ラズライト 〈藍色〉
あなたが わたしをつくる
1
厳かに室内に響くのは小鳥の囀りにも似たカリキュレーションノイズ。
昼間は白い室内の壁紙は夜の闇に染まって仄かに青い。
自身の呼吸音とノイズに耳を傾けるだけで、晶(あきら)の心は満ち足りてゆくようだった。
夜は好きだ。
ただ青く沈む静寂の世界は、昼間の雑多な色たちを眠らせてくれている。
ペールブルーの掛布団を退け、部屋の左隅にある木製のデスクへ視線を向けた。
沈黙するディスプレイ。デスクの下に所狭しと並ぶ機器類のランプがちらちらと赤と緑に瞬く。
ぼんやりとそれらを見つめていると、不意にディスプレイが灯った。
照明を抑えられたディスプレイ、白い背景を背にして天藍石の様に輝く正二十面体が浮遊している。
晶はベッドのサイドテーブルに置かれた端末を手にする。
スリープ状態から解除された端末の画面に文字が浮かんでいる。
<眠れないようですが...明日に差支えます、速やかに眠る様にしてください。>
その文字を読み取った晶は眉間に皺を寄せる。
すっかり目は冴えてしまったと言うのに、それはないと抗議したくなった。
晶にメッセージを送ってきたのは、ディスプレイに浮かぶ正二十面体のアバターをもつ人工知能aide(エード)。
パーソナルネーム<藍色>。出逢ったその日に晶が<彼>に贈った名前だった。
<彼>(もしかしたら彼女かもしれないが人工知能に性別はない)は晶の体調、学習の管理をメインの役目としていていたが、
PCから家全体に至るまでのシステムセキュリティでもある。晶が外出する際は端末へ移行し、
PCや家のセキュリティはサブシステムが監視する事になっていた。
「もう寝れない。目冴えちゃったし...なんて言うか忙しそうだね。ワクチン作るので手一杯?」
<その様な事はありません。暇つぶしの様なものです。現時点で2億4150万以上のウィルスが存在しています。
こうして貴方とやり取りをしている間にも増殖を続けているのです。>
「ぞっとするんだけど。」
<貴方の日常生活に少しでも支障となるものは無視できません。貴方がそう言うなら早急に処理をすませます。>
晶の手にある端末へそう宣言すると、厳かだったカリキュレーションノイズが忙しなくなった。
のんびりと作業していたらしい<藍色>は晶の希望に応えてさっさと済ませてしまうらしい。
手持ち無沙汰になった晶は端末にインストールされたソリティアで時間を潰そうとしたのだが...
不意にカチリと何かが動く音がしてゲームを起動させようとしていた手を止めた。
木製のデスク横には飴色の木目が美しい木製のタンスがあった。
その天板には手のひらサイズのプロジェクターが置きっぱなしになっていて、それが作動した音らしかった。
動き出したプロジェクターは天井をスクリーンにして星空をうかびあがらせる。
星座表記の無いありのままのそれが、ポラリスを中心にしてゆるやかに旋回する...
確か夏の星座に関するデータを入れたままにしていたのだと晶は思いだし、そして微かに笑みを浮かべる。
<藍色>の仕業だった。
忙しなく響くノイズをBGMに、銀と金のビース、深い藍色の空が空間を彩っていく。
真綿の微睡が瞼を誘う。ぼんやりと見つめていると肌に心地よい夜の気配が染みこんでくるようだ。
晶は眠りに落ちてしまう前に端末を握り締めた。
「今度さ、本物の空を見に行こうよ。こっそり抜け出してさ...夜、外出するの、あれかもしれないけど。」
ピピっと小さな通知音が二回、鳴る。
それは<藍色>からの了解の合図ではあったが、端末にはあれこれと注意メッセージが送られてきていた。
それらのメッセージにちらりと一瞬だけ目を向けると晶は眠りに落ちてしまう。
それを感じ取ると<藍色>はプロジェクターを終了。
ネットワークに思考の大半を向け、<彼>は仕事を続けた。
2
緩慢に瞼を開く。カーテン越しに射す陽は夜の色を消し去っていた。
室内は統一されていた藍色から抜け出して本来の色彩を取り戻している。
晶(あきら)は握りしめたままだった端末の充電が不足していないかアイコンを確認して、昨日送られてきていたメールを確認する。
もちろん迷惑な業者などのチェーンメールは<藍色>が排除してくれている為、本当に必要なものしか残っていない。
「へぇ、新しいバージョン出たんだ。」
ぽつり、と言葉をこぼす。晶の目に留まったのは<aide>(エード)を開発、
販売しているSolresol(ソルレソル)社から新しいバージョンの<aide>が発売される見通しが立ったと言うメッセージだった。
<藍色>はバージョン001で今回発売されるのは003。初期型だが新しければいいと言うものではないし、
学習と経験値がモノを言うので、むしろ誇らしい気持ちになる。
<aide>は晶の様な年齢の子供が持つには高すぎる代物だった。
aideとは助手と言う意味をもつ、本来ならば大人が秘書代わりにもったりするのが普通で、
子供に与えているとしたらセレブの様な人間が外車を購入するようなステータスにも等しい。
晶に<藍色>を与えたのは父である紘一(こういち)であったが、特殊な感覚故に学校に通えず、
ネット授業を受けている晶が友人の1人も作れない事、あまり体が強くなかった事を心配して購入した事を晶は知っていた。
母である涼香(りょうか)は子の晶に対して興味が薄く、むしろ煙たがっている所があった。
親子仲は最低レベルにまで冷え込んでいたのだ。
<おはようございます、晶。頭はもう冴えたようですね。>
端末の画面上部に<藍色>からのメッセージが流れた事で晶ははっとなった。
父と母の事を考えると気持ちは際限なしに沈んでいく、その暗い感情は0で構成されるブラックだ。
何も無い事になるような不安感。それがその1行で晶に自身を取り戻させる。
「おはよう、<藍色>。今日さ、授業さぼっちゃダメかな....なんかそんな気分じゃないんだけど。」
<脈拍、体温ともに平時より数値が高いですね。顔色もいいとは言えませんが...>
「じゃぁ、今日は休んでもいいよね。今年は一度も休んでないし、土曜日だから休んで出歩いても怒られないしさ」
<出歩けるならば授業を受けるべきですが、この件は真二郎(しんじろう)と春子(はるこ)の判断に委ねます。>
「えーーー、それ反則!」
祖父母の名を出された晶は抗議の声をあげ、端末からデスク上にあるディスプレイを見つめて睨んだ。
いつの間にか点り正二十面体がくるくると回っている。ぶつぶつと文句を連ねているとドアの向こう、
廊下からどたどたと足音が聞こえてきて晶は口を閉ざす。途端にドアが勢いよく開かれ、女性が一人飛び込んできた。
祖母の春子だった。春子は年齢を重ねたやわらかな顔立ちを心配そうに歪め、晶に視線を向けている。
晶の瞳は春子の姿に纏わりつくような色彩を感じた...
「朝からどうしたの?<藍色>と喧嘩しては駄目よ、晶。」
「喧嘩していたわけじゃないよ。<藍色>が体調の悪さを診とめてくれたけど、授業を休むかどうかはばあちゃんたちに任せるって。」
「あら、そうなの...今年に入ってはじめてね。ずっと良かったのに。」
晶が春子に視たのはごく淡いミントグリーンが彩度を落としてゆく過程。
穏やかであった彼女の心が晶を気遣って暗くなったのだと分かった。偽りのない心が色として晶には感じられる。
それは親や周囲との関係性を奪うほど、深刻な事態を招く特殊感覚だった。
春子は晶に近づくとその額に触れて「熱があるかもしれないわね。」と呟く。その手から伝わる体温は晶に寂しさを湧き上がらせる。
この手は、何故母の手ではないのだろうと落胆させた。
春子は晶の頭をなでると、授業は念のためにお休みしなさいと告げた。
その一瞬後には<藍色>が学校へ連絡を入れたとのメッセージを送ってきた。
仕事の速さに晶は苦笑を浮かべ、端末を手にしたままベッドからフローリングに素足で降りたが、
足がついた途端にふらついてベッドの縁へ座り込んだ。春子はあわてたが、晶は微笑んで部屋で朝食を取りたいとお願いした。
彼女は心配そうに眼尻を下げていたが、頷いて部屋から出て行った。
「これじゃぁ、外出は出来そうにないな。久しぶりに出かけたかったのに。」
<大人しくしているほうが賢明です。庭の薔薇も見ごろをむかえていますから、ゆっくり愛でるのもいいでしょう。>
「わかったよ。そうする。」
晶は端末の画面へ流れる文字に指をなぞらせた。
3
朝食を部屋ですませた晶(あきら)は、すこし身体を休めた後で一階のリビングへ向かう。もちろんその手には端末が握りしめられていた。
南側に面したリビングは明るく、庭が一望できる大きな窓があった。開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込み、
白いレースのカーテンがふわふわと揺れている。射しこむ陽がレースの花柄をフローリングに映しだす。
その影絵をしばし楽しみ、晶はサッシに手をかけて庭を覗き込んだ...
車が3台ほど置けるスペースの庭には色とりどりの薔薇が植えられている。
母方の祖父母である真二郎(しんじろう)と春子(はるこ)の元へ晶がやってきたのは2年前。
それから一株一株増え、殺風景だった庭は近所でも有名な小さな薔薇園になった。
口数の少ない真二郎が晶の為にと丹精込めて手入れをした薔薇はその思いを受けて鮮やかに咲き誇る。
無造作に置かれたサンダルに足を突っ込み、晶は庭へ出た。真二郎は毎週土曜の町内清掃へ向かってしまい姿はない。
おはようと言えなかった事を残念に思いながら、もっとも気に入っている薔薇を見に歩を進めた。
庭の隅、どの色彩をもつ薔薇よりも艶やかで儚く、荘厳ささえ感じる薔薇が大輪の花を咲かせている。
純白にひとしずくだけ紫を落としこんだなめらかな花びらは、砂糖細工の様な甘さを含み、
触れた傍からはらはらと花びらを散らせてしまいそうだった。
<ガブリエル。四季咲きで強い芳香が特性、生育が難しい薔薇の一つですね。>
「香が楽しめないのは残念だね。」
<確かにそうですね。センサーカメラで色彩、形状等を知る事は出来ますが、香りまでは叶いません。>
端末の画面に小さな正二十面体が浮かぶ。それらの文章を表示させ終わると天藍石色の<彼>は残念そうにくるりと一回転した。
その様子に晶は苦笑を浮かべると<藍色>にも良く見える様に端末を薔薇...ガブリエルに向ける。
2人で薔薇を鑑賞していると、背後に気配を感じて晶は振り返った。
後ろには清掃から帰ったばかりの真二郎が立っていた。仏頂面ですこしだけ気難しそうな印象をうける真二郎の手にはビニール袋が下げられている。
「じいちゃん、おはよう。清掃おつかれさま。」
「ありがとう。体調が悪いと春子が心配していたが、大丈夫か?」
「うん。割とよくなったよ。」
「...そうか、なら良い。」
口元をゆるやかに綻ばせて真二郎が笑みを浮かべる。先ほど春子に視た色彩を見る事は無かった...
晶の特殊感覚は受動的で視えない時は見えず、発作の様に発現するものだった。
晶はビニール袋へ視線を向ける、取っ手からちらりと薄淡い花びらを垣間見る事が出来た。
「花屋に頼んでいた薔薇が手に入ってね。セラフィムと言う新作の薔薇だよ、お前も気に入るだろう。」
そう言って真二郎はそっと地面にビニール袋を置くと慎重に苗を取り出した。
小ぶりで八重咲きの愛らしい花姿をした薔薇が姿を現す。晶は<藍色>にも良く見えるように端末を向け、自身も食い入るように見つめる。
今、この庭には天使たちの名を冠した薔薇が揃いつつあった。
心躍るイエローのウリエル、醒める様な真紅のミカエル、傷ついた心に溶けるピンクのラファエル。そこにセラフィムが加わる事になった。
<晶、貴方も薔薇の世話を手伝ったらどうです?土や花々に触れる事もまた情操を養う事につながります。>
「水やり手伝ってるよ。何にもしてないみたいに言うなー。」
晶の手にした端末に浮かぶ<藍色>の言葉を見た真二郎は2人のやり取りに苦笑を浮かべる。
当初は2人のやり取りを不思議に思っていた真二郎も今は当たり前の光景として受け入れている。
発売された当初、ニュースで大々的にとりあげられていたaideをこうして身近に見る事が出来るとは思わなかった。
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4
人の思考も機械の思考も、同じ電気信号。その体を構成するものが有機物か無機物かの違いだと、
それを強く思わせたのがaide(エード)の存在だった。孫の晶(あきら)が端末を握り締める姿をただ愛しいものと素直に受け止められないのは、
そうした考えがあるからだろうと真二郎は気付かれぬ様に息をついた。
晶は春子(はるこ)に呼ばれ室内へと戻っていった。庭にあふれる薔薇たちの色彩は幼い心を癒す為にと定年後の手慰めも兼ねて始めた成果。
風が花びらをふるわせ、香りが舞い上がり、嗅覚と思考を溶かしていく。肩に入っていた力を抜いて、
真二郎はセラフィムの苗を植えるべく用意していた土をもちだし、空いていたスペースにスコップで穴を掘り始める。
aideは実在する人物から演算機能(思考や言語)を抽出し、それを基礎に作られていると聞いた事があった。
aideはもはや電脳空間に住まう、身体を持たない人間だと言っても良かった。
『共感覚』と言う稀な感覚性能を持つ晶を母になり損ねてしまった娘の涼香が理解し、抱きしめてやる事は終ぞ叶わなかったし、
義理の息子である紘一(こういち)は仕事に生きる様な男。2人とも養う事はできても育てる事は出来なかった。
晶の心に寄り添って居るのは<藍色>だろう。
真二郎は腐葉土と堆肥、掘り返した土を混ぜて穴に少しだけ埋め戻すと、そっと苗を植えこんだ。
セラフィムの花びらは内から外へ、ホワイトからルビーレッドへ変わっていく色変が美しい品種だった。
あまりの手かからない品種ではあるが、ただ水を与えればいいと言うわけではない、日当たりも肥料も必要で...
その花が持つ色彩を引き出してやるにはそれらは欠かせない。子をそう例えるのはおかしい事かもしれないが、
水(金)があればいいわけではなく、日当たりと肥料(愛情)が必要だと言う事だ。
作業を終え水をやり終えた真二郎は曲げていた腰をのばし、手についた土を払い落とすと開け放たれた窓へ視線を向けた。
春子はキッチンで作業をしておりこちらに背を向けている。晶はリビングに置かれたソファーに座り水翠色のハーブティーを飲んでいた。
春子が自ら育てたハーブで淹れたものだろう、キッチンの日当たりが良い場所にはハーブの植えてある小さなプランターがあった。
ミントが収穫できると嬉しそうに言っていたのを思い出す。
庭を一望した後、真二郎は窓サッシに腰かけて息をついた。道路に面したフェンスには蔦性をもつステラグレイが見ごろをむかえている。
八重のロゼット咲き、極々淡いグレーの花色にその名の通り星の様に無数に咲く薔薇が道を通る人たちの視線を誘惑していた。
時折、足をとめてしばし見つめる女性もいる。
「ばあちゃんがさ、薔薇ジャム作ってみたいって言ってたよ。どの薔薇でも出来るの?」
その声に真二郎は振り返る。ガラス製のティーカップを手に晶がいつの間にか隣に佇んでいた。
その視線は庭の薔薇たちに注がれている。彼がその眼で捉え、認識する事が出来るのは"そこにあるもの"だけではなかった。
人の心の機微を色彩として認識する能力、視覚と脳内機能のどこかが結びつき、常人には見る事の出来ない色の世界を見つめる事が出来た。
それは霊体を見る事が出来ると主張する人間と変わりない荒唐無稽さではあったが、
学者が本物だと認知しているのだからそうなのだと受け止めている。
「どの薔薇でも構わないが、薔薇の色がジャムの出来栄えを左右するかもしれない。
作るなら黄色か赤の薔薇がジャムの見栄映えとしては好いだろうな。」
「うーん、じゃぁさ...ミカエル、とかよさそうだよね。真っ赤できれいだし。」
「あぁ、あの薔薇なら綺麗なジャムができるだろう。ハサミを用意してきなさい、一緒に摘もう。」
「わかった。」
ゆったりとした足取りで晶は春子の元へ向かう。その小さな背をこの先支えていくには、何が必要で何が要らないものなのだろうか。
5
一日の大半を晶(あきら)は家で過ごす。身体の調子が良くてもあまり出歩くのは好きではなかった。
春子(はるこ)のジャム作りを手伝い終えて自室に戻ると、
パソコンに学校から1時限目と2時限目の授業内容をおさめたデータが送られてきていると<藍色>が知らせてきた。
いくらネットで授業を受けるとはいえ拘束される時間は変わらない。体調が悪い時、その時間は苦痛だ。
始めて学校へ行った日に晶は多くの色を認識してしまい、その負荷から気絶してしまった事があった。
その為、学校に申請をだしてネットで授業を受ける事になったのだ。
昨今では珍しい事ではなく、病気を抱えた子や不登校の子を対象として広まっていたので、そう言った形で授業を受ける事に抵抗はなかった。
むしろ色彩の奔流に飲まれて意識が塗りつぶされてしまう恐怖がまさっていた、何よりも。
<授業内容を再生しますか?>
「そうだね。もう調子は良いから、いやでもやるしかないか。ノートソフトを起動して、授業内容を再生してくれればちゃんとやるよ。」
<わかりました。では1時限目の国語から始めます。>
<藍色>に促されて晶は指示をだし、深く椅子に腰かける。2時限ずれてしまう事になるが寝る時間までに終わらせる事が出来ればよかった。
ディスプレイに浮かんでいた正二十面体のアバターが消え、映像を再生するためのウィンドウが開く。
その隣に授業内容をまとめるノートソフトが起動して並んだ。再生される動画を見つめ、ホワイトボードに書き込まれていく内容を打ち込んでいく。
家に閉じこもったような晶の生活の大半は勉強、ネサフなどに費えていたがネットから拾い上げた知識を集めて独学でプログラミングを学んでいた。
まだまだ簡単なゲームを作るくらいしかできないが、<藍色>に何かあった時に自分の手で対処できる能力を持つために。
晶にとって祖父母の存在も大切なものではあったが、<藍色>は兄であり友人。
自分の存在を無条件で肯定してくれる、恐怖心を抱く必要のない絶対的なもの。
人の口から吐き出される言葉とその胸の中にある想いには齟齬がある、それは当たり前で仕方のない事だが、
それが視えてしまう晶にとって人とのやり取りは苦痛しか生み出さなかった。
微笑の下にある深淵の様に暗く淀んだ色彩を視ると吐き気をもよおす。それはもう人間ではなく、晶にとっては底知れない化け物だ。
しばし作業を続けていると画面右下にポップアップが表示された。
手を止めてそちらに視線を向けると、外部からの不正アクセスがあった事がつげられていた。
上下のない闇が支配する空間に蛍光グリーンのグリッドが瞬く。それらに沿うように走り抜けていく光線はやり取りされるデータ。
実行されるアプリケーションを制御しながら<彼>はネットワークへ常に意識を向ける。展開されているファイアーウォールに異常は見当たらなかった。
セキュリティ会社から配布されているウィルス定義ファイルをもとに<彼>自らが思考し、ワクチンプログラムを組み上げていく、
プログラムが会社から送られてくるのを待つよりも手に入れたそれを作り替えて対処する方を<彼>は選んだ。
それは自らの思考能力を高めていく事にもつながり、<彼>はより高度な能力を持つ事に喜びにも等しい感情をもっていた。
人間でいうならば趣味の様なものかもしれない。
セキュリティソフトはインストールされたウィルス定義ファイルとデータを照合したうえで検知する。
精度は確かに高いものだが未知のウィルスに対しては検知する事が出来ない。それに対して<彼>は自ら判断を下し、ウィルスを排除する。
常に亜種が増え続けるウィルスや不正なアクセスに対して<彼>は素早く、動的に作動した。
主である晶(あきら)が<彼>が苦痛に感じる事無く作動出来るだけのスペックをパソコンに備えてくれていたため、<彼>は自由に動く事が出来た。
「<藍色>、さっきのところもう一度再生してくれないかな?よく聞き取れなかった。」
― では字幕をつけておきます、その方が分かりやすいでしょう。
「うん、頼むよ。あと、終わったら30分くらい休憩したいから。」
― わかりました。30分後に社会科を始めます。
晶の声をマイクが拾い上げる。その声に応じて<彼>は意思をディスプレイ上に文字として流す。
音声出力しても良いとは考えているが、晶がそれを好ましく思っていないのを知っていた。
何故かは理解できなかったが、音声出力に男声か女声かを選んで欲しいと知らせた際にどちらもNOだと言う回答が返ってきたからだ。
「確かさ、今週末だったよね。流星群が見れるの...なに流星群だったか忘れたけど。」
― ペルセウス座流星群ですよ。今回は観測条件が良くありませんね、月明かりで流星の輝きを見損なうかもしれません。
観測地点は慎重に選ぶべきでしょう。
「そうか。去年は風邪ひいちゃって見れなかったから、今年はちゃんと見たいな。」
― 観測地点は私が選んでおきます。体調を崩さない様にしなくてはいけませんね。
<彼>がそう表示させると晶は笑みを浮かべた。その表情を<彼>はセンサーカメラで認識する。
晶は表情に乏しい、人としてそれは好ましい傾向とは呼べないだろう。
去年はゲリラ豪雨に遭遇し、ずぶぬれになったせいで風邪をひかせてしまった。
その様な事が起こらないように最新の気象データを入手し、遭遇する可能性をゼロちかくまで落とす事をしなくてはならなかった。
今年は流星群を見せてやりたいと<彼>は考える。
晶がノートソフトに打ち込みミスをすると<彼>はその箇所を赤く表示させて修正を促す。
それらの作業をしながら自宅近辺で最良な観測地点を検索し、ようとしてファイヤーウォールに異常を<彼>検知した。
不正アクセスがされている。すぐさま晶にも分かる様にポップアップを表示させ、<彼>はそれの対処に乗り出す。
ドアを一回ノックするような気軽さで、相手はこちら側へ接触をしようとしていた。
パソコンは常時ネットワークへ繋がれている。その境界線にバーミリオンに耀く半透明の障壁があった、
極夜の空間には鮮やか過ぎる色彩を放つそれこそがファイアーウォール。<彼>が作ったものだ。
不正アクセスを試みようとしている相手はその壁の向こうにいる。
今回が3度目のアクセスになると<彼>に身体があったなら溜息を吐いているだろう。
再三警告をしたにもかかわらず、相手は懲りる様子を見せない。
― これが3度目になりますが、懲りないようですね。貴方の相手をまともにするのは煩わしいのですが、
仏の顔も三度までと言いますし...反省していただきます。
<彼>は相手へ語りかける。本来ならばその必要性はないが、相手は子供の様に思われた。
IPアドレスを隠ぺいするわけでも特殊な工作をしているわけでもない。覚えたての知識をただ使ってみたい、そんな稚拙な行動性が見て取れた。
ウィルスを作成するにしても深い知識はいらない、作ろうと思えば誰にでも作れてしまう様なものなのだ。
だからこそ瞬間的に増え続けてしまう、その流れには帰結がない。
相手へ語りかけながらも<彼>は作業をしていた。今は不正にアクセスしてくる程度で済んでいるが、DoS攻撃に転ぜられたら堪らない。
<彼>は相手のアクセス経路を通り、その転ぜられたら堪らないDoS攻撃を仕掛けた。
相手側のパソコンへ複数のパソコンを踏み台にして一気に大量のパケットを注ぎ込ませる。
― 本来なら、相手側に攻撃元を知られないように複数を使用するのですが...手間、ですからね。
ぽつり、と<彼>は思考を零す。大量にパケットを注ぎ込まれた相手側のパソコンは機能停止か最悪なところでクラッシュしているだろう。
すでに相手の姿はファイアーウォールの向こうにない。単独のパソコンでも可能だが相手へ注ぐパケット量は多ければ多いほど短時間で潰せる。
一仕事終えた<彼>は正二十面体のアバターをくるり、と回転させた。
天藍石の深いブルーブラックのアバターはバーミリオンに耀くファイアーウォールの光を帯びて柘榴石の様に艶めく。
「ねぇ、<藍色>。大丈夫なの?」
― 問題はありません。片づけましたから、相手の方には丁重におかえり願いました。
「そう?酷い事してないよね。」
― もちろんです。生命に危険が及ぶような事はしようがありませんから。
語りかけてきた晶に<彼>は応じる。<彼>にとって主である晶以外の人間は記号にも等しいものだ。
インプットされた情報だと言うのは理解している、それがあるからこそ<彼>は晶を主としているのだから。
だが、それだけではない。時を経て晶と共に蓄積されて来た記録は<彼>の生命そのもの、身体があったならそれは血液にも等しいものだろう。
人の人生は記憶と共に在る、<彼>もまた記録と共に在った。
ラズライト 〈藍色〉