溺れる
オランジェ
橙色のさなぎの味は、甘酸っぱい。
朝倉の目前には、オレンジがいくつかある。細かな種類ははっきりとしないが、大きさはソフトボールの球ほどで、ぼこぼこした皮はとても硬い。いよかんに似たその見た目は、いかにも酸味が強そうだった。しかしいざ剥いてみると、予想とは異なり甘くて美味い。
石畳の美しい街、その片隅にひっそり佇むアパートの一室は、柑橘の爽やかな香りに満ちていた。インテリアは木製の家具とクリーム色のリネンで揃えられ、室内に温かみを与えている。
向かいに座るこの部屋の主を眺め、朝倉はオレンジを口もとへ運んだ。ほどよい酸味と甘味が口中に広がり、舌をくすぐっていく。思わず、くすりと笑みをこぼしていた。
それに気づいた友人が、テーブルに身を乗り出してくる。 ヘーゼルナッツ色の瞳は、いつも朝倉だけをやさしく見守っている。慈愛に満ちたまなざしだった。
「なんだかご機嫌だな。仕事がうまくいきそうのか」
「まあね。ブライアンは? 相変わらず楽しくやってるみたいじゃない」
部屋中に貼られた可愛らしい絵を見渡し、朝倉は笑みを深めた。友人のブライアンは、幼児向けのアートスクールに勤めている。至るところに無邪気な作品が飾られていてにぎやかだった。重厚な石造りのアパートが、色鮮やかなクレヨンで埋めつくされる日も近いだろう。
歳の離れた弟妹がいるブライアンにとって、今の仕事は天職といえる。彼は端正で気難しそうな容貌に反し、実際は気さくで面倒見がよい男であった。子どもだけでなく、彼らの母親にも受けがよい。
「俺のことはいいとして……お前こそ大丈夫なのか? その依頼人、ちゃんとした奴なんだろうな」
「平気だって。前にも頼まれたことあるし、問題ないよ」
眉を寄せる友人に、朝倉は明るく応じた。
来週からしばらくの間、朝倉は仕事で台北に行く。病院の壁に絵を描いてほしいと、以前からある男に頼まれていたのである。美術学校を出て以来、朝倉はそういった依頼をいくつか受けてきた。いつもは宿代と食事さえもらえればじゅうぶんなのだが、今回はそれに加えてなかなかの報酬が約束されている。
ブライアンは、依頼主がどういう人物かを気にしているようだった。彼は時折、朝倉に関して心配性になる。その理由はなんとなくわかっていたが、朝倉は知らないふりをしている。相手が見た目より慎重な男であることも、長年の付き合いで心得ていた。 今すぐどうにかなってしまいそうな予感もないので、そのままにしている。
「それよりほら、このオレンジおいしいよ」
薄皮を剥いたものをひとつ差し出し、朝倉は話題を変えた。その声音は青年にしては高いほうで、甘えるような色合いがわずかに混じっている。朝倉は理解していた。目の前にいる男が、それに滅法弱いということを。
なにか言いたげにしていたブライアンだが、朝倉の思惑どおりに実を受け取った。普段色白な頬や耳は、ほんのりと朱に染まっている。
「今日、泊まっていくだろ?」
「いつも悪いね」
「構わない。後で夕飯の買い出しに付き合ってくれると、助かるんだが」
上気した頬で、ためらいがちにブライアンが誘ってくる。
この部屋の窓からは、広場近くのマルシェが遠目に見える。日に焼けたベージュの天幕や白い日よけの下は、マダムや恋人たちでたいへんにぎわっている。朝倉は基本的に人混みが苦手だが、友人の誘いに笑顔で頷いた。部屋に泊まることもあっさりと了承する。
そんな朝倉を見つめ、ブライアンが照れくさそうにオレンジを口に放る。だが彫りの深いきれいな顔は、みるみるうちに歪んでいった。どうやらオレンジの酸味がきつかったらしい。朝倉はことりと首を傾げた。同じものを食べたはずなのに、自分はそれほど酸っぱく感じなかった。ーー味の好みが合わない人間との関係は、うまくいかない。かつて誰かに言われたことをふいに思い出す。本当にそうなのだろうか。
半透明な膜に包まれた、みずみずしい橙色。やわらかなそれは、まるでさなぎのようだった。もしこれが孵化したならば、どのような蝶になるのだろう。虹色に輝いて羽ばたくか、あるいは影のようにひっそりと羽を閉じて生きるのか。まだ想像がつかないでいる。朝倉はため息をつくと、再びオレンジに手を伸ばした。
マルシェ
天幕の間から見えるのは濃紺だった。金平糖をちりばめた夜空を堪能したくても、いまの朝倉にはかなわない。
通りを埋め尽くす人波に、思わず酔いそうになる。テントの下は買い物客で賑わっていた。自分よりもずっと上背のある現地の若者に揉まれつつ、なんとかマルシェを抜けることに成功する。すこし前方では、友人のブライアンが右手を挙げて待っていた。コンパスの差が恐ろしい。
左手にエコバッグをぶらさげ、ブライアンが心配そうに声をかける。
「大丈夫か? あとはワインだけだぞ」
そう告げると、ブライアンが手提げの中身を朝倉に見せた。楕円形のトマトと、見慣れない葉物野菜がいくつか。それから例のオレンジやレモン、クリームチーズの入った包み。今日の晩ごはんはなんだろうと、朝倉は胸を踊らせる。普段より遅めの時間ということもあり、野菜中心の軽いメニューになりそうな予感がした。料理はもっぱらブライアンの担当だった。朝倉だってできないわけではないが、彼のほうが凝り性でレパートリーも多かった。
大通りの角にある、老舗のワイナリーにふたりで立ち寄る。バーも兼ねた店内はこじんまりとしていて、外の喧騒が嘘のように落ち着いた雰囲気だった。飴色のカウンターと、丸いテーブルにはそれぞれ三組の客が夜を楽しんでいた。カウンターの奥にはワインボトルの棚がある。
銘柄や味に詳しくないので、朝倉は友人についていくだけである。唯一の楽しみといえば、暗く輝く瓶にあやしく透ける、紅に闇を絡めた液体の複雑な色合いだった。それを眺めるたび、朝倉の首筋はぞわりと粟立つのだった。
「ブライアン、赤ワインって何色かな」
「なんだろうな。……きっと、官能の色だよ」
ブライアンは戸惑うことなくさらりと答えた。
こんなことを問われたら、大概の人間は訝しむはずである。赤ワインの色は、その名のとおり赤だろうと。
砂の色は、チョコレートの色はいったい何色なのか? 次々に浮かぶ疑問を純粋に知りたくて、朝倉は子どものころから繰り返し周囲に訊ねてきた。だが大人たちはだれも満足いく答えを与えてくれなかった。あまつさえ面倒そうに扱う始末だった。
しかしブライアンは違った。朝倉の無垢な質問攻撃に対し、とことん付き合ってくれた。砂の色はくすぐったくなる色だとか、チョコレートの色は心を悩ます色だとか。こうした言葉遊びのような奇妙なやりとりを、ふたりは学生時代から飽きずに続けてきたのだった。
「かんのう、か」
はじめて知った言葉のように、朝倉のくちびるがたどたどしく動く。ブライアンにしては珍しい表現だった。彼はいつも、アートスクールの生徒に接する時と同じような、比較的易しい態度を朝倉にとる。官能などという艷めいた言葉は、これまで彼の口から聞いたためしがなかった。
ボトルを物色するブライアンを、横目でそっと盗み見る。男のくせに纏う空気が清廉で、彫りの深い顔立ちはまるで人形のように整っている。加えてバランスのよい筋肉質な体躯とすらりと伸びた手足は、人混みの中でもやはり目を引いた。先ほど途中ですれ違った美女ふたりも、ブライアンを目にとめなにかを囁きあっていた。朝倉は英語しか聞き取れないが、内緒話の見当はついていた。ーーあのひと、すごくかっこいい。そんなところである。
こういった出来事においての感情が、朝倉にはうまく処理できなかった。例えばこれが嫉妬だとしても、彼の恵まれた容姿に対してなのか、それとも美女に対するものなのかがはっきりしない。
「どうした」
ひとりで考え事をしていると、つい暗影とした渦にのみ込まれそうになる。はっと顔をあげると、美青年が色素の薄い瞳で朝倉を見つめていた。澄みきった硝子玉のせいか、時々朝倉はこの眼差しをおそろしく感じることがある。薄暗い心の奥底まで、まるごと知られてしまいそうだった。
朝倉はなんでもないと首を振るが、ブライアンのまっすぐな視線は変わらない。
「帰りは裏通りにしようか。人混みは、もう疲れただろう」
ブライアンの右手が、さりげなく朝倉の背中に添えられる。やんわりと肩甲骨のあたりを撫でた後、温かいてのひらは名残を惜しみつつ離れていく。彼は気遣いもできる本当に良い男なのである。残念なのは、片想いの相手が同性だということくらいだった。
「そうだ。明日はチーズケーキを作るからな」
「本当?」
「ああ。好きだったよな」
ブライアンの言葉に、朝倉はこくりと頷いた。彼の作るチーズケーキはしっかりしたベイクドタイプで、レモンの爽やかな香がする。学生時代に幾度か食べた懐かしい味を思い出し、朝倉は素直に礼を述べた。はにかむ友人の耳が赤く見えるのは、店内を彩る間接照明のせいではない。朝倉はそのことを、じゅうぶん理解していた。心中にほの暗いものを感じながら、レジに向かうブライアンの背中を見送った。
チーズケーキ
湿った南風が、肌に纏わりつく。夕方から降り始めた雨は霧のように細かく、夜道をじわりと濡らしている。鬱蒼とした街路樹の下を、朝倉は早足で歩いた。折り畳み傘は、滞在先のホテルに忘れたままだった。
仕事の依頼人との待ち合わせ場所は、裏道へ一本入った小さな喫茶店である。硝子越しに中のようすを窺うと、学生街らしく同じような年頃の若者が多くいた。依頼人はまだ到着していないようである。
勢いを増す雨に、朝倉は一足先に入店することに決めた。カウンターで漢字だらけのメニューを指差し、カプチーノをなんとか注文する。現地の言葉は、朝倉にはまったく理解できない。 本当はなにか食べたい気分だったが、億劫になってやめてしまった。
壁際の小さなテーブルを選んだところで、ようやく待ち合わせの相手が現れた。縁の細い黒の眼鏡を掛け、全体をモノトーンで纏めた簡素な格好の男である。年齢は三十代半ばほどだろうか。コーヒーを淹れる店員となにやら言葉を交わした後、のんびりとした足取りでこちらへやってくる。
「お待たせ。相変わらずかわいいねぇ」
「はあ……お久しぶりです、篠原さん」
相手の軽口に、朝倉は苦笑いを浮かべるしかなかった。篠原という男はいつも冗談ばかり言うので、対応に困ることが多い。のんべんだらりとした彼の口調に、朝倉は戸惑ってばかりいる。
そんな朝倉の胸中を知ってか、篠原の形よいくちびるがゆるやかに持ち上げられる。若者の素直な反応を面白がっているらしい。
「さて、と。ーーさっそくで悪いんだけど、今回は病院の壁に描いてもらいたいんだよねえ」
急に仕事モードに変えた篠原が、黒いジャケットの内ポケットから紙切れを取り出した。四つ折りのそれが、耳障りな音をたてて広げられる。どうやら市内の詳細な地図のようで、よく見れば一ヶ所だけ赤い丸印が付けられていた。
傷ひとつない人差し指が、その真上を爪の先でなぞった。
「昼間はまだ工事中。だから、作業するのは夕方からになる。それでも大丈夫かな」
長い睫毛に縁取られた篠原の瞳が、すうっと細められる。口調と表情はやわらかだが、硝子越しのまなざしには情というものがまったく感じられない。ブライアンの澄んだ瞳とは違い、近寄りがたい威圧感があった。
すぐ近くに座っている学生たちの、陽気な笑顔。陶器が擦れる硬質な音。店内を賑わすたくさんの無邪気な笑い声が、次第に遠のいていくような気がした。
朝倉はしばらく逡巡した後、腹を決めて頷いた。これは仕事なのだ。報酬をもらうのだから、きちんとやらなければならない。そう自らに言い聞かせた。
すると、とたんに篠原が視線を穏やかなものに変化させた。底のないふたつの冴えざえとした闇は、とろりとあたたかな珈琲色に和らいでいた。
「なるべく、安心感やぬくもりを感じられるような絵がいいなあ」
「ぬくもり……ですか?」
「そう。家族と一緒にいる時に感じるようなね」
ーー家族。
なにげなく発せられた相手の言葉を、朝倉は重苦しく反芻する。それは朝倉にとって、あまり縁のないものであった。ひんやりとした、子どものころの薄暗い記憶。朝倉はそういった過去から意識的に逃げ、普段なるべく思い出さないようにしていた。錆びて歪んでしまった記憶の蓋を開けるには、すべてを見据える覚悟が必要であった。しかし朝倉には、まだそれが足りなかった。
ほの暗いものから視線を逸らしていると、女性の店員が近づいてきた。彼女が持つ銀色の盆には、カプチーノとブレンドのカップ。それからなぜか、ベイクドチーズケーキがふたりぶん載っていた。朝倉は、頼んでいない。
「誕生日だから、サービスだってさ」
「誕生日?」
「そう。俺が」
首を傾げる朝倉に、篠原が自嘲気味に答えた。甘党なのだろう、コーヒーに角砂糖をみっつも入れている。白磁に満ちた琥珀を見下ろす瞳は、背後にある間接照明の逆光でどす黒く見えた。
「あの、いいんですか。そんな日におれと一緒にいて」
「平気だよ。別にだれとも約束してないし」
口もとだけで薄く微笑する相手を、朝倉は意外に思った。なんとなく世渡り上手に見えたものだから、交友関係も広いだろうと勝手に想像していた。恋人と呼べるかどうかあやしい女性が何人もいそうだな……などと失礼極まりないことすら考えていたのである。そんな自分をひっそりと反省しながら、朝倉はカプチーノを啜った。
「それに俺は、誕生日を祝ってもらったことなんか一度もないからねえ」
カップに添えられたティースプーンを手に、さらりと、なんでもないことのように篠原が付け加える。華奢な銀色を気が済むまで弄んだ後、篠原は見惚れるほどの鮮やかな笑みを朝倉に向けた。
しかし朝倉は、どこかさびしい、ごまかしきれない陰りを篠原の目もとに見つけてしまった。この男も、自分と似たような境遇なのかもしれない。そう思うと、先ほど感じた緊張よりも親しみのほうが増してくるから不思議である。
朝倉は目前のチーズケーキを見つめた。ブライアンが手作りしたものより、焼き色がしっかりとしていてお行儀もよい。フォークをひと刺ししてみれば、なかには干ぶどうが隠れていた。ほんのりと漂うラムの香りに、朝倉はふと学生時代を思い出していた。
ラムレーズン
朝倉とブライアンが出会ったのは、留学先の美術学校だった。
学生課で紹介されたアパートには、同居人がふたりいた。ひとりは陽気なスキンヘッドのマルコで、もうひとりは気難しそうな美青年だった。この美青年が、ブライアンである。だれとでもすぐ友だちになるマルコとは違い、ブライアンは人見知りをする。なかなか打ち解けられず、意思の疎通に困ったことを朝倉は記憶している。
ある日の夜のことだった。部屋にこもって課題を制作していた朝倉は、 一段落ついたところで、ようやく腹が鳴っていることに気づいた。昔から絵を描くことに集中すると、他に気が回らなくなる性質だった。へこんだ腹を撫でつつ、朝倉はのろのろと立ち上がった。時刻はとうに日付を跨いでいた。
全員が揃わないこともあり、平日はそれぞれ自由に食事を採る決まりだった。ただし週末は、健康を考えてブライアンが調理係を担った。そのため金土日の三日間だけは、野菜をたっぷり使った健康的な料理が並んだ。ピッツァやパスタが大好きなマルコも、おかげですこし痩せたくらいである。
薄暗い廊下を抜けて、キッチンの明かりを点ける。昨日は土曜日だ。コンロの上には銀色の片手鍋が待っている。金属製の音をたてて蓋を開けると、なかにはシチューのようなものが眠っていた。
「腹が減ったのか」
突然背後から声をかけられ、朝倉は思わず蓋を落としそうになった。振り返ると、腕組みしたブライアンがキッチンの扉に寄りかかっていた。スウェットのセットを着ている。起こしてしまったかと慌てて朝倉が謝ると、ブライアンは首を横に振って微笑した。長い足で近づいてくる。
「温めるから、座って待ってなさい」
幼児に言い聞かせるような言い方をして、ブライアンがコンロに火を点けた。朝倉は戸惑いながら頷くほかない。
所在なく、膝を抱えるようにしてソファーに座った。気持ちをうまく落ち着けられない時、朝倉は大抵こうして体をまるめる。そして頭のなかで、数字をひとつずつ数えていく。いちは、赤。には、黄色。さんは、青。よんは、緑……。その際脳内に思い浮かぶ数字は、不思議なことに必ず着色されている。理由などわからない。
鍋の中身がコトコトと音をたて、部屋中においしそうな香りを漂わせる。ちょうどななつの色を数えたところで、ブライアンがスープボウルを片手に近づいてきた。かすかに海の気配がすると思ったら、剥き身のあさりが入ったクラムチャウダーだった。先週マルコが大量に購入したものを、ブライアンはしっかり冷凍していたのである。
「どうぞ。熱いからな、気をつけて食べるんだぞ」
またしても子どもを相手にするような口調だったが、朝倉には悪い気がしない。こうしてあれこれ気にかけてもらうのは、あまり経験がないので新鮮だった。やさしい乳白色を、ふうふう冷ましながら木匙で食べる。ホワイトソースの素朴な味と、ふわりとした潮の香りは、なんだか懐かしく感じられた。どこかで口にしたことがあっただろうか。
ゆるやかに記憶を探っていると、ブライアンが朝倉のすぐ隣に腰を下ろした。
「課題を描いているんだろう?」
ブライアンにそう訊ねられ、朝倉は匙を持つ手を震わせた。
その時の課題は、朝倉にとって非常に難しかった。テーマは『家族の愛』、それは朝倉にはこの世で最もよくわからないものだった。愛と言われても、どのように描けばよいのか見当もつかず、結局迷いに迷って描いたのは、幼少期に生き別れた母親だった。
「ーーよかったら、ちょっと見せてくれないか」
ブライアンの唐突な申し出に、朝倉は動揺した。作品は、まだ完成していない。加えて描いた本人でさえ、『あれ』がテーマに沿った作品といえるかわからなかった。断るつもりで口を開きかけた時、自分のも見せるからと提案された。
困惑しながら、視線を手もとのスープボウルへと落とす。ホワイトソースはただおだやかに、ふわふわと微笑んでいる。まるでこれが家庭の味なのだと教えているようだ。クラムチャウダーの色は、しあわせな家族の色かもしれないと朝倉は思った。
適度に整頓されたブライアンの部屋は、洋灯の落ち着いた橙に包まれていた。
なかに入ってすぐ、あまく濃密な香りが朝倉の鼻腔をくすぐった。香水のような、果実のような芳香。窓際に配置された木製のデスク、そちらから薫っているようだった。よく見ると、ラム酒に漬けた干し葡萄の袋が無造作に放置されていた。
作品がイーゼルに立て掛けてある。
朝倉は一瞬、呼吸を止めた。
絵の全貌が明らかになった時、突然目前に光が現れた。春の陽射しのような、やわらかい光が射し込んだのである。朝倉は驚きのあまり息を吸うのも忘れ、目を凝らして光のもとを探した。
キャンバスでは草原の若草色が風になびき、西洋蒲公英の黄色が揺れている。そして鮮やかな色彩のなかで、仲良く追いかけっこをするふたりの子どもがいた。生き生きとした、愛くるしい笑顔。ほんのりと紅い林檎のような頬と、清らかな真白のブラウス。そして画面から滲み出る不思議な放射線状の光……。いったいこれはなんなのか、どのような技法なのか。至近距離で注視してみてもわからなかった。
こんな絵は見たことがない。
ただし、はっきりと言えることがひとつだけあった。この絵を描いた人物がどれほど彼らを大切に想っているか、である。深い慈愛をこめて描いたものだということは、画面のすべてから伝わってきた。
「弟と妹なんだ。歳はずいぶん離れているけど……」
ブライアンの説明が、朝倉の耳をすり抜けていく。
朝倉は愕然として彼の作品を見つめた。やがて、己が悩んだ末にようやく描いたものがなんであったかを思い出し、思わず胃の中身をすべて吐きそうになった。震える感情をどうにか落ち着かせるために、頭のなかで数字を一から順に数えた。しかし、いつも浮かんでくるはずの着色された数字は一向に現れなかった。変わりに浮かんだのは、ラムレーズンのような、闇を絡めたあやしい色の数字ばかりだった。
それ以来、朝倉はブライアンが描く絵に興味を抱くようになった。光の謎は、いまだに解けていない。
シャツとロリポップ
緑豊かな公園で、子どもたちが鬼ごっこをしている。榕樹の陰に隠れていた少年が、呆気なくもうひとりの少年に捕まる。彼らの纏う、やわらかな麻で仕立てたシャツの白さがまぶしい。無邪気な笑い声をあげながら、ふたりは朝倉の横を通り抜けていった。
気根が揺れるガジュマルの下では、強い陽射しを避けるように一匹の猫が丸まっている。毛の短い灰色の猫だが、木陰のなかではほとんど闇色に近い。のどかな昼下がりは、どこへ行っても共通だった。
台北に来て数日、朝倉はずっとこの公園に来ていた。今回の作業場は、ここからすぐ近くの病院である。喫茶店で依頼人の篠原に会った翌日から、朝倉はひとりで作業に取りかかった。ところが下絵はすでに決まっていたものの、筆は一向に進まなかった。水性塗料を手にまっさらな壁の前に立った時、なぜかあの夜にみたブライアンの作品を思い出してしまうのだった。
手近なベンチに腰をおろし、深いため息をつく。作業がはかどらない時は食欲もない。今日は朝からなにも口にしていなかった。もし隣にブライアンがいたら、眉間に深い皺を刻んでいるだろう。仏頂面で手作りのスープを差し出す彼を想像して、朝倉はほんのすこし表情を和らげる。
ブライアンの描く作品は、まるでこの陽射しを浴びて育った子どものように明るい。人物や風景だけでなく、静物ですらふわりとしたあたたかみを感じる。観る者をしあわせにする、光溢れる絵ばかりだ。そんな不思議な感動は、朝倉の作品には存在しない。
「あれはなんなんだよ……」
この場にいない相手に向かい、朝倉は力なく訊ねた。答えてくれる者など、もちろんいないはずだった。
「あれはねぇ、揚げパンですね」
「うわっ!」
いきなり耳もとで話しかけられ、慌てて振り返る。朝倉の真後ろで胡散臭い微笑みを浮かべていたのは、依頼人の篠原だった。目をまるくする朝倉の隣に座ると、篠原はそっと細縁の眼鏡を外した。すっかり夏めいた太陽の下なのに、彼は長袖の黒いカーディガンを着用していた。涼しげな顔をしているから、別段暑くはないようだ。一方の朝倉は、薄手の半袖シャツを着ている。南の島は、それでもやはり暑かった。
「揚げパンが食べたいなら、近くに屋台があるよ」
そう言って篠原は公園の入口を指差した。そこには確かに、小さな屋台が榕樹の陰に隠れていた。陽に焼けた中年の女性が、先ほど鬼ごっこをしていた少年たちに紙袋を渡している。揚げパンというより、ツイストドーナツに近い。子どもたちはそれを仲良く半分個して食べ始めた。微笑ましいねぇ。のんびりとした篠原の声が、空々しく響き渡る。
「そうそう、朝倉くん。きみの携帯は、いったいどこへ行ったのかな」
「えっ……あれ?」
急に話題を変えた篠原の手中から、まるで手品のように、黒い携帯電話が現れる。ところどころ傷のある、ふたつ折りの見慣れた古い携帯電話。それはまさしく、朝倉のものだった。最近メールが送信できないほどの状態になっていたが、機種変更をする暇がなくそのまま台北に連れて来ていた。ジーンズの尻ポケットに、朝からずっと入れておいたはずだった。
「ベンチの後ろに落ちてたんだよ。きみのだろう」
「あ……、ありがとうございます」
「気をつけたほうがいい。盗まれちゃうからね」
静かに諭す篠原の表情は、普段とは違いわずかに暗く歪んでいた。しかし、携帯電話を受け取る朝倉はまったく気がつかない。携帯を開けば、馴染みのある名前が着信を知らせていた。朝倉の顔が綻ぶのを目敏く見つけ、篠原がにやりと笑った。
「恋人からかな?」
「ち、違いますよ」
「いいねぇ。羨ましくて、甘いものが食べたくなっちゃうね~」
なんだかよくわからないことを言いはじめた篠原が、突然、棒つきの飴をどこからか取り出した。きれいな指先に摘ままれていたのは、闇を絡めたなんともあやしい色だった。光の加減で、葡萄色にも黒蜜色にも見える。変わったかたちをしていると思ったら、星を型どった飴だった。ひとつそれを口に含んで、篠原は悪戯っぽく笑ってみせた。彼が羽織る黒いカーディガンの袖口が、生ぬるい南風にゆるやかに揺れている。そこには、清白な肌がひっそりと隠れていた。
先ほどから魔術師のようなことばかりする相手に、朝倉は呆気にとられるばかりだった。
滞在先のホテルは、繁華街にほど近い賑やかな通りにある。
部屋に着くなり、ブライアンから着信があった。やっと繋がったと安堵する、聞きなれた低い声が電話越しに聞こえ、朝倉は肩の力が自然と抜けていくのを感じた。自分でも気がつかないうちに緊張していたらしい。今夜はきちんとバスタブに湯を溜めようと考える。じっくりと風呂に浸かれば、作業がうまくいくかもしれないと朝倉は思った。
挨拶の後、しばしの沈黙が落ちる。ややあって、ブライアンがためらいがちに訊ねてきた。
『本当に大丈夫なのか? 依頼人の、シノハラとかいう奴のことなんだが』
「平気だよ。なんで?」
『いや……。本当になんともないか』
「うん、大丈夫だよ」
そんなやり取りを三度ほど繰り返し、朝倉は日付が変わるすこし前に通話を切った。普段より明瞭ではない友人の言い方に、漠然とした不安とわずかな違和感を覚えた。
ブライアンは、篠原のことをずいぶん気にしている。依頼人の素性は確かにはっきりしていない。信頼度の高い友人からあやしいと言われてしまえば、朝倉だって徐々にそう思えてきてしまう。だが一度引き受けた仕事を途中で放り投げるのは、朝倉の道理に反するものだった。
大丈夫だと自らに言い聞かせ、無駄に広いベッドから立ち上がる。すると、なにかきらりとしたものが足もとに落下していった。不思議に思い身を屈めると、なんと真白の星がひとつ転がっていたのである。棒のついた星形の飴が、色褪せたワイン色のカーペットの上で拾われるのを待っている。
清らかな白は、無慈悲なまでにすべてを塗り替える色である。そんなことを考えながら、朝倉はそっと星に手を伸ばしていた。
ララバイ
星の川と三日月が、雲に溺れている。ブライアンが住む街と違い、こちらの空は星が少ない。朝倉は夜空を窺って、小さなため息をひとつこぼした。
夜も深くなったころの通りに、昼間ほどの活気はない。依頼された改修中の病院は、闇を纏ってすっかり異様な雰囲気を漂わせていた。
朝倉は幽霊や化け物といった類いを信じていない。夜にとけた病院を恐れることなく、時折雲に隠れる月明かりを頼りに中庭を突っ切った。こじんまりとした中庭は長い間手入れを忘れられて荒れ放題だった。コの字形に囲む建物も、年季が入っている。外壁の所々に無数のひび割れがあり、それを覆うようにどす黒い蔦が這っているのが見えた。
篠原から預かった鍵は、裏口のものである。朝倉は足もとの雑草に気をつけながら、建物の裏側へとまわった。慣れたようすで鍵を開けると、そこではじめて懐中電灯をつける。電気は通っていない。中庭に沿った廊下の突き当たりが、今回の作業場である。置きっぱなしにした水性塗料の缶やローラーが、廊下の隅で朝倉を待ち構えていた。
小児科になる予定の場所だから、なるべくあたたかい感じにしてほしい。まるで家族といる時に感じるようなーー。そんなことを呟く篠原の言葉が、朝倉の脳裏にふと浮かんだ。
家族というものを、朝倉はあまりよく知らない。父親とは一緒に暮らしたことがなく、幼いころは母親とふたり暮らしをしていた。だがそれも朝倉が小学校に上がるまでで、あとは母方の祖父母の家で育った。朝倉が彼らに馴染むことは、最後までなかった。
田舎の古く薄暗い家で、朝倉はただひとり絵を描き続けてきた。
あたたかい家庭とはまったく無縁な生き方じゃないか。そんな人間に、家族の温もりなど描けるものか。月明かりにぼんやりと照らされた壁が、そんなふうに嘲笑っている。
朝倉は冷やかな笑い声に耐え、きつくまぶたを閉じる。そして、意を決して壁を見据えた。缶の蓋を開け、紺碧の塗料をローラーに絡めていく。迷ってはいけない。いつものように仕上げれば大丈夫だ。
朝倉がローラーを振りかざした、その時だった。
「だれ」
まっさらな壁が、そう訊ねてきたのである。
朝倉は驚きのあまりローラーを落とし、弾かれたように壁から離れた。ただの壁だったはずの表面が、突然、ぐにゃりと不安定に歪み始める。やがてそこにはひとつの情景が浮かび上がってきた。 窓のない部屋に、一本の蝋燭がさびしく灯っている。部屋の中央には、暗闇に同化したひとりの女がこちらに背を向けて座っていた。肩まで伸びた艶やかな髪と、清白のブラウス。葡萄酒を浸したような、複雑な色をした裾のながいスカート。女の足もとでこちらに冷徹な瞳を向ける、毛足の短い灰色の猫……。朝倉は口もとを右手で覆った。彼女の後ろ姿には見覚えがある。窓のない部屋も蝋燭の灯りも、猫の鋭い視線もすべて知っている。朝倉は気がついた。これは記憶だ。幼いころに経験した、母親との唯一の思い出だと。
「どろぼう猫、」
ぽつりと、女が突拍子のないひとりごとを呟いた。覇気の感じられない、か細い声だった。
朝倉はその場にへたりこみ、廊下の床から動けなくなってしまった。女のくちびるが次になにを発するのか、朝倉はよく理解していた。これ以上は聞きたくなかった。耳を塞ごうと両手をあげたつもりでも、腕に力が入らずかなわない。
「ーーお前さえいなければ、こんなことにはならなかったのに」
それは先ほどとは異なり、恨みの混じる低い声だった。ギギギという耳障りな音を響かせ、彼女が床に爪を立てる。そして首から上だけでおもむろに振り返ると、狂女と化した母親は朝倉を睨みつけ冷たい声で詰った。お前なんか、うまなければよかったんだと。我が子の出生を悔いて、女は朝倉を責めた。
ボキリ。そんな硬質な音をたてて、朝倉のなかでなにかが破壊されていく。
そこから先は、もうなにがなんだかわからなくなっていた。どこからともなく現れた白い影が、朝倉の視界をいっぺんに塗りつぶしていく。清らかな白は、すべてを無慈悲に塗り替える色だ。朝倉は呆然となりながら、そんなことを思った。
古い廃病院に、ひとりぶんの足音が響く。
裏口の扉を開き、黒い影は迷うことなく先へ進んでいく。中庭からもれる月光は頼りなく、廊下はほとんど闇にのまれていた。突き当たりで転がる懐中電灯を拾い上げ、その影が壁を照らしてようすを確かめる。モルタルには、なんの変化も見られない。ただのまっさらな壁があるだけである。影は音もなく灯りを消した。
「ずいぶん怯えているみたいだねえ。幽霊でも見ちゃったかな」
くちびるの端を捲りあげ、影は喉の奥で笑った。その視線の先では、青年がひとり気を失って倒れている。影は彼の傍にしゃがむと、落ちていた黒い塊を手にした。それは青年の使用する、ふたつ折りの携帯電話だった。着信を知らせるランプがチカチカと眩しい。
「こいつの扱いには気をつけなさいって、あれほど忠告したのに」
影ーー篠原はそうひとりごち、くちびるを舐めた。他人のものだというのに、気にすることなく携帯電話を勝手に開く。着信と発信の履歴を調べ、篠原はいちばん多く表示される番号を探した。登録されていたのは、日本人の名前ではなかった。あやしい笑みをひっそりと浮かべ、篠原は通話ボタンを押した。
ゆらゆらとした振動と、かすかに耳に届く歌声が心地よかった。
朝倉はうっすらとまぶたを開けた。体が妙にあたたかく感じたのは、密着した誰かの背中のせいだ。朝倉は誰かに背負われて、灯り少ない夜道を進んでいた。生ぬるい風に紛れつつ、すこし掠れた声音で奏でられる旋律。それはどこかで耳にしたことがある、懐かしいメロディーだった。
ーーああそうだ。これは『きらきら星』だ。確か、ドイツかどこかの子守唄だ。
朝倉は原曲のタイトルを思い出して、思わず、涙を溢しそうになった。
溺れる