『大きくなったら、何になりたい?』
 幼いころ、何度も聞かれた質問の一つ。友人たちははお嫁さんやお花屋さん等、可愛らしい夢を言っては瞳をキラキラと輝かせていた。あの時は夢を叶える事の難しさや大変さなんて、誰も知らなかった。でも、大人になることや夢を見ることが楽しかった。だから、私も声を大にして夢を語れた。
 『わたし、おいしゃさんになるの!』
 そう言った私の瞳も、友人たちの様に輝いていたのだと思う。

 それから時は流れ、私は医者となった。
 「林先生、お疲れ様」
 オペを終えた私の肩を叩いたのは中島先生だった。
 「お疲れさまです。中島先生もオペだったんですか?」
 「緊急が入ってね。どうなることかと思ったけど、無事に終わってよかったよ。あ、美味しいって噂のメロンパンがあるんだけど、食べない?」
 「いただきます」
 互いのオペの話をしながら、医局へと向かう。
 中島先生は私の指導医でもあった。優しく人当たりも良いが、医療のこととなると妥協を許さない厳しい先生だ。先生の厳しさに涙を流した日もあったが、その厳しさは優しさでもあり、私に多くのことを教えてくれた。
 「あれ、誰もいないね」
 過去に思いをはせていた私を引き戻したのは、中島先生の声だった。医局を見回す。確かに誰もいなかった。
 「緊急オペですか?」
 「それにしても、誰もいないのはおかしいよ」
 疑問を抱きながら、二人でナースステーションへと向かうが、そこにも誰もいなかった。
 「……誰もいませんね」
 「オペ中に僕らだけ、別の世界に来ちゃったのかな」
 ナースステーションに中島先生の乾いた笑いが響く。
 「外来も見てみますか」
 言葉を発することなく、外来へと向かう。途中で通った病室からは話し声が聞こえたので、自分たち以外が全員消えてしまった訳ではないらしい。しかし、廊下を歩く人は誰もいない。寂しげな靴音が廊下に吸い込まれていく。
 「ここも駄目だね」
 外来にも誰もいなかった。白い空間に私と中島先生だけ。先生は近くのソファに腰掛け、項垂れた。私もその隣に腰をおろし、ふと顔を上げた。
 「あ……」
 目に入ったのは、テレビ画面。そこにこの状況が生じた答えが記されていた。

 現実を受け入れられないまま、私たちは医局へ戻った。ソファに座りこんだ私に、中島先生がコーヒーを差し出す。
 「ありがとうございます……」
 中島先生もコーヒーを片手に向かいに座る。コーヒーに口をつけることなく、沈黙が医局を満たしていく。ぐるぐると色々な思いが私を埋め尽くしていく。なんで、どうして、考えても答えのない問いばかりが頭をもたげる。仮に答えが出たとしても避けられない現実。私たちは受け入れるしかないのに、それが出来ない。
 沈黙を破ったのは、先生のため息だった。
 「オペ中に僕たちは世界に置いていかれちゃったようだね」
 先生はコーヒーを一気に飲み干すと、静かにカップを置いた。その目はいつもと同じ優しさに溢れていて、現実を受け入れたものだった。
 「あと一時間で地球が滅びるとか、信じられません」
 外来で私たちが見たのは、テレビ画面に映されている政府からのメッセージだった。

 『本日、午後1時に巨大隕石が地球に衝突します。』

 「現実は小説より奇なりってね。信じられなくても、これが現実なんだよ。避けようがない」
 明日、地球が滅びるとしたら何をする?
 幼いころにした、もしもの話。これが現実となってしまった。あの頃の私は何と答えたのだろう。思い出したとしても、一時間では何もできない。
 「みんな、家に帰っちゃったわけか。林先生は?」
 気付けば、先生はロッカーで何かを探している。
 「え?」
 「林先生は帰らないの?」
 最期を家族や恋人と過ごさないのと先生は言った。実家は電車で二時間。車でも帰れるが、一時間では到底無理だ。恋人もいない。最期を共に過ごす人なんていない。
 「帰らないです。中島先生は……」
 そう言って、後悔した。先生は三年前に奥さんを亡くし、子供もいない。ご両親も早くに亡くしたと聞いた。私とは違って、最期を共に過ごしたくても過ごせないのだ。
 「僕はここが好きだからね。この医局で最期を迎えるよ」
 笑顔の先生はメロンパンを差し出す。
 「お腹すいたでしょ。最期の晩餐にしたら、安っぽいけど」
 私はメロンパンにかぶりついた。優しい甘味が体に染みていく。
 「美味しいです」
 こんな当たり前のような日常が消えてしまうのだと思うと、涙が溢れた。

 「あと三十分ですね」
 メロンパンを食べた私たちは再びコーヒーを飲んでいた。今度は私が淹れたものだが、先生のものより味が劣る。
 「そうだね。そうだ、ここでちょっと昔話でもしようか」
 「昔話?」
 「どうして、林先生は医師を目指したの?」
 昔話とは、そういう意味か。
 「父が医師で、幼いころから憧れていたんです」

 父は小児科医だった。勤務医で家にいることは少ないが、家族を大切にしてくれていた。幼い自分が抱いた憧れは単純なものだったと思う。父の働く病院に行った時、自分と同じような子どもを診ている父を格好良いと思った。父のようになりたいと思った。ただ、それだけだった。それから医師になるべく、勉強に励んだ。家族は応援してくれていた。しかし、中学終わりで伸び悩み、高校で荒れた。
 「荒れてる林先生とか想像つかないね。夜遊びとかしてたの?」
 「そこまでする勇気はなかったんです。友達の家に泊まりこんだり、可愛い反抗でしたよ」
 家に帰りたくなかった私は、ある友人の家に入り浸っていた。彼は理由を聞くこともなく、私を泊めてくれた。さすがに三日連続で泊まった時は、帰れと言われたが。私は彼に医師を目指す理由や夢を諦めようと思っていること、色々なことを話した。彼は何も言わずに聞いていてくれた。いや、聞いていなかったかもしれない。でも、それが嬉しかった。思うことを全部話すことで、心が軽くなった。
 「高校二年の夏、いつものように彼に話してたんです。そしたら、その日、彼が言ってくれたんです。『お前なら大丈夫。医者になれるよ』って。その言葉に背中を押された気がして、その日から頑張れたんです」
 「その彼に恋愛感情はないの?」
 先生の言葉が衝撃的だった。恋愛感情なんて考えたこともなかった。彼は友人以外のなにものでもなかったし、友人以外の関係を考えたこともなかった。それに、いまさら関係を変えるつもりもない。
 「立派な友人です。中島先生はどうして医師を目指されたんですか?」
 「姉が重い病気でね。いつも苦しそうにしているのを見ているのが辛かった。姉を助けたい、ならば医者になればいい。それがきっかけ」
 結局、姉は僕じゃない医者が治したんだけどねと中島先生は笑顔で言った。
 「そこから医者を目指す理由が無くなって、どうすればいいのか分からなくなった。で、一度考えてみたんだ。医者になりたかった理由を」
 中島先生はコーヒーを一口飲む。
 「助けたい、命を救いたい。この思いが根底にあるんだって気付いた。だから、僕は走っていける。医者でいられる。最期まで医者でいる」
 「最期まで医者でいる……」
 「理由は単純かもしれない。でも、医者でいたいという気持ちが大切なんだと思うんだ」
 最期まで医者でいるといった中島先生の瞳は真っすぐだった。私も最期まで医者でいられるのだろうか。
 「……私も最期まで医者でいられますか?」
 そう言った私の頭を中島先生は優しく撫でてくれた。
 「僕もそうでありたいと思っている。でも、それは誰にもわからないよ」
 中島先生は立ち上がり、窓を開けた。少し熱を帯びた風が医局へと入りこんでいく。軽く香る甘い香り。花の香りだろうか。
 「医者でありたいと思えば、医者であろうとすれば、最期まで医者でいられると思うんだ。これが難しいんだけどね」
 先生はふわりと笑う。私もつられて笑った。
 「あと十分だね」
 「はい」
 残り十分。せっかくだし、彼にメールでも送ってみようか。『元気?何やってるの』って、いつもみたいに。でも、彼のことだから寝ているのかもしれない。回線が混んで、メールが届かないかもしれない。それでもいい、最期に彼に私は元気に医者をやってるよって伝えたい。
 ほんの数行のメールは無事彼に届いたらしい。読まれるかどうかはわからない。未読のまま、地球と一緒に消えちゃうかもしれない。
 「空が明るくなってきましたよ」
 隕石が近付いてきたのか、空の一部が明るくなっていく。そろそろだ。
 目を閉じて、最期を待っているとメール着信を知らせる音。メールを開くと彼からだった。やっぱり寝ていたらしい。変わらない彼に笑みがこぼれた。
 光が強くなってきた。目が開けられない。目を閉じると、あの時の彼がいた。恋愛感情を抱いていたつもりはないんだけどな。


 『元気?今、なにやってるの?私は医者になったよ』

 『お前のせいで目が覚めた。医者になりたいって言ってたもんな。おめでとう』

最期の日を迎える医師たち。
彼らは最期まで医師でいられたのか、それは私にもわかりません。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-17

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