電車

僕は彼女のイヤホンの中に吸い込まれた。

イヤホンの中は暗くて狭かった。その分、彼女の聴いている曲がよく聴こえた。

それは、曲というより、波の音とウミネコの鳴き声と電車の音だけだった。

電車の中でこんなものを聞く理由は分からないが、僕はなんとかイヤホンから脱出した。

気が付くと僕は彼女の横に座っていて、彼女が読んでいる本の中身が見えた。

それは文庫本程度の大きさで、普通の小説かと思ったが、中には何も文字は書かれていなかった。

彼女は、2分程の間隔でページをめくる。ただメモ帳の白紙のページを見ているだけでなく、

何か見えているようだった。彼女にしか読めない本なのだろう。

電車内を見渡すと、ネズミが2,3匹と老婆、それと銃殺された死体しかいなかった。

当然だ。もうこんな遅い時間なんだ。ネズミと老婆と死体ぐらいしかこんな電車、乗る人なんていないだろう。

彼女がずっと本を読んでいるので、僕は暇つぶしにネズミを観察することにした。

それが、ネズミ観察を始めた途端ネズミは老婆に捕まり、おなかのポケットへとしまわれた。

老婆はずっと「今年孫は小学一年生になってね…」などと一人でぶつぶつ言っており、ネズミをどうする気だなんて話しかけられる雰囲気じゃなかった。

彼女を見ると、もうさっきより30ページ程の分厚さが、読み切った分の右側に移動していた。

もう一度文庫本の中身を見ても、やはり何も書いていなかった。

まさに、彼女が理解できることを自分が理解していない証拠だ。来週までには僕も読めるように努力しようじゃないか。そうすれば彼女は僕を少しでも見てくれるかもしれない。

銃殺された死体は、こびり付いた血が酸化してチョコレイトの様になっていた。手に握りしめられた小さな紙に『お兄ちゃんを殺さないで』と書いてあるのが見えて、僕は目をそらした。

真っ暗なトンネルを電車はスピードを緩めず走っている。いや、先程より速さは増しているのかもしれない。今までの僕の経験が教えてくれた。危機感によって通常より脳の処理が速くなって、時間の経過が遅く感じることがあると聞いたことがある。ある意味、危機的状況に置かれている僕には電車の動きが変わっていないように見えるが、死ぬほど怖い思いをしていない彼女には速く感じるだろう。

彼女は、やっと本を読み切ったらしい。500ページ程ある本だったから、結構時間はたったようだ。

次の行動を待っていると、彼女は僕と反対側に手を伸ばし、先ほどと同じ様な(表紙は違うが)、文庫本サイズの本を自分の手前に持ってきた。

彼女が手を伸ばした方向を見ると、一億冊の本が置いてあった。全部読むつもりだろうか。

この電車はいつ駅に到着するのだろう。老婆がまた一匹ネズミを仕留めた。

電車

電車

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-09

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