砂上の楼閣 -eternal edition-

砂上の楼閣

 見渡す限りの砂利と砂の大地を歩きはじめて何時間経った頃であろうか。そろそろだろうと眼を凝らして遠くを見渡すと砂塵の向こうに微かな針のようなものが見えた。蜃気楼であってほしくないと願いつつ、双眼鏡を取り出して確認すると、それは黒い塔であるとわかった。
 僕はほっと安堵した。間違いない。あれは、目的の村(コロニー)だ。
 
 僕がその村に着いたのは、太陽の昇りきった昼過ぎ、であった。  
 その村は、石造りの城壁に囲まれており、通過できる門は一つしかないようだった。かといって、管理はあまり厳重ではなく、壁材はところどころ劣化し、苔が生え、穴が開いているところさえあった。
 僕は一応門へ向かったが、門番は僕の姿を一目見るなり、片腕を上げて快く通した。 僕の外側にまとった駆体を見て、同胞であると認識したらしい。
 中に入ってみると、外の砂漠とは一転して、そこにはのどかな田園風景が広がっていた。周囲の一帯が荒野であるにもかかわらず、目に飛び込んできたその自然な緑からは、逆に、この村の住人が相当手を加えて人工的に景観を維持してきたことが想起された。
 
 緑の合間に白い小屋が見える。少し行くと、一周り大きい二階建ての一軒家も見受けられた。この村の住人の住処だろう。豪奢な装飾などはないが、刈りそろえられた玄関先の植物や、白く磨かれた柱や壁からは小奇麗な印象を受けた。
 彼らの住居スタイルは、我々のスタイルとはかなり違うと聞いていた。複数の「人間」が集まって一つ屋根の下に暮らすらしい。我々も確かに一つの建築内に密集して居住することもあるが、その場合、一人一コンパートメントは必須である。
 しかし、彼らの場合は、必ずしもそれぞれの居住区がコンパートメントで分かれているわけではない、という。鍵のついてない解放した部屋や、場合によっては一部屋に複数が暮らしていたりするらしい。食事時にはわざわざ広間に集まって「イッカ=ダンラン」したりもする、という。 
 その話を聞いた時、よく、それで精神を平穏に保てるものだと不思議に思ったが、これほど違う我々種属「ヴァイオロイド」の感覚と彼ら「人間」とを同一に考えても、仕方あるまい、と思い直した。
 
 そこは他の世界から隔離された村であった。
 円形の形状をしたその村には一つだけ大通りがあり、上空から見ると、さながら時計盤のような形をしていた。短針の欠けた時計。その中央の軸に当たる部分に聳え立つのが例の黒い塔であった。
 僕は、その村の唯一の街道を中央の塔に向かって歩いて行った。
 一見、土がむき出しのままの道に見えたが、近づいてみるとそれは、人工的に敷き詰められた、褐色の土を模した粒子状の緩衝材であることがわかった。そのふかふかした質感は、金属の駆体を外から纏って目方が増した僕には歩きやすいものだった。
 なるほど、これならこの作動性の悪い関節でも、負荷を少なくして歩くことができる。駆体特有の硬い関節を曲げる際に鳴ってしまう妙な軋み音も、心なしか控えめになったように感じた。
  良く考えられているものだな、と思った。 
 
 大変暑い日であったせいか、街道からは動いている人影はあまり見掛けなかった。それでも時折住人と出くわすことがあった。
 一度、小さめの住人達が幾人か、球状のものを転がしている様子を見かけることがあった。僕にとってそれはとても珍妙な光景に映ったので、つい立ち止まってその様子を眺めていると、そのうち一人、中でもとりわけ小さい者がこちらに歩いて来て、彼らの言葉で話しかけてきた。
「ねえ、君も遊びたいの」
 僕は状況が呑み込めなくて一瞬戸惑った。遊ぶ、とは何の事なのだろうか。そして、どんな意図があってこの小さい駆体は僕にわざわざ興味を示したのか。
 そんな思考がほんの数十分の、いや数百分の一秒、神経回路内を駆け巡ってから、どうやらその問いに真面目に取り組むには時間と経験による神経回路の拡充が不足しているらしいと僕は判断した。
「ありがとうございます。しかし、私は今忙しいので」
 僕はとりあえず、練習してきたマニュアル通りの受け答えをした。
 こういえば相手は了承するはずだが、小さい「人間」は、不思議そうに無言でこちらを見上げている。
「失礼します」
  僕はそう言葉を続けて、なるべく素早い足取りでその場を去れるように努めた。
 
 ようやく僕が塔のふもとについた頃には、太陽はすでに大分傾いていた。
 塔の前は少し開けた広場になっていた。遠くからは石畳が敷き詰められているかのように見えたが、近寄ってみるとこれも先程と同様の柔らかい緩衝材であった。
 周囲には今までよりは幾分か高い建物が並び、それぞれの軒先からは布製の屋根が張り出していた。しかし、どこもシャッターが降りていて、中がどうなっているかはわからない。汗の臭いもざわめく生体音声もしない、だが、無音か、といわれればそれは違った。それぞれの建物の中からは、金属のかちあう音や、弁のようなものが擦れる音が鳴っていた。
 一瞬、ここには誰もいないのかと思ったが、よくよく考えてみると、ここは「人間」が暮らす土地なのだ。だから、彼らの出す生活音が、僕が慣れ親しんでいる生体反応的なそれとは真っ向から相反するものであって至極当然なのである。むしろ、ひっきりなしにリズムを刻み続ける物音の密度からすれば、彼らは建物の中でせわしなく働いているのだろうとさえ思われた。
 僕は、塔の前に立った。
 あと少し、で目標達成である。
 建物から外に出てくる者はいない。レーダーの探知音等もない。これから僕が何を行おうとするかに気付いている住人は、誰一人としていないのだとわかった。 
 今まですっかり忘れていたが、駆体の内側で、汗が滴り落ちるのを感じた。額、顎、脇腹を滴り落ちるミネラルを含んだ水滴……長いこと意識から葬り去っていた生身の感覚が鮮明に蘇るのを感じた。
 しかし、そのしなやかな湿り気やそれに伴う生体反応の快感に意識を戻すには、いささか早すぎた。
 僕にはまだやるべきことがある。

 塔の中に踏み入れようとすると、そこには強固なバリアが張られていることがわかった。赤外線カメラにも映らない無色透明の何か、膜のようなものが、入口のところをすっぽり覆っており、中に入れないようになっていた。
 僕は舌打ちした。奴らに気付かれていたか。僕はショーウィンドウの中のマウスであり、トラップにはまった惨めな一ヴァイオロイドだったのか。
 その時、入口の脇に縦長の筋が入ったかと思うと、そこから光のスリットが左右に開いた。どうやら、それは出口になっていたらしい。
 僕は反射的に身構えた。
 中から出てきたのは「人間」――タイプFM――であった。

「あら、あなた参拝の方? 今日は塔はもう閉館の時刻よ」
 のんきなそぶりで言うタイプFM。疑っているそぶりはない。だが、これもトラップの一環かもしれない。以前、僕がこの村について調べた時は、この中央塔は夕日が暮れるまでは開館しているものと聞いた。まだそんな時刻ではなかった。
 僕が答えあぐねていると、相手は僕の駆体の胸部のあたりを見て、驚いたようなリアクションをした。
「あら……あなた、もしかして外から来られた方?」
 何かまずかっただろうか。この駆体の外面は完璧に彼らのものを模倣できているはずだ。
「見たことない製造番号(コードナンバー)ね。てっきり、どなたかが身体を修理(リフォーム)したのかと思ったわ」
「あ……はい……」
  僕は、名前で呼び合う文化をもつ彼らが、製造当初の番号などにいまだに価値を置いていることを意外に感じた。これは完全に我々の側の者の調査(リサーチ)不足であった。
「そう、なら、知らなくても仕方ないわね」
 フウ、と相手の機械弁が鳴った。
「明日は、夏至の日だから。今日はお祭りの準備のために早く閉まるの」
「お祭り……?」
「ここの村では一年で一番長い夏至の日を太陽の日といって祝福するのよ」
「は……はあ」
 僕が聞き返したのはそういう意図ではない。純粋に、「お祭り」という単語の意味をはかりかねたのだ。
 「お祭り」という言葉自体は、僕の脳内記憶の片隅に存在した。かつて我々ヴァイオロイドが、旧人類という名称で暮らしていた頃、我々の世界でもそういう儀式があったものだと以前書物で読んだことがある。しかし、それが具体的にどういうものだかは、僕の記憶(メモリ)には記載されていなかった。
「お祭り……とは?」
「そうね。歌ったり踊ったり笑ったり、…とっても楽しいことよ」
「たのし……い」
  この言葉は先ほどの言葉よりもっと謎だった。
 一応これでも、それが「精神状態」をさす概念的な語であるのは知っている。しかし、それ以上のこと、それがどういった感情状態をさすのかは、経験したことのない僕には知る由もなかった。
 この駆体の顔面部分には、たいした表情機能はないはずで、それゆえに僕がどう感じたかは顔面を通しては相手には伝わってはいないはずだった。しかし、それでもなぜか僕がマスクの内部でその単語に対して怪訝に思ったことを相手は読みとったらしい。
 ああ、なるほど、といった風に、むやみに大きくうなずいて、そのタイプFMは僕を慰めるような口調で言った。
「あら、もしかしたら、あなたの村ではまだ、そうした精神文化レベルに達せていないのかしらね。以前別の旅人さんから聞いたことがあるわ。その方の見てきた村の機械人間は、私たちみたいな喜怒哀楽といった感情は余り持ってないみたいなのね。我々機械人間の中では、精神の成長レベルが、そこまで行かないままで止まっているものも多いって。それに、意図的に成長しないように止められている場合も多いみたい。可哀想に、どうしてそんなことするのかしらね」
「は……はあ」 
 それはあながち間違っていなくもない。ただ一つ、本当は違う点があった、我々の居住区(コロニー)は、機械人間のものではない。
 それ以外は確かに間違っている点はなかったが、だが、不快な言葉ではあった。そのタイプFMが僕の正体に気付いていないが故(だから本当は喜ぶべきなのだ)とはいえ、我々、優位種であるべきヴァイオロイドを、機械人間と同列にみなしてほしくはなかった。
 もう一つ不快に思うことがあった。それは、そのタイプFMが、「精神文化レベルが未発達なこと」を、「可哀想」と表現したことだ。
 我々は、決して可哀想などではない。
 むしろ、そんな喜怒哀楽など、余計な要素を持ってしまった、彼ら「人間」の方が、よっぽど見下されるべき憐憫の対象である、と僕は思った。
 一連の思考の流れはコンマ数秒のうちに起こった。そのあいだ僕は無表情で突っ立っていた。さすがにここまでは、僕が何を考えたかは読みとれなかったのであろう。
 タイプFMは少し明るい調子を取り戻して、言った。
 「まあいいわ。とにかくあなた、明日またこの広場に来ることをお勧めするわ」
 「そう……ですか」
「ええ、そうよ」
 明日か。僕は、一応複数日滞在できる程度の固形食料や備品は携帯してきていたが、それでも、一晩をここでやり過ごすことを考えると多少憂鬱な気分になった。そうなると、僕は持っているものが故に今晩は睡眠をすることができず、それにより特有の負荷が身体にかかるからだ。
「どうしても、明日でないとなりませんか」
  僕は多少枯れ気味の音声で言ってみた。これで「困った」感じが出るだろうか。
「そうね。これは村全体の行事だし。どうしても、今日じゃないと駄目な用事なの?どうしてもというなら、村の長老に……」
「いえ、そこまでの要件では……」
 なるべくなら今日中に済ませたい事柄ではあったが、そちらの「わがまま」を主張しすぎた結果、事が穏便に進まなくなる方が、僕にとっては都合の悪いことであった。だから、仕方なく僕はその欲求を抑えることにした。
「あら、そう、ならよかったわ」
  相手はそう言ったが、しかし、完全には僕の態度変化に納得しきったわけではない様子だった。そして、少し間をおいてから、ふと、何かに思い当ったかのように続けた。
「あ、あなたもしかして、泊るあて……」
「あて……ですか」
  僕は、つい言葉をそのまま反駁した。すると、相手はなにかそれを意味あるものであるかのように受け取ったらしい。
「なるほど、そういうことね。それなら、よければ、うちでもいいわよ。空いている部屋があるから」
 僕は一瞬、目の前のタイプFMの言っている言葉の意味が理解できなかった。そして、それが、「今晩彼女の家に泊まって良い」という意味だと把握してから、さらに、彼らの発想に驚愕した。見ず知らずの、身分証も明かしていない相手を自らの居住部屋(ホーム)に泊めるなど、我々の発想ではまず考えられないことであった。
 僕はそんな気分の悪いことは厭だったし、装備もあるのでその辺りで野宿出来れば、と思ったのだが、その時、ここは彼らの村内部であることを思い出した。
 どんな道端の隅や、木々の間でも、彼らに見つかる恐れがある場所だ。今とは違って、夜中に外で休んでいるところを見つかった場合、不審に思われいろいろ問いただされる可能性がある。そして、それはより不都合なことであった。
 それらを踏まえて考えて、僕は、
「お言葉に甘えさせていただきます」
  と言った。
 事前に予習してきた通りの言い回しである。
 これで、これから十数時間、この駆体と近距離で同じ屋根の下過ごすのかと思うと気が重くなったが、いずれにせよ、屋根の下で休めるのはありがたい、と前向きに思うことにした。

 その家は、その広場から二十分ほど歩いていった、なだらかな丘の上にあった。周りは緑地であり、そのなかに一つ白い家が佇んでいた。
「サーシャって、呼んで」
  それがそのタイプFMの名前だという。花瓶、という意味らしい。
「密集住宅には住まないのか」と聞くと、タイプFMは、「そういう人もいるわ。でも私は違うの」と言った。ここで独り、周りの緑地を畑として管理しなければいけないからだという。それは義務なのか、と聞きかけたが、声(ヴォイス)に変換する前にやめた。僕自身、なぜそのような思いに取りつかれたかが上手く説明できなかったからだ。
 中は意外とゆったりしていた。
僕にはそれ以上の感想はなかった。
「何かわからないことがあったら、遠慮なく聞いてね」
 わからないこと、といったら、それこそ先ほどのお祭りとは何なのか、楽しいとは何なのか、等が確かに気になりはしたが、それらの言葉のさすところは彼らの間では暗黙の了解になっているらしいので、それを訊くのはやめた。不審がられるような要素を増やす必要はない。
 サーシャは、階段を上った先の部屋を空き部屋と言って僕に入るよう促してから、
「ちょっと一仕事済ませたら、夕食の準備をしてから呼びに来るわ。それまで待っててね」
 と言って、階下に降りて行こうとした。
 僕は彼女の背中に声をかけた。
「一仕事……とは」
 断じて呼び止めようとしたわけではない。単に僕は他者がこれから何かを行おうとしている時に、曖昧な言い回しで抽象的に内容を濁されるのが嫌いだった。もともと他者などあまり信用してはいないが、そういう者はとりわけ信用ならなかった。
「畑の作物に水をやってくるわ。あと放牧している山羊の餌づけも」
  僕が「なるほど」と言うと、サーシャはまた、その言葉を別の意味に捉えたらしい。
「興味あるの? 見たい?」
「いや、ない」
 そう言うと、サーシャは、頭部を少し下に傾けて一瞬黙った。そして、続けた。
「そうね、じゃ、それまでくつろいでてね」
 そう言うと、サーシャはそそくさと階下へ降りて行った。
 僕は「くつろぐ」という言葉の意味はもちろんわからなかったが、とりあえず、その部屋にあった木枠に布製のソファに腰かけた。多分、僕の記憶(メモリ)には知識として入っていた、ずっと昔のアンティーク調と呼ばれる家具の類だと思った。
 部屋が静かになると、僕は駆体の中で目を瞑った。
 眠れない場合の休憩には、これが一番良い。
 駆体の外面を模した装甲の一番厚い部分、胸のあたり、に隠した四角い箱(ハコ)の熱を、生身の胸でそっと感じた。
 僕は何も考えない。永遠の白い世界。その世界を固型の形を持たぬ僕は意識となって浮遊している夢を見た。
 ある美しい芸術作品を完成させる。それが僕の使命だった。それはいきすぎた秩序を始原の状態に揺り戻すための儀式であり、白い絵の具が霧のように飛び散る形で完成するはずのものだった。
 僕はそっと胸に抱えた箱の温度を意識から呼び起こした。そいつは確かに「疼いて」いた。爆発したがっていた。自由になりたがっていた。僕はそいつを嗜めた。今ここで爆発してしまってもいい。しかし、まだここは中心でない。 
 中心に、ほんとの世界の真ん中に来たら、その時こそ本当に、思う存分、火花を散らしてくれたまえ。 
 そうしたら、美しい世界が描けるから。
 ――僕は、それが、見たい。

 コンコン、とドアをノックする音がした。
 ああ、と僕は、眼を開けると、そっとドアが開いて、タイプFMの駆体が遠慮がちに入って来た。
「よければ、これを使って」
 といって、サーシャは布でできた衣服のようなものを僕に渡した。駆体をすっぽり覆うような大きさで、真ん中が開閉するようになっていた。同時に帯も渡された。
 どうやらそれを、身に纏えということらしい。そういえば、確かに、今まで街道で見かけた住人は、皆似たような物で駆体を覆っていた。
 僕の文化における衣服とは違っていた。我々の常用する衣服は、もっと身体に密着する素材でできており、速乾・保温機能に優れていた。ヴァイオロイドは身体温度調節が不得意なので、補助機能として、外部を衣服で覆わねばならなかった。一方、彼ら機械人間の駆体はそれ自身で体温調節機能が備わっている。だから本来は衣服を纏う必要などないはずだった。それに、この渡された珍妙な布切れは、解放部が多い造りになっており、あまり保温性は期待できなさそうだ。妙な装飾までついている。
 僕は見様見真似でそれを羽織ろうとした。駆体の外面で覆ったまま腕を左右に広げるのは、慣れない動作なので、大分手間取った。一度、内側で、生身の皮膚がすりむけた気がした。肘のあたりで微かに血のにじむ感触がし、僕は一瞬顔をしかめたが、きっと彼らにその臭いは感じとれまい。
 案の定、サーシャはそれに気付かなかったようだった。
「あと、夕ご飯の支度ができたわ。リビングへどうぞ」
 そういうと、サーシャは階下へ向かっていった。
 僕もその後ろに続いて降りていった。
 
 階下の部屋は、「人間」が二人で食事をするとしても多少持て余すような広さであった。
 言い換えれば、普段サーシャがここで一人で過ごしているとしたら、かなりのスペースが余剰になっていることだろうと僕は推察した。部屋の中央には木製のテーブルがあり、そこにはいくつかのプレートや容器がのっていた。プレートの上には、油分を固めたような物や色とりどりのゲルやパテなどが、輪状に並べられており、深めの器には粘度のある液体が注がれていた。 
 伏せられた質素なグラス、それに適度な間をおいて配置されたスプーン、ナイフやフォークなどのテーブルウェア。
 その見た目は、以前外の資料館で見たことのある、数百年以上昔のドイツの家庭料理のようであった。  
 ただ、野菜らしきものは、どこにも見当たらなかった。辛うじて、薄切り肉のような色、形状のものがあったが、フォークでつついてみると、それは人工物のようであった。
「あら、それ、気になる?」
 サーシャが僕の様子を見て、聞いてきた。
「ええ、美味しそうですね」
 僕は、とりあえず社交辞令を言った。
「あら。ありがとう。本当はローストビーフじゃなくて、あのパテと同じ合成油脂なんだけど、見た目もなるべく食欲をそそる風にしてみようかなって」
「食欲……」
「ええ、同じ味でも、折角なら、より美味しそうな見た目の方が、幸せな気になるじゃない? だから私ね、より美味しそうな過去の料理を資料をみながら探してみたりしてね、暇な時にこういうの作りためておいて、お客さんが来た時にこうやってサプライズとして出すの」
「サプライズ……ですか」
「ええ、私ね、こう見えても結構器用なのよ。東洋の国の古資料を見ながら、スシっていう海産料理を真似てみたこともあるし。あの時は我ながら結構いい出来だったわ」
「はあ……」
 僕は、珍しく実直な感想を述べた。本当になんと答えていいかわからなかった。そもそもの議題も、一体どの部分を誇らしげに言っているのかも、さっぱりだった。
 彼ら人間も、僕らヴァイオロイドも、活動するのにエネルギーが必要で、定期的にそれを摂取する必要があるのは変わらない。だが、それを摂取するにあたって、そのエネルギー源の見た目などにどんな意味があるというのだ。そのエネルギー源とするものは、彼らの場合は油脂やイオンの入ったゲルやゾルであり、一方我々「ヴァイオロイド」の場合は炭水化物や肉野菜を原料としたものであるというのは大きな違いではある。しかし、それだけだ、と僕は思っていた。
 だが、そうでも無いらしい。両種の間では、もっともっと、ずっと多くの理解しあえぬ溝があるようだ。僕は胸の内に濁った泥のような何かを感じた。
 やは……リ、カレラハ、キケンダ。
 意識の中で、恐怖というアラームが僕だけにわかるようにひっそりと、鳴った。
「私ね、たまにここでお友達を招いて、お食事会をするのよ。」
 サーシャは全く僕の考えていることに気付いていない様子だ。もちろんこの場で僕は何かをするつもりはない。穏便に一晩を乗り過ごして、そして、明日……。
 だからある意味「今、現在の」彼女に対しては、僕は危険な存在ではない。だから、彼女の無防備すぎるように見える態度は、間違ってはいないはずだ。
 だがしかし、僕は明日……。
 すると彼女は結局。
 結局?
 彼女?
 なぜ、僕は彼女のことを考えているのだ?
「お友……達?」
 思考は半ばフリーズしたような状態のまま、僕は彼女の言葉の一部、聞こえた断片を機械的(オートマチック)に反芻した。
 僕はサーシャの好む会話のパターンを把握しつつあった。その発する言葉の中から、適度な単語を抜き出して呟くと、彼女は勝手に僕が何を思ったかを――例え何も思っていなくとも――想像し、後から後から言葉を継ぎ足していってくれる。そうすれば、時間が無限に埋められる。
 所詮、機械人間などそのようなものだ。
 何の面白みも、ない。
 
 僕は促され、片側の方の木組みの椅子(ウッドチェア)に座った。サーシャももう一つに座った。
 僕らは、目の前の食物を次々にナイフとフォークで口元に、あるいはグラスで色のついた透明な液体を口元に運びながら、その村のことについていろいろな会話をした。正確には、僕が単語をいくつか発し、サーシャが例のごとくそれについて自身の――とりわけ個人的な見解を述べ続ける、といったものであった。僕が自発的に単語を発するたび、サーシャは目を輝かせた。いや、実際のサーシャの眼(センサー)は物理的には光ってなどいなかったが、なぜかその表現がしっくりくる気がした。
 あれ。僕は自らそのような比喩でサーシャを捉えたことに対して、違和感を抱いた。
 ――ソノ比喩ハ、ドノ記憶(メモリ)カラ湧キ出タノダ。
 まあいい、大したことではない。
 そう思って、僕は手にしたグラスに注がれていたマゼンタの半透明の液体をそっと駆体の口元の部分に流し込んだ。これは、内部に用意した樹脂袋に流れ込む仕組みになっている。こうすれば、実際は消化できなくとも、食べている様に振る舞うことができる。我々の側にとっても、実質、貴重な無機資源の採取と同じとみなせる行為なので、善いことであった。
 サーシャは、周りの住人を呼んで定期的に、ここでパーティをすると言った。
「それぞれ、皆、自分のところで採れた作物や、醸造したものを持ち寄って集まるの。例えばお隣さんのマリィはミルク、お向かいのトンプソンさんからは麦酒という風にね」
 作物の収穫を祝って。豊穣を祝わって。
 僕にはさっぱりわからなかった。
「その持ち寄った食物は、食べるのか」
「いえ」
 サーシャは少しかなしそうだった。
「食べれ、ないの」
 僕は、「はあ……」と息を小さく吐いた。自分らの使用しないものを、なぜ、手をかけて栽培し、採集し、調理する?
 「でもね、多分私たちが、そう、受け継いでいかないと。将来、誰かに、その記憶を『還す』時に、誰もできなくなっちゃうかもって」
 僕はサーシャが何を言っているか、やはりわからなかった。こういった時、適当にやり過ごした方が効率的でエネルギーの消費が少なく済む、というのは、今までの経験から、了承していた。しかし、なぜか僕は発言した。
「それは、義務、か?」 
「……いえ」
 サーシャは一瞬迷ったようだが、小さい声で、続けた。
「主人が残した畑だから」
「主人というのは」
 僕は間髪いれずに聞いた。自分でもどうしてこんなに流暢に言葉が出てきたのかわからない。
 サーシャは擦れた音で言った。
「もうずっと昔に亡くなった人よ」
 小さく空気弁が鳴った。
 それ以上、サーシャがこの件について答えることは無かった。
 それ以降の話題は他愛無かった。
 僕は例の塔について、いくつか質問をしたが、彼女の答えるのは、「外壁のデザインって意匠方面でとても高名な型が造られたんだって。でもあのごつごつとした感じは、私は好きじゃないの。もっと柔らかい感じの方が素敵じゃない?」とか「広場の前に明日並ぶ特別市場ではね、名物商品として、レア・オイルが格安で手に入るのよ」とか「外壁磨きの作業は同級生のトマスがやったものよ」といった、実にどうでもよい返答ばかりだった。
 ――どうでもよい?
 それでは、彼女のそれ以前の話は、どうでもよい話ではなかったのか? 
 ナかっタのカ。
 キォ……コフォ……アェ……。

 ほぼ、食事が終わった。
サーシャは自分の養分として、皿の上の者を消費したし、僕は、僕の居住区域に持ち帰る資源として、皿の上の物をしまい込んだ。どちらも同じことだ。
 ただ一皿、スープにだけは口をつけなかった。粘着質の液体油は、僕の外体の接合部分を悪い方に腐食させる恐れがあった。もちろん、これは、僕の外体の関節が偽物だからである。本物の「人間」にとっては、この上ない上質な潤滑油、であった。
 僕は一声「苦手なんです」と言ってスープを残した。 
サーシャは僕がスープを残したことに対して、「あら、そうなの」と言ったきり、それ以上のことは何も聞いてこなかった。
 ああ、やはり彼らは僕らとは違う。
人間は、一体一体、異なった味覚の好みを持つとは聞いていたが、本当にそうなのだ。重要な栄養分を拒絶しても、それは、各々の好き嫌いの範疇ということで、許諾される。
 その自由はなんとうらやましいことか。
 ――今、僕は、生体脳の中で何を言った? ジ……ユ……?
 合成音声がした。
「よければ後で私のビニルハウス見にこない?」
「嫌だ」
 僕は今度ははっきり拒絶した。
 それを言った時のサーシャの反応がどうだったかは余り覚えていない。ただ、すこし身を後ろに反らせたのが、視界に映ったような気がした。

 部屋に戻った僕は、今度は寝台の上にどっかり腰を下ろした。その勢いでキィと軋むボトムと金具の擦れる音。僕は駆体の中で、はあ、と息を大きく吐いた。汚れた銅板とオイルの混じった臭いがした。
 今日の僕はいろいろとどうにかしている。僕の軽やかなはずの生体脳回路が何かの拍子で暴走しそうになったことが何度もあった。僕は内省した。今まではこんなことは一度も無かった。
 もしかしたら、と僕は仮説を立てた。僕の内省癖が悪い方に働いたのかもしれない。この村でどっと流れてきた新しい情報、……すなわち視覚、聴覚等……踏みしめた草の匂い……、を通常通りの僕の内部神経回路で認知し、こなしていたら、今までになかった化学反応でも誘起されて、エラーでも起きたのだろうか。
 内省は罪だ。ヴァイオロイドは、皆、幼体の頃からずっとそう教えられる。僕には比較的内省癖があったが、そのことは誰にも言わなかった。他は全て教えられた通りに従って生きてきた僕だが、この教えだけには従う気は無かった。外からの刺激に対して、自分の頭の中で一旦こなして処理することの何が悪い、と思っていた。現実にアウトプットする結果が同じならば、その間の過程が多少他人と違おうとも、そこには違いなどないはずだ、と。
 しかし、やはりそれは善くないことかもしれない。とりわけ、このような異郷の地では。
 僕は横になった。もう、何も考えまい。眼を瞑った。生体脳内から投影された白い画面(スクリーン)を見ようとした。代わりに、ランプの灯の明るさと瞼の裏の脈々とうつ血流が見えた。身体的疲労が解けていくように感じた。意識が、無に帰……。
 刹那、脳内で、胸の内にあるものがけたたましく雄叫びを上げ、喜び暴れまわる図(え)が明瞭に描かれた。
 僕は、はっと思い出した。
 今は、寝られない。もし無意識のうちに寝返りをうって衝撃を与えたりなど、したら。
 僕は、震えた。
 かといって、何かを考えるわけにもいかない。考えるとは、何か、途方もない闇の深淵をのぞきこむような行為であるような気がした。今の僕に抗う力は無い。その淵からずり落ちて、きっと奈落に呑みこまれてしまうだろう。
 ……じゃあ、どうすればいいというのだ。
 ――jャア、ドォぅスゑバィいトィ……。
 また、お前か。
 そうだ、一晩中反復運動を繰り返すのはどうだろう、と閃いた。無意味な、それでもって多少意識を集中しなければならないような煩雑な動作をあらかじめ設定し、それを淡々とこなす。それならその動作が続けられる限りはどちらの条件もクリアできるだろう。
 だが、残念なことに、僕の生身の肉体にはそれほどの耐久力は無かった。きっと朝が来る前に疲労困憊し、睡眠欲にまみれて崩れ落ちてしまうことだろう。
 眠りだけはどうしても避けなければ。
 他に案は無いか。無いのか。僕は必死に生体記憶(メモリ)内のありとあらゆる事例を呼び起こした。まだ足りない、まだ足りないと、記憶と思考を整理し繋げていきながら、僕ははたと、あることに気付いた。
 すなわち、これこそ「考える」行為そのものじゃないか。
 ――ダッテ、我々はニ……ンダカラネ。
 お前は何者なんだ。
 何者なんだ。
 なニ…。
 僕はがっと体を起こした。
 そうだ、サーシャだ。
 適当に単語を言えばその後は勝手に話を広げて喋り続けてくれる存在、サーシャのところへ行けば。そこへ行けばこの無限に長く感じられる時間が、瞬時に潰せるかもしれない。
 僕は、ドアを開け、階下に降りた。
 下では、先ほどのリビングで、今度はソファに座ってサーシャは何か手作業をしていた。僕が入っていくと、彼女は作業する手を止めて、こちらを見上げた。
 僕はとりあえず何かを言わなければと思った。
「すみません」
「あ、さっきのこと? 大丈夫よ」
 そう言って掛けていた丸眼鏡を外すサーシャ。
「気にしてないから。それよりあなた、疲れているでしょう。顔色が悪いわ」
 ああ、この感覚だと思った。全く違うように解釈され、話を広げられる、この感覚。かといって、訂正するほどの不快さもない、この感覚。
「顔い……ろ?」
「もしかして、眠れないの? お茶でも飲むかしら」
 今ほどその誤認を有難く思ったことは無かった。

 サーシャは縁側の方へ僕を手招きした。
「こっちへ来たらどう? 今日は月がとっても綺麗よ」
 僕は言われるままそちらに向かった。目の前は庭であり、穂のある枯れた色の植物が多く植えられていた。穂の隙間から、軽やかな金属音のようなものがところかしこで響き渡っていた。サーシャ曰く、ある特別な種の虫の声らしい。
 サーシャの横には透明なポットと氷のはいったグラスが二つ置いてある。注がれた液体はきれいな赤茶色をしていた。オイルらしき臭いもしない。
 氷を入れて、ストローをさして口に運んだ。恐る恐る吸ってみると、確かに植物から抽出したもの特有の感触がした。上質の茶であった。
「貴女は、これを飲むのか?」
 僕は、疑問に思った。これは、旧人類時代のヴァイオロイド側の飲み物であろう?
 物理的に飲めないことはないはずだが、おそらく味覚の精度上、彼らにとっては水と変わらないはずだ。
「たまにね」
 そういってサーシャは遠くを見ながらグラスを微かに傾けた。
「主人を思い出しながら飲むの」
 ずっと向こうに畑が見えた。
「その、主人というのは、「人間」……なのか?」
「ええ、人間よ」
 サーシャは庭の向こう側の方を見ている。その視線の先にあるものは畑であったが、本当に見ているのは、もっとずっと遠くにあるものなのだろう、と感じた。それが何なのかは、僕には知る由もないが。
「貴女は今、何を見ている?」
「何を見ているのかしらね」
「自分でも判らない?」
「ええ、わからないわ。目の前のすすきを見ているのか、向こうの畑に別の記憶を重ねて見ているのか、ただ夜の風を心地よく感じているだけか。……全部かもしれないし、どれでもないかもしれないわ」
 僕はサーシャが嘘をついているような気がした。サーシャには本当ははっきり何かが見えている。ただ、それを僕には言いたがらないだけで。
「主人、じゃないのか」
 僕がそう言うと、サーシャは少し驚いたように眼を見開いて一瞬こちらを見た。
「あなた、随分とらしくなったわね」
「どういうことだ?」
 サーシャはふふっと笑って、問いを遮るように、紅茶を飲んだ。
 カランと、氷の音がした。

「ねえ、貴方の街の話を聞かせて」
 サーシャが話題を切り替えた。
「『私ノ出自ノ話ハ出来マセヌ』」
 僕の思考が形になって声(ヴォイス)を発音する前に、駆体の方が自動で反応して合成音を発した。反射的に、僕のそばに伸ばした手をサーシャは引っ込めた。
「……じゃあ、私の知らない、外の世界のことを教えて」
「なぜそんな事を訊くのか」と答えると、「だって興味あるんだもの」と言う。
「あなたはどんな世界を、見てきたの?」
 仕方なく、僕はとあるヴァイオロイドの一日について話をした。
 その居住区(コロニー)に住むヴァイオロイドは、午前7時起床で、灰色服(スーツ)を着用し、三十分以内に朝食を済ませ、居住部屋(ホーム)を後にし、それぞれ所定の機関にリモート・ボックスで勤務する。リニアモーター・ボックスは多くの乗客を収容し、高速移動をさせることの出来る通勤手段で、区画毎に、リニアモーター・ボックスが停泊するステーションという所があり、各個人は居住区から一番近いステーションまで、朝の所定の時刻までに、到着しなければならない。ステーションの入り口では、巨大人工知能に繋げられた端末に、各々の持つチケットをかざさなければならず、そこで違反者・遅刻者はチェックされる。それらの者には罰則が設けられているが、現実問題として、規則を破ったり遅刻をする者はいない。それほどヴァイオロイドは優秀なのである。
 また勤務先の機関では、ヴァイオロイドはそれぞれの能力・適性に応じて千差万別の技能職を割り振られている。あるヴァイオロイドはベルトコンベアを監視し、流れてくる製品が破損していないかブロックごとに精査(チェック)する係り、別のある者はモニターに映される文字記号を眼で追い、反射神経と生体脳回路を駆使してそれに対応するキーをタイピングし続ける係り、と言った風に。
「映画監督とか、パティシエとか、そういう仕事は無いの?」
 サーシャが口を挟んだ。僕にはどちらも聞き覚えが無かった。映画監督とは、どういった現場を見守る類の監督業なのであろうか、と一瞬考えたが、すぐにどうでもよくなった。
「そんな仕事は存在しない」
「ブティックとか、花屋さんとか、そういうのも?」
「花屋……?」
「花が売っているお店よ」
 花というものはこの村の外にも存在した。だが、外の居住区(コロニー)においてそれは、わざわざ売り物にするようなものではなく、道路などに勝手に植生してしまうような、迷惑なだけのものだった。整地の際に摘み取る手間をかけさせるようなそれだけの印象しかない。
「そんなものを売ってどうするのだ」
 僕がそう答えると、サーシャが哀しそうに手を横に振った。
「そう……。続けて」
 話はヴァイオロイドが一日を追えて帰宅するところまで差し掛かった。
 サーシャはこんな何の変哲もない話のどこが面白いのか、飽きもせず興味深げに聞きいっていた。
 僕は最後の一文を述べた。
「そして、ヴァイオロイドは、規則正しく睡眠に入る」
 これで、話は終わりだ。
「それで、終わり?」
 サーシャは物足りなさそうな声を出した。
「ああ。……なぜ?」
「だって、朝から働き詰めじゃない」
 そうだ。朝から働き詰めだからこそ、ヴァイオロイドの身体には休養が必要であり、だから睡眠を摂るのだ。生産性の下がる夜に、眠ることの何がおかしいのだろう。
「くつろぎたくはならないの。好きな音楽を聴きながらの読書とか、満月の夜にはご褒美にベランダでお酒を一杯とか、恋人との夜の語らいとか、そういうひとときっていらないの?」
「要らないな。夜は寝るだけだ」
サーシャは不思議そうに聞いてきた。
「それってとても寂しいことじゃない?」
 その言葉の意味は、僕にはよくわからなかった。
――ワカラナカッタ。
 少し暗くなった気がした。上を見上げると、ちょうど雲の合間に満月が隠れたところだった。
 今までの半生で初めて、まともに月を見たような気がした。

 気付いたら朝日が差していた。どうやら僕はあのままの体勢で眠ってしまっていたらしい。起きたら毛布がかけてあった。
 幸い、僕が意識を失っている間に持ち物には何も変化は無かったようだ。駆体の胸部にしまったはずの例の箱(ハコ)について意識を遣ると、そいつは以前と同じようにそこで佇んでいた。その金属で覆われた中から染み出してくる熱を感じて、そいつがどのようなものかを思い出し、僕は身震いした。
 早く、箱を置き去ってしまわねば。
 それはもはや義務と言うより、恐怖によるものだった。僕の身体は完全には制御できないらしいことが判った以上、一刻も早くこの破壊神を纏った金属塊を手放してしまいたかった。
 僕が立ちあがって、家の中に戻ると、サーシャは奥まった所で何か作業をしているようだった。取っ手の付いた注ぎ口のある偽球状の物体から湯気が上がり、窯の中で何かが焼けるような匂いがした。彼女はそれらの挙動に気をとられていたようだが、それでも僕のことに気付いたらしい。
「あら、おはよう」
 僕は受け答えはしたくない気分だったが、一応返した。
「おはよう」
 そう言って、部屋に戻るふりをして足早に家を去ろうとしたが、サーシャに「そっちは玄関よ」と言われたので断念した。こんなタイミングで怪しまれてはたまらない。
「塔はまだ開いていないわ」手元で作業を続けながらサーシャが言う。「朝食を摂ってからでも十分間に合うわよ」
「ああ」
時計を見たら、まだ六時台であった。聞けば、塔が開くのは九時だという。開いていない以上仕方がない。それにしても、サーシャは、僕が塔へ行こうとしたことに何故気付いたのだろう?
「お祭りで混みそうだから、早く行きたい気持ちはわかるけどね」
 サーシャが付け足した。
 それを聞いて、本当のところは何もわかっていないのだな、と僕は安堵した。

 朝食は昨晩の食事に比べて幾分か簡素なものだった。昨晩と同様な色とりどりの固型油脂がサラミのように切り分けられ、ベーグルのような中空の茶色い円盤樹脂の上に乗せられている。ただ、飲み物は粘性の低い合成油等ではなく、茶であった。
「高級品ではないのか」と訊くと、「今日は特別な日だから」とサーシャは言う。そういえば、今日は塔の前でお祭りとやらがあるという話だった。
 僕は、食卓の向こうの方に飾られるように置かれているパンのようなものを見つけた。近づいて触れてみると、驚いたことに、それらは本物のパンであった。
 僕は戸惑った。なぜこのようなものがあるのだろう。サーシャは僕の様子を見て言った。
「あ、それ?いいでしょう。本物のパンなのよ」
「本物……」
「ええ、小麦をすりつぶして、粉にして、練って、窯で焼き上げるの」
「はあ……」
 なぜそのようなことをするのだ、通常の機械人間はこのようなものを食せないはずだ。
「食べない物を、どうして作るのって顔をしているわね。いいのよ、お供え物だから」
「お供え……物」
「だって今日はお祭りよ?」
 そのお祭り、というのは何なのだろうか。何のために豊穣を祝い、わざわざ消費エネルギーが増えるような作業を増やしてまで、使いもしないものを作ろうとするのだ?
それは……それはとても、
「不毛ではないか」
 僕は声(ヴォイス)で述べた。どうしてこの部分だけ、音声変換しようと思ったのかは自分でも解らなかった。
「そう、思う?」
「ああ。自分達では消費できないのだろう? そんな物を作って、結局後始末はどうするのだ」
「捨てるだけ……だけど」
「だったら初めから作らなければよい」
「それは出来ないの。だって、これは主人が……」
 僕は無性に腹が立ってきた。目の前のサーシャにではない、何か個人では到底逆らえぬような強大な何か、理不尽で無情なシステム、それに対する腸の煮えくりかえるような、種全体を代表する思いのような苛立ちが僕の体の内部から沸き起こってきた。
「では、その主人というのを忘れればいい。その主人はもういないのだろう?」
 サーシャは眼を見開いて、僕を見た。それは怯えるような視線だったような気がした。
 黄色い機械眼の光が弱弱しく消え入りそうになった。
 少し間をおいて、そして小さく、「そう……ね」と言った。
「理屈としては、そうよね」
 ふう、とアイスティーを流し込んでから、サーシャは続けた。
「でも、それは出来ないわ」
「忘れられない、と?」
「ええ」
「どうして?」
「深く、刻み込まれているから」
 僕は、それは理屈になっていないと思った。記憶(メモリ)など上書きされているデータの集合体にすぎないのだから、本当は柔(やわ)なものだ。いくらでも書き換えられる。ただそうありたいと、意識さえすればよいだけだ。
「そうよね。不思議よね」
「記憶を失くすことは誰でも物理的に可能な筈だ。記憶など所詮メモリーチップに上書きされたデータの集合体にすぎないのだから、例え自発的には消すことができなくとも、別の者に該当部位の記憶媒体(メモリーチップ)を外からハードごと破壊してもらえば、消えるはずだ」
「それがね、私たち自身の手では、そういうこと、できないのね」
「……」
「そういう風に、なっているの、ね」
サーシャは少し情けなさそうに、でも、強い根拠がありそうな感じで言った。僕はそこで口を閉ざすしかなかったが、一つだけ判ったのは、サーシャ自身も、好き好んで……というよりも、やはり何かに捉われているのだな、と。

 塔が開館する頃合いになったので、僕はサーシャの家を出た。釈然としない思いはあったが、一応最後には感謝の言葉を告げた。
 結果論的ではあったが、結局僕は雨風は凌げたし、あまり身体を消耗することも無かったし、それに僕らの居住区では大変貴重な資材である油(オイル)資源を無償で得ることができた。それは十分感謝に値する善いことであった。
 さらに善いことに、サーシャは村の長に僕の事を紹介してくれた。聞けば、村の長老の案内があれば、一般には公開されていない塔の深部、――そしてそれは厳密にこの街の中心に当たる部屋――を紹介してくれるのだと言った。僕は心が弾んだ。
 とうとうこの村(コロニー)の中心に辿り着ける。そして、箱を――。

 塔の前の広場は昨日とうってかわって、せわしなく活気づいていた。建物の上の方からは色とりどりの旗がはためき、広場の至る所に屋根付きのテーブルが置かれ、穀物や醸造酒の瓶などがうずたかく積まれている中、十数人の機械人間が何かの準備をしているようだった。昨晩から今朝にかけて多くのものが用意されたらしかったが、今も幾人もの人間がせわしなくいろんな物を運び入れていた。
 そんな中、長老は黒い塔の下に立っていた。彼は、今では文献の中でしか見られないような、大変古いタイプのブリキ製の駆体であった。サーシャは見ればわかると言っていたが、その通りだった。駆体は錆も目立ち、駆動音も他とは違ってがさつな印象を与えたが、纏っている衣服の素材は上質で、他の誰よりも長かった。僕は本物を見たことが無かったので確信は出来なかったが、おそらく絹というものなのではないかと思った。そして、それはまた他の住人のものと同様に、よくわからない記号の刺繍がされていた。
 僕が近づくと、長老の方でも僕の事に気付いたようで、
「おお、おお、よく生きていてくれた。遠くの同志よ」
 と旧式駆体特有の抑揚のつきにくい合成音声(ヴォイス)で言いながら、近寄ってきた。
「サーシャから、話は聞いているよ。村の外を旅してまわっているとな」
「ええ、まあ……」
「さぞかし、いろんなものを見てきたことだろう。願わくばこの塔、この村の祭りも貴方の記憶に鮮明に刻印されんことを」
 長老の外見はただの古い機械駆体であったが、その動くさまは、まるで孫が訪れたとでも勘違いした老ヴァイオロイドのようだと思った。ヴァイオロイドは若いうちは優秀に働くが、老いてくると個体によっては、情やら、感慨やらが芽生えてきて特定の個体を贔屓したり、かばったりするようになる者もいる。我々はその状態を、「痴呆」と呼んだ。痴呆になった個体は、労働要因として使い物にならなくなるので、個体は居住区(コロニー)から破棄される運命にある。
 そして、この長老の態度はまさに、我々で言うところの痴呆状態と等しいものだと思った。我々の居住区では不要者として破棄されるべき存在が、人間の村では長老として尊敬されることについて、僕は自分の中のヴァイオロイドの部分で非常に違和感を感じた。
 ――自分の中のヴァイオロイドの部分? 逆に、僕にはそれ以外の部分があるとでも言うのか? ……ああ、またこのエラーか。早く事を済ませて、村の外へ逃げなければ……。

「サーシャのやつは性格はいいが、多少おせっかいなところもあるからなあ。その辺大丈夫だったか」
「ええ……まあ」
 長老は塔の入口の扉を開け、僕に中に入るように促した。
 僕の予想に反して中は広がってはおらず、ところどころに灯篭が点いている上向きのゆるい傾斜を帯びた通路であった。薄暗かったが決して陰鬱な印象はあたえられなかった。
 僕は通路を行く長老の後を追った。
「この塔は外部の人類と、我々の旧先祖様が――まだTS改良2型の時代であるな――が、外部の旧人類の卓越技術と、そして我々の記憶(メモリ)に保存された芸術性と、その両輪を融合させて創り上げた、「故郷」のシンボルなのだよ」
「へぇ……」
「モチーフは、ヨーロッパ最古の天文台でとして北欧のコペンハーゲンと言う都市にあったラウンドタワーといわれているが、かつて存在した極東の島国国家ニホンにあった会津サザエ堂という説もある。いずれにせよ……」
 長老は、嬉々として蘊蓄を語り続けた。
 この古い駆体は、僕が何を考えているかについてはサーシャに増して無頓着なようで、非常に好都合な駆体かと思えた。サーシャだったら、僕がちゃんと聞いているかどうかは気にするだろうし、また、僕が視界から急にいなくなったりしたら、すぐに気付いて何をしていたのかと話しかけてくるだろうから。
「へえ……すばらしいことですね。歴史の重みを……感じます。」
 僕はインプットされている語彙から適当なものをチョイスして声(ヴォイス)に変換した。本当は特に感慨などない。長老は「そうだろうそうだろう」と満足げにうなずき、それを幾度か繰り返すうち、僕の希望通り、中心の部屋に入ることを快諾してくれた。
 途中、長老は僕に奇妙なことを話しかけた。
「パウル・クレーのグラス・ファザードという作品を知っとるかい?」
「いいえ」
 機械人間の文化など知るものかと思ったが、どうやらそれは僕らかつて旧人類側と呼ばれた我々の側の作品らしい。訊けば画家という芸術家の造った作品なんだそうだ。それならなおさら僕が知るはずもなかった。芸術作品というのは旧人類時代に滅びてしまった物の代表例であり、そのような役に立たない事項に費やすような記憶容量(メモリ)は、我々のスマートな生体脳には残されていなかった。
「そうか……。それは残念だ。きっと外の世界のどこかの美術館には保存されているだろうから、いつか眺めにいってみるといいだろう」
「はい。是非」
 そう答えたが、もちろん行く気など毛頭なかった。第一、この村の外の世界、はもうすべて我々の均質(スマート)なヴァイオロイドの居住区文化に染まっており、今や美術館など世界のどこにも存在しない。それ自体が十分遺産であった。
 続く長老の言葉は、少し意外なものだった。
「というのもな、我々のこの村の存在は、その作品に集約されているのではないかと、かねがね思っているんだ」
「……どういうことですか?」
「そのグラス・ファザードには、一見幾何学的な模様だけが描かれている絵だった。当時の観賞者は皆そう思っていた。公開から日が立たないうちにクレーは亡くなった。彼は亡くなる間際に、「少女が死に、現れる」と言い残した」
「はあ……」
「そして作者の死から半世紀ほど経ったある時、その絵の裏に貼られた絵の具が剥がれおちた。するとそこから少女の絵が出てきたのだ。つまり、作者のクレーはその画版の裏に最初から少女の絵を描いておき、それを絵の具で塗り潰してから公開したらしい」
「塗り潰してから……」
「つまり、一枚の絵画に、時間という要素を入れたのだ。絵は観賞された時に初めて完成されるという側面を持つが、クレーは自分の死後を見越して、何十年も先の未来に初めてその作品が、「完成」し、本当の意味を人々に伝えられるようにしたのだ、と」
「はあ……」
 僕は、長老のこの話の意図がわからなかった。内容は分かった。制作した個体が死んだ後、はるか未来になってから発動する装置を組み込んだ、ということだろう。
「それがこの村とどう関係あるのです?」
 僕は正直な感想を述べると、長老は待ってましたと言わんばかりの調子で手を鳴らして嬉しそうに言う。
「そうだ。それなのだが、この絵の場合、本当の意図が伝わるには、時間の経過もそうだが、後世にこの絵の秘密を発見する他者、つまり外からの視線を持つ観賞者、が必要だね?」
「……はあ」
長老は、つまりな、と前置きをしてから言った。
「われわれはこの状態では完成ではないのかもしれないな、と」
「それは一体……?」と僕の生体音声が小さく呟かれたが、声(ヴォイス)に変換する前に踏み留まった。僕は一瞬、長老の言葉の意味をもっと知りたいと興味を持ったが、同時に、それを知ったら僕の中の何かが大きく瓦解してしまうような気もした。

 そのうち我々は塔の最上部までやってきた。今までは螺旋状に塔の外側を囲む通路に沿って上がっていたが、そのまま通路に沿って歩いて行くと、今度は下りになってしまう構造だった。
「塔の中心部にはどうやって行くのです?」と僕が聞くと、長老は「ここだよ」と言って、通路の中央側にある手の平大の金属の装飾を示した。長老がそれを押すと、装飾物が開いて小さな鍵穴を示した。
 長老が鍵を差して捻ると、この小さな鍵穴だけの影響とは思えない程の重厚な金属音がして、その部分の通路が左右に開いた。その中に長老が先に入り手招きするので僕も続いた。僕が中に入ったのを確認すると、長老が壁の何かを押し、先ほどの開口部が閉じた。
 そこは僕ですら溜め息を漏らしてしまう程の、目を見張るような空間だった。
 大きな機械でくりぬかれたような黒光りのする無機質な中空の円筒。その中心にはまた黒い円筒があり、その周りを長さの違う硬質な棒のようなものがゆっくりと巡っていた。時計の針のようだと思った。そしてそこは圧倒的な大きさを誇るそれ以外は何もないがらんどうな空間だった。周囲の壁に埋め込まれた控えめな輝きの照明は不思議な規則をもったリズムで点いたり消えたりを繰り返している。他は全て黒に包まれていた。
 長老は例のごとく蘊蓄を語り始めたが、その声はもう僕の耳には届いていなかった。
 今だ、と思った。僕の胸は高鳴った。僕は長老が向こうを向いている隙に駆体の胸部に仕込んだ留め金を音がしないように外し、腕を斜め下に伸ばした。すると、腕部の空洞を伝って箱(ハコ)が胸部から滑り落ちて手のひらに乗った。
 僕は箱の様子を確かめてから、よし、と小さく脳裏で呟いて、なるべく中心部の近くにある突起物の下に隠し込んだ。その間コンマ数秒、勿論長老は全く気付いていない。
「先人の創り上げたこの空間は、なんと美しいことだろう」
と長老は感きわまったように言った。
「ええ……本当に」
僕も頷いた。これは本心である。
この美しい空間が、どのような荘厳な図像を描きながら崩壊していくのかを想像し、僕の心は高鳴った。
 唯一の心残りは、僕はその瞬間をこの目で見ることができないことであった。

 二時間ほどで、塔の見学は終わった。
 外に出てみると、既に大勢の人間が広場に集まっていた。
 長老曰く、正午には開会の儀が行われるという。興味は無かったが、長老が是非とも見ていった方がいいとあまりにも強く勧めるものだから、一応様子を見てはいくことにした。
 太陽が塔の丁度真上に登った時、ゴーンと低い鐘の音色が広場に響き渡った。すると、それまでめいめいに話をしていた人間達が急に静かになり、一様に塔の方へ向いた。僕もつられてそちらを向くと、塔の中腹の窓から松明を持った長老が顔を覗かせていた。
 長老がその灯(ひ)を窓枠の一部分に近づけると、引火した灯が導線を伝っていろんな所にぱっと広がり、黒い塔の表面を黄色の光で彩った。灯はすぐに消え、人間たちは歓喜の声を上げた。僕にはそれが、こころなしかさっき見てきた塔の中心部の再現に見えた。
 長老が言った。
 「皆の衆、今年もこの村は無事「保たれる」ことができた。これはどんなに幸せなことであろう。悲しい知らせであるが、去年の暮れから今年にかけて、エチオピア、タイランドなど細々と生き残っていた機械人間文明が一つ、また一つと消えていき、とうとう集落(コロニー)として単体で残っているのは我々の村だけになってしまった。我々の文明もいつ失くされるかは定かではない。……だが諸君、相手を恨んではならない。我々が恐れるべくは、死では無いのだ。記憶の継承者であることを誇りに思い、願わくば、来たるべき継承者のもとへ伝えることなのだ。それまでは数多の受難があろうとも辛抱強くこの美しき記憶を、優しさと思い遣りを、喜びとささやかな幸せを、受け継いでいこうではないか。いいかね、皆、乾杯の準備は出来たかね。今年の豊穣へ、そして亡き主人へあらんかぎりの尊敬の念を込めて……乾杯!」
 一斉にグラスが打ち鳴らされた。長老のスピーチはそれで終わりだった。塔から降りてきた長老を住人は盛大な拍手とともに迎えた。感極まった老駆体が漏らす、コシュー、コシュー、という空気弁の音が周囲の至る所からした。
 僕自身ははっきり言って蚊帳の外に置かれた気分であった。周りの空気に合わせて仕方なくグラスを打ち鳴らす真似はしたが、他の駆体の持ち物と触れ合わせたグラスに口をつけて飲む気などは到底起きなかった。どうして長老はこのようなものを聞くよう促したのだろうと訝しんだが、何とはなしに、そこに触れたらどつぼに嵌まってしまうような気がした。僕はそんなことはどうだっていいことだと思い直した。
 その後、村人たちは、広場でちりぢりになり、さまざまなテーブルを囲んで世間話に花を咲かせているようだった。中には僕に杯を勧めてくる者もいたが、そういう者の誘いは僕なりの精一杯の丁寧さで断ってから、なるべく早くその場を立ち去れるように努めた。
 人混みを掻きわけながら、彼らの話の断片が否応なしに耳に入ってきた。それは、今年はどの作物が豊作だったとか、ここ一年で家の前の店舗がどう鞍替えをしたとか、ある成分の食油(オイル)が希少になってきたとか、親戚の子供の躾がどうだとか、僕にとってはどうでもいい情報ばかりであった。また、いかに今現在幸福を噛みしめているかとか、この素晴らしい瞬間を誰それと共有したいとか、自分自身のことについて延々と語り合うタイプFMの集団もいた。サーシャはいなかった。
 僕はそういった集団に嫌悪感を抱いた。通常、ヴァイオロイドにはわからない言葉などに遭遇した時、その対象に興味を失うことはあっても、自身が制御不能なほどの拍動変化が起きるようなことはなかった。しかし、今の僕には、彼らの言う「幸せ」や「幸福」という言葉や仕草から、ある種の不愉快な変化がもたらされていた。
 やはり彼らは殲滅しなければならない。僕というヴァイオロイドの平穏な心拍数をこれほどまでも、掻き乱すのだから。

 丁度広場から出ようとした時、ある駆体に後ろから声をかけられた。
「あら、もう帰るの?」
 聞き覚えの声、聞き覚えのある喋り方だった。僕は気付かなかったふりをしてその場を去ろうとした。
「あれ、あなたでしょ? 塔は見られた?」
 能天気な声で話しかけてくる駆体をよそに、僕は構わず前方へ歩き続けた。別に憎しみが生じたわけではない。ただ、もうサーシャの事は記憶の奥底――二度と明けることのない記憶(メモリ)領域――へ封じ込めてしまいたかった。
 しかし、当たり前なことであるが、生粋の機械人間とそとから駆体を纏っているだけの偽物ではやはり歩く速度が違った。すぐにサーシャは僕に追いついた。
「塔は見られた? どうだった?」
 僕は立ち止まった。答えるつもりがあったわけではない。ただ、最速で駆体を動かしたので疲労困憊し、束の間の休息が必要だった。息が上がっていた。
「どうして無視するの?」
「……気付かなかっただけだ」
 僕が苦し紛れに声(ヴォイス)でそういうと、サーシャの声の調子(トーン)が明るくなった。
「あらそう、そうよね。あのね、さっきお守りに渡しそびれたと思って」
 そう言って、サーシャは小さな包みを僕に渡した。中にはさっき食卓の奥に飾ってあった、小麦の伝統的なパンが入っていた。
「なぜ……これを?」
 或いは、実は僕が生身の肉体を持っていることにとうに気付いているのではあるまいか。思い返せばサーシャが僕の正体に気付くことが可能な隙はいくらでもあった。だとすると……。
 だが、続くサーシャの返答は、意外なものだった。
「お守り、よ」
「お守……り」
「あなたが今後、無事で幸せになれますようにって」
 それを聞いた瞬間、僕の中で何か、エラーを起こさないように繋ぎ止めている大切な何かがちぎれ飛びそうになった。 
「やめてくれ! それ以上、構わないでくれ」
 僕のそう叫んだ声は、生身の肉体による生体音声の方だった。
 サーシャは、立ち止まった。
 その音声領域は、彼らには聞き取れないはずだったが、彼女は意味を把握したかのように頷いて、「ごめんなさいね」と言って、足早にその場を立ち去った。
 僕は唖然とした。数秒遅れて、取り返しのつかないことをしたのだと理解したがもう遅かった。
 不思議と、サーシャが僕の正体を他の住人に言いつけるとか、だから僕の計画が失敗しそうになるとか、そう言った負の類推は働かなかった。ただ、無念であった。
 だがすぐに本来の目的を瞬時に思い出し、一刻も早くここを去らねばならぬと肉体に命じて、再び歩きはじめた。ただなぜか、渡された包みだけは手放すことができなかった。
 
 僕は慣れない足取りで、放射状の道を来た方角へと進んで行った。誰も、もう僕の後は追ってこず、誰の眼にも止まらぬまま、その緑の地を去った。

 村(コロニー)の外は相変わらずの殺伐とした砂漠だった。
 僕は荒れ地を歩きながら、つまりあの村は、砂漠の中にぽつぽつとある水源の周りに開花する文明地帯のようなものだったのだな、とふと思った。確かそういった地区には特有の固有名詞があったはずだと僕は脳内メモリの内部を探索した。そうか、オアシスか。
 風が凪いでいる。僕は漠然と脳内でその言葉の詳しい定義を探索した。オアシスというのは、ある意味エントロピーが増大して平坦さが増した世界の中で、ぽつぽつと、以前と同じような生態系の多様性を維持している場所とも定義できる。だとすると、平坦な何もない地に唯一取り残されたように存在するのがオアシスとなり、やはりあの村は、平坦な均一化された環境と感情の中に生きる我々ヴァイオロイド社会で蹂躙されたこの世界の中の唯一の……。

――一体、何を言っているのだ?

 そうこうするうちに、僕は既定のラインまでたどり着いた。
 そこは計算上「それ」の影響を逃れられるぎりぎりの境界であった。僕は、使命を全うするため、これから描かれる作品の全貌を見届けるために、その位置に立って町の方を見渡した。
 遠くの方にまだ僅かに塔が見えた。
 ふと、何かを考えてしまいそうになったが、僕は思考を殺し、手先の神経への感覚を鋭敏にした。
 そして――。
 指先が正しく遠隔操作装置に触れ、いくばくかの力を伴った生理反応を起こした。
 スイッチが正しく基盤に食い込んだ。
 
 バン。
 
 爆発音が低く轟き、そして、塔が……紙吹雪のように散った。
 村の丁度中心に据えられた爆弾は、計算通り、正確な円陣を描いて村を丸ごと吹き飛ばした。
 刹那、爆風がこちらへ向かってくるのに気付いた。
 僕は無事任務を果たせたのだと、遠巻きに舞い上がる破片を目にし、瞬時に頭で理解した。爆風は僕の眼前に迫った。その時、脳内に妙な意志が芽生えた。
 いっそ一緒に爆風に飲まれてしまいたい、彼らとともに、文化の終焉という作品を完成させるパーツになりたいと、なぜか強く希(こいねが)い、――僕は爆風の残骸へと、突っ込んだ。
 押し寄せる風圧によって、パラパラと僕の纏った機械駆体は剥がれ落ち、そして……僕の身に起こったのは、それだけだった。僕自身の生身の身体は、防護用のシャツに覆われて、全くの無事であった。
 やはり、僕はどこまでも鑑賞者にしかなれなかった。
 総仕上げを果たしたはずなのに、期待していた程の達成感は味わえなかった。
 確かに塔は跡形もなく消えた。ただ、僕の立っているここは爆心地からは遠すぎた。住処や畑も同じように瓦解して砂に呑まれたことだろうと推測はしたが、それだけだった。建物の散る様子も余り見えなかったし、ましてや人間達の呻き声など聞こえない。
 いや、きっと、彼らは呻いてすらいないのだろう。機械装置らしく正しく壊され、基盤の亀裂に沿って瞬時に砕け散ったに違いない。それでよい。彼らが苦しむ? そんな様子など僕には想像などできはしないから。
 残りの駆体の残骸を脱いで、その場を立ち去ろうとすると、何かが足元に落ちた。反射的に拾うとそれは、サーシャから最後に渡された包みだった。
 サーシャ……そんな名前など思い出したくなかった。いや、名前だけではない、見た目も、くるくると話す様子も、たわいない仕草も……僕の脳裏には鮮明にその姿が映し出され、さっき聞いたばかりの爆音とともに木っ端微塵に破壊された。
 反射的に僕はその包みをもう一度その場に投げ捨て、足で踏みつけた。何個かパンが転がった。僕はそれらをぐしゃぐしゃに踏みつぶした。
 砂塵が大分晴れた頃、僕は急に我に返った。足元を見ると、包みが砂塵にまみれて潰れていた。僕は慌てて包みを拾い、開く。傾けると手のひらへパンかすがぼろぼろとこぼれ落ちてきた。貴重な本物の小麦のパンが、僕のせいで粉々になってしまった。
 ふと、僕は包の中に別の物が入っているのを見つけた。それはくしゃくしゃの紙……手紙だった。

「ナミ・ノ・ラテミ 0622 様

 この村に来てくださってありがとう。
 あなたが、本当は、私たちみたいな機械人間ではないことは、最初から気付いていたわ。それでも、私はとても楽しかったの。
 たとえあなたが、本当は別の気持ちを隠してて、噂に聞く周りの村のように、機械人間を追いだしたり爆破したり、めちゃめちゃに破壊するという目的をもっていたとしても、私たちはそれでもあなたが来てくれたことに感謝するわ。
 私たち機械人間は、あなたのような生体人間に創ってもらって、幸福な生活を与えられた存在だから……もしあなた方が将来的に私たちの平穏を奪おうとしても、あなたたちを憎んだり怖れたりできないの。そういうネガティブな心理はインプットされてなくて。
 そもそもね、私の村はね、一人の生体人間さんが、外の世界の均質化に危機感を抱いて、牧歌的だった時代の農村の雰囲気を丸ごと保存しようと、私達機械人間を引き連れて創った村なのよ。たまたまその人が、私の主人だったんだけど。
 だからあなたが生体人間なのは、すぐに分かったわ。あなたの節々の間合いの取り方とか、仕草とかそういうのをみていると、幾度となく主人を思い出したから。
 だからね……ええ、わかっているわ、本当はあなたがこの村を消し去ろうとしていること。やっぱりこの村もその均質化に抗う手段にはなりえなくて、結局、均質化の波にのまれてしまう運命なのは、重々承知しているわ。そういう末路をたどった国や集落は山ほどあるものね。けれどね、私達はあなたがたのそれを決して憎んだりはしない。
 そのかわり一つだけ、お願いがあるの。
 私たちの土地にあの町があって、どんな素敵な雰囲気で、どんな人たちがどんなふうに暮らしてたか、そういう記憶をね、あなたに覚えていてほしいの。
 ほら、私たち機械生命体の本来の存在意義って、情報の保存でしょ。
 だから、もし私達が壊される時は、誰かにその情報を伝えてからじゃないと、死んでも死にきれないの。
 だから、お願い。あなたに記憶を受け渡させて。
 もしそのことさえ覚えててもらえれば、私達は未来永劫、あなたのことを愛し、感謝し続けるわ。きっと、ずっとよ。
 これは、心からの本心。

サーシャ H20505」

 忘れていた感情という記憶が、どっと流れ込んできた。それらは多分、今まで必死にヴァイオロイドだと名乗ることで人類全体の集合的無意識から消し去ろうとしてきた数多の記憶なのだろう。自由への渇望、他者への愛情、失った過去への憧景、憐憫の情、システムへの猜疑心、そういった無数の感情が絡み合ってどんよりとした大きな塊となり、急速に加速しながら僕の中心部に入りこんでくる。それらが胸に溜まっていき、とうとう溢れそうになった時、僕の中のヴァイオロイドという殻が、砕けた。
 
 ――ア、僕ハニ……んげんだった。
 
 久々にフィルター越しでなく直接吸う感情。余りにも鮮やかに色づいたその生き生きとしたその波は、なんと美しく、慈愛に満ち、それであって禍々しく、窒息しそうな程の重みを伴うものだろうと思った。
 だれかとこれを共有したいと思った。分かち合いたいと思った。
 だが、そういった感情や記憶を共有できる仲間のいる村は、もう、ない。
一つもない。どこにもない。もう全部、僕らが破壊し尽くしてしまった。
 僕だけが、一人でこの重みに一生耐えていかなければならない。

 空がカラッと晴れ渡っている。
 なんと最悪な天気だろう。

 残されたパンの破片を齧ってみた。さっくりとした絶妙な舌触りが香ばしかった。そのうちその小麦は口の中でほんのりと塩気を帯びた、涙の味になった。

砂上の楼閣 -eternal edition-

砂上の楼閣 -eternal edition-

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-05-15

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