今日の向こう側

今日の向こう側

いちごの庭

 僕は海辺に座っていて、さっき学校からの帰り道にある評判のパン屋で買ったくるみといちじく入りの固いパンを食べている。そこまで美味しいかはわからないけれど、噛めば噛むほど味がする。一緒に買ったオレンジジュースとの相性はいまいちだ。

 風邪が強く吹いていて、制服のシャツが肌に張り付く。チェックのズボンが入学以来どうも好きになれない。髪が変な方向に分かれるが、直すのが面倒だからそのままにしている。海は穏やかにしているけれど、汚い色だ。乾いた藻が、カサカサと他の藻を集めて、風に吹かれていく。

 最近好きになったバンドのうるさい歌を聴いていると、何もかもがどうでもよくなる。
 ふと思い出して、後輩の女の子からもらった手紙を開いた。長々とわかりにくくて汚い字が並んでいた。変なシールが貼ってあるし甘い匂いがついている。

 女の子ってなんて馬鹿なんだろう、そう思う。
 自分勝手で頭の悪い生き物が僕は世界で一番嫌いだ。

 手紙を丸めてパン屋の袋に入れた。

音符

 僕は音楽の先生と寝たことがある。そしてそれを内緒にしている。僕の童貞は先生で終わった。
 あの日は僕と先生しか家にいなかった。

 音楽の先生は、実は、僕の兄の奥さんだ。美人で優しく、桃色の芍薬とMr.Childrenが好きで、よく笑う。男の人から人気があって、ひらひらとしたワンピースを着ていて、色が白くて細い指をしている。お姉さんは僕のことをあまり好きではない。僕の兄は、容姿が良い方ではないが医者をしている。僕とは異母兄弟だ。僕の母親と父親は長く不倫関係にあり、僕を妊娠したことをきっかけに、母は父に結婚を迫ったのだ。

 兄の母親は、男みたいなベリーショートヘアのキャリアウーマンだ。外資系の証券会社で、今ではかなり上の仕事をしている。たまに兄と会っている。僕は兄の母親が嫌いじゃない。キラキラと輝く太陽のような人だ、と言ったら言い過ぎかもしれないけれど、あんなにエネルギーを発する女の人はあまりいないと思う。

 父親は精神科医をしている。僕の母親は、元々は父親の患者だった。母は昔、宝塚の女優をしていたが、全く売れなかった。僕はよく女みたいな顔をしていると言われるけれど、実際のところ母親とそっくりだ。
 母は飛び抜けた綺麗さは持っていたけれど、自分に自信がなく、演技力がないせいで売れなかったようだ。自信を活力に生きている兄の母親とは正反対で、精巧なガラス細工のように手の込んだ容姿を持っていながら、僕の母親はまるで自分が持てなかった。人形のような顔を、母は全く活かしきれず、逆に重荷としてしか捉えられなかったのだ。綺麗な顔で生まれなかったら、母はもっと幸せだったかもしれないと最近思う。人間は重過ぎる荷物を持って生まれてくるべきではないのだ。かわいそうなお母さん。若い頃は持て余していた顔のまま、母は普通に暮らしている。40を過ぎても、母は変わらず、ただ物凄く綺麗だし、とても若く見える。ただ、色々なことを悩むのをあきらめたように見える。

 僕はいつも寂しくなる。血のつながる両親といても、あの家はなんの絆も生まない空っぽの箱だと思う。たまに、誰も僕のことを認識していないような気がする。
 ただ、個人が個人として生きていくことに縛り付けられているのに、一人の全うな人間としてしっかり生きていますと周囲に言いたいためだけに作られている家だと感じる。

海の音

 携帯に母親から連絡が入った。
 「早く帰って来なさい。ご飯ができますよ。」
 というメールだった。

 僕はやっと腰を上げる。
 さっきのラブレター、一言も読んでいない。
 沢山の女の子が僕の顔を見るとぼーっとする。僕はどれにも性欲を覚えない。

 義理のお姉さんと寝た日を思い出す。
 あの日は僕とお姉さん以外誰もいなくて、僕は部屋でゲームをしていた。お姉さんが紅茶でも一緒に飲もうと言うので、下に降りて行った。座るとお姉さんがお手製のブルーベリー入りのレアチーズケーキを切っていた。お気に入りらしいお皿に載せて、お姉さんが紅茶とケーキを僕と自分の前に置いた。

 僕たちは向き合っていた。変わった香りの紅茶だった。
 「変わった香りですね、この紅茶。」
 と言ったらお姉さんが泣き出した。頬を伝って涙が落ち、スカートに足跡のようにしみを作る。みるみる溢れ出して顔を覆った。外は晴れているのに、降り出した雨のようだ。なぜめそめそと泣くのか、高校1年生の僕の前でどうして25歳の女の人が。呆れていると、なぜか謝られた。
 「ごめんなさい、私。」
 「なんですか、やめてください。きっとこの家にいるのは、あなたには窮屈だろうけれど。」
 冷たく言って、口をつけていないチーズケーキを置いたまま僕は立ち上がった。
 階段を上がって部屋に戻ろうとすると、お姉さんは追いかけて来た。そして泣きながら腕をつかんで来た。
 カットソーを引っ張る手を離そうと振り返ると、水を一杯に溜めたガラス玉みたいな目が見えて、芍薬の香りがした。ぶよぶよと涙は溢れていて、お姉さんはどうしようもないという表情をしていた。
 本当に嫌いな、変な匂いがする女というクズみたいな生き物。
 「お前、むかつくんだよ。そういう風にすがって、悲劇のつもりかよ。」
 気づいたら僕は、その瞬間離されたお姉さんの腕を、逆につかんでいた。
 そのまま強くつかんで持っていき、自分のベッドに押し倒した。
 お姉さんは泣いていたけれど、そこまで抵抗しなかった。途中からはもう何も逆らう力は感じなかったが、強くつかむと腕は折れそうだった。とても細くて小さい生き物を自分通りにするのは簡単だとそのとき僕は思った。
 ただ、勝ったか負けたか、そういう価値観がそこに存在するならば、間違いなく僕は負けていたし、お姉さんは勝っていた。僕はお姉さんの中にいたし、お姉さんは僕を包んでいた。

 僕とお姉さんはずっとただの義理の家族だ。
 そういうことがあってもなくても、ただの義理の家族だと最近そう思う。

 どうでもいいことを考えながら、僕は自転車をこぎだした。

食卓の真ん中

 僕、お母さん、お姉さんの3人は食卓を囲んでいる。
 お父さんは、新しい恋人の家にいる。新しい恋人はお父さんの子供を妊娠いるけれど、体調が悪いらしくて、最近はつきっきりだ。全然帰って来ない。お兄さんも、ほとんど家に帰って来ない。
 毎日むせ返りそうな美しい女の人達に囲まれて食事をしていると、学校の女の子達なんか餌を食べるだけの豚みたいに見えてくる。僕はなんとなく、お父さんとお兄さんがこの家に帰って来ない理由がわかる。

 お母さんはあまり料理ができないけれど、お姉さんは料理教室の先生が出来るほどの腕前だ。ほとんど料理はいつもお姉さんが作る。今日のご飯は、桜えびの混ぜご飯と、ごぼうの入ったお味噌汁、鶏肉で野菜を巻いて照り焼きにしたものと、小松菜のおひたし、出し巻き卵。漬け物までお姉さんのお手製だ。全てはそこら辺のお店で食べるよりずっと美味しく、丁寧に作られており、塩分が薄く、だしの旨味がする。

 お母さんとお姉さんは、どうでもいい、当たり障りのない会話をいつも繰り返す。
 「庭のミニバラが綺麗に咲いてるの知ってる?遥さん。」
 「はい、赤がとっても綺麗です。」
 「そうよね、ミニバラはやっぱり赤が一番よね。ピンクも綺麗だけどね。」
 「そうですね。ピンクもとても綺麗ですよね。」
 母のつまらない話題に、お姉さんの英語の例文を和訳したような答えをいつまでも繰り返す。あー、あれみたい。ゲームセンターにあるエアホッケー。あんな風に、この会話はただ中身はなくて、どっちかが投げたボールを相手が返し続けることに意味があるのだ。カチンカチンと、どちらかが打ち返すだけで、それは表面を滑り、中身には浸透しない。2人が、家に帰って来ない男達について話をしている所なんて見たことがない。
 

今日の向こう側

今日の向こう側

  • 小説
  • 掌編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-05-16

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  1. いちごの庭
  2. 音符
  3. 海の音
  4. 食卓の真ん中