Isolation, Cofusion, Love Adiction and Suck and Me
大阪でストーカー殺人事件があったが、先日朝日新聞で精神科医が犯人の人物像からストーカー心理を解説する記事があった。
今日はひどく気分が悪い一日だったのだが、抑うつ状態の合間にこの記事のことを思い出して、余計に苦しくなった。
この記事の全文を読んで、この犯人の心理の6割ぐらいは理解できる思いがあった。なぜなら今よりずっとずっと若い頃、僕もストーカー行為と判定されるような行動を取った経験があったからである。
僕が犯人の心の内から理解できないと思った4割の部分については、たぶんそれは相手に対する殺意とか無理心中のような誘惑の有無の部分だと思う。
僕は自分の未来を自ら破壊してまで相手の未来を奪おうとするような欲望は起こらなかった。
だがそれ以外の部分では、犯人の感情が自分の感情として理解することができてしまったのである。このことは僕にとって案外と衝撃的な事実であったようだ。
今日、気分が悪いときに僕が想像してしまったのは、この犯人と同じ歳くらいになったときに、自分の身辺がどんなふうに変わってしまっているだろうか、そういうことだった。
むかし主治医に、「ストーカーしてしまうかもしれないと恐れてるぐらいなら大丈夫ですよ、本当にやる人は恐れる前に行動してますから」と言われたことがある。
ただ、抑うつ的な頭の中で考えたのは、人間は条件さえ揃ってしまえば、簡単に状況へと押しやられてしまうんではないか、ということだった。
もしストーカーやら加害的愛憎の方へ流されないとすれば、そのかわりに自殺の方に向かってしまうかもしれないとも考えた。
身近な関係の中に実際にそういう例があった。かつて僕はそれらの心理も十分に理解してしまうことができた。
なにがどうして、そういう破滅的な結末ばかり考えてしまうのかというと、それは抑うつ状態だったからという大きな前提があったわけだけれども、「孤独」と「年齢」と「痛み」や「情愛」が比例して絡まりあって時間が過ぎるということは、僕のような人間にとっては決定的なカタストロフが常にイメージとして頭の中に横たわって動かない、という現実があるからである。
つまり、やがて訪れる、致命的な隔絶。
話は転じて、ハマってしまってる海外メル友サイトInterpalsについてだが、最近どうもこれに毒されてしまっていて、自分がどうもconfusionしてしまってるように思えて、あんまり良くない。
主治医には「利用してやるって思いでやれるならSNSは利用できる代物だ」みたいなことを言われたことがあった。
最近、持病の気分変調症による対人障害のメカニズムが自己認知できるようになってきたので、自分と相手を試して遊んでみるつもりでやっていたら、自己認知に限界が生じてきてしまった。
英国メンヘラ少女のアンに言わせれば僕はLove adictionを持ってるカサノヴァみたいな人間だそうなので、遊んでいるつもりであっても、どこかで狂いが再開するのかもしれない。
「僕が誰かを愛することなんて、しょせんはLove adictionかもしれないよ」とメイ・ティンに言うと、彼女には「全然意味がわかんない」と返された。
ミラン・クンデラの愛読者で、是枝裕和の映画に希望を見出すような彼女だから、きっとメイ・ティンにはアディクションなんか無縁で、本当か、本当じゃない愛しか彼女の中には存在しないのかもしれない。
以前、このブログにも書いた日本マニアのフランス人女子大生に「最近の日本に僕は失望してしまっている」というと、「日本に失望するくらいならフランスでは生きられないよ」とからかい半分みたいな調子で冷やかされる。
たぶん冷やかしだったんだと思うのだが、真面目に突っ込み返すと、本当に自分はそういうふうに考えてる、「日本での生活はフランスで生きるよりもベターだ」と主張する。
以前から彼女の祖国への侮蔑が青臭く感じられて疎ましく思っていたから、「たった一分間でも日本で生きたことがないお前に、なんで日本よりフランスの方がいいなんていう比較が可能なのか?」と徹底的に問い詰めた。
彼女はいつまでもどこまでも、フランスへの汚い悪口しか僕に対する反証を提示できなかった。英語が苦手なくせに、やたら“suck”を連発しながら祖国を誹謗する。
前にカトリック原理主義者のポーランド女性のことをここで書いたけれど、ヨーロッパの、ある特定の性格を帯びた若い女たち(男もそうかもしれないが)は、欠落した部分を論理的に埋め合わせて相手に納得させるという極めて西洋哲学的な方法を行使できなかったりする。
フランスで高等教育を受けているということがどれだけの知的スタンスなのか知れないが、ほぼ“suck”オンリーで、僕の与えた命題に対してディベートみたいな感情的やり取りしかできない、日本の大学生でもそんなアホはやらないんじゃないかと唖然とさせられる。
「天賦人権論を否定しようとするような国を、基本的人権の発祥国で生まれた君はあえて選ぶのか?」と質すと、「ああ、そういう国が大好きだ。あなただってそういう国でも愛国心を感じてしまうって言ったよね、だからこんな無駄口はもうおしまい」と捨て台詞のように“suck”されたので、それでぜんぶ終わる。
2年程度、この人にかかわってきた自分はどこまで“suck”だったのか。いや、すべて、そんなものは、ネットがもたらす擬似的なフレンドシップであって、不確かさを泳いでいるだけに過ぎないのかもしれない。
「あなたはネットで何かしらの人を探してはいけない。不確かさの中で戸惑うだけだから」と、ロシア人高校生のローザに冷静に言われる。
まったくそのとおりだろう。
でも、なにがどうやって、本当の何かがあるように見えてしまうのだろう。
仲良くなって、スカイプで話す、「あなたと話すのが好きだ」と言われ、自分もむかしからずっと友達だったかのように思えたりする。
でも、なにかが嘘くさい。
嘘くさいどころか、物事の始まりと終わりまでもが、始まった直後に全部透けて見えてしまう。
Interpalsでconfusionする“suck”である僕と、水商売のお姉さんに現実離れしたところまでトチ狂う無理心中妄想のオヤジとの間に、どれだけの距離があるというのだろうか。
最近フォトコラージュを作っているときによく聴いている80年代のキング・クリムゾンだが、このごろこういう心境になって、「“Hearatbeat”って、こんなに切なくて、優しい曲だったのか」と、思わず慰められるようにしながら自分の心の内のように聞こえてくる。
高校時代、初めて聴いたときは「なに、この捨て曲」って程度だったのにさ。
田村隆一の詩を教えてくれたイメンの言葉を思い出す。
行ったこともない彼女のいるチュニジアを思う。
彼女の言葉の中から、切羽詰った現況からの救いを思い、切実な“Heartbeat”に寄り添おうとする。
i understand hemakovich-san, but don't worry! i want to be your friend and i think friendship is more important than love and lasts more
you know? i used to have love addiction
and get easily attached to anyone
but i understood
that it's because we feel lonely
and want to share our life with someone
so anyone would do
i don't want you to worry, and i want us to enjoy our good friendship
hemakovich-san, i promise you you won't loose me as a friend
僕は、無垢で無邪気なままに、そこへ入ってゆきたいと思った。
でも、無垢であることが怖いと思った。そして、無垢を、僕は否定し切れない。
そうであることが、人にとって、幸せなことなのか、不幸せなことなのか、僕にはわからなかった。
Isolation, Cofusion, Love Adiction and Suck and Me
ブログからの転載である。
文章を書くのは下手だと思っている。だから星空文庫ではほとんど散文詩しか掲載していない。
だがこの日記的な随筆に関しては、書きながら自家中毒を起こすような一抹の自己満足があった。
大正時代のダダイストの辻潤も、時に支離滅裂で訳の分からない文章も残している。
だから、まあいいか、と思ってアップすることにした。
タイトルはKing Crimsonの“Neal And Jack And Me”を模倣している。