらだ。やっぱり付いてきてやがったんだ!」
 苛立ちながら、“闇ドライヴァー”が怒鳴り声をあげた。くそっ、僕と“海獣飼育員”もまた呪い事を口にしながら振り返り、後方へと身を乗り出して追っ手を見た。巨大な、まるで化け物のようなバスが、気でも違ったかのようにライトを獰猛に光らせながら近づいてくる! バスは狂った獣のように警笛を激しく鳴らしたてながら、まるで僕らを踏みつぶそうとでもせんばかりに、その差を縮め詰め寄ってくる。
「奴ら、正気の沙汰とは思えん!」
 “海獣飼育員”が取り乱したように悲痛な叫び声を発した。「まるで狂っとるよ!」
 僕もまた激しい錯乱状態に陥った。<<狂った巨象の亡霊!!>>僕にはバスが、僕らへ取り憑こうとして追いかけてくる、そのような恐ろしい亡霊めいたものにすら見えた。 
 だが、“闇ドライヴァー”だけは一人落ち着き払って、それどころか敵へ挑みかかろうとするかのようにいった。
「奴ら、この俺をなめてきってやがる。俺が谷底に突き落としてやる」
 そういうと、“闇ドライヴァー”は一気アクセルを踏み込んだ。猛烈なまでの加速に、窓の外の闇風景が崩れるように流れ去っていく。途端後続するバスとの車間が、見るみるうちに離れていく。だが、僕の不安の感覚は鎮まらなかった。それどころか、僕はいまはっきりとした身の危険を感じた。耐えきれず、僕は怒鳴り声を上げた。
「気をつけてくれっ!」
 僕がそう叫んだ瞬間、僕たちのすぐ真下で、パァン! と乾いた破裂音が響き渡った。瞬時に車体がガクンッ、と揺れて、それから車底が膝を突くように轟音をたてて崩れ落ちた。視界が激しくぶれて、はじけた。
『ついてねえっ!!』
 最後“闇ドライヴァー”の短い叫びが聞こえた。そして、猛烈な爆発音、全身を激しく叩きつけられるような衝撃とともに、僕は気を失った。


『○▽×……っ!! □○△っっ!!!』
 耳元で誰かが何か叫んでいる。
『○ぞうっ! おい、こ○うっ!』
 僕は薄目を開いた。闇の中を、ほの白い光がぼんやりと喘(あえ)ぐように明滅している。全身が鈍く痺れている。いまだ僕は前後不覚に陥ったまま、何やら意味不明のことを口走った。
「オイッ!! 小僧っ! 早く出ろっ! 危ないぞ!!」
 “闇ドライヴァー”が叫んでいる。
「大丈夫かっ! 早く出ろっ! 火がついてる、爆発するかもしれないっ!!」
 今度は、確かにそう聞こえた。だが彼のいう意味はよくわからなかった。異臭、何かが焦ついたような異臭が突如強く僕の鼻を突いた。鉄臭い粉塵を不用意に吸い込んで、僕は猛烈に咳き込んだ。
 涙混じりに咳き込みながら、それでも僕は一つずつ確認していった。
 ガラスが粉々に割れている。折れたハンドルの柄(え)が、腕の脇をかすめている。ひどく歪んだ天井は空間を狭くして僕の頭のすぐ上にまで被さってきてい、すぐ目先には暗いアスファルトが見えた。そこでようやく、僕は事態を飲み込んだ。
 僕たちは事故を起こしたのだ、それも大変な事故を……。
 僕は死に物狂いになって身体を動かし、車内から這い出ようとした。その時僕は、鋭く尖った金属の一片に右の二の腕を深々と切り裂き、また突き出した鉄の塊に激しく額を打ち付けた。しかし、僕には痛みを感じている余裕などなかった。血塗れになりながら、歪み落ちたドアからようやく半身を抜け出すことが出来たところで、“闇ドライバー”が僕の背肩を掴み強引に外へと引きずり出してくれた。
「よし、起てるか!」
 “闇ドライヴァー”が怒鳴るように訊いた。幸い骨だけは折れていないようだった。僕は頷いて、彼の助けを借りながらよろよろと立ち上がった。その時、運搬車の後部から炎が噴き出しているのが見えた。
「走れっ!」
 僕たちは猛烈に駆けだした。走りながら、初めてそこで僕は“海獣飼育員”の姿を見なかったことに気がついた、彼は後部座席に座っていた……。直後、後方で雷鳴の鳴るごとき大爆発音が起こった。咄嗟に振り返ると、車はもはや轟々と赤黒い煙を巻きたてて炎上していた。呆然と横に立ちつくして、“闇ドライヴァー”がいま放心したようにそれを見つめていた。
「“海獣飼育員”さんは……?」
 恐るおそる、僕は聞いた。だが彼は僕の予想を、「希望の側」へ覆(くつがえ)してくれはしなかった。“闇ドライヴァー”はただ首を振った。もう一度、激しい破裂音がして、車からはいよいよ巨大な火柱が燃え上がった。鉄、プラスチック、そしてガソリンなどの入り交じって焼け焦げる揮発性の煙臭が、風にのって猛烈に迫り寄ってきた。
 炎上する鉄塊を迂回しながら、七、八人の黒い影たちが猛然と駆け寄ってきた。若い男が数人、見れば老人や女性たちも混じっている。なんと彼らは、先ほどの連中たちとは全く異なる者たちだったのだ。
「おい! おまえら大丈夫か!!」
 先頭を切って駆け付けてきた屈強の大男が、赤い目をギラギラと燃えたたせながら激しく訊いた。
 ぼんやりと、僕は彼へ頷いた。不思議と恐怖感は湧かなかった。僕のすべての感覚がいまはひどく麻痺しているようだった。
「我々は“タマちゃんを糧とする者の会”だ!」
 続けて駆けてきた太縁の眼鏡をかけた中年が、怒鳴り声を上げながら、僕の胸ぐらを激しく掴んで揺さぶった。「おまえら、大変なことをしてくれたな!!」
「きゃあああああ!! タマちゃんが! タマちゃんがあああ!!!」
 一人の中年女性が炎の前へと崩れ落ちて、気の狂ったような泣き声をあげた。手の早そうな若者が飛ぶように躍り出てきて、猛然と“闇ドライヴァー”へ詰め寄った。
「てめえら、とうとうやりやがったな! 俺たちのタマちゃんを!!」
「やっただと……?」
 途端、深い眠りから揺り起こされたように、“闇ドライヴァー”が鬼の形相になって怒鳴り返した。
「いまは動物どころじゃねえだろうが! あそこにはまだ俺たちの仲間が、歴とした人間が残ってるんだぞ!! てめえらこそ人殺しが!!」
「俺たちが? ふざけるのもいい加減にしろ!」
 怒髪天を突くとばかりにいきり立ち、今にも彼へ殴りかかろうとする若者を、今度は脇から色白の学者風が出てきてはなだめた。
「大丈夫、我々に罪はありません。すべてこの男たちの過失です。弁護士の私が保証します」
 その言葉が、唐突に僕を打ちのめした。僕は全身を芯から氷漬けにでもされたように感じ、絶望的な無力感に捕らわれた。
「俺の息子は、入院生活での不安で不安でたまらない夜を、テレビにタマちゃんが顔を出すのだけを勇気の糧に耐えていたんだよ!」
 初めの大男が涙混じりの声で、その場の全員へ訴えかけるようにいった。
「私にもいわせて下さい!」と金切り声で一人の老年女性がまた躍り出てきては叫んだ。
「いわせて下さいっ!こんな馬鹿どもには何をいってもわからないだろうけどいわせて下さい! この人の息子さんの手術はとても難しい手術なのです! もう、坊ちゃんの気力だけが頼りというところなのです! その希望の糧たるタマちゃんを、いえ、ひろしちゃんの命そのものたるタマちゃんを!」 
 彼女はそういって泣き崩れた。そして一同に、悲痛にすすり泣くような沈黙が訪れた。
 闇深い暗がりに、幾つもの赤黒く充血した獣じみた眼の群が、爛々(らんらん)とぎらついた光を放っていた。

「タマちゃんに謝れ!!」
 唐突に一人が叫んだ。続いて、また一人が叫んだ。
「そうだおまえらっ! タマちゃんに謝れっ!!」
 瞬間後、それはシュプレヒコールのような大軍勢となって僕らを包んだ。もはや“闇ドライヴァー”も反論する力を失って、地に膝をつき項垂れている。もう、僕たちはどうすることも出来ないところまで追いつめられてしまったのだ、と僕は悟った。不意に僕の眼に大量の涙が溢れ出てき、ボロボロと頬へこぼれだした。僕はアスファルトに手膝をついて、土下座した。
「僕たちは大変なことをしてしまった、僕は、僕は……」
 不意に一人の屈強な老人が進み出てき、僕の髪を傲然と鷲掴みにすると、もの凄い力を張って彼の顔のすぐ目の前へまで引き上げた。頭皮を引き剥がされるような猛烈な痛みに耐えながら、僕は彼の眼を見た。それは、我が子を殺された親の猛禽そのものの眼つきだった。老人は僕へほとんど顔を密接にくっつけるようにして、それから静かに、ゆっくりといった。
「タマちゃんに謝れ」
 それから、もの凄いまでの怒声を張り上げてもう一度叫びたてた。
「タマちゃんに謝れ! 己の犯した罪を、悔いて悔いて悔い抜いてしぬ死をしねっ!!」
 怒鳴りながら、彼の掌へ恐ろしい圧力が加えられた。掴まれた頭ごと、僕は猛然と路肩の草むらへなぎ倒された。その瞬間、閃光がはじけ何かが激しく僕の目を撃った。

 初めに鈍く、それから唐突に右の目が潰れたような激烈な痛みがやってきた。
『岩だ……』
 そして、僕は平衡感覚を失った。目の前が真っ赤にそまって、揺れた。
 手先が泳ぐように地を探った。指先が、冷たく固い塊に触れた。僕は咄嗟に強くその塊を掴み取った、それをすかさず今度は相手のこめかみに全力で叩きつける。
 ガンッ、と岩に柔らかいものが潰れる感触が伝う、続いて腕に痺れるような鈍い感覚が走る。老人の鮮血がしぶきをあげて僕の顔中へ飛びかかってくる。
 意識が急速に遠のいていく。ただ右の掌だけが、重く痺れているのがわかる。遠くで人間の叫び声が聞こえる。

 そしてもう一度、僕は固くそれを握った。
 <了>

タマちゃんに謝れッ!

タマちゃんに謝れッ!

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-19

Copyrighted
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