practice(97)


九十七






 
 雨の日に新聞紙で包んだ花束は,雨に打たれずとも喜んで見えて,小さい私の気持ちは,インクの匂いにはしゃいでる。思う道,はこんな日でも営業を始めているカラフルなアイスクリームの屋台の前を通り過ぎて,お喋りを嫌う時計店の突然開く扉にぶつからないようにした。そこから並ぶ休みのお店,とびきり派手な服屋さんからは人が出ていき,人が入っていく。お姉さん,と思える綺麗な衣装の白いマネキンは裸足だった。丸い台の上に着けてもいない,そこにレインコートの裾を翻して大柄な中年の男性がショーウィンドウに写り込んで,髭を伸ばして居なくなる。離れてるはずなのに,小さくならない大きな背中と比べれば,どんなに普通のお兄さんも細く見え過ぎてしまうもの,と鏡の中の傘に言い訳をしたなら,青いジーンズ,本物のお姉さんのふわふわなスカートと,通り過ぎる順番に従う。私の履いているキュロットの後ろには,もこもこの顔をした見えない表情を浮かべた犬が連れられて,連れている人は私のお母さんに似ていた。どこがと言えば表情が,いつのと言うと,私が覚えている限りの。残念がることをした後に見せる「残念。」というお母さんの眉は,驚いたことを「とっても驚いた!」という眉であったり,怒ってるという口の端は,頬に釣られて一緒に大きく笑うところであったりする。そんなところより,形にならない気持ちのときに,いろんな表情になる,その前の準備をしているような顔にあるあの面影。難しいけど,チェアに腰掛けて,私を見つめながら私を置いてどこにも行かない安心感を貰えた。だってお母さんは必ず決めていたから。強く笑って立ち上がるときもあれば,泣いて顔を伏せるときもあったけど,私は傍にいた。弟は私より小さかったし,今もそうだけど,歩いていける私だったから,手を引いて,手を握った。握り返して貰ったのはもう前の話になるけれど,白いズボンの,私が見つけたその人は,「列」に入るときに見上げる私に見つけられる笑みをくれた。私もきちんと笑みを返した。歩き出してからそのまま,傘が街路樹なんかにぶつからないように避けて,もこもこの犬と連れているその人とは結局隣り合うことになった。
 分かりやすい性格,とよく言われたお母さん。よく怒られることもきちんと褒めてくれることも,私より喜ぶことも分かっていた。
 大通りの先の交差点では信号機が一度は待ってと声をかけて,まだ出来ない水たまりが表面で照らしている射したばかりの明かりは,またすぐに雲間に連れ戻される。そんなことばかりを繰り返して,しょうがないと,腰を上げた街灯の一つはパッと点って,それをきっかけに光が続いた。それが無いと何も見えない,というぐらいに役立ちはしないけど,無いと寂しい時間になりそうなのは皆に見えるこちらの時計も同じようで,大きな動きとカチっとした止まり方をしては「今は何時」を伝えて,次の時間を迎えにいってる。その人は,これを「忙しいと思う?」かと私に聞いてきたけれど,私は「ゆっくりだと思う。」と言った。「見たまま?」,とその人に聞かれて,「だって,」と指差す私の前を鳩はゆっくりと首を動かして,何かを拾って食べていた。何も無いように見えるけど,と首を傾げて思うもこもこの犬と隣り合った私。その人は,かさっと鳴らした香りに反応する。
「贈り物?」
 とその人は聞いた。
「うん!」
 と元気に答えたあとで,私はばつが悪い気持ちになった。返事を聞くまでに,やっぱりお母さんに似ていたその人が,私の返事を聞いた後でその人と思える笑顔をまた一度私にくれたから,私はその人に何かをしなきゃいけない理由を見つけたのかもしれない。あるいはお母さんに対して,これから会う前に,秘密にしていたプレゼントを誰かに言ってしまったような,特にお母さんに似ている人に言ってしまったような,失敗したサプライズの気持ち。
 立ち止まって,まずは束から一本,傘を持ち直して,もう一本足してから白いズボン,それから顔へと見上げていって,私は花をその人に渡した。交差点では止まる「列」の中,もこもこの犬が鼻を鳴らして地面を見ていた。
「いいの?」
 その人は聞いた。
「うん,貰ってください。」
 私は言った。
「理由は?」
 その人は聞く。
「列に入れてくれたから。それから,」
 と,私は口ごもった。もこもこの犬の,もこもこの背中を眺めて,傘を差す私は言った。その人はお母さんに似ていた。返事を待つときに特に思った。でも,その人はお母さんに似ていなかった。咲いたように笑う,綺麗な人だった。
「二本分は,こいつも?」
 その人は確かめる。受け取る手は長くて,引き締まって,スポーツをしているのかなとも思った。
「うん,いまは無理だろうから,あとで渡して。」
「食べなきゃいいけど。まあ,食べないと思うけど。」
 ありがとうね,を言葉にしながらその人は柄の部分にその花たちを挟んで,器用にくるっと一度に回していた。綺麗だった。二本だった。
 交差点の信号が手を広げて,「ご自由にどうぞ。」か,「何のかんの言っても早くお渡りになることをお忘れなきよう。」と向こうから来る人も通ってくる。その人はもこもこの犬を上手く先行させながら,自分と私のスペースを歩いて作る。その人は,人に会いに行くそうだ。犬の飼い主でもある人で,大事なパートナー。昨日から帰国して,今日やっと会える。
「飼い主ではないんだよね。でも,こいつも大事なパートナー。」
 その人に言われて,かどうか分からないもこもこの犬の尻尾はぶんぶんと振られている。雨が弱く横に降って,擽ったく顔にかかった。少し怒られたら,また少し弱くなった。
「嬉しいんだろうね。ね?」
 そう聞かれたのは私。
「うん,そう思う。」
 と傘を差しながら答えた。
 促されたように交差点を渡り切れば一直線。会場へ向かうのならそれでいいのだけれど,私も,もこもこの犬を連れているその人も,今日は違う。最初の角を曲がっても,大通りの街並みは終わらないから雑貨屋さんや靴屋さん,別の「列」を作っている異国のお菓子屋さんの前を通り,十字路を二つ超えたところ右に見える角を曲がる。大通りらしさはこの辺りで途切れて,ここからは大きな屋敷の生垣が目につく。花が目立つのもここだった。もこもこの犬が鼻を近付け,近付けを繰り返す。「これも持って行く?」とその人が聞くたびに,私はインクの匂いをかさっと鳴らして,大きく首を振らなければいけなかった。ここで,もこもこの犬が初めて声を出した。随分と低いもので,近付きすぎて,雫が強く跳ねたのかもしれない。
「もしかすると,だけどね。お母さんも大切にしてた?」
 その人は聞いた。
「かもしれない,はしてたかもしれない。」
 と私は言った。
「私のところは,してたかもしれない。もしかすると。」
 間を置いて,私たちは大きな声で笑い合っていた。
 厚く遮る雨雲の,しとしとと続く甘やかしには長くて使い古した布地が緩やかなカーブとともに,雨という滴を受けて流す。それを見つめて,結局は頑として聞く耳を持たない執事みたいと,お転婆だったというお母さんは嬉しい冗談みたいに付け加えてた。一粒らしく落ちて,また,一粒らしく落ちる滴を髪に身につけて帰って来ることも多かったから,この傘はお母さんがお婆ちゃんに貰った形見になる。大きくなっても,そこに内側にある細い骨組みが頼もしい。横からの風に容易く持っていかれそうになって,少し肩が濡れるけれど,ハンカチを出すほどじゃないから。私は傘を差して,新聞紙で抱える。花束はかさっと鳴って,気持ち良さそうに風に揺れる。低い香りにインクが混じる,そんな時。
「お母さんに似てるかー。ねえ,それってどんなところが?」
 私は答えない。 返事を待つ,だってそれが,答えになるから。
「あ,何か含みのある,企んだ顔してる。そんな顔?似てるところ?」
 それにも答えられない。鏡がないと分からないけれど,含みと企みのある私の顔は,お母さんの顔になるのか。そんな顔が同じ私たちは上手に想像できないものなんだって,このときに学んだのだった。
「じゃあ,私も含んで企んでみよう。ねえ,どう?」
 そして含み,企んだその人の顔。私が初めて見る顔。企んでいることを明かしているのか,含むことがそんなに無いのか。種明かしをしたがっているマジシャンのようで,話したいことは沢山あるみたい。もこもこの犬を連れて,私がその人をもっと好きになれる,傘を差して,歩いていけるところの。
 似ている,そう,似ていない。小さい私の気持ちは,インクの匂いにはしゃいでる。









 

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-17

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