桜の下の少女

桜の下の少女

とある方とのお花見の思い出です

 北国の遅い春は短く、それ(ゆえ)木々たちは短い春を逃すまいと、(こぞ)って花を咲かせていく。春爛漫の空の(もと)桜雲(おううん)垂れ込める城の内濠(うちぼり)は、花筏を浮かべながら長閑(のど)けき()の光を照り返していた。昼間の温かく柔らかな風は次第に冷たさを帯びて、薄紅色の花弁(はなびら)を遠くへ遠くへと運んでいった。
 そんな花弁(はなびら)が見せた幻であろうか、はたまた春のうたた寝で見た夢であろうか、私の隣には、(ゆめ)とも(うつつ)ともわからぬほどに、美しき少女がそっと寄り添い歩いていた。夕暮れに霞みゆく桜並木の下で彼女の方を振り返れば、その折々に、そこには絵画の世界が広がっていた。
 満開の桜の下をはにかみながら歩く彼女の姿は、寸分の狂いも無く美しかった。離れて見ても分かる華奢で少女らしい体つき、近づくほどに分かる肌のなめらかさ、髪の美しさ、指の繊細さ、爪のつややかさ。ひんやりと冷えた指先は細部に至るまで整えられ、精巧なつくりもののようにさえ思えたが、彼女が赤い(くちびる)をそうっと綻ばせ、躊躇いがちに言葉を零し、潤んだ黒い瞳で見上げる度に、「ああ、彼女は生きている」と思い知るのだった。

 あれほどまでに完璧に、少女の終わりの時を少女の姿のままで過ごす人を見たことはない。彼女は、まるで永遠に少女で居続けるかのような予感すら感じさせる。彼女は少女性そのものを身に纏っていた。女が生まれ育ち老いて死ぬまでの中で、ひと時だけ身に纏うことを許される「少女」という香りがあるのならば、彼女は、その上澄みを丁寧にすくい集めて、それを何度も蒸留して生み出された精油ような、少女の(すい)と呼ぶにふさわしい人であった。
 「人形のように愛らしい」という使い古された褒め言葉も、彼女の前では霞んでしまう。どれほど人形めいた完璧さを持っていようとも、彼女は紛れも無く、生き血の通った少女なのだ。微笑み思考する乙女なのだ。彼女の中には、西洋人形の巧緻を極めた華やかさだけではなく、大和撫子の嫋やかさも備わっている。一挙一動に至るまで、全てが「可憐」であった。
 彼女の美しさに直接 (まみ)えることは、ある種の宗教的な感動を呼び覚ました。それは法悦とでも呼ぶべき種類のものであった。もしもあの時許されたのならば、私は迷わずあの場で跪き、感涙と共に彼女への忠誠を誓ったに違いない。

 感動のあまりに言葉が出ず、お互いに訥々ながらも会話をするうちに、次第に彼女の内面を覗き見ることができた。そうして私は確信したのだ。「彼女は芸術家なのだ」と。彼女の纏う美しさは、決して、天より恵まれた姿形だけに限るものではない。たゆまぬ努力と美への追求により作り上げられた、彼女自身の彫刻作品なのだ。彼女は表現者にして体現者だ。作家にして作品だ。彼女は彼女自身のカンヴァスの上に彼女という作品を描き続けているのである。
 彼女の美しさは、おそらく、その芸術家としての魂によって(はぐく)まれたものなのだ。
 つまり彼女の思考が、信念が、彼女を魅力的にし、そして彼女の姿形をなしているのであり、乱暴な言い方をすれば、究極のところ、彼女の美は彼女の生き方の副産物でしかない。
 今でこそ彼女は、燦然と少女の輝きを放っている。それは彼女が今まさに少女の時を生きているからだ。そして、彼女はたとえ今後少女の時を終えたとしても、なお輝きを失うことは無いだろう。なぜなら、彼女の放つ輝きの光源は、彼女の姿形ではなく魂にあるからだ。

 その事に気付いた頃には、日は山裾へ沈み、風は二人の体温を奪うばかりであった。別れの言葉を交わして歩み去るその後ろ(かげ)を目にし、私は安堵と共に思わず膝から崩れ落ちた。薄暮の道を遠ざかる黒髪を見つめ、胸のうちに滾々(こんこん)と湧き上がる喜びに満たされながら、至福の刻を噛みしめていた。

 ああ、桜の精よ、永遠の乙女よ、もしもこの狂熱を帯びた思いの丈を目にすることがあらば、これほどまでに熱烈で一方的な、狂信者の妄言を書き連ねることをお許しください。願わくは、私の妄言に彼女の心が苛まれることなどない事を祈ります。

 少女は、少女の在ろうとするがままに在るのがもっとも美しいのだから。

桜の下の少女

興奮冷めやらず、あのとき感じたことを書いてしまいました。

桜の下の少女

美しい少女とお花見をした話

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-15

CC BY
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