小説ボラカイ島
プロローグ
小説 「ボラカイ島」 奇跡の島 南 右近
プロローグ
新聞やテレビではリストラだとか倒産の文字が毎日のように報じられ、「失業率が過去最悪」と言った言葉がどのチャンネルをまわしても目に飛び込んでくるようになってきていた。町では銀行がどんどん閉鎖され、その代わりに血の通わない現金自動支払機ATMだけがあちらこちらに設置され、あの笑顔で貯金箱の人形をくれた窓口のおねえさんたちがいつの間にかその姿を消していた。日本はとても厳しい冬の時代に入っていた。日本だけではない、世界全体が狂い始めていた。アメリカがイラクを攻撃した。戦争を始めれば物がどんどん破壊され新しい需要と供給が生まれる。高価なミサイルが惜しげもなく飛び交い、軍需産業が息を吹き返す。そして戦後の復興に政治家の息のかかったハイエナのような企業が群がる。職を失った者でホームレスになるのが嫌なら軍隊にでも入れというのか、あるいは戦争は増えすぎた人口を減らすのが目的なのだろうか、恐ろしいことだがある意味ではそれは事実だ。身近なところでも深夜のコンビニを狙った強盗事件が頻繁に起こるようになってきていた。一夜に同一犯人が複数の店を襲うこともある。以前の単独犯とは違って組織的に集団で襲うケースも目立ち始めていた。警察もとうとう重い腰を上げて本気で動き出し、刑事がバックルームのモニターの前に椅子を持ち出し、腕組みをしながら夜通し見張っている店もあった。大型の重機でもって外に置かれてある現金自動支払機をそっくり盗む奴まで現れていた。日本は本当に嫌な時代になってしまっていた。
年の瀬も押し迫った深夜、都心から少し離れた住宅街を頭に白いものが混じった中年の男がひとり防寒服に身を包み寒そうに歩いていた。時折、暗い空から雨が落ちてきていた。
「寒いな、今夜はだいぶ冷えてきている。この冷たい雨はこの分では朝までにきっと雪に変わるな、オー、寒い寒い。」
立ち止まった正樹は暗い空を見上げて冷たい雨を顔に受けながら、そう心の中でつぶやいた。そして腕時計に目をやり慌てて坂を小走りに下って行った。コンビニの夜勤に遅刻しそうだったからだ。
正樹が白い息を切らせて勤務先のコンビニに着くと、数人の若者たちが店の前でしゃがみ込んでいた。派手に食べ散らかしていたが、正樹のことを見るとそのうちのひとりがゴミをゴミ箱に入れ始めた。ひとりは顔見知りであった。
「正樹さん、これからですか。」
「ああ、そうだよ。今夜は冷えているね。おまえら、そんな所で話してないでさ、中に入ればいいのに。寒いだろうが。」
「それが、オーナーさんがいるから、まずいっすよ。」
「そう、まだオーナーがいるのか。」
正樹が店の中に入ると珍しくこの店のオーナーがまだ残って仕事をしていた。ちらりと見える奥のバックルームの椅子には見かけない少女が顔を伏せながら座っているのも見えた。何かいつもと違う空気を感じた。コンビニの蛍光灯には特殊な仕掛けがしてあって、虫が近寄らないようにできているのだそうだが、実際には冬場でも暖かい店内には虫が少なからずいる。オーナーはレジの横にあるおでんの鍋に自ら飛び込んで死んでしまった虫たちを手早くおたまですくい上げていた。その前を正樹は横切りながらペコリと挨拶をした。
「おはようございます。」
夜中なのに何故か挨拶は「おはよう。」なのだ。皆が使っているのでいつの間にか正樹もそう挨拶するようになった。オーナーは正樹に一瞬だけ目をやると一気に話し出した。
「おはよう。ほら、あれ、奥にいるの。奥にいるあの子、万引きだよ。今、親を呼んだところだよ。あそこに座って母親が来るのを待っている。親が来たら、また少し騒がしくなるが気にせずにいつものように仕事を始めてくれ。」
「はい、分かりました。」
正樹はそう軽く返事をするとバックルームに入った。相当こっぴどくオーナーから説教されたのにちがいない少女の前を通って自分のロッカーの所へ行き制服に着替えた。店のコンピューターで出勤登録を済ませてからほうきとちりとりを持ち再び外へ出た。深夜のコンビニでたむろする若者たちは初めは正樹に対して反抗的な態度をとるが、毎晩、それも休まずに床を這いつくばりながら仕事をする正樹の姿を見ているうちに次第に好意を持つようになる。まださっきの子供たちが外で遊んでいた。正樹は掃除をしながら話かけた。
「おまえたちは他に行く所がないのかよ。他にすることがないのか。」
「なんせ、金持ってないっすからね、仕方がないですよ。」
「どこかでバイトかなんかしないのか。」
「どこも俺らなんか雇ってはくれないし、仮にバイトがみつかってもすぐに首になっちゃいますからね。」
「だから、そこが辛抱なんだよ。仕事は諦めずに何度でも探す、嫌な上司に注意されてもハイハイと我慢して聞くことだな。」
「正樹さんはここ長いっすよね。おれが小学校の頃からだから、もう何年になります。」
「もう十年になるかな。」
「十年か、いないよな、そんなの。それに毎日いるでしょう。休まないのですか。」
「ああ、四年前に店が改装した時に一度休んだよ。」
「すっげえ、ギネスもんだぜ。」
「何を驚いているんだ。夜だけじゃないぞ、俺は、昼間も働いているんだよ。9時から5時、きっちりと皆と同じように働いている。」
「ええ、まじっすか。いったい、いつ寝ているんですか。」
「夜、皆がテレビを視てへらへら笑っている時間に寝ている。」
「すっげええ、連ドラとか視たくないんですか。それにいったい睡眠時間は何時間なんですか。」
「夕方の6時から10時までの4時間だよ。」
「たった4時間、大丈夫なんですか、そんなんで、体。」
「ああ、大丈夫だよ。なあ、おまえら、今夜はこれから雪になりそうだからお開きにして、もうこれくらいで帰って寝たらどうだ。」
「そうですね、そうします。それじゃあ。正樹さんは今日も朝までですか、頑張ってください。」
「ああ、ありがとう。その自転車はライトが点くのか、さっきおまわりさんがうろうろしていたから気をつけろ。無灯火だと捕まるぞ。ほら、そこにある自転車、誰かが駅の近くで盗んで乗り捨てていったものだ。ついでに盗難登録のナンバーのチックもされるから注意しろよ。」
子供たちはそれぞれ違った方角に走り去っていった。また店先は静かになってしまった。
10年も深夜のコンビニに集まってくる子供たちの相手をしていると色々なことを逆に教わるものである。この地区の一般に不良と呼ばれる連中は何代もさかのぼって正樹のことを知っている。やたらと叱りとばすコンビニの店主もいるが、正樹は少し違った。自腹を切って、寒い夜に温かい肉まんをそっと子供たちに出してやると、子供たちは感激して、急速に仲が良くなる。不思議なものでその後はゴミを食べ散らかさなくなる。ただ、困ることは道で騒音をたてて爆走する暴走族とすれ違う時だ、大きな声で「おーい、正樹さん」と声をかけられることだ。向こうは親しみを込めて挨拶するのだろうが、正樹としてはあまりありがたくはない。でも正樹にとって彼らが深夜に店にいてもらった方が都合の良いこともある。それは彼らがコンビニ強盗から正樹を守ってくれる抑止力になるということだ。さっき子供たちが聞いて驚いたように、正樹はコンビニの夜勤が終わると、今度は半導体の会社に昼間は勤務する。一般の人の倍ははたらいている。毎日、体力の限界まで働いているので、夕方、寝床に入ると2分も経たないうちに眠り込んでしまう。だから今まで羊の数など数えたことはない。しかし寝付いたと思ったら、またすぐ目覚まし時計に起こされる。それが本当に辛い。寝る前に酒など飲んだら、まだ酔いが醒める前に起きなくてはならないから、アルコールは意識してひかえている。無駄な時間というやつがないし、寝ているか仕事をしているかのどちらかで生活にまったく途切れがない。もうそんな生活が10年も続いていた。
店の外の掃除を終えて中に入ろうとしたら、自転車に乗ったおまわりさんが二人やって来た。
「ああ、こんばんは。どうですか異常はありませんか。」
通常の夜間巡回の途中で立ち寄ったらしく、どうやら中の万引き娘とは関係がなさそうだったので、正樹は彼らの注意が店の中に向けられないようにそのまま外で答えた。
「ええ、別に異常はありません。」
「今夜は寒いですね。特別に寒い。また何かありましたら連絡して下さい。あ、お店のビデオ動いていますよね。」
「ええ、動いていますよ。」
「4台でしたっけ。」
「ええ、そうです。」
「あ、それから、まあ、この店は来ないとはおもいますが、もし強盗が来たら、まあ、ひとつ、逃走経路、どっちに逃げたかだけは確認して下さい。お願いします。」
「分かりました。逃げた方向ですね。それから、おまわりさん、先週は坂上の店がやられましたよね。近所のコンビニはみんな強盗にやられたのに何でこの店はまだなんでしょうかね。」
そう正樹が尋ねると、おまわりさんは笑いながら答えた。
「まあ、強盗も押し入る前には下見をしますからね。店員を見てから入るものですよ。」
「ええ、それって、私が化け物か何かに見えるわけですか。ずいぶん強盗も失礼しちゃいますね。」
「まあ、まあ、強盗は入らん方が良いのに決まっているのだから、それでいいじゃないですか。あんたはこの店の守り神だとおもえばよろしいのでは。」
「おまわりさんはそう言うけれど、いつかこの店にも来ますよ。きっと強盗は来るとおもいますよ。」
正樹はそう言い張った。二人の警官は笑いながら、白い小箱が後ろに付いた自転車にまたがり、ゆっくりと店から離れて行った。
すれ違うように真っ青な顔をしたご婦人が自転車でやって来た。どうやら中の万引き娘の母親らしい。警官を見てきっとびっくりしたのに違いない。その母親は中年のコンビニの制服を着た正樹を見て、正樹をこの店の店長だとおもい、すぐさま謝罪の言葉から入ってきた。
「どうもすみません。娘がとんでもないことをしまして、申し訳ありません。」
この店の前のタイルはよく滑る材質で、雨に濡れたりするとさらによく滑る。少し雨が強くなってきており、母親は体のバランスを崩してその場にすってんころりんしてしまった。
「大丈夫ですか。ここ滑るんですよね。すみません。」
「ええ、大丈夫です。」
「中にオーナーがいますから。どうぞこちらです。」
「失礼します。」
正樹はその母親を先に店に入れるとオーナーに目で合図を送った。そして母親を奥のバックルームに案内し、オーナーと入れ替わるようにしてレジに立った。
しばらくの間、泣き叫ぶ声が接客をするレジの所までバックルームから漏れてきていたが、次第に母親も落ち着いてきたらしく、30分ほどで完全に静かになった。店の方も最終電車が近くの駅を通過してしまったらしく、バッタリと客足が途絶えてしまった。万引き娘も母親に小突かれながら帰って行ってしまった。
「それじゃあ、後はよろしく。お願いします。」
と一声を残してオーナーもさっさと帰って行ってしまった。今夜もいつものように正樹だけが店に一人残った。
深夜のコンビニに長く勤めているといろいろな事に遭遇する。近所の人たちは何か事件が起こると留守がちな交番よりも必ず人がいるコンビニに駆け込んでくるからだ。この地区で110番センターに通報した回数が最も多いのは正樹だろう。110番するたびに名前を言わせられるから、センターにはちゃんと記録が残っているはずである。裏の道に人が倒れているといった知らせは毎月一回は必ずある。その大半は酔っ払いだ。飲み過ぎてぶっ倒れていることがほとんどであるが、ただ一度だけ老人が道端で亡くなっていたことがあった。妊婦が急に産気付いたり、子供が怪我をしたり、救急車を手配した回数も正樹の右にでる者はいないだろう。夫婦喧嘩のもつれから、奥さんが店のトイレに逃げ込み篭城した時はその亭主がトイレのドアを壊そうとしたので、初めて正樹は客と乱闘になった。トイレの中からその奥さんが携帯電話で110番通報して、パトカーが五台も店にやってきてやっと決着した。精神異常者、かなりそれに近い変な奴、これが実に多い。歌いながら備え付けのカゴいっぱいにアイスクリームを入れてただ店内をぐるぐる回り続ける。次第にカゴの中のアイスが溶け出してきて店の床じゅうがベタベタになってしまった。酔っ払いは日常茶飯事、老人の深夜の徘徊、昼間に上司にでも叱られたに違いないサラリーマンがコンビニの店員に何だかんだといって文句をつけて自分の憂さを晴らす。更年期障害の中年女性はコンビニ店員の態度が悪いと言って本部にまですぐ連絡する。トイレは一夜に何度も掃除しなければならないし、トイレにたどり着けずに途中の床にお漏らしをするケースが意外と多い。自分の家の水道代を節約する為に店のトイレを利用する奴もいる。外のゴミ箱は行く度に溢れているし、犬の糞まで入っている。家庭の生ゴミも曜日に関係ないコンビニのゴミ箱に夜陰に乗じて持ってくる族もいる。それも車で持ってきて平気な顔で捨てていくから始末が悪い。コンビニは百貨店であり、清掃局でもある。銀行業務もすれば借金の返済も受け付ける。ポストもあれば切手も宅配便も受け付ける。コンサートのチケット、バスや鉄道、ホテルの予約まで手配できる。ケーキも売れば、年賀状の印刷、写真もやっている。そして何より24時間いつでもあかりが灯っている町の交番なのである。困った人たちの避難場所なのだと正樹は常日頃感じている。お客様は自分の立場でしか考えないから無理難題をいつも押し付けてくる。お札が切れちゃったんですけど、これでいいですか。二枚に切れたぐらいなら受けるが、何十枚にも千切られた紙幣は当然お断りする。すると何だこの店は態度悪いぞとが鳴り出す。賞味期限が切れた物を半分食べてしまったけれど、どうしてくれるんだ。それは店の商品管理が悪かったから叱られて当然だが、死んだらどうするんだ、どう責任をとってくれるんだとすこぶる元気な勢いで怒鳴り込んでくる。この店のオーナーの口癖で「俺は客だ。」という奴に限って良い客などいやしない。確かにその通りだと正樹もおもう。まあ、これまでに一番困った依頼はといえば、財産のトラブルからなのか、家庭内でどんないざこざがあったかは知らないが、おばあさんが自分の息子に裏切られたから、金で何とかしてくれませんか。と頼まれた時だ。話を良く聞くと、それは殺人依頼であった。そんなことは出来ませんと言うと、おばあさんは店の前でたむろしているチンピラを紹介してくれと正樹に言い出した。コンビニは確かに何でもするが、殺人はやりませんし、殺し屋の斡旋も致しませんと追い返したことがある。まったく世の中は狂い始めている。コンビニで働いていると人間の弱さや嫌なところが見えてしまう。
正樹の夜勤の主な仕事は接客ではない。毎時間、トラックで搬入されてくる商品の検査と陳列である。一見、コンビニの仕事は楽そうに見えるがとんでもない。超ハードなお仕事である。頑強な体育会系の大学生でも夜勤の連荘はきついと言うくらい過酷な仕事だ。変な話だが、蝿も深夜になるとちゃんと眠るのである。そんなことを知っているのは夜勤を長くやった者にしか分からないことだ。牛乳パックにとまって眠っている蝿を起こさないようにゆっくりとパックごと外に運んで逃がしてやる。蛾とか蜂もよく店に飛び込んでくるが、正樹はビニールの袋に生け捕りにして、また入ってこないように入り口から少し離れた所で開放してあげる。ただゴキブリだけは容赦なく新聞紙を丸めてたたきまくる。ゴキブリとはその姿形でだいぶ損をしているかわいそうな生き物だと正樹はおもう。
店内は静まり返り、蝿たちも眠りについた頃、正樹が入荷した雑誌の整理をしていると来店を告げるチャイムが鳴った。ピン・ポンというチャイムの音とともに男が入って来た。店内には他に客はいなかった。外はもの凄く寒かったから、さすがに今夜はもう他の若者たちも集まらなかった。その男は深夜にもかかわらずサングラスにマスク、おまけに深々と帽子で顔を隠し、それは防犯ビデオを意識した格好だった。どこから見ても強盗であった。
「来た。」
正樹はそう短くつぶやいた。やっとこの店にも強盗が来たと正樹は確信した。おまわりさんから自分のことを化け物扱いされて、心のどこかで強盗が来るのを待っていたのかもしれない。正樹は久しぶりに居ても立ってもいられないような興奮を覚えた。気温もどんどん下がり始めていた。外はすでに雨が雪に変わっており、道路も店先もうっすらと積もり始めていて、その男の帽子の上にも白い雪がついていた。
「落ち着け、正樹。」
自分にそう言い聞かせながら、正樹はレジの所に素早く戻った。その男は店内をぐるりと一回りし、他に客がいないことを確かめてから、正樹が待つレジにやって来た。
「ギミマニー。」
英語のようだ。それもかなり訛った東南アジア系の英語だ。きっとこの男、日本に出稼ぎに来て失敗したのに違いない。不景気な日本の風に当たってあまり良いことがなかったのだろう。それでコンビニ強盗をする気になったということは十分に想像することが出来る。あんなに調子の良かった日本経済がここまで不景気になるとは、まったくあんたに同情するよ。だけどコンビニ強盗ほど金にならないものはないぞ、高額紙幣は店員の手の届かない箱の中にどんどん入れられてしまうから、レジの中には2万か3万ぐらいしか入っていない。たった数万円の為に殺人の次に重い刑罰を受けるなんて、なあ、強盗さん、馬鹿らしいとはおもわんかね。正樹は強盗の次の言葉を待つ間にそんなことを考えていた。
「ギブ ミー マネー。」
男はじれたように再び言った。そう、そうゆっくり発音したほうが日本人には分かりやすい。そしてポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、今度はたどたどしい日本語で言った。
「金、金だ。」
正樹はその強盗の容姿をよく観察した。心身ともに油が切れたような感じがした。おまけに痩せ細っている。こいつなら勝てると正樹は正直そうおもったが、拳銃を隠し持っていると面倒だったので、飛び掛るのは止めにした。その代わりにその場の空気をぶった切るような勢いでレジの中からつり銭全部をケースごとそっくり抜き出して、そのまま放り投げた。つり銭は飛び散り、カウンターや床にバラバラに散らばった。
「テイキット。」
正樹は英語でそれを持っていけと大声で言い捨て、素早くバックルームに駆け込み木刀を手に取った。その木刀は素振り用の太くて長いもので以前から正樹が用意していたものだ。上段に構えると普通の木刀の倍の大きさがあるからとても相手に威圧感を与える。それは強盗を威嚇する為のもので、決して撃破する為のものではない。あくまでも護身用である。強盗が入った時、財布や携帯を持たずに飛び出た場合のことを考えて近くの交番の電話番号もマジックで書かれてあり公衆電話からかける為に小銭も袋に入れて木刀の端っこにくくりつけてあった。正樹が大きな木刀を手にしたのを見て驚いたのは強盗であった。カウンターの上のわずかばかりの紙幣を鷲掴みにして慌てて逃げ出した。強盗は入り口の開きかかったドアに強くぶつかり、またドアが開くのを待って外に飛び出ていった。しかし次の瞬間、にぶい音をたてて強盗はぶっ倒れてしまった。またタイルだ。さっき万引き娘の母親がころんだあのタイルだ。非常に滑りやすく、これまでにも何度もお客様から苦情があった代物だ。特に雨の日などは滑りやすく、今夜はまた雪でその何倍も滑りやすかったに違いない。後で警察に報告するために店の奥から強盗の逃走方向をしっかりと確認しようと見守っていた正樹だったが、その東南アジアからわざわざやって来た強盗は不覚にも店の前ですっころんでしまったのだった。正樹はしばらくその様子を息を殺して見ていたのだが、強盗は店先で倒れたままだ。いっこうに動こうとはしないのであった。ちょっと待てよ、これは大変な事になったぞ。同じ系列の他店が襲われた時の状況は本部からの回し書きでよく知っている。みな賊は短時間で手際良く逃げ去って、誰も怪我などはしないのだが、ええ、強盗が転んだまま動けない。こんなの防犯マニュアルにないぞ。正樹は困ってしまった。恐る恐る外に出てみることにした。打ち所が相当に悪かったらしく、強盗は完全に気を失っているようだった。足も複雑骨折していて、骨が皮膚の外に顔を出していた。何日も食べていないのか、この哀れな強盗はよほど栄養が足りなかったとみえ、ちょっと転んだだけでもこんな無残な姿になってしまった。店から奪った紙幣とナイフが男のそばに落ちおり、まず正樹はそのお金とナイフを自分の制服のポケットに素早く仕舞い込んだ。そして急いで店に入り、受話器を取った。警察ではなく救急車を手配した。一切、強盗事件があったことは通報しなかった。次に店の救急箱と小板を持って倒れている強盗の所に戻った。救急車が到着するまでのほんのわずかな時間に正樹は骨折した強盗の為に完璧に応急処置を施した。
救急車が到着し、しばらくして強盗は意識を取り戻した。必死に起き上がろうとするのだがまったく動くことが出来ない。目だけがギョロギョロと動いて正樹のことをとらえた。正樹は救急箱を反対の手に持ち替えて、ポケットから彼のナイフとお金を取り出してそっと見せた。それは正樹と強盗の二人にしか分からない秘密だ。まったく救急隊員たちには理解の出来ないことであった。応急処置がしてある強盗の足を指差しながら、隊員の一人が正樹に言った。
「これはあなたがやったんですか。みごとですね、私たちでもこんなにうまくは出来ませんよ。的確な処置です。どこかで治療の経験がおありなんですか。」
正樹は何も答えなかった。隊員たちは無愛想なコンビニ店員のことをしばらく見ていたが、はっと我に返り強盗を抱え上げて担架の上に乗せた。強盗は正樹から目を離さずにいた。その目がどんどん大きく見開かれていき、やっと状況を理解した様子だった。強盗は正樹のことを見ながら口を開いた。それはフィリピンの公用語であるタガログ語だった。
「あなたはこの世に二人といない本当にお優しいお人だ。」
もちろん救急隊員たちがそれを聞いてもまったく分からない。しかし正樹は完璧にその言葉を理解していた。
「何があったか知らないが、もう強盗はやめろよ。病院で治療が済んだら隙を見てどこかに逃げろ、いいな。ここでの事はなかったことにしてやるから。早く家族のもとに帰ることを考えなさい。」
正樹も流暢なタガログ語でそう答えた。
足を滑らせて骨を折ってしまった哀れな強盗は担架の上で頷きながら胸に十字を切って、正樹に感謝した。救急車の後部ドアが閉められ、救急車はサイレンの音を引きずりながら走り出した。また正樹だけが一人残された。店の前の道路はもうすっかり雪化粧で真っ白な世界であった。走り去った救急車のタイヤの跡だけがどこまでも延びていた。
入り口付近のタイルが滑りやすい店は確かに多い。雨などで濡れるとその危険度は一段と増す。もし骨折したのが強盗ではなく子供やお年寄りだったらどうだろう。店にも少なからず責任はあるのではないかと考えた正樹は店のオーナーや本部のスーパーバイザーに滑りやすいタイルを何とかするようにと提言した。しかし銭のかかる話はなかなか進まないのが常だ。一ヶ月、二ヶ月経ってもよく滑るタイルはそのままだった。強盗がそのタイルで怪我をして運ばれたことを誰にも言わなかったから余計に説得力がなかった。そしてだいぶ時が経ち、正樹はもう強盗のことを忘れかけていた時だった。昨日、オーナーが発注をミスってしまって二日分の大量の荷物を捌いている時だった。耳にこびり付いてはなれない来客を告げるチャイムがなった。条件反射的に入り口の方を見ると、あの時の強盗が入って来るのが見えた。今夜はこの前と違って帽子もサングラスもマスクもしていなかった。正樹のことを見ると、ペコリと二度三度と頭を下げ、そして足を引きずりながら正樹の作業をしている所に近づいてきた。躊躇することなく彼の母国語で正樹に話しかけてきた。
「先日はありがとうございました。見逃していただいて本当に助かりました。つい出来心で押し入りましたが、今は深く反省をしております。」
正樹はちっともこの強盗のことを恐いとも憎いともおもわなかった。それより骨折した足のことが気になっていた。
「どうした足の具合は、まだ痛むのか。ちょっと見せてみろ。」
正樹も彼の国の言葉でもって答えた。強盗の顔色は店を襲った時よりはまだましだったが、相変わらず体はやせ細っていた。
「へい、もうだいぶ良くなりました。」
「ちょっと、そこに座ってみろ。」
正樹は強盗を椅子に座らせ、ズボンの裾を手際良く捲り上げ患部を診ながら言った。
「おまえはどこの出身だ。」
「パナイ島でっせ。」
「そうか、パナイ島か。それじゃあ、ビサヤだな。タガログ語よりもビサヤ語だな。俺はビサヤ語は得意ではない。このままタガログ語で話をしてもいいか。」
「へい、もちろん結構でっせ。タガログ語は学校で習いましたし、国の言葉を統一しようという動きがありますからテレビなどではもっぱらタガログ語が使われていますからね、こんなあっしでも理解は出来ますぜ。しかし驚きましたぜ。日本にもだんなのようにあしらの言葉が話せる人がいるなんて、本当にびっくりしました。」
正樹は奥から救急箱持ってきて、血がにじんだ包帯をはずして傷口を診てから新しい包帯を上手に巻き直した。そして手を良く洗って特上の肉まんを二つ蒸し器から取り出して強盗に差し出した。
「お前の足はもうだいぶ良くなってきている。でも栄養を取らないとまた簡単に折れてしまうぞ。ほら、温かいから食え。フィリピンではシオパオだが、ここでは肉まんと呼んでいる。豚肉だ、猫の肉ではないから心配するな。」
フィリピンではたいていの映画館でポップコーンといっしょに中華まんが売られている。よく人々は冗談半分で饅頭の肉がぐちゃぐちゃで何の肉だか分からないので猫だ猫だとはしゃぎたてるが、調理人以外にはその真実は分からないことだ。確かにシオパオの肉が猫だと言われてみると正樹はそんなような気もする、味が豚でもないし鳥でもない独特なものだからだ。強盗は両手でその肉まんを包んだまま食べようとはしない。
「どうしたんだ。おいしいから食べてみなさい。食べて元気をつけなくては駄目だぞ。」
そう再び言って、正樹は自分の為にもう一つ肉まんを取り出して先に食べ始めた。
「何をしている。温かいうちに食べろよ。うまいぞ、シオパオは嫌いか。」
強盗は首を振りながら言った。
「シオパオはあっしの大好物ですよ。ええ、いただきますよ。喜んでいただきます。そうじゃないんです、あっしは日本に来て何一つ良い事がありませんでしたからね。日本に来ればたくさんお金が稼げるとばかりおもって国を出たんですがね、それは間違いでした。これまで良いことなんか何もありませんでしたよ。それなのに、こんな温かい親切は初めてでっせ。強盗したのに見逃して下さり、こんな温かいシオパオまでくださるなんて、だんなのようなお優しいお人が日本にもいるなんて、嬉しくて喉がつかえてしまって。」
「大袈裟な事を言うな、もういいから食べろ。」
「あっしは明日、東京入管に出頭するつもりなんです。その前に一言だけ、だんなにお礼が言いたくてやってまいりました。それがまた、こんなあったかい親切をしていただいて、なんてこった。」
やっとここで、強盗は肉まんを頬張り出した。
「そうか、明日、入管に行くのか。滞在期間の許可が切れているんだね。強制送還されるわけだね。私にはよく分からんが、お前の為にはその方が良いのかもしれないな。金がなくても生まれた島にいるほうが幸せかもしれないよ。ここにいて死んでしまったんではおまえの家族が悲しむだけだからな。」
「ええ、だんなのおっしゃる通りでっせ。まったく、何もなくても家族のそばが一番ですよ。家に居た時は近所の誰かしらが食事を分けてくれましたからね。こんなに食えなかったことは一度もありませんでしたよ。」
「でもおまえの気持ちもよく分かるよ。親戚の誰かが日本に来て、しこたま稼いで帰ると大きな家が建ったりしてな。それを見た家族があんたも出稼ぎに行って来てよと捲くし立てる。そうだな。」
「ええ、その通りでっせ。あっしも家族の為にと遣って来たんですがね、失敗しました。」
「まあ、人生、悪いことばかりじゃないよ。良いことも必ずやってくるから。それまで家族のそばで待つことだな。ところで、おまえはさっきパナイ島の人間だと言ってたな。おまえに一つ頼みがあるんだがな。パナイ島は大きな島だから頼めるかどうか分からんが、隣のボラカイ島はおまえの所から近いのか。」
「うちらの村からカリボの町まではバスで2時間ですから、ボラカイ島の入り口のカティクランまでなら3時間ちょっとですかね。」
「そうか。おまえ、家に帰ったら、いつでもいいんだが一度ボラカイ島に渡ってくれないか。ボラカイ島の丘の上に共同墓地があるんだが、そこに行って簡単でいいんだが、墓の掃除をやってはくれないだろうか。もちろんお礼は出すつもりだ。」
「礼などいりませんや。いいですとも、あっしに任せて下さいな。そのお墓にはきっとだんなの大切なお人が眠っているんでしょうから。ええ、きれいに掃除をしてまいりましょう。ボラカイ島ですか、あそこはきれいなところですよ。まるで天国のようなところだ。あそこの美しさは半端じゃありませんからね。しかしまったく、だんなには驚かされますよ。あしらの言葉が話せるだけかとおもえば、ボラカイ島のことまで知っていらしゃるんだから。いったい、だんなは何者なんです。」
「そんなことはどうだっていいよ。そうか、行って来てくれるか、すまないな。私も一日も早くボラカイ島に戻りたいんだが、なかなかそうはいかなくてな。」
正樹はボラカイ島の話をして、様々な思いがこみ上げてきてしまった。さっきまでのようには言葉が出てこなくなってしまっていた。コピー機の中から一番大きな用紙を取り出し、そこに墓への地図といくつか名前を書いた。そして丁寧に四つに折って、強盗に渡した。
「そこに書いてある名前の墓をさがして掃除をしてやってくれ、本来なら自分でしなくてはならないところだが、お願いするよ。すまんな。」
「だんなが、そんなに涙ぐんでいらっしゃるんだ、よっぽど大切なお人がそこには眠っていらっしゃるんですね。ええ、任せてくださいな、ちゃんと、どの墓よりもきれいにしておきますから、心配しないで下さい。」
「すまんな。」
正樹はポケットから5万円を取り出して二つに折って強盗に渡そうとした。
「少ないけれど、これは取っておいてくれ。」
強盗はそれを見て、慌てて言った。
「だんな、そんな大金、結構でっせ。礼なんていりませんよ。逆ですよ。先日、見逃してくれたお礼をしなくちゃならないのはあっしの方だ。それはいただけません。どうぞそれはおしまいになってくださいな。」
「いいから、取っておけ。あの島まで行くのにもけっこう金がかかるし、それに花を買ってもらいたいからな。お金はいくらあっても困らんから、いいから、これはとっておけ。」
そう言ってから、正樹は強盗のポケットにそれをねじり込んだ。
店の前にマイクロバスが横付けになった。コンビニの忙しい朝が始まった。早起きの現場の作業員たちがどかどかと入って来た。道が混む前に現場に移動する為なのか、建設業に携わる人たちの朝は早い。レジにはすぐに弁当とスポーツ新聞、そしてもう一品、カップ麺を持って長い列ができてしまった。正樹は強盗に言った。
「どうやら忙しくなってきたようだ。もうゆっくり話が出来そうにないな、その金はとっておけ。お金はいくらあっても困らんだろう。それからもう馬鹿なまねはするなよ。」
「だんな、お墓のことはあっしに任せて下さいな。必ず行って掃除をしておきますから。だんな、本当にありがとうございました。どうぞお元気で。じゃあ、あっしはこれで失礼します。」
「あ、そうだ、強盗。おまえの名前は何と言うのだ。」
「あっしはイルバートと申しやす。だんなのお名前は。」
「正樹だ。マ サ キ だ。」
「マサキですね。」
「ああ、そうだ。もう強盗はするなよ。一隅を照らすこともまた素晴らしい人生なんだぞ。しっかりと与えられた境遇の中で一生懸命に頑張ること、それはそれでまた美しい生き方だとわしはおもう。日本に来なくてもパナイ島でしっかりと生きていれば、故郷の恵みをたくさん享受できるはずだ。しっかり生きろよ。」
正樹はそうイルバートに言ってレジの前に戻った。イルバートはペコリと頭を下げて店の外に出て行った。もう店の外はすっかり明るくなっていた。暦の上ではもう春なのにそれは名ばかりでまだまだ冷たい北風がイルバートの背中に吹き付けていた。
イルバートは寒い日本から常夏のマニラに強制送還された。マニラの警察に着いた時には正樹と別れてから一ヶ月の時間が経ってしまっていた。大都会マニラから故郷のパナイ島に戻ったのはさらにその8ヶ月後で、そして正樹との約束を守るためにボラカイ島に渡ったのは3年後だった。しかしイルバートは正樹との約束をちゃんと守った。
ボラカイ島の名前はダイバーたちの間ではかなり有名ではあるが、まだまだ世間一般にはその名は知られていない。ましてやその場所を正確に言い当てることが出来る者は皆無に等しい。でもボラカイ島はとても美しい島である。訪れた者は誰でもこの島のことを有り触れた表現だが、天国に一番近い島と呼ぶようになる。フィリピンのほぼ中央に位置する周囲が約7キロメートルの小さな島だが、島の中央に4キロメートルも続く真っ白な砂浜がある。何層にも分かれたエメラルドブルーの海、そしてその空間の8割以上を占める大きな青空は想像を絶する美しさだ。ボラカイ島の海の色は毎時間ごとに光の加減で微妙に違ってくる。薄い水色から深い藍色まで、時には緑がかったエメラルドブルーに変化したりもする。椰子の木の下に座って遠くの海を眺めていると、遠くの波の上にかかった雲がその下の海だけにスコールの雨を降らせながら移動したりして、そんないかにも涼しげで南国独特の風景も垣間見ることが出来る。これ以上は決して望めないだろうと言い切れるほどの極上の白い砂浜は魔法を使って人々をボラカイ島の虜にしてしまう。自然の美しさ以外には何も娯楽施設はいらない。ただゆっくりと島を包んで流れていく贅沢な時間さえあればそれでいいのだ。この南の小さな島は地球に残された数少ない地上の楽園の一つだ。最後の楽園と言っても誰も文句は言わないだろう。いや、むしろそう誰かに言いふらしたくなるはずだ。リピーターの多いことがそれを証明している。
文明社会に疲れた人々はこの島に心の休息と一時の安らぎを求めて世界中から集まってくる。日本で知られるようになる前から、日照時間が短く太陽の恵みが少ない北欧では世界の美しいビーチのベストテンの上位に常にボラカイ島はランキングされ続けてきた。地球の裏側にもかかわらず、多くの北欧の人々がこの浜にやってきて長期の休暇を楽しんでいる。一世を風靡したかつてのヒッピーたちもこの島に自由を求めて集まって来ていた。
倒産が相次ぐ冬の時代に「癒し」という言葉が流行り始めた日本でもこの島のことは次第に知られるようになってきた。不景気と倒産の嵐で疲れた日本人たちがこの島を訪れた時、やはり誰もがこのボラカイ島のことを天国に一番近い地上最後の楽園と呼ぶようになる。最近ではこの島も開発がどんどん進んで便利になってしまい、以前のような素朴な魅力が失われつつあると、昔よくこの島に来て長逗留をしていたバック・パッカーたちは嘆くけれど、まだまだボラカイ島は圧倒的に美しい自然でもって訪れる人々の期待は決して裏切ったりはしない。とてもきれいな島である。
イルバートがボラカイ島に着いた時、彼の懐はとても寂しかった。正樹からもらったお金はもう何年も前になくなってしまっていたし、故郷に戻っても仕事には在りつけなかった。それでも彼は正樹との約束を一度も忘れなかった。地元でバランガイのキャプテンを決める選挙があり、有力者から自分に投票するようにと言われて、イルバートは500ペソをもらった。正樹がくれた5万円は3年前だったがブラック・マーケットで両替したら25000ペソになったから、それに比べて500ペソは端た金だ。飲んでしまえば一夜でなくなってしまうところだったが、イルバートはその500ペソで重たい腰を上げた。ボラカイ島へ渡る決心をしたのだった。だからボラカイ島に着いても島の唯一の交通機関であるサイドカー付きのオートバイ、トライシクルに乗る余裕などはなかった。正樹が描いた地図をトライシクルの運転手に見せて道順を教えてもらった。結局、正樹に頼まれた花は買うことが出来なかったけれど、道すがら野に咲く花をいくつか摘みながら丘の上の共同墓地に向かった。ただ正樹との約束を守ることだけを考えていた。イルバートが墓地に着いた時、墓守らしき老人がスコップを持ち古くなった墓を整理していた。その老人の他には人影はなかった。風が海から吹き上がってきていて、とても気持ちが良かった。
「すみません。ちょっとお尋ねします。」
イルバートは墓守に声をかけた。まだ耳は聞こえるらしく、その老人はすぐ頭を上げてイルバートの方を見た。イルバートは老人の近くまで行き、正樹が書いたメモを見せた。
「この墓はどこにありますか。」
老人はそのメモを手にとって、一目見るなり頷いた。
「あそこじゃよ、あそこの花が供えてあるお墓がそうだ。」
イルバートは慌てた。誰かがすでに花を供えていたからだ。
「すみません。あの花は、誰が。」
「マサキ先生じゃよ。毎日、ああやって新しい花を供えている。今時珍しいお人だよ。先生はよっぽど会いたいんだね、また生まれ変わって、あのお墓のお方と巡り会いたいんですね。」
「マサキ先生。そのマサキ先生というのは日本人ですか。」
「ああ、そうじゃよ。この島でマサキ先生のことを知らない者はおらんよ。」
「じゃあ、そのマサキ先生は、今、島にいらっしゃるんですか。」
「ああ、しばらく日本に出稼ぎに行って留守にしておったがな、先月だったか、先生のお母様と一緒にやっと診療所にお戻りになったよ。」
「なんでまた、診療所があるのに日本に出稼ぎに行くんですか。」
「先生のおかげで島の者たちは金がなくても診療所に行くことが出来るんだ。診療所の入り口に箱が置いてあってな、金のあるものはちゃんとその中に入れるが、ないものはいつかお金が出来たときにその箱の中に入れればいいんだよ。薬代がないときも相談にのってくれる。まったくあしらみたいに貧乏な者にとってはありがたいことだよ。でも、診療所の経営は苦しいらしくて、先生は時々、日本に出稼ぎにお行きになるんだ。」
イルバートは恥ずかしかった。墓の掃除をする約束だったのに、自分より先にマサキ先生が帰って来てしまっていた。でも会わないわけにはいかない。会って謝らなければならないとおもった。
「その診療所というのはどこにあるのでしょうか。先生に会ってお詫びをしなければならないから。」
「パレンケの近くだ。パレンケに行ったら誰でもいいや、聞けばすぐ分かるさ。でもこの時間にはマサキ先生は診療所にはいないよ。最近はいつもこの時間になるとお袋さんと浜辺にいる。浜辺に行った方が会えるかもしれねえよ。」
そう言ってから、老人はまた墓を掘り起こし始めた。イルバートは丁寧に礼を言ってからその場所を立ち去った。
ボラカイ島はいつものように今日も静かに夕暮れ時をむかえようとしていた。それは毎日繰り返される神秘的で神聖な瞬間だ。
二人の老人がホワイト・サンドビーチと呼ばれる白い砂浜にいた。椰子の木を背にしながら暗くなりかかった海を見つめていた。二人並んで黙ってベンチに腰掛けていた。真っ赤な夕陽の垂れ幕が二人の影を染め始めていた。
初老の正樹と母の正子は流木で作ったベンチに腰掛けて目の前のボラカイの海に沈む真っ赤な夕陽を眺めていた。二人は決まって夕暮れ時はここにいた。暗くなりかかった天を仰ぎながら正樹がゆっくりと口を開いた。
「母さん、やっぱり日本に帰ろう。ちゃんとした病院に行こうよ。帰ろう、日本に。」
「いいんだよ、お前がこうしてそばにいてさ、こんなにきれいな島で死ねるなんて幸せなことじゃないか。もうあたしは八十だよ。もう十分に生きたよ。あたしは帰らないからね。日本の薬付けのベットなんか真っ平御免だよ。延命治療か何か知らないが、ただベッドの上で長生き出来ても、あたしゃ、ちっとも嬉しくなんかないさ。毎日毎日、来もしないお前たちをベッドで待っているのは地獄だよ。それよりこうしてこの島でお迎えがくるのを静かに待ていたいんだよ。日本には帰りたくないね。」
「でも、日本で治療してから、またここに戻って来ればいいじゃないか。近代設備の整った大きな病院で完全に治してから、また、このボラカイ島に帰って来ればいいじゃないか、だから、帰ろう、かあさん、日本へ。」
「嫌だよ。あたしはおまえと一緒にここにいたいんだよ。もし今、日本に帰ったら、もう二度とこの美しい島には戻って来れないのに決まっている。分かるんだよ。自分のことは自分が一番知っているからね。最後のあたしのわがままさ。あたしは絶対に帰らないからね。駄目だよ、あたしはもう決めちまったんだからね。お願いだから最後まであたしのそばにいておくれ。お前には迷惑かけるけどさ、お前のそばにいたいんだよ。後生だから、今の幸せを壊さないでおくれ。もう、じたばたしてもしょうがないじゃないか。」
正樹は母の横顔をじっと見つめた。そこには安らかな運命を甘受する表情が満ち溢れていた。正樹はそれに気づき、話を続けるのを止めた。いつの間にかボラカイ島の海はすっかり暗くなってしまっていた。
イルバートは浜に出て正樹を捜した。しかし、4キロメートルも続く白浜である。そう簡単には見つけ出すことが出来なかった。日が暮れてしまっていて、暗い浜辺で正樹を見つけ出すことはさらに難しくなってしまった。イルバートは診療所に行ってみようと考えたがやめた。こんな時間に訪問すれば、宿もお金もない自分だ、また迷惑をかけてしまうのに決まっている。もうこれ以上、正樹先生にあまえるわけにはいかない。イルバートは野宿をしても誰からも文句を言われない共同墓地に引き返した。朝になったら、先生の大切なお人のお墓をきれいに掃除して、先生とは会わずにボラカイ島を去ることにした。
正樹は早朝の散歩が好きである。まず診療所の近にあるパレンケ(市場)の花屋に寄ってサンパギータの花をさがす。もしサンパギータがない時は質素な白い花を買う。そしてその花を持って丘の上の墓地まで散歩をするのが正樹の日課だ。今朝もいつものように明るくなりかけた共同墓地に正樹はやって来た。すると誰かが墓のそばに倒れているのを発見した。男だ。正樹は近づいてそのみすぼらしい男に声をかけてみた。
「もしもし、大丈夫ですか。どうしたんですか。」
すると、男は目を覚まして立ち上がった。
「あ、正樹先生。ご無沙汰しておりました。あっしです。」
正樹はすぐにその男が誰であるのかが分かった。
「お前はあのときの泥棒、確か、イルバートと言ったな。」
「へい、さようでございます。あっしの名前をまだ覚えていてくれたんですね。もったいないことです。あんなにお約束したのに、掃除をしに来るのが今になってしまいました。本当に申し訳ありません。」
「何を言うんだ、お前はちゃんとこうしてここにいるじゃないか。わざわざすまんな。遠い所を掃除をする為だけに来てもらって、本当に有り難う。お礼を言います。ところで足はどうした。おまえの折れた足はもう良くなったのかな。ちょっと見せてみろ。」
「まだ、あっしのことを気にかけてくれているんですか、先生はなんとお優しいお人だ。ええ、足の方はもうすっかり良くなりました。ほら、この通りちゃんと歩けますから、大丈夫です。もしあの時、怪我をしてあのまま逃げていたなら、医者にも行けずに足が腐ってしまったでしょう。きっと今ごろはびっこになっていたかもしれませんね。これもすぐ応急処置をして下さって救急車を呼んでくれた先生のおかげです。有り難うございました。昨日、ここの墓守の爺さんから聞いて驚いたんですが、先生もあっしと同じ様に日本に出稼ぎに行っていたんですね。」
「ああ、そうだよ。おまえと同じだ。そんなことより、イルバート、おまえ、あきれた奴だな、いくら日本と違って寒くないとはいえ、お墓で眠る奴があるか。まったく驚いた奴だな。」
「へい、ここなら野宿をしても誰も文句はいいませんからね。」
穴のあいたシャツはイルバートが文無しでおまけに仕事がないということまで表現していた。正樹はさっき買ってきた花を墓に供えてからイルバートにゆっくりと言った。
「ちょっとあそこの岬までわしと朝の散歩をしないか。」
「ええ、お供いたしますよ。」
メインロードに出て、しばらくしてまた山道に入った。そんなに急な坂ではなかった。しばらく砂利道を歩いて、ゆっくりと岬まで正樹とイルバートは話をしながら歩いた。
「イルバート、おまえ、子供は何人いる。」
「六人おります。」
「六人か、多いな。まあ、この国では少ない方かもしれないな。わしは二人だ。娘が二人日本にいる。二人とももう嫁いでしまったよ。」
「お母様を島にお連れになったと、墓守の爺さんが言っていましたけれど、これからこちらで一緒にお暮らしになるのですか。」
「ああ、そのつもりだったんだがな、今は少し、お袋をこの島に連れて来たことを後悔しているんだ。お袋の体の具合があまりよくない。もう年だからな。それも仕方がないのかもしれないが、どうしたらよいのか迷っているところだ。」
「お幾つでいらっしゃいますか。お母様は。」
「八十になる。」
「そうですか。失礼ですが、お父様は。」
「おやじはもう死んだよ。アルツハイマーで入院している時に院内感染にあって死んだんだが、葬式の時にな、焼き場の係りの人が親父のわずかばかりの骨を見て、お父様は癌でお亡くなりになられたんですかって聴いてきたよ。毎日、焼きあがった骨ばかり見ている連中の言葉だ。結構、それが正しいのかもしれないな。親父は癌だったかもしれない。」
「さようでございますか、それはご愁傷様です。」
二人は大きな庭のあるお屋敷の前に出た。どこまでも続く塀がイルバートの度肝を抜いた。とても大きな門があり、門から奥へ並木道が続いていた。あまりに庭が広すぎて奥の屋敷の建物が見えない。その道の両側にマンゴーの木がたくさん植えられており、イルバートは完全に言葉を失っていた。正樹が言った。
「着いたぞ。」
イルバートはびっくりして言った。
「着いたって、このお屋敷に入るのですか。」
「ああ、そうだよ。」
何人か子供たちが集まって来た。正樹のことを見るとみんな日本語で挨拶をしてきた。
「正樹先生、おはようございます。」
「おはよう。」
イルバートが驚いたのはそれからだった。敷地の中に入り、屋敷に向かって歩いていくと子供たちが次から次から何人も何十人も出てくるのであった。みな同じように日本語で挨拶をしてくる。イルバートは正樹に尋ねた。
「先生、ここは何かの学校か何かですか。みんな、日本語を使っているではありませんか。」
「なあ、イルバート。おまえ、ここで植木の手入れや家の手伝いをしてみる気はないか。」
あまりに突然のことで、イルバートは何も答えられなかった。
挫折
挫折
すっかり暮れてしまった冬の東広島の町を高校三年生の正樹は歩いていた。強い風に吹かれながら大きな橋を幾つも渡るたびに正樹は広島という町はなんて川が多い所なんだろうと何度も思った。実家のある東京を出たのは昨日だった。当時の若者の間ではかなり有名だった夜行電車「東京発-大垣行き」の長距離夜行普通列車に乗り込み一夜を過ごした。夜が明けてからも更に幾つも普通列車を乗り継いでまるまる一日かけてやっと東広島の駅にたどり着いたところだった。新幹線も特急もあった時代だが、もったいなくてそんな高い乗り物に乗ることは出来なかった。幸い、乗り継いだどの普通列車も乗客は少なく、すべての列車で4人掛けの座席を正樹独りで占領することが出来た。ひじ掛けの下に衣類を丸めて肩に当て、少し体の位置を高くするとちょうど座席のひじ掛けが枕代わりになる。この旅の知恵は以前に乗り合わせた旅芸人の一行がやっているのを見て覚えたものだ。しかし、いくら正樹がまだ若いとは言え、やはり同じ姿勢をとり続ける普通列車の長旅はしんどかった。東広島駅の出口を出た時にはもうへとへとだった。
東京を出る時に東京駅のホームにあった売店の公衆電話から今夜の宿に予約はしておいた。時刻表の後ろのピンクのページの旅館案内広告の中から素泊まり料金の一番安かった「みどり」という宿を選んでおいた。正樹は広島は初めてであった。東広島の駅を地図を片手に颯爽と街に歩き出したのは良かったけれども、もうとっくに日は暮れてしまっており目的の宿がいっこうに分からずにいた。旅慣れていない正樹は今度から見知らぬ土地を訪ねるときは明るいうちに着くべきだと東広島で道に迷ってそう実感した。心の中でぶつぶつと「みどり、みどり、みどり」と宿の名前を何度も繰り返しながら歩いた。もう三十分ちかく同じ場所をぐるぐると歩き回っていたが、「みどり」という旅館は見つからなかった。正樹の持ってきたバックには受験参考書などがたくさん入っておりとても重たかった。疲れた夜行列車の旅に加えて、休む場所を探すのにまさかこんなに難儀するとは思わなかった。確かにさっきから歩き回っている町の名前は「緑町」で旅館案内のページに書いてあった住所と同じで間違いはなかった。ミドリ湯という古びた銭湯があるだけで、他に旅館らしきものがまったく見当たらなかった。携帯電話のない時代で、公衆電話をみつけるのにも苦労する世の中だったから正樹はさらにもう三十分位小さな路地にまで入って探し続けた。道の両側には東洋自動車工業の下請け工場が隈なく並んでいて町全体が機械油のにおいで満ちていた。東広島の工業地帯をまるで自分の家を忘れてしまった老人のようにうろうろと徘徊していた。擦れ違う人々に道を尋ねることができるほど正樹はまだ擦れていなかった。まだうぶだったのだ。やっと見つけたタバコ屋のピンク電話から「みどり旅館」に電話を入れてみた。呼び出し音は一度ですぐ返事があった。受話器の向こうから出てきた声はやけに明るく調子の良いものであった。
「はい、ありがとうございます。ミドリです。」
「もしもし、あの、昨日、予約をしておいた者ですけれど、道に迷ってしまって。」
「そうですか、それはそれはたいへんでしたね。それで今、どちらからこのお電話をかけていますか?」
「タバコ屋のピンク電話からです。」
「ああ、お客さん、それは行き過ぎだがなもし。今来た道をお戻りになって下さいな。そこから煙突が見えますでしょう。それに向かって来てくださいな。」
その電話の声の主は銭湯ミドリ湯が正樹が探している宿だと言い出した。空いている部屋を利用して銭湯の二階部分で旅館業を営んでいるのだと言うではないか、女将とおもわれるその電話の主は正樹に銭湯「ミドリ湯」の番台でチック・インするようにと短く指示をしてそっけなく電話を切ってしまった。正樹は重たいバックを右と左の肩に何度も掛け替えながら来た道を引き返した。そしてさっきは何のためらいもなく通り過ぎてしまった銭湯の紫のれんを恐る恐るくぐった。そして下駄箱に靴を入れて、分厚い男湯の引き戸を開けて中に入ると脱衣所には客は一人もいなかった。銭湯特有の漂白剤の臭いだけが正樹の鼻に飛び込んできた。正樹が顔を横に向け番台に向かって名前を告げると、さっきの電話と同じ声が聞こえてきた。
「これはこれはいらっしゃいませ。お疲れになりましたでしょう。」
女将は番台の小さな扉を開けて、ゆっくりとその巨体を浮かせながら振り返り、下に降りて来た。愛想良くお決まりの挨拶をして、正樹のバックに手を添えながら言った。
「さあ、お荷物をお持ちしましょう。」
ところが正樹の荷物は重過ぎて、大柄な女将にしてもとうてい運べる代物ではなかった。
「あら、まあ、重たいこと。」
「あ、これは自分で運びますから結構です。」
「そうですか、すみませんね。さあ、ここでは何ですから、お部屋へご案内いたしましょう。さあ、どうぞこちらへ。お部屋は二階なんですよ。」
やたらと天井の高い脱衣所である。その一番奥の扉まで正樹は自分の肩にまた重たいバックを引っ掛けながら女将に導かれて歩いた。脱衣所の扉を出ると長い階段があり、女将のお尻を見上げながら五階か六階まで昇ったような気がした。相当高い二階である。部屋は三つしかなく、正樹は真ん中の部屋に通された。どうやら正樹が最後に到着したようだった。両隣の部屋にはすでに人の気配がする。
「今夜のお客さんは皆さん、あんたさんと同じ学生さんですよ。明日の試験を受けなさる人ばかりです。ああ、それと、相談なんですがね、お客さん。お嫌だったら結構なんですがね、相部屋をお願いできませんかね。もちろん宿泊代は半分で結構なんですがね。」
普通列車を乗り継いできた正樹だ、安ければ安いほど良いに決まっている。考えることはなかった。
「ええ、半額でいいのなら、僕は相部屋でも構いませんよ。どうせ寝るだけですからね。」
「そうですか、そうさせてもらえますか、助かります。すみませんね。」
部屋をぐるりと見回すと、全体的に誇りっぽく煤けた感じがした。広島の銘菓である紅葉饅頭が一つと急須や湯のみがテーブルの上に用意されているのを見て、やっとここが旅館のように見えてきた。女将は座布団を軽く手ではたいてからそれをひっくり返して正樹に差し出した。テーブルの下からポットを引き寄せ、手馴れた手つきでお茶を入れ始めた。そのポットの中のお湯が新しいことを正樹は祈った。銭湯の二階とは言え、正樹は旅館に一人で泊まるのはこれが初めてである。以前、何かの本で読んだことがあったのだが、このタイミングで札を丸めてそっと心づけを渡すのだと書いてあった。しかしどんなにサービスが悪くてもそれに甘んずる覚悟はできていたし、相部屋を頼むくらいなのだから女将も貧乏学生の正樹には何も期待していないはずである。出費は出来るだけ少ない方が良い。正樹は知らん振りをすることに決めた。黙っていると、お茶を勧めながら女将から話しかけてきた。
「まあまあ、よくいらっしゃいましたこと。東京からかね、遠いところを本当によくいらっしゃいましたね。お疲れでしょう。」
「ええ、さっきは道に迷って難儀をしました。でも、ここは明日の試験場に近いものですから。」
「東雲のかね?」
「・・・・・・?」
正樹は女将が何を言っているのかさっぱり分からなかった。仕方なく意味のない微笑みを浮かべながら適当に相づちを打った。女将は話を続けた。
「東京にはぎょうさん大学があるじゃろうがね、またどうしてこんなところまで来る気になったんですか。この辺の子達はみんな東京の学校へ行きたがりますよ。お客さんは変わったお人ですよ。まったく反対ですがな、みんな、東京で遊びたくて学校へ入るのにね。」
正樹は広島の大学の教育学部に入りたかったのである。学校の先生になりたかったのだ。それも障害者の先生にである。東広島の東雲分校がその試験会場だった。学費の安い大学の中で競争率が一番低かったことがこの学校を選んだ理由であると銭湯の女将に説明する気はさらさらなかった。しかし下の銭湯の番台をこんなにほったらかしにしておいて大丈夫なのだろうか、女将はまだ話をするつもりだった。
「お客さん、あんたも知ってるじゃろうが、広島は戦争の時にピカドンがあってな、当時子供だったあたしも空襲を知らせる警報がありましたから、母と一緒に防空壕に避難しましたがな、そしたら大きなドンという音がして、その後は静まり返ってしまったんです。しばらくしてから防空壕の外に出てみましたがな。そのときはよく分かりませんでしたが、あの時のあの雲は原子爆弾のきのこ雲だったんですね。そんでな、一時間位してから大勢の人たちが広島の中心地からこの東広島の方にも歩いてきましたがね。」
広島と言えば原爆である。どうやら女将は正樹に原爆の話をするつもりらしかった。正樹は原爆に関してはとても興味があったから黙って聞くことにした。
「それがさ、みんな、市内の中心から歩い来るんですけれど、手に何かをぶら下げて歩いて来よるんだがね。近くまで来てから、よく見てみると両腕の皮がむけて垂れ下がっていて、それが手首のところでひっかかってぶら下がっているんですよ。手に持っていたのは自分の焼け落ちた皮膚だったんですよ。そりゃあ、もう、びっくりしましたがな。本当に恐ろしい光景でしたよ。」
そんなことは正樹が習った教科書には一つも載っていなかったし、社会科の先生も言わなかった。女将は話を続けた。
「広島市内の川は火傷をおった人たちが水を求めて飛び込みましてな、かわいそうなことに、そのままそこで死んでしまいました。川は水面が見えない位に死体でぎっしりだったそうですよ。地獄でもあんなにひどくはないと、あの時、市内を見て回った母が言っていましたよ。でも、それから、長いこと苦しんで死んでいった母の方があたしにとっては地獄の苦しみでしたよ。」
正樹はただじっと女将の生々しい話を聞いていた。その後も延々と原爆の体験談が続いた。客に当時の話を語り継ぐことでこの女将は戦争の生き証人としての責務を果たそうとしていた。
「お風呂はお好きな時にお好きなだけお入りになって下さい。さっき来た階段の下の扉が脱衣所ですから。そうだ、もう一つ扉がありますけど、間違って女湯の方には入らんようにしてつかわさいよ。何か御用がありましたら、あたしはたいがい番台におりますから、何なりと言ってください。」
正樹が尋ねた。
「あのう、相部屋のお方はいつ到着になるんですか?」
「ああ、今治の仙波君。あの人は今年で3度目ですよ。今治の西校の秀才なんですよ。3年続けてここを受けなさるそうですがね。さっき突然、電話がありましてな、今年も頼みますとだけ言ってすぐ電話が切れてしまいました。でも今治からの船はもうじき着きますから、もう間もなくだとおもいますよ。すみませんね、もし来たら御一緒してやってつかわさい。」
3浪か、3年も同じ学部をねらっているとは興味深い奴だ。いったいどんな人物なんだろうと正樹はおもった。どうやらこの旅館では布団は自分で敷くみたいで、女将は布団の説明を一通りして、やっと下へ降りて行ってくれた。疲れきった正樹はその仙波とか言う浪人が到着するまで畳の上で横になることにした。
正樹が受験の時、父の義雄は半導体関係の会社に勤めていたが、大病と交通事故が重なり、正樹の家の家計はまさに火の車だった。父と母は給料日には大喧嘩を絶やさなかった。食って掛かる母と激怒する父の様子はいつまでも正樹の心に残る悲しい思い出だ。一学年上の兄の正俊は小さい頃から勉強が良く出来た。大学も学費の安い日本国の最高学府、校名を聞いただけで大人たちが態度を改めるあの学校に昨年すんなりと入った。出来の良い兄を持つと何かと比較されるものだ。弟の方も同じくらい出来れば何も問題はないのだろうが、正樹の場合は小学校二年の時に赤痢とか言う伝染病に罹って病院に隔離されてしまった。その間に掛け算の九九などの勉強が本格化し、正樹は完全に取り残されてしまった。勉強も嫌い、運動も苦手、運動会の駆けっこなどはいつもビリだった。ところが一方の兄の正俊は成績優秀、運動会でもリレーの選手だったし、ついでに鼓笛隊の指揮などもした。朝礼で賞状が授与されると決まって兄正俊の名前が呼ばれた。正樹も一度だけ賞状をもらったことがある。それはたくさんあった虫歯を何度も塾をさぼって完治させた時だ。塾といえば、二人とも近くの八幡神社の神主が経営する塾に通っていた。この神主先生が生徒たちに通信簿がすべて5になった者に百科事典一式をプレゼントすると檄を飛ばした。兄の正俊は次の学期に難なくオール5を取ってみせた。だから古本ではあったが正樹の家の百科事典20冊は兄正俊の戦利品である。塾でも正樹は兄正俊と比較され、白い眼で見られた。神主先生が終わりに近づいてくると「黒板の問題が出来た者から帰ってよろしい」と言うと、正樹は必ず最後まで残された。友達が一人減り、二人減りしていくうちに窓の外の闇は暗さを一段と増していった。どうあがいても正樹にはどの問題も解けなかった。そんな悲しみと焦りは次第に絶望感に変わっていき涙が自然と溢れ出てきたことは数え切れなかった。「もういいから帰りなさい。」の一言はとても辛く悔しいものだった。正樹は塾も神主先生も大嫌いだった。家にある百科辞典は悔しさの思い出そのものであり、見る度に悲しい気持ちになった。兄正俊は中学に入ると成績はトップ、当然、生徒会の役員にも選ばれた。翌年、正樹も成績は下から数えた方が早かったが生徒会の役員選挙に間違って当選してしまった。理由は簡単、兄正俊の弟だったからだ。正樹の成績を知りうる立場にあった先生たちはきっと肝をつぶしながらこの選挙を見守っていたに違いない。しかし幾度も開かれる生徒集会での正樹の演説は先生たちの間ではとても人気があった。隣人愛、人間愛を偉そうに語ってみせたからだ。そんな正樹のことを校長先生は見ていてくれて、高校進学の時に大きな力となってくれた。正樹は勉強が嫌いで就職することしか考えていなかったから何の準備もしないまま中学三年の三学期をむかえてしまった。両親、担任、進路指導担当の先生たちは慌てた。結局、高校だけは出た方が良いということで新聞を配りながら高校へ行くという結論になった。試験は受けたものの合格点には程遠く、校長先生が高校に直接電話を入れてくれて、やっと正樹の高校進学が決まった。高校の三年間はあっという間だった。朝夕刊配達をしながら学校に通っていたから遊ぶ時間がまったくなかった。食事も新聞屋で他の配達をしている大学生たちと一緒に食べていたから給料は丸々残った。夕刊の配達がない日曜日の夜は実家に帰って寝た。翌朝、朝刊の配達に間に合うようにまだ暗いうちに家を出る時、正樹は振り返り、玄関先でいつまでも見送ってくれる母の正子の姿をみるのがとても寂しく辛かった。でも相当な蓄えが高校三年間で正樹には残った。
少し眠ってしまったようだった。女将の声で正樹は起こされた。
「お疲れのところ起こしてすみませんね、相部屋、お願いしますね。仙波さんがお着きになりましたんで。」
女将はそれだけ言うとお茶も淹れずにさっさと下に降りて行ってしまった。仙波と正樹の二人だけが部屋に残された。年上の仙波の方から自然と挨拶は出た。
「仙波と申します。相部屋、無理を言いまして申し訳ありません。助かりました。」
「正樹と言います。今、船でお着きですか。」
「いえ、電車で来ました。女将が言っていましたが、正樹さんは東京からだそうですね。あなたも明日、試験だそうですね。」
「ええ、そうです。」
「東雲のですか?」
「・・・・・・・?」
正樹はまた何を言っているのかが分からなかった。さっきの女将と同じことをこの仙波は言った。正樹はさっきと同じように聞き直しもせずに適当に頷いてみせた。
「いやあ、僕は今年で3度目ですよ。でも今年が最後だ。」
「予備校か何かいってらっしゃるんですか。」
「いえ、同志館は現役で入れてもらえましたから、まあ、一応は大学生です。君はどこの学部を受けるつもりなんですか。」
結構、正樹は人見知りをするタイプだが、不思議とこの仙波には自然体で話が出来た。何だ、仙波は3浪ではなかった。それにしても私学のトップの同志館なら何の文句もあるまいし、どうしてまたここを受験するのだろうか、やはりこの仙波という男、おかしな奴だと正樹はおもったがまず聞かれたことに答えた。
「盲学校の教員になりたくてやってきたんですが。」
「また、どうして障害者に拘りたいんだね。それともあれか、競争率でここの学部を選んだのかね?」
ずばり的中してしまった。仙波の言う通り、受験のガイドブックを調べて、ここが比較的に入るのが簡単そうだったから受験しただけだった。しかし正樹は別のことを言った。
「僕がこの学部を選んだのにはあまり大した理由はないのです。ただ高校へ行く途中でスクールバスを待っている養護学校の生徒さんがいたんです。高校に入ってからの一年間、毎朝、僕は彼女とすれ違っていたわけなんですがね、高校二年の時にいつものように彼女の前を通り過ぎようとしたら彼女の方から突然にオハヨウと声をかけてきたんです。それは健常者のしゃべり方とは明らかに違うオハヨウでした。それで次の日から僕は遠回りして学校に行くようになったんです。障害を持っている彼女とただ挨拶を交わすことすら自分には出来ませんでしたよ。月日はどんどん経って、次第に、僕は、そんな自分が嫌になってきましてね、また彼女の前を歩こうとしたんです。勇気を出してまた元の通学路を歩いてみました。でももう、彼女はそこにはいませんでした。バス待ちの他の生徒さんの付き添いのお母さんに聞いてみたら、彼女は以前から白血病も患っていたらしくて、もうこの世にはいないということでした。しばらくの間、落ち込みましたね。彼女がどうのこうのと言うのではありません。挨拶すら出来なかった自分が恥ずかしくてね、本当に自分が嫌になってしまいました。」
仙波は正樹の話を聞きながら、布団を正樹の分まであっという間に敷いてしまった。三度も同じ宿から受験していると手馴れたものである。そしてぽつりと言った。
「でも、それがここの大学を選んだ理由ではないでしょう。障害者の教員を育てる学校なら東京には幾らでもありますからね。正樹君、ぼくも君と同じ学部を受験しますが、競争率が低いからといってあまり甘く見ない方がいいですよ。受験した全員の成績が悪ければ定員割れしようが一人も取らないことだってある。結構、ここは難しいですよ。」
「仙波さんはどうしてここを何度も受験されるのですか。何か特別な理由があってこの学校を。同志館といえばここよりも知名度も偏差値も上にランクされている学校だとおもいますが。」
「合格したい。ただ、それだけですよ。同志館を出て、大学院はここにすることも考えています。」
まるで趣味で受験しているような仙波の話は正樹にとっては随分と贅沢に聞こえた。
「僕はちょっと、一風呂浴びてきますから、どうぞお先にお休みになって下さい。」
仙波はさっさと手ぬぐいを持って降りて行ってしまった。完全に仙波の方が上である。まったく彼の言う通りである。何故、この大学を選んだのか、下手な理由付けをして偉そうにいってしまった自分自身を正樹は反省した。学費が安くて競争率が低い、他の条件を考えずに絞り込んでいくとこの学校にたどり着く、ただそれだけの理由だった。もっとも明日とあさっての試験ができなければどんなに偉そうなことを言っても何も始まらないのだから、選んだ理由なんてどうでもよいことだった。その為にも今夜は早く眠らなければならない。正樹も下の風呂に入って長旅の疲れをとることにした。東京でも正樹は銭湯を利用していた。夕刊の配達を終えて銭湯に行くのが唯一の楽しみだった。ここは東京の銭湯と比べると規模はかなり小さい。でもちゃんとした銭湯である。そして銭湯の裏側というのはずっと以前からあこがれていた秘密の場所だった。しかし、わざわざ受験のために東京から広島にまで来て、女湯を覗いてしまい、捕まってしまっては長い間の苦労も銭湯の泡とともに消えてしまうというものだ。正樹はせっかくのチャンスだったが夢にまでみた覗きは断念することにした。長い階段を下りてみると、仙波が女湯の扉についている小さな覗き窓にかぶりついていた。正樹が階段を降りて来たのに気づいた仙波は慌てて覗き窓から顔をはずして言った。
「なんだ、今夜は婆さんばかりだよ。楽しみにしてたのに残念だったな。」
あっけらかんとして悪びれた様子はちっともなかった。正樹にはとても出来ることではなかった。毎年、仙波がこの旅館を利用する訳が分かったような気がする。
湯船に入りながら仙波は銭湯についての自論を展開し出した。正樹も肩までお湯に浸かりながらじっと彼の話を聞いた。
「独特の匂いが銭湯にはある。特に排水溝から流れ出てくる垢をその匂いとともに見ていると僕はほっとするんだよ。銭湯の横の路地には洗い流された石鹸や垢がお湯とともに流れ出てくるでしょう。小枝とかゴミにせき止められて垢だけが排水溝の上の方にどんどん波紋を描きながら溜まっている様子を見たことがありますか。」
「ああ、ありますよ。僕の通っている東京の銭湯の横の路地にも小さな溝があります。大きな銭湯ですからね、大量の垢が時々溜まっていますよ。幾重にも重なるように垢が水の上の方に白黒く流れずに溜まっていますね。でもそれを見ても、僕にはただ汚いとだけしか感じませんけれど、他に何の感情も湧いてはきません。」
「僕はあの垢を見ているとね、人も生き物なんだと強く感じるんだよ。日々、体のあちらこちらで新しい細胞が生まれて、そして古い細胞と入れかわって生命を維持しているんだからね。銭湯から流れ出てくる垢を見ているとなんだか安心するんだよ。人はさ、毎日の生活の疲れや嫌な出来事があってもね、ああやって垢と一緒に過去を洗い流すことができるんだ。嬉しいことじゃないか。」
部屋に戻ると仙波はビールを飲み始めた。仙波は同志館大学の二年生である。趣味で受験しているようなものである。正樹にとっては大事な試験の前であるから、誘われたが断って先に寝た。
しかし運命とは残酷なものである。試験が終わった翌日、今回の試験は例年よりは難解であったと地元の予備校の速報が出た。自己採点をしてみると仙波は見事に満点であった。そして後日もらった手紙によると、彼はやはり合格していて、その広島の大学をけって、同志館の三年生に進級したと書いてあった。広島の大学の東雲分校の名前の「東雲」を「しののめ」と正確に読めなかった正樹が天下の広島の大学に入れるはずがなかった。まったくと言っていいほど歯が立たなかった。正樹の人生最初の挫折であった。
高校を卒業すると正樹は再び広島に戻った。来年、もう一度同じ学部を受験するために地元広島の予備校に入った。広島でしばらく過ごしてみることにしたのだ。平和公園に展示されている背中が焼けただれた人物の写真パネルは強烈なまでに正樹の心に焼きついた。市民球場の外野席は老朽化しており、ボロボロの木製のベンチだった。所々が割れて釘の頭も出ていた。そのボロボロの外野席で巨人戦を観戦しているとホームラン・ボールが目の前に飛んで来てポトリと落ちた。そのボールがあの世界の王選手の記念すべきホームランだったことは後になってから分かった話だ。正樹は広島市から少し離れた廿日市という場所にある予備校の寮に入った。古くなったアパートを借り受けただけの寮だったがここでの仲間との暮らしはとても思いで深いものとなった。
受験も追い込みの時期、晩秋の寒い夜に、同志館の仙波が正樹を訪ねて来た。何度か手紙でやり取りをしていて仙波の気心は知れていたし、障害者に関しての彼の考え方は尊敬するところがあり、同じ道を目指す正樹にとっては非常に興味深いものであった。二人は寮のすぐ裏手にある堤防まで歩き、夜の瀬戸内海を眺めながら話をした。
「なあ、正樹。障害者が一番望んでいることは何だと思う?まあ、人それぞれ違うだろうとはおもうけれど、大切なのは学校だろうか?それとも仕事か?自分の体の障害を取り除いてくれる医者もそうかもしれないな。あるいは精神的な支えとなってくれる宗教も必要だろう。もし彼らの親が死んでしまったら、いったい誰が彼らの面倒をみるというのだ。社会はそうした障害者を受け入れてくれるのだろうかね?」
「僕には難しいことは分かりませんが、今、彼らの学校の先生になるつもりで大嫌いな勉強をしています。でも、もし、来年、また広島の大学に失敗したなら、どこかの農場にでも入ろうかとおもっています。そして将来、自分の農場を持つことが出来るのであれば、障害者たちと一緒にその農場で暮らそうと考えています。」
「農場か、いつだったかな、ラジオの番組で障害者が養豚農家で働いている様子を耳にしたことがある。養豚は外部からの菌の侵入を徹底的にくい止めれば出来るかもね。そうね、なかなか良いかもしれないな。他の仕事と比較すると障害者だからという問題は少ないように思えるけれど、僕は養豚の専門家ではないので何とも言えないな。まあ、どんな仕事であれ、障害者も健常者もそれぞれに困難はあるものだよ。」
「ねえ、仙波さん。毎日、豚でも牛でも、家畜に一年365日餌を与え続けなければならないという責任感、これは大切ですよ。畜舎を清潔に保つために掃除をしたり、家畜たちが病気にかかっていないかどうか常に観察することも重要だ。自分がやらなければならないという義務感、世話をされている立場から世話をする側に立たされることは障害者たちにとって、彼ら自身の存在価値を高めることにもなりはせんか。」
「まったくその通りだと私もおもう。でも農家も商業活動をしている以上、家畜に死なれては困るわけで、なかなか障害者を雇いたがらないだろうな。商品を誤って壊すのとは訳が違うからな。家畜たちは生き物だから、雇う側はより慎重になってしまう。正樹、僕の今治の実家はみかん農家だけれど、家畜は鶏くらいで他には飼っていません。みかんだけで食っているようなものです。どちらかというとそっちの方が障害者にはむいているかな、ただ、農業というのは自然との闘いですからね。楽な時もそうでない時もある。そうだ、兄貴が北海道で大学院の先生をしています。障害者は無理としても、君が働ける農場くらいは紹介してくれるかもしれないよ。どうします、手紙を書いておきましょうか。」
「ええ、ぜひお願いします。北海道か、まだ行ったことはありませんがきっときれいでしょうね。仙波さん、すぐそこにお好み焼き屋があるのですけれど、広島風のお好み焼きはお嫌いですか?」
「いや、大好物だよ。」
「それでは今夜は僕におごらせてください。ビールくらいならお付き合いしますよ。」
「そりゃあ、いいね、じゃあ、お好み焼きが焼きあがるまで少しビールで乾杯しようか。」
大きな鉄板が一つあるだけの小さな店で、鉄板を囲むように椅子が両手で数えるほどしか置かれていない。席に着くと正樹とは顔見知りのおやじさんが折り紙を一束差し出した。仙波がそれを見て正樹に聞いた。
「何ですか、その折り紙は?」
「広島のお好み焼きはお店の人が焼いてくれるんですがね、この折り紙はお好み焼きが焼きあがる間に折鶴を折りながら平和について考えてみようというものです。出来上がった折鶴はまとめて千羽鶴にして平和公園に飾られます。」
「いやあ、素晴らしいことじゃないか。広島のお好み焼きと平和か。感じ入ったよ。」
その夜、仙波は飲みすぎてしまって、正樹の部屋のコタツに足を入れるとそのまま眠ってしまった。そして翌朝、まだ暗いうちに京都に戻って行った。
年末年始は寮は空になった。みな、それぞれの家に戻って新年を迎えるためだ。寮にいる何人かは隣の山口県から来ており、正樹は東京には帰らずに彼らを頼って山口を旅行した。秋芳洞、津和野、萩、そして松下村塾、どこも東京とはまったく違った情緒が溢れていた。
年が明けてまもなく、京都にいる仙波から連絡が入った。底冷えのする京都だが、観光客の少ないこの時期に一度、遊びに来てはどうかというものであった。正樹は喜んでその日のうちに京都へむかった。広島にいると京都は通り過ぎてしまうことが多く、中学の修学旅行の時に訪ねて以来だった。正樹も日本人である以上、京都への特別の感情はある。それが何であるのかはよく分からなかったが憧れと呼ぶには少し軽すぎる、もっと心の奥の方のとても懐かしいおもいが京都の街を歩くと湧いてくるのであった。正樹は駅前の広場から仙波から指示された番号のバスに乗り、金閣寺の近くのバス停で降りた。さっきからバスの窓の外には小雪が降り始めていたが、バスから降りてみると風がなかったので雪が降っていてもそんなには寒くはなかった。仙波が丁寧に書いてくれた地図を頼りに彼の下宿を探した。迷うことなく仙波の下宿はすぐ見つけることは出来た。やはり想像していた以上に彼の部屋は汚かった、下宿そのものも農家の庭にただベニヤで仕切ったような安い作りで、本気で冷え込んだらきっと部屋の中でも凍り付いてしまうだろう。彼の部屋の中には食べ散らかしたインスタント・ラーメンの袋や雑誌が散々しており足の置き場もないくらいだった。臭いも慣れるまでは口で息を吸っていた方が良さそうであった。
「よく来ましたね。汚くてびっくりしたでしょう。まさか、こんなに早く来るとはおもわなかったから、掃除をする時間がありませんでしたよ。」
「いえ、突然、お邪魔をした方がいけない、こちらの方こそすみませんでした。」
「この下宿はね、石油ストーブが使用禁止なものだから、このコタツで古都の寒さをしのいでいるんですよ。さあ、そんなところに立ってないで、どうぞコタツの中に足を入れてくださいな。」
正樹がコタツ布団を開けるとむっと、それも様々な異臭が入り混じった風が出てきた。正樹は努めて平静を装って言った。
「仙波さんが羨ましいですよ。日本人の憧れの街、京都で勉強が出来るなんて、本当にいいとおもいますよ。僕も京都にある大学に入りたいな、でも、それだと何のために広島くんだりまで行ったのか分からなくなっちゃいますよね」
「この下宿の前の道ね、きぬかけの道と言うんですよ。それで道の向こう側が衣笠山。近くに金閣寺、正式なお寺の名前は確か鹿苑寺だったかな、あのピカピカの建物が金閣だから、みんなこのお寺のことを金閣寺と呼んじゃってるわけ。」
「そうなんだ、僕も金閣寺は金閣寺だとばかりおもっていましたよ。」
「でも、みんながそう呼ぶんだから金閣寺でいいんですよ。バス停にだって金閣寺と書いてあるしね。世界的にあまりにも有名になり過ぎて、この鹿苑寺というお寺が何宗の何派なのか訪れる観光客にとっては与り知らぬこととなってしまいましたね。そうだ、昔は金も銀も同じ位の価値だったそうですよ。銀の方が好まれていたという説もあるくらいです。ほら、銀閣寺の銀閣が昔にどんな色をしていたのか、僕は知りませんがね、たしか予算不足で銀箔が貼れずに今のあのような渋い色になったと聞いたことがありますが、確かではありません。僕はどちらかというと枯れた感じの銀閣寺の方が好きですね。正樹君はどうです?」
正樹は大学生の仙波の話を聞いているだけでとても楽しい気分になった。
「僕も銀閣寺も好きですけれど、金閣には違った意味で興味があります。実は、今のあの金閣と僕の年齢は同じなのですよ。昭和25年に金閣のあまりの美しさに嫉妬した寺の徒弟の放火によって国宝金閣は焼失してしまいましたよね。今の金閣はその放火犯の師にあたる当時の住職が自分の弟子の放火を嘆き悲しみ全国を托鉢行して集めたお金で再建したものだそうです。戦争が終わって世の中は荒廃していた時ですよ。金持ちも貧乏人もみな、またあの美しい金閣を見たいと願ったそうです。だから足利将軍が建てた道楽の為の金閣よりも今の金閣の方が万人の願いが籠もっていて意味が深いと僕はおもいます。そんな庶民の為の金閣が再建されたのが昭和30年、僕もその年に生まれました。でも仙波さん、美しさに嫉妬して放火しちゃうなんてありなのですかね。建物ですよ。美を追求する三島由紀夫も金閣寺という小説を書いていますよね。そんなことで僕にとって金閣寺は大切なお寺なのですよ。」
「そうですか、正樹君と金閣が同じ歳だったとはおもしろい。僕は今の金閣は新しく建替えられたものだから、あまり価値がないものとおもっていたのですよ。そうですか、そんな話があったのですか。昔、時間を持て余した貴族たちが光り輝く金閣を眺めながら、贅沢三昧したあげくに陶酔していた。ところが今の金閣はそれとは違う、貧乏人も金持ちも関係ない、焼け落ちてしまった、あの美しい金閣の姿をもう一度見たいと願って再建されたのですね。いやあ、良い話を聞きました。」
「しかしあまりに有名すぎて、人が多過ぎます。いつ行っても金閣寺も銀閣寺も観光客でいっぱいで、ゆっくりと落ち着いた気分には浸れませんよ。」
「金閣も銀閣も比較的、冬場のこの時期だけは空いていますよ。行ってみますか?それとも、どこか他に訪ねたいお寺があったら案内しますけれど。先輩の車を借りることが出来ますからね、遠慮しないで言ってください。」
「お寺か、特に拝観したいお寺はありませんけれど、きれいなお庭には興味はありますね。」
「よし、分かった。お庭なら任せてください。良いお庭へ案内しましょう。」
仙波が正樹の為に選んだ京都の庭は「詩仙堂」と「大河内山荘」だった。それも二人で時間の経つのを忘れて、「詩仙堂」の縁側で半日、「大河内山荘」でもまるまる一日かけて散策した。山荘にある高台の庵で古の都を見下ろしながら暗くなるまで様々な事を話し合った。
仙波と別れて、正樹は再び広島に戻った。正直言って、正樹は二ヶ月先の試験で広島の大学に合格する自信はなかった。学校の先生は学力がある奴に任せて、正樹は障害者の為に何か他の方法で彼らの手伝いが出来ないかと模索していた。かりそめにも障害者は障害のゆえをもって他人から差別される生活を送ってはならないと正樹は考えていたし、人間としての喜びや悲しみを彼らと分かち合えたらどんなにか素晴らしいのではとおもっていた。正樹の頭の中では次第に障害者との農場経営が大きくクローズアップされてきていた。北海道にいる仙波の兄から連絡が入った。北海道の知り合いの農家で人を探しているがどうかというものであった。京都にいる仙波が電話でそう正樹に伝えてきた。その知らせは苦しい正樹の受験勉強を結果的に終わらせることになった。
夢が破れた者は何故か北へ向かう。それも当時の流行だったのかもしれない。
北へ 国費留学生
北へ
正樹が青森駅のホームに降り立った時、外は雪だった。到着したばかりの列車の屋根に雪がぶつかり、ホームの中程まで綿のような雪がふわふわと舞い込んできていた。気が遠くなるくらいの長い時間をたっぷり列車に揺られてきた。急行列車は特急列車に何度も抜かれる運命にある。その分、余計に時間がかかってしまった。いつの日か東京に戻る時、またこんなしんどい長旅をするのかと思うと正樹はちょっと気が滅入ってしまった。青森駅のホームの階段をのぼり青函連絡船への連絡通路を渡って待合室に入ると、そこには大きなストーブがどでんと中央に置かれてあり、皆それぞれ、おもいおもいの方向を向きながら座っていた。酒を飲んで騒いでいる者もいないし、大きな声でおしゃべりをしている者もいない。皆、ただ、じっと黙り込んでいる。これだけ大勢の人がいるというのに、こんなに静まりかえっているのも、かえって不気味ですらあった。皆、何か大きな苦難に必死に耐えているように正樹にはおもえてきた。「北帰行」という歌が正樹の脳裏をよぎった。
「窓は夜露に濡れて、都、はるか遠のく。北へ帰る旅人一人。涙、流れてやまず。」
正確には思い出せないが、故郷を捨てて、意気揚々と都に出たものの、やがて都会の厳しい風に吹かれて夢が破れてしまい、再び北の故郷に帰るという歌詞であったと正樹は勝手にそう思い込んでいる歌である。何故かこの待合室にいる人々を見ているとその歌を口ずさみたくなった。この青森の青函連絡待合室の人々は正樹も含めてみんな「北帰行」の主人公だったのかもしれない。ところが津軽海峡の反対側、函館の青函連絡船の待合室は違う。これから上京して一旗揚げようとする者たちで溢れていて、内地へ向かう函館の待合室は青森の待合室とは打って変わって騒がしい。そう感じるのはおそらく正樹だけではあるまい。海峡を挟んで様々な人間模様がこの両岸の青函連絡船の待合室では毎日繰り広げられていたのだ。
今はもう、その姿を消してしまった青函連絡船は大きな船であった。その船底や甲板に列車や車を何台も積んで津軽海峡を行き来していた大型貨物客船のくせに、ところが大きな図体の割には人が歩けるデッキは意外と小さく、けたたましい音をたてて煙を吐き出す煙突のまわりに申し訳なさそうにちょこっと付いているのがデッキなのである。正樹はそのデッキに出て五分も経たないうちにデッキが狭い理由が分かった。津軽海峡の風はとても強い、誰もこんな寒いデッキに出てゆっくり景色など眺める気にはならないからだとすぐ納得した。正樹は津軽海峡の海底に列車も車も通ることが出来る大きなトンネルを掘っていることやこの情緒溢れる青函連絡船がいずれ廃止になることも知っていた。長い間、人々を見守り続けてきたこの青函連絡船がただの交通機関ではなく、血も涙もある、あったかい船であるということを実感出来たことを感謝した。
函館から列車に乗って、しばらく行くと函館本線は大きくカーブを描く。そして列車の前方には大沼公園の湖面となだらかな馬の鞍の形をした駒ケ岳がせまってくる。この雄大でやさしい景観は内地からはるばるやって来た人々に安らぎと北海道の美しさを十分に満喫させてくれる。正樹はその景色に触れて自ずと気持ちが大きく広がるのを感じた。大沼公園の中央にある大沼公園駅を過ぎると列車は駒ヶ岳を回り込むようにして走る。車窓から見る駒ケ岳の姿は見る度にその姿を変えていく。さっきはあんなにも優しく迎えてくれた駒ケ岳の表情がだんだんと厳しくなってくるのである。今度は一転して切り立った駒ケ岳は北海道の厳しさを旅人に容赦なくぶつけてくるのである
「あまったれた奴はこの北海道にはくるな!受験勉強から逃げて来たな、北海道はそんな奴の来るところではないぞ!」
正樹はこの駒ケ岳がそう自分に語りかけているようにおもえた。列車はまるで北海道の門番のような駒ケ岳から解放されてさらに進むと大きく開けて海に出た。左に向きを変えて列車は海に沿ってしばらく走った。単調な海岸線を右手に見ていると八雲という小さな駅に着いた。何もない小さな駅である。実は正樹が北海道に来た目的の地はこの八雲であった。しかし正樹は列車から降りなかった。仙波の兄さんの紹介で八雲の吉田農場というところで働くことになっていたのだが、その約束の日まで、まだ二ヶ月という時間があったから、それまで少し気ままに北海道を回ってみることにしたのだ。八雲の次の駅、森駅ではイカ飯弁当を食べる為だけに列車を降りた。長万部でもカニ飯だけをホームで食べて、また次の列車を待った。好きな時に好きな駅で気ままに下車した。特にこれと言う目的もなく正樹は海を回ってみた。北国の海は白く寒々としていた。聞こえてくる音は打ち寄せる波、そしてそれが砕け散る音だけだった。江差の海も積丹の海岸線もその美しさと荒々しさは都会育ちの正樹に彼の生ぬるさを悟らせるだけだった。凍てつく海に降り注ぐ雪は見ているだけでも全身が凍りついた。正樹の北海道への憧れはその自然の厳しさの前では身動き一つ出来ないほどとてもやわなものでしかなかった。都会育ちの憧れは極限の蝦夷の地ではまったく通用しそうになかった。ただ気まぐれにやって来ては通り過ぎて行く観光客のそれと同じでしかなかった。八雲の吉田農場で働くまでの残されたわずかな時間で何とか自分自身を叩き直さなければならないと切実に感じる正樹であった。白と黒の凍てつく海と正樹は何度も何度も向かい合っていた。
国費留学生
おそらく正樹は高校を出た時点では日本一の金持ち青年だったに違い。高校時代は新聞屋の二階に住み込み配達をしながら高校へ通ったからだ。毎月の給料からわずかばかりの食費を払い、残りは無駄遣いをすることもなく、すべて貯めていたものだから相当な貯えになった。大学をあきらめた正樹にとって、八雲の吉田農場で働く前の北海道旅行はそれこそ贅沢をして一流旅館を泊まり歩いても尚余るほどであったが正樹は北海道に来るのにも時間のかかる急行列車に乗ったし、宿泊にも安く泊まれるユース・ホステルを好んで利用した。しかも二泊目からは掃除でも何でもするからとペアレントさんを拝み倒して泊めてもらったりもした。布団部屋でもいいので泊めて下さいと申し出たことも一度や二度ではなかった。炊事、洗濯、掃除、何でもしますからと無理を承知で何泊も泊めてもらった。運が良い時はバイト代もおちょうだいすることが出来た。もう、以前のような、恥ずかしくて道を尋ねることも出来なかった初な青年ではなかった。しっかりと正樹は図々しく成長していた。居心地が良いと一週間でも二週間でも連泊した。特にきれいなおねえさんがいるユース・ホステルは追い出されるまで居候を決め込んで動かなかった。北海道のように厳しい自然の中に入ると人々の心の温かさがちょっとしたことでも身にしみるものだ。この旅行を通して正樹は厳寒の地に根を張り住む人たちの心の温かさを実感することが出来た。洞爺湖が女なら支笏湖は男だ。洞爺湖のやわらかさと支笏湖の荒々しさからそう感じた。阿寒湖のにぎわいと人を寄せつけない霧の摩周湖。どちらも神秘的で湖は透き通っていた。美幌峠からの屈斜路湖の大パノラマは息を呑むほど雄大で美しかった。天人峡の羽衣の滝はその見事さに言葉を失い、何時間も見とれてしまった。日本海から突き出た利尻富士はとても威厳があり勇ましかった。訪ねてみると結構いろいろなものがあった襟裳岬、まだ紫色のラベンダーの花は咲いていなかったが富良野の広々としたお花畑。風連湖の数万羽の白鳥たち、函館の百万ドルの夜景はその名のとおりの価値のあるものだったが、あまり知られていない藻岩山からの夜景も函館に負けてはいなかった。札幌にある商店街の狸小路は庶民的で入りやすかったが、もう一つのススキノはどこかお高くとまっていて正樹には取っ付きにくかった。もちろん歓楽街の敷居は高過ぎて、どこのお店にも入ることは出来なかった。札幌の赤レンガの道庁本庁舎は父の兄、正樹にとっては伯父にあたるお人が勤務していた場所だ。正樹にとって北海道という地はまったくの無縁ではなかった。正樹はその伯父さんとは一度も会ったことがなかった。正樹が生まれる前に病に罹り、父が遠路はるばるやって来て、背負って家まで連れて帰った。しかし、もう再び北海道には戻ることはなかったという話を聞いたことがある。その亡くなった伯父は横浜の大学を出て道庁に勤めた。父は父で千葉の大学を出たし、そして兄は最高学府に在籍している。家族はみな良く出来るのに正樹一人だけが受験に脱落してしまった。なんとも面目のないことである。
札幌からバスでちょっと入った所に中山峠がある。北海道は内地の人がおもうほど雪は多くはないのだが、ただ場所によっては雪の吹きだまりができる。中山峠はそんな雪の多いところだ。冬場は札幌から近いせいもあり、スキーのメッカとなって若者たちで大いに賑わう。正樹は北海道を巡り巡って、この中山峠のユース・ホステルで皿洗いをしていた。ボンボンというフィリピンからの国費留学生と一緒に肩を並べて皿洗いをしていた。ボンボンは学校の休みを利用して正樹と同じように北海道中を回っていた。ボンボンは東京にある教育の大学にフィリピンの国費でもって留学している超エリート学生だった。国費留学生たちはその国を代表する頭脳集団と言っても過言ではないだろう。実際、ボンボンも天才だということが正樹にもすぐ分かった。彼は非常に頭が良く、英文の本を一度読んだだけでその内容を完全に頭の中に入れることが出来る本物の天才だった。本の見開き二ページを写真のようにして頭の中にどんどん入れていく才能の持ち主だった。正樹は彼と皿洗いの合間や食事をしながら話をした。ボンボンに正樹は言った。
「ボンボン、アフリカで医療活動をしたシュバイツアー博士を知っていますか?僕は彼にとてもあこがれているんですよ。」
「ええ、知っていますよ。彼は実にすばらしいお医者さんです。以前、本で読んだことがあります。日本では野口英世とシュバイツアー、この二人の偉人は小学校の教科書にちょこっと載っていますよね。日本語を勉強する時に府中の日本語研修所でその教科書を拝見したことがあります。」
「僕は本当は医者になりたかったんですがね、学力もお金もありませんから、学校の先生になろうとしたんです。障害者の先生になら簡単になれるだろう、くらいのいい加減な考えで受験に望んだんですがね、ところがまったく僕には歯が立ちませんでしたよ。とんでもない勘違いでした。完全に失敗しました。結局、大学には入れてもらえませんでした。」
「それで、正樹さんはもう夢をあきらめてしまったんですか?」
「いえ、完全にはまだあきらめてはいません。北海道の農場で働くことになっていますが、これからも勉強だけは続けていくつもりですから。」
「そう、それはそうした方が良いでしょうね。働きながらでも勉強は続けた方がいい。医者か、そうね、日本では確かに医者になるのは難しいかもしれませんね。でも、正樹、ごめんなさいね、そう呼んでもいいですか?」
「ええ、もちろんかまいませんよ。そう呼んでくれた方が親しみが湧きますからね。僕もボンボンと呼びますから。」
「私には分かるんですよ。正樹は頭がとても大きいですよね。きっとその中には脳みそがたくさん詰まっているんですよ。まだ開発されていない脳みそが眠ったままの状態になっているんだ。」
「そう言われても頭が大きいのはあまりうれしくありませんよ。見た目も良くないし、ヘルメットも帽子もサイズがないから、探すのが大変なんですよ。」
「いや、そうじゃないんだ。私は正樹ならきっと良い医者になれると言いたかったのです。」
「まあ、そう言われると嬉しいですけれど、でも何か引っかかりますね。」
正樹は皿洗いの仕事や朝食の下準備を終えて、二人の寝場所であった布団部屋で夜遅くまでボンボンと話をするのがとても楽しかった。毎晩、ボンボンの口から次から次へと出てくるフィリピンの話に真剣に耳を傾けた。それは日本とはまったく違った文化であり、正樹の知らない別の世界だった。日本という小さな島国だけで育った正樹の考え方は明らかにボンボンの世界的な視野の広さよりも劣っていたし、あまり型にはめ込まないで物事を考える彼の頭の柔らかさは大らかで素晴らしいものがあった。ボンボンは正樹に日本で医者になることが出来ないのであれば、フィリピンに来て医者になればいいではないかと助言した。
そんなある日、ボンボンが自慢げに見せてくれた一枚の写真、ボンボンの家族が写っている小さなスナップ写真が正樹の人生を大きく変えてしまうとはこの時の正樹には知る由もなかった。その写真には正樹が今までに見たこともない、テレビや雑誌も含めて、とにかく、これまでにお目にかかったことがないような美しい少女が微笑んでいたのだ。正樹はその少女の笑顔を見た瞬間、周りのもの全てが止まってしまった。その様を何と表現すればよいのか適当な言葉が見つからなかったが、心の奥深いところからふつふつと湧き出すその感情は恋と呼ぶものに違いなかった。しかし正樹はそのことをボンボンに打ち明けることも、その少女が誰なのかということも聞くことすら出来なかった。
次の朝、ボンボンは急に東京に帰ることになり、別れ際に彼は正樹にこう言い残した。
「正樹、いつかあなたに僕の国を案内してあげますよ。あなたの医者になりたいという希望は僕の国ではきっと叶えられますよ。僕には分かりますよ、あなたは力のある人だから、努力次第で医者になることは十分可能です。あなたが話してくれた障害者の為の農場は実にすばらしい発想ですよ。でも彼らは働く場所と同時にまた医者も必要としていることも忘れてはいけないとおもいますよ。農場の経営者が教育者であり、そして医者でもあったら、それに越したことはないじゃないですか。それだけあなたは彼らと喜びや悲しみを分かち合うことが出来るということではありませんか。」
まるで大波が引いた後のように、ボンボンは中山峠のバス停から姿を消してしまった。道の両側には五メートル位はあるのではないかとおもわれる雪の壁が続いており、正樹はしばらくボンボンを乗せて走り去ってしまったバスのタイヤの跡を見つめていた。
その夜、正樹は皿洗いを終えた後、独りで布団部屋に戻り、ボンボンが見せてくれた写真の美少女のことを考えながら眠った。しかし残念ながら夢の中にはその少女は現れなかった。
八雲 花子
八雲
八雲は酪農の町だ。いたる所にサイロが立っている。正樹は八雲に着くとまず安いアパートを探した。駅前にあった不動産屋の爺さんが紹介してくれた部屋は北国だというのにとても簡単な造りになっていた。安っぽい薄緑色のペンキで塗られた壁、壁といってもベニヤ板二枚を重ねただけのシンプルなもので、所々が擦り切れて白っぽくなっていた。昔の開拓時代の人々でもここよりはもっとましな小屋に住んでいたに違いない。それでも正樹は高校時代に住み込んでいた新聞屋のたこ部屋の二畳よりはまだましだとおもった。広さはいっきに倍以上の四畳半になるからだ。家賃も文句なく安かったし、正樹は迷うことなく爺さんに言った。
「お願いします。ここをお借りしたいのですが。」
「そうかね、で、いつからお入りになりたい。」
「出来れば今夜からお願いしたいのですが?」
「今夜かね。まあ、大家さんに聞いてみないと何とも言えないが、見たとおりのままだがそれでもいいのかね?」
「ええ、結構です。」
「それじゃあ、とにかく事務所に帰って大家に電話してみるかね。まあ、もう何年も借り手がなかった部屋だから、問題はないとはおもうけれどね。」
二人は駅前の机一つしかない爺さんの店に戻り、話を進めた。大家は前金で一年分払ってくれれば、保証人も敷金も要らないとのことだった。正樹は即決し、その場で全額を払い賃貸契約を交わした。
塒を確保した後、数えるほどしか店がない駅前の商店街を歩き、簡単な調理もできるコンロ型の石油ストーブを購入した。このストーブは本当に役に立つ優れ物でご飯を炊いたり、ラーメンを作ったり、鍋物も豪華に調理出来た。調理をしながら部屋も同時に暖まった。ヤカンをかけておけば部屋が乾燥することも防げた。安い部屋は隙間だらけ、しかしそれなりに利点はあった。窓を閉めたままで換気扇がなくても部屋の換気をする手間が省けた。北国の家はどこでもそうだが寒さを防ぐ為に窓は二重になっている。このぼろアパートの窓もすべて二重になっていた。正樹は窓と窓の間に食料品を置いて冷蔵庫代わりにした。風呂は近くに銭湯もあったが、少し離れたところに町民プールがあり、そこのシャワーを利用した。銭湯よりも安かったし、まだ新しく完成したばかりの町民プールはとてもきれいで気持ちが良かったから、正樹はそこを使う度に得をした気分になった。ただ、しっかりと頭の毛を乾かさないと大変であった。アパートに帰り着く前に髪の毛はバリバリに凍りついてしまうからだ。安アパートのトイレと流しはもちろん共同で夜間は水が出ない。管理人が夜になると水抜きをして水道の元栓を閉めてしまうからである。水道管が寒さで凍りつき破裂するのを防ぐ為だ。正樹は北海道に来て知ったことだが、洗濯機も水道と同じように夜は水抜きをしておかないと翌朝凍ってしまって使い物にならなくなってしまう。
アパートの名前は「緑風荘」である。壁は剥げ落ちた緑色のペンキ、あちらこちらから隙間風、まことに緑の風とはよく言ったものである。このアパートの半分以上の部屋を一つの家族が占領していた。子供が生まれる度に一部屋ずつ増やしていったらしい。たくさん子宝に恵まれた奥さんは少々太めだがとてもやさしい人で、おまけに少し美人だった。正樹はその奥さんと廊下ですれ違う度にこんな所に居てはいけない人だと心底そうおもった。正樹はその奥さんに秘かに憧れを抱いていたのかもしれないが、ただそれはそれだけのことで、その後も何も起こりはしなかった。しかし同じ屋根の下にその奥さんがいるだけで正樹は少し幸せだった。玄関のすぐ横の部屋にいる小指のないお爺さん、もう現役ではないとおもうのだが、長い間、任侠の世界を渡り歩いてきたお爺さんは歩き方が偉そうで反り返っている。風を切って歩くそのお爺さんが雪道で転ぶのを正樹は目撃してしまった。雪道はもっと重心を低い位置に置かないと危険なのである。もちろんそんなことはお爺さんに面と向かって忠告などは出来ない。誰も注意してあげないから、そのお爺さんはその後も何度も転んでいた。恐い顔をしているが気立てはとても良く、どんなに赤ん坊が夜中に泣いていても怒りはしなかった。ただ若者が深夜に掃除機をかけた時は大変だった。ドンドン、ドンドンと若者の扉はノックされ、アパート中に聞こえるくらいの大声で何度も若者をどやしつけた。まがったことが大嫌いなのである。隣の住人はスナックの雇われマスターだったが店がなくなると同時にいなくなった。深夜、何度か酔っ払って話をしに押しかけて来たが、あまりにも世界が違いすぎて話を合わすのが大変だった。マスターがいなくなって正樹はほっとした。その後に隣に越して来たのは女子大生らしき女の子だった。らしきと言ったのは近くに女子大がなかったからだ。列車で通うといっても何でわざわざ何時間もかけて通う必要があるのか理解が出来ない。でも、本人は短大に通ってますと引越しの挨拶に来た時にハッキリと言っていたので女子大生ということにしておこう。彼女が隣に越して来てからは正樹の唯一の娯楽機器であったラジオはイヤホンで聞くようにした。出来るだけ音をたてずに息を殺す生活が始まってしまった。おならも座布団をあてがって消音するようにした。なんだか住み難くなってしまった。ベニヤ板が二枚だけの壁は隣の部屋の様子が筒抜けで彼女が帰宅すると正樹はドキドキの状態になった。意識するなという方が無理な話で、大体、こんなアパートに若い女性が独りでいる方がおかしいのであって、聞き耳を立てるな想像するなと言う方が間違っている。思い出すのに苦労するくらい何の特徴もない顔立ちをした女の子だったが、常に気になる存在であったことには間違いなかった。正樹はまだ異性と面と向かって話が出来るほど成長していなかった。奥手だったのだ。だから、彼女がアパートを出て行くまで話をすることが出来なかった。
仕事は朝の暗いうちから牛たちの世話だ。もっとゆっくり寝てればいいものを何故か牛たちの朝は早い。基本的に餌を与えて、搾乳、掃除、夏場はサイロにデントコーンを砕いて入れる。それは漬物作りと同じだ。実際に食べてみると確かに漬物と同じ様な酸っぱい味がする。牛たちの大好物である。だからサイロを見たら大きな漬物の瓶だとおもえばいい。干草もたくさん牛舎の二階に貯えておかないと長い北海道の冬は越せない。農場の生活は実に単調な毎日であった。来る日も来る日も同じことの繰り返しだ。夕暮れ時に人も車もすれ違わない道をアパートに向かって歩いていると正直なところ寂しかった。どうしようもなく人が恋しくなってくる。何で自分は北海道にいるのだろうかと自分自身に問い直してしまう。でも体が疲れきっていて、その答えを出す前に眠ってしまうのだった。知り合いの農家から安く手に入る玉葱だけの味噌汁はとても甘くておいしかった。味噌汁の具は豆腐でもワカメでもなく金のかからない玉葱に定着してしまった。油が飛び散って後片付けが大変なジンギスカンを部屋の中でやる時は畳いっぱいに新聞紙を敷き詰める。しかし食べ終わった後でいつもおもうことだが、もう二度とジンギスカンは部屋の中ではやるまいとおもう。でもスーパーに買出しに行くと、前列に陳列されている丸く切りそろえたマトンの肉は牛肉や豚肉よりも安いのでまた買ってしまうことになった。深夜のNHKの連続ラジオドラマは真剣に聴いた。テレビがなかったからだ。そして作業を終えて農場で仲間と見る相撲中継は一番の楽しみだった。どれも些細なことだったけれども正樹にとってはなくてはならないことだった。農場の人たちもみんな親切で良い人たちばかりだった。何も文句があるわけではなかった。しかし、何故か正樹の心には寂しさが募っていった。吉田農場での仕事にもすっかり慣れ、素朴な人々に囲まれて正樹はとても幸せだったのだが、農場ではいつも隅っこにいた。都会育ちの正樹にはやはり馴染めず、気がつくとひとりぼっちの自分がいた。背中がゾクゾク震えるような感動が正樹は欲しかったのだ。そんな暮らしが何ヶ月も続いた。正樹は次第に中山峠で会った留学生のボンボンの話を考えるようになっていた。ボンボンが見せてくれたあの一枚の写真、ボンボンの家族が写っている小さなスナップ写真は正樹の心の中で大きくクローズアップされてきていた。きっと家族を大切にする国民性があるのだろう。ボンボンはいつも遠く離れた家族のことを考えているようだった。正樹のまったく知らない何かあたたかい世界がそこには広がっているようだった。その写真の中の小柄で色白の中国系の顔立ちをした少女、スペインの血も混じっていそうな美しい少女のことがどんどん正樹の心を占領し始めていた。何度かボンボンとは手紙のやりとりがあったが、その少女が誰なのかを聞くことは出来なかった。ボンボンが中山峠で別れ際に言ったように誰しもが健康でより豊かに日々を過ごしたいと望んでいることは確かなことだ。それは障害を持った者も同じで、障害者と一緒に暮らせる農場を造るという目標は素晴らしいことだと正樹は考えている。と同時に正樹は医者にもなりたいという願望が再びふつふつと沸き起こってきていた。また一方で写真の少女にも会ってみたいという願いもどんどんと膨らんできていた。それはもう抑えきれない、何か、運命的なもののように正樹にはおもえてきた。もう運命だとか愛だのと考えるようになった者には周りの人間が何を言っても聞こえはしないものだ。そんな状態に正樹は日一日となりつつあった。
花子
八雲は雪が少ない所だが、その夜は何年かに一度の大雪だった。
「おーい、正樹。起きろや。」
突然、ぼろアパートの正樹の部屋のドアがノックされた。寝ているだけでは指のないお爺さんに叱られる訳がない。ドンドンと叩く音がまだ部屋中に響き渡っている。正樹は何の用があるのだろうかといぶかしく思いながらゆっくりとドアを開けてみると、吉田農場の玄さんが廊下に立っていた。玄さんはおとなしい人だ。毎日もくもくと吉田で牛たちの世話をしている。彼が怒ったところを正樹は今までに見たことがない。本当に牛たちを可愛がって飼育していた。その玄さんが呼吸を整えながら話し出した。汗びっしょりになった玄さんの額はただならぬ事態が起こっていることを正樹に感じさせた。
「生まれそうなんだよ、花子が、正樹、手伝ってくれや。」
吉田農場には出産予定の牛が何頭もいた。その中の花子が急に産気づいたらしい。予定日よりも大分遅れていたからみんなで心配していた牛だ。皆で交代で泊りこんで様子をみていたのだが、その夜はたまたま玄さんの番だった。
「先生に電話をしたんだが、出ないんだよ。留守かもしれんが、正樹、ちょっと行ってみてきてくれや。」
獣医の先生が留守らしいのだ。玄さんは正樹の返事を待たずに話を続けた。
「もし、先生がつかまらん時は二人でやるから、すぐ牛舎に戻って来いや。頼むぞ。」
玄さんはそれだけ言うと、すぐに向きを変えてアパートの玄関から出て行ってしまった。
窓から外を覗いてみると、積もりに積もった雪をかき分けるように玄さんが帰って行く姿が見えた。
雪道を走りながら正樹は興奮していた。牛の出産に立ち合うのはもちろん初めての経験である。玄さんは十年近く吉田農場にいる人で、ベテランである。その玄さんがあんなに慌てていたんだ、やはり、牛の花子の様子は深刻なのだろうか。普段なら獣医さんがいなくても玄さんは落ち着いている。さっきの玄さんの顔はいつもと違った。そんなことを考えながら正樹は走った。喘息持ちの正樹は少し走っただけでも息が切れた。何度も足を滑らせて転んだが、花子のことが心配ですぐ起き上がった。予想していた通り獣医の先生は診療所にはいなかった。何度も呼び鈴を鳴らしたが誰も中にいる気配はなかった。先生にすぐに吉田に来てくれるように置手紙を書き、風に飛ばされないように引き戸の間にしっかりと挿んだ。長居は無用である。早く玄さんを手伝わなくてはならない。正樹は無我夢中で走った。出産は牛も人間も同じ生き物なのだからそんなには違わない。正樹は中学の時に妹が生まれたので出産の流れは一応は頭に入っていたし、酪農に関する本もたくさん読んでいる。それでも玄さんの手伝いが出来るのかどうか疑問だった。さっきアパートを出た時には止んでいた雪がまた激しく降りだしていた。吉田農場の入り口にある電柱の街灯に照らし出されて雪は音もなくしんしんと降り続いている。幻想的な光景だった。その夜は本当に大雪だった。正樹が牛舎に着いた時にはもう花子は横たわっていて、花子の周りの干草は破水した水でびしょびしょだった。玄さんが神妙な顔をして立っていた。正樹は花子から小さな足がのぞいているのを見つけた。
「玄さん、足が出ていますね。」
「ああ、そうだ。先生はいなかったのか?」
「ええ、留守でした。すぐ来てくださいと置手紙はしておきましたが。」
「そうか、すまんかったな。でも、もう間に合わんな。二人で子牛を引き出すぞ。正樹、そこにあるゴム手袋をはめてわしの横に来てくれ。」
「分かりました。弦さん、花子は逆子ですか?」
「ああ、そうだ。でも牛の場合は頭が先でも足が先でもどっちでもかまわん。ただ、花子の子供はへその尾が首にからまっているみたいだな。途中で引っかかってしまっている。」
「引っ張るぞ、正樹、このままだと花子も危ない。いくぞ。」
二人はおもいっきり子牛の足を引っ張った。
「せーの、せーの。もう一回、せーの。」
花子も玄さんもそして正樹も汗びっしょりだった。牛舎は湯気でムンムンしていた。何度も何度も引っ張ったが、現実はテレビドラマのようにはうまくいかなかった。二人の必死の願いも空しく引き出された花子の子供は死産だった。この夜の出来事は正樹にとっては悲しい思い出となって心にくっきりと残ってしまった。ベテランの玄さんは少しも動揺した様子を見せずに死んでしまった子牛の処理をさっさとしてしまった。一言も言い訳めいたことは言わずにただもくもくと後始末をしていた。後で聞いた話だが、その夜、玄さんは酒を浴びるほど飲んだそうだ。何も言わなかったが、玄さんの後ろ姿には花子の子供を救えなかった無念さがにじみ出ていたと皆が言っていた。やっぱり一番辛かったのは玄さんだったと正樹は思った。
北海道に来てからも正樹は勉強だけは続けていた。牛舎から安アパートに戻ると、テレビがなかったせいもあるが、何もすることがなかったので勉強を続けていた。それは同志館の仙波の影響も大きかったのかもしれない。仙波は現役で私大に入ってからも、第一志望だった広島の大学を三年間も合格するまで試験を受け続けた。そんな仙波がかっこ良く思えたからだ。パチンコや酒にもまったく興味がなかった。そして勉強を続けた一番大きな理由は正樹には友達が一人もいなかったということだ。そんな寂しい一人暮らしから早く抜け出す為に一生懸命に勉強をした。そして翌年、正樹は北海道にある大学に合格した。吉田農場の人たちはそんな正樹の成功を素直に驚き、喜んでくれた。ところが受験が終わってしばらくすると、正樹はまだ何かが物足りなかった。再び中山峠で出会った留学生のボンボンの言葉が頭の中で激しく回転し始めていた。
「正樹、そんなに医者になりたかったら、フィリピンに来なさい。フィリピンで医者になったらいいではありませんか。学費も安いし、試験だって簡単だよ。フィリピンで医者になってから、世界であなたを必要としている所に行けば良いではありませんか。フィリピンで医師の資格を取っても日本で医者になることは難しいかもしれない。でもアフリカやアメリカへ行く道は開けるとおもいますよ。正樹、世界は広いのですよ。」
そのボンボンの言葉が一時も頭から離れなかった。医者になりたいという正樹の願望はどんどんと大きくなっていった。
三姉妹
三姉妹
正樹はフィリピンから東京に来ている国費留学生のボンボンとは手紙での連絡は絶やさなかった。正樹が北海道にある学校に合格したこと、吉田農場は辞めてしばらく勉強に専念することなどを告げると、ボンボンはまるで自分の事のように喜んでくれた。そして新しい北海道での生活が始まる前に是非自分の国を案内したいと提案してきた。まったく迷うことなく正樹はすぐに同意し、東京でボンボンと会う約束をした。八雲の正樹の部屋には家具は何一つなかった。唯一購入したコンロ式の石油ストーブはアパートの指のないお爺さんにあげて、八雲のぼろアパートを完全に引き払い東京に戻った。
正樹は東京に戻ると日を空けずに、すぐボンボンが世話になっている駒場の留学生会館を訪ねてみた。受付で待っているとボンボンが手を挙げながら中から出て来た。
「やあ、いつ、北海道から戻ったんだい。」
「昨日です。また急行列車に揺られて帰って来ました。帰るときは特急に乗ろうと思っていたのですが、いざ、切符を買う段になると何だかもったいないような気がしてきて、結局、急行になってしまいましたよ。貧乏性ですよね。」
「いや、それはとても良いことだとおもうよ。その気持ちが大切なのだと僕はおもうな。将来、正樹がお金持ちになってさ、飛行機に乗るようになっても、その気持ちだけは忘れないで欲しいな。ところで、良かったね。学校、合格してさ。おめでとう。」
「有り難うございます。でもさ、何か物足りないのですよ。嬉しいことは嬉しいのですけれど、まだ、何かが違うような気がして。」
「そう、でも人間である以上、そんなものかもしれませんよ。」
「ボンボンの方はどうです。東京に戻ってから何か良い仕事が見つかりましたか?」
「いや、まだです。なかなか、僕らのような東洋人は欧米人のようには就職はうまくはいきませんよ。」
「そうですか。しかし日本人って奴は自分も東洋人のくせして、自分たちを何様だと思っているのでしょうかね。まったく呆れちゃいますね。同じ日本人として恥ずかしいですよ。」
「正樹、ここじゃあ、なんだから、ちょっと、外へ行こうか。コーヒーでもおごるよ。」
国費留学生はエリート中のエリートだ。国の費用で勉強させてもらう代わりに、将来、自分の国の為に恩返しをしなければならい義務がある。ボンボンも卒業を控え日本の企業に就職し日本の文化や技術を習得して自国に持ち帰ろうと必死であった。この留学生会館にいる者たちはいずれ自分の国に帰り、高級官僚や国を代表する企業のトップになったりする。その国の大統領や首相になったりする者も少なくないのだ。とにかく皆、優秀でプライドがとても高い連中である。
ボンボンに連れられて、小さな喫茶店に入った。店内にはクラッシック音楽が静かに流れていて、壁には有名な絵画の模写も掛けられている。正樹にはもったいないくらい落ち着いた店だった。ボンボンはよく利用するのだと自慢げに言っていた。正樹にとって、外国人で溢れているさっきの留学生会館は驚きだった。まるで日本とは違う空気だった。ボンボンに聞いてみた。
「あそこの留学生会館の住み心地はどうですか。」
「まあまあだよ。僕らのようなアジアやアフリカから来た者はアパートを借りようとすると断られるケースが多いのですよ。欧米人とは違って、僕らはまったく日本人には信用されていないのかもしれませんね。まるで犯罪者か何かのように見られてしまう。丁重に断られれば断られるほど傷つきますね。」
正樹は確かに日本人は欧米人には劣等感を持つが、逆にアジアやアフリカの人たちには横柄な態度をとっていると感じてはいたが、実際にこうしてボンボンから直接言われてみると本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい。同じ日本人として本当に申し訳なく思います。」
「正樹が謝ることはありませんよ。まあ、日本人がアメリカに行けば、僕らと同じ経験をしますからね、お互い様ですよ。そうね、アメリカに比べたら、まだ日本の方が人種差別は少ないのかな。こんなことでも人間とはいかに未熟で未完成な生き物だということがよく分かりますね。」
ボンボンは運ばれてきたコーヒーにミルクだけ入れて飲み始めた。いろいろな話をしてくれた。年下の正樹は聞く一方だったがやっと言葉が出た。
「うちの父にボンボンのことを話したら、とても会いたがっていました。近々、うちの父は今勤めている会社を辞めて独立するつもりなのです。この旅行から帰ったら、一度、父と会ってくれませんか。」
「ええ、もちろんいいですとも。いつでもお父さんのご都合の良い日時を言って下さい。」
「どうやら、仕事に関してボンボンの国に関心があるようで、でも、よく僕には分かりません。迷惑ではないでしょうね。」
「迷惑なんて、とんでもない。そうですか、フィリピンに興味がおありなのですか。君のお父さんは未来の日本と僕の国との関係が見えるのですね、きっと。もし僕に協力出来る事があるなら喜んでお手伝いしますと、そうお伝え下さい。」
「ありがとうございます。そう伝えておきます。ああ、それから僕は外国旅行は初めてなのですよ。航空券はボンボンにお願いしてもよろしいですか。」
「ああ、いいですよ。知り合いの旅行屋に安くするように頼んでおきます。パスポートは持っていますか?」
「まだです。明日にでも申請に行こうかとおもっています。」
「イエロー・カードも必要ですから。」
「イエロー・カード?何ですか、それ。」
「予防接種をしたことを証明するカードです。色が黄色いからイエロー・カードと呼んでいます。正樹はどこでパスポートを申請するつもりなのですか?」
「有楽町の交通会館に行くつもりなのですが。」
「ああ、あそこなら、海外旅行専門の診療所がありますから、予防接種もやってくれます。明日、パスポートの申請に行ったら注射も忘れずにしてきて下さい。」
まだその当時はフィリピンに限らずほとんどの国が予防接種を旅行客に義務づけていた。フィリピンでは天然痘とコレラの予防接種をしない者には入国を拒否していた。その予防接種が済んでいることを証明するのがイエロー・カードだ。現在ではイエロー・カードが必要な国は少なくなってきていて、フィリピンも予防接種をしなくても入国することが出来るようになった。天然痘という病が世界から消えてしまったからだ。しかし、また新しい伝染病が流行すればきっとイエロー・カードは復活するだろう。
「じゃあ、席が取れたら連絡しますね。たぶん航空チケットは出発の当日に旅行社の発行した引換券と交換になるとおもいます。何せ格安チケットですから、団体さんの中に組み込まれてしまいますからね。でも、僕らは団体さんとは別行動だから、心配しないでください。それじゃあ、羽田の出発ロビー、エジプト航空のカウンター前で会いましょう。」
「エジプト航空?」
「エジプト航空は何ヶ所も燃料を補給しながらカイロまで行くのです。その最初の経由地がマニラですから、他にもパキスタン航空もありますけれど、知り合いの旅行社が言っていましたが、この時期はエジプトが一番安く手に入るそうなのです。」
「わかりました。羽田のエジプト航空のカウンターの前ですね。何時頃、行けばよいですか?」
「午後二時にしましょう。くれぐれもパスポートとイエロー・カードだけは忘れないようにしてくださいね。」
正樹はさっきから言い出せずにいた。今度ボンボンに会ったら、あの写真の少女が誰なのかを聞こうとおもっていた。でも勇気がなかった。
「ボンボン、家族と離れて日本で勉強してみてどうでしたか。寂しくはありませんでしたか。また、就職が決まれば、しばらくは一人で日本で暮らすことになりますね。寂しくはないですか。ボンボンは日本が好きですか?」
「寂しくはありませんね。年がら年中、マニラには帰っていますから、寂しいと感じたことは一度もありません。」
「どうして日本なのですか。どうして日本で勉強する気になったのですか。何故、アメリカを選ばずに言葉の難しい日本に来たのでしょうか。質問ばかりでごめんなさい。ボンボンの才能を持ってすれば、きっとアメリカで大成功すると思いますがね。ボンボンはアメリカと日本とどちらが好きですか?」
「正樹、君のお父さんは戦争を経験していますか?」
「父はあまり昔の話をしたがりませんが、兵隊にはとられなかったと聞いております。」
「そう、僕の父はこの前の大戦で大ケガをしましてね。皮肉なことに味方のアメリカ兵に傷つけられ、敵である日本兵によって命を助けられました。」
「とても僕なんかが想像もすることが出来ない複雑な状況にボンボンのお父様は置かれたのですね。僕は歴史を勉強する度に日本が過去に犯した過ちを同じ日本人として恥じます。アジアの人々は今でも私たち日本人のことを嫌っているのでしょうね。先日、中国でスポーツの親善試合がありまして、たまたまその様子を観ていたら、中国の観衆から日本代表選手たちに浴びせかけられるブーイングがとても辛かったです。たとえ、それがスポーツの意義を知らない一部のマナーの悪い観衆のものだとしても、心臓を抉り取られる様な痛みを感じました。」
「フィリピンではもう反日感情は薄れてきていますよ。若い人たちはどちらかと言えば、日本びいきの者が今では多いかもしれませんね。」
しばらくボンボンは沈黙をしてからそっと言った。
「正樹、さっきの君の質問に僕はまだ答えていませんでしたね。僕の家はとても貧しくてね、兄弟も多かった。でも僕はどうしても勉強がしたかったのですよ。国費でもって日本で勉強が出来るという話を聞いて、僕はその制度にすぐさま飛びつきました。もし、それがアメリカだろうと韓国だろうと同じ様に応募したことでしょう。国、そんなことはどうでもよかった。たまたま日本への国費留学の話が真っ先に僕の耳に飛び込んできただけの話です。勉強を続けたかっただけです。高校生の時はね、正樹、僕はあの侵略戦争のことを学んで日本という国が嫌いでしたよ。でも結果的に父親と同じ様に僕も日本によって助けられた格好になりましたね。」
「そうでしたか。」
「今、僕は日本という国がとても好きになりましたよ。ところで正樹は恋をしたことがありますか?」
「いいえ、まだありません。」
「僕は今、恋をしています。少し恥ずかしい話だけれど、君の質問の答がそこにありますから我慢して聞いて下さい。恋はすべてに優先し、すべてを変えてしまう。それは僕の日本という国への価値観さえも大きく変えてしまいました。でも、僕の恋はまだ一方的なあこがれにしかすぎませんがね。」
「恋ですか。ボンボンが恋をしているのは日本の女性なのですね。」
「そうですよ。彼女は外国語の大学生で僕の日本語の先生でもあります。彼女が僕に日本語を教えて、その代わりに僕が彼女が専攻しているタガログ語を教えています。もう何年もお互いに互いの国の言葉を教えあっています。でも未だに僕は自分の気持ちを彼女に伝えることが出来ずにいます。」
正樹はボンボンが中山峠で見せてくれた写真の少女がいったい誰なのかを聞くのは今だと思った。しかし、コーヒーばかり飲むだけで何も言い出すことは出来ずに、結局、その日は暗くなるまでボンボンの恋愛話に付き合わされて終わってしまった。
ボンボンは日本語の研修期間を入れると、もう五年も東京の教育の大学に通っている。専門は農業機械であったが、あらゆる分野に興味を持っていた。その後も何度かボンボンと会っているうちに分かったことだがボンボンは本の見開き二ページを一度読んだだけで頭に写してしまうだけでなく、知的なゲーム、例えばチェスとか将棋、囲碁、麻雀にいたるまで、全てのゲームに圧倒的に強かった。正樹はどのゲームでもボンボンには勝てなかった。ボンボンは気立ても良いし、せかせかした様子もなく、本当に素晴らしい友人であると正樹は思っている。ただ、強いて彼の欠点をあげるならば、一つのことをやっている時にもう別のことを考えているということだ。まるでつかみどころがなく、我々凡人から見るとそれはいい加減に見えてしまうが、実際にはそうではないのだ。そして最大の彼の欠点は時間にルーズなところだ。今まで約束の時間に姿を現した例がない。これは後で分かったことだが彼の国にはボンボンと同じように時間の観念が欠落した人間がうじゃうじゃいた。悪い意味ではなく、時間を守らないのはひとつの国民性なのだと理解してボンボンと付き合うようにした。そう考えないといくら忍耐力があっても一度や二度ではないのでやってられないのだ。
正樹は有楽町の交通会館でパスポートの申請をした。何度も書き間違え、その度に初めから書き換えさせられた。そこの役人たちは随分と偉そうで話し方も偉そうだったので、家に帰って父にそう言うと、パスポートとは国がその人を日本人として保証する大切な権威のある公文書だから仕方がないだろうと説明してくれた。でも正樹は彼らの口の利き方はもっと他にあるだろうとおもった。最近では以前と違って、とても親切でやさしい対応になってきている。とすると当時の役人たちの態度は反省すべき点は多々あったのだろう。
二週間ほどして、ボンボンから電話が入った。
「中華航空の安いチケットが手に入ったよ。エジプト航空は込み合っていてだめだった。当日、羽田の中華航空のカウンターの前で会いましょう。台北経由のマニラ行きです。」
「分かりました。中華航空のカウンターの前ですね。あの、お金はどうしましょうか。」
「当日でいいですよ。僕が立て替えておきますから。くれぐれもパスポートとイエロー・カードだけは忘れないでくださいよ。」
「了解しました。いろいろ有り難うございました。とても楽しみですよ。もう、ドキドキしてきて、少し興奮してきたみたいです。あの、ボンボン、写真の・・・・・・。」
「何ですか?」
「いえ、何でもありません。では羽田で会いましょう。」
「それじゃあ、これで切りますね。」
「はい、有り難うございました。」
正樹はやはり写真の少女について聞くことは出来なかった。向こうに行けば会うことが出来るのだから、焦って今、聞くこともあるまい。そう自分自身を納得させた。
まだ成田の国際空港がなかった時代で羽田空港が国際線の発着地だった。成田空港が出来た後も中華航空だけは羽田空港を出入りしていた。それは日本政府が中国に配慮して、国として認知されていない台湾を国際線ではなく国内線の空港にとどめ置いたのだろうか、詳しいことは知らない。
ボンボンは何百回となく日本とフィリピンを往復している。だから旅行業界にもかなり顔が利く、団体の人数が足りない時などは、ただ同然の値段で人数の数合わせの為に同行したりもしたそうだ。だから彼のパスポートは出入国のスタンプで埋め尽くされていて、追加のページまでくっついていた。パスポートに追加のページがあるなんて正樹は初めて知った次第である。滅多にお目にかかれない代物である。
出発の当日、約束の時間より二時間も遅れてボンボンは羽田にやって来た。これがフィリピーノ・タイムである。沖縄にも同じような時間が存在すると聞いたことがある。約束の時間になっても現れないので、電話してみると、ごめん今から風呂に入って着替えて出るからと返事が返ってくるそうだ。正樹は覚悟はしていたが、まさかこれほどだとは思わなかった。ぎりぎりで出国手続きを済ませて、出国待合室に入った。ファイナル・アナウンスが流れており、待合室には最終搭乗案内を告げるプラカードを持った空港職員がうろうろしていた。その職員に連れられて駆け足で待機していたバスに飛び乗り正樹の初めての海外旅行は幕を開けた。ガイド・ブックに書いてあったのだが、「出国手続きを済ませると、もうそこは外国。」なんとも旅情をかきたてるような名文句ではないか。だから正樹はその待合室の雰囲気をたっぷりと楽しむつもりでいた。ところがボンボンが遅れて来たせいで、実際にはその旅情溢れる待合室を駆け足で通りすぎるはめになった。正樹にとっては初めての海外処女旅行だったのにまったくもって残念であった。ボンボンのおかげでこの旅行が実現したのであるから、正樹は出来るだけイライラしないように努めることにした。楽しい時間は長ければ長いほど良いのであるから、日本人にありがちなせっかちな性分は今回の旅行先には持っていくのはやめにした。そう、正樹もフィリピーノ・タイムを採用することにした。空港は雨や風のことを考えなければ、飛行機がターミナルへ直接横付けされてすぐに機内に乗り込むよりも滑走路をしばらく歩き、しばし飛行機を見上げてから、ゆっくりとタラップを上り、ふとタラップの途中で立ち止まり振り返る。そうやって乗り込む方が正樹は好きであった。確かに航空会社によってそれぞれ違うカラフルな色でもって化粧をされた飛行機を何台も見上げるのはとても楽しいものである。今ではほとんどの国際空港はスルスルのびる通路が設置されていて、雨に濡れずに搭乗が出来てしまうが、だんだんと旅の楽しさが薄れていくような気がしてとても寂しいかぎりである。
定刻で正樹とボンボンを乗せた中華航空機は台北に到着した。すぐにマニラに向けて飛び立つので空港の外には出ることは出来なかったが、ターミナルの免税店で正樹たちはお土産を買いながら時間を潰した。見るものすべてが新しく、正樹はもうドキドキしていた。今度は小さな飛行機に乗り換えて一時間ほど飛んだ。そしてついに夢にまで見たマニラ国際空港に到着した。もう夜になっていた。タラップを降りる時に正樹は体全体で熱いマニラの風を感じた。かすかにココナッツのかおりも漂っていたようにおもえた。あの写真の少女が、今、自分が立っているこの地にいのるのかと思うだけで心臓がドキドキしてきた。空港ターミナルまでの長い道のりも少しも苦にならなかった。すべてが感動であった。ボンボンが指差す方を見上げるとターミナル・ビルの出迎えデッキの所から手を振っている人物がいた。ボンボンの弟のネトイであった。わざわざ迎えに来ていたのだ。このネトイが正樹の人生の中で最も多くの時間を共有する人物になろうとは、この時の正樹には知る由もなかった。良き友というよりも兄弟のような深い関係になるのである。人生とは本当に不思議だ。こんなに日本から遠く離れた地に大切な人がたくさんいたとは、いったい誰が定めたのだろうか。
ボンボンから弟のネトイを英語で紹介されて、正樹は即座に緊張した。ただ握手をするのが精一杯だった。三人は空港からタクシーに乗ってマニラ市内に飛び出した。エアコンがないタクシーの窓からは熱気とともにさまざまな臭いが車内に流れ込んできた。むせるような排気ガス、市場の入り乱れた生臭さ、ドブ川のよどみきった臭い、臭いばかりではなく騒音も半端ではなかった。正直言って、正樹は豪いところに来てしまったとおもった。雑踏のマニラ市内をさっと通り抜けて、車はケソン市に入った。ケソン市は隣のマニラ市とは違って静かな住宅が続いていた。しばらくすると車は小さなアパートの前で停車した。アパートの中に入るとそこのメンバー全員が正樹とボンボンの到着を待っていた。ボンボンは正樹にひとりひとり紹介していくのだが、あまりにもその数が多過ぎて、一度では名前を覚え切れなかった。しかし、正樹はその中の三姉妹だけはハッキリと記憶した。長女のウエンさん、優しさが溢れていた。次女のノウミ、きつそうな性格だがモデルのような完璧な体型をしていた。そしてあこがれていた写真の少女、ディーンが正樹の目の前に立っていた。正樹は出来るだけ何気無い風を装って紹介を受けたが、胸は今にも張り裂けそうだった。もちろん、英会話の本で準備していた挨拶の言葉などは声にはならなかった。ただ頭を軽く下げただけで紹介は簡単に終わってしまった。ディーンは写真で見るよりもはるかに美しい少女だった。ボンボンが急に日本語ではなく英語で話しかけてきた。
「僕は明日から田舎に行ってきます。すみませんがその間、僕に代わってウエンさんたちが正樹の案内してくれます。田舎の役所に行って、いくつか書類をもらってこなくてはならないもので、それに実家にいるおふくろさんの顔もみてきたいので、申し訳ありませんが二三日時間をください。正樹は日本語で答えた。
「ええ、どうぞ、そうして下さい。僕は大丈夫ですから。」
何ということだ、まるで夢を見ているようだ。この美人三姉妹が明日から交代で自分の案内をしてくれるというのだ。これでこの国を嫌いになる理由がない。正樹はその夜、夢にまで見たディーンがすぐ近くにいるとおもうだけで神経が高ぶり興奮した。ベットに横になってもなかなか寝付くことが出来なかった。
ルネタ公園
ルネタ公園
ケソン市はマニラ市の東に位置する広大な計画都市だ。現在のメトロ・マニラに統合移行されるまではフィリピンの首都だった。政府の省庁や大学、他にもさまざまな文化施設が建てられ、実に整然とした町並みでマニラ市の雑然としたイメージとはかなりかけ離れていた。ボンボンたちはサンチャゴ通りとオヘダ通りに小さなアパートを二つ借りていた。典型的な庶民のアパートで二階に二つの寝室、そして中央に階段があり、階段を下りてくると右にキッチン兼ダイニングがある。その奥に二つ扉があり、一つはトイレ付のシャワー・ルーム、もう一つの網戸を開けるとコンクリート塀に囲まれた小さな洗濯場がある。階段の反対側にはソファーとテレビが置かれ、入り口に接するようにリビングがある。だから入り口から入るとすぐリビングになり、階段が中央で一階の空間を斜めに仕切っている。階段の向こう側に大きな丸いテーブルが見えて、そこがダイニング兼キッチンである。奥のトイレがあるシャワー・ルームや洗濯場へ出る扉が入り口からすべて見渡せるのである。ボンボンはマニラの生まれではない。マヨン火山の麓のビコール地方の出身で、このアパートのメンバーもほとんどが同じビコール地方の出身者であった。勤めている者もいれば、学生もいる。大学の教授をしているボンボンの姉さんを頼って大都会マニラに出てきた若者の集団であった。サンチャゴのアパートはボンボンが借り、オヘダのアパートはボンボンの姉さんが借りていた。二つのアパートは距離にして二十メートル位しか離れていない。お世辞にもきれいとは言えないこの二つのアパートでたくさんの若い男女が助け合って共同生活を送っていた。東京での新聞屋のたこ部屋暮らしや北海道での厳しい一人暮らしをしてきた正樹にとって、このアパートのにぎやかで底抜けに明るい若者たちの共同生活は大きなカルチャー・ショックであった。そして一夜が明けて、美人三姉妹に加えてかわいらしいお手伝いさんが二人もいることに正樹は気づいた。他のメンバーたちもそうだが、この二人のお手伝いさんたちはとびっきりの笑顔と気遣いでもって正樹の世話をしてくれた。今回の旅行がたった一週間であることを正樹はすでに悔やみ始めていた。安い航空券は変更がきかないのが難点である。ボンボンは忙しい人だから予定通りに日本に帰るみたいだ。しかし正樹は安いチケットは捨てて、また新しく購入してもいいから、自分一人だけここに残ることを考え始めていた。でも初めてのマニラ空港、魑魅魍魎が住んでいるような悪名高きあの場所を言葉もろくに話せない自分がうまく通り抜けて日本に帰国することが出来るのだろうか。それを考えてしまうと期間の延長はありえなかった。
ボンボンは故郷のビコールに帰る準備に入っていて、正樹のことはすでに三姉妹に任せてしまった様子だった。そうそう、いい忘れたが、この三姉妹はボンボンのいとこにあたるらしい。言われる前から兄弟ではないことは分かっていた。ボンボンの独特な顔と違って三人ともきれい過ぎるからだ。
初日は長女のウエンさんが案内してくれることになった。とにかく優しい、何もかもだ。声もしぐさも性格もあたたかくてよく気が利く。そばにいるだけですべてのものが明るくなってくる。こんなに安心できる美しい人がこの世の中にいて良いのだろうかと言いたくなってしまう。病院に勤めているらしいのだが、せっかくの休みにもかかわらず正樹の為に案内をしてくれるという。正樹は日本では女性と二人きりで歩いたことなどは一度もなかった。だから出かける前から正樹の足は完全に宙に浮いていた。遅い朝食を済ませてから、ウエンさんとバス通りに出た。手を引かれるようにしてバスに飛び乗った。二人はマニラ市の中心にあるリサール公園に向かった。地元の人たちはこの公園のことをルネタ公園と呼んでとても愛しているそうである。60ヘクタールもの広大な市民の憩いの場所だ。正樹はウエンさんとバスに隣り合わせで揺られているだけでもとても幸せだった。もう少しこのままバスに揺られていたいという正樹の願いも空しく、バスはルネタ公園に到着した。
ルネタ公園の敷地内には噴水や中国庭園、それに頓珍漢な日本庭園もあった。その庭園を造った人たちには本当に申し訳ないのだが、どこから見ても日本の庭園には見えないのである。だから、頓珍漢と言わせてもらった。コンサート会場やプラネタリウム、そして緑がとても豊かで、正樹が名前を知らない植物で溢れていた。広大な芝生と樹木の間には博物館や役所なども幾つも涼しげに建っていた。公園の中央にはこの国を訪ねた外国からの要人たちが献花をするリサール記念像がある。二十四時間、二人の兵士によって守られている。日本の歴代の首相たちもこの像に大きな花輪を捧げている。正樹たちはそこの警備兵の動きを見ることにした。まったく表情を変えずにじっと鉄砲を肩に抱えてリサール像の下に立っている。ウエンさんにTシャツの袖を引っ張られて裏側に回りこんだ。しばらくすると像の前で警備をしていた兵隊が足を大きく上げて動き出した。ゼンマイ仕掛けのお人形さんのように歩き、ゆっくりと像のうしろに回り込み、もうひとりの警備兵と交代した。そして休憩に入った兵隊はポケットからやおら煙草を取り出して実にうまそうに一服するのであった。正樹はその様子を飽きもせずにながめていた。その後も、何か困ったことがあるといつもここに来て、兵隊たちを見るのが正樹は好きだった。リサール記念像の周りではアベックが芝生で語らい、家族連れが弁当をひろげている。どんなに貧しい者が来ても、この公園は誰も差別をしない。あたたかく万民を包み込み、やさしく迎えてくれるのである。正樹はあまり意識したことはなかったが、公園とはこういう場所のことをいうのだとおもった。ルネタ公園は最高に素晴らしい公園である。公園の中央にある一等地にウエイターやウエイトレス、料理人もそこで働く者すべてが障害者だけのカフェがある。たぶん国営のカフェだとおもうのだが、注文も身振り手振りで、あるいは紙に書いたり指差したりする。正樹はここで働く障害者の顔を注意して観て見た。皆、生き生きとしていて気持ちが良さそうであった。ない方よりはあった方が良い。ただ、ここで働いている障害者たちはほんの一握りの恵まれた者たちであって、何か政府の広告塔に利用されているような気がしてならなかった。大都会マニラには人知れぬ場所で障害をもって苦しんでいる人々が大勢いることは疑う余地はなかった。正樹とウエンさんはこのカフェで昼食をとることにした。鈴を鳴らすような声でウエンさんが言った。
「マサキ、兄弟は何人いるの?」
「兄さんと妹がいます。三人兄弟です。」
「お父さんとお母さんはお元気ですか?」
「ええ、二人とも元気です。」
正樹の英語力ではまだこんな会話くらいしか出来ない。何ともぎごちないやりとりだが、それでも正樹はとても幸せだった。
「ウエンさんは看護婦さんですか?」
「ええ、病院のレントゲン科で仕事をしています。今度、あたしの病院にも連れて行ってあげますね。」
「ええ、ぜひお願いします。」
あとは二人で何を話したのかをよく思い出せない。それほど正樹はドキドキしていた。公園の歩道をさらに行くとマニラ湾に出た。緑と白のコントラストが美しいスペイン様式のホテルを横に見て、二人はマニラ湾の土手に腰を下ろしたが、その堤防は日光でとても熱く、日差しも更に強さを増していた。午後の三時では当たり前の話である。ウエンさんはパラソルをさしていたが、彼女のTシャツには薄っすらと汗がにじんでいた。同時にほのかな良い香水の香りもしていた。普通ならば、こんな炎天下には女の人は日焼けを嫌って歩かないものだ。案内とは言え、その優しさに再び感激する正樹であった。思い出したようにウエンさんが言った。
「良いところを知っているわ。いつも風が吹いているのよ。海からの風ね。ねえ、行ってみましょうか。すぐ近くだから。」
彼女が案内してくれた場所はマニラ湾の納涼船の桟橋だった。桟橋と言っても木材でできた簡単なもので、海に突き出たその桟橋には幾つもテーブルが並べられて、簡易レストランとしても利用されていた。確かに涼しい。マニラ湾を一望出来る秘密のこの場所をいつか親しい人すべてに教えてあげようと正樹はおもった。有名なマニラ湾の夕日もこの場所からならよく見ることが出来る。屋根も付いているので雨に濡れる心配もない。日が暮れると、屋根の内側に豆電球が灯り、薄暗いがその光は簡易レストランを豪華なレストランに変えていた。ああ、来て良かった。正樹はウエンさんとずっとこうして夜の海を眺めていたかった。しかし明日の朝早くから病院の仕事があるウエンさんをこれ以上自分の観光案内に付き合わせるわけにはいかなかった。歩き疲れているウエンさんの為に帰りは奮発してタクシーをひろった。マニラ市内の交通渋滞も騒音も正樹には関係なかった。このままどこまでも二人を乗せた車が走り続ければ良いのにと正樹はおもった。
アパートに帰り夕食をとりながら正樹はボンボンの姉さんと話をした。彼女はまだ独身である。小さな弟や妹の面倒をみるのに忙しくて、まだ良い人に巡り会っていなかった。あるいは自らを兄弟の為に犠牲にしてきたのかもしれない。天才ボンボンの姉さんはその当時は大学で統計学を教えていたが、後に国連の職員になるほどのやはり秀才であった。フィリピンにある大学はフィリピン大学とその他の残りの大学と言われるくらい、国立のフィリピン大学が抜きに出ていて、他の私立の大学とかなりの格差がある。ボンボンもボンボンの姉さんもそのフィリピン大学を出ている。仕事で疲れているのにもかかわらず、ボンボンの姉さんは言った。
「正樹、これから映画を観に行きましょうか。あたしは昼間は仕事だから、こんな時間にしか、正樹の案内が出来ないから、ね、行きましょう。」
「疲れているのに、いいんですか?」
「午後九時が最終だから、まだまだ十分に間に合います。ねえ、行きましょうよ。」
「ええ、もちろん、喜んで。」
話を聞きつけてアパートの学生たちも全員がお供をすることになった。ボンボンの姉さんのおごりだからである。これだけの人数の映画代だけでもたいへんである。正樹は自分が映画代を出すと言ったが、きっぱりと断られてしまった。この国の庶民の娯楽は映画だ。新しいアメリカ映画などは日本よりも早くに上映されるし、どの映画館もとても大きくて涼しい。その数も半端ではない。町中にはいたるところに手描きの映画の宣伝看板が掛けられている。職の少ないこの国では、そんなペンキで描かれた映画の看板によっても多くの人々が糧を得ているのだろう。
正樹たちはクバオと言う繁華街にある映画館に到着した。最終回の直前に席につくことが出来た。すると場内にはドラムの音が鳴り響き、スクリーンにはさっき見てきたルネタ公園のリサール記念像が国旗とともに写し出された。全員が起立し始めたので正樹も遅れて立った。ゆっくりとフィリピンの国歌が流れてきた。胸に手を当てて歌っている者もいれば、じっと目をつぶって聴いている者もいた。毎日の最初と最後の上映の前にはどこの映画館でもスクリーンに号令とともに鼓笛隊が現れて国歌を演奏する。こうやって愛国心が自然と身についていくのだろう。いかにもアメリカ的なフィリピンの一面である。クバオと言う繁華街も計画的に造られた地区で映画館やスーパーなどが幾つも並んでいる。ただ深夜の零時前には人並みは消えうせてしまう。当時は夜間外出禁止令が出されており、戒厳令下にあったからだ。マルコス大統領が好き勝手なことをやっていた時代である。それでも国民はまだ彼に大きな期待を寄せていた。反日感情はほとんどなくなり、マルコス大統領も日本との関係を重視していたから、さまざまな政策を発令した。日本人を保護するために日本人に対する犯罪は罪がとても重かったのもその一例である。そして、この頃から、日本からのあの悪名高き団体ツアーが次第に増え始めていた。マルコス大統領の外貨獲得政策ともあい合わさって、日本人男性、それも中年男性の観光客が目立ち始めてきていた。そして彼らは日本ではおおっぴらに出来ないことまで、ここでは平気でやってのけた。正樹はふざけるなと叫びたかった。
マヒワガ
「マヒワガ」
甲高い軍鶏の声で正樹は目覚めた。誰かが闘鶏に使う軍鶏をアパートの洗濯場で飼っているようだった。部屋の窓はガラスの代わりに板を何枚も重ね合わせたスライド式になっていて、その板の間から外の通りを覗いてみたが、まだ外は暗くて何も見えなかった。少し早くに起きてしまったようだった。覚悟はしていたが、やはりマニラの夜は暑かった。一夜を過ごしてみて南国であることを実感した。全身が汗でびっしょりになっていた。サンチャゴのアパートの正樹の寝室には冷房装置はなかった。と言っても決して正樹が冷遇されているわけではなかった。他のどの寝室にもエアコンなどはなかったし、下へ降りてみると、床の上にはバニッグと呼ばれるゴザが何枚も敷かれており、みんなまだその上で重なり合うようにして眠っていた。ボンボンの弟のネトイなどはトイレの前の床の上に直に寝転がっていた。何度か寝返りを打って、その場所に落ち着いたものとおもわれる。正樹が寝室を独りで占領しているので、普段なら二階の寝室で寝ている者たちがこうして床の上に雑魚寝しているのだ。正樹は皆に苦労をかけさせていた。冷遇どころではない、優遇されていたのだ。正樹はこの国のあたたかくて客をもてなすホスピタリティ、国民性を日本人も見習わなくてはならないと感じた。正樹はそっとドアを開けて外へ出てみた。すぐ近くのオヘダのアパートへ行ってみることにした。昨夜、ボンボンの姉さんから食事はオヘダのアパートに用意しておきますと言われたからだ。行ってみるとオヘダのアパートにはすでに明かりが点いていた。中に入ってみるとお手伝いのリンダがココナッツの実を二つに割って乾燥させたもので床を磨いていた。片足で体を支えて、もう一方の足でココナッツの実をリズミカルに前後させて、床の汚れをココナッツの繊維の中に擦り込ませているようだった。確かにその実で掃除をした後の床はピカピカに輝いていた。面白そうなので正樹もやってみたのだが、これがなかなかの重労働で、少しやっただけで汗が全身からにじみ出てきてしまった。お手伝いのリンダは小柄でニキビ面だが、とてもかわいらしい顔をしている。目が大きくてまん丸で角度を変えて見ると小学生のようにも中学生のようにも見える。リンダは自分ではあくまでも十八才だと言い張ったが、本当の年齢はたぶんもっと若いのだとおもう。ただこちらの女性の年齢を当てることほど難しいことはない、本当に至難のわざだ。一般的に同世代の日本人の女性よりは十歳はさばが読めると考えた方がよい。お手伝いについてであるがフィリピンでは少しお金に余裕ができるとすぐにメイドを雇う。これは日本人のお金持ちがメイドを雇うのとはちょっと意味合いが違うのである。得た収入を少しでも多くの人々に分け与え、お互いに助け合って生きていくという習慣からきている。リンダは掃除を中断して正樹の為にコーヒーを入れてくれた。一口飲んですぐに普段飲んでいるコーヒーとは違うことが分かった。正樹はリンダに聞いてみると、それはお米からつくられたライス・コーヒーであった。それもお金のかからない自家製のコーヒーであった。その味はお世辞にもうまいとは言えなかったが、リンダのあたたかい気持ちはブレンドされていると正樹はおもった。
しばらくすると股の付け根まで見えそうなホット・パンツを穿いた次女のノウミが現れた。パジャマの代わりらしいボロボロのTシャツを着て、階段を一段ずつゆっくりと降りて来た。髪はぼさぼさであったが、ホット・パンツからスラリとのびた長い足が正樹にはとても眩しかった。
「おはよう、マサキ。」
「おはようございます。」
「昨日の映画はどうだった。分かった?」
「ちょっと僕には難しかったみたいです。聞きなれない英語の単語が多過ぎました。」
昨夜、みんなで観た映画はレイプ事件を取り上げた裁判が主題だったので、難解な言葉が多かったから、文法英語ばかりを勉強してきた正樹には聞き取れるわけがなかった。
「そうか、法廷のやりとりはアクション物とは違って確かに難しいわよね。あたしでも分からないところがあったもの。まだ、正樹には無理よね。」
なかなかその後の会話が続かない正樹であった。まだ英語で話すことに慣れていなかった。ノウミはひとしきり一人で喋りまくると台所でリンダが聞いていたラジオの音に合わせて腰を振りながらバスルームに入っていった。ラジオからはラテンのリズムが流れていた。ノウミの明るい朝の挨拶は正樹にとっては一日の素晴らしい幕開けだった。
暑い、なにしろ暑い、だからこの国の人々はあまり歩きたがらない。そのせいなのか街には乗り物が溢れている。その代表は何と言ってもジプニーだろう。派手な色使いにゴテゴテした飾り物を沢山つけた元軍用ジープは至る所に走っている。その料金は安く、ジプニーは間違いなく庶民の大切な足になっている。そしてドライバー、あるいはその車のオーナーが全財産をはたいて買ったとおもわれるガタガタの音楽カセット・プレーヤーから流れ出す激しいサウンドはちょっと古い表現だがディスコ調のものだ。もう誰にもその音は止められない。音楽を聴くことで渋滞も排気ガスも辛い日々の生活さえも忘れようとしている。それはドライバーも乗り合わせた乗客も皆一緒だろう。この国では音楽はすべてを忘れさせてくれる大切な魔法なのである。音楽はすべてに優先されていた。正樹はノウミと二人でそのジプニーを三回乗り継いでフィリピン大学の広大なキャンパスにたどり着いた。ノウミはフィリピン大学の学生ではなかったが、別の大学で化学を専攻していた。彼女は遠慮をするということを知らない。まるでマシンガンのように英語を正樹にぶつけてくる。もう、たじたじである。ノウミはストレートな性格のようで、おもったことは何でもハッキリ言ってくる。まだ英語があまりよく聞き取れない正樹にとって、遠慮なく発せられる言葉には確かに困惑するが、逆にそのキツイ言葉の意味が分からないことはかえって幸いだったのかもしれない。しかし、何度も言うようだが、ノウミの素晴らしくバランスのとれたナイス・ボディはそんな性格を見事にカバーしている。例え、どんなに失礼な言葉を彼女から言われたとしても、正樹はそれだけですべてが許せた。
フィリピン大学のディリマンキャンパスは広大な敷地に建物がポツリポツリと離れて点在している。一箇所に建物を集めた方が学生たちは教室を移動するのが楽だろうに、でも何故かそうなっていない。炎天下での教室の移動は大変である。このキャンパスの中でもジプニーが走っている。当時はキャンパス内であれば、どこまで行っても何回乗っても無料だったが、現在は分からない。とにかく広すぎなのである。歩いていたのでは次の講義に間に合わないのだ。ただフィリピン大学の医学部はルネタ公園の近くにあり、農学部は郊外のロスバニョス、水産学部は別の所にある。残りの学部がこの広大なディリマンキャンパスにあった。廊下を歩くだけで涼しげに感じるスペイン風の建物や天井が高く落ち着いた雰囲気の教室もフィリピンの頭脳の集積所にふさわしい。ノウミはそのディリマンキャンパスで正樹を数人の男友達に紹介した。超エリートばかりだったがノウミの友達は皆がっちりした体型をしていた。それが彼女の好みなのかもしれない。自分に日本人の知り合いがいることを自慢しているかのように正樹にはおもえた。
「ねえ、正樹。この近くにウエン姉さんの勤めている病院があるのだけれども、ちょっと行ってみない。」
「ええ、行きましょう。でもウエンさんの邪魔にはなりませんか?」
「大丈夫よ。アメリカの資本で建てられた病院だから、とても大きくてきれいよ。」
「レントゲン科で働いていると言っていましたが、あの僕は素人でよく分かりませんが、年中、X線の近くにいると危険はないのでしょうか?」
「そうね、ちゃんと管理はされているとはおもうけど、あまり健康には良くないとあたしはおもうけどね。まあ、その分、お給料は高いのだから仕方がないかな。」
行ってみると話の通りアメリカナイズされた立派な病院だった。とても庶民の病院にはおもえなかったのでノウミに聞いてみると、やはりお金持ちの病院だという返事がすぐに返ってきた。もちろん病院の門戸はすべての人々に開かれてはいるのだが、現実問題として日本のように保険制度は整っていないわけで、治療費は目の玉が飛び出るほど高いのだから自ずとこの病院の患者は限定されてくる。正樹の知っている当時の日本の病院とも比較にならないほど実にすばらしい設備が施されていた。
レントゲン室の隣の扉が開き、合成の皮のような緑色した大きなエプロンを首から下げて、溢れんばかりの笑顔でもってウエンさんが中から飛び出て来た。明るい、すべてが急に明るくなった。昨日、ルネタ公園を案内された時に感じた、あの優しさにまた正樹は包まれていた。ウエンさんの存在そのものが明るかった。何というすばらしい人なのだろうか、そばにいるだけで嬉しくなってくると正樹は再び感じた。ウエンさんは挨拶をした後、いったんレントゲン室に戻り、緑色のエプロンをはずしてから廊下に出て来た。ノウミとウエンさんに挟まれるようにして病院内の案内が始まった。正樹の聞き取れない難しい英語の解説が始まってしまった。彼女が広い病院中を案内して説明してくれた内容は正樹にはほとんど分からなかったが、生き生きと自慢げに説明してくれるウエンさんの横顔をながめているだけでとても幸せな気分になった。ウエンさんは同僚たちとすれ違う度に、日本人である正樹を誇らしげに紹介して回った。正樹はこちらに来る前にとても反日感情を心配していたのだが、それはもう若い人々の間には存在していないようにさえおもえた。あるいはそれは正樹の勘違いであって、他の隣国のように感情をあからさまに表に出さない国民性なのかもしれない。正樹はあまりウエンさんの仕事の邪魔をしてはいけないと気づき、ノウミにそっと耳打ちして病院を引き上げることにした。
大通りに出てバスに乗った。すると突然のスコールである。強烈な雨が降り始めた。乗客はいっせいに自分の近くの窓を閉め始めた。窓と言ってもベニヤ板である。だから最後の一人が窓を閉めた時、バスの車内は完全に真っ暗になってしまった。愉快な体験であった。おんぼろバスは普段は窓がなくて風通しがすこぶる良いのだが、雨の時はこうして板で閉め切ってしまうので車内は地獄のように蒸してしまう。留め金が馬鹿になっている窓はそこに座った乗客が手で押さえることになる。不運にも正樹の横の窓もうまく引っかからなかったので、正樹がベニヤ板を押さえ続けた。バスはマニラ市に向かって快調に走り続けた。
十六世紀に入り、スペインがフィリピンを占領するとマニラの中心に彼らがこの国を支配する拠点として城壁都市を築いた。それが現在も残っているイントラムロスだ。城塞の中には教会や歴史的な建物が数多く残っていて観光客で賑わっている。そしてマニラ湾へ流れ出る川のほとりにあるサンチャゴ要塞は時の権力者たちが大砲を構えた場所だ。太平洋戦争中、日本の憲兵隊も本部としてそこを使用した。現在ではその要塞は沢山の花が咲き乱れる公園として整備されているが、正樹はノウミに敷地内の奥の地下牢に連れて行かれて言葉を失ってしまった。その牢獄は海の潮が満ちてくると海水が川を逆流してきて、牢の中を海水でいっぱいにしてしまう水牢だったからだ。潮が引く時に鉄格子を引き上げておくと、獄中で水死した遺体は川から海へと自然に流れ出ていくしくみになっていた。誰がこんな残酷な水牢を考え出し造ったのだろうか。造った者だけではなく、実際に使った者すべてに天罰が下ればよいのにと正樹はおもった。先の大戦でも、たくさんのフィリピン人とアメリカ人が日本軍によってこの水牢で命を落とした。水牢の前には犠牲者を慰霊する十字架が立てられており、そのことを何も知らない日本人観光客たちが十字架の前で大声ではしゃぎ、そして記念写真を撮っていた。正樹はその悲しい史実を知った者は誰であろうとすべて平和を祈り末代までも語り継がねばならないと強くおもった。
次にノウミが案内してくれたのはマニラ大聖堂であった。抜けるような青空の下を二人は歩いて教会まで行った。教会とはその大きさやきれいさでその存在を差別してはならないのだが、マニラ・カテドラルはフィリピンで最も重要な教会である。カトリックの大司教が本拠地を置いており、イントラムロスのランドマーク的な存在だ。主要教会の中では唯一ここだけ冷房施設がある為に結婚式場としてかなりの人気がある。それも高額所得者たちの結婚式である。ちょっと名の知れた芸能人たちは馬鹿の一つ覚えのように競ってここで式を挙げる。正樹とノウミがマニラ・カテドラルに入った時も結婚式が行われていたが、聖堂への出入りは自由である。ノウミは教会の入り口にある聖水に指を浸し、その水を自分の額と正樹の額につけてから中に入っていった。お清めの水は神社にもあるなとおもいながら正樹もノウミの後から聖堂の中に足を入れた。一番後ろの席に二人で並んで腰を下ろすと結婚式は広い教会の前の方で淡々と進行していた。正面横には聖歌隊が陣取り、セレモニーが進行する度にいろいろな曲を歌っていた。賛美歌に限らず正樹の知っているポピュラーな曲も含まれていた。何曲かその聖歌隊の歌を聴いているうちに正樹は背中がゾクゾクっとふるえるのを感じた。そのハーモニーのすばらしさは教会という建物の音響効果と重なり、とてもきれいなメロディ、旋律となって正樹の耳に飛び込んできていた。歌を聴いていて体が震えたのはこの時が初めてであった。正樹はノウミにその歌の曲名を尋ねてみた。
「ノウミ、この歌、いま聖歌隊が歌っているこの歌は何というのですか?」
「ああ、この歌ね、これはマヒワガというフィリピンのラブソングだわ。ミステリアスな、何か恋とは不思議ですばらしいものだと歌っているわ。きれいな歌よね。あたしも好きだわ。」
「マヒワガですか。いい歌ですね。」
「マサキ、知っている?カトリックはね、いったん結婚すると、もう離婚はできないのよ。」
「それ、本当ですか?」
「本当よ。もしマサキがフィリピンで結婚するなら、もう離婚は出来ないって訳よ。いい、だからちゃんとした良い人を選びなさいよ。」
ノウミは自分の胸を大きく張って、さも自分と結婚しろとでも言いたげな素振りをした。
正樹とノウミはマニラ・カテドラルを後にして大通りに出た。夕方の交通渋滞に巻き込まれる前にアパートにいったん帰ることになった。正樹はノウミと一緒の時はタクシーよりも体を寄せ合うバスの座席の方がいいと一瞬そうおもった。と同時にノウミは手を挙げてバスを素早く止めてしまった。ところがバスに乗り込んでみると空いている席は一つだけしかなく、仕方なく正樹は立ちノウミだけが座席に座った。アパートがあるケソン市に着くまで途中で誰一人として席を立つ者はいなかった。鼻の下を伸ばした正樹が悪かったのである。
だいぶ早くに二人はケソン市に着いてしまった。アパートに戻る前に近くのパブに行かないかとノウミが正樹を誘ってきた。文句なくオーケーであった。そのパブはオルガンが一台あるだけのインドネシア調の色彩と独特な表情をした大きなお面で溢れた店だった。店内は少し暗かったけれども、とても落ち着いた雰囲気の良いお店だった。運ばれてきた料理は白身魚の酢漬けで、実にサンミゲール・ビールとよく合った。少し酔いがまわってきた頃だった。突然、ノウミがマイクを手に取りオルガンの横に立った。彼女はこの店の常連客らしく、オルガンの所に座っているミュージシャンとも顔見知りで、しばらく二人で打ち合わせをした後、ノウミはマイクに向かってゆっくりと歌い出した。静かなオルガンの音色が彼女の後に続いた。そしてその旋律は再び正樹の背中を激しく震わせ始めたのだった。ノウミが選んだ曲はさっき教会で聞いたフィリピンのラブソング、「マヒワガ」だったからだ。何という素晴らしい世界に正樹は入り込んでしまったのだろうか。甘く切なく歌い上げるノウミの歌声は柔らかなオルガンの調べと調和して、歌のタイトルのように幻想的な世界へ正樹を引きずり込んでいた。
正樹はおもった。隙間だらけの北海道のぼろアパートにいて、玉葱だけの味噌汁をすすって寒さにじっと耐えてきた生活はいったい何だったのだ。ここは以前にまったく想像することが出来なかった別の世界ではないか。環境がどうのこうのと言うのではない。ウエンさんやノウミ、アパートにいるすべてのあたたかい人々が正樹にそうおもわせたのだった。今日も素晴らしい一日になった。フィリピンに来て本当に良かったと正樹は心の底からそうおもった。まだ写真の美少女ディーンは本格的には登場していないというのに正樹のドラマはすでにクライマックスに近かった。
リンダ
リンダ
お手伝いのリンダが朝食の支度をしている。正樹はその後ろのテーブルに肘をついて、彼女の後ろ姿をながめていた。昨夜はノウミと飲み過ぎてしまって、少し二日酔い気味であった。ただぼんやりとリンダの料理する後姿をながめていた。
いろいろな事が頭に浮かんできた。正樹は日本を出る前にフィリピンに関する予備知識が必要だとおもい、この国の歴史をざっと調べておいた。すべてはとても思い出せないまでも断片的にその内容がウエンさんやノウミが案内してくれた場所と絡み合って理解することが出来るようになってきていた。フィリピンの国民の大多数はカトリック教徒であり、東南アジアで唯一のカトリックの国だと言われている。ローマ法王もしばしばこの国を訪問するほどのカトリック大国なのだが、驚くことに昔はそうではなかったらしい。十五世紀になってマレー半島やインドネシア、ボルネオなどの近隣諸国からイスラム教がこのフィリピンにも伝わり、十六世紀にはミンダナオだけではなくマニラもイスラムの世界だったらしい。どんなに勉強が嫌いな正樹でもマゼランの名前くらいは知っていた。その世界一周のマゼラン、彼の世界一周の野望を無残にも打ち砕いたのは何を隠そう実はこのフィリピンの昔の人々だったのだ。フェルディナンド・マゼランがスペイン王の名においてセブ島の民族間の争いに介入したのがそもそもの間違いの始まりで、マゼランはその時に首長ラプラプとの戦いで負傷してしまった。その傷がもとで彼は後になって死んでしまうのである。それは千五百年頃のことらしく、その後もスペイン政府はフィリピンという国に特別な興味を持ったようで何度も遠征軍を組織して兵隊を送り込んできた。レガスピ将軍、将軍だったかどうかは確かではないがセブ島にスペインの植民地を建設した。そして次々とフィリピンの島々を占領していった。十五世紀の後半にはマニラをもその支配下に置いてしまった。それ以後、三百年以上もの長い間、スペインはフィリピンの本格的な植民地支配を続けることになった。十八世紀の半ばを過ぎるとスペインでは内乱が起こるようになる。このスペイン本国の混乱と同時にフィリピンでも知的な階級の人々によって自由を獲得しようとする動きが出始めた。十九世紀に入る前の秘密の結社「カティプーナン」の武装蜂起は有名である。その反乱で逮捕されたのが医師のホセ・リサールであった。かれは作家としても有名でサンチャゴ要塞にある彼の記念館に飾られてある肖像画の表情から判断する限り、ホセ・リサールは非常にソフトで穏健的な感じの人物だと正樹にはおもえた。そして彼は大衆への見せしめとしてマニラのルネタ公園で銃殺刑に処せられた。後に彼の遺体は先日ウエンさんが案内してくれたあの外国からの要人が頭を深々と下げて献花をするリサール記念像の下に埋葬されたそうだ。以後、フィリピンの英雄としてどこまでも語り継がれることになる。歴史学者の間では彼を英雄とすることに異論を唱える者もいるが、歴史の解釈は時として人まちまちになるもので、それは今後もそれぞれの学者が勉強していけば良いことだとおもう。リサールの恋人だか奥さんは日本人だったのではないかと正樹は考えている。良く調べていないからハッキリしたことは言えないのだが、サンチャゴ要塞にある彼の記念館には着物を着た日本人女性の絵が何枚かあった。絵の下に書かれてある説明文をしっかりと読んでこなかったので恋人なのか奥さんなのかは分からない。ホセ・リサールは日本にも来ているはずである。東京の日比谷公園にそれらしき碑があったような気が正樹はしている。いずれにしても彼は日本との関わりが非常に深かったことだけは間違いない。スペイン政府はホセ・リサールのように自分たちに逆らう民衆のリーダーたちをどんどん処刑していくのだが、結局、民衆の反スペイン感情を抑えてつけることは出来なかった。フィリピンに詳しい人なら知っているだろうが国軍のベースにアギナルドと名づけられた基地があるが、あのアギナルド基地のエミリオ・アギナルドはアメリカの力を借りてスペイン軍と対決していく、次第に優勢となりフィリピンの独立宣言を一方的に行った。フィリピン共和国を発足させ自らを初代の大統領としたのだが、アメリカは一方ではパリで米西講和会議を開き、その席でメキシコとフィリピンの植民地の支配権をスペインから譲り受けた。まったくふざけた話だがスペインは何とたったの二千万ドルでフィリピンという一つの国をアメリカに売り渡したのである。そして今度はアメリカがスペインにとって代って新しいフィリピンの支配者という訳である。アメリカの近代兵器の前ではフィリピンのアギナルド政権はどうすることも出来なかった。フィリピン国軍は戦いはしたものの強国アメリカとは勝負にはならなかった。こうして十九世紀の初めからアメリカが本格的にフィリピンの支配を始めることになった。アメリカは圧倒的なその軍事力でもって何もかも抑え込んだ。スペインはカトリック教会の布教を植民地政策の柱とし、民衆の心を何とかつかもうと努力したが、アメリカは教育を特に重要視したようでフィリピン全島に小学校を建設した。教育システムもアメリカと同じカリキュラムをそのまま取り入れ、小学校から大学まで一貫して英語で授業を行った。現在では若者たちは英語は下手くそだが、フィリピン人のお年寄りほど英語が上手に話せるのはそんな理由からだ。やがて世界的な恐慌がやってきてアメリカは自分の本国のことだけで手一杯になってくる。するとアメリカ国内にはフィリピンの独立を望む声が次第に高まってくるようになった。不況になると戦争が起きる。これはいつの時代も同じで何度も繰り返される悲しい人類の歴史だ。1941年に日本軍がフィリピンに上陸する。その侵略の速度はとても早く、半月後にはマニラを完全に占領し日本軍のフィリピン支配が始まった。「アイ・シャル・リターン」の言葉を残してマッカーサー元帥だけがフィリピンからこっそり逃げてしまった。そして日本軍が降伏するまでの間、残された米軍兵士や多くのフィリピンの人たちに癒しがたい傷を残してしまうことになった。戦況は一変して、オーストラリアに逃げていたマッカーサーは反撃に転じた。必ず戻って来ると言った彼の約束を果たした。コレヒドール島に立てこもっていた日本軍は玉砕し、マニラを警備していた日本海軍も激しい市街戦の後、ビルの地下室などで自決した。市街戦を避け北部山間部に部隊を移した山下将軍も降伏してフィリピンはやっと日本軍から解放された。そして1946年に待望の独立を成し遂げる。正樹が生まれるほんの九年前の出来事であった。しかし依然としてフィリピンはアメリカの経済の支配下に置かれたままで、アメリカ主導型の政権が続くことになる。1964年に自由党のマルコスが大統領になると、自由党独裁、マルコス独裁の時代となる。しかし次第にマルコスのやり方を見るに見かねた人々の間で反体制運動が活発化してくることとなり、マルコス大統領は危機感を感じて戒厳令を施行せざるをえなくなった。
フィリピンで英語がよく通じるのはアメリカ統治時代の影響が今も残っているからである。ちなみに英語を話す人口はアメリカ、イギリスに次いで世界三番目の多さだとする説もある。確かにフィリピンでは年寄りになればなるほどうまく英語を話すことが出来る。しかし現在では母国語を大切にしようとする傾向があり、テレビやラジオの英語の占める割合が半分以下にまで下がってきてしまった。スペイン語や日本語の単語も非常に多く、生活の中にしっかりと根付いている。数多くの島々から成り立っているフィリピンは地方ごとに言葉も違う。おまけに他国からの侵略を何度も受けて、さまざまな言語がごちゃ混ぜになってしまった。公用語は英語とスペイン語が用いられ、親しいフィリピン人同士の会話はそれぞれの地方の自分たちの言語が使われる。北ルソンはイロカノ語、南ルソンではビコール語、ビサヤ諸島はビサヤ語といったぐあいに英語やスペイン語の他にもたくさんの言語がこの国には存在している。政府はマニラを中心とした言語であるタガログ語を新しい公用語として何とか国民の国家意識を高めようとしている。だんだんとタガログ語を理解する人々の数は増えてきている。テレビでもタガログ語が使われ、自国の言葉を重視する動きが起きており、学校でも授業でタガログ語を使う先生が増えてきている。アメリカ統治時代の英語教育を受けたお年寄りよりも、若い人ほど英語の力が弱くなってきている。英語が苦手な正樹からすれば英語を軽視する傾向は何とももったいないことだとおもう。
お手伝いのリンダは英語が下手である。家が貧しくて学校へは行けなかったからだ。勉強する時間があったら働けと親から言われ続けて育った。リンダに限らず学校に行けない子供はまだまだ沢山いる。リンダの後姿を見ながら正樹はフィリピンの近代史のことを考えていた。コーヒーを飲みながら何気なくリンダを見ていた正樹だったが、リンダにしてみればキッチンで調理をしている自分の姿を頭のてっぺんからつま先までしげしげと見つめられているわけで、正樹の視線を感じないわけにはいかなかった。リンダはちっとも正樹の視線を嫌だとはおもわなかった。初めて会った時から正樹のことが好きだったからだ。正樹にとってお手伝いさんとは小学校の頃に読んだ童話の中に登場する存在でしかなかったから、いつもいじめられているかわいそうな少女だと頭の中にインプットされていた。だから正樹がリンダと接する時は自然とやさしくなってしまう。またそのことがリンダにとっては大きな勘違いの原因となってしまっていた。
サンパギータ
サンパギータ
写真のディーンとはマニラに到着した夜に軽く挨拶を交わしただけで、それ以上は何も彼女とは話が出来ずにいた。何度かアパートですれちがったのだが正樹はあまりの緊張のために言葉が出なかった。どうもディーンは別の世界に住んでいる人のように正樹にはおもえたからだ。彼女がもし日本の芸能界にデビューしたら瞬く間にトップ・アイドルになることは間違いないだろう。正樹はこんなにきれいな人を今までにグラビアでも見たことがなかった。ボンボンの弟のネトイがディーンと仲良さそうにふざけあっているのを目にするとただそれだけで何故か羨ましかった。近づきたくても近づけない圧倒的なオーラが彼女からは出ていた。
すっかり打ち解けたお手伝いのリンダをからかいながら正樹は朝食を待っていた。お手伝いのリンダとは気軽に何でも話をすることが出来るようになっていた。お互いの言葉が通じているのか、いないのかはあまり問題ではなかった。リンダが入れてくれたコーヒーを飲んでいるとビコールの実家に帰っているボンボンから電話があった。
「正樹、どうです。フィリピンは気に入りましたか?」
「最高です。もう日本には帰りたくない気分ですよ。」
「そう、それは良かった。案内しないでごめんなさいね。」
「いいえ、そんなこと、皆さん、とても親切にしてくださいますし、今だって、こうしてコーヒーを飲んでいるだけでも、僕はとても幸せな気分になっていますよ。この旅行に誘って下さったことを感謝しています。」
「正樹がそんなに喜んでくれて僕も嬉しいですよ。あさって、マニラに戻ります。そうしたら一緒にどこかに飲みに行きましょう。」
「ええ、それはもう、喜んで。」
「じゃあ、すみませんが、もう少し時間をください。日本での就職活動や滞在期間の延長の為に書類が必要なものですから、僕が生まれた場所にある役所に行かなくてはなりません。そっちのアパートの皆には正樹が困らないようによく言っておきますからね。どうぞマニラの休日を楽しんでいて下さい。では失礼します。」
電話が切れると、いつもは昼過ぎまで寝ているネトイがめずらしく朝食に顔を出した。
「今の電話、ボンボン兄さんからですか。」
「ええ、そうです。あさってこちらに戻って来るそうです。」
「そうですか。正樹は朝食はもう済みましたか。」
「いえ、まだです。」
ネトイはまだ起きたばかりで完全にはまぶたが開いていない。またソファーに倒れこむように横になった。マルボーロを一本取り出して天井を見つめながら吸い始めた。
「正樹、朝食が済んだら、今日は僕がマニラを案内しますね。」
ネトイの話し方はとてもゆっくりで、正樹を外国人として意識している。かなりなまった英語だが正樹は彼の言葉を他の誰よりもよく聞き取ることが出来た。今日の案内はディーンではなかった。ウエンさん、ノウミときたから今日はてっきりディーンの番だと正樹はおもっていたから少しがっかりしのだけれども、と同時に何だかほっとした気分にもなっていた。ネトイは丸いメガネをかけていて、アメリカの歌手、あのジョン・デンバーと同じメガネを愛用している。そのメガネをとってしまうと北京原人のような顔になってしまう。少しだけ歯も出ていて、一度見たら絶対に忘れない顔立ちをしている。不思議なことに彼がまじめな顔をすると実におかしい。どう言ったらよいのだろうか、彼を見ているこっちの方が何故か幸せな気分になってくるから不思議である。性格も志村ケンとタモリさん、そしてジョン・デンバーを足して割ったようなキャラをしている。そう、かなりそれに近い。兎に角、おかしくて、おかしくて、ネトイのことを見ていると訳もなく笑ってしまうのである。ボンボンにしてもオヘダのアパートを借りている大学教授の姉さんにしてもネトイの兄弟たちはみんな天才ぞろいである。ネトイ以外はすべてフィリピン大学を首席で卒業している。ネトイだけが学校を中退した。だから堂々と昼過ぎまでゆっくりと寝ていてよいのである。しかし、周りの人々を楽しませる彼の才能は超天才的だ。毎日ふらふらしていてもボンボンの姉さんはネトイを一番頼りにしている。ただいるだけで周りの人々を明るくしてしまうネトイはやはり天才なのかもしれない。そして正樹のユーモアのセンスは知らず知らずのうちにこのネトイから吸収していくことになるのだ。
ネトイと二人で朝食を食べていると、ディーンが階段から降りて来た。まるでパリかミラノのファッション・ショーが始まったかのように階段から彼女は登場した。もうディーンは外行きの格好をしていた。そうか、ネトイと一緒に案内をしてくれるんだと気づいた時、正樹は圧倒的な幸せに満たされていた。男なんて単純な生き物である。しかしよく考えてみれば、ネトイがいてくれた方がかえって都合が良かったのではないか、ディーンと二人きりだと正樹は緊張の為に話しをすることすら出来ないだろ。きっとディーンも息苦しくてなって、正樹のことを嫌いになってしまうからだ。このネトイのでしゃばりは正樹にとっては大きな助け舟になった。
三人は朝食を終えてからバス通りに出た。こちらのバスは日本語で書かれた行き先がやたらと多い。日本ではもう使われなくなった中古のバスの運転席を反対側に付け替えてこちらの右側通行に対応させている。古くなった日本のバスを改造して再利用しているわけである。ただバスに付いていた看板や行き先はそのままで「沼田農協行き」とか「宝光社前行き」のようにそのままにしてある。日本の中古車であることを示したいからそうしているのだろう。日本語のネーミングはこちらでは非常に多い。お菓子にしても「おいしい」、缶詰にしても「はこね」、蚊取り線香などは「かとる」である。中古のバスもそのまま日本製を強調している。正樹はこちらのバスに乗って驚いたことがもう一つある。それはどんなに車内が混んでいても女性が乗ってくると、男どもは我先にといっせいに立ち上がることだ。これは日本の男性たちはぜひ見習いたいし、また女性はこのようにいたわるべきであるとおもう。ただせっかく席を譲ってもお礼の一言も言わないで当たり前のような顔をしている女性もかなり見かける。特に中年以上の女性にそのようにふてぶてしい態度をとる傾向があるようで、この国のおばさんたちはもっと男たちの優しさを認識する必要があると正樹はおもった。
この国のバスには車掌がいる。バスの車掌は日本ではワンマン・バスになってしまって、もうその姿を消してしまったがフィリピンではまだまだ活躍している。たとえバスから乗客がこぼれ落ちそうなくらいに込み合っている時でも車掌はどこからともなく現れ、しっかりと料金を徴収していくのである。さらにバス会社はこの車掌たちをまったく信用していないので検察官を抜き打ち的にそれも頻繁にバスに送り込んでくる。検察官は乗客が正しい切符を持っているかどうかを確認しながら、車掌のことも見張っているのである。日本と違って人件費がべらぼうに安いから出来る経営戦術なのである。
正樹はバスはとても好きだが、今日はディーンが一緒なので出来るだけきれいなタクシーを選ぶことにした。どうやら男は好きな女性には見栄を張りたがる生き物のようで、もしその気持ちをずっと持ち続けることが出来れば結婚してからもきっとうまくいくのだろう。
ネトイとディーンが案内をしてくれたのはマカティ地区だった。高層ビルが建ち並ぶ現代的な町でこの国の商業の中心地だ。銀行、デパート、レストラン、映画館、ほとんどの大企業のオフィスがこのマカティ地区に集中している。日本の企業もここに事務所を設置している。そして大通りの反対側には大邸宅街があり、フォーベス・パークと呼ばれ大金持ちのお屋敷がずらりと建ち並んでいる。日本人には想像することが困難なくらいの豪邸が競い合うようにして並んでいる。フォーベス・パークは高い塀で囲まれていて、その中に入るには厳しい検問がある。居住者であることを示すステッカーがない車は停車を命じられ、さまざまな質問を受けることになる。タクシーの場合、運転手は免許証を門番に預けなくてはならない。悪いことをしないように免許証を人質にとられるわけである。正樹たちを乗せたタクシーもイカツイ顔をしたがガードマンが窓から車の中を覗き込んできて正樹が日本人であることでやっと入場を許可された。フォーベス・パークの中はまるで別世界であった。マニラの混沌とした町が砂漠ならば、ここは樹木がうっそうと生い茂るオアシスと言った所だ。道の両側には豪邸が高い塀に囲まれるようにして建ち並んでいた。高級車が何台もその大きな門に吸い込まれていた。ライフル銃を持った警備のガードマンが各家々の門のところには立ち、この国の富と財宝をしっかりと守っていた。日本にいてはあまり感じることが出来ない「貧富の差」というものを正樹はここに来て初めて実感した。と同時に自分たちを守るために必死になっている富豪たちはとっても大変な人種なんだなと正樹はおもった。お金が増えると問題も増えるわけで、お金はないと困るけれども増え過ぎても困るものらしい。ほどほどが一番のようである。
太い樹木に覆い被された道をしばらく行くと緑の広がる丘に着いた。そこは墓地だが日本の墓地のような暗さがまったくないアメリカ記念墓地であった。また戦争の傷跡を見せられるのだと正樹は覚悟した。ここには第二次世界大戦中、フィリピンで戦死した一万七千のアメリカ軍人の遺体が安置されているそうで、白い十字架が緑の芝生に戦死者の数だけ整然と並んでいる。不謹慎にも正樹はその緑の大地と白い十字架が並ぶ様を見て美しいと感じてしまった。あの不幸な戦争で犠牲になったアジアの人々は二千万人以上とも言われているのだし、日本軍にしても日本本土以外ではフィリピンで戦死した者がもっとも多く、五十万人以上の兵隊があちらこちらのフィリピンの山々や海で故郷日本に再び帰ることを願いつつ命を落としているのである。犠牲になったアメリカ軍人の墓を見て、ただ「美しい」だけではすまされない話である。正樹は静かに合掌して戦争で命を落としたすべての人々の為に冥福を祈った。中央には記念塔と戦闘の経緯を表した地図がモザイクで刻み込まれている。現地マニラの日本人学校の生徒さんたちには是非この記念墓地を訪れて戦争の悲惨さと過去に日本が犯した過ちを認識学習してほしいと正樹は願った。日本人学校の先生たち、どうか遠足などでこのアメリカン・セメタリーに一流企業のお子様たちを連れて来ていただきたい。そう正樹は切に願うのであった。
正樹は白い塔の前に立つディーンの姿を写真に撮りたかった。カメラを持っていないことをこれほど悔しくおもったことはなかった。このアメリカ記念墓地はよく清掃がされていてゴミ一つ落ちていなかった。また訪れる人も少なく、この広い丘の上には三人の他には誰もいなかった。シーンと静まり返った静寂な空間の中で三人は一万七千本の十字架が丘いっぱいに描く模様を眺めていた。大理石でできたベンチに座ってただじっと白い十字架を見つめていた。時間が経つにつれて三人はだんだん場違いな雰囲気になってきていた。ネトイが突然立ち上がり隣のベンチに移動した。正樹とディーンが何とは無く彼のことを見ていると、ネトイは隣のベンチの上で自分の両腕を自分の体におもいっきり巻きつけて独りでアベックが抱き合っている姿を演じ始めた。正樹はディーンと顔を見合わせておもわず笑ってしまった。緑の丘にはまたさわやかな風が吹いてきていた。
アメリカ記念墓地を出ようとした時、制服を着た警備兵が正樹に近寄って来た。あたりを見回しながら手に持っていた警察のキャプテンのバッチを正樹に示し、本物だから買わないかと言ってきた。本物だとしきりに強調するところをみるときっと偽物に違いない。しかしそんなバッチは何の役にも立たないし、持っているとかえってヤバイような気もした。もし帰りの空港で見つかったら金をふんだくられるかもしれない。だから「いらない」
と何度も断ったのだが、その警備兵は異常なまでに売り込みを続けるのだった。その必死の形相は尋常ではなかった。正樹はきっと彼の奥さんのお腹でも大きいのに違いないと思い直して買うことにしたのだった。ネトイが初めの言い値の三分の一の値段まで交渉して下げてくれた。バッチを売った後、その値切られた警備兵はブーブー言いながら立去って行った。正樹はそのバッチを今でもディーンの記念として大切に持っている。
次に三人が訪れたのはナヨン・フィリピーノであった。フィリピンの各地方の文化を紹介するためつくられた公園で、日本のユネスコ村のようにフィリピンの風土や民家、生活の様子を小型にまとめて展示紹介している。広い園内を一周するとあたかもフィリピン全土を一周したような気分に浸れるようになっている。園内には花が咲き乱れていて、心地よい風も吹いていた。ただ隣に国内線の滑走路があるために時折、物凄い音を立てておんぼろ飛行機が離発着していた。正樹はここでもディーンのことを撮るカメラがないことが悔やまれた。熱帯の花は美しい。フィリピンの花もその例にもれない。やや淡いやさしさをただよわせているゴマメーラはその代表で、この国には数え切れないほどの美しい花が咲き乱れている。
ディーンが立ち止まった。白い花を指差しながら正樹に言った。
「マサキ、この花はね、フィリピンの国花、国の花、サンパギータですよ。ちょっと香りをかいでみてください。」
正樹はその白い小さな花に顔を近づけてみた。かすかにやさしい香りがした。それはまるでディーンの香りのようでもあった。やさしい香りだった。きっと正樹はサンパギータの花を見る度にディーンのことを思い出すことだろう。サンパギータ、小さな花だけれども強烈に正樹の脳裏にその姿、香りは記憶された。
ただじっとしているだけでも熱いマニラ、騒音と排気ガス、混沌と貧困、そんなマニラだが、正樹は独りぼっちだった日本の生活よりも、この地で皆で助け合って生きているボンボンの家族がとても羨ましかった。決定的な理由はディーンの存在だったかもしれないが、ウエンさんの優しさ、ノウミのナイス・ボディ、リンダの愛嬌、ネトイのユーモアなど、そのすべては人間が作り出している素晴らしさである。確かに今は日本よりも経済的には恵まれていないフィリピンだが、正樹はみんなといつまでもこの国に一緒にいたかった。
サンパギータ、正樹が初めて知った白い花。やさしい香りの花だった。
純情、 輝きの時
純情
耳に激しいリズムが飛び込んでくる。大きなスピーカーが何台も舞台の両脇に並んでいて、舞台の上では水着姿のダンサーたちが身をよじらせて踊っている。店内は暗く、舞台の上の踊り子だけが艶めかしく照らし出されていた。
ボンボンが故郷のビコールからやっと戻って来た。バスは昼頃にマニラに着く予定だったが、ボンボンを乗せたバスもやはりフィリピーノ・タイムであった。だからアパートに顔を見せたのは夜の八時を回ってしまっていた。ボンボンがビコールを出たのは昨夜だった。バスの長旅で疲れているにもかかわらず、アパートの男衆全員でビール・ハウスに繰り出すことを決めていた。おもむろにそのことを言い出すと男どもの表情が途端に崩れた。ボンボンは日本から帰国するとその度に男だけでビール・ハウスに飲みに行くことがなかば習慣化していた。それがまたみんなの大きな楽しみでもあり、独身者、既婚者を問わずに単調な生活の潤滑油だったのだ。ケソン市とマニラ市のちょうど中間にはこの種のビール・ハウスがたくさんあった。正樹がボンボンに連れられて行った店はファースト・オーダーが一人三本と決められていて、その夜は正樹を含めて総勢十人でやって来たので三十本のサンミゲール・ビールが即座にテーブルの上に並べられた。ネトイがすかさず氷を持ってくるようにと要求した。ビールに氷を入れて飲むのは邪道ではないか。正樹が尋ねてみるとこの国では皆好んでビールに氷を入れるらしい、極めて一般的なビールの飲み方だという返事が返ってきた。ボンボンたちはもちろんこの店でビールを飲むことが目的ではないので、みんな初めの三本をちびりちびりと、それも出来るだけ長い時間をかけて飲む。この店のビールが高いことをちゃんと心得ているからだ。ところが店側も負けてはいない、アッシャーと呼ばれるちょっと輝きが薄れたやり手のおねえさんたちを次から次へと送り込んでくる。テーブルに若い女の子を呼べだとか、ビールのお代わりやおつまみはどうだとか、客にお金を使わせようとして、いろいろなことを言ってくるのだ。このアッシャーと呼ばれるおねえさんたちの収入は客に女の子を紹介することが出来るかどうかで決まってくる。もし客がその誘いに乗ってしまって女の子がテーブルに座ろうものなら大変である。がばがば高いジュースは飲むは、ろくに食べもしない料理まで注文したり、いくらお金があっても足りないことになる。正樹は隣に座った、どうやら日本人観光客らしい三人組みのテーブルの様子を見ていた。入店と同時に女の子を三人もテーブルに座らせていた。
「あら、あたしお腹がすいちゃったわ、何か頼んでいいかしら?」
片言の日本語で女の子がその三人組に甘えている。
「ああ、いいよ。何でも頼みなさい。」
そのうちの一人、日本から来た二人の案内をしているとおもわれる、きっとマニラに長期滞在している風体のチンピラがへたくそなタガログ語でそう答えていた。しばらくすると隣のテーブルはジューウジューウと鉄板から湯気を立てた料理やフライド・チキンなどでいっぱいになった。面白いことにウエイターが料理を運んでくる度に懐中電灯の光で照らして精算書にサインをさせられていた。正樹はボンボンに聞いてみた。
「あれは何でサインをしているのですか?」
「後で支払いの際にトラブルにならないように、店側は客が食べたり飲んだりしたことの証拠をとっているのですよ。さっき僕らのビールが運ばれてきた時にもネトイもサインしていましたよ。でもね、可笑しいのはね、ネトイのサインはめちゃくちゃで書く度に違っているのですよ。文字だか絵なのか何だか分からないサインを気ままに書いて楽しんでいます。」
正樹はおもわず吹き出してしまった。いかにもネトイらしい、まじめな顔をしてするから実におかしい。もっともボンボンたちの場合は追加の注文はありえない。最初のオーダーだけで引き上げることがみんなの暗黙の了解となっているからだ。だからさっきから、みんなビールに口をつけようとはしないのである。話などもしないで、ただ真剣な眼差しで舞台の上の踊り子たちに釘付けなのである。めったに来ることが出来ない場所である。アパートの男どもはしっかりと舞台で揺れ動いているダンサーたちの姿を目に焼き付けていた。
「ねえ、ボンボン。ビールって不思議ですよね。いくらでも入るから。水をたくさん飲めと言われてもそんなには飲めないでしょう。ところがビールとなるとたくさん飲めてしまうものですよ。」
「そうですね。でも決まって何度もトイレに行きたくなるのが、ビールの欠点ですよ。まあ、人間の体は、結構さ、都合よく出来ているのかもしれませんね。」
正樹はトイレに行きたくなった。まだ酔ってはいないのだが、急に冷房の効いた場所に入って少しお腹が冷えてしまったようだった。トイレに行く途中に踊り子たちの控え室があった。大きなガラス張りになっていて部屋の中が見えるようになっていた。正樹は何故その部屋がガラス張りになっているのかその理由が分からなかった。まだ正樹は純情だったのだ。日本では異性と話す機会などまったくなかった正樹は舞台の上で踊っているダンサーたちを見ているだけで心臓がドキドキした。仕舞いにはアルコールのせいもあるのだろうが呼吸も速くなってしまって、いやはや何とも困ったというか、楽しい気分になってしまっていた。もう日本には帰りたくないというのがその時の正樹の正直な心境だった。正樹のそばの通路を踊り子たちが横切るだけで身を引いてしまう純情な正樹であった。
輝きの時
ボンボンの鶴の一声でビール・ハウスを出ることになった。もちろんまだ誰も帰りたくはない。正樹も同じ気持ちであった。ボンボンの言うことは彼らにとっては絶対であり、彼が生活のスポンサーである以上、誰も文句は言えないのである。ネトイがウエイターを呼んで精算を済ませている間も、みんなはじっと舞台の上を見つめていた。ウエイターがつり銭を持って来るわずかな間も誰も踊り子たちから目を離さなかった。そして出口に向かう通路でも振り返り後ろ髪を引かれながら外へ出た。
二台のタクシーでアパートに帰ることになった。その時、ネトイが正樹に近づいて来て言った。
「マサキ、飲み直さないか。いい店を知っているぞ、まだ早いし、どうだ、行かないか?」
「いいね、行こう。」
ネトイはボンボンにそのことを耳打ちすると、勢いよく大通りに出てタクシーに手を上げた。タクシーが停車すると振り返り正樹に叫んだ。
「マサキ、行くぞ。」
二人だけでタクシーに転がり込んだ。五分もしないうちにタクシーは目的の店に着いてしまった。こんなに近いのならば歩いて来ればよかったと正樹はおもった。車から降りてその店の上を見上げると真っ赤なキャデラックが半分突き出た格好で取り付けてあった。もちろん本物の車ではない、そのキャデラックの下に「サムス・ダイナー」と書かれたネオン・サインが光っていた。この店の名前である。いかにもアメリカ的な名前である。中に入るとそこはもう古き良きアメリカそのものだった。オセロのような白と黒の床の上をローラー・スケートを履いたウエイトレスが元気良く店内を走り回り、音楽がいっぱい詰まった大きなジューク・ボックスが置かれてある。壁にはマリリン・モンローやジェームス・ディーンの似顔絵が描かれ、そして店内にはエルビス・プレスリーの歌声が静かに流れていた。さっきのビール・ハウスとは打って変わった雰囲気であった。明るい店内、中央にはカウンターがありドラフト・ビールのコックが幾つも並んでいた。壁際には四人がけのテーブルが並んでおり、右側が禁煙席、左側が喫煙席となっていた。アメリカの星条旗を継ぎ合わせて縫ったような征服を着て、ウエイトレスがメニューを抱えてローラー・スケートで滑り込んで来た。ネトイはドラフト・ビールを注文すると席を立って電話の所に行ってしまった。ウエイトレスは正樹に言った。
「サー、他に何か、ご注文は?」
「何がおいしいのかね、この店は?」
「私はマンゴー・チキンがおすすめですが。」
「じゃあ、それ、お願い。それからフレンチ・フライももらおうか。」
「かしこまりました。」
ネトイと正樹には共通点がある。家族兄弟がみんな頭の良い秀才であったり、天才であったりすることだ。だから二人はとても気が合った。しばらくしてネトイが電話を終えて席に戻って来た。
「マサキ、ノウミとディーンが今ここに来るよ。ここはアパートから近いんだよ。そんなには時間がかからないとおもうよ。」
ネトイはよく気がつく奴である。ひょっとしてネトイは自分の心の中を全部見透かしているのだろうかと正樹はおもった。
「ウエンさんは来ないのですか?」
「来ないよ。明日、仕事があるからな。」
「それは残念だけど仕方がないな。ノウミとディーンは学校の方は大丈夫なのか?」
「二人とも、明日は午後から講義だから、大丈夫だよ。」
「ノウミは化学を専攻していると聞いたけど、ディーンは何を専攻しているのですか。」
「彼女は医学だよ。」
「そうか、医学部か。」
「ネトイ、おまえは?」
「おれは勉強が嫌いだから、学校は辞めた。マサキ、後で山の上のディスコに行ってみないか?」
「それはいいな、大賛成だよ。」
「でも、ちょっと値段が高いよ。最高級のディスコだからな。サンミゲール・ビールはアパートの近くのサリサリ・ストアーだと一本5ペソだが、このサムス・ダイナーは25ペソで、山の上のディスコになると100ペソに値段は跳ね上がる。大丈夫か?」
「大丈夫だ。心配するな、お金のことは俺に任せておけ。その丘の上の店ではアメリカ・ドルは使えるのか?」
「ああ、もちろん使えるよ。この国では外貨はどこでも歓迎されるよ。高額のドル紙幣は特に喜ばれる。ペソの分厚い札束よりも数枚の高額ドル紙幣の方が持ち運ぶのに便利だからな。」
こんな時に見栄を張らないで、いったい男はどこで見栄を頑張れというのか。正樹はトイレに駆け込んだ。ズボンを下げて腰の所に隠しておいた非常用の財布を取り出した。その中からドル紙幣を数枚だけ抜き取り、また元の腰の所に財布を戻した。しかし熱い国ではこのお尻の財布はかぶれの原因になる。汗で紙幣が濡れないようにビニールに入れておくのがまた余計にいけない。風呂に入った時に後姿を鏡に映してみると財布のあった所だけがくっきりと四角にかぶれているのがよく分かる。正樹のベルトの中にもチャックを開けると日本円が細長く折りたたんで入れてある。もちろん強盗にあった時の為に見せ金を入れた財布も用意してある。それは旅の本で読んで得た知識だ。しかし後で分かったことだが、強盗の方でもそんなことはもうとっくに熟知していて、あまり隠し金は役には立たないとのことだった。盗られるときは全部盗られてしまうのだそうだ。
ローラー・スケートの星条旗がマンゴー・チキンとフライド・ポテトを持って来た。マンゴー・チキンはこの店のオリジナルだそうだ。鶏肉の間にマンゴーのスライスを挿み、チキンカツにしたものだ。正樹はトンカツにしてもチキンカツにしてもカツという料理は日本のものだとおもっていたが、サムス・ダイナーのメニューにはフレンチの項目に含まれていたから少し驚いた。ネトイと中ジョッキを二杯空けたところでノウミとディーン、そしてお手伝いのリンダも一緒にやって来た。
「ハーイ、マサキ。どうだった?ビール・ハウスにはたくさん可愛い子がいた?あれ、何だかマサキ、鼻の下が長いわよ。」
ノウミが正樹のことをからかった。リンダが怒った顔をしてノウミのことを睨みつけた。
ネトイが答えた。
「いやあ、可愛い子ばかりだったな。ファースト・クラスの子も何人かいたな。きっとアパートの皆も、今夜はいい夢をみることが出来るね。」
「まあ、何の夢なの、いやらしいこと。これだから男はしょうがないわね。」
ノウミがそう切り返した。ディーンはただ笑っていた。さっきの電話で山の上のディスコに行くことはすでに打ち合わせ済みだったようで、ネトイがノウミたちに言った。
「あそこは高いから、ここで何か食べていった方がいいな。正樹のおごりだから遠慮しないで注文したら。おれももうちょっと飲むかな、正樹は?」
さっきのビール・ハウスで三本、ここに来てジョッキを二杯、もう十分であったが正樹は今夜こそディーンと話をする為に言った。
「おれにもビール、注文して。」
軽く食事をとった五人は席を立った。四人は先に外に出て、正樹だけが入り口の横で勘定を済ませた。正樹も外に出てみると、通りの反対側に何やら高級そうなクラブが門を構えていた。正樹は勇気を出してディーンに訊ねてみた。
「あの高級クラブみたいな店は何ですか?」
するとディーンは真っ赤な顔になりうつむいてしまった。代わりにネトイがすぐに答えた。
「あれはサウナだよ。」
この国でサウナと呼ばれる場所は日本のサウナとはちょっと意味合いが違う。当時の日本ではまだどこかの国の国名で呼ばれていたが、いわゆる現在使われているソープ・ランドのことをさすのであった。正樹はネトイのにやけた言葉でそのことにハットと気がついた。ということは正樹はディーンに対して大失敗をしてしまったことになる。やってしまった。この時のことを思い出す度に正樹は恥ずかしくなった。
ネトイがタクシーを一台ひろった。小型のタクシーで運転席の隣にはディーンがリンダを抱っこする格好で座り、後ろにネトイと正樹、そして正樹の隣にノウミが密着するようにして座った。最高の夜だった。酔いも少なからず回ってきており、正樹は天国にいた。
この定員オーバーのタクシーの移動だけでもフィリピンに来て良かったと正樹はおもった。
もうディスコという言葉は死語になってしまったかもしれないが、その頃はディスコ全盛の時代だった。当時としてはこの丘の上のディスコは最高級の店だっただろう。マニラ市を一望出来る高台にあり、正樹たちが到着した時も高級車がズラリと表の駐車場には並んでいた。入り口の所では厳重なボディ・チェックを受ける。銃による余計なトラブルを避けるためだ。軽快なリズムが入り口の所まで聞こえていた。フィリピンの人達はダンスがうまい。日本人とはリズム感がまったく違うし、子供の頃から音楽やダンスに親しんでいるから、曲が始まるとすぐに体が動き出す。座席に案内されるやいなや、ネトイとディーンがステージの中央に駆け上がり踊り始めた。他に三組ほどが踊っていたが二人の軽快な足捌きはすぐに他を圧倒した。特にネトイのダンスは天才的で長い足が絶妙にリズムを捉えていた。やはりネトイも他の兄弟同様に天才なのかもしれない。激しい曲に変わった。今度はノウミとネトイがステージを独占した。ステージ全体を使って所狭しとばかりに踊り出した。二人の絡み合うようなダンスも情熱的で他を完全に寄せ付けなかった。それを見ていたリンダが正樹に手を出して誘った。
「マサキ、踊りましょうよ。」
無理である。正樹は踊ったことが一度もなかったから、真っ赤な顔をして言った。
「ごめん。踊れないんだ。」
「大丈夫、踊りましょう。」
「本当に踊ったことがないんだよ。ごめん。」
がっかりするリンダであった。ネトイは立ち上がっているリンダの手をとって舞台に上がった。リンダともコミカルなダンスを鮮やかに踊って見せた。やはり少しは踊れないとまずいなと正樹はこの時しみじみと感じた。ノウミとディーンもネトイとリンダの隣で踊り始めた。正樹は四人が踊っている間、ただひたすらに飲み続けた。自分が踊れない悔しさもあってか、少し酔ってしまった。ネトイが席に戻って来たので言った。
「ネトイ、ちょっとテラスで外の空気を吸ってくる。少し酔ってしまったようだよ。すぐ戻るから。」
「分かった。大丈夫か?」
正樹は独りでテラスに出た。遠くにマニラの市街地がチラチラ浮かんでいる。きれいな夜景であった。あたたかい風が何とも心地よかった。世の中は美男美女が一緒になるケースは比較的少ない。「えー、何であんな奴にこんな美女がつくんだよ。」といった場合が非常に多い。正樹も同感で、自分もそうなることをひたすら望んでいた。でも駄目だ。今日の自分はサウナの一件といい、失敗ばかりしている。簡単なダンスすら出来ない野暮な男に誰が興味を示すというのか、まったく望みなしだ。そんなことをおもいながら正樹は遠くの街の灯りを眺めていた。だが奇跡はその時起こった。
ディーンがテラスの正樹のところにやって来たのだ。
「マサキ、大丈夫ですか?」
「はい、ええ、大丈夫です。少し飲み過ぎてしまったものですから、風にあたっていました。でも、もう大丈夫です。この通りです。」
「そう、それなら良かったわ。あら、きれい。ここからの眺めは素晴らしいわね。」
「ここに来たのは初めてですか?」
「いえ、前にもボンボン兄さんとお客さまと来たことはあります。でもテラスに出たのは初めてですわ。そうそう、あの時は芸能人がいっぱいでびっくりしましたの、誕生日のパーティをやっていたみたい。こんなテラスがあるなんて知らなかったわ。でも本当にここからの眺めはうっとりするくらいきれいだわ。」
「そうですか。やっぱり、女の人は芸能人に憧れを持つものなのですね。でも僕はディーンさんのことをどの芸能人よりもきれいだとおもいますよ。私が知っている、知っていると言ってもテレビや映画で見ただけですがね、どんなにきれいな女優さんよりももっときれいだとおもいますよ。」
正樹は自分でもびっくりした。かなり酔っているのに違いない。正直な気持ちをズバリと言ってしまった。酔ったはずみで言葉が出てしまった。ディーンはテラスの端の欄干に手をついて遠くを見つめていた。しばらく二人は言葉もなく、ただ夜の景色をぼんやり眺めていた。
「そんなに褒めていただいて有り難う。マサキは将来、何になりたいのですか?あら、ごめんなさいね、小学生にする質問みたいだったわね。」
ディーンがやっと話しかけてきた。正樹はそれだけで嬉しかった。返事をしなくてはならない。さっき、ネトイからディーンが医学部の学生だということを聞いていたことが役に立った。正樹は出来るだけ偉そうに言ってみることにした。
「僕は医者になってアフリカへ行きたいとおもっています。アフリカで医療活動を続けたシュバイツアー博士をとても尊敬しています。だから彼のように医者になってアフリカへ行こうと考えています。」
「あたしもマサキと一緒にアフリカに行こうかな。まだ医学部の予科だけれども、あたしも将来は医者になれるかもしれないから。」
どんなに崇高な理念もディーンのような美人の前では崩れてしまうものだ。似合わない。アフリカ行きは中止しよう。アフリカの人達には申し訳ないが、ディーンにはアフリカ行きは無理だ。絶対に似合わない。
「そうですか。ディーンさんはお医者さんのたまごなのですね。今、どこの大学ですか?」
「イースト大学です。ボンボンのお姉さんが教えている学校です。そうだ、明日、マサキに時間があったら私の学校を案内してあげましょうか。」
もちろんイエスである。時間はその為にあるのだから。
「ええ、是非、お願いします。」
眩しかった。すべてが輝いていた。ディスコ・ハウスの中から軽快なチャチャのリズムが外のテラスの所にまで流れてきていた。ディーンはマサキの手をとり、簡単なチャチャのステップを教え始めた。誰も見ていないテラスで二人だけで踊った。見上げれば満天の星、素晴らしい夜景が眼下には広がっており、心ふるえる巡り逢いだった。すべてが愛しかった。サンパギータの花の香りが揺れるディーンの黒髪からしていた。正樹はこんなに幸せなのが逆に恐かった。
過去、約束
過去
この巡り逢いは単なる偶然なのか、それともどこかでこうなるように定められていたのだろうか。世界中の誰よりも幸せな正樹はこの恋が幻にならないようにと、ただただ願うばかりであった。正樹はたとえこの幸せが一時のはかない夢であったとしても、この張り裂けそうな想いを感じることが出来たということをきっと何年経っても忘れることはないだろうとおもった。
山の上のディスコで踊り疲れてケソン市に戻った正樹はオヘダのアパートにディーン達を送ってから、ネトイとサンチャゴのアパートで再び飲んだ。もうさっきからビールを1ケース位は飲んでいる。二人とも、もう、ぐでん、ぐでんになっていた。ふらふらしながら、それでもまだ飲み続けた。
「ネトイ、ディーンには彼氏がいるのか?」
「マサキ、おまえ、彼女に惚れたのか?」
「ああ、当たり前だろう、彼女のことを好きにならない男なんか、この世の中にはいないだろう。違うか。」
二人とも相当に酔っ払っていた。正樹もネトイも何でもおもいついたことがすぐに言葉になった。
「マサキ、いいか、彼女は男が嫌いなんだよ。父親が嫌いだったからな。でも、奴は死んじまったよ。もうこの世にはいない。今頃はきっと地獄で苦しんでいるよ。」
「それじゃあ、ディーンは男は嫌いで、レズだとでも言うのかよ?」
「バカ、バカ、違うよ。俺の言いたいことはな、彼女はまったく男というものを信用していないということなんだよ。」
「何だか、よく分からんな。おまえの言っていることが俺には理解出来ないよ。ちゃんと、俺にも分かるように説明してくれないか。」
「分かった。ちょっと待ってくれ、もう一杯飲んでから話す。」
ネトイは一気に冷えていないサンミゲールを飲み干した。それからマルボーロに火をつけてから話し出した。
「ディーンの親父さんはとてもハンサムだったよ。軍人だった。だから、年中、いろいろな所に行ってたな。駐屯していた場所にはそれぞれ現地妻がいてな、何人も奥さんがいたようだった。子供もたくさんいたようだが、その数は確かでない。俺には分からないことだよ。地方ごとに一人いたとしても、30人は下らないな。ここの兵隊は多かれ少なかれみんなそうさ。そういう奴が多いんだ。独身でもさ、奥さんと子供はあちらこちらにたくさんいるんだ。」
「カトリックは離婚は出来ないと聞いたが、ディーンの親父さんはその奥さんたちとは正式には結婚していないというわけだな。」
「そうだ。ディーンの母親の場合も同じだった。ウエンさんが生まれてから、奴はしばらくビコールには顔を見せなかった。だから、ノウミの父親は別だよ。ところが奴はまたひょっこり現れてな、酔った勢いでもって、ノウミの父親を刺し殺しやがったんだ。まったく勝手な奴だよ。嫉妬しやがった。そしてディーンが生まれると、またどこかへ消えちまった。」
「お前の今の話だと、ウエンさんとディーンの父親とノウミの父親は違うということだな。そしてノウミの親父さんを殺したのはディーン達の親父ということか?」
「ああ、そうだ。結局、奴はミンダナオ島でゲリラに殺されちまったと、誰かが言ってたよ。詳しいことはよく知らない。その後、気の毒なことにディーンのおふくろさんも病気になって、すぐに死んじまったよ。残されたのは3人の幼い子供だけだった。」
「何だか、かわいそうな話だな。」
「だから長女のウエンさんが小さいノウミとディーンを育てたんだよ。」
「それで分かった。ウエンさんの優しさがね。随分と苦労したんだね。きっと。」
「だから、ディーンはハンサムな男は嫌いなんだよ。それにフィリピーノも大嫌いだ。まったく信用していない。」
「じゃあ、日本人でおまけにハンサムではない俺は望みがあるってことか?」
「そう言われてみると、確かにそうだな。望みはあるかもしれないな。」
「でも、今までに、ボンボンは沢山、外国人の友達を連れて来ているだろう。ディーンも会っているはずだが。」
「ああ、連れて来たさ。だけどみんなハンサムな奴ばっかりだったよ。」
「それじゃあ、この俺が一番最初のぶさいくな外国人ってことかよ。」
「まあ、そうだな。そういうことになるかな。でも、マサキ、おまえはそんなにはひどくはないよ。だから心配するなよ。」
「随分と失敬な答えだな。でもいいや、俺は兎に角、彼女に惚れてしまったのだからな。何とでも言え。」
ネトイがマサキに温いビールを差し出した。正樹は一気にそれを飲み干した。ネトイも同じ様にしてまた一本空けてから今度はゆっくりと言った。
「ディーンはね、お袋さんが病気で死ぬ時に何もしてやれなかったからな、だから医者になりたいのさ。」
正樹は何でもズバズバ言うノウミがウエンさんやディーンと容姿も性格も違う理由がネトイの話を聞いてやっと分かった。父親が違ったからだ。しかし、今、酔ったネトイから聞いた話はすべて本当なのだろうか。正樹は酔っ払いが言ったことを完全には信じてはいなかった。平和の中にとっぷり浸かっている日本人には理解しにくい事だが、フィリピンでは今も尚、いたる所でゲリラと政府軍の間で戦闘が続いている。ボンボンの親戚にあたる青年だが、軍隊に入って飯を食っている職業軍人から戦闘の話を聞いたことがある。彼の話は想像を絶するものであった。前線基地での彼らの会話だが、今日は何人殺したとか、またその殺し方を自慢しあっているのだそうだ。その殺し方が極めて残酷だったので、正樹は話を聞いていて気分が悪くなり吐いてしまった。本当に戦争は人間を狂わせてしまう。そんなことは誰もが知っているはずなのに戦火は絶えない。戦うことは人間の本能なのだろうか。世界中の子供たちが熱中して遊ぶ人気ゲームもほとんどが戦い争うものばかりではないか。まったく残念としか言い様がない。フィリピンでは争いは続いていて、新人民軍NPAは共産党、新人民軍を中心としており、山中に解放区をつくって、特に司令部からの指示は受けないで行動する。地域ごとにそれぞれが動くものだから、政府軍は掴みどころがなく非常に手を焼いている。独裁政治に反対する統一戦線として、ファシズム的勢力を敵として、国民すべてをその統一戦線に巻き込もうとしている。政府のアメリカよりの構造が崩れない限り、どんなに経済政策に成功し、国民の支持を得たフィリピンの政権でもNPAとの真の和解はありえないだろう。今も都市部、山間部を問わずに政府軍とゲリラの間で戦闘は続いている。時々、新聞やテレビで報道されるその戦闘のニュース以外にも一般市民の目の届かない所で戦いは日々繰り返されているのだ。
約束
しまった。寝過ごしてしまった。ディーンが学校を案内してくれることになっていたのに、何ってこった。昨夜、ネトイと飲み過ぎたのがいけなかった。まだ完全には視力が戻っていない目を擦りながら時計を見ると、すでに午後2時を回っていた。ディーンとの約束の時間は午前9時だった。とっくの昔だ。大失敗をしてしまった。まだ隣ではネトイが「く」の字になってぶっ倒れている。
「男なんて信用出来ない。」
きっとディーンは正樹のことを約束を破る男だとおもってしまったのに違いないのだ。またしてもしくじってしまった。しばらくの間、正樹はがっくりして立ち尽くしていたが、次の瞬間、素早く着替えをしてオヘダのアパートへ行ってみたが、やはり誰もいなかった。お手伝いのリンダも買い物に行っている時間で扉には鍵がかかっていた。正樹は迷わずに大通りに出てタクシーを拾った。乗り込みながら運転手に向かって言った。
「イースト大学にやってくれ。」
恋の魔力とは凄いものである。見ず知らずの国で、目的地がどこにあるのかも分からずにタクシーに飛び乗ってしまうのであるから。まったく無鉄砲としか言い様がない。ドライバーは正樹が日本人であることに気づいたらしく、運賃メーターを倒していない。高い料金を請求するつもりらしかった。それでなくても寝坊してしまって、気持ちが高揚している正樹は荒れていた。声を一段と荒げて不埒なタクシー・ドライバーに怒鳴った。
「へい、運転手。メーターを倒していないようだが、いったい、いくらとるつもりなんだ。」
あまりにも正樹の声が威圧的だったので、少しドライバーの方が怯んでしまった。
「300ペソでいいよ。」
「高すぎる。もっと安くしろよ。」
普段ならそんなことは言えない正樹であったが、恋の魔力は正樹のことを強くしていた。
「だんな、200ペソはもらわないと、こちとら商売にはなりませんよ。」
「高い。50ペソやるから、そこで車を止めろ。もう、降りる。」
「分かりましたよ。いいですよ、100ペソで結構でございます。」
今は寝坊をしてディーンとの約束を破ってしまった緊急事態である。正樹は100ペソぐらいならこの際しょうがないかなとおもった。また降りて、他のタクシーを拾うのも面倒であったから、100ペソで承知することにした。
「よし、分かった。100ペソだな、もし渋滞してもそれ以上は払わないからな、それでいいな。」
「100ペソでいいですよ。まったく、だんなにはかなわないや。」
今度からタクシーに乗る時はまずドライバーと値段を交渉してから乗った方がこんな気まずい言い争いはしなくて済むと正樹は悟った。
焦る正樹を乗せたタクシーはマニラ市の下町に入った。繁華街の角を何度も曲がり、雑踏の中でやっと車は停車した。車の中からでもディーンの学校はすぐに分かった。建物の横にペンキで大きくイースト大学と書かれてあったからだ。正樹は100ペソを払い、車から降りた。でもいったいどうやってディーンを捜し出したらよいのだろうか。学校の入り口には警備のガード・マンが二人も立っており、身分証明書を一人一人チェックしている。仮に理由を話して中に入れてもらったとしても、どうやって彼女を見つけ出したらいいのだ。それに今の正樹の英語力では説明するのに不安すぎる。建物の中に入るよりもこの入り口で彼女が出てくるのを待つ以外には手はなさそうだと正樹はおもった。もし他に出入り口があったとしたら、その時はアウトである。ディーンがこの出口から現れることだけをただ祈るしかなかった。時々、通りに目をやると近くに幾つも大学があるらしく、いろいろな制服を着た学生たちが行き来していた。歩道には学生たちの懐を当てにした露店が出ており、バナナを揚げたものや、春巻きの大きな揚げ物、焼き鳥風の豚のバーベキュー、果物を食べやすく角切りにしてビニール袋に入れたもの、実にさまざまな露店が歩道いっぱいに店をひろげていた。そのなかでも魚の団子を油で揚げて串刺しにしたフィシュ・ボールと呼ばれるものはおいしそうだった。インスタント・コーヒーの大きな空き瓶に唐辛子やスパイスを入れて、さらに酢や砂糖を混ぜて作った特製ソースの中にそのフィシュ・ボールを浸して食べるのだが、学生たちはたらたらとその辛いソースを垂らしながら、本当にうまそうにフィシュ・ボールを食べていた。正樹は見ているだけで辛くなってきて汗が出てしまった。この学生街はまるで日本の縁日のようでもあった。ただ縁日と違うところはここが騒音と排気ガスに包まれているということだ。
暗くなってきてしまった。それでも正樹は辛抱強く出口でディーンが出てくるのを待ち続けた。しかし彼女はとうとう出てこなかった。人相の良くないチンピラが正樹に声をかけてきた。正樹は聞こえない振りをしてタクシーに飛び乗った。逃げるようにしてタクシーに飛び乗った正樹であったが、行き先が言えずにいた。アパートの住所を覚えていなかったのだ。不思議そうにしげしげと見るドライバーに向かって、正樹はしばらく考えてから言った。
「サムス・ダイナーにやってくれ。」
ドライバーはまだむずかしい顔をしている。正樹は説明した。
「赤いキャデラックが突き出た店だよ。」
やっとドライバーは頷いてハンドルに向かった。正樹は今回は値段の交渉から入った。来た時の半値で折り合いがついた。ところがひどい渋滞にはまってしまって、かなりの時間がかかってしまった。見覚えのある赤いキャデラックの前で車はやっと停まった。交渉した値段では明らかにドライバーの損であることが正樹にも分かっていたので、チップを上乗せして支払った。ドライバーは渋い顔をしていたがメーターを倒さなかった自分にも非はあるわけで、それ以上は正樹に要求はしてこなかった。結構、気の良いドライバーだった。正樹は降りる際に振り返って言った。
「これ、少ないけれどおまえさんの子供たちにあげるよ。」
そう言ってから正樹は50ペソ紙幣をドライバーに手渡した。
「センキュー、サー。ガッド、ブレス。ユー。」
嬉しそうにドライバーはその紙幣を受けとって走り去って行った。
正樹は店に入るとすぐにこの前ネトイがかけていた電話の所に急いだ。もし日本でもらったボンボンの名刺の裏側にサンチャゴのアパートの電話番号が書かれていなければ、正樹は大都会マニラで完全に迷子になっていたところだった。明日、日本に帰ることになっているのだが、もちろんそれも絶望であっただろう。ボンボンがさっと走り書きしたアパートの電話番号は正樹を絶望の淵から救った。ネトイがすぐ電話に出てくれた。理由を説明してサムス・ダイナーに迎えに来てくれるように頼んだ。みんな、正樹のことを心配していたことがネトイの口調から読み取ることが出来た。寝坊したつけは実に大きな失態になってしまった。旅行の最後の日をディーンと楽しく過ごすはずだったのが台無しになってしまった。それどころか、みんなに、迷惑までかけてしまった。どうしてディーンのことになると失敗ばかりなんだ。もう駄目だな。ネトイが迎えに来てくれるまでの間、正樹は自棄酒を何杯も呷った。
また酔ってしまった。まもなくすると、店のドアの向こうにかすかにディーンの姿が見えてきたのである。ネトイの奴、またやってくれたな。情況は急転した。笑顔のディーンはすでにネトイからすべての説明を受けているのに違いなかった。正樹は彼女を迎える為に立ち上がった。近づいて来るディーンに向かって少しうつむき加減で言った。
「ごめん、約束を破って。」
「よく眠っていたから、起こさなかったの。」
「学校の出口でずっと待っていたんだ。でもすれ違いだったみたいだね。」
もうそんなことはどうでもよかった。笑顔のディーンを席に座らせて、正樹は大きく手を挙げて、ひとつ覚えのマンゴー・チキンをウエイトレスに注文した。
「ディーン、飲み物は何にする?」
「あたしも少し今夜は飲んじゃおうかな。だって、明日、正樹は帰ってしまうんでしょう。そうね、何かカクテルでも頼もうかな。ええと、じゃあ、これにします。サムス・ダイナー・スペシャル。」
理屈では語りきれない至福の時であった。食事もしながら、二人は酒を飲んだ。正樹はありったけの日本の話をディーンにした。ディーンはただ黙って楽しそうに正樹の話を聞いていた。正樹はマニラ旅行の最後の夜にこんなに楽しい時がもてたことを八百万の神に感謝したかった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。二人は本当に気持ち良く酔っていた。
「ウエンさんはとても優しい人だね。」
「ええ、とっても。いつもあたしたちのことを考えていてくれるわ。少ない給料のほとんどを私たちの学費にあててくれているのよ。」
「すばらしいことだね。自分のことは後回しにしている。なかなか出来ないことだよ。ウエンさんは絶対に幸せにならなくてはだめだよ。」
ネトイが言っていた。ディーンはお酒を滅多に飲まないそうだ。確かにその言葉の通りにカクテルを一杯飲んだだけで、もう真っ赤な顔になってしまっていた。
「ねえ、マサキ。もう一杯だけ、飲んでいいかしら。明日、あなたは日本に行ってしまうわ。私はまだこのフィリピンに残らなくてはならないのですものね。あなたと一緒に日本に行けたら、どんなに幸せなのでしょう。それを考えると、・・・・・・・もう一杯だけ飲ませて下さい。」
ディーンのような絶世の美人にそんなことを言われて理性を保てと言われる方が無理である。しかし正樹は自分を取り戻していた。
「それじゃあ、もう一杯だけね。僕も今夜は少し飲み過ぎてしまったから、もう一杯だけ飲んだら帰ることにしましょう。」
「マサキ、この前、あなたが言っていたことをずっと、あたし、考えていたのよ。もし将来ね、国連で仕事が出来てよ、アフリカにマサキと一緒に行けるとしたら、きっとウエン姉さんの恩返しが出来るとおもうのよ。」
「ディーン、別にアフリカでなくてもいいじゃないか。このフィリピンだっていいじゃないか。きっと君のことを必要としている患者さんはたくさんいるとおもうよ。」
「ダメなの。私はここが嫌いなの。正樹と一緒にアフリカに行きたいのよ。」
こんな激しい告白に耐えられる男はこの世にはいないだろう。正樹が何も言えずにいると、ディーンが続けた。
「マサキは明日、日本に帰ってしまうわ。でもよ、もし、イースト大学で勉強するつもりなら、また会えるわよね。あたし、ボンボンの姉さんに頼んでみるから。正樹が合格出来るようにお願いしてみるから。また戻って来てほしいの。」
即答は無理だ。日本に戻れば正樹にもいろいろな問題がある。気持ち的にはもう答えは出ている。しかしいい加減なことは今は言えなかった。
「日本から手紙を書きます。」
「手紙じゃ、ダメ。また必ず帰って来て。約束してちょうだい。」
正樹はここで人生が終わったとしても悔いはないとおもった。嬉しい。自分のことを必要としている人が今まさに自分の目の前にいる。何と素晴らしいことではないか。
「ええ、必ず、戻ります。」
アパートまで二人はゆっくりと歩いた。その道のりは長ければ長いほど良かった。二人に残された大切な時間だったからだ。正樹の腕にディーンの腕が絡みついていた。正樹はこのまま時が止まってしまえば良いのにとおもった。もし、天が運命を司っているのであれば、どうぞ二人の明日を定めて下さいと願うばかりであった。夜空には月が輝き、揺れる二人の帰り道を照らしていた。熱く激しい正樹の一週間はこうして終わった。しかしディーンとの出会いはあの雪が降りしきる北海道の中山峠であった。ボンボンが見せてくれた小さな一枚の写真が正樹をこんなに遠くにまで導いたのであった。
翌日、ディーンは学校を休んで正樹のことを空港まで見送った。正樹には自分のこれからの道がまったく見えなくなっていた。正樹が空港ターミナル・ビルに入る瞬間、ディーンが大きな声で叫んだ。正樹は振り返ってディーンのことを見た。
「プロミス。」
正樹は大きく頷いてそれに答えた。そして向きを変えて空港の中に入って行った。
正樹を乗せた飛行機は珍しく定刻で離陸した。何故なら空港で待ち合わせをしていたボンボンがとうとうやって来なかったからだ。役所に寄ってから直接に空港に行くからと言ってアパートを先に出たのだが、きっと交通渋滞にでも巻き込まれてしまったのだろう。だから彼のおかげで帰りの飛行機はフィリピーノ・タイムにはならずに定刻で飛び立った。そして羽田空港にも時間通りに到着した。
素晴らしい旅行だった。正樹はディーンとの約束をしっかりと心の奥に刻み込んでいた。
焦り
焦り
日本に正樹より少し遅れて戻ったボンボンであったが日本語の研修期間や大学時代も含めると留学生としての日本国在留資格である学生ビザはすでに延ばせるだけ延ばしてきた。
そろそろ在留資格も限界に近づいていた。入国管理局はアジアや発展途上国から来日している者に対してはとても厳しい。ボンボンも何か新しい滞在の理由を見つけなければならなかった。ボンボンは焦っていた。まだ、これはというものをつかんでいなかったから、出来るだけ長く日本にいたかったのだ。学生ビザが切れれば在留資格の変更が必要になる。正樹を案内してフィリピンに戻った時に故郷のビコールの役所からは念のために出生証明書をもらってきた。洗礼証明書も教会から発行してもらってきていた。大学院への進学も考えていたし、大使館の仕事に就くことも魅力があった。日本の企業に就職することも選択肢のひとつであった。いずれの場合も彼を受け入れてくれることを証明する書類が山のように必要になる。最高の場合は日本人との結婚も考えられるが、まだ片思いの段階ではそれは無理な話であった。いずれにしても滞在期間切れが近づきつつあり、ボンボンは非常に焦っていた。
ボンボンは何か良い話はないかと渋谷のフィリピン大使館に顔を出してみた。当時はまだ大使館は渋谷にあった。廊下にある掲示板で商工会議所主催の新任大使歓迎パーティーがあることを知った。そこには通訳募集と書かれてあった。ボンボンは日本に来た時から大使館の連中とは嫌でも仲良くするようにしていたから、知り合いは多かった。通訳の仕事は一つ返事で決まった。商工会議所の集まりにはフィリピンに進出している日本企業の中堅どころが顔を出すということを考えると出来るだけボンボンも出席するようにしていた。日本人の知り合いは多ければ多いほどボンボンにとっては都合が良かったから、事あるごとに通訳を進んで申し出ていた。ボンボンの日本語は同期の留学生の中でも群を抜いていた。彼の語学の才能は相当なもので、電話で話をしている分には誰も彼のことを外国人とはおもわないだろう。日本に来てまだ間もない頃、日本語研修センターで担当の先生に日本語をマスターする近道は早く恋人をつくることだと言われた。しかしアジア系の留学生たちにはその言葉はあてはまらなかった。日本では欧米人のようには恋愛はうまくはいかないからだ。しかし、ボンボンはボランティアで東京の外国語の大学でフィリピン語研究を手伝ったことがあった。その時に知り合った早苗という学生と親しくなった。ボンボンが早苗にタガログ語を教えて、早苗がボンボンに日本語を教えた。早苗は長野県戸隠村の農家の出身で言葉にはそれほどひどいなまりはなかった。ボンボンは早苗に対して密かに想いを寄せ続けていたが、気がつけば何も進展しないままに長い歳月だけが経ってしまっていた。早苗は学校が休みの間は実家が副業でやっている民宿を手伝っていた。寒いこの時期は農閑期であったが、戸隠はスキー客でごった返していた。新任大使歓迎パーティーに早苗も誘おうとして何度も電話をしたが、あいにく早苗は実家に帰っていて留守のようだった。わざわざ東京に呼び戻すこともなかったのでボンボンは一人でパーティーに出かけることにした。
浜松町の茶色いのっぽビル、貿易センター・ビルは当時は日本で二番目か三番目の高さを誇っていたとおもう。まだあまり高層ビルがなかった時代だった。東京湾を一望する大きな部屋がフィリピン共和国の新任日本大使歓迎パーティー会場だった。商工会議所のメンバーには年会費さえ払えば誰でも会員にはなれた。フィリピンで商取引をする日本の企業はさまざまな手続きの優遇措置や迅速化を求めてメンバーに加わった。そしてその代わりに高いパーティー券を事あるごとに買わされるのである。
パーティーは新任大使の紹介、挨拶とお決まりの順番で進んでいった。何人かのゲストの挨拶も済んでバイキング形式の夕食会の時間になった。テーブルは料理を載せたもの以外にはまったくなく、椅子も壁際に少し並べてあるだけの質素な会場であった。立ったまま、皆、それぞれ大皿を手に持ちながら食べたり、時折、運ばれてくる飲み物に手を出したりしていた。自然と顔見知りが集まって、場内には幾つかの話の輪が出来ていた。その中にあって、ひときわ大きな声で新任の大使に話しかけている大男がいた。日本語で一方的に話しかけている。次第に大使は困惑した表情になってきていた。大使館のビザ担当の書記官ペドロがボンボンに合図を送った。自分の顔を大使の方向に向けながら、ボンボンに大使の所にすぐ行くように指示を出した。ボンボンは大使の後ろ側に回って通訳を始めた。まず英語をしゃべれない日本人に対しては大使も大使館の連中も興味を示さないと考えてよい。案の定、大使はこの大声で日本語しか話せない大男とは軽く挨拶をしただけで後はボンボンに任せて他のグループの中に逃げ込んでしまった。
大使が移動した後、渡辺社長とボンボンは丁寧に名刺交換をした。渡辺社長は京都からわざわざ来ていた。社長はボンボンの名刺を見ながら言った。
「ほう、東京の教育の大学生さんかね。他の連中と違って、道理で日本語がうまいわけだ。もう長いのかね、日本は?」
「もうすぐ、卒業になります。」
渡辺社長は何杯もブランデーのおかわりをした。下腹が極端に飛び出ていて身体全体で息をしている。
「ボンボンさんは何を学校で専攻なさったのかね?」
「農業機械です。」
「教育の大学で農業機械かね。わしにはよく分からんが、また偉く難しい事を勉強しているのだね。」
渡辺社長はすでに今夜のパーティー券3万円分を取り戻すことに興味が移っているらしくスモーク・サーモンとチーズを同時に口に運んだ。最上級のブランデーもまるで水を飲むようにして空けていた。突然、社長はボンボンに妙なことを言い始めた。
「ボンボンさん、あなたは道を歩く時はどこを見て歩きますか。銭が落ちていないかと下ばっかりを見てはいませんか。いいですか、たまには上を見てお歩きなさい。電信柱にはたくさんお金が巻きついていることが分かりますよ。」
「すみません、おっしゃる意味がよく分かりません。もう少し詳しく説明してくれませんか。電信柱にお金が巻きついているのですか?」
「いいかね、お若いの、電信柱の上のほうをよく見ると電線とか電話の配線盤とか、いろいろな部品が付いているのが分かりますよ。そしてそれらを固定する為に幾つもの留め金が巻きついている。あれが金になるのだよ。電線とか配電盤は大手さんが独占しているから無理だが、留め金の方はうちのような小さな会社でも注文は取れる。」
社長はいったん話を止めて、海老のてんぷらとキャビアをクラッカーにのせて大きな口に放り込んだ。良く噛まずにのみこんでから、また話を始めた。ボンボンはもう他の客のところに移動したかったのだが、社長はそれを引き止めるように話を続けた。
「フィリピンには電信柱があるのかね?」
「はい、ありますよ。日本ほど多くはありませんが、あります。」
「田舎の方はどうかね?地方の方はどうです?」
「電気のある場所は限られていますから、郊外に行くと、あまり電信柱はありませんね。」
「そう、それじゃあ、これからどんどん増えるということですね。」
「そうだとおもいますが。」
ボンボンの返事を聞くと渡辺社長は二三度頷いて独りで満足している様子だった。それから苦しそうに壁際の椅子に腰を下ろして大きく息をついた。明らかに社長は食べ過ぎなのである。ボンボンが離れていても、平気で大声でもって話しかけている。
「ボンボンさん、わしはフィリピン以外の国はすべて廻ったよ。アジアのほとんどの国を見て廻った。それでな、来年、タイとベトナムでさっき話した電信柱の留め金を売ることが出来そうなんだよ。だからな、そんなわけでフィリピンにも非常に興味があるのだがね、なんせ、わしは言葉が出来んから、誰か信頼出来る現地の人間が必要なのじゃよ。フィリピン人は信用出来るかね?」
社長はいったい何を考えているのだ。ボンボンは困惑した。自分もフィリピン人である。そのフィリピンの人間に向かって、フィリピン人は信用が出来るのかと聞いてきている。無神経にも程があるとボンボンはおもった。ちょうどその時であった、書記官のペドロから合図があった。大使が相手をしている大手商社の部長連中のところへ行くようにと指示があった。ボンボンは新しいブランデーを手にとって、それを渡辺社長に渡しながら言った。
「社長、ちょっと失礼します。また後でまいりますので、どうぞごゆっくりと、おくつろぎ下さい。」
中小企業の社長はなかなかこういったパーティーでは居場所がない。どうしても大手企業が中心に会は進行してしまうようだ。大使も大使館の連中も明らかに話し相手を選んでいるのだ。話し相手のいない渡辺社長はただ一人でもくもくと飲み食いを続けた。30分も経たないうちに社長は完全に出来上がってしまった。誰が見てもそれは明らかだった。よく通る声で社長が怒鳴った。少し離れた所にいるボンボンを呼んでいた。
「ボンボン、ちょっとでいいから来てくれないか。」
渡辺社長は汗を拭き取りながら、一段と焦れた大きな声で再び叫んだ。
「ボンボン、すまんが来てくれないか。」
ペドロから指図されてボンボンは渡辺社長のそばにやって来た。照れくさそうな含み笑いをしながら社長が言った。
「いやあ、今日はありがとう。少し酔ってしまったようだよ。今夜の最終で京都に戻ることになっているんだ。ボンボンさん、京都に来るようなことがあったら、ぜひ、連絡してくださいよ。一緒に食事でもしましょうよ。ゆっくりと話がしたい。ゆっくりとね。いいですか、ボンボンさん、必ず電話して下さいよ。待っていますからね。ええと、名刺はさっき渡しましたよね。」
「すみませんでした。今日はゆっくりとお話が聞けなくて、申し訳ありませんでした。」
「それでは田舎ものはこれで退散するとしましょうか。電話、待っていますよ。」
「今日は有り難うございました。どうぞ、お気をつけて。」
渡辺社長は大使にも大使館の連中にも何の挨拶もせずに、ドアの向こうに消えて行ってしまった。
ボンボンも客をすべて送り出した後、片付けを手伝ってから、留学生会館に戻った。玄関のポストに二枚の絵葉書が届いていた。一枚目は広い農場でどこまでも続く並木道、それは学校の構内のようにも見えた。北海道にいる正樹からきたものだった。先日のマニラ旅行のお礼と新しい北海道での生活の様子が書かれてあった。もう一枚の絵葉書は猛々しくそそり立った戸隠の山の風景で何とも神秘的な雰囲気が満ち溢れていた。実家に帰っている早苗からのものだった。彼女の実家が副業でしている民宿は今スキー客でごった返していると書かれてあった。忙しくてしばらく東京には戻れないがボンボンも一度は遊びに来てはどうかと書かれてあった。正直なところ、ボンボンは早苗の両親に会うことが恐ろしかった。しかし早苗の生まれて育った故郷を一度は見てみたかったし、前々から早苗には自分の気持ちをしっかりと伝えておきたかった。
戸隠
戸隠
その姿がノコギリの刃に似た戸隠山はまるで屏風の絵のようでもある。薄っすらと霧がかかると恐ろしささえ感じてしまう神秘の山だ。峻嶮な戸隠山の山容は昔から地元の農民に仰がれて、この地域の豊かな水を司る神々の住む家としてあがめられてきた。子々孫々にわたって神聖な山として信仰され続けてきた。戸隠神社などにはその信仰や修行験者たちの息吹が今も感じられる。
戸隠にある幾つかの村々では広い家屋を持つ家々で、その余った部屋を利用して民宿事業を展開していた。冬はスキー客に、夏はその涼しさを受験生たちに学生村として部屋を開放していた。関東や関西を中心に大々的に宣伝をした結果、この村の民宿事業の企画は大ヒットしていた。どこで勉強しても同じだとおもうのだが、常に気分転換を重視する受験生たちの圧倒的な支持を得ていた。学生村がスタートした年に早苗の家にも関西方面からたくさんの受験生がやって来た。京都から来た茂木(もてぎ)という高校生がその中にいた。高校2年の夏と受験の前の夏を早苗の家で過ごした。そして京都の大学を一校だけ、それも印度哲学とかいう難しい学科を受けて失敗した。その翌年もまたその翌年もそしてそのまた翌年も早苗の家で夏を過ごした。結局、三年間浪人をして印度哲学科にやっと合格した。京都の大学に入ってからも学校が休みになると、いつも戸隠の早苗の家にいた。茂木は次から次へとやって来る受験生たちの邪魔ばかりをしていた。大学院に入ってからは京都にいるよりも戸隠にいることの方が多かった。茂木は学生村の学生たちにとても人気があり、彼を慕って京都の下宿を訪ねる者も多かった。手紙は週に何通も返事を書いているらしかった。葉書きに小さな文字で丁寧に書く、それもぎっしり書くのが茂木流の書き方だ。早苗の父にとって茂木は息子同然の存在となっていた。飲んで騒ぐでもなく、バス停近くのそば屋のカウンターでただ黙って二人並んで酒を飲んでいる様は誰が見ても親子としか映らなかった。茂木が早苗に好意を寄せていることは早苗の父にはよく分かっていた。早苗が東京の外国語の大学を受験する時にも茂木は学校を半年間休んで早苗につきっきりで勉強を教えた。その頃には茂木はすでに早苗の家族の一員のようなものになっていた。哲学を勉強している人間はどうも分かりにくいところがある。ハッキリしないところが美徳なのか、あまり結論を急がない。すべてに大らかである。数学者と違って物事を型や公式に無理にはめ込まないらしい。そして茂木も早苗とは中途半端な関係を続けている。茂木の父親は外交官で日本にいる時が少ないらしかった。しかし学生でありながら郵便局には相当な貯えがあるらしく経済的には何の問題もなさそうであった。まるで俗世界とは縁遠い所で生きているようだった。居酒屋の隅で独り黙って飲む茂木の後姿はなかなか情緒的で本当に絵になった。彼は不思議な魅力で満ち溢れていた。ところが早苗が茂木のことよりもフィリピン人のボンボンとか言う留学生のことばかりを楽しそうに話をするのが早苗の父親にはおもしろくなかった。
ボンボンを乗せたバスは長野市内を抜けて山道をくねくねと登りながら宝光社というバス停に着いた。そのバスとすれ違うように早苗を乗せたバスが長野駅に向かって宝光社を出発した。早苗は民宿の泊り客を案内して善光寺にお参りに出かけたのだった。ボンボンが早苗に連絡もしないでやって来たのは彼女のことを驚ろかそうとしたからだった。正直な気持ちを早苗の両親の前で打ち明けようとしてやって来たのであった。
バス停に降り立ったボンボンは早苗が送ってくれた絵葉書をポケットから取り出して、その案内スケッチを見直した。道に迷うこともなく早苗の家はすぐに分かった。ボンボンは大きく息を吸い込んでから玄関を開けた。そして出せる限りの勇気を振り絞って声をかけた。
「ごめんください。」
返事はなかった。もう一度大きな声でボンボンは繰り返した。
「ごめんください。誰かいませんか?」
すると不運にも奥から出て来たのは早苗の父親だった。ほんの少し、ボンボンのことを見た後で、早苗の父親は姿勢を正して言った。
「あなたはボンボンさんですね。早苗がいつも話をしてくれるフィリピンからの留学生のボンボンさんではありませんか。」
「はい、そうです。あー、はじめまして、私はボンボンと申します。」
「早苗からあなたのことはよく聞いておりますよ。」
「あのー、早苗さんは?」
「申し訳ないが、早苗は今、あいにく留守にしておる。」
しばらく二人の間には沈黙が続いた。
「ボンボンさん、突然で申し訳ないのだが、わしはあなたに頼みがあります。」
嫌な感じだ。ボンボンは不吉な予感がした。
「すまんが、ボンボンさん、早苗とはもう会わんでくれないだろうか。お願いする。この通りだ。」
あまりにも突然のことで、ボンボンは何も返事が出来ずにその場に立ち尽くしていた。すべてが真っ白になってしまっていた。何をどう答えてよいのだろうか、もちろん答えなんか、そんなものはありはしなかった。ボンボンは早苗の父に頭をかろうじて下げるのが精一杯だった。その後、何も答えずに玄関から外に出た。道の横には水路があり、山の湧き水が静かにその中を流れていた。ボンボンはその水と一緒に足早に坂道を下って行った。無我夢中で県道に出た。さっきは気づかなかったが、バス停の所に店があった。「そば」と書かれた看板がボンボンの目に飛び込んできた。とにかくどこかに座りたかった。心を静かに落ち着かせる場所がほしかった。それはどこでもよかった。崩れ行くすべてのものを何とか支えなければならなかった。ボンボンは迷わずにそば屋の小さなのれんをくぐった。
カウンター席に座り、飲みたくもないビールを注文した。その後、じっと前を見つめていたが、何も見えはしなかった。どのくらい時間が経ったのだろうか、店に入ってからだいぶ経ったころだった。横からボンボンに話しかける声がしたのである。
「あなたはボンボンさんですね。」
自分の名前を呼ばれて、ボンボンはびっくりした。声のする横を見てみるとカウンター席に熱燗を飲んでいる青年がいた。自分よりも年上のその若者は遠慮なく話を続けた。
「早苗ちゃんからあなたのことはよく聞いていますよ。私、茂木と申します。早苗ちゃんに会いに来られたのですね。彼女は留守ですよ。今、善光寺さんに行っているとおもいますよ。民宿の連中の案内をして長野市内にいるはずです。よかったらどうです。彼女が戻って来るまで私とここで飲んでいませんか。」
まだ返事が出来ないボンボンであった。茂木はボンボンが日本語の達人であることを知っていたが訊ねてみた。
「日本語は分かりますよね。」
「はい、ええ、分かります。ごめんなさい。何だか呂律が回らなくなってしまいました。ちょっと気が動転していたものですから。」
「気が動転ね。なるほど早苗ちゃんの言う通りだ。難しい言葉をボンボンさんはよく知っていますね。彼女に言わせるとあなたは語学の天才だそうです。しかもバイリンガルどころではない、幾つも言語を操る魔法使いだと言っていましたよ。外語大の学生らしい表現ですよね。まあ、ボンボンさん、一杯飲んでください。」
茂木は「鬼殺し」と呼ばれる地酒をボンボンに差し出した。
「茂木さんは学生さんですか?」
「印度哲学を勉強しています。」
「印度哲学ですか。私にはどんな学問なのか分かりませんが、何やら難しそうな学問のようですね。」
「ボンボンとお呼びしてよろしいですか?」
「ええ、もちろん結構です。」
「単刀直入に言いますけれど、ズバリ、早苗ちゃんはボンボンのことが好きですよ。何故、私がそんなことを知っているのかと言えば、私も早苗ちゃんのことが好きだからですよ。つまり、ボンボンと私は恋敵ということになるわけですね。」
ボンボンは何も答えずに「鬼殺し」を茂木の杯に注いで、茂木の次の言葉を待った。
「早苗ちゃんは、この私に、あんたのことばかり、嬉しそうに話すのですよ。分かりますか。だから、この日本で早苗ちゃんの次にボンボンのことをよく知っている人間は、この私かもしれないですね。」
ボンボンは茂木の話を聞いているうちに次第に自分に元気が戻ってきていることを感じていた。
「ボンボン、おまえさんがさっきこの店に入って来た時の顔は真っ青だったよ。きっと、早苗ちゃんの親父さんに何か言われたのだろう。別に私は親父さんが何をボンボンに言ったのかを詮索する気は毛頭ないがね、私はね、あんたの気持ちも親父さんの気持ちもよく分かるんだよ。まあ、そんなことはどうでもいいや。今日は飲みませんか。さあ、もう一杯どうです。」
茂木はボンボンのコップにまだ残っている酒を無理やり空けさせてから、新しい酒を再び注いだ。
「さあ、これを飲んで、親父さんの言ったことは全部忘れることだな。」
あまり酒の強い方ではないボンボンだが、また一気にコップを空けた。今度は自分でコップに注いで飲み干した。
「ボンボン、今日は早苗ちゃんには、会わん方がいいかもしれんな。みんなが苦しむだけだからな。分かるか、私の言っていることが?今日は私と、とことん飲もう。いいな。」
ボンボンは嬉しかった。涙が溢れ出ていた。茂木という人の心のあたたかさが強烈に伝わってきたからだ。他人の悲しみが分かる人はそんなにはいない。それは日本人であろうとフィリピン人であろうと同じである。素晴らしい人に巡り逢えた時の喜びにボンボンは満たされていた。哲学者、茂木が話をさらに続けた。
「私は考えるのは好きだが、覚えるのは下手で、大学に入るのに三年もかかってしまったよ。あなたは語学の天才だから、記憶力は抜群のはずだ。何か覚えるのに、コツでもあるのかね?もしあったら、是非、私に教えてくれないか。」
「別に、コツなどはありませんが、本なら、そのページ全体を写真のように写し撮って頭に入れるだけです。」
「やはり、あんたは早苗ちゃんが言うように天才だよ。間違いない。さあ、飲もう。天才に乾杯だよ。嫌なことはさ、きれいに忘れてしまいましょう。今日は飲みましょう。」
二人ともかなり酔ってきていた。茂木は早苗の心がつかめずにいる、不甲斐のない自分を責めているかのようでもあった。窓の外の戸隠の山並みはすっかり暮れてしまっていた。
「ボンボン。ボンボンは京都に行ったことがありますか?」
「いいえ、まだです。まだ行ったことはありません。でも本では読んだことがありますよ。」
「私は京都に住んでいるのですがね、どうです、京都に来てみる気はありませんか?私が本当の京都の良さを案内してあげましょう。本じゃあ、分からんよ。今の、あなたなら、本当の京都の良さが見えるはずだ。」
「ええ、是非、お願いしますよ。」
「よし、話は決まった。今日はとにかく倒れるまでここで飲んで、明日、目が覚めたら、京都へ行きましょうか。」
結局、二人はそのまま飲み続けて、そば屋の二階で寝た。早苗には会わずに、翌朝、暗いうちに戸隠村から姿を消してしまった。
源光寺 、祇王寺
源光寺
豊臣の時代から徳川の時代へ移り変わる動乱の時、各地の大名はどちらに加勢したらよいのか迷っていた時代である。関が原の戦いの手始めとも言うべき合戦であった。伏見城の留守を任されていた鳥居元忠の軍勢千八百名は石田三成の攻撃を受けた。善戦しよく耐えたが、三成の大軍には結局勝てずに力尽きてしまう。元忠は城に籠る約四百名と共に自決して留守居役としての責任を果たした。その血しぶきでもって伏見城を真っ赤に染めてしまった。伏見城は明治維新の後に解体されることとなり、その切腹の場となった廊下の板の間などが養源院、源光寺、正伝寺などの寺院に運ばれ、天井に用いられた。近年になって血液学者の権威がこの血天井の血痕を分析し、その化学的反応から確かに伝えられる通りの古い血液だという証明がなされたそうだ。戦国の世の悲しくて残酷な出来事であった。
ボンボンと茂木はかつては山林だった京都の鷹峰にある源光庵の本堂の中を歩いていた。源光庵は天皇や大宮人が狩猟をした洛北の鷹峰にある静かな美しいお寺で参道に入って桜門に進むだけでも心が落ち着いてくるから不思議である。禅寺の枯淡の趣が溢れていて、本堂の前には枯山水の庭園「鶴亀の庭」が広がっている。そして本堂には二つの窓があり、その窓はお庭を眺める為のものでありながら、主役のお庭そのものよりも窓の方が名高いのである。最近ではコマーシャルでもその窓は使われ紹介されているようだが、日本の美、いやもっと深い、何か心の奥深いところにあるものをこの窓は感じさせる。茂木がボンボンに説明する。
「正確に真円を描いたような丸い窓は悟りの窓と言われていて、禅における悟りの境地を表しているそうです。そして四角いガラスの引き戸の窓は迷いの窓と言われて、人間の一生における苦悩を表しているのだそうです。生老病死四苦八苦を表現しているのだそうです。」
その説明を聞いて、しばらく考え込んでしまったボンボンであったが、おもむろに彼の意見を言った。
「四角と丸の形に切り取られた庭の風景を見ていると、何か深く心に響くものがありますね。それが何であるのかはよく分かりませんが、確かに感じますよ。」
「それでいいのですよ。ボンボン、禅の境地というものは心で見て感じとるものですから、それでいいのですよ。二つの窓から自分の心の中をのぞき込む、窓を通して心と話をすることこそ禅の道なのだそうですよ。円通の心、ここまでくると私にはよく分からないけれど、禅の心と真理があまねき行き渡る意味の円通、それは大宇宙をもさすのだそうです。勉強不足でうまく説明が出来ません。ごめんなさい。驚くほど簡素な造形の中に禅の思想は隠されていると私は解釈しています。世界的に有名な竜安寺の石庭にしても十五個の石が置かれただけのお庭だけれど、そこでは様々な禅問答が繰り返されている。見る人がそれぞれの心を自由に広げていって、その想像は無限に広がっていく、すべてのものがどれ一つとして同じものがないようにね。」
茂木はボンボンに本堂の廊下の天井の黒い染みを指差しながら言った。
「ボンボン、あの黒い染みは人間の血だよ。昔、京都にお城があってね、そのお城のお侍たちが城を守りきることが出来ずに切腹した時の血だよ。」
「ハラキリですね。でも、どうしてこの天井に血痕があるのですか?」
「私にもよく分からないけれども、今、僕らがこうして話をしていることに、とても意味があるのだとおもいますよ。伏見城でたくさんの人が腹を切ったことを後世の人々に知ってもらう為に寺の住職が敢えてこのお寺の天井にその遺材を使ったのだとおもいます。」
「茂木さん、カミカゼにしてもハラキリにしても、日本人ではない僕には理解できない部分が多々あります。」
「そうかもしれないな。でも、戦後の日本の奇跡的な経済復興は武士道の精神がなければ成し遂げられなかったかもしれないよ。これからも日本人は会社の為にすべてを犠牲にして働き続けるだろう。でも、いつか、腹を切らされる時がくるかもしれない。会社の存続の為にハラキリをさせられるかもしれないよ。でもね、死に方の美学みたいなものが日本人の心の中には脈々と流れているんだよ。自己主張を前面に出す欧米人とはそこがちょっと違うところかもしれないね。」
「血天井ですか。いろいろ考えさせられますね。さっきの窓といい、この廊下といい、何も説明されなければ、ただ通り過ぎてしまっただけでしたよ。何事もただぼやっとしていたのではダメなのですね、つねに見えないものを感じとる気持ちを持っていなければいけませんね。」
祇王寺
祇王寺はうっそうと茂る木々の合間にたたずむ藁葺きの庵でいつ行ってもひっそりとした空気に包まれている。竹林は嵯峨野を代表する風景だが、この祇王寺も美しい青竹や楓に覆われて四季折々に味わい深い。でも、何と言ってもその閑静なたたずまいがこのお寺の見どころである。
「ボンボン、京都のお寺さんを歩く時はそのお寺さんに伝わる物語を知らないとその良さは半減してしまうものだよ。」
茂木がぼそっと言った。ボンボンはその声を聞いているのかいないのか、新緑の目の覚めるような緑と苔の上に静かに差す木漏れ日に気をとられていた。
「茂木さん、きれいですね。お庭は新しい黄緑色の草に覆われていますが、そこに流れ落ちてくる光の雨、こんなのは初めてみましたよ。」
「この静寂な空間はすべてを清めてくれるみたいだ。本当に美しい。これが木漏れ日というやつですよ。」
「木漏れ日ですか。」
「さっきの話の続きだがね。その前にあそこにある木像が見えるだろう。祇王と妹の祇女、母の刀自、そして平清盛だよ。彼らがこのお寺の主人公たちだ。祇王は白拍子の人気ダンサーだった。白拍子というのは平安時代に起こった舞のことで女性が男の格好をして殿上人や僧の様子を歌いながら舞ったもので女歌舞伎や女猿楽のルーツとなったものだよ。私は能楽にも大きな影響を与えたとおもっているのだがね。このお寺の主人公である祇王はその白拍子の踊り子だったわけだよ。平清盛というその時代の権力者に祇王は愛されるのだが、後で清盛に捨てられてしまう。そして昔は人家もない寂しい山野であった嵯峨野に来て静かに清盛のことをただ想い続けるという物語なんだ。」
ボンボンはじっと茂木の話を聞いていた。早苗のことを考えているようであった。茂木が続けた。
「あそこに安置されている仏御前は祇王から清盛を奪った女性だよ。彼女も祇王と同じように清盛に捨てられてね、この寺で共に余生を送ったらしい。」
やっとボンボンが話し出した。
「茂木さん、どの木像も眼に水晶玉が入っていますけれど、何か意味があるのでしょうか。」
「私は木像のことはよく知らないが、それは鎌倉時代の木像の特徴らしい。」
「それにしても、どの木像もとても悲しそうな表情をしていますね。平清盛を除いてね。」
「いつの間にか、木像にも祇王たちの気持ちが伝わったんだね。この嵯峨野の祇王寺は平家物語に登場する祇王のゆかりのお寺というわけだよ。悲恋のお寺として女性たちの間ではとても有名ですよ。ここに萌えいずるも枯れるも同じ野辺の花、何れか秋に合うではつべし、と記されてあるのは祇王が仏御前に書き残したものらしい。平清盛のおかげでどれだけ多くの女性たちが悲しい想いをしたことか、権力を持つと人間は他人の痛みが分からなくなるみたいだね。」
「きっとこのお寺は秋には紅葉がきれいでしょうね。」
「祇王寺の紅葉は遅いと聞いたことがあります。十二月の初めの週が見頃だそうですよ。私も写真で見たことがありますが、そうですね、うまく言葉では言えませんが、苔のお庭一面に散る枯れ葉がとても素敵で魅力的でしたね。京都の人々は祇王寺の楓は散ってからもなお美しいと絶賛します。悲しい恋の話を知ると散ってしまった紅葉でもいっそう美しく感じるものなのかもしれませんね。ボンボン、秋になったら、もう一度、ここに来て見ましょうか。紅葉に埋め尽くされたお寺はきっと素晴らしいとおもいますよ。竹と苔、そして紅葉、木漏れ日、悲しい恋の物語、それらがこのお寺に多くの人々を惹きつけているのですね。あそこに庵がありますね、そこの控えの間にある大きな丸窓も光の具合で影が虹の色に映えるらしい。とても神秘的で不思議な世界ですよね。」
「茂木さん、さっき見た木漏れ日だけでも僕は感激していますよ。京都に連れて来ていただいて感謝しております。」
滝口寺、 鴨川
滝口寺
祇王寺の隣の滝口寺も「平家物語」ゆかりのお寺だ。滝口入道と横笛の悲しい恋の舞台となった。他の嵯峨野のお寺と同様に竹林や楓の中にたたずむ閑静なお寺だ。
「ボンボン、ここにも木像があるよ。仲良く寄り添っているが、これは後世の人々が哀れな二人を一緒にしてあげようとして安置したものです。この木像を見ていると二人の恋の物語が目の前に甦ってくるようだよ。」
人通りの少ない細い参道を登りながら茂木はボンボンに長い話を続けた。
「平重盛の家臣斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の女官横笛がこの悲恋物語の登場人物です。西八条殿での花見の宴で時頼は横笛に一目惚れしてしまうんだ。ところが彼の父親に何故あんな横笛ごときに想いをそめるのかと叱られてしまう。身分が違うし、お前は将来、平家を支えていく名門であることを忘れてはならないと反対されてしまう。しかし時頼は好きでもない女を妻として生きることは本心ではないし、そうかと言って親の反対を押し切ってまで横笛と一緒になるような親不孝は出来なかった。時頼は悩んだあげく、父や主君の期待に背いて恋に迷う自分を責めて往生院三宝寺で出家してしまう。滝口寺の前身のお寺です。そのことを知った横笛は山野を傷だらけになりながらも時頼に会いに来たんだ。
息を切らしながら横笛は門番に言った。お願いでございます。この門をお開け下さいませ。横笛でございます。どうぞ滝口様にお伝えください。横笛が参ったと。もう一度だけ滝口様のお姿が見たくて都より遣って参りました。どうか門をお開け下さいませ。とね。ところがね、ボンボン、時頼は彼女に会うことはせずに、彼女を泣く泣く追い返してしまうんだよ。時頼は寺の門番に命じてこう言わせた。ここにはそのようなお方はおりません。どうぞお引取り下さい。とね。横笛は最後の力を振り絞って再び大きな声で門番に同じ言葉を繰り返した。時頼はその声を奥で聞いていたのだけれども、とうとう姿は見せなかった。門番が冷たく言い放った。どうぞお引取り下さい。横笛はうな垂れて引き返すが、参道の途中で立ち止まり、自分の指を切って、その血で歌を石の上にしたためたんだ。自分の本当の想いを時頼に伝えるためにね。今でもその石は残っているよ。このお寺は明治時代に滝口入道という小説が出て、その名にちなんで滝口寺と改められたようです。」
長い話だったが心地よかった。嵯峨野の田舎道をゆっくりと歩きながら、ボンボンは茂木の話を聞いていた。思い出したように茂木が言った。
「ボンボン、その未練を残して別れた二人はその後どうなったとおもう?」
風で竹林が揺れた。ボンボンは早苗の親父さんに言われた言葉を思い出していた。ぼんやりしているボンボンに向かって茂木が聞いた。
「この辺は良い所でしょう。目を閉じると風を感じることが出来る。」
「ええ、とても素晴らしい所ですね。気持ちも落ち着きます。失恋した者にはある意味で救いですよ。何だか心の中にまで風が吹いてきて、嫌なことを吹き飛ばしてくれるようです。」
「さっきの話の続きですがね、滝口入道は横笛への想いを断ち切ろうとして、さらに修行を積む為に女人禁制の高野山に移るんだ。それは二十歳に満たない青年にとっては過酷すぎる試練だよ。一方、横笛も同じ仏様のお側に参りますと言って、奈良の法華寺で尼さんになってしまうんだ。二人は離れていても心は間違いなく夫婦そのものだった。しかしね、間もなく横笛はこの世を去ってしまう。そして横笛の死を知って滝口入道は深く悲しみ、益々、修行を重ねて高野の聖と呼ばれる偉い高僧になったということだよ。」
そんな話をしながら、二人は竹林を抜けて嵯峨野で一番古い湯豆腐屋、開業当時から湯豆腐一本のお店の前に出ていた。
「ボンボン、豆腐を食べたことがありますか?」
「はい、ありますよ。僕の国にも豆腐はありますから、トクワと呼ばれています。きっと華僑が持ち込んだ食べ物でしょうね。でも、日本の豆腐のような繊細さはありませんよ。硬くて炒め物に入れて食べるくらいで、湯豆腐には出来ません。」
二人は禅の修業道場をおもわせる湯豆腐屋に入り、湯豆腐定食を食べながら話した。
「茂木さん、さっきの滝口入道は何で横笛を連れて出て、どこか誰も知らない所で一緒に暮らさなかったのでしょうか。」
「滝口入道は若かった。それに身分が高い平家一門の教育しか受けていなかったからね、経済的には何も困らない世界の人間だったから横笛を連れて逃げて生活する能力はきっとなかったと私はおもうな。」
「でも、本当に彼女のことが好きなら、何でも出来たと僕はおもいますよ。」
ボンボンは自分と早苗のことを照らし合わせているようだった。
「そうだね、だからそれが出来なかった自分を責めて出家したのかもしれませんね。」
「でも、出家するということは、結局、苦難から逃げてしまったと同じことだと僕はおもいますが、違いますか?」
「出家するということは、俗世間の楽しみすべてを断つわけだから、やはり厳しい道だとおもうよ。滝口入道が横笛を連れて俗世間で暮らせたかどうかは疑問だな。二人は生活習慣も身分も違いすぎる。仮に夫婦になったとしても一年とはもたなかったとおもうよ。すぐに破局したかもしれない。」
「しなかったかもしれない。」
ボンボンがむきになってもう一度言った。
「破局はしなかったかもしれませんよ。」
「そうかもしれない、でも結果的に横笛を連れて逃げられなかった自分を責めて、死ぬまで滝口入道は横笛を愛し続けたとおもいますよ。」
「茂木さん、僕は彼はもっと正直に生きるべきだったとおもいますが。」
ボンボンはまるで自分自身にそう言い聞かせているようだった。たとえ、早苗ちゃんの父親に何と言われようとも自分に正直であれと勇気づけているようであった。
「人を愛する、あるいは結婚するということは現代よりも昔の方が難しかったのだろうとおもうよ。身分とか家柄もあり、時には戦略的に結婚させられるケースも多かっただろう。親の権力は今より強かったからね。そして都会よりも田舎のほうがいろいろなしきたりもある。狭い社会で人付き合いが重視される以上、結婚に対しても慎重になってくる。ボンボン、そしてついでに言わせてもらうと、怒らないでほしいのですが、国際結婚となるとさらにいろいろな問題が出てくる。文化の違いや言葉の違いもあるだろう、価値観もまったく違うこともある。日本人は肌の色やアジアやアフリカの人々への偏見も大きい。日本のように島国で単一民族から成り立っている国では混血児に対するいじめも考えられる。だから親たちは自然と国際結婚には慎重にならざるをえないのが現実じゃないのかな。それはとても残念なことですけれどね。」
ボンボンは早苗ちゃんの親父さんが言った言葉を思い出していた。もう早苗とは会わないでくれと言われた時のことを思い返していた。今、茂木さんが言っていた説明も早苗ちゃんの親父さんから突然言われた言葉もボンボンにはどうしても納得がいくものではなかった。
鴨川
茂木の下宿は京都の大学からさほど遠くない哲学の道にあった。銀閣寺に近く桜並木が続いている静かな住宅地の中にあった。茂木は父親の勤務先である外交省の上官の邸宅に世話になっていた。だから貧乏学生の下宿を想像していたボンボンを驚かせた。旧家で家の周りを刈り込みの垣根が囲んでいる大きな屋敷である。入り口は格子戸になっていて、京の風情を感じさせていた。飛び石を踏みながら、よく手入れの行き届いたお庭を抜けて玄関に入ると、奥からこの家の奥さんが飛び出てきた。茂木の顔を見ると、挨拶もせずに言った。
「いやあ、茂木さん、どこへいっとったん。お客さんですがな。きれいな人え、さっきから茂木さんのお部屋で待ってなはる。あの人、茂木さんのいい人と違うんやろか。」
玄関の那智黒の石の上に赤い靴がきちんと並べられてあった。茂木がボンボンのことをおばさんに紹介した。
「おばさん、こちらボンボンさん。東京の教育の大学の学生さんです。フィリピンから国費で来ている超エリートですよ。」
「よう、おこしやしたな。京都は初めてどすか。」
「はい、初めてです。前から聞いてはいましたが、本当に良いところですね。」
「今日はどこを、お回りになりましたの。」
「鷹峰と嵯峨野を少し回ってきました。」
ボンボンはまだ京都美人と話を続けたそうであったが、茂木は部屋にいる客が誰なのかが気になって仕方がなかった。ボンボンを急がせながら、黒光りしている階段を上っていった。十畳ほどの茂木の部屋には至るところに本が積み上げられており、部屋の中央には少し大きめのコタツがでんと置いてあった。コタツの上にもたくさん本が散らばっていて、部屋全体に古本屋のあの独特のにおいがしていた。少し寒かったがコタツには入らずに畳みの上にきちんと座っていたのは早苗であった。茂木は引き戸を開け終わる前に大きな声で早苗に言った。
「いらっしゃい。いつ京都に来たの?」
「さっき着いたところです。まっすぐにここに来ました。」
ボンボンも遅れて部屋に入ってきた。早苗とボンボンの視線が重なり合ったが、二人ともすぐには言葉が出なかった。茂木がその視線を割って入って話を続けた。
「そうだ、お茶でも入れてこようか。それともコーヒーの方がいいかな。」
二人からは返事がない。茂木は立ったままで言った。
「下でお湯を沸かしてくるから、ボンボン、部屋に入って座っていて下さい。その辺の本をどかして、適当に座っていてください。」
茂木は慌てて階段を下りて行った。部屋は古書のにおいで満ちていた。しばらく、沈黙が続いた後、ボンボンが先に言った。
「このにおい、古本屋さんのにおいですね。あの古書のカビのにおいですよ。茂木さんは毎日きっとたくさんの本を読んでいるのですね。」
「ええ、そうですね。あたしもさっきから同じ事を考えていましたの、でも、そんなにはくさくはありませんわ。」
やっと、話になった。早苗が塞き止めていた堤防を壊したように話し出した。
「ごめんね、ボンボン。父さんは悪い人じゃないのよ。ただ田舎者だからさ、何をあなたに言ったのかは知らないけれど、どうか許して下さいね。善光寺さんから帰って、そば屋の定ちゃんから話を聞いてびっくりしちゃった。定ちゃんはあたしの幼馴染なの。父さんは何も言わなかったけれど、定ちゃんが二人の話を横で聞いていてさ、それでね、あたしに教えてくれたの。茂木さんがボンボンを京都に連れて行ったって聞いてさ、あたし、居ても立ってもいられなくなっちゃって、・・・・・とうとう来ちゃった。」
「民宿の方は大丈夫なの。早苗ちゃんがいなくなると困るんじゃないの。」
「昨日から、泊まり客は半分になったから、もう大丈夫なの。それにあたし、父さんとちょっと喧嘩しちゃったから、何だか気まずくって、家を飛び出して来ちゃったの。」
その時、茂木がコーヒーを持って部屋に入って来た。
「はい、お待たせ。コーヒー入れてきたよ。これ、イノダ・コーヒーと言って、京都では有名なコーヒー専門店のものですよ。味は保証付き、砂糖とクリームは入っていないよ。入れたい人はご自分でどうぞ。」
茂木はひじでコタツの上の本をどけながら、コーヒー・カップがのっかったお盆をコタツの上に置いた。
「早苗ちゃん、ゆっくり出来るのかい?」
「どうしようかな、何も考えないで飛び出て来ちゃったから、まだ何も決めていないの。」
「ゆっくりしていったらいいよ。学校の来賓用の部屋が空いているかどうか聞いてあげるから、せっかく来たんだ、ゆっくり京都見物でもしていったらいいよ。この京都には案内してあげたいところが五万とあるからね。」
茂木の通っている大学には構内に立派な宿泊施設があり、特に外国からの研究者の便宜をはかっていた。早苗はボンボンのほうを見てから言った。
「ボンボンはどうするの?」
「僕はもう少し京都を歩いてみようとおもいます。」
茂木は早苗の返事を待たずに電話の受話器を取り、二人に向かって言った。
「よし、話は決まった。ちょっと今、学校に電話して聞いてみますからね、ちょっと待ってて。」
早苗はまだうつむいている。ボンボンは早苗が京都まですぐに飛んで来てくれたことが嬉しくてしょうがなかった。茂木が電話で話を始めた。
「アー、もしもし、印度哲学科の茂木ですが、二人お願いしたいのですが、ええ、そうです。二人です。あ、違います。二部屋お願いしたいのですが、そうです。二部屋です。ええーと、東京の外国語の鈴木早苗さん、ええ、そうです。ええと、もう一人が東京の教育の・・・・・・・、ちょっと待ってください。」
茂木はボンボンの名前を知らなかった。ニック・ネームだけしか知らなかった。手で受話器を押さえながら、ボンボンに向かって訊ねた。
「ボンボン、あなたの名前を教えて下さい。フルネームは何ですか?」
早苗がボンボンに代わってすぐ答えた。
「ボニー・バナアグです。」
再び茂木は受話器に向かって話し出した。
「もしもし、お待たせしました。ボニー・バナアグです。そう、教育の大学の留学生です。はい、そうです。はい、千円ですね。一人千円ということですね。分かりました。有り難うございました。ではよろしくお願いします。あまり遅くならないうちに参りますから。では失礼します。」
茂木は自分のコーヒーを取り上げて、すすりながら二人に言った。
「大丈夫、取れました。一泊千円だそうです。安いでしょう。シーツのクリーニング代しか要求しませんでしたよ。あとは学校が負担してくれます。」
「いいのですか?それで。」
と早苗が恥ずかしそうに呟いたが、茂木は嬉しそうに切り返した。
「ええ、大丈夫ですよ。うちの研究室は比較的利用する回数は少ない方ですし、他の研究室の連中なんか、あの学校のホテルを自分の家のように年がら年中使っていますからね、まったく心配はいりません。」
早苗が礼を言った。
「茂木さん、有り難う。何から何までお世話になってしまって。」
「いいのですよ、そんなこと。あそこは古い建物だけれども、きっと気に入ってもらえるとおもいますよ。たった千円ですけれども、しっかりしたホテルですからね。帝国ホテルにも負けないくらいだと私はおもいますよ。どうぞゆっくりしていって下さい。滅多にない機会なのだから。」
もうすっかり三人は打ち解けた雰囲気になっていた。早苗が言った。
「さっき、ここに来た時、あたし、少しびっくりしちゃったの。茂木さんの下宿に来るのは、あたし、これが初めてでしょう。茂木さんの下宿って、もっと汚いのかとおもっていましたのね、ごめんなさいね、想像していたのとはだいぶ違って、とてもきれいだったから驚いちゃって、それにこの辺はとても落ち着いた良い所だし、こんなに大きなお屋敷に茂木さんが住んでいるなんって、何だか羨ましくなりました。」
「そうでしょう。私もここの下宿はとても気に入っているのですよ。有名な哲学の道も目の前ですしね、京都を散策するにはもってこいの場所ですよ。」
哲学者西田幾太郎が命名した「哲学の道」は若王子神社から銀閣寺までの約2キロメートルの散歩道だ。右手に琵琶湖疏水、湖畔には桜の並木道が続き、安楽寺、霊鑑寺、法然院なども道すがら訪ねことが出来ると同時に京都の自然もたっぷりと楽しむことが出来る散歩道だ。茂木は立ち上がりながら二人を誘った。
「京都の大学のホテルに案内する前に、すぐそこなので、銀閣寺のお庭に行ってみませんか。京都を代表するあまりにも有名な観光名所だけれども、なかなか渋くて、私はとても好きなのです。どうです、ボンボン、寄ってみませんか?早苗さんは銀閣寺には行ったことはありますよね。」
「ええ、あたしは修学旅行で一度だけ行ったことがありますけれど、あの時はただ忙しなく通り過ぎただけでした。」
「ボンボン、銀閣寺を造った足利義政は庭園を造ることに関しては素晴らしい才能と情熱をみせた将軍だったけれど、本業の政治には特にこれというものはなかったようだね。京都が戦場となってしまったことはもちろん彼一人の責任ではないけれど、もう少し庭園造りのような力量が政治にもあれば、戦乱でたくさんの京都の重要文化財を失わずにすんだと私はおもうね。それとも庭造りは現実からの逃避だったのかもしれないね。権勢が衰えてしまって、もう庭を造ることしか足利義政にはなかったのかもしれない。」
三人は銀閣寺の入り口にある大きな垣根の間を歩いていた。その巨大な刈り込みはよく手入れがされていて、この垣根の刈り込みだけでも文化財としての価値は十分にある。この垣根を芸術作品と言っても過言ではないほど見事な出来栄えである。しかしこのお寺の一番の見所は何と言っても銀閣寺という通称の由来にもなった銀閣で、観音殿とも呼ばれている義政の別荘だ。彼の祖父であった義満が造ったあの豪華絢爛な金閣に対抗して、義政は銀閣の建物全体に銀箔を施すつもりだったらしい。ところが室町幕府はちょうど衰退の坂を転がり落ちていたところだったから、経済的にはそれどころではなかったみたいだ。しかし銀箔を塗ることが出来なかったことがかえって銀閣に日本人が好む「わび」とか「さび」と言ったような枯れた風情を生じさせることになった。結果として次第に人々の高い評価を得るようになった。また下段の庭園は池泉回遊式庭園でまるで花札の絵のような感じである。夜間は入ることは出来ないけれど、月をバックにこの庭園で記念写真が撮れたらどんなにか素晴らしいことだろう。上段の庭園は枯山水式庭園で当時の大名や貴族たちから献上された名石が至るところにごろごろ転がっているのも贅沢なかぎりである。
銀閣寺を後にした三人は丸太町の橋の上を歩いていた。橋の下には鴨川が流れている。茂木が早苗とボンボンに橋の上から指差しながら大きな声で言った。
「ここだよ、この景色をよく覚えていて欲しい。ここが京都だよ。京都を離れて真っ先に思い出すのがこの景色なんだ。鴨川の河原に舟宿みたいな料亭が幾つも並んでいるだろう。日が暮れかかった頃、ここからの眺めはどこか寂しいが京都の風情そのものだよ。」
ボンボンが何度も頷いた。
「茂木さん、僕にも分かりますよ。この鴨川の流れと桟敷のような料亭の縁側、実に日本的だ。ここが京都なんですね。」
「そうだよ、お寺やお庭も良いが、この鴨川のこの夕暮れの風景が私の京都なんだ。」
早苗もまったく同感といった感じで、しばらく川の流れを見つめていたが、しみじみと振り返って二人に言った。
「不思議ね、私たち三人はまったく別々の所で生まれて、別々な環境で育ったけれど、今、こうして同じ風景を見て、同じ感情を持つなんて、本当に不思議よ。この河原のどこか寂しい情景を私も京都だと思うわ。きっと誰かに京都のどこが好きですかと聞かれたら、迷わずにこの橋の上から見る鴨川の流れだと答えるでしょうね。」
ボンボンと茂木、そして早苗の三人はもうとっくに暮れてしまった鴨川の流れを飽きもせずに、いつまでもいつまでも眺めていた。
洛北の山々から水を集めた鴨川は鮎が泳げるほどの清流だ。河原には多くの恋人たちが寄り添って語り合っている。川面をなでる風が恋人たちを冷やかしていた。
京都人、 詩仙堂
京都人
百万遍の交差点を学校とは反対の方向へ三つくらい路地を入った処に居酒屋「川原町」がある。細長いカウンターの一番奥には電話器が置かれてあるが、そのピンク電話の前の席には椅子は置かれていない。その席は茂木だけの指定席だからである。茂木がこの店に入ってくると奥から椅子が運ばれてくるのだ。
茂木はボンボンと早苗を大学のホテルに送っていった後、居酒屋「川原町」にやって来ていた。学校がある時もそうだが、真っ直ぐには下宿には帰らず「川原町」に寄って、煮込み豆腐と熱燗にした酒を静かに飲むことが彼の日課だった。学生でありながら毎晩のように居酒屋通いが出来る茂木の経済力は相当なものだった。いつもは独りで黙って酒を飲んで帰るのだが、今夜は少し様子が違っていた。カウンターの中にいる女将に向かってぼそぼそと珍しく喋りだした。
「おかみさん、悔しいよ。私ははっきりとモノが言えんのだよ。すぐ何でも我慢をしてしまう。私は好きな人に好きだと、はっきりと言えないんだ。それどころか恋敵の手伝いばかりをしている。バカだよね。そんな自分が悲しくて、つくづく嫌になってしもうたよ。」
「まあ、まあ、愚痴どすか。茂木はんらしくないこと。でも誰でもそうなんのと違うんやないの。茂木はんも京都のお人におなりになりやしたんとちがうんやろか。すぐにはっきりと白黒をつけるようなことをしないのが京都流どすえ。」
「でも、おかみさん、それは違うぞ、やはり好きとか嫌いとかの恋愛になると話は別だよ。はっきりさせないといかん。」
「茂木はん、京都の者はすぐには心は見せませんし、決して慌てたりもしません。取り乱したりもしませんよ。耐えて、耐えて、しかも周りの者を決して傷付けたりもしません。けどな、最後には自分の望む方向へきっちりと事を運びます。恋事も同じとちがいますか。」
「しかしな、おかみさん、叶うことなら、自分の気持ちを素直に伝えたいのですよ。どうも敵をつくらないように振舞ってしまう自分が嫌で嫌でたまらないのです。はっきりと自分の立場を鮮明に出来ないのがくやしいんだよ。」
他にも客がいるというのに女将は本腰を入れて、茂木と論争を始めた。
「すぐに好きだ惚れたと言ってくる男はんにろくなのはおりません。うちはそんなの嫌いどす。どうも品位にかけるようで好きにはなれませんよ。うちは茂木はんのように奥ゆかしい方が好きどす。焦らずに京都流でおやりんなったら、それでよろしいおす。」
「そういうもんかな、でも、おかみさんにそう言われると少し元気になってきたよ。今夜は飲み過ぎてしまったようだよ。もう帰ることにします。」
哲学者茂木は下宿への帰り道、ほろ酔い気分の中で今しがた「川原町」の女将に言われた言葉を繰り返し何度も考え続けていた。京都は狭い土地に寺院や寺がたくさんある。その隙間で生きている京都の人々は狭い社会の中で敵をつくらないようにして生きてきた。話し方にしても遠回しな表現を使う。下手に出ながら、それでいてきちんと自己主張を貫く。相手を怒らせることもなく話をまとめるテクニックは天下一品だ。この京都人気質は京都の気候にも関係しているのかもしれないと茂木はおもっている。京都は盆地であるから風が平野のようには吹き抜けない。夏はお椀のような盆地は蒸し風呂のように蒸し暑い。じりじりと照り返し、ちっとも風が吹かないから、じっとしていてもあぶら汗が吹き出てくる。こんな状態が五山の送り火まで続くわけだ。京都の人々はこれを油照りと呼んでいる。冬も山に囲まれているから冷気が外へ逃げないから、とことん底冷えがする。おまけに四季の中で春と秋の良い季節はこの京都では本当に短い。日本列島で京都ほど最悪の気候はないと言える。そんな恵まれていない気候環境の中で京都の人々はじっと辛抱してきた。それでいて京都の人々は決してそのことを顔の表には出さないのだ。涼しげな玄関の打ち水をしたり、簾を窓にたらしたり、さまざまな工夫をして生活を楽しんでいる。
「今日はあつおすなあ。」
と夏は挨拶を交わす。冬は淡々とこう挨拶をする。
「今夜はさむおすなあ。」
商売をしている人々にしても、ただ淡々とこう話をする。
「どうどすか。」
と聞くと、決まって同じ返事が返ってくる。
「へい、おかげさんで、まあまあどす。あんたはんはどうどすか。」
と商売が良い時も悪い時も、どんなに景気が良くても悪くても、そのことはおくびにも出さないで挨拶を交わすのである。良かろうが悪かろうがすべて「まあまあどす。」で通してしまう。どんな状況でも生き抜く知恵と辛抱強さをもっているのが京都人だと哲学者茂木は考えている。しかし、しかしだ、どうしても恋だけは京都流ではいけないと茂木は何度もおもうのである。もっともっと自分は強くならなくてはいけないと茂木はほろ酔い気分の中で自分にそう言い聞かせていた。茂木はまた明日ボンボンと早苗ちゃんを案内することがだんだんと苦痛になってきていた。しかし、早苗ちゃんに京都を案内することは以前からの望みでもあったし、茂木の大きな喜びでもあるのだから、明日は自分も京都流でひとつ気持ち良く二人を案内することにしようと、そう決めて茂木はやっと寝床についた。
翌朝、三人は昨夜の丸太町の橋の上で待ち合わせた。茂木は先に着いて二人を待ちながら、朝の鴨川の流れを見つめていた。鴨川は広くて浅い、その中を流れるきれいな水は魚と鳥たちの天国であると同時に京都の人々の憩い場所でもある。川岸の歩道は整備されていて散歩することが出来る。桜の並木道もあり、それがまた京都の街をいっそう魅力的にしている。都が奈良の平城京から京都の平安京に移った理由も水にあったという説がある。鴨川もその要因の一つであったことは間違いないと茂木はおもっている。約束した待ち合わせの時間よりも一時間近く遅れて、やっと早苗が姿を見せた。
「ごめんなさい。遅くなって。ボンボンがなかなか起きてこなくて困ってしまいましたの。お待たせして本当にすみませんでした。こんなに遅れてしまって、すみません。」
ボンボンも駆け寄って来て言い訳をした。
「茂木さん、すみませんでした。とてもホテルのベッドの寝心地が良かったものですから、爆睡してしまいましたよ。ごめんなさい。」
京都流、京都流、茂木は心の中でそう自分に言い聞かせていた。
「いいんだよ、今日はさ、私は京都の流儀でいくことにしたんだから。」
「ええ、何ですか、それ?」
「いや、別にたいしたことではありません。いいんだ、何でもないから、気にしないで下さい。でも、よく眠れたようで良かった。何よりです。」
早苗が話を割って入った。
「茂木さん、立派なホテルを紹介していただいてありがとうございました。外からぱっと見ただけではまるでレンガ造りの博物館のようでしたけれど、中に入ると何から何まで大きくて、部屋のドアもすべて3メートル近くはあったかしら、ベッドも大きくてびっくりしちゃいました。とても立派な宿泊施設が茂木さんの学校にはあるのですね。」
「外国からのお客様を考慮して設計してあるらしいんだ。2メートル以上の背丈の人でもゆっくりとくつろげるように、すべて大きく造られているんです。」
ボンボンもホテルの感想を述べた。
「大きなパイプを幾度もくねらせたスチーム・ヒーターもすばらしかったですね。空気を汚さないし、とても暖かでしたよ。あれほどの設備で一泊千円ですか。五万円払わされたって誰も文句は言いませんよ。いやあ、実に立派なホテルを茂木さんの大学は持っているのですね。羨ましいですよ。もちろん誰でもが泊まれる訳ではないことは分かりましたよ。何故なら、部屋があんなにたくさんあるのに、昨夜は僕たち二人しか宿泊客はいませんでしたからね。」
「そう、良かった。そんなに二人に喜んでもらえるとは嬉しいですよ。ところで二人をここで待っている間にいろいろと考えたんですがね、今日はお二人を京都の山麓にあるきれいなお庭に案内することにしました。それでよろしいですか。」
「ええ、もちろん、よろしくお願いします。」
茂木は何の躊躇もしないでタクシーを停めた。今と違って、学生の分際でタクシーは考えられないことだ。いったい茂木の郵便局の口座にはどれだけの残高が隠されているというのだろうか。茂木はタクシーの前の助手席に不本意ながら座った。ボンボンと早苗は後部座席に並んで座った。茂木が運転手に言った。
「運転手さん、詩仙堂までやって下さい。もし、出来ましたら今日一日、貸し切りでお願い出来ませんか?」
幾らかかるとも聞かずに商談はすんなりと決まった。茂木の懐は何ら問題はない様子だった。ボンボンと早苗の方がかえって恐縮してしまった次第だ。目的地までの車の中で、哲学者茂木の軽快な京都論が始まった。
「ボンボン、自分は世界史はあまり得意分野ではありませんが、一応は勉強したつもりです。もし間違っていたら、そう言ってください。あなたの国はスペインや日本、そしてアメリカなどから何度も侵略された悲しい歴史をもっていますね。京都も首都が東京に移されるまでは同じように諸国の権力者から侵略され続けたと言っても過言ではないとおもいます。朝廷と都を権力の象徴にしようと日本中の権力者たちは争って京都に攻め込んで来ましたからね。だから京都もフィリピンと同じように他国から侵略され続けた歴史があると言ってもいいと私はおもいます。京都の人々はよそ者をまったく信用していないし、度重なる戦乱と侵略は京都に住む人々に自分の色を鮮明にしない事を教えたんだと私はおもいます。陳腐な言葉だけれども、京都の人は下手に出ることにかけては実に巧みだよ。相手を怒らせるようなことは絶対にしない。いろいろな侵入者から自分を守る術を長い間に、それも自然に身につけているんだ。言葉も遠回しな言い方を好むし、どっちにもつけるように物事を白黒はっきりさせない。それは卑怯なやり方だと誤解されては困る。兎に角、自分の身を守りながら、相手も傷つけることなく最終的には自分の望むところに相手を導いていく魔術みたいなものなんだよ。どんなに辛い時でも京都の人々は涼しげな顔をしている。また極端に喧嘩をすることを嫌う人種でもある。」
運転手が感心しながら茂木先生に聞いた。
「お客さんは学者さんかね?」
早苗が代わりに運転手の質問に答えた。
「ええ、京都の大学の学者さんですよ。」
謙遜しながら茂木が言った。
「いや、そんなのと違いますよ。私自身も分からない京都人の気質に少し興味があるものですから、こんな勝手なことばかりを言っているだけなんですよ。」
話を聞いていて我慢が出来なくなったのか、今度は運転手が話し出した。京都のタクシー・ドライバーと言えば話好きな者が多いが、この運転手も例外ではなかった。
「結構、京都の人は頑固ですわ。遠回しな言い方をしますが、言い分はきちんと通します。それに急がず焦らず、おまけにプライドもえらく高いですわ。以前は修学旅行は京都と決まっていましたが、最近では修学旅行の団体さんは随分と減りましたよ。クラス単位で九州や北海道、あるいは外国にまで行くようになりましたからね。でも京都は他の観光地のようには決して慌てたり騒いだりはしません。本物を見に来るお客さんだけを大切にしますからね。経済は大阪に任せて、政治は今は東京ですな、でもな、あまり他と比較しても始まりませんよ。どんなことになっても京都は今でも日本人の心の首都なんですよ。」
後ろからボンボンが顔を乗り出してきて話に加わった。
「フィリピン人もあまり物事を急いだりはしませんよ。」
ボンボンは自分のフィリピーノ・タイムを棚にあげてそう言っている。
「それに自分を相手にうまく合わせる才能は京都の人たちと同じかもしれません。茂木さんの言う通り、それは侵略され続けた者の知恵かもしれませんね。表面的にはよそから来た者を歓迎しますが、完全には信用はしていません。付き合っていくうちに相手の長所をさがしていきます。そしてどんどん評価を上げていくのです。日本人のビジネスマンはその反対で、初めから相手を信用してしまう。そして欠点を見つける度にフィリピン人の評価をどんどんと下げていくんです。だから日本のビジネスマンはフィリピンでの商売は長続きがしないのです。僕らの考え方と反対だからですよ。きっと僕らの考え方は京都の人達と同じプラス思考なんじゃないですかね。」
話好きな運転手は何度も車を風情のある店を見つけては停めた。そこでお茶を飲みながら、商売はほったらかしで京都人気質について熱く語った。三人はまったく急ぐことなく京都の東のはずれにある詩仙堂に向かっていた。
詩仙堂
三人は竹でこしらえた質素な小さな門をくぐってゆるやかな石段を登った。門から延びた竹林の小道を歩きながら哲学者茂木は今度は庭園家に変身していた。
「お庭というやつは生き物ですよ。維持するのに手入れがとても大変なのです。この詩仙堂は庭造りの名人、石川丈山が晩年の三十余年を過ごした山荘です。早苗ちゃんとボンボンにお願いしたいのは是非、初夏と秋、そして冬に再びここを訪れて欲しいということです。このお庭に限ったことではありませんが京都のお寺さんやお庭は一度訪ねただけではその良さは分からないものです。さっきお庭は生き物だとい言いましたけれど、再び違った季節に訪れると私がそう言った意味がよく分かりますよ。同じお庭でありながら四季それぞれ違った風情を味わうことが出来ます。お庭は生きているからこそ私たちに四季を感じさせてくれるんです。私が真っ先にここへ案内したのは、ここが私の一番好きな場所だからです。思索にふける時、私はいつもここの二方を開け放した書院に腰を下ろして半日でも一日でもお庭と周囲の山並みを眺めながら考え込みます。言ってみれば、ここは哲学者の商売道具のようなものですな。哲学者の西田先生は「哲学の道」を歩いて思索にふけったように、私はここのお庭を眺めながら考え込みます。四季折々に美しいこのお庭の澄み切った空気に触れながら春の桜、初夏のツツジや秋の紅葉、冬の雪景色、白砂の上にツツジやサザンカが咲き乱れ、散った楓の葉が小川の流れを塞き止めたり、重層的に見事に立体感を出しながら、すべてが配置されています。まったく石川丈山という人はお庭造りの天才と言えますね。」
さっきから「コーン」「コーン」っと音がしている。ボンボンが不思議そうに聞いた。
「茂木さん、滝の音に混じって何か音がしていますが、あの音は何ですか?」
「あれは石川丈山が考案した僧都だよ。いわゆる獅子おどしというやつです。澄み渡る静寂のお庭を時折震わせる、あの孟宗竹の乾いた音も奇抜で実に風情に満ちているでしょう。丈山は天才と言うより、私に言わせると化け物だとおもいますよ。発想が奇抜で素晴らしい、彼から学ぶところがあまりにも多くて、このお庭に来る度に新しい発見をします。どちらかと言うと、このお庭は男性より女性の心をひきつけるのかもしれませんね。お庭の庵で読書に耽っている女性の姿をよく見かけますよ。」
さっきからうっとりとしていて何も喋らなかった早苗がやっと口を開いた。
「ほんとうにきれい、こんなところが京都にあったんだ。詩仙堂、でも随分と変わった名前ね。」
「それは、そこの詩仙の間からきているのですよ。杜甫や李白など中国の詩人三十六人を狩野探幽に描かせて、丈山自身が詩文を書いて、ほら、そこの上の壁にぐるりと飾ってあるから詩仙堂と呼ばれるようになったんですよ。」
「詩ですか。石川丈山と言う人はただひたすら風流な生活をしていたんでしょうか。」
「いや、彼は若い頃は結構、起伏に富んだ人生を送っていたらしいんだ。徳川家康の家来だったみたいだよ。大阪の夏の陣ではたいそうな手柄をあげたらしいのだが、ただ軍律を乱して先陣を切ったのを家康に咎められ、それで徳川家を離れて学問や芸術の世界に入ってしまったんだ。私はね、他にも彼が鎧を脱いだ理由はあるとおもうよ。武士であった丈山が戦うことをやめて風雅の世界に没頭するようになったのにはよっぽどの訳があったとおもう。まあ、少し乱暴な想像だが、彼は失恋でもしたのかもしれませんね。」
早苗が言った。
「ほんとうにきれいなお庭だわ。秋の紅葉はきっともっと素晴らしいでしょうね。茂木さん、また、あたしを紅葉の頃にここに連れて来てくれますか。」
「ええ、いいですよ。もちろん喜んでお供いたしますよ。プロの写真家をもってしても、ここのお庭の美しさを写真に残すことは出来ないとおもいますよ。やはり、このお庭の美しさは自分の目と肌で感じて心に残さないと無理ですからね。実際に春、夏、秋、冬とそれぞれの季節にやって来ないと本当の素晴らしさは分からないものですよ。」
「本当にきれいだわ。またきっと連れて来てくださいね。」
「ついでに偉そうな事をもう一つ言わせてもらうと、お庭を鑑賞する時はね、出来れば座敷の奥まったところから眺めると作庭者の意図が読めるのだそうですよ。禅院式枯山水などの場合はとくに眺める場所というか、ポイントがあるらしいのですよ。しかし、この詩仙堂のお庭は立つ位置によって表情が変わるように造られていて、それもどこから見ても素晴らしく、丈山の才能をあらためて感じさせられてしまうわけです。そして、見えますか、ほら、後ろの山の自然そのものを完全にお庭に取り込んでしまっていることも忘れてはいけない。正に絶品であるとしか表現が出来ないお庭ですね。詩仙堂は風流の極みそのものと言ったところでしょうか。」
ボンボンが備え付けのサンダルを履いてお庭に出た。茂木はボンボンがお庭の白い砂の上に立ったのを見て大きな声で言った。
「ボンボン、何で白い砂がお庭に敷き詰めてあるのか分かりますか?」
ボンボンは首をかしげている。
「昔は電気がなかったでしょう。だから夜はとても暗かったのですよ。少しでも明るくしようと昔の人々は月の光を白い砂に反射させて利用したんだ。銀閣寺のお庭にしても、仁和寺のお庭にしても白い砂は同じ意味を持っています。」
ボンボンは大きく頷いて、お庭の奥の方へ入って行ってしまった。
「ねえ、早苗ちゃん、私たちもお庭に出てみましょうか。すべての方向、それがどんな見る角度だろうが、実に素晴らしい絵になるからびっくりしますよ。計算しつくした丈山の作庭技術に感心させられますよ。ねえ、行ってみましょうか。」
さほど広くない詩仙堂だが、三人はまるまる一日そこで過ごした。途中でタクシーには帰ってもらった。それほど三人は立ち去りがたいお庭だったのだ。
お庭
お庭
窓の外はまだ眠ったままだ。京都東山の夜はまだシーンと暗く静まりかえっている。何も眠りを妨げるものはないというのに茂木は目が覚めてしまった。どうやらコタツに足を突っ込んだまま眠ってしまったらしい。体を起こして座り直してみると背中のあたりが少し痛んだ。これまでにも本を読みながら、そのまま眠ってしまうことはよくあった。昨夜は早苗とボンボンをどこへ案内しようかと思案しているうちに眠りに落ちてしまった。学校の図書館から借りてきた京都のガイドブックや写真集がコタツの上や下に散らばっていた。
茂木は下宿では食事を一切とらない。夜は学校の近くの居酒屋「川原町」ですませてから下宿に帰る。朝は下宿の近くの「哲学の道」を少し散歩してから、決まって行き付けの定食屋に寄る。焼き魚と味噌汁、それにもう一品を注文するのだが、それは定食屋のおばちゃんに任せるのが茂木の朝食である。京都に居る時は雨が降ろうが雪が積もろうが、それが毎日繰り返される茂木の日課だ。新鮮な朝の空気をたっぷり楽しんだ後に食べるおばちゃんの心のこもった朝食は実にうまい。もう何年もこの定食屋に通い詰めている。茂木はこれまで自炊などしたことがなかった。
今日は早苗とボンボンと橋の上で待ち合わせはしていない。彼らの宿泊している学校のホテルへ茂木が自分で迎えに行くことにしていた。もうボンボンのフィリピーノ・タイムに付き合う気はさらさらなかったからだ。まだ、だいぶ約束の時刻まで時間があったし、どこへ二人を案内するのかも決まっていなかったから、茂木はいつものように散歩に出て、少し考えてみることにした。それから、定食屋のおばちゃんにお弁当も頼むつもりだった。今日は三人でどこか景色の良い場所をさがしてお弁当でも食べようと、その事だけは昨夜、眠る前に決めていたからだ。
「さゆり」と言うのがこの定食屋の屋号である。入り口の所に掛かっているのれんにそう小さく書いてある。もしもだ、おばちゃんの名前が「さゆり」だとしたら言葉を失ってしまう。それほど名前と人物との間には大きな開きがあった。決しておばちゃんの大きな体格と活発で豪快な性格をけなしている訳ではないのだが、おばちゃんを「さゆりさん」と声を出して呼びたくないというのが茂木の本音だ。茂木は女優の吉永小百合様を以前より慕い続けている熱狂的なサユリストだったからだ。
茂木がガラガラと定食屋の引き戸を開けると店内はいつものように建設現場へ向かう前の男たちで溢れていた。どの顔も昨夜の酒がまだ抜けきれていないらしく、皆、しかめっ面で朝飯をもくもくとかき込んでいる。朝が早い彼らにとってこの店は茂木と同様になくてはならない大切な店なのである。
「おばちゃん、客が来ているんだ。おばちゃんだったら京都のどこを案内しますか。」
水と氷を入れた大きなヤカンを持って、おばちゃんがそばに来たので茂木はおばちゃんの意見を聞いてみた。おばちゃんは茂木の前を通り過ぎて隣のテーブルの客のコップによく冷えた水を入れてから、茂木の質問に答えた。
「茂木さん、誰が来とるとね。誰を案内するの?あたしは四国の生まれだけれどもここの人たち以上に京都のことは知っとるがな、京都のことなら何でもお聞きやす、だわさ。」
茂木は小声で答えた。
「大切な人なんだ。どこがいいかな?」
「誰よ、それ?茂木さんの好きな人?図星でしょう。いいわね、若い人達は。そうね、どこがいいかな、大河内山荘なんかどうかな。」
「大河内山荘?」
「そう、俳優の大河内傳次郎さんが造った山荘よ。随分と時間とお金をかけたそうよ。映画に出なはったギャラをほとんどその山荘造りにつぎ込んだそうよ。」
「その大河内山荘というのはどこにあるのですか?」
「天龍寺さんの裏です。ほら百人一首で有名な小倉山に大河内さんは山荘をお造りになったんです。天龍寺さんの北門から竹林の道を登って、突き当たったら左へ少し行くと山荘の入り口がありますよ。」
「なんだ、嵯峨野じゃないか、この前もその竹林は歩いたな、祇王寺と滝口寺の近くですよね?」
「そうそう、その近くですよ。看板もありますから迷わないとおもいますよ。茂木さんのええお人に一度はお見せしなければあきませんよ。そりゃあ、もう、きれいなお庭ですから、お連れすると必ず喜ばれますよ。」
「そんなにきれいなところなんですか?」
「六千坪の山あり谷ありの、ええと、何と言うのだっけ、回遊式庭園とか言っていましたね。ちょっと入るのにお高いですけれど、お抹茶もご馳走してくれますから、まあ、それがなくても素晴らしいお庭だから損はありませんよ。」
「大河内山荘ね。」
「ああ、そうそう、あそこに行かれたら、必ずお山の上までお登りやす。お庭は迷路のようになっていますけど、順路に従って上の庵まで行って下さいよ。」
「山の上に何かあるのですか?」
「東側の高台からは比叡のお山や東山、それに京都の町並みが下に広がって、そりゃあ、もう、きれいですよ。何ともさわやかな風が吹きよるから、ほっとしますがな。」
「そお、そんなに良いところですか。」
茂木はおばちゃんが作ってくれた朝食をやっと食べ始めた。
「おばちゃん、お弁当を三つお願いします。特製の凄いやつをお願いします。」
「ああ、いいよ。特製弁当三つだね。ええ、三つ?二つじゃないの?」
「三つ、お願い。連れがいるんだ。それも恋敵がね。」
茂木が弁当をぶら下げて早苗とボンボンの宿泊している学校のホテルに着くと、早苗はロビーの長椅子の隅に腰掛けて、茂木のことを待っていた。ボンボンはやはりおもった通り、まだのようであった。
「早苗ちゃん、おはよう。はい、これ、お弁当を買ってきたから、後で渡月橋でも見ながら食べましょう。」
「おはようございます。ごめんなさいね、ボンボンはまだなんですよ。まだ起きていないみたい。何度もドアをノックしたのだけれど、聞こえないみたい。」
「部屋に電話はありましたよね。」
「ええ、ありました。」
「私、ちょっと、ホテルの人に頼んで彼の部屋に電話してみますね。ちょっとここで待っていて下さいね。」
結局、三人が百万遍の交差点からタクシーに乗ったのは昼近くだった。茂木が前の座席から振り返って二人にこれから案内する場所の説明をした。
「今日は嵐山でこのお弁当をゆっくり食べてから、嵯峨野にある大河内山荘に二人を案内しますね。嵐山と言うと山の名前でもあり、渡月橋が掛かっている辺り一帯の地名にもなっていて、京都の最も有名な観光名所の一つです。」
ボンボンが後部座席から乗り出してきて言った。
「茂木さん、先日、龍安寺の石庭の話をしてくれましたよね。我がまま言ってすみませんが、是非、その石庭も僕は見てみたいのですが。」
「ああ、いいですよ。ちょうど良かった。通り道ですから、ちょっと龍安寺に寄ってみましょうか。あのお庭は外国の人たちにはよく知られていますね。ゼン・ガーデンとして、とても人気があるみたいですね。海外の雑誌にもよく紹介されているみたいで、知名度は抜群のお庭ですね。
運転手さん、すみませんが、龍安寺にやって下さい。」
車は金閣寺を通り過ぎて、立命館大学の前の「きぬかけの路」に入り、まもなく龍安寺に到着した。
「ボンボン、着きましたよ。ここが世界的に有名な龍安寺です。大きなお寺さんです。そのあまりにも有名な石庭までは少し歩きますが、少しも退屈はしませんよ。見所はたくさんありますからね。そこの山門をくぐると視界はすぐ開けて、大きなお池が目に飛び込んできますよ。鏡容池と言ってね、それはちょっとお寺らしからぬ景色が広がりますから、注意して見てくださいよ。まあ、私の下手な説明はこのぐらいにして、兎に角、中に入りましょうか。」
三人は鏡容池を回り込むようにして歩き、石庭のある方丈へと向かった。
「元はね、ここは徳大寺家という貴族の別荘だったんだそうです。それを細川勝元が譲り受けて禅寺にしたものだから、このお池もいかにも貴族のお庭と言った感じでしょう。お池の睡蓮の花なんかも、ほら、貴族が立っている、あの花札のようではありませんか。暑い時期、睡蓮の花は白や赤、黄色いのもあるかな、このお池は見事に花で埋め尽くされます。ただ、午後になると睡蓮の花は萎んでしまうので、花を見に来るなら午前中ですよね。それからむこうに垣根があるでしょう。あの垣根もこのお寺さん独特の竹垣だそうです。厚い竹を割って菱目にして編んでありますし、それに背丈も低いでしょう。他では見られないものだから、龍安寺垣と呼ばれています。」
三人は短い石段を上がって、方丈に出た。
「さあ、着きました。この方丈の前庭が有名な石庭ということになります。ボンボンがどんな感想を私たちに語ってくれるのか非常に楽しみですよ。早苗ちゃんは以前にもここには来たことはありますよね。」
「ええ、やはり修学旅行の時に来ました。」
「早苗ちゃんはどうだった?その時、どんな感想をこのお庭に持ちましたか?」
「ごめんなさいね、ボンボンはまだお庭を見ていないのに、間違った先入観を入れてしまうようですけれど、あたしはがっかりした記憶がありますのよ。確かにお庭と向かい合っていると心は落ち着きましたけれど、まだ中学生でしたし、先生に心で鑑賞しなさいと言われても、何も分からずに、ただ、通り過ぎてしまったようにおもいます。」
茂木が神妙な顔になって言った。
「ボンボン、私も正直に言って、このお庭が何を語りかけているのか、よく理解出来ないでいるんだ。天才の君が直にお庭と向かい合って、ここのお庭といったいどんな会話をするのか楽しみだよ。言っておきますが、石庭は意外と小さいですよ。でも遠近法とか言う技術を用いて実際の大きさよりも少し広く見せているのだそうですよ。十五個の自然石を置いただけのお庭だよ。いたって簡素なお庭だが、謎だらけのお庭でもある。いつ誰が造ったのかさえ、いろいろな説があってまだ論争が続いている。まあ、ボンボンも写真で見て知ってはいるだろうが、石の下に苔が少しはあるけれど、草や木、そして水は一切使っていない。十五個の石を置いただけの、ただそれだけのお庭です。さてと、そろそろ中に入ろうか。今、僕らが言ったことはすべて忘れて、ボンボン自身でじっくりと石庭と向かい合って下さい。
中に入るといつものように学生たちが大きな声で騒いでいた。
「おい、山田、お前、何個あった?幾つ石が見えた。」
「十四個だ。何度数えても十四個しかない。」
「吉田、お前はどうだ?」
「俺は十三個しか見えなかったぞ。十五個はなかったな。」
「でも、旅行委員が作ったしおりには十五個と確かに書いてあるぞ。間違いなのか?」
「間違いないよ。外の廊下のところにある説明書きにも、目の不自由な人達の為に作られた模型にも十五個となっている。変だな?」
あまりに騒がしかったので、茂木はその修学旅行生たちを怒鳴りつける寸前だった。早苗がそんな茂木の様子を素早く感じ取ってそれを制したので、学生たちは危うく難を逃れた。
「あたしたちもそうだったわ、以前にここに来た時もああやって石の数を数えて騒いでいたわ。」
「そう早苗ちゃんに言われると、私も仲の良い友人と来た時には同じ様に騒いでいたかもしれないな。でもあんなに大声ではなかったな。まったく他の人達の迷惑を考えないのだろうかね。やっぱり、一つ、あいつらをこっぴどく、とっちめてやろうかな。」
「いいのよ、茂木さん、あたしたちも来た道じゃない、怒ったってしょうがないわ。それより見て、ボンボンを、お庭の正面にどっかりと座っちゃって、まるで禅宗のお坊さんみたいじゃない。」
なかなか動こうとしないボンボンを見て、茂木が言った。
「ああ、本当だね。彼の周りはまるで時間が止まっているようだ。静かに座って石庭と問答をしているみたいだね。天才のボンボンはこのお庭からいったいどんな禅の無限の悟りを読み取るのだろうか。とても楽しみだよ。早苗ちゃん、私たちも座ろうか。まだ当分、彼は動きそうにないからね。」
ボンボンと少し離れたところに二人は座って、石ころだけのお庭を眺めた。時代時代によって、この石庭の解釈も違っていたようで、十五個の石が七個、五個、そして三個と並んでいるので「七・五・三のお庭」と呼ばれたり、虎が子供の虎を連れて渡っているようにも見えたので「虎の子渡し」とも呼ばれている。実にさまざまな見方がある。お庭の入り口には、「心をご自由にお遊ばせ下さい。」とそんなようなことが書いてあることもある。
早苗が言った。
「心で感じろと言われても、そう簡単なことではありませんよ。人生の経験がまだ浅いあたしにとっては難しいことです。どんなに長い時間、このお庭と向かい合っていたとしても何も見えてはきません。」
「私もそうですよ。哲学なんか勉強していても、何も分かっちゃいないのが正直なところです。」
やっとボンボンが動いた。ゆっくりと立ち上がって、二人のそばに寄って来て言った。
「このお庭はきっと、世の中には完全なものなどは存在しないし、人間も同じで完全な者などいないことを暗示しているようですね。ぼくにそうお庭は話しかけてきましたよ。さっき、学生さんたちが言っていたように、この縁側のどこから見ても、十五個すべての石を見ることは出来ないとおもいますね。そのように配置されているのではないでしょうか。また十五個すべてを見る必要もはないし、見ようとしても見えはしないとお庭は言っているような気がしますね。」
茂木と早苗はただ黙ってボンボンの話を聞いていた。
「何でもそうだが、全部を見るなんて不可能だし、見ることもない。人間どこかで満足することをしなくてはダメだと言っているようにもおもえますね。」
茂木がハッとした。思い出して言った。
「この方丈の裏には徳川光圀、水戸の黄門様が寄進した手を洗うための石があります。その丸い石の真ん中に口という字の形がくり抜かれていて、その回りに四文字の漢字が刻み込まれてあります。確か、その流し台はつくばいとか言ったかな?本物は非公開だけれど、原寸大の複製が拝観者の為に展示されていますよ。今、ボンボンが言った事と同じ事を何百年も前に水戸の黄門様が言っておられた。つくばいに書かれた回りの四文字は真ん中の口という字と組み合わさって、こういう意味になるんだ。吾唯足ることを知る。禅の格言を黄門様が図案化して、そのつくばいを寄進したんだ。知足の者は貧しいと言えども富めり。不知足の者は富めりと言えども貧し。満足することが出来るものは貧しくとも心は富んでいるものだ。また、満足することが出来ない者は富んでいたとしても心は貧しいという禅の教義をこのお庭は無言で人々に悟らせようとしている。」
早苗がまんまるの目をして言った。
「すると、黄門様とボンボンはこのお庭を見て、同じ感想をもったということになるわね。十五個すべての石を見る必要はないということなのね。」
ボンボンが早苗に向かって言った。もちろん茂木も聞いている。
「もしもだよ、何かに行き詰まった人がね、このお庭と向かいあったとしたら、どうでしょうね。悩んで悩んで、もう、どうすることも出来なくなった人が、このお庭に辿り着いて、静かに石と向き合った時、僕はきっとその人は慰められるに違いないとおもうな。どこからか声がしてさ、全部の石を見ようとしても無理ですよ。見えないでしょう。それでいいのですよ。とね、人間どこかで気を抜くことだって時には必要なことじゃないのかな。僕はそんなふうにおもうな。」
茂木もボンボンに負けじと早苗に言った。
「千人の人がこのお庭に来てさ、それぞれが千通りの解釈をしたって、それで良いのさ、それが禅の世界でよく言われる無限ということなのかもしれない。この小さな石庭という空間は無限にその解釈が広がっていって、とてつもなく大きな世界になるということなのかもしれない。そう考えてみると、凄いお庭だよね。ボンボンに言われるまで、私はこのお庭にはあまり関心はなかったけれど、完全に見直しましたね。いったい誰がこんな凄いものを造ったんだろうね。」
早苗が答えた。
「あたしは難しいことはよく分からないから、こんな解釈しかできないは、笑わないでね。それはね、このお庭を造った人は中国から来たお坊さんで、故郷の中国の景色を形どっただけなの、毎晩、このお庭を眺めながら故郷の海や島々を思い出していたのよ。」
哲学者の茂木が頷きながら言った。
「このお庭の素晴らしさは白砂と石だけで庭を造った趣向の斬新さですよ。すべてを忘れて、心を無にして、じっとお庭を見つめる。するとさまざまな景観が現われてくる。そして少しだけ縁側の座る位置を変えてみると、また違った世界が現われてくる。同じ石の配列なのに見る場所によってその形は無限に変化していく。そこで気づかなくてはならないことはさ、人間はある一時に、たった一つの見方しか出来ないということだよ。人間の視点というものはさ、いかに小さくて、いい加減でちっぽけなものでしかないということを悟らないといけない。難しいことを考えるとお腹が減ってくるものですね。さてと、そろそろ、嵐山に行ってお弁当でも食べましょうか。」
三人は石庭から出て、さっき眺めた鏡容池のほとりに立った。早苗が広いお池を見ながら言った。
「あたし、さっき入る時には何も感じなかったけれど、今、またこの大きなお池をこうして見て、何だかほっとしていますのよ。あの石庭の空間にいる時はどういう訳か気持ちが張り詰めていて、無意識のうちに緊張していたみたい。だから、この大きなお池をまた見たら、気持ちがすごく和らいだみたいです。
茂木も同感だった。
「そうですね、私もこのお池の睡蓮の花を見て張り詰めていた気持ちが解けたみたいです。さっきも言いましたが、睡蓮の花は昼過ぎには閉じてしまうので、花を観賞するには午前中、それも朝早いほうがいいですね。もし運が良ければ、このお池にかかる不思議な靄にもお目にかかれるかもしれませんよ。靄がかかった鏡容池は何とも幻想的な世界でね、でも滅多に現われない不思議な自然現象ですから、相当、運が良くないと体験は出来ませんよ。それに門が閉まっていれば、それで終わりです。」
ボンボンが感心したように言った。
「このお寺は苔もとてもきれいですね。本当に見所の多いお寺ですね。」
「この辺の土壌は粘土質なのだそうです。だから水はけが悪いから、苔がよく育つのだそうです。苔の他にも、日本人が昔から愛しみ大切にしてきた藤の薄紫色の花もここで観賞することが出来るのですよ。確かに龍安寺は見所の多いお寺ですね。」
三人は再びタクシーを拾って嵐山へと向かった。茂木は車中のボンボンが龍安寺をすっかり気に入ってしまって、まだ興奮気味のように見えた。一方、早苗が少し沈んでいることも茂木は見逃さなかった。それは禅の計り知れない奥の深さに戸惑っているのに違いなかった。でもこれから向かう嵐山、そして目的のお庭、大河内山荘は明るいはずだ。あの明るい定食屋のおばちゃんが絶賛する位のお庭だから、きっと早苗ちゃんも気に入ってくれるだろうと茂木はおもっていた。車は大きな門の前を通り過ぎた。タクシーの運転手が言った。
「御室桜はもうご覧になられましたか?」
茂木が答えた。
「いえ、まだです。今、通り過ぎた仁和寺の背の低い、あの桜ですよね?」
「ええ、そうです。そうです。さっきの二王門が仁和寺ですわ。京都では人偏をつけて仁王門と書くお寺さんが多いのですがね、仁和寺さんだけは漢数字の二を使いましてな、二王門と書きます。何しろ千年もの長い間、筆頭門跡として、そりゃあ、随分とお高い寺格でいらっしゃいましたから、桜もあのように、まるで頭を下げているように咲きます。見上げるのではなくて、仁和寺の御室桜は見下ろす桜なのですね。それから御室桜は遅咲きの桜ですから、京都では春の終わりを告げるお花としても知られています。」
「仁和寺はたしか宇多天皇が出家して上皇になられたお寺ではなかったでしょうか?」
「そうです。そうです。だから寺院でありながら、まったくお寺らしからぬ、とても優雅な造りになっているのでございますよ。」
「運転手さんは仁和寺のことが詳しいのですね。」
「ええ、たいていは仁和寺の前でスタンバイしているものでね、ドライバー仲間にあそこのお寺で若い頃、修行をした者がいましてな、自然と詳しくなってしまいましたよ。」
車は左に曲がり、通りは門前町の家並みに変わった。街道に入るとすぐに渡月橋に到着した。
「運転手さん、橋を渡って向こう側に行って下さい。」
茂木は観光ポスターなどでよく見かける写真とは反対側、渡月橋の南側に車を停めさせたて、三人は降りた。茂木が橋について話し出した。
「渡月橋の名前は鎌倉時代に亀山上皇が夜中に橋の上空にかかるお月さんを見て、あたかも月が橋の上を渡っているようだと言ったことに由来するそうです。洛西で最も有名な景勝地、嵐山のシンボル的な美しい橋ですね。春は桜、秋は紅葉、それはまるで渡月橋が色濃く染まった山々に突き刺さっていくかのように見えます。下を流れる保津川の鵜飼も千年の歴史があり、鵜飼舟のかがり火と鵜匠たちの独特なかけ声が響き渡ると嵐山は幻想的な世界に変わってしまいます。」
三人は橋を見ながら、お弁当を食べた。川を渡る風がとても心地よく、そのお弁当の味はどんな立派な高級料亭の懐石料理にも勝っていた。しばらく嵐山公園を散策した後、ぶらぶら歩きながら橋を渡りメインストリートに戻った三人は天龍寺の南門をくぐった。京都五山第一位に列せられたが、創建以来、何度も火災に見舞われた不運のお寺だ。幕末の蛤御門の変の時は長州藩が本陣をこのお寺に置いた為に西郷隆盛の率いた薩摩藩によって焼き討ちされた。お堂のほとんどは明治時代に再建されたもので、新しささえ感じられる。三人は大方丈へと続く庫裡(くり)には入らずに庭園へと足を進めた。茂木が前の晩に調べておいた説明を始めた。
「このお庭はね、夢窓疎石という人の造ったあまりにも有名なお庭の一つでね、借景という手法を使って、少し離れている嵐山や亀山をまるでお庭の一部のように取り入れてしまったんだ。夢窓疎石に言わせるとお庭の価値というものは草や木、あるいは水や山の配置よりも、むしろそれらを見る心の持ち方なんだそうだよ。庭と向かい合い、自分自身とも向かい合う。そして霊を感じて、だんだんと無の境地に入ることなんだそうだよ。難しいね。そんなことを言われたって、凡人には無理な話ですよね。」
早苗が言った。
「難しいお庭の価値はあたしには分かりませんけれど、このお庭は茂木さんが言うように、後ろのお山がまるでお庭の一部のように見えますね。」
ボンボンはあまりこの庭が好きではないようで、眉をひそめて言った。
「ここのお庭はとても立派で素晴らしいとおもいますが、僕はどちらかと言うと水も木もない、さっきの龍安寺の石庭の方に心が引かれます。あまりにも僕には印象が強すぎて、今は他に何も見えないのかもしれませんね。茂木さん、せっかく案内してもらったのにごめんなさい。どうしても、あの石庭の十五個の石が頭から離れないものですから。」
茂木が言った。
「いいんだよ、それは私にもよく分かる。修学旅行のように一度に何箇所も回る方がどうかしているのだからね。でもこのお庭も時間をかけてさ、じっくり眺めるといろいろな発見があるとおもいますよ。聞いたところでは、夜中にね、お坊さんたちがこのお庭のあちらこちらで座禅を組むのだそうです。それぞれが己と向かい合って修行を続けていくうちに、お庭が夜だというのに突然に輝いて見えてくるのだそうです。不思議だよね。禅の世界ではさっきの龍安寺にしても、この天龍寺にしてもお庭というものの占める位置は相当に大きいようだね。でも、今日は申し訳ないけれど、この天龍寺さんのお庭はさっと素通りするだけにしよう。裏の北門から出て、大河内山荘に行きたいのです。」
三人は足早に曹源池を回り込み、書院、多宝殿を過ぎて、小川が流れる池泉回遊式庭園も横に見て北門から天龍寺さんの外に出た。するとそこにはまったくの別世界があった。うっそうと茂る竹林が広がっていた。しばらくその竹林の中を歩くとなだらかな坂道に出た。切れ目のない竹林はまだ両側に続いており、そこはかぐや姫の世界そのものだった。やがて道は突き当たって、三人は左に曲がった。「大河内山荘」と書かれた案内板が目に飛び込んできた。茂木がボンボンに言った。
「この道を反対に行くと、奥嵯峨野です。先日、二人で行った祇王寺と滝口寺があります。さらにもっと奥に行くと、かつての風葬の地に建てられた化野念仏寺へと道は続きますが、今日は大河内山荘へ二人を案内しますね。」
早苗は少し興奮している様子だった。
「この嵯峨野の竹林のことは雑誌や友人から話を聞いて知ってはいましたが、これほどだとはおもいませんでした。本当にきれいなこと。案内してくださる大河内山荘に入る前から、あたし、これではどうしましょうね。きっと中はもっときれいなところなんでしょうね。楽しみですわ。」
茂木はまだ大河内山荘の中を見たことはなかったが、今朝、定食屋のおばちゃんがあれほど太鼓判を押してくれたお庭だから、間違いはないだろうとおもっていた。茂木は自信ありげに言った。
「早苗ちゃん、大河内山荘は誰も失望などさせませんよ。大河内傳次郎という有名な大俳優がその生涯をかけてこしらえた素晴らしいお庭ですからね。彼の芸術家としての豊かな感性をお庭のいたるところで垣間見ることが出来るはずです。京都で第一級のお庭と言っても過言ではないとおもいますよ。」
坂を登って行くと管理小屋に着いた。そこで少し高めの入園料というか、鑑賞料を払って中に入ると、視界は大きく開けてきた。小倉山そのものをお庭にしてしまった大河内山荘は草木や石の配置がとても見事で、それぞれの季節の彩りがさらに加わって、それは親しみやすい明るいお庭だった。茂木は定食屋のおばちゃんにそっと感謝した。おばちゃんの言っていた通り、文句のつけようのないお庭だった。
「ボンボン、ここはどうです?」
「うーん、茂木さん、ここには参りましたな。これを見ると日本人の感性というか、センスがとても研ぎ澄まされていることに気づきますよ。ここは龍安寺の石庭のような、あの緊張感はまったくありませんが、明るくて実に清清しい見事なお庭ですよ。心も体も何かほっとするようなお庭ですね。こんなところで本を読んだり、友達と語り合ったりして暮らせたらとても幸せでしょうね。」
「大河内傳次郎は昭和37年の夏に、ほら、そこの大乗閣で眠りについたそうですよ。」
早苗が不思議そうに言った。
「こんなにきれいなところなのに、あまり人がいませんね。入場料が少し高いから、みなさん、敬遠しているのかな?もちろん、修学旅行の学生さんたちはお金もありませんし、ここのお庭は他の国宝級の寺社と比べると歴史的な価値はそれほどありませんから、どんなにきれいでも学校は薦めないでしょうね。」
茂木が言った。
「そう言われると、熟年のご婦人たちの姿ばかりが目立ちますね。まだ、世間一般にはこのお庭はあまり知られていないのかもしれませんね。私としては、もうこれ以上、有名になってほしくはありませんよ。このままそっと静かにしておいてほしいというのが正直な気持ちですよ。これだけのお庭ですからね、誰にも言わずに秘密にしておきたいですね。」
ボンボンの意見はこうであった。
「名前でしょう。大河内山荘の山荘と言う名前がどこかの会社の保養所みたいだから、皆さん、中に入るのを遠慮してしまう。人が少ないのは入りづらい名前が原因でしょう。」
入り口のところでお抹茶がサービスとしてたてられると聞いていたので、三人は赤い毛氈が敷かれた腰掛に座った。隣の席に先に着いた老夫婦の会話が耳に入ってしまった。
「このお抹茶がつけば、決して、高くはありませんよ。さっきは入り口のところでびっくりしましたがな、何とお高い入場料なんだってね。」
「いや、お抹茶がなくても、これだけのお庭だよ。俺は高いとはおもわないな。」
ボンボンが老夫婦に聞こえないように小さな声で早苗に言った。
「確かに、このお抹茶がつけば、誰もここの高い入場料には文句は言いませんよ。」
「こんなにきれいなお庭ならば、あたしはもっと高くてもいいと思いますよ。もっと高ければ、あまり人は来ませんからね。このお庭はそっとこのままにしておいてあげたいから。」
茂木は定食屋のおばちゃんの言葉を思い出した。
「早苗ちゃん、ボンボン、実はこのお庭はこれでお終いではないのですよ。山の上まで小道が続いているのです。そこからの眺めが絶景なのですよ。坂道と言ってもそんなに大変ではありませんから、行ってみませんか。」
早苗が目を見開いて言った。
「本当ですか?是非、上まで行ってみましょうよ。へえ、そうなんだ。このお庭は広いんですね。だけど、みなさん、そんなことは知らないから、お茶をご馳走になったらすぐに帰っていますね。さすがですね、茂木さんは名案内人でいらっしゃること。」
「いや、実はね、私も知らなかったのです。今朝、行きつけの定食屋のおばちゃんからここに来たら、必ず、山の上まで登るようにと言われましてね、それで偉そうに話しました。だから私もこの上にいったいどんな世界が広がっているのか、わくわくしているところなのですよ。」
ボンボンは隣の席に座ったご婦人たちに頼まれて、カメラのシャッターを切っていた。茂木と早苗も立ち上がり、ボンボンの名カメラマンぶりが終わるのを待って、迷路のような小道の探索を始めた。
しばらく、なだらかな坂や石段を登って行くと急に辺りの視界が開けた。そこで、まず、早苗が歓声をあげた。
「わあ、素敵。嵐山がすぐそこに見えますね。下には保津川も、見て、こんな素敵な景色は、あたし生まれて初めてですわ。まるで絵を見ているみたいだわ。」
茂木とボンボンも早苗が指差す下の方を見た。ボンボンが次に言葉を発した。
「なんてこった、早苗ちゃんの言う通りだ。正にこれは絵画ですね。大きなキャンパスに嵐山という景勝地を壮大に描いたようなものだ。」
茂木もびっくりしていた。定食屋のおばちゃんが言った通りだった。
「もしも、これが秋だったら、大変ですね。真っ赤に染まった嵐山を本当に独り占めだ。下に流れる保津川も絶景だし。いやあ、こんなところもあるのですね。ほら、あそこを見て下さい。お山の中腹の辺りにお寺があるでしょう。あれは千光寺です。みんなは大悲閣と呼んでいますがね。あそこからの京都の街の眺望もとても有名で絶品なのですよ。しかし、驚きましたね。嵐山というところはどの角度から見ても素晴らしい、昔の人々がこの地をとても愛したのがよく分かりますよ。」
「茂木さん、あたし、京都って、修学旅行しか知らなかったでしょう。詩仙堂にしても、この大河内山荘にしてもあたしの京都のイメージをまったく変えてしまいましたわ。こんな素晴らしいところに連れて来ていただいて、本当に感謝いたしますわ。」
さらに奥に進んだ三人はどうやら定食屋のおばちゃんが言っていた見晴台に出たようだった。小さな庵が小道の横にこしらえてあった。やさしい風が吹いていたので茂木はおばちゃんの言っていた庵がここであるとすぐに分かった。そのそよ風の心地良さは素晴らしい景色と相まって、なんともふわふわした感じがした。茂木はここに来て本当に良かったと心の底からそうおもった。何度も定食屋のおばちゃんに感謝をする茂木であった。
早苗がうっとりとして言った。
「きっと、大河内さんという、ここをお造りになった役者さんはお友達をここにたくさん連れて来たのでしょうね。そしてお友達の喜ぶ顔を見て楽しんでいたのだとおもいますわ。」
茂木が二人に提案した。
「ちょっといいかな、少しの間、そこに座って京都を眺めていませんか。私はしばらくここから動きたくはありません。少し休んでいきましょうか。」
ボンボンも賛成した。
「ええ、いいですよ。それにしても、さっきから僕ら以外には誰も来ませんね。さっき写真を撮ってあげたおば様たちもやって来ませんし、みなさん、この見晴台のことを知らないのですかね。」
早苗が言った。
「あたし、こんなきれいなところを誰にも教えたくはありませんわ。」
茂木が言った。
「私もまったく同感だな。ここは私たち三人だけの秘密の場所にしておきましょうか。でもきっと、それは無理ですね、私は血液型がB型ですからね。こんなに素晴らしい眺めなのだから、必ず自慢して誰かに喋ってしまいますね。」
「でも、修学旅行の学生さんたちが、ぞろぞろこのお庭を歩き出したら台無しになってしまうわ。やはり、あたしたちだけの秘密にしておくべきだとおもうわ。ボンボンはどうおもう?」
庵の中ではなく観光客の為に用意された椅子にボンボンは腰掛けながら言った。
「京都の文化はお庭と大きな関係があるようですね。きっとお庭をテーマにして京都を研究したらおもしろい論文がかけるかもしれませんね。茂木さんもそうおもうでしょう。」
「いやあ、本気で京都のお庭を調べ始めたら、一生かかっても、そのすべてを知ることは出来ないでしょうね。たとえば、何の変哲もない民家の中庭にも、ドキッとするようなお庭がありますからね。」
早苗が言った。
「昨日の詩仙堂のお庭はよく計算されて造られた見事な人工的なお庭でしたけれど、この大河内山荘はどちらかというと野性味の溢れるお庭だと言えませんか。小倉山でしたっけ、その山そのものをお庭にしてしまっているでしょう。確かに人が手入れをしているのは分かりますけれど、他のお庭と比べると野生的な感じがしますね。どちらも、あたしは大好きです。二つのお庭を見て私は心が明るくなりました。禅のお寺にあるお庭はあたしには難し過ぎます。確かに見ているだけで心は落ち着きますけれど、でもね、やはり、あたしにはまだよくわかりません。経験が足りませんから。それにお父さんと喧嘩して家を飛び出て来たでしょう。だから、今は冷静に物事を見ることが出来ないのかもしれませんね。戸隠を出る時はとても気落ちしていたけれど、詩仙堂や大河内山荘のようなきれいで明るい開放的なお庭に触れて、なんだか気分がすっきりしてきました。思い切って京都に来て良かったなとおもいます。いやだ、あたし、何を言っているのでしょうね。まとまりのない話になってしまいましたね。」
三人が大河内山荘を出る時にはすっかり太陽も傾き、人の気配もさらになくなってきていた。茂木は出入り口にある管理小屋に座っていたおばさんに小さな窓越しにお礼を言った。
「素敵なお庭でした。有り難うございました。私はすっかりここが気に入ってしまいましたよ。また伺わせていただきます。とてもさわやかな気分になりました。本当に有り難うございました。」
小屋の中のおばさんは声は出さずに微笑みを浮かべながら頭を下げた。しっかりと年輪の刻まれたおばさんの笑顔もとても素晴らしかったので、ボンボンが言った。
「やはり、素晴らしいお庭にいる人は笑顔もとても美しい。お庭はひょっとすると人の心も表情も磨くものなのかもしれませんね。」
茂木もうなずいた。
「そうかもしれませんね。私は今日はいろいろなことをお庭を通して学びましたよ。確かにお庭は人と共に生きているということが実感出来ました。南禅寺の奥まった所にお庭があるのですがね、今、ちょっとその名前が思い出せませんが、前に言った時にそこのお庭を包む空気が悲しみに満ちていたので、後で調べてみたらところ、そこは実権を奪われた天皇のお庭でしたよ。お庭はそこの主の気持ちを表すようになるのですね。とても良いお庭なのですよ。でも寂しさが伝わってくるんです。まったく不思議なものですね、お庭というものは。気持ちが癒されて明るくなるお庭もあれば、人生そのものを考えてしまうお庭もある。そして四季折々にその表情も刻々と変えていく、まったくお庭は生き物ですよ。」
茂木は二人をホテルまで送って行った後、その足で居酒屋「川原町」へ行き、いつものように彼の指定席に座った。楽しい一日だった。
花街
花街
花街は女だけの社会であるからよそ者に対する警戒心は非常に強い。お客が「花街」のことをどう読むかでもって、その人間にたいする警戒心も違ってくる。花街の関係者の間では現在、「花街」のことを「はなまち」とは呼ばずに「かがい」と読んでいるから、お客の熟知度をその読み方でもって判断している。居酒屋「川原町」の女将は花柳界の出身で以前は先斗町で長い間芸妓をしていた。教養もあり芸事も超一流の腕前を持っている。居酒屋を始めてからも花街の言葉使いが時々出てしまう。またそれが居酒屋「川原町」のセールス・ポイントでもあった。実は茂木の下宿の奥さんも花柳界の出で祇園東の花街では「菊」という名でかなり人気があった芸妓さんだった。茂木の父は外交官であるが、その茂木の父の上司に口説かれて菊さんは花柳界を惜しまれつつ去ってしまった。だから茂木が世話になっている下宿の奥さんも花街の言葉を使っているのである。「・・・・どす。」とか「・・・・おへん。」の言葉使いは厳密に言うと花街の言葉であって一般庶民が使う言葉ではない。ところが映画やドラマなどでそれらの言葉が頻繁に使われだし、京都の言葉として広まってしまった結果、花街の言葉が世間一般に少し氾濫してしまったようなのである。
居酒屋「川原町」の女将も茂木の下宿の奥さんもけっして話がおもしろいというのではないが、その受け答え方が実にうまいのである。二人ともたいへんな話の聞き上手で、話をしている方がいつの間にか彼女たちの世界に引き込まれて心地よくなってしまうのである。この才能は花街での長い修練期間、舞妓時代、芸妓時代を通して自然に身につけた話術なのであろう。身近にいる人々のせいもあるのだが、茂木は若いくせに、かなり花街のことが詳しかった。
江戸時代に八坂神社の門前町として栄えたのが祇園町である。遠くはるばる八坂神社を参詣しに来た者たちをもてなす為に水茶屋ができたのが今の「お茶屋」さんの始まりだと言われている。茂木は下宿の奥さんの話を聞くうちに花柳界の歴史にも詳しくなってしまっていた。その水茶屋で働いていたのが茶汲女あるいは茶点女と呼ばれる女たちだ。彼女たちが舞妓さんの始まりだと言われている。お茶をふるまう程度の水茶屋が参詣者の要望も聞いたのであろうが、お茶よりも収益性の高いお酒も扱うようになったのは当然の成り行きで結果だったと茂木はおもう。やがて茶汲女が歌や踊りを見せるようになり、今度はそれを目当てにやって来る者も増えだし、商売はさらにエスカレートしていく、この時代から歌舞伎や芝居が世の中では大流行し始め、圧倒的な歌舞伎や芝居の人気は次第に舞や三味線、太鼓をお茶屋の座敷に持ち込ませることとなった、八坂神社を参詣して京の見物をする間、門前町祇園に長逗留する客の世話もこのお茶屋さんは面倒をみるようになった。そして芸事を披露する舞妓さんや芸妓を置く「置屋」さんが現われるのだ。「置屋」さんは現代の芸能プロダクションのようなもので、「お茶屋」さんに舞妓さんや芸妓さんを派遣する業務を担当するようになった。「置屋」さんと「お茶屋」さんの役割分担がどうやら長い歴史のある京都の花街をこれまで発展させてきたのだと茂木はおもう。一般的に舞や唄、そして三味線などで宴会などを盛り上げる女性たちを関東では芸者、関西では芸妓と呼んでいる。修練期間の浅い妓を総称して関東では半玉、関西では舞妓とよんでいる。そして今、その京都の花街で少し話題になっている双子の舞妓さんがいた。その千代菊と菊千代の二人は実は茂木の下宿の奥さんの娘で、茂木は二人が置屋さんに入る前から彼女たちのことはよく知っていた。「仕込みさん」という期間は半年から一年ぐらいかかるのだが、千代菊と菊千代はこの期間に舞妓になる為の芸事や京言葉、そして行儀作法を徹底的に叩き込まれた。千代菊と菊千代の二人は新しい踊りを覚える度に茂木の部屋にやって来ては自慢げに踊って見せたものだった。しかし、この期間の二人は涙が絶えず、茂木の部屋で涙がかれるまでよく泣いていたものだった。やがて、二人とも引いてくれる(指導してくれる)お姉さんが決まり、このお姉さんに連れられてお茶屋さんに挨拶まわりをした。それは二人が「見習いさん」としてお姉さんと一緒にお座敷に出られるようにするためだ。今度はお座敷での作法やお客様の接待の仕方の勉強が始まった。この頃の二人の髪は「割れしのぶ」と呼ばれる独特の結い方で、帯も短い「半だら」と呼ばれるものだった。その髪形と帯でまだ二人が見習い中であることを旦那衆に暗黙のうちに示していた。「店出し」とお披露目をして正式に舞妓さんとして二人がデビューしたのは四年前のことでした。二人の帯は普通の帯よりも長くて幅が広い「だらり」の帯に変わり、帯には置屋さんの印が縫いこまれました。しかし髪はまだ「割れしのぶ」のままで、若い舞妓さんは成熟した芸妓さんと違って紅は下唇しか塗ることが許されていません。半衿も赤い衿のままでしたが「おこぼ」と呼ばれる高下駄で歩く姿はとてもかわいらしく愛らしいものでした。千代菊と菊千代は午前中は舞や三味線、時にはおはやしの稽古で忙しく、ただ午後の休憩時間にはよく茂木の部屋にやって来ては大の字になって昼寝をしていたものでした。夕方からお座敷がある時は、念入りに支度をしてそれぞれのお座敷にでかけて行くのが彼女たちの一日でした。千代菊と菊千代は本当に瓜二つで茂木にとって千代菊の首筋にあるホクロだけが二人を見分ける唯一の方法でした。しかし舞妓の化粧をしてしまうと、そのホクロもおしろいの下に隠れてしまって、茂木には二人を見分けることがまったく出来なくなってしまいました。ただ三年前の鱧(はも)祭りの夜、一般には祇園祭と呼ばれている祭りの夜に菊千代が酔っ払って茂木の部屋へ転がり込んで来たことがあった。その時に茂木は菊千代の左のふとももの内側に大きなアザがあるのを見つけ、それが二人を見分ける新しい術と言えば術なのかもしれないが、そう簡単には見分けがつく方法ではなかったので、やはり外見からでは二人を見分けることは至難の技でした。
千代菊と菊千代が舞妓さんになって三年目の夏に「わけがえ」と言って髪形が「割れしのぶ」から「ふくおふく」に変り、また半衿も赤から大人っぽい白の半衿に、かんざしも芸妓っぽくなった。昔はある特定の旦那が付いた時に行なっていたらしいのだが、最近では適当な年齢になると「わけがえ」を行なうのだと菊千代が以前、詳しく説明してくれた。千代菊も茂木にかんざしについて話をしてくれたことがあった。京都の人々は舞妓さんの
かんざしを見て季節の移り変わりを感じて生活しているのだと説明してくれた。かんざしは月によってさまざまで、正月は「稲穂」、二月は「梅」、四月は「桜」、五月は「藤」や「牡丹」、十月は「菊」といった具合で舞妓さんが差すかんざしは幾つもあるのだそうだ。
一般にお座敷で舞妓さんと芸妓さんが同席する場合は舞妓さんはまだ芸が浅いので立方をおもに担当して、芸妓さんが地方を担当する。分かりやすく言い換えると、舞妓さんが舞を担当し、芸妓さんが唄ったり三味線を弾いたりするということだ。現在、京都には上七軒、祇園東、先斗町、祇園甲部、宮川町、嶋原の六つの花街(かがい)があり、ただし嶋原には舞妓さんはいませんが太夫さんがいます。京都の花街は帯を締める男衆を除けば女ばかりの世界ですから、自分たちの生活の安全のためにも多くのしきたりや決まり事があります。一番有名なしきたりは何と言っても「一見(いちげん)さんお断り」の制度だ。
どこのお茶屋さんでも、いくら偉いお人が来ても、どんなにお金があるお大臣さんでも、常連さんが紹介してくれない限り、決して初めてのお客を中へ入れることはない。どこの誰だか判らない人には一切、接待をしないのである。常連さんのプライバシーの保護だとか、また常連さんの優越感を満足させる為だとか、あるいは常連さんとの長いおつきあいを重視する為だとかいろいろな理由でもって、どんなにお客さんが少ない時でも常連さんの紹介のない初めてのお客に対してはこう言うのだそうだ。
「あいにく、お座敷は空いておりません。」
兎に角、常連さんの紹介が必要なのである。また一方、紹介した常連さんは責任が重大で、身元保証人としてすべての責任を負うことになる。茂木はこの制度を銀行振り込みがない時代の女将の請求事務及び集金事務の賢い知恵であると解釈している。ただ、現在はお客様から芸妓さんの希望があると料亭や旅館から見番(料亭や旅館の組合)に連絡が入り、各置屋さんに手配されることもあるらしい。確かなことは茂木でさえも承知していない。もちろん客が置屋さんに直接連絡をすることは今でも出来ないはずだ。「一見さんお断り」というしきたりが今も生き続けている事実は裏を返せば常連さんを再び引き付ける魅力がこの花街(かがい)にはあるという証明でもあると茂木は結論づける。京都の花街のトップ・スターになりつつあった千代菊と菊千代を知る茂木は彼女たちを保護する為にも花街の敷居はもっともっと高くすべきだと考えているし、もっと厳しいしきたりの必要性を感じていた。哲学者茂木本人はこの花街の文化を吸収する為に学生の分際でありながら時折、それも頻繁にお茶屋さんに出入りしている常連さんなのである。彼の口座にはどれだけの貯えがあり、またどうしてそのような大金を自由に使えるのか、まったく謎の多い人物であった。
国際的にも舞妓さんや芸妓さんは京都の顔として認識されていて、千代菊と菊千代の二人もだんだんと落ち着きとプライドが出てきたように茂木にはおもえた。京都でも双子の舞妓さんはとてもめずらしく、おまけに二人ともかわいらしいから、一晩に幾つもお座敷をこなしていた。茂木には人気絶頂の二人がだんだんと遠い存在になりつつあった。そんな頃、千代菊と菊千代も舞妓さんとしての長い修練期間を終えて、もし事件が起こらなければ、数日後には襟替えのお披露目をして晴れて舞妓から芸妓になるところだった。芸妓さんになるとかつらをかぶるので、舞妓から芸妓に変る数日間だけ自分の髪で結い上げる最後の髪形は彼女たちにとって、とても感慨深いものになるはずだったのだが、襟替えのお披露目を前にして、この人気絶頂の双子の舞妓さんは花街から、突然、姿を消してしまったのだった。
逃避行、 別世界
逃避行
「茂木はん、起きておくれやす。はよお、起きておくれやす。」
千代菊と菊千代が茂木の部屋に飛び込んで来て、まだ寝ている茂木を揺り起こし始めた。
「茂木はん。えらいことどす。起きておくれやす。」
茂木がゆっくりと目を見開いてみると、まだ化粧をしていない千代菊と菊千代の二人が枕元に神妙な顔をして座っていた。茂木はまだ完全には目が覚めていない。それでも何とか布団から上半身だけ起こして座ることが出来た。千代菊なのか菊千代なのか、まだ半分眠りの中にいる茂木には判断は出来なかったが、そのどちらだか判らない方が言った。
「東京にいるお父ちゃんから電話でな、何も聞かずに、兎に角早く、どこかに身を隠すようにと言われました。茂木さんと一緒にどこかへ隠れるようにと言われました。何だかよく分からないけれど、何も言わずにすぐに茂木さんとな、どこかへ逃げろときつく言われましたんえ。」
茂木の父親は彼女たちの父親と同じ外交省のお役人だ。今は海外勤務に就いており日本にはいない。千代菊たちの父親は外交省の幹部で東京の霞ヶ関にいて、京都の家には年に数える程しか戻らなかった。そして茂木の父親の直属の上司でもあった。しばらく布団の上で座ったままじっと考えていた茂木だったが、さっと立ち上がり乱れたねまきを整えながら言った。
「千代ちゃん、菊ちゃん、パスポートは持っていますか?」
「いいえ、まだどす。うちら、京都から出たことあらしません。」
「では、今日、申請しますから、役所に行って、戸籍謄本か抄本、それに住民票ももらってきてくだい。写真も必要ですから、役所の帰りにでも撮っておいて下さい。あ、それから貯金はすべて現金に替えて持っているように。」
「へい、そうしますけど、いったい何があったんやろか?うち、恐いわ。」
「そのうちに、嫌でも耳に入ってきますよ。私にもまだ詳しいことは分かりませんが、いつかは、こうなるだろうと覚悟はしていました。いいですか、すべて内密のうちに事を運びますから、誰にも言わないようにね、いいですか。」
「お母さんは東京に行ってしまったきり、帰って来いしませんけど。お母さんはどうするのやろか?」
茂木はすべてをあたかも把握したかのように言った。
「あなたたちとは別ですよ。お父さんと一緒に社会的責任をとることになるとおもいますよ。いずれこの家も処分されることになるでしょう。」
「お父ちゃん、何か悪いことしたん?お父ちゃんたちはどうなるんやろか?」
「しばらくすると、テレビも新聞もそのニュースで一色になるでしょうね。たくさんの記者たちがこの家にも押し寄せてきますよ。その前に私たちはどこかへ移動しなくてはなりません。」
「何か、うち、恐いわ。でも茂木はんが一緒なら平気やわ。」
「菊ちゃん、よー、言わんわ。」
千代菊が菊千代を叱りつけた。
「けど、うち、茂木はんのこと好きやねん。」
「二年、いや三年ぐらいは日本を離れることになりますから、覚悟しておいて下さい。マスコミが嗅ぎ付けて来る前に、早く行動しないと、無事に日本から脱出が出来なくなるかもしれません。さっき言ったように、この事は誰にも言わないこと、いいですね。まずパスポートを取りますから、書類を準備しておいて下さい。そうだ、もう、この家には戻らない方がいいな。駅前のホテルに部屋をとりますから、パスポートが出来上がるまで、そこで待つことにしましょう。これから私もいろいろ準備がありますので、夕方、ホテルのロビーで会うことにしましょうか。」
二人が部屋から去った後、茂木は自分の部屋の片付けをしながら考えていた。いつかはこうなることは分かっていた。きっと、外交省という大きな組織の歯車がどこかでかけ違ってしまって、自分の父親や千代菊たちの父親もその狂いだした歯車に巻き込まれてしまったのに違いない。今は千代ちゃんと菊ちゃんのことを自分が全力で守ってやらなくてはいけないとおもった。
茂木は京都駅前にあるホテルの展望レストランで早苗とボンボンと昼食を共にしていた。
「早苗ちゃん、ボンボン、本当に申し訳ありません。私、急に用事が出来てしまいました。ゆっくりと京都を案内しようとおもっていたのに、それが出来なくなってしまいました。とても残念です。すみません。早苗ちゃん、また、いつか詩仙堂に行きましょうね。」
「ええ、きっとね。秋の紅葉に行きたいわ。きれいでしょうね。」
「今年の紅葉は無理かもしれませんね。でも、いつか、必ず行きましょう。」
「茂木さん、どこか、遠いところにでも行くのですか?何だかそんな言い方だわ。」
「いや、まだ分かりませんが、しばらく学会の手伝いで日本を離れることになるかもしれません。あ、そうだ、ボンボン、君の連絡先を教えてくれないか。東京の住所とフィリピンの連絡先も教えて下さい。」
「ええ、いいですよ。これが僕の名刺ですけれど、裏にマニラの住所と電話番号も書いておきますね。はい、どうぞ、これが向こうの連絡先です。」
「有り難う。必ず、連絡しますからね。ボンボン、本当にごめんなさい。誘っておいて、ちゃんと案内が出来ないで、申し訳ありません。」
「とんでもない、僕はもう十分に京都の良さを感じとることが出来ましたよ。戸隠で茂木さんに会えたことを神様に感謝しているのですよ。もし、茂木さんにあの時、声をかけられなければ、僕はまだ絶望のドン底にいたでしょうから。」
「何だか、照れくさいな、そんな言い方をされると。私はそんなに偉い人間じゃあ、ありませんよ。ボンボン、せっかく京都に来たんだから、まだしばらく京都を回ってみたらどうですか。そうだよ、早苗ちゃんと京都の休日を楽しんだらどうですか?」
早苗が慌てて答えた。
「いえ、あたし、これから長野に帰ることにしたのです。さっきボンボンとも相談して、そうすることに決めましたの。家を急に飛び出して来ちゃったでしょう。みんなが心配しているといけないから。帰ることにしましたの。さっきここへ来る前に京都駅に寄って列車の切符も買ってきました。」
「そうですか、戸隠に帰ったら、どうぞおじさんによろしくお伝えください。しばらく私は戸隠には行けそうにないので、みなさんによろしく言っておいて下さい。ボンボンはどうするつもりですか?」
「僕は今晩、新大使の歓迎パーティーで知り合った渡辺社長と食事をすることになっています。お座敷に連れて行ってくれるそうで、とても楽しみにしていますよ。」
「そうですか、それはよかった。」
「僕も今夜、渡辺社長と食事をした後、最終列車で東京に帰ります。さっき早苗ちゃんと一緒に切符も買ってきました。京都の素敵なお庭を案内してくれてありがとうございました。茂木さん、それから、ちょっと聞きたいことがあるんですが。」
「何かね?」
「舞妓さんというのは娼婦ですか?」
「違う、違う、ボンボン、それは違いますよ。」
「でも彼女たちは置屋にいるでしょう。」
「舞妓さんは座敷で舞を踊ったり、唄を歌ったり、三味線を弾いたりして宴を盛り上げる人達だよ。芸事の言ってみればキャリアウーマンってとこかな。舞妓さんは若くないと出来ないから、中学を卒業してから仕込みと言って、屋形(芸者置屋)に所属して修行したり、その前に屋形から中学に通う子供たちもいるくらいですよ。渡辺社長がどんなお方か知りませんが、舞妓さんは京都を代表する顔ですから、プライドも教養も一流の人ばかりですよ。実は僕も君をお茶屋さんへ連れて行ってあげようとおもっていたのですがね。私の代わりにその社長さんが君を案内してくれると聞いて嬉しくおもいますよ。どうぞ、楽しんできて下さい。」
「茂木さん、あたし、そろそろ列車の時間だわ。必ず連絡して下さいね。それから詩仙堂の紅葉は約束ね。」
「うん、分かった。必ず行きましょうね。じゃあ、気をつけてね。おじさんにくれぐれもよろしく。」
「茂木さん、僕もこれで失礼します。駅まで早苗ちゃんを送って、タクシーに乗りますから。ここで失礼します。僕も連絡を待っていますよ。」
「ああ、わかりました。必ず連絡しますよ。ボンボンも体に気をつけて。最後に、舞妓さんは娼婦ではありませんからね。いいですか。娼婦ではありませんよ。」
ボンボンと早苗がホテルのレストランから去って、一人残された茂木は窓の外の京都の景色を見つめていた。東寺の五重塔が涙で曇ってしまって、よく見えなかった。再び京都に戻れるのかどうか、今の自分にはそれすらも分からない。京都を追われ、日本も追われる自分の運命をどう結論づけろというのだ。違う、追われる前に逃げるのだ。そうだよ卑怯者だ。これから自分がしようとしていることは卑怯者の逃避行なんだよ。でも、千代ちゃんや菊ちゃんが日本中の人々から石を投げられるのを黙って見ているわけにはいかない。彼女たちを助けてあげなくてはいけない。彼女たちは何ひとつ悪いことはしていないのだから。男の涙は虫酸が走るけれど、でも涙がどうしても出てきてしまう。茂木は目に見えない大きな力に動かされている自分自身がなさけなかった。
別世界
京都は千年の都、花の都として春夏秋冬、全国からたくさんの人々が訪れる今も昔も変わらない、日本人にとっての特別な場所だ。「花街」もその京都にやってくる人々をもてなすために都とともに発展してきた。「花街」の窓口として、あるいは案内所として、たくさんのお茶屋さんがある。基本的にお茶屋さんは自分のところで調理することはなく、すべて仕出しや出前を頼み、お茶屋さんはお座敷を貸してくれるところで「料亭」とはそこが少し違っている。
祇園の繁華街を北に入り、そのネオン街をしばらく歩くと、あたりは一変してしまう。縦に細長い京格子の家々に混じって落ち着いた風情のあるお茶屋さんがたくさん並んでいるからだ。お茶屋さんにはやぼったい看板などは一切ない。格子戸の上に屋号を掲げてあるだけでとても奥ゆかしい。そして通りをさらに歩くと、その先には朱塗りの灯篭と橋が現われてくる。
ボンボンは早苗を送った後、渡辺社長との約束の時間まで独りで街をぶらぶら歩きながら時間を潰した。そして京都駅に戻り、渡辺社長に電話をした。渡辺社長は祇園にある何だか難しい名前の橋まで来るようにと言ってすぐ電話を切ってしまった。タクシーの運転手にその橋の名前を告げると、運転手は軽くうなずき車を発車させた。暮れかかった京都の町並みを車はゆっくりとすり抜けて、小さな橋の前で停まった。渡辺社長はもう来ていた。ボンボンを見ると近寄ってきて言った。
「いやあ、よく来ましたね。いらっしゃい。」
「突然、電話をしまして、すみませんでした。友人と京都を回っていたものですから。」
「まあまあ、とにかく、すぐそこだから、あがってからゆっくりと話をしましょうか。」
東山のはずれのお茶屋さんに社長はボンボンを案内した。歳のわりには体型が崩れていない女将がよく打ち水のされた玄関に迎えに出て来て丁寧に挨拶をした。
「社長はん、おこしやす。」
ボンボンは香の匂いを感じながら、玄関の正面に飾られた生け花に見とれていた。渡辺社長は大声で女将に尋ねた。
「千代菊と菊千代は、もう、来ているのか?」
「それが、社長はん、連絡がとれへんのやわ。おかしいわ。堪忍どっせ。」
「何でだ、今までそんなことは一度もなかったじゃないか。何とかならんのか?」
「堪忍どっせ、今夜はどうしても連絡、出来しませんね。ほんまにすんません。」
「まあ、いい。仕方がないな。すぐ他のでいいから呼んでくれんか。若いのがいいな、若いのが。」
書院造庭園は決して派手なものではなく、いわゆる数奇屋風書院造庭園であって、茶庭と書院造庭園を合わせたようなものと考えればよい。わび茶が庶民の生活に浸透して京都の町屋の中にその様式が今でもひっそりと受け継がれている。社長がボンボンを連れて来たお茶屋さんはそんな造りになっていて、薄暗い廊下を抜けると、見事な庭が現われる。狭い空間を見事に生かして、あっと、驚かせる世界が目の前に広がるのだ。それは外からでは分からないもので、町屋の中にひっそりと別世界が存在しているのだ。
「ボンボン、お寺さんやお庭もいいが、どうだ、ここも京都の風情があるだろう。」
「ええ、社長、まったく自分たちの文化とは違う世界ですね。入り口からではまったく想像が出来ない別世界ですね、ここは。とてもすばらしいです。」
さらに奥へ二人は女将の後姿を見ながらついて行った。廊下を曲がったあたりから、それはまるでタイムスリップでもしてしまったかのような感覚にボンボンは落ちてしまった。丸窓で障子の落ち着いた座敷に通され、その錯覚は更に強くなってきた。
「なあ、ボンボン、仕事でな、ダメになりそうな話はここへもってくるんや、壊れそうな話も壊れずに済むこともよくある。わしは何度もそれで助かったよ。」
煙草に火をつけながら、社長が続けた。
「しかし、残念だな、今夜はお前さんに今この街で一番人気のある双子の舞妓さんを紹介してやろうとおもっていたんだがな。実に残念だな。すまんな。」
「ありがとうございます。でも僕はここの町屋の雰囲気を味わうだけ、十分、満足しています。」
「なあ、ボンボン、話は違うがな、フィリピンって国はな、わしはな、これからだとおもうんだよ。わしは発展途上にある国にとても興味があってな、結構、フィリピンに関係する新聞の記事は注意して読んどるんだよ。一度、フィリピンに行ってな、この自分の目で見てみたいな。どうだろう、お前さんの国を案内してくれんか?」
「ええ、僕でよければ喜んで案内しますよ。どうぞ、社長の都合の良い時を言って下さい。私は社長に合わせますから。」
「そうか、ありがとう。まあ、まずは一杯飲んでくれたまえ。酒はいける口なんだろう?」
「いえ、そんなには飲めませんが、嫌いではありません。」
「そうか、じゃあ、いいから、まずは一杯。」
その時だった、舞妓さんが座敷の外に現われた。なかなか、中には入らずに、何やら長い挨拶を一通り終えてから言った。
「よろしゅう、おたのもうします。」
渡辺社長が手でかき込むように合図して言った。
「ああ、来たか、入れ入れ。さあ、早く入れ。」
ボンボンはその場が急にやんわりとした雰囲気になるのを感じた。祇園は西陣の近くにあるだけあって、舞妓さんの着付けもすばらしく、彼女がいるだけで座敷の空気が一変したのが分かった。と同時に不思議な緊張感もボンボンは見逃さなかった。続いて少し遅れて、年配の芸妓さんが姿を現した。三味線を抱えて入って来た。
「おたのもうします。」
さっきの舞妓さんとは違って、座敷に入る前の儀式は短かった。しかし最後の挨拶の言葉だけは同じで、どうやらそれが決まり文句なのだと、ボンボンはおもった。芸妓さんの方は社長と顔見知りのようで、部屋に入るといきなり話し出した。
「あら、社長はん、しばらくぶりどしたな。最近はお忙しくて、あたしのことはちいとも呼んでくれはらへん。千代菊と菊千代ばかりやさかいな。」
「お前の皮肉は、もういいよ。なあ、小菊、今日は大切なお客さんが外国から来ておるんだから、日本の伝統文化をたっぷり見せてやってくれんか。いいな。」
ボンボンが渡辺社長に質問した。
「舞妓さんや芸妓さんたちには何か組合のような組織があるのでしょうか。くだらない質問ですみません。ちょっと興味があるものですから。」
「ああ、あるよ。それにな、姉さんと妹の関係はな、つまりだ、ここにいるちょっと年期のはいったお人とそこの若くてかわいらしい舞妓さんの絆は実の兄弟姉妹以上のものがあるんだ。何だか恐いお兄さんたちの仁義みたいだよな。だから姉さんは自分の子供のように舞妓さんたちを守るんだな。わしから言わせると、余計なお世話なんだがな。」
しばらくすると、渡辺社長と年期のはいった小菊ねえさんは何やらひそひそ話まで始めて、勝手に二人だけで盛り上がっていった。ただ舞妓さんが舞いを踊っている時だけは社長の顔はとても無邪気で、まだどことなくぎごちない舞妓さんの舞をひやひやしながら見守る社長の横顔は幼かった。舞が終わると、ほっとする舞妓さんであったが、それ以上にそれを見ていた渡辺社長の方がほっとして安堵する様子は実に滑稽であった。まだまだこの世界を理解するには時間がかかりそうだなとボンボンは感じた。それでも伝統文化のにおいはしっかりとつかみ取ることは出来た。茂木に言われた舞妓さんは娼婦とは違うということはハッキリと分かった。ボンボンは部屋の壁に団扇がたくさん飾ってあるのを見つけた。形はどれも同じだが舞妓さんたちの名前の他に所属している置屋さんの紋章らしきものが入っていたので、きっとそれは舞妓さんたちの名刺のようなものだとボンボンは勝手に解釈した。何もかもが珍しく新鮮であった。舞妓さんや小菊ねえさん、そして社長も入って四人で記念写真も撮った。料理も冷めてはいたがおいしかった。知らず知らずのうちに時間は流れていった。気がつくとボンボンが乗る東京行きの最終列車の時間が迫ってきていた。
「社長、僕はいつでも結構ですよ。社長の都合の良い時にマニラにお供しますから、どうぞ予定が決まったら連絡して下さい。なんだか、せかせかしてすみませんが、列車の時間がありますので、今日はこれで失礼させていただきます。本当に貴重な体験をさせてもらってありがとうございました。」
「そうか、もう、そんな時間か。ボンボン、またゆっくり飲もうな。マニラの案内はぜひ頼むよ。京都の遠回しなやり方もいいが、ちょっと別の世界も見てみたくなってな、仕事の都合がつき次第、連絡を入れさせてもらうよ。その時はすまんがよろしく頼みます。
ちょっと、小菊、女将に車の手配を頼んでくれ。それから、お酒もな。」
ボンボンは席を立ち上がりながら言った。
「では、社長。僕はこれで失礼します。」
渡辺社長もよろよろと立ち上がりながら言った。
「ボンボン、今日はありがとう。わしは少し京都に飽きてしもうたよ。マニラ旅行を楽しみにしているよ。」
玄関の外まで社長は見送ってくれた。花街のネオンが車の窓を幾つも幾つも横切って行った。京都の町は狭い。あっという間に京都駅に着いてしまった。ボンボンの京都旅行はこうして終わった。
東洋一
東洋一
沖縄やタイ、そしてフィリピンなどにはベトナム戦争で爆発的に発展した街が幾つもある。休暇中の軍兵士の娯楽を提供する場所となった通りが幾つも存在したのだ。ベトナム戦争が終わって、それらの街の幾つかは今度は日本からの買春ツアーの餌食になってしまった。どんどんお金持ちになっていく日本と、どんどん貧しくなっていくフィリピンの接点では貧困から売春に走る少女たちが増え、その少女たちを買うために日本の男たちは団体でツアーを組んでフィリピンに出かけて行った。
フィリピンの憲法には母の生命と受胎からまだ誕生しない胎児の命も等しく保護するという記載があり、フィリピンは世界でも唯一どんな条件でも人工妊娠中絶が認められていない国である。このような崇高なモラルの規制は非常に重要であり、存続し続けてほしいものだが、同時に妊娠中絶が許されない為に日本人男性の身勝手な行動から誕生せざるをえなくなった日比混血の子供たちが存在しているのだ。そしてヨシオも路上で物乞いをしたり、タバコや新聞を売ったり、夜はレストランの前で客の車が盗まれないように見張りをしたりして生計を立てているジャピーノであった。ジャピーノとはジャパニーズとフィリピーノの混血児のことで、日比混血児(JFC)の呼び方よりも一段と差別的な呼び方である。
警官がとうもろこしを売るための手製のリヤカーの上で疲れきって眠っていたヨシオを蹴り上げた。
「おい、汚ねえの、早く起きろ!大統領閣下様が今ここをお通りになる。おまえみたいに汚いのは、とっとと、どこか見えない所に消え失せな!」
ヨシオはポケットから昨日稼いだばかりの小銭を取り出してその警官に差し出した。路上生活にも縄張りがあり、仲間やマフィアへの上納金や警官たちにもピンハネされるから、幾ら稼いでもほとんど手元には残らない。だからいつまで経ってもその日暮らしの生活のままだ。ゴミ置き場で母親と一緒にゴミを拾って生活していた方がまだましだったかもしれないとヨシオは時々おもう。しかしヨシオはチャンスを待っていた。人間としてのプライドは去年、東洋一のスラム、ゴミ捨て場スモーキー・マウンテンで母の死とともに捨ててしまった。誤って母がゴミ置き場で注射器を踏んでしまい、運悪くその時にエイズに感染してしまった。ヨシオは世間様が大切にするプライドなんか、もう母と一緒に葬り去ってしまっていた。どんなにバカにされてもいい、いつかきっと自分を捨てた日本人の父親に仕返しをしたかった。そしてヨシオは金持ちの日本人観光客から金を奪いとることに生きがいを感じていた。ヨシオは警官に蹴られた横腹の痛みを堪えながら細い路地に消えていった。間もなくして、2台の白バイが冷ややかなサイレンを鳴らしながら敬礼をして立っている警官の前を通り過ぎた。続いて黒塗りの高級車が何台も敬礼をしたままの警官の前をゆっくりと通り過ぎて行った。マルコス大統領が東洋一の歓楽街を通り過ぎた瞬間であった。
農村部で暮らす人々が地方の貧困から逃れるために都市に移って来るのだが、慢性的な職不足のマニラでは仕事は見つからない。したがってマニラには至る所にスラムが形成される。フィリピンは一握りの地主と少しのエリートの国だ。植民地時代からの土地所有関係はフィリピンの貧困の原点であり、マルコス大統領の農地改革も米とトウモロコシの地帯だけで、砂糖やマニラ麻、タバコなどは対象外だった。伝統的な大農園や外資系のプランテーションはそのままで、苦しい暮らしを強いられる小作人や土地なし農業労働者はその耐え難い生活から逃れるためにどんどんと大都会のマニラに流れ込んで来ていた。フィリピンの産業構造は工業化を欠いたものだったから、人口の増加に雇用が追いつかず、大都市マニラは次第にスラム化してしまった。ヨシオの母も農村からマニラに出て来たのだが、結局、職が見つからずにスモーキー・マウンテンに住みついた。
スモーキー・マウンテンとは東洋一のスラムで、元は漁村であったが大都会マニラのゴミの投棄場所となり、毎日、ゴミが運ばれ続けて大きなゴミの山が出来上がった。ゴミが自然発火して常に煙を上げていることからスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。職のない男ほど性質の悪い生き物はいない。日がな一日タバコを吸ったり、酒を飲んだり、働きたくても働けない欲求不満は時として暴力となって女子供に降りかかってくる。ヨシオの母も夫の暴力から逃げるように「置き屋」に入り、日本人の観光客に買われるようになった。ヨシオのことを生んでから、間もなく、性質の悪い性病にかかり「置き屋」を追い出されてしまった。再び、スモーキー・マウンテンに戻り、ヨシオが7才の時にゴミの中に紛れ込んでいた注射器をうっかり踏みつけてエイズに感染してしまった。そしてたった一年のウィルスの潜伏期間で発病し死んでしまった。独りぼっちになったヨシオは母と父が知り合った東洋一の歓楽街で路上生活を始めたのだった。
(この東洋一の歓楽街は、後になって売春に反対するマニラ市長によって閉鎖され、また東洋一のスラム、スモーキー・マウンテンも40年経ってやっと国家の恥部として撤去された。だから現在はこの二つの東洋一は存在していない。)
ヨシオには誰一人として頼る者がいなかった。死んだ母は自分の家族の話をヨシオには一切しなかった。ただ父親が日本人であることだけはよく聞かされていた。学校などは一度も行ったことはなかったし、寝る場所も商店がシャッターを閉めた後の路上にダンボールを敷いて眠った。日本からの売春ツアーが激増した頃、今まであった「置き屋」の数では客を捌ききれなくなって、荒手の移動式「置き屋」も出現していた。移動式「置き屋」とは大型のバスのことで、バスの中には女の子がたくさん詰め込まれていて、ヨシオはそのバスの中から客と女の子がどこかへ消えていくのを毎晩のように見ていた。ヨシオはタバコ売りや新聞売り、そして車の見張り番の仕事に加えて、先月から「置き屋」の見張り番も始めた。そこは古典的な「置き屋」でどこから見ても普通の民家と何ら変わりはない家だが、ただ違うところは入り口には常に見張り役の男どもが待機していることだ。ヨシオはその見張り役の男どもに不審な人物や顔見知りではない警官が近づいたら、いち早く知らせる仕事も始めたのだった。しかしその仕事は幾らにもならなかったが、運よく客を連れて行くことが出来ると金になった。ヨシオは子供ながらにしてポン引きも始めたのだった。鼻の下が長い日本人観光客は絶好のお客さんだったから、ヨシオは日本人の後をしつこくつけまわすことを覚えた。
ボンボンと渡辺社長はこの東洋一の歓楽街のど真ん中にそびえ建つ大きなホテルに部屋をとった。まだ新しいこのホテルには昼過ぎから何台も何台も大型バスが滑り込んで来ていた。朝早く日本を出発した日本人観光客がどんどんとこのホテルの中に吸い込まれていたのだった。
「ボンボン、凄いな、このホテル。客は日本人ばかりじゃないか。おまけにうるさい、まるで盛りのついた猫のようだな。」
「ええ、このホテルは最近出来たばかりで、まだ新しくてきれいなものですから、今はうけているようですね。台湾の資本がだいぶ入っていると聞きました。日本の旅行社の事務所もあるみたいで、日本人客が多いのだとおもいます。」
「それにしても、たいした活気だな。京都の田舎者の来るところじゃなかったかな?」
「社長、外へ食事に行きませんか?」
「そうだな、機内食はまずかったものな、よくあんなものが出せるよな。わしは一口食べてやめてしまったよ。行こう、行こう、何かうまいものでも食べに行こう。」
体の大きな渡辺社長はちょっと外を歩いただけでも汗が吹き出ていた。
「イヤー、暑いな。もうわしは汗びっしょりだよ。何とかならんのか、この暑さは。」
「すぐそこですから、もう少しの辛抱です。民族舞踊のバンブー・ダンスを踊って見せてくれるレストランが近くにありますから、そこへ行きましょう。日本のみなさんにはとても人気があるんですよ。」
三角屋根の入り口にはショットガンを肩から下げたガードマンが演説台のようなボックスに手をついて二人も立っていた。日本人の渡辺社長を見るとそこのガードたちはサングラスの下で笑顔になって扉を両方から丁寧に開け広げてくれた。
「グッド・アフタヌーン・サー」
社長は頭をぺこぺこ下げて日本語で答えた。
「ああ、ありがとう。サンキュー、サンキュー。」
二人が中に入ると、中央の舞台の上では十人くらいの民族衣装をまとったダンサーたちが軽快なリズムに合わせて器用に竹の棒の上を飛び越えたり、ステップをとったりして踊っていた。テーブルに案内された社長の目は舞台の上に釘付けであった。
「うまいものだね。よく転ばないものだね。それにあの衣装がまたいいね。女性の肩のところがとび出ていて特徴的だ。なかなかいいよ。色彩も明るくて、とてもカラフルで南国的だな。京都の芸妓たちも良いがフィリピンの女性たちも素晴らしい。」
二人は一番奥の窓際の席に案内された。外の様子もよく見えた。
「社長、飲み物は何にしますか?」
「ビール、ビールにしてくれ。汗で水分が全部、出てしまったからな。」
ウエイターがビールと氷をすぐ持って来た。
「食事はどうしましょうか?」
「ボンボンに任せる。わしは英語が読めんからな。うまいものなら何でもいいよ。君に任せる。」
「でも、社長、メニューには日本語も書いてありますけれど。」
「ああ、本当だ。でも、どれがうまいのか、わしにはさっぱり分からんからな、任せるよ。うまいのを頼んでくれ。ああ、そうだ、水はダメだ。生水はいけないとガイドブックに書いてあったからな。氷もいかんそうだ。そこの氷は下げてもらってくれ。よく冷えたビールと取り替えるように言ってくれるか。」
その時、窓の外にヨシオが現われた。窓ガラスをドンドンと手で叩き出した。渡辺社長に向かって手を差し出して、お金をねだるポーズをとった。ボンボンが手でどこかへ行くように合図したが、立ち去る気配はまったくなかった。入り口のガードが慌てて飛んで行き、ヨシオを追い払った。
「ボンボン、空港からホテルに来る時もそうだったが、信号で車が停まる度に汚いガキどもが近寄って来たぞ。まったく乞食が多いな、おまえさんの国は。何とかならんのか。」
「すみません。まだまだ貧しいもので、お恥ずかしいかぎりです。」
「それにホテルからこの店に来る途中にも路上に足のない子供をわざと寝かせて、ばあさんが手を出していたぞ。あれも見苦しいな、あれは何とか国もせんといかんな。」
「すみません。」
「政府は何をやっているんだ。観光客が歩く場所ぐらいはきれいにしておくものだよ。観光客がこの国に落とす銭は大きいぞ。なあ、ボンボン、そうはおもわんか。」
「すみません。」
「おまえさん、さっきから謝ってばかりいるな。ところでこの国の失業率は高いのだろうな。どの位かな?」
「さあ、どの位だか、知りませんが、発表された数字よりも、さらに高いことだけは確かだとおもいますよ。」
「それじゃあ、観光業は政府も力を入れている訳だ。外貨を獲得する手っ取り早い方法だからな。」
渡辺社長は舞台の上のダンサーを指差しながら、ボンボンに言った。
「ボンボン、あの子をここのテーブルに呼べんかな。」
「社長、ここはそういう店ではないので、無理かとおもいますが、後で、いろいろな店を案内しますから。」
「そうか、じゃあ、仕方がないか。ボンボン、わしは食事が済んだら、少し部屋で休みたいな。長旅で少し疲れたからな。少し横になって元気になってから案内してくれ。」
「はい、分かりました。」
ホテルに帰る途中にさっき社長が言っていた老婆が確かにいた。障害を持った子供を路上に寝かせて物乞いをしていた。ボンボンはその老婆に社長に気づかれないようにそっとお金を渡した。
ホテルの部屋に社長を送ってから、ボンボンは自分の部屋には入らずに下のロビーの横にあったカフェでしばらく休むことにした。ボンボンは渡辺社長をマニラに連れて来た自分自身を責めていた。
「これでは自分はまるでポン引きと同じではないのか。」
ボンボンは自問自答を続けていた。しかし、仕事がどうしても欲しい。何でも良い。社長の思わせぶりな言葉が頭から離れない。どんな形であれ、仕事がこの国で根付けば多くの人々が助かるわけだから、今は辛抱するしかないと何度も心の中で繰り返していた。自分は国費でもって勉強してきて、この国のリーダーにならなければいけないはずだ。だが今自分がしようとしていることは自分の国の少女を心無いスケベおやじに売る手伝いをしているだけだ。今の自分より、スモーキー・マウンテンでゴミを拾って健気に生きている子供たちの方がはるかに純粋で人間的ではないのか。ボンボンは大きなため息をついてしまった。この国は悲しいことが多すぎるのだ。みんな自分に言い訳をしながら生きている。家族の為に犠牲になることで神様に言い訳をして売春をしている少女が多すぎる。クリスチャンは売春をすると地獄に落ちると教えられる。家族の為だと考えることで神に救いを求める。そして貧しい連中に金を恵んでやるのだと勝手な言い訳をしながら買春を正当化する獣たち、みんな、言い訳をしながら生きているとボンボンはおもった。以前、「売春」という商売は紀元前から存在するとボンボンは何かの書物で読んだことがあった。今後も絶対になくならない商売だと、誰もが口を揃えて言う。下手に規制するから悪い奴らがそこに付け込んで悪事を働くのだという意見もある。いっそのこと公の機関が「売春」を管理すれば良いという過激な意見もある。しかし、幼児や少女売春は論外でそれは人権問題だとはっきり断言出来る。地道に働いても幾らにもならないので、手っ取り早く儲かる道を自分から進んで選んで売春する場合と、どうすることも出来ない貧困から仕方なく売春に至ってしまう場合でも問題は大きく違ってくる。男と女の出会いは様ざまだ。日本ではまったく女性とは縁がなかった中年男性がスラムで暮らすことが嫌な女性と知り合って幸せになるケースも多々ある。ボンボンは日本とフィリピンの経済格差がなくなった時ならば「売買春」を肯定しても良いとおもうが、今のような経済格差を利用した買春ツアーにはやはり反対する。今、自分がこうしてコーヒーを飲んでいるすぐ上の階のホテルの会議室では部屋の中央に引かれたカーテンが取り払われて集団売春が行なわれている。その結果として、快楽による犠牲者ジャピーノたちが日増しに増えている現実はどう解釈したらいいのか、また日本人はいつから自分の血を分けた子供たちに対してこの様に冷たくあしらえることが出来るようになったのか不思議だとおもった。でもこの国は喉から手が出るほど仕事が欲しいのだ。どんな仕事でも良い、生きる糧が欲しい。たくさんの雇用を生み出す事業が何よりも必要なのだ。
渡辺社長はこの国に興味があると言っていた。もしそれが本当ならば、職がなくて仕方がなく売春をしている少女たちに道が少し開けることになる。ボンボンは迷っていた。渡辺社長がもし他の日本人観光客と同じように、ただのスケベオヤジだとしたら、マニラに連れて来た意味がないではないのか。ボンボンは次第に暗い気持ちになってきていた。
国の運
国の運
マルコス政権は海外向けには戒厳令下にあるマニラ市内は安全であることをさかんに強調し、また国内では外国人に対して犯罪を犯す者は厳しく罰すると国民に脅しをかけた。
マルコス大統領は外貨を獲得する為にフィリピンをスペインのように観光地化しようと躍起になっていた。だから法律では禁止されているにもかかわらず買春ツアーを黙認していたのだ。この買春ツアーは旅行業界とフィリピンに来て貧困という弱みにつけ込んで女の子たちをだます自己本意の強い日本人男性だけの秘密だった。しかし見るに見かねたマスコミは日本の大手メーカーの集団見合い(団体買春ツアー)事件をとりあげて日本人の自粛を求めたのだが、日本人観光客の数はいっこうに減らなかった。それどころか、マニラに行けば安易に遊べると言う事を世に知らしめる結果となり、逆に買春ツアーは増加の一途をたどってしまった。「旅の恥はかき捨て」的な安易な発想なのだろうか。日本の高度経済成長の過程で日本人の精神構造にいったいどんな変化があったのだろうか。それともまったく変わらずに第二次世界大戦以前のままだったのだろうか。たまたま経済が上向きに向かった日本という国の運命、不運にもたまたま下向きに向かって、下降線をたどっていったフィリピンという国の運命、その中で日本人男性の性欲の処理と肉体提供によって貧困から脱出したいというフィリピーナの欲求が悲劇的に合致してしまった。「地道にしっかり働かないから、そうなるのだ。」とか「怠けているからそうなるのだ。」とか平気で買春する日本人たちはそう吐き捨てるが、ボンボンはそんな小さな事ではないといつもおもっている。もっと大きな悲劇的な流れがあり、そこには国の運不運があるとおもっている。決してフィリピン人が怠けているから国が貧しいのではないとボンボンはいつもそうおもっている。第二次世界大戦の時に、強制的に日本兵の従軍慰安婦にさせられた多くのフィリピーナや韓国女性の悲しみと死は無駄だったのか。何も日本人に教訓を残していなかったのだろうか。今再び、銃ではなく経済という武器でフィリピーナたちが犠牲になっている現実、そしてその結果生まれてくる日比混血児たちの生きる希望と喜びは誰がつくってやるのか。特に父親から認知されないジャピーノたちの将来は多難に満ちている。この状況を見た時、茂木さんはどうおもうだろうか、ふと、ボンボンはまた哲学者茂木に会いたくなった。茂木さんとゆっくり話がしたくなった。
渡辺社長との約束の時間がきてしまった。夜七時ちょっと前に部屋で休息をたっぷりとった渡辺社長がロビーに降りて来た。
「ボンボン、さあ、出発。行くぞ。」
社長はやけに張りきっていた。
「まだ、ちょっと時間が早いような気がしますが、どうです、ここで、コーヒーでもいかがですか?」
「いや、コーヒーは部屋で飲んできたからいらない。さあ、出かけよう。行こう。」
やたら元気満々の渡辺社長はホテルを出て五分も歩かないうちにゴーゴーバーの客引きと話を始めた。
「社長さん、いい子、いっぱいね。いっぱいいるよ。」
「おまえ、日本語がしゃべれるのか?」
「少しだけね、いい子いるから、どうぞ。」
渡辺社長も身体は大きい方だが、さらに大きな大男がゴーゴーバーの入り口の扉を開き、レスラーのような腕を大きく伸ばして社長とボンボンの為に扉が閉まらないように支えた。赤い幕で奥までは見えない。制服を着たガードマンが両手を挙げるように合図しながら近寄ってきた。ボディーチックである。手荷物はすべて中を調べられる。銃によるトラブルを避けるためだ。社長はポケットの中の財布をガードマンに握られてムッとした表情をしている。ボンボンがすぐに社長に説明した。
「社長、このチェックは酒によるトラブルを避けるためです。特に銃の持込を警戒しています。すみませんが、しばらく我慢してください。」
赤い幕をかき分けて奥へ進むと、汗ばんだ熱気とさまざまな香水の香りが二人を包んだ。それほど広くない部屋の中央にはテーブル兼踊り場があり、その上で水着姿の女の子が三人、けだるそうにリズムをとりながら身をくねらせていた。案内されながら部屋を歩いていると、中央の踊り場にはどんどん水着姿の女の子が並び始めた。その中にはそうとう年齢を重ねた婦人も混じっていた。鉄パイプが何本も天井から踊り場に突き抜けていて、そのパイプに摑まりながら女の子たちはそれぞれ勝手な動きを始めた。天井からミラーボールが吊るされていて、その光の雨は部屋全体を激しく回転させていた。女の子たちは客の社長と視線が合うと大きくポーズをとったり、大胆に踊ったりしていた。客から指名されなければ彼女たちの収入はないから必死に自分のことをアピールしている。もちろん指名料と飲食物のバック・マージンだけでは幾らにもならないから、店から連れ出してもらうように努めるのだ。ボンボンと社長は壁際の席に案内され腰を下ろした。ちゃちな安い椅子であった。
「ボンボン、ビールを頼んでくれ。氷も何もいらないから、ビンのビールを注文してくれ。」
店の案内係も日本語が出来た。
「ビールですね。社長さん、気に入った子がいたら、指名してくださいよ。」
「そうか、分かった。ちょっと待てくれな。早くビールを持ってきてくれ。」
舞台の上にはいつの間にか三十人ほどが身体をぶつけあいながら踊っていた。視線はすべて渡辺社長に注がれていた。
「ボンボン、ここのシステムはどうなっているのだ?」
「システムと言いますと?」
「指名した後だよ。」
「ああ、女の子、本人と交渉して気が合えば店に飲み代と連れ出し料を支払います。そして女の子にも当然、チップは必要かとおもいますが。」
「分かった。ボンボン、どうだ、ここの子は危なくないかね?」
「危ない?どう言う意味ですか?」
「病気だよ、病気。」
「それは定期的に検査をしているとおもいますが、僕にはよく分かりません。」
しかしボンボンは心の中で、この店のような連れ出しゴーゴーは「置き屋」と違って安い分だけ、いろいろな面で管理はいい加減ではないかとおもっている。それに日本人専門の高級「置き屋」と違って色々な外国人も利用している分、危険はさらに伴っているとおもった。安ければ安いなりの危険はついてくるものだ。
「社長、他にも違うタイプの店がたくさんありますから、行ってみませんか?」
「いや、今日はここでいいよ。ホテルから近いし、ここに決めた。わしはあの子がいいな。あの青いビキニにするぞ。ボンボン、おまえも早く決めろ、どの子にする?」
「僕は結構ですよ。」
「それはいかん、おまえさんも選べ、命令だ。」
「そんな、僕はお金もありませんし、遠慮させて下さい。」
「金はわしに任せろ。だから選びなさい。わしらのテーブルにあの青いビキニとおまえさんの好きな子を呼んでくれ。いいな。」
青いビキニの子はすでに社長の視線に気づいており、社長を見ながら大きく身をくねらせて踊っていた。ボンボンは手を挙げて係を呼んでその旨を伝えた。しばらくすると青いビキニとボンボンが選んだ子がテーブルに向かって歩いて来た。渡辺社長はそれを見て笑いながら言った。
「ボンボン、おまえ、頭がおかしいのか?もっと他に若くてかわいらしい子がいるだろうが、変なやつだな、おまえ。まあ、人好き好きだけれど、しかし、どう見てもおまえが選んだ子は一番ブサイクな子だよ。おまけに歳もかなりいっているぞ。」
その言葉を聞いて、ボンボンは彼が京都で会った渡辺社長とはまったく別人のようだとおもった。とてもあのまわりくどい芸妓遊びをしている風流な人間とはおもえない、何の教養もない、ただのストレートな人間にしか見えなかった。
「ボンボン、ちょっとこの金を両替してきてくれんか。」
「はい、分かりました。」
ボンボンが近くのブラックマーケットで日本円をフィリピンペソに両替してテーブルに戻ると、話はすでにまとまっていて、社長が女の子を連れ出すのに三十分とかからなかった。店に支払いを済ませて四人は外へ出た。汗びっしょりだが元気な社長はもう完全に日本で会った渡辺社長ではなかった。ただの本能丸出しの獣でしかなかった。女の子たちが少し先を歩いていた時、社長はボンボンの手を取って、そっと五千ペソを握らせた。その金についての説明はない。どうやらそれで遊べということらしい。ボンボンは何も言わずにその金をポケットにしまった。ホテルにはすぐに着いた。自分たちの部屋がある階でエレベーターを降りると、その階を担当しているベルボーイが女の子たちに合図を送った。連れられて来た女の子たちは自分のバックの中から何かを取り出して、ベルボーイにそれを渡していた。それからはもちろん別行動である。だからボンボンは社長がどんな夜を過ごしたのかは一切知らない。
ボンボンは部屋に入るとすぐに社長からもらった五千ペソのうち千ペソだけを抜き取って、何ヶ月ぶりかで指名を受けた、社長の言葉を借りると店一番のブサイクな子にその千ペソの大金を渡した。
「これ、あげるから子供に旨い物を食わせてあげなさい。もう家に帰ってもいいし、また店に戻ってもいいよ。好きにしなさい。」
「ありがとう。でもベルボーイに私のIDを渡してあるから、独りでは外には出れないわ。」
「そうか、客が寝ている間に君らが逃げないように奴らは見張っている訳か。ふざけた決まりだな。分かった。一緒に外へ出よう。でも、ちょっと待っていて、電話をするから。」
ボンボンはサンチャゴの自分のアパートに電話をした。
「もしもし、ネトイか、ああ、僕だ。これからみんなでビールハウスへ行くからな。準備しておくように、みんなにそう伝えろ。いいな。じゃあ、タクシーですぐに帰るから。」
日本から帰国するとアパートの男連中とビールハウスに行くことはボンボンの恒例行事になっていた。ベルボーイから彼女のIDを取り返し、ホテルの出口まで二人で歩いた。タクシー乗り場でボンボンが車に乗り込むと、ブサイクな子はボンボンに丁寧にお礼を言った。ボンボンはそれには何も答えず、彼女と分かれた。まだ四千ペソの大金がボンボンのポケットの中には入っていた。半分は滞納しているアパートの家賃にあてるつもりだった。残りの二千ペソでみんなとビールハウスに行くことに決めていた。
ボンボンはタクシーの窓から流れ行くマニラの町並みを見ていた。日本のあの京都の町並みとは違ってマニラは混沌としていた。本当に勤勉な国民性が豊かな国を造るのだろうか、それは違うとおもう。世界中にはどんなに頑張ったって這い上がれない国は幾らでもある。たまたま日本という国は運が良かっただけだとボンボンはおもう。フィリピンはたまたま運が悪かっただけなのさ。国にも運不運はあるよ。タクシーの中でボンボンはそう感じていた。
外交省で公金横領発覚、 茂木基金
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ボンボンはホテルのレストランでアメリカン・ブレックファストを食べながら社長が部屋から出てくるのを待っていた。しばらくすると渡辺社長が笑顔でやって来た。
「おはよう。」
「おはようございます。」
ボンボンは昨夜の事は一切聞くつもりはなかったが、社長の方から勝手に話し出した。
「イヤー、まいったよ。もうくたくただ。でも、ボンボン、安いな、ここは。まあ。遊び方にもよるがな、京都で遊ぶと一晩で五十万円位飛ぶこともある。それに比べると安いな。びっくりしたよ。」
「一晩で五十万円ですか。この国では五十万円の大金があれば五百人の子供たちが一ヶ月間生きていけます。いや、使い方次第では千人の子供たちを救うことだって出来るかもしれません。」
それを聞いて、社長はすこし気分を害したようでムッとした顔つきになった。
「ボンボン、おまえさん、兄弟は何人いる?」
「私の兄弟は十人です。この国では少ない方かもしれません。」
「多いな、日本も昔はそうだったよ。生めよ増やせよの時代があった。この国の親父どもは仕事もないくせにボコボコと子供だけはつくるのがうまいな、そこが問題なのと違うのか。」
「最近ではファミリー・プラニングの重要性を政府も強調しています。テレビや新聞でも広告をよく見かけるようになりましたし、結婚する前にはファミリー・プラニングの講習を受けることが義務づけられました。ただ、いくら貧しくとも子供は神様からの授かりものですから、多ければ多いほど、それだけ人生も楽しいと考えることも僕は間違ってはいないとおもいます。」
その時、レストランの入り口からディーンが入って来た。ディーンは青のTシャツと正樹が日本から送ってきたラングラー姿でボンボンに近づくと、さっと身をかがめて、ボンボンに耳打ちをした。たとえ聞こえたとしても渡辺社長には理解できない。二人の会話はビコールの言葉だったからだ。社長はただじっとディーンの美しさに見とれていた。ディーンが学校に行く前にボンボンのところに寄ったのはサンチャゴのアパートに日本からお客様が来ていることを知らせる為だった。
「ボンボン、誰だい、このきれいな人は?夕べの子とえらい違いじゃないか。まったくおまえさんも隅に置けないな、なかなかやるじゃないか。」
「社長、違いますよ。この子は私の従姉妹ですよ。私の家に日本からお客様が来ていることを知らせる為に、ちょっと学校へ行く前に寄ってくれただけです。」
「そうか、ボンボンの従姉妹か、それは、すまんすまん。でも凄いベッピンさんだな。見たところではスペインの血と華僑の混血のようだが、こんな可愛い子は日本でも数えるほどしかおらんぞ。まあ、日本に来たら、すぐにどこかの芸能プロダクションがスカウトにやって来るだろうな。」
「フィリピンは混血の民族です。その昔、タガログ人とマレー人が混血し、スペインの支配でスパニッシュの血も混ざり、大陸からは華僑もやって来て混血しました。そして今、日本人の混血児もどんどん増えてきています。肌の色も白いのやら茶色いのやらまちまちで、鼻もあぐらをかいた土人のような顔もいれば、きりっと鼻の高いのまで様々です。この国は食べ物にしても飲み物にしても、言葉にしても何でもごちゃ混ぜの国なんですよ。多分、社長の言う様にディーンはスペインと中国の血をどこかで受け継いでいるかもしれませんね。」
社長はディーンに向かって日本語で訊ねた。
「ディーンさんは学生さんかな、何を専攻されている?」
ボンボンがディーンの代わりに答えた。
「医学部に入っています。」
「ほーお、医学か。わしもこんなベッピンさんの先生なら診てもらいたいな。」
「まだまだ医者になるには時間がかかりますよ。まだ医学部の予科ですから。」
「ボンボン、医学部では学費は大変だろうな。」
「日本のようなことはありませんが、私たちにとってはやはり大きな負担ですよ。彼女の場合、お姉さんが看護婦をしていて、その収入のほとんどはこのディーンの学費に当てられています。」
「偉いよな。上の兄弟が下の子の面倒をみるのか。そこがすごいよね。フィリピンは素晴らしい。実に素晴らしい。感心したよ。でも親はいったい何をやっているんだ。」
「彼女の両親はもういません。三人姉妹だけで頑張っています。」
「そうか、それは大変だな。」
渡辺社長はディーンの美しさにすっかりまいってしまった。
「なあ、ボンボン、彼女の学費をわしが出してやってもいいんだが、どうだろうか。別に変な事を考えているわけではないぞ、誤解するなよ。けなげに生きているその三姉妹に心底感心しただけだからな。」
「それは凄い提案ですね。とてもありがたい援助だと僕はおもいますよ。ただ、ディーンの姉さんやみんなと相談しないことには何ともご返事は出来ません。それに正樹が何と言うか、やはり相談してみないことには決められないとおもいます。」
「誰だい、その正樹というのは、日本人か、日本人のパトロンがもう彼女にはいるのか?」
「いいえ、違います。正樹は北海道で勉強をしているディーンの仲の良い友だちです。」
「そんな奴に相談する必要があるのかね。ボンボン、兎に角、わしの申し出を正確に彼女に伝えろ。いいな。ちょっと、わしはフロントへ行って来る。日本の新聞をさがしてくるから、その間に、ちゃんと伝えておけよ。」
大きな身体を揺らしながら渡辺社長はレストランから出て行った。ボンボンはディーンの為に朝食を注文し、彼女が運んできてくれた嬉しい知らせの続きを聞いた。ボンボンはその話で喜びが再び溢れ出していた。一時も早く、アパートに帰りたかった。
しばらくすると社長がホテルの宿泊客が残していった昨日の新聞を持って戻って来た。ボンボンとディーンは食事が済んでコーヒーを飲んでいた。そして社長は二人の前で新聞を大きく広げてスポーツ面から読み出した。新聞の一面には外交省での公金横領の記事がでかでかと載っていた。莫大な外交機密費や官房機密費がなくなっていることや、逮捕者の写真も大きく載っていたが、ボンボンは日本からやって来たお客様のことで頭がいっぱいで、その記事は目に入らなかった。
「社長、僕、ちょっと家に帰りたいのですが、よろしいですか。夜、またここに戻ってまいりますから。それでよろしいでしょうか。」
「ああ、いいよ。昼間はどうせ、この暑さだ、わしは外に出る気はせんからな、それに昼間はちゃんとな、寝ておかないとな、後でまた大変だからな。」
「それでは、社長、すみませんが、これで失礼します。また後でまいりますから。」
ボンボンは学校にディーンを送ってから、逸る気持ちを押さえながら、サンチャゴのアパートへと向かった。
茂木基金
ボンボンは普段は滅多に乗らないタクシーの中で感じていた。茂木さんと早苗ちゃんと京都のお庭を歩いて、京都駅前のホテルのレストランで別れてからまだ一ヶ月も経っていなかった。それが今また茂木さんと再会出来る。それも自分の国で、しかも自分の家で会うことが出来る。ボンボンの喜びは非常に大きかった。昨夜、偶然にもホテルのカフェで茂木さんと話がしたいとおもった。その願いが現実のものとなったのだ。ボンボンはタクシーをアパートに横付けさせてサンチャゴのアパートに一目散に飛び込んだ。玄関の網戸を開けて中に入ると、驚いたことにソファーには双子の美人が座っていた。あまりに二人がそっくりな顔をしていたのでボンボンは一瞬面食らってしまった。これほどよく似た双子を見るのは初めてであったからだ。それだけではない、それもかなりの美人であったから、ボンボンは慌ててしまった。
「ああ、どうも、いらっしゃい。」
ボンボンが日本語で挨拶したので、きちんと座っていた二人の美人は安心したように微笑み、軽く会釈をした。ボンボンが続けた。
「茂木さんはどこでしょうか?」
菊千代がボンボンの問いかけに答えた。
「お手洗いどす。」
「お二人は京都の人ですか。あ、これは失礼しました。まだ自己紹介していませんでしたね。ごめんなさい。僕はボンボンと言います。この前、茂木さんに京都を案内していただきました。京都は良いところですね。今でも三人で眺めた夕暮れ時の鴨川の流れを思い出しますよ。何と言うのかな、どことなく物悲しい風情がこの僕でも感じることが出来たのですよ。また機会があったら、京都へ行ってみたいですね。」
千代菊が口を開こうとすると、茂木が奥のトイレから気恥ずかしそうに出て来た。
「やあ、ボンボン、ごめんなさい。突然お邪魔して、いやあ、参りましたよ。ちょっとお腹をこわしたみたいだ。」
ボンボンは茂木の腹の具合が悪いことを聞いて一瞬、顔の表情が曇ったが、すぐに茂木にまた会えたという喜びの方が勝り、明るい表情に変わって言った。
「いつ、こちらへ来られたのですか。連絡をくだされば空港まで迎えに行ったのに。ああ、そうか、僕は昨日着いたばかりで、茂木さんたちの方が先に着いていたのでしたね。でもとても嬉しいですよ。また会えて。昨夜、嫌なことがありましてね、茂木さんならどうおもうかと、ふと、考えていたのですよ。まさか僕の家でこうして会えるなんて、まるで夢を見ているようですよ。」
「すまん、突然来たりして、本当に急だったものだから、それに君はまだ日本にいるとおもっていたものですから、こちらから日本にいる君に連絡しようとおもっていました。こちらに来たのはいいけれど、別段行くあてもなく、ふらりと君からもらった名刺の住所を訪ねてみましたら、君が昨日からマニラに帰ってきていると聞いて、どうしても君に会いたくなりました。それで無理を言って連絡をお願いした次第です。」
「そんなこと当たり前じゃないですか。茂木さんはいつだって大歓迎ですよ。ところで、茂木さん、このお二人の京都美人は?」
「ああ、そうか、紹介するのをすっかり忘れていましたね。ボンボン、こちらは千代さんと菊さん。どっちがどっちだかよく見ないと私にも分かりませんが、私が世話になっていた下宿の娘さんたちですよ。」
「世話になっていた。なっていたということは、茂木さんはもうあそこは出られたのですか?」
「ああ、もう引き払いました。すまない、また来た、トイレだ。失礼するよ。」
茂木は再びトイレに慌てて駆け込んでしまった。お手伝いのリンダがパイナップル・ジュースをオヘダのアパートから運んで来た。それを千代菊と菊千代の前にそっと置いて、ボンボンの方を見た。ボンボンはポケットからお金を出してビコールの言葉で言った。
「リンダ、このお金でお腹の薬を買って来ておくれ。十錠もあればいいかな、それからビールも少し買って冷やしておいてくれないか。今日はお腹の調子が悪いから飲めないので、薬だけ買って、ビールは明日でもいいよ。」
ボンボンはリンダにお金を渡した後、自分もソファーの隅に身を沈めながら、まだ神妙な顔をしている二人の美人に向かって言った。
「このジュースは大丈夫ですよ。純粋な100パーセントのジュースですから。もし良かったら、どうぞ。」
菊千代が答えた。
「おおきに、いただきます。ボンボンはんは茂木はんが言ってはった通りに日本語がお上手どすな。」
「ありがとう。でも、お二人は本当によく似ていますね。みんなから同じことを何度も言われて、もううんざりでしょうね。ごめんなさいね。でも本当に似ているから、つい言ってしまいます。ええと、どっちが菊さんでしたっけ?」
その時、茂木が手をTシャツの後ろで拭きながらトイレから出て来た。
「まいったよ。」
「何か生ものでも食べましたか?」
「いいや、生ものは食べていないよ。」
「生水はどうですか。」
「生水も飲んでいないよ。オレンジのソフトドリンクを飲んだだけだよ。」
「その中に氷は入っていましたか。」
「ああ、紙コップのソフトドリンクだったから、氷もたくさん入っていたよ。もったいないからガリガリそれも食べちゃったよ。」
「それかもしれませんね。まだこちらの水に慣れていないから、あたったのですよ。」
「なあ、ボンボン、ところでさ、トイレにトイレットペーパーがないのだけれど。」
「ええ、ありませんよ。みんなペーパーは使いませんから。用を足したら水で洗って、紙は使いません。紙は高いので使いません。」
「それから、水道の蛇口をひねっても水が出てこなかったけれど。」
「ええ、出ませんよ。最近、この辺は夜間の三時間だけしか水は出ませんから、ああやって大きなポリバケツに水を貯めているのです。毎晩、交代で当番を決めて貯めています。水がチョロチョロと出始めてくる時は水道管の錆ですかね、茶色い汚い水が出てきますからね、少しの間、流してから貯めないと汚いですからね、必ず誰かが水道の見張りをしなくてはなりません。ここでは水道の蛇口をひねれば24時間いつでもジャーっときれいな水が出てくる日本のようなわけにはいきません。トイレの中にプラスチックの手桶があったでしょう。あれで大きなポリバケツの中の水をすくってお尻を洗ったり、身体を洗ったりします。トイレを流す時は小さなバケツを使って一気に流します。」
茂木の表情は少し曇ってきていた。後ろで聞いていた千代菊や菊千代の心も平常心ではいられなくなっていた。
「ボンボン、それからトイレの窓のところに渡してある針金に何枚かタオルが干してありましたが、ちょっとお借りしましたよ。」
「何色のタオルですか?」
「黄色いのです。」
「ああ、それなら大丈夫。黄色いのは僕の専用の尻拭きタオルですから、ええと、いつだったかな、あのタオルをおろしたのは、この前、正樹を連れて来た時だから、ちょっと前ですよ。きれいきれい、大丈夫ですよ。多分、誰も使っていないとおもいますよ。」
茂木は自分の表情がこれ以上変化しないように努めた。
「マニラは水不足なのですか?」
「はい、慢性的な水不足ですね。まだ、このケソン市は良い方ですよ。ここはダムに近いですからね。夜中に三時間も出ますからね。」
千代菊と菊千代は茂木とボンボンの話を聞いているうちに、自分たちの表情がだんだん暗くなっていることに気づいていた。日本からほんの四時間、飛行機に乗っただけでまったく違った世界に来てしまっていた。道ですれ違う人々はボロボロのTシャツにビーチサンダルの格好である。それだけでも京都の花街から来た人間にとっては気持ちが大きく沈んでしまう。
「茂木さん、ところで、ご予定は?いつまで、こちらにいられるのですか。」
「それが、まだ決めていないのですよ。出来るだけ長く滞在したいのですがね、イミグレーション(出入国管理局)で長期滞在のビザに変更が出来るだろうか?一日でも長くいたいのですよ。何とかならないだろうか?」
「調べてみましょう。確かではありませんが、一年間は観光ビザを何度か更新して滞在が出来るとおもいますよ。他にも方法はあるかとおもいますので、調べてみましょう。ただ、お金はかかりますよ。更新する度に費用もかかります。あそこには複雑な手続きにつけこんで商売をしている連中もたくさんいますからね、言葉が分からないで立ち往生している日本人の姿をよく見かけますよ。手続きの時間もかかるし、お役人もとても親切とは言えませんね。あまり評判はよくありません。まあ、日本もアメリカもどこの国でも移民局は同じようなもので、仕事の量に比べて、お役人の数が圧倒的に少ないからそうなるのだとおもいますね。」
「ボンボン、どうか力をかして下さい。出来るだけ長い滞在許可をとりたいので手伝って下さい。」
「もちろん、茂木さんの為なら何でもお手伝いしますよ。でも、僕の方はいいですけれど、茂木さんの学校の方はどうしたのですか?」
「ああ、しばらく休学することにしました。」
「それから、このお二人のことも・・・・・。まあ、それはまたゆっくりお聞きするとしますか。分かりました。イミグレーションへ一緒に行きましょう。」
「ボンボン、ホテルにいるお客様は大丈夫なのですか。ボンボンがいないとその日本人の社長さんは困るのではありませんか。」
「いいえ、どうせ渡辺社長は昼間は寝ているだけですし、それに彼には失望しましたから、もういいのです。助平社長のことは気にする必要はありません。」
渡辺社長という名前を聞いた瞬間、千代菊と菊千代の目が大きく見開いた。ボンボンが続けた。
「明日からは弟のネトイに社長の案内をさせますから、どうぞ心配しないで下さい。茂木さん、でもどうしてフィリピンなのですか?それにこのお綺麗なチヨさんとキクさんがどうして一緒なのですか?」
「ボンボン、この近くで二人だけでゆっくり話が出来る場所はありませんか。あ、そうか、その前に、この二人をしばらく休ませたいのですが、部屋をかしてはくれませんか。」
「ええ、上の部屋を使ってくださって結構ですよ。」
ボンボンは千代菊たちの荷物をかかえて、二人を二階の部屋に案内した。扉を開けて先に入り、窓を開けながら謝った。
「ごめんなさいね、エアコンがなくて暑いでしょう。今、扇風機をつけますからね。」
「おおきに、あの、ボンボンはん、さっき言ってはった渡辺社長さんいうのはどんなお人どすか?」
ボンボンは部屋に置いてあった自分のカバンの中をかき回しながら言った。
「ああ、お二人と同じ京都の人ですよ。ちょっと待って下さい。確か、お茶屋さんで撮った写真がありますからね、ええと、どこだっけな、あ、あった。これです。これが渡辺社長ですよ。」
それはボンボンと渡辺社長が舞妓さんと芸妓さんに挟まれて四人で撮った記念写真だった。千代菊と菊千代の二人はじっとその写真を見つめていた。そこには小菊ねえさんが写っていたからだ。黙って京都から逃げて来た二人だ。兄弟姉妹よりも大切な、とても世話になった小菊ねえさんは自分たちの後始末もちゃんとしてくれていたのだった。その姿を見ると身を切るように辛かった。二人は涙を一生懸命に堪えた。ボンボンに自分たちに降りかかった不運を悟られまいと必死に平静を装った。
ボンボンは近くのレストラン「サムスダイナー」に茂木を連れていくつもりだった。二人は歩きながら話をした。
「ねえ、茂木さん、この国には至る所にスラムとかスクワーターがあります。隙があると不法滞在者の掘っ立て小屋がすぐ作られてしまいます。見てください、ほら、そこにもありますよ。印刷工場の塀のわずかな隙間にも百人以上が住んでいるのですよ。工場の従業員もたくさんその隙間に住んでいます。でも、職がある彼らはまだましな方ですよ。」
「ボンボン、運だよ。フィリピンはついてなかっただけだよ。でも資源も豊富だし、自然、特に海の景観には素晴らしいものがあるしね、フィリピンはこれからだよ。夢がたくさんある国だと私はおもいますよ。」
「茂木さん、実は、今、ホテルにいる日本人の社長はね、フィリピンで事業を起こしたいから僕に案内してくれと頼んできたのですよ。ところが、どうも女目当ての食わせ者だったみたいです。がっかりです。」
「多いのかね、そういう連中は?」
「はい、だんだん増えてきていますね。」
「困った問題だな。同じ日本人として恥ずかしいよ。すまんな。戦争で迷惑をかけておきながら、また懲りずにこの国に来て悪さをしているのか、話にならんな。たまたま経済大国になっただけで、偉くなった気でいるのだよ、日本人はね。私は買春ツアーの問題は行き着くところ、結局は、父親からも母親からも、そして社会からも見捨てられていく日比混血児たちの救済をどうするのか、ということにつきるとおもいますね。」
「私も同感ですよ。このままだと何の罪もない子供たちがどんどん犠牲になっていきますからね。おそらく僕たちの政府の救済はまだまだ先のことになるとおもいますし、日本政府にいたっては、まったくそんな子供たちの存在すら知らないとおもいますね。」
「そうだね、その通りかもしれない。ボンボン、どうだろう、僕一人では何も出来ないかもしれないが、身勝手な日本人たちが捨てていった子供たちを一人でも多く救い出す方法はないだろうか?」
あまりにも唐突な提案でボンボンは驚いた。茂木がさらに話を続けた。
「いい加減なことを言っているのではありませんよ。実は、私には貯えがあります。しかも相当な額の貯えがあります。以前から、どうやってそのお金を役立てようかと考えていたところだったのですよ。一人だって二人だっていい、出来るだけ多くの忘れられた日比混血児たちに夢を与えることが出来たら私は本望ですよ。」
ボンボンは何と言って良いのか分からなかった。あまりにも話がでかすぎて言葉がまとまらなかったのだ。茂木が続けた。
「ボンボン、手伝ってくれませんか。わたし一人では何も出来ませんから。」
「もちろん、手伝いますとも。誰がそんな素晴らしい提案を断りますか。」
「どこか、子供たちに生きる希望と勇気を与えてくれるような場所はないでしょうかね。親からも社会からも見離された子供たちだ。とびっきり、きれいな場所が良いですね。皆が羨ましがるような素晴らしい場所でたっぷりと子供たちに夢を与えてやりたい。ボンボン、どこか良いところを知りませんか。ゴミゴミしたところではダメです。やる以上は最高の環境でやりたい。上等の場所を知りませんか?」
天才のボンボンはしばらく考えた。そしてゆっくりと言った。
「茂木さん、ボラカイ島にしましょう。ボラカイ島がいい。天国に一番近い島、ボラカイ島にしましょう。」
マニラの置き屋
マニラの置き屋
相変わらず日本人客で賑わっているホテルのロビーの大時計は今さっき夜の九時を回ったところだ。この時間になるとマニラの歓楽街にそびえ建つホテルのロビーは出陣する者と、どこからか早々と女の子を連れ出して来た者たちが入り乱れて混雑する時間帯である。渡辺社長のイライラは頂点に達しようとしていた。ボンボンが約束の時間を過ぎてもやって来なかったからである。もう社長は二時間以上もロビーのソファーに座ったままであった。
「これだからフィリピン人はダメなんだよ。時間を守らないから商売がうまくいかないのだ。まったく何も分かっていないな。」
そんな独り言を何度もブツブツと繰り返していたが、とうとうしびれを切らした渡辺社長はソファーから立ち上がり、大きく背伸びをした。その後、フロントにまっすぐに向かって歩き出し、歩きながらポケットから分厚い財布を取り出した。五千ペソだけをポケットに丸めて入れた。そしてフロントのセーフティーボックスにパスポートと分厚い財布を預けた。セーフティーボックスは二つの鍵がないと開かない仕組みになっていて、一つの鍵を客が、もう一つの鍵をフロントが預かることになっている。従って宿泊客は安心して大切なものを預けるのだが、ホテル側には合鍵があることを客はすっかり忘れている。だから大金を預けることはあまり得策ではない。渡辺社長は勇気を出して一人で魑魅魍魎が溢れるマニラの夜に飛び出した。ホテルの敷地を出たところでヨシオがすぐ近寄って来た。バンブーダンスのレストランの窓を叩いていたあの乞食である。社長は手で「あっちへ行け」とヨシオを追い払うが、ヨシオはどこまでもついて来て離れない。しばらくするとヨシオがボソッと言った。
「社長さん、置き屋、知ってますよ。」
渡辺社長はびっくりしてしまった。「置き屋」という言葉は日本ではもうほとんど使われなくなっている言葉だ。少なくとも芸妓遊びをする者意外、普通に生活している者にはまったく縁のない言葉である。その日本ではもう使われなくなった「置き屋」という言葉がマニラでは脈脈と生き続けていることに社長は驚いてしまった。もちろん、現在の日本の花街で使われている「置屋」とマニラの「置き屋」とではまったく意味合いが違う。誰かが無責任にも「置き屋」という言葉をマニラやセブに持ち込んでしまって、それが根付いてしまったようだ。
渡辺社長はまた昨日のゴーゴーバーへは行く気はしなかった。社長はイカツイ顔をした大人たちよりも子供のヨシオの方が安全だろうと勝手におもい始めていた。ヨシオがまた社長を誘った。
「社長さん、置き屋さん、知ってますよ。」
社長がそれに返事をした。
「よし、そこへ連れて行け。」
「置き屋、ゴーゴー。」
「そうだ、置き屋、ゴーゴーだ。」
何て会話だ。まるで漫才である。しかし社長とヨシオの意思の疎通は見事に計られた。ヨシオはこっちだというように、社長の先を歩き出した。路地を幾つか入って、さらに奥まったところにマニラの「置き屋」は存在していた。一目見ただけでは普通の民家と見分けがつかない。ヨシオは入り口のところに立っていた用心棒と言葉を交わして姿を消してしまった。今度はその用心棒がヨシオに代わって笑顔で渡辺社長を置屋の中へ迎え入れた。
「社長さん、どうぞ中へ。どうぞ、どうぞ。」
日本語であった。引き戸が大きく開けられ、敷地内を五六歩、足を運ばせるとすぐに玄関だった。中に入るとすぐに大部屋があり、さっきの用心棒とは違う案内役の男が社長に赤いビニール張りのソファーに座るようにと勧めた。何度も修理に出されたようなちゃちなソファーだった。部屋は暗く、がらんとして誰もいなかった。
「社長さん、ちょっと待って下さい。」
ここでも日本語だった。おまけにこの案内役の男は「ちょっと待って、下さい。」とどこかで聞いたような歌を歌いだした。社長は部屋を見回した。後ろの壁には工事現場で使うような赤い大きなライトが二つ取り付けてあり、部屋の正面を照らすように向けられていた。その瞬間だった。その二つのライトがパッと点灯された。社長は部屋の正面を見た。カーテンを開けてぞろぞろと女の子たちが隣の部屋から出て来た。社長のソファーを中心に「コ」の字を描くように部屋いっぱいに重なり合うように並ばされた。部屋は様々な香水の匂いで頭がくらくらするほどであった。皆、黙って渡辺社長のことを見つめている。指名されるのを待っているのか、いないのか、どちらとも分からない中途半端な表情をしている。案内役の男が切り出した。
「社長さん、みんな、きれいでしょう。どうぞ選んで下さい。いい子ばかりね。」
「ところで、幾らなんだ?」
「六千ペソね。」
「高いな、もっと何とかしろよ。六千なんて持っていないぞ。」
「五千でいいですよ。」
「五千ぽっきりだな。」
「ええ、五千だけね。」
「よし、じゃあ、五千で、右から五番目の子にする。」
「分かりました。それじゃあ、準備させますから、少しお待ち下さい。」
並んでいた子たちがまたぞろぞろと隣の部屋に引っ込んで行ってしまった。社長が支払いを済ませている間に、右から五番目の子は上着を羽織って既に玄関のところで社長を待っていた。
「あたしはクリスティーナさんです。よろしくね。」
何故か、自分の名前にさんを付けて自己紹介をした。社長は何も言わなかった。外に出ると、ヨシオがまた近寄って来て社長に手を出したが、置き屋から連れ出されたクリスティーナがそっとヨシオにお金を渡した。ヨシオはそれを受け取っても納得していないのか、不満げな表情をしたままだ。それを見ていた門番の用心棒がヨシオに近づこうとすると、ヨシオは走って逃げてしまった。ホテルに辿り着くまでに何人もの男たちが社長にいかがわしいオモチャを売りつけようと近づいて来た。しかし、クリスティーナがすべて追い払った。ホテルに着き、社長がフロントから部屋のキーを受け取ろうとしたその時、後ろから声がした。ボンボンであった。弟のネトイも一緒だった。
「すみません、遅くなりました。」
ボンボンは渡辺社長の横にいる女の子を見て、社長はもう今夜は自分たちを必要としていないことにすぐに気づいた。
「社長、これは私の弟のネトイです。実は明日から僕は南の島に行くことになりまして、大変申し訳ありませんが、社長の案内が出来なくなりました。私の代わりに、この弟のネトイに案内させますので、どうか、それで勘弁して下さい。」
「遅れて来て、その上、案内が出来なくなっただと、まあ、いい。それで、その弟さんとやらは日本語が出来るのかね?」
「いいえ、出来ません。」
「それでは話にならないじゃないか。結構だ、足手纏いだよ。そんな弟は置いていかなくてもいいよ。金がかかるだけじゃないか。必要ない。そうだ、ボンボン、この前のディーンさんの学費の話はどうなった?」
「まだ結論が出ていません。みんなで相談しているところです。」
「おまえ、ちゃんと伝えたのか。いいか、それだけはちゃんとやってくれよ。ディーンさんの学費をわしが出すと言っているのだからな。良い返事を楽しみに待っているからな。」
「分かりました。本当に明日から弟の案内はいらないのですか?」
「ああ、いらない。自分で何とかするよ。悪いな、見ての通りだ、急いでいるんだ。今夜はこれで失礼するよ。」
社長はクリスティーナの手を引いて、さっさとエレベーターの中へ消えてしまった。ボンボンとネトイは呆れ返ってお互いの顔を見合わせた後、言葉も交わさずにホテルの外に出た。するとまたヨシオがタバコを売るために駆け寄って来た。まったくよく働く子供である。このパワーだけは無気力な日本人の子供たちも見習わなくてはならないはずだ。ボンボンはタバコを吸わない。ネトイがヨシオから二本だけマルボーロを買った。フィリピンではタバコはばら売りが常識で、箱ごと買うことは珍しい。ヨシオのような子供たちがどこにでもいるから、タバコにはまったく困らないのだ。ボンボンがお土産で買ってきてくれる免税のアメリカ製のマルボーロがない時はフィリピン産のマルボーロをネトイは吸っている。ネトイはマルボーロの愛煙家だ。タバコのばら売りもおもしろいが、タバコにつける火もまた愉快な習慣がこのフィリピンにはある。ストリートチルドレンの子供たちからタバコを買えば、もちろんその場でマッチをすって火は点けてくれる。マッチがない時はまずタバコを吸っている人を捜して近寄って行き、黙って手を差し出すのだ。すると火のついたタバコを火のついている方を向けて差し出してくれるのだ。それを摘んで自分のタバコに点火するわけだ。逆に自分が吸っている時に手を差し出されると、相手の手がどんなに汚くても火を貸さなければならない。そういう暗黙の了解がこの国では出来上がってしまっていて、それがたとえ腹の出っ張ったサングラスをかけた恐い警察官だったとしても守らなければならないルールなのである。黙って手を差し出せば火を貸してくれる、一切、挨拶もお礼も要らない、これはフィリピンが生み出した心温まる助け合いの習慣なのである。
日本人への復讐
日本人への復讐
渡辺社長は帰りの飛行機の座席を再確認する為にホテルのフロントからセーフティーボックスに預けておいたパスポートと航空券、そして分厚い財布を受け出した。ホテル内にある航空会社のデスクに行き、そこで帰りの座席の再確認を済ませた。社長はだいぶマニラに慣れてきたせいもあって、航空券、パスポート、そして分厚い財布をフロントに再び預けることなく、それらを持ったまま、ホテルの外に食事に出てしまった。ヨシオにも何か美味いものを食わせてやろうとおもっていたことが、渡辺社長の判断を狂わせていた。社長はヨシオから「置き屋」を紹介されて、ヨシオのことをボンボンよりもよっぽど役に立つ奴だと考えていた。ホテルの周りをぐるりと回ってみた。案の定、ホテルの裏側でリヤカーの上で眠りこけているヨシオを見つけた。ヨシオのサンダルは半分磨り減っていて足がサンダルの外に飛び出ている。着ているシャツもボロボロでおまけに汗臭かった。これではヨシオを連れてレストランには入れないなと社長はおもった。食事の前にまず買い物だな、ヨシオに衣服を買ってやらないことにはどこへも入れないからと、社長は珍しく仏心をだしていた。
「おい、ヨシオ、起きろ。カム。ショッピング。一緒に行こう。」
その社長の声に驚いてヨシオは飛び起きた。確かに、このヨシオの格好ではレストランだけでなく、他の店にも入ることは出来ないなと社長はおもった。そうか、露店の店なら誰も文句は言うまい、まず社長は教会のまわりにたくさんある露店の店へヨシオを連れて行った。ヨシオは衣類にはまったく興味がなく、でかい春巻きを揚げている店の前で立ち止まっていた。
「腹が減っているのか?よし、何がほしい。買ってやるぞ。」
社長がそう言うと、ヨシオは生姜が入ったおかゆと大きな春巻きを指差した。社長はヨシオの分だけ買って、それをヨシオに与えた。自分ではバケツの水で食器を洗っている露天の食べ物は食べる気がしなかった。ヨシオはそんなことはかまいもせずに、ぺろりと全部きれいに平らげてしまった。次に社長はヨシオに新しい服と履物を買い与えた。ところがヨシオの奴、それらを身につけようともせずに、大切に小脇に挟んだまま、大事そうに持っていた。きっと後でそれらを売る気でいるのだと社長はおもった。しかし、それはおまえに買ってやったものだと言ったところで、所詮、通りすがりの観光客の言うことなどは聞くはずもないだろう、ヨシオの好きなようにさせるしかないと社長はおもった。
しばらく渡辺社長はヨシオと昼間のしらけた歓楽街を歩いた。人の出入りが多いファーストフード店の前を先に歩いていたヨシオが急に曲がった。社長もヨシオについて小さな路地に入った。すると、小さな階段があり、ヨシオは社長に手招きをしてから、その階段を上って行ってしまった。昨夜、「置き屋」を紹介してくれたヨシオのことを社長はすっかり信用してしまっていた。社長も階段を上がって二階の部屋に入った。営業しているのか、それとも休業しているのかさえも分からない店に入った。かなり化粧の厚い婆さんが一人で部屋の隅に退屈そうに腰掛けていた。その婆さん、渡辺社長のことを見るなり、突然、生き返ったように元気になって、流暢な日本語で社長に話しかけてきた。
「あら、いらっしゃい。社長さん。」
この街ではどこへ行っても。誰であろうと、中年の男性は皆、「社長さん」なのである。渡辺社長の場合は正真正銘の社長であるから、別に「社長さん」と呼ばれても違和感はなかった。日本ではさほどでもない男がこの街に来て、「社長さん」「社長さん」と何度も呼ばれると、もうそれだけで舞い上がってしまって、財布の紐がゆるんでしまうのである。
部屋の隅に積み上げられていた椅子をヨシオが一つはずして、社長のために運んできた。
戦時中に覚えたのだろうか、その日本語は、他の連中の片言の日本語とは違って、かなりうまい。婆さんが言った。
「今、ヨシオが可愛い子を連れて来ますからね、ちょっと待っていて下さい。どうぞ、そこにおかけになっていて下さい。お飲み物は何がよろしいですか?」
「ああ、何でもいいよ。あのガキ、ヨシオという名前なのか。」
「ええ、父親は日本人ね。」
「母親は今どこにいるんだ。」
「ヨシオの母親はもう死んでしまいましたよ。」
「そうか、それは気の毒にな。」
しばらくすると、ヨシオが肌の白い女の子を連れて戻って来た。どう見てもその子は十五六にしか見えない。確かにやり手ババアが言うように可愛い子だと社長はおもった。
「社長さん、五百ペソでいいよ。」
「安すぎるな。」
「昨日、田舎から来たばかりね、病気はないよ。大丈夫ね。」
「そんなことあるわけないだろう。それより本当に五百ペソでいいのか?」
「そうですよ。安いでしょう。社長さんはどこのホテルですか?」
「あそこのでかいやつだ。」
「ああ、あそこはダメね。この子はIDをもっていないから、入れないよ。モーテルへ行くといいよ。」
「そうか、ショートだから五百でいいのか。」
「いえ、違うよ。朝まで五百ペソね。モーテル代は社長さんね。百ペソぐらいね。」
「そうすると、全部で六百ペソか。」
「あとは社長さん次第ね。この子がかわいそうだから、チップあげてくださいな。田舎から出て来たばかりだから。」
渡辺社長は考えることもなく、すぐ分厚い財布から五百ペソ紙幣を取り出して、やり手ババアに渡した。
外に出るとヨシオがすばやく手をあげてタクシーを停めてくれた。その田舎出身の女の子が先に乗り込み、ドライバーにモーテルの名前を告げていた。何が田舎から出で来たばかりだ。田舎から出て来たばかりの子がすぐにモーテルの名前が言えるはずがないだろうが、嘘っぱちじゃないかと社長はおもった。しかしそんなことは社長にはどうでもいいことだった。社長も大きな身体を屈みながらタクシーに詰め込んだ。席に着いてから、ふと車の外を見ると、ヨシオが笑っていた。社長はヨシオが笑うのを初めて見た。おかゆを与えた時も衣類を買ってやった時も、ヨシオはにこりともしなかった。そのヨシオが歯を出して笑っていた。
タクシーはしばらくマニラ湾沿いのロハス通りを走り、パサイ市のモーテルに滑り込んだ。この辺りには安いモーテルが乱立していた。ゲートを入ると数人の男どもが車に走り寄って来て、空き部屋を指し示した。そのまま部屋までタクシーに手をつきながら一緒に走り、社長がタクシーから降りると、チェックアウトの時間や超過料金の説明を一通りして、すぐに部屋の使用料を徴収して戻って行ってしまった。タクシーの運転手が短い距離だったのにもかかわらず、百ペソとふっかけてきた。田舎から出て来たばかりの子が執拗に食い下がり、五十ペソにまけさせてタクシーを追い返した。これで社長はこの子を完全に信用してしまった。
部屋に入り、まず社長がシャワーを浴びた。もちろん分厚い財布やパスポートは風呂場に持って入った。日本の知り合いからシャワーの間に財布を盗まれたという話を聞いていたからだ。念には念を入れた。さっとシャワーを浴びて部屋に戻ると、田舎から出て来たばかり子が何の恥じらいもなく浴室に入った。部屋のテーブルの上にはよく冷えたビールが用意されていた。喉が渇いていた社長は一気にそのビールを飲み干した。田舎から出て来たばかりの子がこんなによく気がつくはずがないとおもいながら、もう一本飲んだ。そこで、 急に激しい睡魔が渡辺社長を襲ってきた。
社長は目を覚ましたが、異常に頭が重たいことに気がついた。吐き気もしている。しばらくそのまま、ぼんやりと天井を見つめていた。次に部屋の中を見回してみた。誰もいなかった。ここはどこだ、社長は自問自答した。そうだ、モーテルの部屋だ。次の瞬間、さっと起き上がり、社長はもう一度、部屋の中の様子を点検した。女の子も財布もパスポートも航空券もすべて無くなっていることに気づくのに数秒とかからなかった。慌てて立ち上がり、カーテンを開けてみたが壁だった。安いモーテルには窓などなかった。今度はドアを開けて外の様子を見てみると、もう、すっかり明るくなっていた。シャワールームから女の子が出て来て、「おまえの名前は」と聞くと、「トシコ」だという返事が返ってきたことまで覚えていた。その後のことがどうしても思い出せなかった。記憶がすべて消えてしまっていた。渡辺社長はおもった。これが睡眠薬強盗なのだろうか。話には聞いていたが、まさか、自分がこうしてかかってしまうなんて、まったく情けないと痛切に感じた。
外に出てモーテルの出口を後にする時、後ろで男たちが笑う声が聞こえてきた。ここで警察に連絡するほど社長の英語力はなかったし、どう見ても昨日の子は未成年であった。警察に連絡すれば、逆に逮捕される可能性があった。無一文になった渡辺社長はホテルを目指して歩き始めた。ホテルに事務所がある日本の旅行社に助けを求める為に、ただひたすら歩いた。乞食のヨシオ、昨夜のトシコという女の子、そしてあの薄暗い店にいたやり手ババアもみんなグルだったのだと社長は歩きながら考えていた。今頃は分厚い財布の中を見て三人とも驚いていることだろう。
ヨシオもトシコも社長と同じの血を引く日本人だった。そして流暢な日本語を話すことが出来た、あのやり手ババアは昔、日本軍によって悲しい過去を持つ運命の女だった。だから、日本人を何度騙しても騙し足りない、日本人への復讐をし続けることだけが彼女の生きる喜びだった。あの当時のことは決して忘れはしない、心も身体もずたずたにされた。絶対に忘れることなんか出来ない。やり手ババアはヨシオとトシコと死ぬまで日本人への復讐を続けるつもりだった。
実在しないお金
実在しないお金
機体は先程から着陸にむけて高度を徐々に下げてきている。茂木は最後部の座席で機長のアナウンスを聞きながら小型機の機内を見回していた。斜め前には菊千代と千代菊、その前にはボンボンが座っている。マニラを飛び立ってまだそんなに時間は経っていないのだが、その短い時間の中で日本で起きたいろいろな事が走馬灯のように茂木の頭の中を回っていた。外交省の高官である千代菊と菊千代の父親が公金横領の容疑で調べを受け、つい先日、逮捕された。その部下で外交官である茂木の父親もいずれは日本に呼び戻されて、調べられることになるだろうと茂木はおもっていた。何故なら自分の郵便局の口座にはどんどん理由の分からないお金が振り込まれていたからである。事件が発覚してから茂木は父親とはまったく連絡が取れなくなってしまっていた。事件の重要性から、その莫大なお金の取り扱いについて複数の父親の親しい同僚に相談してみたのだが、誰もそんなお金は知らない、外交省からは茂木の口座に振り込んだお金は一切存在していないと何度も説明を受けた。毎月毎月、残高が増えていく不気味なお金はこの世に実在していないお金だと言うのである。しかし茂木はその額の大きさと父親の立場から考えて、そのお金が国民の血税であり、発展途上の国の為に使われなければならないお金だと確信していた。茂木は日本を出る前にそのお金を外交省に返金しようと何度も努力した。ところが誰も調べようとも受け取ろうともしないのである。とても親交が深かった外交省に勤務する父の親友からも迷惑だからもう二度と来るなとまで言われた。もしそれが闇から闇へと葬り去られるお金であるならば、無理に外交省に返すこともあるまい。茂木の口座に振り込まれたお金なのだから、茂木がそのお金を心無い日本人たちが生み捨てた日比混血児の為に役立てたって問題はないだろうと考えていた。
茂木の母親は菊千代や千代菊と同じ花柳界の女だった。京都の芸妓さんだったそうである。その同じ花柳界出身の居酒屋「川原町」の女将が言っていた。赤ん坊の頃に父親が茂木を施設に預けてしまったから、茂木は母親のことをよく知らなかった。父親と母親がどんな恋をして自分が生まれたのかも誰も語ってはくれなかった。ただ母親は外交官の父のことを信じ深く愛していたそうである。でも結局、最後まで籍には入れてもらえなかった。茂木も父親からは認知されていなかったが、それでも父親のことを尊敬し愛している。自分の事を施設に預けて、滅多に日本にいることのない父親だけれども茂木にとっては大切な家族だった。だから茂木は家族の本当の暖かさを知らない。それだけに茂木には父親から捨てられたジャピーノたちの悲しみは痛いほどよく分かるのだ。外交省が心無い日本人たちが生み捨てた恵まれない日比混血児たちに援助する気がないのであるならば、自分が代わりに外交省の闇のこの世に実在していないお金を使って、日本とフィリピンの狭間で生まれた恵まれない子たちを助けて何が悪いのだ。そう何度も何度も茂木は自分に言い聞かせていた。最高に美しい島で、誰もが羨む天国に一番近い島で不運を背負った子供たちに希望を与えることは間違っているのだろうか。当然そう使われるべきお金が運命の巡り合わせで茂木の口座にプールされていた。父親は認知していない茂木を利用したのかもしれない。茂木はそのお金を外交省に返そうと努力したが、誰も聞いてはくれなかった。検察庁に届けるべきなのか、それとも、そのお金を利用してこの美しいボラカイ島で親からも社会からも見離されたジャピーノたちに勇気と喜びを与えるべきなのかは迷うことはなかった。答えはすぐに出た。茂木はそのことでいずれ裁かれたとしても、その時まで一人でも多くのジャピーノたちが救われれば、それで良いと考えていた。
飛行機は高度を更にもっと下げてきていることが耳の鼓膜のかすかな痛みでもって分かった。機長のアナウンスはお決まりのフレーズで始まる。かなりフィリピンなまりのきつい英語で今回の搭乗への感謝で始まり、高度何メートルの説明があり、そしてまたのご利用を心よりお待ちしていますと締めくくるのだが、この機長はちょっと違っていた。乗客に窓の下を見ることをしきりに勧めていた。機長はこれから着陸するが、その前にボラカイ島をぐるりと旋回すると何度もアナウンスしていた。よくこのボラカイ島を知り尽くした機長のサービスなのだ。さらに機長はボラカイ島には飛行場がないので、隣の島に着陸する旨を伝えていた。ボンボンは英語のアナウンスがよく理解出来ないでいる千代菊と菊千代に窓の下を見るように勧めたようであった。三人は身を重ねるようにして小さな窓を覗き込んでいた。茂木も反対側の窓を隣の乗客越しに覗き込んだ。ひょうたん形のボラカイ島がどんどん近づいてきていた。白く長く続く美しい砂浜と島一杯に広がる南国特有の椰子の林、そしてこの真っ青な海と空を目の当たりにして感動しない者はきっといないだろうと茂木は心の底からそう思った。その時、機内にどよめきが湧き起こった。感動の溜め息である。誰もがボラカイ島の美しい全景を上空から眺めて感動したからだ。機体はその白いビーチに着陸するかのように高度をどんどんと下げだした。しかし飛行場が見当たらない。茂木は今度は不安な気持ちに包まれていた。海上への緊急着水なのか、一向に滑走路が現われてこないのである。それに加えて荒っぽい操縦である。わずかな時の間にいろいろな想像が茂木の脳裏をよぎった。車輪が出ないで胴体着陸する際は空港の消防車が一斉に何台も飛び出し飛行機と伴走する。まずそのシーンが頭に浮かび、次に、ここの飛行場には消防車はあるのだろうか、近くに病院はあるのだろうかと心配になってきた。やはりパイロットは海上に着水するつもりなのだろうか、感動と不安が同時に茂木だけではなく他の乗客全員の感情をも揺さぶり続け始めていた。ドスン、ドスンという音がした後、かなりの大きな衝撃が全身を襲った。キキキーというブレーキ音で無事に着陸したことが分かった。茂木はおもわずつぶってしまっていた目をゆっくりと開けて窓の外を見てみた。するとカラバオと呼ばれる水牛が真っ先に目に飛び込んできた。何と窓の外は静かな農村だった。きっとどこかに隠されているのに違いない緊急用の消防車も空港ターミナルも滑走路も茂木にはどうしても見つけることが出来なかった。飛行場と呼ぶよりはむしろよく草を刈り込んだだけの「はらっぱ」と呼んだ方がふさわしかった。飛行機はゆっくりと小さな掘っ立て小屋に近づき、ぴたりと動きを止めた。何も知らなかった乗客全員、パイロットも他のクルーも含めて、その場に居合わせた者すべてが神に感謝したのに違いなかった。その証拠に飛行機が完全に止まってからもしばらくの間、誰一人として動く者がいなかった。
茂木は飛行機から一番最後に降りた。大きく農村の澄み切った空気を吸った。茂木は千代菊と菊千代の父親や自分の父親、おそらく外交省全体を巻き込むことになるだろう嵐が通り過ぎるまでこの地で過ごすことにした。小さな飛行機を振り返って見ながら無事に着陸したことを再び感謝する茂木であった。茂木が上空から見ただけでボラカイ島はきっと千代菊と菊千代の傷ついた心を癒してくれるだろうと直感していた。追われるように日本を出発する時もマニラの混沌とした雑踏に着いた時も、千代菊と菊千代の表情は非常に暗かった。しかし、今さっき、上空からボラカイ島を見ていた二人の表情は実に明るかった。茂木は二人をボラカイ島に連れて来たことは間違いではなかったと確信していた。ボラカイ島の癒しの魔法が今の千代菊と菊千代の二人には本当に必要なのだ。そして茂木もさっき草をむさぼり食う水牛のカラバオを見た瞬間、自分自身も救われたと感じたのだった。
波に任せて、恥ずかしがり屋の日本人
波に任せて
飛行場の掘っ建て小屋を出るとオートバイにサイドカーを付けたトライシクルが何台も並んでいた。ボンボンは荷物を後ろの座席に積んでから千代菊と菊千代をサイドカーの前の座席に座らせた。次に茂木をドライバーのすぐ後ろにまたがらせてから、自分はサイドカーの横にしがみついた。きっと日本で用済みとなりこの国に運ばれてきたKAWASAKIと書かれたエンジンは五人を乗せて苦しそうに動き出した。辺りの景色を見る暇もなく、三十秒もしないうちにボラカイ島へ渡るカティクランの船着場に到着してしまった。茂木が言った。
「何だ、ボンボン、近いじゃないですか。これなら歩いたほうが早かったかな。」
「すみません。僕、ここは初めてなものですから、おっしゃる通りですね。順番待ちをしているよりも、歩いた方が早かったですね。こんなに船着場が近いとは知りませんでしたよ。」
「いや、謝ることはありませんよ。考えてみると、私たちはしばらくこの地で生きていくことになるわけだから、こんなに近い距離でもトライシクルに乗った方が正解だったかもしれませんよ。ドライバーたちにも家族はあるわけだし、初めからケチな奴らが来たと噂がたってしまうとマイナスですからね。限られた狭い土地では決して独りでは生きていけませんからね、トライシクルも出来るだけ利用して助け合って生きていくことが大切なのだと思いますよ。」
「トライシクルに乗ったことは富を分け与えるという崇高な理念にも叶っていたわけですね。」
「ボンボン、随分と難しい言葉のいい回しを知っていますね。その通りですよ。とても君がフィリピン人とはおもえないよ。でも、次回からはこの距離ならば、荷物が無ければ歩きましょうか。」
「そうですね。」
カティクランは「はらっぱ空港」とカリボ行きのバス停、そしてボラカイ島へ渡る船の停泊所が中心の町だ。道路のすぐ横の堤防を越えて斜めに砂利道を下るとバンカーボートが何隻も並んでいる。ここの親分らしき古老の指図で次に出るボートが決まる。桟橋などはないので服を捲り上げて乗り込むことになる。茂木は千代菊と菊千代を順に抱き上げてボートに乗せた。菊千代は茂木に抱えられた時にしっかりとしがみついてなかなか離れなかった。口には出さないが、あまりにもいろいろな事が起こって、菊千代はやはり寂しかったのだ。ボンボンはみんなの荷物を体中に巻きつけて乗船した。乗客の数が揃わないと出航しないのは当然である。長い間、ボートの船頭たちは自分の順番を待っていたのだから、定員を超えた状態でボラカイ島に戻りたいわけだ。ボラカイ島はすぐ目の前に見えているというのに、渡るのには時間が結構かかるのであった。千代菊と菊千代はこの旅が観光ではないことをすでに自分に言い聞かせていたのだろうか、二人とも口数は少なかった。他の乗客たちも良く似た美人の双子のことをジロジロと見ているだけで、皆、ボートの上で静かに出航を待っていた。しばらくするとフィリピン航空の大型機が離発着する隣町のカリボ空港から大型バスが船着場に到着した。大勢の観光客が堤防の上からどかどか駆け下りて来た。あっという間に、三隻のボートが満杯になった。古老が合図を出した。島に向かって勢い良く競い合いながら出航となった。空は既に赤くなりかかってきており、日没が近づいていることを知らせていた。茂木は前に座っている千代菊と菊千代が波の揺れに合わせて上下するのを眺めていた。歩くくらいの速さでバンカーボートは進んでいる。急ぐ旅ではなかった。今はただ、運命も何もかも、すべてを波の動きに任せるしかなかった。夕焼けが日本を追われて来たという寂しさをいっそう強烈なものにしていた。千代菊は色々な想いがこみ上げてきて、ハンカチで目を覆ってしまった。菊千代はすくっと立ち上がり、茂木の隣に移って来て、茂木の腕に顔を埋めてしまった。今は波に任せるしかないと何度も自分に言い聞かせていた。きれいな夕日がボラカイの海に沈んだ。
「菊ちゃん、しばらくの辛抱だよ。また京都に帰れる日は必ず来るから心配するな。だから、しばらく日本のことは忘れよう。」
「うちは茂木はんと一緒ならどこでも平気どす。」
「ねえ、菊ちゃん。ここではその芸妓言葉は止めにしようよ。日本のことも京都のことも今は忘れることにしようじゃないか。いいね。」
「そうね、そうしますね。」
茂木は菊千代の顔を自分の胸から軽く外して、腕の中へ移し変えた。空も海もボラカイ島もすべてがうす紅色に染まっていた。四人はすべてを波に任せていた。
恥ずかしがり屋の日本人
正樹はあの夢のようなマニラ旅行を忘れることが出来なかった。正樹の人生に大きな衝撃と感動を与えたあの一週間の旅の後、北海道に戻って勉強を続けていたが何度も何度もフィリピンの事を思い出しては胸がいっぱいになっていた。特にディーンとの出会いは狂おしいほどの想い出となって消えずにいた。その甘く切ない想いは正樹が現実の世界に立ち向かうことをしばしば妨げていた。ディーンの優しく知的な目、しなやかな仕草や甘い言葉、正樹は頭の中であれこれと考えを巡らせては楽しかった一週間を心の中で繰り返していた。そして時折、正樹はかつてないほどの無気力感に襲われると、決まって次には北海道を出ることばかりを考えていた。そんな時にディーンからの手紙でどこかの日本人の社長が彼女の学費を出したがっていると知らされて嫉妬で胸が張り裂けそうになっていた。
正樹は十勝川温泉に学校の友達と週末を利用して遊びに来ていた。昔、この地には遊郭があり、つい最近まで男どもで大いに賑わっていたらしい。道東のあちらこちらから多くの荒々しい男たちがこの花街に集まったものだと宿の女将さんが話してくれた。遊郭が廃止されてからも夜の明かりは消えずに独特の温泉場風情を十勝川温泉は残していた。正樹が世話になったホテルにはフィリピンからダンサーのグループが出稼ぎに来ていて、食事の時はそのまかないもしていた。ご飯のお代わりやら味噌汁のお代わりもよく気がついた。食事が終わって、ショータイムになると、今度はきらびやかな衣装で大部屋の特設舞台で悩ましく踊り始めた。その中に一人だけ、飛びぬけて目立つ子がいた。その子の美しさが却って正樹には悲しい気持ちとなって迫ってくるのだった。どことなくディーンに似ていたからだ。ホテルの地下にはカラオケやスナックが幾つかあって、そこでもフィリピンからの「じゃぱゆきさん」たちが大人気だった。正樹は夜中にトイレに行く時に大部屋で疲れきった彼女たちが雑魚寝をしている様子を偶然にも見てしまった。部屋に戻ってからもその夜は正樹は一睡も出来なかったことは言うまでもない。ホテルの泊まり客が帰った後の掃除もきっと彼女たちの仕事であることはたやすく想像が出来た。よく分からないが兎に角、何かが間違っているように正樹にはおもえた。北海道だけではない、この頃から日本中には「じゃぱゆきさん」がどんどん増え始めていた。どこかの助平な社長がディーンの学費の援助を申し出ていることを手紙で知ってから正樹のイライラは爆発寸前であったが、十勝川温泉で「じゃぱゆきさん」たちと会って正樹の我慢もとうとう限界に達してしまった。もう駄目だ。ディーンのところへ行こう。そのことばかりを正樹は考えるようになってきていた。正樹はボンボンに相談しようと何度も東京にある留学生会館に電話をしたが、いつも留守だった。サンチャゴのアパートへ直接に国際電話をしてみると、ボンボンは日本から来た客と一緒にどこか南の島に行っているという返事が返ってきた。いつ帰ってくるのかとお手伝いのリンダに訊ねると分からないという答えだった。日本から来た客と南の島へ行っているとリンダは確かに言った。正樹はその客がディーンの学費を出す助平な社長だとおもった。まだ若い正樹はディーンのことを忘れることは出来なかった。一日も早く、一時も早くディーンに会いたかったが、辛抱して更にもう一週間、真剣に考え続けて結論を出した。もちろん家族とも相談した。マニラで医者になりたいと言い出すと、家族は皆、猛反対をした。ただ、自分で独立して会社を始めたばかりの父だけは反対も賛成もしなかった。その時、父の頭の中には日本がだんだん円高に向かうこと、また日本と比較してフィリピンの労働力が非常に安いこと、そんなことまで考えていたかどうか、正樹はとうとう父が死ぬまで聞くことは出来なかった。正樹は次の週に学校の事務所へ行き、休学届けを提出した。そして素早く東京に戻り、フィリピンへ渡る準備を始めた。完全に恋の女神の勝利であった。この時の正樹は間違いなく恋の奴隷になってしまっていた。しばらくボンボンのことを東京で待っていたのだが、帰ってくる気配はまったくなかった。普段ならばそれであきらめてしまうところだったが、恋は正樹のことを更に強くしていた。何も分からないまま、正樹は自分独りで渡航準備を進めた。まず九十日間の観光ビザを取得してマニラに渡り、その九十日の間でフィリピンの大学入学の為の国家試験やフィリピン文部省の入学許可に挑戦するつもりだった。そして観光ビザを学生ビザに変更しようと考えていたのだが、現実はもっと厳しかった。ビザというものは在外公館が発行するもので、すべての許可がおりた段階で再び日本に戻って東京のフィリピン大使館で学生ビザの発給を受けなくてはならないことも段々と分かってきた。正樹は必死だった。早くディーンに会いたかった。当時、東京のフィリピン大使館は学生ビザを申請する際に健康診断書の提出を義務づけていた。しかも聖路加の国際病院の英文の診断書を指定していた。それを知らなかった正樹は近くの医者の健康診断書を持って大使館に行ってそれを見せたら冷たく突っ返されてしまった。何をどういう順番で手続きをしたら良いのかまったく分からなくなってしまった。それでも正樹はめげずに頑張った。とにかくまず、フィリピン本国に行って、向こうの学校の入学許可を取ろうと正樹は決心した。きっとディーンとボンボンの姉さんが学校の方は助けてくれるはずだ。とにかく向こうに行こう、行けばどうにかなると正樹は自分のことを勇気づけた。航空券はディスカウントで申し込んだが、出発までに少し時間があったので聖路加の国際病院へ行って健康診断を受けた。学生ビザの申請にはまだ時間がかかりそうだったが、向こうに行ってからも健康診断書は役に立つと考えたからだ。正樹の問診に当たった病院の先生は正樹が書いた問診表を見ながら不思議そうに訊ねた、
「フィリピンに留学ですか。ええと、正樹君ですね。フィリピンね、変わっていますね。皆さんアメリカとか、ヨーロッパへ好んで留学されますが、あなたはフィリピンですか。それで学部は?」
「医学部です。」
「医学部か、珍しいケースですね。向こうの学校はどうなのですか?例えば学費とかはどのくらいするのでしょうか。」
「すみません。まだ学費のことまでよく分かりません。ただ日本のようには高くはないとおもいます。」
「そうですか、フィリピンね。是非、頑張って立派な医者になって下さいよ。応援していますよ。あとは、喘息と書いてありますが、ええと、お父さんかお母さんのどちらかに喘息持ちは?」
「はい、両親とも喘息の持病があります。」
「遺伝性のアレルギーですね。それで、どの程度の喘息なのでしょうか?」
「風邪を引いた後に少しだけ咳き込みます。でもそんなにひどい咳ではありません。」
「それではこの健康診断表に記載するのはやめときましょうか。留学の為の健康診断ですからね。いたって健康そのものということで、それで問題はありませんね。」
「ええ、まあ、そうしてもらえると助かります。」
問診の後は病院の廊下にペンキで書かれた緑の線をたどって目の検査やらレントゲン、その他の健康診断を順次済ませた。英文の健康診断書は数日後に出来上がったので受け取りに行ったところ、会計の窓口でお金が足りなくなってしまい、また翌日、出直して料金を支払った次第だ。それほど高いものだった。出発までに何度も渋谷の南平台(当時)にあるフィリピン大使館を訪ねた。ボンボンのことを知っているという人物に正樹は偶然に会った。マニラの移民局で直接に学生ビザ取得の為の面接を受けた方がより早く学生ビザが発給されるとその人物は教えてくれた。正樹は可能な限りの書類を整えて、出発の日が来るのを待った。とにかく早くディーンの顔が見たかった。どんなに煩わしい手続きも一向に苦にはならなかった。ただ時間の流れの遅さには無性に腹がたった。何も失うものがないということは、何と幸せなことなのだろうか。がむしゃらに生きることの素晴らしさを感受出来るのは若者だけの特権でもあるのだ。
正樹を乗せた飛行機はゆっくりと機体を傾けてマニラ国際空港に着陸を始めた。その当時、あるうわさがあった。マニラ空港の滑走路には一箇所必ずガクッと揺れる場所があるというものだ。正樹は複数の人々からそのことを聞いていたから、自分でも確かめてみようとおもっていた。滑走路に車輪が着いたと感じた時から正樹は五感をその一点に集中した。すると確かにガクッときた。いったいあれは何なのだろうか。まさか滑走路に穴が開いているはずもないのに、何故そうなるのか今だに謎である。正樹にとっては二度目のマニラ国際空港ではあるが、やはり不安であった。白タクの運転手たちが空港の出口を出ると正樹に群がって来た。正樹は次から次へと近づいて来る恐そうな男たちを掻き分けるように歩いた。すると突然、正樹の肩をぐいっと掴む手があった。ギクリとして振り返って後ろを見ると、そこにはボンボンの弟のネトイがすっくと立っていた。正樹は彼を見て本当に助かったとおもった。東京を出る前にサンチャゴのアパートに電話を入れておいたのが良かった。英語が苦手なお手伝いのリンダとしか話が出来なかったので、正樹の用件がしっかりと伝わっているのか不安だった。しかし、ちゃんと連絡はとれていたのだ。ネトイの顔を見るまで、やはり独りではこの空港を無事に抜け出すのは無理だなと、パニック状態だったので、ネトイの顔がこの時ばかりは頭の上に輪のある天使に見えてしまった。二人は手を取り合って再開を喜び合った。正樹はネトイの為に買った免税のマルボーロをさっそく渡そうとおもってバックの中をかき回した。頭を上げてそれを渡そうとした、その時、ディーンが近づいて来たのだ。もうネトイのマルボーロのことも忘れ、マニラ空港の混乱も彼女の出現ですべてが一変した。一瞬にして正樹の最高の舞台へと変わってしまった。ディーンがじっと自分のことを見つめている。何度も何度も日本で思い浮かべていた場面がやってきたというのに、正樹は微笑むのが精一杯だった。やはり日本人なのである。恥ずかしがり屋の日本人に生まれてきたことを大いに悔やんだ。しかし同時に、再び、ディーンに逢うことが出来たことを神様に感謝する正樹であった。
ボラカイ島へ
ボラカイ島へ
それは余計なおせっかいかもしれない。学費を出してくれると言う、そんな旨い話はないではないか。しかし正樹にとって、どこの誰だか分からない社長がディーンの学費を全額援助するという事は絶対に許せない重大な問題だった。それが例え、ディーンやディーンの姉さんの大きな助けになるとしても、正樹にとってはとても見過ごすことが出来る事ではなかった。一刻も早く、その社長とディーンの間に入っているボンボンと話がしたかった。そんな社長に払ってもらうくらいなら、自分が出すつもりだった。
「ネトイ、ボンボンは今、どこにいるのですか?」
ネトイはぎょっとして正樹のことを見た。正樹の口調があまりにも強く真剣だったので驚いたのだ。
「ボンボン兄さんは、今、ボラカイ島ですよ。日本人の案内をしています。」
この時、正樹はそのボンボンが案内している日本人がてっきりディーンの学費を出したがっている助平な社長だと勘違いしてしまった。
「ボラカイ島ですか。その島はここから遠いのでしょうか。」
「いや、飛行機で一時間はかからないとおもいますよ。まだ行ったことがないから分からないけれど、そんなに遠くはないとおもうよ。でも、とてもきれいな島なんだよ、ボラカイ島は。ボンボン兄さんが羨ましいですよ。ボラカイ島はみんなの憧れの島ですからね。」
ディーンもまったく同感だというように目を大きく見開きながら話に加わってきた。
「ボラカイ島は私たちみんなの夢だわ。いつか、あたしも行ってみたいな。正樹、あたしをボラカイ島に連れて行ってくれる?」
正樹はディーンに会えば会うほど彼女のことが好きになっていった。彼女の為にしてあげられることがあるなら、何でもしてあげたかった。この気持ちこそがこの世に存在するたった一つの真理であり、最も大切な気持ちなのだ。自分以外の者に何かをしてあげたくなる気持ちこそが愛であり、神が不完全な人間に与え示した唯一の真理なのである。
正樹は自分が観光客ではないことも、今は兎に角、節約しなければならないこともよく分かっていたが、どうしてもボンボンにすぐに会いたかった。迷うことなくネトイに向かって言った。
「ネトイ、ボンボンと一刻も早く話がしたいので、私をそのボラカイ島へ案内してくれませんか。私と一緒にボラカイ島についてきて欲しい。」
ネトイがその正樹の頼みに答えるのに、あれこれ考える必要なかった。即答であった。
「いいよ。明日、出発しよう。それでいいか?俺の方はノー・プロブレムだ。」
それを聞いていたディーンが正樹に言った。
「あたしも一緒に連れてって?」
「もちろん、いいよ。」
「わあ、嬉しい。夢にまで見たボラカイ島に行けるなんてうそみたい。本当に嬉しいわ。」
三人は空港からケソン市のアパートに向かう車の中でボラカイ島へ行く旅行のプランに花を咲かせた。アパートに着くとディーンの姉さんのウエンさんとノウミも同行することがあっさりと決まり、ネトイと正樹、それに三姉妹を加えた総勢五名の大部隊になることになった。羨ましそうに横で話を聞いていたお手伝いのリンダも最終的には仲間に入れることを正樹は決断した。六名分の飛行機代やホテル代、食事代がいったい幾らになるのか、それを考えるのが恐くなってしまった。しかしこの話はもう止められない。正樹はディーンをその日本人から何としても引き離なさなくてはならないと真面目に考えていたのだ。ボラカイ島に乗り込んで行って。ディーンの目の前でその助平社長をぶん殴ってやろうと決めていた。お金のことは後で心配することにした。今はそのボラカイとか言う島へ行くことだけしか考えつかなかった。
正樹とディーンはその夜、思い出の赤いキャデラックのレストラン「サムス・ダイナー」で何時間も積もる話をした。その後、すぐにはアパートには帰らず、いつかノウミと行ったオルガンのパブへも顔を出した。正樹は日本で何度も練習してきたフィリピンのラブソング「マヒワガ」をディーンに歌って聞かせた。もう正樹は恥ずかしがり屋の日本人ではなかった。また正樹は温かい人々に囲まれていた。本当に幸せだった。
ボラカイ島へ渡る船着場があるカティクランの「はらっぱ飛行場」には毎日フライトはなかったので、少し離れたカリボの町に飛ぶことになった。アティアティハンの祭りであまりにも有名なカリボの町には大きな飛行場があり、毎日、フィリピン航空など数社の中型機が離発着していたから、六人分の座席も簡単に確保することが出来た。発券と同時にすぐ出発となった。六人を乗せたフィリピン航空の機内ではケーキとジュースが配られただけで、食事のサービスはなかった。食事は無理、もし出されたとしたら、きっと全部食べ終わる前にカリボの町に着いてしまっただろう。近かった。あっと言う間だった。そこからバスに乗って二時間ほど揺られることになったが、正樹にとってはディーンが一緒ならば、どんなに時間がかかろうと、そんなことはもう問題ではなかった。
六人がカティクランの船着場からボートに乗った時はもう夕方だった。ボラカイの海に大きな夕日が今にも沈みそうだった。正樹はこの時、彼にとっての運命の島、ボラカイ島へ初めて渡ろうとしていたのだった。すべてを優しく癒してくれる奇跡の島、ボラカイ島が正樹のすぐ目の前に横たわっていた。そして彼の横にはディーンがいた。そのことだけでも正樹にとっては奇跡そのものだった。
天性のピエロ
天性のピエロ
正樹たちを乗せたバンカーボートはボラカイの島を左から回り込んで、次第に島の西海岸のほとんどを占める長さが4キロメートルのホワイトサンドビーチに近づいていた。その長く白い砂浜の後ろには椰子の林が広がっており、日本の浜辺とはまったく違った美しさを見せていた。ボートの後ろで沈みかかった太陽が島全体をにぶく照らしており、ボラカイ島の浜はまるで昔に撮った大切な写真のようなセピア色に近いオレンジ色に染まっていた。浜には人影もまばらで、観光地と呼ぶには程遠い素朴な雰囲気に包まれていた。ボートの乗客は誰もしゃべってはいない。その美しい景色に見とれていて、完全に言葉を失ってしまっていた。自然が創り出した極上の芸術を鑑賞するのに忙しかったのだ。正樹はこの夕焼けの瞬間に居合わせたことだけでもボラカイ島に来た価値は十分にあるとおもった。ありきたりの表現だが、このままずっとボートで揺られながら時間が止まってしまえば良いと正樹は心の底からそうおもった。それほど美しかった。
ボートは浜から五メートルくらいのところでゆっくりと停止した。数人の男たちがさっとボートから飛び降り、浜ぎりぎりまでボートを引っ張り上げた。桟橋などはもちろんないから、乗客たちはボートの上で靴を脱ぎ、裾をまくりあげてから順番に下船していった。船の船頭たちは両手に年配の女性客を抱えて浜まで運ぶのにおおわらわだった。若い女性たちはキャーキャー言いながら、自分の足で海の中を歩いて浜まで行った。ディーンたち三姉妹も楽しそうに海の中を歩き始めていた。お手伝いのリンダも嬉しくて仕方がないといった様子で正樹の後にしっかりとついて来ていた。ネトイだけが最後までボートに残り、正樹にもらった土産のマルボーロを海の澄んだ空気と程好く混ぜて、何度も旨そうに夕空に向かってスースーと吹かしていた。ネトイはいつになく深刻な顔をしていた。何かをじっと考えている様子だった。正樹が振り返って声をかけたが、ネトイはボートに座ったまま動こうとはしなかった。
ボンボンと茂木、それに千代菊と菊千代の四人も正樹たちと同じ夕日を眺めていた。同じ時間を同じ場所ボラカイ島で共有していた。正樹たちがボートから降りたボートステーションからほんの百メートルほど離れた砂浜に四人は座っていた。ボートから降りてくる人影が黒い美しいシルエットとなって夕焼けの中に溶け込み、魅惑的な風景を描いていた。もちろんその薄っすらと浮かんだ人影が正樹たちであると、ボンボンたちに分かるはずはなかった。茂木がサンミゲールビールの小瓶に何度も口を運びながら言った。
「ボンボン、本当にきれいな夕日ですね。この島に連れて来てもらったことを感謝していますよ。確かに夕暮れ時は切ない郷愁で胸がいっぱいになりますが、今はこの島の美しさは私たちにとって大きな救いなのです。日本にいたら、こんな気持ちは決して味わえなかったとおもいます。本当に感謝しています。」
「そんなにお礼ばかり言わなくても結構ですよ。感謝したいのはこっちの方ですよ。茂木さんと出会って、あの京都の落ち着いた空気にも触れられたし、そして今、憧れの島、ボラカイ島にまで来ることが出来たのですからね。」
「ボンボン、それから、更にお願いしたい事があります。出来るだけ目立たずに、と言っても日本人の僕と双子の美人が一緒では目立つなと言う方が無理かもしれませんが、この島で少し広めの土地と家を探してくれませんか。交渉も契約もすべて君にお願いしたいのですが。私が初めから出ていったのではジャパニーズプライスになってしまいますからね。それに外国人はこの国の土地の所有は認められていないと聞きましたから、君の名義にして下さい。」
「借りるのではなくて、購入するのですか?」
「ええ、そうです。君の名前で土地と家を買って下さい。幾つか物件を探して下さい。最終的な判断は私がします。出来るだけ広い静かな場所がいいですね。隣近所があまりうるさくない方がベターですね。」
「茂木さん、どうでしょう。この島のリーダーの所へ行って、茂木さんの崇高な計画を話してみてはどうですか。きっと協力してくれるとおもいますよ。ジャピーノたちの救いの家は世界中の注目を集めることになり、多くの外貨を持った訪問者がこの島に来ることになれば、もしかすると土地も建物も無償で提供されるかもしれませんよ。どうですか、茂木さん、この島のボスに会ってみませんか?」
「いや、それは困る。絶対に駄目だ。ボンボン、目立たずにここで過ごしたいのです。少なくとも今はね。ただ何年か経って、僕が年老いた時にここの施設が僕なしでも立派にやっていけるようにはするつもりだけれども、でも今じゃない。今は出来るだけ目立たずにいたいのです。我がまま言ってごめんなさい。」
「分かりました。では大体の予算が知りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「そうだね、日本円で五千万円の土地と建物を見つけて下さい。」
「それは大金ですね。この国ではそれだけあれば、かなり広い敷地と屋敷が手に入りますよ。お言葉を返すようですが、これはかなり目立った取引になってしまうとおもいますよ。兎に角、狭い島ですからね。そんな大金が動くとなると、噂はすぐに島じゅうに広まってしまいますからね。」
「わたしもそうおもうが、まずはボンボンが表に出て下さい。私たちは手伝い、脇役として目立たずに後ろにいたい。話をその様にもっていって欲しい。お願いします。」
「分かりました。それでは明日からやってみましょう。」
四人はやっと腰を上げて、すっかり暮れてしまった浜を後にした。茂木たちは浜からあまり離れていないコテージを利用していた。コテージの入り口の横には管理人の小屋があり、マニラにいる韓国人のオーナーからここを任されている中年のオカマがぽつんと座っていた。茂木はそこの門を通る度にじっと見つめられるその視線に一種の緊張感さえ感じていた。オカマはこの国では結構、市民権を得ており芸能界では欠かせない存在だし、髪の毛を切る床屋に行けば、かなり高い確率でオカマに髪の毛をいじくりまわされる。辛い事が多い世界では見ているだけでも楽しくなるオカマの存在価値は大きいのかもしれない。
正樹とネトイは重大な事にやっと気がついた。
「ネトイ、ボンボンたちはどこに泊まっているんだい。」
「うーん、それなんだよ。ボートを降りる時からそのことを考えていたんだがな、分からないんだ。ごめんな、正樹、すまん。」
正樹はぽかんとしてネトイの顔を見た。唇を噛み締めて困った表情をしている天性のピエロがそこには居た。次の瞬間、目と目が合って、二人は吹き出してしまった。あまり明日のことは心配しない方が健康の為には良いものだ。時にはなるようになるさと、すっと息を抜くとうまくいく事もある。正樹はネトイのことを見ていると心の底から明るくなった。彼が素晴らしい才能の持ち主であることを改めて知らされた気がした。ネトイの大らかな気質は正樹の後の人生の中でおおいに役に立つことになるのだ。
天の導き
天の導き
ボラカイ島が周囲7キロメートルの小さな島とはいえ、その中でボンボンたちを捜すことの難しさは正樹もネトイもよく分かっていた。ただ闇雲に捜したところで見つかるわけがなかった。せっかく憧れのボラカイ島にやって来たのに、これでは大切な楽園の時間を無駄にしてしまうだけだった。正樹とネトイは考え込んでしまった。偶然のすれ違いはどうしても天の助けがいるし、日本のデパートや遊園地のように迷子捜しのアナウンスもない以上、この人捜しは相当に難航しそうだった。ツーリスト案内デスクと書かれた看板がまず目に飛び込んできた。そのオフィスに入り、日本人が泊まりそうなホテルに片っ端から電話をして聞いてみたが成果はなかった。一番上のウエン姉さんが引き続きそこで調べることになった。自分たちもはぐれて迷わないようにする為に集合場所のレストランを決めた。そのレストランには正樹とディーンがまず待機することになった。ノウミとリンダは近くの小さなホテルを調べ始めた。4kmも続く白い砂浜、ホワイトサンドビーチに沿ってビーチの裏通りがあるが、そこには途切れることなく飲食店や土産物店が立ち並んでいて、シーフード料理、韓国料理、イタリアン、フレンチ、あるいはアメリカンといった世界中の料理を観光客にふるまっていた。フィリピン料理の店は定額食べ放題のバイキングスタイルが多く、奥がホテルやロッジになっていたりする。コテージといった簡単な宿泊施設を備えている店も多かった。長期滞在のバックパッカーたちの為のベットスペースを設けている店も相当数あった。それらの店にはネトイが一軒一軒あたることになった。ボラカイの砂浜には日没からテーブルが並べられ、ギターの弾き語りや、本格的なバンドを置いている店もあった。ボラカイ島の夜は熱く活気に満ちていた。あちこちのカウンター・バーには人々が集い、グラスを片手に思い思いに語り合っている。浜には恋人たちが満ち、ホワイトサンドビーチは夜遅くまで人影が絶えることがなかった。昼間の炎天下の静寂がまるで嘘のように、夜はどこからか人が現われて来て、別世界を創っていた。正樹はディーンと集合場所のレストランに入り、夜の海がよく見える方の席に彼女をさりげなく座らせた。昼間ならば、きっとボラカイの海が一望の下に見渡せる場所だった。テラスのテーブルは安っぽい作りではあるが、かえってそれが親しみやすく、とてもくつろげる雰囲気を演出してくれていた。電気の照明もあるのだが、コールマンと呼ばれるキャンプで使うような強力な野外ランプが至る所でシュー、シューと音を立てながら灯っていた。何から話したら良いのか、正樹にとっては最大の関心事である彼女の学費については敢えて触れずに、他の話題から切り出した。
「ねえ、ディーン、マニラに戻ったら、君の大学に挑戦してみるつもりだよ。ずっとそのことばかりを日本で考えていたんだ。僕もやっぱり医者になりたい。」
「そう、正樹なら大丈夫よ、きっと良いお医者様になれるわ。頑張ってね!学校の手続きとか国家試験の手続きをマニラに帰ったら、すぐにしましょうね。あたしも一緒に行って手伝うから。それから、こっちのお役所は時間がかかるけれど、怒っちゃ、駄目よ。我慢してよ。」
「分かった、ありがとう。大学の事務局にも行って相談しないといけないね。どんな書類が必要なのか調べないといけない。教育省にも行かないといけないし、移民局で面接も受けなければならない。結構、留学するのは手続きや許可が必要なんだね。エイズ検査も義務づけられているみたいだよ。」
「大丈夫、心配しないで。あたしと姉さんとで、きっと正樹を学校に入れてみせるからね。」
「ありがとう。僕も全力でやってみるから。」
学校の話に夢中になっていると、ネトイとウエンさんがレストランに戻って来た。
「駄目だな、手がかりがまったくなし。島の高級ホテルにはボンボン兄さんたちはいなかったよ。いったいどこにいるのかな。」
ネトイは申し訳なさそうにそう言った。ウエンさんもがっかりした様子ではあったが、彼女の明るく楽天的な性格から、皆を励ますように明るい声で言った。
「でも、すぐに見つかるわよ。だって双子の凄い美人が一緒だもの、あんなきれいな人たちの噂はすぐに耳に入ってくるから。」
正樹は言葉には出さなかったが心の中でこんなことを呟いていた。
「助平社長の奴、双子の美人も一緒に連れて来ているのか、その上、ディーンの学費まで出すだと、ふざけた野郎だ。ディーンにちょっかいまで出そうとしてやがる。同じ日本人として許せない。絶対に、ぶん殴ってやるからな。」
リンダとノウミもしばらくして戻って来たが、ボンボンたちの宿泊先はまったく分からなかった。
正樹は皆に丁寧にお礼を述べてから、こう付け加えた。
「今夜はこの辺にして、休むことにしませんか。明日、また、みんなで手分けしてコテージをひとつひとつあたってみましょう。もう遅いので、ここのレストランの奥のコテージに泊まることにしましょう。さっき、コテージの管理人に値段を聞いたら、そんなに高くはありませんでした。すみませんが、ここのコテージで今夜は我慢して下さい。」
そろって席を立ち、店の中を通り抜けて奥のコテージへと向かった。途中に管理人の小屋があり、その中にいた管理人に支払いを済ませると、二つの鍵を渡された。それで男女別々のコテージへ入った。正樹はネトイと二人だけのコテージとなった。ネトイが言った。
「正樹、さっきの管理人、オカマだぜ。やけに女っぽかったな。でも、あれで怒り出すと、今度はむちゃくちゃ男っぽいからおもしろいよな。あいつらを見ているとまったく飽きないよ。まあ、よく気がつくし、親切だから管理人にはむいているかもしれないがな。」
「ネトイ、どうだい、店に戻って、一杯、付き合わないか?」
「答えるまでもないこと、もちろん、オーケーだよ。」
長旅だったので、女性たちはすぐに休むことになったが、正樹とネトイの二人は飲みながら明日の作戦を練ることになった。二人がレストランに戻ると、さっきよりも客は増えていた。ヨーロッパ、どうやら北欧からのバックパッカーたちのようであった。この島で長期滞在を決め込んでいる連中で、髪もひげも伸ばし放題の自由人たちだ。太陽を求めてこのボラカイ島にやって来たようだった。
ネトイと飲むと、つい羽目を外してしまう。どちらかがぶっ倒れるまで飲んでしまうのがいけない。この前はそれでディーンとの約束を破ってしまった苦い思い出がある。だから今夜はほどほどにしようと正樹は自分に言い聞かせていた。正樹は店のウエイターに少し多めにチップを与え、空になった食器や飲み干したボトルはそのままテーブルに置いて、片付けないようにと命じた。どの位、自分たちが飲んでいるのかを確認する為だった。一時間もしないうちにテーブルは空き瓶と食べ終えた食器でいっぱいになってしまった。かなり酔いが回ってきた頃、お手伝いのリンダがひょっこり現われて正樹の隣に座った。ネトイがそれを見て言った。
「どうしたんだ、リンダ?」
リンダはうつむきながらビコールの言葉で答えた。
「正樹にお礼が言いたくて来たの。だって、あたし、正樹のおかげで、こんなにきれいなところに来れたのだから、きっと、あたしここには一生来れないとおもっていたのよ。だから興奮しちゃって、眠れなくて、正樹がいなかったら、ボラカイ島へは絶対来れなかったもの。」
ネトイがリンダの言ったことを英語に訳して正樹に伝えた。正樹は真っ赤な顔をしているリンダに分かるような簡単な英語を選んでゆっくりと話した。
「そんなことはないさ。リンダはとてもかわいらしいから、きっと、いつか、いい人が見つかって、またその人がこの島に連れて来てくれるさ。僕にお礼なんていらないよ。」
それを聞いたリンダは急にしょんぼりしてしまって、正樹が彼女の為に注文した飲み物にも口をつけずにコテージへ戻ってしまった。
「バカバカバカ、バカだね。あんなこと言ったら怒るの、当たり前だろう。」
ネトイが正樹をちゃかした。
「ネトイ、僕は何か、リンダに悪いことでも言ったかな?」
「いや、別に。リンダはおまえのことが好きなだけだよ。それもかなりの重症だな、あの感じでは完全におまえにまいっている。」
南国の島の夜は酔えば酔うほど天国に近づいていくみたいだった。
「なあ、ネトイ、僕はもう別にボンボンたちを無理に捜さなくてもいいと、そうおもうようになってきたよ。」
「どうしてだよ、明日、俺がきっと捜し出してみせるから、心配するな。」
「なあ、考えてもみろよ、こんなにきれいな島に来てさ、人捜しばかりして時間を潰すのはもったいないよ。せっかくみんなでボラカイ島に来たんだ。ボンボンたちのことは忘れてさ、この美しい島でみんなで存分に楽しまないか?それで、もし、彼らに会えたとしたら、それはそれで最高だよ。だからもう無理にボンボンたちを捜すのは止めにしようや。」
「分かったよ。正樹、じゃあ、こうしよう。明日、俺が独り回ってみるから、それでお終いにしよう。おまえたちは朝から時間を大切に使え、明日からボラカイ島の休日を楽しめ。それでいいよ。」
テーブルの上はもう隙間が無い位にぎっしり食器やビールのボトルで埋め尽くされていて、何枚か皿がテーブルの上からはみ出して下に落ちていた。
「ネトイ、ちょっと酔ったみたいだ。浜へ行って来る。すぐ戻るから。」
「じゃあ、俺も一緒に行くから、ここの精算をしておくよ。」
「おい。ネトイ、おまえ、お金があるのか?」
「ないさ、金も無ければ、仕事もない。」
笑いながら正樹は手を挙げて店の者を呼んだ。正樹は喜んで支払いを済ませた。よろよろと、二人は酔った体をぶつけ合いながら浜まで歩いていった。月がボラカイの浜を照らしていた。砂浜に仰向けになって、ねころんで満天の星空を眺めた。完全に星たちもぐるぐる回っていた。空も酔っ払っているのだと二人はおもった。 正樹は嬉しくて仕方がなかった。フィリピンの風が自分に合っているとおもった。浜辺に倒れて、ただじっと波の音だけを聞いていた。
どの位、時間が経ったのだろうか、突然、周りが騒がしくなってきた。
「正樹、起きてよ。」
ディーンの声であった。その声が天使の囁きのように酔った正樹には聞こえてきた。そして再び、天使の声がした。
「正樹、起きてってば、いたのよ。ボンボン兄さんたちがいたの。今、こっちに来るわよ。」
闇の中に砂浜を踏みしめる大勢の足音が近づいてくる気配を感じた。ディーンが説明をする。
「隣のコテージにボンボン兄さんたちが、居たのよ。びっくりしちゃったわ。すぐ、隣に居たのよ。コテージのテラスにある椅子に座っていたら、ボンボン兄さんが隣のコテージのテラスからこっちを見ていたの、思わず大きな声を出しちゃったわ。」
笑顔のボンボンが闇の中から現われた。正樹を見つけると、手を出しながら近づいて来た。正樹は立ち上がった。
「いらっしゃい。正樹、びっくりしましたよ。でも、良かった。この島で会えてさ。とても嬉しいですよ。」
ボンボンの後ろにはニヤニヤしている日本人が立っており、その後ろには双子の美人が恥ずかしそうに立っているのも正樹は確認した。ボンボンが正樹に三人を紹介しようと振り返った、その瞬間、正樹は素早く茂木の目の前に駆け寄り、茂木の顔面を殴りつけた。茂木はガクッと体勢を一瞬崩したが、平然として立ち続けていた。その場に居たすべての者はいったい何が起こっているのか、まったく理解出来なかった。そして誰も口を開くことも出来なかった。やっと、正樹が吐き捨てるように言った。
「お前みたいな、日本人はクズだ!・・・・・・」
言葉がちゃんと続かない、それでも正樹は続けた。
「お金で何でも出来るとおもうなよ!この助平野郎、ディーンの学費はおまえが出すようなことではない。ふざけるな!」
天才のボンボンがやっとここで、今、何が起こっているのかを完全に理解して、おもわず英語で叫んだ。
「違う、違う、正樹。この人は違うんだ。」
ディーンも正樹が何で天使のような茂木のことを殴りつけたのかが分かった。彼女の恐怖の表情が一転して笑顔に変わった。殴りつけた正樹も殴られた茂木も、ボンボンとディーン以外の者はまだ誰も今何が始まっているのかを分からずに立ち尽くしていた。
長い沈黙が続いた。ボンボンが茂木に言った。
「茂木さん、大丈夫ですか。すべて誤解なのです。勘違いなのです。」
ボンボンは今度は正樹に向かって言った。
「正樹、違うんだ。こちらのお方はディーンの学費の渡辺社長とは違う人です。」
その一言で正樹は自分の間違いを即座に悟った。穴があったら入りたいとは正にこの事であった。正樹は崩れ落ちるように茂木の前に土下座をして謝罪した。ディーンはニコニコしながらその様子を見守っていた。しかし。茂木や千代菊、そして菊千代は合点が行かぬ顔をしたままで、今にも正樹に飛び掛りそうな形相であった。ボンボンが茂木に向かって謝った。
「茂木さん、すみませんでした。ここにいるのは正樹と言いまして、茂木さんのことをあのマニラに来ている渡辺社長と間違えてしまったようです。そこにいるディーンの学費を渡辺社長が援助したいという話がありましてね、その知らせを聞いて正樹は日本からすっ飛んで来たようです。本当にすみませんでした。」
茂木もここで少し自分が殴られた理由がわかった。正樹は依然として土下座をしたまま頭を砂浜に埋めていた。また、長い間、誰も口をきかなかった。今度は茂木が正樹の腕を掴み、彼を起こそうとした。
「もう、いいから、起きなさい。私は親の愛情を知らずに育ちましたから、殴られたのはこれが生まれて初めてですよ。しかし、結構、痛いものですね。」
「本当にすみませんでした。どう謝ったらいいのか、よく確認もしないで、こんなことしまして、申し訳ありませんでした。」
「もう、いいから、起きなさい。でも、今夜はきっと興奮して眠れそうにないから、君のおごりで飲ましてもらうよ。いいかね、それで?少し話をしようじゃないか。」
「もちろん、いいですとも。喜んでおごらせて下さい。」
茂木の右目がさっきより腫れ上がってきていた。
正に劇的な運命の出会いであった。もし人生が出会いの連続だとしたら、哲学者茂木との出会いは正樹の人生の中で最も重要な出会いの一つであったことは間違いなかった。天の導きであった。
償い
償い
英語や日本語がよく理解出来ないお手伝いのリンダは信じられないという表情を浮かべながら真っ先にコテージに戻って行った。あんなに優しかった正樹が突然、暴力をふるうなんて、大好きな正樹が酔っ払って人を殴ったことに大きなショックを受けてしまった。そして今夜の正樹のとった行動の本当の理由をリンダが知った時、彼女は更に大きな衝撃を受けることになるだろう。
茂木は心配そうな顔をしている千代菊と菊千代に向かって言った。
「もう今夜は遅いので、先にコテージに行って休みなさい。私は少し正樹君と話をしますからね。」
菊千代が茂木に近寄って、茂木の顔を見ながら言った。
「顔は大丈夫、痛みませんか。氷をもらってきましょうか?」
「大丈夫。心配しなくてもいいよ。後で飲み物を注文する時に氷も頼むから、菊ちゃんは早く休みなさい。」
菊千代は正樹のことをさっと睨み付けてから千代菊とその場を立ち去って行った。ウエンさんとノウミ、そして笑顔のディーンも順番に引き上げて行った。ボンボンはビコールの言葉よりも英語の方が自然に出るようで弟のネトイにも時々英語で話しかける。かなり酔いがまわっているネトイに向かって言った。
「ネトイ、これから茂木さんと正樹と少し飲むから、多分、日本語だけの話しになるので、おまえはもう休みなさい。」
それを聞いていた正樹がボンボンに向かって言った。
「いや、ネトイも一緒に来てほしいのですが、駄目でしょうか?」
それは正樹の鋭いカンだった。たとえ日本語が分からなくても、彼を出来るだけ日本人の間に同席させた方が良いという正樹の将来にむかってのカンだった。一種の洞察力に近いものであった。ネトイが将来、重要な存在になることを正樹はこの時すでに本能的に見抜いていたのだ。茂木と正樹の間にはまだ気まずい空気が渦巻いている。当たり前である。たった今、殴りつけた者と殴られた者なのだから、すぐに仲良くなれという方が無理な話だ。天性のピエロであるネトイが居た方が場も和むので、ボンボンもネトイが同席することに同意した。四人で浜からビーチロードに戻り、静かに話が出来そうな店を選んで腰を下ろした。ボンボンはウエイターにビールとバーベキュー、そして大量の氷を注文した。ネトイと正樹はすでに完全に出来上がっており、これ以上飲むと危険な水準まできていた。ネトイにも分かるように英語で話すことも出来る三人だったが、自然に日本語になっていた。ビールと氷が運ばれてきて、まず氷が茂木の目の辺りにあてられた。やはりボンボンが口火を切った。
「正樹、この茂木さんはボラカイ島で日本人たちが生み捨てた子供たちを引き取って育てようとしているのだよ。」
正樹は何も言えなかった。心の中では自分はとんでもないことをしてしまったと反省をしていた。ボンボンが話を続ける。
「勘違いとはいえ、偉いことをしたものだよ。正樹はそんな聖人みたいな茂木さんを初対面で殴りつけたのですからね。まったくいい度胸をしているよ。」
「ボンボン、もういいんだよ。その話は止めにしないか。忘れることにしよう。恋人を想っての、何と言うのか、そう純情だよ。正樹君の純情には感心した次第だ。まずはその純情に乾杯でもしようじゃないか。」
そう言って、茂木は一人でぐいっと一気に飲み干した。
「いいえ、今夜のことは自分は死ぬまで忘れないとおもいます。そして、一生かかってこの償いをするつもりです。」
「おいおい、よせよ。そんな大袈裟なことを言うなよ。」
「自分は本気ですよ。その子供たちの施設の建設にも参加させて下さい。」
「それはありがたい、是非、頼むよ。仲間は一人でも多いほうが良いからね。」
ボンボンが正樹に質問した。
「正樹、学校はどうした?」
「休学してきました。自分は本気でフィリピンで医者になるつもりだったので退学してこちらに来ようとしたのですが、家族の反対でとりあえず休学ということになりました。でも答えは出ましたよ。こちらに来て、みなさんの顔を見たら、もう北海道には帰る気持ちはなくなりましたからね。」
ボンボンが正樹のことを茶化した。
「みんなじゃなくて、ディーンの顔を見たからだろう?」
哲学者茂木が嬉しそうに言った。
「恋の力は偉大だよ。どんなことでもやってのけるのだからね。恋にも乾杯だ。」
また茂木は独りでコップを空けた。正樹はこの茂木の言葉でやっと笑うことが出来た。正樹が言った。
「茂木さん、その日比混血児たちのことですが、将来のことです。その子たちが成人した時のことですが、どんなプランをお持ちですか?」
「まず教育に力を入れようと考えているよ。英語はもちろん、特に日本語の教育には重点を置くつもりだよ。就職が少しでも有利になるように、しっかりとした教育を受けさせてやりたいと考えているんだ。この島の家は彼らの家になるわけだから、成人して自立した後でもいつでも帰って来れるようにはするけれど、出来るだけそれぞれが頑張って生活していくことが望ましいとおもうよ。」
正樹も一気に飲み干してから言った。
「僕も可能な限り協力しますよ。」
「ありがとう。頼むよ。」
正樹はボンボンに訊ねた。
「ボンボン、この国の失業率はどうですか?」
「ああ、高いよ。残念だけど仕事はない。それが最大の問題だな。」
正樹は少し偉そうに話を始めた。今夜の自分の失態を挽回するつもりだった。
「実は、僕の父親が半導体の会社をやっておりまして、少し、こちらにも仕事を回してもらいましょうか。もしそんな工場があると、子供たちが不運にも仕事が見つからなかった時に役立つかもしれませんよね。あくまでも島以外での自立を優先させて、それでも駄目だった時の最後の切り札として、その工場を位置づけた方がベターですね。」
茂木は正樹の目をじっと見た。
「素晴らしい、それは可能ですか?」
正樹は茂木の真剣なキラリとした視線に少しひるんだが、言葉を続けた。
「分かりません。でも、やってみる価値はあるとおもいます。マニラに戻ったら日本に電話をして父と相談してみます。さっきの無礼の償いの為にも、しっかりと説明して良い返事をもらってみせます。」
日本語の話から仲間外れになっていたネトイが、突然、椅子ごと後ろにぶっ倒れた。話が出来ずに飲み過ぎてしまったのだ。ボンボンが慌てて、ネトイを抱え起こした。
「茂木さん、今日はこれくらいにしてもう休みませんか。こいつを連れて行って寝かせないといけません。正樹もどうですか、今日はこれでお開きということでいいですか。」
ボンボンがネトイを背負って茂木さんとコテージに消えて行ってしまった。正樹は店の支払いを済ませてから、独りでもう一度ボラカイの海を見に浜へ出てみた。浜には波の浸食によってできた小さな島があった。島と言うよりも岩と言った方が正しいのかもしれない。潮が引くと浜と地続きになるその岩に誰かが蝋燭を立てて火を灯していた。どうやらボラカイ島の守り神らしい、マリア像がその蝋燭の炎に照らし出されて揺れていた。月の光と蝋燭の炎が混ざり合って幻想的な世界がそこにはあった。そのマリア像の視線は優しく正樹に注がれていた。
正樹の長い長いボラカイ島の最初の一日はこうして終わった。一生涯忘れることのできない特別の日となった。
二人の大切な時間
二人の大切な時間
翌日、それぞれ思い思いの休日を過ごすことになった。正樹は朝のボラカイの海へ出てみた。夕日のボラカイの海も素晴らしかったが、朝の明るい汚れのない海も文句無く感動した。感動という言葉以外に他の表現がみつからなかった。空の青と砂浜の白、そして幾重にも重なった海の色のコントラストが絶妙で、午前中の澄んだ光は海の色を青とエメラルドグリーンに分けて、とても神秘的だった。四キロメートルも続く、本当に真っ白な砂浜がこの世に存在していたことにも驚いたり、視界の九十パーセント以上が真っ青な空であることにもびっくりする。海は遠浅で潮が引くとあちらこちらに小さな砂の島が顔を出す。三日月の形をした砂山はとくに美しく、そこに寝転がって潮が満ちてくるのを待ちたくなる。そのままそこで溺れてもいいとさえおもってしまう。レストランの前の浜には大きな蓑傘のお化けがたくさん並んでいる。日よけの為の南国風パラソルである。その下には横になるための木製の長椅子が置かれてあって、ビーチ気分を盛り上げていた。正樹は無断でその長椅子に寝転がってみた。空を見上げると、大空の中で楽しそうに椰子の葉が揺れていた。正樹はボラカイ島に来て本当に良かったと素直におもった。絵を描くことがどんなに苦手な人でも、この風景なら一枚や二枚は描いてみたくなる。ボラカイはそんな気分にさせられる極上の島である。
正樹はバンカーボートを半日だけ利用することにした。チャーターしたボートでディーンとボラカイ島を一周するつもりだった。バンカーボートは両サイドにやじろべえの手のように棒がわたされており、さらに船のバランスをとるために船体と平行して横棒も取り付けてある。高波がきても転覆しないようにうまく設計されている。正樹がボートの前で待っていると、ディーンが手を振りながら走って来た。大きな麦わら帽子をかぶり、サングラスをかけていた。それはまるで映画のワンシーンのようでもあった。彼女はどんな有名な女優よりも美しかった。ボラカイ島に降り注ぐ日差しよりもディーンの姿は眩しかった。彼女は神が創った最高の創造物であり、正樹は彼女と一緒にいることだけで幸せだった。これ以上の幸せがないことが逆に恐ろしかった。
正樹たちは隣町のカリボの町にある飛行場に降りたので、上空からのボラカイ島の全景を見ていない。だからボートで回ってみて、初めて、ボラカイ島にはホワイトサンドビーチ以外にも幾つも砂浜があることを知った。小さな美しい砂浜がボートの前に現われる度にディーンははしゃいでいた。
「あたしたちのビーチを所有してね、その近くに家を建てるの、そしてね、子供たちがその浜で楽しそうに遊んでいるのよ。何だかそんなことを考えていると幸せな気分になるわね。でも、すぐに飽きちゃうかな、退屈でさ、すぐに都会へ戻りたくなっちゃうかもしれないわね、そうでしょう、正樹。」
「だけど、もしこの島で仕事があってさ、働くことが出来たら退屈はしないとおもうな。都会の雑踏で我慢して働くよりもこのきれいな島で収入が得られるのなら、そっちの方が誰だって良いに決まっているよ。」
「でも、きっと病気になった時とか、お産の時は大変だわよ。」
「しかし、多くの人々が現にこの島で生活しているのだから、そんな時でも何とかなるのだよ。もし、ディーンがその気になれば、外国へ行くことを止めてさ、この島で診療所を開いたらどうだい。島の人達はきっと喜ぶとおもうよ。病気になった時の心配が少し減るからね。」
「そうかもしれないけれど・・・・・。」
「昨日の夜、あれから茂木さんと話をしたでしょう。茂木さんはこの島に恵まれない子供たちの施設を造るらしいよ。それもフィリピン人と日本人の間にできた子供たちの為の家を造るらしい。両親から捨てられ、社会からも忘れられた子供たちの面倒をみるそうだよ。凄いよね。それって、まるで天使様のようだね。」
「正樹はそんな天使様を昨日は殴っちゃったんだ。きっと神様は正樹のことを今頃は怒っているわね。」
「もう、その話はしないでくれ。」
「でも、あたしはとっても嬉しかったわ。わざわざあたしの為に日本から飛んで来てくれてさ、ありがとう。」
「茂木さんという人は本当に良い人だよ。その人を初対面で殴りつけてしまったんだ。僕は
必ず彼の為に役立つ事をするつもりだよ。言葉では謝りきれない事をしでかしたんだからね、行動でもってしっかりと謝ってみせるよ。」
ボートが島の岬を大きく回り込もうとしていた。岬の上にある大きな家をディーンが見つけた。その家を指差しながらディーンが言った。
「正樹、見て、あの家、凄いわね。どんな人が住んでいるのかしらね。」
正樹はしばらくその家を探るように見てから如才なく言った。
「華僑だな、きっと、あの家は華僑が造った豪邸だよ。あの様式は中国のものだ。この国の経済を支配している華僑の別荘といったところだろう。」
「きっとあの家のテラスから見渡す景色は最高でしょうね。だって、あそこからならこの島を一望のもとに眺めることが出来るでしょうからね。」
「随分と、あの家を建てるのには時間とお金がかかっているだろうな。崖にへばりつくように建てられているし、あの建築技術はたいしたものだよ。だけどね、ディーン、お金持ちたちはさ、どんなに豪華できれいなところに住んでいても、どんなに楽しい暮らしをしていてもね、決して満足なんかしないんだ。人間の欲望には限界がないからね。お金を自由に使える人達はもっと良い暮らしを求めて、どこまでいっても満足なんかしないんだ。だからいつまで経っても幸せにはなれないのさ。その反対に貧しくても子供たちの為に、愛する人の為に苦しくとも一生懸命に働いている人達の方が簡単に幸せを感じることが出来るものなのさ。何か偉そうなことを言っちゃったね。でも、満足して感謝が出来ない人間には幸せなんかいつまで経っても感じることは出来ないのは確かだよ、それはお金持ちでもそうでない人でも同じだ。
ボートが大きく上下した。水しぶきが二人にかかった。ディーンは「キャー」と声をあげたたが、ちっとも嫌な顔はしていない。楽しくて仕方がないといった様子であった。するとディーンがとんでもないことを言い始めた。
「ねえ、正樹、あの家に登ってみないこと。あのビーチの階段は上の家まで続いているみたいだから。」
「あんな家には近づかない方が正解だよ。きっと大きな犬を引いたガードマンが出て来てさ、ディーンのことを食べちゃうかもしれないぞ。」
「大丈夫よ、あたしには正樹がついているじゃない。そんな奴、また、ぶん殴っちゃえばいいのよ。」
「やはり、他人の家だからね、あの浜に近寄るのは止めよう。君とこうして話をしながらボートで揺れている方がいいよ。何だか嫌な予感もするしね。あの家の探検は止めよう。」
「でも、本当に映画に出てきそうな豪邸よね。いったいどんな人があんな家に住んでいるのかしらね?」
「ディーン、そんなに興味があるのなら、ちょっと、後ろにいる船頭さんに聞いてみたらいいよ。誰の家だかきっと知っているとおもうよ。」
ディーンはゆっくりと立ち上がり、ボートの手すりに摑まりながら後方のエンジンを操作している船頭のところへ移動した。そして戻って来て、自慢げに言った。
「俳優さんだって、あの家のオーナーは芸能人よ。時々しか来ないそうよ。何だか、もったいないわね。一年に何度も来ないそうよ。」
「ふんーん、そうなんだ。芸能人か。」
「でも、正樹、正解。その人、大金持ちの華僑の息子さんだから、とってもハンサムで大柄なスポーツマンタイプの俳優さん。とっても有名よ。」
ボートは少し島から離れて沖へ出た。さわやかな風が吹いており、暑さはまったく感じられなかった。二人だけの大切な時間はとても愛しく、アッと言う間に過ぎていった。正樹は心の底から幸せを感じていた。
ボラカイの島、ボラカイの海、ボラカイの空、そして二人にふりそそいでいる太陽の光はその幸せをさらに大きくしていた。しかし、すべての生命を生み育てる太陽でさえもディーンの笑顔の前ではひざまずくと正樹はおもった。
豪邸
豪邸
正樹とディーンはボラカイの海がよく見える高台のレストランのテーブルをもう何時間も二人で占領していた。正樹はよく冷えたサンミゲールビールをディーンはアルコールの入っていないグリーンマンゴーシェイクを何杯もお代わりしながら二人だけの楽しい時間を過ごしていた。正樹は次第にこうしていることが何だか申し訳なくなってきていた。それは誰に対してではなく、この美しい島のことを知らないすべての人々に自分たちだけがこうして天国にいることをすまないとおもうようになってきていた。それほどボラカイと言う島はきれいだったのだ。そこへ丸いメガネをかけた天性のピエロ、ネトイがやって来た。
「ああ、やっぱり、ここだったか。ボンボン兄さんがみんなに大切な話があるそうです。コテージのレストランにみんな集まっているから、正樹たちもすぐに来て下さい。お願いします。」
正樹はネトイに二人だけの大切な時を邪魔されてしまい少し不機嫌になってしまった。まあ、少し酔ったせいもあるのだが、一体、ボンボンは何の用があるのだろうかといぶかしくおもいながら、しぶしぶ席を立った。三人でゆっくりとビーチ沿いにつくられた砂の道をレストランに向かっていると、一天にわかに掻き曇りではないが、突然のスコールであった。激しいスコールが砂道を叩きつけ出した。もちろん三人にも容赦なくこの突然の雨は襲い掛かってきており、バケツをひっくり返したような雨とは正にこのことであった。雨宿りをする間もなく、三人はあっという間にずぶ濡れになってしまった。ディーンの白いシャツがディーンの身体の線と一体化してしまい、正樹はびしょ濡れになってしまったディーンのことをこの上なく愛おしくおもった。彼女が風邪を引くといけないので、まずコテージに戻り、素早く濡れたシャツを着替えることにした。みんなが待つレストランにはそれから行くことにした。ネトイはここは南国だからすぐに乾くと言って、着替えもせずに先にレストランに入って行ってしまった。
ディーンと正樹がレストランの中に入ると、ボンボンを中心にして茂木、菊千代、千代菊、反対側にネトイ、ウエンさん、ノウミ、そしてリンダの順に座っていた。ケーキを食べながら何やら楽しそうにテーブルを囲んでいた。正樹たちがレストランに入って来るのを見て、ボンボンが勢い良く立ち上がり、誇らしい気持ちを秘めながら話し始めた。
「正樹、決まりましたよ。探していた家がとうとう見つかりました。これからみなさんをその家に案内しようとおもいます。正式な契約はまだですが、その家の持ち主の特別の配慮で今日からそこに住む許可が下りましたので、ここのコテージは引き払って新しい僕たちの家に移動します。正樹もその家を自分の家だとおもっていただいて結構ですよ。とても一人や二人で住むような家ではありませんからね。皆さんの協力がないとやっていけませんから、どうぞ、一緒にその家を守っていって欲しい。」
やけに堅苦しい言葉を選んでボンボンは話をしたと正樹はおもった。まだその家をボンボンと茂木の二人だけしか見ていない。二人の自慢げな表情とボンボンの今の話しぶりから、正樹はその家が相当に素晴らしいものであることを感じとっていた。
ボラカイ島には建設用のトラック以外には自動車はない。オートバイにサイドカーを付けたトライシクルが島の唯一の交通機関である。島の自然を出来るだけ守ろうとする、島の人々の配慮なのである。周囲が7kmの小さな島であるから、その気になれば歩いてどこへでも行くことが出来る。しかし新しい家への移動は荷物が多かったのでトライシクル二台で行くことになった。ディーンが正樹に言った。
「ねえ、正樹、さっきのボンボン兄さんの話し方、何だか勿体振ってなかった。きっと大きな家に違いないわね。」
「ああ、僕もそう感じたよ。家主が到着次第に契約するとか言っていたけれど、持ち主はこの島の人間ではないみたいだね。」
トライシクルは五分もしないうちに町並みを後にして山道を登り始めた。ヤマハと書かれたオートバイのエンジンは大きな悲鳴を上げながらも、しっかりとした馬力で坂道を登っていた。日本でとっくの昔に見捨てられたエンジンたちは異国の地でこうしてまだ頑張って働いているのだ。日本のエンジンの優秀さを改めて感じさせられた。島の中央を走っているメインロードを何度も曲がり、トライシクルはどうやら岬の方向に向かっているようだった。高台に近づくとメインロード沿いに頑丈そうな鉄格子の柵がつながりだした。柵の反対側にはマンゴーの樹が等間隔で植えられており、更にその柵に沿ってしばらく行くと、まるで迎賓館か何かのような、何やらごっつい大きな門が見えてきた。正樹がいったいどんな人がこんな凄い屋敷に住んでいるのだろうかとおもい始めたその瞬間に二台のトライシクルは停止した。その大きな門の前でヤマハはゆっくりとエンジンを停めてしまった。ドライバーがクラクションを二度鳴らした。門の外からでは敷地があまりにも広大で建物を見ることは出来なかった。大きなお庭が広がっているだけだった。草野球の試合なら楽々四面はとれそうなグランドがそこにはあった。よく手入れがされた芝はそのまま空につながっていて、庭の向こう側には海が広がっていることがたやすく想像出来た。
ドライバーがもう一度クラクションを今度は長めに鳴らした。すると、このお屋敷の管理人らしき男が頭に手ぬぐいを巻いて自転車ですっ飛んで来た。その男はボンボンを見ると丁寧に挨拶をして慎重に門を開いた。屋敷へ続く道の両側にもマンゴーの樹がたくさん並んでいた。まだ青いマンゴーはナイフでスライスしながら岩塩をつけてたべるとすっぱさと甘さと塩の味が見事に混ざり合って、やみつきになる旨さだ。そんな青いマンゴーが食べきれないほど樹にはぶら下がっていた。ディーンが正樹の腕を引っ張りながら言った。
「正樹、見て、あそこ、スイミングプールもあるわよ。ここがあたしたちの家になるのかしら、凄いわね、あたし、夢を見ているみたいよ」
「ああ、僕もだよ。この分だと奥にある建物もきっとでかいぞ、信じられないよ。ねえ、ディーン、正直に言うけれど、ぼくはこんな大きな屋敷は初めてだよ。この庭だけでもびっくりだよ。なんだか身体がおかしい、ちゃんと歩けないもの。」
「あたしもよ、まるで宙に浮いているみたいだわ。こんなところを買うことが出来るなんて、茂木さんはとてもお金持ちなのね。」
「そうなんだ、茂木さんが買ったの、凄いね。」
千代菊と菊千代も同じ気持ちらしく、黙って、目をまん丸にして歩いていた。日本を追われた悲しみはこの時点では、一時ではあるにせよ完全に消えている様子だった。茂木とボンボンは足早にどんどん先を歩いて行く、まったく違った世界に迷い込んでしまったウエンさんとノウミはとても驚いている様子で、おしゃべり好きなこの二人の口数は少なかった。リンダは一番最後から皆について来た。ネトイはまだ門のところにいた。どうやらドライバーたちにみやげのマルボーロを分け与えているようだった。トライシクルに腰掛けながら、この家の管理人も交えてタバコを4人でふかしていた。マンゴーの並木道を右に曲がったところで、ディーンの手がぎゅっと正樹の手を握った。予想していた通りの大きな屋敷がその姿を現したからだ。
「正樹、テニスコートもバスケットコートもあそこにあるわよ。」
「本当だ、すべて整っているね。あそこの、あの丸い敷地は何だろうね?」
「あれはヘリポートじゃない。きっとそうよ。ヘリコプターの離発着場よ。」
屋敷の横には地面をよく固めたテニスコートが二面とバスケットコートも二面その隣にあった。
「ここはそんじょそこらの屋敷とはわけが違うね。凄いとしか言い様がない。まるで日本の銀行か何かの、ほら、庭にパラソルをつけたテーブルが幾つも並んでいる保養施設のようだね。休日を行員たちが家族と一緒に過ごす巨大な娯楽スポーツ施設みたいなものだよ。個人の家というよりは随分と金がかかった企業の保養施設だな。」
大きな屋敷の入り口の前で、先を歩いていたボンボンと茂木がみんなの来るのを待っていた。まるで正樹たちがびっくりして歩いて来るのを楽しんでいるかのようであった。事実あまりにも現実離れした大きさに正樹たちは皆、完全にド肝を抜かれてしまっていた。
黒檀で作られた大扉がボンボンによってゆっくりと大きく開けられた。入るとすぐそこには三階まで吹き抜けの巨大なリビングが現われた。その広さはと言えば、野球の内野グランドくらいはある。床は大理石が敷き詰められていて、その大理石の上には籐を使った伝統的なリビングセットが数多く置かれてあった。日本でウサギ小屋に住んでいた正樹には何から何まで驚きの連続だった。日本とはまったくかけ離れた世界であり、またマニラの混沌とした街並みともまったく違った別の世界がそこには広がっていた。有無を言わさぬ完璧な空間がそこにはあった。
正樹はこの桁外れに大きなリビングをしばらく入り口から眺めていた。そして次の瞬間、ディーンと二人でまるで子供に戻ったように屋敷中の部屋から部屋へと走り回った。どの部屋にも大きな寝室とゆったりとしたバスルームがあり、驚いたことには、そのすべての部屋の窓からはボラカイの海を眺めることが出来る造りになっていた。絶えず海からの風が部屋に吹き込んできており、エアコンのスイッチを入れる必要はなかった。二人はリビングに戻り、今度は入り口とは反対側のテラスに出てみた。そこは中国風のテラスになっていて、正樹とディーンはおもわずお互いの顔を見合わせてしまった。今、二人が立っているテラスは昨日バンカーボートから見上げたあのテラスだったからだ。
正樹とディーンは昨日こっそりと登ろうとした階段を逆にプライベート・ビーチへ向かって下りてみた。昨日はなかったが、今日はビーチにこの家専用のバンカーボートも備え付けられていた。このプライベート・ビーチには一本の大きな椰子の木が海に突き出るように立っていて、その大きな木の影は白い砂浜を太陽と一緒に動き回っていた。庭にしても屋敷にしてもあらゆる贅が尽くされており、ボンボンたちが言うように、ここが日比混血児たちの救いの家になるのならば、世界中の人々の注目を集めることは間違いないと正樹はおもった。これだけの広さがあれば、何千、いや、何万もの混血児たちが生活できるし、更に良いことにはこの屋敷には中に入ってみると、まったく暗さというものが感じられなかったことだ。昨日、バンカーボートから見上げたこの家は恐怖感さえ感じたが、実際に屋敷の中に入ってみると、今度は逆に温かく、とても開放的な造りになっていて明るかった。ただ心配なことはここで育った子供たちが、こんなに素晴らしい屋敷に長い間、とっぷりと浸かっていて果たして再び厳しい現実の世界に立ち戻ることが出来るのだろうか。正樹はそのことが少し気になった。茂木が言っていたように本当に子供たちへの教育の重要性を感じる正樹であった。茂木さんはこうも言っていた。
「子供たちにはどんなに辛くても自分独りで生き抜く勇気と力と知恵を教えてあげたい。そして人の優しさというものを彼らを捨てた親に代わってどうしても伝えておきたいのだよ。そして彼らがこの家を巣立っていって、世間の厳しい風に再び触れて、傷ついた時や疲れ果てた時には休息することが出来る故郷が彼らにはあるのだということもしっかりと伝えておきたいのだよ。」
正樹はこの岬のプライベート・ビーチから豪邸を見上げながらおもった。ただのこの家の手伝いなら、この島にだって人間は幾らでもいるのだから問題はない。自分はそうではなくて、しっかりと勉強をして茂木さんの本当の手伝いがしてみたい。正樹は少し自分の人生の目標のようなものが見えたような気がした。医者になろう、正樹はそう決心するのであった。
空からの訪問者
空からの訪問者
広いリビングの端が霞んで見えない。それほど一階のリビングは大きな部屋である。皆、食事が済んで贅沢なソファーに思い思いの格好で体を沈めていた。正樹がボンボンに唐突に訊ねた。
「ボンボン、この家の持ち主は俳優さんだそうですね。」
「驚いたな。どうしてそれを、どうして正樹はそのことを知っているのですか?まだそのことは誰にも話していなかったのに、びっくりしましたよ。」
「実は昨日、ディーンとボートで島巡りをしていた時にふと見上げるとこの屋敷が目に入ったのですよ。崖にへばり付くように造られていて、とても風変わりな家だったものですからね、ボートの船頭に誰が住んでいるのか聞いてみました。そうしたら芸能人だという答えが返ってきましてね、話によると時々しかこの屋敷には来ないとか言っていましたよ。」
「そうなんですよ。とてもハンサムな俳優さんでね、よく理由は分かりませんがね、彼は日本に行くことになったみたいで、日本円が必要になったらしいのです。日本円でこの家を買ってくれる人をさがしていたというわけです。でも本当のところは僕には分かりませんよ。見ても分かるように相当大きな物件だ。僕の価値観では天文学的な値段だよ。兎に角、僕らには理解出来ない理由でもって安く売りに出していたようです。安いと言ってもフィリピン人でそれも日本円でこの家を買うことが出来る者は数えるほどしかいないとおもいますがね。それを茂木さんが現金で、しかも日本円ですぐに払うといったものだから、話はアッと言う間に決まりました。」
正樹は溜め息をつきながらボンボンに言った。
「日本人の感覚とこちらの人達の感覚とはかなりのずれがあるとはおもいますが、安く見積もっても、この家は敷地も含めると僕の感覚では十億円以上の価値はあるとおもいますが、どうでしょうか?いったい幾らで茂木さんはお買いになったのですか?よろしかったら教えてくれませんか。」
「正樹君、それがね、たったの五千万円なんだよ。僕にとっては五千万円でも大金ですがね、ただ、この家はどう考えても五千万円で買えるとはおもえない、何か、目に見えない力が働いて、その値段になったとしか考えられない。だって、家具だけでもそのくらいの値段になると僕はおもうのだからね。」
「日本で五千万円の家と言ったら高が知れていますよ。せいぜい百坪だ。何万坪あるのか分からないこの豪邸がたったの五千万円なんですか。ねえ、ボンボン、僕にはそんなこと、とても信じられませんよ。」
「なあ、正樹、僕は茂木さんが五千万円の大金を簡単にぽんと出しただけでも驚いているのだよ。今、自分の周りで起こっていることが、何か、現実離れした、そう魔法にかかったような、そんな気分なんだ。」
ここでやっと茂木が口を開いた。
「ここの持ち主はよっぽど急いでいたんだろうね。そうとしか考えられない。私も契約が完全に済むまでは正直言って落ち着かないんだよ。だからその俳優の気が変わらないうちに早く契約がしたくて仕方がない。もちろん私は外国人だから土地の所有は出来ないので、契約書にはボンボンにサインしてもらうことになりますがね。」
正樹がボンボンに向かって言った。
「詐欺か何かの疑いはないのでしょうか。こんなうまい話は疑ってかからないといけない。ねえ、ボンボン、ちゃんと調べましたか?」
「ああ、複数の弁護士に調べさせたよ。何もこの取引に問題はなかった。本当にまとまった日本円が急に必要になったとしか考えられない。僕らにはお金持ちの世界は到底理解することは出来ないよ。きっと、何か他に理由があるんだろうね。」
「この豪邸がたったの五千万円ね。これは神様の贈り物だとしか僕には言い様がない。茂木さんはやっぱり天使様か何かでいらっしゃるのに違いない。この家は正しく天からの授かり物だと僕はおもいますよ。茂木さんの崇高なプランが天に届き、社会から捨てられた日比混血児たち、ジャピーノたちにボラカイ島が魔法を使って与えてくれた家だとしか考えられない。」
リビングの奥の大きな扉が開く音がして、お手伝いのリンダが銀製のお盆にコーヒーカップを載せて現われた。ケソン市のアパートでコーヒーを飲む時はいつもインスタントコーヒーの空き瓶である。コーヒーの粉が空になるとラベルを剥がして、その空き瓶がコーヒーカップとして使える優れものを利用して毎日コーヒーを飲んでいた。このお屋敷ではどうもその優れものは似合わないらしい。マイセンだか何だかよく分からない高級な陶器でリンダはコーヒーを運んできた。今にも溢しそうな手つきでリンダはそのマイセンを扱っていた。もし落とせば、そのカップが彼女の一ヶ月分の給料よりも高いことを知っていたから、とても緊張していた。
外はもう、真っ暗闇である。庭のところどころにあるロンドン風の街灯だけがポツンポツンと見えるだけで、外はすっかり静まり返っていた。時折、ヤモリの鳴く「キッキッキッ」という不気味な泣き声だけが広いリビングに響き渡っていた。このヤモリという奴は家の中に入ってきた虫を食べてくれるので、こちらの人々はリーさんと呼んでとても大切にしている。どこに行っても人間と共に助け合って生きているこのヤモリの数はだから半端ではない。
ウエンさんが優しい声で話し出した。
「私たちはそろそろマニラに戻らないといけないわ。私はもうこれ以上、病院の仕事を休むわけにはいかないし、ノウミもディーンも学校がありますからね。本当はまだここにこうしていたいのですけれど、そうも言ってられません。もう帰らないといけないわ。」
さすがに長女のウエンさんはどんな状況にあっても冷静に物事を判断する。彼女の言う通りである。確かに彼女たちはもうこれ以上ここに居てはいけないと正樹はおもった。夢のような島と現実離れした屋敷とは一時的に離れなくてはならない。ディーンが恐る恐る目を伏せながら正樹に言った。
「正樹、あたしたちはマニラにそろそろ戻らないといけないけれど、正樹はどうする?」
当然ディーンとしては正樹が一緒にマニラに戻ることを期待しているのだ。しかし正直なところ、正樹はもっと茂木さんという人物のことが知りたかったし、何と言ってもこのきれいなボラカイ島と今までに見たこともなかった大豪邸にもう少し居たかった。正樹は返事に困ってしまった。その時である、「バババババ」というヘリコプター特有のプロペラ音が聞こえてきたのは。何が起こったのかと皆一斉に外に飛び出た。空を見上げると、ヘリコプターが一機サーチライトをぐるぐる照らしながら降りて来るのが見えた。軍用ヘリとは違って、小型の民間のものだった。高級な機種のようで音は静かな方であったが、それでも耳にはかなりの衝撃があった。時々反り返るその機体の窓越しに見る限りでは、どうやら乗っているのはパイロット一人だけのようであった。プロペラが次第にその回転の数を減らして、庭のヘリポートの中央に見事に着陸した。扉が開き、サングラスをかけた背の高い、それもがっしりとした体格の男が背中をすぼめながらプロペラの下を抜けて、小走りに近寄って来た。サングラスを左手で外しながらみんなの前に立った。その場にいた女性たちは完全に固まってしまっていた。目の前にはこの国ではちょっとは名が知られたハンサムな俳優が仁王立ちしていたからだ。ディーンが正樹の耳元で囁いた。
「正樹、彼よ。この家の持ち主よ。」
「ディーン、彼は凄く男前じゃないか。ねえ、ディーン、あんな、いい男に声をかけられたら、どうする?しかもお金持ちだ。ころっと、いっちゃうかい?」
「大丈夫、格好をつけている男は嫌いだから。でも、自分でヘリを操縦するなんて凄いわね。格好良過ぎるわ。それにテレビや映画で観るよりもハンサムだし、サインくれるかな?」
「何だか、心配になってきちゃったよ。ねえ、ディーン、どこかに君は隠れているわけにはいかないかな?彼が帰るまで部屋に入っていてくれないか。」
「駄目よ!こんなチャンスは滅多にないし、友達の分まで、あたし、サインもらうんだから。こうして芸能人が直に会いに来るなんて、凄いじゃない。空からの訪問者よ、まるで映画みたいでとっても素敵。」
「ディーン、彼の名前は何というんだい?その空からの訪問者の名前。」
「ホセ・チャンよ。」
「チャンか、やっぱり華僑の御曹司か。」
ボンボンと茂木がさっと前に出て、ホセ・チャンに握手を求めた。その格好良過ぎる映画俳優はゆっくりと皮の手袋をはずしてふたりと握手を交わした。ボンボンが言った。
「お待ちしておりました。ホセ・チャン。お忙しいところをわざわざおいでいただいて恐縮です。」
「いいえ、こちらこそ。無理を言いまして、あなたがボンボンさんですね。日本で勉強されてきた国費留学生と聞きましたが、とても優秀なのですね。私も日本で俳優の勉強をするつもりなんですよ。日本は物価が高いと聞きましたが大丈夫かな。」
「け。」大金持ちが何を言ってやがるんだと正樹は心の中で笑った。続いて、その色男はその場に居たすべての者とひとりひとり順番に握手を交わし始めた。ファンあっての俳優らしい。客商売も結構、気を使うものだと正樹はおもった。ウエンさんにしても、あのじゃじゃ馬のノウミにしても、そのたった一回の握手でもって、もう完全に彼の熱烈なファンになってしまったようだった。リンダなどは一週間くらいは握手されたその手を洗わないような表情をしている。正樹にも満面の笑みで握手を求めてきた。どんな有名な俳優か知らないが、いい加減にしろ、ふざけるな、とおもいながらもその握手を断る理由など何も無い訳で、結局、正樹もその俳優の大きな手を両手で受け止めて、ありったけの笑顔で握手をした。ディーンの番になって、ホセ・チャンの表情がかすかに変化したことを正樹は敏感に感じた。突然に嫉妬の炎がめらめらと燃え上がるのを全身で感じた。ホセ・チャンはディーンにタガログ語で話しかけている。色男は抜け目なく、彼の名刺をさっとディーンに手渡した。ふざけた野郎だ!自分がまだ聞き取ることの出来ないタガログ語まで使いやがって、何て卑怯な奴だと正樹は憤慨した。ここでホセをまたぶん殴ったら、今度こそ、もう誰も自分とは口をきいてもらえないだろう。だから正樹は必死になってその怒りを静めて、ホセが通り去るのをじっと待った。神の完璧な創造物であるディーンのことを正樹一人が独占する特権はもちろん無かった。誰だって、一目でディーンのことが好きになることくらいは、正樹にはよく分かっていた。今、ハンサムで大金持ちの俳優が自分の目の前で、甘い声をディーンにかけている。そのことは死ぬほど辛かった。もし彼女と一緒になることが出来たとしても、こんな調子では毎日が心配と嫉妬の連続できっと自分は長生きは出来ないだろうと正樹はおもった。気が狂って死んでしまうかもしれない。でも、それでもいいと正樹はおもう。それが人生ではないのか、どれだけ相手の為に自分自身を捨てられるかで幸せになるか不幸になるかが決まってくるものだ。幸せになる為には相手にいろいろなことを望むことではなくて、また相手を奪うことでもない。自分自身をいかに相手に与え続けることが出来るかが問題になってくる。それは自分の命さえも与えなければ本物ではないとさえ言える。相手の為に死ぬことが幸せになる唯一の方法であると正樹は信じていた。自分の事ばかりを考えている人間にはいつまで経っても幸せなどはやってこない。そういうたぐいの人に限って、もっと良いものを、もっと別の幸せを求めて果てしがないのだ。いつまで経っても幸せなど感じることが出来ない。人を愛するということは与え続けることであり、そしてこの真理こそがあらゆる人生の難問を解決してくれる最高の道標となると正樹は確信していた。
ホセ・チャン
ホセ・チャン
まだカジノが現在のようにホテルなどで営業されていない時代であった。マルコス大統領は外貨獲得政策の一貫としてマニラ湾に船を浮かべて、その上で観光客や国内の支配階級層を対象にカジノを運営していた。ルネタ公園の端に小さなテントを張った小屋があり、時折、やって来るギャンブル狂いの客をそこから小さなボートに乗せて、湾の中ほどに浮かんだフローティング・カジノに送迎していた。パスポートを所有している者しかカジノへの入場は許可されていなかった。ただ、一枚のパスポートにつき二人までの同伴は認められていたようだったが、そんな決まりがあったかどうかは確かではない。パスポート一枚で二人までという暗黙の了解みたいなものが自然にできあがっていた。だからパスポートは持っていないけれど、なんとかカジノで一旗揚げようとする連中はパスポートを持った観光客に次から次へと声をかけていた。一緒に連れて行ってはくれないかと頼むのである。そんな訳でフローティング・カジノへのボート乗り場にはいつも人だかりができていた。観光客がカジノで大勝したというニュースはあまり流れなかった。たとえ勝ったとしてもペソを外貨に変えることも、海外に持ち出すことも難しい時代であったから、もし間違って勝ってしまったら、それこそ大変である。命の危険だけ拾って、安心して観光など出来なくなってしまう。びくびくしながら何度も後ろを振り返ることになる。
ホセ・チャンがフローティング・カジノへ行く時はこのルネタ公園のボートは使わない。少し離れたヨット・クラブから自分のクルーザーに乗り込み、直接マニラ湾に浮かぶカジノに横付けして乗船する。彼はもちろんパスポートなどは必要ない。誰もがホセのことをよく知っているからだ。それに警官も兵隊も誰も寄せ付けない圧倒的なオーラが彼からは出ていたから、身分証明書を求められることはなかった。
今夜もホセ・チャンは黒のタキシード姿にサングラスでフローティング・カジノに乗り込んで来た。もちろんサングラスは禁止である。貴金属類も帽子も入り口ですべて預けなければならない。襟のないTシャツ姿も当時は禁止で、靴以外のサンダル履きなどはもってのほかだった。バックもすべてご法度、入り口で札をつけられて帰る時まで没収されてしまう。マニラ湾に浮かぶフローティング・カジノはあまり大きな船ではなかったが、二つの大きなフロアーと幾つかの個室、そして特別室があった。デッキには中央のマストからたくさんの電球がクリスマス・ライトのように船先と船尾にロープを使って渡されていて、夜に遠くからこの船を見ると、まるでマニラ湾に浮かんだ富士山のように見えた。
ホセは船の中に入る前にしばらく立ち止まり、風で揺れているマストの電球を見上げた。
デッキには一文無しになった人々がぼんやりと海を眺めている。絶望のあまりに今にも海に飛び込みそうな人達である。遠くでチラチラするロハス大通りのビルの明かりに目をやったホセ・チャンは大きく息を吸ってから自分自身に向かって励ますように呟いた。
「グット・ラック(幸運あれ)!」
そう言い残して、ホセは潮風と共に船の中へ入って行った。入り口でいつものように両手を挙げて、拳銃を持っていないかどうかのボディー・チェックを受け、広いフロアーに入った。カード、ルーレット、ダイス、スロット・マシーン、敷き詰められた緑の絨緞の上にはあのラスベガスとまったく同じ世界がひろがっていた。皆、自分なりに勝手な理論でもってゲームを楽しんでいる。ホセ・チャンはカジノへ来るとまず最初にすることがあった。それはその日の彼の運勢を試す儀式でもあり、天にいる大切な人の癖でもあった。入り口から誰とも挨拶を交わさずに、まず三つのサイコロの出た数の合計で遊ぶ通称「大小」と呼ばれるゲームのテーブルへ直行する。とても人気のある大衆向けのゲームで常に大勢の人々がテーブルに群がっている。その日もホセは立ち見をしている人々を掻き分けるようにして、テーブルの前に立った。そしておもむろにその場にいる誰もがびっくりするような大金を8番にそっと置いた。三つのダイスの合計が8になると掛け金の何倍もの額がホセに支払われることになる。皆、息を呑んでホセの8に注目した。
「ノー・モアー・ベット」
と言う最終のコールに続いて、チンチンチンと三回ベルが鳴らされた。プラスティック製のカバーがゆっくりと開けられた。ディーラーは大きな声で叫んだ。
「ウノ、ドス、シィンコ」
とまずダイスの出た目がスペイン語で読み上げられた。この国では数字はスペイン語式に読むのが通例である。続いて英語で結果が読み上げられた。
「1,2,5」
合計が8になった。
「オチョ(8)」と人々は口々に呟き、ホセの方を見た。ディーラーは事務的に大金をホセに渡した。ホセは皆が羨むようなチップをディーラーに放り投げると振り返り、そのテーブルを後にした。ディーラーたちは全員立ち上がり、ホセの後姿に向かって叫んだ。
「センキュー・サー」
「あれ、今のホセ・チャンじゃない?」
その場にいた何人かが小さな声でそう呟いた。
しかし今夜のホセ・チャンの運は「大小」のゲームの結果とは裏腹に最低のものとなってしまった。ホセは一般客でごった返しているフロアーを抜けて特別室にむかった。ホセ・チャンはこの国を支配している一つの財閥の端に属しているのだが、大資産家の父が死んだ時に彼の兄弟たちがいくつもの大企業や資産を受け継いだのにもかかわらず、ホセ・チャンだけはボラカイ島の別荘を相続しただけだった。他に金銭は一切相続出来なかった。しかし負けん気の強いホセはその甘いマスクと頑強な肉体で映画俳優に自力で伸し上がっていった。死んだホセの父が失望していたのはホセのギャンブル癖であった。実際、ホセは仕事が無い夜はいつも決まってカジノにいたし、他にも競馬、ハイアライ、闘鶏、ありとあらゆるギャンブルにのめり込んできた。華僑の仲間とは日本の麻雀牌よりも一回りも大きい牌を使って中国式のマージャンで時間を忘れた。ホセはギャンブルで勝った瞬間の快感に酔いしれ、負けた時には取り乱さずに毅然とした態度で精算をすることに喜びを感じていた。所詮ギャンブルはギャンブル、勝ち続けることなどは土台無理な話で、ギャンブルで幾ら勝っても、その喜びがたとえ全身を駆け抜けたとしても、いつかは必ず負ける時がくるものなのだ。しかしホセの体内には華僑とスペインの熱い血が流れており、賭け事に大きな人生の意味を感じていた。そのホセ・チャンがこの一週間まったく良いところがなかった。彼のギャンブル人生で最悪の一週間であり、負けっぱなしでまったく良いところがなかった。取り返そうとすればするほど賭け金も跳ね上がっていった。一般客の賭け方とは違い、特別室で特別なルールで特定の相手と勝負することをホセは好んでしていた。しかし今回の相手が悪かった。ホセはこてんぱんに打ちのめされてしまっていた。日本にフィリピーナを送り込むヤクザ者が相手だったのだ。ヤクザ者は仕事の都合上、賭けの条件を日本円で精算するように要求していた。父が残してくれたボラカイ島の別荘はホセの兄弟がマニラ市内の大豪邸を幾つも相続したことを考えると彼にとっては屈辱以外の何物でもなかった。どうせ友達とドンチャン騒ぎをすることしか役に立たないボラカイの家だ。そんな屈辱の家はいつか賭けに負けた時に売ってやろうと前々からおもっていた。高く売ってやろうとおもったことも一度もなかった。ホセがヤクザ者との勝負に負けた時、ちょうどタイミング良く、日本円でボラカイの別荘を買ってもいいというボンボンという人物が現われた。まとまった日本円を工面する難しさと度重なるヤクザ者の取立てにホセは嫌気がさしており、まったくといっていいほど未練がないボラカイの別荘を安易にも手放す決心をしたのだった。常識では考えられない取引だった。そこには何か目には見えない大きな力が働いたとしか考えられなかった。ホセは評価価値が二十億円以上もするボラカイの別荘をただ同然の五千万円で手放すことにしたのだった。
ホセ・チャンは三十代の後半でまだ独身である。ガールフレンドは星の数ほどいた。瞬間瞬間の楽しみを追い求めるホセには妻も子供も必要なかった。何不自由のない暮らし、エキサイティングなギャンブル、毎日おもしろおかしく暮らしているホセであった。誰もが羨む美人と簡単に一夜を過ごすことも出来る。しかし、どんな時も彼は決して満足することはなかった。結局、むなしさだけがいつも最後には残った。ホセはこれまで幸せなど一度も感じたことはなかった。
夜間飛行
夜間飛行
空からの訪問者ホセ・チャンは父が残してくれたボラカイの別荘にはあまり長居するつもりはなかった。さっさとボンボンたちと話を済ませてマニラに戻りたかった。ホセ・チャンの兄弟たちが相続したフィリピン随一の邸宅街フォーベスパークの豪邸から見れば、このボラカイの別荘はあまりにもお粗末であり、ホセにとっては屈辱そのものであった。残念なことに、ホセはボラカイ島が持つ魔力についてはまったく気がついていなかった。どんな悲しみや苦しみをも癒してくれるボラカイ島の魔法を最後まで知ることなく、彼はこの島を去ってしまうことになった。もしかすると、ホセのように何不自由することのない者にはボラカイ島は冷たい顔を見せるのかもしれない。ホセ・チャンがボンボンと茂木に向かって言った。
「この家の後の手続きは弁護士がすべてやってくれます。もし何か分からないことが出てきましたら、どうぞ遠慮なく担当の弁護士に言って下さい。では、私はこれで、約束がありますので、そろそろ失礼したいとおもいます。」
ボンボンがホセとしっかりと握手をしながら言った。
「遠い所をわざわざ有り難うございました。これから真っ直ぐマニラへお戻りですか。」
「はい、そのつもりです。」
「ヘリだと何分位で着きますか?」
「そうですね、五十分位かな、空にはマニラ市内のような、あのうんざりする交通渋滞はありませんからね。そうだ、もし誰かマニラへ行かれる人がいましたら、一緒にお連れしますが、どうせ席はたくさん空いておりますので、遠慮なく言って下さい。」
それを聞いていたウエンさんがノウミとディーンに目で合図を送ってから、伏目がちに言った。
「ミスター、ホセ・チャン、私たち三人、お願い出来ないでしょうか。」
「もちろん、オーケーですよ。美人三姉妹が一緒とは、どうやら帰りはとても楽しいフライトになりそうですね。」
今度はディーンが正樹のほうを振り返り熱い視線を送った。まだボラカイ島に残りたい正樹であったが、どうやってディーンのその熱い眼差しに抵抗出来るというのか、正樹もホセの前に進み出て、自分の意に反して同乗をお願いした。
「ミスター・ホセ、私も一緒にお願いします。そろそろマニラで学校に入る準備をしなければなりませんので、同乗させて下さい。」
「いいですよ。日本の方がマニラで勉強ですか、あなたは変わったお人ですね。ええと、名前は何とおっしゃいましたっけ。すみません、どうも外国の人の名前は覚えにくいもので、確かマサオさんでしたよね?」
「いえ、マサキです。」
「ああ、そうだ。マサキさんでした。それでマサキさんはマニラで何を勉強されるおつもりかな?」
「医学部に入ることを希望しています。」
「そうですか、それは素晴らしい。ぜひ頑張って良いお医者様になって下さい。」
「有り難うございます。」
ホセと正樹のまったく気持ちの入っていない会話の後で、ボンボンが再び丁寧にホセに言った。
「スーパースターのホセ・チャンにわざわざこの子たちをマニラまで送ってもらうなんて、何から何まで恐縮です。本当に有り難うございます。もう一度改めて御礼を申し上げます。」
ホセはリンダが彼の為に用意したジュースには一口もつけずに席を立ち上がり、ぐるりと皆を見回してから言った。
「ではそろそろ、失礼しようかな。ミスター茂木、あなたの成功を祈っていますよ。」
「有り難うございます。あなたの提供してくださったこの家は何千、何万の子供たちに夢と希望を与えることになるでしょう。本当に有り難う。神の祝福があなたにありますように。」
「では皆さん、どうぞお元気で、私はこれで失礼します。」
ホセは夜だというのにまたサングラスをかけながら外に出て行った。ホセは心の中で、やれやれこれでやっと親父の亡霊ともおさらばだとおもっていた。この家を売ってしまえば羨みと屈辱からやっと開放される。俺は親父の力は必要ないのさ、自分ひとりで生きていくだけさ、そうさ、俺は天下の俳優ホセ・チャンだからな。ホセは自分自身にそう呟くのだった。正樹たちもホセの後に続いて豪邸の庭に出た。皆、ヘリコプターに乗るのは初めてだし、おまけに操縦してくれるのは有名な映画俳優のホセ・チャンである。ヘリコプターに乗る前から、もう四人はすでに宙に浮いていた。プロペラの回転がまるで反対に動いて見える錯覚が起こった時には、もう、機体はボラカイの島から高く夜空の中に消えていた。機内では誰もおしゃべりなどはしていない。不思議な緊張感が張り詰めていたし、たとえ話をしたところで、その声がプロペラの音でかき消されることを誰もが知っていたからだ。皆、じっと窓の外を眺めていた。まもなくすると窓の下にはマニラの街の明かりがチラチラ輝き始めた。実にきれいである。百万ドルの夜景はここにもあった。そこにいた誰もが夜間飛行の素晴らしさを満喫していた。正樹も操縦している人間が誰であろうと十分に楽しんでいた。隣の席にはディーンもいるし、こんな幸せは今までにはなかったことだ。兎に角、誰かに、誰でもいいからこの幸せを感謝したかった。ボラカイ島へ行って正樹はとても幸せな気持ちになった。もう、すっかり渡辺社長に対する憎しみなどは消えてしまっていた。すべてが変わっていた。ボラカイ島は本当に不思議な島だと正樹は感じていた。
ホセの操縦は実に華麗だった。大都市マニラの夜空を余すことなく自由に飛び回って、静かに彼の事務所があるビルの屋上に着陸した。乗り込んできた整備員にホセはヘリコプターのカギを渡すと、正樹たちに別れを告げる為にひとりひとりと握手を交わし始めた。最後にホセ・チャンは何かをそっとディーンに耳打ちをした。ディーンは彼女の生まれた日や電話番号を告げたようにおもえたが、それは確かではなかった。確かめることもしなかった。正樹の心の中にはどうすることも出来ない嫉妬心がめらめらと再び燃え上がってしまった。ホセはディーンに向かって軽く頷くとヘリコプターを降り、屋上の出口へ姿を消してしまった。まるでそれは映画のワンシーンのようでもあった。みんなホセの格好良すぎる、その無駄のない動きに釘付けだった。四人はしばらく席を立つことは出来なかった。感動の余韻に浸っていたからだ。初めて行った神秘のボラカイ島、茂木さんが買った豪邸、映画俳優のホセ・チャンの突然の訪問、そして夜間飛行、そのどれをとっても信じられない出来事ばかりだった。ボンボンがボラカイ島を生活の本拠地に選んだ以上、当然、ウエンさんたち三姉妹の生活も将来的にはボラカイ島が中心になっていくことだろう。今はそれぞれがしなければならないことがまだマニラにはあるからケソン市のアパートはそのままだろうが、正樹もいつまでも彼女たちにあまえてはいられなくなる。神様みたいな茂木さんの手伝いをする前に、正樹は自分自身の可能性に挑戦してみたかったし、どうしても医者になりたかった。何とか茂木さんと対等に話せるくらいにまで自分自身を成長させておきたかった。もちろん茂木さんを殴った償いはするつもりだった。正樹は日比混血児たちの救いの家の手伝いをどんな形でするのか、今はまだ分からなかったが、是非、やってみたいとおもっていた。その事は間違いなく、もうすでに正樹の新しい生きがいとなっていたのだった。正樹は自分の為に生きることより、他人の為に生きる事こそが人生の最大の意味だと考えていた。正樹は障害者の学校の先生になろうとしたこと、障害者の為の障害者による農場をつくろうとしたことも、そして障害者が一番必要としている医者になろうとしていること、ディーンの為に何かをしてあげたいという気持ち、世の中から見捨てられたジャピーノたちに夢と希望を与える手伝いをすること、その正樹の試みのどれにも共通していることは他人が幸せになる手伝いをすることだ。自分の為に良い学校に入って、良い会社に就職する。自分の為に家庭を築き、家族は自分の寂しさを紛らわす為にあると考えている者には、いつまで経っても幸せなど感じることは出来ないだろう。次第に家族は自分の富を食い潰す厄介者としか写らなくなってしまう。人は成長の過程で、もし家族の為に働くことが喜びなのだということに気がつかなければ家庭は簡単に崩壊してしまう。親が自分の老後の為に子供を育てようとすると、子供たちは遠くへ行ってしまうだろうし、夫婦の間でもお互いに自分の事は後回しにして問題を解決しないと、夫婦関係などはあっけなく破局してしまうものだ。どんなに快適な環境に自分ひとりを置こうが、むなしさはいつか必ずやってくる。本当の幸せなどいつまで経っても感じることは出来ないものだ。幸せになる方法は一つしかないのである。恋人であれ、家族であれ、兎に角、自分以外の者の為に自分自身を捨てることしか幸せになる道はないのである。あれだけ尽くしたのに、ちっとも見返りがないと嘆く者にも幸せなどは決してやってこない。与えて、与えて、与え続けることしか真の幸せを見つける方法はないのである。
ホセ・チャンと正樹はこの時点で正反対の方向へ向かって歩いていた。
芳子さん
芳子さん
マニラ市の下町にあるラムーダホテルの五階、一番奥の部屋に関東日本ツーリストの出張所はあった。当時、ここを取り仕切っていたのは女ボスの芳子だった。もうとっくの昔に五十歳を超えたやり手の熟女が日本から次から次へとやって来る鼻の下を伸ばした男たちを捌いていた。芳子はいつものように机に向かって書類の整理を始めたところだった。ひとりの日本人の青年が彼女のデスクにやって来た。芳子が机から顔を上げて言った。
「あら、高瀬君じゃないの、どう、マカタガイ・ホステルの住み心地は?気味が悪くないこと。前は病院だったから、きっと、君が住んでいる部屋からも何人もあの世に旅立ったのに違いないわよ。」
「よしてくださいよ。そんな言い方をするのは、自分は、結構、気に入っているのですから。贅沢は言っていられませんよ。兎に角、一年間、このマニラで暮らさないといけないのですからね。あれで十分ですよ。住むところにはあまりお金をかけたくありませんからね。」
「そうか、高瀬君は会社からしばらく休むように言われたんだっけ。それで物価の安いマニラにやって来たというわけ。でも、そんなに造船業界って景気が悪いの?」
「クビにならなかっただけ、まだ、ましでしたよ。突然、会社から一年間休むように言われたのですよ。二か月分の給料を渡されてね。すまんがこれで一年間休んでくれと、社長に頭を下げられましたよ。」
「そう、それは大変だったわね。でも、あなたの会社はあなたが必要だから、クビにはしなかったわけでしょう。そこのところは感謝しなくてはだめよ。でもさ、マニラに来るなんて、随分と思い切ったことをするわね、高瀬君は。どうしてマニラに来る気になったの?」
「前にできあがった船をマニラに届けに来たことがあったのですよ。その時、とても楽しいおもいをしましてね、それに日本と比べて何もかも安かったことを思い出しましてね、だいたい会社から渡されたあれっぽっちのお金では、とても日本では一年間は暮らせやしませんからね、バイトをしながら会社からの連絡を待つなんて、それだったら何もかも忘れて気ままにマニラで楽しく一年間、過ごすのもいいかなと、ふと、新潟の酒場で飲んでいて思いついたのですよ。」
「そうだったの、でも、高瀬さん、気をつけないとだめよ。マニラはあなたがおもっているほど甘くはないわよ。それに悪い日本人もたくさんいるのだからさ、誘われても絶対についていかないことね。強盗とかひったくりに遭う心配はなさそうね。だって高瀬さんは色が黒いし、よく見ないと日本人には見えないものね。その点だけは良かったわよ、安心だわ。まあ、頑張って、一年間だっけ、このマニラで生き抜いてごらんなさいな。」
高瀬青年は芳子の紹介で安宿マカタガイ・ホステルに住み始めて一週間目だった。マカタガイ・ホステルは以前はマニラの繁華街に隣接する小さな病院であったが、経営がうまくいかずに、今は院長の娘が病室を利用して、小遣い稼ぎにホステルをやっていた。特に改装するでもなく、病院当時のままで、安く長期の滞在者に部屋を貸していた。ベッドは折りたたみ式の簡易ベッドで、そのベッドの上から何人もの患者たちが天国へ旅立って行ったことは容易に想像することが出来た。それでも高瀬はそこの安い宿泊費が魅力だったのでマカタガイ・ホステルに落ち着くことにしたのだった。かれの部屋は地下にあって、シャワー・ルームの小さな窓から外を見上げると道路を歩く人々の足が見えた。時々、誰かが蹴飛ばした石ころが窓の網戸にぶつかってきていた。水もチョロチョロしか出てこない。その水も予告なしによく止まった。汗を流そうとシャワー・ルームに入って、狭いシャワー・ルームの熱気でもって逆に汗だくになってしまうことも度々あった。しかし高瀬は住むところにはお金を掛けたくはなかった。それは毎晩、日本では出来ないような遊びをするためだった。ただ何も考えずに一年間をマニラで面白おかしく遊んで暮らすことに決めていたから、賢いといえば賢いと言えないこともないが、二国間の経済格差を利用して、勤め先から言い渡された一年間の一時帰休という不運をなんと逆転の発想でもって、毎晩のように豪遊して明け暮れる生活に変えてしまった。普通ならば途方もなく長く感じられる我慢の一時帰休を夢のような一年間に変えてしまったのだから、高瀬青年の頭の柔らかさには感心させられるものがあった。
「ねえ、高瀬君、どうしている?院長の娘。ほら、マカタガイ・ホステルのオーナーよ。彼女は私の友達なのよ。彼女、結構、美人でしょう。」
「ええ、この国の女性にしては大柄で、とてもきれいな人ですよね。」
「彼女にはスペインの血が入っているのよ。とても情熱的でさ、それに頭もいいわ。高瀬さん、気をつけないと、彼女に食べられちゃうわよ。それとも、もう食べられちゃったかな?」
「いえ、いえ、そんなことはありませんよ。」
「ところで高瀬君はお幾つになるの?」
「もうすぐ二十六になります。」
「二十六か、危ない、危ない。あそこのホステルを紹介したのは間違えだったかもしれないわね。何だか、そんな気がしてきたわ。でも、いいか、何事も経験だから、若い時にいろいろなことを経験しておくことも、また必要だからね。」
「芳子さん、何を言っているのか、僕にはさっぱり分かりませんが。いったい何が危ないのですか?経験って何ですか?」
「ごめん、ごめん。何でもないわよ。それより病気には気をつけなさいよ。いいわね。」
その時である、大柄な日本人が関東日本ツーリストの芳子の部屋に入って来た。一見して観光客だとすぐに分かった。前身汗びっしょりで、目だけがぎょろぎょろしていた。それは何か緊急な用件を抱えている者の表情であった。
「すみません。助けて下さい。強盗に全部やられました。ここに来れば助けてくれると聞きまして、恥を忍んでやってまいりました。いやー、参りましたよ。パスポートも財布も航空券もすべて盗られてしまいました。」
芳子は突然の訪問者が強盗だの、助けてくれだの、言ってもまったく慌てた様子は見せなかった。何故なら、このような観光客は毎週のように彼女の事務所にやって来ていたからだ。この国のオフィスのスタイルは大きな机の反対側に椅子を向かい合わせに二つ置く、どこの役所や会社に行っても同じスタイルである。芳子の机の前にも来客用の椅子が二つあった。芳子は座ったままで、高瀬が座っている反対側の椅子を指差しながら言った。
「まあ、そこにおかけなさい。」
そのよく肥った中年男性は椅子に座ってからもまだ舌がもつれていて、何を言っているのかさっぱり分からない状態だった。おまけに汗が止まらずに、体全体から湯気を噴き上げていた。
「騙されましたよ。薬だ。睡眠薬でやられた。ぜんぶ盗られてしまいました。畜生、あの餓鬼、今度会ったら、とっちめてやる。」
「まあ、まあ、落ち着いて、どうしたのですか?ゆっくり、ちゃんと順を追って話して下さいな。」
日比混血児のヨシオに騙された渡辺社長はあちらこちらの旅行会社に助けを求めたが、結局、たらい回しにあっていた。やっと、関東日本ツーリストの芳子がこの手の事件のエキスパートであること知り、彼女のオフィスに駆け込んだところだった。
芳子が渡辺社長に諭すように言った。
「この国では、あまり鼻の下を伸ばすと痛い目に遭いますよ。騙す方も真剣、必死にみんな生きているのですからね。それで渡辺さんでしたね、パスポートも盗られたのですね。」
「ええ、一文無しですわ。誰も知り合いもいませんし、もう、この通りお手上げですわ。」
「分かりました。ではこの電話で日本のあなたの家か会社に電話をしてもらいます。もちろん料金は先方払いのコレクトコールにしてもらいます。よろしいですか。すぐ銀行送金を電信で依頼して下さい。この口座に送金してもらいます。送金が完了した時点で、その送り状とあなたの身分を証明する書類をファックスでこの番号に送るように頼んで下さい。いいですか、パスポートの代わりになる帰国用の許可書をすぐにこちらの日本大使館に行って申請しなくてはなりません。費用は一時的に私が立て替えておきます。通常ですと銀行送金は四日ぐらいかかりますから、それまでのあなたの生活費も私がお貸ししましょう。もし、うちのスタッフを大使館に同行させる場合には手数料をいただきます。これは商売ではありませんから、私は一切、手数料はいただきません。ただし、いいですか、あなたからのお礼は拒否するものではありません。何故なら、ここの暮らしは想像以上に厳しいものがありますからね。渡辺さん、それでよろしいですか?」
「有り難うございます。地獄で仏とは正に此の事ですな。何とお礼を申し上げたら良いのやら、もちろん送金が届き次第、十分なお礼はさせていただきます。こう見えても京都で小さな会社を経営しておりましてな、東南アジアにも何箇所か支店もあるのですよ。」
「渡辺さん、大使館へ行く前にマニラの警察に寄って、盗難届けを出さなくてはなりませんが、どうしますか、うちのスタッフをおつけしますか?」
「ええ、お願いしますよ。お恥ずかしい話、わしは英語がからっきしだめなものですから、誰か一緒に来てもらうと助かりますわ。おー、これで助かった。」
芳子は高瀬の方をちらりと見て、笑いを堪えた。渡辺社長の話をしている時の仕草があまりにも滑稽だったからだ。
「それでは、渡辺さん、さっそく日本へ電話をしていただけますか。送金を依頼していただかないと何も始められませんからね。どうぞ、この電話をお使いになって結構ですよ。」
渡辺社長は困惑した表情で答えた。
「あの、申し訳ないが、わしはこの国から日本への国際電話のかけ方を知らんのですよ。紙とボールペンを貸してくれませんか、うちの会社の電話番号を書きますから、代わりに電話してくれませんか。」
芳子はメモとボールペンを社長に渡しながら、もう一方の手で受話器をさっと取った。プッシュ式のダイヤルを社長が書き終わる前に押して、電話局のオペレーターと英語で話し始めた。渡辺社長は会社の電話番号を書いたメモを急いで芳子に渡した。芳子は受話器を耳から外して、受話器に手をあてがいながら言った。
「名前、誰を呼び出しますか?料金先方払いのコレクトコールは通話人指定ですから、どなたを指定しますか?」
「専務の吉田を呼んでください。」
「吉田、何様ですか?」
「アキオ、吉田昭夫です。」
オペレーターは芳子に吉田という人につながった旨を伝えた。芳子は受話器を渡辺社長に差し出した。
「吉田さんにつながりました。どうぞ、お話下さい。」
「もしもーし。わしだ、渡辺だ。吉田か。いやー、参ったよ。泥棒にやられた。そうだ、すっかりやられてしもうた。財布もパスポートも航空券もな、全部盗られてしまった。それでな、悪いが、金を送ってもらえんか、そう、大至急、電信でな、それから、その銀行の送り状をファックスでこっちへ送って欲しいんだ。金が届くのに四日くらいはかかるらしのでな、だから送金したという証明がいるのだ。すまんが、すぐ送ってくれるか。とりあえず百万円相当のアメリカドルを送金してくれるか。送り先だがな、今から言うからメモってくれるか。」
渡辺社長は芳子から銀行の口座とファックスの番号を書いた紙を受け取り、再び受話器にかぶりついた。高瀬青年は目の前の芳子と社長のやりとりを興味深くじっと聞いていた。別に急ぐでもなし、特にやることもない高瀬は強盗にあってしまったかわいそうな日本人を観察していた。さっき電話で社長が言っていた百万円を送れという言葉が頭にこびりついてしまった。百万円はこのマニラでの自分の一年間の予算の倍以上の額だったからだ。高瀬はゆっくり汗だくの渡辺社長に話しかけた。
「どうです、ファックスが届くまで、下のラウンジでビールでも飲みませんか。自分は貧乏人ですがビールの一杯ぐらいならおごらせてもらいますよ。」
「いやー、それは嬉しいな。嫌な事ばかり続いたもので、芳子さんといい、あなたといい、人の情けがこれほどありがたいとは、実はさっきから喉がからからだったのですよ。有り難くご馳走になりますよ。失礼ですがここの事務所の人ですか?」
「いえ、私は芳子さんに安宿を紹介してもらって、そのお礼に来ただけの貧しい不況浪人ですよ。大判振る舞いは出来ませんけれど、飲みに行きましょう。」
「不況浪人とは、初めて聞きましたが、何か日本の景気と関係があるのですかな?おお、そうだ、私は渡辺と申します。ご挨拶が遅れまして、どうも失礼しました。京都でちっぽけな電設会社を経営しております。この国にも興味がありましてな、それで下見を兼ねて遊びに来たわけですが、この有様ですわ。まったくお恥ずかしい話です。失礼ですが、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいですかな。」
芳子が代わりに答えた。
「こちらは高瀬さんと言います。高瀬さんは新潟の造船会社のエリート社員なのですけれど、それがね、会社から一年間、休むように言われたのですよ。ただ日本でじっとしているのが嫌で物価の安いマニラで一年間楽しく遊んで暮らそうとしている賢いお人ですよ。」
渡辺社長は大きく頷きながら高瀬に言った。
「ほう、変わったお人ですな。勇気があるというか、気転が利くというか、高瀬さんはなかなか面白いお考えをお持ちのようですな。是非、色々とお話をお聞きしたいものですな。」
高瀬は席を立って、机の上に置いておいた煙草とライターをポケットに入れた。そして、渡辺社長に向かって言った。
「まだ明るいですが、ビールくらいならいいでしょう。どうです、下へ行きませんか。」
渡辺社長も慌てて椅子を引き、立ち上がった。そして芳子に再びお礼を言おうとした時、芳子の方が先に言ってしまった。
「行ってらっしゃい。でも、五時までには戻って来て下さいね。私は五時きっかりに帰りますからね。よろしいですか。」
高瀬と渡辺社長はこくりと頷き、芳子の部屋を並んで出て行った。ホテルの一階のカフェはパリ風の洒落たお店で、エアコンのよく効いた屋内の他に、通りにも幾つもテーブルが置かれ、若い人達が語りあっていた。このホテルの周りには学校が幾つもあるらしく、前の通りを様々な制服姿の学生たちが行き来していた。白い制服は医学部と歯学部のシンボルであり、医学部の学生たちの胸ポケットには誇らしげに聴診器が入れられている。看護学科の学生たちは少しピンクがかった白い制服を着ていた。学生たちは分厚い本を何冊も抱えているが、その教科書のほとんどが貸し本で、汚れないように大事にビニールのカバーがつけられている。何冊も本を買う余裕などこの国の学生たちにはない。だから自分の汗で貸本が濡れないようにビニールのカバーをつけているのである。学生街を歩くと、貸本屋の前などには必ずビニール専門の露店がある。これはマニラ独特の光景かもしれない。
高瀬青年と渡辺社長はソフトドリンクを飲んで話をしている学生たちの間で、場違いにもビールを飲み始めた。まだ太陽は真上にあった。
「あー、美味い!生き返ったよ。」
渡辺社長は一気に中ジョッキを空けた。
「まるで頭のてっぺんから足のつま先まで水分がじわっとしみ込んだような気がするわい。そうだ、考えてみると、昨日から何も飲まず食わずだったからな。睡眠薬入りのビールを飲まされたのが最後だった。あれから何も口に入れてなかった。頭に血が上っていたし、おまけに一文無しになっちまったからな。」
びっくりした様子で高瀬が言った。
「じゃあ、何か注文しましょう。何がよろしいですか。」
「ありがとう。送金が届いたら、今度はこのわしが高瀬さんにご馳走するからね。」
「いいんですよ。困った時はお互い様ですからね。では、まず鳥をまる一羽注文しましょうか。それでよろしいですか。」
「ええ、何でもけっこうですよ。鳥ですか、大好物ですよ。今ならその辺に歩いている野良犬でも食べられそうな気がしますよ。」
「この国では実際に犬を食べるらしいですよ。誕生日とかに知り合いの家に行って、この前まで門の所で吠えていた犬はどこかと訊ねると、そこの皿の中にいるよと返事が返ってきたりして、犬は食べると体が火照ってくるのだそうで、体が弱っている人にはとても良いらしいですよ。元気が出るのだそうです。」
高瀬青年は手を挙げてウエイトレスを呼んだ。ビールのお代わりと鳥の丸焼きを注文した。料理はすぐに運ばれてきたが、その間に高瀬はもうすぐ社長のところに送られてくる百万円のことを考えてしまった。ここでケチってはいけないという打算が働いて、追加の注文もどんどんしてしまった。渡辺社長は次第に落ち着きを取り戻し、すっかり元気になったようすだった。大きな体をしているだけあってよく食べる。この食事で高瀬の一週間分の食費が消えてなくなってしまいそうだった。
「どうですかマニラは?」
愚かな質問をしてしまったことに気づいた高瀬はすぐに言葉を続けた。
「災難に遭ったばかりの人に、こんなことを聞くなんてナンセンスでしたね。」
「いいんですよ。正直なことを言わせてもらうと、もう二度とここには来るものかと思っていますよ。わしも助平根性を出したのがいけなかったのだが、しかし、あの餓鬼、とっ捕まえて警察へ突き出してやる。ヨシオの奴、今度見つけたら、ただじゃおかない。」
「何ですか、そのヨシオって子は?日本人なんですか?」
「いや、あいの子だよ。日本人の観光客が生み捨てたストリート・チルドレンだ。母親にも死なれてかわいそうだから、それにあまりにも汚い格好をしていたから、洋服や食べ物を与えてやったんだ。そうしたらヨシオの奴、恩を仇で返しやがった。あん畜生め、睡眠薬泥棒のところへわしを案内しやがった。わしと別れる時、ヨシオの奴ニヤニヤ笑ってやがった。あのヨシオの笑い顔は絶対に忘れないよ。わしを罠にはめやがって、畜生め、痛い目にあわせてやる。」
高瀬はこの手の話は苦手であまり真剣には社長の話を聞いていなかった。ぼんやりと窓の外を行く女学生のしなやかな姿に見とれていた。しかし百万円のことが頭にちらつく、それが自分のお金ではないことくらい、重々承知はしていたけれども、そのおこぼれでもいいから、いただけないかなとつい思ってしまう。それで無理に話を渡辺社長に合わせるように努力していた。
「僕もこちらに来て、初めは大きなホテルに泊まりましたがね、部屋の掃除を頼んで下で時間を潰してから、部屋に戻ってみるとバックの中を探った形跡がありましたよ。一流と呼ばれるホテルですら、それですからね、油断もすきもあったものじゃないですよ。今の僕のいる安宿の方が暑苦しいけれど、その点だけは安心していられますね。」
「高瀬さん、どうだろう、お礼はたっぷりするから、わしに力を貸してはくださらんかな。わしはこの国では独りでは何も出来そうにない。わしを騙したヨシオを捜し出してとっちめてな、二度と悪さが出来ないようにしたいのだよ。わしはくやしくて仕方がないんだ。あいつの、あの時の笑顔が忘れられんのだよ。」
「お気持ちはよく分かります。今はこれといってやることもない私ですから、出来る限りのお手伝いはいたしますよ。」
「なんせ、言葉が出来んのだよ、言葉が。それが一番参ってしまうことなんだ。英語をもっと勉強しておくんだったよ。」
「僕の英語もたいしたことはありませんよ。お役に立てるかどうか分かりませんが出来るだけのことはやってみましょう。」
「ありがとう。すまんね。助かるよ。あのー、もう一杯ビールを飲んでもよろしいかな?」
「ああ、どうぞ、どうぞ。お安い御用だ。ご遠慮なく。」
ハイアライ
ハイアライ
「高瀬さん、こんなに親切にしてもらって、こんなことを言うのは心苦しいのだが、お金が届くまでの間でいいのだがね、四十万円ほど都合してもらえないだろうか。」
渡辺社長は何の遠慮もなく高瀬青年にさらりと言った。渡辺社長にとっての四十万円という額は一晩でなんなく使いきることが出来る端金だが、不況の為に無理やり会社を休まされている高瀬青年にとって、それは一年分の大切な生活費であった。そして四十万円という額は高瀬の現時点での全財産でもあった。渡辺社長はビールを口に含み、それで口を濯いだ後、ごくりとそのまま飲み込んだ。それが女の子たちから一番嫌われる行為であることを知らないらしい。渡辺社長はもう一度、同じ様にビールで口を濯いでから、平気な顔をして話を続けた。
「送金があり次第お返しする。もちろんお礼はちゃんとするつもりだよ。どうか助けてくれないだろうか。」
渡辺社長はさっき芳子さんの事務所から確かに自分の会社に電話で百万円の送金を依頼していた。確かに自分もそれを聞いていた。高瀬は四日間ぐらいなら、特に問題はあるまいとおもった。社長の話ぶりや態度から高瀬は社長を安易に信用してしまった。
「ええ、いいでしょう。ご用立ていたしましょう。」
「そうですか。それは有り難い。助かりました。」
高瀬はあたりを見回しながら、財布を取り出して、札を二度数えて渡辺社長に四十万円を渡した。社長はそのお金を数え直すこともせずにさっとポケットにしまい込んだ。
「高瀬さん、今夜は付き合ってくださいよ。あなたからお借りしたばかりのお金で誘うのもなんだが、今夜はパアッと行きましょう。嫌な事ばかり続いたものだから、気分を変えないとね。せっかくマニラくんだりまでやって来たんだ、少しは楽しまなくてはもったいない。時は金なりだよ。危うく大切な時間を四日間も無駄にするところだった。高瀬さんがいてくれて良かったよ。本当に助かりました。」
店の壁にかかっている時計を見ながら、社長が続けた。
「おっと、もうこんな時間だ。芳子さんのところに行って、日本からの送金の連絡が入っているかどうか確かめなくてはいけませんね。そろそろ上へ行きますか。ここの払いは私がしますから、どうぞ、ご心配なく。」
渡辺社長はテーブルの上に残った料理をがばがば平らげ、ついでに高瀬が飲み残していたビールまでも、そのでかい胃袋に一気に流し込んでからウエイターを呼んだ。高瀬はその姿を見ていて、何か胸苦しさを感じた。
二人が芳子のデスクに戻った時、彼女はすでに帰宅してしまった後だった。机の上にはメモが置いてあり、送金の連絡はまだ届いていないので、明日、また来るようにと書かれてあった。高瀬は一抹の不安を感じたが、時は既に遅しである。高瀬の全財産はすでに渡辺社長のポケットの中にあった。
「なあ、高瀬さん、この国のカジノへ行ったことがありますか。どこでやっているのかご存知かな?土産話に雰囲気だけでも味わってみたいのですが。」
「ここのカジノは一日中やっていますよ。でもあまり人がいない時間帯に行ってもおもしろいものではありませんよ。カジノはやはり夜の九時を過ぎないと活気がありません。まだこの時間ですとハイアライの方がお勧めですね。それが終わってからカジノへ行った方が良いでしょう。社長はハイアライをご存知ですか?」
「何です、そのハイアライというのは、ガイドブックの片隅に写真が載っていたやつかな?よく読まなかったな、何なんですか。」
「ハイアライはこの国の庶民にとっては本当にささやかな楽しみであり、また国民意的なギャンブルでもあります。だからルネタ公園の海とは反対側の一等地に競技場があるのですよ。まあ、話だけでは説明が出来ませんから、兎に角、そこへ行ってみましょうか。着いてから説明したほうが分かり易いですからね。」
二人は芳子の事務所を出て、ホテルの一階で円をペソに両替した後、表通りからタクシーでハイアライの競技場へ向かった。
「なあ、高瀬さん、こちらのタクシーはみんなドアを手で開けるんだな。」
「そうですね、日本ではタクシーはすべて自動ドアで、僕らはドアを開けたり閉めたりしたことはありませんよね。でも、どうでしょう、世界中でタクシーのドアが自動ドアなのは日本くらいなものかもしれませんよ。僕はあれはちょっとやり過ぎで、過剰なサービスのような気もしますね。」
「それとな、高瀬さん、さっきから窓の外を見ていて感じたんだがね、この国は歩行者優先ではなくて完全に車優先の社会のようだね。信号も少ないし、あれじゃあ、お年寄りはとても大通りなどは横断出来る状態ではないな。運転も荒っぽいし、車線の変更も争うようにやっている。この国には交通ルールは果たしてあるのだろうかね。まあ、日本と比べると通りは比較的広いので、ぶつからずに済んではいるのだろうがね。わしはこの国ではとても恐くて運転はする気にならんな。」
「同感ですね。みんなよくぶつからずに運転していますよね。本当に感心しますよ。それぞれが皆、我先に行くことばかりを考えているみたいで、ちっとも譲り合いの精神は感じられませんね。それと車がお金持ちの象徴でもあるかのように、どの車も歩行者を見下して走っていますよね。まったく人は車に乗ると人間が変わってしまうものなんですね。」
「しかし凄いね、黒い煙を吐き出しながら走っている車が多いこと多いこと。この国には規制はないのだろうかね。排気ガスの規制がさ。こんな車が公道を走ってもいいのかなとおもうのまで走っている。どの車もおんぼろじゃないか。それにあまり新車にはお目にかからないね。」
「そう言われると、そうですね。ほとんどが日本の中古車の中古車って感じですよね。何年も前に日本で走っていた過去の車ばかりだ。」
二人は夕方の渋滞に完全に巻き込まれてしまったようだった。大通りには混雑の為にバスに乗ることが出来ないでいる女子学生やOLたちが何台もバスを見送っていた。高瀬はその姿がとても哀れに感じられた。交通渋滞とあまりの混雑でバスに乗れずに立ちつくしている女性たちが気の毒に思えてならなかった。二人を乗せたタクシーも二時間もかかってやっとハイアライの競技場の前にたどり着いた。もし、二人がタクシーを使わずに歩いていたとしたら、30分もあれば楽に来れた距離だった。
「ああ、やっと着きましたよ、社長。この緑の建物がハイアライの競技場ですよ。」
建物の外にはたくさんの露店が並び、行き交う人々は活気に満ち溢れていた。渡辺社長は高瀬青年の後からぴったりとついて来た。高瀬青年の背中に向かって言った。
「それにしても、随分たくさん、人が集まって来ているんだね。」
「社長、さっきも言いましたが、ハイアライは国民的ギャンブルですよ。みんながここの試合の結果をそれぞれの場所で息を殺して待っているのです。下町には場外発券場が幾つもあります。正規の発券場の他にもノミ屋が取り仕切っている不法なチケットもたくさんあって、芳子さんの話ではどちらかと言うと、そっちの方が多いらしいですよ。この前も芳子さんの事務所に遊びに行った時に、昼間の早いうちからノミ屋の券を売りに何人も子供たちが来ていましたからね。この国の子供たちは違法なノミ屋の手伝いまでやらされているんです。だけど、皆、その券を買って、自分の選んだナンバーが当たるのを信じて毎日毎日生きているんですよ。本当にハイアライはささやかな庶民の楽しみなんですね。2ペソで買ったチケットが何十倍、何百倍になるのを祈りながら、毎日を暮らしているのですよ。」
高瀬は渡辺社長を観光客の為に設けられた有料の特別席に案内した。特別席といってもただロープで仕切られただけの五十席ほどのものだ。最上階にはエアコンがよく効いたレストランもあり、食事をしながら試合も観戦出来るようになっていた。日本から来た団体客の大半はこのレストランを利用していた。ウエイターに頼めば試合のチケットも購入出来るシステムになっており、ただ当たると、多額のチップを要求されるので、高瀬は下の特別席に座ることにしたのだった。そっちの方が肌で場内の雰囲気を感じとることが出来ると思った。しかし、それが大きな間違いだった。
場内の様子は半分が観客席で、あとの半分が大きな金網で仕切られた、横に細長いコートである。観客席から見ると正面と両サイドに巨大な壁があり、コートの床には幾つものラインが引かれてある。その試合をするコートはライトで明るく照らし出されていて、二人が席に着いた時には何人かのプレーヤーが大きなカゴを持ちながら練習をしていた。
「高瀬さん、一体何のゲームなんだね、ハイアライは?バスケットでもテニスでもなさそうだし、ただ壁があるだけじゃないかね。それに、あの選手が持っている大きなカゴは何なんだね?」
「社長、ハイアライはボールを壁にぶつけ合うゲームです。選手はあの大きな細長いカゴで壁から跳ね返ってきたボールを器用にキャッチして、また相手の立っている位置やボールの跳ね返る角度などを計算に入れながら、再び、壁にボールを投げ返します。それは時には力一杯ぶつけたり、相手が壁から遠い位置にいる時にはそっと壁にボールを投げたりもします。後ろの壁も横の壁も使います。兎に角、ボールが二度床にバウンドしてしまうと負けになります。スピードと頭脳のゲームなんですよ。そばで観ていると、結構、興奮してきますよ。」
「ルールはどうなっているんだい?どうなったら勝ちなんだね。」
「通常は六人位の勝ち抜き戦です。誰かが決められた勝ち点を取ったら試合終了となります。賭け方はいろいろあるようですが、基本的には勝ち点が多い上位二人の番号が当たれば勝ちとなります。最後の試合だけはプレーヤーが多いので上位三人の番号を当てることになります。三つの番号を当てるわけですから、当然、配当も二つの番号を当てるよりも高くなります。この最後の試合で一攫千金を狙うわけです。全国の人々はこの結果を楽しみに待っているわけなんですよ。」
「勝ち抜き戦で、一回勝つと勝ち点は一だな。順番に当たって行って、誰かが五点取った時点で試合終了だね。それで勝ち点が多い二人、例えば五番のプレーヤーが五点取ったとしよう。二番のプレーヤーが三点取っていて二着だったら、2-5、5-2、どちらでもいいのだね。」
「その通りです。私、ちょっと、今日のプログラムを買ってきますから、ここで待っていて下さいね。」
高瀬はロープを手で持ち上げて通路に出て、素早く階段を駆け上がって行った。色黒の高瀬が渡辺社長から離れるのを見て、ここぞとばかりに胸に何かそれらしきIDを付けた場内案内係のおっさんが渡辺社長に近寄って来た。
「ハーイ、日本人ね。二つ番号当たれば勝ちね。チケット、私、買うね。二つ選んで下さい。もうすぐ始まります。社長さん、私、チケット係りね。」
そのおっさんは自分の胸に付けた身分証明書をさかんに社長に見せている。おっさんの話は単語の羅列にすぎなかったが、それでもさっきの高瀬青年の説明があったので十分に理解することが出来た。社長はその得体の知れないおっさんに第一試合の(2-5)を百ペソ分買って来るように頼み、何ら疑うこともなくお金を渡した。社長のように日本人はすぐ人を信用してしまって失敗してしまう。この国ではあまり日本人の常識は通用しない。騙される方が悪いのである。現地の人々の感覚では百ペソは当時の日本の一万円に相当する額であった。高瀬は第一試合開始の直前に席に戻って来た。
「はい、これ、コーラです。それと今日のプログラムです。」
渡辺社長はコーラより本当はビールが飲みたかったのだが、せっかくだからコーラを我慢して頂戴することにした。
「第一試合はもう締め切りましたので買えませんが、第二試合は私が券を買ってきますから、よく選んでおいて下さい。まず、第一試合でゲームの説明をしたいとおもいます。」
その時、さっきの得体の知れないおっさんが社長のところに戻って来て、社長がさっき頼んだ第一試合の(2-5)のチケットを手渡した。
「何だ、社長。もう買っていたんですか、抜け目がありませんね。でも、よく戻ってきましたね。でも次のチケットは私が買いにいきますからね。ナンバーを決めておいてくださいよ。」
高瀬は得体の知れないおっさんが離れるのを待ってから、再び言った。
「あぶないですよ、社長、お金を簡単に渡しては駄目ですよ。しかし、よく戻ってきましたね。驚きました。」
「なあーに、高瀬さん、わしは人を見る目はあるんだよ。ちゃんとこうして戻ってきただろう。眼力だよ。眼力。」
高瀬は心の中で大声で笑った。さんざん騙されておいて、何が眼力だよ。自分をどこの何様だとおもっているのだろうか。高瀬はあきれてしまった。
大歓声と共に第一試合が始まった。第一試合の半分のプレーヤーはスペインから来た選手で体格もフィリピン人の選手よりもひとまわりも大きかった。試合前の選手紹介の時、その挨拶の仕方がとても滑稽で場内アナウンスに合わせてプレーヤーが手に持ったカゴをまるでサルかゴリラのように高々と挙げる様子が愉快だった。
「社長、ハイアライはスペインから入ってきたゲームなんです。だからスペイン人選手が人気を独占しているようですね。確かに彼らは強いですよ。私もこの一週間、毎日ここに来て観戦していましたけれど、ほとんどのゲームはスペイン人選手が勝っていましたね。ただ、配当はそれなりに安いですよ。ところで、社長は何番を買われたのですか?」
「2-5だよ。」
「2-5ですか。当たるといいですね。ビギナーズ・ラックというやつもありますからね。その2-5を社長はいくら買ったのですか?」
「百ペソだよ。」
「百ペソとは随分とたくさん買いましたね。当たるとでかいですよ。2-5はどちらもフィリピン人の選手ですからね。予想配当も高いですよ。」
「もし、当たったら、彼に、ほら、この券を買ってきてくれた、あのおっさんにお礼をしなくてはならないのかね?」
「社長、それは当然でしょう。だから彼はああしてまだ社長の近くにいるではないですか。ほら、またこっちを見ていますよ。彼らはそれで食っているのですからね。しかし、賭け金の百ペソのチケットが戻ってきただけでも良かったじゃないですか。正直なところ、それだけでも社長はついていたと、そうおもいますよ。もし当たったら、一割は覚悟しておいた方が良いかもしれませんね。」
「一割かね、あのおっさんに上げるのが一割か。まあ、当たった時の話だけれどな。」
観客席が暗くなり、コートだけが照明の明かりでくっきりと浮かび上がった。審判の笛の合図で第一試合が始まった。第一試合は六人で争うゲームだった。一番の選手と二番の選手がまずコートに立った。サーブは必ず決められた場所に落とさなくてはならない。二番の選手フェルナンドが一番の選手が壁に当てたボールをワンバウンドでしっかりとキャッチした。そしておもいっきり壁にボールを叩きつけた。跳ね返ったボールは一番の選手の頭を超えてワンバウンドして後ろの壁に当たった。必死で追いかけて来た一番の選手はなんとか落ちてきたボールをワンバウンドで捕球して投げ返した。しかし投げ返した位置が悪かった。二番のフェルナンドは今度は一転して前に走り、ボールをキャッチするとそっと前の壁にボールをふわっと投げた。ボールは一番の選手が慌てて戻って来るのを尻目にポトリと壁のすぐ下に力なく落ちて転がってしまった。二番のフェルナンドは勝ち点一をあげた。続いてフェルナンドは三番、四番の選手にも勝ち、勝ち点を三としたが、五番のドミンゴに敗れた。五番のドミンゴは六番の選手と一番の選手にも勝ち、勝ち点の三を上げたが、三番の選手に敗れた。三番の選手は四番の選手に敗れて、一進一退の展開となってきた。再び巡ってきた二番のフェルナンドが連勝して勝ち点を増やして勝利した。電光掲示板には高々と二番のフェルナンドの名前が浮かび上がった。そして次に勝ち点の多かった五番のドミンゴの名前が続いた。正にこれはビギナーズ・ラックだった。渡辺社長の買った(2-5)が当たってしまった。社長の周りにいる人々は配当の倍率が電工掲示板に表示されるのを静かに待った。しばらくして場内に大きなどよめきが起こり、百倍の数字が表示されていた。この百倍の数字は六人の試合では滅多に出ない配当であった。誰もが羨む数字であった。渡辺社長が10000ペソを獲得した瞬間だった。この額はこの国のサラリーマンの五ヶ月分の給料にあたり、日本人にとってはたいした金額ではなかったが、チケットを買って来たおっさんにとっては途方もなく大きな数字だった。おっさんはさっそく社長に握手を求めてきた。社長も満面の笑顔でそれに答えた。そのおっさんは社長に向かって手を差し出しながら言った。
「チェンジ、チェンジ。」
どうやら当たり券をお金に交換してきてあげると言っているようだった。すぐに高瀬が間に入って社長に言った。
「社長、券は後で私と一緒に取替えに行きましょう。このおっさんには1000ペソだけ渡して、あとは断って下さい。」
「そうだな、全部持って行かれたら、バカらしいからな。そうすることにしよう。」
社長は大勢の人達が見ている中で、ポケットから高瀬から借りた札束を全部出して、1000ペソだけ抜き取り、それをそのおっさんに渡した。おっさんは嬉しそうに両手でその1000ペソを受け取り、さっさとどこかへ消えてしまった。
高瀬がそっと社長に注意した。
「社長、絶対に人前では札束を見せては駄目ですよ。どこで誰が見ているか分かりませんからね。危険です。ここは日本ではないのですから、注意して下さい。」
「そうだな、高瀬さんの言うとおりだ。ごもっとも、気をつけなくてはいかんな。失敗、失敗。」
渡辺社長と高瀬青年は最終試合の二つ手前のゲームでハイアライを切り上げて、今度はカジノへ行くことにした。時計の針が9時を回ったあたりから、ハイアライの場内は熱気に完全に包まれだした。プレーヤーも観客も次第に興奮の絶頂に近づきつつあった。込み合う最終試合を待たずに早めにふたりは引き上げることにしたのだ。結局、この夜は一番最初の社長の(2-5)だけしか成果はあげられなかった。あとの試合は二人合わせると5000ペソの大負けであったが、しかし何と言っても(2-5)の10000ペソがあった。その5000ペソの負けとおっさんにあげた1000ペソを差し引いても、まだ3000ペソが残っている計算になる。二人は交換窓口がごった返す前に社長の当たり券を交換してカジノに向かうことになった。ところが、窓口でその当たり券を交換しようとした時、二人は唖然としてしまった。社長の(2-5)の当たり券が偽物だったからだ。窓口の女性に言われて、高瀬がその券を手に取って調べてみると、確かに日付のところが不自然に書き換えられていた。元金の100ペソとおっさんにあげたお礼の1000ペソ、そして後のゲームで負けた5000ペソはシャボン玉のようにパッっと消えてしまった。
現在ではこのハイアライはフィリピンでは行なわれていないとおもう。一度はハリソンプラザの近くで復活したが、またいつのまにか廃止になってしまっていた。それはあまりにも国民が熱狂し過ぎた為なのか、それとも選手の間に八百長がはびこってしまったせいなのか、その理由も分からない。あるいはきちんと運営する組織がなかったせいかもしれない。まったくの謎である。ひょっとしたら、ハイアライは南国にふっと現われて消えていった幻のゲームだったのかもしれない。
ぶよぶよの豚
ぶよぶよの豚
二人はまったく気がつかなかった。渡辺社長と高瀬青年はさっきから五人の男たちにつけられていることに気がつかなかった。ハイアライの競技場を出て、すぐ前の大通りを渡りルネタ公園に入ってからも、まだその男たちは一定の距離を置いてぴたりと二人について来ていた。
夜のルネタ公園は恋人たちの世界だ。昼間の暑さから幾分ではあるが解放されて、たくさんのカップルが芝生に寝そべりながら語り合っていた。もし夜間外出禁止令がなければ、そのまま朝までいても凍える心配などちっともないから、皆、好き勝手な場所で、好きな時に眠ることが出来ただろう。その夜も酔っ払いやホームレスも含めて、いろいろな人たちが公園のあちらこちらに横になっていた。ルネタ公園はすべての人々を等しく寛容に受けとめることが出来るほど広大だった。高瀬青年と渡辺社長が行こうとしているフローティング・カジノはハイアライの競技場とはちょうど反対側の船着場からボートが出ていた。そこまで行くには大きな公園を縦に横切らなければならない。ルネタ公園の中央の歩道をどこまでも海に向かって歩いていけばいいのだが、早足でも三十分はたっぷりかかる位の距離だ。兎に角、ルネタ公園は大きくて素晴らしい公園である。フィリピンで世界に誇れるものをあげろと言われれば、間違いなくこの公園もその一つに挙げられるだろう。
渡辺社長と高瀬はハイアライを出てからまったく話をしていない。ハイアライで大負けして、おまけに偽物の当たり券までつかまされて話をするのも嫌になるほど気落ちしていたのだ。ルネタ公園には街灯代わりに丸いランプがいたるところにあるが、広すぎて公園全体はやはり薄暗い、時折、海から吹いてくるとても有り難い風があり、その風は公園の樹木をかすかに揺らしていた。公園の一角にある花時計は午後九時を回っていた。こんな時間だというのに子供たちはまだローラースケートをしたり、バスケットボールをして遊んでいた。彼らに混じってホームレスの子供たちの姿もあり、どうやら今夜は草むらに隠れて眠るつもりらしい。懐が広いルネタ公園はうるさいことは一切言わない。いつでもすべての人々を平等にあたたかく包み込んでいてくれるのである。
まだカジノへの道のりの半分も行かないうちに渡辺社長は音を上げてしまった。歩道に沿って備え付けてあるベンチの上にへたり込んでしまった。夜とは言えやはり南国である。ちょっと歩いただけでも社長の体からは汗が噴き出していた。一方、ぶよぶよした身体の社長と違って、よく鍛え上げた高瀬の身体は筋肉質で毛穴もしまっているせいか、あまり汗をかいていなかった。やっと、社長が高瀬青年に懇願するように言葉を発した。
「すまんが、ちょっと、休憩しようや。この公園はでか過ぎるな。いくら歩いても海なんか見えてこないじゃないか。やっぱり、車で行けばよかったかな。」
「でも、素晴らしい公園でしょう。あれだけ大きくハイアライで負けてもだんだんと気持ちが落ち着いてはきませんか。それはきっと公園の癒しの効果だと思いますよ。芳子さんはこっちに来て気が滅入るといつもこの公園に来るんだそうですよ。すると、また勇気が湧いてくると言っていました。僕もその気持ちが分かるような気がします。つくづく社会における公園の重要性を実感しますね。公園という場所は落ち込んだ人々に特に効果があるようですよ。」
そんなことはどうでもいいとでも言いたげな渡辺社長は高瀬青年をベンチから見上げながら言った。
「なあ、どこかで車を拾えないかな?これじゃあ、カジノへ行く前に全精力を使い果たしてしまいそうだよ。なあ、車で行くことにしよう。」
高瀬は自分たちのいる位置を確認するように周りを見回してから言った。
「社長、今、私たちがいる場所はちょうど公園の真ん中ですよ。どこへ行くにも今まで歩いて来たと同じくらい歩かないと車に乗ることすら出来ませんよ。」
「そうか、じゃあ、近くの休める場所に連れて行ってはくれんか。わしは喉が乾いてしまったよ。少し腹も空いてきたようだしな。」
「でも、社長、やはり、そうとう歩きませんとそのような店にも行けませんが、もし何でしたら、しばらくここで待っていてくれれば、わたしが何か買ってまいりましょう。」
「そうか、そうしてくれるか。歳はとりたくないものだな、ちょっと歩いただけでもこの有様だよ。申し訳ないな。あ、それから飲み物はビールにしてくれるか、ビールに。」
「はい、分かりました。じゃあ、ちょっと行ってきますから、ここに座っていて下さい。」
若い高瀬は渡辺社長を一人ベンチに残して買出しに出かけた。高瀬が姿を消して二分もしないうちに、いかつい男たちが渡辺社長を囲むように近寄って来た。社長が上を向くや否や、ひとりの男が社長の顔面中央にパンチをくらわせた。あまりにも突然の襲撃で社長は声が出ない。続けざまにもう一発、社長の左頬に強拳が飛び込んできた。今度は狙いすました様な一撃だったために、社長のダメージは相当なものだった。社長の全身はがくっと折れ曲がり、横にいた男たちが社長の両腕を抱え込んだ。完全に社長は身動きが出来ない状態になってしまった。一番最初に殴りつけた男は社長のどこにお金があるのか知っているらしく、迷うことなく社長のポケットから札束を素早く抜き取った。仕事はあっと言う間に終わった。社長の下腹にボディブローが打ち込まれた。うな垂れた社長の顔面に、今度は膝蹴りが命中した。これで完全に渡辺社長は意識を失ってしまった。最後に後頭部に両手でとどめが叩き落された。社長は芝生の上に崩れ落ち、うつ伏せの格好で放置された。男たちはお互いの顔を見合わせて、走り去って行った。ルネタ公園にはさっきとまた同じ平和な風景が戻ってきた。公園の様子は何も変わってはいない。たった一つだけ違っていたのは渡辺社長が芝生の上に横たわっていることだけだった。公園には社長のように横たわっている人は数え切れないほどいる。渡辺社長はそんな公園の風景の一部に過ぎなかった。
高瀬がスナックを抱えて戻って来たのはそれから十五分が経ってからだった。初め高瀬は社長が芝生の上で眠っているものとばかり思っていたが、次第に不安になってきて、ゆっくりと声をかけてみた。
「社長、渡辺社長。」
返事はなかった。高瀬は座っていたベンチの上にスナックを置いて、慌てて社長に近寄った。
「社長、大丈夫ですか?社長。」
しばらく声をかけていると、社長が目を開いた。
「やっと、気がつきましたか。怪我はありませんか?」
渡辺社長は何が何だかさっぱり分からないままであった。社長の顔は醜く腫れ上がってきており、口からは血が出ていた。
「社長、どこか痛みますか?」
体中がひどく痛むようで、話し出すまでに少し時間がかかった。
「やられたよ。全部やられた。君から借りたお金、そっくり持って行かれた。」
高瀬は言葉が出ない。
「奴ら、きっとハイアライでわしが金を数えていたのを見ていたのに違いないな。」
「社長、口から血が出ていますが、大丈夫ですか?」
「突然、囲まれてな、何も言わずに、あちこち殴りつけてきやがった。畜生め!」
高瀬は正直なところ、社長のことより、貸したお金のことの方が心配だった。もうこれでお金を返してもらうまでは社長から離れるわけにはいかなくなった。嫌でも社長の手助けをしないとお礼どころか貸したお金までなくなってしまう。高瀬はじっと我慢するしか方法はなくなってしまった。まったくこんなオヤジ、面倒くさい、何をやっても駄目じゃないか、本当は自分はこんな奴に関わりなんか持ちたくはないのだと高瀬は心の中で呟いた。
「社長、歩けそうですか。もし何でしたら自分がおんぶしましょうか?」
「いや、足はそんなには痛んではおらんのだ。腹と顔がひどく痛むだけだ。もう少し待っていてくれれば歩けるかもしれない。」
「どこか病院へ行かなくてはいけないな。そうか、うちの大家に相談してみるか。どこか病院を紹介してもらえるかもしれない。お金がない以上、治療費が後払いになるところでないといけないからな。やはり大家に相談するしかないな。」
高瀬は独り言のようにそう呟いた。それを聞いていた社長が慌てて言った。
「いや、病院はいいよ。大丈夫だ。どこも骨は折れていないようだし、なんとか自力で治してみせるよ。少し痛むが、大丈夫だ。」
「社長、念のためにちゃんとした病院で診てもらわないとだめですよ。警察にも被害届を出さないといけないし、医者の診断書は必要ですからね。今日はもうこんな時間ですから、とりあえず、まず僕の部屋に行きましょうか。明日の朝一番でうちの大家と相談して病院を紹介してもらいますから、うちの大家は病院の院長の娘でしたから、知り合いの病院を紹介してもらいますよ。」
「そうか、面倒をかけるな。本当にすまんな。まったくここのところ、わしはつきに見放されてしまっているからな。こんな調子じゃあ、命までも危ないかもしれんな。早く日本に帰った方が良さそうだな。」
冗談じゃあない、僕の一年分の生活費を半日もしないうちになくしやがって、何が命だ、何が日本に帰った方がいいだ、ふざけんじゃないよ、と高瀬は思いながらじっと堪えた。さっき買ってきたビールとハンバーガーを社長に差し出した。
「口の中が切れているようですが、大丈夫ですか?どうです、これ食べられますか?」
渡辺社長は思い出したようにそれらにむしゃぶりついた。まるでその様子は豚が餌を一心不乱に食っているようだった。いや豚の方がもっと上品な食べ方をすると高瀬はおもった。高瀬の目の前には傷だらけのぶよぶよの豚がハンバーガーを貪り食っていた。
高瀬の部屋に二人が着いたのは夜の十一時を回ってしまっていた。雨が激しく降り始めていて、二人ともびしょ濡れだった。
「高瀬君、ここは病院じゃないかね。」
「いいえ、ここが僕の住んでいるところですよ。潰れてしまった病院を利用して院長の娘がホステルをやっていまして、おもに長期の滞在者を月極めで泊めているのですよ。」
「そうか、元病院ということだね。」
「まあ、汚いところですが、明日の朝まで辛抱して下さい。」
現実問題として、高瀬も社長も所持金はもうほとんどなかった。病院に連れて行くにもお金がないのでは話にならない。やはり、大家に相談するしか方法はなさそうだった。後は日本から渡辺社長に百万円が送金されてくることを祈るしかなかった。芳子さんにも相談しようと高瀬はおもった。
部屋のドアを開けると、こもった熱気がむっと部屋の外へ出て来た。社長を中に担ぎ込んみ、自分で着替えをさせ、社長に高瀬が使っているベッドを提供した。高瀬もソファーにすぐに横になった。若いとは言え、心底、今夜は疲れた。色々なことが起こり過ぎた。高瀬はゆっくと休みたかった。そっと目をつぶって睡魔が襲ってくるのをじっと待った。しばらくすると、あんなに怪我をしているにもかかわらず、ぶよぶよの豚の大きな鼾が横から聞こえてきた。まったく厭きれてものが言えない。そのうるさい鼾で高瀬はなかなか眠ることが出来なかった。よりによってこんなへんてこなオヤジにつかまってしまった自分自身を恨んだ。とうとう自分の寝床まで占領されてしまった。自分の全財産を盗られてしまった上に、まだこんなに親切にしている。高瀬は軽はずみな自分の行動を深く反省した。
時々、心配になり、ソファーから身を起こして社長が息をしているかどうか覗き込んで見た。今、ここで社長に死なれたら大変なことになるからだ。兎に角、一日も早く社長から自分のお金を取り戻さなければならなかった。窓の外は相変わらず激しい雨が降り続いていた。いつの間にか高瀬も眠りに落ちていた。
高瀬は社長の鼾がぱたりと止まったことに気がついた。起き上がって社長の枕元に立ってみた。社長は息をしていない。なんてこった。渡辺社長は自分のベッドの上で死んでしまったではないか。頭を殴られた時に打ち所が悪かったのかもしれない。もう一体全体どうなっているのだ。じゃあ、自分の生活費はどうなるのだ。それにどうやってこの事を警察に説明すると言うのだ。誰が一文無しの外人の話なんか信用してくれると言うのか、もう終わりだな。
高瀬は頭の中が真っ白になってやっと目が覚めた。夢を見ていたらしい。滅多に汗をかかない高瀬の全身は汗びっしょりだった。高瀬はゆっくりと起き上がり、恐る恐るベッドの中の社長の様子を覗き込んだ。ぶよぶよの豚はまだよく眠っていた。口元からは汚い血の混ざったよだれが流れ出し、高瀬の枕の中にしみ込んでいた。もう洗濯をしてもその枕は使う気にはならないので、処分することにした。高瀬は社長を起こす前に、一人だけで大家に相談してみようと素早く着替えをして部屋を出た。
ついていない時は何から何までついていないものである。大家は昨日からボラカイとか言う島へバカンスに出かけていて留守だと言う。来週にならないとマニラには戻らないと、彼女のお手伝いから言われた。とすると最後の砦はやはり芳子さんしかいない。高瀬は社長を病院に連れて行く前に芳子さんのところへ行って、送金があったかどうか確かめてみようとおもった。日本から社長に送金がされていれば何も問題はないのだから、ただ、昨日の時点では何かが変であった。それともう一つ心配になってきてしまった。もし社長に逃げられたら、それで終わりではないか、そうだ、もう一時も社長のそばを離れてはいけない。すでに高瀬は全財産を失ってしまっているのだから。あれこれ考えていてもしょうがないので部屋に戻って社長を起こすことにした。病院は後回しにして、まず芳子さんの事務所を二人で訪ねることにした。
部屋に戻ると渡辺社長はすでにベッドの上に起き上がっており、さっきは気づかなかったが、オヤジ特有の臭い匂いが部屋中にこもっていた。
「社長、おはようございます。どうですか、痛みますか?今、大家のところに行って来ましたが、生憎と彼女は留守でしたよ。仕方がありませんから、まず芳子さんのところに行って相談することにしましょう。それからでないと病院も無理ですし、なんせ、僕たちは一文無しになってしまいましたからね。何もすることが出来ませんよ。それから、芳子さんの事務所までは少し歩きますが、大丈夫ですか。歩けますか?」
「ああ、大丈夫だ。身体のあちこちはまだ痛むが、少し眠ったおかげで、何とか歩けるとおもうよ。」
昨日から悪夢の連続だったが、今日も汗まみれの社長に高瀬の衣類を与えることから始まった。高瀬は全財産を奪われ、数少ない衣類まで提供するはめになったことを誰にともなく恨んだ。今日も一日まったく良くなる気配はなかった。
ふたりは芳子さんの出社時間に合わせてマカタガイホステルを出ることにした。時々、午前中は出社していないと聞いていたので、間違いなく芳子さんに会える昼過ぎを選んで出かけることにした。昨夜からマニラは雨が降ったり止んだりで水溜りがあちらこちらにできていて、とても歩きにくかった。高瀬は出来るだけ直線距離にするために裏道を選んで歩いた。渡辺社長は体中が痛むようで、さすがに元気はなかった。自然とその歩く歩調もゆっくりで、なかなか芳子さんの事務所にはたどり着けそうにはなかった。
ところがその社長が突然、全力疾走で走りだしたのだった。びっくりしたのは高瀬だった。今までまるで死人のようだった渡辺社長が急に元気になり、走り出したのだった。高瀬も社長の後を必死に追いかけた。社長は道路わきに止まっているリヤカーに向かって突進して行った。リヤカーの上には子供が一人寝ていた。社長はその子供を掴み起こすと、リヤカーの外に引きずり出した。何が起こっているのかまったく分からないのは高瀬であった。ぶよぶよの豚は無抵抗な子供を何度も何度も殴り始めた。
ヨシオ
ヨシオ
マニラの通りには至る所に穴が開いており、雨が降るとたちまちそこに水が溜まり交通が渋滞した。下水施設が完備されていない裏道などは洪水で歩けなくなることもしばしばで、台風のような大雨の時などは、皆、すべてをあきらめて、その日の活動を停止した。この自然には逆らわない姿勢がおおらかな、あまり時間にはこだわらない国民性をつくり上げたのかもしれない。正樹はボラカイ島から戻りマニラで大学入学の準備を進めていた。事件はその時に起こった。昼過ぎから教育省へ留学許可を正樹一人で申請に行った帰り道のことだった。昨夜より断続的に降り続いた雨でマニラの裏通りには大きな水溜りが幾つも出来ており、正樹はバス停へ行く為に近道を通ろうとした時だった。その裏道で一人の少年が二人連れの日本人によって水溜りに殴り倒されるのをたまたま目撃してしまったのだ。起き上がってくる少年の胸倉を掴み上げて、大男は少年をまた殴りつけた。再び降り始めた雨の中で少年はまったく抵抗する様子もなく軽々と宙に舞い上がり、茶色く濁った水溜りの中に殴り飛ばされた。何とも吐き気のする光景であった。それはまるで無抵抗の者を武装した兵士がいたぶるかのようでもあった。正樹の正義感に火が点いたのは三度目の時だった。大男がまた少年をつかみ起こそうとしたその時、正樹はありったけの大声で叫んだ。
「おい、おまえら、何をしているんだ!大の大人が二人して子供を殴ったりして、いい加減にしろ!もう、止めないか。」
渡辺社長が正樹を睨み付けた。正樹は再び吠えた。二対一では勝てる自信はなかったが、言葉だけでも何とか優勢になろうと眉を寄せながら、凄みまで利かせて、ありったけの声で吠えた。
「おまえら、弱い子供を二人がかりでいたぶったりして、どんな理由があるのか知らないが、いい加減にしろ!恥ずかしくはないのかよ。もう止めろ!」
渡辺社長がそれに答えた。
「こいつは盗人だよ。俺の財布やパスポート、航空券も盗みやがったんだ。睡眠薬強盗の手引きをしやがったんだ。その悪ガキを懲らしめて、何が悪い。」
それを聞いて少し怯んでしまった正樹だったが、尚も威圧的に言葉を吐き捨てた。
「だからと言って、無抵抗な子供を殴っていいことにはならんだろうが。おまえらのしていることは立派な犯罪だぞ。大勢の警官が寄ってたかって無抵抗な黒人に乱暴を加えているのとちっとも変わらないじゃないか。さっきからな、おまえらのやっていたことはちゃんとビデオに撮っておいたからな。いいか、この映像を流したら、世間はおまえらのことを黙ってはいないからな。覚悟して置けよ。」
正樹ははったりまでかましてしまった。しばらくの間、沈黙が流れた。ここまでくると渡辺社長も正樹も双方がどう収拾をつけたら良いのか迷ってしまった。ヨシオは倒れたままで、じっと正樹のことを見つめていた。ヨシオには日本語のやりとりが理解出来るわけがなかった。しかし日本語は自分の母国語なのだ。父の国の言葉を理解出来ない自分が何とも歯がゆかった。そして今もし、警察に連れていかれれば、今度こそ刑務所行きだと、ヨシオはおもっていた。何故なら、この前捕まった時に警察署長がそう言っていたからだ。署長はマルコスとかいう大統領が外国人に悪さをした人間には重罰を与えると決めたと言っていた。町をうろついているポリスからも何度も同じ事を聞かされていた。だから今度こそ刑務所行きは間違いないとヨシオは覚悟をしていた。いや、ひょっとすると電気椅子に送られるかもしれないと子供心に心配していた。ヨシオは倒れたままで事態の成り行きを見守っていた。すると今までただじっとしていた、もう一人の痩せた色黒の男が自分のことを殴った大男に何かを言い始めた。
「社長、もう、十分ですよ。パスポートのことは芳子さんと何とかしますから、もう止めましょう。帰りましょう。」
高瀬はこの件がもし警察沙汰にでもなれば、自分たちが不利になると素早く計算をして、そう言ったのだった。自分の将来にとってもマイナスになると読んだのである。高瀬は社長の腕を引きながらも一度言った。
「もう、行きましょう。」
この時、高瀬は正樹には一言も声をかけなかったが、この二人の出会いも運命だけが成しえる業で、後に高瀬と正樹は深い信頼関係で結ばれることになるのだ。人生とは不思議で、そして何と素晴らしいものなのだろうか。やはり神様は存在していて、人と人をうまく引き会わせているのだろうか。
雨がまた強く降り始めた。それを待っていたかのように渡辺社長と高瀬は足早に去って行った。そして正樹とヨシオだけがその場に残された。正樹が誰の物とも判らない帽子を拾ってヨシオの頭に被せた。正樹はもしヨシオが重症ならば、即、病院へ運ぶつもりだったが、見た感じでは大丈夫そうであった。
「大丈夫か?」
英語でヨシオに声をかけてみたが返事はやはりなかった。ヨシオはただじっと正樹のことを見上げていた。大粒の雨がヨシオの顔を叩きつけていた。正樹はそのヨシオの目の輝きでもって判断を誤ってしまった。医者には連れて行く必要はないなとおもってしまったのだ。正樹はヨシオをその場所に残してバス停に向かうことにした。歩き出してから、後ろを振り返りざまに言った。
「ぼうず、じゃあな、またな。早く家に帰りな。殴られたところは氷で冷やすといいよ。」
正樹はそういい残して道を急いだ。しかしヨシオには帰る家などはどこにもなかったのだ。自分を捨てた父と同じ日本人たちを騙すことだけに生き甲斐を感じて生きてきたヨシオは正に刑務所に入れられる寸前のところで、選りに選って自分が最も嫌う日本人によって助けられたのだ。ヨシオは深い衝撃を子供ながらに受けていた。初めてヨシオが誰かの為に何かをしたいと感じたのもこの時が初めてだった。ヨシオは夢中で正樹の後を追った。
正樹はヨシオが自分の後からついて来ていることに気がついていた。正樹は角を右に曲がった所で全力で走り、次の角を曲がって物陰に身を隠した。案の定、ヨシオは必死になって走って来た。ビーチサンダルの片方が脱げてなくなっていた。正樹はヨシオの後ろに素早く回りこみヨシオの背中に向かって言った。
「おい、何で俺をつけてくるんだよ?」
ヨシオからは返事はない。ヨシオは振り返り、ただ黙って正樹の顔をじっと見上げていた。ヨシオがにやりと笑ったのは次の瞬間だった。半分かけた前歯がにょきっと現われた。正樹はおもわず吹き出してしまった。その表情は痛々しいというよりはむしろ滑稽だったからだ。よく見てみるとヨシオの顔はさっきよりもかなり腫れ上がってきており、普通のこの年代の子供ならば、これだけのダメージを受ければ、泣き叫んで七転八倒するところだろう。しかしヨシオはけろりとしているではないか。何と強い子供なのだろうと正樹は思った。正樹はこの時点ではヨシオが日比混血児であることにはまだ気づいてはいなかった。
「おまえ、名前は何というのだ?」
返事を期待せずに正樹は言ってみた。
「ヨシオだよ。」
何と言うことだ。目の前の少年は自分と同じ日本人の名前を確かに言った。正樹はもう一度聞いてみた。
「おまえのフルネームだ。ちゃんとした名前だよ。何と言うんだい?」
「ヨシオ・バスケス・原田だよ。」
「そうか、オヤジさんの名前は原田と言うのか、バスケスは母親の名前だな?」
「そうだよ。」
ヨシオは簡単な英語は理解出来るようであった。きっと観光客を相手に商売をしながら覚えたのだろう。正樹は続けざまに質問をしてみた。
「おまえの父さんと母さんは元気なのか?今、どこにいる?」
「もう、死んじまったよ。」
「二人ともか?」
「母さんは死んだよ。」
「じゃあ、オヤジさんは?」
「父さんのことは知らない。会ったことも見たこともないからな。」
「悪いことを聞いてしまったな。すまん。おまえの家はここから近いのか?」
「家? 家なんてないよ。でも大体、寝る場所は決まっているよ。商店が閉まってから歩道で寝るんだよ。空き缶を傍に置いておくと、朝までに小銭がいっぱいになっていることもあるんだぜ。そんな時はね、教会へ行って半分だけ献金してくるんだ。俺は半分だけで十分だからね。そうすると、また同じ額だけ戻ってくるって死んだ母さんが言っていた。」
「そうか、ヨシオは教会が好きか。」
「いや、別に好きなわけではないよ。ただ死んだ母さんがいつも教会で祈っていたからね、何となくさ、教会にはまだ母さんがいるみたいでさ、俺にはよく分かんないや。でも教会で座っているとほっとするんだよ。」
「ヨシオ、おまえ、最後に飯を食ったのはいつだ?」
「三日前に食べた。あれはついていたな。レストランの裏口で余り物をいただいたよ。犬が来る前にお頂戴した。あれは早い者勝ちだからな。滅多にないことさ。ついていたよ。」
この国ではレストランからゴミや残飯は日本のようには出てこない。客は食べきれずに残したものは家に持ち帰る習慣があるからだ。それはどんなに金持ちでも同じで、食べ残したものはウエイターを呼んで包んでもらうのだ。その為の紙袋や折箱がレストランには用意されていて、誰も恥ずかしがらずに持ち帰る習慣が定着している。それは素晴らしい習慣であって、是非、日本人も見習ってほしいものである。食べ物を大切にする心はとても良い習慣である。日本人が学ばなければならないことがこの国にはたくさんあるが、その食べ残しを持ち帰る習慣もその一つだろう。日本の環境問題、特にゴミ問題の観点からも言えることで、日本人の誰もが食べ物を大切にすれば、ゴミの量は桁違い少なくなってくるはずだ。ただヨシオのような路上生活者にとってはレストランの残飯が減ってしまうので、逆に死活問題なので、あまり有り難くはない習慣なのかもしれない。
「ヨシオ、これから飯を食いに行こうか。俺は日本食が急に食べたくなった。案内してはくれんか?」
「ああ、いいよ。付き合ってやるよ。」
「俺はまだマニラに来たばかりでどこに日本料理のレストランがあるのか知らないんだ。おまえ、知っているか?」
「ああ、知っているよ。レストランのことならよく知っているよ。案内してやるよ。」
「頼むよ。でもおまえのその格好じゃあ、レストランには入れないな。Tシャツと靴を俺が買ってやるから、まず近くのデパートへ連れて行ってくれるか。」
「分かった。俺について来な。」
デパートの入り口でヨシオはガードによって当然のごとく店に入ることを拒否されてしまった。ガードは一見してヨシオが路上生活であることを見破ってしまった。仕方なく正樹一人で中に入ることにした。ヨシオにはすぐに戻るから外で待っているようにと何度も何度も言い聞かせてからデパートの中へ入った。正樹は育ち盛りのヨシオの為に少し大きめのTシャツと長く使えるように大きめのサイズの靴を選んだ。正樹はあまり時間をかけずに買い物を済ませた。しかし外に出てヨシオを捜したが彼の姿はもうどこにも見あたらなかった。正樹はそこに立ってヨシオが現われるのをじっと待つしか方法はなかった。気が遠くなるような長い時間が過ぎてしまった。それでも正樹はヨシオのことをただ待ち続けた。入り口にいれば必ずヨシオが自分のことを見つけてくれるものと信じていたからだ。正樹は自問自答を繰り返していた。さっきここでヨシオに待つように言った時、彼は確かにうなずいて見せた。俺の言ったことはちゃんと伝わっていたはずだ。とするとだ、誰かに無理やり連れて行かれた可能性が極めて高いのでは?あるいは人を信じないで生きてきたヨシオのことだ、ヨシオは俺の言ったことをいつもの通りすがりの観光客の気まぐれとおもったのだろうか。いずれにせよ、俺はもう五時間もここで彼を待っている。もう十分だろう。何でそんなにヨシオにこだわるのだ。ただのホームレスの子供ではないか、もうアパートに帰ってディーンと楽しい時間を過ごした方がどれだけ良いのか、もうヨシオは来ないよ。ヨシオはまた日本人のカモでも見つけたのだろう。正樹は同じ事を何度も繰り返し考え続けていた。通りはすでに夕方の交通渋滞が始まっており、空しく車のライトだけが動いていた。正樹はその車の混雑が峠を越した頃、やっと帰ることにした。ヨシオを待ち続けてもう八時間という長い時間が過ぎてしまっていた。何がいったい正樹をそうさせたのか正樹自身にもよく分からなかった。普段の正樹ならとっくの前に怒ってその場を立ち去っていたのに違いなかった。
アパートに帰った正樹はヨシオの話をディーンにした。ディーンは正樹の為に夕食の支度をしながら正樹の話を楽しそうに聞いていた。お手伝いのリンダがボラカイ島に残ってしまったので、ケソン市のアパートの家事は三姉妹が手分けをしてやっていた。もう一人居たお手伝いは買い物の度におつりをごまかしていたことがボンボンの姉さんにばれて追い出されてしまっていた。だから今はリンダのやっていた仕事はウエンさんとノウミ、そしてディーンの三人で交代でやっていた。また新しいお手伝いさんを田舎のビコールから呼び寄せることが決まっていたが、なかなか信用が出来る人が見つからずにいた。
正樹は食事が終わり、流しで食べた後の食器を洗いながらディーンと話をした。
「ねえ、正樹、明日さ、もう一度、その子がいなくなったデパートの前に行ってみない。何で、ヨシオとか言うその子が、突然に消えたのかが分かるかもしれないから。」
「いいよ、ディーンがそう言うのだったら、行ってみようか。でもそのデパートの中には映画館もあるから、もし良い映画をやっていたら、ついでに観ようね。その後に食事も、いや映画の前がいいかな。」
「ねえ、正樹、あたしはやっぱりその子、ヨシオは誰かに連れ去られたとおもうな。だってさ、正樹のことを待っていれば服や靴がもらえたんでしょう。それに高い日本料理も食べることが出来たわけなんだから、それを止めて行っちゃうなんて考えられないわ。何かがデパートの前で起こったのよ。正樹が買い物をしている間に、きっと何かがあったのよ。あたし、そういうのって、ちょっと興味があるな。明日、現場に行って調べてみましょう。」
「何だかディーンは探偵みたいだな。だけどさ、何で僕は何時間も見ず知らずのあんな奴を待っていたのだろうね。いつもの僕だったらあんな無駄な時間は使わなかったはずだ。何が僕をそうさせたのだろうか。」
「それは正樹が優しい人だからよ。それにヨシオは正樹と同じ日本人の血を引いているからじゃない。」
「今度、あいつに会ったら、ボラカイ島の話をしてみようかな。実はね、ディーン、昨日、食事をしながら茂木さんの家の話をヨシオにしようと思っていたんだ。」
「そうね、そのヨシオとかいう子、このままマニラにいても、どんどん悪い方に流れて行きそうだものね。あの子にとって、今、大切なことは教育だわ。ボラカイ島の茂木さんの所で勉強出来るのならば、そっちの方が良いに決まっているわよ。それにその子は両親がいないんでしょう。それなら尚のこと、誰かの助けが今は必要よ。」
「でもヨシオはボラカイ島へ行くだろうか?」
「そりゃあ、正樹が一緒に行けば行くわよ。でも最初は遊びに行くぐらいの乗りで誘うのよ、決して勉強の話はしちゃだめよ。ああいう子供たちは警戒心が人一倍強いものよ。初めから茂木さんの家で勉強するなんて言ったら、もう行きたくないと言い出すのが関の山だわ。」
「そうかもしれないね。でもあのボラカイ島のきれいな海と空はきっとヨシオの心を開いてくれるとおもうよ。この僕だってあんな所に住めるのなら、ずっと住んでみたいもの。」
「あら、あの家はボンボン兄さんの名義だけれど、茂木さんはみんなの家だと言っていたわ。だから正樹の家でもあるし、あたしの家でもあるのよ。」
「と言うことは僕たち二人の家だとも言えるわけだね。」
「そうよ、私たち二人の家でもあるのよ。それからね、もしヨシオとボラカイ島へ行くことになったら、約束して頂戴、すぐに帰って来るって、用が済んだら、さっさと戻って来ること、いいわね。」
「うん、分かった。あまり自信はないけれど努力してみるよ。じゃあ、明日はヨシオが消えてしまったロビンソンデパートへ行ってみようか。何かヨシオの手がかりがつかめるかもしれないからね。ディーン名探偵が一緒なら、きっと何かが分かるよ。期待している。」
その頃、ヨシオは移民局のすぐ隣にあるモンキーハウスに留置されていた。モンキーハウスは外国人の犯罪者を一時的に留置しておく監獄である。一見、普通の民家のように見えるが、よく見ると窓という窓には鉄格子がはめられていて、その窓の中には見るからにだらしのない不良外人たちがいつもごろごろしていた。何故、モンキーハウスが移民局のすぐ隣にあるのか、それはビザの延長などで、手続きに来る外国人の目に付きやすい場所にわざと置き、犯罪の抑止をねらっているのだ。犯罪を犯すとこうなりますよと言っているようなものだ。モンキーハウスの中には三段もある粗末なベッドが幾つも並べられていて、おまけに風通しもあまり良くないので極端に暑苦しい。見るからにとても快適とは言えない留置所である。その奥の一室の片隅にヨシオはうずくまっていた。ヨシオはロビンソンデパートの前で正樹を待っていた時にちょうど運悪く、前に騙したことのある日本人に見つかってしまって警察に突き出されてしまったのだ。ところが困ったのは警察署長の方であった。警察の留置所はすでに満杯状態で悪質な犯罪者で溢れていた。この手の子供たちをいちいち留置していたら切りがなかった。それこそ留置所がいくらあっても足りないという事になってしまう。しかし署長は本当にヨシオには以前から手をやいていた。もう何回も連れて来られていたからだ。たまたま署長の部屋にいた移民局の友人に相談してみたところ、二週間ぐらいなら、モンキーハウスでヨシオの面倒をみてもいいということになった。モンキーハウスはお世辞にも居心地の良い留置所とは言えなかったが、ヨシオにお灸をすえるのにはもってこいの場所だと話が決まり、法律のことや裁判のことを知らないヨシオに警察署長はこう言った。
「おまえは混血児だからな、おまえを入れておく刑務所などはこの国にはない。だいたいおまえはこの国の国籍を持っているのかな?ない場合は国外退去処分にするが、おまえを受け入れてくれる国がない場合には困ったことになるな。兎に角、おまえを外国人の犯罪者を入れておくモンキーハウスに送ることにした。いいな。だいたいこの国の人間でもない者に大切な税金を使うのももったいない話だよ。おまえをどうするかしばらく考えることにする。いつまでもただ飯を食わせるわけにもいかんしな、どうしたらいいか大統領閣下様と相談してみるから。いいな、覚悟しておけよ!」
ヨシオは警察署長の言ったことをヨシオなりに百パーセント理解した。外国人に悪さをした者は重罰に処すると命じた大統領はきっと自分のことを電気椅子に送るだろうとおもった。出生届など聞いたこともないヨシオは体中の力がすべて抜け落ちてしまった。おまけに渡辺社長に殴られた頭がひどく痛んできていた。何箇所か骨折もしているようだった。そして警察署長の大きな誤算だったのはヨシオがこの三日間何も食べていなかったことを知らなかったことだ。モンキーハウスで出される粗末な食事も同室の麻薬中毒のチンピラ外人に取り上げられてしまい、ヨシオの口には一欠けらも入らなかった。
ついにヨシオは死んだ母さんの処へ行く決心をした。部屋の隅にうずくまって静かにその時が来るのを待っていた。父親に会う手がかりなんてまったくありはしないのだが、それでもヨシオは死ぬ前に一度だけでも自分の父親に会ってみたかった。そのことがけが心残りだった。
意識が朦朧とする中で、ヨシオは考えていた。これまで何も楽しいことなどなかったじゃないか、死んだ母さん以外には誰も俺のことをやさしくしてはくれなかった。唯一、俺のことを救ってくれた日本人の兄貴との約束も簡単に破ってしまった。もう生きる意味なんて、まったくないさ。ヨシオは両手でひざを抱えながら天使が降りてくるのをただひたすら待っていた。
モンキーハウス
モンキーハウス
南国の太陽はやはり違う。汗をかいてもすぐTシャツなどは乾いてしまう。紺や黒のシャツだと汗をかいた後にそのままにしておくと体の塩分が白くシャツの表面に残ることもある。正樹とディーンの二人はヨシオが消えてしまったロビンソンデパートの入り口付近の露店やタバコ売り、各入り口の警備員ひとりひとりに聞いて歩いた。ヨシオを捜し出す何か手がかり、情報はないかと聞いてまわった。しかし何の手がかりもないまま、時間だけがどんどんと空しく過ぎ去っていった。
「ディーン、もう休憩にしようよ。もしヨシオの身に何かが起こったのならば、これだけ聞いて歩いたんだ。誰かが何かを知っているはずだよ。何も手がかりがないということはやはりヨシオは自分から何処かへ消えてしまったのに違いないよ。」
昨日とは打って変わって粘りのない正樹であった。ディーンと映画を観ることばかりを考えている正樹であった。ディーンが語気を荒げて反論した。
「まだ諦めるのは早いわよ。そんな結論を出すのはまだ早過ぎるわ。」
「分かった、分かった。そんなにムキになって怒るなよ。分かりました。今日はヨシオのことだけを考えることにします。」
正樹はディーンと映画を観ることはもう諦めて再びヨシオが消えてしまった入り口の警備員詰め所へ行ってみた。さっき答えてくれた警備員とは別の警備員がいたので昨日もここにいたかどうか聞いてみた。正樹にはサングラスをかけたガードは皆同じに見えた。そのガードは正樹が日本人であることに気づくと、途端に親切になった。話をしているうちに、どうやら昨日ここにいたのは別のガードであることがだんだんと分かっってきた。昨日の担当者と話がしたい正樹はさっと百ペソ紙幣をタイミングよくそのガードの手のひらに握らせた。彼はちらりと手の中を見てから、それをさっとポケットにしまい込んだ。急に愛想も良くなり、真剣に正樹の話を聞き始めた。
「ついて来な。事務所に案内するから、ついて来な。多分、昨日の担当者がまだ事務所にいるはずだよ。」
正樹とディーンはその警備員の後についてデパートの裏口から中に入った。地下の一番奥まった場所に警備員たちの事務所はあった。ドアを開けてまず目に飛び込んできたのは万引きをして捕まったとおもわれる者たちだった。相当数いた。初犯で警備員から説教されている者もいれば、万引きの常習者らしく、警官に引き渡されている者もいた。奥の部屋から話を聞いて大柄の警備員が出て来た。
「何か、俺に用か?昨日は確かに俺の番だったけれど、何が聞きたい?」
まったく無愛想な奴だなと正樹はおもったが、大切な情報提供者になるかもしれない相手だ。我慢して話をした。しかし警備員の語学不足からなのか、どうも正樹ではうまく用件が伝わらなかったので、ディーンが代わってタガログ語で説明を始めた。その恐ろしく強そうなガードは一通りディーンの説明を聞くと、正樹の方へその大きな体を向き直しながら言った。
「ああ、覚えているよ。あんたの連れのガキを中に入れなかったのはこの俺だよ。あいつは路上生活者だからな。俺は俺の仕事をちゃんとしただけだ。あのガキ、確かヨシオとか言う名前だったな。何度も万引きをして捕まっているから、結構、有名なガキだぜ。」
「それはそれでいいんだ。何もあんたを責めているわけじゃないんだ。私が一人で買い物をしている間にヨシオが消えてしまったんだ。そのことについて何か知らないかとおもって来たんだ。もし何か知っていたら教えてくれませんか?」
「知らんな、ヨシオとか言うへんてこりんな名前のガキのことは他には知らんな。」
その時である、横槍が突然に入った。それも素晴らしい正に的を得た横槍が万引き常習者の一人から飛んできた。
「ヨシオなら昨日、警察で見かけたぞ。署長の部屋から出てくるのを見たよ。あのジャピーノのヨシオのことだろう。間違いないよ。あいつは何かをして捕まっていた。」
やはりヨシオは拘束されていたのだ。自分から消えたのではなかった。ディーンが詳しく事情を聞く為に、その万引きに近寄り話を始めた。一方、正樹は警備員たちと今情報をくれた万引きを許してもらえないかどうか交渉を始めた。もちろんお金である。おおっぴらに事を運んでは裏目に出てしまうが、やり方によってはうまくいくこともある。安い給料で働かされているガードたちだ、時には万引きを取り逃がすことだってある。百ペソを二枚丸めて周囲の人々に気づかれないようにこっそり渡した。後は言葉は必要なかった。ガードは手でもって合図した。いいから、早くどこかへ消えろ。早くしろとその手は語っていた。正樹とディーンは万引きを連れてデパートの外へ出た。正樹は探偵というものは随分とお金がかかるものだなとおもいながらも、また財布の紐をほどいて大切な情報をくれた万引きに百ペソを渡した。ところがこの万引きは眉を寄せて、もっとよこせと要求してきた。それには正樹は腹を立てた。
「それで十分だろう。こうして外に出られたのは誰のお陰だとおもっているんだ。」
正樹が渋っているのを見て取り、ディーンがもう五十ペソをさっと手渡してその万引きをおいやった。正樹はお金で事を運ぶのは良くないことだと知ってはいたが、今回はヨシオのことをまず優先して考えた。その後は簡単だった。二人は警察に行き、ヨシオが移民局の隣にあるモンキーハウスに留置されていることを警察署長の口から直に聞き出した。
「あいつには本当に手をやかされている。どうやっても直りそうにないのでな、今回はちょっときついお灸をすえてやった。ここの留置所がいっぱいだったものでな、しばらくモンキーハウスで預かってもらうことにしたんだ。ヨシオがここに連れて来られた時にな、わしの友人がおってな、彼はモンキーハウス担当官でな、ヨシオを一緒に連れて行ってもらった。」
正樹が勇気を出して署長に言った。
「こんなことを聞いてよいのかどうか分かりませんが、どのくらいヨシオをそのモンキーハウスに入れておくつもりなのですか?」
「来週、わしの時間が空いた時にな、モンキーハウスに行ってみて、ヨシオが反省しているかどうか見てな、それから決めることにする。」
「そんなことがあなた一人の・・・・・・・」
慌ててディーンが正樹を止めに入った。今、ここで署長を怒らせたら大変だとディーンはおもったからだ。正樹をさえぎるようにディーンは署長に訊ねた。
「あのう、あたしたちはヨシオに面会することは出来ますか?」
「あと三日間は駄目だ。独りで反省させたいからな、そうでないとせっかくモンキーハウスに入れた意味がなくなってしまうからな。」
「分かりました。それでは三日経ったらヨシオに会ってもいいのですね。」
「まあ、いいだろう。」
署長は再び正樹に向かって不思議そうに話しかけてきた。
「ところで、あなたは日本人でしょう。何でそんなにヨシオのことに興味があるのですか。前にどこかでヨシオに何か盗まれでもしたのですかな。もしそうなら面会を許可するわけにはいきませんよ。ヨシオを守ることもわしの仕事なのですから。分かりますか?」
「ヨシオがジャピーノだからですよ。同じ血を引く日本人として責任をとても感じております。何とかヨシオに夢と希望を与えてやりたいと考えています。生意気な事を言うようですが、ヨシオには今、誰かの助けが必要だとおもいます。」
「ほーう、わしは日本人はみんな助平な連中ばかりだとおもっていましたが、おまえさんみたいなお人もいるんだ。感心、感心、もし良かったら、この街にはヨシオみたいなのが他にもたくさんゴロゴロしておるから、どうだね、そいつらをみんな引き取ってはくれんかね。まあ、それは冗談だが、正樹さんとやら、兎に角、今はわしはヨシオを私なりに教育しているところだ。分かるかね。決してヨシオをいじめているわけではなんですぞ。誤解してもらっては困りますぞ。」
「分かりました。では、三日経ったら、ヨシオに会いに行きますから、よろしいですね?」
「どうぞ、ご自由に、でも、あいつの処分は来週考えますから、そのおつもりで。」
正樹とディーンは警察署長から言われた三日間という期間を完全に無視した。警察を出るとすぐにその足でモンキーハウスへ向かった。
予想していた通りに容易にはヨシオと面会は出来なかった。不本意ではあったが、やはりここでも正樹は実弾にものを言わすことにした。正樹はほんの数分間の面会を千ペソの落し物で手に入れたのだった。誰も法に触れるような賄賂めいたお金は渡さなかった。ただ、うっかり千ペソを床に落としてしまって、偶然にも開いていた扉から中に入っただけのことだった。モンキーハウスの中にはギシギシゆがむ三段式のベッドがぎっしりと並べられていて、ヨシオを捜し出すのに、おもったよりも時間がかかってしまった。一番奥の部屋の隅っこでうずくまっているヨシオを見つけた正樹は小さな声で叫んだ。
「おい、ヨシオ、しっかりしろ。俺だ、分かるか。おい、目を開けろよ。」
正樹は何度も声をかけたがヨシオからの返事はなかった。その小さな体を揺すってみたが同じで、まったく反応はなかった。正樹は素早くヨシオの腕を持ち上げて脈を確かめてみた。するとまだ脈はあった。振り返ってディーンの顔を見上げながら言った。
「弱いがまだ脈はある。ディーン、この子を病院に運びたい。ここのボスに話をしてくれないか。このままだと間違いなくヨシオは死んでしまうよ。もしお金で何とか出来るものなら、幾らかかってもいいから、交渉してみてくれないか。興奮している僕より君の方が話がうまく出来るだろうからね。頼むよ。」
「分かったわ、やってみる。ちょっと待っていて、責任者と話をしてくるから。」
ヨシオが留置されている部屋には数名の不良外人が一緒に入れられていた。正樹の方をベッドの上からうつろな目でぼんやりと眺めていた。ヨシオがこんな状態になるまで知らんふりをして、ほったらかしにしておく連中だ。どうせ麻薬の常習者か何かに違いない。まともな人間ならば、ヨシオがこんなに衰弱する前に看守に報告していたはずだ。きっとヨシオの食事でも横取りしていたんだろうと正樹はおもった。まったく情けない奴らだ。そのろくでもない連中に向かって正樹は大声でどやしつけた。
「おい、おまえら、おまえらは人間のクズだよ。何を見てやがんだ!」
日本語で怒鳴りつけたので、その意味は彼らには理解できなかっただろうが、正樹の気迫で不良外人たちはベッドの中に頭をさっと引っ込めてしまった。
ディーンが小柄なモンキーハウスの責任者を連れて戻って来た。その背の低い主任看守はゆっくりと跪いてヨシオの様子をまじまじと見てから言った。
「これはいけないな。危ない、すぐに病院へ移そう。」
その責任者は簡単に正樹に挨拶した後、正樹の顔を見ながら丁寧に言った。
「話は彼女から聞きました。後で何枚か書類を書いてもらいますが、兎に角、一刻も早く、ヨシオを病院に入れてやって下さい。警察署長には私から連絡しておきます。この子を病院に移すことを許可します。」
おいおい、おまえらは何もしないつもりなのか?この子がこんなになったのはお前らにも責任があるのと違うのか。ふざけるなよ。正樹は心の中でそう呟いた。もういい、兎に角、時間がない、ヨシオを救うことを考えよう。正樹は両腕でしっかりとヨシオを抱き上げ、自分の胸にヨシオを抱え込んだ。正樹とディーンはモンキーハウスを出て、隣のイミグレーションの正門玄関で待機していたタクシーに乗った。迷うことなくウエンさんが働いている病院へ向かった。その病院の治療費は目の玉が飛び出るほど高いことは知っていたが、正樹はただヨシオを救うことだけを考えていた。病院に着くとすぐにヨシオは集中治療室に入れられた。しかし、この国の最高峰の最新鋭の医療をもってしても、ヨシオの意識は一向に戻ってくる気配はなかった。
不格好な敬礼
不格好な敬礼
正樹とディーンは毎朝、病院へ行き、ヨシオの様態を確かめた。その後、病院の中庭にあるチャペルでヨシオの為に祈った。悔しいけれど祈ることしか、まだ二人には出来なかったのだ。カトリックの信者ではない正樹は祈り方を知らないが、ただヨシオの回復を心から願った。ディーンは小さなプレイーヤーズブックを読みながら祈っていた。その小さな本には祈りの代表的な文句が幾つも書かれてあり。小さな文字がぎっしり並んでいた。かなり使い込んだディーンのその祈りのカンニング本は死んだ彼女の母親からもらったもので、もうページの端はしがボロボロになっていた。これまでの彼女の壮絶な人生を物語っているようであった。祈りが終わったばかりのディーンに正樹がそっと言った。
「ディーン、大丈夫だよ。ヨシオはとても強い子だから、きっと意識を取り戻すさ。元気になったらボラカイ島へ連れて行ってあげるんだ。旨い物をさ、島へ行ったら、たらふく食わせてあげるんだ。」
「お医者様の話では、後はヨシオ本人の生命力の強さ次第だそうよ。まだ、生きたいと願う気持ちがヨシオにあれば、意識は回復すると言っていたわ。病院はやれるだけのことは全てやってくれたみたいだから、後は本当にヨシオ次第ね。」
「ヨシオは今までだって、ずっと独りで強く生きてきたんだ。必ず回復するさ。またさ、半分欠けた前歯を出してね、にっこり笑ってくれるよ。」
正樹とディーンがチャペルで話をしていると夜勤明けのウエンさんが入って来た。看護婦の仕事は肉体的にも精神的にもやりきれないことが多いのに違いない。やはり信仰心がない者にはとても勤まる仕事ではないとおもう。ウエンさんは仕事を終えるといつもここに来てお祈りをする。祈った後でアパートに帰るのだと以前ディーンが言っていたのを正樹は思い出した。実際にウエンさんがマリア像の足元で祈っている姿を目の当たりにするとディーンとノウミを母親代わりになって育ててきた迫力と優しさが伝わってきた。ウエンさんはチャペルの最前列で祈りを終えてから正樹たちのところに近寄り、いつものように優しい口調で二人に話しかけてきた。
「あら、二人ともここにいたの。ヨシオのお見舞いは済んだの?ディーン、学校はこれから?正樹は役所の手続きは進んでいますか?試験はいつだっけ?」
「来月です。あまり自信はありませんが、頑張ります。ディーンと同じ学校に入りたいですからね。」
「そうよ、試験に落っこちたりしたら、ディーンが悲しむわよ。頑張りなさいよ。」
「はい、何とかやってみます。」
「じゃあ、ね。あたしは帰って寝ますから。ディーン、今夜の夕食の支度は頼むわよ。」
ウエンさんは一度チャペルの出口まで行き、また二人のところに引き返して来た。
「ああ、そうそう、今日の午後、マニラ東警察の署長さんがヨシオに会いに来るって掲示板に大きく書いてあったわよ。何しに来るのかしらね?まだヨシオは昏睡状態なのにね、まさか逮捕する気じゃないでしょうね。」
「そう、あの署長さんが来るの。」
「あら、ディーン、知っているの、その人のこと。」
「ええ、この前、正樹と一緒に会ったわ。ヨシオのことで少しは責任を感じたのかな?結構、人は良さそうだったから。でも異例なことよね。警察署長ともあろう人がわざわざ路上生活者のヨシオのお見舞いに来るなんて、すごいじゃない。ねえ、正樹、あたしたちも後でまた見に来ない?」
「いいよ、あの署長がどんな顔をしてやって来るのか僕もとても興味があるよ。」
目をまんまるにしてウエンさんが言った。
「じゃあね、あたしはアパートに帰るわね。また今夜も夜勤だから、もう寝ないと。」
ウエンさんは二人をチャペルに残して先に帰って行った。
「正樹、あたしもそろそろ学校へ行かないといけないわ。正樹はどうする?何か予定があるの?あたしと一緒に来る?」
「今日はヨシオのそばにいることにするよ。それにさ、病院の中はエアコンがよくきいていて快適だからね。何だか今日は外の暑さには触れたくない気分なんだ。」
「そう、じゃあ、また後であたし、ここに来るわね。」
「ああ、行ってらっしゃい。また後でね。」
ウエンさんに続いてディーンも出て行ってしまった。正樹一人が病院のチャペルの中に残された。正樹は重大な問題について考えてみるつもりだった。それはヨシオが昏睡状態になり、長期間の入院が必要となってしまい、これからのここの支払いが次第に心配になってきていたからだ。アメリカナイズされた超近代的なこの病院の治療費は高い。病院の従業員であるウエンさんのパスを使って家族としてヨシオを特別扱いにしてもらったとしても、そのディスカウントには、所詮、限界がある。正樹は自分のお金が続く限り、ヨシオの為に病院の治療費を払い続ける覚悟はすでに出来ていた。しかし問題はその後の事だ。もし何ヶ月も、いや何年もヨシオの状態がこのままだとしたら、日本の父親にも相談しなければならないだろう。きっと日本にいる家族は見ず知らずの路上生活者の為に何故おまえがそこまでするのかと質問してくるだろう。答え方を考えておかないといけない。様々なことが頭に浮かんできていた。自分の学校だって考え直さなければならないだろう。医学部への夢もあきらめて、日本に帰って働かないといけないかもしれない。全ての事がヨシオの為に変わってしまう。でも正樹はそれでもいいと思っていた。まさか、ボラカイ島で初対面で殴りつけた茂木さんには相談は出来ないだろう。色々なおもいが脳裏をよぎっては消え、また現われた。正樹はいつしかチャペルの中で眠ってしまった。
半日近く経って、正樹はウエンさんの上司である親切な婦長さんによって起こされた。
「正樹さん、起きて下さい。警察署長さんがお見えですよ。起きて下さい。」
正樹が目を開けると、肥った婦長さんの後に続いて、顔の上に署長のあの顔が飛び込んできた。正樹はゆっくりと立ち上がり、簡単に挨拶をした。署長が先に口火を切った。
「先日はどうも、モンキーハウスから連絡がありましてな、あなたがヨシオをここに移したと聞いてびっくりしましたよ。今日は午前中に仕事を片付けましてな、ヨシオの具合を聞きに来た次第です。」
「ヨシオにはもう?」
「いや、まだです。」
「それでは病室までご案内いたしましょう。」
正樹と署長はチャペルを出て、中庭を歩き、病棟に入った。
「あいつ、一週間も意識が戻って来ていません。」
「そうか、それは気の毒なことをしたな、ちょっとお灸が効き過ぎてしまったようだな、本当に申し訳ない。」
「僕とヨシオが初めて会った時にはすでにヨシオは三日間も何も食べていなかったようです。それに二人連れの日本人に相当ひどく殴られていましたから、どこか打ち所が悪かったのかもしれません。」
病室に着き、署長だけが中に入った。署長はベッドの中で眠っているヨシオの顔をのぞいた。声をかけても返事などは返ってこない。ヨシオはただ眠り続けているだけだった。署長はしばらくヨシオのそばに座っていた。婦長さんが入って来たので、彼女に向かって二三の質問をした。
「ここの病院は立派ですな。それに設備もすばらしい。きっとお高いのでしょうな?」
「ええ、まあ、ここに来るみなさんはお金持ちの人ばかりですから、それなりの治療費はいただいております。」
「ところで、このヨシオの費用は誰が?」
「外にいる正樹さんですよ。」
「そうですか。」
署長は婦長を少しベッドから離れたところに連れて行き、小さな声で聞いた。
「ヨシオの具合はどうでしょうか?どのくらい、この状態が続くとおもわれますか?」
「私にも分かりません。何ヶ月、いや長い場合は何年もかかることがあります。」
「そうですか。」
それを聞くと署長は病室を出て、再び正樹のことを捜した。見回すと正樹は廊下の長椅子に座っていたので、署長も近づき、その隣に腰を下ろした。
「ヨシオは眠ったままでしたよ。正樹さん、ところで、あんたがここの高い病院の費用を出しているとお聞きしました。いくらあんたが日本人とは言え、この病院はこの国の最高峰ですぞ。治療費の方もそれなりに高いはずだが。」
「幸いなことに、ここで働いている知り合いがおりまして、ヨシオを家族として扱ってもらい、半額近くまでディスカウントしてもらっています。」
「それにしてもだな、ここはフィリピンにあってもフィリピンの病院とは違う、あまり日本の病院と変わらないでしょう。私は不思議でしょうがないんだ。何で、そんなにまで、あんたはするんだね。あなたはこの前、わしの所を訪ねて来た時に、ヨシオとはたまたま道で遇っただけだと言った。偶然に道で遇った浮浪者にこんな大金をどうして出せるのかね?それともあなたは余程の金持ちか何かかね?」
「いいえ、僕はちっとも金持ちでも何でもありませんよ。高校時代に働いて貯めた貯金がありましたので、それをここの支払いに充てているだけですよ。もし、ヨシオがこのまま眠り続けるならば、念願の医学部を断念して日本に戻って仕事を見つけます。」
しばらく二人の間には沈黙が続いた。次の言葉は署長からだった。
「正樹さん、わしに任せて下さい。ここの費用はわしが病院と話をつけますから、もう、君は心配しなくてもいいですよ。ただ、もし、ヨシオが回復したら、彼の面倒をしばらく見てやってはくれませんかな。」
「ええ、それはもちろん大丈夫ですよ。」
「しかし、あんたみたいな日本人は初めてだよ。変わったお人だ。まったく正樹さんは変わったお人ですよ。学校はあきらめたらいけませんよ。立派な医者になってください。いいですか。では、私はこれで失礼します。あなたに逢えて、本当に良かった。またお会いしましょう。」
警察署長は姿勢を正して正樹に向かって最高級の敬礼をした。正樹も同じ様に真似をして敬礼をした。正樹はあまりにも突然の申し出にまだ頭の中が混乱しており、きちんと署長にお礼も言えずにいた。正樹は署長の真似をして不恰好な敬礼をするのが精一杯だった。それが正樹の感謝の印だったのだ。この署長との出会いも正樹の人生を大きく変えていくこととなった。
祈り
祈り
マニラ東警察署の署長がヨシオの見舞いにやって来たことはすぐに病院中の噂になってしまった。どこにでもハイエナのようなジャーナリストはいるもので、マークというマニラブリテン新聞と関わりのある青年が正樹の前に現われた。署長がヨシオを見舞ったその夜のことだった。ヨシオの病室でディーンと話をしているところに、マークはひょっこりと現われた。是非、取材をさせてくれないかという申し出であった。正樹は今はまだヨシオが昏睡状態であることを理由に丁寧にその申し出を断った。もし署長からの治療費の援助の話がなければ、ヨシオのことを公にして募金でも募ったところだろうが、その必要がなくなった以上、ヨシオのことは今は静かにしておいて欲しかったのだ。
病院からの帰り道、ディーンはほっとして正樹にこう言った。
「でも良かったわ、署長さんが病院の費用を払ってくれると言ってくれてさ。だって、あたしさ、正樹があの子の為に全財産を使ってしまうのかと、ウエン姉さんたちと心配していたのよ。たまたま街で会った見ず知らずのヨシオの為に正樹が自分の将来まで捨てる気じゃないかと、みんなで、はらはらしていたのよ。」
「だけどね、ディーン。人間のさ、最高の生き方って何だろうね。もっと極端に言うと、最高の死に方は見ず知らずの人の為に死ぬことだと僕はおもうな。自分を愛している人の為に死んだって、それは当たり前のことだよ。そうでしょう。分かりやすい例を挙げるとさ、例えば、車とか電車に引かれそうな子供がいたら、そこに飛び出して行って、その子供を突き飛ばしてさ、子供だけを助けて、自分は死んじゃうケースさ。見事だよね、そんな死に方が最高だと僕はおもうんだよ。更にもっと凄い死に方はさ、自分のことを嫌っている人の命を助けて、身代わりになって死ぬことだよ。自分のことを憎んでいる人の為に死ねたら素晴らしいだろうね。ディーン、もし、僕がヨシオの為に僕の全てを与えることが出来たとしたら、それは最高の生き方じゃないのかな。ヨシオは初めて会ったばかりの見ず知らずの子供だ。僕にとっては赤の他人だし、しかも、ヨシオは日本人の父親から捨てられて、徹底的に日本人を憎んでいるはずだ。その日本人を嫌っているヨシオの為に日本人である僕が自分の将来を捨てたって、それはそれで本望じゃないか。そうじゃないか、偉そうだけれどね。」
ディーンは 正樹の言っていることがよく分からなかったが、何でも自分のことを後回しにして考える正樹のことをとても愛おしくおもった。アパートに帰って、皆に署長からヨシオの病院の費用の援助があったことを伝えると、誰もが喜んでくれた。特にウエンさんは涙を流してそのことを喜んでくれた。何て優しい人なのだろうと正樹はまたおもった。
次の週、ヨシオは集中治療室から一般病棟に移された。まだヨシオは意識が回復してはいないので、ナースステーションのすぐ隣の部屋に生命維持装置とともに引っ越しをした。
まるで病院の威信をかけたような個室の完全看護の体制がとられた。どうやら先日の警察署長の訪問とジャーナリストの出現からヨシオは特別扱いの患者となってしまったみたいだ。近代的な病院の内部とは打って変わって、ヨシオの病室の窓の外は現実の世界だった。通りを隔てて向こう側には粗末なバラックがびっしりと立ち並んでいて、早朝から深夜までとっかえひっかえ、あちらこちらの家からステレオの音がボリュームを目一杯上げて鳴り響いていた。正樹はヨシオの病室で夜を過ごす回数が次第に増えてきていた。ある夜、ヨシオのそばでディーンと話をしていると窓の外からステレオの音に混じって「バルーウ」
「バルーウ」と言う声が聞こえてきた。ディーンは平気な顔をして話を続けていたが、正樹にとっては初めて聞く声だった。
「何だい、あの声は、バルーウ、バルーウって言っているけれど、何かを売り歩いているのかい?」
ディーンはうつむき加減になって、くすくす笑いながら言った。
「あれはね、アヒルの卵を孵化させる途中で止めちゃうのよ。そうすると殻の中には雛と玉子が両方、半分半分の姿で残っているの。あれを食べると玉子と雛を一度に食べたことになるわね。おまけに精力がつくから、おもにああやって夜に売り歩くわけなの。あのバルーウと言う声が聞こえるとみんな何故かそわそわしてくるわ。男も女もこの国の人々は皆バルーウが大好きなんだから。」
「なんだか、それ、気持ちが悪いな。殻を割ると羽とか頭が出てくるの?おまけにまだ玉子状態のどろどろで?口ばしもあったりして、うわーあ、気持ちが悪い食べ物だな。」
「でも本当においしいのよ。まず小さな穴を開けて、そこから中の汁をチューチューとすするのね、吸い出すわけよ。それが絶品なの!なんとも言えないおいしさなんだから。試しに買って来てあげましょうか?」
「いらない!僕は結構です。そんな残酷な食べ物はいりません!もし、君が欲しければ、勝手にどうぞ。」
両腕に大きなカゴを持った子供がだんだんと近づいて来た。そのカゴの中には布が入っており、布に包まれるようにバルーウが入っているらしかった。その使い込んだ売り子の喉からは遠くまでよく通る声が出ていた。日本では見かけなくなった金魚売の声に似ていた。ディーンが消毒用のアルコールを付けたガーゼでヨシオの顔や腕を拭き始めた。バルーウ売りが病院のすぐ窓の下を通り過ぎようとした時、ひときわ大きな「バルーウ」の声が室内に飛び込んで来た。奇跡は其の時起こった。「バルーウ」の声にヨシオの腕が反応したのだった。
「正樹、見てよ。今、動いたわよ。バルーウの声に合わせてヨシオの腕が動いたの!」
正樹はヨシオの耳元に近づき、そっと声をかけた。
「ヨシオ、おれだ。もう起きろよ。バルーウを食べに行こうぜ!バルーウを食べに。」
ヨシオの腕がまた動いた。慌ててディーンは椅子から立ち上がり言った。
「あたし、お医者様を呼んでくるわね。」
そう言い残して、ディーンは隣のナースステーションに駆け込んで行った。ディーンが部屋の扉を開けっぱなして行ってしまった後、正樹はもう一度、ヨシオに声をかけてみた。人間の生と死はいったいどこで誰が決めているのだろうか。お医者様やディーンが言うようにやはり神様がいて、運命を決めているのだろうか。正樹は誰でもいいから、ヨシオの命を返してくれと叫びたかった。天国だか地獄だか知らないが、もしその入り口にヨシオがいるのならば、どうかそこからヨシオを救い出してくれと必死に祈り続けた。祈り方も知らない正樹だったが、ベッドの下にひざまずき、じっと彼なりに目を閉じて祈った。全ての神々にただひたすら祈り続けた。短い時間だったかもしれない、でもそれは正樹にとってはとても長く感じられた時間だった。ベットの上を見上げるとヨシオがぽかんと大きな目を開けて正樹の方を見ているではないか。正樹は立ち上がり、しっかりとヨシオのことを見た。
「ヨシオ、おまえ、やっと目を覚ましたのか。バカヤロウ、心配かけやがって!」
「兄貴、今、バルーウを売りに来なかったか?」
「ああ、来たよ。」
「前に俺も売り歩いたことがあるんだぜ。売れ残ったものをもらって、食べるのが楽しみなんだ。バルーウはおれの大好物だよ。」
「そうか、大好物か、良くなったら、幾らでも食わせてやるからな。そうだよな、あれはとても、うまいからな!おまえの好きなだけ食え!」
涙が自然に流れ出ていた。正樹は日本男児ではあったが、出てくる涙をどうしても止めることは出来なかった。泣きたい時には泣いてもいいんだ。恥ずかしいことなんかない、泣いたらいいんだ。と自分に言い訳をしながら泣いた。
「兄貴、何で泣いているんだい?ここは一体どこなんだ?モンキーハウスじゃあないみたいだけれど、それに、こんなにふわふわのベッドも俺は初めてだよ。どこなんだい、ここは?そうか、天国か。天国だとすると兄貴はやっぱり俺の天使様だったんだ。」
「天使なんかじゃないよ。ここは病院だよ。おまえは何日もずっとここで眠り続けていたんだよ。ほれ、おまえと約束したTシャツと靴もここにちゃんと買っておいたからな。少し大きめだが、すぐにおまえが大きくなるから、しばらくは我慢して着てみろよ。売ったりしたら承知しないぞ!いいな。」
「ああ、兄貴が選んでくれたんだ。文句は言わないよ。大切にする。」
「ヨシオ、おまえ、海に行ったことはあるか?」
「ああ、あるよ。いつも海で体を洗っているからな。」
「違う、違う。マニラ湾じゃなくて、大きな青い空と海があって、そしてどこまでも続く白い砂浜があるところだ。息も止まるほどきれいな海だよ。」
「それじゃあ、おいらはまだ行ったことはないな。」
「よし、おまえをそこへ連れて行ってやるからな。飛行機も乗せてやる。」
「本当かよ、飛行機なんて、おいら、死ぬまで乗れないとおもっていた。やっぱり兄貴は凄いぜ!何でも出来るんだな。」
ディーンがお医者様と婦長さんを連れて戻って来た。開け放たれた扉の中から信じられない光景が三人の目に飛び込んで来ていた。正樹とヨシオが楽しそうに話をしているのが廊下からでもよく見えた。ディーンの目には熱いものがすぐにいっぱいになり、いまにも溢れ出しそうだった。胸の奥からも熱いものが突き上げてきていた。お医者様と婦長さんもすぐには病室には入ることが出来なかった。ただじっとベッドの上で話をしている二人の様子を見つめていた。
ディーンはくるりと振り返り、中庭に出た。それからチャペルに飛び込み、誰もいない最前列に進み出て、マリア像の足元に口づけをしてから、深い感謝の祈りを始めた。閉じたまぶたからは涙がとめどなく流れ落ちていた。
サムライ魂
サムライ魂
ヨシオの回復は早かった。また生きることに何か目的を見つけたようで、もうモンキーハウスでうずくまっていたヨシオとは完全に違っていた。何でこんなに幸せなんだ。ヨシオは小さな頭でそのことを考えていた。今まで食うことばかり考えていて、自分ひとりが食えればそれで良かった。自分を捨てた父親と同じ日本人を何人も騙して復讐しても、ちっとも幸せなんか感じたことはなかった。ところが兄貴に逢ってからは何かが変わってしまった。心から兄貴の為に何かをしたいとおもうようになってきていた。あまり難しいことは分からないけれど、日本のサムライが主君の為に死ぬことで生きる証を見つけたように、殺伐とした世界で生きてきた者たちは誰かの為に死ぬことで生きる道をさがすのかもしれない。そうなんだ、おいらの主君は兄貴なんだ。ヨシオは自分にもサムライの血が流れていると感じていた。「武士道とは死ぬここと見つけたり。」前に街の映画の看板か何かで見たことがあるその言葉をヨシオは勝手に自分なりに解釈していた。おいらもサムライになって兄貴の為に死ぬんだ。戦国時代や極道の世界、そしてマニラの混沌としたドロドロした世界には共通しているところが多々ある。人間はどうしようもない環境に置かれると、群れをなしてリーダーを選び、そのボスの為に自分自身を犠牲にすることを最高の美徳と考えるようになるようだ。だから悪いボスを選んでしまうとサムライ魂がどんなに崇高であったとしても、その死は無駄になってしまう。
ウエンさんはヨシオの病室の直接の担当ではなかったが、手が空いた時はいつもヨシオの様子を見に来ていた。意識が無いと時も意識が戻ってからも、まるで自分の子供のように面倒をみていた。ウエンさんのやさしさはヨシオがすっかり忘れてしまっていた母親のやさしさだった。兄貴のような正樹、姉さんのような美人のディーン、ヨシオはもう独りぼっちではなかった。また生きる力がどんどん湧いてくるのを感じていた。そして、住み心地のよい病院から出る日がやって来てしまった。ヨシオは退院することになった。本当は退院なんかしたくはなかったのだ。このままずっと、このきれいな病院でやさしい人々に囲まれていたかった。でも兄貴が海に連れて行ってくれると言うから、ヨシオは退院する気になったのだ。どうしても心残りなのはウエンさんのことだ。母さんのようなウエンさんと離れるのがとても辛かった。ケソン市のアパートへは行かずに病院から直接、飛行場へ行くことになっていたので、しばらくはウエンさんには会えなくなってしまう。ヨシオはそのことだけが寂しかった。ヨシオが病院を出る時、正門のところでウエンさんはヨシオのことをぎゅっと抱きすくめた。ヨシオはみんなが見ているので少し恥ずかしかったが全身に伝わってくるウエンさんのあたたかな愛情を感じた。ホームレスの少年の退院にしてはとても豪華で多くの病院関係者がヨシオを見送るために玄関に集まった。その中に柱の陰からこっそりとカメラのシャッターを切る新聞記者のマークの姿もあった。正樹は見送りの人々に丁寧なお礼を言ってからヨシオと車に乗り込んだ。飛行場までの車の運転は親切にもウエンさんのボーイフレンドがやってくれることになった。ヨシオは車の窓からお世話になった人たちに手を振って別れを告げた。
車は国内線のエアポートではなく民間が経営する小さな飛行場に向かっていた。小型機でボラカイの海の上に着水する方法を正樹は敢えて選んだのだった。正樹は海に飛行機が着水する時のヨシオの喜ぶ顔が見たかったのだ。マニラ市内の交通渋滞は激しく、ナンバープレートの末尾の番号が偶数か奇数かで隔日で市内への車の乗り入れを規制したり、朝と夕方などは八車線ある大通りなどでは交差点に警官が立ち、二車線と六車線というように反対車線にも車をどんどん回したが、一向に渋滞は解消されなかった。運悪く、この日も渋滞に正樹たちの車は巻き込まれてしまった。飛行機の出発の時間までに到着することは不可能な状態となってしまった。しかし正樹はまったく心配はしていなかった。何故なら、飛行機の乗客は正樹とヨシオの二人だけだったからだ。多少の時間の遅れはパイロットも計算にいれているだろうから正樹は安心していた。ところが車を運転しているウエンさんのボーイフレンドは何度もさっきから時計を見ながら冷や汗をかいていた。正樹は焦る必要はないので、安全運転をするようにと何度も後部座席から声をかけたが、彼は車を歩道に乗り上げたり、反対車線を走ったりと乱暴な運転を止めなかった。斜め前が少しでも空こうものなら、さっと車線を変更して平気で割り込んだ。割り込まれた後ろの車は当然クラクションを鳴らした。これで事故にならない方がおかしいくらいだ。もう一度大きな声で安全運転をするように怒鳴ったが、まったく乱暴な運転を止める気配すらなかった。運転手は何度も時計を気にしていた。急ぐ必要はないと説明しても変わらなかった。もしウエンさんの友達でなければ、車から引きずり降ろして張り倒していただろう。だいぶ後になってから分かったことだが、この運転手は耳が聞こえない障害者であった。何とか正樹たちを飛行機に乗せようと懸命に運転していただけだったのだ。
飛行場に着くと、係りの者がすぐに二人を見つけてすっ飛んで来た。パイロットがしびれを切らせて待っているから、飛行機へそのまま急いで下さいと言われた。引っ張られるようにして飛行機へと案内された。途中、敷地内に幾つか飛行機が並んでいたが、どの飛行機もおんぼろで、どれ一つとしてまともなものはなかった。正樹はだんだんと不安になってきていた。やはり大きな飛行機にすればよかったと後悔し始めていた。ヨシオは初めての飛行機とあって、いささか緊張気味で口数も少なかった。正樹もこれから乗り込むであろう小型機を目の前にした時、違った意味で緊張感が走った。自分たちが乗る飛行機もさっき途中で見かけた飛行機とあまり変わらなかったからだ。
座席に着くとパイロットが後ろを振り返り、挨拶代わりにロープを指差して、それで座席に体を括り付けるようにと指示を出した。シートベルトが壊れていたからだ。正樹は乗り込んだらすぐにパイロットに自分たちの遅延を謝罪するつもりだったが、あまりの恐怖の為に言いそびれてしまった。小型機はすぐに動き出した。まだヨシオのことをそのロープで縛っているというのに、おかまいなしである。機体はガタガタと大きな音を立てながら滑走路に向かって動き始めた。確かに飛行機は空を飛ぶ為のものだが、地上を走る時にこんなにも音を立てていいものかどうか、正樹には幾つものボルトが外れているような気がしてならなかった。あっという間に離陸準備が終了してしまった。正樹も急いでロープで体を固定した。ディーンのお祈りの教本を借りてくればよかったと正樹は心底そうおもった。
「ヨシオ、お前、お祈りの仕方を知っているか。もし知っていたら、俺たちが無事にボラカイ島に着けるように祈ってはくれんか。」
「兄貴、お祈りなんか知らないよ。何だか、兄貴、飛行機は恐いな。」
パイロットがまた振り返ってニヤリと笑った。正樹はその表情がまるで占いのタロットカードに出てくる死神のように見えてしまった。飛行機はかなり長い間、全力疾走してやっと空に舞い上がった。離陸するとあのガタガタする音は消えていたが、今度は風が機体の隙間からビュービューと音を立てて襲ってきた。正樹はあまり死神が調子に乗って高度を上げないことを願った。
「兄貴、海に行くのに飛行機に乗るなんて、やっぱり兄貴は凄いぜ!やることがでかいや。おいらは飛行機なんて絶対に乗れないとおもっていたからね。少し恐いけど、感激だぜ。」
「ヨシオ、空の上から見るボラカイ島がまたきれいなんだ。ひょうたん形をしていてな、島中に白い砂浜がたくさんあるんだ。その中でもホワイトサンドビーチはでかいぞ。四キロメートルも白い砂浜が続いている。」
「兄貴の話を聞いているだけで、とても幸せな気分になってくるぜ。やっぱり兄貴は天使様だぜ。」
「ヨシオ、お前、日本語を覚えたくはないか。お前の父さんの言葉だ。」
「うん、覚えたいよ。別に父さんの言葉だから覚えたいんじゃないさ。日本人とまともに喋れればお金が儲かるからな。だから覚えたいんだ。」
「それじゃあ、お前が日本語が出来るようにしてやるよ。」
「兄貴が教えてくれるのか。そいつはありがたいや。」
「違う、俺じゃない。ちゃんとした先生がボラカイ島にいるんだ。すごく立派な人だよ。俺が尊敬する人だよ。」
「でも、おいらは兄貴がいいや。その人がどんなに偉い人でも関係ないな、おいらは兄貴から教わりたいんだ。」
正樹は話を急ぐことを止めた。話題を切り替えた。ヨシオとボラカイ島へ行く本当の理由はまだ言わないほうが良いと判断したからだ。ヨシオが聞いてきた。
「お姉ちゃんは何で一緒に来なかったんだ。兄貴たちはいつも一緒だっただろうが。」
ヨシオは正樹のことを兄貴、ディーンのことをお姉ちゃんと呼ぶようになっていた。
「ディーンは学校があるからな。勉強することは大切な事だからな。だから来れなかった。」
「おいらは学校なんか一度も行ったことはないよ。稼ぐのに忙しくて、そんな時間はなかったからな。」
「でも、ヨシオは学校へは行きたかったか?」
「そりゃあ、行きたかったさ。」
しめたと正樹は心の中で呟いた。学校へ行きたくても行けなかったという辛さにずっとヨシオは耐えてきたんだ。正樹は学校の敷地の中で同じ年代の子供たちがきゃあきゃあ遊んでいる様子を横目で見て生きてきたヨシオの気持ちが分かるような気がした。
「ヨシオ、大きくなったら、何になりたい?」
「おいらは兄貴の手伝いがしたい。」
「それはありがたいな。」
「おいらは兄貴の為に死ぬ覚悟はもう出来ているよ。兄貴の言うことなら何でもやるつもりだよ。」
「それは嬉しいな。俺がアフリカへ行くと言ってもついてくるか?」
「ああ、もちろんだよ。どこへでも行くよ。兄貴はおいらの将軍さんだからな。」
「お前、まるでサムライみたいなことを言うな。ヨシオにはやはり俺と同じ日本人の血が流れているようだな。」
「そうだよ。おいらの先祖はサムライさ。だからおいらは兄貴にどこまでもついていくよ。兄貴のそばがいい。」
正樹はまずいなとおもった。これではボラカイ島にヨシオ独りをおいて自分だけマニラに帰れるかどうか心配になってきた。ボラカイ島の青い空と青い海、そして茂木さんの豪邸がヨシオの興味をどれだけ引き付けてくれるのかが頼みだ。ヨシオがボラカイ島を好きになってくれることを正樹は願った。マニラからボラカイ島までの飛行時間はあっと言う間だ。すでに機体は高度を徐々に下げ始めていた。
「ヨシオ、下を見ろ。あの島がボラカイ島だ。」
「うわー、何ってきれいな所なんだろう。兄貴、やっぱりあそこは天国だよ。」
「天国になるか、地獄になるかはお前の心がけ次第だよ。ヨシオ、いいか、どんなに素晴らしい所にいても、そこの良さが分からない奴にはいつまで経っても分からないものだ。どんなにひどい環境にいても、そこの良さを見つけ出して立派に生きている者もいる。大切なことはな、どこにいても悪い事だけに目を向けるのではなく、小さなことでもいいんだ、そこの良さを発見しながら一生懸命に生きることが大切なんだ。人間関係にしても同じだ。相手の欠点ばかりを見ていてはいけない。相手の良いところを見つけるようにすれば必ずうまくいくもんだ。」
「兄貴は哲学者か?」
「いや、違う。でもお前に茂木さんという本物の哲学者を紹介してやるからな。ヨシオ、あの岬を見てみろ。見えるか?あそこだ。」
「ああ、見えるよ。でかい家があるぞ。」
「あそこに俺たちはこれから行くんだ。」
「本当かよ、そりゃあ、すげえや!さっきまで居た病院のベッドがおいらにとっては最高の場所だったのに、今度はあんなすげえ家に泊まるのかよ。仲間に話したらぶったまげるぜ!どうなっちまったんだ、おいらは。やっぱり夢でも見ているのかな。」
飛行機は急降下し始めた。また死神が後ろを振り向きニヤリと笑った。そして次の瞬間、機体はボラカイの海に斜めに着水した。激しい揺れと衝撃が全身に走った。歯がガタガタぶつかりあって危うく舌を噛むところだった。もう二度と、この飛行機には乗るまいと正樹は心に誓った。こんな体験は一度でたくさんであった。
誘惑
誘惑
ボラカイ島の豪邸では着々と子供たちを受け入れる準備が進んでいた。茂木とボンボンは島の人々との触れ合いを大切にしていたので、あらゆる島の行事には進んで参加していた。家の事は菊千代とリンダが中心になり、以前からこの家の管理を任されていた人々もそのまま残ってもらい、一緒に広大な敷地と屋敷に磨きをかけていた。ボンボンの弟のネトイは相変わらずで、毎日ふらふら何をするでもなく、自由気ままに暮らしていた。しかし彼の存在は非常に大きく、ただ彼が居るだけで屋敷全体が明るくなった。皆それぞれ忙しく希望に満ち溢れた生活をしていた。双子の千代菊一人だけが島に来てからもしょんぼりしたままで、まだ京都の生活が忘れられないのか、彼女の心は日本に置いたままのようだった。ボラカイ島の魔力はまだこの千代菊だけには効いていなかった。茂木は海を見ながら泣いている千代菊の姿を見るのがとても辛かった。双子のもう一方の菊千代の方は茂木のことを子供の頃から好きだったから、茂木のそばにいるだけで幸せだった。同じ顔をしていても千代菊はいつまで経っても日本のことばかり考えているようで、まるで人形のようにいつもぼんやりしていた。そんな千代菊に少し変化が現われたのは島に来てから二ヶ月が過ぎた時だった。リンダと一緒に市場へ買い物に行くようになってから次第に表情が明るくなってきた。リンダに言わせると千代菊が変わったのは市場で魚を売っているハイドリッチという青年のせいだそうで、二人で市場の彼の店へ行くと千代菊はなかなか帰ろうとしないのだそうだ。だからリンダは千代菊をそこに預けておいて自分ひとりで買い物を済ませるのだと嬉しそうにぼやいていた。ただ千代菊のおかげで新鮮な魚が安く手に入ることだけは大助かりだとリンダは言っていた。それを聞いた茂木は大いに喜んだ。胸につかえていたものがすっと取れたような気がした。そしてマニラから正樹がヨシオという子供を連れてやって来るという連絡も入り、茂木はボラカイの家が段々と活気づいてくるのを感じていた。人は多ければ多いほど問題も増えるが、喜びの数もそれ以上に増えるものだと茂木はおもっている。茂木は正樹たちの到着を楽しみに待っていた。
真っ青なボラカイの空の切れ目からエメラルドブルーの海へおんぼろ水上飛行機が斜めに着水した。無事に到着したのを見て、島から一掃のボートがその飛行機に向かってゆっくりと浜を離れた。どうやらその水上飛行機は海の上を上手に移動する能力はもうないらしく飛行機の乗客をそのボートに移し変えるつもりらしかった。
千代菊は丁度その時、海の上にいた。正樹がやって来ることを知らされていなかったので、近くにいてもその飛行機から出て来た乗客が正樹であると想像することすら出来なかった。それに彼女はそれどころではなかったのだ。海の上でデートの真っ最中だったからだ。魚屋のハイドリッチは自分の船を持っていたから、その日も千代菊と一緒に市場の店で売る魚を釣っているところだった。
正樹の再来を聞いて何と言っても一番喜んだのはリンダであった。正樹が到着すると聞き、朝早くから豪華な晩餐の準備に取り掛かっていた。ケソンのアパートに居た頃とはまるで違い、食事の予算も桁違いに大きくなっていたので、リンダの腕もだいぶ上達していた。おまけに何人もの手伝いの人たちを使って豪邸の家事を切り盛りしていたので、自ずと自信が出てきており、以前のリンダとはまったく別人のようであった。ぼろぼろのTシャツを着ていたお手伝いのリンダは完全に姿を変えており、小柄ではあるがもう子供のような仕草はすっかり消えて、十分に男どもを引き付ける魅力で溢れていた。もう、すっかりダイナマイトボディーに成長していて、色っぽさでは誰が見てもディーンよりも勝っていた。
正樹とヨシオはおんぼろ飛行機から迎えに来たボートに移り、岬の豪邸のすぐ下の浜にボートをそのままつけてくれるようにと船頭に交渉をした。初めは少しびっくりしていた船頭だったが、正樹の依頼を快く引き受けてくれた。今、この島で何かと話題の多い屋敷だったからだ。
「ヨシオ、どうだ、この島の第一印象は、どんなだ?言ってみろよ。」
「きれいだ。」
「それだけかよ、他に何とか言えよ。」
「きれいだから、きれいだと言っているんだ。他に、兄貴、言いようがないよ。こんなにきれいなところが、この国にあるなんて知らなかったよ。ここはおいらの国だよな。」
「そうだよ。ここはお前の母さんの国だからな。お前の国でもあるわけだ。いいか、ヨシオ、お前の国にはこんなにきれいなところが、他にもまだまだ、たくさんあるんだぞ。」
「知らなかったよ。おいらはゴミばかりのところで暮らしてきたから、こんなに眩しい世界があるなんて想像も出来なかった。本当にきれいだよ。兄貴。」
ボラカイの海の水平線は鮮やかに弧を描いている。確かに地球は丸いのだということを強烈に実感することが出来る。その水平線を背にボートは静かに岬に近づいて行った。
浜で手を振っている人の姿がだんだんと大きくなってきた。きれいな女性が手を振ってボートを歓迎してくれていた。リンダはテラスから水上飛行機が着水する様を一部始終見ていたのだ。正樹は浜で手を振っているのがリンダであることに気づくのに少し時間がかかった。その美人がリンダだと分かると慌ててボートの上で立ち上がり正樹も大きく手を振ってリンダの歓迎に答えた。見上げると白い雲が群がるように高く浮かんでいた。それは昔、東京にもあったような雄大な入道雲だった。ゆっくりと雲もボートも時間も流れていた。
「ヨシオ、分かるか。この島の良さが、時間の流れ方がまったく違うんだな。」
「兄貴、そんなことわかんねえや。それより、あそこで手を振っている美人は誰だい?」
「リンダだよ。」
「あれは普通の出迎え方じゃあないな。やばいんと違うか?このことを姉さんが知ったら大変なことになるぞ。」
「バカたれ!余計な心配はするな。あの人はリンダといって俺たちの仲間だ。お前、この島では、いいか、あのリンダの言うことをちゃんと聞けよ。彼女の言うことはこの俺の言葉だとおもえ!分かったな。」
「分かったけれど、兄貴、何だか変な言い方をするなよ。おいらを置いて一人で帰るような言い方はやめてくれよな。おいらは兄貴から絶対に離れないからね。」
慌てて正樹は話をそらせた。
「ヨシオ、お前、泳げるか?」
「いや、泳げない。」
「そうか、じゃあ、このまま、このボートで来い。俺は泳いで浜まで行くからな。このバックを忘れずに持ってきてくれ。いいな。」
「兄貴、そのバックは大切なものではなかったのか。」
「そうだよ。大切なものだ。だからお前に預ける。頼んだぞ。」
「分かった。」
正樹はボートの先端までよろよろ手摺りにつかまりながら進んで、そのままの格好で海に飛び込んだ。中学の時、所属していたクラブは剣道部だったが、夏場は記録が優れている者だけを集めて特別に水泳部がつくられた。正樹も夏場は二つのクラブを掛け持ちしていたから少しは泳ぎには自信があった。しかし泳ぎ始めてから気がついたのだが、プールと海ではやはり勝手が違っていて、海ではなかなか前には進まなかった。それでもなんとかボートよりは速く泳ぐことは出来たが、あまり差はなかった。
浜で手を振っていたリンダは正樹がヨシオから話題をそらせる為にボートから飛び込んだことを知らない。そんなリンダは正樹が飛び込むのを見てとても嬉しかった。そんなにまでして、あたしに早く会いたかったのかと勘違いをしてしまった。
ボラカイの海はきれいで人々を悩ましくさせる力があるのだ。リンダはその魔法に完全にかかってしまった。豪邸の最上階の書斎の窓からは茂木がその様子を見ていた。
その夜、ヨシオはこの家のスタッフ全員に茂木から紹介された。その後、正樹は病み上がりのヨシオを早めに大きな寝室に寝かしつけてから、久しぶりにネトイと飲むことになった。広い庭に出て、炭をおこし、ネトイと二人だけのバーベキューを楽しんだ。千代菊の差し入れである新鮮な魚介類を焼きながら、月の光の下で飲むのは格別であった。気の合ったネトイと飲むビールの味も最高であった。ただ彼と飲むといつも決まって何かが起こるのが正樹は恐かった。それは偶然の一致だとはおもうのだが、正樹は今夜も何かが起こりそうな予感はしていた。月の光が何かを誘っていた。この前もそうであったが、正樹は酔うと無性に海が見たくなった。今夜もまた階段をよたよや降りてプライベートビーチへ独りで降りて行った。海が見たくなる理由の一つには海に向かってこっそり小便をすることもあった。さっき島に着いた時には気づかなかったが、誰もいない浜のはずれに犬小屋が新しく作られており、この前、ここに来た時には確かになかったものだ。三頭の大型犬が小屋の中からうなり声を上げながら、正樹のことを睨み付けていた。犬たちはまだ正樹のにおいを覚えていないのでウーウーと低い威嚇の声を上げながら身構えていた。何とか友達になろうとやさしい声で自己紹介をしてはみるものの、そう簡単に手懐けられる相手ではなかった。ドーベルマンはただの番犬と言うよりは、むしろ生きている兵器と言った方が正しい。再び正樹が声をかけようとすると、犬たちは大声で吠え始めてしまった。もう正樹にはどうすることも出来ない。後ずさりして、浜で困っていると、階段を足早に下りてくる人影があった。次の瞬間、月の光がリンダの姿をくっきりと浮かび上がらせた。リンダが犬小屋の所へ行くと犬たちは嘘のように静かになった。正樹がマニラに帰っている間にドーベルマンたちはすっかりリンダの忠実な僕になっていたのだ。再び静寂が浜に戻って来た。浜には正樹とリンダの二人だけだった。
「犬の声がしたから、あたし来てみたの、やっぱり正樹だったわね。」
なかなか話が続かない。どうしても途切れてしまう。こんなことは以前にはなかったことだ。リンダとは初対面の時から気楽に何でも話が出来たのに、今夜はまるで魔法にかかったようだった。正樹がぎごちなく砂浜に腰を下ろすと、リンダもすぐ隣に座った。月の光が波の中に溶け込んで、南国特有の甘い情緒が二人だけの砂浜に満ち溢れていた。
「この前、僕が来た時にはそんな所に犬小屋なんかなかったよね。」
「ええ、屋敷の裏側にあったのをここに移したのよ。海からの侵入者を警戒する為に茂木さんが指示を出して移させたの。」
「あの犬たちは前からここにいたの?この前、僕が来た時には気づかなかったけれど、前からいたのかな?」
「ええ、ホセの犬たちだったみたいね。犬たちも家と一緒にあたしたちが引き取ったのよ。」
「そうなんだ。でも、さっきみたいにさ、あいつらはもうリンダの言うことをちゃんと聞くんだね。凄いね。」
「そりゃあ、そうよ。だって毎日餌をやっているのはこの私ですからね。」
「でも、あの犬小屋の位置は良くないな。階段の途中に移した方がいいよ。茂木さんにも明日になったら言ってみるけれど、もし大きな波が来たら、あそこだとひとたまりもないからね。犬たちがかわいそうだ。」
「そうね、ツマミが来たら、みんな波に飲み込まれちゃうものね。」
「ツマミじゃなくて、ツナミだよ。ツナミは日本語が英語になった言葉だよ。」
「ツナミ?」
「そうツナミが正しい。」
正樹は次に何を話そうか考えていた。やはり、静かな月夜の砂浜にこうして美しい女性と二人っきりでいると気持ちは自然と高ぶってくるものだ。それは正樹に限ったことではないはずだ。話が途絶えたまま、しばらく時間は流れた。リンダが突然すっと立ち上がり、着ているものをすべて脱ぎ捨てて、海に向かって走り出してしまった。砂浜をつま先立てて走り、そのまま海に飛び込んだ。リンダの水浴びをしているその姿は月の光に照らされて素晴らしくきれいだった。両手で髪をそいで横を向いたリンダの体の線は反り返り、その均整のとれた裸体の誘惑に勝てる男なんかこの世の中にはいるものかと正樹は正直にそうおもった。リンダが水浴びを終えて浜に戻って来ても、ただじっと自分はしていられるのだろうか、もちろん正樹にはそんな自信などはまったくなかった。かと言って、このまま黙ってこの場を立ち去れば間違いなく彼女は傷つくだろうし、悲しみのあまりにそのまま海に沈んでしまうことだって考えられる。どうしたらよいのか正樹には判らなかった。自分も海に飛び込んで少し沖まで泳いで行って、彼女が衣を身に着けるまで沖で立ち泳ぎ
でもして待とうか、それとも別の浜まで泳ぎ切ってしまおうか。それなら彼女も傷つかなくてすむだろう。だがさっきからだいぶ飲んでいるから、それは大きな危険が伴う。酒を飲んで泳ぐことほど無謀なことはないからだ。それにこの海の潮の流れも分かっていない以上、そんなことは出来るはずはなかった。突然、ディーンの声がどこからともなく聞こえて来た。
「正樹、用が済んだら、さっさとマニラに帰って来ること、いいわね!」
だけど俺はまだ独身だし、誰に気兼ねをする必要があるのだ。と正樹がおもった瞬間、またディーンの自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。正樹はリンダが海から上がって来る前にどうするか早く決めなければならなかった。
南の島に月の光がふりそそぐ夜は、皆さん、ご注意あれ!
南の島は誘惑で満たされているから。
洗濯
洗濯
翌朝、正樹はヨシオの声で目が覚めた。リンダが汗臭くなったヨシオのTシャツを脱がそうとしてヨシオを屋敷中追い掛け回していたのだ。それを嫌がるヨシオの声で正樹はボラカイ島の朝を迎えた。もう豪邸の人々はネトイを除いて皆それぞれが各々の仕事を始めており、正樹は遅くまで寝ていた自分を少し恥ずかしくおもった。ヨシオとリンダが勢いよく正樹の寝ている部屋に飛び込んで来なければ、ネトイと同じ様に昼過ぎまで眠っていたかもしれない。まずリンダの朝の挨拶が正樹のまだ目が覚めていないオツムにずしんと突き刺さった。
「おはよう、正樹。よく眠れた?」
リンダの明るい挨拶は正樹の気持ちを逆に暗くした。今度はヨシオの番だった。
「兄貴、いつまで寝ているつもりだい。もう起きろよ。この兄貴からもらったTシャツはまだきれいだと言っているのにさ、このお姉ちゃんはどうしても脱がそうとするんだよ。兄貴、このわからずやのお姉ちゃんに何とか言ってやってくれないか。」
「ヨシオ、それじゃあ、おまえ、洗濯は自分でやることにしろ。リンダに教わってこの家の洗濯の仕方をまず覚えろ。」
ヨシオは返事をしない。
「いいわよ、まだ、あたしが洗ってあげるから、その臭いシャツを早くよこしなさい。」
また二人は部屋から出て行き、追いかけっこを始めてしまった。
この国の洗濯の仕方は日本とは大きく違っている。もちろん全自動の洗濯機も大きなデパートに行って、よくさがせば売ってはいるが、あまりそれを買う人はいない。何故なら、日本のように蛇口をひねれば、水がいつでも勢いよく出てくる場所は少ないからだ。全自動に限らず洗濯機は水不足のこの国では役に立たない。それに洗濯をすることで生活の糧を得ている者も多いということも洗濯機が普及しない理由の一つだろう。日本ではもう姿を消してしまった洗濯板がこの国では健在であり、大きなタライも市民権をちゃんと得ている。そして洗剤だが、大黒石鹸を長くしたものを幾つかに切りながら使うのが一般的な洗濯の方法だ。そのぶっとい大黒石鹸と洗濯板で汚れをこすり落とすやり方が効果的で皆に好まれているようだ。白い衣類は絞ったりせずに、濡れたまま地面とか木々に広げて干す。すると南国の強烈な日差しは衣類にしわを一つ残さずに真っ白に仕上げてくれるのだ。
ボラカイ島は電気、水道、電話などのライフラインは隣の島から海底を通って引かれるようになったが、それは限られたツーリストエリアだけで、島のどこででもというわけにはいかなかった。茂木たちの豪邸は岬にあり、すべて自給自足の生活であった。自家発電で井戸水を屋敷よりも高い位置にあるタンクに汲み上げて貯めてあるので生活にはまったく困らなかった。夜中しか出てこないケソン市の水道よりも水圧はむしろ強く、洗濯機も使える環境にあったが、リンダはアパートで長年やってきたように少しの水で洗い上げる洗濯を誇りとしていたので、これからどんどん増えてくる日比混血児たちにも少量の水で洗濯をする方法を教えるつもりだった。
結局、ヨシオはリンダにシャツをはがされて上半身裸で庭のマンゴーを貪り食っていた。ヨシオのショートパンツもリンダは奪い取ろうとしたが、さすがにそれは許さなかったようだった。マンゴーを幾つか食べていれば、洗濯したシャツは乾いてしまうほど南国の太陽は強烈であった。
家中の掃除は正樹が眠っている間にすっかり済んでしまったようで、洗濯の次は買い物の時間であった。ボラカイ島には建設用のトラック以外には自家用車はない。だからオートバイにサイドカーを付けたトライシクルが島の唯一の交通機関であり、島民の大切な足なのだ。市場のハイドリッチの弟はトライシクルの雇われ運転手をしていたので、リンダと千代菊は彼と月極めで契約をしていた。毎日決まった時間に市場への送り迎えを頼んでいた。町から離れた岬の家の者にとっては定期的にやって来るこのトライシクルは大助かりであった。町に用事がある時などは、その時間に合わせて用を足した。
リンダがヨシオに向かって大声を上げた。
「ヨシオ、市場に買い物に行くから、お前もついておいで。荷物を持つのを手伝っておくれ。」
ヨシオは心の中で冗談じゃない、何を言ってやがんだとおもいつつも、正樹の言っていた言葉をすぐに思い出した。「リンダの言うことは俺の言うことだとおもえ!」ヨシオはしぶしぶトライシクルの運転手の後ろにちょこんとまたがった。すると、まだ寝ているとおもっていたネトイがどたどたと駆け寄ってきて、リンダと千代菊の後ろの席に座り込んだ。
「軍鶏の餌と奴らのビタミン剤が切れたのでな、俺も一緒に行く。この定期便を逃すと歩かなければならないからな。間に合って良かったよ。」
ネトイは正樹に手招きをして隣に座れと合図を送った。正樹は島の市場にはとても関心があったし、リンダが昨日言っていた千代菊の彼氏にも会ってみたかったので、同乗することにした。正樹がネトイの隣に座るとトライシクルは苦しそうに発車した。
「ネトイ、軍鶏の餌って、さっき言ってたよな、この家で軍鶏を飼っているのか?」
「ああ、雛から育てている奴もいるよ。でかくなったら、この島の闘鶏にも出すつもりだ。飼料の配合がとても難しいのと毎日の訓練も大切だな。時間をかけて闘争心を徹底的に鍛え上げるわけさ。」
「この島にも闘鶏場があるのか?」
「あるよ。島の唯一の娯楽施設だよ。日曜日になると、島の男どもがたくさん集まって来てな、島の情報の交換の場所にもなっている。」
「でも、何ヶ月も何年もかけて大切に育てた軍鶏が試合に負けたらどうなるんだ?」
「ああ、全部それでお終いさ。勝者がすべてを持って帰る。焼き鳥にでもするのさ。」
「負けた軍鶏も取られちゃうというわけかい?」
「ああ、そうだよ。闘鶏の試合も非常に興奮するけれど、俺はむしろ毎日、試行錯誤しながら強い軍鶏を育てる事の方が楽しいのさ。軍鶏を一羽でも飼っているといないとでは生きる張り合いがまったく違ってくる。軍鶏がいると毎日の生活が充実してくるような気がするよ。
「ネトイ、俺にはよく分からんが、軍鶏にも血統みたいなものがあるのか?」
「もちろんあるよ。でも本物を見極める術が難しい。それが出来れば、立派に闘鶏で食っていけるよ。この国にはどこへ行ったって数え切れないほどの闘鶏場があるからね。強い軍鶏を持って渡り歩けば生計は立派に立てることが出来るよ。」
トライシクルの片方の車輪が大きな穴に入ってしまい、突然、車体は大きく左に傾いてしまった。その衝撃でドライバーの後部座席に座っていたヨシオが振り落とされそうになった。危ないところであった。ネトイが素早く手を伸ばしてヨシオの首根っこを掴んだおかげで大事故にならずに済んだ。普段はぼんやりしているネトイではあったが、いざと言う時にはやはりネトイは頼りになる奴だった。もしネトイがいなければ、またヨシオは生死の境をさまよっていたことだろう。
しばらくすると、トライシクルは人通りの多い路地に入り、人を掻き分けるようにゆっくりと進んだ。魚の強烈な臭いがしてトライシクルは停車した。店先に大きな板が敷かれてその上に魚が無造作に並べられていた。正樹はそこが千代菊の彼氏の店であることがすぐに分かった。大柄な青年が神社の神主さんがお払いをする時に使うような、あのひらひらした紙が付いている棒切れを振り回していた。ハエが魚に集らない様にしているのだった。しかし、その棒切れは正樹には無駄な抵抗のようにおもえた。何故なら市場の上の方を見ると、電線にハエがびっしりととまっていて、電線がものすごく太くなって見えたからだ。ハエたちは手をこすりながら、いつでもごちそう目がけて突撃する準備を整えていように見えた。
「さあ、ヨシオ、行くわよ。千代ちゃんはここにほおっておいて、あたしたちだけで買い物をするからね。いらっしゃい。」
ヨシオがおどけながら余計なことを言った。
「あのおねえちゃんはさ、あのおにいちゃんのことが好きなのか?何でおいらたちと一緒に買い物をしないんだ。」
「千代ちゃんは魚を念入りに選ぶの、だから時間がかかるのよ。さあ、その間にあたしたちは他の買い物に行くわよ。」
「何だ、それじゃあ、ちっとも役に立たないじゃないか。」
「そんなことないわよ、千代ちゃんが選んだ魚は新鮮で、おまけに安いから大助かりだわよ。ぶつぶつ言ってないで、さっさと行くわよ。」
リンダは今度はネトイにも指示を飛ばした。完全にリンダがこの場を仕切っていた。
「ネトイ、帰りは正樹と帰ってね。荷物がいっぱいになるから、みんなは乗れないわ。正樹と二人で帰って頂戴ね。」
「ああ、分かったよ。餌を買ったら正樹と二人で帰るよ。」
リンダはヨシオを連れて市場の奥の路地へ入って行った。彼女は何でも自分の言うことを聞いてくれる子分が出来てとても生き生きとしていた。それに反して子分のヨシオの表情はさえない。それでも内心は嬉しいのに違いないのだ。マニラの弱肉強食の世界で独りで生きて来たヨシオの暮らしは正樹に逢ってから完全に変わってしまっていた。ヨシオはあたたかい人たちに囲まれていたからだ。
正樹はネトイと市場の店を冷やかしながら、時間をかけて軍鶏の餌専門店にたどり着いた。色々な種類の穀物がみかん箱位の木箱に入れられて店先に並べられてあった。奥の棚には瓶詰めのビタミン剤がきれいに陳列されており、それはまるで薬局の棚のようでもあった。値段は見るからに安いとは言えないものばかりで、闘鶏の軍鶏を育てるということはとても贅沢な趣味だなと正樹は感じた。しかも長い年月をかけて自分の軍鶏を鍛え慈しんで育てる苦労は並大抵のものではないだろう。雨が降れば、濡れないように軍鶏のカゴを家の中に入れたり、日差しが強くなれば日除けもつけて、直射日光をさえぎってやらねばならない。犬たちの襲撃にもいつも気をつけなければならない。おまけに糞もたまれば南国の熱気でもって鼻が曲がるような悪臭に変わるだろう。朝早くから寝ている人の迷惑も考えずに、餌をくれと時を知らせる。軍鶏を育てるということは大変なことだ。その長い苦労が闘鶏場のリングの上で一瞬で決まってしまうのである。一瞬の輝きの為に苦労して育ててきた軍鶏の命を賭ける。これは飼育する人間にとっては正に美学と言っても良いのかもしれないが、鳥の軍鶏にとっては残酷極まりないことで、殺すか、殺されるまで闘うことを強いられるのだから、まったくもってやりきれない話だ。国によっては闘鶏はあまりにも残酷であることから禁止されているところもあるくらいだ。
ネトイはアメリカ製のビタミン剤やトウモロコシなどを購入した。帰り際に店主が最高の雛が手に入ったと告げるとネトイは躊躇することなくその雛も買ってしまった。その雛をカゴに入れて大事そうに自分の胸に抱え、あとの荷物は正樹が引き受けた。市場のはずれにあるトライシクルのたまり場で岬の方へ向かうトライシクルに乗り込み席が満杯になるのを待った。その間もネトイは今買ってきたばかりの雛にむかって何かを話しかけていた。それは傍から見ていると一種異様な光景であった。
昼ちょっと前に、豪邸にネトイと二人で戻った。まだリンダたちは戻って来ていなかった。さっそく正樹は屋敷の裏庭に案内されてネトイの自慢の戦士たちと対面した。確かに軍鶏の面構えには威厳がある。その顔にはキリッとして闘志が満ち溢れている。しかし正樹はネトイの話を聞いていておもった。何も闘鶏場で切れ味の鋭いナイフを軍鶏たちの足に装着する必要はないとおもった。試合場には審判もいるわけだから、闘志が消え失せた軍鶏の方を負けにすればよいのであって、グサリとナイフが相手の体に食い込むのを待つ必要はないとおもった。しかし観客席で賭博として大金を軍鶏たちに賭けている連中はそれでは済まないのかもしれない。どちらかの軍鶏が血まみれになってぐったりするまで戦わせないと納得しないのだろう。人間は他の動物たちの命を犠牲にして生きている。大切な命をもらって生きていることを忘れてはならない。感謝しても感謝しても感謝し足りないはずなのに、他の動物たちに殺し合いをさせてまで賭博をするなど以ての外だと正樹はおもった。
夕方、日差しが少し弱くなってから、正樹とヨシオは島で一番長いホワイトサンドビーチを散歩した。正樹はまだヨシオにこの島で教育を受けさせると言う本当の目的については話す気はなかった。徐々に話していけば良いと考えていた。きれいなボラカイ島に再び接して正樹自身も急いでマニラには戻りたくなかったし、少し時間をかけてヨシオにこの島に来た理由を話すつもりだった。まずは第一段階は成功であった。ヨシオがリンダのことを姉のように慕ってくれたことは大成功だった。正樹は場合によってはヨシオをもう一度マニラに連れて帰ることも考えていた。大切なことはヨシオ自身が最高の道を自分で選択することだと正樹は信じていたから、この島にヨシオが納得していないのに無理やり残して、自分だけマニラに帰るようなことはしたくなかった。ボラカイ島は彼ら日比混血児たちの収容所ではないのだから、この島に残るかどうかはヨシオ自身が決めることだと正樹はおもっていた。
ボラカイの夕日に向かいながら正樹とヨシオは砂浜をゆっくり歩いていた。話などはいらない。間違いなくヨシオは感動していた。
その二人の後ろ姿と砂浜に二人が残した大小の足跡に向かって椰子の木の陰からそっとカメラを回している青年がいた。フリーのジャーナリストのマークであった。病院で正樹に取材を断られてからも、そっと二人を追い続けて記事にしていたのだった。
ミイラ
ミイラ
豪邸の最上階には同じ造りの書斎が二つあり、それぞれ寝室とバスルームが奥についている。海に向かって右側の書斎の窓からボンボンは眼下に広がるボラカイの海を見渡していた。京都駅で別れてから会っていない早苗のことをぼんやりと考えていた。ボンボンはきらきら光る夜の海を眺めながら、早苗と行った京都のことを何度も思い出していた。本当は誰よりも真っ先にこの豪邸を早苗に見せたかったのだが、茂木さんが今はこの家のことは誰にも話さないでほしいと懇願したので、早苗との連絡も一切断っていたのだった。しかしボンボンは早苗にとても会いたかった。それはどうしても止められない気持ちだった。そして京都の鴨川の河原を今度は早苗と二人だけで歩きたかった。ボンボンはしばらく日本に戻って色々な事を整理しなくてはならないと考え始めていた。
最上階のもう一つの書斎の奥の寝室には菊千代が眠っており、そしてバスローブ姿の茂木がやはり同じ造りの書斎の窓からボラカイの海を見下ろしていた。静かにボラカイの海を照らす月の光は茂木の心の中にまで届いていた。茂木はそばで眠っている菊千代のことではなく、日本にいる早苗のことばかりを考えていた。隣の寝室にいる菊千代には本当に申し訳ないが、どうしても早苗のことが忘れられなかった。もう一度、早苗と晩秋の詩仙堂を訪ねてみたかった。今夜のボラカイ島にふりそそぐ月の光はすべての者をゆらゆら迷わせていた。
四千キロ以上も離れた東京の空の下で、ボラカイ島で輝いているのと同じ月を早苗は見上げていた。上野の文化会館で行われた東京都交響楽団の定期演奏会からの帰り道だった。同じ外国語の大学でアジアの言葉を専攻している友人のナミとクラッシック音楽を楽しんだ後、上野公園を二人でゆっくりと歩いていた。演奏会が終わって、その余韻を消すのが惜しくて、文化会館の出口のすぐ前にある上野駅には入らずに、二人は隣の鶯谷駅まで歩くことにしたのだ。きれいな月と今さっき聴いてきたチャイコフスキーがすっかり早苗をセンチメンタルな気分にさせていた。
早苗は東京に戻ってから何度も自分が専攻している言葉、幾つかの難解なタガログ語の意味を聞こうとボンボンが世話になっている留学生会館を訪ねていた。しかしボンボンがそこに戻った形跡はまったくなく、彼の郵便受けには開封されないままの郵便物が行く度に増えていた。早苗は茂木とも京都で別れた後、まったく連絡が取れずにいた。三人で仲良く旅したあの京都旅行はだんだんとまるで幻か何かのようにおもえてきた。急に二人が二人とも行方不明になってしまい早苗は本当に困惑していた。ボンボンのケソン市のアパートにも何度も国際電話をしてみた。早苗が専攻している得意のタガログ語と英語で電話をしてみても、新しいお手伝いさんとおもわれる少女がいつも電話口に出てきて、ビコール地方の言葉でもって返事をするものだから、まったく要領を得なかった。何回電話しても同じことの繰り返しだった。ボンボンに手紙を何通も送ってもみたが、やはり返事はなかった。早苗は次第にボンボンのことが心配になってきていた。今までにこんなことは一度もなかったからだ。東京都博物館の横道にさしかかった時、一緒に歩いていた親友のナミが早苗に直球の質問をぶつけてきた。
「ねえ、早苗。ところでどうなのさ。あなたのフィリピン人の友だち、ボンボンとはうまくいっているの?」
「それがさ、国に帰ったっきり戻って来ないのよ。連絡もまったくないし、心配しているところなのよ。茂木さんとボンボンと三人で鴨川の流れを見たのが最後なの。それにさ、茂木さんとも連絡が取れなくてね、困っているところなのよ。二人とも行方不明になっちゃったみたい。どうしたんだろうね、二人とも?」
「そうか、あんたには茂木さんもいたんだ。彼は昔から早苗にぞっこんだったものね。それで、あんたはどうするつもりなのさ。中途半端な付き合い方は二人がかわいそうよ。」
「うちのお父さんは茂木さんのことをまるで息子のようにおもっているけれど・・・・・」。
「そうじゃないわよ。あんたはどうなのよ。それが一番大切なことじゃないの!」
東京都博物館の横の道は昼間でも人通りは少なく、女性の一人歩きには向いていないかもしれないが、その通りはとても上野公園らしい雰囲気が溢れている場所で、鶯谷駅までの裏通りはとても落ち着いた道が続いている。早苗はいつか恋人ができたら、一緒に歩きたいとおもっていた道の一つでもあった。
「早苗、知っている?そこの博物館の、そう、すぐそこの壁の反対側に、本物のミイラがいるのよ。知っていた?」
「何よ、ナミ!突然、恐いこと言わないでちょうだい!」
「夜な夜な、建物の周りを歩くそうよ。」
「やめてよ!ナミったら、あたし、恐がり屋なんだから。後でトイレに行けなくなっちゃうから、やめて!」
「でも、ミイラが展示されているのは本当なのよ。今度、案内してあげるわね。」
「いいえ、結構です。私は行きません。それよりさ、ナミ、あたしたちもうすぐ卒業じゃない。やはり自分が勉強してきた言語が使われている国へは一度は行かないとだめだよね?実際の生活の中でどうやってその言語が話されているのかを知らないと、本当のプロとは言えないよね。」
「そりゃあ、そうよ。いくら言葉がうまく話せたり読んだり書けたり出来ても、実際にどんな所で、そしてどんな風土でその言葉が話されているのか知らないと、その言葉の心までは理解出来ないものよ。そんなこと当たり前じゃない!何年、あんたは外語大の学生やってんのよ!」
「そうか、やっぱりね。あたしボンボンのことがだんだん心配になってきちゃったの。ナミ、飛行機代はあたしが出すから、つきあってくれないかな。卒業前に一度、フィリピンを見てみたいわ。それに連絡が取れないボンボンのアパートへも行ってみたいの。お願いだから一緒について来て。」
「ホテル代も出すなら考えてもいいわよ。」
「わかったわよ。食事代も三食付けるから、行こう。ねえ、ナミ、お願いだから、この通り。」
「わかった。わかった。親友の為だものね。付き合ってあげるか。」
二人は山手線の鶯谷駅の昔ながらの木造の駅舎に入り、学校の寮のある池袋駅まで電車に乗った。二人が寮の中に入った後も、夜空にはまだボラカイ島で輝いているのと同じ月が静かに浮かんでいた。ボンボンと茂木はまだ寝付かれないまま、その月を眺めていた。
毎年、外国語の大学からは卒業を待たずに多くの者が外交省に入ることが内定する。ナミと早苗も早いうちから外交省入りが決まっていた。英語はもちろんだが、二人の得意な分野である希少価値のあるアジア方面の語学が大きな決め手となって就職が内定していた。
早苗は以前から勉強のためにフィリピン航空の知り合いに頼み込んで機内でサービスとして出されるマニラの新聞、その用済みになった新聞をまとめて寮に送ってもらっていた。
ボンボンと連絡が取れなくなってからは以前にもまして現地の新聞を隅から隅まで目を通すようになっていた。今までのところ、ボンボンに関しての記事はもちろんなかった。またそれはあってはならないことなのだが、早苗は心配のあまりに学校から帰ると何時間でもマニラの新聞を読みふけっていた。ある日、早苗はいつものようにコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、小さな記事がふと目にとまった。タガログ語で書かれたその記事を何度も読み返した。それはマークというジャーナリストが書いた記事で、日本人の青年と日比混血児の心温まる話だった。早苗はその記事を丁寧に切り取り手帳にしまった。もしチャンスがあれば、フィリピンに行った時にその正樹という青年を訪ねてみようとおもっていたからだ。
そして何よりも、早苗がどうしてもマニラに行きたい大きな理由は自分自身の本当の心が知りたかったからだ。早苗はボンボンのことは以前から好きであった。しかし、ボンボンが自分と同じ日本人ではないこと、また欧米人とは違うアジア系外国人であり、どうしても国籍にこだわってしまう自分自身に疑問を抱いていたのだ。そんな表面的なことばかりにとらわれている自分自身が嫌で嫌でたまらなかった。フィリピンという国の中にしばらく自分自身を置いてみることは今の早苗にはとても重要なことのようにおもえた。外交省に入る前に是非とも訪ねてみたかったのだ。そうしないと自分が血の通っていないミイラと同じではないかとおもえてきたからだ。
ヨシオの決断
ヨシオの決断
炭酸飲料のスプライトでも7アップでもよい。日本ならば三ツ矢サイダーでもよいのだが、いわゆるソーダ系の飲料水に豚肉を角切りにしてしばらく漬けておく、そしてその豚肉を串に刺して炭火で焼くと焼き鳥ならぬ焼き豚串がまったく調味料なしに簡単に出来ることを正樹はネトイから教わった。暇があるとネトイは、実際はいつも暇なのだが、豪邸の中庭で毎日のように炭を熾して肉や魚を焼いている。そして彼のそばには決まってビールが置かれていた。食卓にバーベキューの一品が必要となれば、すぐに出来る状態にあり、リンダにとってはネトイは強い味方であった。正樹はネトイが豚肉を焼いている傍らで、こんなことを考えていた。フィリピンに来て、まず最初に感じたことはどこでもそうなのだが、庭先とか、地下室、空き地、家々が重なり合っているような所でも、ちょっとしたスペースがあると豚を飼う習慣があるということだ。都会の真ん中の家の中で平気で豚を飼っていることに正樹は驚いた。家庭の食卓で食べ残された残飯はまず豚に与えられ、次に犬たちにも分けられる。だから家庭からは生ゴミは一切出てこない。安く買える子豚のうちから育てて、豚が大きくなったら高く売ることもあるが、たいていの場合はその家のあるいは近所の者の誕生日のメイン料理になってしまう。日本とは違い、どこの家にも一人や二人は豚を殺す達人がいるのだ。吊るされた豚の喉を切って滴り落ちる血の一滴さえも残さず完璧に料理に使われてしまうのである。豚の断末魔の叫び声はいつ聞いても胸が痛む。スーパーでパック詰めにされた食肉を買って食べている日本人は死ぬ間際に豚たちが泣き叫ぶ声を決して知ることはないだろう。自分たちが家畜たちの犠牲の上に生存していることをすっかり忘れてしまっている。感謝することすら忘れていると正樹はこの国に来て初めて気がついた。
豪邸の中庭ではラジカセを鳴らしながらネトイは今日もバーベキューを焼いていた。少し離れた所にある大理石でできた四人掛けのテーブルで正樹とヨシオはリンダが作ってくれたマンゴージュースを飲んでいた。ネトイが踊りながらバーベキューを焼いている姿が
そこからはよく見えた。時々、ネトイは焼きあがったものを高くかざして、ヨシオに食べに来いと誘っていた。正樹はヨシオに言った。
「ヨシオ、いいか、あのネトイの言うこともよく聞くんだぞ!お前のこれからの長い人生で彼の存在は大きなものになるような予感がするんだ。ネトイのことも大切にしろ!いいな。」
大きな大理石の椅子に隠れるように座っているヨシオが答えた。
「また、兄貴はおいらをここに置いて、一人でどこかへ行くようなことを言うんだな。兄貴、いつ、マニラに帰るんだ?その時はおいらも一緒に帰るからね。」
「お前はこのボラカイ島に残って勉強しろ。茂木さんから日本語を教えてもらえ!」
「いやだ!おいらは兄貴と一緒に帰る。」
「この前、お前は俺の為に役に立ちたいと言ったのを覚えているか。それならば、しっかりと、ここで勉強して俺の役に立つ人間になれよ。俺はちょろちょろと金魚の糞みたいにくっついて来る奴は必要ないんだ。日本語がちゃんと出来て、一を言えば十まで分かるような頭の良い助手が俺は必要なんだ。分かるか。ヨシオ、しっかり勉強して、将来、俺の役に立つ人になってくれよ。」
「いやだ!勉強は嫌いだし、おいらは兄貴から絶対に離れないからね。兄貴と一緒にマニラに帰る。」
ボラカイの海と空がまた赤くなり始めた。今日もゆっくりと太陽が水平線の下に隠れようとしていた。リンダが台所から出て来て、ネトイの所へ行った。出来上がったバーベキューがのった皿を受け取り、正樹とヨシオの前にやって来た。リンダは皿からそっとバーベキューを一串取り上げて、それをヨシオに渡した。リンダはその串を見ながら言った。
「あれ、変だわね。あたしはさっき一串に五個づつお肉を付けておいたのに、出来上がったものは全部四個づつしかついていないわね。あー、ネトイだわね。きっと。」
リンダはぶつぶつと独り言を繰り返しながら、台所の中へ入って行った。
「分かったよ。ヨシオ、おまえの好きなようにしろ。ただし、お前が勉強したくなったら、いつでもこのボラカイ島に戻って来い。いいな、それは自分で決めろ!」
ヨシオは返事をしない。ただ黙って夕日を見つめていた。また独りになるのが耐えられないのかもしれないと正樹はおもった。
次の週、正樹とヨシオはマニラに戻った。結局、正樹はヨシオ一人を島に残してマニラに帰ることは出来なかった。ヨシオが異常なまでに正樹のことを慕っていたからだ。別に急ぐことはなかった。今度またボラカイ島へ行った時にヨシオがその気になればそれで良いのだと正樹は考えていた。ケソン市のアパートに戻ってみると、二人の姿を見てみんなはあきれてしまった。正樹がヨシオを連れて帰って来たのを見て誰もがあっけにとられていたが、ウエンさんだけは違った。あたたかくヨシオを抱擁して歓迎してくれた。ディーンは少し怒った表情で、何をする為にわざわざボラカイ島にまで行って来たのかと正樹を問い詰めた。ヨシオ本人の意思が大切だと正樹は説明したが、なかなか理解してもらえなかった。
マニラに戻ってからの正樹は多忙を極めた。非常に忙しく、大学の入学の為の国家試験の申し込みやら留学許可の手続きでほとんど毎日のように市内中を歩き回っていた。どこの国でも同じだろうが、一回では済まないのがお役所の仕事だ。何度もあちこちのお役所に足を運ぶことになってしまった。正樹は本気で自分がボラカイ島で勉強が出来れば良いのにとおもったくらいである。子分のヨシオはと言えば、どこへ行くにも正樹の後について来た。彼は彼なりに正樹親分のことを守っていたのだった。正樹は留学生の試験場となったマニラ・ハイスクールでNCEE(ナショナル・カレッジ・エントランス・エグザミネイション)を受けた。一般学生に混じって留学生は四階の教室に集められ試験が行なわれた。試験の形式は半分以上が四択問題であった。四つの中から正解を選べばよいものであった。だから問題の英語の意図がつかめなくても、どれかに一つに丸をつけておけば正解になる可能性があった。正樹は空白だけは避けて、すべてに解答した。数学に関してはまったく問題はなかった。当時の日本の数学のレベルがいかに世界的に見て高かったかを実感することが出来た。教室の窓からはイントラムロスの城壁がすぐ横に見えた。その景色は試験場となったマニラ・ハイスクールがマニラの最高の場所に建てられ、とても歴史のある学校であることを物語っていた。試験の合間に教室の中を見回して見ると、日本人はもちろん正樹一人だけであった。あとは随分と老けたイラニアンたちがほとんどの席に陣取っていた。中東からの留学生は当時のマニラでは珍しくはなく、石油成金の子息たちがマニラにはうじゃうじゃといた。しかしその体臭の物凄さは半端ではなかった。きっと食べ物が違うのだろうと正樹は考えている。その日の教室内も想像を絶する凄まじい臭いでむせかえっていた。鼻が慣れるまで、随分と長い間、口で息を吸っていた。試験が終わってからも彼らの体臭で頭がくらくらしていた。試験を終え、マニラ・ハイスクールの門を出ると、ヨシオがすぐ正樹のところに駆け寄って来た。
「兄貴、試験はどうだった?」
「ああ、分からんな。でも十分に手応えはあったよ。後は天に任せるしかないな。ヨシオ、腹が空いただろう。すぐそこのカーサ・マニラのレストランで何か食べていこうや。俺も腹がペコペコだよ。」
カーサ・マニラは城壁都市イントラムロスの中にあるスペイン植民地時代の住宅を保存した資料館で当時の雰囲気をそのままに残したものだ。レストランが横についており、正樹にとってもヨシオにとってもちょっと贅沢な食事だった。高いレストランで飲むビールはよく冷えたグラスのせいなのだろうか、どうして同じビールなのに、こんなにも味が違うのだろうかと正樹はいつもおもっている。まあ、気にかかっていた試験が終わった後だったからかもしれないが、それにしても他の高いホテルで飲むビールの味も確かに違っているので、やはり、何か製造工程に秘密があるようにおもえて仕方がなかった。
ケソン市のアパートに帰るとポリスと書かれたジープがアパートに横付けされていた。ロハス地区担当の警察官が正樹の帰りを待っていた。正樹が入り口の網戸を開けて中に入ると、その警官はさっと立ち上がり敬礼をした。
「ミスターマサキ、マニラ東警察署の署長があなたにとても会いたがっています。あなたの都合の良い時間を聞いてくるようにと指示がありまして、自分が聞きに参りました。署長はいつでもいいと言っておりまして、あなたの空いた時間に自分があなたをお連れするようにと命令されています。」
「それはご苦労様。まあ、どうぞ、そこにおかけください。署長が、そうですか、分かりました。ただ今日は少し疲れましたので、明日の午後ではいかがでしょうか。そう署長にお伝え下さい。」
「ありがとうございます。それでは明日の午後一番でお迎えに参ります。よろしくお願いします。では自分はこれで失礼します。」
用件だけ済ますとその警官はすぐに立ち上がり、また敬礼をして外のジープで走り去っていった。後ろで聞いていたディーンが正樹に言った。
「何かしらね、あの警官の様子だとあまり悪い話ではなさそうだけれど、あたしはどうも警察は苦手だわ。ところで、正樹。試験はどうだったの?」
「うん、ごめんね。駄目だったかもしれない。難しくてぜんぜん解けなかったよ。今回は無理かもしれないな。」
しばらくディーンは正樹の目をじっと見ていた。たった今、正樹が言った言葉と正樹の目が語っていることが明らかに違っていたのをディーンはすぐに読み取ってから、もう一度正樹を見据えるようにして言った。
「正樹、本当はどうだったのよ。」
「駄目だったよ。」
「バカ!もういいわよ。おめでとう。」
「ああ、分かった、分かった。何とかなりそうな気がするよ。でもこればっかりは結果が出ないことには何とも言えないからね。」
「そう、よかった。本当によかったわ。」
正樹は外で遊んでいるヨシオを呼んで、百ペソ札を渡しながら頼んだ。
「悪いけれど、そこのサリサリストアーでビールを買って来てくれないか。」
「ああ、いいよ。何本買うんだい?」
「そうだな、ディーンと二人だけだから、十本もあれば十分だろう。ヨシオ、何か食べたいものがあったら、それで買ってもいいぞ。今日はお祝いだからな。頼んだぞ。買ったら冷蔵庫に入れておいてくれ。」
「いいよ、兄貴、分かった。買って来るよ。」
ディーンはビールを飲まないのだが、以前から正樹は彼女と話しながら飲むビールも実にうまいと感じていた。しかし高級レストランで飲むあのビールの味にはとても及ばなかった。やはり、同じボトルでありながら工場から出荷する際に何か隠された秘密があるようにおもえてならなかった。
翌日、正樹は迎えに来た警察のジープでマニラ東警察署へ行った。今回だけはヨシオは珍しく一緒にはついて来なかった。それは当たり前のことだ。ヨシオにとって警察は嫌な思い出が多すぎる場所だ。どうしても足が向かなかったのかもしれない。
正樹が署長室に入ると、机に座っていた署長は笑顔で立ち上がり、握手を求めてきた。
「ミスターマサキ、久しぶりです。今日はわざわざおいでいただいて恐縮です。病院で会って以来でしたな。お元気でしたか?ヨシオが回復して本当に良かった。あなたの願いが神様に届いたんですな、きっと。本当に良かった。」
正樹は署長に一方的に喋りまくられて、挨拶のタイミングを逃がしてしまった。
「実は、正樹君。わしの知り合いのジャーナリストのマイクから聞いたのだが、ボラカイ島に日比混血児たちの施設を造っているそうじゃないですか。実にすばらしいことだよ。あなたたちみたいな日本人ばかりだと、わしの仕事も助かるのだがね。どうもマニラに居る日本人たちはいかん!全部とは言わんが、日本へこの国の少女たちを送り込むことばかりを考えている奴らが多くて困っておる。マークの話だと、あなたたちのボラカイ島の家は相当な規模だそうですね。それにとてもすばらしい環境にあると彼は言っていましたよ。混血児たちの施設にしてはもったいないくらいだと、マークは言っていました。」
「マークですか。思い出しました。ヨシオが病院に居る時に取材をさせてくれと申し込んできた人ですね。」
「仕事柄、彼とはよく会うことがあるのでね、先日も、君の話が出たものだから、マークと色々と話をしました。日比混血児の問題はわしらも頭を痛めているところでな、実はね、正樹君、ここの現状はあまり良くないのだよ。まあ、ぶっちゃけた話、毎月、わしの所にはヨシオのような子供たちがどう少なく見積もっても三十人位はしょっぴかれて来るんだよ。困ったことにはその子供たちを収容する施設がまだ十分ではないのだよ。そこで相談なんだがね、その子供たち全部とは言わん、性質の良い子供だけでも結構なのだが、君らのボラカイ島の家で預かってはもらえないだろうか?」
「署長さん、話の筋は大体分かりました。性質の良い子も悪い子もありませんよ!子供たちはみんな同じです。私たちは全ての日比混血児たちに門を開くつもりです。それに収容所ではありませんから、子供たちの意思がとても大切です。子供たちが自分から望めば引き受けますが、そうではなく無理やりはお断りいたします。自分からどうしてもボラカイ島で勉強がしたいと望んだ子供たちだけと私たちは共同生活をしていきます。あのヨシオはまだ勉強をする気がないらしく、今は自分の後ばかりついて来ていますが、いつかきっと、彼もボラカイ島で勉強がしたいと言ってくれると私は信じています。ボラカイ島の美しさと島が持っている魔力は必ずやヨシオや他の世の中から見捨てられた日比混血児たちの心を開いてくれると私たちは信じています。」
「御尤もな話だ。あなたが言う通りかもしれないですね。そうですか。そこまであなたたちは考えていらしたのですか。最初、わしが考えていた施設とは若干違うようだが、兎も角、あなたに相談することは出来るわけですね?」
「まあ、そんなに大げさなものではありませんよ。子供たちが幸せになる手伝いをしてみようという試みなんです。いつでも私の方から島へは連絡は出来ます。もし自分に時間がある時は、島まで子供たちと一緒に行って、そこがどんな所なのかをまず見せてあげます。ボラカイ島の美しさに触れさせてから、そこで日本語などが学べることを伝えます。その勉強が、将来、子供たちにどんなに役に立つのかも説明してやります。その上で、一週間や二週間ぐらいは島に自由に滞在してもらって、それから子供たちに島に残るかどうかを自分自身で判断させようと考えています。ただ、どうしてもボラカイ島が嫌いだという子供たちは署長にお返ししなくてはなりません。さっきも言いましたが、私たちの家は刑務所でも孤児院でもありませんから、自分の意思で残りたいと言った者しか受け入れません。」
署長はしばらく黙り込んだ後、更に話を核心に近づけてきた。
「すばらしい試みだとわしもおもいますよ。あなたの話を聞いていて、実に感心しましたな。なかなか出来ないことですよ。しかし、その大きな施設を維持していく費用だって大変なことでしょう。」
「その点に関しては私の担当ではありません。私は子供たちと島の家の橋渡しをするだけで、維持費に関してはどうこう言える立場にはありません。だから、ここの警察に連れて来られた子供たちに、まず、ボラカイ島の家を見せることが大切だと私はおもいますよ。正直言って、あの島の環境と私たちの家を嫌いだと言う子供はまずいないとおもいますよ。一つだけ問題なのは島までの交通手段ですよ。他の観光地と違って、ボラカイ島は簡単に行ける場所ではありませんからね。話の内容ではこれから何度も島を往復することになるとおもいますので、その交通費は結構ばかにはなりませんよ。何か署長に名案はおありでしょうか?」
「正樹君、それは簡単だよ。我々のヘリを使えばいい。毎日でも島へ定期便を出すことだって可能ですぞ。」
「署長、それは凄い!しかし毎日飛ばす必要はないとおもいますよ。週一回で十分だとおもいますよ。あと、子供たちが病気になったり、怪我した時もお願い出来れば最高ですね。もし警察のヘリコプターが使えるのであれば、全ての問題は解決します。そうだ、あの家は以前は俳優のホセ・チャンのものだったのですよ。だから庭には立派なヘリポートもあります。」
「よし、正樹君。それで話は決まりだ。今日はあなたと話が出来て本当に良かった。新聞記者のマークがあなたたちを追い続ける理由がわしにも分かったような気がするよ。でも気になったことがあります。余計なことかもしれませんが、ホセ・チャンはいかん!正樹君、ホセとはあまり係わりを持たん方がよろしい。彼にはいろいろと悪い噂がある。うちでずっと彼を追っている者もいるくらいだから、ホセには近寄らん方が正解ですぞ。君のような人間がつきあう相手ではないので注意した方がいいですよ。」
「はい、分かりました。ご忠告有り難うございます。」
「正樹君、今日は本当に有り難う。わざわざおいでいただいて恐縮でした。帰りは中庭からヘリを出しますから、どうぞ、それを使って下さい。」
「いいですよ。ヘリは今度で、ボラカイ島へ行く時で結構ですから。ケソン市のアパートまでですから、ジープで結構ですよ。いや、出来ればジープではなく窓のある車の方が助かりますね。もしジープの他に車がなければ、自分はバスで帰りますから。」
「了解しました。窓のあるエアコン車を用意させます。しばらくお待ち下さい。」
正樹は帰りの車の中で、とうとうボラカイ島の家が動き始めたことを感じていた。いよいよ本当の物語がこれから始まるのかとおもうと、少し緊張した。どうぞ、全てがうまくいきますようにと、ただそれだけを祈りたい気持ちでいっぱいだった。そしてヨシオがボラカイ島で勉強がしたいと言い出してくれることを切に願う正樹であった。どんどん増えていくだろう子供たちのリーダーにヨシオならば、きっとなれると信じていた。
毎月30人というのは署長の大袈裟な表現だったが、それでも毎週、二人から五人の日比混血児たちがマニラ東警察に保護された。警察のヘリコプターは署長と正樹、そして茂木との協議で毎週土曜日の朝、ボラカイ島へ飛ばすことになった。一週間はとにかく子供たちをボラカイ島においてみて、どうしても順応出来ない子供は次の週の土曜日にマニラへ送りかえすことになった。ボラカイ島に送られた子供たちは初めは戸惑いながらも、次第に美しいボラカイ島に魅せられ、岬の豪邸の楽しい生活に慣れていった。一週間経ってマニラに戻りたいと言い出す子供はまったくいなかった。やはりボラカイ島の海と空、そして彼らが今までに見たこともないような大きな豪邸は子供たちを島に引き留めてくれた。
毎週とはいかなかったが、正樹とヨシオの二人もヘリに同乗して何度もボラカイ島へ渡った。こうしてボラカイ島の家が本格的に動き出し、二か月の月日が経った頃だった。いつものように正樹とヨシオは警察で保護された子供たちと一緒にボラカイ島へ渡り、そのまま一週間だけ島に滞在した。その時、島で楽しそうに遊ぶ子供たちを見ていたヨシオが迷いだした。それを見て取った正樹はタイミングを見計らってヨシオにこう言ってみた。
「いつか、ここのボラカイの子供たちの中から俺の仕事を手伝ってくれる秀才がきっと出てくるだろう。一生懸命に勉強をしているからな。俺の片腕になってくれる奴が現われるはずだ、日本語もペラペラでさ、日本とのビジネスも出来る凄い奴が必ず育ってくる。早く、俺の手伝いをしてくれる子が出てこないかと、俺は今から楽しみにしているんだ。」
それを聞いて、ヨシオはボラカイ島で勉強を始めている子供たちに嫉妬心を感じたらしく、更に迷いだした。翌日、ヨシオは正樹にこう言った。
「兄貴、やっぱり、おいらもボラカイ島で勉強することに決めたよ。だから、兄貴、俺のことを忘れないでくれよ。いつも島に来てくれよ。」
「そうか、やっとその気になったか。お前がそれを言ってくれるのを、俺はずっと待っていたんだ。お前がそばにいなくなると寂しくなるがな、それは仕方がないことだ。俺も頑張って勉強するから、ヨシオも島で一生懸命頑張れ!」
とうとう正樹はヨシオを島に残してマニラに帰ることになった。ヘリの定期便が到着して、また新しい三人の混血児が来島して来た。その子供たちと入れ代わるように正樹はへりの座席についた。ヘリが飛び立つ時、ヨシオはリンダと買い物へ行っていて留守だった。正樹は辛い別れにならずに済んだことを感謝した。ボラカイ島の空は限りなく澄んでいて、強くまぶしい太陽は正樹とヨシオのことも照らしていた。
地獄で仏
地獄で仏
マニラという大都会は小金を多少持っている外国からの流れ者にとっては初めはこの世の天国である。ところが次第に懐が寂しくなってくるやいなや、全てが一変してしまう。日本で犯罪を犯して流れて来た者たちが、結局、最後には日本の刑務所の方がまだましだと言って帰国してしまう理由もそこにあるのだ。マニラというところはそんなにあまい場所ではないのである。
マニラ東警察署の入り口横の長椅子には高瀬青年がうなだれるようにして一人で座っていた。彼の前をひっきりなしに警官やら住民たちが足早に行き来していた。もう何日も洗濯をしていないシャツは色黒の高瀬をまるで浮浪者のように見せていた。渡辺社長と映画館ではぐれてから、どれだけの時間が過ぎたのかさえも高瀬には思い出せなかった。すっかり落ち込んでしまっていて、長椅子に座っているのがやっとの状態だった。高瀬は不況のあおりで勤めていた新潟の造船会社から一時帰休することを強いられていた。そして会社に復帰するまでの間、マニラでおもしろおかしく遊んで過ごす予定だったのだが、渡辺社長と出会ったおかげで何もかもが狂ってしまった。一年分の生活費、そのすべてを渡辺社長に貸したまま、大都会のマニラで社長とはぐれてしまったのだった。渡辺社長のマニラでの滞在先も日本の住所も会社名も聞かなかった自分が愚かだったと自分自身を責め続けていた。二人で映画館へ行き、渡辺社長はトイレだと言って席を立った。それっきり社長は高瀬の隣の席には戻って来なかった。時を同じくして、旅行会社の芳子もいなくなってしまって、もう何もかもが分からなくなってしまっていた。騙されたのか、それすらも高瀬には判断することが出来なくなっていた。初めから芳子と社長はグルで自分を騙したのだろうか?いや違う、旅行会社に勤務している芳子がそんなリスクを冒すはずがない。社長が何者かによって拉致されて、連れ去られた可能性もある。芳子は日本から送られてきた社長への送金に目がくらんだのだろうか?いや、それも違う。そんなはした金で旅行会社の職を失うようなことはしないはずだ。あるいは芳子が誰かに指図して社長を消してしまったのだろうか。いずれにせよ、高瀬の大切なお金がそっくり消えてなくなってしまったという事実だけが残った。目まぐるしく展開する災難の連続は高瀬を完全に打ちのめしていた。40度近い暑さの中であちらこちらをさ迷い歩いて、高瀬の体力も限界に達していた。何か手がかりはないかと社長とはぐれてしまった映画館へ高瀬はもう一度行ってみた。それはエアコンのよく効いた映画館に逃げ込み、暑さから逃れるためでもあった。少し涼もうとおもったのがまた更なる悲劇の始まりとなってしまった。まだ映画は始まっておらず、大きな館内にはほとんど人はいなかった。数人の観客がスクリーンの良く見える中央の上段の席にいただけだった。高瀬は誰もいない最前列の椅子に足を投げ出して深々と体を椅子の中に沈めた。場内が暗くなり、まだ観客の目が暗さに慣れていない頃であった。場内は空席だらけにもかかわらず、高瀬の隣の席に一人の男がさっと座った。身の毛がよだつとは正にこの事で、高瀬の全身の血は一瞬にして凍りついてしまった。映画のシーンが運悪く夜の場面が最初から続いていて、映画館も真っ暗な状態のままであった。スクリーンのわずかな光でもって、キラリとナイフの刃が見えた。高瀬は一瞬にして全てを悟った。パスポートも残り少ない現金もそっくり盗られてしまった。おまけに一年間オープンにしていた帰りの航空券までサイド・ポーチごと持って行かれてしまった。知り合いのまったくいない異国の地で、しかも、どういうわけか、頼りにしていた旅行社の芳子さんまでが姿を消してしまった。高瀬は相談する相手もいないままに、何日も警察の入り口でどうしたらよいのか考えていた。日本大使館へ駆け込んで助けを求める為には、まず現地の警察に盗難届けを出さなければならないと高瀬はおもっていた。ところが渡辺社長がヨシオを殴り倒したところをビデオに撮られたと信じ込んでいた高瀬はなかなか警察の門をくぐれずにいた。とりあえず入り口にいれば何か手がかりがあるような気がして、何日も警察の入り口にある椅子に座っていたのだった。その時、マニラ東警察署は大きな事件を幾つも抱えており、仮に高瀬が中へ入って自分に起こった災難を話したところで、誰も高瀬の話を親身になって聞いてくれる者はいなかっただろう。日本人の中小企業の社長が保険金目当てに、それも立て続けにマニラ湾に浮いていたからだ。連日、新聞もテレビも地元のメディアはトップニュースでその事件を取り上げていた。日本のメディアさえも大きく扱い始めていた。
一台のタクシーが警察署の入り口に横付けになりドアが開いた。次の瞬間、高瀬はハッとして身を屈めた。渡辺社長が路上で強盗の手引きをした子供を見つけて、その子供を何度も殴りつけていた、あの雨の日に現われ、その光景をビデオに撮ったと言った日本人の青年がタクシーから降りて来たからだ。高瀬は身をねじるようにして隠れた。その青年はさっさと中に入って行ってしまった。どうやら自分のことは気づかれずに済んだらしいと高瀬は安堵した。ただ、やはり彼は警察にあの時のビデオを持ってきていたのだとおもった。
正樹は入り口にいた高瀬に気づいていた。署長室に入ると、ヨシオを殴っていた男が外の長椅子の所にいると、すぐに署長に告げた。署長は部下にその男を連れて来るように命令した。五分も経たないうちに二人の警官に連れられて高瀬が署長室に連行されて来た。高瀬と正樹の視線が激しくぶつかり合った。正樹がまず口火を切った。
「あなたたちが痛めつけたヨシオと言う子供は何日も生死をさまよい歩いたのですよ。昏睡状態が何日も続いたことをまずあなたに伝えておきたい!」
高瀬は逮捕されることを望んではいなかったが、こうなってみると、むしろ逮捕されて強制送還された方が楽かもしれないとおもい始めていた。それほど疲れ果てていたのだ。どんなかたちでもいいから、早く飛行機の中からあの富士山の勇壮な姿を見たかった。高瀬は言葉を返さなかった。いや、返せなかったのだ。
「正樹君、こいつを告訴しますか?」
今度は署長が大袈裟に言った。正樹が高瀬に向かって言葉を再び投げかけた。
「あなたの連れは、今、どこにいますか?ヨシオのことを殴っていたのはあなたではなかった。むしろあなたは止めに入った方だ。正直に居場所を言えば、あなたの罪は軽減されますよ。あの太ったヨシオを殴った奴は、今、どこにいますか?」
高瀬は正樹の言葉に手向かう気も逆らう気もまったくなかった。誰かに自分の置かれた境遇をただ喋りたかった。
「それが分からないのです。自分もあいつを捜しているところなのです。私の全財産をあいつに貸した後、姿を消してしまいました。まるで狐につままれたような話ですが、本当なのです。私はまんまと騙されてしまったようです。おまけに映画館で強盗にあってパスポートも航空券も盗られてしまいました。どうぞ私を逮捕して下さい!もう、私は精も根も疲れ果ててしまいました。」
ここまでは高瀬と正樹の間では日本語で話が進んできたので、署長には二人の話を理解することは出来なかった。署長はヨシオのことで失点がある。もしこの男が本当にヨシオに危害を加えたことが判明したならば、しばらく臭い飯を食わせてやろうと考えていた。
「正樹君、どうします?こいつを告訴しますか?」
「署長さん、ちょっと待って下さい。もう少し話が聞きたいので、しばらくお待ち下さい。直接にヨシオを殴ったのはこの人ではなくて、連れの方ですから、私としてはその男の方を捕まえたいのです。もうしばらく話をさせて下さい。」
正樹は高瀬の方を向いて続けて言った。
「あなたのお名前は何とおっしゃいますか?私は正樹と申します。」
「私は高瀬と言います。」
「高瀬さん、お仕事でこのマニラへ来られたのですか、それとも観光ですか?」
「どちらでもありません。勤めていた会社の都合で、一年間休むことを強いられまして、少しの予算でもって、このマニラで暮らそうとしたのですが、うっかり渡辺社長を信用してしまい、愚かにも私の全財産をなくしてしまいました。突然、渡辺社長は私の前から姿を消してしまいまして、未だに社長がどこにいるのか分からずにいます。」
正樹は署長に向かって質問した。
「マニラ湾に浮いていた日本人はどんな体格でしょうか?」
「ああ、ここに写真があるよ。ええと、どれだっけな。ああ、これだ。ぶよぶよにふやけていて、ところどころ魚に食われているが、見るかね?」
署長から手渡された茶封筒を開けてみると、中から二十枚くらいの写真が出てきた。それらを見てから正樹は高瀬に言った。
「別人ですね。渡辺社長とか言うあなたの連れはもっと大柄でしたよ。高瀬さん、あなたも念のために確認してくれますか。」
「違いますね。社長ではありません。」
「高瀬さん、私はあなたの話がもっと聞きたい。あなたは直感で人を信用して失敗したようですが、私は直感であなたが悪い人ではないと分かりました。ここではなんだ。どこかで食事でもしながら話をしませんか。さっき、あなたは全てを失ってしまったと言っていましたよね。見たところ、お腹も空かしているご様子だし、失礼かもしれないが、何か食べながら話しをしませんか。私でも何か役に立つことがあるかもしれませんからね。こちらに居ると、どうも日本語に飢えてしまってね、付き合ってくれませんか。」
高瀬は正樹の目をじっと見て、こくりとうなずいた。
「署長、この人のことは私に任せてくれませんか。後でまた詳しく報告しますので、今日のところは私に彼を預けて下さい。」
「何だかよく分からんが、正樹君がそう言うのなら、そうしましょう。それから今度の土曜日に五人の子供たちが島に行くことになっていますが、正樹さんはどうしますか?ヨシオに会いに行かれますか?」
「いや、今度の土曜日は人と会う約束をしているもので、残念ながら行けません。また来週にでもお願いするかもしれません。」
「分かりました。」
「では署長、私はこれで失礼します。これから、この高瀬さんと話をしますので、チェスのお手合わせは、また今度ということで、じゃあ、失礼します。」
「誰か、一緒に行かせましょうか?」
「いや、結構です。その必要はないとおもいますよ。では、これで。」
日本語教師誕生
日本語教師誕生
高瀬と正樹はジプニーを乗り継いで、キアポと呼ばれる街へ出た。ここはキアポ教会を中心に開けた門前町で、教会に祭られた黒いキリスト像は奇跡を起こすと人々に信じられていて、特に貧しい人々から崇拝されていた。亡くなったヨシオの母親もこの教会に来て、ヨシオの為に何万回となく祈りを捧げていた。そこには日本のお百度参りに良く似た儀式が存在していた。教会の中の通路をひざまずいて何度も行ったり来たりしている人々がいた。膝っこぞうは黒くなってしまっていて、見ていると痛々しくなってしまう。何か願い事をしているのだろうか、あるいは自分の犯した罪に対して懺悔をしているのだろうか、正樹はカトリックのことはよく知らないけれど、膝が黒い人々を見ると、ああ、この人は敬虔なカトリックの信者なのだとおもうようになった。キアポはマニラでも下町の中の下町といった繁華街で、東京の浅草に良く似ている街だ。たくさんの商店が道にまで溢れていて、無許可で露店を出している者も少なくなかった。すぐ隣には中華街もあり、大学の集まっている学生街も近く、人通りは半端ではなかった。川沿いにはキンタマーケットと呼ばれる市場もあり、魚やら豚の頭がずらりと並び、正樹が日本では見たこともない果物が通路の両脇に並べられていた。そして市場特有の強烈な臭いがキアポの街全体を包んでいた。役所が集中するマニラの中心地から橋を渡るとこのキアポの街に出るのだが、その橋のたもとにある店の前で正樹はジプニーの運転手に向かって叫んだ。
「サタビランホ!」
正樹はそこで止まってくれるようにジプニーの運転手に声をかけた。ジプニーを降りた二人はそのまま店に入った。雑貨や菓子、玩具、洗剤、缶詰、野菜までも置いてある。売れるものなら何でも置いてある万屋の狭い通路を店の奥へと正樹は高瀬を案内した。突き当たりに階段があり、その十段ほどのステップには安っぽい緑色をしたゴムシートが張られていて、通路を歩いてきた濡れた足が滑らないようにしてある。その階段を上がると、テーブルが五つ置かれてあり、10席ほどの小さな喫茶室になっていた。カウンターもないので小さな食堂と言った方が正しいのかもしれない。客は誰もいなかった。商店の奥にある少しのスペースも無駄にしない貪欲なまでの商魂をこの喫茶室は感じさせてくれる。決してきれいとは言えない内装だけれども、お金を儲けようとする店主の意気込みを正樹はここに来る度に感じていた。正樹はキアポの街に来ると何故かこの喫茶室に寄ってしまう。ディーンとも何度もここで長々と将来の話しをしていた。いつもだと学生のカップルが談笑しているのだが、この日は誰もいなかった。喫茶室に入ると高瀬は一番奥の席に座った。正樹は入り口を背にするようなかたちなった。しかし正樹は高瀬が落ち着いて話が出来るように席を敢えてかわってもらった。高瀬が正樹しか見えないように席を配慮した。誰が入って来ても気が散らないようにしたのだった。
「高瀬さん、最後に食事をしたのはいつですか?答えたくなければ答えなくても結構ですが、私の見たところでは、しばらく何も食べていないご様子だ。違いますか?」
「ええ、実はもう三日間、水以外のものは私の口には入っていません。お恥ずかしい話ですが、正直言って、ここまで落ちるとはおもいませんでしたよ。」
「それで、さっきの話の続きですがね。あなたがお金を貸した社長の名前ですが、確か、渡辺とか言っていませんでしたか?違いましたか。渡辺社長でしたよね?」
「そうです。渡辺社長です。」
「そのあなたの渡辺社長と私の友人の知り合いの渡辺社長が同一人物かどうかは、私には分かりませんが、この前、ヨシオを殴っていたのが渡辺社長だとすると、大柄な人だ。私の友人の知り合いの社長も体格の大きな人だと聞いておりますから、同一人物の可能性は大いにありますよ。もし同じ人ならば、私の友人は彼の日本の住所を知っていますから、あなたを騙して日本へ帰ってしまったのならば、簡単に彼の居場所は分かりますよ。しかし、もし、何かの事件に巻き込まれて、まだマニラにいるのだとしたら、この捜査は難航しそうですね。」
高瀬はまだ落ち着かない様子でうつむいている。それでも段々と話し出した。
「私が渡辺社長と会ったのは旅行社の芳子さんの事務所でした。私が芳子さんと話をしていると渡辺社長が血相を変えて部屋に飛び込んで来まして、強盗にあって何もかも盗られたので助けて欲しいと、汗びっしょりになって頼みました。丁度、今のこの私と同じ様にね。何もかも盗られて、まったくマニラには知り合いがいないので助けてくれと、どこで聞いたか知りませんが芳子さんを訪ねて来た訳です。芳子さんは社長にコレクトコールで日本に電話をさせました。それは芳子さんの銀行の口座に日本から送金させる為でした。それでその送金が届くまでの間、時間がもったいないので、遊ぶ金を貸してくれないかと頼まれました。確かに電話で、自分の会社の部下にお金を至急送るように指示をしていたのを聞いていましたので、自分は安易にも渡辺社長を信用してしまいました。まったくお恥ずかしい次第ですが、彼がどこに滞在しているのかも、もちろん、日本の住所も聞かずに、私の一年分の生活費をそっくり渡してしまいました。ところが、悪いことは重なるもので、社長はルネタ公園でまた強盗にあってしまいました。わたしの貸したお金まで盗られてしまいました。・・・・・・・。」
高瀬は色々なことを思い出してしまったのか、テーブルに泣き崩れてしまった。相当、悔しかったとみえて、その泣き顔には厳しいものが混じっていた。
「ルネタ公園はとても広い公園です。カジノへ向かう途中で社長はもう歩けないと言い出しましてね、私がスナックと飲み物を買いに行っている間に社長は再び強盗に襲われてしまいました。私の貸してあげたお金を全てそっくり盗まれてしまいました。性質の悪い強盗で、社長はその時ひどく殴られまして、一時はそのまま死んでしまうのかとおもったくらいです。すぐに病院へ行こうとしたのですが、それは出来ませんでした。なんせ、私たちは無一文の状態になってしまいましたので、その夜は私の部屋で過ごして、そして次の日に芳子さんの所へ相談しようと向かいました。その途中で社長はあのヨシオとかいう子供を見つけましてね、私には何が何だかさっぱり分からないうちに、社長はあの子に殴りかかったという訳です。そこへあなたが現われました。その後、私たちは芳子さんの事務所へ行きましたが、まだ送金したという知らせは届いていませんでした。僕はがっかりしていた社長をいたわるつもりで冷房のよく効いた映画館へ誘いました。しばらく社長は気持ち良さそうに座席で眠っていたのですがね、トイレへ行くと言って席を立ったっきり姿を消してしまいました。」
「そうですか、それで大体、話はつかめました。高瀬さんがその社長とはぐれてしまった経緯も分かりました。」
「ええ、まさか、映画館から姿を消してしまうなんて誰がおもいますか、ちょっとトイレに行ってくると言い残して、そのまま、戻っては来ませんでした。自分は日本から社長のお金が送られてくることになっていた芳子さんのところへ急ぎました。ところが、その芳子さんも急に日本に帰ってしまったとかで、マニラから姿が消えてしまいました。私はもう何が何だか分からなくなってしまい、頭の中が本当に真っ白になってしまいました。結局、私一人がバカになってしまったというわけです。さらに悪いことには、もう一度、社長が消えてしまった映画館へ行ったのがまずかった。今度は自分が強盗に襲われてしまい、残り少なかった小銭もパスポートも、それから航空券までもそっくりやられてしまいました。それで私は警察の前でああやって何か手がかりはないかと座っていたのです。そうしたら、突然、署長室に連れて行かれて、あなたからヨシオのことを聞かされました。正直言って、ああ、これでやっと、日本に帰れるとおもいました。強制送還でも何でもいいから、日本へ早く帰りたいと心底そうおもいました。」
正樹は話しに夢中になっていて、注文をするのを忘れていた。
「そうだ、高瀬さん。何にしましょうか。この店にはたいしたものはありませんけれど、結構、家庭的なものはそろっていますよ。どうぞ遠慮しないで言って下さい。これがメニューです。さあ、どうぞご覧下さい。」
「有り難うございます。では、お言葉に甘えまして、おかゆをお願いします。しばらく何も食べていなかったものですから、急にかたいものは胃が受け付けないとおもいますので、私はおかゆをお願いします。」
「ああ、それがいいかもしれませんね。でも、この店のおかゆはおいしいですよ。生姜が入っていて、紅花も上に散らしてあってね、なかなか見た目にもきれいだし、味もなかなかのものですよ。私も同じものにするかな。飲み物はどうしますか?ビールはまだ止めておいた方がよろしいかとおもいますが。」
「コーヒーにして下さい。あたたかいコーヒーが今とても飲みたい気分です。」
「分かりました。ではちょっと注文してきますね。私はビールにしますが悪しからず。この国に来て、水代わりにビールを飲んでいますので、悪い癖がついてしまいました。」
正樹は調理場の中へわざわざ入って行って注文をした。大きな声で呼べば店の者が飛んで来るものを、そうしないのが正樹のやり方だった。二分もしないうちにウエイトレスがビールとお湯だけ入ったカップをテーブルに置いた。高瀬はコーヒーを頼んだのだが、お湯だけ入ったカップを目の前に出されて、ぶぜんとした表情に変わった。ウエイトレスはそんな高瀬の顔色などちっとも気にすることなく、エプロンのポケットからコーヒーの入った紙袋とクリームの入った小袋、そして最後に砂糖の入ったビニール袋を取り出し、テーブルの上に並べた。そして何も言わずにさっさと調理場へ引っ込んでしまった。正樹が高瀬の顔を見ながら言った。
「この店のホットコーヒーはこれなのですよ。インスタントコーヒーを自分でつくらせるスタイルを採用しています。客によって好みが皆それぞれ違いますからね、クリームを入れたり入れなかったり、砂糖はいらないという人もいる。自分でつくらせることは極めて合理的なやり方ですよ。結構、マニラではコーヒーを頼むとお湯とスプーンだけ出てくる店は多いですよ。このスタイルが主流みたいですね。」
「そうでしたか、話を聞いているうちにだんだんと心があたたかくなってきましたよ。でも暑い国だから、みなさん、あまりコーヒーなどは飲まないのかもしれませんね。」
「いえ、そんなこともありませんよ。どこの家庭でも朝はコーヒーと決まっていますよ。この国が暑い暑いと言っても人間の体というものは、いつも気温が30度の中にいますと、ちょっと温度が下がっただけでも寒く感じるものですよ。それがたとえ28度だったとしても、とても寒く感じるものです。それから華僑の人達の影響でしょうか、朝はおかゆを食べる習慣もあるみたいですね。朝、おかゆを売って現金収入を得ている家もよくさがせば近所には必ず何軒かはありますからね。ただフィリピンの朝食の定番と言えば、何と言ってもダインでしょう。小魚を干して塩辛くしたものを焼いたり、油で揚げたりしてご飯と一緒に食べます。少量のおかずでもって大家族の食卓を賄います。食費のことを考えると、このダインは必要不可欠な食べ物と言ってもいいとおもいます。おそらくフィリピンの人たちは海外に出稼ぎに行く時はこの干し魚のダインをカバンの底に大量に詰め込んでいくとおもいますよ。ダインは確かにうまいですよ。ただ、その腐ったような臭いには凄いものがありますね。焼いたり揚げたりすると近所中がその臭いに包まれてしまって、外国では近所迷惑として苦情が殺到すると私は確信しますがね。高瀬さんは食べたことがありますか?」
「いえ、まだ、ありません。日本の納豆のようなものですか?」
「いや、納豆の臭いの方がまだかわいい方ですよ。でも北欧のあのニシンの缶詰には負けますが、それでもダインの臭いは食べた後まで、そうですね、五時間ぐらいは残っているのではないでしょうか。しかしこれだけ多くの人々から支持されている食べ物ですからね、確かに、うまいのですよ。」
おかゆが運ばれてきて、ふたりはしばらく黙っておかゆを食べた。高瀬はひとさじ、ひとさじ、ゆっくりと味わいながら口に入れ始めた。
「それで、さっきの話の続きですが、そのあなたの渡辺社長はどこの出身だかご存知ですか?」
「彼の話し言葉から判断しますと、京都だとおもいますよ。」
「京都ですか、私の友人の知り合いの渡辺社長も京都だったとおもいます。もし、二人が同一人物ならば、あなたが失ったお金は戻ってくる可能性は高くなりますね。」
「そうだとしたらありがたいのですが。」
「しかし、何度も言うようですが、その渡辺社長が何かの事件に巻き込まれてしまって、行方不明になっているとしたら、そう簡単にはお金は戻らないでしょう。お金を貸す時に借用証みたいなものは書いてもらいましたか?」
「いいえ、何も要求しませんでした。こうなってみると、ちょっとした走り書きでも、もらっておくべきでしたよ。」
「とすると、あなたがお金を貸したということは渡辺社長しか知らないわけだ。それでは日本の彼の家族や会社の住所が分かっても、そう簡単にはお金は取り返せませんね。」
「まったくその通りです。だから、私としてはどうしても社長が無事であってほしいわけです。」
「高瀬さん、私はその旅行会社の芳子さんとやらが急にいなくなったことも、どうしても解せませんね。まあ、署長には、今、あなたがおっしゃったことはすべて私の方から伝えておきますよ。警察も可能な限りの捜査はしてくれるとおもいますよ。」
「有り難うございます。」
「高瀬さん、私はあなたが、もし、このまま日本へ戻られれば、このフィリピンに対して何一つとして良い思い出はないことになりますよね、違いますか。徹底的に打ちのめされてしまったあなたに、こんな事を言うのは、私の方がおかしいのかもしれませんが、私としては、もう少しあなたにこの国のことを知ってから日本へ帰ってもらいたいと願うものです。」
「しかし、これだけ痛めつけられますと、早く故郷の新潟へ帰りたい気持ちでいっぱいになります。このままここにいると命までもとられてしまいそうな気がしてなりません。」
「ご尤もです。ただ、あなたは日本に帰っても会社にはまだ戻れないわけですよね。とすると、日本に帰ってバイトをしながら会社からの呼び出しを待つわけだ。高瀬さん、せっかくあなたはこのマニラにはるばるやって来たんだ。私はあなたがもう少しこの国に留まってフィリピンという国の良さをほんの少しでもいいから発見してから帰って欲しいとおもいます。」
「正樹さん、今の私には何も考えることは出来ませんよ。日本へ戻る飛行機代すらないのですからね。どうしたらいいのか、まったく分からないのですよ。」
しばらく正樹は考えてから、こう言った。
「もし、あなたが日本へどうしても、今すぐに帰りたいのであれば、私がその飛行機代をお立替えいたしましょう。日本に帰ってから、お金ができた時に返してもらえれば、それでいいです。しかしね、かなりしつこいようですが、もう一度、このフィリピンでやり直してみる気はありませんか。はっきり言いますね。私たちは日本語の教師をさがしています。一流大学を出られて、一部上場の企業におられるエリートの高瀬さんにこんなことを言うのは失礼かとおもいますが、半年でも一年でもいいのですが、日比混血児たちに日本語を教えてやってはくれませんか。もちろん、生活に困らない程度の手当ては出します。このまま嫌な思い出だけを抱えて日本へ帰るのでは、あまりにも悲しすぎませんか。何かを掴んで戻られた方がきっと高瀬さんの人生の上で大きな力になるとおもいますよ。どうも、さっきから私みたいな若輩者が偉そうな事ばかりを言ってごめんなさい。」
「さっき、警察で署長が言っていた子供たちというのは日比混血児たちのことですか?署長は島とか何とか言っていましたけれど、どういうことでしょうか。」
「実は、私たちはフィリピンのほぼ中央にあるボラカイ島で、親からも社会からも見捨てられて非行に走ってしまった日比混血児たちと共に生活をしています。その島で子供たちに日本語や一般教養を教えているのです。勘違いされては困るのですがね、わたしたちの家は孤児院でも刑務所でもありませんから、島に残るのも去るのも子供たちの意思に任せています。すべて自分で決めさせています。幸いなことに今までのところ、一人も島を出たいと言い出した子供はいません。ボラカイ島という素晴らしい環境の中でみんなで助け合って共同生活をしています。どうです、高瀬さん、島を見てからでも結構ですから、考えてみる気はありませんか。過ぎ去った事はもう忘れてしまいましょう。あなたが失ったお金の事は署長に任せておいて、僕と一緒にボラカイ島へ行きませんか。あなたのようなやさしい人はきっとボラカイ島で子供たちを見ているだけで、彼らの生きて行く強さを感じるはずです。」
おかゆをすすりながら高瀬は熱いものがこみ上げてくるのを感じた。知らず知らずのうちに涙がぽろりと一粒だけ零れ落ちてしまった。
「そうですよね、正樹さん、フィリピンが悪いわけじゃない、この自分が不注意だっただけだ。このまま、この国を呪って日本へ帰ったとしても何も良いことなんかありゃしない!そうですよね。是非、私をそのボラカイ島へ連れて行って下さい。お願いします。僕に勤まるかどうかは分かりませんが日本語を教える手伝いを僕にやらせて下さい。」
「よし、決まった。もう、それだけおかゆを食べたのだから、ビールは大丈夫でしょう。乾杯したい気分ですよ!一本だけ注文しますけれど、いいですね。」
「もちろんですとも、お願いします。」
高瀬は筋骨たくましい頑強な男だったが、だらしなく涙がポロポロとこぼれてしまった。見知らぬ国で災難に遭遇し、頼る当てもなくさ迷い歩き、絶望のどん底までたどり着いた者にしか分からない涙だった。人のやさしさに触れた者にしか分からない涙だった。しばらく飲んだ後、二人は店の前からタクシーに乗ることになった。正樹が手を上げて車に合図しようとした時、高瀬がそれを止めた。
「すみません。ちょっといいですか。」
高瀬は正樹をその場に残して、キアポ教会の中へ入って行ってしまった。しばらくして高瀬は教会から出て来て言った。
「どうしても、あの奇跡を起こす黒いキリストさんにね、一言、お礼が言いたくて、すみませんでした。お待たせしました。」
高瀬は黒いキリスト像、ブラックナザレスが自分を救ってくれたとおもった。高瀬は一文無しになり、この教会へ来た。別に祈りに来たわけではなかった。ただ足が疲れて、他に休む所もなく、教会の長椅子に座って休むためだけだった。しかし高瀬は素直に自分に起こった出来事が奇跡だと信じて、黒いキリスト像にお礼を言ったのだった。
正樹は幼い頃より、人間が作った偶像を人間が崇拝することにはかなりの抵抗感があった。ところがこのフィリピンに来て少し見方が変わってしまった。極限の精神状態で生きている人々は何かに救いを求めて生きているのだ。だから完全に偶像を否定することが出来なくなってしまった。正樹がフィリピンに来て驚いたことの一つには、どの町へ行っても立派な教会があるということだ。それは大都市だけではなくて、どんな田舎へ行っても同じだった。人々がどんなに貧しい暮らしをしていても、教会だけはどこへ行っても大きくて立派な建物が建っていた。本来、教会とはその字のごとく、教えを聞くために集う会のことを意味していたはずなのだが、いつしか建物のことを差すようになってしまったようだ。その昔、キリストが野原に人々を集めて教えを説いたように、教会とは建物など必要ないと正樹はおもっていた。だから貧しい人々からの献金でもって神父たちがのうのうと暮らし、自分の生活を後回しにしてまで、苦労して絢爛豪華な教会の建物を造る意味がよく分からなかった。しかし、ヨシオの死んだ母親のように彼女が住んでいたゴミ捨て場のバラックから時には飛び出して、天井が霞んで見えないような立派な大聖堂に行って、しばしそこに身を置き、心を静め、祈ることの意義を正樹はこのフィリピンに来て初めて分かったような気がする。貧しい人々が多い所にこそ立派な教会は必要なのであり、逆に先進国のようにお金が有り余っている場所には豪華な教会は必要ないのではとおもうようになってきた。正樹は、ふと、こうもおもった。「貧しい人々は幸いである。彼らは天国を見るであろう。」何か、そのような言葉が聖書の中に書いてあったように記憶する。その解釈は人それぞれ違うとおもうのだが、読んだ人がその意味を自分の人生の中で考えればいいのであって、正樹は何不自由なく暮らす先進国の人々はお金と暇と時間を持て余してはいるが、意外と、心は満たされていないのかもしれないともおもった。それで心の救いを求めて人々は集まり、様々な宗教が存在しているのかもしれない。さっきの聖書の言葉が真実ならば、経済的に恵まれている人々は最終的には天国には入れないのではないだろうかと正樹は感じ始めていた。ただ、これだけは強くおもう。先進国には豪華な教会や寺社は必要ない。そんなお金があれば発展途上の国で苦しむ子供たちの為に使ったほうが、よっぽど役に立つではないか。偽善的な礼拝、心の道楽の為の宗教なんてナンセンスである。もし本気で救いを求めるのであれば、バラック小屋に集まって質素に勉強し合えば良いとおもう。先進国には立派な教会や寺社、あるいはサロンのような建物はいらないと正樹は確信している。日本でよくみられる宗教はあまりにも余計な部分が多過ぎるのである。正樹は高瀬がキアポ教会から出てくるのを待ちながらそんなことを考えていた。
キアポ教会はあいかわらず貧しい人々で溢れていた。正樹と高瀬は教会の柵を利用して薬草を売っている老婆の前からタクシーに乗り、ケソン市のアパートへと向かった。
次の土曜日に、高瀬と正樹は東警察署からヘリコプターの定期便でボラカイ島に渡った。その日、新しく二人の子供が島の生活に加わった。すでに50人以上の子供たちがボラカイ島で生き生きと共同生活を始めていた。高瀬はその子供たちを見て、自分ももっと強く生きなければならないとおもった。
行方不明
行方不明
さして広くない部屋に会議用のテーブルが置かれてある。ホワイトボードを背にする席に本来ならば渡辺社長が座るはずなのだが、社長はむろん欠席であった。何故なら、この日の会議のテーマは行方不明の渡辺社長についてであったからだ。京都にある渡辺電設の会議室には会社の役員全員と東南アジア各国の支店長が集まっていた。専務の吉田がこの日の議事進行役となって話を始めた。
「マニラを旅行中の社長から緊急の電話がありました。その電話を受けたのはこの私です。社長は強盗にあって何もかも盗られたと言っておられました。とにかく動きがとれないのでお金を送るように指示がありまして、その日のうちに指定された口座に送金しましたが、その後、社長とはまったく連絡がとれなくなってしまいました。送金が届いたのであれば、届いたとその旨を次の予定とともに連絡してくるはずですし、もし、お金が社長の手元に届かない場合は届かないがどうしたのだと連絡はくるはずです。ところがまったくの音沙汰なしになってしまいました。何らかの事件に巻き込まれた可能性が非常に高いとおもわれまして、今日は皆様にこうしてお集まりいただきました。」
目をパチクリさせながら専務の吉田は本来ならば渡辺社長がつくべき席に緊張気味に腰を下ろした。渡辺社長は一代でこの渡辺電設を築いたワンマン社長だ。これまで何から何まで社長一人で決断し、好きなようにやってきた。そしてその影で女房役を辛抱強くやってきたのが、この専務の吉田だった。光を放つためには誰かが影にならなければならないのかもしれない。決して二人は仲が悪いわけではなかったが、吉田は仕事以外では社長とのつきあいは出来る限り避けてきた。人生観がまったく違っていたからだ。しかし、この二人のまったく違った性格がうまく調和して渡辺電設という会社を従業員百人、海外の者まで入れると千人を超える京都でも中堅の優良企業に育てあげたのだった。頭髪に白いものが混じる専務の吉田はテーブルに用意されたお茶を一口すすってから、ゆっくりとまた話し始めた。
「社長の居場所を捜す手がかりはほんのわずかです。社長が電話をかけてきた旅行社の電話番号とお金を振り込んだ口座の番号だけです。芳子という名前の口座に送金をしました。もう二週間以上も社長とは連絡がとれないものですから、これ以上、放って置くことは出来ません。警察に届けを出す前に、わが社としては誰かにマニラに飛んでもらって、調査したいとおもいますがどうでしょうか?」
「まずは、現地の日本大使館に問い合わせてみてはいかがでしょうか?パスポートまで盗られているわけですから、当然、大使館には顔を出しているはずですからね。」
佐藤が真っ黒に日焼けした顔でそう言った。佐藤はタイ国に渡辺電設が初めて海外進出を果たした時の立役者で、現在はその合弁会社の顧問をしている人物だ。そして東南アジア方面の総責任者でもあった。専務の吉田が言った。
「マニラの日本大使館には一週間前にすでに電話をしてみました。その時はまだ、社長からパスポートの紛失届けは出されていませんでした。もしその後で、届けがあれば、大使館の連中にも事情は説明してありますから、こちらに連絡は来ることになっています。残念ながら、今のところ、社長は大使館へは姿を現していないようです。」
「そうですか。・・・・・専務!・・・私でよければ、マニラに行ってみましょうか?」
「佐藤君、そうしてくれるか。君なら、向こうの事情にも詳しいし、言葉にも問題がないからな。そうか、そうお願い出来るかね、有り難う。社長に成り代わってお礼を言います。」
今までにも、しばしば渡辺社長は行方不明になったことがあったが、しかし、それは気のあった芸妓たちと一緒にどこかの温泉にしけ込んでしまったような、たわいのないものだった。今回の事態はちょっと深刻で、社長の失踪地が保険金目当ての殺人がつい先日起きたばかりの場所だったからだ。渡辺社長の道楽がどんなに過ぎても、こんなに長い間、会社に連絡を入れなかったことは今までに一度もなかった。社長の秘書的な立場にあった伊藤麻衣子が恐る恐る話し出した。
「先日、社長の部屋を整理していましたら、机の上の名刺入れから、フィリピンからの留学生だとおもわれる方の名刺をみつけましたが、今回の件と関係がありますでしょうか?」
専務の吉田が伊藤麻衣子のことを見ながらこう言った。
「他にはフィリピン関係のものはなかったかね?社長はフィリピン商工会議所のメンバーだったはずだ。他にもまだフィリピン人の名刺はあるはずだが、調べてみたかね?」
申し訳なさそうに伊藤麻衣子が答えた。
「それが、その、ボールペンでボンボンと走り書きがされた留学生の名刺が一枚出てきただけで、他には何も見つかりませんでした。」
「それで、その名刺の住所はどうなっている?日本の住所だけかね?」
「いえ、表と裏に印刷されていまして、表には東京の留学生会館の住所が、裏にはどうやらフィリピンの自宅の住所が書いてあるようですね。」
「伊藤君、その名刺をコピーして佐藤君に渡してくれたまえ。」
「ではさっそく、コピーしてまいります。」
「いや、後でも構わん、会議が終わってからでもいいから、間違いなく佐藤君に渡すように。いいね。」
「はい、承知しました。」
会議室の正面には渡辺社長の大きな写真が掛けられていて、写真の社長は澄ました表情で部屋中を見回していた。専務の吉田はその写真にちらりと視線を向けた後、再び、佐藤に向かって話し出した。
「マニラに行ったら、すまんがその名刺の留学生の所にも行ってみてくれんか。この際、社長とつながりのありそうな場所は全部あたることにしよう。他に、諸君の中で社長からフィリピンのことで何か聞いたことがあったら、遠慮せずに言ったくれたまえ。何か社長は言ってなかったかね。」
何で社長の遊びの後始末を自分たちがしなくてはならないのか、というのが皆の率直な感想だったが、誰もその事には触れなかった。佐藤が再び立ち上がって話し始めた。佐藤の知的な顔は表情が豊かで、とても魅力的だ。細やかな感情の持ち主で思いやりのある目も彼をなかなかの人物に押し上げていた。佐藤が発言した。
「大使館やイミグレーションへも行ってみますが、現地の警察へは、最後の最後に、何も社長の消息がつかめなかった場合に行くことにします。本社との連絡は頻繁に行なうつもりです。もちろん自分の連絡先はいつでも分かるようにしたいとおもいます。それから、今回の件ですが、私はどうも何かの犯罪の臭いがしてなりません。もしお許しをいただけるのならば、部下の田口を同行させたいのですが、専務、いかがでしょうか?」
「もちろん、独りでは危険が伴う仕事だ。田口を連れて行ってくれたまえ。」
「有り難うございます。それでは出来るだけ早くマニラへ出発したいとおもいます。」
「そうしてくれ、頼んだぞ!すぐに伊藤君に座席の手配とか費用の準備をさせるから、会議の後、しばらく待っていてくれたまえ。」
佐藤の献身的な決断のおかげで会議は予定よりも早く終わった。マニラへ渡辺社長を捜しに行くことが決まった佐藤は会社からの帰り道、京都の百万遍の近くの居酒屋「河原町」
に自然と足が向いてしまった。佐藤はこの店の常連客で、特にこの店の板さんとはとても馬があった。佐藤が「河原町」と書かれたのれんをくぐると、いつものようにカウンターの中で板さんが忙しく接客から調理まで独りで器用にこなしていた。佐藤は一年のうち半分をタイで過ごすが、残りの半分は本社のある京都で仕事をする。京都に居る時は勤めを終えると、決まって、この「河原町」に来て人生の潤滑油をたっぷりと注すのが彼の唯一の楽しみだった。
「いらっしゃい。今日はお一人で?」
「ああ、一人だ。明日からまたマニラへ出張だよ。しばらく、来れなくなるよ。」
「あれ?タイじゃなくて、今度はマニラですか?」
「ああ、そうだ。うちのバカ社長を捜しに行くんだよ。行方不明になっちまった。」
「マニラと言えば、テレビでやっていましたけれど、保険金殺人があったところですか?」
「ああそうだよ。うちの助平社長はそのマニラで行方知れずになっちまった。」
「身代金か何か、要求されてはいませんか?」
「ああ、今のところは何も連絡はないが、その可能性もあるね。まったく、つまらん仕事だよ。あきれて何も言えないよ。板さん、コップでいいから冷でいっぱい頼むよ。」
席に着いた佐藤はメガネを外して、お絞りで顔を拭いてから言った。
「なあ、最近、おかみさんの姿をあまり見かけないけれど、具合でも悪いの?」
換気扇の下でタバコに火をつけて一息入れようとしていた板さんが答えた。
「いや、そんなことはありませんよ。佐藤さんが帰られた後に来ることが多くなりましたが、体の方は健康そのものですよ。」
「そう、それなら良いけれどね。いやね、私にはさ、おかみさん、何か心配事でもあって、少し元気がないように見えたからね、前々から一度聞こうとおもっていたんだ。それとも誰かいい人でもできたのかな?ま、余計なことだな。」
「いえ、そんな人はおりませんよ。」
「そうそう、それからさ、そこの電話のところにいつも座るお客さん、以前は私がここに来ると、必ずやって来て、その電話のところに座って一人で飲んでいたお客さん、最近はとんと姿を見せないけれど、引越しでもしちゃったのかな?」
「ああ、茂木さんのことですか。そうなんですよ。佐藤さんも気づいていましたか、茂木さんは昔からのおなじみさんで、京都に居る時は佐藤さんと同じで、毎晩のようにいらっしゃってましたからね。それが突然、何の連絡もなく、バッタリですからね。おかみさんも茂木さんのことは随分と心配していますよ。前は長野の戸隠の方へはよく旅行をされていたようですが、でもその時は、いつもそう言ってから出かけて行きましたからね、今回は何も言わずにですからね。そうか、・・・・・そう言われてみると、・・・・・・おかみさん、茂木さんが顔を見せなくなってから、急に元気がなくなってしまったような気もするな。まあ、あっしの気のせいかもしれませんがね。」
「その茂木さんはおかみさんにとっては、何か、特別なお人なんじゃないの?僕はまだ彼とは話をしたことはありませんがね、ただ、昼間に彼と街ですれ違う時は軽く会釈ぐらいはしますよ。何と言いますかね、同じ店の常連客同士ですからね。いくらなんでも、知らん振りをして通り過ぎることは出来ないでしょう。」
板さんは大皿におでんを大盛りに見繕って佐藤の前に出した。
「佐藤さんにそう言われてみると、茂木さんが来なくなってから、確かに、おかみさんの様子も変わったような気がするな。いつもそばにいると気がつかないこともありますからね。ああ、確かに、おかみさんは口数が少なくなったような気もする。」
「その茂木さんとか言う人、彼がそこの電話の横でじっと黙って酒を飲む姿がとてもいいんだな!男の哀愁がにじみ出ていてさ、大酒飲みの僕が言うのもおかしいがね、黙ってカウンターの片隅で飲むその姿に少し憧れていたんだな。分かるよね、板さんなら、色々な客を見てきているんだから。寂しいね、彼がそこにいないとさ。本当にどうしたんだろうね。・・・・・・・・彼も行方不明か、どうも行方不明が、この頃、やたらと多いな!」
「茂木さんはすぐそこの大学の学者さんですよ。」
「そう、学校の先生か。」
「いいえ、違いますよ。先生ではなくて、まだ学生さんですよ。」
「おいおい、随分と老けた学生さんだな!」
「何度も浪人してお入りになりましたから、それに度々、休学もされていましたからね。まだ大学院の学生さんだそうですよ。」
「彼の専攻は何かね?何を勉強しているのかな?」
「哲学だそうですよ。」
「そう、哲学ね。僕にはさっぱり分からない世界だな。でも、彼はさ、この店の一部のような気がしてさ、この店にはなくてはならない存在のようにおもえて仕方がないな!実に様になっていると言うか、この店の雰囲気とぴったりと合っている感じだよ。」
冷やで何杯も続けて飲んだ佐藤はいつもより早く酔っ払ってしまった。そこへおかみがガラガラと引き戸を開けて入って来た。
「あら、佐藤さん、いらっしゃい。」
「ああー、おかみさんか、今、うわさをしていたところだよ。」
「何、佐藤さん、もう、すっかり出来上がってしまっているじゃないの。もう駄目よ!これ以上、飲んだら!」
「分かりました。なー、おかみさん、いいですか、止まない嵐はないのですからね。人生、悪いことばかりは続かないものですよ。分かりますか?元気出して、お互い、頑張りましょう。」
「なあーに、それ、まるで哲学者みたいなことを言うのね。」
板さんが女将に言った。
「佐藤さんはまた外国に出張だそうですよ。今度はマニラだとか。」
「あれ、タイじゃなかったの、今度はマニラなんですか?」
「そう、またしばらく来れませんが、茂木さんのように私のことも忘れないで下さいね。」
茂木の名前を聞いて、おかみの顔が曇ってしまった。板さんが慌てて間に入って言った。
「佐藤さん、いつ、マニラへご出発と言いましたっけ?」
「ええと・・・、ええーと・・・、まだ言ってなかったとおもうけれど、明日です。明日、出発します。行方不明の社長を捜しにマニラへ行ってまいります。」
行方不明と聞き、おかみは奥へ引っ込んでしまった。茂木のことを心配していることはそれで明白であった。さすがに佐藤も失敗したと感じ、そそくさと居酒屋「河原町」を出て帰り道についた。後味の悪い夜だった。ふらふら歩きながら佐藤はおかみに申し訳ないことをしたと何度も反省した。少し、茂木と言う青年に嫉妬していたのかもしれないと佐藤は感じていた。
翌日、佐藤は部下の田口と渡辺社長が消えてしまったフィリピンへと向かった。
魚の餌
魚の餌
薬物で眠らされていたのだろうか、渡辺社長は気がつくと頭のてっぺんがガンガンと痛んだ。周りを見回すと、すぐそこが船の中だということが分かった。船特有の丸窓があり、部屋全体が大きく上下左右に揺れていたからだ。渡辺社長は必死になって記憶の紐をたどってみた。
確か、そう、あれはヨシオを殴り飛ばしてから、高瀬青年と旅行社の芳子さんの事務所に行ってみると、彼女はいなかったのだった。それで二人でがっかりして映画館に入ったのをおもいだした。暇つぶしに映画を観てはいたものの、苦手な英語だったのでわしにはさっぱり分からなかった。それでわしは映画館でしばらく眠ってしまった。ところが急に小便がしたくなって起きてしまった。南国に来て小便の回数はたしかに激減していた。汗で体の水分が出てしまうせいなのだろうか、たまに出てくる小便の濃度もその為かとても濃かった。膀胱が映画館の冷房で急に冷やされて、忘れていた小便を急におもいだしたのだろう。スクリーンの横にある前扉を開けて通路に出て、突き当りのトイレに入った。奥の個室は満席で、ドアの下からそれぞれ足がのぞいていた。こちらのトイレは隠し扉があれば良い方で、ほとんどの公衆トイレはドアが破壊されていて、大概、トイレはしゃがんで前の方をバックや新聞で隠しながら用を足すのが一般的だ。この映画館のトイレはまだましな方だった。自分は個室には用はなかった。横の壁についている小便用の便器に向かって小便をしていると、何者かが突然、後ろから両腕の付け根を抱え込んできた。不意をつかれて、自分はまったく身動きがとれずに便器から引き離される格好になってしまった。まだ用が済んでおらず、そうだ、小便が便器から床へとだらしなく飛び散っていたのを思い出した。次の瞬間、強烈な痛みが頭部に走り、自分は気を失ってしまった。それからのことはまったく思い出せない。自分は何者かによって、気を失ったまま、映画館から連れ出されて、そして今、こうして船室に閉じ込められている。渡辺社長は立ち上がって丸窓の外を見てみた。時折、小さな島が遠くに見えるが、船の速度と同じ速さで真っ青な大きな海が窓の下を流れていた。
突然に、全ての歯車が狂ってしまった渡辺社長は映画館から連れ去られ、薬物を投与された後、しばらくピエール(港)の倉庫に監禁されていた。身代金を要求した後、ミンダナオ島へ船で連れて行き、社長の体をバラバラにして臓器を売り払う予定だった。闇の世界では臓器の引き合いはいくらでもあった。臓器はいつでも引っ張りだこで高い値がついた。身代金は京都の渡辺電設本社へ直接に伝えられた。女の声で、しかも日本人の女の声によって、短い電話が入り要求された。
船室で目を覚ました渡辺社長は自分が誘拐されたことに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。船室のドアは外からカギがかけられていたし、テーブルの上にはボールペンと一枚の質問事項が書かれた紙が置かれてあった。ご丁寧にも、質問状はすべて日本語で書かれてあった。名前、住所、電話番号、勤め先、等々、これで暗証番号でも書けば、クレジットカードの申込用紙と何ら変わらない書式だった。社長は自分を誘拐した連中は身代金を要求するつもりで、しかもそのグループには日本人も含まれていると直感した。何時間経っても、犯人たちは姿を現さなかった。実に賢いやり方であった。奴らは自分たちの姿を見られることなく身代金を盗るつもりだった。犯人の姿が見えない恐怖は時間の経過とともにどんどんと膨らんでいった。船室の丸窓からはよく晴れた空の下にきれいな海がキラキラと輝いていた。
「シュー」という音が鍵穴からして、ガスが船室に流れ込んできた。渡辺社長は再び気を失い、床に倒れてしまった。
社長が再び意識を取り戻すと、そこはまた船室で、明らかに前とは違った大きな部屋だった。今度は大型の船のようであった。床にはバスケットが置かれてあり、その中には幾つかのパンとミネラルウォーターが入れてあった。同じボールペンと質問書もバスケットの底に添えてあった。犯人たちはすでに渡辺電設に身代金を要求しており、社長はもちろんそのことを知らなかった。渡辺社長はバスケットの中のパンに目をやったが、全身を恐怖と船酔いが支配していて、食欲などはまったくなかった。再び窓の外を見てみると、海はさっきよりもずっと下の方にあった。やはり大型の客船に気を失っている間に移されたことが分かった。船の揺れ方も少しではあったが前よりはまだましであった。どうせ、この船室のどこかに隠しカメラとマイクがしかけてあるのだろうとおもい、社長は目に見えない相手に向かって大声で怒鳴ってみた。
「おれを何かのガスで眠らせて、別の船に乗せやがったな!お前らはそうやって最後まで姿を見せないつもりらしいが、それなら、それでいいよ。わしは何も書かないからな!身代金は取れないからな!そのつもりでいろよ!」
犯人たちが社長をまだ生かしているのは、身代金の為ではなかった。向こうに着いてから、売り飛ばされる彼の内臓が腐らないようにしているだけのことだった。社長はひとしきり怒鳴った後で、床に寝転んでじっとしていた。すると突然、大爆音とともに窓が吹き飛んでしまった。幸いにも社長には怪我はなかったが、もの凄い衝撃で耳の聞こえが悪くなってしまったようだった。何が何だかまったく分からなかったが、渡辺社長は恐る恐る吹き飛んだ窓の外をのぞいてみた。その時、船がガクッと大きく傾いたので、社長は両手でしっかりと壁に沿って渡されてあったパイプを掴んだ。だがどうする、これで飛び降りれば、逃げることが出来るぞ、しかし海まではかなりの距離があるし、そして飛び込んだ後はいったいどうなるのだ。社長は迷った。すると船室の外で声がした。それも日本語の女の声だった。
「証拠を残すとまずいから、奴の息の根を止めておきなさい!早く、やっておしまい!」
船はすでに停止しており、今にも誘拐犯人たちはわしの口を封じに船室の中に入って来ようとしていた。どうせ死ぬのなら、殺される前に海へ飛び込んだほうが、まだチャンスはある。社長は窓が吹き飛んでポッカリと開いてしまった穴から、出来るだけ遠くにジャンプした。次の瞬間、渡辺社長の大きな体は海面に叩きつけられ、かなり深くまで沈んだ後、再び、海面に浮き上がってきた。しかし落ちた時に胸をかなり激しく打ったらしく、その痛みがずっと続いていた。この持続する痛みは骨が折れた時の痛みだ。以前に腕を骨折した時と同じ痛みが胸のあたりで止まらなかった。すでにたくさんの浮き輪が投げ込まれており、救命ボートも降ろす準備が進められていた。この大型客船の船長はすでに船の沈没を予期しており、緊急信号を四方八方に発信していた。渡辺社長はプカプカ寄ってきた浮き輪につかまって沈み行く船を見ていた。いつ鮫がそっと近寄って来て、自分の足を、いや下半身をざっくりと食い千切っても不思議ではなかった。それでもさっきの船室でむざむざと殺されるよりはましだった。船は一時間と持ち堪えることは出来なかった。後部から徐々に海底へと沈んでいった。
おそらく、この時点で世界で一番ついていない男はこの自分だと渡辺社長はおもった。胸の肋骨が何本か折れてしまっているのだろうか、その痛みを堪えながら、ただじっと海に浮かんでいるだけだった。泳げばそれだけ体力が消耗してしまうからだ。気が遠くなるような時間が過ぎていった。いつしか自分の周りには壊れた船の残害もなくなり、社長一人だけが潮の流れに任せて漂流していた。海に浮かんだまま、とうとう夜になってしまった。見上げると、空には星が埋め尽くされており、自然と感情が高ぶってきてしまった。渡辺電設という会社を始めてから、考えてみれば、星などしみじみと見たことはなかった。
もし、このまま救助されなければ、自分もあの星になるのかとおもうと、自然と目頭が熱くなってきた。確かに自分はわがまま勝手に生きてきたかもしれない。しかし、千人を超える従業員とその家族の生活を支えてきたことも、それもまた事実なんだと渡辺社長は痛む胸を張りたかった。このまま死ぬのか?この南国のきれいな海で魚の餌になってしまうのか?浮き輪につかまる腕の力が段々と弱ってきていた。社長は痛みを堪えながら上着を脱いで、残された力でそれを引き千切り、何度もよって紐にした。その紐を使って自分の体と浮き輪を縛り付けて固定した。いつ眠ってもいいようにしたのだった。意識がだんだんと薄れてくるのを、悲しいかな、渡辺社長は自分でもはっきりと分かった。
人間魚雷
人間魚雷
とんでもないニュースが世界中を駆け巡った。それは日の丸を掲げた小型の魚雷艇がフィリピンの大型客船に突っ込んだというニュースだった。サンボアンガへ向かっていたフィリピンの大型客船が日の丸の付いた魚雷艇のようなものによって撃沈されたという知らせだった。行方不明者は二千人以上、いやメディアによっては五千人以上と報じているものもあれば、六千人が行方不明と書く新聞もあった。いずれにせよ大きな海難事故が起こったと世界中に配信された
フィリピンの中心的な交通機関は鉄道でも飛行機でもない。たくさんの島々が寄り集まってできているフィリピンでは何と言っても船が庶民の足なのである。飛行機に乗るくらいなら、その費用を生活にあてて、安価な船旅を選択するのが常識である。人生を決して急がないという国民性も船という交通機関を発展させてきた。ただ、残念なことには船の定員を守らずに、積めるだけ積んでしまい、航海の途中で沈没する悲劇が後を絶たなかった。またその犠牲者の数が半端ではなかった。これまでに一体どれだけの人々が魚の餌食になってきたのか把握出来る者はこの国のどこにもいないであろう。しかし、そんな悲しい海難事故とは裏腹にフィリピンの海の美しさはいつの時代も変わらない。圧倒的なまでに美しい海は人間の営みとは関係なく、昔から、フィリピンという国をやさしく、時には荒々しく包み込んできた。青い海に浮かぶ島々の間をぬって、ゆっくりと過ごす船旅は日常生活で疲れきったフィリピンの人々の心を癒し続けてきた。船の甲板に立って通り過ぎる島々を眺めていると、もうそれだけで心が満たされてくるから不思議だ。青い海は人々の心の曇りまでもきれいに洗い流してくれる魔法の力を持っているようだ。
ただ、忘れてはならないことがあります。このきれいな海もかつては戦場だったということです。グアム島で終戦を知らずに長い間、戦い続けた日本兵の横井さんが発見され保護されました。そして、フィリピンでも大都市マニラからさほど離れていないルバング島で小野田さんが時を同じくして発見救出されたことは大きなニュースになりました。それは同時に、まだ他にも終戦を知らずにそれぞれの任務を遂行する為にジャングルや無人島に潜んで戦争を続けている日本兵がいることを意味しています。
終戦間際、日本では敵に捕まるくらいなら自決せよと教育されました。純粋な人々ほどその教えを忠実に守りました。まだ十代で特攻隊に志願した青年たちは本当に日本の国のことを考えて結論を出したことでしょう。正に純粋そのものだったのです。日本という国の為に彼らは彼らの若い命を自ら進んで犠牲にしました。人間魚雷「回転」もしかり、魚雷を操縦しながら、そのまま敵艦に突っ込む海の自爆兵器が「回転」でした。まだ人生が始まったばかりの青年たちが人間魚雷「回転」の発射台に立ち、鉄の筒のような魚雷の中へ乗り込む時のおもいを察すると、胸が熱くなります。戦争の悲惨さはそれだけではありません。その「回転」の発射台を造る為に無理やりに連れて来られた人々もいたということも史実なのです。朝鮮から強制的に日本に連行された多くの人々はその発射台に限らず、日本のために様々な苦難を背負わされました。過酷な労働を強いられ、多くの朝鮮の人々が命を落としたことも決して隠してはならない史実なのです。歴史を教える立場にある人々は偏った教え方をしてはならないし、戦争はどんなに正当な理由があって始まっても、最後には、結局、弱い者がたくさん傷つき、双方が悲惨な状況になってしまうことを示さなければならないとおもいます。 先の大戦では沖縄戦だけで15万人以上の軍人が、民間人は10万人以上が犠牲となりました。艦砲射撃で沖縄の自然は破壊され、家屋や倉庫はすべて火炎放射器で焼き払われ、その火炎放射器の炎は防空壕や洞窟の中に隠れている人々にまで届き、多くの命が失われました。捕虜になるくらいなら、自決するように教育された人々はそれに従いました。そしてその頃、日本本土の国防婦人部の人達は本当に大真面目になって本土決戦に備えて竹槍の訓練を毎日やっていました。日本海軍が誇る「連合艦隊」が壊滅し、成功する確率が極めて低かったのにもかかわらず、特攻隊が数多く故郷を後に飛び立っていきました。人間魚雷、人間機雷、広島、長崎の原爆投下など、戦争の悲劇、悲惨さをあげれば、本当に切りが無い。戦争はいけないのだと何度も訴えても、時間が経つと、良識のある人々から必ず返ってくる言葉があります。「戦争が悲惨なことは分かっているよ。でも、もし、誰かが自分の国を侵略しに来たら、お前ら平和主義者たちは戦争は悲惨だからと言って、自分の家族が殺されるのを黙って見ているのかね?戦争とは自分の国を守る為にするものだよ!誰かが自分たちの国を守らなくてはいけないのだから、武器をもってはいけないと言う方がおかしい。違うかね。」と言われます。そう言われると、もう何も返す言葉は見つからないでしょう。その通りです。誰かが武器を持って戦わなくてはならない時は必ずあります。欲の固まりのような人間が与えられた領土でじっとしているわけがないし、世界中どこかで、自分の領域をはみ出しては戦争が起こっているのを見ても明らかなように、禁断のリンゴを食べてしまった人間は永遠に完全な人間にはなりえないわけです。人間の歴史は戦争の歴史そのものであり、それは狂人から自国を守る自衛の戦いであったり、また復讐の連鎖が影に潜んでいる場合もあるかもしれない。ただ平和主義者がどんなに軽蔑される世の中になってしまったとしても、平和を願う心だけはしっかりと持ち続けないといけない。奪い続ける人間と与え続ける人間と、どちらが良いのかは明らかなのだから!
今なお、悲しい戦争の歴史は続いているわけで、イラク、アフリカ、中東と報復の連鎖は続いています。どこかで恨みを断ち切らないといけない。敵を愛し、許し合うことこそが、もっとも人間らしい行為なのであるということが、何故、人々は分からないのでしょうか。どうして人間は誰とでも一緒に幸せに生きることが出来ないのでしょうか。国境なんかいらない!国があるから戦争が起きてしまう。でも戦国時代以前の荒れ果てた日本のようになればいいのか、それではもっと野蛮な争いだらけの世界になってしまうではないのか、じゃあ、どうしたらいいのだ。
自分を愛していない人を愛する努力を続けていくことこそが最も重要な事であって、それが人類に与えられた唯一の試練であり、真理だということに早くみんなが気づかないといけない。出来なくても努力し続けることが大切なのであって、決してあきらめてはいけないとおもいます。
さて、話を戻します。
終戦の年、この美しいフィリピンの島々の一つに日本海軍の小型の潜水艦が故障し漂流しました。乗組員は十名で、潜水艦を修理しているうちに終戦をむかえてしまいました。しかし、その無人の島に流れ着いた十人の日本兵は日本が降伏したことを知らぬまま、ただ時間だけが、どんどんと経過してしまいました。何度か、航空機が上空から日本が降伏したことを知らせるビラを撒き散らしましたが、そんなものは誰一人として信じるものはいませんでした。また時、運悪く、ベトナム戦争が始まり、フィリピンの基地からはアメリカの軍用機が毎日のように飛び立ち、フィリピンの空をたくさんのアメリカの戦闘機が飛び交っていたことも、彼らに終戦を信じさせることを難しくしてしまいました。何十年という月日はアッと言う間でした。南の島での生活の最大の敵は何と言っても病でした。毎年、ひとり、ふたりと仲間が熱病にかかり去っていきました。結局、吉岡という将校だけが最後まで生き残り、この美しい無人島で独りで闘い続けてきました。吉岡は潜水艦に乗る前は九州の大分に配属されて、人間魚雷の製作に携わっていたものだから、そんな経験もあって、潜水艦の修理をあきらめてからは、ただ、もくもくと壊れた潜水艦の部品を使って人間魚雷の製作だけにすべてを集中してきました。それを作ることを唯一の生きがいとして独りで頑張ってきました。そして、その魚雷の完成と共に自分の命を断とうと決心していたのでした。
それはとてもきれいな朝でした。吉岡は今日をその日に選んだのでした。何年の何月何日なのかも分からないまま、最後の日をたった独りで迎えた。自分のわき腹がすでに肥大していて、痛みも日増しに激しくなってきていたから、これ以上待てば、完全に身動きが出来なくなってしまうことぐらいは医者でなくともすぐに分かりました。もう、吉岡少尉は心も体も限界でした。ニッパヤシの葉を取り払い、潜水艦の部品を寄せ集めて作った手製の人間魚雷を最後の力を振り絞って海に浮かべ、そして、ゆっくりとその中へ乗り込み、長い間、暮らしてきた無人島を後にしたのでした。よく晴れたすばらしい日だった。
沖へ出ると、吉岡は近づいて来るマストを発見した。マストは次第に大きな船の姿に変わり、十分に吉岡の射程圏内に入った。吉岡は大きく息をした後、ねらいをその船に定めた。
「いよいよだな、よし、正面から突っ込んでやる。みんな待っていろよ。すぐにみんなのところへ行くからな。」
吉岡はそう自分に言い聞かせて、体をロープで人間魚雷にしっかりとくくりつけた。速度を速めながら、吉岡は正確に大型客船に向かって突進していった。一度や二度、かわされても必ず撃沈させる自信はあった。燃料も十分あったし、潜水艦の魚雷を六本束ねてあるから、体当たりさえすれば、どんなに大きな船でも必ず沈没させる威力があった。
その時、大型客船の操舵室では突進してくる鉄のかたまりを発見してパニック状態であった。船長は右に舵をきるように何度も叫んでいた。船は吉岡の乗った魚雷を避けようと右に回ったが、とうとう避けきることが出来なかった。
やっと、吉岡の戦いは終わろうとしていた。長い戦いだった。仲間が一人減り、二人減りして、気がつくと一人ぼっちになっていた。人間魚雷は自分自身も病魔におかされた吉岡少尉の最後の賭けだったのだ。もう若くはない吉岡だったが衝突の瞬間、彼は大声で叫んでいた。
「天皇陛下万歳!おかあさん、おとうさん、先立つ不幸をお許し下さい!」
左の船横後部に吉岡の人間魚雷は見事に命中した。それはちょうど渡辺社長が監禁されていた船室の真下であった。激しい衝撃音とともに船の横腹にはぽっかりと大きな穴が開いてしまった。エンジンは完全に破壊され停止してしまった。それが吉岡少尉の最後だった。
戦争は悲惨だ!戦争が終わった直後に焼け野原に立って、すべての人がそうおもう。もう二度と戦争はごめんだと誰もがおもう。自分の身内を戦いで失ってみて、戦争はどんな理由があるにせよ、いけないことだと分かる。しかし、時間の経過とともに、人々はその戦争の痛みを忘れてしまい、いつの間にか大きな歯車の中に組み込まれて、再び、同じことを繰り返してしまう。もうすぐ戦争を体験したお年寄りたちがいなくなってしまう日本です。誰かが戦争の悲惨さを語り継いでいかなくては、この国の将来が心配になります。平和憲法を改正しようとする意見が世の中の大勢になりつつある昨今、時代遅れになってしまった「平和」という言葉だけれど、決して死語にしてはいけない言葉なのです。
呼び寄せられた大切な人々
呼び寄せられた大切な人
どうすることも出来ない状況や、失意のどん底にあった者がこのボラカイ島のやさしさに触れると、誰でも皆、ボラカイ島の虜になってしまう。それはそうなった者にしか感じることが出来ない不思議な現象だ。魔法といった方が正しいのかもしれない。高瀬青年もボラカイ島へ来て救われたのだった。マニラへ来てから彼に次から次へと降り掛かってきた災難、その不幸の連続からやっと解き放たれたのは、ボラカイ島に来て心の安らぎを得た時だった。もし正樹にあの時、出会わなければ、そしてボラカイ島のことを知らなければ、まだ地獄をさ迷い歩いていただろう。ボラカイ島は島に来るすべての人々に安らぎと休息を与えるだけでなく、生きている喜びや、強く生き抜く力を与えてくれる。傷つけられたり、迫害されたりして、誰かを恨む事でずっと生き続けてきた人々や、復讐、報復、仕返しを絶えず繰り返してきた人々にも、それらすべてがいかにちっぽけな行為であり、取るに足らない事であるかをこのボラカイ島は圧倒的な美しさでもって教えてくれるのである。そして時として、ボラカイ島は奇跡を起こしてまで、島にとって大切な人を呼び寄せることもあるのだ。
高瀬は日比混血児たちと生活を共にするうちに、日本で自分の為だけに生きてきた時のあの空しさが、この島の生活にはないことに気づき始めていた。そして全財産を奪って消えてしまった渡辺社長へ対する憎しみも次第にくだらないことだとおもうようになってきていた。自分の敵を許すことが出来ない者には天国の扉は開かれないと正樹が話してくれた。何も天国へ行くことが目的ではない。今をどう生きるか、どうやったら幸せになれるのかを天国を引き合いに出して話してくれただけだ。この美しいボラカイ島の中で親からも社会からも見捨てられた子供たちが生き生きと生活している様子を見ていて、子供たちひとりひとりの生きる力の強さを感じることが出来るようになった。
大型客船が沈没したという知らせはボラカイ島の役場にも入った。海難事故の現場の潮の流れから、もしかするとボラカイ島にも漂流者が流れ着くかもしれないと連絡があり、島中のバランガイ・キャプテン(町内会のリーダー)たちが集められ説明があった。海岸線の巡回が強化され、緊急の特別救急体制がとられた。
天候は強風が続いており、どのヤシの木も大きく揺らいでいた。今にも雨が降りそうな空が、この二三日続いていた。こんな悪天候では海は波も高いし、海に投げ出された人達は誰も助かりはしないというのが大方の見解だった。
豪邸の娯楽室では外の天気などまったく気にもせずに茂木、ボンボン、高瀬、菊千代、そしてマニラから新しく日比混血児を連れて来ていた正樹の五人が雀卓を順番に囲んでいた。船の事故の事など、その時はまったく知らないままゲームに夢中になっていた。こちらの中国人街で手に入る麻雀牌は日本の牌よりもふた回りほど大きい。豪邸ではやたらとポンをする中国式の遊び方はせず、日本式の知的な麻雀ゲームを楽しんでいた。本の見開き二ページを丸暗記してしまうボンボンがトップを走っていた。やはり天才なのである。どこに何があるのかを一目で覚えてしまっているから強い。日本人の意地を見せようと茂木がそれに続いた。高瀬はまったく良いところがなかったが、彼も実に楽しそうにゲームをしていた。菊千代は大好きな茂木のことを殴った正樹のことが今でも嫌いらしく、明らかに正樹を狙い撃ちにしていた。皆、勝手なことで大声で叫び、ささいなことを大袈裟に喜び、隣近所にも気兼ねをする必要のない豪邸の麻雀を心から楽しんでいた。仲間と過ごす夜は本当に短い。窓から見えるボラカイの空は曇ってはいたが、それでも次第に明るくなりかかってきており、豪邸の裏庭で飼われている軍鶏たちも朝の刻を告げ始めていた。
お手伝いのリンダはすでに朝食の準備にとりかかっていた。コーヒーを入れるためのお湯を沸かそうとしていた、その時である、リンダは犬たちが激しく吠え始めたのに気がついた。エプロンをつけたままの格好で、彼女は犬小屋の方へ走って行った。海への階段の途中に移された犬小屋から、リンダは恐る恐る下の浜を見てみた。砂浜に浮き輪と人が打ち上げられているのが目に飛び込んで来た。彼女は浜には降りずに、すぐ豪邸に引き返して、そのことを娯楽ルームにいた人々に伝えた。
リンダの知らせで麻雀はもちろん中断された。その知らせは、そこにいた人々の眠気を一瞬で吹き飛ばしてしまった。一同、顔を見合わせてから、そろって外へ出た。夜はすでに明けており、強い雨が降り始めていた。そして足早に階段をおり、浜に出てみて、皆、びっくりしてしまった。茂木以外の誰もがよく知っている渡辺社長がそこに仰向けになって倒れていたからだ。これは正にボラカイ島の魔法以外の何ものでもなかった。ボラカイ島は奇跡を使って渡辺社長の巨体を浜に打ち上げさせたのだった。でもどうして渡辺社長がここにいるのだ?誰一人として、今起こっていることを説明できる者はいなかった。不思議な力が働かなければ、こんな偶然は有り得ないはずだ。そして、もう一つの魔力は社長にあんなにひどい目にあわされた高瀬にかかっていた。目の前に倒れている渡辺社長への憎しみがすでに心の中から完全に消えてなくなってしまっていた。正樹も浜に倒れている社長の顔を見て、ディーンにちょっかいを出し、ヨシオをあんなに痛めつけた社長への憎悪が自分の中から、もうすっかりなくなっていることに気がついた。騒ぎを聞きつけて駆け寄って来たヨシオもボラカイ島の暮らしが彼をすっかり変えてしまっていた。ヨシオは自分のことを殺そうとした渡辺社長への恨みをすでにボラカイの海に捨ててしまっていたようだ。それどころか、砂浜に倒れている社長に近寄り、社長の胸にヨシオは自分の耳を押し当てて、社長の心臓の鼓動を確かめた。次の瞬間、ヨシオは満面の笑顔で正樹に向かって叫んだ。
「兄貴、まだ生きていますよ!」
「そうか、それは良かった!兎に角、上へ運ばなければならないな。」
そこにいた男ども全員で渡辺社長の巨体を豪邸まで何とか運んだ。誰もが素直に社長が意識を取り戻すことを願ったのだった。ただ菊千代と千代菊の二人だけは、出来ればこのまま社長が眠り続けてくれれば良いのにとおもった。京都にいた時のことが、過ぎ去った過去が今の二人の幸せを壊すことを恐れたからだった。
浜に人が打ち上げられたという知らせを聞いて、バランガイのキャプテンが豪邸にすっ飛んできた。
「まだ、生きているそうですね。」
「ええ、渡辺社長は生きていますよ。外傷はないようですが、骨が折れている可能性はありますね。まあ、息はしっかりしているようですから、彼が気がついてみないことには何とも言えませんね。浮き輪に体を縛り付けてありましたよ。それで助かったみたいですね」
「そうですか。その方は日本人なんですね。それに渡辺?とかおっしゃいましたよね。何でその人の名前がお分かりなのですか?」
「偶然にも、彼は私たちの知り合いでした。それで、みんなで、とても驚いていたところなんです。」
「奇跡ですね。この悪天候の中を何日も漂流して助かることなんか考えられない!しかも、あなたたちの知り合いだったとは、奇跡としか言いようがない。驚きました。隣の島にも何人か打ち上げられましたが、みな、息はなかったそうですよ。日本人の女性も打ち上げられたそうですよ。」
「そうですか。日本人の女の人がね。その人の身元は分かるのでしょうかね?」
「さあ、私には何とも言えませんが。役所に行って聞いてみましょうか?」
「お願いします。渡辺社長と関係のある人かもしれませんからね。」
「しかし、何度も言うようだが、流れ着いた人が、あなたたちのお知り合いだったとはね、本当に驚きました。きっと、その渡辺さんとかいうお方は、将来、あなたたちにとって、うまく言えませんが、何か、とても重要な役割を担っているのに違いありませんよ!これは正にボラカイ島の奇跡ですよ。神様がそのお方をお助けになったのは、彼の役目がまだ終わっていないからで、過去にあなたたちと、どんなつながりがあったか知りませんが、ボラカイ島が奇跡を起こして、彼を呼び寄せたことは確かですね。」
最後の審判
最後の審判
日が経つにつれて、海難事故の被害は次第に大きなものになっていった。ボラカイ島のまわりの島々にも数多くの人達が流れ着いたのだが、残念ながら生きて救助された者はいなかった。ボラカイ島には渡辺社長を含めて五人の者が流れ着き、そして驚いたことには、その五人ともが奇跡的に助かったのだった。
渡辺社長はまる一昼夜、眠り続けた後、目を覚ました。日本では考えられないような大きな部屋の隅にぽつんと置かれたベッドの上で、意識を取り戻した。社長は上半身を起こして、部屋を見回していた。何が一体、どうなっているのか、分からないまま、しばらくぼんやりしていると、ボンボンが部屋に入って来た。
「良かった!やっと、気がつきましたね。心配しましたよ。」
「なんだ、おまえはボンボンじゃないか。」
「ええ、そうですよ。社長、どこか痛むところはありませんか?」
夢なのか、現実なのかさえも分からない渡辺社長が答えた。
「胸のあたりが凄く痛むな。何が何だかわしにはさっぱり分からん。何で、お前がここにいるのだ?ここはいったいどこなんだ?そうだ、たしか、わしは海を漂流していたんだ。ここはどこだ?わしは死んだのか?ここは天国なのか?」
「そうですか、海を漂流していたんですか。やはりあの船に乗っていたんですね。だんだん私にも分かってきましたよ。」
「沈没したんだ。わしの目の前でな。それから随分、流されてな、浮き輪に自分を括り付けてから眠ってしまったらしい。それが何でベッドの上にいるんだ?何だ、このだだっ広い部屋は?いったい、ここはどこなんだね。」
高瀬がその時、部屋に入って来た。高瀬は何もしゃべらずに、黙ってボンボンの後ろに並んだ。何故、社長が映画館から突然に消えたのかが分からない以上、何も話すことはなかったからだ。
「高瀬君じゃないか、どうして君までここにいるんだ?」
完全に混乱してしまった渡辺社長はおもわず溜め息をついてしまった。
「そうだ、映画館だ!映画を一緒に見に行ったんだ。高瀬君と映画館へ行ったんだよね?」
高瀬は返事をしないまま、ただじっと、社長のことを見つめていた。社長が話を続けた。
「そう、トイレだよ。小便をしていたら、後ろから羽交い絞めにされて、殴られたんだ。わしは誘拐されてしまったんだ。」
大きな社長の話し声に気づいた正樹とヨシオも部屋に入って来た。二人を見ると社長の眉が大きく歪んだ。
「おまえらまで、何で、ここにいるんだ。いったいここはどこなんだ。」
正樹が真面目な顔で答えた。
「社長さん、ここは天国の入り口ですよ。あなたはこれから最後の審判にかけられるところだ。あなたが天国に入るのがふさわしい人かどうか、これからみんなで話し合って決めるところですよ。正直に話さないと、すぐに地獄に落ちますよ。いいですか。」
菊千代と千代菊の双子と茂木も社長のベッドの前にやって来た。茂木は社長とは面識はないが、この双子の登場にはさすがの渡辺社長も驚いてしまった。かつてひいきにしていた京都の舞妓たちが、突然、目の前に出現したのだから、もう、観念するしかなかった。渡辺社長は正樹が言ったように、自分の最後の審判の日がとうとうやってきたとおもった。
「だめだ。もう、わしには何が何だかさっぱり分からん。ボンボン、何とか言ってくれ。」
ボンボンは静かに話し出した。
「社長はさっき、誘拐されたとおっしゃいましたよね。」
「そうだ、目が覚めてみると、船の中に監禁されていた。ボールペンと質問状、名前とか住所とか書くやつだよ。それが置かれてあった。身代金を要求するつもりだったのだろう。」
「それで、犯人はどんな連中だったのですか?」
「それが、分からんのだよ。奴ら、一度も姿を見せなかったからね。ただ、日本人の女がドアの外でわしを消すように指図をしていたのを聞いたよ。大きな音がして窓が吹き飛んでしまったおかげで、わしは奴らに殺されずに、海に飛び込むことが出来たわけなんだ。」
今度は茂木が話し出した。
「私は茂木と申します。はじめまして。ボンボンや高瀬君からあなたのことは色々うかがっております。随分とこちらに来られてから、災難にあわれたそうで、ご同情申し上げます。そうすると、あなたは何者かによって
映画館で拉致され、そのまま誘拐されて船に閉じ込められていた。幸運と言ったら良いのか、あるいは不運と言ったら良いのか分かりませんが、兎に角、その沈没した船から脱出することが出来たというわけですね。」
「その通りです。」
茂木が大声で言った。
「それで、だいたい分かりました。でも、ご無事で何よりでした。渡辺社長、あなたのことを神様は必要だから、あんなに荒れた海を漂流したにもかかわらず、命が助かったのですよ。渡辺さん、あなたはきっと選ばれた人なのですよ。」
部屋に集まった豪邸のスタッフは浜に渡辺社長が打ち上げられた理由を何とか理解した。もし、それが事実ならば、高瀬は本当の意味で救われることになる。高瀬はゆっくりと椅子に腰をおろして、次の話の展開を待った。正樹が再び茶化した。
「選ばれた者が子供を殴ってもよろしいのでしょうか?このヨシオは彼に殴られたおかげで何週間も生死をさ迷い歩いたのですからね。茂木審判長、それは許されないことではありませんか。」
ヨシオがそれに答えた。
「兄貴、もう、いいんだ!そのことはもういいんだよ。この社長さんのおかげで、おいらは兄貴と巡り会えたのだからね。」
「ヨシオ。おまえ、随分と成長したじゃないか。この助平オヤジを許すことが出来るようになるとは、まったく感心、感心。」
渡辺社長は反論をしないで、自分の最後の審判に耳を傾けていた。何と言っても、黙ったままの、菊千代と千代菊の姿が渡辺社長にとっては恐怖であった。いるはずがない所にいるはずのない二人がいるのだから、これは下手なことを言うと、本当に地獄に落とされるとおもっていた。高瀬が質問した。
「社長、そうすると、芳子さんとはお会いになっていないわけですね。」
「ああ、君とあの旅行社の彼女のオフィスに行ったのが最後だよ。それからは、さっきも言ったように何者かに拘束されていたからね。芳子さんとは会っていない。」
「実は、芳子さんも姿を消してしまいましてね。そうですか、とすると、社長とは別の問題ということになりますね。さっき、バランガイのキャプテンが言っていましたが、隣の島に日本人の女性の溺死体が打ち上げられたそうです。もしそれが芳子さんだとすると、社長を誘拐した犯人グループと何か接点があるかもしれませんね。それは今、調べてもらっています。その社長が聞いたという、船から脱出する前に聞いたドアの外の日本人の女の声は芳子さんではなかったのですか?」
「さあ、どうだったかな。あの時は爆風で少し耳がやられていてな、誰の声だったかと聞かれても判断できる状態ではなかったな。ああ、そうだ。君からお借りしたお金は心配しないで下さい。必ずお返ししますから。私はこうしてまだ生きているようだから、お金はどうにでもなる。」
「早く、日本にいる社長のご家族とか会社に連絡をされた方が良いかもしれませんね。もし、社長を誘拐した犯人グループの中に芳子さんがいたとしたら、身代金が要求されている可能性がありますからね。」
「そうだな。高瀬君の言う通りかもしれない。」
茂木とボンボンはすでに、これまでの成り行きをほとんどつかんでしまっていた。茂木が部屋に集まった人たちに向かって言った。
「今日のところはこのくらいにして、みなさん、もう遅いので休むことにしましょう。渡辺社長もまだ混乱しておられるようだから、時間をかけてゆっくりと説明していくことにしましょう。今日はこれで各自の部屋にお引き取り願います。」
皆が部屋を出るのを見て、慌てたのは渡辺社長だった。このまま、何も分からないままで解散されたのでは頭がおかしくなってしまうとおもった。何でここに菊千代と千代菊がいるのだ。社長は部屋を出ようとしていたボンボンを呼び止めた。
「ボンボン、もう少し説明してくれんか。一体ここはどこなんだ。何でお前さんたちがここにいるんだ。あの双子の舞妓が何故、ここにいる?説明してくれ!」
「分かりました。それではゆっくりとご説明いたしましょう。」
ボンボンは一人部屋に残って、渡辺社長に話を始めた。静まり返った大きな部屋の中でヤモリが「キキキキ・・・」っとひとしきり鳴いていた。
投資
投資
渡辺社長の回復はすこぶる早かった。社長がボラカイ島に流れ着いてから四日目の昼下がりには、もう島の中央にあるハワイサンド・ビーチを裸足で歩いていた。この砂浜は毎朝、島の人たちがきれいに掃除をするので、裸足で歩いてもガラスの破片や流木などで足を切る心配などはなかった。歩いても、歩いても白い砂浜が続いており、この砂浜はただ歩くだけでも心が大らかになってくるから不思議である。そして渡辺社長の隣を歩いていたのは高瀬とヨシオの二人で、本来ならば、この三人が一緒に散歩をすることなど、まったく考えられないはずなのだが、ボラカイ島の美しさはそんな三人の過去のちっぽけな出来事をすべて包みこんでしまっていた。時折、三人は顔を見合わせながら笑い声をあげた。そしてまた白い砂をしっかりと踏みしめながら歩いていた。ジョギングを楽しんでいる観光客とすれ違ったり、島の子供たちなのだろうか、器用に砂を固めてお城を作っていたりもした。
「なあ、高瀬君、わしはこの島へ来てから、今まで自分がしてきたことがとても恥ずかしくなってしまったよ。この島の混血児たちの瞳を見ていて、つくづく、そうおもったよ。まったく穴があったら、本当に入りたいくらいだ。」
「まだ、岬の家が日比混血児たちに開放されてから、そんなに日は経っていませんが、どんどん子供たちの数は増えていますよ。茂木さんはもう新しい宿舎を建てるつもりでいます。島で職が無い人々を集めて建てるつもりらしく、毎日、役場へ通って、その相談をしていますよ。」
「まったく、茂木さんはわしとは正反対で、大したお方だよ。島の人たちともうまくやっていくことも忘れてはいない。ちゃんと考えてやっているからね。同じ京都の人間として、いや、同じ日本人として、とても鼻が高いよ。」
三人が歩いている前に犬が吠えながら飛び出して来た。犬は三人の方には見向きもせずに、嬉しそうに海へ入って行ってしまった。水浴びでもするのかと三人が見ていると、どうやら魚を見つけたらしかった。耳をぴんと立てて、顔を左右にキョロキョロさせながら、海の中を気持ち良さそうに飛び跳ねていた。
「高瀬君、見たまえ、何とも良い光景ではないか。あの犬には魚は決して捕まえられないけれど、ああやって、無邪気になって飛び跳ねている様は実にすばらしいね。犬は真剣なのだろうが、見ているこちらとしては本当に心が洗われるような気がするね。平和だね。素晴らしい島だよ、ここは、何と言う島だったっけ?」
「ボラカイ島ですよ。僕もこのボラカイ島に来て救われましたからね。ここに連れて来てくれた正樹さんに感謝していますよ。」
「正樹?ああ、ヨシオの兄貴分か。最後の審判とか言って、わしを脅かしやがった奴だね。あれ、そう言えば、昨日から、その正樹君の姿が見えないようだけれど、どうしたんだろうか?」
「ああ、彼ならマニラに帰りましたよ。学校がありますからね。でもまた、すぐに戻って来ますよ。彼にとってはここの岬の豪邸は自分の家みたいなものですからね。ところで、社長、日本の会社には連絡をしなくてもいいのですか?」
「ああ、構わんよ。少し心配させた方がわしのありがたさを分かってもらえるからな。しばらく黙っていることにしたよ。」
京都の渡辺電設の本社に一億円の身代金の要求があったことを渡辺社長は知らなかった。身代金の要求があったのは佐藤と田口がマニラに飛び立った直後に、電話によって日本人の女によってなされた。逆探知を恐れたのか、電話はまた後で送金方法を連絡すると一言だけ言い残して直ぐに切れてしまった。本社では、佐藤たちともまだ連絡もとれずに、誘拐犯からの次の電話が入るのをじっと待っていた。もちろん社長がボラカイ島に流れ着いた事など知る術もなかった。
ヨシオは高瀬から日本語を習い始めているが、まだ社長と高瀬の会話を理解することなどはもちろん出来ない。しかし、じっと二人の話す言葉を聴いていた。日本語は一度も会ったことはないけれど、父親の国の言葉だ!ヨシオはいつかその言葉を自分のものにしてやろうと心に決めていた。だから二人の会話が今は理解できなくても、真剣にそれを聴いていた。言葉というものは理屈ではないのだ。ろくに勉強もしない赤ん坊が突然話し出すようになるのだから、その言葉の中に自分自身をどっぷりと浸からせて置くことが大切なのだと茂木さんが言っていたのをヨシオはおもいだしていた。
さらに先まで、飽きずに砂浜を歩いていると、向こうから、茂木と菊千代が歩いてくるのが見えた。役場の帰りらしいと高瀬が言った。たくさんの書類を茂木は抱えていた。ヨシオは駆け出して行き、茂木のそばに近寄り、茂木の持っていた書類を代わりに持った。
茂木が渡辺社長に話しかけた。
「どうですか、お体の具合は?今日は良いお天気ですからね、浜の散歩は気持ちがいいでしょう。」
「ええ、おかげさまで、だいぶ良くなってきました。しかし、ここは実に良いところですね。本当に気持ちがいいですよ。それに、皆さんとても親切で、何と言うか、その、素直に嬉しいのですよ。あまりうまく言えませんが、こんな気持ちになったのは初めてでして、兎に角、嬉しいのです。本当にこの島に流れ着いたことを喜んでいますよ。」
「そう、それは良かった。」
「茂木さん、子供たちのことですが、私にも何か手伝わせてくれませんか。」
茂木の横にいた菊千代が目をまん丸にして言った。
「まあ、おなごのお尻ばかりを追い回していた社長さんが、そんなことを言うなんて、どうしたことでしょう。驚いたわ。」
「菊千代、もう勘弁してくれよ。今度ばかりは、わしも肝をつぶしてな、おまえたちをこの島で見た時には、本当に天国だか地獄に来てしまったとおもったんだよ。だからな、わしにも何か、今までやってきたことへの償いがしたいとおもってな。わしは気持ちを入れ替えたんだ。」
高瀬も話しに加わってきた。
「渡辺社長、社長の会社は東南アジアに幾つか支店をお持ちだとか、この前、言っておられましたよね。」
「ああ、そうだよ。タイとベトナム、それから今年になってから、インドネシアにも合弁会社をつくった。」
「それなら、社長、是非、このフィリピンにも来て下さいよ!子供たちが成長した時に、働ける場所がどうしても必要なのです。確かに、この島にいれば、食べることには困らないかもしれませんが、それじゃあ、駄目なんです。彼らはいずれ自立しなければなりませんからね。」
太陽の光が雲と混ざって幾つにもわかれ、その光の線が海の水平線に降りて来た。その神秘的な光景を背に渡辺社長が言った。
「確かに、菊千代の言う通り、わしは女にはだらしのない男だったかもしれないが、仕事に関しては人を見る目をちゃんと持っているよ。タイでもベトナムでも信頼できるパートナーを見つけてきたからね。そしてな、高瀬君、わしはもう、このフィリピンでも、わしの会社を任せられる人たちをたくさん見つけましたよ。そう、みなさんとなら、きっとうまくやっていけそうな気がしますよ。こちらから、是非、その話はお願いしたいものですな。もし、みなさんがお嫌でなければね。」
その頃、渡辺電設の佐藤と田口は行方不明になってしまった渡辺社長を見つけ出すためにフィリピンにやって来ていた。当時も今もフィリピンでは最高級と呼ばれるマニラベイホテルに二人は宿をとった。落ち着いたスペイン風の歴史のあるホテルだ。ルネタ公園の海側の一等地にそびえ建っている白と青の大きなホテルがそれである。外国からの来賓客は大概このホテルを利用する。下町にあるホテルとは違って、街で拾った女の子を連れ込むようなことは禁止されている立派な格式のあるホテルだ。青色の屋根がマニラの青い空に溶け込んで、堂々として、とても気品のあるホテルであった。
田口が言った。
「佐藤さん、いいのですか?こんな、凄いホテルに泊まったりして、怒られませんかね。」
「ああ、いいんだ。ここに泊まった方が、何かと便利なんでな。これからいろいろな人たちに会うことになるが、初対面でこのホテルに泊まっていると言えば、それだけで信用される。それに今回の仕事は少し厄介な仕事だからな、少しぐらい贅沢をしないとやってられないよ。それから、田口、今日はどこへも行かんからな、今朝は早かったし、長旅だったから、今夜はのんびりホテルで休むことにしようや。明日から仕事にかかることにする。会社への連絡も明日の朝一番ですることにして、今日は休もう。くれぐれも言っておくが、一人でホテルの外へは出るなよ!将来有望なお前まで行方不明になってしまっては大変だからな。いいな、今日はおとなしくホテルでのんびりしていろ。そうそう、もう一つ、生ものはいかんぞ!生水、氷も駄目だ。生魚もしばらく我慢してくれ。火を通したものしか食うな。ソフトドリンクも生ビールも止めておけ、まだ俺たちの体には免疫ができていないからな、慎重に行動しよう。いいな!」
ちょっと不満そうに田口が答えた。
「はい、分かりました。今日はホテルの部屋でおとなしくしていますよ。」
佐藤は昨夜、居酒屋から帰った後も興奮のあまり一睡も出来なかったのだった。社長を見つけることがこの出張の目的ではあったが、東南アジアでフィリピンだけが唯一、渡辺電設が進出していない国だったからだ。いろいろなおもいが頭の中を駆け巡り、ビジネスマン佐藤の血が騒いでしまったのだった。
「田口、俺は少し疲れたので、もう部屋で寝るからな。」
「ええ、こんなに明るいのに、もう寝るのですか?」
「すまんが、一人で適当にやってくれ。明日から忙しくなるから、お前も早めに休めよ!」
「分かりました。」
意気揚々とマニラへやって来た若い田口は完全に肩透かしを食らってしまった。しかし、尊敬する上司の佐藤の言うことは絶対であるから、今日はそれに従うことにした。
「自分も部屋で寝ることにしましたよ。では、明日の朝、ここでお待ちしていますが、何時にここに来ればよろしいでしょうか?」
「時計をもう直したのかな?まだだったら、日本との時差は一時間だから、一時間ちゃんと遅らせておけよ。明日の朝、九時にここで朝食を一緒にとることにしようや。それでいいな。」
「分かりました。ではおやすみさない。」
「ああ、おやすみ。」
佐藤は田口を残して、さっさと自分の部屋に入ってしまった。部屋に入ると、すぐに着ているものを脱ぎながら、窓から港の景色を眺めてみた。マニラ湾が一望の下に見渡せる良い景色だった。色々な形の船が好き勝手な所に錨を下ろしていて、佐藤は大きな港だなとおもった。振り返り、空調を一番強にセットし、浴室の扉を開けたまま、中で汗まみれの体を流した。タオルで拭いた後、タオルは椅子の背もたれにだらしなく掛け、そのままの姿でベッドに横たわった。京都にある渡辺電設の本社では、高額の身代金を要求されて、佐藤からの連絡を重役たちが待機して待っていたのにもかかわらず、佐藤は5分もしないうちに深い眠りについてしまった。
一方、田口はしばらくホテル内を歩き回ってから、佐藤のすぐ隣の自分の部屋に入った。ベッドの頭のところには分厚い聖書とホテルの説明案内書が置かれてあり、もちろん田口は聖書などにはまったく興味はなかった。ベッドの上にどかっと寝転がってはみたが、何もすることがなく、ホテルの案内書を何気なく開いてみた。ページをどんどんめくっていくと日本語で書かれた「マッサージ」という項目が目に飛び込んできた。しばらく迷ったあげく、勇気を出して受話器をとりあげた。そんなには疲れていなかったが、時間を持て余していたので、田口はマッサージを頼むことにしたのだった。三十分後に部屋に来てもらうことにして、田口はまずシャワーを浴びることにした。カラスの行水とは正に田口のことを言うのである。あっという間に浴室から出て来てしまった。田口はバスタオルを巻いて、窓際の椅子に腰掛け、タバコをくゆらせていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。貴重品はすでにフロントの金庫に預けてある。それは慎重派の佐藤の指示だった。さっきホテルのフロントで非常に換算率の悪いレートで両替をしてもらったペソの半分を靴の中に押し込み、紙幣が見えないように靴下を丸めてその中に重ねて入れた。残りの半分はハンガーに掛けてあるズボンのポケットに無造作に入れて、田口はドアのノブをゆっくりと回してドアを開いた。
ドアを開けた田口は驚きのあまり、しばらく得意の英語が出てこなかった。何故なら、てっきり田口はもう何年も前に、それもとっくの昔に引退したようなやり手ババアが来るとおもっていたのに、その田口の考えとは裏腹に、まるでモデルのような若いマッサージ嬢が廊下にすらりと立っていたからだった。田口の心臓は激しく鼓動を開始した。田口はドアのノブをつかんだまま、しばらく固まってしまった。
「メアイ?」と中に入ってもいいかと聞かれて、やっと田口から言葉が出た。
「カムイン、プリーズ。」
電話
電話
翌朝、ホテルのラウンジに佐藤が先に姿を現した。彼の手には地元の新聞が幾つか握られており、席に着くやいなや、テーブルの上にそれらをひろげて読み始めた。渡辺社長の行方に関係していそうな記事がないか、片っ端から読み始めていた。だいぶ遅れて、田口も部屋から降りて来た。
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。どうだ、よく眠れたか?」
「はあー、それが・・・。」
「何だ、まだ、眠そうな顔をしているな!」
「いえ、よく眠れましたよ。」
「まあ、昨日はどこにも連れて行ってあげられなかったから、だいぶ時間を持て余したのとちがうか。」
「いえ、そんなことはありませんよ。十分、南国の夜を楽しみましたから。佐藤さん、何か注文はされたのですか?」
「いや、まだだ。一応、新聞には目を通しておかないといけないとおもってな、すっかり注文をするのを忘れていたよ。私はコーヒーとトーストでいい。君は何でも好きなものを注文したまえ。」
「そうですか、では失礼して、少し栄養のあるものをいただきますよ。何か、新聞に載っていましたか?」
「いや、別に、ないな。」
「会社の方には連絡はされたのですか。」
「まだだ、後でするよ。少し調べてからでないと格好がつかないからな、それに今日は金曜日だし、本社のお偉いさんはゴルフや土日に遊びに行く準備で忙しいだろうからな、まともには話は聞いてくれんよ。別に連絡は月曜の朝一番でも大丈夫だろう。こっちもそれまでに土日を返上して、出来るだけのこと調べておけば格好がつくしな。」
「あの、佐藤さん。また、両替をしたいのですが、金庫のカギをかしてくれませんか。」
「昨日、確か、おまえは相当多く、両替していたはずだが、違ったかな?」
「はい、それが使ってしまったものですから。」
「全部か?呆れたやつだな。まあ、いい、何に使ったのかは聞くまい。ほれ、金庫のカギだ。ちゃんとまた受け取って来いよ。」
田口はカギを受け取ると、セーフティー・ボックスのあるフロントの方へ行ってしまった。
朝食をとった二人は昨日ホテルにチェックインした時に頼んでおいたレンタカーで出発した。運転手はホテルと契約している者をあらかじめ頼んでおいたから、道に迷わずに大使館へ行くことが出来た。大使館の前に着いてみると建物の周りにはずらりと渡航ビザを申請する人たちの列ができており、その数は数百人規模のものであった。現在では申請箱に必要書類を入れて審査を待つシステムになった為に当時のような行列はなくなったが、佐藤たちが訪ねた時には日本へ出稼ぎに行く為に必要書類を抱えた人々が容赦なく照りつける太陽の下で辛抱強く自分の番を待っていた。おそらくこの列の最後の方の人たちには今日の順場は回ってはこないだろうと佐藤はおもった。この国にはもっと雇用が必要なのだ。辛い思いをして外国に出稼ぎに行かなくてもすむように、家族のそばで働ける場所が必要なのだと佐藤も田口も大使館を何重にもまわっている人の列を見ながらそうおもった。
大使館の入り口にいたガードに事情を説明して、二人は中に入れてもらったが、渡辺社長が現われた形跡はまったく無かった。もし社長が現われた時にはホテルに連絡をくれるようにお願いをして大使館を後にした。
次に、佐藤は運転手に社長の机から出てきた留学生の名刺のコピーを見せた。運転手は軽くうなずき、車をケソン市へと渋滞を掻き分けるように運んで行った。佐藤と田口はその途中、車の窓に顔を近づけたまま、じっと電信柱の上の方ばかりを見ていた。渡辺電設は電話線のジョイント部品や金具、電信柱にとりつけてある様々な機器を固定する金具を扱っている会社だ。そんなわけで二人の視線はどうしても電信柱の上にいってしまう。
ケソン市のボンボンのアパートに着くと、佐藤は何度も外から声をかけてみたが返事はなかった。網戸を開けて中に入り、佐藤は再び丁寧な英語で声をかけてみた。
「すみません、ボンボンさんはいらっしゃいませんか?」
奥の洗濯場からお手伝いらしい少女が出て来た。両手には洗剤の泡がついており、佐藤と田口の方に向かって何やら一生懸命に話しかけてきた。二人にはさっぱり分からない言語であった。佐藤は田口に指示して、外にいる運転手に中に入ってもらった。運転手の話では彼女の言葉はビコール地方の言葉だそうで、タガログ語圏で育った運転手にもよく分からない方言だそうだ。それでも何とか、ボンボンはもう長い間、このアパートには戻って来ていないことがわかった。 あいにくこのアパートの住人である三姉妹も正樹も外出していて留守だった。どうやら佐藤たちの捜査はまたしても空振りに終わってしまったようだった。佐藤はポケットから手帳を取り出して、一枚のページを切り離して、もしボンボンが戻って来たら連絡してくれるように、マニラベイホテルの部屋番号と渡辺社長がいなくなってしまった事などを丁寧に書き記した。もちろん自分の名前や会社の連絡先も忘れなかった。
二人はいったんホテルに戻ることにした。何故なら。次に調べる先はお金を振り込んだ先だったからだ。慎重に調べなくてはならない。佐藤は相手が警戒して何も話さないことを恐れた。だから時間をかけて、それも遠まわしに調べていくことにしたのだった。確かに、会社からお金がその芳子とかいう口座に渡されている。芳子という人物は必ず渡辺社長のことを知っているはずだから、ただその芳子が社長の味方なのか敵なのかが分からない以上、行動は慎重にならざるをえなかった。ホテルに戻ると田口はおもわず溜め息をもらした。暑さと日本とはまったく違った雑踏の為なのか、まるでこの世の終わりでもあるかのようにぐったりとしていた。ソファーにどっかりと座って、押し黙ったまま動こうとしない。佐藤は田口のことをまだまだ若いとおもった。まあ、あまりいっぺんに色々な事を同時にしない方がうまくいくこともある。佐藤は今日のところは行方不明になった渡辺社長の捜査はこの辺で止めることにした。
「田口、今日はもう仕事は終わりだ。明日、また出直しだな。今日はまたのんびりしよう。悪いが今日も外出はひかえてくれるか。」
「ご心配なく、僕はこのホテルがとても気に入りましたから、別に外のゴミゴミした世界に行かなくても大丈夫ですよ。」
田口はそう言うと、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。少しあっけにとられてしまった佐藤だったが、ラウンジのテーブルに一人で座って明日からの計画を慎重に練ることにした。すべてが絵に描いた餅にならないように、十分に注意して、明日からの行動計画をたてることにした。佐藤はまだ独身であり、何も失うものはなかった。だが部下の田口も同じ独身だからといって、彼を危険な目に合わせるわけにはいかない。彼には本社との連絡係を頼んで、明日は自分ひとりで動こうと決めた。佐藤は月曜日の朝に会社には電話をすればいいとおもっていたのだが、何か嫌な胸騒ぎがして、ホテルの電話ボックスに入り、直接、専務の吉田に電話を入れてみた。すると、吉田から興奮した口調でもって言葉が返ってきた。
「佐藤君か、良かった。やっと連絡してきてくれたね。いや、君たちが旅立った直後に身代金を要求する電話が本社に入ったんだ。社長は誘拐されている。それで、どうも日本人が犯人グループにはいるようだ。身代金を要求してきたのは日本人だったからな。ただ、身代金の受け渡し方法を後でまた連絡すると言ってから、その後、何も言ってこんのだよ。それで、今、どこのホテルにいる?」
「マニラベイホテルです。そうですか、やはり社長は誘拐されていたのですか。それでは、今後は専務の指示に従いますのでよろしくお願いします。」
「兎に角、犯人グループからの連絡を待つことにしよう。しばらく、そのホテルから動くな!いいな!」
「分かりました。それでは専務からの連絡をお待ちします。」
佐藤はホテルの最上階にあるカクテルラウンジに移り、バーボンを注文した。自分の部屋とは反対側にあるラウンジからの景色は大きな公園でガイドブックを開いて調べてみると、その公園はルネタ公園(リサール公園)であることがわかった。実に、大きな公園で上から眺めているだけでも何かホッとする空間で、とても気持ちが落ち着いてくる自分を佐藤は感じていた。そう、公園とはそういうものだ。それでなくてはいけないと佐藤はおもった。
佐藤は部屋に戻って眠る前に、フロントへ寄って、ボンボンから連絡が入っていないかどうか訊ねてみた。連絡はなかった。フロントのカウンターから振り返り、エレベーターの方へ行こうとした時、フロントの奥にいた別の女の子が佐藤の背中に声をかけた。
「アー、ミスター佐藤、さきほど、あなたにお電話がありました。日本人のようでした。」
佐藤は慌ててフロントへ引き返し言った。
「それは日本からの国際電話でしたか?」
「いいえ、ローカルラインでした。間違いありません。海外からの電話は音が違いますからね、あれは確かに国内の回線でした。」
現地の日本人か、・・・・・いったい誰だ。何故、俺がここにいることを知っているのだ。
「それで、メッセージは何かありましたか?」
電話を受けたフロントの子はすまなさそうに答えた。
「それが、また後で電話をすると言って、すぐにお切りになられましたので、メッセージはありませんでした。」
「そう、ありがとう。もしまたかかってきたら、部屋につないで下さい。今日はもう部屋にずっといますから、深夜遅くでもかまいませんから。お願いします。」
部屋に戻った佐藤はその電話の主が誰なのかを考え続けていた。大使館からの電話はこの時間では不自然であり、たとえ、そうだとしても、もっと偉そうにコメントを残すはずである。ボンボンとか言う留学生が連絡してきた可能性が一番高いような気がした。しかし日本人だとフロントの子は言っていた。他にはいっこうに佐藤には思い当たるふしはなかった。後は専務の吉田が言っていたが、誘拐犯人グループの中に日本人がいるらしい、でも、どうしてこのホテルに自分がいることを知っているのだ。不思議だ。
ベッドに備え付けてあるデジタルアラーム時計の数字はすでに深夜の23時を回っていた。もう今夜は電話はかかってこないだろうと佐藤がおもったその瞬間、チリチリチリと壊れかけの目覚まし時計ように電話器がなった。佐藤は慌てて受話器を取ると、フロントからだった。電話が入っているがどうするかと聞いてきた。もちろん答えはイェスである。
「つないでくれ。」
ちょっと間が空いてから、今までに聞いたことのない日本人の声が返ってきた。
「もしもし、佐藤さんですか。」
何故だ、どうして自分の名前を知っているのだ?佐藤は警戒をしながら日本語で返事を返した。
「はい、佐藤ですが。」
「佐藤さん、渡辺社長をお捜しだそうで。」
「ええ、その通りです。でもどうして、それをご存知なのですか?失礼ですが、あなたはいったい誰ですか。」
佐藤は間違いなく渡辺社長を誘拐した犯人だとおもった。しばらく重たい空気が流れた。電話の主はさっそく本題を切り出してきた。
「もしもし、佐藤さん、私はあなたが捜している渡辺社長の居場所を知っていますよ。」
佐藤は黙ったまま、次の言葉を待った。
「佐藤さん、社長はマニラにはいませんよ。私たちがあずかっています。社長のお金は・・・・・・・・・。」
「もしもし、もしもし。」
そこで、突然、電話は切れてしまった。
佐藤は電話が切れると、すぐにフロントへ連絡した。
「ああ、フロントですか。佐藤ですが、警察にすぐに連絡をお願いします。間違いない。これは誘拐事件です。犯人からまた連絡が入る前に逆探知の準備をした方がいいとおもいます。兎に角、大至急だ。誘拐されたのは私どもの社長で渡辺と申します。今、身代金のことをにおわす電話が入ったと警察に連絡して下さい。それから、この電話から日本にかけることができますか?そう、ではいったん切りますから。すぐに日本につないで下さい。」
佐藤は専務の吉田に犯人らしき日本人からホテルに電話があったことを伝えた。そしてこちらの警察に届けを出したことも伝えた。受話器を置くと、自分の部屋を出て、隣の田口の部屋のドアを荒々しくノックした。なかなか出てこないのでもう一度叩いた。
「おい、田口。起きろ、俺だ、佐藤だ。早くここを開けろ!」
田口には気の毒だが、緊急事態だから仕方がない。佐藤はドアをノックし続けた。しばらくすると、怪訝そうな顔で田口がドアを少しだけ開けた。チェーンは付いたままであった。佐藤は瞬時に田口が一人ではないことを見抜いていた。しかし、そのことにはふれずに言った。
「社長はやはり誘拐されていたよ。今しがた犯人とおもわれる人物から電話があった。本社の方にも身代金を要求する電話が入ったそうだ。我々はこれからマニラの警察に社長の救出を依頼する。もうまもなくすると警察がやって来るから、着替えて俺の部屋に来てくれ。いいな。」
「はい、分かりました。すぐに参ります。」
田口はドアを閉めて、ロックをかけた。しょうがない奴だなと佐藤はおもったが、今はそれどころではなかった。佐藤も自分の部屋に戻って静かに警察の到着を待つことにした。
連絡を受けたマニラ東警察署では、また日本人がらみの事件が起きたことに衝撃が走った。日本人の大手商社マン誘拐事件、マニラ湾保険金目当て殺人事件と、このところ、立て続けに日本人が関係した事件が起こっていたから、警察署の誰もが嫌な気分になった。そして渡辺社長の捜索願も正樹と高瀬青年によって出されていたから、この誘拐事件は署長が自ら陣頭指揮にあたることになった。昨日から調書の整理をしていて署に残っていた署長は大声で宿直の警察官たちに指示を出した。
「おい、逆探知の装置一式を車にのせるのを忘れるなよ!犯人に気づかれないように、制服はやめて、私服で行くからな。」
署長は自分も着替えながらおもった。
やれやれ、また日本人か、まったくいい加減にしてくれないかな。本当に嫌になるぜ。それでなくとも忙しいのに、まったく幾つ体があっても足りないぜ。もう、日本人がらみの事件はうんざりだよ。
単位
単位
マグサイサイ・ハイスクールの敷地内にあるNCEE事務局で正樹は大学入学の為の国家試験の結果を受け取った。その得点は国立のフィリピン大学以外の私大学ならば、どこにでも入ることが可能な得点であった。一緒に同行していたディーンは正樹の得点が以前に自分が取った得点よりも高かったことに驚きと嫉妬を覚えてしまったくらいだった。
「正樹、おめでとう。これで学校に入れるわよ。どこの大学でも入れるけれど、もちろん、あたしの学校にするわよね?」
「ありがとう。決まっているじゃないか、ディーンと同じ学校に入る為に頑張ってきたんだから、他の学校なんかありえない!考えられないよ!でも、きっと、試験官は日本人には点を加算するように上から指示されているのだよ。だってこんなに点が取れるはずがないもの。日本人はお金持ちで、円をたくさん持っているからね。円という外貨をこの国に落としてくれた方が良いに決まっているからね。日本からの留学生、いや、ひょっとすると石油が出るイランからの留学生もどんなに頭が悪くても大歓迎なのかもしれないよ。」
「そんなことないわよ。やはり、正樹の実力だわ。あたしとこうして話が出来るじゃないの。でも、本当に良かったわ。合格おめでとう。これで正樹と一緒に学校に行けるわね。」
当時は日本からの留学生は大学院の聴講生はかなりいたが、一般の留学生は本当に少なかった。それでも、この頃から次第に沖縄からの留学生がマニラでも見かけるようになってきていた。学費の高い日本本土で勉強するよりも英語で勉強が出来るフィリピンを選択する学生たちが増え始めていたのだ。留学を斡旋するフィリピンのブローカーが沖縄に進出していたせいもあるかもしれないが、沖縄の若者たちがフィリピンに来て勉強するようになってきていた。そんな沖縄からの学生たちのなかには日本人の母親が米軍基地で働いていたフィリピン人の父親と知り合って結婚したケースもあり、本人の国籍はフィリピンであったり、兄弟がアメリカ国籍であったり、複雑な家族構成になっていたりもする。多国籍家族になってしまうと、どこで勉強してどこで就職するかが問題になってくる。学費の安いフィリピンで勉強してアメリカで就職することを選択するのは自然な流れだ。
正樹の入ったイースト大学はマニラの下町にあり、朝早くから、夜遅くまで自由に受講が出来るマンモス大学だった。マンモス大学だからと言って、授業も大きな講堂で教授がマイクを片手に何百人もの学生に向かって講義をするのかというと、そうではない。この職のない国では先生の数が多いので、先生たちは自分の講義に特色をもたせて学生の奪い合いとなり、授業は少人数制となる。一クラスの学生の数が少ないということは、それだけ授業中に当てられる回数が増えるということだ。ましてや、そこにいるだけでも目立つ留学生の正樹はよく何度も当てられた。その度に答えに困ってしまう正樹であった。やはり、英語というものは日本で生まれて育った者には限界があると何度も思い知らされた。日常会話とは違って、英語での講義は極めて難解だった。親切な先生は学生たちがよく分かるようにタガログ語を頻繁に使う。それが反って正樹にとっては混乱してしまうのである。そして、フィリピンの若者には兵役の義務があり、特別な理由がない限り、学生たちは卒業までに定められた期間、頭を刈って、お揃いの軍服姿で軍事訓練をする。外国人である留学生の正樹は、当然、兵役は免除されたが、体操のPEの時間に、教官は正樹が日本人だと知ると、兵役が免除されているのだから、その代わりに日本の武道、剣道や柔道などの指導をしろと要求してきた。仕方なくマットを敷き詰めて畳みの代わりにして柔道のまねごとを教えたこともあった。
正樹がこの国に来て、一番心配していたことは反日感情だった。戦時中に日本軍が犯した戦争犯罪、成り上がり日本人のセックス買春ツアー、この国の学生たちはいったい日本から来た珍しい留学生に対してどんな風にして接してくるのかが、とても心配だった。そんな正樹の心配とは裏腹にこの国の人々は大らかな気質を持ち、カトリック教への信仰からなのか、日本人が犯した過去のあやまちをすでに許していた。そして正樹も学校では皆から暖かく迎えられた。留学生は女子学生にもよくもてた。競い合うようにそばに近寄って来てくれた。こんな経験は初めてであった。男子学生もとても親切で、学校が終わるとよく近くのファーストフード店で歓談してくれた。もちろん支払いはすべて正樹の財布からだった。しかし友達は多ければ多いほど良かった。どうしても単位を取得するためには友人たちの助けが必要だったからだ。多少の食事代や飲み代は単位獲得の為には覚悟しなければならない必要不可欠なものであった。それでも、どうしても分からない教科はあった。試験を何度やっても赤点しか取れない教科は出てきた。単位を取るのが大学である以上、正樹はどうにかしなければならなかった。そして最終的に考えついたことは、先生と仲良くなることしかなかった。どんなに嫌いな先生でも親しくなるように普段から努めた。正樹は講義を聴いていて、これは無理だなと判断すると、その先生に特別に個人授業を申し込んだ。二十人の学生たちを教えるよりも、金持ち大国、日本から来た留学生を一人だけ教える方がはるかに楽であるから、どの先生も快く引き受けてくれた。後は簡単だった。
講義に出席さえしていれば、授業中、当てられて恥をかくこともなく、おまけにどんなに試験の成績が悪くても単位は取れた。職員室の片隅には板で仕切った秘密の場所がある。そこはまるで教会の懺悔をするあの個室のようにも見えた。中には机を挟んで椅子が置かれてあり、個人レッスンが誰にも邪魔されずに集中して出来るようになっていた。まあ、隙間だらけの空間だから、妖しいレッスンには利用出来ないようにはなっていたが、ただ、個人授業を重ねていくうちに、先生たちに共通することが幾つかあった。先生方にはお子様がたくさんいて、それに加えて面倒をみなくてはならない親戚も大勢いた。おまけにその何人かは病気を患っていて、入院もしている。つまり、お金がいるのだ。単位はやるが高いぞ!と遠回しに言っていることに正樹が気がついたのはだいぶ後になってからのことだった。しかし、正樹にとって、単位を取り続ける為には先生方の手助けがどうしても必要だったのだ。突然、先生の親類が倒れれば、正樹も知らんぷりは出来なかった。
逮捕
逮捕
現在ではもうなくなってしまったかもしれないが、当時のマニラには共同電話というものがあった。パーティー・ラインと呼ばれていたとおもう。隣近所の何軒かで一つの電話線を使用する共同電話で料金が安かった。しかし、これがとてもやっかいな電話で大切な話をしている最中に切れてしまうのが一番困った。受話器を取ると誰かが大きな声で話をしていたり、話をしていると横から隣の親父が割り込んできたりする。パーティー・ラインには個人のプライバシーなどまったくなかった。盗聴したくなくても盗聴が出来てしまうのが、この共同電話だった。ボンボンのケソン市のアパートの電話も以前はそのパーティー・ラインだった。
正樹が学校から帰ると、テーブルの上に一枚の紙切れがあった。風で飛ばされないように、端っこに灰皿がちょこんと置かれてあった。英語で用件を書き、その手帳の一ページを破ったらしく、名刺も丁寧に添えてあった。ボンボン宛ではあったが、正樹はその名刺を手にとってみると日本人のものであった。そこには渡辺電設株式会社の佐藤と記されてあった。メモには英語でこう書かれてあった。
「ボンボン様、私は渡辺電設の佐藤と申します。失礼とはおもいましたが、突然の訪問をお許し下さい。連絡がとれなくなってしまった私どもの社長を捜しにこちらに参りましたが、あいにく誰もおいでにはなりませんでした。もし何か、渡辺社長に関する情報がございましたら、どうか、ご一報下さい。社長と連絡が取れずにたいへん困っております。私たちは現在マニラベイホテルの707号室に滞在しております。お手数とはおもいますが、どんなことでもけっこうですから、連絡をいただければ幸いです。
渡辺電設 佐藤」
正樹はメモを読み終えると、すぐに受話器を取った。すると、受話器から大きな笑い声が吹き出してきた。いつものように隣の娘が彼氏といちゃついていた。正樹はさっと受話器を耳から離して、そっと元のところに置いた。パーティー・ラインには先客がいた。昔は基本料金だけでよかった電話制度がこの国の人々に長電話の習慣を植え付けてしまったのかもしれない。あまり良い習慣とはいえないと正樹はおもった。
一度目に正樹が電話に成功した時は、ホテルの部屋には佐藤はいなかった。そして、次に正樹に電話の順番がまわってきたのは深夜の23時過ぎだった。ホテルのオペレーターはすぐに佐藤の部屋にその電話をつないだ。
「佐藤様の部屋につなぎました。はいどうぞ。」
とオペレーターが言ったので、正樹が話し始めた。
「もしもし、佐藤さんですか。」
正樹がぶっきらぼうに日本語でそう言うと、相手からも日本語で淡々と返事が返ってきた。
「はい、佐藤ですが。」
「佐藤さん、渡辺社長をお捜しだそうで。」
「ええ、その通りです。でもどうして、それをご存知なのですか?失礼ですが、あなたはいったい誰ですか。」
正樹は電話の向こうにいる佐藤という人物が警戒していることをすぐ感じ取っていた。もう前置きは後にして、話の本題から入ることにした。
「もしもし、佐藤さん、私はあなたが捜している渡辺社長の居場所を知っていますよ。」
明らかに佐藤は次の正樹の出方をうかがっている様子だった。佐藤は返事をしなかった。続けて正樹が言った。
「佐藤さん、社長はマニラにはいませんよ。私たちがあずかっています。社長のお金は・・・・・・・・・。」
そこで、突然、電話が切れてしまった。またパーティー・ラインのトラブルであった。慌てて正樹は電話器を叩いたが、もう、つながらなかった。誰かに電話をまた奪われてしまった。
「まいったな、どうするかな。」
正樹はそう独り言を呟いてから、ソファーにどっかりと座った。深夜だというのに、パーティー・ラインの長電話は終わりそうになかった。そうだ、久しぶりにサムスダイナーに行ってみるか。あそこの電話を使えばいいのだ。なんで、そんなことに今まで気がつかなかったのか、ディーンはもう寝てしまっていたので正樹一人で近くのレストランに向かって行った。近くのサリサリストアーの電話にも長い列ができていた。どうやら電話好きなのも国民性なのかもしれないと正樹は苦笑いをした。サムスダイナーに入ると、正樹は電話のところに直行した。二台ある電話の片方は店の客が身をよじらせながら占領していた。もう一方には誰もいなかった。顔見知りのウエイトレスに手を上げてから、正樹はマニラベイホテルの番号をダイアルした。
マニラベイホテルの佐藤の部屋は逆探知器のコードが散乱していた。警察署長はヘッドホーンをかけて、佐藤のすぐ隣にいた。署長の合図で佐藤が電話をとった。
「はい、佐藤ですが。」
「もしもし、ああ、良かった。さっきはすみませんでした。共同電話からかけていたものですから、混線しちゃって、申し訳ありませんでした。」
「ああ、さっきの方ですね。あなたはいったい誰なんですか?渡辺社長は無事なのでしょうか?社長はどこにいるのでしょうか?まず、それからお聞きしたい!」
「渡辺さんは島にいますよ。天国に一番近い島にね。」
「何を言っているのか、さっぱり分かりませんな。失礼ですが、あなたはいったい誰ですか?」
「そうですね。失礼しました。申し遅れましたが、私は正樹と申します。」
それを聴いていた警察署長の緊張していた顔が急にほぐれた。正樹と佐藤が話していた日本語は理解出来なくても、「マサキ」という名前の響きが署長を安心させたのだった。佐藤が話を続けた。
「社長は無事なんですか?」
「元気ですよ。渡辺社長は日本から送金されたお金のことを心配していました。そのお金のことをさっき佐藤さんに聞こうとしたら、電話が切れてしまったのです。でも良かった。こうして会社の人が来られて、なにしろ渡辺社長は災難続きでしたからね。」
「正樹さん、あなたと社長とはどういう関係なのですか?ていうか、どういうお知り合いなのでしょうか。話がよく私にはつかめません。詳しく話してもらえませんか。」
「そうですよね、佐藤さんのおっしゃる通りです。初めから話さないと分かりませんよね。大変失礼しました。」
その時、逆探知成功のサインと警察の車がサムスダイナーに向かったと書かれた紙が署長に手渡された。正樹が話を続ける。
「渡辺社長は映画館で誘拐されて、ミンダナオ島へ向かう船に乗せられました。その途中で海難事故に遭い、不幸中の幸いと言いますか、犯人たちから解放されました。しかし、海に放り出されて、何日も漂流した後、奇跡的に私たちが住むボラカイ島に流れ着いたというわけです。」
警察署長は正樹が言った「ボラカイ」ということばを聴き、慌てて佐藤から受話器を取り上げて、自分で話し始めた。
「ヘロー、正樹、コムスタカ(元気ですか)。」
びっくりしたのは正樹であった。
「ヘロー、署長でしょう?その声は!」
「今、正樹君はサムスダイナーから電話をしていますよね。違いますか?」
「はい、そうですよ。どうしてそれをご存知なのですか?だいたい、何で、署長がそこにいるのですか?」
「逆探知です。我々は誘拐犯人と話をしているところです。」
「僕がですか?違いますよ!」
「分かっていますよ。でも、正樹君、もう間もなく、あなたは逮捕されますよ。近くにいる警官たちがそちらに向かっていますからね。抵抗すると撃たれますよ。だから、おとなしく連行されて来てくださいね。いいですか。詳しい話はまた後で、両手を上げて、動かないように!いいですね。」
五分もしないうちにサムスダイナーは異様な雰囲気に包まれてしまった。銃を構えて、雪崩れ込んで来た警官たちを見て、他の客や店の者たちは皆、脅えてしまった。正樹は受話器を置いて静かに両手を上げた。銃口が幾つも自分の方に向けられている。まったく生きた心地がしなかった。すぐにパトカーに押し込められて、署長の命令でマニラベイホテルへ連行されてしまった。ホテルの玄関には署長が迎えに出てきており、正樹がパトカーから降ろされると、笑顔で正樹の肩を抱きすくめた。正樹のことを連行してきた警官たちも途中で署長から無線で説明があったようで、ニコニコしていた。正樹一人だけが何も分からずに腹を立てていた。
ひょうたん島
ひょうたん島
学校に入ると正樹は急に多忙になってしまった。今まではディーンと一緒に過ごす時間が何よりも愛しく大切なものであり、そして正樹の生活のほとんどを占めていたのだったが、学校に入ると友人もたくさんできたし、週末には日比混血児たちを連れてボラカイ島へ飛ぶ回数も増えてしまった。正樹は次第にボラカイ島の子供たちへの愛情が自分の中で大きくなっていくのも感じていた。その分、ディーンへの感情がだいぶ後回しになってしまっていたことには正樹は気がついてはいなかった。
正樹は渡辺電設の佐藤と田口、そして新しく保護された混血児三人を連れて、警察のヘリでボラカイ島へ向かっていた。よく使い込んだヘリコプターはとにかく音がうるさい。大声で話さなければ相手に自分の言葉がちゃんと届かない。佐藤は自分の両手を耳にあてがいながら、正樹に向かって怒鳴った。
「このヘリコプターはいつもこうして島に飛ぶのですか?」
正樹も怒鳴り返した。
「ええ、毎週、土曜日の午前中に島を往復します。このヘリの定期便は島にいる者にとってはとても大助かりですよ。必要なものをマニラで買い揃えて、持って帰れますからね。でもこのヘリの一番の目的は島の子供たちがいつでもマニラに帰れるようにすることなのですよ。もし子供たちが島の生活が嫌になってしまったら、すぐに帰れるようにする為のものです。島の家は強制収容所ではないので、島に残るのも、離れるのもすべて子供たちが自分で決めます。でも、これまでのところ、誰一人としてマニラに帰りたいと言った子供はいませんがね。」
「そうですか。きっとボラカイ島は素晴らしいところなのでしょうね。渡辺社長と電話で話しましたが、兎に角、島へ早く来てくれの一点張りで、まったく自分たちが滞在している最高級のマニラベイホテルには来るつもりはないみたいですよ。ボラカイ島からどうしても離れたくはないみたいですね。こんなに心配してやって来たのに、まったくあきれましたね。本社の重役たちは口には出しませんが、相当、怒っていますよ。」
「渡辺社長はボラカイ島に来て変わったとボンボンが言っていましたよ。ああそうか、佐藤さんはボンボンのことをご存知なかったですね。ボンボンは東京の教育の大学の留学生です。フィリピン商工会議所のパーティーでボンボンは渡辺社長と知り合ったと言っていました。ボンボンの言葉ですがね、ボラカイ島に今いる渡辺社長はマニラで散々遊び歩いていた社長とは別人だそうですよ。社長はこのフィリピンにも投資していただけるそうで、ぼくらとしては島にいる子供たちが大きくなった時のことを考えますと、渡辺社長のような人が一人でも二人でも多くいてくれた方がありがたいのですよ。」
「そうですか。渡辺社長がそう言っていましたか。すると、僕もタイからこちらに移動になるかもしれませんね。ところで、正樹さん、あなたはどうしてこちらに来る気になったのですか。日本に居た方が楽でしょうに、またどうして、魑魅魍魎が蠢いている、混沌とした世界に来る気になったのですか?」
「恋ですよ。恋が僕のすべてを変えてしまいました。考えてみれば、僕にとっての日本はそんなには素晴らしいところではなかったのかもしれませんね。いや違いますね、それは間違いですね。どこに居たって同じですか、どう生きるかが大事であって、心の持ち方によって、その場所が天国にもなるし地獄にもなりますからね。そうだ、僕がこの国に来る決心をした直接の原因は渡辺社長ですよ。社長がディーンの学費を出すと言い出したものだから、僕は頭に血がのぼってしまって、渡辺社長をぶん殴ってやろうとおもってやって来たのでした。」
「ディーンさんというのはあなたの恋人ですね。社長がその子の学費をね、それはいかにも社長らしい。渡辺社長らしい発想ですね。そうですか、そんなことがあったのですか。それで、社長を殴りにこの国に来られたのですね。人と人の巡り合わせとは真に不思議ですね。実に神秘的ではありませんか。」
「でもね、佐藤さん。あれだけ嫌いだった渡辺社長のことを、何故か、僕はもう許しているのですよ。佐藤さんも、きっと、いまに分かりますよ。それがボラカイ島の魔法なのです。人間社会の些細でちっぽけなことは、ボラカイ島の圧倒的なまでの美しさの前では、何の意味も持ちません。まったく不思議ですよ。恨みや憎しみがボラカイ島の美しい自然に飲み込まれてしまうようですよ。」
「正樹さんの話を聞いていると、今から行くボラカイ島は私たち人間にとっての心の病院みたいに聞こえますよ。」
「その通りです。佐藤さんはうまいことを言いますね。心の病院ですか、まったくその通りですよ。ボラカイ島は心の病院ですよ。」
田口は佐藤と正樹の話を聞いているうちに眠ってしまったようで、口をだらしなく開けたまま、椅子に沈んでしまっていた。こんなにうるさいヘリコプターの中でも眠ることが出来る田口の神経はきっと太いのだろうと正樹はおもった。しかし、田口の気持ち良さそうな眠りもそう長くは続かなかった。すぐにひょうたんの形をしたボラカイ島が見え始めたからだ。
「佐藤さん、あれですよ。あの島がボラカイ島です。」
「いやー、白い浜が島の周りに幾つもありますね。驚いたな、こんな空の上からでも、砂浜が白いことがよく分かりますね。真っ白じゃないですか。」
「あの長い砂浜がホワイトサンドビーチですよ。4キロぐらいはありますかね。どうです、佐藤さん、きれいな浜でしょう。どうぞ、佐藤さんたちも渡辺社長同様に島でゆっくりしていって下さいね。ほら、あそこに岬があるでしょう。分かりますか?あそこの出っ張ったところにこのヘリは着陸します。私たちの家の庭にはヘリポートもあるのですよ。小さいですけれど、燃料タンクもちゃんとあります。」
佐藤は田口のことを揺り起こした。
「おい、起きろ!田口、起きろ!もう着いたぞ。」
田口はゆっくりと目を開けて、佐藤の方を見た。
「田口、ボラカイ島だ。下を見てみろ。ひょうたんの形をしている島がそうだ。まるで、あれは、ひょっこりひょうたん島だな。島にはドンガバチョもいるかもしれないぞ。」
「懐かしいですね。佐藤さんもあの番組が好きでしたか。私は毎日のようにみていましたよ。確か、一日に二度、放送されていましたよね。私は二度ともみていましたよ。でも、あの人形劇のひょうたん島は海の中を動いて世界中を旅していましたよね。」
「ああ、そうだ。動いていた。うちは家族全員でみていた記憶があるな。毎日、楽しみでな、あの人形劇は日本中の人々を惹きつけていたな。いい番組だった。」
「そうですね、あまり娯楽の無かった時代でしたから、本当に番組の始まるのが待ち遠しかったですよ。ひょうたん島のテーマソングは、きっと誰でも、今でも歌うことが出来るのではないでしょうか。何度も何度も番組が始まる前に、繰り返し聞かされましたからね。」
田口はヘリの下の方を指差しながら、続けて言った。
「あれがボラカイ島ですか?本当だ!ひょうたんの形をしていますね。こうして、上空から見てみると長細いひょうたん形をしているのがよく分かりますね。何か、とても神秘的ですね。」
佐藤が肯きながら言った。
「あの人形劇のようにボラカイ島にもたくさんのドラマがあるのでしょうね。」
正樹が答えた。
「そうですよ。僕はもう、この島で何度もすばらしい奇跡を経験しましたからね。不思議な島ですよ。佐藤さんや田口さんにも、きっと、何か起きますよ!」
ヘリコプターが急降下を始めた。機体はすでに着陸体勢に入っており、どんどん島が大きくなり始めていた。豪邸の庭で手を振って迎えてくれている子供たちの姿がまず三人の目に飛び込んで来た。そして正樹が声を出した。
「佐藤さん、あそこに渡辺社長がいますよ。ほら、見えますか。プールのすぐ横です。」
「ああ、いたいた!社長だ!行方不明の社長がプールサイドで昼寝なんかしている。」
軽い衝撃の後、ヘリコプターはプロペラの回転を止めた。まず、すっかり成長したヨシオが機内に乗り込んで来た。挨拶は簡単に目でして、正樹に向かって言った。
「兄貴、荷物は?」
「ああ、少しある。後ろだ。」
慣れた手つきで、ヨシオはヘリの後部座席から荷物を素早く降ろした。ヨシオは新しい三人の混血児たちにもちゃんと気配りを忘れなかった。随分と立派になったものだと正樹は感心してしまった。「その調子だ。」と心の中でヨシオに正樹は声援を送った。ヨシオは子供たちを連れて建物の中へ、正樹は佐藤と田口を連れてプールサイドへと向かって歩いて行った。渡辺社長が長椅子の上で昼寝をしているのを確認していたから、三人は挨拶をするためにプールの方へ急いだ。渡辺社長は地響きがするヘリコプターの到着にもまったく気づいていないようで、よく眠っていた。佐藤が何度も社長に声をかけた。
「社長、今、着きました。社長、起きてください。」
やっと目を開いて、渡辺社長が長椅子の上に体をおこした。
「おお、佐藤か、ご苦労さん。あれ、田口も一緒か。おまえはホテルで留守番かとおもっていたよ。そうか、一緒に来てくれたのか。」
「もちろんですとも、社長のことが心配で、ちゃんと遣って参りましたよ。社長、ご無事で何よりでした。」
「そうだ、佐藤。着いてすぐで、何なんだが、マニラをどうおもう?おまえのことだから、もう、見てきたのだろう。この国は商売になるとおもうか?電信柱の上はボロボロだっただろう。台風で壊れたままだ。佐藤、どうおもう。」
「確かに、おっしゃる通りで、修理から入れば、大きな取引も可能かもしれません。誰か、政府と太いパイプがある人間がいれば、やりやすくなりますがね。」
「そうだな。」
正樹が社長に聞いた。
「社長、ボンボンたちは?」
「役所に行っているはずだが、ところで、今、何時になる?」
「もうすぐで、午前11時になります。」
「そう、もう、そんな時間か。ボンボンたちはもう帰って来ているかもしれんな。誰がどこにいるのかも分からないほど大きくてな、見ての通り、この家はでかいのでな。」
リンダが嬉しそうに正樹のところにやって来た。佐藤と田口にウエルカムドリンクを持って来たのだった。
「佐藤さん、田口さん。どうぞ、これは百パーセントの果物ですから、安心して飲んで下さい。冷蔵庫で冷やしてあるだけで、氷は入れていませんから。ここの庭で採れたマンゴーを絞ったジュースです。結構、いけますよ!」
ドリンクを二人に渡してから、正樹はリンダにたずねた。
「ボンボンたちはどこにいる?」
「二人とも書斎にいますよ。」
正樹は佐藤の方へさっと向き直って言った。
「では、ここの豪邸の主を紹介しますので、中に入りませんか。」
豪邸と言われて、確かにそうだと佐藤もおもった。いったいこんな豪邸の主はどんな人間なのだろうかと、佐藤はさっきから想像力を働かせていた。
「正樹さん、大きなお屋敷ですね。びっくりしましたよ。これ程だとはおもいませんでした。ここの敷地の面積もかなりなものですね。」
「そうでしょう。ここは以前、華僑のお金持ちの別荘だったんですよ。それを茂木さんが買いとったんですよ。」
「でもこの国では、土地は日本人には買えないでしょう。確か、そのように聞いた記憶があります。違いますか?」
「ええ、その通りですよ。名義はボンボンになっていますが、お金を出したのは茂木さんです。」
「茂木?茂木・・・・・さんね。」
佐藤の頭の中では何度も茂木という名前が空回りを始めていた。
渡辺社長はまったく動く気配はなく、また、長椅子の上に体を気持ち良さそうに伸ばしてしまった。豪邸の時間はゆっくりと流れていた。正樹が言った。
「社長、すみませんが、このお二人を茂木さんとボンボンに紹介してきますね。」
「ああ、そうしてくれ。わしはまだここで寝ているからな。」
佐藤と田口が後ろ向きになってしまった社長の背中に向かって言った。
「では社長、失礼して、中に入って挨拶をしてまいります。」
「ああ、わかった。ああ、佐藤、わしはしばらくここから動かんからな!」
そして、豪邸の最上階にある茂木の書斎に正樹に案内されて入った時に、佐藤にとっては生まれて初めての奇跡を体験することになった。
大きな部屋の窓際に置いてある机から立ち上がり、振り返り、近づいて来る茂木の姿を見て、佐藤はおもわず声をあげてしまった。
「あなたは、京都の・・・・・居酒屋の茂木さんではないでしょうか?」
恐すぎる偶然
恐すぎる偶然
正樹がボラカイ島からマニラに戻ると、二人の女性が彼のことを待っていた。マニラ東警察署の裏庭にヘリが到着すると、すぐに一人の警官がヘリに駆け寄って来た。
「ミスター正樹、署長があなたをお待ちです。どうぞ、署長室までお願いします。」
「分かりました。すぐに参ります。署長にそうお伝えください。荷物を降ろしたらすぐに行きますから、少しお待ちください。」
正樹はその伝言を運んでくれた警官がいなかったとしても、ケソン市のアパートに帰る前には署長室には顔を出そうとおもっていた。署長室のドアは開けられており、三人の訪問者が署長の机の前に神妙に座っているのが、部屋の外からでもよく見えた。一人は以前にも会ったことがあるジャーナリストだ。名前は忘れたが、ヨシオが意識を失って病院に居る時に正樹とヨシオの取材がしたいと言ってきたフリーの新聞記者だ。あとの二人の女性は正樹にはまったく見覚えが無い。どうやら、二人とも日本人のようであった。
正樹が殺風景な署長室に入ると、署長は机から立ち上がって、手を差し出しながら握手を求めた。いつものように正樹のことをあたたかく迎えてくれた。
「おかえりなさい。お待ちしていましたよ。あなたにお客様です。この新聞記者のマークのことは正樹君も知っていますよね。」
正樹がうなずくのを見て、署長は続けた。
「こちらの女性たちはわざわざ日本からあなたを訪ねて来られた人たちですよ。では、私からご紹介致しましょう。」
早苗とナミは椅子から立ち上がって、正樹の方に向き直ると署長室が急に華やいだ。署長が続けた。
「こちらはサナエさん。タガログ語がとてもお上手でいらっしゃる。大学でタガログ語を勉強されてきたそうです。サナエさんは私たちの言葉を正確に理解する数少ない日本人の一人ということになりますな。そして、こちらのお方がナミさん?そうでしたな、すみません、どうも日本人の方の名前は覚えづらくて、でもこのナミさんの英語は実にすばらしい。お二人とも外国語の大学の学生さんで、すばらしい語学の達人でいらっしゃる。学校を卒業されたら、外交省に入られるそうで、私もお二人とこうして知り合いになれて大変光栄です。ここにいるマークが君に内緒でこっそり書いた新聞記事をお読みになって、是非、正樹君とヨシオに会いたいと、わざわざ日本からやって来られたそうです。お二人は新聞社であの記事のことをお調べになって、このマークを捜し出したというわけですな。」
早苗がびっくりして立っている正樹に向かって丁寧に言った。
「すみません。突然、おしかけて来たりして、でも、自分が勉強してきた言葉がどんな国で話されているのか、外交省に入る前に一度見てみたかったのです。渡航前に、色々と、この国のことを調べていたら、正樹さんとヨシオ君のことが新聞に書いてありました。私、とても感動しましたの、あの記事を読んでから、お二人のことが頭から離れなくて、こちらに来る機会があったら、何とかして正樹さんに会ってお話をしようとおもっていましたの。それからボラカイ島の日比混血児たちの家にも、出来ることなら行ってみたいのですが、駄目でしょうか?」
「もちろん、大歓迎ですよ。島にいる子供たちもきっと喜びますよ。みんな日本語を自分のものにしようと必死になって勉強していますからね。早苗さんがタガログ語を話す日本人だと知れば、おそらく子供たちはあなたのことを師と慕って、引っ張りだこになることは間違いありませんね。そうでしたか、僕たちのことを新聞でお読みになったのですか。ボラカイ島の家のことまでご存知とはね。いやね、僕はいっこうに構わないのですがね、リーダーの茂木さんはそのことを知ったら、あまりいい顔はしないでしょうね。」
「茂木さん・・・・?」
「ええ、そのボラカイ島の家の持ち主ですよ。」
「ごめんなさいね。あたしの知り合いにも同じ名前の人がおりましたので、でも、このマークが書いた記事によりますと、ボラカイ島はとてもきれいなところだと紹介されていましたが、是非、行ってみたいですね。」
「その通りですよ。ボラカイ島はとてもきれいな島ですよ。行けば必ずその美しさに感動します。それにとても不思議な島でもあります。魔法を使うのですよ。憎しみとか恨みを抱えて島に来た人々の心を変えてしまいます。いかに、それがくだらないことなのかと、澄んだ景色でもって気づかせてくれるのですよ。それから精根尽き果て、疲れ切ってしまった人々には安らぎと再び生きる勇気を与えてくれます。島を出るときには、完全に癒されて帰って行きますからね。そして、必ずまた、みんな島に戻って来ますよ。本当に不思議に満ちた島ですよ。僕はボラカイ島に行く度に奇跡を目にしますよ。今回もそうでした。この広い世界で、遠く離れた京都の小さな居酒屋の客同士が偶然にも島で出会うなんて、そんな偶然は考えられませんよ。やはり島が魔法を使ったとしか、言い様がありません。きっと島が二人を引き合わせたのでしょうね。人々をボラカイ島はうまい具合にちゃんと結びつけているのです。ひょっとすると、早苗さんもボラカイ島で奇跡というものを体験されるかもしれませんよ。」
「何だか、話を聞いていると、わくわくしてきますね。正樹さん、是非、ボラカイ島へ案内してくれませんか。本当に勝手なお願いで恐縮なのですが、駄目でしょうか?」
「誰が、お二人のようなおきれいな人たちの頼みを断れるというのですか。喜んで案内しますよ。」
この時、正樹は今日という日がディーンの誕生日であることをすっかり忘れてしまっていた。日本からのきれいなゲストに完全に気をとられてしまっていた。
「それで、お二人のご予定ですが、どうなっていますか?僕の方はお二人に合わせますから、いつでもいいですよ。」
「そうですか、ありがとうございます。実はあたし、人を捜しておりますの。まず、その人のアパートを訪ねてから、ボラカイ島へ行きたいのですが、よろしいでしょうか。あたしね、そのアパートには何度も電話をしたのですよ。でも、どこかの地方の言葉が返ってくるだけで、話が通じませんの、きっと、そこへ行っても何も手がかりはつかめないとはおもいますが、やるだけのことはやって日本に帰りたいとおもいまして。」
「そうですか、それで、そのアパートというのはマニラ市内ですか?」
「いいえ、ケソン市です。」
「ケソン市なら、僕と一緒だ。もし僕でよかったら、ご一緒しますけれど。」
「あら、何から何まですみません。お願いしてよろしいのですか?」
「さっきも言ったように、きれいな女性の頼みは断れませんからね。」
「すみません。本当に有り難うございます。それでは正樹さんのご親切に甘えさせていただきますわ。」
署長は自分の分からない日本語の会話が弾んでいたので、机に座って、独り寂しそうに葉巻を吹かしていた。署長と正樹の関係はヨシオのことがあってからは特別なものになっていた。それは警察官と民間人という枠を超えて、人間としての信頼関係の上に立っていた。署長は街で保護した両親のいない日比混血児たちを正樹に安心して任せていたし、正樹も見知らぬ国に来て不安だらけの生活のなかで、署長をまるで自分の父親のように慕っていた。最近では些細なことでも、まず、署長に相談することが多くなってきていた。
「署長、ケソン市方面に行く車はないでしょうか?この方たちを案内してケソン市にある彼女の知り合いのアパートまで行きたいのですが、出来れば車に同乗させてくれませんか。」
「正樹くん、車なら心配しなくても、いくらでもすぐに用意させますよ。どうしてそこへ?」
「この早苗さんが知り合いを捜しているようなので。」
「正樹君、人捜しは警察の仕事だろうが、特に、こんなにきれいな人たちの人捜しは、わしの出番ではないのかな?わしに任せろ!」
署長はナミの均整のとれた体に目を奪われてしまったらしく、しきりにナミのことばかりを見ていた。そのすらりと延びた脚、小さな顔、そして身のこなし方が実にゆったりとしていて自信に満ちていた。街を歩けば、誰もが振り返るスーパーモデルがこのナミだった。おまけに外国語の大学の超秀才ときている。卒業後は外交省の官僚の席も用意されていて、その溢れ出るオーラでもって世界中を外交官として飛び回れば、どんなに難しい外交問題も解決してしまうように正樹にはおもえた。きっと、署長も正樹のその意見に同感のはずである。完全に署長はナミにノックアウトされてしまっていた。早苗が一枚の名刺をバックの中から取り出した。その向きを直して正樹に渡した。
「ここなんですよ。この住所に行きたいのですが、お願いできますか?」
正樹は受け取った名刺を見た瞬間、凍り付いてしまった。そこに書かれてある住所は自分が住んでいる住所だったからだ。それはボンボンの名刺だった。驚きのあまりに正樹は言葉がすぐには出てこなかった。何てことだ。この女性たちはボンボンを捜している。これはまだボラカイ島の魔法の続きなのだろうか?早苗とボンボンはいったい、どんな関係なのだろうか。早苗が正樹の顔を見ながら言った。
「どうしたのですか?そんなに恐い顔をなさって、ご存知なのですか、ボンボンを?」
正樹が一呼吸置いてから答えた。
「ええ、よく知っていますよ。実は僕はここに書かれてある住所に住んでいるのですよ。」
ナミが大きな目をして初めて口を開いた。
「それは本当ですか。」
不思議な沈黙が署長室に流れた。正樹は早苗から見せられた名刺を署長に手渡した。署長の目がまん丸になった。
「これは君のところではありませんか。ボラカイ島にいるボンボンを早苗さんは捜しているのですか。これは何という偶然なのだ!きっと神様が導いているのに違いないな!正樹君、ヘリコプターを使ってもいいぞ。すぐに用意させるが、どうする?」
正樹は早苗の目を見ながらゆっくりと言った。
「早苗さん、ボンボンは、今、マニラにはいません。ボラカイ島にいます。どうしますか?行きますか。さっき僕が乗ってきたヘリコプターを使えば一時間もあれば、島に行けますが、どうしましょう。」
「ええ、お願いします。」
恐すぎる偶然が何度も続いたと正樹はおもった。早苗にとっては、これから奇跡の始まる、ほんの序曲に過ぎなかった。
失恋
失恋
ボラカイ島にはうまいパン屋がある。そのイギリス式のパン工房から、午後のミリエンダ(おやつ)の時間になると、毎日、大量の菓子パンが届けられる。それは岬の豪邸で暮らす子供たちにとってはたいへんな楽しみであり、育ち盛りの彼らの体には必要不可欠なものだった。子供たちが食べ残したものを集めて、ボンボンと茂木は午後の紅茶を楽しむのが毎日の日課となっていた。
「あれ、またヘリの音ですよ。」
リビングルームでいつものように、子供たちの食べ残しを前に、お茶を飲んでいたボンボンが茂木にそう言った。一日遅れの新聞から茂木は目を離して耳をすませた。
「本当だね、あのやかましい音はさっき飛び立った警察のヘリコプターの音だよ。どうしたのだろうね、何か急用でもできたのかな?」
庭にあるヘリポートの回りには、すでにたくさんの子供たちが集まって来ていた。それに加えて、高瀬、渡辺社長、佐藤、田口、ネトイ、菊千代、千代菊、リンダ、そしてまだおやつのパンを頬張っているヨシオと、ほぼ、岬の家の主なスタッフ全員が空を見上げていた。それはあたかも、まるで巣で母鳥の帰りを待っているひな鳥のように、空を旋回しながら下りてくるヘリコプターを見上げて立っていた。ボンボンと茂木も屋敷の入り口から少し出てヘリの到着を待つことにした。
マニラからボラカイ島まではヘリだとあっという間だ。早苗もナミもさっきから窓の下で移り変わる美しい景色にうっとりとしていた。お互いに言葉を交わすことすら忘れてしまうほど、素晴らしい至福の時間だった。ヘリがボラカイ島の岬の家の上空に到着し、正樹が自慢げに、だんだん大きくなってくる下の屋敷について説明を始めると、まず、ナミがその敷地の広さに驚いてしまった。
「早苗、凄いじゃない!あたし、こんなに大きなお屋敷は今までに見たことないわよ。あの海に突き出た家なんか、最高じゃない。まるで、映画に出てきそうな家だわ。なんかロマンスを感じちゃうな。上から見てこの広さよ、下に降りたら、きっと、もっと広く感じるわよね。」
早苗が正樹に言った。
「正樹さん、この屋敷にボンボンと日比混血児たちが一緒に生活しているのでしょうか?」
「ええ、そうですよ。きれいなところでしょう。」
「本当に、素晴らしい環境で子供たちは暮らしているのですね。でも、何故かしら?どうしてボンボンはあたしにここに居ることを知らせてくれなかったのでしょうか。」
「僕にはよく分かりません。」
「正樹さん、彼にはまだ、私たちがこうしてやって来ることを知らせてはいないのでしょう。だとすると、ボンボンはあたしたちのことを見たらびっくりするでしょうね。それとも、私たちはこの島に来てはいけなかったのでしょうか。正樹さん、正直に言ってくれませんか。」
正樹は大きく首をふりながら答えた。
「いいえ、そんなことありませんよ。誰であろうと、ボラカイ島は来る者をあたたかく迎えてくれますよ。ましてや、ボンボンがお二人を歓迎しないわけがない!心配はありませんよ。何か他に訳があって、早苗さんには知らせなかったのだとおもいますよ。」
ヘリは次第に高度を下げ、もう地上に立っている人々の顔が見える高さにまで来ていた。ナミが興奮気味に言った。
「ねえ、見て、あそこ、プライベート・ビーチもあるわよ!プールもテニスコートもバスケットコートも、何でもあるじゃないの。それにこのグランドの広さと言ったら、後楽園球場よりも大きいし!」
「そうですね、もっと広いかもしれませんね。それから、ここの屋敷の名義はボンボンになっています。」
早苗は正樹がボンボンがこの豪邸の名義人だと聞いても、驚いた表情を顔には出さなかった。しかし、ナミがすぐに反応して、早苗のことを茶化した。
「あたし、ボンボンのことを早苗から奪っちゃおうかな?」
正樹が笑いながら続ける。
「毎週、どんどん子供たちが増えていますからね、もうすぐ、下の建物だけでは足りなくなってしまいますよ。すでに、庭に新しい家を建てる計画も進んでいるのですよ。茂木さんが、毎日、島の役場に行って相談していますからね。」
早苗は「茂木」という名前を再び正樹の口から聞いて、今度は驚きの気持ちを隠さずに、正樹のことをじっと見つめながら言った。
「もしかして、その茂木さんというのは、京都の方ですか?」
「そうですよ。京都で哲学を勉強していたと聞いたことがあります。」
「でも、きっと違いますよね。あたしの知っている茂木さんとは別人ですよね。」
「実はね、この豪邸を買ったのは茂木さんです。お金を出したのは茂木さんなのですよ。外国人の土地所有がこの国では認められていませんからね。だからボンボンが名義を貸したというわけです。」
ナミがびっくりして言った。
「茂木さんって、あの茂木さんかな?」
早苗はナミではなく、正樹に向かって言った。
「その茂木さんはこの下にいるのですね?」
「はい、いるとおもいますよ。さっき、僕が島を出る時にはいましたからね。」
早苗は下の豪邸の入り口の前に立っている二人の人物が目に入った。とっさに早苗は手を口にあてた。そして大きく息をしてから、正樹の目を見据えながら言った。
「正樹さん、さっき、ボラカイ島の奇跡の話をしていましたよね。私もその奇跡を信じますよ。だって、私がずっと捜していた人が、それも、二人ともこの島にいるのですから!何だか、あたし、身体が震えてきたみたい。見てください、このあたしの腕を、鳥肌がこんなに立っていますわ。」
早苗は両手で顔を隠した。涙は出てこなかったが、顔が燃えるように火照っていた。ナミは化粧箱を開けて、顔を整え始めた。ヘリのプロペラの回転が完全に止まるまで、外には出ないようにとパイロットから指示が出された。そして、ヘリはゆっくりと奇跡の島に着陸した。ヨシオがヘリの中にいつものように真っ先に飛び込んで来た。
「兄貴、どうしたの?忘れ物でもしましたか?」
「いや、違う。ゲストを案内して来た。ボンボンと茂木さんは?」
「いますよ。兄貴、荷物は?」
「いや、ない。ありがとう。」
正樹とヨシオがまずヘリの外に出た。続いてナミがすらりと伸びた脚を降ろした。最後に早苗が席を立って、彼女の運命の島、ボラカイ島に足を踏み出した。
ナミと早苗がヘリから降りて来るのを見ていた茂木がすぐ隣に立っているボンボンに言った。
「ボンボン、君か?君が知らせたのか?」
「いいえ、違いますよ!僕は何も言いませんでしたよ。言われた通りに手紙も電話もしませんでした。あの京都の旅行の後、早苗ちゃんとは、一切、連絡は断っていました。ケソン市のアパートにも私がここにいることを他言無用と厳しく言ってありますから。分かるはずがありません。」
「そうか、君ではないのだね。・・・・・・なあ、ボンボン。不思議だね、このボラカイ島は。人をどんどん呼び寄せてくる。まったく恐いくらいだよ。何かの不思議な力に満ちている。この島は正に奇跡の島と言っても構わないだろう。ボンボン、君もそうはおもわんか?」
「まったく同感です!」
ボンボンは早苗を見た途端に、今まで堪えていた感情が一気に吹き出すのを感じていた。一方、茂木は外交省の公金のことや、菊千代のことが脳裏を過ぎって、不安な気持ちでいっぱいになってしまった。それでも早苗に再びに会えたという喜びはすべての感情に勝っていた。
正樹が皆に二人を紹介し始めた。茂木は動かずに、その様子をそのまま屋敷の入り口でじっと見ていた。ボンボンはすでにヘリコプターの方へ歩き始めていて、真っ直ぐに早苗
に向かって歩いていた。渡辺社長も田口も男どもは、皆、ナミの完璧に均整のとれた肢体に釘づけだった。それに比べて、早苗の方は古典的な日本女性のもので、ボンボンと茂木以外は誰も注目していなかった。茂木はボンボンが早苗に代わって彼女の荷物を持つのを入り口から見ていた。二人は話しながら歩き出した。ナミに群がる他の人々を掻き分けて自分の方に来るのが見えた。茂木は早苗にこれまで連絡しなかったことを何と言って説明したらよいのか、二人を待ちながら考えていた。本当のことは絶対に言えない。もう始まってしまったのだ。外交省のプール金で、この屋敷を買ったことは子供たちの為にも隠し通さなくてはならない。たとえ、それが間違っていても、今は駄目だ。この家を守らなくてはならないと茂木はおもった。
早苗にとって、茂木は思春期を通して、兄であり、恋人であり、そして大学に入る時には自分の学校を休学してまで、早苗の受験に付きっ切りで勉強を教えてくれた先生だった。早苗の父親は茂木を自分の息子のようにおもっていたし、実際、酒場で二人が並んで酒を飲んでいる後姿は親子そのものだった。その茂木が突然に姿を消してしまって、早苗は本当に困惑していた。早苗は一歩一歩と茂木に近づく度に胸の鼓動が激しくなってくるのを感じた。声が茂木に届くところまで来た時、早苗は大声で叫んだ。
「なんで?どうして?茂木さんのバカ!」
早苗の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。早苗は自分の気持ちがハッキリと分かった。天才のボンボンはその涙を見て、自分が失恋したことを悟った。そして遠くからその様子を見守っていた菊千代も泣いていた。菊千代は自分がどんなに茂木のことを愛しても、茂木の心が自分の近くにはないことをずっと感じていたのだ。そして、早苗を見た時、菊千代はやっとその理由が分かったのだった。茂木は何も言わずに早苗を豪邸の中へ迎え入れた。
ヘリコプターのパイロットがみんなと話をしている正樹のところにやって来て訊ねた。
「自分はすぐにマニラに戻るように指示されていますが、正樹さんはどうなさいますか?このヘリで一緒に戻られますか?」
正樹は感謝しながらパイロットに言った。
「有り難うございました。今日は何度も行ったり来たりで大変でしたでしょう。私は明日、一人で帰りますから、大丈夫です。帰ったら、署長によろしく言っておいて下さい。本当に助かりました。有り難う。」
パイロットは正樹に敬礼をすると、さっさと一人で飛び去って行ってしまった。ボラカイ島の空はもう暗くなりかかってきており、かりにこれから、ヘリでマニラに帰ったとしてもマニラの警察署からケソン市のアパートまでの交通渋滞は避けられないと正樹は計算してしまった。しかし、これは誤算だった。大きな人生の誤りだった。どんなに時間がかかってもアパートに戻るべきだったのだ。早苗とナミ、ボンボンと茂木のことが気になってしまった正樹は判断を誤ってしまった。ディーンとの約束をすっかり忘れてしまっていた。
ケソン市の空も同じ様に赤くなりかかっていた。アパートでディーンは約束の時間になっても現われない正樹に腹を立てていた。彼女の誕生日に二人で食事に出かける約束は、すれ違いが多くなってしまったお互いの忙しいスケジュールをだいぶ前から調整して決めていたことだった。それを破るなんて、急に用事が出来たのであれば、連絡ぐらいしてきたらいいのにとディーンはおもっていた。それでもディーンはいつでも出かけられるように着替えて、見たくもないテレビをつけて正樹の帰りをじっと待っていた。するとアパートの電話が部屋中に鳴り響いた。ディーンは正樹からだとおもい、電話に飛びついた。だが聞こえてきたのは正樹の声ではなかった。あの映画俳優のホセ・チャンだった。
「ヘロー、ディーン。ハピーバースデイ。」
ホセはディーンの誕生日をちゃんと覚えていたのだった。その電話はアパートの外からのものだった。ホセは車の中からディーンに電話をしていたのだった。高級車の扉が開き、ディーンはその中へ吸い込まれてしまった。その夜、ディーンはアパートには戻ることはなかった。
そんなことも知らずに正樹はボラカイ島で楽しい時を過ごしていた。早苗とナミの歓迎パーティーが盛大に行なわれていた。子供たちが寝た後も、豪邸のあちらこちらでは気の合った者同士がまだ飲み続けていた。正樹もバーベキューをさかなにネトイとリンダとふざけあいながら時間を忘れていた。
茂木と早苗は海の見えるテラスで昔あった映画のように、二人で静かに話をしていた。夜の海はキラキラ月の光で輝いており、時折、吹く風がとても心地良かった。夜空を流れる雲も月を避けるように移動しており、とても神秘的な夜だった。
「茂木さん、あたし就職が決まったのよ。」
「そう、それはおめでとう。あんなに小さかった早苗ちゃんが、もう一人前になってしまったんだね。戸隠のお父さんも喜んでいるでしょう。お母さんのお墓にはちゃんと報告したの?」
「ナミと一緒に外交省に入ることにしたのよ。最近、あまり外交省って評判が良くないけれど、あたしとしては上出来よね。」
何ということだ、選りによって外交省とは、茂木の表情が曇ってしまった。早苗はそれには気がつかなかった。茂木は話をすぐに他に逸らした。
「早苗ちゃん、明日、案内するけれど、この島にはとても長い砂浜があるんだよ。真っ白な砂浜がどこまでも続いているんだ。マニラのゴミゴミした裏道でハイエナのように生きてきた子供たちはね、そのホワイトサンド・ビーチに立つと変わるんだな。僕がいくら偉そうなことを説教したって、あの悪ガキたちには何も通じないけれど、この島の美しさは人を信じることを忘れていた子供をやさしく抱き込んでくれる。だからね、僕はこの島でひとりでも多くの子供たちに勉強をするチャンスを与えてやりたいんだ。」
「すごいわ!茂木さん、あたしね、あたしだけの為に勉強を教えてくれた茂木さんが好きだったけれど、そういう茂木さんはもっと好きよ!さっき、茂木さんに会った時に、自分の気持ちがハッキリと分かったの。だから、もう、急にどこかへ消えたりしなで下さいね。いつも、早苗のそばにいて下さい!」
どう返事をしたらいいのだろうか。茂木は迷った。これほどまでに、正直で情熱的な告白はないではないか。茂木が何度も何度も夢に見てきた、どの場面よりも熱かった。日本にいる時には、どんなにそのことを望んだことか、しかし、今は一緒に暮らしている菊千代のことを考えなくてはならない。それに何よりも早苗の将来のことを真剣に心配してやらなくてはならない。
「茂木さん、ちょっと言葉は悪いかもしれませんが、ここの子供たちは、言ってみれば、心無い日本人たちの産み落としでしょう。それならば、日本の政府がこの子供たちの面倒をみて当たり前じゃないですか。あたし、外交省に入ったら、援助をお願いしてみましょうか?」
「いや!それはやめてくれ!絶対に駄目だよ!」
あまりにも茂木の語気が強かったので、早苗はびっくりしてしまった。こんな恐い茂木を見るのは初めてだった。
「ごめん。早苗ちゃん、ここのことはいいんだ。誰にも言わないで下さい。お願いします。私は静かに子供たちと暮らしたいだけなんだよ。だから、日本に帰ったら、お願いだから誰にもこの家のことはしゃべらないでほしい。ごめんなさいね。せっかく助けてくれようとしたのに、すみません、この通りです。」
「でも、どんどん子供たちが増えていると正樹さんが言っていましたわ。茂木さん独りではここの維持費が大変になるわ。外交省のバックアップがあった方が、茂木さんの負担も軽くなるからとおもって、・・・・。」
「いいんだよ、早苗ちゃん。ここの子供たちはさ、まだ、今は小さいけれど、大人になれば、みんなきっと、この家のことを助けてくれるからね。心配しなくても大丈夫だよ。誰にも頼らないで僕らだけでやっていきたいのですよ。僕が死んでも、この家が残るように自立させなくてはね。その為に今、子供たちの教育に力を注いでいるんだ。外交省の援助は必要ない!」
茂木がいなくなれば、尚更、外交省の援助が必要になると早苗はおもった。何か釈然としない早苗であったが、今ここで大好きな人と言い争う気はさらさらなかった。せっかくの素晴らしい夜景が台無しになってしまう。早苗は椅子から立ち上がって、テラスの手摺りに両手をついて、眼下に広がるボラカイの海を眺めた。そして、振り返って茂木に言った。
「あたし、しばらく、ここにいていいかしら?」
「もちろん、いつまでいてもいいよ。もう、ここは早苗ちゃんの家だとおもって構わないからね。僕としては、早苗ちゃんにずっと、ここにいてほしいのだけれど、まあ、それは無理な話かな。でもさ、早苗ちゃんが日本に帰りたくなるまでいればいいさ。それに、外交省に入ってからも、いつでもまた、戻ってくれば、それでいいさ。好きな時に来て、好きな時に日本に帰る。そうすればいいさ。」
「何か、夢を見ているみたいだわ。こんなに大きな家が私の家?」
「戸隠村は早苗ちゃんの故郷だけれど、このボラカイ島も早苗ちゃんの第二の故郷になれば、僕はとても嬉しいよ。ここは少し来るのに不便だけれど、十分に来る価値はあるところだよ。それに子供たちが喜ぶ。君みたいな語学の専門家が彼らには必要だからね。時々、来て勉強を教えてやってくれ。」
茂木の本音は早苗が外交省には入らずに、ここで一緒に暮らしてくれればありがたいとおもうのだけれども、戸隠にいるおやじさんの気持ちを考えると、そうしろとは言えなかった。それはよく分かっていた。きっと、早苗ちゃんが外交省へ入ることが決まって、一番喜んでいるのはおやじさんだからだ。
笑い声とともに、ナミとボンボンがリビングからテラスに出て来た。何やら、二人はとても楽しそうで、ナミの片手にはワイングラスが光っていた。ボンボンもめずらしく酔っ払っているみたいだった。ナミが早苗にからむように言った。
「早苗はここにいたのか。あれ、茂木さんも一緒でしたか。お邪魔かしら?」
「ナミったら、酔っているのね。ボンボン、あまりナミに飲ませないでよ。ナミの酒癖の悪さは天下一品なのだからね。気をつけてよ。」
「すみません、ナミさんは超人気者で、みんなが順番にナミさんに勧めるものだから、つい、度を越してしまいました。かなり酔ってしまったようなので、少し夜風にあてようとおもって、やっと、連れ出して来たところなんです。」
ボンボンは慎重にナミをテラスの椅子に座らせると、茂木に言った。
「ああ、そうだ、茂木さん。僕、ちょっと東京にしばらく行ってこようとおもって、学校や留学生会館の後始末をしてこようとおもうのですよ。予定としては二ヶ月間ぐらいかかりそうかな、よろしいでしょうか?」
「ああ、行ってらっしゃい。」
「すみません。」
「あ、そうだ。ボンボン、本を三冊持って来てはくれませんか?古い本ですがね。知り合いの古本屋がとっておいてくれたもので、僕にとってはとても大切なものですから、送ってもらって、途中でなくなってしまうのが恐い。ボンボンが持って来てくれると助かるのだがね。」
「ええ、いいですよ。他に何かありましたら、遠慮なく言って下さい。」
その時、リビングのドアが大きく開き、正樹とリンダが飛び出て来た。正樹の様子がおかしいことに茂木はすぐに気がついた。
「茂木さん、大変だ!菊ちゃんがいなくなった。」
茂木の顔が真っ青になった。リンダが下手な英語で茂木に向かって言った。
「こんな時間にいなかったことは今までに一度もありませんでした。さっきまで台所で洗い物を一緒にしていたのですけれど、・・・・・・。」
正樹が続けた。
「ネトイと千代ちゃんが魚屋のハイドリッチの所へ行って、トライシクルを借りに行きました。道々、捜しながら市場のほうへ向かいました。さっきから、屋敷中を捜しているのですが、どこにもいないのです。もちろん庭も捜しました。菊ちゃんが夜中に出かけることなんか、ありませんでしたからね。ネトイたちはトライシクルを借りたら、そのまま町の方を捜してみると言っていました。」
茂木は早苗のことばかりに気をとられていて、すっかり菊千代のことを忘れてしまっていた。早苗には何も言わずに、屋敷の中へ入った。迷うことなく真っ直ぐに台所へ向かった。壁につるしてある菊千代のエプロンを掴み取ってから、再びテラスに出て来た。そして足早に階段を下りて、犬小屋のところに行き、菊千代が一番可愛がっていたドーベルマンのジョンを小屋から出して、エプロンの匂いを嗅がせた。ジョンは特別に訓練されたわけではなかったが、茂木はやってみる価値はあるとおもった。散歩用の首輪をつけて、いつも菊千代と散歩をする海の方へ下りてみた。ジョンに引きずられながら、茂木は浜伝いにホワイトサンド・ビーチへと向かった。
さっきから、ずっと、菊千代は茂木の幸せのことだけを考えていた。突然、早苗が島に現われて、自分の存在そのものが茂木にとっては迷惑なのではとおもうようになっていた。本当に茂木の幸せのことだけを考えるのであれば、自分は茂木の前から去らなければならないとおもい始めていた。ただ、どうすることも出来ずに、菊千代はホワイトサンド・ビーチをよろよろと歩いていた。その足どりは力なく悲しみに満ちていた。女が一人で夜の浜辺を歩いてはいけない。そんなことぐらいは分かっていたが、菊千代はもう何もかもがどうでもよくなっていた。浜の中程まで行くと、ぼんやりとかすかな光が見えてきた。そばに寄ってみると、誰かがマリア像の下にロウソクを灯して、そのまま帰ってしまったらしい。このマリア像はボラカイ島の守り神として、島の人々の熱い信仰を受けていた。浜から数十メートルほど海に入った岩の塊の上に安置されており、潮が引くと地続きになる場所にあった。海の侵食作用によって出来た天然の岩には数十段の階段が造られてあったが、菊千代は階段には登らずに、濡れた砂浜にひざまずいた。祈るでもなく、ただ、マリア像を見上げていた。そのまま長い時間が経ってしまった。気がつくと、潮が満ちてきており、身体半分は海の中にあった。菊千代は泳ぐことは出来ない。この遠浅の海を沖へどこまでも歩いていけば、どこかで足を滑らせて天国へ行けるかもしれないと菊千代はおもった。早苗を巻き込んで、ドロドロした愛憎劇を演じる前に、茂木を愛したまま死ねたらいいとおもった。その時、菊千代の体内にはもう一つの小さな命が誕生していたことを菊千代は知らなかった。その小さな命が息づいていることに気づいていたならば、自分が犠牲になることなど、決して考えはしなかったのだろうが、菊千代はさっきから自分が身を引くことが茂木にとって一番幸せなことだと考え続けていた。
しばらくすると、犬の吠える声がした。それは聞き覚えのあるジョンの声だった。菊千代が振り返ると、大きな黒い肉のかたまりが自分の方へ向かって来るのが見えた。そしてドーベルマンのジョンは菊千代に飛びついて、菊千代の顔やら首筋を嬉しそうになめまわした。菊千代もジョンの頭や顔を荒々しくなぜまわして、それに答えた。
まもなくして、暗闇から茂木の姿が現われた。茂木は足早に海の水を掻き分けながら近づいて来て、菊千代を強く抱きすくめて言った。
「ごめんよ、菊ちゃん。」
菊千代は茂木の胸の中で答えた。
「このまま、あたしを絞め殺して下さい。そして、そっと海に流して下さいな。」
「ごめんよ。」
茂木は更に強い力で菊千代を抱き込んだ。茂木が何度も繰り返す「ごめん」の意味が菊千代にはよく理解できなかった。菊千代は茂木を苦しめている自分自身を責め続けていた。茂木のことを本心から愛していたのだった。
「あたしね、分かるのよ。茂木さんが早苗さんのことを愛していることが、だから・・・。」
「菊ちゃん、何も言わないでおくれ!僕が悪かったんだ。こんなに菊ちゃんのことを苦しめてしまって、ごめんね。もう一度チャンスをくれませんか。」
答えなんか、そんなものない!と菊千代はそうおもった。
「あたしの命はもう、とっくの昔に茂木さんに預けてあります。そんなこと言わないで下さい。あたしは茂木さんのことをいつまでも愛しています。」
ジョンが二人の間に割り込んできて、二人の顔から流れ出る涙を交互になめていた。海水は腰の辺りまで満ちてきており、二人のことを見下ろしているマリア像の目からも涙が出ているのに菊千代は気づいていた。
岬の豪邸ではまだ宴は続いていた。ボンボンは茂木が飛び出して行った後、彼もホワイトサンド・ビーチとは反対側の浜へ懐中電灯を片手に菊千代のことを捜しに出かけた。ナミは渡辺電設の佐藤たちが再び誘いに来て、家の中でまた飲み始めてしまっていた。海の見えるテラスには早苗と正樹の二人だけが残された。
「正樹さん、やはり、あたしはこの島には来るべきではなかったのですね。」
正樹は何も言うことが出来なかった。早苗が静かに続けた。
「その菊千代さんは茂木さんのことを愛しているのですね。」
「早苗さん、私には茂木さんの心の中まではよく分かりませんが、さっき、早苗さんに会った時の茂木さんはとても嬉しそうでした。この島に来て、初めて見せた明るい表情でした。菊ちゃんは確かに茂木さんのことを愛していますよ。茂木さんの世話を楽しそうにしています。でも、二人の間には何か距離があることは僕も感じていました。早苗さんを見る茂木さんの目を見て、僕はすべてが分かったような気がしました。」
「やはり、あたしはこの島に来るべきではなかったようですね。でもね、正樹さん、ヘリコプターの上から茂木さんの姿を見た時に、あたしね、この人だと感じたのです。でもどうやら、失恋しちゃったみたいですね。正樹さんは明日、マニラに戻られるのでしょう。あたしたちも一緒に連れて行ってくれませんか。もう、日本に帰ろうとおもいます。」
「それはいいですけれど、茂木さんが何と言うか。」
「いいんです。あたし、もう、決めてしまいましたの。明日、日本に帰ります。」
翌日、早苗とナミ、そして正樹の三人はボラカイ島を離れてマニラに戻った。マニラの国内線の空港から国際線の空港へ直行して、すぐにキャンセル待ちの手続きをとった。二人の日本行きの席がとれたのは、結局、深夜になってからだった。二人を無事に出国させた正樹は空港から出て一般道路まで歩きタクシーを拾った。空港に待機しているタクシーを避けたのだった。正樹はケソン市のアパートへ向かう車の中で、しみじみと、今回、ボラカイ島で起こった出来事を思い返していた。みんながそれぞれ違った形で失恋をしていた。ボンボンは早苗さんに失恋したし、茂木さんも最後には早苗さんに失恋してしまった。菊ちゃんは茂木さんの本心に気づき一時は失恋したが、自分を犠牲にしようとしていたところを島の守り神であるマリア像に救われた。結果的には茂木さんの愛を勝ちとった形になった。正樹は以前に茂木さんが言っていたことを思い出していた。
「京都の人たちはね、とても辛抱強いのだよ。決して自分のことは表には出さないけれど、すべてが終わってみると、ちゃんと自分のおもうように事を運んでいるから驚くよね。」
正樹はそんなことをタクシーの中で思い出していた。菊ちゃんはやっぱり京都の人だったと納得していた。早苗さんも自分が身を引くことによって、自らを失恋させてしまった。この週末は本当に失恋が多かったと正樹は考えていた。そんな正樹自身にも失恋の影が忍び寄ってきていることを知らずに、正樹を乗せた車は渋滞のない深夜の真っ直ぐにのびたハイウエーをケソン市に向かって、ただひたすら走っていた。
ケソン市のアパートに着くと何故か皆がよそよそしく感じられた。ディーンはまだいなかったが、誰もがそのことを口にはしなかった。ましてや、ホセ・チャンから電話があって出かけてしまったことなどは、いったい誰が正樹に言えるというのだ。このディーンの秘密の外出の件は、そっと伏せられてしまった。
次の年、渡辺社長の渡辺電設はマニラに進出してきた。やはり、佐藤が総責任者として、タイから移って来た。渡辺社長は自分の命を救ってくれたボラカイ島が気に入ってしまったようで、なんだかんだと理由をつけてはボラカイ島に入り浸っていた。小船で海に出てダイナマイトを使った非常識な釣りをやったり、そうかとおもうと、何もせずに、ただ、ごろごろと一日中横になって過ごすこともあった。以前は毎晩のように芸子遊びをしていた社長だったが、娯楽の何もない島でまるで別人のように時を過ごすようになっていた。
そして、この年、茂木さんと菊ちゃんに男の子が授けられた。正樹は菊ちゃんの嬉しそうな笑顔を見る度に、本当に良かったと何度もおもった。正樹も勉強の方が難しくなってしまって、一日中、勉強をしている日々が続いた。眠る時間も惜しんで何とか皆についていこうとしていた。医学部の先輩のディーンも同様に勉強に集中していた。二人で出かける時間を捜すのが極めて難しかった。そして、ディーンは予科から本科へ移る大切な時期を迎えており、この時点でほとんどの学生たちが医学部から振り落とされてしまう。別の学部への方向転換を余儀なくされるのだ。正直に言って、ディーンも限界を感じているように正樹には見えた。そんなことから、前のように二人で過ごす時間は持てずにすれ違いの生活が続いていた。
相変わらず、マニラの裏通りには日比混血児たちが溢れていた。正樹は週末になると、警察署長に呼び出されて、保護された子供たちと一緒にボラカイ島へ飛ぶ回数もどんどん増えていた。そのことだけはどんなに勉強が忙しくても優先させて手伝っていた。ただ、前のようには島には長居はしなくなっていた。勉強も子供たちと同様に大切だったからだ。
造船会社を一時帰休していた高瀬青年も、一年が過ぎてもなかなか新潟には戻らずに、ボラカイ島で子供たちと共に暮らしながら、彼らに日本語を教えていた。この高瀬青年にもボラカイ島の魔力が働いたようで、以前に彼が世話になっていたマカタガイホステルの女オーナーと偶然にもボラカイ島のホワイトサンド・ビーチで再会して、二人はその夜、すぐに恋に落ちてしまった。そんな訳で、高瀬青年は日本に帰る気はなくなってしまったように正樹にはおもえた。
菊千代が男の子を生むと、今度は双子のもう一方の千代菊も市場の魚屋のハイドリッチの子を生んだ。これがとても難産で、島の診療所では無理で、大きな病院のある隣の島まで産気づいた千代菊をボートに乗せて運んで行って、何とか助かったのだが、あの時は本当にみんなが肝をつぶしてしまった。正樹が学校を卒業したら、ボラカイ島に診療所を開設することを茂木に提案したのは、千代菊が出産で苦しんでいたこの時だった。子供たちが増えれば、増えただけ病気や怪我の数も増えるわけだから、正樹の提案には茂木は大賛成だった。診療所開設の資金的な問題は正樹が豪邸の子供たちの主治医になることで、茂木さんが出してくれることになった。正樹の卒業を待たずに、診療所の建設が市場の近くでは始められた。豪邸の中ではなく市場の近くを選んだのは茂木さんで、島の人たちともうまくやっていくことを考えたからだ。
日本に帰った早苗は外交省の特別調査室に配属が決まった。外交大臣の直属の調査機関で、外交省内の汚職、特に省内のお金の流れをチェックする部署に、まったく人情のしがらみがない、汚れのない早苗が特に抜擢されて、その仕事に就くことになった。
皆がそれぞれ、精一杯に生きてきた年も押し迫り、家々にはクリスマス・ライトが飾られたままで、小遣い目当ての子供たちがクリスマスは終わってしまったというのに、隣近所の家々の入り口に立ってクリスマス・ソングを歌い続けていた。爆竹の物凄い音と花火の煙に包まれて新年がやって来た。誰もが新しい年の希望に満ちていたその時、ケソン市のアパートから、突然。ディーンの姿が消えてしまった。
正樹が警察署長のところに新年の挨拶をしに行った帰り道だった。路上でサンパギータの花飾りを見つけた。誰かが車から落としたものに違いなかった。車のミラーのところに吊るしてあった良い香りのするサンパギータの花飾りを飛ばしてしまったものだろう。正樹が手を出してそれを拾おうとした時、そのサンパギータは風に飛ばされて車道の中央まで飛んでしまった。次の瞬間、バスがクラクションを鳴らしながら正樹の目の前を通り過ぎて行った。一生懸命になって正樹はそのサンパギータの花をさがしたが、もう、どこにも見当たらなかった。
悲しみ
悲しみ
正樹がディーンのことを知ったのは、彼女がアメリカへ旅立ってから三日目のことだった。サンチャゴのアパートの住人たちは誰も正樹にディーンがホセ・チャンと一緒に行ってしまったと伝える勇気はなかった。正樹と目が合うと、あからさまに視線を逸らせた。正樹がディーンはどこにいるのかと問いただしても、誰も返事はしなかった。あのやさしいウエンさんも、勝気なノウミも正樹のことを避けていて、話をする機会すらなかった。大切な人の消息を三日間も分からないままにしておいた正樹にも問題はあった。いくら試験が大切だからと言って、ディーンがどこにいるのかも分からないまま、試験に集中していたことは、正樹のディーンへの想いが、ただそれだけのものでしかなかったと誤解されても仕方がなかった。正樹の定期試験が完全に終わったその夜、ボンボンの姉さんがオヘダのアパートに正樹を呼んで、ディーンの失踪を告げた。正樹はディーンがもうマニラにはいないことを、この時、初めて知ったのだった。それもあの俳優のホセ・チャンと一緒にアメリカへ渡ってしまったと、残酷にも事実をそのまま告げられた。ディーンがホセと消えてしまったことは時間の経過とともに正樹をより失望させた。自分一人だけが何も知らなかったということも、更にそのショックを大きなものにしてしまった。見るもの聞くもの何もかも、会う人すべてが正樹にとっては憎らしかった。所詮、女なんてそんなものさ、金持ちで見てくれが良ければそれでいいのだ。これじゃあ、涙も出ないではないか。俺一人が笑い者だっただけさ。わざわざ日本から来て、この有様だよ。笑っちゃうよ。そして今はみんなが俺のことを哀れんでいるのだ。何が医者だ。何が恋だ。これじゃあ、滑稽な狂言を俺一人で演じていただけじゃないか。正樹は目の前が真っ暗になってしまった。正樹はアパートに居るのが辛くなり、外へ飛び出た。どこに行くでもなく、ただ、ふらふらと歩き続けた。気がついてみるとディーンとの思い出がたっぷり詰まった赤いキャデラックのレストラン、サムスダイナーに来てしまっていた。ローラースケートで店内を走り回っているウエイトレスをつかまえて乱暴に注文した。
「この店で一番強い酒をくれ!」
「イェッサー、かしこまりました。他に何か、ご注文は?」
「それだけでいい!」
酒を飲んだってどうすることも出来ないことくらいは分かっていた。でも、飲まずにはいられなかった。気持ちが空回りする中で正樹はおもった。結局、人間なんてそんなもんだ。誰一人として聖人なんていないのさ。どんなに偉そうなことを言ったって、最後には楽な方を選ぶのさ。誰も好き好んで苦労なんかしたくはないものなあ。アルコールが体の隅々に行き渡ったところで、だんだんと悔しさが膨らんできた。自分に魅力がなかったから、彼女はホセを選んだだけなんだ。彼女が悪いわけではない。これは自分の力不足の結果なのだよ。俺は、ただ、それだけの人間にすぎなかっただけなんだ。そうおもった時、初めて涙がこぼれ落ちて来た。Tシャツを捲り上げてそっと涙をぬぐった。正樹は独りぼっちだった。経済的にディーンのことを支えてきた姉さんのウエンさんだって、彼女が大金持ちと一緒になれば助かるのだし、アパートの連中にしたって結局はみんなディーンの味方なんだ。どう足掻いても自分は新参者でしかないのだ。じゃあ、どうする?これからアメリカまで彼女を追いかけて行ってホセ・チャンに決闘でも申し込むのか、そんなことをしたって何の意味もない。笑い者になるだけだろう。もういい、一人芝居も終わりにしよう。正樹は無性に海が見たくなった。しかし、ボラカイ島へは行く気はしなかった。何故ならボラカイ島の豪邸はホセ・チャンが残していったものだから、そんな家には今は世話にはなりたくなかった。アパートにもこのまま帰りたくはなかった。ふと、日本に居た時にテレビのイレブンPMという番組で紹介された海のことを思い出した。正樹はそのバタンガス地方のマタブンカイ・ビーチへ行ってみる気になった。ジャングルで終戦を知らずに戦い続けた日本兵の小野田さんが発見されたルバング島がよく見える浜辺だ。マニラからバスで5時間位の距離だったと記憶していた。正樹はウエイトレスを呼んで聞いてみた。
「バタンガス地方へ行くにはどうしたらいのかな?知っていたら教えてくれないか。」
「BLTBのバス・ターミナルから頻繁にバスは出ているとおもいますよ。」
「そのBLTBというやつはどこにあるのかね?」
「クバオからハイウエイーをパサイ市の方へ向かって行って、アヤラ・マカティを過ぎてしばらくすると右側にバス・ターミナルが見えてきますよ。それがBLTBですよ。」
「そうか、ありがとう。ああ、それから、この店は何時に閉まるのかね?朝一番のバスが出るまで、ここにいてはいけないかな?」
「それは無理だとおもいますよ!」
「そうか、無理か。それは困ったな。どこか、この辺で朝までやっている店はないだろうか?」
「お客さん、いつものお連れさんはどうしたのですか?」
「ああ、アメリカへ行ってしまったよ。それも私に黙ってな。突然に、ハンサムな芸能人と一緒に消えてしまったよ。」
「ええ、あんなにお二人は仲が良かったのに、喧嘩でもしたのですか?」
「喧嘩なんかしていないさ。俺に魅力がなかっただけさ。おかしいだろう。笑ってくれていいよ。」
「笑うなんて、そんな。そうだ!もし良かったら、朝まであたしの家にいてもいいですよ。BLTBのすぐ近くだから、変な飲み屋にいるよりはその方がいいわよ。狭いところで、家族がゴロゴロ寝ているけれど、それでも良かったら、どうぞ。」
「それは助かるな。一番早いバスに乗るから、それまで居させてくれるとありがたい。でも迷惑ではありませんか?」
「いいえ、ちっとも迷惑なことなんかありませんよ。だけど、家には何もありませんからね。それでもよければ、どうぞ。」
「ありがとう。お願いします。」
「それで、バタンガスのどこへ行くのですか?」
「マタブンカイというビーチなんですけれど、知っていますか?」
「いいえ、あたしはマニラから一歩も外には出たことなんかありませんし、ましてやビーチなんて、憧れの場所でしかありませんよ。マタブンカイ・ビーチですか。あたしは聞いたことがありませんね。」
「タガイタイを通って、ナスブの浜の隣にあるらしいのですがね、僕も初めて行くところです。きれいな砂浜があると聞きましたので、それを確かめに行って来ようかとおもいました。本当のところは、何だか急に、海が見たくなっただけなのです。」
「お客さん、お一人で行くのですか?」
「ああ、そうだよ。」
「危なくありませんか?」
「もう、危なくても、何でもいいんだ!どうせ僕なんか、どうなっても構わないのさ。ただ、海が見たいだけさ。正直なところ、ボラカイ島へすぐに戻ってさ、あの島の魔法でもって、すべてを忘れてしまいたいのだけれど、それもちょっと理由があって今は出来ないのだよ。」
「お客さんはボラカイ島に家か何かあるのですか?まあ、羨ましいこと!あそこはきれいなところだとみんなが言っていますからね。あたしも死ぬまでに一度でいいから行きたい場所ですね。でもきっと、それは無理ね。お金ないものあたし。」
「ああ、きれいな島だよ。でも、僕は、今は、島の仲間には会いたくないんだ。誰にも会いたくないんだ!」
「あの島にはとても長くて白い砂浜があるって聞いたことありますけれど、それは本当ですか?」
「ああ、あるよ。真っ白な砂浜がどこまでも続いている。」
他のテーブルにいた客から声がかかったので、そのウエイトレスは正樹のテーブルから離れた。また正樹は一人になってしまった。さっきボンボンの姉さんから言われたディーンはアメリカへホセと行ってしまったという言葉がまた頭の中で何度も聞こえてきた。ディーンがホセを選んで、彼女の人生を任せたのだから仕方がないだろう。もう俺の出番なんかないのさ。じゃあ、もう、この国にいたってあまり意味がないではないのか?酒が正樹を狂わせていた。取り留めのない考えがぐるぐると頭の中でまわっていた。でも医者になってディーンのことを見返してやるんだ、それがいい。ディーンが医者になる夢を捨てて、ホセに走ったのなら、その夢を俺が拾って、立派な医者になってみせる。意地でも医者になって、ディーンのことをせせら笑ってやる!ちょうど良かったではないか、ディーンがいなくなって、これで勉強に集中出来るではないか。すべて本心ではなかったが、酒がそう言って正樹のことを慰めていた。
店が終わると、私服に着替えたウエイトレスと正樹は店の前のケソン大通りに出た。マニラからケソン市へ延びている幹線道路の一つで深夜でも車は多かった。正樹がタクシーに向かって手を上げると、ウエイトレスの手が正樹の腕を押し下げて、それを止めさせた。
「タクシーなんて、もったいないわ!ジプニーを待ちましょう。」
正樹は急に自分が恥ずかしくなってしまった。今まで何のためらいもなくタクシーを利用してきたのだが、彼女の一言が胸にぐさりと突き刺さってしまった。言われてみればその通りである。彼女にしてみれば一日中働き続けてなんぼの生活である。家に帰るのにタクシーを使ってしまったら、幾らも残らないではないか。正樹が払おうが、誰が払おうがお金は大切に使わなくてはならないと彼女に説教されてしまった。まったくその通りである。こちらに来て正樹は少し天狗になっていたのかもしれない。ディーンと一緒の時はいつも躊躇することもなくタクシーに乗っていた。それが当たり前だった。しかし、どうだ、ディーンはタクシーよりも高級車やヘリコプターを乗り回すホセのところへ去ってしまったではないか!背伸びをしても、結局、大金持ちには勝てなかったではないか。
「ごめん、僕は奢っていたかもしれないね。そうだね、君の言う通りだ。ジプニーで行こうか。そうだ、君の名前をまだ聞いていなかったよね。僕は正樹だ、君の名前は?」
何度も店に通っていたから、お互いに顔はよく知っていたのだが名前は知らなかった。
「あたしはドリスよ。」
「ドリスか、アメリカの有名な歌い手さんだね。」
「何?それ、ああ、ドリス・デイのこと?」
「たぶん、それでもう、君の名前は一生忘れないよ!そうやって覚えるとなかなか忘れないものだよ。自慢じゃないけれど、僕の小学校の同級生の名前なんか、もう、とっくの昔に全部忘れちゃったからね。」
ジプニーを何度も乗り継いで、やっと彼女の家の近くまでたどり着いた。彼女の家は路地を幾つも入った所にあり、それはベニヤ板にペンキを塗っただけの粗末なものだった。正樹はその小さな小屋を見て驚いてしまった。それはそのバラック小屋にではなく、彼女の気持ちに対して驚いてしまったのだった。困っていた正樹を何の恥じらいもなく、堂々と自分の家に招待してくれたことにびっくりしてしまったのだ。家の中に入ると、彼女の兄弟たちが重なるようにして眠っていた。正樹は困ってしまった。
「ドリス、僕は外の長椅子でいいよ。みんなよく眠っているから、起こさないでいいからね。外の椅子で朝まで待つことにするから。」
「ごめんなさいね。驚いたでしょう。小さな家だから、お酒はないから、今、コーヒーを入れてくるわね。待っていてね。あ、そうだ。ちょっと待って。蚊取り線香をたかないと蚊に食われてしまうわ。あったかな?ああ良かった、あったわ。はい、これ、マッチと線香をのせる金具も。」
「ありがとう。」
家の横にはドブ川が流れており、かなりの悪臭がした。蚊の数もドリスが言うように半端ではなかった。蚊取り線香に火を点ける前に、かなりの羽音が近づいてくるのが分かった。人間様の頭がくらくらする位の強力な蚊取り線香でないと、この蚊の大群から身を守ることは出来ないとおもった。世の中には蚊に刺されやすい人とそうでない人がいるが、正樹はその前者だった。正直なところ、ドリスの家はすぐにでも逃げて帰りたくなるような場所にあった。しかし、落ち込んでいた正樹のことを気遣い、親切に朝まで家にいてもいいと申し出てくれたことをおもうと、逃げ出すわけにはいかなかった。
その夜、ドリスは正樹の話をじっと聞いていてくれた。どうしてマニラに来たのか、ディーンとの楽しかった思い出、そんなものは他人が聞いても面白くも何ともないのに、ドリスは黙って正樹の話を聞いていてくれた。話をすることで正樹の気持ちもだんだんと楽になってきていた。二人は空が明るくなるまで、家の外の玄関先でお互いのこれまで歩んできた道について、あるいは日本のことやフィリピンのことなど色々な話をした。
「ねえ、ドリス、今夜は仕事があるの?」
「いいえ、今日は休みだわ。本当は休みたくはないのよ。でも、みんなで仕事を分け合ってしているから、毎日は出来ないの。順番だから仕方がないわ。」
「君の家族は何人だい。僕が言う家族というのは遠い親戚はその数には入らない。親と兄弟だけだ。何人家族だい?」
「十人よ。」
「もし、良かったら、僕がジプニーを一日借り切るから、マタブンカイ・ビーチにみんなで行ってみないか。子供たちが起きたら、ちょっと相談してみてくれないかな。」
「相談するも何もないわ、みんな賛成に決まっているわよ。大喜びで大騒ぎになってしまうわよ。でも、悪いわ。大勢だから大変だわ。」
「いいんだよ。一人で行ったところで、寂しいだけでさ、きっとまた涙ばかり出てきちゃって、ちっとも楽しくないもの。僕としては君たちが付き合ってくれるとありがたいのだけれど、駄目かな?」
「だけど、きっと、隣の子供たちも行きたいと言い出すわよ。そうしたらジプニー一台では乗り切れなくなってしまうわ。だから、やはり遠慮しておきます。」
「分かった。それじゃあ、バスを借りることにするから、一緒に行こう!」
正樹は誰でも良かった。そばに誰かがいてほしかったのだ。それは多ければ多いほどよかった。朝日が昇り、だんだんと暑さが戻ってきた。急に話が決まったのにもかかわらず、海へ行くという突然の提案は大歓迎でもってみんなに受け入れられた。ドリスの家族はもちろんのことだが、隣近所の子供たちもその親たちも皆挙って参加したいと言ってきた。その願いを断ることなど出来ずに、結局、一台のバスでは乗り切ることが出来ない数にまでなってしまった。予想していたことだったが、もう一台ジプニーを借りて、なんとか席は確保出来た。正樹はもうどうにでもなれと苦笑いを浮かべながら、その様子を見守っていた。子供たちは初めての海とあって、みな興奮していた。その子供たちの喜ぶ顔を見ていて、一時ではあったが正樹は大切な人を失った悲しみから少し開放されていた。
バスは猛スピードで二時間走ったところで休憩をとることになった。タガイタイと呼ばれる風光明美な山の上に来ていた。見下ろすとタール火山とカルデラ湖の雄大なパノラマが広がっており、レストランの前にバスとジプニーが横付けになり、レストランの側としては団体客の到来に俄かに活気づいた。トイレを貸してくださいと頼むと快く承知してくれた。しかし、この団体客は誰一人として食事も買い物もしなかった。ただ、トイレを汚しただけだった。何故なら、皆、お金を持っていなかったからだ。正樹はまずいなとおもい、ドリスに言った。
「ドリス、このタガイタイは果物が安いと聞いたことがあるけれど、ここで果物をたくさん買って、みんなで食べようか。」
「そうね、ここのパイナップルはコーラよりも安から、飲み物の代わりにもなるものね。バナナも買いましょう。子供たちが喜ぶわ。」
「ああ、いいよ。君に任せるから、ここのレストランの店先にあるものを買って下さい。」
「分かったわ。」
このタガイタイだけでも皆にとっては憧れの場所だったのだ。裕福な観光客とは違い、一般の人々が来ることはそう簡単ではなかった。別に急ぐ旅でもなかったので、たっぷりと休息をとった。一時間経ったらバスに集合と皆によく言って聞かせたのだが、二時間経っても全員が集まらなかった。フィリピーノ・タイムである。正樹はジプニーをその場に残して、バスだけで先に出発することを決断した。
バスはさらに二時間走り、リヤンの町に出た。途中、ココナッツの林を抜けて、開けた所に大きな砂糖の工場があった。砂糖の世界的な値崩れで、このフィリピンも大きな打撃を受けてしまったことは極めて残念なことである。貨車やトラックにはサトウキビが山積みになっていたが、その風景は活気がなく、どことなく物悲しいものだった。リヤンの町を出るとしばらく畑が続いた。さらに右に曲がって砂利道に入ると両側には雑草が生い茂り、なだらかな下り坂になってきた。すると前方が開けてきて、海が見え隠れしだした。やっと着いた!マタブンカイ・ビーチだ。子供たちの間からも大きな歓声が上がった。
とても日本では考えられないことだ。百人を超える団体のツアーを、それも小さな子供たちが多く、しかも危険を伴う浜辺のツアーを何の保証もなしに組んでしまったわけだ。もし事故が起こったら誰が保証をするというのだ。しかし滅多に海を見るチャンスのない
子供たちがこんなにも喜んでいるのだ。日本の親たちならいざ知らず、誰も保証問題を取り上げて食ってかかる者などいなかった。正樹は誰も海で溺れないことを祈るのみであった。失恋した傷心をいたわる余裕などは、この時はまったくなかった。今日は兎に角、見張り台に立って、ライフガードをしっかり勤めなければならなかった。
「ドリス、沖には絶対に出ないように、みんなに注意してくれ!流されると大変だからな。それからお昼にはここに集まるように言ってくれないか。」
「分かったわ。ところで昼ごはんはどうするの?百人以上もいるけれど、どうしよう。」
「豚の丸焼きでもしようか。地元の人に相談してみてくれないか。焼くのに時間がかかるけれど、出来るかな?」
「レチョンね。分かったわ。聞いてみる。みんな喜ぶわよ。滅多に食べられないご馳走だから。こんなにきれいな海に来て、レチョンも食べられるなんて、みんな感動しちゃうわよ。でも大変な出費よ。」
「いいんだよ。そんなこと心配しなくても、僕に任せておけよ。食事のことはドリスに全部任せるからね。浜の人に頼んで準備してくれないか。」
「分かったわ。」
「みんなの喜ぶ顔がさ、今の僕の救いなのだよ。何もかも忘れて、今日は楽しもうじゃないか。」
マタブンカイ・ビーチの砂は完全な白色ではないが日本のどの浜と比べても、より白に近い。一説にはマタブンカイ・ビーチの砂はボラカイ島の砂を運んできたものだとする説もあるが、それは確かではない。この浜の特色は遠浅の海に筏が幾つも浮いていることだ。その筏の上で食事をしたり、休憩が出来るように組まれたもので、もちろんタダではない。地元の人々が考え出した現金収入の道具なのだ。正樹のところにも筏を使わないかと何件も商談があったが、一つだけ借りて、後は全部断った。みんなには他の筏には上らないようにと注意をした。
しばらくすると、ドリスがレチョンにする豚を手に入れて戻って来た。さっそく女どもは豚の丸焼きの準備を始めた。子供たちは浜で大騒ぎである。男どもはひとしきり泳いだ後、正樹のそばに来て腰を下ろした。あまり冷えていないビールに氷を入れて遠慮をしながら飲み始めた。初めて会った人々なのに、何でこんなに打ち解けることが出来るのか、正樹は不思議だった。豚の内臓でもって様々な料理も次第に出来上がってきた。黒いカレーのような汁は豚の血でつくられたディヌグアンと呼ばれる料理だ。ご飯にかけて食べる。これを嫌いだと言うフィリピン人はまずいないだろう。それほどポピュラーな料理で皆好んでご飯にぶっかけて食べる。正樹はハッキリ言って、味よりも血を想像してしまうためにディヌグアンは身体が受け付けなかった。腸を細かく切って、串に刺して炭で焼いたものは絶品であった。ビールとよく合って、焼き鳥の数段上のうまさがあった。ブロックが積み上げられ窯がつくられた。そして、今度は力仕事で男どもの出番だった。中をくり抜いた大きな豚を回転しながら焼き始めた。百人以上もの食事はこうして一頭の豚でもって賄われた。豚の耳が好きな者もいれば、足をぶつ切りにして煮込んだ豚足料理が好物の者もいた。さきほどタガイタイに残してきたジプニーが集合時間に遅刻をした者たち全員を連れて、無事に到着した。何とか食事には間に合ったが、おいしいところはすでに食べつくされた後だった。食事が終わって、昼寝をしてから、また少し泳いで帰ることになった。明るいうちにマニラに戻りたかったのは、深夜の山道は想像をするだけでも恐ろしかったし、百キロを超えるバスのスピードも心配だったからだ。誰もが皆、もっと浜でゆっくりしたい様子だったが、正樹は三時のおやつの時間を待たずに出発することを決断した。それでも全員が車に乗ったのは四時を回ってしまっていた。なかなか、この国では大勢の人々をまとめあげるのは難しいことだと正樹は実感した。
帰り道、またタガイタイで休憩をとったが、今度はトイレ以外の休憩はなしで、バスやジプニーから降りることを遠慮してもらった。また何人か行方不明になって出発が遅れると大変だからである。暗くなる前に何とかマニラにたどり着きたかった。
誰も怪我することなく、無事に正樹たち一行はマニラに到着した。バスから降りると、子供たちがお礼を言うために正樹のところに集まって来た。親たちは少し離れたところから頭を下げている。みんな本当に喜んでくれていて、どの顔も輝いていた。ドリスも近寄って来て、何度もお礼を言った。
「正樹さん、今日は本当にありがとう。弟たちの喜ぶ顔は久しぶりだわ。母はね、初めは嫌な顔をしていたけれど、もう今は、ニコニコだわ。だけど、随分とお金を使わせてしまって、ごめんなさいね。でもおかげでとても幸せな一日になりました。本当にありがとうございました。」
正樹はただうなずいて微笑んで見せた。皆が見送る中を正樹は一人でドリスの街を離れた。また正樹は一人ぼっちになってしまった。急にディーンを失ったという悲しみが込み上げてきた。ケソン市のアパートにはまだ帰る気がしなかった。マニラ東警察署の署長のところに自然と正樹の足は向かってしまった。
いつものように署長はあたたかく正樹のことを迎えてくれた。署長の大きな机の前の椅子に座って話し込むのが正樹はとても好きだった。空元気を出して、ディーンとホセのことは何も話さなかった。マタブンカイ・ビーチへ行ってきたことだけを署長には話した。本当はディーンのことを聞いてもらいたかったのだが、その夜はディーンの失踪のことは話さずに帰った。アパートに帰ると、やはり誰も話しかけてくる者はいなかった。きっと、恋人を奪いとられた哀れな男のことを同情しているのだ。例え、平静を装いながら話しかけてきたところで、それは正樹には慰められているとしかおもえず、逆にバカにされているように聞こえたことだろう。正樹は近くのサリサリ・ストアーに行って、強盗防止の金網の窓越しに、平たい形をした安っぽい瓶を指差して言った。
「オヤジ、そのラム酒を三本くれ。いや、五本くれないか。」
「へエー、こんな地酒を日本の方がお飲みになるのですか?」
「あー、そうだよ。飲んで悪いのか?」
「いえいえ、そんな、悪いことなんかありませんよ。だけど、結構、この酒はきついですから、飲み過ぎないようにしてくださいな。」
「余計なお世話だよ。俺は、今夜は、とことん酔いたいのだよ。ぶっ倒れるまで飲むつもりなのだから、余計なことは言うな!」
その夜、正樹は独りで静かに飲んだ。眠るまで飲み続けた。人生の第一幕が下りてしまった感じだった。
ディーンがいなくなってからは、時はゆっくりと流れていった。正樹は勉強にすべてを注いだ。勉強をすることでディーンのことを忘れようとしたのだ。署長から連絡があった時だけ、ボラカイ島へ子供たちと一緒に飛んだ。私用では島へ行く気はしなかった。それでも何回か往復しているうちに、ゆっくりではあったがボラカイ島の魔法は正樹の心を変えていった。ディーンのことを奪い去ったホセ・チャンだったが、島の豪邸を提供してくれた彼の行為はすばらしいとおもうようになってきていた。しかし、ディーンに対する憎しみは強くなるばかりで、ボラカイ島の魔法をもってしても、決して許すことは出来なかった。
ボラカイ島とマニラ東警察署を往復するヘリコプターの定期便は毎週土曜日である。しばらく島へ渡っていなかった正樹は何か島からの知らせはないかと気になり、そのヘリの到着の時間を見計らって署長を訪ねた。ディーンが失踪したことはきっとボラカイ島へも届いているに違いなかった。もう、そんなことはどうでもよかった。あまり自分が沈んでばかりいては、日増しに立派になっていくヨシオに笑われてしまう。必ず医者になって、茂木さんと約束した通り、ボラカイ島に診療所を開くことだけを正樹は考えるようにしていた。
ヘリのパイロットが署長室に入って来た。
「署長、ただ今、戻りました。ああ、正樹さんもおいででしたか。大変です。茂木さんが怪我をされました。左腕がぼろぼろになってしまいました。骨折もされているとおもわれますが。」
なんてこった!茂木さんが怪我をしたと知り、正樹は血が上ってしまった。つい、パイロットのことを怒鳴ってしまった。
「何で、お連れしなかった!こちらの病院に何で運んで来なかったのだ!」
しかしパイロットは感動したような表情で話を続けた。
「それが茂木さんは自分で自分の腕を打ち砕いてしまったのですよ。」
署長が身を乗り出すようにして言った。
「何だって?どれはどういうことなんだ?ちゃんと説明しろ!」
パイロットの長い話が始まった。
ボラカイ島の人々は次第に茂木たちの住んでいる豪邸にやっかみを覚えるようになってきていた。自分たちの粗末な家に比べて、岬の日比混血児たちの家があまりにも豪華だったからだ。うらやみとねたみが島の人々の間にだんだんと生まれてきていた。そんな時に事件は起こってしまったのだった。豪邸のタカオという子供が市場で一つのキャンディーを盗んだところを取り押さえられてしまったのだ。島の人々はマニラでごろついて子供たちには以前から懐疑的だった。いつかこうなると皆がおもっていた。島の人々はそのタカオを引きずりまわして、揃って岬の豪邸に押しかけて来た。
「このぼうずは盗みをはたらきやがった。どうも前々から色々なものがなくなるとおもっていたんだ。やっぱりお前のところの子供が犯人だったぜ。おい、どうしてくれるんだ!」
店の主人が茂木に向かってそう怒鳴りつけた。すると茂木は豪邸の庭に子供たちを全員集めた。島で泥棒をした者は正直に前に出るようにと命じた。そして次にキャンディーを盗んだタカオの目の前で、もちろん島の人たちも見ているその前で、自分の腕をそこに落ちていた大きな石でもって何度も叩きつけた。腕がボロボロになるまで叩き続けた。そして子供たち全員に向かって大声で言った。
「泥棒はしてはいけない!泥棒がしたい奴はこの家を去れ!島を出て行け!いいな。」
それは茂木が子供たちに初めて見せた鬼の形相であった。茂木の腕からは血が滴り落ち、手に持っていた石も真っ赤に染まっていた。茂木はその石をその場に悔しげに投げ捨てると、島の人々の前で地面に手を付いて土下座をした。頭を深く下げて許しを乞うた。島の人々はもう何も言うことが出来ずに、そそくさと帰って行ってしまった。キャンディーを盗んだタカオだけが茂木のそばで泣き続けていた。
「私は全部見ていましたよ。帰りのフライトの間中、思い出しては感動していました。」
そう言ってパイロットは長い話を終えた。正樹はその話を聞いて、急にボラカイ島に行きたくなった。確か、ボンボンは今、日本に行っていて留守のはずだ。少しでも茂木さんの手伝いがしたかった。
「それで、茂木さんの怪我は?お医者様には見せたのでしょうか。」
「すみません。よく分かりません。確かめずに帰って来てしまいました。」
署長は黙って受話器を取り、命令を出した。
「署の担当医をすぐにここに呼んでくれ。これからボラカイ島に一緒に行くと伝えてくれたまえ。」
受話器を置くと、今度は正樹に向かって署長は言った。
「正樹君、わしも何だかボラカイ島へ行きたくなったよ。どうだ、これから一緒に行かないか。茂木さんの腕が心配になってきた。それに、わしが頼んだ子供たちのことも気になるしな。わしにも責任がある。島の人たちとも話をしないといけないな。」
「ええ、もちろん、お供いたしますよ。」
「よし、ちょっと待っていてくれたまえ。すぐに準備させるから。」
正樹はパイロットの顔は見た。たった今、ボラカイ島から戻ったばかりだというのに、ちっとも嫌な顔をしていなかった。きっと茂木さんのとった行動にまだ感動しているのに違いなかった。準備が整う間に、正樹はサンチャゴのアパートに電話を入れた。皆が心配するといけないので、しばらくボラカイ島で過ごす旨を伝えた。電話に出たのはディーンの姉さんのウエンさんだった。彼女は最後に一言だけ正樹に自分の胸のうちを伝えた。
「ごめんなさいね。」
ウエンさんの気持ちもよく分かる。そりゃあ、誰だって大金持ちの方が良いに決まっている。今までさんざん妹の為に苦労してきたんだ。この辺で少し楽をしたって罰はあたらないだろう。ディーンが自分を捨てて、ホセ・チャンを選んだことは姉のウエンさんの為には大正解だったに違いないと正樹はおもった。
署長と警察の担当医、そして正樹を乗せたヘリコプターはボラカイ島へ向かって再び飛び立った。大きく何かが動き始めていた。その目に見えない歯車に誰も挟まれないようにと正樹はひたすら願うばかりだった。
何故だ!どうしてなのだ!
何故だ!どうしてなのだ!
ヘリコプターが岬の豪邸に到着した。キャンディーを盗んだタカオは署長がヘリコプターから降りてくるのを見て、自分は逮捕されてマニラに送り返されると覚悟を決めた。署長は茂木に会うと、こう切り出した。
「やはり、そんなことではないかとおもっていましたよ。まだ医者には診てもらっていないようですね。うちの署の担当医を一緒に連れて来て良かった。」
菊千代は隣の島の病院へ茂木を連れて行こうとしたのだが、茂木はがんとして腰を上げなかった。菊千代は署長が医者を連れて来てくれたことを大いに喜んだ。茂木は自分の腕を痛めつけることでもって、彼の悲しみを子供たちの心に刻み込んだのだった。さすがに今夜の茂木は口数が少なかった。あれで良かったのかどうか、自分自身に問い正していたのだ。もっぱら署長の質問には菊千代が正樹の通訳を通して答えていた。リンダがバックを持ったタカオと一緒に部屋に入って来た。
「この子ったら、バックを持って部屋の外で立っていたのよ。」
タカオはうつむいていたまま、じっとしている。茂木がタカオに近寄って優しく声をかけた。
「そのバックは何だ?」
タカオはまた泣き出しながら言った。
「署長は僕を逮捕しに来たのでしょう。僕は逃げも隠れもしませんから、どうぞ逮捕してください。」
「タカオ、いいか、盗みはいけないことだ。もう二度としないと約束してくれ。」
「はい、約束します。」
「よし、それでいい!ただし、半年間、リンダの洗濯を手伝いなさい。分かったな。」
「はい、分かりました。それじゃあ、僕はまだこの島にいてもいいのですね。」
「ああ、そうだよ。ここはお前の家だからな。私はお前が必要なのだよ。これからも私のことを手伝っておくれ。」
「はい、分かりました。」
タカオはぐしゃぐしゃになりながら泣き続けていた。
「今夜はもういいから、部屋に戻って寝なさい。」
タカオはこくりとうなずいて、部屋を静かに出て行った。
さっきからニコニコしているリンダを見て菊千代が意地悪そうに正樹に向かって、それもリンダが分かるような英語で言った。
「リンダはね、このところ、とってもご機嫌なのよ。正樹がディーンにふられたからよ。だって、リンダはずうっと正樹のことが好きだったものね。」
やはり、ボラカイ島にもディーンの失踪のニュースは届いていたのだ。遅かれ早かれ、いずれは分かってしまうことだったが、正樹はまた暗い現実に引き戻されてしまった。署長は正樹が失恋したことを、この時、初めて知った。リンダは真っ赤な顔をして部屋から出て行ってしまった。茂木は菊千代に言った。
「菊ちゃん、お酒を用意してくれるか。」
茂木が慌てたように署長に訊ねた。
「署長、どうです。今夜はここに泊まっていきませんか。失恋した正樹君の話し相手になってやってくれませんか。」
「失恋ね?正樹君が、そうですか。そんなことを聞いたら、このまま帰るわけにはいかなくなったな。そう、あの子と、・・・・・・。茂木さん、それじゃあ、お言葉に甘えて、ご厄介になりますよ。よろしいですか。それに前から一度、島の人たちとも話をしておいた方が良いとはおもっていたんだ。この家をこれからもこの島で存続させていく為には島の人たちの協力が必要ですからな。明日になったら、バランガイのキャプテンたちとゆっくりと話をしてみましょう。よし、今夜は正樹君と飲み明かそうじゃないか。いいかな。」
外が急に騒がしくなった。豪邸の庭にはボラカイ島にあるすべてのパトカーがやって来ていた。きっと、マニラ東警察署の署長が島に来ていることを聞きつけて、慌ててやって来たものとおもえる。庭に出てみると、島の警察官が全員敬礼をして整列していた。署長は島の警察署のリーダーに明日バランガイのキャプテンたちと話がしたいので、手配してくれるように頼んだ。その様子をリンダと正樹はそばで見ていた。正樹がリンダに言った。
「署長はやはりすごいね。ああやって、島の警官がぺこぺこしている。」
「本当ね。あたしたちにはさ、いつもやさしい署長だけど、やっぱりとても偉い人なんだ。」
「ああ、そうだ。リンダは知っているかな?酒のツマミなんだけれど、豚の腸を串に刺してバーべキューにしたやつ。名前は忘れちゃったけれど、あれはとてもうまかった。酒のツマミには最高だよ。」
「ビトウカね。冷凍庫にあるわよ。豚の腸は冷凍にしてあるから、解凍して焼いてあげるわ。それとも自分たちで焼く?」
「そうだな、署長と二人で焼きながら、飲んだ方が楽しいな。じゃあ、串に刺しておくだけでいいよ。」
「いいわよ。ねえ、正樹、今度はゆっくり出来るの?試験も終わったのでしょう。少しはゆっくりしていきなさいよ。」
「うん、そのつもりだよ。しばらくいることにする。少し疲れたからね。島で休むことにしたよ。」
「よかった。じゃあ、あたし、ビトウカの準備をしてくるわね。」
上機嫌なリンダであった。鼻歌を歌いながらキッチンに入っていった。
茂木の腕の治療が済んで、同行してきた警察の担当医をヘリコプターに乗せた署長はパイロットに向かって言った。
「わしは明日、島のバランガイのキャプテンたちと話をするので、今日はマニラには戻らん。明日の午後、来てくれるか。今日はお疲れ様。何度もご苦労様でした。緊急な場合はすぐに飛んできてくれ。でも今夜は出来るだけ静かにしておいてくれるとありがたいな。」
「イエス・サー、分かりました。ではこれで失礼します。」
署長はヘリを見送ると、正樹のところに来て、正樹の肩を叩いた。
「これで今日は久しぶりに制服が脱げるな。ボラカイ島か、ここは実にきれいなところだな。この家にも驚いたよ。でかいな!新聞記者のマークが言っていた通り、子供たちにはもったいないくらいの豪邸だな。」
「そうでしょう。想像以上の大きさでしょう。だから子供たちもびっくりしちゃって、誰もマニラには帰りたいとは言いませんよ。」
「そうか、失恋ね。正樹君は失恋をしてしまったのか。まあ、人生いろいろあるものだよ。がっかりするな!」
「署長、あまり失恋、失恋と言わないでくださいよ。それでなくても、かなり参っているのですから。」
「すまん、すまん。でも彼女と喧嘩でもしたのか?ええーと、たしか、ディーンさんとか言ったな、あの子は。」
「ええ、ディーンですよ。でも喧嘩なんかしていませんよ。突然、ディーンがあの俳優のホセ・チャンとアメリカへ行ってしまっただけのことですから。」
「ホセとか、えー、あのホセ・チャンとか?それはまずいな!」
「署長、まだ食事の時間ではありませんから、少し、浜を歩きませんか。」
「そうだな、それはいい考えだな。実はな、正樹君、わしはこのボラカイ島に来たのは初めてなのだよ。君が案内してくれるとはありがたいな。」
暮れかかったホワイトサンド・ビーチを署長と歩きながら、正樹は署長と出会えたことも、もしかするとこのボラカイ島の魔法のような気がしてきた。きっとそうなのに違いないとおもった。しばらく二人で浜を歩いた後、岬の豪邸の下にあるプライベート・ビーチに腰を下ろした。
「さっき、ホセ・チャンとディーンさんがアメリカへ行ったと言っていたね。それはいかんな。まあ。ここだけの話だけれど、ホセはどうも麻薬の臭いがするんだ。奴は有名人だからな、うちの署ではないがな、隣の西警察署の者でな、極秘で、それも慎重にホセのことを調べている者がいる。何でまた、ディーンさんは彼なんかと一緒にアメリカへ行ったんだ。まずいな、それは。」
この署長の言葉は正樹を迷わせた。もしホセが逮捕されれば、ディーンは自分のところへ戻ってくるかもしれないとおもった。しかし自分を捨てて、去ってしまった彼女を許せるのだろうか疑問だった。彼女もホセと一緒に捕まってしまえばいいとさえおもった。
「署長、僕はもう彼女のことはいいんだ。これからは勉強だけをすることに決めましたからね。医者になって彼女を見返してやるんだ。」
「ほう、それはご立派なことだ。でも、それで未練はまったくないのかね。」
正樹は何も答えなかった。茂木と菊千代が署長に治療のお礼を言う為に、いつの間にか、正樹たちが座っている、すぐ後ろまで来ていた。菊千代が大声で叫んだ。
「未練?大有りよ!正樹は未練だらけだわ。」
茂木が間に入った。
「菊ちゃん、もう、正樹君のことをいじめるのはやめなさい。署長、腕の治療、有り難うございました。」
「どうだね、腕の具合は?」
「ええ、もう、だいぶ良くなりました。まったくお恥ずかしい次第です。」
「そう、それは良かった。しかし、驚きましたな。おもっていた以上に、ここは素晴らしいところですな。これなら、マニラの裏道で暮らしていた子供たちも文句はあるまい。まったく、わしの方がここに住みたいくらいだよ。」
「ええ、まったくです。これもホセ・チャンのおかげですね。彼がこの家を安く譲ってくれたおかげですよ。あー、そうか、ごめん。また正樹君のことを傷つけてしまったようだな。」
「いえ、いいのですよ。僕はもう、ホセのことは何ともおもっていませんから。事実、子供たちにとって、ホセ・チャンの援助は大きかったと僕もおもっていますから。ディーンのことは別の次元の話です。」
憮然とした表情の正樹に向かって署長が言った。
「正樹君、わしは食事の前に少し飲みたくなったな。それから、さっきも言いましたが、茂木さん、明日、わしの方からも今回のキャンディーの件は島の人たちにはよく謝っておきますよ。何としても、この家は維持していかなければなりませんからな。」
「どうか、よろしくお願いします。外国人の僕がいくら頑張ったところで、所詮、よそ者でしかありませんからね。同国人の、それも署長の後ろ盾があるのとないのとでは大違いだとおもいます。」
リンダが階段の上で手を振っているのを、まず階段の途中にある犬小屋のドーベルマンたちが見つけた。正樹もリンダに向かって手を振り返した。
「署長、食事の用意ができたようですよ。食事をしながら、まず飲みましょうか。その後、裏庭でビトウカを焼きながら、じっくり話を聞いてもらいますよ。」
食事が終わり、署長と正樹は二人だけになった。
「署長、正直言って、こんなに別れという奴が辛いなら、もう恋なんかしたくはありませんよ。二度と恋なんかしたくない!」
「まるで歌の文句だな!そうは言っても、人間って奴は恋なしでは生きてはいけない生き物だよ。いつも誰かに恋をしているから、人生も楽しい。違うか?」
「いえ、僕はもう結構ですよ。今は医者になることだけを考えることにしたのです。」
「まあ、それもいいだろう。それも一つの生き方かもしれないな。この島に君が医者になって戻ってくれば、皆も喜ぶしな。」
翌日、署長はボラカイ島のバランガイのキャプテンたちに、岬の家のことを頼んだ。警察のトップがこれほどまでに頭を下げたのは異例のことであった。その後、正樹と署長はマニラへ帰って行った。
それからの正樹はボラカイ島で署長に言った通りに我武者羅に勉強をした。その間、アメリカに行ってしまったディーンの消息はまったくつかめなかった。どこで何をしているのか、姉さんのウエンさんたちはいつも心配をしていた。正樹も心配だったが、敢えて知らん振りを装った。
正樹が大学の付属の病院があるUERMでインタンーンを終了して、しばらく経った頃、署長から連絡がはいった。
「ホセ・チャンを帰国と同時に逮捕した。空港でホセの連れの女性の下着の中から大量の麻薬が発見された。」
もしその連れの女がディーンであるならば、自分はどうしたらいいのだ。正樹は迷った。署長から連絡が入った次の日、マスコミはホセの逮捕の瞬間をニュースで大々的に流した。空港での逮捕劇が何度も何度もテレビの画面で繰り返されていた。ホセの連れはやはりディーンであった。ブラウンカンを通して映るその姿はやせ細っており、痛々しいものであった。正樹は天罰だと一瞬ではあったがそうおもった。
長い裁判が終わり、ディーンは刑務所に収監された。麻薬は厳罰であり、何人の例外はなかった。ちょうどその頃、正樹は医者になった。茂木が以前、正樹に約束した通り、ボラカイ島の市場の近くに正樹の為に小ささ診療所を開いた。正樹はディーンのことを忘れようと豪邸の子供たちと島の人々の医療に没頭した。彼の診療所の診察料は患者のある時払いの催促なしだったものだから、当然、人気になった。朝から晩まで診療待ちの列が出来るくらいだった。そして、いつまで経っても、正樹のディーンに対する態度は気持ちとは裏腹に冷たかった。署長が何度も刑務所にいるディーンが正樹に会いたがっていると伝えてきても、正樹はボラカイ島を出なかった。
時を同じくして、岬の豪邸では大変なことになっていた。突然、茂木が逮捕されてしまったのだ。日本の外交省の特別調査室が茂木を捜し出してしまったのだった。そして、その調査にあたった外交省の役人は運命の巡り合わせなのか、茂木のことを愛している早苗であった。正樹は外交省と聞いた瞬間、早苗さんのことが頭に浮かんだ。だが、それは何も根拠のない発想だった。正樹は岬の家はどんなに汚い手を使っても存続させなければならないとおもっていたので、やっと、重い腰を上げてマニラに向かった。正樹にとっては本当に久しぶりのマニラであった。署長の計らいで、すんなりと茂木さんと面会することが許された。
「正樹君、いいか、決して岬の家のことは何も口にするな!証拠がなければ外交省もこれ以上は動けないのだから。いざとなったら、私はこの命であの家を守る。正樹君、後は頼んだぞ!」
「駄目ですよ。そんなことを言っては、みんな茂木さんのことが必要なのですからね。」
「ボンボンは今どこにいるのですか?」
「日本の早苗のところだ。彼女に直に会って話をすると言って、日本に向かったからね。」
「そうですか。ボンボンは日本へ行ってしまったのですね。」
「正樹君にお願いがあるのだが。この手紙を菊千代に渡してくれないか。」
「茂木さん、何を考えているのですか。駄目ですよ。方法は色々あるとおもうので、早まったことをしてはいけませんよ。友人の弁護士とも相談してみますから、しばらく辛抱していて下さい。」
「正樹君、人間なんて臆病な生き物だよ。どんなに偉そうなことを言ったってさ、いざとなったら自分のことがかわいいのだよ。本当に弱い生き物だよ。誰一人として立派な人間なんていないのさ。僕はまだ死ぬ勇気はないから心配するな!」
正樹が茂木と面会した、その夜、茂木はマニラの留置所で洋服で紐を作り、首を吊って自らの命を絶ってしまった。
悲しい知らせはそれだけではなかった。ディーンが刑務所の医務室に運ばれたと言う知らせも署長のところに舞い込んで来た。
「正樹君、君は医者だろう。すぐに行ってやりなさい!」
「いえ、僕は・・・・・・」
「彼女は君と会って謝りたいと、わしに何度も手紙を書いてきた。正樹君、もう、許してあげなさい。この前、わしが行った時には、ディーンさんはすっかり痩せ細ってしまっていて、歩くことすら出来なくなっていたよ。今、入った連絡によると、とても危険な状態だということだ。」
正樹は何も言わなかったが、署長は正樹の気持ちを分かっていた。二人でパトカーを飛ばしてディーンのところへ向かった。
二人が刑務所の医務室に入ると、担当医と女の看守がベッドの横に立っていた。署長が言った。
「遅かったのか?」
ディーンはもう目覚めることはなかった。看守が署長にディーンから預かった手紙を渡した。それは正樹宛のものだった。
「これは君のために書いたものだよ。きっと最後の力を振り絞って書いたものだろう。読んであげなさい。」
何ということだ!茂木さんに続いて、大切な人を同じ日に失ってしまった。こんな悲しいことがあっていいのだろうか。神も仏もないのか!正樹は天を呪って悲しんだ。
ディーンの手紙には、一切、言い訳めいた言葉は書かれていなかった。たった一言だけが記されてあった。「正樹、ごめんね。」ただ、それだけだった。
看守が正樹に近寄って来て、静かに話し始めた。
「あなたが正樹さんですか。はじめまして、私は彼女を担当していた看守のケイトです。ディーンさんの話はいつもあなたのことばかりでしたよ。まったく飽きれる位、あなたのことばかりを話していました。あなたがお医者様になったと署長から聞いて、あたしたち二人でお祝いをしたのですよ。彼女は涙を流しながら、あなたがお医者様になられたことを喜んでいましたよ。来る日も来る日も楽しそうにあなたとボラカイ島のことばかりをお話になるの。動けなくなってからは眠りながら、あなたの名前を呼んでいましたわ。彼女はあなたのことを本当に愛していたのですよ。彼女の気持ちをおもうと、あたしはもう辛くてね。誰にも話さないようにと彼女から、かたく口止めされていましたけれど、誰がこんなに悲しいことを隠し通せますか。」
看守はベッドに横たわるディーンに近づき、彼女の上にかかっていたブランケットをさっとめくり上げた。ディーンのやせ細った身体が正樹の前にさらされた。
「見てやってください!彼女の身体を見てくださいな!あなたも医者なら、お分かりでしょう。彼女は自分が癌におかされていると知って、あなたから離れる決心をしたのですよ。自分の看病の為にあなたが医者になれなくなること恐れたのです。もし、あなたが彼女のことを責めたりしたら、このあたしが許しませんからね!」
正樹はそのやせ細ったディーンの身体を見て、ベッドの下にそのまま泣き崩れてしまった。何も知らなかった。ただ、彼女を憎んで勉強だけを続けてきた。自分はそんなディーンのことを苦しめ続けただけだった。それなのに、おー・・・・・・。もう、ディーンに許し乞うことすら出来ないではないか。どう謝ったらいいのだ。誰に謝ったらいいというのだ。
茂木とディーンの葬儀はマニラ東警察の一室でしめやかに行なわれた。三姉妹のウエンさんとノウミ、そして署長と正樹だけのたった四人だけでの密葬だった。遺体はヘリコプターでボラカイ島の共同墓地に運ばれ、丁寧に埋葬された。葬儀の間中、正樹はだらしなく泣き続けていた。他に参列者がいなかったことは幸いだったかもしれない。そして、ディーンの墓の上にはサンパギータの花が飾られ、それ以後、花は絶えることはなかった。
岬の家の子供たちの往診を終えて、市場の近くの正樹の診療所へ戻る途中、ホワイトサンド・ビーチを歩きながら、正樹は考えていた。もし、ディーンの写真をあの雪が降りしきる北海道の中山峠で見なければ、フィリピンに、そしてボラカイ島にも来ていなかっただろう。ディーンが癌であることを自分に告げていたなら、勉強どころではなかったはずだ。こうして医者にはなっていなかったとおもう。ディーンが病気を隠したのは彼女のやさしさだったのだ。それに比べて自分はどうだったのだ。散々、ひどい仕打ちを彼女にしてきてしまった。それは悔やんでも悔やみきれるものではなかった。そのことを思い出すだけで涙が溢れてきてしまった。
いつしか正樹は海の中のマリア像の前まで来ていた。正樹はあまりにも余計なことが多過ぎる信仰の世界には決して入ることはないが、今はマリア像の前で祈らずにはいられなかった。茂木さんが日比混血児たちの為に命を捨てたこと、ディーンが自分の将来のことを考えて、病を隠し身を引いてしまったことに感謝する正樹であった。そして、自分もそんな生き方がしたかった。
ボラカイの海は悲しいほど静かだった。正樹はまた砂浜を歩き出した。
息子の死
息子の死
真田徳馬は外交省の屋上に立って、空を見つめていた。久しぶりの東京の空である。外交省に入省してから東南アジアの空ばかりを見続けてきた。以前に比べて、東京の空も青くなってきたような気がした。
大きく息を吸った次の瞬間、徳馬は全力で走り出し、屋上の柵を飛び越えて外交省の中庭めがけて飛び降りてしまった。即死であった。
外交省内には親米派とアジア派の二大勢力がある。徳馬はどちらかと言うとアジア派に属していた。それはただ単にアメリカが好きとか嫌いとかいう問題ではなかった。徳馬の妻と娘が反政府組織の手によって誘拐されたまま発見されずにいたから、アジアから離れることが出来なかったのである。現地の警察や両国政府の捜査が打ち切られてからも、徳馬は一人で娘たちを何十年も捜し続けてきたから、アジアから一歩も離れることが出来ずにいた。もし、その娘が無事にどこかで生きているとすれば、今日で30才になっているはずだった。今日は彼女の誕生日だった。生まれたばかりだった娘と新婚の妻を反政府組織ナスードにさらわれてからの真田徳馬の戦いは、それは壮絶だった。
外交省の幹部候補生(キャリア)は本省と在外公館をだいたい数年毎に行ったり来たりする。本省勤めの時は仕事が世界中が相手である性格上、時差などまったく関係なく24時間いつでも呼び出されるという過酷な職場である。外交問題が勃発した時の情報収集や解決の突破口を見つける為に、普段から、あらゆる方面に人脈をつくっておくこともキャリアの大切な仕事であった。真田徳馬も将来を有望視されたキャリアだったのだが、結婚をしてマニラ大使館に着任して半年が経った時に起こった事件によって、彼の人生のすべてが変わってしまった。フィリピン政府と日本政府の間で無償資金協力でダム建設の交換文章が交わされた夜、マニラ大使館に一本の電話が入った。大使館の真田徳馬の妻と娘を預かった。直ちにダム建設の計画を中止するようにと反政府組織ナスードから要求があった。しかし日本政府はすでに建設にあたる日本企業の選択を終えており、援助資金も日本国内で政府から日本の銀行を通して日本企業に渡ってしまっていたから、ダムの建設中止には難色を示した。無償資金協力は相手国から援助を在外公館が受けるが、その後はすべて日本国内で処理されるのだ。物資の供給や建設に携わる企業も日本にあるに日本企業が担当するし、援助資金も日本国内から外には出て行かない仕組みになっている。すべてが日本政府と日本企業の間で行なわれるから、一大使館員の妻と娘の誘拐事件などは大きな利権の前ではかすんでしまう。政府はナスードの要求を黙殺してしまった。そしてそれは真田徳馬にとっては悲劇だった。家族とマニラの豪邸に住み、街中を青色ナンバーの高級車で偉そうに乗り回すはずだったのだが、そんな優雅な生活がすべて変わってしまった。ありとあらゆるチャンネルを使って、少しでも妻たちに関係がありそうな情報を得ることに大半の時間を使った。時には山奥にまで足を運ぶこともあった。フィリピン中、いたるところを捜し歩いた。徳馬の人生は正に妻と生まれたばかりの娘の捜索に明け暮れる30年だった。
ただ、そんな真田徳馬にも心の安らぎはあった。上司に連れられて京都の花街に行った時に知り合った芸妓が徳馬の心の支えとなった。どんな時でも、徳馬の話をまるで自分のことのように親身になって聞いてくれた。そして、この芸妓が男の子を生むと徳馬は居酒屋「河原町」を始めて彼女に任せた。しかし誘拐された妻と娘がいつか現われると信じていた徳馬は二人の捜査を外交官のまま続けた。だから、その芸妓に生ませた子供には親らしいことは何一つしてやれなかった。それどころか、上司の命令で籍の入っていないその子を裏金をプールする為に利用してしまった。悪いことをしているという意識はなかった。それどころか、自分の妻と娘を助けてくれなかった外交省への復讐だとおもい続けてきた。
上司の菊田が逮捕されて、そして今、真田徳馬も本省の特別調査室に呼び出されて、昨日から事情を聴かれていたのだった。そして今さっき、調査官の早苗から、こう聞かされたばかりだった。
「真田さん、私には子供の頃から好きな人がいたのですよ。私の大学受験の時は自分の学校を休学してまで、つきっきりで勉強を教えてくれた人です。いつも自分のことは後回しで、弱い立場にいる人たちの為に生きて来た人です。生きて来たと言いましたのはね、つい先日、悲しい知らせが届いたからです。真田さん、彼はフィリピンのボラカイ島に日本人とフィリピン人の間に出来た子供たち、それも両親から捨てられたり、死に別れたりしてマニラの路上で生活をしていた子供たちを集めて一緒に生活をしていたのですよ。ところがその施設の建設、及び運営資金について、詳しく聴こうとした矢先に、彼は自ら命を絶ってしまいました。彼の名前は茂木と言います。真田さん、あなたは彼をご存知ではありませんか。私はこの外交省の特別調査室に入りましてね、今までのお金の流れを徹底的に調べました。真田さんもご承知の通りあなたの上司の菊田の横領はこれから裁判で次第に明らかになっていくとおもいます。そして私は菊田さんを調べているうちに、彼の双子のお嬢さんの一人の菊千代さんと茂木さんの奥様が同一人物であることが分かりました。ただ、いくら調べても菊千代さんに外交省のお金が流れた形跡はありませんでした。そこで詳しく茂木さんに聴こうとした矢先の不幸でした。ボラカイ島の豪邸は名義はボンボンという、やはり私の親しい友人ですが、彼はフィリピンからの一留学生にすぎません。どこからその資金が出たのか確かめようとしたのですが、茂木さんは自殺をしてしまいました。真田さん、どうか、私どもの調査に協力してくれませんか?」
何をどう答えろというのだ。真田徳馬はまたしても自分の子供を見殺しにしてしまったことを知ったのだった。茂木はボラカイ島の子供たちの家と父親である自分のことを守ろうとして命を絶ったことは明白だった。この早苗という調査官はまだ自分と茂木との関係を知らない。それならば、自分の選ぶ道はたった一つしかなかった。
「早苗さん、その茂木さんのご遺体は今どこに?」
「彼の友人らによってボラカイ島の共同墓地に埋葬されたそうです。」
「それではご家族の方はそのことをご存じないのですね。」
「お父様は外交官だと以前からお聞きしおりましたので、徹底的に省内を調べてみたのですが、誰も該当する者がおりませんでした。」
「そうですか、それはお気の毒なことだ。」
真田は全身全霊で平静を装った。
「真田さんはマニラにはどのくらいになりましたか?」
「もう30年になります。わがままを言わせてもらって、マニラから移動せずにすんでおります。」
「そうですか、それではフィリピンに関しては真田さんの右に出る者はいないわけですね。是非、私どもの調査に協力して下さい。お願いします。」
「もちろんですとも、それではちょっと部屋に帰って、その茂木とか言う人物の資料がないかどうか調べてまいりましょう。」
真田は特別調査室を出た。廊下にあった公衆電話から京都の居酒屋「河原町」に電話をして女将に茂木の死を伝えた後、そのまま屋上へと向かってしまった。
息子の茂木は自分の命でもって混血児たちの家を守ろうとした。そして今、その大切な息子が築き上げたボラカイ島の家の為に真田徳馬に出来ることはたった一つだった。まったく迷うことはなかった。全力疾走で屋上の柵を飛び超え、特別調査室の早苗に無言のメッセージを伝えた。その時の東京の空はボラカイ島と同じ真っ青な空だった。
早苗のボラカイ島の家の調査は茂木と真田の死でもって、完全に中断してしまった。その家に外交省のお金が使われたことを立証することが不可能になってしまった。真田徳馬の自殺で様々な憶測が省内に飛び交ったが、何一つとして真実は分からなかった。しかも真田と茂木を結ぶ線も真田の死でもって、ぷっつりと切れてしまった以上、特別調査室の関心は次第に別のところへと移ってしまった。
早苗は真田徳馬と初めて会った時、一目で彼が茂木の父であることは分かっていた。自分があんなにも愛していた人の父親を分からないはずがない。徳馬のその表情と話し方は茂木とまったく瓜二つだったからだ。しかし早苗はそのことを誰にも話さなかった。早苗は誰にも気づかれないように、しばらく時間をおいてから、外交省を辞めた。自分のやってきた調査が結果的に二人の大切な人の命を奪ってしまったからだ。
真田徳馬には身寄りがなかった。両親もすでに他界しており、他に親戚もいなかった。彼の遺骨はお寺に預けられたままになっていた。
早苗は外交省を退職して戸隠に戻り、実家の民宿を手伝っていたが、徳馬の遺骨が墓に納骨されずにいることを知って心が痛んだ。もし出来ることなら、ボラカイ島の茂木の墓にその真田徳馬の遺骨を入れてあげたかった。しかし島には自分のことを憎んでいる人がたくさんいることは分かっていた。早苗はずっと二人を死なせてしまったことで悩み続けていた。同級生のナミは同期生として外交省に一緒に入り、まだ本省勤めのままであったが、近々、オーストラリアの大使館勤務になると嬉しそうに早苗に連絡してきた。
「どう、早苗、元気にしている?ちょっとは東京に出て来ないと駄目よ!そりゃあ、茂木さんのことは悲しい出来事だったけれど、あんたがいつまでもそんなんじゃあ、駄目だよ。この前、偶然に街でボンボンに会ったよ。あんたのことを話したら、またボラカイ島に来るといいよと言っていたわよ。きっとボラカイ島が魔法であんたのことを癒してくれると言っていたわよ。早苗、あたしもそうおもうな。一度さ、茂木さんのお墓参りに行ってさ、おもいっきり泣いてきたらどうなの。」
玄関のところにお客さんが来たのを見て、早苗は居間でテレビを見ている父親に向かって声をかけた。
「お父さん、お客様よ。」
父親が腰を上げるのを見てから、また早苗は電話でナミと話し続けた。
「ごめん、ごめん、でもさ、もしもし、ナミ、聞いているの?・・・・・・ボンボンはそうは言うけれど、島の人たちはあたしのことを歓迎してはくれないわ。」
「そんなことないわよ。あの島は誰かが言っていたけれど、どんな悲しみも苦しみも癒してくれる不思議な島だって、恨みとか憎しみなんか、あの素晴らしい自然の前にはひれ伏すしかないそうよ。」
不思議なことが起こった。玄関から、何故か、どこかで聞いたような声が早苗の耳に飛び込んで来た。そんなことは知らずに電話の向こうでナミが話を続けた。
「ねえ、早苗、聞こえているの?とにかく一度、東京に出て来なさいよ。駄目だよ、いつまでも、そのままじゃあ。元気出しなさいよ!」
早苗は玄関から聞こえてくる声に釘付けになっていた。
「ごめん、ナミ。また後で電話するわ。ちょっと大切なお客様がみえたみたい。もしかすると、茂木さんのお母様かもしれない。ごめんね、また後でね。切るわね。」
早苗は受話器を置くと玄関に急いだ。目と目が合い、軽く会釈を交わしてから、その婦人の顔を見て茫然としてしまった。その婦人の仕草の端端にも茂木と同じものを見出してしまったからだ。
「あの、失礼ですが、茂木さんのお母様でいらっしゃいますよね。」
「ええ、そうです。あなたが早苗さんね。」
「はい、この度はご愁傷さまでした。何と申し上げたらよいのか、言葉がみつかりません。私の為にこんなことになってしまって・・・・・・、どうぞ許し下さい。」
「あなたが謝ることはありませんよ。迷惑をかけたのは茂木たちですからね。あたし、外交省へ行きましたのよ。そうしたら、あなたがお辞めになったとお聞きしましてね、とても心配になりましたの。それで京都には帰らずに真っ直ぐこちらへ来ましたの。でも良かった、お元気そうで。息子のこと、許してやってくださいね。」
もちろん、あの調査について知っているものは誰もいない。自分が担当していたことも特別調査室の者以外には分からないはずだ。早苗は困惑していた。
「許してくださいなんて、とんでもない。あたしの為に茂木さんは・・・・・・。」
「もういいのよ。そんなに自分のことを責めたりしては駄目よ。」
「あの、私はもう外交省の人間ではありませんし、友人にも何も話す気もありません。もし、間違っていたらごめんなさい。真田さんの奥様でいらっしゃいますよね。」
「はい、そうです。籍は入っておりませんが、茂木は真田の子供ですから。」
「やはり、そうでしたか。・・・・・・。まあ、どうしましょう。どうぞお上がりになって下さいな。さあさあ、どうぞ、こちらへ。」
早苗は茂木の母を居間に通して、つけっぱなしだったテレビを消した。早苗の父親はお茶を入れるために台所でお湯を沸かし始めた。
「早苗さん、息子はいつもあなたの話ばかりしていましたよ。あの子はね、あなたのことが好きだったようですね。」
早苗はとても辛かった。自分が担当した調査で大切な人を二人も失ってしまった婦人の顔を見るのがたまらなかった。胸が張り裂けそうになった。
「でも、お母様、あたしは茂木さんにふられてしまいましたのよ。」
「ええ、知っていますよ。菊千代さんのことですね。実はね、あたくし、長いこと京都で居酒屋をやっておりましてね、そこのお客さんで、渡辺電設の佐藤さんという方がいますの。その方が偶然にもボラカイとかいう島で行方不明になっていた息子と会ったと聞きましてね、びっくりしてしまいましたの。最近、佐藤さんはタイからフィリピンに転勤になったようで、日本に帰って来ると、お店に来てはフィリピンのことをいろいろと報告をしてくれますのよ。だから、あの子に子供が出来たことも知っています。あの子はどういう理由があるのか分かりませんが、私には何の連絡もしてくれませんのよ。早苗さんは菊千代さんをご存知ですか?」
「はい、知っております。茂木さんのことをとても愛しておられました。」
その時、早苗の父親がお茶を入れて持ってきた。長い間、民宿をしていると父親らしくないこともするものである。男の人からお茶を入れてもらって、茂木の母親は非常に恐縮してしまった。
「何分、田舎なもので、こんな物しかありませんが、どうぞ召し上がって下さい。」
早苗の父親はそう言って、草団子とお茶をテーブルの上に置いた。
「まあまあ、どうしましょう。こんなにしていただいて、どうぞもう、お構いなく。お父様、生前は茂木がいつもこちらにお邪魔をいたしまして、本当に有り難うございました。あの子、京都に居るよりも、こちらに居ることの方が多かったような気がいたしますわ。」
「いえいえ、この民宿は茂木さんが居たからこそ、やってこれたようなものです。何しろ茂木さんは学生さんたちにとても人気がありましたからね。彼を慕って多くの学生さんたちが何度もやって来てくれました。」
茂木の母はそれを聞いて、少し涙ぐんでしまった。それを見て早苗の父親は再び台所へ引っ込んでしまった。ひとしきり、涙をハンカチで拭った後、茂木の母親は言った。
「早苗さんはフィリピンの言葉が堪能でいらっしゃると、以前、茂木が言っていたのを思い出しましたの。私もね、芸妓をしていた時には英語を勉強いたしましたのよ。でも、もう、すっかり忘れてしまいました。実はね、早苗さん、あなたにお願いがあって、今日は参りましたのよ。あたしを茂木のお墓に案内してくれませんか。」
「でも、お母様、それはあたしには務まりません。どう、説明したらよいのか、あたしは外交省の調査官だった人間です。向こうの人たちにしてみれば茂木さんをボラカイ島から奪ってしまった仇ですよ。」
「それはよく分かっていますのよ、でもね、早苗さん、私はあなたと一緒に茂木のお墓に行きたいのですよ。茂木がそう言っているような気がしてなりませんの。主人と息子を同時に亡くしましてね、どんなに外交省のことを憎んだことか。でも、不思議なんですのよ。ボラカイ島の話を佐藤さんから聞いているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきましたの。あなたも私と同じほど、いや、それ以上悲しんだはずです。早苗さん、もういいのよ。あなたはもう十分に苦しんだのですからね。だから、私と一緒にボラカイ島に行きましょう。息子の墓に花をやってくれませんか。」
早苗は顔を伏せて泣き崩れてしまった。声も出ないまま、ただ泣き続けた。
「あなたの悲しみは分かっていましたのよ。でもね、あなたはまだ若いのですからね。しっかりと生きなくてはだめなの。その為にも私と一緒にボラカイ島へ行きましょう。死んだあの子がそう言っているような気がしてなりませんの。」
早苗は今まで堪えていた悲しみが一気に込み上げてきてしまった。茂木の母親の膝の上に早苗は顔を伏せてしまった。やさしくその頭を撫でながら言った。
「死んだ主人の遺骨も茂木のお墓に入れてあげましょう。やっと、親子が堂々と一緒にいられるようになったのですものね。どうぞ、手伝ってくださいな。それから島にいるあの子の子供をあたしは抱きしめてあげたいのよ。男の子ですよね。きっとあの子そっくりだわよ。茂木は死んでしまったけれども、ちゃんと命はこうしてつながっているのよ。」
「はい、お母様、そうしましょう。ボラカイ島へ行きましょう。」
茂木の母のこの訪問は早苗にとっては大きな救いだった。いつまで経っても消え去らぬ深い悲しみをきれいに拭い取ってくれたのだった。
茂木の母と早苗は翌月、真田徳馬の遺骨を持ってフィリピンへ渡った。早苗は前回と同様にマニラ東警察署を訪ねてみた。茂木の葬儀に署長も参列していたと聞いていたので、そのお礼もかねての訪問だった。そして土曜日の朝を選んだのはボラカイ島へのヘリの定期便があることを思い出したからだった。
「署長、ご無沙汰しておりました。今日、お連れしたこの方は亡くなった茂木さんのお母様です。」
丁寧に紹介を受けた署長は立ち上がり、最上級の敬礼でもって迎えた。
「彼の築き上げたボラカイ島の家は現在では約五百人の子供たちが勉強しております。そして、その維持費はあの家を巣立っていった子供たち千人以上によって支えられているのですよ。実に、すばらしいことです。これもすべて茂木さんの功績であります。」
茂木の母はその署長の言葉を早苗が通訳すると嬉しそうに何度もうなずいた。
「いえいえ、署長様の協力がなければ、あの子は何も出来ませんでしたよ。」
そう早苗が茂木の母の言葉を署長に伝えてから、こう付け加えた。
「実は、わたしたち茂木さんのお父様の遺骨を持ってきましたのよ。たぶん、署長もご存知の方だとおもいます。日本大使館の真田徳馬さんの遺骨をボラカイ島の茂木さんのお墓に一緒に入れてあげたくてやって参りましたの。」
「何ですって、日本大使館のあの真田さんですか。外交省の屋上から飛び降りた真田さんですか。」
「ええ、そうです。」
「そうですか。あの真田さんが茂木さんのお父様だったとは驚きましたな。」
「ちょっと訳がありまして、詳しくは申し上げられませんが、茂木さんも、真田さんも、二人ともボラカイ島のあの家の為に尽力された方たちですから、一緒にボラカイ島の共同墓地で眠らせてあげたいとおもいまして。署長のお力をかしてくださいませんか?埋葬の許可が何とか取れるように話してはくれませんでしょうか?」
「それは大丈夫だとおもいますよ。念のために手紙を書いておきましょう。島の方には後で電話をしておきますから、きっと問題なく埋葬は警察官立会いの上で出来るとおもいますよ。」
「よかった。ありがとうございます。いつも署長にはお世話になりっぱなしで、本当に感謝しております。ところで正樹さんはどうしていますか?」
「ああ、彼は医者になりましたよ。今、ボラカイ島で診療所をやっています。でも恋人を亡くしましてね、まだ立ち直っていませんな。島へ行ったら、彼のところへも顔を出してやってください。きっと喜びますよ。」
「署長さん、まだ島までヘリの定期便は出ているのですか?」
「ああ、出ていますよ。それは茂木さんとの約束ですからね。台風の時以外は一度も休まずに飛ばしております。そうだ、うちのボロボロのヘリでもよろしければ、今日も、まもなく飛び立ちますから、使ってください。茂木さんのお母様にお使いいただけるとあれば、とても光栄なことです。」
「早苗さん、署長様に言ってくださいな。あの子の人生はとても短いものでしたけれど、署長様に出会えて、何十倍にも大きな意味を持つことになったと伝えくださいな。」
早苗がタガログ語で正確に茂木の母の言葉を署長に伝えた。署長は再び敬礼をして、今は亡き茂木のことを忍んだ。
「ところで、さっきの話ですが、真田さんのことです。真田さんがマニラの日本大使館に着任されて来た時は、私はまだ警部補でありました。彼の奥さんと娘さんが誘拐されて、その捜査にも私は加わりました。それから30年間、真田さんは娘さんたちを一人で捜し続けてきたんですよ。私のところにも何か手がかりはないかと、よくおいでになりましたよ。そうですか、あの真田さんの奥様でいらっしゃいますか。」
「籍は入っておりませんが、茂木は真田の子供です。誘拐された奥様と娘様のことをおもうと、私たちは籍を入れてくれとは言えませんでした。」
「真田さんは週末になると独りであちらこちらの村を歩いていましたね。でも。結局、手がかりはまったくなかったようですね。そうですか、真田さんの遺骨をボラカイ島にね。それはきっと喜びますよ。ヘリはまもなく飛び立ちますが、いかがいたしましょうか。」
「ええ、是非、お願いします。」
「分かりました。それではさっそく手配いたしましょう。ボラカイ島は良いところですよ。お母さん、どうか良い旅をなさってください。」
「署長様、いつも有り難うございます。神様のご加護がどうぞありますように!」
「早苗さん、奥さん、どうぞお元気で、困ったことがあったらいつでも来てください。いいですね。」
「有り難うございます。では失礼させていただきます。」
「ああ、そうだ!早苗さん、もし、真田さんの誘拐された奥さんと娘さんに関する情報が入ったら、誰に連絡いたしましょうか?」
「署長、私で結構です。私にください。」
「分かりました。それでは良い旅を!」
ヘリは抜けるような青空を一直線に飛んで行き、ボラカイ島に到着した。ヘリから降りると、ボンボンと菊千代が二人を出迎えてくれた。早苗はヘリの中で菊千代がきっと自分に向かってこう言うだろうと覚悟をしていた。
「帰れ!何しに来た。今度は私の子供を奪いに来たのか。それともこの家を子供たちから取り上げに来たのか。お前なんか、帰れ!」
署長はヘリが飛び立ってから、すぐにボラカイ島に連絡を入れておいた。それは署長のやさしさだった。早苗の立場をよく理解したやさしさだった。ボンボンは署長から連絡を受けた後、菊千代によく事情を説明して、あまり感情的にならないように説得していた。ヘリが到着しても、菊千代はすこぶる冷静であった。長いボラカイ島の生活が彼女のことを大きな人間に変えていたのだ。しかし、もし茂木の母親が一緒でなければ、いくら菊千代が奥ゆかしい京都の女だとはいえ、やはり自分の夫を奪った外交省の調査官だった早苗に飛び掛っていたことだろう。早苗も茂木の母親が一緒でなければ、決してこのボラカイ島には一歩も足を入れることは出来なかっただろう。
茂木がいなくなってしまって名実共にこの豪邸の所有者となったボンボンがヘリから降りてきた早苗に向かって真っ先に言った。
「いらっしゃい。お待ちしていましたよ。署長から連絡がありました。長旅だったから疲れたでしょう。その重たそうな風呂敷包みを持ちましょうか。」
「いえ、これはまだ、私が。」
「こちらが、茂木さんのお母様ですか。」
「あの、ボンボン、ちゃんとあたしに挨拶させて下さい!」
「ごめん、分かった。」
早苗がかしこまって、菊千代に向かって言った。
「菊千代さん、こちらが茂木さんのお母様です。それから、この包みは茂木さんのお父様の遺骨です。」
菊千代は茂木の母の前に進み出て、地面に手をついて深々と挨拶をした。
「初めまして、菊です。よくおいでくださいました。」
その後は涙がこぼれ出てしまって、言葉にならない。ボンボンも早苗も見ているだけで、もらい泣きをしてしまった。
「さあ、さあ、菊さん。そんなところに手をついたりして、立ってくださいな。」
「お母様、申し訳ありませんでした。」
「いいのですよ。あの子はあの子なりに精一杯に生きたのですからね。きっと幸せだったとおもいますよ。人には長い命と短い命があります。あの子の命は短かったけれど、それがあの子の寿命だったのだから。」
菊千代は泣きじゃくっていて、立ち上がることも出来ずにいた。茂木の母がそっと手を菊千代の腕にかけて起こそうとした。
「さあ、私にあの子が残してくれた大切な宝物を抱かせてくださいな。」
「はい、お母様。」
早苗にとってはとても辛い場面であった。心臓が張り裂けそうだった。菊千代が自分に何も言わなかったことも逆に辛かった。さんざん罵倒してもらった方が楽だったかもしれない。早苗はじっと、二人の会話をうつむいたまま聞いていた。ボンボンがそっと早苗に近寄り、早苗の肩に手をのせて、早苗だけに聞こえるように言った。
「外交省のナミさんから聞いたよ。外交省、辞めたんだって。大変だったね。」
早苗はボンボンの肩に顔をつけて声を立てずに泣いてしまった。
「ボンボン、あたしね、外交省を辞めて戸隠に帰ってからも、茂木さんと真田さんのことを忘れることは出来なかったわ。忘れるどころか反対にどんどん辛くなってしまって、どうしてもこの島に来てね、茂木さんのお墓に手を合わせたかったの。でも、その勇気が出なかったわ。だってボラカイ島には彼を失って、あたしなんかより、もっと悲しいおもいをしている人がたくさんいるのですものね。あたし、どうしたらいいのか自分でも分からなくなっていたら、茂木さんのお母様がわざわざ戸隠まで訪ねて来て下さったの。あたし、本当に嬉しかったわ。それでね、やっと、ここに来る勇気が出たのです。」
「もう、いいよ。早苗ちゃん。何も君が悪いわけではないのだから。」
「でもね、あたしは外交省の特別調査室に入って、少しでも上司に認められようと、一生懸命に頑張ったのよ。菊さんと千代さんが公金横領で逮捕された菊田さんの娘さんたちだと分かった時、確かに、あたしは菊さんに嫉妬心を抱いていたから、自分でも知らず知らずのうちに、色々な事を調べ出していたみたい。結局、そのことが茂木さんの命を奪ってしまったんだわ。それだけじゃないの、真田さんに茂木さんが亡くなったことを伝えたら、彼も屋上から、その日のうちに飛び降りてしまったの。だからあたしが二人を死に追いやってしまったようなものだわ。」
「でも、それは早苗ちゃんの責任ではないと僕はおもうよ。たまたま君が調査官だっただけのことさ。あの二人は自分たちの死でもって、自分たちの罪を償ったと僕はおもうよ。しかし、同時に、この家を子供たちに自分たちの命を張って守ろうとしたんだ。分かるよね、そのことは!」
「ええ、分かっています。」
「早苗ちゃん、僕はこの家を日本国に返すつもりはないよ!それは自分の私利私欲の為ではない。これからもどんどん増えてくる日比混血児たちの為にこの家を守り続けるつもりだ。だから、君が外交省を辞めたと聞いて、正直、ほっとしたんだ。僕はどんなに非難されようとも、この家は守り抜く!そのことは君にも分かってもらいたい。」
早苗は胸の中に詰まっていたことをボンボンに話して気持ちが楽になった。それだけではなかった。自分の進むべき新しい道が、かすかではあったが見えてきていた。
「ボンボン、茂木さんは生前、あたしにこの島で子供たちに日本語を教えることを望んでいたわ。」
「ああ、そのことは僕も知っていたよ。その通りだよ。君は世界中で一番タガログ語を理解することが出来る日本人だからね。確かに、この島の人たちは日常生活の中ではタガログ語を使わないんだ。この地方はビサヤ語だからね。ただ、子供たちが成長してマニラ首都圏で仕事に就くことを考えると、どうしてもタガログ語と日本語の勉強が必要となってくる。だから、その両方の言葉の専門家である君こそが子供たちにとっての最高の教師なんだよ。そのことは茂木さんとも以前に何度も話し合ったことがあります。君から学んだ日本語は子供たちにとっては将来の大きな武器になるからね。」
早苗
早苗
「ボンボン、茂木さんのお母様を日本に送ってから、また、あたし、この島に来てもいいかな?」
「もちろん、大歓迎さ! でも、戸隠のお父さんが何と言うかな。きっと反対するとおもうよ。」
「いいの、お父さんのことは。あたし、外交省を辞めてから、ずっと戸隠にいたけれど、まるで抜け殻みたいだったでしょう、だから、お父さんもきっと分かってくれるとおもうわ。あたし、ボラカイ島にいるとほっとするのよ、気持ちがとても楽なの。ごめんなさい、生意気なことを言って。」
「あまり自分のことを責めちゃいけないよ! 茂木さんと真田さんのことは、そう、彼らの運命は君が外交省に入る前から決まっていたのだからね。たまたま君がその場所に居合わせただけなんだ。もし、償いのつもりでこの島に来たいと言うのなら、それはやめた方がいい!一時の感情で決めては駄目だよ。」
「いえ、違うの。この島が本当のあたしの居場所のようにおもえてきたのよ。東京にいても、長野の実家に帰っても駄目だったわ。生意気なようだけれど、この島の子供たちを見ていると、あたし、彼らに何かをしてあげたくなるの。いえ、それは違うわね。きっと彼らから私が学ぶことの方が多いかもしれない。うまく言葉では表現出来ないけれど、あたしの生きる希望とか、喜びがこのボラカイ島にはあるような気がするの。」
「僕としては君がこの島に来てくれると嬉しいよ。」
「でも、菊さんが・・・・・・。」
「菊ちゃんには僕の方から説明するから心配はいらないよ。菊ちゃんは強くなったよ。もう、以前のような菊ちゃんではないから、あまり心配しなくても大丈夫。菊ちゃんはあんなに嫌いだった正樹君とも最近ではとても仲が良い。ボラカイ島の魔法が菊ちゃんを変えてしまったようだよ。」
「ボンボン。それに、あたしね、この国の言葉をもっと深く勉強してみようとおもっているのよ。」
「それはいいことだよ。君の専門は語学だからね。もっと君が学んできたタガログ語を極めてみることは意味のあることだと僕もおもう。」
岬の豪邸には、なにしろ大勢の子供たちが生活している。だから、毎日、何人かは風邪などで寝込んでいる。ここの子供たちの健康管理は医者の正樹の仕事である。彼の診療所は市場の近くにあるのだが、午後の休憩時間を利用して正樹は岬の豪邸に病人がいない時でも往診にやって来る。嵐の時も休んだことは一度もなかった。一日一回は必ず子供たちの前に顔を出すようにしている。今日も正樹はいつものように子供たちを診てから、自分の診療所に帰ろうとしていた。早苗が正樹のことを呼び止めた。
「正樹さん、お久しぶりです。」
「あれ、早苗さん。来ていたのですか。」
「ええ、午前中のヘリで来ました。茂木さんのお母様をお連れしたんですよ。」
「そうですか。それはご苦労様です。」
「子供たちの診療は終わったのですか?」
「ええ、終わりました。今、診療所に帰ろうかとおもっていたところです。」
「あの、途中までご一緒してよろしいですか。」
「どうぞ。」
早苗と正樹は話しながら浜へ出た。
「正樹さんはいつも浜を歩いて戻るのですか?」
「そうですよ。近道ですからね。それに波の音を聞きながら歩いていると、とても気分が良いものですから、毎日、こうしてゆっくり歩いて帰ります。」
「茂木さんのお母様のお蔭で、あたし、やっと島に来ることが出来ましたの。なかなか勇気が出ませんでした。」
「早苗さん、ボラカイ島はまた一つ奇跡を起こしたようですね。本人を目の前にして言うのも何だが、絶望と後悔の中をさ迷い歩いていた君をこの島は呼び寄せたのですよ。違いますか?」
「ええ、その通りだわ。」
「何度も言うようだけれども、ボラカイ島は本当に不思議な島だよ。でも、僕はとても嬉しいですよ。君がまた島に来てくれて、大いに歓迎しますよ。」
「正樹さん、今朝、茂木さんのお墓に行ってまいりました。丘の上にあるきれいな墓地ですね。やさしい風が吹いていて、とても気持ちが良かったです。実は、彼のお父様、真田さんの遺骨も一緒に茂木さんのお墓に入れてあげたくて日本からもってきたのです。勝手に中に入れるわけにはいきませんから、今、納骨の許可をお願いしているところなんですのよ。マニラ東警察の署長様がお手紙を書いて下さいましてね、島の警察の人たちもそれを見て、問題なく許可は下りると言ってくれました。」
「そう、署長がね。それは良かった。」
「茂木さんの隣のお墓はディーンさんのですね。お墓の上にサンパギータのお花がありましたが、あれは正樹さんですね。」
「ええ、あの花は僕たちの記念の花です。彼女は僕のことを考えながら死んでいきました。それなのに、この僕は彼女のことを恨み続けた。最後まで冷たい仕打ちばかりをしてしまいました。ねえ、早苗さん、よく人間は悲しいことは時間とともに忘れてしまう生き物だと言いますが、僕の場合は違うようです。日増しに悲しみは大きくなってきています。ディーンは病気によって命を失ってしまいました。どんなに悔しかったことか、彼女の気持ちを察すると胸が熱くなります。彼女は突然に僕から離れた。彼女の望みは僕が医者になることだったのですよ。もし僕が彼女の病気のことを知っていたなら、勉強どころではなかったでしょう。彼女は何も言わずにホセ・チャンとアメリカへ行ってしまいました。それで僕は彼女を憎んだ。ホセとディーンとの間でどんな契約が交わされたのかは分かりませんが、そんなことは次元の低い問題でした。彼女は自分の死期が迫ってきて、僕に謝りたいと何度も署長を通して言ってきました。でも僕は行かなかった。最後までディーンのことを憎み通してしまった。ディーンは獄中で僕が医者になったことを聞いて看守と二人でお祝いをしたそうです。・・・・・・・・・・。」
正樹は悲しみが込み上げてきてしまって、黙り込んでしまった。二人は歩くのをやめた。早苗が正樹に言った。
「ちょっと砂浜に座りませんか。」
波が静かに打ち寄せるハワイトサンド・ビーチに二人は腰を下ろした。
「早苗さん、もし人間に死というものがなかったらどうでしょうね。病気にかかっても死なないし、食事をしなくても死ぬことはない。悪人はどんなに悪いことをしても処刑されないから、また悪事をはたらく。人間はただ好き勝手なことばかりをするようになるだろうね。あくせくと働く必要もなくなってしまう。ところが現実は、誰だって死ぬのが嫌だから、頑張って生きているのだよ。死にたくないから一生懸命に生きている。」
「そう考えてみると、死はとっても大切なものなのですね。みんな一人で生まれてきて、そして、いつか一人で死んでいくのが分かっているから、死ぬ前に何かをしなければならないとおもう。そこに人生の意味が生まれてくるわけですね。」
「色々な事情で生きることが困難になることがある。精神的に病んでしまって発作的に自殺をしてしまう者をよく見かける。他にも生活苦から、あるいはお金が絡む場合もあるだろう。いずれにせよ僕はね、医者だから、どんな理由があるにせよ自殺は絶対に反対だよ。どんなに苦しくとも頑張って生き続けることが、人間に与えられた課題だとおもっているからね。自殺は神への冒涜だとさえおもっている。」
早苗が複雑な暗い表情を見せた。茂木のことを考えていたのだ。正樹はそんな早苗の心の中を読んでいた。
「これは僕の勝手な推理でしかないのだがね。茂木さんは父親の真田さんからお金を預かった。ところが、そのお金は真田さんの上司の菊田さんが外交省で横領したお金だった。謀らずもだ、茂木さんはそのお金で子供たちの為にあの岬の豪邸を購入してしまった。そして偶然にも外交省の調査室の役人だった君はその事実を知ってしまった。詳しいことは分からないけれど、それで茂木さんも真田さんも責任をとって自殺した。違いますか?」
「違います!私たちの調査は茂木さんと真田さんにまでは及んではいませんでした。あの双子の菊千代さんと千代菊さんが菊田さんの娘さんたちでしたので、茂木さんに事情を聞くつもりでした。ところが何を勘違いしたのか、こちらの警察は茂木さんを誤って逮捕してしまいました。それからは正樹さんもご存知の通り、茂木さんは自ら命を絶ってしまいました。菊田さんの部下であった真田さんにも私たちの調査を手伝ってもらおうとしたら、彼は茂木さんの死を知るとすぐに屋上から飛び降りてしまいました。結局、外交省の特別調査室ではこのボラカイ島の家に関しては何も分かりませんでした。二人の死でもって、この件に関しての調査は完全に暗礁に乗り上げてしまいました。」
「そうですか。それを聞いて安心しました。すると、あの子供たちの家は誰からも取り上げられることはないのですね。」
「ええ。わたしもそう願っています。」
正樹は砂浜に仰向けになり両手を伸ばした。早苗は水平線をじっと見つめていた。
「ねえ、早苗さん。日本に居る時にラジオを聴いていると、時折、人身事故で何々線が止まっていると交通情報が聞こえてきますよ。あれはほとんどが自殺なんですよ。景気が悪くなると、毎日のように人身事故のニュースが流れます。どうすることも出来なくなって、発作的に列車に飛び込んでしまうのでしょうね。大変に迷惑な死に方ですよね。死んでからも多くの人々に迷惑をかけますからね。」
「残された家族は大変でしょうね。誤って足を滑らせて転落したのならば、生命保険も下りるでしょうが、自殺だと分かれば、逆に高額な賠償金が請求されるのでしょう?」
「早苗さんも駅のホームにカメラが設置されているのを知っているでしょう。あれはきっと自殺なのか事故なのかを判断するために設けられたと僕はおもいますね。もしかすると保険会社がそのカメラ設置の費用を出しているのかもしれない。そんなことも知らずに、事故を装って線路の飛び込む人たちは悲しいですね。」
「そうそう、駅のホームで、あたし、思い出しましたわ。線路に転落してしまった日本人を韓国の青年が助けようとして、電車に引かれてしまった話を正樹さんは知っていますか?」
「ああ、新聞で読みました。新大久保駅でしたよね。」
「そうです。戦争が終わっても、韓国と日本の国民感情はどこかギクシャクしたところがありますでしょう。極端な言い方をすれば、嫌いな国の人を救おうとした訳ですよね。その命を落としてしまった韓国の青年は、その時は人間として人間を助けようとしたのでしょうね。あたし、その話を聞いてとても感動してしまいましたの。日本の国民も韓国の国民もすべての人々が彼の勇気ある行為を学ばなければなりませんよね!」
「まったくその通りですよ!鉄道の話といえば、昔読んだ本にこんな話がありましたよ。今、早苗ちゃんが言った話に近いものがありますがね、実際に起こった話なのか、フィクションなのかは記憶があいまいで思い出せません。北海道のとある峠にさしかかかった列車の話です。機関車から後ろの客車だけが外れてしまうのですよ。峠ですからね、客車は当然、暴走してしまうことになります。坂をどんどんスピードをあげて下っていきます。途中に大きなカーブがあれば、曲がりきれずに客車は転覆して大惨事になってしまう。あるいは崖から転落してしまう可能性もあるわけです。たまたま、その客車に乗り合わせた鉄道員がブレーキを必死になって回すのですが、客車はいっこうに止まらなかった。彼は結婚を控えた青年だったのですがね、もしその時、何も無ければ花嫁の待つ教会へ行けたはずだった。早苗ちゃん、その青年はどうしたとおもいますか?」
「さあ、分かりません。結婚式へ向かう途中だったのですね。」
「ええ、そうです。彼は迷うことなく、自分の身体を線路の上に投げ出して客車を止めたのですよ。その鉄道員のことを自殺とは決して誰も言わないでしょう。自らの命を捨てて他人を助けたのですからね。さっきの新大久保駅の韓国青年も自分の命を捨ててまで他人を助けようとした。僕はわがまま勝手な不完全な人間が完全な人間になれる唯一の方法はそれしかないと考えていますよ。自らの命を捨てて他人を助ける行為こそが最も崇高な死に方だとおもいます。それが自分を嫌っている者の為ならば、より神に近づくとおもいます。生意気な言い方になってしまうかもしれないけれど、死ぬということは人間に与えられた人生たった一度のチャンスなのですからね。」
「神に近づくチャンスですか。」
「そうだよ。」
水平線に沿って大きな客船が沸き立つ雲をバックにゆっくりと動いていた。セブへ向かう船らしかった。正樹は起き上がり、診療所に向かってまた歩き出した。早苗も岬の家には帰ろうとはせずに、正樹と一緒に歩き始めた。
「早苗さん、人は病にかかるとね、心の底から病気では死にたくないとおもうようになる。自分の意思とは関係なく死ななければならないのですからね、その悔しさは計り知れませんよ。特に不治の病で死に直面している患者さんたちなどは朝起きるとね、まだ生きていることで、そのことだけで感謝するようになります。病気と向き合っている人たちを見ているとね、何も偉いことをする必要なんかない、ただ生き続けることが大切なんだと教えられます。どんなに苦しくとも生き続けることが大切なのですよ。生活に疲れたとか苦しいとか、悲しいとか、甘いことを言って自殺をしようとする者がいますよね、僕は医者だけれど、そういう連中には早く死ねよと言ってやりたくなりますね。人は命を守らなければいけない!定められた時がくるまで、自分に与えられた命を守り続けなければならないと僕はおもいますよ。だから自殺は絶対に反対です!」
自殺と言われて、早苗は茂木と真田のことを思い出していた。
「僕は茂木さんの死を一概に自殺だとはおもっていませんよ。彼は岬の家の子供たちの為に自らの命を絶ったのですからね。それが彼の定めだったのかもしれません。僕はこうして天使面をして医者なんかしていますがね、いざとなったら、この自分の命を見ず知らずの人の為に使うことが出来るかどうか、疑問ですよ。茂木さんのようになれるのか、自信はありません。」
「茂木さんのお父様の真田さんも、あたしから岬の家のことや茂木さんが亡くなったことを聞かされて、一時間もしないうちに屋上から飛び降りてしまいました。」
「僕は真田さんの死も自殺とは言えないとおもいますよ。」
そこでしばらく、二人の会話はとまった。観光客は別として、島の人びとはみな正樹に挨拶をしながらすれ違って行く。早苗は正樹がすでにこの島にとって、なくてはならない存在になっていると感じた。また、正樹が同じことをまるで確認をするように早苗に話し出した。
「さっきも言いましたが、真田さんの死も僕から言わせると自殺ではないとおもいますね。これはあくまでも推測ですがね。上司の菊田さんから預かったお金を誰にも分からないように、息子として認知されていない茂木さんに保管を頼んだ。そして悲劇的にそのお金が自分の息子を死に追いやってしまった。そして茂木さんが命をかけてまで守ろうとしたボラカイ島の日比混血児たちの家のことを早苗さんから聞かされて、真田さんも何とか外交省の調査をストップさせなくてはならないと考えた。まったく親子ですよね。結果的に真田さんも自分の命を絶つことで岬の家を守ろうとした。僕は常日頃、いつ如何なる時でも、行きずりの人の為に死ねるように心がけているのですがね。未だにその自信はありませんよ。だから、真田さん親子がとても羨ましい!」
二人はもうホワイトサンド・ビーチの中程まで来ていた。早苗が言った。
「正樹さん。ちょっと正樹さんの診療所にお邪魔してもよろしいですか。もっとお話をお聞きしたいわ。」
「ええ、構いませんよ。どうぞ遠慮なく。ただ、あまり岬の豪邸のようにはきれいではありませんよ。小さな掘立小屋ですからね。それに掃除もしていないから、驚かないでくださいよ。まだ看護婦とか助手を雇う余裕はないもので、掃除は後回しになってしまっています。」
早苗と正樹が診療所の中に入ってみると、待合室には午後の診察を待つ患者たちが数十人も待っていた。正樹は早苗を奥の自分の部屋に案内すると、すぐに診察室で診察を始めてしまった。早苗は正樹が島の人々の診察をしている間、彼の部屋の掃除をした。まだ正樹は結婚をしていないので、この言葉は正確には当てはまらないが、男やもめに蛆がわくとは、正にこのことだと早苗は掃除をしながらおもった。
患者の数は時間が経つにつれて増えていった。早苗は部屋の隅に山積みになっていた洗濯物と今度は取り組むことにした。近くのサリサリ・ストアー(万屋)に行き、洗濯石鹸を買い、ついでに夕食の食材も買って診療所に戻った。その時には入り口の外にまで診察を待つ人の列が出来ていた。早苗は正樹の診療所が毎日この状態なのかどうか、後で聞いてみることにした。とても正樹一人では大変だなと感じたからだ。
最後の患者の診察を終えたのは夜の9時を回っていた。正樹が奥の自分の部屋に戻ってきた。早苗が言った。
「お疲れ様でした。毎日、こんなにおそくまで診察を?」
「ええ、そうです。」
「お薬とか、お会計もお一人でやっていらっしゃるのですか?」
「いや、薬は処方箋を書くだけですから、後は薬局に行って自分たちで買うので問題はありませんよ。」
「ではお会計は?」
「会計?・・・・・。ほら、入り口のところに箱とノートが置いてあったでしょう。患者たちにお金が出来た時に、その箱の中に入れてもらって、名前を書いてもらっています。だから僕は何もやっていませんよ。緊急を要する患者が運ばれて来た時には、署長のヘリを飛ばしてもらっています。そして、以前、ヨシオが世話になったウエンさんが働いている病院が面倒をみてくれます。すべて無料ですよ。これも署長のおかげですよ。」
すっかり冷めてしまった夕食を二人で楽しく話しながら食べた。正樹はこんなに楽しい食事は久しぶりだった。
「早苗さんは料理がお上手ですね。こんなにおいしいものを食べたのは何年ぶりかな。」
「あたしね、調理師免許をもっているのよ。戸隠の家、民宿をしているでしょう。だからお客様に喜んでもらおうと、基礎から料理の勉強はしているのよ。」
「どうりで、素人離れした感じだもの。」
「ありがとうございます。あの、さっきの話だけれど、死について語ってくれましたよね。あたし、なるほどなと感じましたの。正樹さんは神父さんとかお坊様になったらよかったのに。」
「僕なんか駄目ですよ。お祈りは下手だし、お経も読めない。それに僕ほど弱い人間はいないですからね。宗教はどの宗派も素晴らしい教義をもっていると僕はおもいますけれど、余計な部分が多すぎて、僕には無理です。ただ、茂木さんや真田さん、新大久保駅で日本人を助けようとして命を落としてしまった韓国の青年、線路に自分の身体を投げ出して客車を止めた鉄道員のような生き方をしたいですね。」
「正樹さん、お願いがあります。あたしをしばらく、この診療所においてくれませんか。ここのお手伝いをしながら、岬の子供たちに日本語を教えたいのですが、駄目でしょうか?」
「そりゃあ、ちっとも、僕は構いませんよ。どちらかと言うと僕の方は大歓迎ですよ。」
「ありがとう。あたし、茂木さんのお母様を日本に送ってから、また戻ってまいりますから、その時はどうぞよろしくお願いします。」
「ええ、いいですよ。それでは今夜は岬の家までお送りしましょうか。」
「はい。」
今度はさっきとは反対に正樹が早苗を岬の家に送って行った。夜のボラカイの海から聞こえてくる漣の音は傷ついた二人の心を確実に癒し始めていた。
衝撃
衝撃
早苗が正樹の診療所に来てから半年が経った。島の人たちは正樹のことをドクター、早苗のことをシスターと呼ぶようになっていた。毎晩のように二人はあちらこちらの誕生日に招待されていた。診療費はただ同然だったので、やりくりはとても苦しかったが、毎日のように島の人たちからパーティーに招待され、そのおかげで食費とアルコール代は節約は出来た。市場の魚屋に嫁いだ千代菊からも三日に一度は魚の差し入れがあり、商売の売れ残りとはいえ、とても大助かりだった。千代菊の子供はもう歩き始めており、目が離せない大変な時期を迎えていた。菊千代は千代菊に岬の豪邸で一緒に暮らすことを望んでいたが、千代菊は亭主のハイドリッチとその家族と一緒に市場の近くの家で暮らしていた。正樹の診療所と同じような簡単なブロック造りの家だが、千代菊は島の人間になりきろうと一生懸命だった。早苗が正樹のところに来て喜んだのは正樹だけではなかった。日本語しか出来ない千代菊も話し相手が近所にやって来て大喜びだった。千代菊にはすでに二人目の子供がお腹におり、早苗がすぐそばにいてくれることがとても心強かった。そんなわけで早苗と千代菊の二人は自然と仲良くなっていった。
そんな平和なある日、早苗と千代菊は子供を連れて岬の家に向かって歩いていた。すると一人の男が歩いてきた。その男は白いワイシャツにだぶだぶのズボンを穿いており、遠くから見ても、すぐに日本人であることが分かった。すると突然、早苗が後ろを振り返り千代菊に言った。
「千代ちゃん、あたしは忘れ物をしたから、とって来るわね。先に行っていて頂戴。すぐに行くから。ごめんね。」
千代菊の返事も聞かずに早苗は足早に去って行ってしまった。千代菊は仕方なく子供と二人だけで岬の豪邸に行くことにした。日本人はどうも海外ですれ違っても、お互いに声を掛け合ったりはしないものだ。千代菊も近づいて来る男が明らかに日本人だと分かっても知らんふりをしてすれ違った。男は何か考えごとをしているらしく、まったく千代菊と子供には興味を示さなかった。
早苗はかつての外交省の特別調査室の同僚である沢田が岬の家の方から歩いて来るのを見て、素早く振り返り、身を隠したのだった。沢田は早苗にはまったく気づかなかった。もうこの島の調査は終わっているはずなのに、いったいどうして沢田がこの島にいるのだろうか。早苗は次第に不安になってきた。診療所に戻ると、早苗は特別調査室の沢田とビーチロードで危うくすれ違うところだったと、正樹に話した。正樹の表情が曇った。
「もしかすると君を捜しに来たのかもしれないよ。」
「いえ、それはないとおもうな。だって、あたしは、誰にもこのボラカイ島に来ることを話さなかったわ。」
「するとまだ岬の家の調査が続いているということになるのかな?その沢田とかいう調査官は一人だった?」
「ええ、彼は一人で豪邸の方から歩いて来たわ。何だか難しい顔をしていました。」
「まあ、君は会わない方がいいな。変に誤解されるとまずいからね。しばらく診療所から出ない方がいいでしょう。」
「何だか、あたし、嫌な予感がするわ。何も無ければいいのだけれど。正樹さん、あたし、恐いわ。」
「心配ないよ。大丈夫だよ。」
その二日後、ホワイトサンド・ビーチの白い砂が真っ赤な血の色で染まった。外交省の特別調査室の沢田が犬のような動物によって噛み殺されているのが発見された。平和なボラカイ島に衝撃がはしった。
正樹がそのニュースを知った時、まず真っ先に岬の家のドーベルマンたちのことが頭に浮かんだ。
「早苗ちゃん、えらいことになったよ。沢田さんが殺されてしまったよ。」
「正樹さん、あたし、恐いわ。」
「浜で噛み殺されていたそうだよ。動物に噛まれた痕が見つかったそうだ。」
「犬かしら?」
「僕の想像が間違っていればいいのだが、こんなことになるなんて、・・・・・・。今は何も言うのはよそう。日本大使館からもマニラ警察からも大勢この島にやって来るだろうから、彼らが君を見たらやっかいだ。誤解されてしまう。だから外に出たら駄目だよ。いいね。僕は兎に角、岬の家に行ってみる。あれこれ考えていても、埒があかないからね。それに君が島にいることを誰にも言わないように口止めしてくる。」
「正樹さん、岬の家には行かないで下さい!一緒にここにいてくれませんか。あたし、恐いの!正樹さんがもう帰って来ないような気がしてなりません。ごめんなさいね、あたし、変なことばかり考えてしまって、どうか、このままあたしのそばにいてください!」
「いったい、どこの警察がこの事件を担当するのだろうか?日本の外交省の人間が殺されたんだ。ごめん。まだ殺されたとは決まっていなかったね。事故かもしれないものね。多分、マニラ東警察の署長の出番になるだろうね。」
「でも、署長さんは岬の家がなくなると困る人の一人でしょう。これからもどんどん保護されてくる日比混血児たちの置き場がなくなってしまうから。あら、ごめんなさい。あたしったら、まだこの事件と岬の家が関係があるなんて決まっていないのにね。何だか、悪い方に悪い方に考えてしまうわ。」
「僕だって、沢田さんが犬のような動物によって噛み殺されたと聞いて、すぐに岬の家のドーベルマンたちが頭に浮かんでしまったもの。沢田さんがこの島に来て一番困るのは岬の家の人々だからね。動機は十分にあると考えて当然だよ。」
「正樹さん、あたし、ボンボンが言っていた言葉が耳から離れないの。あの家は茂木さんに代わって彼がどんなことをしても守り抜くと言っていたわ。ごめんなさいね。こんなことを言えば言うほど、みんなが不幸になってしまうわね。」
「早苗ちゃん、やっぱり、僕、ちょっと岬の家に行って来るよ。憶測で話をしていても仕方がないからね。人が一人死んだんだ。やはりこのままではすまないからね。君はここにいて下さい。」
正樹はいつものようにホワイトサンド・ビーチを歩いて岬の豪邸へむかった。この浜で沢田が死んでいたとはとても信じられない、海も空も澄んでいて、まったくいつもと変わりはなかった。豪邸の下のプライベート・ビーチに着いた。階段を登って豪邸へ入ろうとすると、正樹は階段の途中にある犬小屋がなくなっていることに気がついた。昨日、ここに往診に来た時には確かにあった。ドーベルマンのジョンに声をかけたのを覚えている。沢田の死とこの豪邸の犬小屋が急になくなっていることと関係があるのか正樹にはまだ判断が出来なかった。事件に巻き込まれるのを恐れたボンボンが犬小屋を屋敷の裏に移したとも考えられる。兎に角、何も知らないふりをして屋敷の中へ入ってみることにした。
正樹が最上階のボンボンの書斎に入ると、ボンボンは机で書き物をしていた。正樹は窓のところへ行き、外を見渡した。抜けるような青い空にそそり立つ入道雲が重なり合っており、その下にはエメラルドブルーのボラカイの海が人間の営みとはまったく関係なく静かに広がっていた。正樹はボンボンから視線を外して、外の景色を見ながら言った。
「ボンボン、聞きましたか?日本人が浜で死んでいたそうですよ。」
「ああ、聞いたよ。」
ボンボンは素っ気無く返事をしただけで、二人の間には鈍い沈黙が後に続いた。ボンボンは机に向かって、また書き物を続けている。正樹は窓の外を眺めたままで、ただ時間だけが過ぎていった。ノックをする音がして、リンダがコーヒーを二つ持って部屋に入って来た。正樹はリンダに尋ねてみた。
「リンダ、犬たちはどうした?」
リンダは怯えた表情でボンボンの方を見た。ボンボンが鋭い視線を一瞬ではあったがリンダに送ったのを正樹は見逃さなかった。
「犬たちはもういないわよ。子供たちが危険だから、引き取ってもらったの。それに食費がバカにならないでしょう。」
リンダはそう答えると、さっさと部屋から出て行ってしまった。リンダもボンボンも早苗が島に来てからは正樹とは距離を置くようになっていた。一つ屋根の下で正樹と早苗が一緒に生活していることが二人には面白くなかったのだ。
しばらくすると、島で事務所を開いている弁護士が部屋に入って来た。正樹もよく道ですれ違う、その地元の弁護士にボンボンはさっきから書いていた書類を渡して、握手を求めた。二人は立ちながら、一言、二言、言葉を交わしながら部屋から出て行ってしまった。正樹一人だけが広い部屋に残されてしまった。屋敷全体に何やら重たい空気がたまっているように正樹には感じられた。茂木さんのいた頃とは大違いだった。正樹は天性のピエロ、ネトイをさがすことにした。豪邸の裏にある軍鶏たちの小屋へ行ってみたが、ネトイはそこにはいなかった。振り返り豪邸へ戻ろうとして、正樹は足を止めてしまった。明らかに何かを埋めたように地面を掘り返した跡があったからだ。ゴミをこんな場所に埋めることはないはずである。その真新しい地面の盛り上がりは正樹の悪い想像と一致してしまった。正樹は急にこの家で居場所がなくなってしまったような気がして、とても寂しくなった。仕方なく、豪邸の正面へまわってみると、さっきの弁護士が大きなカバンを抱えて、背中を「く」の字に丸めてゲートから出て行くのが見えた。弁護士がいったい何の用でボンボンと会っていたのだろうか?どんな用件だったのか正樹には知る由もなかったが、どうやら用件は済んだようであった。いつものように、子供たちを一回り診てから診療所に帰ることにした。正樹はいつの間にか、すっかり変わってしまった岬の家のことを本当に憂いていた。岬の家にとって、茂木さんの存在がいかに大きかったかということを浜を歩きながら感じていた。ボート・ステーション3まで来たところで海の方から声がした。だんだん近づいて来るボートの上から、再び自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
「正樹さん、正樹さん。・・・・・・・」
目を凝らして近づいて来るボートを見てみると、渡辺電設の佐藤が手を振りながら正樹の名前を何度も呼んでいた。その隣には渡辺社長の姿もあった。その風貌は相も変わらずでかい態度をしていた。あまり好きな連中ではなかったが、誰かと話がしたかったので、正樹はボートが浜に接岸するのをじっと待った。佐藤が荷物を頭に載せボートから降りてきた。膝まで浸かりながら海の中を歩いて、やっと小さな声でも聞こえる距離までやって来た。
「やあ、お久しぶりです。色々な事があったので、大変だったでしょう。」
正樹は返答に困ってしまった。正樹の言葉を待たずに佐藤が再び言った。
「茂木さんのお母様がこちらへいらっしゃったそうで、あの京都の居酒屋の女将さんが彼のお母様だったとはびっくりしましたよ。・・・・・・・そうだ、正樹さん、僕も茂木さんのお墓に案内してくれませんか。お線香をあげたいのでお願いしますよ。」
「ええ、いいですよ。ご案内いたしましょう。でも、この国には線香はありませんよ。」
「そうでしたね。では、お花をどこかで買いたいのですが、花屋は近くにありますか?」
「ええ、ありますよ。墓地に行く途中にありますから、寄って行きましょう。」
渡辺社長も海の中を歩いてやって来た。社長は一段と肥ったみたいで、息をハーハー切らせながら歩いて来た。しかし何故か、とても機嫌は良く、にこにこしながら正樹に向かって言った。
「いよお!お元気そうで何より。正樹さんもすっかりこの島の人間におなりになったようで、良かった良かった。君が島にいてくれるとわしも心強いよ。」
何だかこの島が自分のものになったかのような言い方には正樹は少し嫌気がさしたが我慢して愛想良く答えた。
「社長もお元気そうで何よりです。しばらく島においでにならなかったから心配しておりました。」
「いや、すまんすまん、忙しくてな。でもこの島に来るとわしはほっとするよ。やはり、わしはここが一番だな。」
正樹は社長を無視して、佐藤に向かって言った。
「佐藤さん、どうします。これから行かれますか?それとも後日、日を改めて・・・・・・?」
佐藤は振り返り、渡辺社長に伺いを立てた。
「社長、私、ちょっと茂木さんのお墓に行ってきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、行ってきなさい。わしは少し疲れたから先に岬の家に行くぞ。君の好きなようにしなさい。正樹君、ところでボンボンは岬の家におるだろうね?」
「ええ、今さっき、彼の書斎で会いましたから、まだいるとおもいますよ。」
「それじゃあ、正樹くん。わしはこれで失礼するよ。佐藤君、わしの分まで祈ってきてくれ、頼むぞ。茂木さんがいなければ、あの家もなかったわけだからな。」
社長は自分の荷物を浜に置いたまま、ホワイトサンド・ビーチを岬の豪邸の方へさっさと歩き出してしまった。佐藤は両肩に社長の荷物も抱えてから正樹に言った。
「では、正樹さん、よろしくお願いします。まずは何を置いても、茂木さんにご挨拶がしたいので、墓地へ案内して下さい。」
「荷物を一つ、お持ちしましょうか。」
「いえ、結構です。そんなに重くはありませんから、ご親切、ありがとうございます。」
「共同墓地は丘の上にあって、少し距離がありますから、私の診療所にその荷物を置いてから行くことにしましょうか。」
「そうですか、では、そうしましょうか。」
二人が診療所に着くと、早苗が待ちくたびれたように中から飛び出て来た。
「あら、佐藤さん。いらっしゃい。お久しぶりです。」
「早苗さん、外交省のお役人が何で、また、ここに?・・・・・ナミさんもご一緒ですか?」
「いえ、私一人です。それからあたし、もう外交省を辞めましたのよ。」
正樹がそこで助け船を出した。
「早苗ちゃん、これから、共同墓地へ行くけれど、君はどうする?」
「ええ、もちろん、一緒に行きますよ。」
正樹が留守の間、早苗はずっと正樹のことを心配していたのだ。早苗の表情がとても厳しかったのを見て、正樹はそのことをすでに読み取っていた。
「それじゃあ、早苗ちゃん。話は道々することにして、出かけようか。」
「ええ。」
早苗はぴったりと正樹の横について歩いた。三人は市場に寄って花束を幾つか買い、トライシクルで墓地へ向かった。
丘の上の共同墓地には風がいつも吹いており、いつ訪れても正樹はとてもすがすがしい気持ちになった。自分も死んだらここに入りたいと、来る度におもった。出来ることなら、ディーンの墓の中で一緒に眠りたかった。
丁寧な佐藤の態度には好感が持てる。墓の前で一礼する姿は実に絵になっている。とても自然で、それでいて、ちっとも嫌味がない。あたかも映画の一場面を観ているようであった。墓参りを終えると佐藤はゆっくりと二人に言った。
「実はね、社長と私が今回、突然、この島に来たのはね。ボンボンから依頼がありまして、あの豪邸をうちの会社で買い取ってくれないかと言われたものですから。」
正樹と早苗はお互いの顔を見合わせてしまった。真っ先に頭に浮かんだことは子供たちのことだった。
「ボンボンがそう言ったのですか?・・・・・・あの家を売りたいと言ったのですか?」
「ええ。そうですよ。」
「では、あそこの子供たちはどうなるのですか?・・・・・・・・それでは茂木さんの死は無駄になってしまいますよ!」
「いや、あの岬の家の子供たちはそのまま、私たちが面倒をみることになっています。それは心配しないでください。私たちも全力で茂木さんの崇高な意思を守り続けるつもりですから。今も彼のお墓にそのことを誓ったところです。子供たちは私が守ります。」
「佐藤さんのことは僕も信用しますが、あの肥った・・・・・・・・。」
早苗がすぐに正樹の袖を引っ張って、正樹の言葉を止めた。早苗が言った。
「それを聞いて、あたし、少し安心いたしました。でも、何でまた、ボンボンはあの大切な家を、突然、売る気になったのでしょうか。」
「それは私にもよく分かりません。」
「さっき、僕が岬の家に行った時には、彼は何も言っていませんでしたよ。そんな大切なことを何で言ってくれなかったのでしょうかね。まあ、訪問客がありましたからね。でも、その前に十分に時間はあった。彼はいったい何を考えているのでしょうかね。時々、ボンボンのような天才のすることが僕のような凡人には理解が出来なくなります。」
「彼はとても急いでいましたね。子供たちを追い出さないことが唯一の条件でかなりの破格な値段を提示してきましたよ。」
「それでいったい、幾らで話がまとまったのですか?」
「4億円です。あの豪邸ならば、10億円は下るまいと、役員会全員一致ですぐに会社の投資対象として決まりましたよ。即決でしたね。特に社長は大喜びですよ。」
「4億円ですか。・・・・・・・・・・・」
正樹は茂木があの豪邸をホセ・チャンから5千万円で購入したことを知っている。その後、いろいろな経費や増築した費用を含めても1億円には達していないだろう。4億円でボンボンはあの豪邸を渡辺電設に売ろうとしている。4億円の大金をボンボンは黙って手にすることになる。いくら渡辺電設という会社が日比混血児たちの世話を引き継ぐとしてもだ。茂木さんが命をかけて残してくれた大切な子供たちの家を簡単に売り渡すとは、とても正樹には許せることではなかった。あの家の資産価値はさっきも佐藤さんが言っていた通りに10億円以上は間違いなくあるのだから、子供たちに残すべき資産をボンボンが勝手に売り渡すことはやはり許せることではなかった。正樹は頭が混乱してしまって、もうこれ以上、佐藤と話す余裕がなくなってしまった。共同墓地を出て通りに出ると、待たせてあったトライシクルがエンジンをスタートさせた。三人は診療所に向かった。途中、正樹は一言も口をきかなかった。診療所に着くと、佐藤の荷物をそのトライシクルに積み込み、正樹はドライバーに岬の家まで佐藤を運ぶように指示を出し、そのまま黙って診療所の中に入ってしまった。佐藤には墓参りのお礼すら言わずに引っ込んでしまった。早苗が正樹に代わって丁寧に佐藤にお礼を述べた。佐藤は早苗に墓参りのお礼を正樹に言ってくれるように頼んで、岬の家に向かって走り去っていった。
診療所に入ってからも、正樹は早苗に対しても黙ったままだった。言葉がみつからなかったのだ。早苗がそっと温かいコーヒーを入れてやると、やっと正樹は落ち着きを取り戻した。
「早苗ちゃん、ボンボンは沢田さんを殺して大金を持って逃げるつもりなのだろうか?さっき岬の家に行った時に、僕は見つけたんだ!豪邸の裏庭に犬たちを埋めたような跡があった。」
ボンボン
ボンボン
日本外交省の特別調査室の沢田が死体で発見されてから1週間が経った。いっこうに警察当局は島に来て捜査する気配はなかった。徹底した報道管制が布かれているらしく、この事件に関するニュースはまったく流れなかった。政府間で、それもかなり高いレベルでの取引が行なわれているようだった。
渡辺電設の支配下にあるマニラの合弁会社、渡辺コーポレーションが岬の家の新しい所有者となった。マニラから二人の社員が岬の家に送り込まれてきていた。
ボンボンは大きな台風がボラカイ島を通過した翌日に島を去った。島を離れる前に菊千代とネトイを一人ずつ書斎に呼んで最後の別れをした。
「菊ちゃん、ここに一億円の小切手があります。このお金は君と君の子供の為に使って下さい。渡辺さんは君らがここに残ることを、もちろん承諾しています。だから君らがここにいたければ、いつまでもいることは出来ますよ。何の遠慮もいりませんからね。君と君の息子がこれからもこの屋敷で暮らすことは正式に文章で許可されています。島の弁護士のところにそのことが書かれた契約書があるから、誰が何と言っても心配しなくていい。もちろん子供を連れて京都に戻ることも君の自由です。」
「ボンボン、いろいろと有り難う。あなたはどうするの?」
「菊ちゃん、僕は茂木さんや君たちとめぐり逢えたことを神様に感謝していますよ。僕は人間にとって何が一番大切なのかということあなたたちから学びました。この島でわずかの間だったけれど一緒に過ごせたことを誇りにおもいますよ。それから渡辺さんはこの家の日比混血児たちのことも、これまで通り面倒をみると約束していますからね。そのことも弁護士のところにはっきりと文章で記録されています。」
「ねえ、ボンボン。あたしの質問にちゃんと答えていないわよ! ボンボンはこれからどうするつもりなのよ?」
「僕は近々、マニラの署長のところへ行くつもりだ。日本政府に1億円を返却するつもりだからね。それから浜で死んだ沢田さんの家族にも1億円を届けてもらう。そして、その後、自首するつもりだよ。署長には既にそのことは伝えてある。いろいろと整理をする為に時間をもらった。幸い、日本政府も問題を大きくはしたくないとのことでうまく話がついた。」
「自首するって、沢田さんは犬か何かの動物によって噛み殺されたのでしょう。何でボンボンが自首するのよ。」
「君も薄々は分かっていただろうが、沢田さんを殺したのはうちの犬たちだよ。だから僕の責任なんだよ。」
「違うわ、それなら、それは事故じゃないの。ボンボンの責任ではないわ。」
「菊ちゃん。僕はこの家を守らなくてはならない。この家の子供たちを守らなくてはならないんだ!日本政府がこの家に踏み込んで来る前に解決したかった。だから取引に応じたんだ。」
「でも、ボンボン、あなたの責任ではないわ。」
「菊ちゃん、もういいんだよ。君たちはしっかり生き抜いて下さい。」
「ボンボン、駄目だからね!まるで死ぬ為に行くみたいだわ。絶対に駄目だからね。あんな悲しいことは茂木だけでたくさんだからね!」
「分かっているよ。全力で最後までやってみるから、僕のことは心配しなくていい。菊ちゃん、悪いけれど、ネトイに部屋に来るように言ってくれないか。」
「分かりました。ネトイを呼んできます。ボンボン、死んだら駄目ですよ!」
ボンボンは軽くうなずいて見せた。しばらくすると、弟のネトイが一人で部屋に入ってきた。
「ネトイ、そこに座りなさい。」
ボンボンは机の上に菊千代と同じ様に1億円の小切手を置いてネトイに見せた。
「ネトイ、この1億円はお前に預ける。この家の子供たちの為に使え!いいな。それから、お前はマニラの渡辺コーポレーションの重役として迎えられることになった。佐藤さんの下で働くことになったが、しっかりこの家を守っていってくれ。」
ネトイは何も言わなかった。ただ、黙ってボンボンの話を聞いていた。
「お前も渡辺コーポレーションの副社長の地位になるのだから、少しは着るものにも注意しておくように、いいな。俺はこれから、マニラの署長のところへ行く。いいか、後は頼んだぞ!子供たちを守ってくれ、任せたぞ!」
最後の別れの言葉を聞かされても、ネトイは黙ったままだった。 ボンボンは次に正樹と早苗のいる診療所に行くつもりだった。しかし、警察のヘリコプターがボンボンを迎えに来てしまって、そのまま連行されてしまった。
正樹と早苗は沢田が死んでから、いつまで経っても捜査が行なわれなかったことを不思議におもっていた。正樹が子供たちの往診の為に岬の家に行っても、誰も口を開かなかったし、ボンボンの姿を見つけることも出来なくなってしまっていた。
リンダは苦しみと悲しみの中をさ迷い歩いていた。どうしたらよいのか分からないまま、何日も過ごしてしまっていた。だが、堪えきれずに、リンダは正樹がいる診療所に行くことを決心した。リンダは夢中で走った。
泣きながら診療所に入って来たリンダを正樹と早苗は待合室の長椅子に座らせて、少し落ち着くのを待ってから、話を聞いた。
「ボンボンは警察に連れて行かれてしまったわ。違うの!ボンボンじゃないの!あたしなの!犬たちに餌をあげようとして、犬小屋を開けたら、三頭の犬たちはあたしの脇をすり抜けて、草むらに隠れて何かを調べていた沢田さんに飛びかかったの。沢田さんはナイフを持っていて、最初に飛びかかったジョンの喉を切り裂いてしまったわ。それで残った犬たちは狂ったように沢田さんに食らいついたの。結局、犬たちは全部殺されてしまったわ。沢田さんはよろよろと立ち上がってビーチの方へ歩いて行ってしまったの。だから、ボンボンじゃないのよ。あたしなの。あたしの為に、ボンボンは・・・・・・・・。」
リンダは泣き崩れてしまった。早苗がリンダの肩を抱きしめた。リンダは早苗の胸に顔をうずめて大声で泣き出してしまった。正樹はもう一度頭の中でリンダの話を整理してみてから言った。
「それは事故だよ!誰の責任でもないよ。事故だ。しかし、ドーベルマンを3頭もナイフ1本で殺すとは凄いね。沢田さんはただ者ではなかったようだね。」
「沢田さんは武道家としても、かなり名は知られていたわ。」
「でも、結局、出血が止まらなかった。そのままビーチまで歩いて行って、そこで倒れてしまった。」
「そうね。やっと、謎が解けたわ。」
「ちょっと、僕、マニラへ行ってくる。署長によく説明してくる。リンダ、君の責任ではないからね、もう泣かなくてもいいよ。みんなによく説明してくるから。そうだ、しばらく、早苗さんとここにいるといいよ。」
リンダはうなずいただけで言葉は出なかった。
正樹は迷うことなく、市場の魚屋に向かった。千代菊の旦那のハイドリッチに船を出してもらう為だ。飛行場のある隣の島まで渡るのに、それが一番早いとおもったからだ。ハイドリッチは嫌な顔一つせずに船を出すことを快く引き受けてくれた。彼は店番を千代菊に任せて、すぐに二人で浜へ向かった。
正樹は手遅れになる前に、早くマニラに着きたかった。茂木さんがあの家を守ったように、あるいはボンボンは日本政府と裏取引をしたのかもしれない。もう獄中での別れは茂木さんとディーンの二人だけでたくさんである。何とかボンボンを止めなくてはならない。急がなければ、普段ならばボラカイの海を渡る時は、ボートはもっとゆっくり進めばよいのにとおもう。それだけ長い間、美しさを堪能出来るからだ。だが今日は別だ。正樹は一分一秒でも早くマニラに到着したかった。
まずカティクランの飛行場に行ってみた。しかし、もうフライトはなかった。船着場に引き返し、白タクを捜した。お金を出せば誰でもカリボの空港までは車を出してくれる。その日も簡単に車はみつかった。カリボの空港でもすべて飛行機は飛び去った後で、小型機を含めてすべてのフライトの予定はなかった。残された道は船に乗るしかなかった。どんな船でもよかった。マニラへ行く船をさがさなければ、正樹は祈りながら港を歩き回った。やっと貨物船が一時間後に港に寄って、すぐにマニラへ向けて出航することをつきとめた。それに乗れば、明日の朝にはマニラへ着ける。正樹は貨物船の到着をじっと埠頭に座って待った。海は暗く悲しみに満ちていた。暗い海を見つめながら正樹は考えていた。きっとボンボンは捜査当局と何らかの取引をしたのに違いない。流用された日本外交省の公金と沢田さんの死への賠償金を持って自分が出頭する代わりに岬の家を存続させることを願い出たのに違いないと正樹はおもった。
少し遅れて到着した貨物船には問題なく乗船することが出来た。何故なら、その貨物船の乗組員の一人が岬の家の出身者だったからだ。以前、正樹がマニラの警察から彼の身柄を引き取り、岬の家に連れて行った混血児だったからだ。こうして様々なところで岬の家を巣立って行った子供たちが働いていることはとても嬉しいことであった。
正樹を乗せた貨物船は予定よりも、かなり早くマニラ港に着いた。船長たちのおもいやりを感じながら正樹は船を後にした。ピエールから警察署までは珍しく渋滞もなかった。
正樹が署長室に駆け込むと、署長は座ったままでじっとしていた。いつものように立ち上がって握手を求めてこなかった。
「正樹君、すまん。私の力ではどうにもならなかった。」
署長は深々と頭を下げた。正樹は署長の次の言葉を待った。
「ボンボンは死んでしまったよ。茂木さんと同じ様に自分で命を絶ってしまったよ。」
何故だ、何故、みんな、そんなに自分の命を粗末にするのだ。正樹は心の中でそう叫んだ。そして署長に言った。
「署長、違うんだ。あれは事故だったんだ。岬の家の者が犬たちに餌を与えようとして、犬小屋の扉を開けたところ、犬たちは草むらに隠れていた沢田さんを見つけた。3頭のドーベルマンたちは忠実にも不法侵入者に向かって突進したんだ。沢田さんは持っていたナイフで犬たちを次々と殺した。しかし、戦いの途中で噛まれた傷口からの出血がひどくて、浜まで来たところで力尽きてしまった。だから、あれは事故だったんだ。」
「正樹君、すまん。遅かったよ。」
「駄目だ。そんなの駄目だよ。みんな、何でそんなに死に急ぐのですか。生き続けることが大事なのに!命をつなぐことが大切なのと違いますか。」
日本政府は岬の家の徹底的な調査と死んだ沢田さんの遺族への保証、それに犯人が見つかった場合、厳罰に処することを要求していた。署長の力ではどうすることも出来ない高度な政治判断でこの事件は秘密裏に素早く処理されてしまった。それでもボンボンの出頭と署長の努力で何とか岬の家はこれからも増え続ける日比混血児たちの為に残す方向で結論が出た。ボンボンはマニラに連行されると、すぐに非合法的に重い刑が確定した。日本政府への配慮がそこにはあった。しかし、ボンボンは一切弁明はしなかった。それどころか、茂木さんがとった方法を彼も選んでしまった。
ボンボンの死でもって岬の家に対する調査は完全に打ち切られた。流用された公金は全部で7千万円だったのだが、ボンボンは死ぬ前に署長を通して1億円を日本政府に返還していた。国際問題化した日本外交省の公金流用事件はこうして多くの自殺者を出して、やっと解決した。 ボンボンの死はまったく新聞やテレビでは報道されなかった。岬の家はボンボンに代わって渡辺コーポレーションが所有することになった。
ネトイもリンダから正樹がマニラへ向かったと聞いて、その日の夜遅くにマニラ東警察署に顔を出した。ネトイが到着した時、正樹はまだ署長室でがっくりとうなだれていた。署長とネトイは初めてである。受け付けの警官に案内されて部屋に入って来たネトイに向かって署長は言った。
「君がボンボンの弟さんですか。大変、残念なことだが、君のお兄さんはお亡くなりになりました。本当にお気の毒なことをしました。岬の家の関係者にとっては悲しみであるとともに大きな損失であります。ご家族の方々には心からお悔やみを申し上げます。」
ネトイは黙っていた。あの陽気な、天性のピエロが何も言わずに兄のボンボンの定めと向き合っている。正樹はネトイの代わりに、また泣いてしまった。署長が続けた。
「ボンボンさんは茂木さんと同じ様に岬の家を守るために自分の命を犠牲にしてしまいましたよ。徹底的な調査が入る前に、まず浜で死んだ沢田さんと言う日本外交省の調査員の遺族に対して十分な賠償をしました。それから、これは私の推測なのですがね、茂木さんが使ってしまったとおもわれる日本外交省の公金も利息をつけてそっくり返してしまったようです。」
正樹がネトイに代わって聞いた。
「それで日本政府はどうしたのですか?」
「日本政府は今回の事件を公にはしたくなかったようですね。しかし、岬の家の徹底的な調査と沢田さんを殺した犯人への厳罰を強く要求してきました。これは一歩も譲りませんでした。ボンボンはすべての責任は自分にあると言い張って、処分が決まるのを待たずに、そのまま、留置所で自害してしまいました。」
悲しみのうちに、正樹が誰にともなく言い捨てた。
「馬鹿だよ!茂木さんもボンボンも、二人とも簡単に命を捨て過ぎる。あきれるくらいに馬鹿だよ。」
今度はネトイに向かって正樹が言った。
「さっきから涙が止まらないんだ。まったく男のくせしてだらしがないだろう。ネトイ、お前は強いな。」
兄の死を知っても、冷静なネトイが言った。
「正樹、俺は兄貴が連行される前に、部屋に呼ばれてすべてを聞かされていたよ。その時に、こうなることは分かっていた。兄貴も茂木さんのように、とうとうサムライになっちまったな。」
「違う。」
正樹がネトイに向かって怒鳴った。
「茂木さんもボンボンもサムライとは違うぞ。確かにサムライは主君や彼らの理想の為に命を惜しまない。勇敢であっぱれな死に方を美徳とするけれど、主君や理想の為ならば、平気で他の者を傷つけたり、殺したりする。そこが違うんだ!精神の根底にある自己犠牲は共通しているけれど、茂木さんやボンボンは他人を傷つけたりはしなかった。僕は初め、ボンボンが岬の家を守る為に沢田さんを殺したとおもっていた。その事でどんなに多くの子供たちが救われたとしても、人を殺してまで岬の家を存続させる意味はないとおもっていたんだよ。だからボンボンに失望していたんだ。ところが、それは間違いだった。沢田さんの死が事故だと知って、僕はボンボンを疑っていた自分を恥じた。だから、僕は彼に会って謝りたかったんだ。でも、もう、それも出来なくなってしまった。こんなに悲しいことはないよ。」
平然として立っていたネトイがやっと椅子に座って言った。
「あれは事故だったのか。今、正樹はそう言ったよね。では何故、兄貴は俺に事故だと言わなかった。何故、自らの命を犠牲にしたんだ。」
二人の話を黙って聞いていた署長が今度は言った。
「ボンボンさんは頭の良い人でしたね。日本政府や外交省、それに我が国の政府や警察の動きをすべて計算していた。完璧にわしらの動きを読み取っていたんだ。沢田さんの件が事故であろうとなかろうと、ボンボンさんは極刑を免れなかったとわしはおもう。それに岬の子供たちや既に巣立って行った子供たちに彼は自分の死でもってメッセージを示したかったのに違いないとわしはおもうよ。死刑にされるのと自害するのとでは子供たちに与える影響は大違いだからね。」
「でも、署長、ボンボンが死刑になる可能性はそんなに高かったのですか?」
「ああ、残念だが、そうだった。国の面子が絡んでしまったからな。」
「不完全な人間が不完全な人間を裁くなんてまったくナンセンスですよ。僕は医者ですからね。死刑は絶対に反対ですよ。今回の場合は事故だった。よく調べもしないで!それじゃあ、法律も何もないじゃないですか。岬の家の敷地内に不法に侵入したのは沢田さんの方だ。警察は上からの指示があると、簡単に人を逮捕して、死に追いやることが出来るのですか?」
「正樹君、すまん。わしの力が足りなかったのだよ。この通りだ、本当に申し訳ない。」
「正樹、やめろ!もういい!帰ろう。」
正樹はネトイに引っ張られながら、署長室を出た。二人は警察署の正面玄関に待機していたタクシーに乗り込み、ケソン市のアパートへと向かった。タクシーの後部座席に並んで座った二人だったが、お互いの国籍は違っていたけれど、二人は兄弟そのものであった。言葉にしなくても、お互いの気持ちが理解出来るようになっていた。
「ボンボン兄さんは俺に渡辺コーポレーションの副社長の地位を残していってくれたよ。佐藤さんの下で働くことになった。」
「そうか、それは良かったな。渡辺社長と違って、佐藤さんはなかなかの人物だと僕はおもうよ。岬の家は渡辺コーポレーションの下に組み込まれたのだから、今度はネトイ、お前があの家のリーダーだ。ボンボンに代わって岬の家を守っていくということだな。いいか、命はそう簡単には捨ててはならないぞ。お前まで死んでしまったら、僕は独りぼっちになってしまうからな。」
「大丈夫だ、俺は死なないよ。」
揺れる車の中で、正樹はボンボンと初めて会った北海道の中山峠のことを思い出していた。身の丈以上も積もった雪の中山峠の冬景色が昨日のことのように浮かんできた。ボンボンとの出会いがすべての始まりだった。その昔、日本を追われたキリシタン大名の高山右近が病と戦いながら何日も船に揺られて、やっとたどり着いた南の国に自分も今こうして来ている。運命とは不思議である。ボンボンや茂木さん、そしてディーンは自分に彼らの生きざまを鮮やかに示した。彼らの命は実に短かったけれど、激しく燃え上がって尽きた。この世の中には誰一人として良い人間なんていやしない。みんな自分勝手で利己主義で我がまま勝手に生きている。それが本当の人間の姿なのだ。ところが正樹が知り合った、この三人は死ぬ瞬間には完全に人間ではなくなっていた。もし神というものが存在するのであるならば、この三人は限りなく、その神に近づいていたと言える。
車はパコ駅の前を通り過ぎようとしていた。タクシーの運転手が後ろを振り返り、正樹に言った。
「お客さんは日本人かね? ほら、すぐそこに、日本人の銅像が立っていますよ。お侍さんの銅像ですよ。」
「運転手、ちょっと車を止めてくれるか。」
正樹は車から一人で降りて、運転手が言っていた銅像の前へ行ってみた。銅像の下にはこう記されてあった。
「高山右近」
正樹は銅像を見上げて、ぼそっと呟いた
「南の国に来た。右近さんか。」
葬儀
葬儀
岬の豪邸の広い庭には幾つも大きなテントが張られ、建物に収容出来ない子供たちを南国の強い日差しから守っていた。子供たちと言っても、もう立派に成長して、この家を巣立っていった者たちである。ボンボンの訃報をどこからか聞きつけて世界中から集まって来ていた。その数は既に大きく千人を上回っていた。そしてまだ、ボンボンの葬儀に参列しようと、全国から集まり続けていた。ボンボンの棺には5時間ごとにドライアイスが入れられてはいるが、もう遺体の腐敗が始まってきていた。ネトイが医者の正樹に聞いた。
「もう、兄さんは限界ですかね。それに集まってきている者たちも少し苛立ってきているようです。そろそろ葬儀を始めないと暴動にでもなりそうだ。」
「まだ、ボンボンは大丈夫だよ。しかし、これだけ人が集まれば、何か起こっても、ちっとも不思議ではないな。どうだろう、葬儀はあさってにしては、やるやらないは別にして、そう皆に伝えておいた方が無難だろう。まだやって来る人の勢いが止まらないから驚くな。凄い数だよ。まあ、それだけ子供たちがこの家を巣立っていったということなのだから、嬉しいことじゃないか。家族を一緒に連れて来ている者もいるな。ネトイ、お前がボスなんだから、お前が決めろよ。皆もそれぞれ生活もあることだし、これ以上経つと、何だかんだと問題は起きてくるぞ。」
「もうすでに、小さないざこざは起きてしまっているんだ。では、あさってにしましょう。葬儀はあさってということで準備させます。」
「そうだね、それがいいかもしれない。」
二日後、ボンボンの葬儀は朝の涼しいうちに行なわれた。式の後、ボンボンの棺を先頭に教会への長い人の列ができた。そして教会での神父様のお祈りが終わり、今度は丘の上の墓地まで、ボラカイ島の住人も加わり、長い行列ができた。埋葬が済み、警察隊が整列して一斉に空に向かって発砲した。ボンボンの葬儀はその銃声ですべてが終わった。敬礼をしたままの署長にネトイは近づき、丁寧にお礼を言った。
「有り難うございました。素晴らしい葬儀になりました。きっと死んだ兄も喜んでいることとおもいます。」
敬礼していた手をゆっくりと下ろしながら、署長は新しい岬の家の代表者であるネトイに向かって言った。
「お兄様はご立派でした。自分の命を張って、岬の家を守ったのですからな。この集まってきた者たちの顔を見てください。皆、立派になって、マニラの裏道でゴミを拾って生きてきた子供たちですよ。茂木さんやボンボンさんがいなければ、皆、通りで野たれ死んでいたかもしれない。私は彼らと出会えたことを神に感謝していますよ。ネトイさん、今度はあなたが皆を引っ張っていく番だ。いいですか、何かお困りの時は遠慮なく言ってくださいよ。一人で悩まないで、相談してください。それから、あなたの命は、どうか大切にしてくださいよ。」
「有り難うございます。」
「それでは我々は、これでマニラに帰ります。ヘリを呼びましたので、岬の家には寄りません。ではこれで失礼します。さっき言ったことを忘れないでくださいよ。独りで悩まずに何でも相談してください。いいですね!」
「分かりました。いろいろ有り難うございました。」
大きなプロペラ音が幾つも聞こえてきた。ボラカイ島の共同墓地の外の空き地にヘリコプターが5機到着して、警察隊は素早くその中に乗り込み、署長を乗せたヘリから順番に島を離れて行った。それを見ると、集まっていた人々は思い思いに丘の上の墓地から下りて行った。二人の鋭い顔つきの青年だけは帰る気配はなかった。ネトイと早苗、そして正樹の三人だけは最後まで墓地に残った。早苗が二人の鋭い視線に気がついた。
「あの子たちは岬の家の出身者ですか?」
ネトイと正樹が同時に答えた。
「ああ、そうですよ。」
ネトイが早苗に言った。
「あの二人はよく覚えていますよ。いろいろ問題を起こしましたからね。性格も残酷なところがあった。」
今度は正樹が言った。
「確か、ほら、右側のトニーは岬の家に来る前に人を何人か傷つけていると、署長が言っていたのを思い出した。左のダニーはいつもトニーと行動を共にしていたよ。」
早苗が怯えながら言った。
「さっきから、ずっと、あたしたちのことを見ているわよ。目つきが凍っているわよ。気味が悪いわ。」
「でも、根は悪いわけではないんだ。岬の家のことは彼らも感謝しているはずだよ。現にこうして、ボンボンの葬儀にも参列していたしね。」
とうとう、墓地には5人だけが残った。トニーとダニーはあたりを何度も見回しながら、正樹たちのところに近寄って来た。トニーがネトイにボンボンのお悔やみを丁寧に言った。その後、正樹の前に来てこう言った。
「正樹先生、先生にお願いがあります。仲間が病気なんだ。具合があまり良くない。助けてやってはくれませんか。」
正樹は医者だ。正樹は無条件ですぐに答えた。
「それは構わんが、その仲間は今どこにいるのだ?」
「あしらのアジトです。コレヒドール島にいます。」
「あのコレヒドール島か?第二次世界大戦の激戦地だったコレヒドール島か?」
「そうです。」
「何故だ。コレヒドールはマニラ湾の入り口にある島だろうが。島に近いマニラ首都圏には幾らでも医者はいるだろうが、何故、俺に頼むのだ。」
「先生にしか頼めないんだ。」
早苗はその場の雰囲気が異常であることを真っ先に感じていた。トニーとダニーの身体からは正樹に有無を言わさぬ、一種脅迫めいた殺気がみなぎっていた。
ボンボンの葬儀は完全に終わり、共同墓地には墓守以外は誰もいなくなってしまった。しばらく墓の前でトニーたちの話を聞いていたが、早苗が次第に怯えてきてしまったので、
正樹はネトイに早苗のことを頼み、先に帰した。この島で最も安全な場所である岬の家にしばらく彼女を預かってもらうことにした。正樹はトニーとダニーと話をしながら、さっきボンボンの棺が運ばれてきた道を今度は逆に自分の診療所に向かって歩き出した。彼らがどんなグループに加わっているのかは分からなかったが、トニーとダニーがゲリラであることは明白だった。
ルホ山
ルホ山
ボラカイ島の最高峰、マウント・ルホ。 山と言っても、そんなに高い山ではない。トライシクルで15分もあれば、見晴台のある頂上付近にたどり着いてしまう。途中の急勾配では馬力のないトライシクルだと、運転手だけ乗せて、乗客は歩かなくてはならないから、もう少し時間がかかってしまう。そしてルホ山の見晴台からはボラカイ島をぐるりと見渡せる。ホワイトサンド・ビーチは反対側でそこからは見えないが、それでも十分に素晴らしい眺めである。その見晴台は手作りの簡単なやぐらだけれど、そこに立った者は生涯その眺望を忘れることはないだろう。それほど美しい眺めなのである。幾重にも入り組んだ小さな浜の前には美しい海がまるで虹のように幾つもつながって、全体で一つの雄大な景観をつくっている。また首を伸ばしてすぐ下を見下ろせば、底の底まで透き通って見える海が広がっている。まるで空と海の真ん中にいるような、そんな錯覚を起こしてしまう。ルホ山にしばらくいると、誰もが何か得をしたような気分になってくるから不思議だ。観光客にもあまり知られていないこともルホ山を特別なものにしていた。
昼をだいぶ過ぎた頃、トニーとダニーに連れられて正樹はルホ山に来ていた。彼らのこの島のリーダーに会うためだった。自然発火した白い煙が立ち上っているゴミ捨て場を少し過ぎたあたりで、三人はトライシクルを降りた。何の変哲もない、ただブロックを積み上げただけの小さな民家に入ると、一人の老人が簡易ベッドに座っていた。よく日焼けをした、その顔にはシワが深く刻み込まれていた。老人は正樹に言った。
「正樹先生、あなたのことは、あなたがこの島に来た時から、よく知っていますよ。診療所を開いた時には、わしらは革命税を徴収しに行こうとしたんだ。ところが、村の者から反対があった。あんたは診療報酬を貧しい者から取っていないと聞かされてな、おまけに革命税はとってはならないと上からの指示もあった。だから、わしは先生には会いに行かなかったのですよ。」
「革命税ですか、聞いたことがありますね。ゲリラの資金源ですね。弱い者から、払わなければ襲うと脅して、集めるお金のことだ。」
「まあ、いい。少し意味が違うが、そういうことにしておこうか。ここにいるトニーたちはあんたのことを信用しておるようだが、わしは日本人は誰も信用はしないよ。」
正樹は少し怒ったように言った。
「それで、今日は私に何の用があるのでしょうか? トニーの話では誰かを助けて欲しいとのことでしたが。」
「これは失礼した。どうぞ、そこにおかけ下さい。お忙しいところを、わざわざおいでいただいて、まことに恐縮でした。失礼の数々、お許し下さい。」
正樹はこの時、老人の片足がないことに気がついた。
「さきほど、日本人は誰も信用しないとおっしゃいましたが、あの戦争を体験された方なら、そうおもうのは当然だと私もおもいますが、」
老人はしばらく間を置いてから、ゆっくりと話し出した。
「もう、あの戦争のことを語り継ぐことが出来る者は少なくなった。皆、年老いて死んでしまったからな。この島ではしっかりと話せるのはわしだけになってしまったよ。」
「すると、あなたはこの島で、あの大戦を経験されたのですか?」
「いや、わしはバタンガスで生まれてバタンガスで育った。この島へはお前さんが来る少し前に配属になった。」
「配属と言いますと、あなたもトニーたちと同じゲリラの一員なのですね。」
老人はそばにあった杖を引き寄せて立ち上がった。左足は腿の真ん中からなかった。義足はつけていない。ズボンを紐で縛ってちょん切ってあった。老人は立ち上がると窓の外を一度見てから、振り返って正樹に向かって言葉を続けた。
「この足は日本刀で切られたんだ。それもわしの部下にな。部下といっても、彼はまだ15才の少年だった。わしらは太平洋戦争の末期にマニラから敗走して来た日本軍によって捕らえられた。散々拷問を受けたよ。あの時はわしらゲリラの方が優勢だった。日本軍はバタンガス地方で血眼になってゲリラの掃討作戦を繰り返していたが、アメリカ軍も戻って来ていたし、もう日本軍の敗北も時間の問題だった。だけど、そんなことは誰も知らなかった。兎に角、殺すか殺されるかのどちらかだった。明日のことを考える余裕などはなかった。」
「あなたの部下があなたの足を日本刀で切ったと、さっきおっしゃいましたよね。」
「ああ、そう言ったよ。わしの部下だった少年は散々拷問を受けた上に、奴らの日本刀を渡されて、わしの足を切ったら開放してやると言われたんだ。だから、わしも切れと命令した。わしの足を切った後、その少年はつばをかけられ、散々、さげすんだあげくに撃ち殺されてしまったよ。わしはその場にそのまま放置された。仲間がわしを見つけ出してくれてな、わしは助かった。」
正樹は何も言えなかった。片足の老人は話を続けた。
「バタンガス地方では、自分たちの身を守ろうとして、日本軍は無差別に村々を焼き払っては老若男女を問わずに、ゲリラ掃討作戦の名目で村人を皆殺しにしたよ。戦争だからお互いさまなのかもしれないが、バタンガスは地獄だった。」
正樹が口を開いた。
「土足で勝手に他人の家に入って来たような日本軍には何の正当性もありませんよ。すべての責任は日本軍にあります。どんな理由をつけようとも侵略した方が悪い!」
「ほー、正樹先生は本当にそうおもっておられるのか、・・・・・・それは、それは。」
「岬の家の子供たちも、日本人の身勝手な行動から生まれてきた犠牲者ですから、ある意味では、この国では、まだ戦争は続いているのかもしれませんね。でも、私は医者ですからね。この世に生まれてきた者は誰であろうと、選ばれて生まれてきたのだとおもっています。そしてその命を守りつないで行くことに大きな意味があるとおもっています。」
「まあ、確かに、子供は神様からの授かり者だからな、どんな生まれ方をしようと、生まれてくるべきして生まれてきたんだとわしもおもう。さっき先生が言っていたが、岬の子供たちは犠牲者だといったが、それは間違いだな。人にはみんな生まれてきた理由があるんだ。生きる価値が必ずあるものだよ。」
正樹はその通りだとおもった。老人は再び椅子に腰を下ろしてから話を続けた。
「正樹先生よ、わしの命はもう残り少ない。先生にあの時のことを話しておこうか、誰かが語り継がなくてはならないことだから、先生にも聞いてもらおうか。そこにいるトニーたちはもう何百回となく聞かされて、もううんざりしているようだが、このフィリピンはスペインの植民地になり、そしてそれを譲り受けたアメリカが支配者になった。それを日本軍が解放してやったというのは勝手な言い訳だな。スペインもアメリカもわしは嫌いだった。それでもな、日本軍のように徴発と称して食物や物を、あげくのはてには人間までも略奪はしなかった。その点だけは日本軍よりはまだましだったかもしれないな。スペインは教会を造ったり、基礎的な町づくり、海外との交易の道を開いたし、アメリカは学校を建てたり、道路もつくった。自治国として主権をわしらに与えようともしたからな。日本軍が侵略して来た時、わしらゲリラはマッカーサーと手を組んで戦ったよ。マッカーサーがコレヒドール島からさっさと逃げた後も、わしらはわしらの祖国の為に戦い続けた。」
老人はベッドの下から冷えていない缶ビールを二つ取り出し、その一つを正樹に差し出した。正樹にはまだ午後の診察があった。
「私は結構です。まだ診察が残っていますから。」
老人は表情を一つも変えずに、一人で缶ビールの栓を引き抜き、窓のほうへ歩いて行った。正樹が見ていると、老人は缶ビールを持った手を窓の外に突き出し、缶の中のビールを半分位たらたらと捨てた。そして残ったビールの中に自家製の強いココナッツ酒を注ぎこんで、一気に胃袋に注ぎ込んだ。何もビールを捨てることはないだろう、後でまた混ぜて飲めばいいのにと正樹はおもった。老人は二度大きく息を吸ってから、また話し出した。
「バタンガスはひどかったよ。わしらゲリラと日本軍は壮絶な戦いを繰り広げた。あれは地獄だったよ。昔から、バタンガスの者たちは勇敢な民族として国中に知られていたが、それを実証することになった。民族のプライドもあって、決して後には引かなかった。日本軍にしてみれば、まったくの計算違いだったわけだ。だから、奴らも血眼になって向かってきた。ゲリラの襲撃をうけて、日本軍は容疑者を逮捕し、尋問、拷問を繰り返した。お互いの心の中には憎悪の連鎖が生まれてしまった。報復が報復を呼んだ。
そのバタンガス地方にルンバンと言う村がある。わしはそこの生まれだ。日本軍はルンバンの村を占領すると、ゲリラと村人を区別するために通行許可証を発行するとお触れを出した。通行証を手渡すという理由で、すべての村人を小学校の校庭に集めたんだ。なあ、正樹先生よ、そこで何が始まったとおもうね。」
老人はゴクリとアルコールをあおった。正樹はもちろん、何も言えなかった。老人は吐き捨てるように言葉を続けた。
「日本軍はもうその時はゲリラと一般住民との区別がつかなくなっていたから、男も女も、年寄りも子供も、誰であろうと皆殺しにする作戦に切り替えていたんだ。殺すか殺されるかのどちらかだったからな。いいか、先生、日本軍は校庭に集まったルンバンの村人に通行証を渡すからと言って、数人ずつ連れ出して、両手を縛り上げ、後ろから銃剣で突き刺したんだ。そして谷川にどんどん投げ捨てていった。なあ、正樹先生、何で奴らは銃を使わなかったか分かるかね。それは銃声を聞いて校庭で順番を待っている村人が逃げないようにするためだよ。ルンバンの村人のほとんどがその時に命を失ってしまったよ。千五百人以上が虐殺された。わしはその時はこの足を切られて、他の村で治療をしていたから、またしても命拾いをしたわけだ。」
老人は日本軍が先の大戦で犯した犯罪を正樹に伝えようとしていた。正樹も真剣に話を聞いていた。悲しい過去の史実を全身全霊で受け止めようとしていた。老人は強い酒を今度はビールで割らずに飲み干した。少し酔ってしまったのだろうか、また同じことを繰り返し始めた。
「なあ、先生、何で銃を使わずに銃剣で刺し殺していったのか分かるか。そうだよ。村人がその音を聞いて逃げないようにするためだった。あるいは銃弾を使うのがもったいなかったのかもしれないな。日本軍はかなり追い詰められていたからな。戦局は完全にアメリカ優勢に傾いていたから、日本の本土での決戦の為に時間が必要だったのに違いない。フィリピンに送り込まれた日本軍は長期持久作戦、自活自戦、永久抗戦で米軍をこの国に釘付けしようとした。敵ながらあっぱれだったのが、山下大将だったよ。彼はマニラを戦場にすることには反対だったようだが、大本営と海軍と航空隊が承知しなかった。山下将軍は陸軍を連れて命令に反して、北の山に登っていったようだったが、結局、海軍マニラ防衛部隊がマニラに残り、マニラは修羅場と化してしまったよ。十万人以上のマニラ市民が犠牲となってしまった。フィリピン全土では百数十万人以上の一般の人々が犠牲になった、軍人、軍属の数を入れると、その数は相当なものになるな。もちろん、日本人もたくさん死んだよ。沖縄での激戦、広島、長崎の原爆、日本の主要都市への空襲のこともわしは知っているよ。このフィリピンでもコレヒドールの攻防だけでも、アメリカ軍から島を奪う時に日本軍は5千名以上が死んだ。そして島をアメリカ軍によって取り戻された時にも日本軍は降伏することなく玉砕した。その時、集団自決した数が6千人以上と聞いておる。だがな、正樹先生よ、第二次世界大戦では日本人もアメリカ人も、そしてわしらも家族もたくさん死んだがな、決定的な違いがあるんだ。われわれの多くは一般の民衆が犠牲になっているのだ。第一次世界大戦の犠牲者はおもに軍人や軍属だったがな、ところが先の大戦での犠牲者は一般の民衆の方が軍人よりも多く死んでおる。特にアジアでは日本人の犠牲者は軍人や軍属がほとんどだが、侵略されたアジアの国々の犠牲者は、そのほとんどが罪のない一般民衆だったんだよ。分かるかね、そのことが、先生!」
そこで、しばらく沈黙が続いた。老人はもう一杯、強いココナッツ酒を飲み干した。その目は赤く充血しており、瞳は大きく見開かれて、正樹に向けられていた。
「先生。あんたをルホ山の見晴台に案内しようか。きっと、初めてだろう。長いことこの島にいても、なかなか、皆、ここまではやって来ないからな。」
「ルホ山のことは話に聞いてよく知っておりますが、忙しくて、なかなか来る機会はありませんでした。とても素晴らしい眺めだと聞いております。」
「ああ、悲しいほど美しい眺めだよ!」
四人は小屋を出て、砂利道を五分ほど老人の歩調に合わせて歩いた。老人は杖を使って片足だけでも器用に見晴らし台へ続くとおもわれる坂道を登って行った。正樹たちもその後に続いた。ブロックと鉄パイプでこしらえた手作りの見晴台はすぐに現われた。そばに屋根だけの粗末な売店があった。見晴台はどうやら有料のようで、その小屋にいた夫婦者が利用料を徴収しているようであった。もちろん、片足の老人は払わずに、どんどん見晴台の上に上がっていってしまった。猿やら小鳥、犬や猫なども飼われていて、見晴台の使用料が高いために、その動物たちの鑑賞料も含んでいるとでも言いたげであった。売店では動物たちの餌も売られていた。見上げると老人が手を振って正樹に早く登って来いと合図していた。
「先生、こっちだ。早く。今日は晴れていて、素晴らしい眺めだよ。」
不思議である。今、上で手招きをしている老人はさっきまで、あの戦時中の重たい話を正樹にしていた人だとはおもえない。別の無邪気な子供のように正樹にはおもえた。正樹は売店にいる男に利用料を払おうとしたが、トニーとダニーがそれを止めた。必要ないということらしい。きっとゲリラたちの特権なのであろう。大きな台風にはとても耐えられない見晴台だ。登る度にぐらぐらと揺れていた。上まで登って老人の隣に立ち、その大パノラマを見た時、正樹のさっきの謎は解けた。人間の営みなど何もかも忘れてしまうほどの美しい景色がそこには広がっていたからだ。老人が正樹の耳元で言った。
「どうだね、ここからの眺めは?わしの自慢なんだ。」
「素晴らしいですね。まるで空中に浮かんでいるみたいですよ。ここはボラカイ島の裏側ですね。見えませんが向こう側がホワイトサンド・ビーチですね。」
「その通りだ。この雄大な景観の前では、わしらはちっちゃいのう。正樹先生、そうはおもわんかな。」
「ええ、まったく、おっしゃる通りです。」
恩赦
恩赦
ボラカイ島のゲリラのリーダー、自分から名乗りもしなければ、正樹も尋ねもしなかったから、その老人の名前は分からない。彼と正樹はまだルホ山の展望台にいた。
「なあ、先生。このきれいな空を昔は戦闘機が飛び交っていたんだ。第二次世界大戦はとっくの昔に終わってしまったがな、わしらの戦いはまだ続いているんだ。」
正樹はゲリラが何を目的として、何故、現在も戦い続けているのかが、よく理解で出来なかった。ただ、この老人の話すこと、過去に日本軍が犯した過ちはしっかりと心に刻み込まなければならないとおもった。後でこの老人の話が事実かどうか調べて、もしそれが悲しい史実ならば、そのことを一人でも多くの人々に語り継がなくてはならないと考えていた。それはその悲劇をきいてしまった者の責任だとさえおもえた。老人の重い話がまた始まった。
「先生よ、わしの妻も子供たちもすべて、あの時に、日本軍の奴らに刺されてルンバンの川に投げ込まれたんだ。大切な家族を失った悲しみが、切り刻まれるような悲しみが、先生には分かりますかな。」
正樹は何も言えずに、海から吹き上がって来る風に身をなびかせていた。反論などあるはずがなかった。下手な同情も相手には届かないとおもった。しかし、憎悪の連鎖はどこかで誰かが断ち切らなければならないともおもう。そんなことを理由もなく家族を殺された老人に言って何になるのか。深い悲しみの中にいる者には理解出来ることではないだろう。でも正樹は勇気を出して言ってみた。
「キリノ大統領も日本軍によって妻と三人の子供を、それから五人の親族もあの大戦で殺されたと聞きました。そのキリノ大統領は戦争が終わり、フィリピンで戦犯として服役していた日本兵たちに恩赦を出して、日本に送り還したと、以前、聞いたことがあります。私はその恩赦はキリノ大統領やそれを支持した信心深いフィリピンの人々がいかに崇高な考え方を有していたかを知らされたようにおもいます。」
老人は正樹の話を聞いていても、表情一つ変えずに、ただ黙って眼下に広がる海を見つめていた。
第二次世界大戦が終わって、モンテンルパやピリピッド刑務所に日本人の戦犯が約百数名服役していた。そのうちの約五十名が死刑囚だったが、その者たちに恩赦を与えて日本に送り還したキリノ大統領の英断は日本ではあまり知られていない。後に、病気療養中であったキリノ大統領は記者のインタビューに次のように答えている。
「私は妻と子供たちを日本人たちによって殺されました。だから最後の最後まで彼らを許すことは出来ませんでした。しかし、もし、この個人的な怨みをいつまでも持ち続けるならば、私たちの子孫もまた永遠にその怨みを持って生きることになるでしょう。フィリピンと日本は隣国であり、将来、共に手を取り合って歩まなくてはならない関係にあります。両国の為に、ここで、私が私恨を断ち切らなければならないと考えました。」
やっと、老人が口を開いた。
「正樹先生よ、先生はわしにキリノのようになれと言いたいのかね?」
「いえ、そんなつもりで言ったのではありません。ただ、憎しみはまた新たな憎悪を生み出しますし、憎み続けていてはその悲しみをいつまでたっても忘れることは出来ないとおもいます。キリノ大統領の恩赦とそれを支持した当時の崇高なフィリピン国民に私は本当に感謝しているのです。」
片足の老人は見晴台の階段を降り始めた。手摺りにつかまりながら、ピョンピョンと器用に片足で降りて行った。正樹もその後に続いた。老人は振り返りもせずに言った。
「なあ、先生よ。この国はまだ貧しさの中にあるんだ。ほんの一部の者だけしか良い暮らしをしておらん。わしらの戦いはまだ続いているのだよ。」
正樹は老人の言うことも理解出来ないわけではなかった。しかし、武力では何も問題は解決しないと信じていた。老人の話はまた過去にさかのぼってしまった。
「日本軍が侵攻してきた時、アメリカ軍はあっけなく降参し、残されたわしらは散々だった。わしは抗日フク軍団に入り、ゲリラとなって山下将軍が率いる40万の日本軍と戦った。米軍が日本軍を破り、再びこのフィリピンを占領して、フィリピン政府軍を強化させた。わしらフク軍団は武装解除を強いられた。まあ、ソビエトのスターリンも議会制民主主義に路線を変更していたから、わしらも候補者を立てて議会に何名か送り込んだが、いつの間にか議会から追放されてしまった。中国でも毛沢東が革命に勝利して、一旦はわしらも活気付いた。半年もたたないうちに今度はベトナム戦争が起き、わしらはベトナム派兵に反対する闘争をしたよ。この国には4年一期限りという大統領制度があったが、それを破って、マルコスが汚い選挙でアキノに勝利してから政治はマルコスの独裁となってしまった。戒厳令が敷かれ、わしらはイスラム教徒の民族解放戦線との共闘も組んだし、ルソン島だけに留まらずに我々は南下してミンダナオ島にも行ったよ。でも、いつの時代も常に貧困との戦いだった。」
老人は彼の歩んできた戦いの歴史を正樹に語って聞かせている。しかし、正直に言って正樹には共感するところはなかった。そんなことには構わず老人は話を続けた。
「貧困層は拡大するばかりだったよ。本当に貧しい者にはな、先生、銃しかないんだよ。銃を持って戦うしか道はないんだ。他に何も頼るものがないからな。」
四人はさっきの老人のアジトに戻り食事をした。強烈な臭いの干し魚だけの粗末な食事だった。正樹も皆と同じ様に手で干し魚をちぎって、それをご飯に混ぜて食べた。老人はそんな正樹のことをじっと見ていた。
別れ際に、老人は仲間の治療を丁寧に正樹に依頼した。
コレヒドール
コレヒドール
カティクランがボラカイ島へ渡る正面玄関だとすると、カティクランから見て島のちょうど反対側にあるのがプカビーチだ。波の打ち寄せる音以外には何も聞こえない、本当に静寂な浜辺である。時折、島を一周する貸し切りボートが休憩所としてこの浜を利用するくらいで、普段はまったく人影のない美しい砂浜である。ホワイトサンド・ビーチのような雄大さはないが、より繊細で静かな南国の浜辺である。もし浜辺の世界ランキングがあるとするならば、間違いなくこのプカビーチは上位にランキングされることだろう。
ルホ山でこの島のゲリラのリーダーである老人から正樹は彼らの仲間の治療を頼まれた。病人に悪人も聖人もありはしない。病んでいる者を医者は見捨てるわけにはいかなかった。半ば連行される形で正樹は深夜にプカビーチからコレヒドール島へ行くことになった。診療所に一度戻ってから出発ということになり、トニーとダニーと一緒に正樹は診療所に戻った。早苗は岬の家に預けてあるので、まず彼女のために置手紙を書いた。心配することは分かっていたので会わずにでかけることにした。しばらく診療所を留守にするので、仲間の医者と医者の資格をとったばかりのヨシオに診療所のことを任せることにした。トニーとダニーは人目につかないように正樹のことを診療所の外でじっと待っていた。午後の診療をヨシオと手分けして終え、二人きりになると、正樹はヨシオに言った。
「ヨシオ、早苗さんのことを頼んだぞ。しばらくは岬の家においてもらうことにしてある。子供たちの診察に行ったら、必ず、彼女の様子も見てくること、いいな。そして困った様子だったら、おまえ、力を貸してやってくれ。それから、この手紙を彼女に渡してくれ。」
「承知、でも、俺は早苗さんのことより兄貴の方が心配だよ。俺も一緒にコレヒドール島へ連れて行ってはくれませんか。」
「駄目だ!お前は俺に代わってこの診療所を守れ。いいな。患者たちに休日はないのだから、お前までいなくなったら困るだろう。」
診療所の外はもうすっかり暗くなっていた。正樹が大きな診療用のカバンを持って外に出ると、さっと、トニーが近づいて来た。間髪を入れずにダニーがトライシクルを運転してやって来た。よく訓練された動きである。三人は無言で診療所を出発した。三人を乗せたトライシクルは暗闇の中に吸い込まれるようにして消えていった。トライシクルのライトだけが曲がりくねった道を照らし出していた。時折、小動物が道を横切るくらいで、夜のボラカイ島の山道は対向してくるトライシクルもなければ、村人にも会わない。三人は誰にも気づかれずにプカビーチに到着した。もちろん、こんな夜中にプカビーチに人などはいない。昼間でも人気のない浜である。深夜に月の光がなければ真っ暗で一歩も歩けはしないのだから、彼らは他人の目をまったく気にする必要はなかった。その夜も月は出ていなかった。波の音がする方向へ三人はゆっくりと歩いて行った。夜の海は寂しい。打ち寄せる波の音もまた冷たかった。ダニーが懐中電灯を取り出し、海に向かって点滅し始めた。三人は診療所を出てから、まだ言葉を交わしていない。別に話すこともなかった。
静かに黒い影が浜に近づいて来た。大きなゴムボートだった。トニーは無線でそのゴムボートの仲間と何やら連絡をとりあっているようで、正樹の後ろでぼそぼそと話し声がしていた。トニーもダニーもよく訓練された動きである。まったく無駄のない動きをしていた。五分もしないうちに正樹は高速艇の上に乗せられてしまっていた。高速艇はプカビーチ、日本の観光ガイドブックなどにはプカシェル・ビーチとなっていることが多いが、地元の人間はプカビーチと呼ぶ、その砂浜から正樹を乗せた高速艇はまるで飛び魚のようにどんどんと離れて行った。縦揺れの激しい高速艇に慣れていない正樹は10分もしないうちに気持ちが悪くなってきた。目的地はゲリラの秘密基地のあるコレヒドール島だった。
コレヒドール島はマニラ湾の入り口に位置し、スペインの統治時代には灯台と徴税所があった。徴税のコレクターからその名前が由来する。そしてアメリカ統治時代に要塞化された。たくさんの大砲が設置されただけでなく、巨大な兵舎や映画館、ゴルフ場、テニスコートなど兵士の為の様々な娯楽施設も建設された。
太平洋戦争の時、アメリカ兵約1万人とフィリピン人軍属約5千人がこのコレヒドール島に立て籠もって日本軍を迎え撃った。日本軍はコレヒドール島の北側のバターン半島に約100門の大砲を設置し、7千トン以上の砲弾を島に撃ち込んだ。マッカーサーは夜陰に乗じて高速艇数機で島を脱出し、オーストラリアに逃げてしまった。残されたアメリカ軍は日本軍に降参し、両手を挙げてマリンタ・トンネルから出てきた。日本軍はその時フィリピン人軍属のほとんどを解放したらしい。しかし、アメリカ兵の捕虜1万人を移動させるために、バターン半島を1週間飲まず食わずに歩かせて、その半分を殺してしまった。これが世に言う「バターン死の行進」である。その死者の数は確かではない。1万とも10万とも言われている。
戦況は次第にアメリカ軍が優勢となり、日本軍はバラバラになっていった。「アイ・シャル・リターン。また戻って来ます。」の言葉通りに、マッカーサーはフィリピンに戻って来た。今度は約6千人の日本兵が逆にコレヒドール島に立て籠もって、アメリカ軍を迎え撃った。アメリカ軍は8千トンの爆撃を島に浴びせた後、島の中央に奇襲攻撃をかけた。意表を突いて数千名のパラシュート部隊を投下したのだった。日本軍は総崩れとなったが、降伏はせずに、玉砕の道を選んでしまった。島の地下トンネルや物陰でそれぞれが集団で自決して果てた。コレヒドール島の地下にはトンネルが幾つも掘られていて、ゲリラたちがアジトとしてこの島を選ぶのも無理のない話だと正樹はおもった。そのコレヒドール島を目指して高速艇は波の上をかすめ飛ぶように走った。マニラ湾に入るとすぐに、おたまじゃくしの形をしたコレヒドール島が現われた。そばに幾つか小さな島があった。当時はその島々にも砲台はあったそうである。海底のトンネルでコレヒドール島とつながれていたのに違いなかった。現在は要塞コレヒドール島は観光の名所となっており、昼間は観光客で少し賑わうが、夜はホテル付近以外にはまったく人は歩いていない。様々な怨念を持ち続けている霊たちが永眠することなくさ迷い歩く闇の世界だ。その闇の世界に正樹を乗せた高速艇は静かに接岸した。岩肌にはロープを留めるための金具が取り付けてあり、ダニーとトニーはそれに梯子を素早く固定した。トニーが正樹に言った。
「先生、さあ、上がってください。その大きなカバンは私がお持ちしますから、上陸して下さい。先生はこの島は初めてですか?」
「前にも来たことはあるよ。ちゃんと正面からな。日本兵の遺骨を集める手伝いで何度か来たことがある。」
「確かに、この島にはまだ日本兵のしゃれこうべがごろごろ転がっていますよ。僕も見たことがありますよ。」
コレヒドール島に上陸すると、そこはジャングルで、島の裏側にはまともな道などはもちろんなかった。先にダニーが草を掻き分けながら歩いて、正樹のために道をつくった。しばらく頭を下げながら獣道を行くと、パッと視界が開けた。眼下には生暖かい海が広がっており、木々の間から誰かに見られているような、そんな錯覚に落ち込んでしまった。明らかに死者の霊気だ!この島で命を落として、まだ成仏出来ずにいる多くの人々の気配を正樹は感じずにはいられなかった。何とも不思議な空気がどんよりと漂っていた。正樹は少し先に小さな洞窟を見つけた。きっとそこが彼らのアジトの入り口に違いないとおもったが、ダニーの話でそうではないことがすぐに分かった。
「先生、あそこの洞窟にも日本兵の骨が転がっていますぜ。錆びた小銃を囲むように。幾つも、それも輪になるように骨が並んでいますよ。彼らの最後が悲しいほど容易に想像が出来ますぜ。」
正樹はトニーとダニーに言った。
「きっと、そこで日本兵たちは自決したんだろうな。何とも戦争とは悲惨なものだよ。お前たちが、まだ、そんな戦争を続けているのかとおもうと胸が痛むよ。お前たちも俺と同じ日本人の血をひいているんだ。それなのに何故だ。戦争が終わって高度成長を成し遂げた日本では、皆、平和な暮らしをしているというのに、まったくな、日本人の誰がまだ銃を持って戦い続けているお前たちのことが想像出来ようか。確かに、まだ地球上の至る所で争いは起きている。俺は何も日本人だけが平和な暮らしをしなくてはいけないと言っているのではないのだ。いったい、いつになったらこの地球という星に本当の平和がやってくるのだろうな。」
正樹の言葉は実に空しかった。こうして彼らの病にかかった仲間の手当ての為に、太平洋戦争の激戦地コレヒドール島に来ているのだ。まだ戦い続けているゲリラのアジトに向かっているという不思議な現実の前では「平和」なんて言葉は何の意味も持たなかった。」
「医者は俺以外にもたくさんいるだろうが、何故だ、何故、俺を呼んだ。」
「先生は日本人だろう。」
「すると、お前たちの、その仲間というのは日本人なのか?」
「そうさ・・・・・・。」
「しかし、別に日本人だからと言って、日本人の医者が診なくてはならないということもないだろうが、お前たちの仲間ならば、この国の言葉も話せるはずだ。」
「正樹先生、兎に角、ボスに会えば、すべてが分かるさ。先生を特にご指名なんだよ。」
「ボス?・・・・・・ その、病にかかっている仲間というのはお前らゲリラのリーダーなのか?・・・・・・それも日本人のボスとは驚いたな。」
三人は話をしながら、もう少し歩いた。すると海に突き出た崖の上に出た。もちろん眼下にはマニラ湾が広がっている。ダニーがロープを大きな木に回し、二本のロープを使って、後退りするように崖から下りていった。正樹も下を見ないようにして、ダニーと同じようにして下りていった。すると、少し下りたところに小さな割れ目があり、地下通路へと連絡していた。そこは崖の上からでは見ることの出来ない秘密の入り口であった。ダニーはトニーが下りるのを待って、片方のロープを手から離し、残ったもう一方のロープをスルスルと引き寄せた。ロープは木から外れ、崖の上には何も残らなかった。ダニーは引き寄せたロープを自分の背中のナップザックに素早くしまい込んだ。彼らのアジトの入り口は確かに発見しにくい場所にあると正樹は感心した。しかし帰る時はいったいどうやって出るのだろうかと疑問が残った。
不安
不安
岬の豪邸の最上階、二つある大きな書斎の一方を渡辺コーポレーションの佐藤が、そしてもう一方をネトイが使っていた。かつて茂木とボンボンが使っていた部屋だ。
医者になったヨシオと早苗、それにネトイの三人が二週間経っても戻ってこない正樹のことを心配していた。佐藤は本社で大切な会議があるとかで、日本に帰国していて留守だった。早苗が言った。
「どうしよう。署長に言った方がいいかな。」
ネトイは慎重だった。
「ゲリラと聞くと、警察だけでなく軍も動くことになるよ。あのコレヒドール島がまた戦場になってしまうよ。この家を巣立ったダニーとトニーがいるから、きっと、彼らは正樹のことを守ってくれているとはおもうが・・・・・・。」
ヨシオはすぐにでも正樹のことを助け出すことを願っていたから、発言は過激だった。
「このままにしておいてもいいのですか?兄貴は牢獄に閉じ込められているのかもしれない。まったく連絡がないのがその証拠でしょう。すぐにでも島に乗り込んで行って兄貴を助けないと!」
ネトイが言った。
「でも下手にゲリラのことを刺激して、逆に、正樹のことを危険にさらすことにはならないだろうか。そこが心配だよ。」
「何を言っているのですか。もう二週間ですよ。僕はもう気が狂いそうですよ。」
お手伝いのリンダがマンゴージュースを持って部屋に入って来た。正樹のことを死ぬほど心配していたのは、このリンダだったかもしれない。リンダはヨシオの顔を見ながらネトイに向かって言った。
「ネトイ、あたし、コレヒドール島へ行ってきます。」
ヨシオもすぐに反応した。
「俺も一緒に行って来る。もし、それで埒があかないのならば、署長にお願いするしかないでしょう。」
早苗も同感だった。
「あたしも一緒に行くわ!」
ネトイは反対も賛成もしなかったが、冷静に判断しようとしていた。
「しかし、君らがコレヒドール島へ行ったとしても、多分、何もつかめないだろう。相手はゲリラだよ! そう簡単にはいかないよ。」
ヨシオがネトイに食ってかかった。
「じゃあ、どうすればいいんだ!このまま黙っているのか?」
「分からんよ。どうしたらいいのか、自分にも分からん。やはり、署長に相談した方がいいのかもしれないな。ゲリラがプロなら、警察もプロだからね。」
ネトイはボンボンの葬儀の時に、署長が言っていた言葉を思い出していた。
「困ったことがあったら、必ず相談して下さいよ!」
ネトイはしばらく考えてから言った。
「僕、ちょっとマニラへ行ってくるよ。やはり、署長と話をしてくる。」
土曜日のヘリコプターの定期便を待って、ネトイはマニラ東警察の署長に会いに行った。
「署長、兄貴の葬儀の時は本当にありがとうございました。」
「いよー、ネトイ君か。どうだね、岬の家は、うまくいっているかね。わしも時々は、仕事ではなくて、休養にボラカイ島に行こうかとおもっているんだ。その時は頼みますよ。」
「もちろんですとも。署長は岬の家の大切なスタッフの一人ですからね。いや、僕なんかがそんなことを言うのはおかしいですね。署長がいなければ、あの家はなかったのですからね。いつでも大歓迎ですよ。お待ちしていますよ。」
「そうだ、このところ、正樹君からちっとも連絡がこないが、彼は元気にやっているかね?」
「署長、実は、今日来たのは、その正樹のことでやって参りました。岬の家の出身者なんです。その仲間の治療に行ってくると言い残して、もう一ヶ月近くもボラカイ島に戻って来ていません。」
「仲間?」
「ええ、自分がおもうに、あの子たちは岬の家を出た後、ゲリラに加わったようにおもいます。」
「ゲリラ?」
「確信はありませんが、どうもそのような気がしてなりません。ゲリラのアジトに正樹は連れて行かれたのだとおもいます。」
「アジト?」
署長は大きな机に両肘をついて、ネトイの話を聞いていたが、さっと立ち上がると、今度は部屋中を歩き出した。
「それで、そのアジトというのはどこかね?何か正樹君は言っていかなかったかね?」
「署長、正直に申し上げます。私は正樹のことを救い出したいだけです。それでここに来たわけです。もし正樹の身に危険があると分かれば、警察には何も言うことはありません。」
「あー、それは心配するな! 私も正樹君の友人だからな、彼のことを優先して考えるから、余計な心配はしなくてよろしい。それから言っておくが、ゲリラはアジトなどはつくらんよ。奴らはとても用心深くてな、あちらこちらを移動しながら活動するから、一箇所に留まっていることはない。それに第一に、君に奴らのアジトがどこにあるのかなんて明かすわけがないだろう。それほど、奴らは慎重に動いているんだ。」
「そうですか。そうすると彼が言っていたコレヒドールというのは嘘かもしれませんね。」
「コレヒドールとはあのコレヒドール島かね?」
「ええ、確かに、トニーはそう言いました。」
「コレヒドール島は海軍の管轄だよ。海軍の支配下にある島にゲリラのアジトがあるわけないだろう。違うかね!」
「そう言われると、そうですね。では、いったい正樹はどこへ連れて行かれてしまったのでしょうかね。」
ネトイは頭を抱えてしまった。署長は急に口数が少なくなってしまった。机に座ると、積み上げられていた書類に目を通し始めた。その署長の表情を見て、ネトイは何か一抹の不安を感じた。署長は確かに岬の子供たちにはやさしい人だが、やはり警察の人間だ。法律を犯す者や国家権力に逆らう者に対しては非情かもしれない。ネトイはコレヒドール島のことを署長に言ってしまったことを後悔し始めていた。
「まあ、一応、コレヒドール島の責任者にはわしから連絡をしておくよ。でも、あまり期待はするな。あそこにはゲリラのアジトなんかありはしないよ。」
「それはありがとうございます。では、また何か分かりましたら、お力をお貸し下さい。」
「ああ、いつでも結構だから、知らせてくれ。正樹君は自分の息子のような気がしてならないのだよ。」
「署長、ご家族は?」
「わしか、わしは今は独り者だよ。家族はおったことはおったのだが、・・・・・・。まあ、こんな仕事をしていると、いろいろあってな、一人の方が仕事はしやすい。」
「すみません、余計なことをお聞きしました。許して下さい。お忙しそうなので、では、僕はこれで失礼します。」
「わしも心当たりをあたってみるよ。その子供たちはトニーと誰だ?」
「トニーとダニーです。」
「分かった。調べてみるよ。」
「では、これで、失礼します。」
ネトイがいなくなると、署長は静かに受話器を取り上げた。電話の相手は知り合いの海軍将校だった。
幻の野戦病院
幻の野戦病院
そこは病院だった。正樹はコレヒドール島の地下につくられたゲリラたちの秘密の病院にいた。45人の傷ついた兵士たちがトンネルに並べられたベッドの上に男女分け隔てなく寝かされていた。その様子は戦時下の野戦病院さながらの殺伐としたものだった。何故、ゲリラたちがこんなややこしい場所に治療所をこしらえたのかは分からないが、少なくとも戦闘をするような基地、アジトではなかった。トンネルの一番奥まったところに、つい立が置かれ、一人の女性が少し上等のベッドの上に寝かされていた。やせ細ってはいたが、その表情はとても知的で、正樹はどこかで前に会ったような錯覚に陥っていた。でも間違いなく初対面であった。驚いたことに、彼女は正樹と同じ日本人だった。それは枕元に置かれてあった彼女の所持品から判った。小さな桐の箱である。生まれた時に母親とつながっていた「へそ」がその小箱の中には入っている。まったく日本語を話すことが出来なくても、その桐の小箱が彼女のことを日本人であると証明していた。そしてトニーやダニーの態度から彼女が彼らのリーダーであることも容易に分かった。
正樹は彼女に言った。
「何故、この私を指名されたのですか? 医者は他にもたくさんいるのに、どうして私をこの島に連れて来たのですか。」
ベッドに横たわったまま返事は返ってきた。彼女は横を向いて正樹のことをじっと見ながらタガログ語とイルカーノ語、そして英語を使い分けて話し始めた。
「先生はトニーやダニーから尊敬されている。おそらくボラカイ島にいる子供たちは皆、同じだろう。あの家を巣立って行った子供たちもしかり、皆、あなたの言うことなら何でも聞くはずだ。我々は何千、いや何万という彼らの力がほしい。彼らは親から捨てられ、社会からも捨てられた子供たちだ。彼らの心の底にはそれらへの憎しみがあるはずだからね。きっと勇敢なすばらしい兵士になってくれるはずだよ。」
「何を言っているのですか!やめて下さい!あの子供たちを利用することはやめて下さい。あなたはあの子たちに自爆テロでもさせるつもりですか。いい加減にしてください。そんなことは断じてお断りします。」
「予想通りのお答えですね。でも先生は、この国を見て、何ともおもいませんか?ほんの一部の者だけしか良い暮らしはしていません。貧しさの中で皆、喘いでいるのですよ。親戚縁者で小金を持っている者がいれば、まだ幸せですよ。金のある者に媚びへつらって生きていけばいいのですからね。ところが身近に集る者がいなければ、どんな悪条件でも受け入れて、家族を残して海外に出稼ぎに行くことになる。そして海外からの仕送りがこの国の大きな収入源となっている。政府も海外で働いている者たちのことを国家の英雄だと言い切って称えている。先生、この国は本当にこれでいいのですか?お互いが騙しあって生きているのですよ。」
「でも、銃や爆弾などの武力では何も解決しないでしょう。この国が危険で治安が悪いと知れ渡れば、海外からの投資も冷えてしまうでしょう。素晴らしい自然に恵まれた国なのに、観光客も敬遠してしまう。失礼だが、あなたたちゲリラがやっていることは反対ですよ。社会を混乱させるだけで、この国の将来のことをちっとも考えてはいない。ただ子供が駄々をこねているのと同じように私にはおもえる。」
「随分と手厳しいお言葉ですね。先生は自爆テロをどうおもう?」
「自爆テロは自分の命を犠牲にして世界中に彼らの主張を訴えようとしているのでしょう。たくさんの犠牲者がでればでるほど、テレビやマスコミで取り上げられて世界中に配信される。でも、私は罪もない多くの人々を巻き添えにして道連れにすることには反対ですよ。どんなにあなたたちが彼らの死を英雄視しようと、私はまったくけしからん邪悪な死だとしかおもいませんね。どんな理由があろうと他人を傷つけたりすることは絶対に許されないことだとおもいますよ。いいですか、・・・・・・私はあなたたちの手伝いをする気はまったくありませんし、ボラカイ島の岬の家の子供たちをあなたたちの闘争に引きずり込むようなこともしませんよ。もう、あなたと話すことは何もありませんし、医者としてここにいるあなたの仲間を治療する気もなくなりました。この島から出ることを許可していただきたい。」
「それは無理だな。先生は我々のことを知り過ぎてしまったからな。」
そのゲリラの女はトニーとダニーを呼びつけて言った。
「お前たちの家のリーダーは、今、誰だ?」
「ネトイさんです。」
「そのネトイとか言う者をここへ連れて来なさい。この正樹先生の命を餌にすれば、来てくれるだろう。」
「承知しました。」
まあ、考えてみれば、ゲリラが岬の家の子供たちに興味を持つのは無理のない話である。岬の家の子供たちの心の奥には自分を捨てた親や社会に対する憎しみがあるわけで、それをこの女ボスは利用しようと思いついたのであろう。現在、岬の家にいる子供たちとすでに巣立って行った子供たちの数を合わせると、確かに、大きな勢力になることは明らかだ。あの何万人と集まったボンボンの葬儀の時にそれは実証された。そして、岬の家の子供たちは自分の家族や国を守るためには自分の命も惜しまない勇敢な日本武士の血を受け継いでいる者たちである。
「トニー、正樹先生を隣の部屋にご案内しろ。先生は協力してくれないそうだ。後でどうするか、また指示をする。」
「分かりました。」
「最後に先生にもう一つだけ聞きたいことがある。」
そう言うと、ゲリラの女ボスは自分の枕もとにあった桐の小箱を正樹に手渡した。
「先生、そこに何と書かれてありますか。古い漢字なのか、私の辞書の引き方が間違っているのか分かりませんが、わたしにはよく読めないのですよ。」
正樹は小さな桐の小箱を受け取って、裏返してよく見てみた。確かに擦り切れていて、判読が難しかった。それでも消えた文字を想像しながら文字を組み合わせてみると、「真田」という文字が浮かび上がってきた。正樹はすぐに早苗が言っていた茂木さんのお父さんの話を思い出した。
「これはあなたのものですか?」
「ええ、そうです。」
「ここには真田と書かれてあります。失礼ですが、あなたのお母様は今、どちらにいらっしゃいますか?」
「私の両親についてはまったく記憶もなければ、思い出もありません。周りの者はそのことに関しては誰も話してくれませんでしたし、実際、誰も知らなかったようです。ただ、私もあなたたちの岬の家の子供たちと同じ境遇であることは間違いないようだ。日本人の両親に捨てられた哀れな子供というわけです。天涯孤独、家族など一人もいませんよ。」
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
「皆は私のことをジャネットと呼んでいますが、それはきっと誰かが勝手につけた名前でしょう。我々の間ではあまり表立っては名前を呼び合ったりはしませんから、あまり名前は重要ではありません。」
「真田さん、私はあなたの話を聞いたことがあります。あなたは独りぼっちではありませんよ。あなたと血のつながった子供がボラカイ島ですくすくと育っています。」
「さっきから何を言っているのか、私にはさっぱり分かりません。真田?・・・・・・何ですか、それは?」
「あなたのお父様のお名前は真田徳馬とおっしゃいます。日本の外交官でした。残念ながら、もうお亡くなりになりましたが、最後まであなたたちを捜し続けていましたよ。あなたたちと言ったのは、あなたとあなたのお母様のことです。生まれたばかりのあなたと奥様をゲリラに誘拐されて、真田さんは死ぬまであなたたちを捜し続けました。」
「何を言っているのですか。でたらめを言うのは止めて下さい。」
「私の言っていることが信じられないのであれば、自分でそのことを調べたらよろしい。あなたには腹違いの弟がおりました。名前は茂木さんとおっしゃいます。彼が真田の姓を名のれなかったのは、あなたたちが生きていると信じていた真田さんの思いやりでした。そのあなたの弟である茂木さんがあの岬の家の創設者ですよ。茂木さんはあの家を守るために自らの命を犠牲にされた。でも、彼の息子さんがまだ岬の家にはおります。あなたと同じ血を受け継ぐ男の子です。」
「もう先生の作り話は結構ですよ。助かりたいが為にそんな話を思いつくとはたいしたものですな。少し気分が悪くなってきました。しばらく横になります。失礼しますよ。」
ゲリラの女ボス、ジャネットはトニーとダニーに命じて、正樹を隣の部屋に監禁した。トニーとダニーはその後、命令通り、岬の家からネトイを連れてくるために出て行った。正樹は部屋に入り、今さっき、自分の言った言葉を思い返していた。ジャネットにしてみれば、彼女のこれまでの人生をすべて否定するような話を聞かされたことになる。理解するには時間が必要だろう。ゲリラによって自分が誘拐されて、もしかすると母親をゲリラによって殺された可能性もあるのだ。正樹はそんなことを信じたくない彼女の気持ちが痛いほどよく分かった。もう一度、時間をおいて話してみるつもりだった。
しかし、そんな時間はなかった。コレヒドール島は海軍によってすでに包囲されていたのだ。島を離れようと高速艇に乗り込んだダニーとトニーも何の警告もなく、一瞬で吹き飛ばされてしまった。その音はトンネルの中まで響き渡っていた。ゲリラに対して国軍は非情だった。まったく容赦するところがなかった。
しばらくすると、ドアの外でも銃声が聞こえだした。鈍い音が何発も正樹が監禁されている部屋の中にまで響き始めた。正樹は出来るだけドアから離れた。部屋の奥へと移動した。それは冷静な判断だった。1分もしないうちに、物凄い爆音がしてドアは吹き飛ばされた。部屋の隅に居ても強烈な爆風を受けた。と同時に、何人もの兵隊が部屋に雪崩れ込んできた。正樹がじっと彼らを見つめていると、兵士の間からよく見慣れた署長の顔が現われた。
「正樹君、無事だったか。あー、良かった。」
「署長。」
完全武装をした署長の顔はいかにも満足げで、大きな仕事をしたという達成感で満たされていた。しかし、正樹の表情は曇ってしまった。何故なら部屋の外に出てみると、ベッドの上で、すべてのゲリラが射殺されていたからだ。その悲惨な状況を見ていると、まるでこの世の最後のような気持ちになった。署長から大きな声がかかった。
「正樹君、ちょっと、来てくれたまえ。」
正樹は署長の声がする方へ走った。すると、ジャネットがベッドの上に座り、両手を挙げていた。たくさんの銃口に囲まれていた。彼女は正樹のことを睨みつけた。署長が正樹に向かって言った。
「この人は、日本人かね?」
今、ここで彼女がゲリラのボスだと言えば、間違いなく射殺されてしまうだろう。どうやらゲリラに対してはまったく容赦しないのが軍の方針らしかった。この一ヶ月の間、正樹が懸命に治療をしてきたゲリラたちを一瞬で消し去ってしまった軍の次の行動はすぐに分かった。ジャネットはすでに覚悟をしている様子で目をゆっくりと閉じた。正樹はさっき自分のことを粛清すると言ったジャネットのことを迷うことなく救おうとした。
「署長、その人は真田さんのお嬢さんですよ。」
「ええ、あの大使館の真田さんの娘さんかね? それは驚いたな。でも何で、こんなところにいるのだ。」
正樹はもう何も言わなかった。後は署長の判断に任せた。ジャネットの目がゆっくり開けられ、その視線は正樹に向けられていた。署長は兵士たちに奥のトンネルを調べるように命令した。そして署長も彼らについて行ってしまった。正樹とジャネットだけが残された。ジャネットが言った。
「何故です。私はあなたを殺そうとしたのですよ。それに私の正体を知っているのは先生だけだ。今度は口封じに、また、先生を殺そうとするかもしれない。どうしてなのです。何故、私がゲリラのリーダーだと言わないのですか。」
「向こうを見てみなさい。私の患者たちがああして殺されてしまった。こんなに悲しいことはないではありませんか。そして、ジャネット、あなたも私の患者です。」
「でも、このまま私が生き残れば、必ず、私はあなたの命を狙いますよ。」
「私は医者です。命を救うことが私の仕事ですよ。そんなに私のことを殺したければ殺すがいい!私は逃げも隠れもしませんから、勝手にしなさい。人を信じることが出来なくなってしまった者は哀れですね。ジャネット、いや、真田さん、私はあなたを信じていますよ。」
ジャネットはうつむいてしまった。
このゲリラの奇襲作戦は世の中にはもちろん公表されなかった。コレヒドール島の裏山に大きな穴が掘られて、すべてその中に埋められてしまった。極秘のうちに、ゲリラの野戦病院は処理されてしまった。一切、何もなかったことになった。正樹は自分の為に多くの人たちが死んでしまったことに大きなショックを受けた。
ジャネットは署長の配慮でマニラ市内の病院に移された。正樹は助けられたものの、軍や署長のやり方に反感をおぼえて、無言のまま、ボラカイ島にさっさと帰ってしまった。
真田徳馬の娘が発見されたという知らせはすぐに大使館にも伝えられた。現地採用の大使館員や大使館を辞めて日本人学校に移った徳馬の友人たちの間で一斉に驚きの声が上がったが、両国政府はそれぞれの思惑でもって、マスコミには真田徳馬の娘の発見を知らせないという協定を結んでしまった。
「あの子が生きていたとはね、あの時のあの赤ん坊が・・・・・・。よく生きていたよ。徳さん、残念だったね。もう少し早かったら会えたものを、無念だろうね。もし、徳さんが生きていたら、きっと二人で祝杯をあげていたよ。」
そう呟いたのは日本人学校で用務員をしている石原万作だった。石原は日本から派遣されてくる先生たちとは違って、安い給料で雇われた現地採用組だ。以前は大使館でも頼み込んで雑用をしていた。真田徳馬とはその頃からの友人だった。仕事にありつけなかった時には徳馬のドライバーもしたことがある。だから石原万作は茂木の父親である真田徳馬のことをこのマニラでは一番よく知っている人物であった。その石原がジャネットの病室を訪ねたのは彼女が発見されてから三日目のことだった。妻と娘を捜し続けた真田徳馬の記録帳や日記、そしてわずかではあったが彼らが写っている写真を持って病院にやって来た。
ジャネットは病院に移されてから、最初のうちは仲間を皆殺しにした軍への報復をどうしようか、そのことばかりを考えていた。ところが次第に正樹から言われた自分の過去や父親のこと、わずかなぬくもりが残る母親のことや、さらにはボラカイ島にいる自分と血のつながっているという男の子のことをもっと知りたいとおもうようになっていた。
看護婦がジャネットの病室に入って来て言った。
「あなたに面会ですよ。日本人学校に勤めている石原万作という人です。真田徳馬さんの友人だとか言っていますが、どうしますか?」
正樹の話だと真田とか言う人物が自分の父親だそうだ。ジャネットは会ってみることにした。何が真実なのか分からない以上、別に会うことを拒む理由もなかった。
「どうぞ、部屋に通して下さい。」
石原万作は穏やかな人物だ。初対面で彼を嫌う者はまずいない。皆、万作の優しさを肌で感じることが出来る。先に万作から言葉が出た。
「あー、お母様そっくりだ。間違いない。あなたは真田さんのお嬢様ですよ。」
そう言ってから万作は自分が持ってきた写真をジャネットに見せた。
「これは数少ない、真田さん夫婦の写真ですよ。どうぞご覧になって下さい。」
ジャネットはその写真に釘付けになってしまった。万作が続ける。
「この方があなたのお母様です。あなたはお母様にそっくりでしょう。よく似ていらっしゃる。そして、こちらお父様の真田さんです。」
ジャネットは写真の二人の顔をしっかりと見た。正樹の言っていたことは本当だった。ジャネットは枕もとにある桐の小箱を万作に見せた。万作はそれを一目見ただけで大きく何度も頷いた。
「良かった。良かった。間違いないですよ。あなたは徳さんの娘さんだ。徳さんに会わせてあげたかったですよ。徳さんはね、死ぬまであなたたちのことを捜していたのですよ。ところで、あなたのお母様はどうなされましたか?」
「私は両親のことは何も知りませんの。捨て子だったと言い聞かされて育てられましたから、・・・・・・。石原さんでしたよね、私と母は本当にゲリラに誘拐されたのでしょうか。」
「本当ですよ。ゲリラたちはダムの建設を阻止しようとあなたたちを誘拐したけれど、日本政府は一切ゲリラたちとは交渉をしませんでした。地元の警察はしばらく捜査をしていましたが、結局、手がかりは何もつかめませんでした。真田さんは一人になってからも、奥様とあなたが生きていると信じて、国中を歩き回り、あなたたちを捜し続けたのですよ。ところが、少し前に、徳さんは外交省の屋上から飛び降り自殺をしてしまいました。無念だったでしょうね。心中を察すると胸が痛みますよ。」
「自殺ですか。」
「ええ、そう聞いております。」
「何で自殺なんかしたのでしょうか?」
「それが、よく分からないのですよ。ボラカイ島で日本の外交官が殺された直後のことでした。いや、もうちょっと前のことだったかな? その事件と関係があるのかどうかも、私にはよく分かりません。なにしろ、かなり厳しい報道管制が布かれていましたからね。ただ、あのボラカイ島と真田さんが、私には何か関係があるような気がしてなりませんね。」
ジャネットは病室の外で私服の警官が見張っていることを知っていた。だからこの病院に移されてからはゲリラの仲間とは連絡をとりあっていなかった。別に急ぐことはなかった。今は早く病を治すことだけに専念すれば良いのだから。この日本人学校で働いている石原万作の突然の訪問は自分がゲリラであることをカモフラージュするためには実に好都合だった。当然、警察は石原万作のことも調べるだろう。ジャネットが石原万作に質問した。
「もしも、私があなたの言うように真田さんの娘ならば、私の国籍は日本ということになりますよね。大使館の方には、私の出生届は出されているはずだ。ただ、長い間、行方不明だったから、もう死亡扱いになってしまっているかもしれませんがね。」
「大使館には知り合いがたくさんいますから、それは調べてみましょう。」
「もし、わたしの国籍が日本ならば、当然、パスポートも発給されるわけですよね。」
「もちろん、その通りですよ。パスポートが無理でも、何かそれに代わる証明書は発行されるとおもいますよ。」
「そうですか。石原さん、初めて会ったのに、こんなことを言っていいのか、大変申し訳ありませんが、どうか、私の力になって下さい。」
「もちろんですとも、お嬢さんの為なら、この万作、何でもいたしますぜ。」
「ありがとう。」
「しかし、不思議ですね。こうしてお嬢さんが発見されたというのに、まったくニュースにはなりませんね。これだけ大きな話題性のあるニュースなのに、毎日、テレビや新聞を見ているのですが、ちっとも報道されませんよ。また、何か大きな力が働いて、報道機関に圧力がかかっているとしかおもえませんね。」
「そうだとおもいますよ。日本政府もこの国の政府も私の存在はおもしろくないはずですよ。ところで、万作さん、あなたは正樹という医者をご存知ですか?」
「ええ、知っていますよ。ボラカイ島にいる日本人の医者でしょう。結構、有名ですよ。」
「彼がね、私と血のつながった男の子がボラカイ島にいると言っていましたよ。」
「それじゃあ、徳さんの子供が・・・・・・。」
「いや、私の腹違いの弟の子供だそうです。」
「そうですか。」
「石原さん、お願いがあります。私と一緒にボラカイ島へ行ってくれませんか。御礼はいたしますから。」
「お礼なんていりませんよ。徳さんの娘さんの頼みだ。喜んでお供いたしますよ。」
ジャネットは今は独りで動くよりも、この素朴で人の良い万作を傍に置いた方が、当局の調べをかわすことが出来ると考えた。警察の尾行が外れるまで、哀れな真田徳馬の娘に徹することにしたのだった。
沈黙
沈黙
正樹はボラカイ島に無事に生還した。警察のヘリは使わずに、バンカーボートで一人で静かに戻って来た。船から下りた正樹のその表情は悲しみに満ちていた。一言も言わずに診療所の自分の部屋に入ったっきり、何日も外に出ようとはしなかった。診察もヨシオに任せたままで、食事も早苗が部屋まで持っていって無理やり食べさせないと、何も口には入れようとしなかった。ネトイもリンダも皆、コレヒドール島で何があったのかを聞くことも忘れて、正樹のことだけを心配していた。
早苗はかつて女として茂木やボンボンに懐いた感情とは違う、何かもっと別の、どう言うのか、結局は同じなのかもしれないのだが、人間としての自然な感情を正樹に対して持っていることに気づいた。正樹がダニーたちに連れ去られて、ボラカイ島から正樹がいなくなって、その想いは強くなった。正樹の心の中にはまだ死んでしまったディーンへの想いがあることはよく分かっていた。でも、正樹のそばにいたいという気持ちは日増しに強くなっていった。早苗が朝食を終えたばかりの正樹に言った。
「留守の間、ディーンさんのお墓にお花を飾っておきましたよ。」
「ありがとう。」
「ねえ、これから丘の上の墓地まで散歩に行きませんこと。少しは外の空気を吸わないと、身体に悪いわ。」
「ごめん、心配かけて。」
正樹にとっても早苗の存在は大きかった。今の正樹にはボラカイ島の癒しの魔法はまったく効かないようで、考えれば考えるほどすべてが空しく、誰も信用することが出来なくなっていた。早苗のやさしさはそんな正樹のことをそっと支えていた。
「そうだね、少し歩こうか。」
二人は診療室にいるヨシオに一声かけて外に出た。真っ青な空が眩しかったが、でも、それほど暑くはなかった。風があったからだ。市場でいつものようにサンパギータの花飾りを買い、ゆっくりと町を抜けて山道に入った。正樹の手は極自然に早苗の手を握っていた。二人は手をつなぎながら出来るだけゆっくり歩いた。
「いつか、君が言っていた真田さんのお嬢さんに会ったよ。ジャネットと呼ばれているようだったが、彼女はゲリラに誘拐された真田徳馬さんの娘さんに間違いない。」
「そうだったの。そうすると彼女はお母様は違っても、亡くなった茂木さんのお姉さまということになりますわね。」
「そうだね。でも、彼女はゲリラだったよ。それも、かなり位の高い指導的な立場にある
ゲリラのリーダーだった。」
「でも、それはたやすく想像が出来るわ。赤ん坊の時から、ゲリラによって育てられたのですからね。」
「その通りだよ。皮肉なものだよね。ジャネットは両親から自分を奪い取ったゲリラの為に生きている。母親は彼らによって殺された可能性もあるのに、そのゲリラのリーダーとなって戦っているんだ。僕ら日本人にはとても踏み入ることの出来ない世界だよ。その裏の世界を僕は見てしまったんだ。ジャネットは岬の家の子供たちを彼らの闘争に引きずりこもうとしていたよ。ほら、ダニーとトニーのようにね。本当に岬の家のことをおもったら、僕はあの時、彼女を殺すべきだったのかもしれないね。」
「殺す? まあ、恐い!」
「うん、署長が僕を助けに来てくれた時に、彼女がゲリラのボスだと告げれば、他のゲリラと同様に、その場でジャネットは射殺されていただろう。岬の家の子供たちの為には、その方が良かったのかもしれない。」
「でも出来なかった。そうでしょう。」
「ああ、出来なかった。それどころか、丁寧に彼女が真田さんの娘であることを署長に告げてしまったよ。だから、海軍がジャネットを保護して、マニラの病院へ移した。」
「きっと、正樹さんの気持ちはジャネットに通じたとおもうわ。」
「彼女は何故だと不思議がっていたよ。もし、自分を生かせば、また僕を殺すだろうとまで言いやがった。自分の素性を明かされないようにするためにね。」
早苗の手が強く正樹の手を握った。次の瞬間、早苗は正樹の前に回りこんで、じっと目を見ながら言った。
「しばらく、この国から離れましょう。危険が通り過ぎてくれるまで。」
「そうだね。僕もそのことを考えていたんだ。」
「あたしね、正樹さんに是非、見せたいお庭がありますの、付き合ってくださいますか。」
「もちろんですよ。お庭か、いいですね。行きましょう。それから、今日、僕が言ったことは聞かなかったことにしてくださいね。ジャネットがゲリラのリーダーだってこと。いいですね。そのことを知っているのは僕一人ということにしておいて下さい。おそらく、ジャネットはその秘密を知った者の命を狙うでしょうから。」
「分かりました。誰にも言いません。」
共同墓地に着いた二人は手分けして、茂木さん、ボンボン、そしてディーンのお墓を掃除した。茂木さんの墓には真田徳馬も入っている。それを見ながら正樹が言った。
「きっと、ジャネットはこの墓にやって来るよ。」
「そうね、お父様のお墓ですものね。」
その正樹の予感は現実のものとなった。正樹と早苗が日本へしばらく帰ることになって、その準備をしている時に、リンダが診療所を訪ねて来た。
「ジャン、岬の家にお客様が来ました。それも凄いお客様よ。誰だとおもう?」
正樹はジャネットが来たことを確信した。しかし、何も言わなかった。
「分からないな。誰かな?」
「茂木さんのお姉さまよ。もう、みんな、びっくりよ。」
「そう、茂木さんのお姉さんがね。」
「何だ、正樹はあんまり驚かないのね。あたし、もっと飛び上がってびっくりするのかとおもっていたのに、何だか気が抜けちゃったな。」
横で聞いていた早苗が正樹に言った。
「どうしましょう。明日の日本への飛行機の予約はキャンセルしましょうか? 」
正樹は様々なことを瞬間に考えていた。ジャネットの目的は明らかだった。岬の家に入り込んでネトイや子供をゆっくりと洗脳する気だ。もしかするとボンボンがネトイに残していったお金のことも知っているのかもしれない。あるいは渡辺電設にも入り込むつもりなのかもしれない。どうしたらよいのだ。正樹には分からなかった。早く署長に言わなければ、もし、自分が口封じの為に消されたら、それで最後ではないか。しかしジャネットにはあのあたたかい茂木さんと同じ血が流れているはずだ。このボラカイ島の魔法が彼女のことを変えてくれるかもしれない。そのわずかな望みを捨てて、署長に連絡して彼女を有無を言わさず抹殺することが岬の家の為なのだろうか。答えは出なかった。
「早苗ちゃん、明日の日本行きは止めにします。これから署長宛に手紙を書くから、それを魚屋の千代ちゃんのところに持って行って下さい。そして絶対にその手紙を開封しないように注意して下さい。もしも私が行方不明になったり、あるいは死んでしまったら、その手紙を署長に渡すようにお願いして下さい。」
「分かったわ。そうする。」
「いいかい、もう既にこの診療所の外にはゲリラの仲間が見張っていると考えた方がいい。慎重に動かないと千代ちゃんやハイドリッチたちも危険にさらすことになる。わかったね。」
「じゃあ、千代ちゃんではなくて、あたしがその手紙を署長に届けるわよ。」
「いや、君はもう、僕と同じだよ。ジャネットは僕から君はすべてを聞いたとおもっているからね。早苗ちゃんはもう危険にさらされている。だから、君は明日、日本に帰りなさい。そして僕が消された時には署長にすべてを話して下さい。いいですね。」
「嫌です。あたしは日本には帰りません。ここに残ります。」
「それは駄目だって、今ここで、僕らが二人ともいなくなったら、誰が岬の家を救うのですか? 君は明日のフライトで日本に帰りなさい。」
「でも・・・・・・。」
「駄目だ! 君は帰りなさい。いいね!」
翌日、早苗は日本へ帰った。岬の家の子供たちの往診はヨシオに任せて、正樹は岬の家には行かなかった。それは自分の身が大事だったからではない。ネトイや他のスタッフと話をしているところをジャネットに見られて、彼らに危険が及ぶのを恐れたからだ。ヨシオの話によると、ジャネットは茂木さんの姉ということもあって、最高の歓迎でもって岬の家に受け入れられたそうで、ジャネットと一緒にやって来た二人の男たちも岬の家のスタッフになったそうだ。そのうちの一人は片足がない老人で、以前からボラカイ島に住んでいたジャネットの知り合いだそうだ。住み込みで庭の手入れを担当することになったらしい。もう一人の連れは日本人学校で雑用をしていたらしいのだが、学校は辞めて、ジャネットと共にボラカイ島に移って来た独り者である。とても温和な気質の持ち主で、彼はすぐに岬の子供たちの人気者になったそうだ。
正樹の恐れていたことが現実のものとなってしまった。ゲリラたちは着実に岬の家に根を張り出した。どうしたらいいのだ。やはり、署長に相談した方がいいのだろうか。正樹は迷っていた。
リンダが久しぶりに診療所にやって来た。
「何で、ちっとも来ないのよ! ヨシオに任すのも結構ですけれど、時々は岬の家にも顔を出してよ!」
「ごめん、忙しくてね。どうだい、みんな元気にしているかい? 」
「ええ、みんな元気よ。新しく来た、ジャネットさんも万作さんも、それから片足のおじいちゃんもみんな良い人たちよ。あの人たちが来てから、岬の家はすっかり明るくなったわよ。」
正樹はまずいなとおもった。リンダもすっかりジャネットに騙されてしまっている。
「ジャネットさんが言っていたけれど、パラワン島にはこのボラカイの海より、もっときれいなところがあるんだって、正樹、それ本当なの?このボラカイ島よりも、もっときれいなところがあるなんて、あたしには信じられないわよ。」
「ああ、聞いたことがあるよ。でも、そこは誰でもが行けるという場所じゃない。極限られたお金持ちだけのパラダイスだよ。このボラカイ島とはそこが違うところだ。ボラカイ島はいつでも誰でも、万民をあたたかく迎えてくれる島だよ。」
「そうなんだ。あ、そうだ。庭になっていたマンゴーをもってきたわよ。キッチンに置いてあるから食べてね。」
「ありがとう。」
「じゃあ、あたし、市場に行くから、これでね。ちゃんと食べてね。」
「分かった。千代ちゃんによろしく。」
「なあに、近くの市場にも行ってないの? あきれた。」
「ああ、忙しくてね。」
「でも、お墓参りはするんでしょう。」
「いや、しばらく行ってないよ。」
リンダは首を傾げながら診療所から出て行った。
その夜、誰もが寝静まった頃、正樹の診療所に訪問客があった。あの片足の老人だった。
「先生、ボスがお待ちです。ルホ山のあっしの家まで一緒に来てくれませんか。」
「ジャネットか、彼女だね。分かった、いま出かける準備をするから待っていてくれ。」
正樹は素早くヨシオにメモを残した。それはかねてから打ち合わせてあった暗号のようなメモだった。ヨシオ以外には判読が出来ない走り書きだった。
真っ暗な山道を二人で歩いた。正樹が前を歩かされ、老人は正樹の二三歩後を汗をかきながらついてきた。何故、トライシクルを使わないのか不思議だった。でもその理由はすぐに分かった。民家のまったくないところまで来ると、老人は正樹の背中に向かって深く沈んだ声で言った。
「先生、わしのことを悪くおもわんでくれ。ボスの命令なんだ。」
正樹は振り返りもせずに言った。
「ジャネットの命令なんだね。」
「そうです。あっしは先生が好きだが、命令は絶対なんでな、怨まんでくれ。」
正樹はすでに覚悟を決めていた。ただ、その場にじっと立ち尽くしていた。片足の老人は小銃を懐から取り出し、その銃口を正樹の背中に向けていた。ボラカイ島の空にはきれいな月が輝いていた。あたりはシーンと静まり返り、次の瞬間、一発の「バ~ン」という銃声が響き渡った。
一発の銃弾
一発の銃弾
プロローグをお読みになった賢明な読者諸君には分かっていたことだが、撃たれたのは正樹ではなかった。暗闇から発射された一発の銃弾は片足の老人の右胸を貫通した。老人が右手に持っていた拳銃はあっけなく地面に落ちてしまった。正樹はその拳銃を素早く拾い上げて自分のポケットに入れた。次に自分のことを撃とうとした、そのゲリラの老人を抱えあげて歩き出した。一心不乱に診療所に向かって山道を下って行った。老人の意識はまだしっかりしていた。
「何故だ。わしはあんたを殺そうとした人間だぞ。どうして助けようとするんだ。」
「私は医者だよ。目の前に倒れている人がいれば、誰であろうと助けるのが、わたしの仕事だよ。」
老人の目からは涙が零れていた。老人は自分を撃ったのが、誰であるのかを知っていたが、そのことを正樹にしゃべることはなかった。正樹もこの老人を消そうとした人物はもう分かっていた。老人は自分の死が近づいていることを悟った。
「先生、ジャネットの母親はまだ生きておるよ。わしが生まれたバタンガスのルンバンの村で生きておる。ただ頭をやられてしまっていて、自分が誰なのかも分からない状態だ。」
「あの日本軍による虐殺があった村ですね。」
「ああ、そうだ。ジャネットはそのことを知らないんだ。」
老人は苦しそうに正樹に何十年も前のことを語り始めた。
「まだ、わしも若かったよ。この足を切られ、妻も子供も日本兵に殺されて、誰よりも日本人を憎んでいた。あの時は、わしはルソン島北部のバナウエというところにいた。ライス・テラスで有名な村だよ。わしは当時のわしらのリーダーに呼ばれて、日本政府は交渉を打ち切ったから、誘拐してきた日本人の親子を処分しろと命令された。日本大使館の真田徳馬の奥さんと生まれたばかりの赤ん坊の処理をまかされた。その赤ん坊がジャネットだよ。わしはルンバンの村に連れて行って、自分の妻や子供が殺されたように、二人を銃剣で刺してルンバンの川に投げ捨てるつもりだった。でも、結局、出来なかったよ。それからわしはジャネットをわしの娘として育てた。母親は気が狂ってしまってな、まあ、その方が彼女にとっては良かったのかもしれないが、神様はまだ彼女に天国の門を開いてはいないよ。どうやら、わしの方が先に地獄へ行くことになったみたいだな。」
傷口の出血がひどく、何度も地面に下ろして止血の応急処置をした。そしてまた抱え上げては診療所へ急いだ。その繰り返しをしていると、やっと、遠くからトライシクルのヘッドライトが近づいて来た。正樹は道の中央に出て大きく手を振った。トライシクルには家族連れが乗っていたが、理由を話し、トライシクルを譲ってもらった。老人の衰弱は激しく、診療所に到着した時にはもう意識は完全になかった。ヨシオと二人で懸命に片足の老人の命を救おうとしたが、深夜遅くに、老人は呼吸をするのを止めてしまった。
夜が明けてから、朝一番で島の警察に殺人事件があったことを知らせた。昨夜、何者かに暗闇で撃たれたことだけを正樹は警察に報告した。自分が狙われたことや、この事件に岬の家にいるジャネットが絡んでいることは明白だったが、正樹はそのことは一切警察には言わなかった。取調べが済んで診療所に戻った正樹はポケットから片足の老人が持っていた拳銃を取り出し、自分の机の引き出しの奥の方にそれを隠した。やはり、それを警察に届けることは出来なかった。後で誰にも気づかれないように処分するつもりだった。しっかりと引き出しのカギを閉め、正樹はベッドに横になった。一睡もしていなかった正樹はすぐに深い眠りに落ちてしまった。
何時間眠ったのだろうか、ヨシオが診療所に来てから正樹はこうして長い睡眠をとることが出来るようになった。今や、診療所はヨシオが中心になって運営されていたからだ。正樹はベッドに横になったまま天井を見つめながら色々なことを考えていた。ジャネットは一筋縄ではいく相手ではなかった。うまい解決策があるのかといえば、皆無に等しかった。しかし、これからもずっと、この小さな島で逃げ回っていても仕方がなかった。彼女と会って話をしなくてはならないと正樹はおもった。彼女が片足の老人を撃ったのかどうかはまだ分からないが、あの時、確かに、誰かがあの老人を撃たなければ自分はもうこの世には存在していないのだから、そうおもうと、岬の家に行ってジャネットとちゃんと向かい合って、彼女の真意がどこにあるのかをしっかりと見極めなければならなかった。片足の老人が言い残していった、彼女の母親のこともあるので、正樹は重い腰を上げて、岬の家に行くことを決心した。午後の岬の家の往診に久しぶりに正樹が行くことになり、その準備をしていると、島の警官が一人、診療所にやって来て言った。
「あ、先生。あの片足の男ですけれど、どうやらゲリラと関係がありそうなのです。それでマニラから専門の捜査官が来ることになりましてね。捜査が混乱しないように、誰にもあの男のことは口外しないようにと上からの命令がありました。どうか、ひとつお願いします。あの男が死んだことを知っているのは正樹先生とヨシオ先生だけですよね。」
「ええ、僕ら二人だけですよ。」
「それは良かった。どうか、もう誰にも言わないようにして下さい。」
「分かりました。ヨシオにも僕の方からよく言っておきましょう。ご苦労様でした。」
用件だけ済ますと警官はさっさと帰って行ってしまった。
正樹はいつものように白くて長い浜を歩き、岬の豪邸に着いた。階段を登って邸内に入った。ディーンとの思い出がいっぱい詰まったテラスに立ち、しばし浜を見下ろしていた。懐かしい思い出が走馬灯のように流れていった。午後になるとこのあたりは風が強くなるようで、天然のエアコンといったところだろうか、まさに絶妙な場所に豪邸を建てたものだといつも正樹は感心させられていた。突然、正樹の後ろから声がした。すぐにその声の主がジャネットであることが分かった。
「正樹先生、お久しぶりです。あなたにはお礼を言わなくてはなりませんね。私がゲリラだということを先生は誰にも言っていないようだ。」
「ええ、誰にも言っていませんよ。」
「すると、この島でそのことを知っているのは私たち二人だけになってしまったということですね。」
その言葉で正樹はジャネットが片足の老人を撃ったと確信した。あの老人の死を知っているのは島の警察と犯人だけだからである。正樹は怯まずに言った。
「私もあなたにお礼を言わなくてはならないようだ。命を救ってもらったお礼をしなくてはなりませんね。」
ジャネットは答える代わりにまつげを伏せた。確かにあの時、誰かがあの老人を撃たなければ自分は死んでいたのだ。それは紛れもない事実なのだが、一人の人間が命を失ったのである。正樹は平然としてはいられなかった。でも、その心をすべて伏せて言った。
「どうです、ボラカイ島はすばらしいところでしょう。この雄大な景色を見ていると今まであなたが歩んできた道が馬鹿らしくなってはきませんか?」
「確かに、先生のおっしゃる通りだ。この家に来て良かったとおもっていますよ。私の弟がここを造ったとおもうだけで、それだけで心が温かくなります。子供たちも一生懸命に自分に与えられた定めと、逃げずに向かい合って生きている。ここに来てまだわずかですが、すでに色々なことを学んだような気がしますよ。」
ジャネットは深い溜め息をついてから続けた。
「正樹先生、私はもう戦うのが疲れましたよ。私のこれまでは、まさに坂道を転がり落ちる小石のようなものだった。自分の意思では止めることが出来なかったのですよ。邪悪なものを断ち切ることも出来なかった。それで、昨夜、区切りをつけたんです。」
正樹はジャネットが本気でそう言っているのかどうかを確かめたかった。
「ジャネット、あなたのおかあさんは生きているそうですよ。」
ジャネットはテラスの手摺りから離れて、大理石でできた椅子の上に座り込んでしまった。頬に手をあてて、自分がどういう表情をしたらいいのか迷っているようだった。
「誰からそれを聞いたのですか?あいつですか?」
正樹は答えなかった。ジャネットが続ける。
「あいつは私の父親代わりだった。でも、先生がね、私がゲリラであることを知っていると聞いた途端、あいつはその秘密を守るために、先生を抹殺すると言い出した。私を守ろうとしたのですよ。正直に言いますと、私のことを本当に愛してくれたのはあいつだけだったかもしれない。おそらく、あいつは私と私の母の命を救ってくれたのでしょう。だけど、いっその事、殺してくれれば良かったのですよ。私をゲリラとして育てあげることで、あいつが憎んでいた者たちへの復讐をしていたんだ。そんな不条理なことがありますか?」
しばらく涙を流してから、真っ赤な目で正樹のことを見ながら、ジャネットが続けた。
「何と、不思議な島なのでしょうか。このボラカイ島は! すべてが変わってしまいましたよ。何もかも変わってしまった。これまで歩んできた私の人生そのものが、まるでシャボン玉のようにはじけて消えてしまった。これまでの戦いは、いったい何だったのでしょうか。」
「確かに、このボラカイ島は不思議な島ですよ。僕もここに来て、たくさんの奇跡を目にしてきましたよ。そして今、また、新たな奇跡を見たような気がします。あなたと血を分けた家族もこの島ですくすくと育っていた。そうでしょう?」
「ええ、とてもかわいい子ですよ。私のことをティタ(おば)と呼んでくれて、私の弟の子供なんですよね。本当に可愛い!あの子の為なら、ちっともこの命惜しくはありませんよ。私にも家族がいたのですよ。先生、それだけで私にとっては奇跡なんですよ。分かりますか?」
「よく分かりますよ。」
正樹は眼下に広がる大海原を見渡しながら言った。
「あなたのお母様をこのボラカイ島に連れて来なければいけませんね。ご病気のようですから、誰かがお世話をしなくてはいけない。この島ならば安心して暮らせるはずですよ。違いますか? もっとも、それはあなた次第ですがね。この平和な島を戦場に変えるつもりならば話は別だ。ここの子供たちを戦いに送り出すのがあなたの本当の目的だとしたら、何もしないほうが良い。お母様は今のままの方が幸せですからね。」
「先生、昨夜、あの暗闇の中で私の気持ちは決まりましたよ。もう、私の戦いは終わったのです。」
三日後、ジャネットと正樹はバタンガスのルンバンの村にジャネットの母親を迎えに行った。彼女の若い頃を知る石原万作も二人に同行した。
ジャネットの母親を捜すことはそれほど難しいことではなかった。村に向かうジプニーの中でそのことが分かった。一緒に同乗していた村人の口からはこんな言葉が返ってきたからだ。
「ああ、その人なら誰でも知っていますよ。教会へ行くといいですよ。夜になると、誰かが彼女を教会に連れていきますからね。かわいそうに、彼女は朝から晩まで、こうやって顎を突き出しながら、ブツブツ言って村中を歩き回っているんですよ。よほど悲しいことがあったんだろうね。頭が変になっちまったようだ。教会の神父様が彼女の面倒を見ていらっしゃる。」
人当たりの良い石原万作が村人に訊ねた。
「その人は何と言いながら、村中を徘徊しているのですか。」
「わしらには何と言っているのかさっぱり分かりませんや。あっしにはナオとしか聞こえませんがね。顎をこうやって突き出しながら、一日中、ブツブツ言いながら歩き回っているんですよ。顔の表情はいつもニコニコしていて、とてもやさしい目つきをしていますがね、その姿を見ていると、何とも気の毒になってきましてね、おもわず、もらい泣きすることもありますよ。」
万作が静かに言った。
「ジャネット、あなたのお母さんに間違いありませんよ。ナオと言うのは、あなたの名前が直子だからですよ。」
正樹が万作に聞いた。
「よく、そんな昔のこと、赤ん坊の名前を覚えていましたね。」
万作がやわらかく答えた。
「いえ、昔のことではありませんよ。徳さんは亡くなるまで、二人のことを捜し続けていましたからね。直子が、直子がといつも私に言っていましたからね。しかし、ゲリラたちはまったくひどいことをしたものですよ。幸せな家族をばらばらにしただけでなく、徳さんの奥さんを・・・・・・こんなにも苦しめて、きっと、あまりの悲しみに精神がついていかなかったのでしょうね。でも、今でも自分の娘を捜し続けているのですよ。」
ジャネットと正樹は石原万作の前ではゲリラの話は一切しなかった。正樹はジャネットに言った。
「教会に行って、まず、神父様と話をしましょうか。それからでないと、お母様をボラカイ島へお連れするわけにはいかないようだ。」
万作が二人の五六歩先を歩いていた。ジャネットが正樹に小さな声で言った。
「母は頭を病んでいたのですか。そのことをご存知でしたか。」
「ええ、知っていました。かえって、その方が良かったのだとあの人は言っていましたよ。」
「あいつが、そんなことを、何て奴だ!」
「でも、お二人を殺すように命令されて、それが出来なかった。赤ん坊だったあなたを男手一つで育て上げたのも、あの爺さんですよ。」
ジャネットは黙っていた。
教会に着くと、いかにも暇そうな神父さまは話し相手ができたとばかりに大歓迎してくれた。こういった時の石原万作のふるまい方は実にうまかった。五分と経たないうちに、神父様と打ち解けて話を始めていた。三人が日本人だと知ると神父様はこう言った。
「あなたたちはこの村がどんな村なのかをご存知かな?」
正樹が答えた。
「はい、片足の老人からそれは聞かされています。」
「ほう、あの老人をご存知だったのですね。彼は元気でやっていますか?」
何も知らない石原万作が言った。
「ええ、元気でやっていますよ。」
「それはなによりです。時々、村にやって来ては、そのご婦人の為にと小銭を置いていかれます。彼も日本人によって片足を失った者なのに、日本人を恨んではいないようだ。すばらしいことです。この村の人たちも皆、今では彼女を暗くなるとここに連れて来てくれるようになった。初めの頃、彼女はよく血を流していましたが、今では、もう、そんなこともなくなった。ありがたいことですよ。これも神様のお導きです。 ここは戦時中、日本軍によって村人のほとんどが虐殺された村なんですよ。校庭に集められた村人たちは、通行証を渡すからと言われて順番に連れ出され、目隠しをされ、手も縛りあげられた後、殺されていった。校庭で順番を待っている人々に聞こえないように銃ではなくて、銃剣で後ろから刺して谷底にどんどん投げ捨てていったんです。」
石原万作が深々と頭を下げて言った。
「それは知らなかった。そんなことがあったのですか。何と申し上げたらよいのか、返す言葉もありません。その史実はあまり日本人の間では知られていませんね。もっと多くの日本人が知らなければならないことだと私はおもいますよ。」
神父様が言った。
「あなたのお名前は?」
「私は石原万作といいます。」
「万作さんですね。あなたはやさしいお人ですよ。神のご加護がどうぞありますように。」
万作が何度も頭を下げながら言った。
「ありがとうございます。実は、彼女はこの子の母親なのです。この子が生まれて間もない頃、誘拐事件が起こりました。ゲリラたちは大使館員の妻子を交渉の道具として誘拐したのですが、その目論見は失敗しました。」
ルンバンの村で生まれ育った、まだ若い神父様はすべてが分かったかのように言った。
「そうでしたか。子供を、それもまだ小さい赤子を奪い盗られた。そのショックは大きかったでしょう。かわいそうに、苦しかったとおもいますよ。しかも異国の地で家族をバラバラにされた悲しみは相当なものだったでしょう。時として、人はあまりのショックから身を守るために思考する回路を停止してしまうことがあります。彼女の場合も悲しみのあまり、考えることを停止してしまっているようだ。彼女はああやって毎日、自分の娘を捜し歩いているのですよ。彼女の時間は止まってしまっていますけれどね。そうですか、あなたが彼女の探し続けてきた娘さんですか。どうぞ、彼女に会ってやって下さい。でも、いいですか、気を落とさないように、心を強く持ってお会いなさい。」
ジャネットはもう目が真っ赤だった。
村人が言っていたように、日が暮れかかってきた夕刻、三人の子供たちがジャネットの母親の手を引いて教会に現われた。神父様がジャネットに向かって言った。
「もう、村人の心の中から、すっかり日本人に対する憎しみは消えてしまっています。以前はよく血を流してお母様は道端に倒れていましたが、今では、ああやって、村人たちはあたたかく彼女のことを見守ってくれています。」
ジャネットの目からは大粒の涙が恥じらいもなく流れ出していた。教会の礼拝堂の一番後ろの席に子供たちはジャネットの母親を座らせると、さっさと帰って行ってしまった。ジャネットはまだブツブツ言い続けている母親に近づき、そっとやさしく抱きしめて言った。
「おかあさん、直子ですよ。 もう、捜さなくていいのよ。直子はここにいますから。」
その様子を離れてみていた正樹が神父様に言った。
「私はボラカイ島で診療所をやっている者ですが、彼女のことを任せてもらえませんか。医者の私がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、あの島には不思議なパワーがあるのですよ。彼女たちを探し続けたご主人のお墓もございますし、島でしばらく様子を見たいのですが、許してもらえないでしょうか。」
「許すもなにもありませんよ。ごらんなさい、あの二人を! あんなに幸せそうな表情をしたのは初めてですよ。きっと自分の娘に抱かれていることが分かるのですよ。良かった。本当に良かった。私も彼女が回復すると信じていますよ。離れ離れになってしまった親子がやっと会うことが出来たのですからね。喜んで彼女のことを先生にお任せしますよ。」
「ありがとうございます。」
石原万作も感動のあまり、年甲斐もなく涙を流していた。教会の長椅子に身を隠すようにして、その涙を拭っていた。
正樹は教会の電話を借りて、マニラ東警察署の署長に真田徳馬の奥さんが見つかったことを告げた。真田徳馬が死ぬ前に何度も一緒に妻子の捜索をした署長の喜びは大きなものだった。正樹はマスコミには知らせないように、付け加えて署長にお願いをした。
「それは了解した。誰にも言わないことにする。正樹君、それで今、どこにいるんだい?」
「バタンガスのルンバンと言う村です。教会からこの電話をしております。」
「よし、分かった。これから私もそこへ行くから待っていてくれ。一時間もあればいけるだろう。島へは帰るんだろう?」
「ええ。」
「よし、ボラカイ島までヘリで送ってやるよ。」
「それはありがたいですね。本当に署長には感謝のしっぱなしですよ。お礼の言葉がみつかりませんよ。」
「礼などいらんよ。じゃあ、すぐに出発出来るように待っていてくれ。」
「分かりました。本当にありがとうございます。」
母と娘 新鹿
母と娘
正樹は診療所でただあぐらをかいているだけではなかった。暇を見つけては島中の家々を歩いて回った。動けなくなった老人を見つけると、定期的にその家を訪問していた。ヨシオが診療所に来てからは、正樹はその往診のために時間をより多く割き、島の医療の向上に努めた。そんな自宅で寝たきりの老人の一人だったのだが、正樹ととても気が合った老人がいた。その老人には親戚縁者が一人もいなかった。亡くなる少し前に島の弁護士を呼んで、彼の財産のすべてを正樹に譲り渡した。岬の豪邸とは比較にはならない小さな家とわずかばかりの土地、そしてその家の前に広がる小さな砂浜は形式的には村に譲渡したが、その使用権を正樹に永久的に与えてこの世を去っていった。
ジャネットは正樹からその小さな浜の家を借りて、母親と二人で暮らし始めた。誰にも邪魔されずに、失った二人の長い時間を取り戻そうとしたのだ。ジャネットは溢れんばかりの愛情を病んでしまった母親に与えようとした。銃を捨て、きっぱりとゲリラの世界から足を洗ってしまった。正樹はそのことを大いに喜んだ。ジャネットが岬の家の子供たちから離れたことも嬉しかった。お米は岬の家のネトイから届けられ、あとは庭に野菜を栽培し、海には定置網を仕掛けて、魚を獲った。自給自足に近い生活だったが、それで十分だった。正樹が訪ねていくと、いつも二人は家の外に置いた長椅子に座って、海を眺めていた。ジャネットが正樹の顔を見ると嬉しそうに言った。
「先生、もう、母は前のように、歩き回ってあたしのことを捜さなくなりましたのよ。」
「そう、それは良かった。お母様のお顔も拝見すると、だいぶ表情が穏やかになってきていますね。でも、散歩は身体に良いから、毎日続けた方がよろしい。」
「ええ、丘の上の共同墓地には二人で毎日行って、お墓の中のお父さんとお話をしてきますのよ。お父さんのお墓を見ると母は目を潤ませることもありますの。誰のお墓なのか分かるのかしらね。先生はどうおもいます?」
「お母様はもう分かっているのかもしれませんね。私はボラカイ島の魔法を信じていますからね。きっと、お母様はもっともっと良くなりますよ。」
「そうですね、あたしもそうおもいますよ。」
「さっき、ネトイが闘鶏の帰り道に診療所に寄って、負けた方の軍鶏を6羽置いていきましたよ。ネトイの育てた軍鶏が立て続けに6連勝したのだと言って自慢していきました。ヨシオと二人では食べきれないから、3羽持ってきたので、お母さんと食べてくださいな。」
もう、ジャネットは人を何人も殺してきたゲリラのリーダーではなかった。母親のことを気遣うやさしい娘になっていた。
「いつもすみません。助かります。あとでおかゆに入れて、母に食べさせます。そうだ、さっき、島の警察が来て、色々と質問をしていきましたよ。何故、ここにいるのかとか、国籍はどこだとか、でも、母のことを見るとすぐに引き上げて行ってしまいました。」
「そうですか、では、私が帰りに警察に行って話をしておきましょう。今はまだ、日本に帰ったところで身を寄せるところもないし、仕方がないでしょう。しばらくこの浜辺の家で養生された方がお母様の為には良いのではありませんか。そのうちに両国政府の話し合いもまとまるようだと、署長も言っていましたから。まあ、のんびり、ここでお母様ときれいな海を眺めていて下さい。」
浜辺の家からの帰り道、正樹は島の警察に寄って、事情を詳しく説明した。警察もあの親子が両国政府の犠牲者だと知ると、出来うる限りのことをすると約束してくれた。その後、正樹は郵便局に寄って、簡単にこれまでの経緯を書き、日本にいる早苗に手紙を出した。
前略、早苗様
あの誘拐された真田徳馬さんの奥様が見つかりました。バタンガスの教会で保護されていました。ただ、あまりのショックから頭を病んでいて、根気の要る治療が必要だと考えます。ジャネットは岬の家から浜辺の家に移り、あの小さな家で母親と二人だけの生活を始めました。もう戦うことは止めて、母親の看病に専念すると言っています。島のゲリラのリーダーだった片足の老人も死にました。どうやら、また島に平和が戻ってきたようです。
ヨシオが私の料理はまずいと言ってボヤいています。君の料理が食べたいと食事の度に催促してきます。私もまったく同感です。 郵便局にて、正樹
草々
正樹様へ
お手紙嬉しく拝見いたしました。ご無事で何よりです。きっと、神様が正樹様をお守りくださったのですね。とても感謝しております。
早苗の方は、何不自由のない日本の暮らしですけれど、どうしても何かが足りません。それは、あのボラカイ島の青い空やきれいな海ではなくて、正樹さん、あなただと気づきました。遠く離れてその想いはいっそう強く感じております。早く、あなたに会いたい。今はその気持ちでいっぱいです。
京都にいる茂木さんのお母様から言われていたことがあります。もし、真田様の奥様とお嬢様が見つかった時には、是非、連絡してほしいとのことでした。あたし、しばらくしたら、京都へ寄って、その足で大阪からセブ島経由でそちらへ向かいます。もしかすると、この手紙よりもあたしの方が先に着くかもしれませんね。
早苗
新鹿
紀伊半島の先端にきれいな砂浜がある。「新鹿」という小さな浜で、海岸線は1キロほどだが、とてもきれいな弧を描いている砂浜である。黒潮の太平洋に面しているのだが、入り江の奥まったところにこの浜は位置しているので波はとても静かで、砂も驚く位さらさらしている。日本では数少ない南国情緒が漂う美しい砂浜だ。
「新鹿」は茂木の母親の生まれた場所だ。そして茂木が子供の頃、預けられて育った場所でもあった。早苗が真田徳馬の捜していた妻と娘が見つかったという知らせを持って、京都の居酒屋「河原町」を訪れると、茂木の母親は自分の故郷である「新鹿」に早苗を誘った。
「どうです。早苗さん、この新鹿の砂浜もきれいでしょう。ボラカイ島のホワイト・サンド・ビーチのように雄大ではないけれど、みごとに弧を描いた砂浜は見るからに上品で、水質も海水浴には最高のものだそうですよ。上空から見ると、この入り江は扇の形をしていて、ちょうど扇の手元の狭いところが太平洋への出入り口だから、高い波が狭い入り口から入ってきても、浜に到達する前には、扇形に広がってしまって、なだらかな静かな波になってしまうのよ。砂の色も他の日本の砂浜とは違ってクリーム色をしているでしょう。珊瑚の沖縄には負けるけれど、日本のどの砂浜よりも、この新鹿の浜はボラカイ島に近いと私はおもいますよ。」
二人は茂木のことを赤ん坊の頃から育てたという、新鹿のおばあちゃんの家に向かって歩いていた。浜より一段高いところにある国道を並んで歩いていた。すれ違う車も少なく、浜を見下ろしながら、ゆっくりと歩いていた。
「そうですか、茂木さんはここで育ったのですね。京都ではなかったんだ。」
「徳馬は海外勤務を続けていましたし、私はお店を任されて、子供を育てる余裕はありませんでしたの。だから、あたしたちは何もあの子に親らしいことをしてあげられませんでしたのよ。ここの新鹿のおばあちゃんがあの子の母親と言っても間違いありませんの。大切にあの子を育ててくれましてね、感謝しているというより、むしろ嫉妬したいくらい、あの子は新鹿のおばあちゃんに懐いてくれました。大学に入って、京都のお店にあの子が来ても、あたしたちはただの客と女将だったわ。あの子にとっての母親はここのおばあちゃんだったから。」
「そうでしたか。茂木さんの心の中には、いつもこんなきれいな海があったのですね。ボラカイ島を選んだのも、きっと、ここで育ったせいですね。」
「あたしね、京都のお店を引き払って、ここに戻って来ようかとおもっているのよ。おばあちゃんも寝たきりになってしまったし、それに、菊千代さんとあの子の子供に、日本にも帰ってくる場所をこしらえておいてあげたいのよ。まあ、今はボラカイ島の岬の家で良いとしても、いつか必ずきっと、日本に帰って来たくなるとおもうのよ。」
「そうですね。あたしもそうおもいます。ここの浜なら、明るくてきれいだから、菊ちゃんも慎太郎も喜ぶとおもいますよ。あたし、明日、少し写真を撮って、島に戻ったら、二人に見せてあげますわね。」
「そうしてくれる。でも、ごめんなさいね。こんなところにまでつき合わせてしまって、早苗さんには茂木のことでは、散々、苦しい想いをさせてしまったのにね。」
「いいえ、お母様には本当に色々助けていただいて、ボラカイ島へ行く勇気を与えてくれたのはお母様でした。あの、実は、あたし、好きな人ができたのですよ。」
「ああ、分かったわ。島にいるあの、日本人のお医者様ね。違うかしら?」
「ええ、そうです。あたし、日本にいても正樹さんのことばかり考えていたんです。早く会いたくて、会いたくて、・・・・・・あら、あたしったら、すみません。」
「いいのよ。早苗さんの幸せそうな顔を見ることができて、あたしもほっとしました。若い人たちはいいわね。じゃあ、戸隠には帰らずに、向こうへ行くのかしら?」
「ええ、席が取れ次第、大阪から飛ぶつもりです。」
「そう、あたしもまたボラカイ島へ行かなくてはね。あの人のお墓参りをしなくてはなりませんからね。それに、その見つかった奥様と娘さんにも会って、真田から預かっていたものを渡さなくてはならないから。・・・・・・そうか、あたしも早苗さんと一緒にボラカイ島へ行こうかしら。」
「ええ、そうしましょうよ。一緒に行きましょう。」
「でも、また京都のお店に預かったものを取りに戻らなくてはなりませんわ。」
「構いませんよ。あたしは急いでいませんから、お母様のスケジュールに合わせますから。」
「そう、そうしたら、そうしてもらえる。」
二人は京都に戻り、百万遍の交差点近くの居酒屋「河原町」に入ると、カウンターに渡辺電設の佐藤が座っていた。茂木の母親が軽く挨拶をした。
「あら、佐藤さん、日本に帰っていらしたの。」
佐藤もいつものように座ったままで、頭を軽く下げた。
「ええ、本社で会議があったものだから。・・・・・・あれ、そこにいるのは早苗さんじゃあ、ありませんか。」
早苗は少し驚いて言った。
「はい、お久しぶりです。」
佐藤は椅子から立ち上がって、丁寧に早苗に挨拶をした。
「この店はね、独り者の私にはなくてはならないところなのですよ。しばらく、岬の家に顔を出さなかったから、少し心配していたのですよ。そうでしたか、日本に帰っていらしたのですか。そうだ、正樹さんはお元気ですか?この頃、彼もちっとも岬の家には顔を出さない、最近では、ヨシオが正樹さんの代わりに子供たちの往診に来ているようですね。だから彼とも会う機会がなくなってしまったな。正樹さんも日本ですか?」
「いえ、ボラカイ島にいますよ。島で寝たきりのお年寄りたちの面倒を見ています。」
「そうでしたか。」
佐藤は現在、ボラカイ島の岬の家を含む、フィリピンにおける、渡辺電設の総責任者だ。渡辺社長と専務の吉田以外には、彼を呼び捨てにすることは出来ない。それほど会社にとって重要な人物になっていた。その佐藤が早苗に言った。
「あの岬の家の資産価値は、もう、すでに我々が購入した時の倍になっていますよ。何度も会議で売却の話が出ました。私以外の重役たちは皆、売りたがっていますが、あの渡辺社長がでんとして動きません。まるでボラカイ島の魔法にかかったようです。早苗さんもあの島の魔法は信じるでしょう。」
「ええ、信じますよ。」
「僕もそうです。あの島は本当に不思議な島だとおもいますよ。それでね、社長が名案を考え出したのですよ。」
「名案?」
「そう、うちの会社の連中を順番で、ボラカイ島へ慰安旅行に招待することにしたのですよ。その先陣を切って、つい先日、専務の吉田が家族と一緒に島へ行って来たんですよ。」
「そうしたら、どうなりました?」
「早苗さん、それがね、うまく社長の思惑通りになりましたよ。島から帰って来ると、専務はボラカイ島のことを褒めまくっていましてね、先日の会議では私と同じ売却反対にまわっていました。」
「ああ、良かった。あの家がないと子供たちが困るから、佐藤さん、頑張ってくださいよ!」
「ええ、分かっています。」
女将が佐藤に向かって言った。
「佐藤さん、ゆっくりしていってくださいな。今日はあたし、お相手が出来なくてすみません。ちょっと二階に行って、ボラカイ島へ行く準備をしてきますからね。」
「何、女将も島へ行くのですか。僕も明日、戻るところですよ。早苗さんも一緒ですか。」
「ええ、そのつもりですけれど。」
「座席は?」
「これからですけれど。」
「うちの会社が使っている旅行社を紹介しましょうか?」
「いえ、結構です。直接、航空会社から航空券を買いますから。」
「でも、高いでしょう。フルで払うとディスカウント・チケットの何倍もするから。」
「そうですね。でも仕方がありませんわ。その代わり、すぐ席は取れますよ。」
「まあ、その通りですけれど、少し時間の余裕があったら、旅行社を利用したほうが得ですよ。」
「そうですね、では、次から、そうしようとおもいます、」
女将は二階へ駆け上がって行ってしまった。佐藤は席を早苗にすすめながら言った。
「そうですか。慎太郎はおばあちゃんが大好きだから、・・・・・・・。そうだ、ジャネットと真田さんの奥様が正樹君の浜辺の家に移りましたよ。二人だけで暮らすのだとか、言って、岬の家から去って行きました。」
「ええ、正樹さんから、お手紙で聞きました。」
「彼女たち二人の人生はまったく悲劇の連続でしたね。二人を捜し続けた真田さんもしかり、そして、ここの女将もまた、悲しい運命の渦に巻き込まれてしまった一人ですね。」
佐藤はここで冷酒をぐっと呷った。
「どうです。早苗さんも一杯いかがですか?」
正樹にとっても、岬の家の子供たちにとっても、佐藤は大切な人だ。無下に断ることも出来ない。あまりお酒は好きな方ではないが、早苗は佐藤の杯を快く受けた。
「それでは、一杯だけ、頂戴します。」
「うちの渡辺社長は岬の家の子供たちに、小さい頃から技術を教え込んで、会社の即戦力にしようと考えているようですが、それは悪いことではありませんよね。子供たちが自立する手助けになりますからね。」
「そうですね、あたしには難しいことはわかりませんが、向こうでは、大学を出ても職がないのが現実ですからね。それをおもうと、渡辺電設の考え方は子供たちの利益と一致しているとおもいますね。」
「まあ、社長は子供たちにうちの会社に入ることを強制するつもりはないと言っているので、僕も社長の考えには反対はしていません。」
女将が割烹着姿で二階から降りてきた。
「早苗さん、明日、銀行へ行きたいので、出発はあさって、ではだめかしら?」
「ええ、いいですよ。それじゃあ、あたしはせっかく京都にいるのだから、昔、茂木さんとボンボンと歩いたお庭でも歩いてみます。」
佐藤が興味深げに早苗に訊ねた。
「どこのお庭ですか?」
「詩仙堂と大河内山荘、あと、龍安寺の石庭です。」
「そこが、あの二人が好きだったお庭ですか?」
「ええ、そうなんです。ボラカイ島へ渡る前に、三人で歩いたんですよ。何だか、二人とも、もう、この世にいないのかとおもうと、あたし、・・・・・・。」
「そうでしたか。早苗さん、さあ、もう一杯、いかがですか。」
「そうだ、佐藤さんにとっての京都はどこですか?」
「何ですか、それ?」
「あたしたちね、茂木さんもボンボンもまったく違った環境で生まれ育ったのに、あの時、不思議にも同じ感情を持つことが出来たのです。この京都のある場所に立って、その景色を眺めていたら、三人とも同じ気持ちになったのですよ。いったい、どこだとおもいます。」
しばらく佐藤は考え込んでから言った。
「川でしょう。鴨川。」
「ええ、どうして分かったのですか?」
「僕がタイやフィリピンで、仕事帰りに思い出す京都の景色はいつもきまって鴨川の河川敷だからですよ。」
「そうなんですよ。あたしたち、橋の上から鴨川の流れを見ていたら、この風情が京都なんだと意見が一致したんです。そうですか、佐藤さんも同じでしたか。」
「ほら、ここで呑んでから、帰る時の寂しさがね、鴨川の川面に映るんですよね。結構、ぐっときちゃってね。これが独り者の寂しさですかね。」
女将が口を挟んだ。
「だから、いつも言っているでしょう。早くいい人を見つけなさいよって。適当なところで手を打たないと、いつまで経っても、結婚なんか出来やしないわよ。」
「それはそうなんだけれど、なかなか、縁がなくてね。そうだ、早苗さん、僕のお嫁さんに・・・・・・と言っても無理ですよね。」
女将が佐藤をたしなめた。
「駄目よ!早苗さんには正樹さんがいるから。」
「そうですよね。それじゃあ、ナミさんは・・・・・・、無理だよね。あんなモデルさんみたいに均整のとれた人は、僕には、おまけに頭が良くて、バリバリの外交官ときている。
振り向いてもくれないか。」
「あれ、来月だったかな、ナミはオーストラリアから、今度は本省勤めになるはずよ。少し休暇がとれるから、ボラカイ島に遊びに来ると言っていたわよ。」
「早苗さん、そんなことを言っても無理ですよ。あんなきれいな人の前に出ると、僕はただのヒヨコですからね。もう、ポーッとしちゃって何も言えなくなってしまう。」
「そうなのよね。男の人たちって、ナミから出るオーラで怖気づいてしまうみたい。」
女将が早苗に訊ねた。
「ナミさんって、そんなにきれいな人なの?」
佐藤が横から入って答えた。
「きれいな人ですよ。あれだけバランスのとれた人は滅多にお目にはかかれませんよ。」
「早苗さんのお友達なの?」
今度は早苗が答えた。
「ええ、学校が一緒で、外交省にも二人で入りました。確かに、ナミはきれい過ぎて、男の人たちはみんな引いてしまうみたいですね。未だに恋人はいないみたいですよ。」
女将が佐藤に檄を飛ばした。
「佐藤さん、頑張りなさいよ!ナミさんの親友である早苗さんが応援してくれるって、アタックしてみたら、どうなの?」
真っ赤になってしまった佐藤が急に席を立ち、言った。
「ナミさんがボラカイ島に来るのですね。あの島でなら、何とか言葉が出るかもしれないな。よし、明日、出かけるので、今夜は、これで帰ります。」
女将がカウンターから出て来て言った。
「佐藤さんのそんな顔を見るのは初めてだわ。とてもかわいらしいこと。あたしたちも、あさって、ボラカイ島へいきますからね。菊千代さんにそう言っておいて下さいね。」
「分かりました。では、これで失敬!・・・・・・。早苗さん、応援を頼みますよ!」
笑いながら早苗が言った。
「分かりましたわ。佐藤さんもしっかりね!」
再会
再会
早苗が詩仙堂の縁側に座ると、静かに雨が降り始めた。しばらくすると軒先から雨が何本もの線になって、音をたてながら滴り落ちだした。訪れる観光客の数もまばらで、かえって早苗にとっては好都合だった。お庭を見るために開け放たれた詩仙堂の二十畳ばかりの部屋には老夫婦と、あとは中年の女性が一人で旅行案内を開いているだけだった。
早苗にとって、このお庭は茂木との大切な思い出の場所だ。また来ようねと約束をした特別のお庭だった。計らずも、茂木が自慢をしていた見事な紅葉のお庭を早苗は一人で眺めていた。もし、正樹への熱い想いが無ければ、二度とこのお庭には足を運ぶことはなかったかもしれない。今は茂木への想いはすっかり消えてしまっていた。正樹にもこのきれいなお庭を見せたいと願う気持ちの方がより強かったからだ。
まだ年寄りではないというのに、いったいこのお庭をこれから何回見ることが出来るのかと、ふと、早苗はおもった。外交省の役人になり、大切な茂木のことを死に追いやってしまった自分のことが嫌になり、人生の幕を引こうとしたこともあった。しかし、今は違う。正樹の為にしてあげたいことが山ほどあるのだ。横にいる老夫婦、ああして二人でお庭を眺めている姿は早苗にはとても羨ましくおもえた。愛する人の為に生きてゆきたいと願わずにはいられなかった。
「コーン」と獅子脅しの音がした。
自分のことを愛していたボンボンにもすまないことをしてしまった。あの獅子脅しの音に心が動かされたボンボンもすでにこの世にはいなかった。最後までみんなのことを考えて、自らの命を絶ってしまった。人生とは長ければ良いというものでもない。一人一人の人生にきらりと光る価値があり、とても深くて重いものなのだと早苗は感じていた。
ホテルに戻った早苗は、電話で戸隠の父親にボラカイ島へ明日旅立つことを告げた。その後、オーストラリアにいる親友のナミのところへも電話を入れてみた。明るいナミの声が返ってきた。
「ああ、良かったわよ。あたし、明日、日本に戻ることになっているのよ。」
「そうなんだ。あたしは明日、ボラカイ島へ帰るわ。」
「帰る? そうか、もう早苗は島の人間になってしまったというわけね。」
「まあね、ナミも島に来るんでしょう。しばらく休暇、もらえるんだから。」
「行く、行く。のんびりしたいものね。島でしばらく休ませてもらうわ。」
「紹介したい人もいるし。」
「誰よ、それ?」
「ああ、そうか。 もう前に、ナミと一度、会っていたわね。」
「ええ、誰よ、それ。」
「佐藤さん。」
「佐藤さん・・・・・・? 忘れちゃったな。あの時はだいぶ酔っ払っていたから、思い出せないわ。」
「今は、あの岬の家のボスになっているわ。あたしの為にオーストラリアからおみやげを買ってくるんでしょう。それ、佐藤さんに回してもいいわよ。」
「いいよ、そんなこと。早苗のおみやげは早苗のよ。じゃあ、空港で佐藤さんに何か買うことにする。」
「で、いつ頃、島に来る?」
「東京にいても仕方がないしね。上司に挨拶まわりしたら、すぐに行くから、あれかな、また、マニラから島まで、警察のヘリ、頼めるかな?」
「駄目よ! 無理、無理! 自分で飛行機と船を使ってちゃんと来なさいよ。もう署長さん。ナミのことなんか覚えていないわよ。」
「そうかな、じゃあ、賭ける?」
「嫌よ! そんな賭け。」
「だいたい、日本国の外交官が青色パスポートを使って、公私混同も甚だしい! 警察のヘリコプターを自分の休暇の為に使ったと知れれば、大問題になるわよ!」
「でも、土曜日に島への定期便は、まだ、飛んでいるのでしょう。」
「ええ、土曜の午前中に来て、忙しくない時は、お昼過ぎに帰るみたいよ。」
「じゃあ、それに乗せてもらうわ。それなら、問題はないでしょう。」
「分かったわ、それなら、あたしからも署長さんに頼んでおくから。」
「で、その佐藤さんって人、どんな人? 」
「佐藤さんはいい人よ。真面目で、やさしいし、それに頼りがいもあるし、まあ、将来は渡辺電設の社長さんになる人だと、あたしはおもうな。」
「そう、そうなの。・・・別にね、・・・あたしはそんなこと、どうでもいいんだけれどね。」
「やっぱ、興味あるわけ?」
「いいえ、別に。」
「オーストラリアでは、どうだったの?」
「何もなかったわよ。早苗はどうなのよ。」
「あたしは・・・・・・、いいじゃない、そんなこと。それじゃあ、ボラカイ島で待っているからね。もう、電話切るわよ。」
「分かった。それじゃあ、ね。」
早苗は予定を変更した。セブ島経由ではなくて、マニラに立ち寄ることにした。マニラ東警察の署長にナミのことを頼むためだった。驚いたことに、飛行場には菊千代が来ていた。マニラの役所に用事があって、島に帰ろうとしたところ、ネトイから早苗たちがマニラへ向かったと知り、ずっと半日以上も待っていたのだそうだ。三人で車を拾い警察署に急いだ。車の中で早苗は菊千代に茂木が育った紀伊半島の新鹿の写真を見せた。菊千代はその写真を、一枚、一枚、丁寧に心に焼き付けていた。珍しく渋滞もなく、車はマニラ東警察署に着いた。署長室に入ると、まだまだ元気な署長が机の上の書類を放り投げて、立ち上がった。
「いやあ、早苗さん。お元気でしたか。おー、今日は菊さんと茂木さんのお母さんもご一緒でしたか。どうですか、その後、おかわりはありませんか?」
早苗が二人の間に入って通訳を始めた。
「ありがとうございます。おかげさまで元気でやっております。真田の奥様とお嬢様が保護されたとお聞きしましてね、直に会って、真田から預かっていたものを、一日も早く、お二人にお渡ししなくてはなりませんの。」
「そうでしたか、それはご苦労様です。今、あの二人は正樹君の浜辺の家で二人っきりで、親子水入らずで、静かな暮らしをしていますよ。娘さんの懸命な看病で奥様も次第に良くなってきています。二人には日比両国で自由に暮らす許可も出ましたし、特別年金も保証されました。」
「そうですか。それは良かったわ。早く、ご苦労をされたお二人には幸せになってもらわないといけませんわ。」
「ご尤もです。ところで早苗さん、お二人を島までお送りいたしましょう。」
「いえ、今日は土曜日ではありませんし、そんなことをしていただいたら、申し訳ありませんわ。実は、ナミが、次の土曜日にこちらへやって来ますの。どうかその時はよろしくお願いします。」
「あのナミさんが、いらっしゃるのですか。・・・・・・そうですか。それでは自分も今度の土曜日にナミさんと一緒に島へ行くことにしようかな。まあ、それはそれとして、今日は茂木さんのお母様を岬の家までお送りいたしますよ。すぐ、用意させますので、少しお待ち下さい。」
署長は受話器を取り上げて、ヘリの手配をした。
「いつもすみません。本当に署長さんには感謝しております。」
「ところで、正樹君はどうしております。」
「ええ、最近は、島のご老人たちを見て回っていますわ。」
「そうですか。彼ともじっくり話さなくてはなりませんから、土曜日に、私も伺います。」
「分かりました。皆に、そう伝えておきますわ。」
ヘリのプロペラの音は正樹の診療所まで届いた。その聞き慣れた音で、正樹は早苗の到着を確信した。
岬の家にヘリが到着すると、先日会ったばかりの佐藤が手を振って豪邸から飛び出してきた。
「いらっしゃい。お疲れ様。」
佐藤は何か物足りなそうな表情をしている。それを早苗が察した。
「残念でした。ナミは土曜日に来るそうよ。」
「そうですか。まあ。どうぞ、中へ。冷たい物を用意してありますから。」
茂木の母親が出迎えに出ていた慎太郎のことを抱きしめていた。佐藤はヘリの中に乗り込み、パイロットにもミリエンダ(おやつ)を勧めた。
茂木の母親と茂木の忘れ形見である慎太郎は手をつないで歩き出した。そのそばで菊千代が言った。
「さっき、早苗さんから見せてもらった新鹿の浜、とてもきれいですね。あの人が育ったところだと聞いて何回も何回も拝見しました。」
「ええ、きれいなところよ。あたし、新鹿で暮らすことにしましたの。まだ、しばらくは京都にいますけれど、・・・・・・だから、新鹿はお二人の故郷だとおもって結構ですからね。いつか、二人がやって来ることを楽しみにしていますよ。」
菊千代は慎太郎の教育について考えていた。マニラに行っていたのもそのためだった。と同時に、双子の姉妹である千代菊がこの島の魚屋に嫁いでいることや、茂木が築き上げたこの岬の家のことも合わせて考えていた。
「おかあさん、あたし、相談があるのですが。」
「何かしらね。まあ、まあ、そんな深刻な顔をして、あたしに出来ることなら、何でもしますよ。」
「ありがとうございます。実は、この慎太郎のことですけれど、学校はやはり、日本の小学校に入れてあげたいのです。でも、あたしはこの島から、今は、離れるわけにはいきませんでしょう。それで困ってしまって・・・・・・・。」
「菊さん、慎太郎のことなら、いつだってあたしは引き受けますよ。でも、菊さんは慎太郎と離れて暮らせるの?」
荷物を持って一緒に歩いていた石原万作がポロリと余計なことを言ってしまった。
「マニラには日本人学校もありますよ。あそこの子供たちの偏差値は高いですよ。日本の学校でトップクラスの子供たちが集まって来ていますからね。一流企業のお坊ちゃまや、お嬢様ばかりですからね。親たちも教育熱心な人たちばかりだ。」
「菊さん、あたしは茂木を新鹿のおばあちゃんに任せてしまった母親ですよ。何も、あの子にはしてやらなかった。だから、あなたに意見する資格なんかありませんよ。でも、短い人生、親子はいつまでも一緒にいれるわけではないわ。だから出来るだけ一緒に暮らした方が後で愁いを残さなくて済むわ。」
「そうですね。もう少し考えてみます。」
「あたしはあなたも慎太郎のことも大歓迎ですからね。そのことは忘れないでね。新鹿に移り住むのだって、あなたたちが来てくれることを願ってのことですよ。」
「おかあさん、ありがとうございます。」
石原万作がまた余計なことを言った。
「そうですよ。お母さんの言う通りだ。一緒に暮らしたくても、ゲリラに引き裂かれて暮らせなかった親子もありますからね。出来るだけ家族は離れない方が良いに決まっていますぜ。」
「そうだ、菊さん。あたし真田から預かっているものがありますの。あの人の日記なんですのよ。もし、奥様とお嬢様が見つかったら、それを渡してくれるようにと言われていましたの。奥様たちが誘拐されてからの、あの人の戦いが鮮明に綴られてありますのよ。」
菊千代ではなく万作が答えた。
「それは貴重なものですね。その日記ですべてが分かりますよ。あの二人は、今、やっと二人で暮らすことが出来るようになりましてね、ちょうどこの岬の反対側の浜辺の家で静かにお暮らしですよ。」
「お手数ですが、あたくしをその家へ連れて行って下さいます。」
「へい、お安い御用です。いつでもお供しますよ。」
「ありがとう。では明日にでもお願い出来ますか?」
「承知しました。」
ヘリが到着して、しばらくすると、岬の豪邸の庭に一台のトライシクルが入って来た。早苗はそのバイクの音を聞いて、すぐに庭に飛び出して行った。正樹だった。二人は他人の目も気にせずに、豪邸の庭で抱き合ってしまった。
「お帰り。」
「会いたかったわ。」
「僕も。」
しばらく離れて暮らしていたが、二人の気持ちは逆に近づいた。お互いがそれぞれの悲しい過去を気遣うことよりも、一緒にいたいと願う心が芽生えていた。
早苗が正樹の胸に顔を埋めながら言った。
「もう、危険はないの?」
「ジャネットのこと?」
「ええ、あたし、そのことが心配で・・・・・・。今も浜辺の家にいるの?」
「もう、大丈夫だよ。ボラカイ島がジャネットのことを変えてしまったからね。」
「そう。」
正樹は引き返そうとしていたトライシクルを呼び止めた。
「早苗ちゃん、ちょっと、浜辺の家に行ってみようか。」
「ええ、いいわよ。」
ヘリからパイロットと降りてきた佐藤に向かって正樹は言った。
「ちょっと、早苗ちゃんと浜辺の家へ行ってきます。すぐに、戻りますから。」
「分かりました。気をつけて。」
浜辺の家に着くと、ジャネットと母親はいつものように手をつないで長椅子に座っていた。二人で静かに海を眺めていた。正樹が早苗に言った。
「いつも、あそこで、ああして、ふたりで座っているんだよ。」
「ずうっと、離れ離れになっていたのですものね。何だか、こうして見ているだけでも、あたし、涙が出できそう。」
「もう、ジャネットは戦うことは止めてしまったよ。だから、心配ない!」
「よかったわ。茂木さんのお母様がね、真田さんが書き残した日記を持ってきたんですよ。直接、会って二人に渡したいそうよ。」
「そう、それじゃあ、今は何も言わない方がいいね。今日はあの二人には会わずに帰ろうか。」
「そうね。」
早苗と正樹は少し離れた道路まで歩き、待たせてあったトライシクルに乗り込み、再び、岬の豪邸へ向かった。
「正樹さん、ちょっといいかしら、丘の上の墓地に寄ってもいいかな?」
「いいですよ。じゃあ、運転手にそう伝えましょう。」
風が吹きぬける共同墓地の入り口にトライシクルを待たせて、早苗と正樹はゆっくりと墓地の敷地内へと進んだ。
「あたしね、茂木さんとボンボンにどうしても報告しておきたいことができたの、だからね、ちょっと待っていて下さい。」
早苗は並んで眠っている二人のお墓に手を合わせた。正樹も早苗が祈っている間、ディーンのお墓の掃除をした。早苗が正樹のところへ来た。
「もういいのかい?」
「ええ、もう、済んだわ。」
「いったい、何を報告したんだい?」
「それは言えないわ。秘密よ。」
「そう。」
「僕もディーンに分かってもらったよ。」
「あら、何を?」
「それは秘密。」
声を出して二人で笑ってしまった。早苗は正樹の腕の中で大きな幸せを感じていた。
その夜、岬の豪邸では茂木の母親がやって来たこともあって、盛大な歓迎パーティーが開かれた。ネトイと早苗、そして正樹はいつものようにバーベキューを焼く係りとなった。焼いても焼いても焼き足りない、なんせ、子供たちの数が半端ではなかったから、三人は話す暇もなく炭火で串刺しにした豚肉を焼き続けた。些細なことだが、三人にはこの上もなく幸せな時間だった。
新しい出発
新しい出発
岬の豪邸での歓迎パーティーも終わり、早苗と正樹は浜を歩いて診療所に帰ることにした。月明かりだけを頼りに、ぴったりと寄り添って歩いた。二人ともサンダルを脱いで誰もいない砂浜を出来るだけゆっくりと歩いた。打ち寄せる波の音とお互いの息使いだけしか聞こえない。それは至福の時間だった。お互いに大切な人を失って、つらい想いをしてきた。それは忘れようとしても忘れることが出来ないことだが、いつまでも過去を振り返ってばかりもいられない。二人ともそのことはよく分かっていた。早苗は正樹の、そして正樹は早苗のぽっかりと開いてしまった心の穴を埋めようと努力していた。
「早苗ちゃん、僕、戸隠のお父さんに会いに行こうとおもうんだけど。」
「ええ、でも、診療所の方は?」
「大丈夫だよ。ヨシオがいるから。茂木さんのお母様は、いつ、日本に戻るのかな?」
「飛行機の予約はしていないけれど、二週間ぐらい、島にいると言っていたわ。」
「じゃあ、その時、一緒に日本へ行こうかな。」
「正樹さん、何年ぶり? しばらく日本へは帰らなかったでしょう。」
「さあ、何年ぶりだろうか。忘れちゃったな。」
二人は砂浜に腰を下ろした。早苗は座っても正樹の胸から離れようとしなかった。
「東京にいる僕の家族に会って下さいね。」
早苗は、そっと、うなずいて見せた。それから、少し海を見つめてから言った。
「正樹さんは、もし、死んだら、やはり、あの丘の上の墓地に入りたい?」
「出来ればね。この海が見下ろせる、あの丘の上で眠れれば最高だよ!」
「あたしもそうしたいな。」
「でも、お互いに、日本には家族がいるからね。そう簡単にはいかないだろうね。」
「そうね。」
「僕はきっと、死んでからも、お墓の中で、ただ眠ってばかりはいないよ。お墓から抜け出して世界中を飛び回るかもしれないからね。ただ、これだけは約束するよ。君のことを空から守り続けるからね。」
「あたしも、ずっと、正樹さんのことを見守り続けるわ。」
「ありがとう。」
もう二人には言葉はいらなかった。その夜はヨシオが待つ診療所には帰らずに、そのまま砂浜で一夜を過ごしてしまった。ボラカイ島の守り神であるマリア像が早苗と正樹の二人を祝福していた。
まだ皆が眠っている明け方、二人は診療所に戻った。音を立てずに、そおっと中に入り、ヨシオがよく眠っているのを確かめてから、早苗は朝食の準備にかかった。正樹はヨシオが昨日書いた診療記録を読み始めた。キッチンにいる早苗の鼻歌が正樹のところまで聞こえていた。その明るい早苗の鼻歌を聞き、正樹は早苗の父親に会う決心を固めた。
朝食の支度が整うと、茂木の母親が真田徳馬の日記を持って、石原万作と診療所に現われた。万作からジャネットがあまり日本語が得意ではないことを聞き、通訳を早苗に頼むためだった。早苗は快く引き受け、浜辺の家へ一緒に向かった。
三人が到着すると、ジャネットと母親は飽きもせずに浜辺の家のベランダに置かれた長椅子に座って海を見つめていた。石原万作がジャネットに声をかけた。
「今日は茂木さんのお母様をお連れしましたよ。日本からわざわざいらっしゃったんですよ。」
ジャネットは母親の手を握ったまま、自分だけ立ち上がって挨拶をした。母親はまだ座ったまま海を見つめていた。石原万作が言った。
「正樹さんのところの早苗さんに通訳をやっていただこうとおもって、連れてきました。」
早苗が緊張気味にジャネットに言った。
「私の専門はタガログ語ですので、タガログ語でお願いします。」
皆、緊張していて、何から話していいのか迷っていた。茂木の母親がまず口火を切った。とてもストレートな、その話し方に少し早苗は戸惑ったが、その通りに訳して伝えた。
「あなたたち、お二人が誘拐されてから、お父様は一日たりとも、お二人のことを忘れませんでしたよ。これがその証拠です。お父様が死ぬ直前まで書き続けた日記です。どうぞお読みになってください。」
ジャネットは日本語が読めないが、その父親の形見をしっかりと受け取った。茂木の母親が続けた。
「真田はあなたたちが生きていると信じて、死ぬまでお二人を捜し続けました。決して、あなたたちを裏切ったのではありませんよ。あたしと茂木を籍に入れなかったのも、そのことからです。ただね、分かっていただきたいのは、あたしたちもお父様のことをとても尊敬し、愛しておりました。どうか、そのことだけは分かってくださいね。」
そのことはジャネットもよく分かっていた。茂木の母親には感謝こそすれ、恨む気持ちはまったくなかった。真田徳馬が残してくれた、その日記をそっと、椅子に座っている母親の胸に抱かせた。そして振り返って、茂木の母親に言った。
「あたしは一人ではなかったのです。こうして母もいますし、弟の茂木が残してくれた慎太郎もいます。つい最近まで、あたしは家族なんていないとおもっていました。ずっと独りで生きてきたのですよ。それが、このボラカイ島に来て、すべてが変わりました。」
次の瞬間、石原万作は生まれて初めて奇跡というものを経験した。
「ジャネット、・・・・・・。早苗さん・・・・・・。奥様!」
三人は万作の方を見た。万作はジャネットの母親を指差しながら言った。
「御覧なさい!奥さんが目から涙を出しながら、日記をお読みになっていらっしゃる。」
正にそれは奇跡だった。真田徳馬の書き残した日記は現代医学をもってしても、どうすることも出来なかった病を一瞬にして治してしまった。
「おかあさん、・・・・・・。分かるのね。・・・・・・良かった。」
ジャネットが、いや真田直子が母親の膝元に泣き崩れた。母親はやさしくその直子の頭をなでていた。そばで見ていた万作と早苗の目からも大粒の涙が溢れ出していた。しかし茂木の母親だけは泣いていなかった。真田との約束を果たし、もう、この場所にいる必要はなかったのだ。静かに振り返り、浜辺の家から離れた。早苗がそれに気づき、急いで後を追った。万作はボラカイ島が起こした奇跡を前に、ただ立ち尽くしていた。
診療所に戻った早苗はまた奇跡が起こったと正樹に伝えた。真田が書き残した日記をジャネットの母親が涙を流しながら読んだと知り、正樹もそれは奇跡だとおもった。
「ねえ、早苗ちゃん。僕はね、以前は、奇跡というものは何か宗教的な道具のようにしかおもっていなかったのですよ。信者を集めるための演出だとおもっていました。ところがこのボラカイ島に来て、不思議な偶然が何度も続いたものだからね、奇跡というものに対する考え方が変わってしまいました。もっとも、ただの偶然だと考えるのか、あるいはそれが奇跡だと信じるのかは人それぞれで判断が違うとおもうけれどね。その人の信じる度合いによって見方が分かれてくるものだよ。」
「あたしは無宗教でかなりいい加減な人間だけれど、何度もこの島に来て奇跡を目にしてきましたからね。何か不思議な力が、それが神様なのかボラカイ島なのかは分かりませんが、人間の力をはるかに超えた、とても大きな力が働いたとしか考えられない出来事を幾つも体験してきて、本当に驚いているのです。この島は間違いなく奇跡の島です。」
「何も考えない人には奇跡なんか起こりはしませんよ。起こったとしても、それはただの偶然としかその人の目には映りませんからね。信仰心が強い人ほど奇跡を感じる回数も多いと聞きます。僕なんか、儀式が大嫌いで教会から離れた人間ですけれど、それでも世界で一番信じられているキリスト教の教えには学ぶところが多いとおもいます。教会に毎週のように通っている教会信者たちから見ると、僕なんかくだらない人間にみえるのでしょうね。でも僕は、この島に来て、多くの奇跡を経験しましたよ。信仰心は誰にも負けないつもりだ。」
「そんな、誰がそんなことを言うのですか。正樹さんがくだらない人間だなんて、とんでもない! あたし、おもうのですけれど、信仰とは神様を信じることでしょう。教会へ行くことが信仰ではないとおもうのよ。教会信者たちが自分の教会が一番だと信じているは結構ですけれど、正教会は自分の教会だと言いふらしているは、あたし、それはちょっと違うとおもうな。教会やお寺に行かなくても、立派な信者がいても良いとおもいますもの。」
「そうすると、これだけたくさんの奇跡を感じることが出来る僕たちは立派な隠れキリシタンかもしれないね。このフィリピンで高山右近がもし生きていたなら、きっと仲良くなれたかもしれないね。」
二人は笑った。早苗と正樹はとても幸せだった。
しかし、いつまでも素晴らしいことばかりは続かなかった。次の土曜日、早苗の親友のナミがボラカイ島にやって来た。それは明るい出来事だったが、ナミと一緒にマニラ東警察の署長とゲリラ担当の捜査官も島にやって来たのだった。
ボラカイ島に到着したばかりのナミが歓迎会で飲みすぎて、ふらふらしながら岬の家のテラスに出て来た。早苗と正樹が話をしている大理石のベンチにへたれ込んでしまった。
「ナミったら、また、そんなに酔っ払って、大丈夫?」
「あたしは大丈夫よ。ねえ、早苗。この岬の家のお酒には何か入っているのかしらね?」
「ええ、何を言っているの?」
「ほら、惚れ薬とか、何か、魔法の薬が入っているわね。もう、あたし、佐藤さんにぞっこんだわ!」
「本当なの?それ。うわー、また奇跡が起こったのかもしれないわね。」
「本当よ。もう、あたし、外交省を辞めてさ、佐藤さんのお嫁さんになろうかな。」
早苗が正樹のほうを見て言った。
「正樹さん、今の聞いた?お嫁さんだってさ。」
「聞いたよ。それもいいんじゃない。」
ナミは何も返事をしない。ベンチの上で眠り込んでしまっていた。
翌日、署長が正樹の診療所を訪ねてきた。ゲリラのことを専門に調べている捜査官を診療所の外に待たせて、署長一人だけが中に入ってきた。
「困ったことになったよ。外にいる捜査官がな、この島で殺された片足の老人を撃ったのはジャネットだと言っておる。おまけにジャネットもゲリラの仲間だと言っているんだ。それで君にいろいろ聞きたいことがあるそうなんだが、どうしようか? 」
「署長、ジャネットの母親は記憶を取り戻しましたよ。今、二人は幸せに暮らしています。二つの国の狭間で犠牲になった親子を、また引き離そうとするおつもりなんですか?」
「それはわしもよく承知しておるがな、外にいる捜査官はな、ジャネットがゲリラの幹部で、これまでに多くの者を殺戮してきた張本人だと言っているんだ。」
署長は葉巻を取り出して、火をつけていいか正樹に許可を求めた。正樹は軽くうなずいてみせた。署長が続けた。
「あのコレヒドール島でジャネットが発見されたことも解せないと、彼は言っておる。片足の老人が撃たれた現場にいたのも君だ。それで君に聞きたいことがあるそうなんだが、どうしたらいいものかな?」
「署長、あの二人の国籍は日本ですよね。治外法権は認められませんか?」
「それは無理だな。」
「署長、明後日に、外にいる捜査官にお会いいたしましょう。私、今日は気分がすぐれませんのでお引き取り願えませんか。お願いします。」
「分かった。急病人を連れてマニラの病院へでも行ったことにしておこう。明後日、また来ることにする。」
正樹は署長たちが帰るとすぐに、大使館に通じている石原万作に会った。そして、その日のうちにジャネットと母親をマニラに移した。すぐに二人が日本へ出国できるように、特別の手配を万作に頼んだ。
二日後、正樹は約束通り署長とゲリラの捜査官に会った。心の中で、無事にジャネットたちが日本に向けて出国できるように祈りながら、血の通っていない捜査官の話を聞いた。
「正樹先生、この写真を見てもらえますか。これはミンダナオ島で政府軍が襲われた時に撮られたものです。このゲリラの集団の先頭に立っているのはジャネットではありませんか?」
「私には分かりません。」
「そうですか。では、この島で片足の爺さんが撃たれましたよね。先生が届けを出された事件です。あの爺さんはあなたのことを殺そうとしたのではありませんか、それをジャネットが阻止した。あの片足の爺さんを撃ったのはジャネットではありませんか?」
「誰が撃ったのかは私には分かりません。警察にも説明した通りに、振り返ると爺さんが地面に倒れていました。」
「そうですか。では、コレヒドール島であなたが見たことを教えてくださいませんか?」
「あの島で起こったことは、ここにいる署長に聞いてください。」
「分かりました。ご協力いただけないということですね。」
「知らないものは知らないと言っているだけのこと、勘違いされては困ります。」
「正樹先生、先ほど、連絡が入りましたよ。マニラ国際空港でジャネットを拘束したとの報告がありました。」
やはり、この島から二人を出したのは間違いだったのだろうか。この島にいれば、ボラカイ島の魔法でジャネット親子は守られたのかもしれない。正樹は自分の判断のあまさを責めた。薄ら笑いを浮かべながら、捜査官は言った。
「先生、警察のことをあまくみたらいけませんよ。もう、本当のことを言ってくれないと困りますね。ジャネットはこれまでに、数え切れないほど、多くの者を殺してきたんだ。」
「私は何も知りませんよ。彼女が赤ん坊の時にゲリラに誘拐された犠牲者であること、それ以外は何も知りません。」
「では、何故、彼女を国外に逃がそうとしたのですか?」
「自分の国に帰ることの、どこが悪いと言うのですか。」
「これまでにジャネットによって殺された者の家族はどうなるのですか?それを先生は考えたことが、おありかな?」
正樹は答えなかった。
「犯罪は犯罪なのですよ。虫けらのように人を殺してきた者を私は見逃すことは出来ませんよ。それがわたしの仕事ですからね。」
正樹は署長のほうを見て言った。
「ジャネットの母親はどうなりました?」
「石原万作が彼女を大使館へ連れて行きましたよ。」
「そうですか。それは良かった。」
その時、外から警官が飛び込んで来て言った。
「署に連行する途中で、ジャネットが逃げたそうです。護衛の警官二人の喉をかき切って逃亡したそうです。」
捜査官が吐き捨てるように言った。
「正樹先生よ、今の、聞きましたか。また、あいつは警官を簡単に殺しやがった。いいですか、もしも、奴がこの島に戻って来て、先生が彼女をかくまうようなことがあれば、あなたも同罪ですからね。そのことをよく覚えておいて下さいよ。」
ゲリラ専門の捜査官は急いで外へ出て行った。署長も黙ったまま、一目だけ正樹のことを見て去って行った。一人残された正樹は机の上に肘をついて、自分の手を口に当てて、ただ、じっとしていた。しばらくの間、これからどうしたらいいのか考えていた。奥で話を聞いていた早苗が部屋に入って来て言った。
「岬の家の人たちにも連絡しておいた方が・・・・・・。」
「そうだね、ネトイと佐藤さんには言っておいた方がいいかもしれないね。」
「ジャネットさんは逃げる際に警官を殺してしまったのですか?」
「どうやら、そうらしい。彼女のお母さんは万作さんが日本大使館に連れて行って、保護してもらったようです。二人も警官を殺しているから、ジャネットは大使館に逃げ込むことは出来ないでしょう。大使館の方で拒否するとおもいますよ。」
「何て、かわいそうな親子なのでしょうか。やっと、二人で幸せに暮らせるところだったのに・・・・・・。何か、あたしたちに出来ることがあるかしら?」
「僕も、今、それを考えていたんだが、何も良い考えが浮かばないんだ。」
二人は暗い空気に覆われてしまった。
その日、大きな太陽が暮れてから、岬の家の最上階、ネトイの書斎に佐藤とネトイ、すっかりボラカイ島に居ついてしまったナミと早苗、そして正樹が集まり、ジャネットのことについて話し合っていた。佐藤が難しい顔をして言った。
「あのジャネットがゲリラのリーダーだったとは驚きました。正樹さんはそれをご存知だったのですか?」
「ええ、知っておりました。でも、ボラカイ島にいた時の彼女は本当にやさしい娘でしたよ。私があの片足の爺さんから狙われた時、わたしの命を助けてくれたのも彼女でした。」
「すると、あの爺さんを撃ったのはやはりジャネットだったのですね。」
「ええ、そうです。ジャネットはゲリラから足を洗う覚悟でした。母親と二人で平和に暮らすことを望んでいましたからね。しかし、世の中はそうさせてはくれなかったみたいですね。本当に残念です。」
岬の家のボスである佐藤がネトイに提案した。
「ジャネットのお母さんのことですが、日本には親類がいないと万作さんが言っていましたよ。このまま日本に帰っても仕方がないでしょう。どうです。この家で預かってみては?」
ネトイが言った。
「かわいそうだけれど、僕は反対です。彼女のお母さんを預かるということは、ジャネット本人や彼女の部下のゲリラたちまでが、この家にやって来ることを意味しますからね。」
正樹もネトイに賛成した。
「私も反対です。ゲリラたちはこの家の子供たちを何とかして、自分たちの闘争に引きずり込もうとしていますからね。両親や社会に対して怨みを持っていた子供たちです。親からも社会からも見捨てられた日比混血児たちは、自分の命さえも惜しまない勇敢な兵士になると、以前、ジャネットが言っていましたよ。」
ナミはまだ外交省を辞めていない。しばらく休暇をとっているところだ。外交省のキャリアであるナミが言った。
「あたし、こちらの大使館に行って、相談してきましょうか?」
早苗が言った。
「そうね、それがいいわ。外交省のバリバリのお役人が動けば、大使館の人たちも、決して悪いようにはしないとおもうわ。」
ネトイが珍しく意見を言った。
「日本に親戚がいなくても、ジャネットのお母さんは、やはり、日本に帰した方が良いとおもいますよ。ゲリラの手の届かない、日本のどこかの施設に入れたほうが安全でしょう。」
正樹もネトイに賛成した。
「もう、ジャネットのことはあきらめましょう。これからは彼女のお母様の幸せだけを考えた方が良いとおもいます。早く日本に帰してあげた方が正解かもしれませんよ。」
佐藤が反論した。
「でも、自分がジャネットの親なら、娘が戦っているわけでしょう。どうでしょうね、・・・・一人だけで、日本に帰ることが出来るでしょうかね。」
正樹はコレヒドール島で見た地獄絵を詳しく語ってから言った。
「警察も軍もゲリラに対しては無慈悲ですよ。容赦なく彼らを撃ち殺しますからね。もし、我々がゲリラに協力したら、同罪とみなすと警告までされています。もう、ジャネットのことはあきらめましょう。」
ネトイが笑顔で言った。
「ほー、驚いたな。正樹にしては・・・・・・珍しく、あきらめるのが早いな。おまえの命を救ってくれた恩人だろう。ジャネットは?」
「その通りだよ。」
「もし、ジャネットがおまえのことを頼って、おまえの診療所へ逃げて来たら、どうする?門前払いが出来るのか?」
「・・・・・・分からん。多分、出来ないかもしれないな。でも、岬の家としては決して、彼女のことを助けてはいけない!ここの子供たちのことを優先に考えて下さい。」
ジャネットはルソン島の北部へ逃げていた。仲間たちから温かく迎えられ、また、両肩から銃弾を下げた完全武装の姿になってしまった。ジャネットの母親は茂木の母親が見るに見かねて、自分の新鹿の実家に引き取ることになった。言ってみれば、正妻と側室が一緒に暮らすことになってしまったわけだ。亡くなった真田徳馬のことを愛した二人の女性がお互いに憎しみ合うこともなく新しい生活を始めることになった。これもボラカイ島の魔法が働いた奇跡だったのかもしれない。
何事もなく、六ヶ月が過ぎた。
ナミは外交省を辞めて、岬の豪邸で子供たちに英語と日本語を教え始めていた。佐藤と相性が良かったのか、あっという間に二人は恋に落ちてしまった。誰もが二人の結婚を疑っていなかった。しかし、もっと驚いたことは、茂木が死んでから、陰でずっと菊千代のことを支えてきたネトイが慎太郎の父親になることになった。随分前に、千代菊は魚屋のハイドリッチと結婚しており、すでに二人の子供がいた。京都を追われるようにして逃げてきた双子の姉妹が図らずも二人とも現地の人間と結ばれることになった。早苗と正樹も結婚式こそ、まだ挙げていなかったが、誰もが認めるおしどり夫婦だった。マニラから岬の家に戻った石原万作にも遅い春が来ていた。リンダは正樹のことをあきらめ、やさしさを絵に描いたような万作と所帯を持った。皆がそれぞれ、ボラカイ島という楽園で幸せを感じながら生活していた。ゆっくりと幸福な時間だけが流れていた。すべてが新しい出発だった。
川平 諭
川平 諭
川平 諭(かびら さとし)は学費の高い東京の私立大学に自分の力で入り、見事にバイトと勉強を両立して、何とか卒業することが出来そうだった。そして卒業と同時に、故郷の母校の中学校の教師になることも決まっていた。ただ、いつまでも石垣島にいるつもりはなかった。日本以外のどこでもいいのだ、海外の日本人学校で子供たちに美術を教えたかった。
川平と書いてカビラと読む。彼の故郷は沖縄の、それも台湾に近い離島、石垣島だ。風光明美な観光地、海の色が緑から青へと多彩に変化する川平湾に近い所に実家があった。諭(さとし)の父親は石垣島で酪農を営んでいるが、あの不幸な事故が起こってから、諭は父親とは一言も口をきいていなかった。高校に入ると、諭はすぐに家を出て、働きながら高校時代を島の中心街で過ごした。彼の母親の景子も諭のために家を出て、町で小さな居酒屋を始めた。決して夫婦仲が悪かったからではない。片足になってしまった諭のことが心配だったから、他に三人の子供たちがいるのにもかかわらず、より多くの母親の愛情を諭に注いだ。もちろん家族全員の了解のもとで、諭と一緒に居酒屋の二階で暮らすことにしたのだった。諭は高校時代にバイトで貯めたお金で東京の大学を受験し合格した。何も良いことがなかった島から、一日も早く出たかったのだ。諭の父は彼が東京の学校に入ったと聞いて大いに喜んだ。大切に育ててきた石垣牛を何頭も売って、諭の為に四年間分の学費と東京での生活費を捻出した。しかし、諭はそのお金を一銭も受け取らなかった。ただ黙って、島を出て行ってしまった。父親はあの事故のことでとても苦しんだが、一切、言い訳めいた言葉は吐かなかった。ただ黙って、黙々と牛の世話を続けた。片足になってしまった息子がいじけることがないように、懸命に働く自分の姿を片足の諭に見せることしか、してやれることがなかったのだ。諭が自分の差し出したお金を拒絶した時でさえも、怒ることなく、ただ黙って、その息子の仕打ちにじっと耐えた。
諭は自分の片足がなくなってしまったのは、父の太郎のせいだとおもっている。まだ諭が小さかった頃、牛舎の中で親子二人で遊んでいた時のことだった。大声を出しながら父親の太郎が諭のことを抱え上げた。その瞬間だった。牛の後ろ足が諭の小さな足を蹴り上げてしまった。その強烈なキックは諭の小さな右足を粉々に砕いてしまったのだった。牛に蹴られただけだと、甘く考えたのがいけなかった。近くの町医者の診察も簡単なもので、精密検査を怠ってしまった。次第に血の気がなくなっていく諭の足に驚き、慌てて病院へ駆け込んだ時には、もう手遅れだった。結局、諭の右足を大腿部から切断することになってしまった。その事故以来、諭は父である太郎とは話をしなくなってしまった。父親の太郎も言い訳一つせずに、ただ黙って働き、諭に出来る限りの愛情を注いだ。
母親と諭が島の繁華街に移り住むと、他の子供たちも次第に母親のそばに移ってしまった。諭が家を出てから半年も経たないうちに、父の太郎は家で独りぼっちになってしまった。たった一人で牛たちの面倒をみることになってしまった。太郎は家族が家から去っていなくなってしまっても、愚痴一つ溢さず、ただ、もくもくと働いた。仕事が終わって、家の軒先で太郎が奏でるサンシンの音色は酒が入り、悲しみに満ち溢れていた。太郎の喜びも悲しみもすべて全部、サンシンだけが知っていた。その単調な音色は人里離れた石垣島の原野に、毎晩、響き渡っていた。
東京での諭の生活は昼間は学校に通って、夜は様々な仕事をした。義足をはめているので、大概の仕事は出来たが、それでも障害者ということで、断られる仕事も多かった。卒業を控えて、就職も決まり、卒論も完成していた。諭は友人から借りていたお金を卒業前に返そうと必死だった。その夜もコンビニの床清掃の仕事が3店舗入っていた。2人か3人でチームを組んで、コンビニの床に薬品を撒いて汚れを取り、乾いたらワックスを塗る仕事だ。ワックスが乾く間に窓などを拭いたりもする。だいたい1店舗が3時間ぐらいで終了する夜勤の仕事だ。この床掃除は何と言ってもチーム・ワークが重要で、息の合わない者同士だと、時間内に終了することは不可能となる。一店舗が2万円として計算すると少なくとも5チームが一晩に三店舗は清掃しないと、経営が苦しくなってしまう。だから、よく動きの遅い者を清掃チームのリーダーが叱りつけているのを見かける。兎に角、機敏な動きが要求される夜の仕事だ。片足の川平諭はどんなに叱られても挫けなかった。
「おい、何度言ったら分かるんだよ!バフをかける時は後ろにさがりながらやるんだよ。前に向かって行ったら、掃除したところを自分の足で汚して歩いているようなもんだろうが、おまえ、分かってんのかよ!やはり、片足じゃあ、この仕事は無理なんだよな。何で、うちの社長はお前みたいな片足野郎を雇ったんだ。わけ分かんねえよな。」
「すみません。」
「すみませんじゃあねえよ。もう一度、そこの床はやり直しだ。いいな!バカ野郎が。」
諭はどんなに罵倒されても、じっと耐えた。
「窓もきれいに拭いておけよ!だいたい、三脚にその足で乗れるのかよ。まったくムカつく野郎だぜ。他の仕事を探せよ!この給料泥棒が!」
「分かりました。窓もきちんとふいておきますから。」
「もう、俺たちは次の店に行くからな。おまえ一人でこの店はやっておけよ!いいな!」
清掃チームは川平諭を一人残して、次の清掃契約をしているコンビニへ行ってしまった。その様子を一部始終見ていたコンビニのクルーがいた。正樹だった。日本に出稼ぎに来ていた正樹だった。正樹が諭(さとし)に声をかけた。
「学生さんですか?」
「はい、バイトなんです。」
「お宅の社長さんって、あの背の高い、メガネの人でしょう?」
「ええ、そうです。とても親切な人ですよ。」
「分かりますよ。時々、ここにも皆さんと一緒に掃除に来ますからね。」
「失礼ですが、沖縄の出身ですか?」
正樹は自分の毛深い腕を見ながら笑顔で答えた。
「ああ、これね。みんなからそう言われますよ。眉毛も濃いでしょう。だから、北海道のアイヌの人たちや、沖縄の人間かと、よく聞かれますよ。僕は、ほら、あの寅さんで有名な東京の柴又の、隣町の高砂ですよ。」
「そうですか。東京でしたか。自分は石垣から来たものですから、つい、余計なことを聞いてしまいました。」
「いや、でも、あなたの勘は鋭いですよ。僕は今は、南の島で暮らしていますからね。」
「どちらですか?」
「石垣島よりもっと南です。」
「ええ、そんな。石垣のもっと南と言いますと日本最南端の波照間しかありませんよ。」
「波照間よりも、もっともっと、南です。ボラカイと言う島に住んでいるのですよ。」
川平諭は不思議そうに正樹に聞いた。
「ボラカイ島って、どこの国ですか?」
「フィリピンの、そうね、ど真ん中かな。」
「フィリピンですか。ええ、そこに住んでいるんですか?」
「ええ、妻をそこに残して、こうして一人で出稼ぎに来ています。」
「僕は石垣島に帰って、中学校の美術の教師になりますが、将来は海外に出て、日本人学校で教えたいと思っています。」
「そう、それは楽しみですね。どうか、頑張って立派な教師になってくださいよ。」
「ありがとうございます。」
諭と正樹はその夜はそれで別れたが、翌月、再び会うことになった。コンビニの床清掃は本部からの指示で毎月一回はやることになっていたからだ。清掃会社には他にもたくさんメンバーがいるのだろうが、その夜も床清掃をしにやって来た諭をコンビニの夜勤をしていた正樹が迎えた。正樹から諭に声をかけた。
「いやー、また会いましたね。」
「あー、どうも。今夜も、よろしくお願いします。」
「いえ、こちらこそ、お願いします。」
諭は今回は清掃会社の社長さんと組んで床掃除にやって来た。それもたった二人でやって来た。大きな扇風機やバケツやモップなどを手際良く店内に運び入れた後、諭はバックルームの床に置かれた荷物を移動し始めた。それを見ていた正樹は慌てて言った。
「手伝いましょう。」
「いえ、大丈夫ですから。私一人で出来ますので、どうぞ、あちらで座っていて下さい。」
「今日は社長さんとお二人ですか?」
「ええ、みんな片足の僕と組むのを嫌がりましてね、社長は僕を雇ってしまった責任をとって、渋々、僕と組んでいるのですよ。でも、もし、今度、僕が何か失敗したら解雇されるでしょうね。」
深夜の1時に始まった床清掃は通常よりも長くかかってしまった。4時に終わる予定が明け方近くになっても、まだ続いていた。そして、まだワックスが乾いていない店内に運悪く酔っ払いが入って来てしまった。その時、社長は不幸にもトイレに入っていて、酔っ払いの侵入を阻止することが出来なかった。トイレからで出来た社長は汚い足跡だらけの床を見るなり怒鳴った。
「何だよ、これは?足跡だらけじゃないか。おい、諭、何だよ、これは?」
「すみません。酔ったお客様が入って来られて・・・・・・。」
「何で、止めなかった。」
「それが、・・・・・・。」
「もう、いいよ。お前は首だ!」
社長は電話をして他のグループを呼んで、ワックスを塗り直した。川平 諭は部屋の隅で、ただ茫然とその様子を見つめていた。正樹がそっと彼に声をかけた。
「どうだろう。僕とここで夜勤をやってみる気はありませんか?」
「ええ、そんなことが出来るんですか?片足の僕にコンビニの夜勤が勤まりますか?」
「今、ちょうど、カキ氷に加えて、おでん、それに中華まんも始まってしまって、一人では大変なんだ。お客様の長い行列が出来てしまって、いつ苦情がきてもおかしくない状態なんでね、君が手伝ってくれるとありがたいな。」
「僕は構いませんけれど、お店のオーナーさんが・・・・・・。」
「オーナーの方には、僕から言っておくから心配するな。どうだ、一緒にやってみないか?」
「ええ、僕の方は喜んで、でも、あなたに迷惑はかかりませんか?あなたも南の島から出稼ぎに来ている身なんでしょう?」
「迷惑なんかかからんよ。大助かりだ。じゃあ、話は決まったな。明日からでも来れるかな?」
「ええ、いいですよ。大丈夫です。」
「よし、じゃあ、そういうことで、今日は帰って休みなさい。必ず、明日、来て下さいよ。」
「ええ、分かりました。・・・・・・あの、失礼ですが、僕は川平諭(かびら さとし)と申しますが、あなたは?」
「私は正樹です。名字はありません。てゆうか、名字は名のりません。正樹だけで結構です。」
「正樹さんですね。ありがとうございました。どうぞ、よろしくお願いします。」
「ああ、こちらこそ、よろしく。お互いに元気出して、頑張っていきましょう。」
「はい、ありがとうございました。」
川平 諭は大喜びで帰って行った。
コンビニを狙った新種の詐欺
世の中の乱れなのか、はたまた人間の堕落なのか、コンビニ強盗はいたるところで頻繁に起こっていた。また孫がいるお年寄りや子供と離れて暮らしている親たちを狙ったオレオレ詐欺と呼ばれる、電話を使った活劇まがいの詐欺もよく新聞紙面やテレビのワイド・ショーで取り上げられていた。
コンビニで仕事をした人間なら誰でも一度は目にしたことがあるだろう。
「本部社員がお店から現金を持ち出すように指示することは絶対にありません。そのような不審な電話があった時は、折り返し電話をしますからと言って、相手の電話番号を聞き、電話を切ること。そして必ず店長やオーナーの指示を仰ぐこと。」
と書かれた内部指示書がどこの店にも貼ってある。しかし、どんなに注意をしていても、店長やオーナーのいない時間帯を狙って、立て続けに電話をかけてきて、お店のクルーを慌てさせ、現金を騙し盗るケースが後を絶たない。
川平 諭と正樹がコンビニの夜勤の仕事を二人で始めてから一ヶ月が経った時、事件が起こった。それは店にかかってきた一本の電話から始まった。
「もしもし、梶谷です。ご苦労様です。」
梶谷というのはこの店の本部の担当者の名前だった。スーパー・バイザー、通称、SVと呼ばれ、何店舗かその地区の店を管理している本部の相談役だ。正樹は梶谷と聞き、安心してその電話の話を聞いた。
「実は、そちらで研修生の指導をお願いしたいのです。今から、そちらにやりますから、どうか、一通りの基本的な夜勤の仕事を教えてやってはくれませんかね。」
「ええ、僕でよければ構いませんよ。」
「お願いします。あなたの、お客様からの評判がとても良いと聞いております。是非、あなたに指導していただきたいとおもいましてね。」
正樹は本部の人にそんなことを言われて、すっかり舞い上がってしまった。
「いいですよ。」
「それでは30分後に、その研修生をそちらにやりますから、どうか一つ、お願いします。また、後で電話を入れます。ご苦労様です。」
正樹は梶谷SVに褒められて嬉しかった。電話のそばにいた川平 諭にもそのことをさっそく伝えた。諭はコンビニの仕事はまったくの素人である。研修生が来ると聞かされても、何も疑うことはなかった。
時間通りに一人の青年が店にやって来た。おとなしそうな若者である。正樹に近づき、軽く会釈をし、挨拶をした。
「梶谷SVに指示されました。こちらのお店で夜勤の実習をするようにと言われて来たのですが、どうぞ、よろしくお願いします。」
真面目そうな青年だった。本部で借りてきたのだろうか、自分たちと同じ制服を着ていた。極自然に入店してきた。正樹は川平 諭も呼んで自己紹介をした。
「私は正樹と言います。そして、こちらは川平 諭君です。よろしくお願いします。」
「私は筧 信一と申します。今夜は、私の為に無理を言いまして、ほんとうに申し訳ありません。」
「夜勤は初めてですか?」
「ええ、まったくやったことはありません。」
「レジの操作はどうですか?」
「同じく、一度もやったことはありません。」
「では、まず、レジの打ち込み方から教えますね。」
「はい、お願いします。」
正樹は筧にレジの操作方法と接客の基本をまず教えた。そして、付け加えるようにして言った。
「それから、深夜は、防犯上、レジの中の紙幣は3万円以内にして下さい。いつ強盗が来てもおかしくない世の中になってしまいましたからね。もちろん高額紙幣は、その都度、このキャッシュ・ボックスの中に入れてしまいます。もし、レジの中のつり銭が足りなくなったら、この下の金庫から出して使って下さい。」
「分かりました。」
筧 真一はつり銭が入っている金庫のカギはどこにあるのかと正樹に聞いた。
「ああ、金庫のカギは、ここの温度管理ノートの下に隠してありますから、お客様が見ていない時に、素早く、つり銭は補充して下さいね。」
「分かりました。でも、何で責任者がカギをポケットに入れるとか、きちんと保管しないのですか?」
「おっしゃる通りです。ただ、強盗が来る確率よりも、カギをポケットに入れたまま帰ってしまう可能性の方がはるかに高いから、こうしているだけです。本当はしっかりと責任者が引継ぎをして管理しないといけないですよね。」
「では、キャッシュ・ボックスのカギはどうしているのですか?」
「ああ、キャッシュ・ボックスの方は店長とオーナー以外は開けられません。だから、1万円札を束ねて入れる時は枚数を間違わないようにね。」
「分かりました。では、私たちは開けられないのですね。」
「そうです。」
その夜はいつになくお客様の数が多かった。諭と筧が二台あるレジにそれぞれ張り付き、何事もなく2時間が経った。正樹は商品の品出しやら前出し陳列の為に店内とバック・ルームを行ったり来たりしていた。諭から声がかかった。
「すみません。トイレへ行きます。」
正樹は諭に了解のサインを出した。店内にはお客様はいなかったし、カウンター内には筧がいたので、品出しの仕事をそのまま続けた。後で筧にも品出しと前陳の仕方を教えなくてはいけないなとおもい、再びバック・ルームへ品物を取りに入った。バック・ルームから出てくると、諭が正樹に言った。
「筧さんは?」
「ええ、レジのところでしょう?」
「それが、どこにもいません。」
「外は?」
「外にもいませんでした。」
正樹はカウンターに入り、つり銭用の金庫を開けた。次に2台あるレジの中も調べた。
「やられた!」
諭がきょとんとしている。正樹が説明した。
「店のお金を全部持って行ったよ。あいつ。」
「ええ、詐欺ですか?キャッシュ・ボックスの中のお金もですか?」
「キャッシュ・ボックスはこじ開けようとしたようだが、駄目だったみたいだな。箱が壊れかけている。どうやら中のお金は無事のようだな。でも、あいつ、この二時間の間に公共料金などで受け取った一万円札はキャッシュ・ボックスに入れないで、レジの皿の下に貯めていたみたいだから、それと両方のレジの紙幣を合わせると、結構、持っていきやがったよ。」
「いくら位、盗られたんでしょうかね。」
「分からん。後で計算してみるが、それより、まず連絡が先だよ。やられたよ。まんまと騙された。すぐに店長と警察に連絡するから、そこにいてレジをお願いしますね。まいったな。見事にひっかかってしまったよ。ここまでくると笑いが出てしまうな。」
正樹と諭はお互いの顔を見ながら笑ってしまった。
犯人の顔は店内ビデオにバッチリ写っていたし、指紋も残していったから、警察の人は犯人逮捕は時間の問題だと言っていた。ところが一ヶ月経っても、半年経っても犯人はいっこうに捕まらなかった。この詐欺事件があってから、諭と正樹の仲が急速に良くなった。
「正樹さん、来月、僕、石垣に帰ろうとおもいます。一緒に行きませんか?」
「石垣島か、いいね。一週間くらい休暇をもらって、自分ものんびりするかな。」
「そうしましょうよ。僕、島を案内しますよ。」
「君の家は農家だったね。牛がいるんだっけ。酪農か。・・・・・・いや、実は、僕も昔さ、牛の面倒を見ていたことがあるんだよ。石垣牛とは違って、乳牛のホルスタインの方だけれどね。牛の出産も手伝ったことがあるんだよ。」
「ええ、そうなんですか。お医者様になる前にですか?」
「ああ、北海道にあこがれてね、しばらく、農場で働いていました。まあ、その話は長くなるので、今度にしようか。 よし、決めたよ。石垣島へ行くことにする。案内を頼みます。」
石垣島にて
飛行機の機種にもよるのだろが、正樹は羽田空港から二時間くらいで石垣島に到着した。石垣島は台湾のすぐ近くに位置し、八重山の島々の中心的な役割をはたしている。役所もあり、大病院もある。離島で緊急を要する患者が出た時は、ヘリコプターでこの石垣島に運ばれてくる。第二次世界大戦のときには、この島の人々は樹木がうっそうと茂る西表島の方に波照間島の人々とともに疎開したらしい。そして悲劇的にも多くの人々がマラリアにかかり命を落としたと聞いたことがある。「戦争マラリア」とか言われていたように記憶するが、遠い昔に伝え聞いただけで、あまり確かではない。
正樹が空港到着ロビーから出ると、片足の川平 諭青年が車の横で待っていた。
「いらっしゃい。お待ちしていました。石垣島へようこそ。」
「ありがとう。とうとう来てしまいましたね。」
「ご予定は?」
「うん、一週間です。よろしくお願いします。」
「何だ、一週間だけですか、残念だな。」
「いや、なかなか休みがとれなくてね、また、深夜のバイトを辞めた時に来ますから、その時はもっと、長くいられるとおもいますよ。」
「是非、そうして下さい。さあ、どうぞ、車に乗って下さい。僕の家は小さいので、友人の家にご案内しますね。」
「ありがとう。」
10分もしないうちに、車は市街地を抜けてしまったようだった。対向車もほとんどなく、すれ違う人もいない。道の脇には街灯もないから、夜は車のヘッドライトだけが頼りだなと正樹はおもいながら車の外を見ていた。時折、牛の糞尿の臭いが車内に流れ込んできた。この島には結構多くの牛が放牧されているようだ。道ですれ違う人の数より、はるかに放牧されている牛たちの方が多かった。しかし、何で、川平青年は自分の家ではなく、友人の家に連れて行くのかが不思議だった。東京で一緒に仕事をしている間も、一切、家族の話をしなかったし、学費から生活費もすべて自分でバイトをして稼いでいたようだった。余計なことだが、正樹は少し川平青年の家族に興味を持ってしまった。
案内されたのは農家だった。川平青年の高校時代の親友で、良太と言う若者が玄関先で快く迎えてくれた。正樹が頭を下げると。良太は大きな声で言った。
「東京からですか? それはそれは、僕はこの島からまだ一度も出たことがないのですよ。後で、色々、話を聞かせて下さいね。うまい泡盛もありますから。」
「ご厄介になります。私、正樹と申します。どうぞよろしくお願いします。」
「挨拶はいいがな、さあ、中に入って一杯やりませんか?」
川平青年が良太に言った。
「まだ、早いよ! 今、着いたばかりだろうが、飲むのは夜になってからだ!」
笑いながら正樹が言った。
「いやいや、長旅で少し疲れましたので、もう、今日はどこへも動きたくありませんから、いいですね、これから飲めるのならば最高ですよ。良太君、石垣流の飲み方を私に教えて下さい。」
予想はしていたが、良太も諭も酒がめっぽう強かった。正樹は彼らのペースについていくのがかなりきつかった。島の他の青年たちも、時間が経つにつれて、良太の家に集まって来ていた。少し前から回し飲みが始まっていた。それが滑稽なことに、飲む前に立ち上がってそれぞれが好き勝手なことを話し出すのだ。これが彼らの飲み方なのか、話し上手にはなるだろうが、これではぶっ倒れるまで飲むことになる。正樹は驚いてしまった。さすがにこの回し飲みの輪には正樹は入ることは出来なかった。外に出てみた。夜風がとても心地良かった。農家の夜は静かだった。気味の悪いくらいに静まり返っていた。しばらく、正樹が一人で夜空を見つめていると、良太も外に出て来た。
「諭から聞きましたよ。正樹さんはお医者様だそうですね。お医者様なのに、コンビニの夜勤をやっているとか、何だかよく分からんのですが、頭の悪い僕に分かるように説明してはくれませんか?」
「医者と言っても、僕は日本では医師の資格は持っていません。ボラカイ島という小さな島で診療所をやっていますが、なかなかどうして、やっていくのは大変でね。日本に、時折、こうして帰って来ては小金を稼いで、またボラカイ島に戻るという訳ですよ。ところで、良太君、あの音は何ですか?かすかに、さっきから聞こえ出した、あの音は何ですか?」
「あー、あれは諭のとうちゃんが弾いているサンシンですよ。」
「諭君の家は隣なんですか?」
「ええ、そうですよ。でも、諭の奴、島に帰って来ても、あの家には帰らんのですよ。」
正樹は、この時、諭の複雑な家族関係を知った。
「しかし、あのサンシンの響きは、どう言うのか、実に悲しい音色ですね。」
「諭がいけないのですよ。おやじさんと話をしないから、あれは事故だったんですよ。諭の足がなくなってしまったのは事故だったんですよ。だけど、諭は今でも、おやじさんのせいだとおもっている。」
「おやじさんは何も言わないのですか?」
「ええ、弁解めいたことは一言もいいません。ただじっと、ああやってサンシンを弾くだけで、すべてを耐えているだけです。見ているこっちの方が苦しくなってきますぜ。正樹先生、何とかなりませんかね? 諭は諭で、うちの離れを借りて木彫りの仏像ばかりを彫っていますよ。神仏に祈ってばかりいる。」
「木彫りの仏像?」
「ええ、諭は人間が嫌いなんです。神仏を彫ることで救われようとしています。仏像と向かい合ってばかりで、人間と話そうとしません。でも、どうやら、正樹先生は諭にとっては特別の人のようですね。彼があんな笑顔でこの島に人を招待するなんて、初めてのことですよ。」
正樹は諭と彼の父親が冷たい関係にあることを知って、とても悲しんだ。夜風に乗って聞こえてくるサンシンの音色がよりいっそう正樹の心を曇らせた。
翌朝、正樹が目覚めてみると、諭は良太が言っていた通り、離れの小屋で仏像を彫っていた。正樹はゆっくりと近づき、諭が彫っている菩薩を見ながら言った。
「手先が器用なんですね。見事ですね。実に穏やかなお顔だ。見ているだけで、おもわず手を合わせたくなります。」
「ありがとうございます。そうだ、これ、出来上がったら、先生に差し上げましょう。」
正樹は何と答えてよいのか、言葉に困ってしまった。正樹は神仏を敬いこそすれ、自分の為に祈ったり、救いを求めたりすることはなかったからだ。
「いや、僕にはもったいないですよ。それより、諭君、今度、ボラカイ島に来てもらって、海の中に立ってボラカイ島を見守っている、僕らの島の守り神であるマリア像も彫ってみてはくれませんか?」
「正樹先生はカトリック教徒なんですか?」
「いいえ、僕は宗教を軽んじたりはしませんが、特定の宗教に入信することはありません。」
「でも、先生、人間って、とっても弱くて、その上、欲がもの凄く深い生き物でしょう。そんな人間、嫌になってきませんか。僕は人と話をするのがとても苦痛ですよ。」
「確かに、そうですね。果てしない欲望を持った、我が儘な生き物が私たち人間ですよ。でも、私はそんな人間が大好きですよ。そんな不完全な人間の命を守ることを仕事にしている医者ですからね。」
「僕は人間が嫌いです。神仏に祈っている方が、心が休まりますからね。」
「その気持ち、よく分かりますよ。でも、諭君、人間は一人では生きていけないものですよ。いつも誰かに助けてもらって命をつないでいます。私はこれまでに幾度も困難に遭いましたが、その度に、神仏ではなくて、醜い人間によって助けられてきました。欲深い人によって救われてきました。」
「正樹先生は神仏に祈ることをどうおもいますか。」
「以前、ヨシオと言う子供が生死をさ迷っていた時、心の底から神に祈ったことがあります。でもそれは、自分の為ではなくてヨシオの為に祈りました。私は決して、救いを求めて、自分の為には祈ったりはしません。」
「そのヨシオと言う子供はどうなったのですか?」
「ヨシオは助かりました。医者になって、今は僕の片腕となって、ボラカイ島の診療所を手伝ってくれています。」
「そうですか。」
「諭君、そのヨシオに会いにボラカイ島に来てみませんか?」
「そうですね。是非、そうさせてもらいますよ。でも、その前に、今日は僕がこの石垣島を案内しますから。」
「ありがとう。」
玉取崎展望台の風
沖縄の島々の中にあって、沖縄本島、西表島についで三番目に大きな島が石垣島だ。地図で見る限り、石垣島はおたまじゃくしの形に似ている。もし石垣島を逆さに吊るした、おたまじゃくしだとするならば、下の頭の部分の先端に市街地があり、そこに人口が集中していることになる。細長いしっぽは北に向かって伸びていて、そのしっぽの先端に石垣島の最北端、平久保崎の灯台がある。灯台を見下ろす岩の上に立つと、見渡す限り、どこまでも海が広がっていて、正に絶景である。それから、そのしっぽの途中に極端に細くなっている場所がある。あたかも太平洋と東シナ海がつながってしまっているようにみえるが、その近くの高台に玉取崎展望台がある。正樹は諭に頼んで、何度もその展望台へ連れて行ってもらった。何でも、昔の人たちは島の最北端を舟で海伝いに回るよりも、この細くなった玉取崎展望台の下の道を舟を担いで陸伝いに渡っていたそうである。それは確かに昔の人の知恵である。わざわざ遠回りをするのは馬鹿馬鹿しいからだ。でもその舟を昔の人々が担いでいる様子を想像すると、何だか滑稽で楽しくなってくる。ここからの眺めも実に素晴らしい。正樹はとても気に入ってしまって、何度もこの展望台に足を運んだ。ハイビスカスや様々な花が咲き乱れていて、死んでしまったディーンが今にも駆け寄って来そうな場所だったからだ。石垣島の美しさはボラカイ島とはまったく別の種類の美しさであって、双方を比較することは不可能であると正樹はおもう。ただ言えることは、正樹にとって石垣島もボラカイ島も心がとても安らぐ素晴らしい場所だと言える。
「諭君、この雄大な景色と、咲き乱れる花と風、そしてその間を飛び交う蝶たち、平和であることの大切さを痛感するね。」
「先生、よく見て下さい! あれは蝶ではありませんよ。羽は二枚だし、羽を広げてとまっているでしょう。」
「本当だ。蝶ではなくて、蛾ですか?」
「ええ、蛾ですよ。」
「でも、きれいな蛾たちですね。」
「なあ、諭君。今度、ボラカイ島へ来てくださいよ。この素晴らしい景色を見せてもらったお礼がしたい。ルホ山というのがボラカイ島にはありますがね、そこの展望台からの景観を君に見せてあげたい。」
「正樹先生、実は僕、この島の中学校でしばらく教えたら、東南アジアにある日本人学校に行こうとおもいます。フィリピンにもマニラ日本人学校がありますから、第一希望としてお願いしてみるつもりですよ。」
「そう、そうなると楽しいですね。学校が休みの時はきっとボラカイ島へ来てくださいね。今度は僕が案内しますから。」
「ありがとうございます。」
期待を裏切らない、いや、それ以上の景観の川平湾
正樹は諭が街に買い物へ行っている間に、良太に連れられて、すぐ隣の諭の家を訪問した。諭の父親である川平太郎と妻の景子が二人で牛舎を掃除していた。牛たちは放牧されていて、牛舎の中にはいなかった。
「おじさん、東京からお客さんだ。諭の友達だよ。」
太郎は頭に巻いていた手ぬぐいを取りながら、正樹に頭をペコリと下げた。正樹も同じ様に頭を下げた。太郎のそばに立っていた景子が挨拶をした。
「まあ、東京からかね。それはそれは、諭が面倒をかけてはいませんか?」
「面倒なんて、とんでもない。諭君とはバイト先のコンビニで知り合いました。二人で夜勤をやっていたんですよ。」
「そうでしたか。」
良太が間に割って入った。
「おばちゃん、正樹さんはお医者様なんだ。それなのにコンビニで夜勤をしとる。おかしな話だろ。」
「良太!おかしいことなど、ありはせんよ。色々な生き方ちゅうもんが、人それぞれにはあるもんだがね。」
太郎がぼそっと言った。
「中でお茶でも、どうですか?」
「はい、ありがとうございます。」
正樹は諭の両親である太郎や景子のことを直感で素晴らしい人たちだと、すぐに分かった。苦労をしてきた分だけ、やさしさが二人には加わっていた。諭が足を失ってしまった事故以来、この夫婦と諭の間には深い溝ができてしまっているようだった。そのことをおもうと、正樹は心が痛んだ。家の中に入ると、太郎は正樹に泡盛を勧めた。正樹は快くその杯を受けた。
「これは10年ものでな、なかなか味も良い。さあ、試してみて下さい。」
「ありがとうございます。」
「正樹先生、川平湾へはもう行きましたか?」
「いえ、まだです。」
「それなら、わしが案内して差し上げましょう。」
「それは恐縮です。是非、お願いします。川平湾は日本百景にも選ばれたと聞きましたが。」
「ああ、日本百景だか、日本百選だか、わしは知らんがね。わしは日本で一番きれいなところだとおもっとるよ。まあ、それも変な話か、わしはこの島のことしか知らないのだから、他にも、もっときれいなところがあるのかもしれない。ただ、ここに来て、日光の角度で違って見える川平湾の海の色を見た者は誰でも、こんなのは初めてですと、口を揃えて言うよ。百人来たら、百人までが川平湾はきれいだと言って帰って行くからね。」
「泳ぐ場所はあるのですか?」
「遊泳は禁止じゃよ!潮の流れが速いから、泳ぐことは禁じられている。でも、グラス・ボートの上から海底が見えますからね、珊瑚や熱帯魚を真下に見ることが出来ますよ。」
「観光の為に珊瑚が犠牲になってはいませんか?」
「確かに、それはあるがな、ただ、現実問題として、この島は観光で食っているのも事実なんだ。だからあまり偉そうなことばかりも言っていられない。それでも川平湾の海水の透明度はまだ高いから、黒真珠の養殖もやっておる。自然と共存共栄といったところかな。」
「自分はボラカイ島という南の島に住んでおりますが、そこにやってくるダイバーたちの話によれば、この石垣島の海は最高だそうですね。」
「それはマンタのせいじゃろう。マンタは決まったところを泳いでいるからな。この島の近くにマンタの通り道があるから、それで人気があるのだろうよ。マンタはでかいものだと4メートルくらいはあるな、ダイバーたちは海底でそんなマンタと遭遇することをいつも望んでいるからね。」
諭の母親である景子が言った。
「正樹先生、この川平湾には、他にも、面白い生き物が住んでいるのですよ。」
「面白い、生き物?」
「ええ、そうなんですよ。カニさんなんですがね、普通、カニは蟹歩きと言って横に歩いて行くでしょう。ところが、川平湾には横にも前にも歩けるカニが住んでいるのですよ。」
「ええ、本当ですか?前にも歩けるなんて、そりゃあ、おかしいですね。」
「でも、このカニたちはとっても臆病でね、すぐに砂の中に隠れてしまいますから、滅多に見ることは出来ません。この島で生まれたあたしでさえも、数えるほどしか見たことはありませんのよ。」
ひとしきり飲んだ後、太郎と正樹は外に出た。泡盛の強烈な酔いが少し正樹の足取りを不安定にしていた。川平湾への入り口は、以外にもお土産物を売っている店の裏へ回る、小さな通路だった。他にも入り口はあるのだろうが、太郎はそこから正樹を川平湾へ案内した。運悪く、雨が降り出していた。この天候では太陽の光線は望めない。だから正樹はあまり期待せずに、湾に向かってよろよろと歩いた。しかし、川平湾に着いて、正樹が放った第一声はこうであった。
「何ですか、この海の色は? 太陽の光がないのに、淡いエメラルド色ではありませんか。緑でも青でもない、大量のバスクリンを入れたような、神秘的な色ですね。こんなの初めて見ましたよ。美しいですね。雨でこの色ですか、凄いですね。晴れたら、いったいどんな色になるのでしょうか。」
「明日、晴れたら、また来るとよろしい。きっと、驚きますよ。」
「そうですね。天候が悪くて、この色ですからね。いやー、参りました。」
「昔、ここに、人魚が住んでおったそうだ。」
正樹はほろ酔いの中で、川平湾に人魚がいても不思議ではないなとおもった。
苦力(クーリー)、海外へ送られた中国人労働者、奴隷のような扱いだった。
諭は石垣島の公設市場で買い物をして帰ってきた。ゴウヤ、人によっては苦瓜とも言うゴツゴツした野菜と豆腐を揚げたもの、関東地方では厚揚げと呼ばれるものだが、諭が買ってきたものは東京で売っているものよりも形がやや小さかった。それから缶詰、ランチョン・ミートともミート・ローフとも呼ばれるものだが、あるいは商品名でパムと呼ばれることもある塩辛いソーセージのかたまり、諭はそれらを細かく切って炒め始めた。正樹が諭に聞いた。
「この缶詰だけど、フィリピンではよく使われる食材ですよ。東京では食べたことがありませんでしたが、フィリピンでは朝食によく食べますよ。この石垣にもあるのですね。」
「これですか、石垣だけとは限りませんよ。沖縄本島も含めて、沖縄ではよく使われる缶詰ですよ。これは米軍の保存食だと僕はおもいます。フィリピンもこの沖縄も米軍の影響を強く受けていますからね。それでだとおもいますよ。フィリピンと沖縄は同じような境遇にありましたから、他にも似たところがきっとあるでしょうね。」
「そうですか、この缶詰はアメリカ兵たちの食料でしたか。」
「あまりお口に合うかどうか分かりませんが、ゴウヤチャンプルーです。良かったら召し上がって下さい。」
「ありがとう。喜んでいただきますよ。」
諭は自分では食べずに、やりかけの彫刻にかかってしまった。正樹が缶詰を手に取りながら納得していると、良太が台風が近くまで来ていることを知らせに、離れにやって来た。
「大型の台風が来てるさ。」
仏像を彫ることに没頭していて、テレビやラジオにまったく興味のない諭にとって、良太のこう言った情報はとても助かった。沖縄は台風の通り道である。台風が来るとなれば、大人も子供も皆、真剣になる。本土と違って、台風への心構えは皆しっかりしている。諭が仏像を彫りながら、正樹に言った。
「正樹先生は苦力(クーリー)、中国人奴隷の話を聞いたことがありますか?」
「クーリー? いえ、知りません。」
「そうですよね。本土の学校ではそんなことは教えませんものね。僕もあまりよく知らないのですが、唐人墓に行くと、その時のことが詳しく書かれてあります。晴れたら、先生をその墓にお連れしますよ。」
「唐人墓ですか。中国の人のお墓ですか?昔あった出来事ですね。」
「昔の話ですよ。黒船来航以前の話です。その黒船が浦賀に現われる何年か前に、この石垣島に来て、大砲をぶっぱなしていったんですよ。」
「いやー、まったく知りませんでしたね、そんな話。」
「それは無理のないことですよ。なにしろ、沖縄は米国の占領下に長い間ありましたからね。」
「で、その苦力(クーリー)と米国の黒船がどんな関係にあったのですか?」
諭は仏像を彫る手を休めて、正樹の方に向かい合った。そばにあったコーヒー・サイホンにお湯を入れながら、話を続けた。
「先生、僕は人間はわずかながらでも進歩しているとおもいますよ。今、世界中で完全にとは言わないまでも、奴隷制度はなくなりましたからね。奴隷と聞くとアフリカからアメリカへ連れてこられた黒人たちのことが頭に浮かぶでしょう。でも、奴隷は黒人だけではなかったのですよ。苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者が世界中に送り出されていたのですよ。まあ、この石垣島で起こった事件をきっかけに、中国では大規模な苦力貿易、同胞を他国へ売り渡すことはいけないと気づいたようですがね。」
「何だか、奥深い話ですね。それで、その続きは?」
「まあ、先生、コーヒーを入ましたので、まずは一杯飲んでからにしましょう。」
「中国人の奴隷ですか。」
「ちょうど、今日のように天候が悪かったのかもしれませんね。この島の沖に米国船が座礁したのです。400人くらいの中国人苦力(クリー)がカリフォルニアへ送られる途中だったんですがね、病人を海に投げ捨てたり、あまりの暴行に耐えかねた苦力たちは暴動を起こして船長たちを殺してしまったんですね。そして台湾へ向かう途中で船が座礁してしまった。石垣の人々は彼らに同情して、住む場所を提供したそうです。しかし、逃げのびた米国人船員の通報によって、苦力たちがこの島にいることを知った米国海軍は徹底的な攻撃をしかけてきました。山へ逃げた者もいました。百人以上が銃殺されたそうです。病気になって倒れた者も多かったそうです。」
「その時ですか、黒船が大砲を撃ったのは?」
「そうです。戦艦サラトガが石垣島を砲撃したそうですよ。」
「石垣の人々の立場は複雑だったとおもいますね。山に隠れている苦力たちにこっそり食料を与える一方で、米国の兵隊へも食料を提供したのですからね。」
「それでこの事件の結末は?」
「唐人墓に書かれてある記録によりますと、琉球王国が間に入って交渉をまとめたとありますね。結局、約400人の苦力の生き残りは170人前後だったそうです。中国に無事に送り返して事件の決着をみたそうです。」
「裏で米国と様々な駆け引きがあったと推測ができますね。」
「確かに、難しい外交交渉だったでしょうね。その事件の後、中国では苦力と呼ばれる労働者の海外派遣に反対する動きになったそうです。」
西表山猫
石垣島の離島桟橋は大切な場所だ。八重山の島々へ渡る高速ジェット船がひっきりなしに離発着している。一人一人がそれぞれ違ったおもいを持って、この船を利用している。たくさんのドラマが毎日繰り返されている場所だ。良太と諭に誘われて正樹は西表島へ向かっていた。ジェット船のあまりの速さに驚き、正樹が言った。
「このジェット高速船は速いですね。こんなの初めて乗りましたよ。まるで海の上を飛んでいるみたいだ!」
諭が答えた。
「この船のおかげで離島との距離が、かなり、ちぢまりましたからね、とても生活しやすくなったと、みんな喜んでいますよ。」
船のスピードに驚いていたのは正樹だけではなかった。初めて石垣島を出る良太も目をまん丸にして驚いていた。
「こんなスピードはありですか? これでは海上保安庁の船が追跡してきても、きっと振り切ることが出来てしまいますよ。速すぎですよ。」
正樹が質問をした。
「この辺には鯨はいるのですか? もし、突然、鯨が顔を出したら、この高速艇は危険ですよね。」
諭が言った。
「よく分かりませんが、僕は高速艇よりも、きっと鯨の方が傷ついてしまうとおもいますね。」
40分ほどで、高速艇は西表島の大原港に到着した。諭の案内で三人は西表島を回ることになった。良太の運転でレンタカーを半日だけ借りて、島を回ることにした。港から少し上がったところの交差点に信号があった。諭が自慢げに言った。
「この信号がおそらく日本で最南端の信号ですよ。僕の知る限りでは、この島には信号が二つしかなかったとおもいます。もっと南の島の波照間には信号はありませんから、ここが一番南にある信号ということになりますね。それから西表島の90%以上が原生林で
車の走れるところは極限られています。動物にしても植物にしても国指定の天然記念物が多いから、触れたり持ち帰ったりすることは禁じられていますので注意して下さい。」
運転しながら良太が言った。
「さっきから道路の脇に山猫注意の標識が立っていますが、あれは何ですか?」
「あれは西表山猫が交通事故にならないように、車に注意を促している標識です。」
「そんなに頻繁に西表山猫たちは道路を横切るのですか?」
どこで調べたのか、諭が説明を始めた。
「いや、西表山猫に遭遇することは至難の技ではありませんよ。もし、本気で西表山猫を見たければ、半年、いや、一年くらいは山の中でじっとしていないと無理ですね。」
正樹が笑いながら言った。
「それは不可能と言うものですよ。よっぽど運が強い人でないと西表山猫を見ることは出来ませんね。」
「その通りです。ただ、学術的には西表山猫は20世紀最大の発見だと言われていますが、ね、写真や標本で見た感じでは普通の猫ですよ。あまり見ても感動はしませんよ。一年も山の中に隠れて、苦労して見る価値があるのかどうか、僕は疑問ですけれどね。」
車がカーブを回ったところで、諭が叫んだ。
「良太、ちょっと車をそこで止めてくれ!」
「どうしたんだ?」
「ほら、あそこ、あの木の枝にカンムリワシがとまっているよ。あれはまだ子供だな。」
「あの薄汚れた鳥が、数えるほどしかいない天然記念物のカンムリワシか?」
「ああ、そうだよ。珍しいな、あんなところにカンムリワシがいるなんて、きっと、うちら三人のうちの誰かが、強運の星の下に生まれたんだろうね。」
「あの鳥が、そんなに大変なことなんですか?」
「カンムリワシも数が減ってきていますからね、なかなお目にはかかれませんよ。西表山猫ほどではありませんが、出会えたことを素直に幸運として喜びましょう。」
良太が車を再びスタートさせながら言った。
「ここまで来る間に対向車とは一度も出会いませんでしたね。」
助手席に座っている諭が後ろの座席の正樹に説明するように言った。
「確かに西表島は大きな島ですけれど、本当に人は少ない島ですよね。ほとんどが原生林ですから、遠くからこの島を見ると、島の上だけに雲がかかっていたりしてね、秘境中の秘境ですよ。僕はもうこれ以上、この島の開発は望みませんね。住んでいる人たちには不便をかけますが、貴重な動植物で満ち溢れている、この島の特別な自然を観光開発の名目で破壊してしまうのがもったいないとおもいますよ。」
正樹が少し反論した。
「私はあくまでもこの島に住む人々の暮らしを優先して考えるべきだとおもいますね。より暮らしやすくするために、多少の自然破壊は仕方がないとおもいますけれど。」
「ところが、先生。島の人々はこれ以上の自然破壊を望んではいないのですよ。どこからか他からやって来て、至る所に大型のリゾート施設を建設することには反対なのですよ。」
「そうですか、島の人々の理解が得られないのならば、私も反対の立場にたちますよ。」
「マラリアの為に、行政は過去に何度もこの島の人々を移住させようとしたそうです。でも無理だった。生まれ育った故郷を捨てることなんか出来ませんものね。」
「それなら、尚の事、島の人々の意見が大切ですね。島の人たちが大型リゾートを望んでいないのであれば、駄目ですよ。 ところで、マラリアは今でもあるのですか?」
「いや、もう、ないとおもいます。戦争の時、波照間の人々や石垣の人々がこの西表島に強制的に疎開させられて、マラリアの為に多くの犠牲者が出たと聞きましたが、今はないとおもいます。」
波照間の灯台
日本最南端の灯台が波照間島にある。正樹と諭は周囲が約14キロメートルの波照間島に来ていた。良太も石垣島で用事を済ませてから、次の船でやってくることになっていた。石垣島からは定期の高速船が一日3往復していた。良太を迎えに港に戻って来た二人は桟橋のよく見えるベンチに座って話をしていた。
「正樹先生、ここが有人としては日本最南端の島ですよ。どうです、一回りして、どんな感慨をお持ちになりましたか?」
「本土の人たちと違って、僕はさ、今は、もっと南のボラカイ島に住んでいる者ですからね。だからこの波照間に来ても、遥々、南の端に来たという感じはありませんよ。諭君も同じでしょう。君も石垣島の人間だからね。」
「だけど、何もないところでしょう。あるのはサトウキビ畑だけです。」
「あまり人とも出会いませんでしたが、島の人口は?」
「正確なところは知りませんが、600人ぐらいだとおもいます。日本に返還される前はその三倍はいたと聞いたことがあります。でも、世帯数は昔も今もあまり変化はないそうですよ。」
「すると、日本に返還されると、若者たちは本土へ行ってしまって、年寄りたちが残って、家を守っていると考えるのが自然ですね。」
「僕も詳しく分かりませんが、そうだとおもいます。この島で生産される黒糖はとても品質が良いそうですよ。極上の泡盛も限定生産されているのですがね、それが、なかなか手に入りません。幻の泡盛とまで呼ばれています。良太がわざわざやってくるのもそれが目的なのですよ。泡波と呼ばれる泡盛をわけてもらうと張り切っていましたよ。」
港に高速船が到着した。高速船で何か起こったらしく、島の駐在さんが港に来ていた。良太が船から下りて、走って正樹たちのところにやって来た。
「良太、どうしたんだ? 急病人でも出たのか?」
「ああ、船の中で爺さんが意識を失っている。」
正樹は躊躇いながら良太に聞いた。
「島のお医者様は来ていないのかな?」
「乗り込んできた駐在さんが言っていたけれど、お医者さまは石垣の方へ行っていて、今、留守らしいよ。」
正樹は急いで船に乗り込んで行った。駐在さん見つけると、正樹は静かに頭を下げた。そして、駐在さんの足元で倒れている老人の症状を診た。
「脳梗塞ですね。急いで病院へ運ばないと!命の危険があります!」
「あなたはお医者様ですか?」
「ええ、ヘリコプターを頼んだ方がよろしいかとおもいますが。」
「分かりました。それではさっそく連絡をとってみましょう。」
20分弱で救急のヘリコプターは港に到着した。船の中で倒れてしまった老人はこの島の者ではなかった。どうやら観光の途中で具合が悪くなってしまったようだった。とんぼ返りであった。ヘリは5分も経たないうちに石垣島へ向かって離陸した。駐在さんが正樹のところにやって来て言った。
「いやー、先生。助かりましたよ。ヘリの救命士さんが言っていましたけれど、よく迷わずに、すぐにヘリを呼んだと感心していましたよ。島の先生が留守の時には、外傷がない場合は自分では判断が出来ませんので、しばらく寝かせて、それから様子をみます。それでも駄目な場合は電話で連絡して指示を仰ぎますから、早くてもヘリを呼ぶのは半日くらい経った後ですよ。」
「脳梗塞は一時も早く患者さんを病院へ入れないといけませんよ。4時間から5時間で命が危険になりますからね。」
「分かりました。今度から、そうすることにいたしましょう。今日は先生がいてくれて、本当に助かりました。改めてお礼を申し上げます。」
「お礼だなんて、いいんですよ。」
「あのご老人の所持品を調べましたら、どうやら、大阪から来た観光客のようですな。最近では中高年の一人旅をよく見かけるようになりました。たまに、海に身を投げにやってくるお年寄りもいますから困ったものですよ。でも、ここの海の美しさを見て、死ぬのがバカらしくなるケースがほとんどですがね。・・・・・・、ところで、先生は?」
「はい、観光でやって参りました。ここにいる私の連れは石垣からですが、私は東京からやって来ました。」
「東京ですか。わしは、もう、何年も行っていませんな。石垣から飛行機に乗ればすぐなのにね。なかなか、どうして、この島からすら離れることが出来ませんよ。それで、島はもう回られたのですか?」
「ええ、一回りしてまいりました。とても静かなところですね。意外にも樹木が多かったですね。あれは防風林か何かでしょうか?家々を取り囲む珊瑚の石垣と花々がとても印象的でした。そうだ、ちょっと聞いてもいいですか。島には交通信号がございますか?」
「いえ、ありませんよ。それが、何か?」
「いやね、ここに来る前にね、たいしたことではありませんが、日本最南端の交通信号機はどれかと三人で話し合っていたものですからね。」
「それだと、西表島にあるやつかな?」
「どうやら、そのようですね。」
「そう言われてみると、わしは日本最南端の駐在ということになりますかな。」
そこで四人は大笑いをしてしまった。良太が駐在さんに聞いた。
「ちょっと、お尋ねしたいのですが、僕、泡波を買いに来たのですが、どこへ行けば手に入るでしょうか?」
「泡波ね、・・・・・・あれはもう、売ってはおらんな。出来上がるとな、島の者たちで分け合って、それで終いだ。だから、もう、手には入らんよ。」
「えー、そうなんですか。がっかりだな。どんな口当たりなのか、試してみたかったのに、残念だな。」
笑顔の駐在さんは良太に言った。
「ちょっと、駐在所まで来んかね。泡波を一杯、ご馳走して差し上げましょう。」
「ええ、本当ですか。そりゃあ、嬉しいな。」
自転車をおしながら歩く駐在さんの後に三人は続いて歩いた。駐在さんが、時折、三人を振り返りながら話を続けた。
「島の主な公的な施設はね、みんな、島の中央にありますから、少し歩きますよ。今、歩いているこの道が、民謡などでも有名な祖平花道(しぃびらぱなみち)ですわ。」
正樹が空を仰ぎながら言った。
「実に気持ちがいいですね。人はこういう暮らし方をしないといけない。でも、悲しいかな、それが分からないのが人でもありますね。」
諭が言った。
「先生の住んでいるボラカイ島はどうですか?」
「ええ、素晴らしいところですよ。大きさは波照間の半分くらいかな、でも、人がけっこう多いのですよ。この島のように静かではありません。どんどんとホテルも建ち始めましたし、あと10年もすると、あの国を代表する一大観光地となってしまうでしょうね。でも、決して、訪れる人々をがっかりさせたりはしませんよ。4kmも続くハワイトサンド・ビーチは圧倒的に美しいし、他にも不思議な魅力で満ち溢れていますからね。諭君、是非、マニラ日本人学校の先生になって、週末はボラカイ島へやって来てくださいな。その時は、ココナッツのお酒で飲み明かしましょう。」
「ええ、そうしたいですね。」
駐在所に着くと、コップがひとつ用意されて、幻の泡盛と呼ばれる「泡波」の回し飲みが始まってしまった。駐在さんの弾き語りの歌も飛び出し、石垣に帰る船もなくなってしまった。暗くなっても延々とその宴は続いてしまった。結局、三人はその夜、駐在さんのところで眠ることになってしまった。
朝、起きた三人は日本最南端の灯台まで足を運んでみた。まだ酔っている三人の顔を撫でるように吹き渡る風がとても気持ちよく、それぞれが違った想いで眼下に広がる青い海を見つめていた。
レビタウン
レビタウンにあった頃のマニラ日本人学校
マニラの日本人学校の体育館に集まった生徒の間に小さな驚きの声が走った。それは新しく美術を担当する新任教師の紹介をしている時に起こった。紹介されて壇上に上がって来た教師の片足がなかったからだ。 川平諭(かびらさとし)は希望通りの海外勤務が決まった。3年間をマニラの日本人学校の美術教師として勤めることになった。それは正樹と石垣島で別れてから5年後のことだった。
マニラの4月は特に暑い時期だ。ただ、学校の校舎の中は完全に冷房が効いており、長袖を着ないと寒いくらいであった。川平諭は美術室の隣にある音楽室で昼休みに音楽を担当する吉川先生と話をしていた。吉川みよこ先生はまだ独身で2年前からこのマニラの日本人学校に来ている高校時代の先輩である。同じ石垣島の出身で、実は、諭がこの学校に来れたのは彼女の力によるところが大きかったのだ。
「吉川先生、いろいろお世話になりました。やっと、念願が叶いました。こんなに早く海外で教えることが出来るとはおもいませんでしたよ。」
「それは良かったですね。最初はここの暮らしに戸惑うことが多いかもしれないけれど、段々と楽しくなってくるから大丈夫よ。あたしなんか、あと1年しかいられないのかとおもうと、もうがっかりだわ。」
「えー、吉川先生はそんなにここが気に入ってしまったのですか。・・・・・・僕がこっちに来て、最初にびっくりしたのは、学校が用意してくれた家ですよ。あんな大きな家に住むのは初めてですからね。それにお手伝いさんが二人もいてくれて、ドライバーまでいたのには本当に驚きました。」
「みんなそうみたいよ、特にご家族と一緒に来られている方たちはね。日本では家事を何から何まで一人でやってきた奥様たちだわ、それが、突然、すべてから解放されるわけでしょう。先生方も運転手付の高級車で送り迎えでしょう。みんな偉くなったような気になって当然だわ。」
「それからゴルフですね。日本では考えられないくらい安いでしょう。先生たちはみんなゴルフに夢中のようですね。」
「諭君、それだけじゃあないわよ。海がまた素晴らしいの、石垣生まれのあたしでさえも頭が下がるくらいきれいよ。」
「そうだ、吉川先生はボラカイ島をご存知ですか?」
「ええ、知っているわよ。政府が特に力を入れて開発を続けてきたせいで、以前のような素朴さはなくなってしまったけれど、その分、便利になったわ。いくつも大きなホテルが建って、土日になると大変よ、芸能人を筆頭に大勢、観光客が訪れているわよ。」
「そうですか。そんなに有名な島なんですか。それじゃあ、俗化してしまったというわけですね。」
「でも、とてもきれいなところよ。日本にはない美しさね。美術の先生なら一度は行かないとね。そうね、色が違うわよ。石垣の海の色とはまったく違う色だわ。」
「実は、知り合いがボラカイ島におりまして、今度の土曜日に行く約束をしているのですがね、吉川先生も一緒に行きませんか?後で航空券を買いに行きますが、良かったら、どうです、飛行機代おごりますよ。」
「いいわね、ボラカイか、あたしも行こうかな。」
「土曜日の朝出て、日曜日の夕方帰って来るスケジュールですが、それで大丈夫でしょうか?」
「それでオーケーよ。あたしダイビングでもしようかな。諭君もどう?」
「僕はダイビングは・・・・・・。」
「片足だって、ダイビングは出来るわよ。海の中は別世界、お魚がいっぱいよ。マンタにも遇えるかもよ。でも、あまり無理は言わないわね。」
「僕はダイビングは結構です。」
「ごめんね。余計なことを言ってしまって、でも、ボラカイ島に諭君の知り合いがいるなんて、どんなお知り合い?」
「お医者さんですよ。」
「その方、日本人?」
「ええ、日本人ですよ。ボラカイ島で診療所をやっているそうです。」
「あれ、どこかで聞いたことがあるわね。その人の名前は?」
「正樹先生です。」
「あー、知っているわよ、以前、その方のことを新聞で読んだことがあるから、・・・・・・そう、諭君の知り合いなの、何だかお会いするのが楽しみだわね。」
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。諭は自分の美術室へ戻って行った。
マニラ日本人学校は以前はレビタウンと呼ばれる樹木がうっそうと茂る閑静な高級住宅地の中にあった。そこの住民関係者以外は入ることが出来ない高級級住宅地の柵の中にあって、さらに、もう一つのフェンスで囲まれて幾つかの校舎が建っていた。明るい雰囲気で満ち溢れた校舎と、ヤギなど小動物が放し飼いにされている、のどかでとても広い校庭は訪れる人々の心をほっとさせていた。 学校の登下校の時間になると、大型のバスが何台も横付けになる。マカティ地区と呼ばれるマニラの高級住宅地へ子供たちを送り迎えしているのである。このバスを利用している子供たちのほとんどが、フィリピンに進出してきている大手企業のマニラ駐在員のご子息たちだ。バスの他にも運転手付の乗用車が何台も学校の門の外に待機している。こちらはマニラ在住の日本人たちの子供たちを送り迎えしている車だ。朝から子供たちが帰る時間まで門の外で待っている車も何台もあった。そんな車のドライバーたちは子供たちを待つ間、木陰でいろいろなギャンブルゲームをして時間を潰しているのだ。歩いて学校に通っている生徒は本当に数えるほどしかいなかったが、そんな子供たちには必ずお手伝いさんが一緒についてきていた。だから一人で通学することを許されていたのは、学校があるレビタウンに住んでいる子供たちだけだった。
レビタウンへやって来たボラカイ島の子供たち
ボラカイ島にいる千代菊と魚屋のハイドリッチには2人の子供がいて、島の小学校へ通っていた。上の子はもう小学校の上級生になっていた。また菊千代にも茂木が残してくれた男の子がいて、岬の豪邸からトライシクルで町の小学校へ通っていた。運命のいたずらで京都からやって来た双子の姉妹の子供たちはボラカイ島ですこやかに成長を続けていた。石原万作とリンダの間にも、結婚するとすぐに2人の子供が恵まれた。その子供たちが学校に入る年齢になるのを待っていたかのように、万作は以前に勤めていた日本人学校で再び働くと言い出した。と同時に、自分の子供たちもその日本人学校に入れることを決断した。万作とリンダは、長い間、悩んだ末にそう決めたのだった。そのことで岬の豪邸の最上階で話し合いがもたれていた。石原万作がみんなを前にして言った。
「また日本人学校でプリントなどを刷る印刷の仕事をしてもいいと言われましたので、学校の近くに引っ越して、自分の子供たちもそこから日本人学校に通わせることにしました。」
ネトイが質問した。
「リンダはどうする?」
「彼女はこの岬の家に残ります。私の稼ぎだけではとてもやってはいけませんからね。リンダはこのままこの家を手伝わせて下さい。どうかお願いします。私の給料は現地採用ですからね、日本から派遣されて来る先生方とは違って、とても安いのですよ。」
ネトイが再び言った。
「日本人学校の学費は高いだろう。おまけにレビタウンに住むとなると大変だぞ。それでも行くのか?」
「ええ、二人でよく考えて結論を出しました。子供たちの将来のことを優先させて考えた末に、やはり日本人学校がいいだろうということになりました。」
後ろの方でじっと話を聞いていた菊千代がリンダと万作にとって素晴らしい提案をしてきた。
「万作さん、うちの子供も一緒に日本人学校に入れてくれませんか。子供たちの学校の学費はすべて私が払うことにしましょう。それと、学校のすぐ横に家を借りて、歩いて学校に通えるようにもしましょう。もちろん家賃は私が支払います。」
「奥様、でも、レビタウンは高級住宅地ですけれど、・・・学校の周りにある豪邸の家賃は決して、・・・安くはありませんよ。」
「大丈夫ですよ。茂木がこの子の為に残してくれたお金がありますからね。それから、リンダも一緒にその家に移りなさい。子供たちをお願いします。」
リンダが涙ぐんで言った。
「菊さん、ありがとうございます。何とお礼を言ったらよいのか、子供たちと離れずにいられるのですね。本当にありがとう。」
茂木が死んでから、そっと菊千代と慎太郎のことを見守り続けてきたのはネトイだった。その二人のことを生涯守り続けるとネトイが言い出して、菊千代もネトイのことを自然に受け入れた。そしてボンボンが二人の為に残していった財産は二人合わせると二億円もある。菊千代は皆の顔を見回しながら言った。
「もしかすると、千代ちゃんの子供たちもお願いするかもしれませんよ。以前、その話題になった時に、千代ちゃんは悩んでいましたからね。きっと千代ちゃんは賛成するでしょうけれど、だんなの家族がどうおもうか、ちょっと、後で行って聞いてきますね。その日本人学校には中学校もあるわけですよね?」
「ええ、ございます。小学校と中学校があります。中学校の生徒さんたちの偏差値は相当に高いと聞いております。」
「分かりました。あそこの子供たちはもう大きいので、高校のこともよく考えながら、千代ちゃんとよく相談してみましょう。万作さん、何れにせよレビタウンの家は探しておいてくださいね。出来るだけ学校に近い方がベターですよ。」
「はい、奥様、承知しました。」
「頼みましたよ。」
「あー、そうだ。あの学校に新しくやって来た美術の先生ですがね。正樹先生のお知り合いだそうですよ。ただ、生徒さんの間では・・・・・・、片足がないものですから、まだ・・・。その先生もあそこの学校には、まだ、馴染んではいないようです。近々、ボラカイ島に来るようなことを言っていましたが、正樹先生は何も言っていませんでしたか?」
ネトイが答えた。
「お客が来るとだけ、言っていたな。そう、片足の先生が来るの、・・・・・・すまん、片足と聞くと、つい、死んだあのゲリラの爺さんのことを思い出してしまってさ。」
菊千代が話をまた元に戻した。
「万作さん、少し大きめの家を借りくれませんか。千代ちゃんやあたしも、時々、泊まりに行きますから、お金のことは心配しないで、学校関係者があっと驚くような豪邸を借りて頂戴。」
「分かりました。」
千代菊とハイドリッチも上の子供を日本人学校の中学部へ入れることになった。日本語に関しては岬の豪邸で日比混血児たちと一緒に勉強していたのでまったく問題はなかった。その高い学費は全額を菊千代が負担することになった。ハイドリッチの魚屋の収入ではとても無理だったからだ。
数日後、石原万作はレビタウンの特別エリアで一番でかい家を借りてボラカイ島に帰って来た。その豪邸は学校のすぐ横でプールだけでなくテニスコートや広い庭も付いた、それはまるで映画に出てきそうな家であった。後で聞いた話だが、実際に以前に映画のロケで使われたことがあったそうで、バタンガス地方の名士の別宅だったそうだ。玄関にいたっては大きなホテルの入り口のようで、車が楕円を描きながら何台も止められるようになっていた。7つ寝室はどれもバスケットコートくらいの大きさで、バスルームがどの部屋にもついていた。敷地の面積はおそらくマカティエリアのどの豪邸にも引けを取らないと石原万作が自慢していた。その話を伝えにネトイが正樹のところを訪ねた。診療はヨシオとタカオの二人が診ているので、正樹はネトイと一緒にブリティッシュべーカリーへ行った。
「何で菊ちゃんは見栄を張るのだろうね。そんなに大きな家を借りることもないのにね。」
正樹も同じ気持ちだったが、菊千代の気持ちを考えて言った。
「きっと、日本からやってきている子供たちやその親たちに馬鹿にされたくないのだろうよ。ところで、どうなんだ、菊ちゃんとはうまくいっているのか?」
「ああ、うまくいっているよ。その証拠に慎太郎と一緒にレビタウンへ移り住むとは言わなかっただろう。おまえの方はどうなんだよ、早苗さんとはうまくいっているのか?」
「おれたちのことは心配するな。」
「そうだ、万作さんが言っていたけれど、日本人学校に新しく来た美術の先生が、今度、島に来る知り合いなのか?」
「ああ、そうだよ。東京のバイト先で知り合った。川平諭といって、沖縄の出身だ。」
「片足がないそうじゃないか。」
「子供の頃に事故にあってな、片足を失ってしまったんだ。ネトイ、それがな、気の毒な話なんだ。彼はその事故のことで自分の父親のことを憎んでいる。その事故に遭ってから、諭は父親とは話をしていない。父親も弁解めいたことは一切せず、じっと耐えているだけなんだ。」
「それは悲しい話だな。」
「何とかならんかな?」
「それは・・・うちら人の力では難しいかもしれんな。」
「このままでは、二人とも気の毒でな、見ていられないよ。」
「ボラカイ島の奇跡か?・・・・・・それは無理だな。そうか、日本のバイト先で知り合った片足の青年か、・・・・・・。片足と聞くと、どうも、俺はあの爺さんのことをおもいだしてしまってな。」
「ああ、あの爺さんのことは忘れないよ。何しろ、俺を殺そうとした爺さんだからな。」
「それから、何も、お前が何度も日本へ出稼ぎに行かなくてもいいじゃないか。お金なら、俺が都合してやるよ。」
「いや、それは結構だ。」
正樹はバーボンのビンを取り上げ、空になったネトイのコップに注いだ。そう言ってくれるネトイの気持ちはとても嬉しかったが、診療所の経費は自分で何とかしたかったのだ。
翌月、ボラカイ島の子供たちがマニラ国際空港に近いレビタウンに移った。菊千代の子供、茂木の忘れ形見である慎太郎と千代菊の子供たち、一郎と二郎、そしてリンダと万作の二人の男の子、名前が戦国武将の影虎と晴信、この五人の子供たちが日本人学校のすぐ横の豪邸に引っ越して行った。リンダと石原万作も保護者代表として一緒にレビタウンに移った。ボラカイ島の岬の家はリンダがいなくなって、とても寂しくなってしまった。そこで暮らす日比混血児たちにとってリンダは母親代わりであった。彼女の存在は非常に大きかったからだ。
千代菊の長男である一郎が一番年上である。そして、慎太郎、二郎、晴信、影虎の順番で続く。この五人の男の子と万作とリンダ夫婦の7人で日本人学校のすぐ横で新しい生活が始まった。実際はボラカイ島の岬の家のメンバーがマニラへ出て来た時の宿としても使われることになったので、毎日10人くらいの訪問者があった。もちろん、正樹も利用することが許されていた。兎に角、大きな家で200人の宿泊客があっても、ゆったりと収容出来るものであった。このエリアは水道水が期待できない場所で、給水車で水を売って商売している業者が多かった。ただこの豪邸の庭の隅にはやぐらがあり、その上には大きなタンクがあった。井戸水をポンプで汲み上げて、その大きなタンクに貯えていたので、飲み水以外はまったく不便はなかった。しかし、もっぱらこの水はプールの水として使用された。停電の時には給水車で水を買ったりもした。もちろんレビタウンの共有タンクの水も利用していた。それぞれの水をそれぞれの用途で使い分けていた。近隣の住民が水で困っていることを考えると、まったく贅沢な話であった。
こうして五人の子供たちは日本人学校へ歩いて通うことになった。石原万作も学校で夜遅くまで残って働くことになった。
美人局(つつもたせ)
レビタウンに着いて最初の夜に、石原万作とリンダは引越しの挨拶をするために隣の家に行った。すると以外にも、お手伝いではなく日本人の男性が作務衣姿で玄関先に出てきた。リンダは直感でもって、その日本人が不良外人であることを見抜き、万作の後ろに隠れるように後退りした。万作もその男の話し方やしぐさで暴力団と何らかの関係があることが分かった。玄関の横にある犬小屋の中では大きなボクサー犬が牙をむき出して万作のことを睨みつけていた。その夜は簡単に挨拶だけをしてさっと失礼した。
翌日、隣の方から夫婦そろって夕食に来ないかと誘われたが、万作だけが一人で行くことになった。石原万作がボクサー犬のうなり声を聞きながら玄関の中に入ると、大きなリビングが広がっていた。ガラスの反対側にはプールがあり、プールがライトアップされてキラキラ光っていた。さっきまでそのプールで泳いでいたのだろうか、バスローブの上から出ている頭の毛は濡れたままだった。万作よりは年下であるはずなのだが、言葉使いから、まったくそれを感じさせなかった。名前は北野大地と言って、大柄なプロレスラーといったところだ。その北野大地が言った。
「まあ、おかけなさい。今、すぐに飲み物を用意させますから、いい酒がありますよ。スコッチでよろしいかな?」
「私は酒の良し悪しなど、ちっとも分かりませんから、そんな高級なお酒はもったいないですよ。普通のもので結構ですよ。」
「石原さんはそこの学校にお勤めでしたよね。以前もお見かけしたことがありますよ。」
「ええ、しばらくボラカイ島にいましたが、また、子供たちを学校に入れるために、この町に戻って来ました。」
「ボラカイ島ですか、それはまた、けっこうなところに・・・・・・、私も前に一度行きましたが、きれいな島でしたね。」
「また、そこの学校で仕事をすることになりまして、引っ越してまいりました。」
「失礼ですが、以前、お見かけした時には植木の手入れなどをされていたようですが、学校の先生ではありませんよね。」
「ええ、違いますよ。今度は印刷の仕事を任されました。」
「石原さん、気分を悪くしないで下さいよ。私は物事をはっきり言うタイプでね、隣の家は、私が住んでいるこの家の何十倍もの広さがありますよ。借りるとなると、とてつもない家賃のはずだが、それを学校の小遣いさんが払えるわけがありませんよね。私のこの家だって、大きな方ですよ。一般のフィリピン人ではとても借りられる家ではありませんよ。石原さんは宝くじでも当たりましたかな?」
「いえ、実際に借りるのはボラカイ島にいる奥様でして、その奥様のお子様を自分たち夫婦で面倒をみることになりました。」
「すると、そのお子さんも日本人学校へ?」
「ええ、私たちの子供と一緒に学校へ通わせます。」
「日本人学校へ入れるということは、そのボラカイ島にいる奥様というのも日本人なのですね。」
「ええ、そうです。旦那様はお亡くなりになりましたが、双子の姉妹がボラカイ島においでになりまして、その子供たちも一緒にそこの学校に入れることになりました。」
酒とつまみがソファーの前のテーブルに並べられた。それを運んで来たのは、制服を着たお手伝いだった。奥のキッチンで料理をしているのが奥方なのだろうか、万作には彼女がこの男の愛人のようにもおもわれた。万作はスコッチを一杯空けたところで、勇気を出して聞いてみた。
「あのう、北野さんはこのマニラで永住されて・・・・・・、永住とはおかしな言い方ですね、その、お仕事は何を?」
「仕事ですか、私は通訳をしておりますよ。それと人助け、そう、人助けですな。」
「通訳ですか。それでは、もうこのマニラに長く?」
「いえいえ、まだ3年くらいですよ。」
「石原さんはどのくらいになります?」
「私は50年ちかく、この国におります。」
「50年・・・。これはまた驚いた。半世紀もこの国で・・・・・・、それではこの国のことは何もかもご存知ですな。」
「いえいえ、私なんて、何も知らずに、ただ、淡々と生きてきただけですよ。やっと、よき伴侶と出会いましてね、この歳になって、初めて子供にも恵まれました。だから、今、浮き浮きしているところです。」
「そうでしたか。」
その時、北野の携帯電話が鈍い音で鳴り出した。
「はい、もしもし。・・・・・・、分かった、すぐ行く。いつものところだな。・・・・・・了解。」
紐が付いた携帯電話を懐に戻しながら、北野が万作に言った。
「すみません。通訳の仕事が入りました。お誘いしておいて、まことに申し訳ありません。」
「いえいえ、お仕事なのですから、・・・・・・それは、どうぞ、私には気を使わずに。それでは私はこれで失礼させていただきます。」
「すみません。この埋め合わせは、また今度いたしますから。」
「いえいえ、どうぞ、それは気にせずに、・・・・・・では、失礼します。」
石原万作は帰るとすぐにリンダに言った。
「こんな夜中に通訳の仕事とはおかしいね。」
「やっぱり、変な人よ。あたし、あの人、嫌いだわ。」
「まあ、分からんけれどな、とにかく僕もあまり深くは付き合いたくないね。そんな気がした。」
「奥さんはどんな人?」
「それが紹介はされなかったけれど、どうやらフィリピーナのようだな。もしかすると愛人かもしれないな、分からない。」
「最近、悪い日本人が多くなってきているわ、万作さん、気をつけてね!」
「うん、分かっている。でも、東京にしたって、ニューヨークにしたって悪い奴はどこにでもいるからね、特別にここが危険だとは言えないよ。」
「でも、グループでさ、日本から来た観光客をねらった犯罪が多くなっていると聞くわよ。」
「確かに、鼻の下をのばした観光客がセットアップ詐欺にひっかかるケースが目立ってきたかもしれないけど、でもさ、他国に来て、少年や少女にいたずらしようとする方も悪いな。騙す方も悪いが騙される方も悪い。」
リンダが目をまん丸にして、おどけた顔で言った。
「ねえ、もしかすると、隣の北野さんは、そのセットアップ詐欺の通訳担当かもしれないわね。日本から来た有名人なんかが、その詐欺にひっかかって何百万円も盗られた話をよく聞くわよ。」
「リンダ、あまり確かでないことは言いふらさない方が無難だよ。黙っているのが一番だ。美人局(つつもたせ)か・・・・・・。」
「何、それ?」
「美人局(つつもたせ)さ。セットアップ詐欺のことさ。」
北野大地はパサイ警察の取調室にいた。日本からこのマニラに遊びに来ていた俳優吉田勘助が逮捕されたのだった。未成年の少女を自分のホテルに連れ込んだ罪である。しかし、その少女も彼を連行してきた警官も、取調べ官もみなグルであった。北野大地も通訳としてこのグループの大切な役割を演じていた。日本に知られては俳優生命が絶たれると、吉田勘助は500万円の振り込み送金を承諾してしまった。数日後、北野大地は何なく自分の分け前の100万円を哀れな俳優吉田勘助からむしり盗ってしまった。
エドゥサ革命
エドゥサ革命
戦後、フィリピンはしばらくアメリカの植民地政策が続いていた。しかし、次第にフィリピンという国のナショナリズムの運動が活発化してきた。そこで登場したのがマルコスだった。ところがマルコスが大統領になってもフィリピン経済は低迷したままだった。貧困が深刻な社会問題となり、モロ解放戦線やNPL新人民軍などのゲリラの活動が激化してきた。ゲリラだけでなくインテリ層やカトリック教会、労働者たちの不満も大きくなっていった。マルコスは独裁を維持するために戒厳令を発令し、政治集会やデモなどを禁止した。立法や行政も停止して報道の統制管理も実行した。マルコスに異を唱える者は逮捕されだした。そして大きな事件がマニラ国際空港で起こった。
国民の支持があったベニグノ・アキノ上院議員がマニラ空港で暗殺されて、マルコスの独裁政治に反対する声が一気に沸きあがった。そして形ばかりの大統領選挙が行なわれたが、投票箱の略奪やマルコスに反対する指導者たちの抹殺が繰り返され、国民の民主主義を求める声はより高まった。選挙結果はもちろん混乱した。この選挙に出馬したのがアキノ上院議員の未亡人、コラソン・アキノ氏だった。彼女は民衆の圧倒的な支持を得て、いち早く選挙の勝利宣言をした。しかし、国民議会は与党単独でマルコスの当選を宣言してしまった。大多数の国民の心の支えであるカトリック司教会議はマルコスに抗議し、アキノ未亡人も非暴力の運動を展開した。ここで、やっと軍が動いた。エンリレ国防相とラモス参謀総長代行はマルコスに辞任を要求して、アギナルド国軍本部基地に立て籠もったのだった。そして、それを知った多くの国民は基地の周りに人間のバリケードを築き、マルコスが指揮する戦車隊の道をふさいだのだった。修道女が戦車に花を捧げ、人々は「バヤンコ」(我が祖国)を歌った。アギナルド基地の前のエドゥサ通りには何十万人もの人々が集結した。この時点で、国民の民意は完全にマルコスから離れていた。アメリカもマルコスにハワイへの亡命の道を開いた。ヘリコプターでマラカニヤン宮殿からマルコス一家はアメリカの基地へ逃れて、そのままハワイへ亡命した。
この一連の騒ぎで学校は休みとなった。正樹と菊千代は、ちょうどその時、レビタウンの家に来ていた。上空をアメリカの戦闘機が何度も物凄い音で旋回していた。治安を維持するために、メトロ・マニラの人々をただ威嚇するだけで、まったく攻撃はしなかった。もし、このアメリカの近代的な戦闘機がアギナルド基地を攻撃すれば、一瞬で、ラモス参謀総長代行らの決起は無駄になってしまったことだろう。しかし、それをしなかったということは、この時、アメリカは民意が離れたマルコスをすでに見放してしまっていたのだろう。
日本人学校の教師である川平諭と吉川みよこ先生も学校のすぐ横のレビタウンの家を訪問していた。吉川みよこ先生が正樹に言った。
「先日はボラカイ島を案内していただき、ありがとうございました。ルホ山から見たあの雄大な景色、あたし、本当に感動してしまいました。そして、夜、歩きながらボラカイ島の砂浜で正樹先生が言っていたことが現実になりましたね。先生が言っていた通りマルコス大統領がハワイに亡命してしまいました。でも、先生はどうしてそれをご存知だったのですか。」
「マニラ東警察の署長ですよ。何か動きがあるようだと言っていたので、僕なりに推理しただけのことです。だけど、民衆の力というものは、もの凄いですね。銃口を塞いでしまいましたからね。大概、独裁者の最後は悲惨なものなのですが、今回はあまり血を流さずに革命が成功したようですね。それから不思議な話なのですがね、ニノイ・アキノ氏が空港で暗殺されて、政変が起こり、そのアキノ氏の婦人が大統領になることを予言した老人がいました。今、起こっていることを、まさにエドゥサ革命のことを、だいぶ前に私に話して聞かせたゲリラの老人がいました。もう、彼は死んでしまいましたがね。」
川平諭が言った。
「へー、正樹先生にそんなことがあったのですか。きっと、その老人は未来に来たことがあるのですよ。それにしても無血革命なんて、あるのですね。僕は革命って、もっと血生臭い、激しい戦いのようにおもっていましたが、・・・・・・。」
「まあ、確かに、今回の出来事を革命ととるか、あるいはただの政変だと考えるかは人それぞれで違うでしょう。僕はカトリック教会の的確な指導とそれを信じた民衆の力の団結があったから、平和的な政権移譲が成功したのだとおもいますよ。」
吉川みよこ先生がこの国の国民性にも触れた。
「この国の人って、結構、みんな生きることに関しては強かだとおもいません。でも、今回の事件を見ていると、国民性はかなりやさしいのかもしれませんね。」
正樹もまったく同感だった。
「これで、アキノ夫人が大統領になるでしょうね。後はゲリラたちの動きが気になるところですね。まあ、しばらくの間、学校と住まい以外は出歩かない方が無難でしょう。そうか、2月革命か・・・・・・、いや、エドゥサ革命と呼んだ方が響きが良いかな、・・・・・・、それにアギナルド基地も・・・・・・、昔、スペインと戦った革命の英雄の名をつけた基地ですよ。再び、その場所で革命が起こったとは・・・・・・何か計り知れないものを感じますね。今回、決起した軍人たちも英雄として後世まで語り継がれますよ。もしかすると、この国のリーダーになる人も出てくるかもしれませんね。」
バギオへの道
川平諭が美術の教師としてフィリピンのマニラ日本人学校に着任した、その年の小学部6年生の修学旅行はバギオと決まった。また同時に中学部2年生の修学旅行はセブ島に行くことも職員会議で決定された。子供たちの修学旅行に先立ち、宿泊先の下見も兼ねて、川平諭は吉川みよこ先生と一緒に小学部の旅行スケジュール通りに歩いて回ることになった。もちろん、諭はバギオへ行くのは初めてであった。吉川みよこ先生は昨年もバギオへ子供たちを連れて行っている。その吉川みよこ先生が言った。
「川平先生、今、私たちが走っている、この道ですけれど、昔、日本から労働者がたくさんこちらに移り住んで来て、建設したのをご存知ですか?」
「えー、そうなのですか。知りませんでした。」
マニラからバギオへ向かうバスの中で、吉川みよこ先生は諭に語り始めた。
「バギオはね、アメリカがこの国を占領していた時に、標高が高い場所に、自分たちの住みやすい都市をつくろうとしたわけ。一年の平均気温が20度前後の涼しい高山にワシントンDCを設計したバーンハムを連れて行ってね、わざわざ設計させた計画都市だわ。でもね、工事は難航を極めたそうよ。マニラからバギオへ向かう道路の建設に困ってしまってね、アメリカは勤勉な日本人労働者を利用したのよ。だから、あたしたちが今、走っているこの道は日本人たちがつくったの。」
「何でアメリカはそんな山奥に都市を築いたのですかね。」
「きっと、マニラがとても暑かったからでしょうね。当時はまだエアコンもなかったでしょうからね。少しでも居心地の良い場所で、この国の統治をしたかったのでしょうね。」
「ガイドブックによると、バギオは観光地として有名ですよね。」
「ええ、そうね、日本の軽井沢のような感じかしらね。観光地としても、とても有名ですけれど、今は学園都市でもあるのよ。総合大学や医学の専門学校、それにフィリピンの士官学校など10以上の大学があってね、涼しい環境で多くの学生たちが勉強しているわ。それに観光地でありながら、珍しく遊興的な場所も少なくて、治安もとても良い場所だわ。市民の英語の水準も高くて、高原の避暑地として、富裕層にはとても人気があるわね。」
バスの入り口には兵隊が小銃を肩にかけて立っている。それを見ながら諭が言った。
「みよこ先生、このバスが出発する時にさ、最後にあの兵士が乗り込んで来ましたよね。
地方へ向かうバスには、ああやって、兵隊が必ず乗り込んで来るのですか?」
「ええ、そうよ。バギオは安全な都市だけれど、途中の山道が危ないの。いつゲリラの攻撃があるか分からなでしょう。だから、ああやって私たちを守っていてくれるのよ。」
諭とみよこ先生は無事にバギオ市に到着した。チェックインしたホテルはよく選び抜いた最高級のホテルであった。しかし、このホテルは後に起こった大地震によって、その斬新な吹き抜けロビーのデザインが災いして、もろくも崩れ去り、多くの死傷者を出してしまったホテルだった。もちろん、そんなことは二人には知る由もなかった。明るく最上階まで広がった空間の中で、民族衣装を着たウエイトレスに食事を注文しながら、二人は話をした。
「さっきバスの中で、日本人の労働者がここへ来る道路の建設に携わった話をしましたでしょう。その話には、まだ、続きがあるの。」
「続きが?」
「ええ、とても悲しい話だけれど、子供たちにも、ちゃんと話して聞かさなくてはならないわ。」
「悲しい話?」
「バギオの街はね、昔は日本人で溢れていたそうよ。道路建設が終わっても現地の女性と一緒になった日本人労働者はたくさんいたはずだわ。だけど、第二次世界大戦が起こると、自分が日本人であることを偽ったり、山へ逃げ込んだ人たちも大勢いたの。それがどんな悲惨な状態だったか、誰にでも簡単に想像は出来るわ。」
「えー、そんな悲しい歴史があったのですか。子供たちはそれを知ったら、いったいどうおもうでしょうね。」
「だから、この修学旅行は意味があるの! 遠く日本を離れて、異国の地で勉強をしている子供たちにしか出来ない、貴重な勉強になるでしょうね。京都や奈良の大部屋に泊まり、枕投げをして夜を過ごし、昼間は寺社を不満を言いながら巡り、他校の生徒たちと睨み合いながらすれ違う旅行とは一味も二味も違う修学旅行になるわ。」
「すると、今でも山中に隠れ潜んでいる日本人たちがいるということですね。」
「その通りよ。カトリック教会のシスターたちが一生懸命にそんな人々を捜しているそうだけれど、まだまだこの地では戦争は終わっていないわ。」
「そう、僕も、もう少し勉強をしてから、この修学旅行に臨まなくてはなりませんね。」
しかし、吉川みよこ先生と川平諭は修学旅行の下見が済んでもマニラに戻ることはなかった。帰りの山中でゲリラの襲撃に遭って誘拐されてしまったのだった。
人質解放交渉
海外で大きな事故や災害があると、日本ではよくこんな報道のされ方をする。
「・・・で列車の衝突事故が起こりました。500人の死者が出た模様です。現地の日本大使館が確認したところ、日本人の犠牲者はいないようです。」
何かおかしな報道の仕方だ。日本人が事故に巻き込まれていなければ、それでいいのかということになってしまう。テレビを見ている方も、日本人が災難に遭っていないと分かると、チャンネルを変えてしまう。何かが違うような気がする。
バギオからマニラへ向かう途中のバスがゲリラによって襲撃されたというニュースはボラカイ島の正樹のところへもすぐに届いた。そして、川平諭の実家のある石垣島にも、そのニュースは配信された。日本人学校の教師が二人、事件に巻き込まれたと大々的に報道され、諭とみよこ先生の顔写真がテレビのブラウンカンに映し出された。バスの乗客のほとんどが解放されたが、外国人はゲリラによって連れ去られてしまった。
ボラカイ島の正樹のところにマニラ東警察の署長から連絡が入った。
「正樹君か、ニュースを聞いたかね。どうやら、今回のバス襲撃事件の首謀者はジャネットらしいぞ。それから人質になってしまった学校の先生は君の知り合いのようだね。もしかすると、君に間に入ってもらって、交渉することになるかもしれない。こちらへ来てもらいたいのだが、お願い出来るかね。」
「ええ、もちろんですよ。すぐにまいります。」
正樹は署長が用意してくれたヘリコプターで早苗と一緒にマニラへ飛んだ。
一方、その事件のことを聞いた石垣島の諭の父親は迷うことなく田畑や牛たちを担保に入れて、お金を借りまくっていた。息子がゲリラに拉致されたと聞き、大金が必要だと考えたからだ。諭の父親である太郎は隣の良太と一緒に緊急時の渡航手続きを済ませて、二日後にはマニラへ向かうことが出来た。やはり、太郎の頼るところは正樹だったが、連絡がとれず、まずマニラにある大使館へ行って状況を確かめることにした。
早苗と正樹は日本人学校のすぐ横のレビタウンの家で署長からの指示を待っていた。その広い庭はヘリコプターの離発着も可能であった。いつでもゲリラたちとの交渉が出来るように正樹は待機していた。もちろん、すぐ隣の日本人学校の校庭でもヘリの離発着は可能であったが、日本人学校の中は治外法権、警察のヘリが入ると色々と問題が複雑になってくるので、石原万作が借りている大きな家の庭を署長は利用することにしたのだった。大使館との連絡は万作が引っ切り無しにとっていた。もし、日本人学校に何らかの要求があれば、すぐに連絡が入ることになっていた。
事件が起こって二日が経過した。諭の父親である太郎と良太が大使館に到着したとの連絡が入った。万作はすぐに車をとばして、二人をレビタウンの家に案内した。その二人を正樹は玄関先で迎えた。
「何と申し上げたらいいのか、・・・・・・今、警察も軍も全力で諭君を救出するために動いていますから、・・・・・・、」
「正樹先生、諭の為に、色々ご尽力いただきましてありがとうございます。」
「いえ、私など何も出来ませんが、・・・・・・さあ、どうぞ、中へ、疲れたでしょう。良太君もどうぞ。まだ、犯人グループからは何の連絡も要求もありません。警察や大使館、それから日本人学校にゲリラたちからコンタクトがあれば、すぐに、ここに知らせがくることになっていますから、この家で待つことにしましょう。」
「ありがとうございます。皆さんに感謝いたします。それから、正樹先生、ちょっと、よろしいですか。」
そう言うと、太郎は他の者には聞こえないように、正樹の耳元で小さな声で言った。
「少ないですけれど、諭の為に3千万円を用意してきました。正直、これが私の精一杯です。交渉の際は、どうぞ、使って下さい。」
「承知しました。」
さらに二日が経過したが、ゲリラたちからの連絡はなかった。
早苗がキッチンでゲストのためにコーヒーを入れていた。その後ろで正樹が言った。
「諭君の片足、実は、子供の頃に、諭君とあのお父さんが遊んでいる時に事故でなくなったんだよ。だから、諭君は自分の足がなくなったのはお父さんのせいだとおもっている。」
「そうだったんだ。」
「片足になってから、諭君はお父さんとは口をきかなくなってしまったんだよ。お父さんも弁解めいたことは何一つ言わずに、ただ、じっと耐えてきたんだ。」
「そうなの、それはお父さんも辛いわね。二人ともかわいそう。」
「署長が言っていたけれど、ゲリラの首謀者は、どうやら、あのジャネットらしいよ。だから、彼女に会ってさ、何とか二人を解放してもらうように頼んでみる。」
「その役目は、・・・正樹さんじゃなくては駄目なの? 他に適任者はいないのかしら。」
「ジャネットは僕のことをよく知っているし、それから、彼女のお母さんが日本の茂木さんのおかあさんと一緒に暮らしていることも伝えたいからね、僕がこの交渉を引き受けた。」
「でも、あたし、心配だわ。」
「ジャネットだって、好きでゲリラになったわけではないよ。成り行きで仕方なくこうなってしまっただけさ。」
「でも、人を殺すことを何ともおもわない人たちよ。誰か、もっと、人質解放の専門家にお願いした方がいいわ。」
「いや、僕がやるよ。諭君にお父さんが心配して来ていることを知らせたいからね。」
ルソン島北部には、まだ文明の灯が届かない地域が多い。首狩り族と呼ばれる人たちもつい最近まで存在していたくらいだ。山間の洞窟にはミイラが眠り、ジャングルには人の血を何の痛みも感じさせずに吸ってしまうヒルが生息している。途中でむしり取ると、なかなか出血が止まらない。だからヒルがたっぷり血を吸い満足して肌から離れるまで待った方が痛みもなく出血もしなくてすむ。確かに、目の前でどんどん血を吸って膨らんでくるヒルを見ていると腹が立ってくるものだ、そんな時はそのヒルを食べてしまえば元が取り返せるというものだ。しかし、それが出来る人間は数が限られている。
吉川みよこ先生と川平諭はそんなジャングルの中にいた。名前も知らない虫たちが容赦なく二人の身体に群がっていた。それに加えて、二人は激しい痛みを伴う下痢が続いていた。与えられた水が悪かったのだろう。二人の体力は限界に近づいていた。
「諭君、ごめんね。こんなことになるとは、・・・・・・。」
「みよこ先生が悪いわけではありませんよ。そんなこと言わないで下さい。」
「でも・・・・・。」
「それより、何か食べないと、二人とも衰弱死してしまいますよ。僕、あのゲリラの女ボスに頼んでみますよ。」
「あの人、日本人じゃないかしら、日本語は喋れないけれど、あたし、そんな気がするわ。」
「僕もそうおもった。」
諭は銃弾の並んだベルトを両肩にかけた見張りのゲリラに食べ物を頼んでみた。すると、半時ほど経って、小さなモンキー・バナナが届けられた。食欲のない二人だったが我慢してそれを口に入れた。その時だった、吉川みよこ先生が悲鳴を上げたのは、諭はみよこ先生のそばに駆け寄った。みよこ先生は自分の腕を指差しながら震えていた。
「何、これ?」
みよこ先生の白い腕には幾つも山ヒルがへばり付いていた。
「ヒルのようですね。先生の血を吸ってやがる。」
「やだ!早くとって!」
諭はそのヒルを素早く払い除けた。すると、みよこ先生の腕は幾つもの血の流れができ、すぐに真っ赤に染まってしまった。取り除いたヒルは諭が足で踏み潰した。諭の足も血だらけになってしまった。
諭たちの他にも二人のアメリカ人男性と一人の韓国人女性が人質になっていた。同じバスに乗り合わせて拉致されてしまった。ゲリラの目的は政治的なものではないのか、金が目的のように諭にはおもわれた。バスから降ろされる時に、パスポートをゲリラによって取り上げられてしまったから、日本大使館へはすでに連絡がいっているはずである。
「みよこ先生、変な事を聞いていいですか。もしですよ、日本政府が僕らの為に身代金を出したとしますよね、そのお金は後で僕らが返済するのでしょうかね?」
「さあ、分かりませんね。それより、あたしたち生きて帰れるのかしら? いつまでここにいるのかしらね。 あと、二日もしないうちに、あたしは駄目みたい。もし、諭先生だけ助かったら、岡山の姉のところに連絡して下さい。」
「みよこ先生のご両親は?」
「いないわ、あたしと姉は施設で育てられたの。両親はあたしたちを捨てて、どこかにいなくなったみたいだから。」
「ごめんなさいね。余計なことを聞いてしまって。」
「いいのよ。もう平気だから。姉は結婚して岡山にいるわ。住所は学校に行けば分かるから。」
「駄目ですよ!しっかりして下さいよ。一緒に帰りますからね。いいですね。」
「諭先生、あたし、少し眠たくなりました。また、ヒルがついたら払い除けてくださいね。」
「分かりました。」
翌日、韓国人の女性の姿が見えなくなった。諭たちが拘束されているキャンプからいなくなっていた。その次の日、アメリカ人の二人も消えていた。吉川みよこ先生はもう寝たきりになり、口数も少なく、ただじっと目を閉じたまま横になっていた。諭は英語で吉川先生の身体の具合が悪いので、彼女だけ解放してくれるようにゲリラたちに申し出た。何の返答もないまま、その翌日、朝、諭が目覚めてみると、吉川先生はいなくなっていた。どうしたのかと聞いても誰も答えてくれなかった。こんな恐怖はもちろん生まれて初めてのことだった。
更に三日が経過した。諭の体力も本当に限界に近づいていた。昼近くになって、二人のゲリラ兵士によって両腕を抱えられるようにして、女ボスのいるキャンプに連れて行かれた。そこには諭がよく知る二人の人物がいた。ひとりは 正樹だった。そしてもう一人は諭の父親の太郎だった。
「父さん。」
子供の頃に、諭が片足を失ってから、やっと、太郎のことを父さんと呼んだ瞬間だった。
「諭、よく頑張ったな。もう大丈夫だ。」
「みよこ先生は?」
「無事だ。病院にいる。正樹先生が助けて下さったよ。」
「よかった。」
それだけ言うと、諭の張り詰めていた緊張はプツリと切れてしまった。身体全身の力が抜け落ちてしまった。
山下陸軍大将
山下陸軍大将と二・二六事件
フィリピンで長く生活をしていると、かなり頻繁に山下財宝の話題が新聞やテレビから流れてくることに気がつく。この国の人々はまだ先の大戦で降伏した日本軍が隠したとされる軍資金の存在を信じているようである。近所のお年寄りがやって来て、戦時中に日本軍が発行した紙幣だが、ペソに換えてくれないかと頼まれることもある。もちろん、それは無理だと言って丁重に断るのだが、その時はきまって戦時中の話を長時間に亘ってたっぷりと聞かされることになる。そこで必ず出てくるのが山下財宝の話である。そのお宝伝説のこともあって、この国ではジェネラル・ヤマシタの名前は大人にも子供にもよく知られている。筆者は日本軍が隠したとされる埋蔵金にはあまり興味はない。それよりも戦争裁判の法廷で山下大将がとった態度を聞かされて、彼の人柄に興味を持った次第である。「マニラ大虐殺は自分の知らぬこと、しかし自分の部下が犯した犯罪は自分に責任がないとは言えない。」とし、すべての戦争責任を背負って絞首刑になった。自分が自決したのでは他に誰かが責任をとらされると考えたのだろう。その態度に筆者はとても感銘を受けた。しかし、だからと言って、彼がマレーの虎と称されシンガポールで犯した戦争犯罪に目を背けるものでもない。マニラ市の郊外にあるロスバニョス、そのスペイン語の地名通りに、そこには温泉が湧き出ている。フィリピン大学の農学部もある静かな田舎町だ。その地にある大きなマンゴーの木に吊るされた山下大将、軍服姿ではなく、囚人服のまま、マッカーサーの命令によって屈辱的に絞首刑にされた山下大将の無念を筆者は強く感じてしまうのである。
彼の軍歴を調べていくうちに、ある事件にぶちあたった。それは二・二六事件だった。誰もが五・一五事件と一緒に記憶しているあの二・二六事件である。その決起した青年将校たちに山下は同情を示してしまった。その結果、天皇や陸軍の上層部から睨まれ、その後は常に危険な最前線に送られ続けた山下だった。シンガポール作戦で日本国民の英雄となっても、天皇を拝謁することは許されなかった。結局、敗戦が濃くなったフィリピンに送られ、本土決戦の時期を遅らせる為の盾となって力尽きた。日本が8月15日に降伏しても、まだ山下たちは山中で戦い続けていた。山下が降伏したのは9月になってからだった。だからフィリピンの戦勝記念日は韓国や中国とは違って1945年の9月2日なのだ。
このフィリピンに日本軍が隠した財宝が本当に存在するのか否かは今となっては誰も知らない。戦後何十年が経っても様々な情報が飛び交っている。一攫千金、それは貧困の中で喘いでいる人々のささやかな夢なのかもしれない。そのお宝伝説を筆者はあっさりと壊したくない気持ちもある。この小説はあくまでもフィクションであり、歴史を正確に伝えるものでもない。この小説を読んで自分も宝探しをしてみたいとおもう人がいるかもしれないが、どうしてもあの大戦の末期に埋められたとされる日本軍の軍資金を探すつもりならば、まず財宝探しの申請をすることを忘れないようにしていただきたい。よく知らないが、政府が75%で発見者が25%という取り決めが、どうやらこの国にはあるらしいから、申請をしておかないと、運よく発掘したのはいいが、そのすべてを没収されてしまうことになる。それに山下財宝を見つけたとなれば、すぐに全国に知れ渡り、命の危険さえ出てくる。よく損得を計算した上で慎重に行動していただきたい。
太郎の父は二・二六事件の時、歩兵第3連隊の安藤中隊にいた。
すっかり元気になった吉川みよこ先生と一緒に川平諭はボラカイ島の正樹のところを訪ねていた。ゲリラと二人の解放交渉をしてくれたお礼を改めて言う為にボラカイ島にやって来ていたのだった。驚いたことに、諭の父親の太郎がまだ石垣島には帰らずにボラカイ島に滞在していた。ゲリラから解放された川平諭は父親の太郎が彼の身代金を支払い、すべてを失ったことを知らなかった。
「父さん、まだいたのですか。」
「ああ、そうなんだ。この島が、このボラカイ島があまりにきれいなものだから、正樹先生に無理を言ってな、まだ、こうしておいてもらっている。」
太郎は嬉しかった。息子の諭が片足を失ってしまったあの事故の後、太郎のことを恨んで避けるようになり、言葉を交わさなくなってしまった。その諭が再び「父さん」と呼びかけてくれるようになっていた。そのことが何よりも太郎は嬉しかった。諭が誘拐されて全財産を失ってしまった太郎だったが、以前のように自分の息子が自分のことを「父さん」と呼んでくれるようになったこと、それは当たり前のことなのだが、太郎にとっては失った財産よりも、もっともっと価値のあることだった。
昼食の時間だった。早苗と正樹は三人を浜辺の家に誘った。狭い診療所から出て、市場まで歩き、買い物をした後、トライシクルをひろった。五人は5分もしないうちに浜辺の家に到着した。早苗はすぐに昼食の準備をするためにキッチンに入った。正樹は三人を海の見えるベランダに案内しながら言った。
「今は、早苗さんと僕がこの家に住んでいますがね、以前は、あのジャネットが母親と一緒に少しの間この浜辺の家で暮らしていたのですよ。」
諭が驚いたように言った。
「あの女ゲリラですか?あのジャネットとか呼ばれていたゲリラの女ボスですか?」
「ええ、そうです。」
「すると、先生とそのジャネットは以前から、お知り合いだったというわけですね。」
「ええ、、そうですよ。」
今度は吉川みよこ先生が言った。
「あの方、もしかして、日本人ではありませんか?あたしにはそう見えたのですが。」
「その通りですよ。彼女は純粋な日本人ですよ。」
「そう、やっぱり、・・・。でも、あの方、日本語が話せませんでしたわ。」
「両親は日本人です。父親は外交官でした。赤ん坊の頃、ゲリラに誘拐されて、そのゲリラたちの手によって戦士に育てられましたからね、だから、日本語はまったく出来ません。」
「そうでしたか。」
太郎がベランダのデッキに両手をつきながら、まるで独り言のように話を始めた。
「エドゥサ革命でしたっけ、この国で起こった、この前の政変は? よく名前は知りませんが、ラモスさんという将校さんとホナサン大佐でしたか、あの武装した兵隊は、それからエンリレ国防大臣でしたよね。彼らがアギナルド基地に立て籠もって、クーデターが始まりましたよね。私は石垣島でテレビを通して、その様子をずっと見守り続けましたよ。クーデターのニュースを聞くと、私は必ず死んだ父親のことを思い出しますよ。
諭、・・・・・・、実はね、私たちは川平という名字を名乗っているけれど、本当は埼玉県の浦和の出身なんだよ。昔、近所の人たちや特攻から迫害を受けて、浦和にはいられなくなった。それで、同じ名前の地名がある石垣島に移ったんだ。おまえのおじいさんは二・二六事件を起こした兵隊の一人だったんだよ。おじいさんは上官の命令に従っただけの初年兵だったから、憲兵隊が尋問しただけで、裁判にはかけられなかった。しかし、その後、満州の激戦地に送られてな、無謀な突撃を強いられて戦死してしまったよ。残されたうちの母も憲兵隊や特攻が常に監視をしていて、まるで逆賊扱いだったそうだ。その死んだ母がまだ子供だった私に色々話をしてくれたよ。
おじいさんの所属していた歩兵第三連隊は浦和や川口などから徴兵された部隊だったんだ。あの事件で決起した1500名近くの兵隊の約半数は埼玉県の出身者だった。別に埼玉がどうのこうのと言うことではないのだ。たまたま、徴兵区がそうだったからにすぎない。主力の第一師団歩兵第一連隊も川越、入間、秩父の出身者がほとんどだった。深夜に突然、非常呼集がかけられて、首都圏の暴動を鎮圧すると上官から言われて、おまえのおじいさんはあの事件に巻き込まれてしまったというわけだ。」
正樹が太郎の話に加わった。
「二・二六事件ですか。昭和の初めですよね。日本の歴史教育は近代史のところはあまり時間をかけて勉強をしないような気がしますね。戦国時代だとか徳川時代が中心で、せいぜい頑張っても明治維新までだ。NHKの大河ドラマも織田信長や秀吉ばかりをやっていますからね。昭和史なんて、サッとすませてしまう先生方が多いようにおもいますね。」
「それに、あの事件は二十人近くが処刑されているのにもかかわらず、裁判は非公開でしたからね。戒厳令下ということで、弁護士もなしの裁判でしたよ。それにこの事件に関しては秘密が多過ぎだ。だから学校の先生方も教え方に困っているのかもしれませんね。うちの母が言っていましたけれど、父がいた部隊を指揮した安藤大尉は、年はまだ若かったけれども、立派な人だったそうですよ。彼の部隊内では他の部隊では当たり前に行なわれていたリンチや鉄拳教育は一切ご法度だったそうですよ。部下からの人望もとても厚かったと聞きます。当時、日本はとても貧しかった。とくに地方では若者が兵隊にとられた上に、景気も悪かったから、女の子はどんどん売り飛ばされていたそうですよ。そんな自分の国のことを憂いた青年将校たちが天皇の下に群がる元老や財閥、政治家たちを廃して、日本古来よりの天皇を中心とした国を造ろうとした。それが二・二六事件ですよ。しかし、銃による要人暗殺という手段をとった将校たちを天皇は認めなかったと母が言っていました。でも、皮肉なものですよね。この事件の後、日本は国の方向を誤ってしまったのだから。統制派と呼ばれる軍部の力が強くなってしまって、そのまま太平洋戦争に突入してしまった。」
吉川みよこ先生が太郎に質問をした。
「諭くんのおじいさんは、その時、どこを襲撃したのですか。警視庁ですか?それとも首相官邸?」
「おじいさんのいた中隊は安藤輝三大尉に率いられ、鈴木貫太郎侍従長官を襲撃したそうです。銃弾を浴びせかけて、大尉が刀で止めを刺そうとすると、そばにいた夫人の一言、もう十分でしょうの言葉で、礼を尽くしてその場を立ち去ったそうです。」
「鈴木貫太郎といえば、終戦の時の総理大臣ではありませんか?」
「そうです。だから彼は妻の毅然とした一言で救われたわけです。それから、あの事件でもう一人、命拾いをした人物がいますよ。それは岡田啓介首相です。義理の弟さんが秘書官をしていて、姿格好が首相と少し似ていたものだから、決起軍は飛び出てきたその弟さんを射殺して目的を達成したと勘違いしてしまったそうです。そうこうしているうちに、差し入れに来た者たちに紛れて、押入れに隠れていた岡田首相は救い出されたというわけです。政府の要人もそうですが、この事件ではその要人たちを警護していた警察官も多く亡くなっていることを忘れてはいけない。やはり、武力では人の心は動かせないということでしょうか。」
正樹が言った。
「今回のフィリピンで起こったクーデターは二・二六事件のように用意周到に計画されたものではなかったかもしれません。でもそれが良かったのかもしれませんね。平和を願う民衆の心がしっかりと最後まで決起したラモスさんたちについてきましたからね。」
太郎が言った。
「二・二六事件の時も、初めのうちは民衆から差し入れなどがあったそうですよ。だから陸軍の首脳たちは決起軍の鎮圧にかなり手間取ってしまったそうですよ。天皇が自ら近衛師団を率いて行くとまで言われて、事態は大きく変わりましたね。2月29日に決起軍にこんなビラが撒かれました。今からでも遅くはないから原隊へ戻りなさい。抵抗するものは全員逆賊であるから射殺します。お前たちの親兄弟は国賊となるので泣いているぞ。そしてラジオでも、兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前たちは上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであろうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前たちは皆復帰せよと仰せられたのである。・・・・・・。1500人足らずの決起軍は約30000人の軍隊に包囲されてしまった。東京湾に浮かんだ軍艦の大砲はすべて彼らに向けられていたそうです。もう、この時点では、国民の心は彼らから離れていました。フィリピンの民衆のように彼らを守ろうとする動きはなかったようですね。」
みよこ先生が太郎に聞いた。
「それで、その後どうなったのですか?」
「クーデターの失敗を知って、青年将校たちは兵隊を原隊へ復帰させました。その後、自決する将校もいましたが、それでは何のための決起だったのかと考え、ほとんどの将校は裁判で自分の主張を訴えようとしました。けれど、戒厳令を利用して、正当な裁判は行なわれずに、密かに銃殺刑となってしまいました。」
諭が溜め息混じりに言った。
「大きな事件だったのですね。学校の教科書では一行か二行の出来事ですよ。おじいさんがその事件に関わっていたなんて驚きました。」
拳銃に隠された秘密
川平太郎と正樹は診療所の奥にある部屋でココナッツ酒を飲み交わしていた。部屋の窓際に机が一つ置かれてある。その古びた机だけで部屋には他に何もなかった。以前は、この部屋で正樹は寝泊りしていたのだが、今は、正樹の患者だった老人がこの世を去る前に譲ってくれた浜辺の家で早苗と一緒に暮らしている。ベッドやタンスなどの家具はすべて浜辺の家に運んでしまっていて、診療所の奥の部屋はがらんとしていた。正樹の助手のヨシオもタカオも診察が終わると岬の豪邸に帰ってしまって、診療所には誰もいなくなってしまっていた。正樹は太郎にこの部屋を好きなだけ使っていいと申し出ていた。
正樹が太郎に言った。
「石垣島の太郎さんの農場はどうなりましたか?」
太郎はココナッツ酒を自分のコップに溢れんばかりに注いで、それをグッとあおった。その後、正樹の質問に答えた。
「牛たちはここに来る前に、仲間たちに売ってしまいましたし、土地と家などは良太に処分してくれるように頼みましたから・・・・・・。」
「奥様たちは?」
「以前から、あれは町に住んで子供たちと暮らしていましたからね、農場がなくなっても困りませんよ。」
「そうですか。」
「先生には迷惑をかけてばかりで・・・。」
「いいんですよ。太郎さんが好きなだけ、このボラカイ島にいたらよろしい。僕も話し相手ができてとても嬉しいのですからね。」
だいぶ酔ってしまったようだった。正樹は机の引き出しのカギを開けて、中から、拳銃を取り出して、それを太郎に見せた。
「これ、本物ですよ。実弾も入っていますよ。この拳銃で僕は命を狙われたのです。」
「先生、そんな物騒な物を持っていて、大丈夫なんですか?」
「いや、それがね、処分しようとおもっていても、なかなかそれが出来なかった。それに、太郎さん、最近、気づいたのですが、この拳銃には何か秘密があるようですよ。見てください、ここを。」
正樹は拳銃の柄の模様を指差して、太郎に見せた。
「これ、何かの地図のように見えませんか?」
「先生、命を狙われたとか言っていましたが、この拳銃はどうしたのですか?誰のものだったのですか?」
「この島を仕切っていたゲリラが私のことを抹殺しようとしたのですがね、それが、どうやら仲間割れのようで、あのジャネットが私の命を救ってくれました。その射殺されたゲリラの手からポトリと落ちたのが、この拳銃です。」
「でも、この拳銃は日本軍の将校が持っていたものではないでしょうか。ほら、ここに、よく読めませんが、漢字で名前が彫ってありますよ。ゲリラが山の中に落ちていたこの銃を拾った可能性もありますよね。」
「本当ですね。よく見ると、この絵柄は漢字にも見えてきますね。確かに、太郎さんの言う通りだ。この拳銃が日本軍のものではないとは言い切ることは出来ませんね。もしかすると、この地図のような模様はあの山下財宝を捜し出す手がかりなのかもしれませんよ。」
「正樹先生、先生は宝探しには興味はありませんか?」
「僕はまったく興味がありませんよ。もし、太郎さんがお望みならば、この拳銃をあなたに差し上げましょうか?」
「どうせ、今、日本に帰ったところで、借金取りに追い掛け回されるだけですしね。駄目で元々です。しばらく宝探しでもやってみますか。先生、その拳銃を私に貸してください。」
「ええ、いいですよ。差し上げます。」
「例えばですよ。銃をこうして水平にして撃つとしますよね。発射された弾丸は、どの位、飛んで地面に落下するでしょうか?」
「それは銃によって違ってくるとおもいますね。」
「そこですよ。だから、どこで、どの方向にこの銃を発射すればよいのかを、この柄に描かれた地図から謎解きをすればいいのですよ。後は弾丸が落ちた地面を掘ればいいのでは?」
「なるほどね、・・・・・・さっぱり僕には分からないけれど、太郎さんの話を聞いていると楽しくなってきますよ。でも、気をつけてくださいよ。宝探しはいつの時代も命の危険が伴いますからね。慎重にね。」
数日後、小さなボラカイ島の、いったいどこで仕入れてきたのだろうか、スコップを抱えて、見るからに宝探しをする格好で、川平太郎は正樹の前に現われた。正樹が笑いながら言った。
「よく、お似合いですよ。でも、その格好ではトレジャー・ハンターであることがすぐに分かってしまいますよ。・・・そうだ、一つ知恵を授けて差し上げましょう。行く先々で、まず教会をお訪ねなさい。そして、戦争で死んだ父の遺骨を捜していると、それから、山中に隠れている日本人の子孫を救い出すつもりだと大義名分をかざして歩いた方がいいでしょう。」
「なるほど、そうすることにします。遺骨収集ですね。」
「教会関係者もきっと協力してくれますよ。でも、忘れないで下さいね。山の中にはゲリラたちがいますし、反日感情が悪いところもあります。それから、もし、宝を発見しても、決して喜んではいけませんよ。哀れな貧しい遺骨収集家を装い続けることです。太郎さんが宝を見つけたという噂が流れただけで、警察も軍も村人もすべて、太郎さんの敵にまわってしまいますからね。いいですか、そのことを絶対に忘れないように!」
「分かりました。そのようにするつもりです。」
「あ、それから、蚊に食われないように、肌に薬を塗っておいた方が良いとおもいますよ。薬局に行けば売っていますから。ええと、何て、名前だったかな、ちょっと忘れてしまいましたが、お店の人に蚊の話をすれば分かりますよ。田舎ではサリサリ・ストアーにもおいてあるかもしれません。」
「スプレー式ですか?」
「いや、軟膏ですよ。蚊取線香なんかより、その塗り薬の方が役に立つとおもいますよ。」
「宝探しなんかすること、諭には黙っているつもりです。心配をかけたくないから、先生もあいつには内緒にしておいて下さい。」
「分かりました。・・・太郎さん、まあ、やるだけ、やって、また、疲れたら、この島に戻ってらっしゃい。いつでも大歓迎ですからね。」
「ありがとうございます。」
そして、三日後、川平太郎はルソン島北部の山に入っていった。それは無謀な宝探しだった。
届けられた丸福金貨と紫芋
放課後、美術担当の川平諭は日本人学校のすぐ横にある石原万作が借りている豪邸に顔を出した。ボラカイ島から正樹と早苗が出てきていると万作から聞いたからである。豪邸の中に入ってみると、菊千代とネトイ、それに千代菊とハイドリッチの姿もあった。他にも日比混血児たちがその家で何人も働いていた。石原万作とリンダが借りているこの家は、二人の家と言うよりはボラカイ島の岬の家のマニラ出張所のようなものでもあった。渡辺電設の佐藤も少し遅れてやって来た。川平諭の父親の太郎が宝探しに出かけたまま連絡が途絶えて、そのまま行方不明になってしまったのは2年前のことであった。諭が広いリビングに入って来ると、まず正樹が諭に声をかけた。
「お久しぶりです。時が経つのは早いものですね。もう、任期がきましたか。来年は日本に帰ってしまうのですね。寂しくなりますよ。」
「ええ、あっという間の3年間でした。」
「お父さんから、その後、連絡はありましたか?」
「いえ、ありません。生きているのか、どうかもまったく分かりません。」
「そうですか。それは何と申し上げたらよいのか、心配ですね。」
渡辺電設の佐藤が二人の話に割って入ってきた。
「先日、香港のオークションに金貨がかけられましたよ。福と漢字で書かれた金貨です。戦時中に日本軍が鋳造した丸福金貨だとおもわれます。枚数は5枚だけでしたが、山下財宝が出たと香港中が大騒ぎになりました。」
石原万作もテレビで見たようで、同じ事を言った。
「それ、私も聞きましたよ。大きな福の字が書かれたコインはこのフィリピンを占領した日本軍のものだそうですよ。そのコインは降伏する間際に将校たちに配られたという説もありますよね。」
佐藤がわが意を得たりと言わんばかりに語り始めた。
「そうなんですよ。山下財宝に関しては様々な話が勝手に一人歩きしていますが、僕は山のような金の延べ棒を埋めたとか言う話よりは、その丸福金貨の方の説を信じますね。敗戦が決定的になって、皆に軍資金を分配してルソン島の山々に立て籠もったという話の方が信憑性があるとはおもいませんか?」
正樹が言った。
「敗戦が決まっていた、当時の状況下で、金貨を渡されてもね。確かに、渡された兵隊たちは心強いかもしれませんよ。食べ物に困ったら買うことが出来ますからね。しかし、逆に、一旦、日本兵は金貨を持っているという噂がひろまれば、今度は発見されれば、即、殺されてしまうことにはなりませんか?」
「確かに、その通りだ。無抵抗だった一般市民も日本兵をその金貨目当てに狙うようになるからね。」
佐藤が感心しながら、そう言った。
川平諭がカバンの中から一枚のコインを取り出して言った。
「二年前になりますか、父がこの金貨と紫芋を私に送ってきました。手紙には金貨よりも、もっとすばらしい物を見つけたとありました。紫芋がそうだと書かれてありましたが、何のことやら、私にはさっぱりです。」
佐藤が諭から金貨を受け取りながら言った。
「これはさっきから話に出ている丸福金貨ではありませんか。すると太郎さんは山下財宝を見つけたわけだ。」
「でも父の手紙には金貨のことよりも、紫芋のことばかりが書かれてありました。」
「紫芋?・・・・・・、あのアイスクリームに入っている紫色をしたウベのことですか?」
「新種の紫芋だそうです。金貨なんかよりも、もっと、ずっと価値があると手紙には、興奮ぎみに書かれてありました。山下財宝を探すのは止めて、紫芋の研究をするからと書き記して手紙は終わっていました。」
「紫芋ね・・・・・・?正樹さん、何か心当たりはありますか?」
「その紫芋の成分と何か関係があるのかもしれませんね。」
黙ってみんなの話を聞いていた早苗が口を開いた。
「お芋でお金儲けをするなら、焼酎しかないと、よく、田舎の父が言っていましたけれど、その紫芋から造られた芋焼酎に諭さんのお父様は惚れ込んでしまったとか・・・・・・?」
正樹がすぐに早苗の意見に反応した。
「それかもしれませんよ。太郎さんは紫芋から生成された焼酎の研究をしているのかもしれませんよ。」
芋焼酎
川平太郎はルソン島北部の山中を歩き回り、山下財宝を探しているうちに、ほんのり甘い、口当たりのとても良い焼酎に出合った。偶然に知り合った村人から勧められた、その芋焼酎は紫芋から造られていた。その不思議な紫芋に惚れ込んでしまった太郎は宝探しをするのも忘れて、紫芋の栽培に没頭していた。日本では見たこともないその新種の紫芋は焼酎にするとまったく臭みもなく、ほのかな甘みがあり、それでいてしっかりとした味わいが楽しめた。太郎がこれまでに飲んだ、どんな高価な酒よりも美味かった。太郎は更に品種改良を重ねて、ルソン島の山中にあった芋で誰もが納得する美酒を造り上げた。サツマイモの一種なのだろうが、芯の芯までとことん紫色をした芋で川平太郎は極めてソフトな味わいの芋焼酎を完成させた。
その芋焼酎はたちまち評判となり、太郎が世話になっていた村は次第に裕福になっていった。近隣の村々でもまねをして、その芋焼酎を造り始めた。太郎はその村々へも出かけて行って、その製造を手伝った。貧困のどん底にあった村々が太郎のお蔭で甦った。これらの芋焼酎は「TAROU」と呼ばれて、首都圏からもその評判を聞きつけて、買い付けに来るデーラーも現われた。「TAROU」は造っても造っても足りなかった。村々では家族総出で、その新種の紫芋の作付け面積を増やしたが圧倒的に「TAROU」の原料となる紫芋は不足状態だった。また、それが人気に火をつけてしまった。幻の酒として、全国に知れ渡り、入手が困難な美酒として奪い合いになった。「TAROU」の偽物まで現われたが、飲めばハッキリと味が違う本物の「TAROU」には丸に福の刻印が押されるようになった。いつまで経っても、その人気は衰えることはなかった。村々では共同で大規模な製造工場を造り、「TAROU」のファンの要望に応えようとしたが、いっこうに、需要と供給のバランスはとれなかった。
遠く離れたボラカイ島でも美酒「TAROU」のことは話題になっていた。早苗が正樹に朝食のおかゆを渡しながら言った。
「きっと太郎さんよ。だからお酒の名前がTAROUなんだわ。」
正樹がおかゆにコショーをたっぷりとふりかけながら答えた。
「そのお酒はすごい評判になっているよ。なかなか手に入らないらしいよ。」
「すごいわ、太郎さん!大成功じゃない。莫大な宝を探し当てたも同然じゃない。」
「確かにその通りだよ。人生とは分からないものだ。太郎さんは息子の諭さんが誘拐されて、ゲリラによって全財産を奪い盗られた。無一文、いや借金地獄のどん底から見事に這い上がって来たのだからね。もし、これが、山下財宝をみつけていたら、太郎さんの命はなかったかもしれない。人々はその宝を狙ったかもしれないからね。」
「あたしも、そうおもうな。」
「でも、太郎さんのお蔭で村全体が裕福になった。芋を栽培したり、焼酎を造ることでみんなが現金収入を得るようになったのだからね。言ってみれば、太郎さんは村の英雄となったわけだ。村人たちは太郎さんのことを、きっと尊敬しているに違いないよ。」
「諭さんは此の事、知っているのかしら?」
「知っているよ。このボラカイ島でも、この騒ぎなんだから、ましてやマニラにいる諭君の耳に、このニュースが届かないはずがない。」
「また、二人で島に来てくれると、いいわね。」
「それは今は無理かな、太郎さんはきっとまだ、芋の品種改良に明け暮れているよ。以前、諭君から聞いたことがあるよ。太郎さんは石垣牛の飼育をやる前は農協で農作物の品種改良が専門だったそうだよ。だから、よりうまい焼酎を造る為に、村人に保護されながら紫芋の研究に没頭しているのに違いないよ。」
「焼酎が飛ぶように売れて、太郎さんがいる村全体がリッチになっているのでしょう。そこが凄いわよね。太郎さんだけが一人で儲けているわけではないのだから、人々の反感をかうこともないし、財宝を見つけた時のようにビクビクするようなこともないわよね。そこの村人たちは太郎さんに恩を感じて、彼のことをとても大切にするわ。」
「貧困と戦っていた村人たちにとっては太郎さんは救世主と同じだよ。白米を食べたくても、それを買うお金がなくて、しかたなく芋ばかりを食べていた人々だ。だけど、皮肉なものだね、その芋が村人を救ったんだからね。」
「太郎さんが造ったお酒、そんなにおいしいのかしらね?あたしも一度、試してみたいな。」
「だけど、それがなかなか手に入らない。発売と同時に完売してしまうそうだよ。予約も一切受け付けないそうだよ。出来るだけ多くの人に渡るように、一人一本しか買うことが出来ないのだとか。」
「すごい人気ね。」
別れ
ブラウニーとホワイティー
早苗が買い物をするために市場に行くと茶色と白の二匹の野良犬が現われるようになった。まだ二匹とも子犬で早苗のことを見ると嬉しそうにそばに寄って来るのだ。二匹とも雄だが、いつも一緒に歩き回っている。雨の日も風の日も、早苗がパレンケ(市場)へ行くと、必ずどこからか現われて、早苗の近くに来るようになっていた。早苗は市場の人たちに聞いてみたが、その茶色と白の雑種の子犬には飼い主はいないという答えが何度も返ってきた。
浜辺の家に帰った早苗は正樹にその子犬たちの話をした。
「あの子たち、あたしのことが分かるみたいね。小さなしっぽを振りながら近寄って来るのよ。かわいくって、かわいくって、・・・。ねえ、正樹さん、あの子たちをこの家で飼ってはだめかしら?」
「野良犬か・・・、それは、その犬たちが決めることだよ。もし、その子犬たちがこの家を気に入れば、僕は反対しないよ。飼ってもいいよ。」
「よかった。じゃあ、今度、連れて来るからね。」
「でも、あのパレンケの人ごみの中で、よく生き抜いてきたよね。感心するよ。飼い主は本当にいないのかな?」
「市場の人に何度も聞いたけれど、野良犬らしいわ。」
「そう、それならいいけれど。まあ、この家に連れて来ても、その犬たちを鎖で縛り付けるのはやめようよ。今まで通り、自由な野良犬のままでいいんじゃないかな。」
「そうね、都会と違って、ここなら近所に迷惑をかける心配もないしね。放し飼いでいいわね。」
翌日、早苗はさっそく市場へ出かけた。五分もしないうちに、子犬たちは早苗に駆け寄って来た。早苗はいつものように、跪いて二匹の頭をやさしくなでながら話しかけた。そして、立ち上がり子犬たちに大きな声で言った。
「さあ、おいで、一緒について来なさい。」
トライシクルを使わずに、早苗は歩いて浜辺の家まで帰るつもりだった。この二匹の子犬たちは、はたして浜辺の家まで一緒について来てくれるのだろうか、早苗にはそんな自信はまったくなかった。
「さあ、おいで、行くわよ。」
子犬たちは早苗の後ろにぴったりとついて来た。市場の人ごみを抜けて、メイン・ロードに出ても、まだ早苗から5mと離れずに、その小さな足でもって、懸命に歩いて来た。
早苗は時々立ち止まり、二匹の頭をやさしくなでた。
「しっかりとついて来るのよ。後でおいしいものをたくさん食べさせてあげるからね。」
時間は少しかかったが、早苗と一緒に白と茶色の子犬は正樹が待つ浜辺の家に到着した。
「名前はブラウニーとホワイティーだな。茶色い方がブラウニーで、白い方がホワイティーだ。それでいいよね、早苗ちゃん。」
「ええ、それでいいわ。」
二匹の子犬は浜辺の家の特等席、海が見えるベランダに腰を下ろした。少し疲れてしまった様子だった。正樹が犬たちに近寄って挨拶をすると、座ったままの格好でしっぽだけを振って、それに答えた。早苗がキッチンから残飯に干し魚を混ぜて持ってくると、犬たちはしっかりと立ち上がって、早苗に向かって前足を上げて、喜びのポーズをとった。早苗が餌の入ったボールを差し出すと、二匹は向かい合うようにしてボールの中に顔を突っ込んで食べ始めた。初めのうちは仲良く食べていたのだが、残りが少なくなってくると、ブラウニーは牙をむき出してホワイティーを威嚇し始めた。どうやら、ブラウニーの方が気性は荒く、ホワイティーはやさしい性格のようであった。それを見ていた早苗はジャーキーと呼ばれる干し肉を自分の口で柔らかくなるまで噛んでから、それをホワイティーに与えた。それを見ていた正樹が言った。
「ホワイティーは雑種にしては、どことなく気品があるね。成長すると、どのくらいの大きさになるのかな?楽しみだね。・・・・・・だけど、明日になったら、この家からいなくなっているかもしれないよ。野良犬は自由だからね。」
しかし、ブラウニーとホワイティーは二日経っても、一週間が過ぎても、浜辺の家から去らなかった。二匹の子犬は早苗と正樹が住む浜辺の家が気に入ったようだった。
犬たちが浜辺の家に来て一年が過ぎた。予想したよりも犬たちは大きくなった。一匹二匹と呼ぶよりも、一頭二頭と呼んだ方が正しかった。手足を延ばせば、早苗の身長と同じくらいのサイズにまで成長していた。4km続くホワイトサンド・ビーチを早苗と正樹が散歩する時にはブラウニーとホワイティーが二人の両脇に並ぶようにしてついてきた。二頭とも堂々としていて、滅多なことでは吠えたりはしなかった。早苗と正樹のことを守るようにしてどこへ行くにもついて来た。島で唯一の交通手段であるトライシクルの後部座席にも乗れるようになっていた。犬たちは早苗と正樹に全幅の信頼を寄せていた。ブラウニーは大人になっても欲張りで気性が荒く、自分に与えられた餌がなくなるとホワイティーの餌を横取りした。そんな時は決まって、早苗が自分の口でビーフジャーキーを噛み砕いてホワイティーに与えていた。ブラウニーはそれを横目で見て羨ましそうな表情をするのだった。正樹もよくブラウニーのことは叱りつけた。手加減をしながら叩くこともあったが、ホワイティーのことを叩いたことは一度もなかった。
出逢ったものは、いつかは別れなくてはならない。だから、一緒に過ごせる時間を大切にしなくてはならないと正樹はおもっている。それは人でも犬でも物でも同じである。
犬たちが浜辺の家に住みついて3年が経った。白いホワイティーの体が段々と黄色くなってしまった。と同時に、ホワイティーは食欲もなくなり、ベランダで寝たきりの状態になってしまった。
「早苗ちゃん、ホワイティーはヘパだよ。もう、時間の問題だな。」
「えっ・・・、ヘパ・・・・・・。」
「ネズミから感染したのかもしれないね。」
「何とかならないの? 」
「残念ながら、無理だな。」
「でも、ブラウニーはとても元気よ。」
「ウイルスが入っても、必ずしも発病するとはかぎらないんだ。ウイルスの潜伏期間はまちまちで、ブラウニーは今は元気でも、しばらく経ってから発病することだって考えられるし、天命を全うするまで発病しないことだってある。」
正樹はホワイティーを隣の島の獣医のところへ運ぶことにした。ホワイティーの大きな体を抱き上げて、呼び寄せたトライシクルの後部座席に乗せた。そして正樹もホワイティーのすぐ横に腰掛けた。早苗とブラウニーがホワイティーとの最後の別れの時をむかえた。もちろんブラウニーは何で友と別れるのかが理解出来ない。一緒にトライシクルに飛び乗ろうとするブラウニーのことを早苗が懸命に押さえつけた。正樹はドライバーに発車を命じた。おそらく、獣医はホワイティーの安楽死を選択するに違いなかった。その方がホワイティーは苦しまなくてすむからだ。やさしいホワイティーはもうしっぽを振る力もなかった。ホワイティーの目だけが早苗とブラウニーのことをいつまでも見つめていた。
ボート・ステーションに着いた。病気の犬と一緒では島の人たちが嫌がるとおもい、正樹は共同の定期船は避けてバンカー・ボートをチャーターした。ホワイティーと二人だけの最後の船旅だ。ゆっくりとホワイティーのことを抱えあげてボートに乗船した。しっかりと抱き上げたホワイティーの体からは今にも絶えてしまいそうな温もりが正樹に伝わってきた。船に乗っている間中、正樹はホワイティーから離れなかった。悲しげなホワイティーの目が正樹のことを見上げていた。船はカティクランに到着した。船着場から知り合いの獣医の家までは近かった。正樹はホイワイティーを抱きかかえながら歩いた。ホワイティーの体重は30kg以上はあった。でも、正樹はちっとも苦痛ではなかった。汗と涙が自然に吹き出ていた。何か新しい治療法が見つかっているかもしれない。正樹はそのことばかりを願い続けた。10分ほどで犬と猫が描かれた看板のあるアニマル・クリニックにたどり着いた。
診察室の大きな台の上にホワイティーを置いた。獣医のスコットとは何度もボラカイ島で会ったことがある。正樹はこの動物診療所にも何度か足を運んだことがあった。まさか、こんなことで、スコットと再び話をすることになるとは夢にもおもわなかった。
「スコット、何か新しい治療法はあるかね?」
「正樹先生、お気の毒ですが、まだ見つかってはいません。」
「そうか。・・・・・・手遅れだったか。」
「突然、発病するのがこの病気の特徴で・・・・・・。」
「分かっているよ。」
「名前は?」
「ホワイティーだよ。」
スコットは優しくホワイティーの頭をなでた。それから、しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。二人は何も言葉は交わさなかったが、お互いの気持ちは完璧に理解出来た。
「正樹先生、ホワイティーは私が・・・・・・?」
「いや、島に連れて帰りたい。」
「分かりました。それでは、しばらく待合室でお待ち下さい。」
正樹は軽く頷くと、診療室から出て行った。
30分ほどだったか、1時間だったか確かではない。正樹にとってはとても長い時間が過ぎたような気がした。ホワイティーとの楽しい思い出が走馬灯のように甦っては消えた時間だった。
スコットがホワイティーの入った大きな米袋を台車に乗せて、待合室に入って来た。もう、二人は言葉を交わさなかった。正樹は頭を下げて、その米袋を抱きかかえた。まだ、ホワイティーのぬくもりが残っていた。涙がまた、不覚にも流れてしまった。
劇症肝炎
正樹が浜辺の家に帰ると早苗とブラウニーは留守だった。メモが置かれてあり、岬の豪邸にいると記してあった。それは好都合だった。正樹はすぐに、裏庭にブラウニーの足では掘り返すことが出来ないくらいの深い穴を掘り、ホワイティーをその袋のまま埋めた。穴を掘りながら振り返ってみた。ホワイティーの症状は黄疸に加えて、何度も吐いていたし、熱もあった。鼻や歯肉からの出血もみられ、呼吸や鼓動も荒く激しかった。だんだん表情もなくなり意識もなくなってしまった。そして抱き上げて獣医のところへ運ぶ時には、もう完全にこん睡状態だった。消化管出血と脳にも炎症が起きていた。急性の肝炎の中でも数パーセントの確率で起こる劇症肝炎だったことは明白だった。もちろん犬と人間との場合では判断はまったく違う。それでも正樹は神でもない自分がホワイティーに安楽死を与えてしまったことを苦しんでいた。ホワイティーの埋葬が済んだ。正樹はしばらく盛り上がった土の前で手を合わせた。それからゆっくりと立ち上がり、岬の家に向かって歩き出した。途中、何度か海に入り汗まみれの体を洗った。
早苗とブラウニーはネトイの書斎にいた。早苗の足元でブラウニーは静かに座っていたが、正樹が部屋に入って来るのを見ると、サッと立ち上がりしっぽを振りながら正樹のそばに寄って来た。正樹は軽くブラウニーの頭をなでで早苗の隣に座った。菊千代もネトイの後ろに立っていた。大きな部屋は静まり返っていた。その場にいた者はみな正樹の言葉を待っていた。
「ホワイティーは助からなかったよ。今、庭に埋めてきたところだ。」
ネトイが口を開いた。
「そうか、それは残念なことをしたな。やさしい犬だったのにな。」
菊千代が正樹に聞いた。
「ホワイティーは肝炎だったの?」
「ええ、肝炎と言ってもいろいろあるけれど、その中でもホワイティーの場合は最悪のケースでした。まあ、急性の肝炎に罹っても、たいていの場合は、安静にしていれば自然に治ってしまいます。そして一度かかれば免疫ができて再感染することはないのだけれど、・・・・・・ホワイティーの場合は様々な合併症が起きてしまった。残念だよ。
きっと、この岬の家のほとんどの子供たちは過去に肝炎を患ったことがあるとおもいますよ。あの不衛生な環境で生き抜いてきた子供たちばかりですからね。」
菊千代は肝炎について、まったく知らなかった。
「どうして、ホワイティーは肝炎になってしまったのかしら?」
正樹が彼女のために分かりやすく説明を始めた。
「肝炎とは肝臓に炎症が起こった状態のことをさします。肝臓の肝と炎症の炎をくっつければ肝炎という言葉になりますよね。その原因は様々で、アルコールや薬物、アレルギー性のものもありますが、ほとんどの場合はウイルスが体に侵入して来て発病します。ウイルスが肝細胞を破壊するのではなくて、外から入ってきたウイルスを体がやっつけようとして、免疫作用によって一緒に肝細胞も壊してしまうわけなんです。肝臓とは辛抱強い臓器でしてね、少しぐらいのダメージなら痛がらないんだ。だから逆に病気になっていることに気がつかないで病気がどんどん進行してしまう。気がついた時には、もう手遅れになることが多いのですよ。」
菊千代がまた質問した。
「さっき、正樹先生はここの混血児たちがみんな肝炎にかかったことがあると言いましたよね。でも、みんな元気ですよ。」
正樹が続けた。
「それではもっと詳しく説明しましょうか。急性肝炎になると、まず風邪のような症状、例えば、倦怠感が出て食欲もなくなります。発熱があり頭痛や関節なども痛み始めます。それに続いて、右脇腹痛、そして黄疸の症状がみられるようになります。安静にしていれば、数ヶ月で症状は治まります。完全に治れば、体内に免疫ができて、もう二度と感染することはなくなりますが、治りきらないと慢性の肝炎へと進むケースもあります。大概の場合は抗体が体内にできて二度と発病しないでしょう。裏通りの汚い水や腐った生魚を食べてきた子供たち、親からも社会からも捨てられた、ここの子供たちは少なからずA型肝炎の洗礼を受けているはずですよ。」
「日本ではB型肝炎のこともよく聞きますけれど、今、正樹さんが言ったものとは別なのですか?」
今度は早苗がそう質問してきた。
「今、僕が言ったのはA型の肝炎の一部のケースです。A型とかB型とか言うのはウイルスの名前ですよ。発見された順番にA、B、・・・・・とウイルスに名前をつけていきます。A型のウイルスは感染力が強くて、水や生魚など口に入れたものから簡単に感染していきます。おしっこがビールより濃い色になったら白目をみる。皮膚や白目が黄色くなったら、すぐに検査を受けた方がよろしいでしょう。早苗ちゃんが言ったB型肝炎ウイルスは経口感染や空気感染することはなくて、血液によって感染していきます。母子感染や注射針、そして輸血による感染が考えられます。不衛生なピアスの穴開けも問題ですね。」
「輸血ですか、それじゃあ、大きな手術をした人は気の毒ですね。」
「でも血液の検査体制の進歩で輸血による感染は次第になくなる方向にあるとおもいます。A型肝炎、B型肝炎にしても、そして将来発見されるだろうC型肝炎にしても一過性の感染と持続性の感染が考えられます。感染してもすべての人が危険な状態になるわけではありません。一過性の感染の場合は症状がまったくでない人や軽く済んでしまうケースが約九割で残りの一割の人が急性肝炎になってしまいますが、命の危険のある劇症肝炎に進むのは、さらにその中の数パーセントぐらいでしょうか。持続感染の場合も約九割の人が自覚症状はないか、あるいはあっても軽く済んでしまいます。ただ、ウイルスは排除されず体内に保有したままのキャリアとして生涯を暮らすことになります。約一割の人が慢性肝炎へと進んで肝硬変や肝がんになる可能性があります。これもその一割の人すべてが命の危険にさらされるわけではありません。一部の人だけが肝硬変や肝がんへ進む可能性があります。」
「それじゃあ、知らないうちにキャリアになってしまっていることもあるのですね。」
「そうですね。でも自分がキャリアだからといって、暗くなってはいけませんよ。規則正しい生活をして、バランスのとれた食生活をすること。そして、気持ちを明るく、ストレスを抱え込まないことです。ストレスは肝臓の一番の大敵ですからね。」
別れ
戸隠で民宿をやっている早苗の父親が倒れたとの連絡が入った。早苗と正樹はすべてのことを後回しにして、その日のうちに日本へと向かうことになった。まず移民局へ行き、出国と再入国の手続きをとった。長期の滞在者は犯罪を犯しているかどうかのチックをしなければならないからだ。それを済ませないと空港からは出ることは出来ない。わざと複雑にしているとしかおもえない手続き、長い時間を使って出国の許可を取らなければならないのだ。どこの国でもそうなのだが、外国人の出入国には高い手数料と面倒な手続きが必要となる。マニラの移民局にはその複雑な手続きを代行する者がロビーを中心にして常にうろうろしている。もちろん、その者たちに頼めば余計に手数料がかかってしまうことになる。しかし役人たちと組んでいるので仕事が早い、今回は急いでいたので不本意ながら代行屋を利用した。それでも4時間以上も風通しの悪いロビーで待つことになってしまった。
空港に着くと二人は航空会社の窓口へ直行した。正規の運賃を払ったので飛行機の座席はすぐに確保することが出来た。早苗と正樹はその夜の最終便に乗ることが出来た。しかし、出発の時間になっても飛行機は飛び立たなかった。乗客の一人がやって来ないというアナウンスが機内に流れた。しばらくすると、今度はその乗客が乗せた荷物を捜し出して飛行機から降ろすという説明があった。爆弾テロを航空会社は恐れているのだ。誰だか知らないが、まったく迷惑な奴がいるものである。チックインした後で、どこかに消えてしまったらしい。すっかり疲れきってしまった早苗の手を正樹はそっと握った。二人はそのまま機内で眠ってしまった。運ばれてきた機内食にも手をつけなかった。
日本に到着したのはいいが、都心へ向かうバスも電車もない深夜になってしまっていた。国際空港は羽田から成田に変わっていて、正樹は勝手がまったく分からなかった。結局、東京までタクシーを使うしか方法がなかった。渋々、タクシー乗り場へ行くと、人相の悪い男が近寄って来た。
「どちらまで?」
正樹は一瞬ではあったが、ここが日本なのか疑ってしまった。男は黙っている正樹に料金表のようなものを見せながら言った。
「東京までですか? 東京のどちら?」
「東京駅まで行きたい。」
そう正樹が答えると。男は手に持った料金表を指しながら、二万円だと言ってきた。
日本でタクシーなど乗ったことがなかった正樹は早苗の顔を見た。早苗が正樹に代わって答えた。
「高速代も含めて?」
「ええ、全部で二万円です。」
「分かったわ。」
そう早苗が言うと、男は横にいたタクシーを指差して二人を誘導した。窓越しに見える運転手はパンチパーマで年齢は四十歳後半のようだった。ある種、独特のオーラが運転席から流れ出していた。客引きの男が車内に顔を入れて、調子よく運転手に言った。
「東京駅までお願いします。」
正樹たちが乗り込むと、運転手は黙ったまま車を発車させた。完全武装の機動隊が警備する成田空港を出てもタクシーのメーターは倒れたままだ。メーターの数字はまったく動いていない。高速道路に乗ったところで、勇気を出して正樹が言った。
「メーターが倒れていないようだが、・・・・・・。」
「あれ、聞きませんでしたか。東京駅までの料金。」
正樹はもうそれ以上は話す気にはならなかった。また、早苗の手を強く握って目を閉じてしまった。
早苗と運転手の話し合う声で正樹は目が覚めた。
「高速代も含めて二万円だと、さっき空港にいた人が言っていましたよ。」
「そんなこと言っていましたか、・・・・・・。」
「あたしね、前にもタクシーを使いましたけれど、あの時は一万五千円でしたよ。高速代も含めてね。」
「・・・・・・、分かりましたよ。奥さん、二万円でいいですよ。」
正樹が言った。
「空港にいた男が高速代も含めて二万円だと言ったから、乗ったのだろう。・・・・・・、それなら、何故、初めからメーターを倒さないのか!」
「だから、二万円でいいと言っているだろうが!」
もう、うんざりだった。まさか、日本に来てまでこんな不愉快な会話をするとはおもわなかった。正樹は財布からお金を出して、それをパンチパーマに手渡しながら言った。
「もう、いいよ。そこで停めてくれ。そこで降りるから。」
タクシーは急ブレーキの音と共に停車した。
深夜の東京は冷たい。特に南国から帰ってきた者には夜風がすこぶる身にしみる。
「早苗ちゃん、どうしようか。電車が走り出すまで、まだ、少し時間があるけれど、・・・・・・。そういえば、朝から何も食べていなかったね。駅まで行く途中で開いている店があったら、何か食べようか。」
「そうね。正樹さん、お腹、空いたでしょう?」
「そんなには空いてはいないよ。」
この時、正樹は街灯に照らし出された早苗の顔が少し黄色いことに気がついた。それは光線の加減でそう見えたのかもしれないので、そのことについては一言も触れなかった。
「早苗ちゃんは大丈夫? 疲れたでしょう。早く、どこか、暖かい場所をみつけて、休むことにしようか。」
「ええ、そうしましょう。」
10分ほど歩くと、24時間営業の牛どん屋の明かりが二人の前の方に現われた。
「とりあえず、あそこに入って休もうか?」
「いいわよ。」
男の正樹は以前にも何度か利用したことがあったが、女の早苗は牛どん屋は初めてであった。カウンターだけの店内、長時間居座ることが出来ないことくらい分かってはいたが、正樹は牛どんの味がとても懐かしかったので、つい入ってしまった。男は海外生活が長く続くと無性に牛どんの味が恋しくなるみたいだ。店の入り口の横にあった公衆電話をみつけて早苗が言った。
「あたし、ちょっと家に電話してみるね。こんな時間だし、たぶん、誰も電話に出ないとはおもうけれど、・・・・・・。」
「わかった、じゃあ、先に中に入って、適当に注文しておくから。」
「ええ、お願い。」
正樹はカウンターの席に着くと、牛どんとサラダを注文して早苗のことを待った。オーダーしたものはすぐに目の前に運ばれてきたが、早苗はなかなか店の中には入って来なかった。どうやら誰かが電話に出たらしかった。早く、男の自慢の牛どんを早苗に食べさせてやりたかった。ところがいっこうに早苗は店に入って来る気配がなかった。心配になった正樹が外に出てみると、早苗は公衆電話の下にうずくまっていた。近寄って正樹が言った。
「早苗ちゃん、・・・・・・大丈夫?」
「ええ、大丈夫、・・・ちょっと気分が悪くなったものだから、・・・・・・。もう、平気よ。」
正樹は早苗の額に手を当ててみた。
「熱があるじゃないか。」
「うんーう、あたしは平気よ。お父さん、病院だって、親戚のおばさんがそう言っていたわ。何も食べることが出来なくなってしまったみたい。・・・・・・肝炎だって。」
「そうか。・・・・・・さあ、中に入って、少し食べないと、早苗ちゃんが倒れちゃうよ。食べたら、始発電車で長野へ行こう。」
「ええ。」
長野駅に着くと、戸隠の早苗の実家には行かずにそのまま県立病院の方へ直行した。早苗が病室で父親の手をとっている間、正樹は担当医と話をした。肝性脳症と呼ばれる意識障害が激しく、脳浮腫、感染症、消化管出血、腎障害の合併症も起こっていると聞かされた。早苗の父親は急性の劇症肝炎だった。正樹が病室に戻ると、今度は早苗が倒れてしまっていた。早苗もそのまま入院となり、医者は肝炎の疑いがあると正樹に告げた。肝硬変がかなり進んでいる可能性があった。早苗の病状は血液検査、画像診断、肝生検の結果を待たなくては何とも言えなかった。
正樹は病院の玄関から出て、長野の青い空を見上げた。ボラカイ島に帰る気もしない。東京の実家に戻るつもりもなかった。早苗が良くなるまで、この長野にいることにした。早苗の実家は戸隠で民宿をやっている。今は親戚のおばさんが手伝っていると早苗が言っていたので、とりあえず、早苗の実家へ行ってみることにした。明日、また病院へ来ると約束して、さっき、早苗とは別れた。その時、早苗がおばさんに手紙を書いてくれた。
「これをおばさんに見せて下さい。正樹さんのことを頼んでおきましたから。」
「ありがとう。また、明日、来るからね。ゆっくり休んでいて下さい。」
早苗はすでに自分の運命を甘受しているかのように、正樹にはおもわれた。
「早苗ちゃん、頑張れよ!元気になって、また島に帰るからね。いいね。」
「正樹さん、もしもよ、・・・あたしが死んだら、あたしの骨を半分、ボラカイ島へ持って帰って下さいね。」
「何を言っているんだ。肝炎という病気で命を落とすのはね、ほんの1パーセント、いやそれ以下の確率なんだよ。そんなに大変な病気ではないんだから、・・・・・・。」
「分かったわ。頑張るから、・・・・・・でも、もし駄目だったら。あたしもボラカイ島の丘の上の墓地に入れてね。約束ね。」
「分かったよ。・・・・・・でも、今はさ、そんなことばかり考えてはいけないよ。いいね。」
正樹は戸隠の宝光社というバス停で下車した。バス停のすぐ近くにそば屋があった。正樹はそば屋の中に入り、早苗が書いてくれた住所を示して道を尋ねた。
「あんたは早苗ちゃんのお知り合いかね。」
「ええ、正樹と申します。」
「俺は早苗ちゃんの幼なじみで、定吉といいます。今、早苗ちゃんもおやじさんも家にはいないよ。」
「ええ、分かっています。今、病院の帰りで、お父さんのことを早苗ちゃんと一緒にお見舞いに行ってきたのですがね、急に早苗ちゃんも具合が悪くなって、それで彼女も同じ病院に入院してしまいました。」
「ええ、・・・・・・早苗ちゃんもかよ?・・・・・・それで、どんな具合なんだ?」
「まだ、検査をしてみないことには何とも言えませんが、お父さんと同じ症状が出ていますね。」
「そうかよ。それは気の毒だな。」
「僕、しばらく、早苗ちゃんの家に厄介になって、病院へ通うことにしたのですが。」
「そうかね。じゃあ、わしが早苗ちゃんの家まで案内してあげますよ。ちょっと、待っていてくれますか。今、店を閉めますからね。」
「ありがとうございます。面倒をおかけして申し訳ありません。」
「いいんだよ。あんたは早苗ちゃんの大切な人なんだろう。茂木さんは死んでしまうし、名前は忘れたが、フィリピン人の、ほれ、・・・・・・。」
「ボンボンですか?」
「そうそう、ボンボンだ。彼はどうした?」
「彼も死んでしまいましたよ。・・・・・・そうですか。定吉さんは茂木さんたちのことをご存知だったのですか。」
「以前に、お二人をこの二階にお泊めしたことがありますよ。まあ、話は後にしましょうか。とにかく、早苗ちゃんの家まで連れて行ってさしあげますよ。話の続きはまた今夜、酒でも飲みながらどうです?」
「ええ、いいですね。是非!」
早苗の家の民宿を任された父方のおばさんと早苗の幼馴染であるそば屋の定吉は正樹のことをまるで自分の家族のように面倒をみてくれた。この二人がどれだけ正樹のことを支えてくれたかは語るまでもない。早苗が入院してから二ヶ月の月日が経ってしまった。病状は悪化するばかりで、検査を繰り返すたびにその数値は悪い方へむかっていた。そして先に入院していた早苗の父親が亡くなってしまった。そのことを早苗に告げたのだが、意識が朦朧としている早苗には通じなかった。正樹は民宿を手伝いながら、毎日、病院へ通った。もう話すことすら出来ない早苗だったが、それでも正樹は早苗のそばで、手を握りながら昨日起こった出来事やボラカイ島から届く手紙を読んで聞かせた。
さらに一ヶ月が過ぎて、ついに早苗の断末魔が始まった。時折、意識が戻ってくると、早苗は同じ言葉を何度も繰り返した。
「正樹さん、お願い。あたしもホワイティーのように楽にして下さい。」
早苗は安楽死を望んでいた。しかし、正樹は奇跡が起こること願った。そうだ、ボラカイ島へ連れて行こう。あのボラカイ島のマリア像なら早苗ちゃんのことを救ってくれるかもしれない。正樹は自分が医者であることを忘れていた。本気で彼女をボラカイ島へ運ぶことを考えていた。
「よし、行こう。」
そう正樹は早苗に言うと、彼女のすっかり小さくなってしまった体を抱き上げて、歩き始めてしまった。病院の廊下を抜けて、玄関までたどり着いた。急に早苗の体が軽くなるのを正樹は感じた。正樹は早苗を抱いたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。二人のまわりには人が集まり始めていた。涙は出なかったが、正樹は心の底から泣いてしまっていた。病院の玄関の外にはボラカイ島と同じ青い空が広がっていた。正樹はその空を見つめていた。
「早苗ちゃん。着いたよ。・・・・・・君が帰りたかったボラカイ島に着いたよ。」
手では掴めないもの
手では掴めないもの
シャッター扉を何枚も開けないと辿り着けない病院の地下の奥に霊安室はあった。その霊安室の祭壇に線香がたった一本だけ立っていた。樫村直人はがっくりと頭をうな垂れて、小さくなった母親の遺体の前で大きな体をまるめていた。現代医学の最高峰の技術をもってしても助けることが出来なかった彼の母親がさっき霊安室に運ばれて来たばかりだった。直人はじっと葬儀屋の到着を待っていた。葬式など一切なしで火葬場に直行することになっていた。親類など誰一人としていなかったからだ。
廊下には机が置かれてあり、霊安室の担当職員が電話をかけていた。
「今日は忙しくてな、まだ、帰れそうもないな。」
「・・・・・・。」
「この寒さで入院患者だけでなく、救急で運ばれてくる仏さんも多くてな。」
「・・・・・・。」
「すまんが、また人が来た。また、後で電話するよ。もうちょっと待っていてくれ。」
無表情な葬儀屋がいつの間にか廊下にやって来ていた。霊安室の担当職員がその黒いスーツの男に声をかけた。
「ご苦労様です。どちらの?」
「高円寺の吉野祭典です。」
「どうぞ、こちらです。」
職員は霊安室に葬儀屋を案内すると、すぐ廊下の自分の机に戻り、救急救命センターの職員控え室に電話を入れた。
「樫村ゆきえ様、御出棺です。」
「・・・・・・。」
数分後、霊安室の前の廊下には、樫村ゆきえの手術を担当した病院のスタッフ全員が勢ぞろいした。メスを握った外科部長の松村肇を筆頭に、ふかぶかと頭を下げて、樫村ゆきえが霊安室から出されるのを静かに待っていた。最初に霊安室から出てきたのは樫村直人だった。無言のまま、頭を下げている外科部長の松村に近寄り、胸倉を掴み上げると、すぐに殴りつけた。そばにいた他の医者たちは頭を下げたままでまったく動かなかった。それはほんの一瞬の出来事だった。殴られた松村も何事もなかったかのように、さっきと同じように頭を下げた。
大柄の樫村直人は振り返り、母親が乗せられた葬儀屋の車の助手席に乗り込み、病院の地下駐車場から雪が降りしきる東京の街に消えていった。東京は本当に冷えていた。
樫村直人は母のゆきえと二人暮らしだった。と言っても、つい最近、二人で暮らし始めたばかりだった。直人は中学に入り、あいのこ、あいのこといじめられ、半年もしないうちに学校も家も捨ててしまった。何度、世間が直人のことを見放しても、母のゆきえだけは直人のことをかばい続けた。いつどんな時でも直人のことを見守り続けた。直人には兄弟はいなかった。父親は米国軍人で朝鮮戦争で死んでしまった。ゆきえも親の顔を知らない。施設を出てからは独りで生き抜いてきた。だから、直人の家族は母のゆきえ一人だった。
火葬場から外に出ると、冷たい北風が直人のことを包んでいた。しかし、まだ焼きあがったばかりの母の遺骨が直人のことをしっかりと温めていた。死んでも、まだ出来の悪い自分の息子のことを守り続けていたのだった。
樫村直人は東京に来て、母と暮らすようになってからはトラックの運転手をやっていた。深夜、コンビニを何店か回って、昼間に注文を受けた品物を配送センターから各店舗へ届ける仕事だ。決して楽な仕事ではない。雨の日は大切な商品にはしっかりとカバーをかけるが、自分自身はずぶ濡れになってしまう。自分勝手なコンビニのオーナーには好き勝手なことを言われたり、お客からもからまれることもある。毎日何万点も扱う商品を間違って一つでも他の店に届けてしまうと、店や本部、そして上司からもさんざんしぼられてしまう。検収印やサインをうっかりもらい忘れても叱られてしまう。コンビニは重たい酒や飲料も扱っているから、体力と気力の両方がなければ続けられない仕事だ。任せられたエリアのすべての店をドライバー全員に覚えさせる為に半年毎にコースの変更がある。だから同じ店を一年以上も担当することは極まれなことであった。樫村直人も東京の北部のコンビニ10店舗を受け持つことになった。初めてのコースだった。運命的な出会いが直人のことを待っていた。
早苗の四十九日が済んで、正樹は長野の戸隠から東京に戻って来ていた。ボラカイ島には戻らずに、コンビニの夜勤を続けていた。店に新しいドライバーがやって来た。これも天の導きなのか、初対面の時から何か不思議な、運命的なものを正樹は感じた。荷物を運び込んできたのは混血のドライバーだった。ドライバーの胸に付けられた名札には「樫村直人」と記されてあった。しかし、その体格や彫りの深い顔はどう見ても混血、ハーフであることは明らかだった。正樹は初めのうちはこの樫村直人が日本語を話せないのかとおもっていた。来る日も来る日も挨拶だけで、黙って仕事を続けていたからだ。時間が余ると、コピーを数十枚、何度もとって帰って行った。そんなことが数週間も続いた。いったい何をコピーしているのか正樹はとても興味があった。
ある朝、お客様がコピー機の中に忘れ物があると言って、正樹のところに一枚の紙きれを持ってきた。誰かがコピーをして原本を取り忘れたらしかった。その夜はお客は少なく、最後にコピーをとったのは樫村直人だと、すぐに正樹は判った。何度も樫村直人がコピーしていた文面はこうであった。
「この病院は平気で人を殺します。特に外科部長の松村肇は鬼だ! 私は母親を虫けらのように殺されました。」
翌日、正樹はドライバーの樫村直人にそのコピーの忘れ物を返した。
「これ、君の忘れ物だろう。」
そう言って、直人の書いた脅迫めいたコピーの原本を手渡した。樫村直人はそれを受け取ると、吐き捨てるように正樹に言った。
「あいつら、俺のお袋を殺しやがったんだ。たった一人の、俺にとってはたった一人の家族のお袋をな・・・・・・。」
「君のお母さんは病気だったのですか?」
「いや、トイレでいきんだら、急に背中が痛み出して、それで、急いで救急車を呼んで病院へ運んだんだ。そうしたら、医者の奴ら、緊急の手術が必要だとか言ってな、お袋を切り刻みやがった。手術をして、二日後、急に血圧が下がってお袋は死んでしまったよ。手術室から出てきた時の、あの医者の自慢げな顔を思い出すと今でも吐き気がする。」
「それは気の毒なことをしたな。」
その夜はそれだけ話して、二人とも言葉が続かなかった。
自分の胸の苦しみを明かしたせいなのだろうか、樫村直人は正樹に対して親近感を抱いたようだった。日を重ねていくうちに、次第に言葉を交わすことが多くなってきた。正樹は慎重に言葉を選んで直人に聞いてみた。
「お母様の死亡診断書には何と書かれてありましたか?病院が発行したものです。もし、お嫌でなければ聞かせてもらえませんか?」
樫村直人は黙ったまま、店から出て行った。外に止めてあるトラックの中から、一枚の紙切れを持って、再び店の中に戻ってきた。
「これがお袋の死亡診断書ですよ。わしには読んでもさっぱりわからん医学用語だ。」
正樹はそれを直人から受け取り、いったんその死亡診断書をカウンターに置いた。レジの前に来ていたお客の精算を済ませてから、ゆっくりと樫村ゆきえの死亡診断書を拝見した。
「大動脈解離でしたか。お母様は大動脈解離という難病にかかってしまったのですね。」
「あんたはその大動脈何とかというやつを知っているのか?」
正樹は自分が医者であることを告げるのを止めた。まず医者としてではなくて、樫村の気持ちの側に立って話をすることにした。
「それは大変でしたね。この大動脈解離という病気は身を引き裂かれるような痛みだと聞きます。お母様のことを考えると・・・・・・、君の心中がよく分かりますよ。」
「あいつら、失敗しやがったんだ。」
いかにも悔しそうな表情をしている直人に、どう説明したらいいのか、正樹はまよった。
「100万人に5,6人の難病ですね。東洋人よりも欧米人に多く、しかも女よりも男の方に
多いという統計がありますよ。お母様は大変な病気になってしまったのですね。本当にお母様のご冥福をお祈りいたします。」
「何だか変だと、おもったんだ。手術前に俺にはよく分からない説明を長々としやがってな、それを看護師がすぐ側で一字一句、全部メモってやがった。おそらく録音もしていただろうな。それが終わると、何枚も書類に署名捺印させやがった。すべての責任は、この俺にありと言わんばかりにな。」
「それはつらい経験をしましたね。きっと、それがその病院の決まりなんでしょう。」
「医者はこのまま放っておけば、明日までもたない、命にかかわると言いやがった。10パーセントから20パーセントのリスクはありますが、ここは命を救うことを考えてもらって、手術をお勧めしますと言いやがった。そんな言い方をされれば、誰だってノーとは言えないだろうが、違いますか?」
「確かに、その通りですね。選択の余地がない決断でしたね。お気持ち、察しますよ。大動脈解離も心臓に近くない場合は徹底的に血圧を管理した内科的な治療で様子をみますがね、お母様の場合はおそらく心臓の近くまで、解離した血液が流れ込んでしまったのでしょう。それで緊急手術になってしまったとおもわれますね。」
樫村直人は運び込んだ台車から荷物を下ろして、その台車の上に座り込んでしまった。店内にはまったく客がおらず、直人は胡坐をかいて、正樹のことを見上げるようにして話を続けた。
「それから、心臓の弁も取り替えると言いやがった。薬を飲み続ければ死ぬまで使える人工の弁と薬を飲む必要はないが15年位しかもたない豚の弁のどちらにするかを決めろと言われた。それって、人間が決めていいことなのか?人間の命の長さを人が勝手に決めていいのか?」
「そうですね。おっしゃる通りだ。ある意味、現代医学はすでに神様の領域に踏み込んでしまっているのかもしれませんね。倫理的に議論が絶えない問題ですよ。」
「俺の部屋に置かれたお袋の骨を見る度に、駄目なんだよ、悔しくてな、・・・・・・分かるか?この気持ちが?」
「分かりますよ。・・・・・・そうですか、直人さんもお母様のご遺骨はまだ納骨せずに部屋に置かれてあるのですね。僕の部屋にも骨つぼがありますよ。」
「誰か、亡くされたのか?」
「ええ、大切な人を失いました。島に戻って、共同墓地に入れようとおもっています。それが彼女の遺言でしたからね。」
「島?」
「ボラカイ島と言います。小さな島です。実は、自分はそこに住んでいる者ですがね、こうして日本に出稼ぎに来ているというわけです。私もあなたと同じで、大切な人を失いました。島で一緒に暮らしていたパートナーを劇症肝炎で亡くしました。生前、彼女がその島にある共同墓地に入れてくれるように希望しましたので、約束通り、もう少しお金が貯まったら一緒に帰るつもりです。こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、どうです、直人さん、一緒にボラカイ島に行きませんか?うまく言えませんが、何か、手では掴めないものが見えてくるかも知れませんよ。」
大動脈解離
「なあ、正樹さん、あんた、うちのオフクロさんの命を奪った病気について詳しいようだが、もっと、俺にその大動脈何とかやらを教えてくれないか?」
「大動脈解離ですか。手術の前に病院の先生から説明があったとおもいますが、・・・・・・。」
「あったけれど、あの医者、難しい言葉ばかり使いやがって、俺にはさっぱり分からなかったよ。」
「わかりました。それでは出来るだけ分かりやすく説明してみましょう。」
「ああ、頼むよ。」
「大動脈は心臓から体全体へ血液を送るメインパイプのようなものですよ。胴体の中心を通って両腕や両足まで伸びている太い血管でしてね、ちょっとやそっとでは破れないように三重になっています。だから一番外側の血管の壁は丈夫にできていますよ。真ん中はスポンジのようになっていてクッションの役目をしています。そして一番内側の壁は血液が流れていますからね、直接血液に触れているわけですから、まあ、それなりの特殊な組織でできているわけです。原因はまだよく分かっていませんが、この内側の血管の壁が破れて大動脈のパイプの真ん中のスポンジ部分に血液が染み込んでしまうのが大動脈解離です。血管は大きく膨らんでいきます。もしこの大動脈の外側の壁が破れたら、命はありません。でも、さっきも言いましたが外側の壁は丈夫にできていますからね、徹底的に血圧を管理した内科的治療で乗りきることも出来ます。ただ、恐いのはね、心臓に近い部分にまで解離が進むと、もう手術しかありません。それも救命を最優先する手術でして、時間の余裕などはありません。膨らんだ血管が破れて心臓に血液が流れ込んだら、即、ショック死してしまいますからね。だから、そうならないように心臓に近い部分の大動脈を人工のパイプに取り替えるわけです。同時に脳へ続く血管と心臓の弁も取り替えます。大手術ですよ。大動脈全部を人工のものと交換することは負担が大き過ぎて無理ですから、心臓に近い部分を交換するだけです。ボロボロになった大動脈と人工のパイプをつなぎ合わせるのですからね、この手術はとても難しいですよ。いかに素早く出血を止めるかが勝負となってきます。手術中は脳へは血液を送り続けますがね、心臓も含めて脳以外の身体全体は低温の状態に保ち、しばらくの間、血が流れなくなります。循環停止状態ということです。だから、手術後に完全な元の状態に戻るという保証はありません。あくまでも救命を優先した手術ですからね。」
「心臓はさ、手術中は止まっているのかね?」
「心臓の停止している時間は他の手術と比べると長いですね。それだけ心臓には負担がかかります。心筋梗塞や不整脈が起こる場合もあります。脳も含めて身体中のすべての臓器への血流が悪くなるわけですから、脳梗塞をはじめ、様々な障害が予想されます。でも、心臓の近くまで大動脈解離が進んでしまうと、手術をしなければ、ほぼ確実に死亡してしまいます。手術死亡率は10~20%で緊急手術としての成績は必ずしもよいとは言えません。手術後の死亡率も高くて、外科医にとっても、この大動脈解離という病気はとても怖い病ですよ。」
「じゃあ、あんたは、お袋が死んだのはあいつらのせいじゃねえと言いたいのか?」
「医者も人間ですよ。現代医学とて完璧ではありませんし、生と死はわれわれの力を超えた神聖なものだとおもいます。大動脈解離が心臓付近まで進んでしまった状況では、他に道はなかった。お母様を担当されたお医者様は見て見ぬふりをしなかったわけで、知りうる限りの救命処置を施した。しかし、人間の限界を超えていた。そう解釈された方があなたのお母様も喜びますよ。そのお医者様を憎んだところで何になるのですか。」
「あんたには分からんよ。おれの気持ちなんか、・・・・・・あまり偉そうなことばかり言うなよ。」
「あまりこんな数字を言うのは好みませんがね、急性の大動脈解離に関してだけ言うと、発症後2週間以内の死亡率は50%~90%だと言われています。非常に高い数字になっています。お医者様があなたのお母様を殺したのではなくて、大動脈解離という病気があなたのお母様の命を奪ったと考えるべきですよ!」
「何を言いやがる、おまえ、俺に喧嘩をうっているのか?」
「樫村さん、大動脈を人工のものに交換する手術が出来る病院は限られていますからね、その大手術を受けられただけでも幸せだと考える方が正しい。」
樫村直人は我慢の限界だった。次の瞬間、直人は正樹の横腹に蹴りを入れてしまった。鍛え抜かれた直人の右足は、その一撃でもって正樹を床に沈めてしまった。
「私のことを殴って、それで、あなたの気がすむなら、さあ、どうぞ、もっと殴ればいい!」
そう大声で言ってから、正樹は床から立ち上がった。そして言った。
「あなたが言うように、あなたのお母様を担当された医者が、もし、やる気のない医者だとしたら、手術は短時間で終わったはずですよ。・・・・・・でも、違うでしょう。おそらく10時間以上かかったはずだ。ボロボロになった大動脈の壁と人工の血管の縫い合わせた、その部分、その針穴からの出血すら止まらない状態だったはずです。凝固因子が消費されてしまっていて、出血が止まらない状態になっていますからね。血を止めるだけでも6時間以上かかることもある。この手術は誰にでも出来るという簡単なものではありませんよ。心臓と脳を体から外しての大手術ですからね。」
樫村直人は頭を抱えて、また、台車の上にだらしなく座り込んでしまった。
「お袋の手術は・・・・・・12時間かかったよ。確かに、・・・・・・。すまん、お前が医者みたいな口のきき方をするから、つい、蹴ってしまった。だがな、・・・何と言われてもな、俺はあの医者が許せないんだ。」
正樹は自分が医者であることを樫村直人に告げる必要は今はないな、とおもった。
少し間をおいてから、正樹が言った。
「もし、お母様を入れるお墓がないのならば、私たちの共同墓地に入れてはどうですか?とてもきれいな南の島の、それも丘の上にある、それは気持ちの良い、明るいお墓地ですよ。いつ行っても、やわらかい風が吹いていてね、私の一番ほっとする場所ですよ。」
しばらく考えてから、樫村直人が言った。
「南の島か、俺の四畳半の汚い部屋よりも、・・・・・・いいかもしれないな。」
「私は来月、島に戻るつもりです。良かったら、一緒に行きませんか?」
「来月か、・・・・・・。」
「ゆっくり考えて下さい。お母様を連れて行く、行かないは別にして、少し、ボラカイ島で休んだらよろしい。きっと気持ちが落ち着きますよ。」
「さっきは、蹴ってしまって、すまなかったな。大丈夫か?」
「大切な人、突然、亡くされたんだ。お気持ちはよくわかりますよ。」
「すまなかったな。その島へ行くのには、いくらくらい、掛かる?」
「むこうで泊まるところと食事は心配いりませんよ。だから、飛行機代だけですね。ディスカウントを使えば、そんなには高くはありませんよ。」
「そうか、それなら、あんたの飛行機代も俺が出すから、俺をその、何とか言う、島へ連れて行ってくれないか?」
「ボラカイ島です。ええ、いいですよ。喜んでお連れしますよ。」
理沙 彩花
理沙
樫村直人と正樹がボラカイ島に向かったのは、東京の桜が葉桜になった頃だった。早朝の池袋、メトロポリタンホテルの一階ロビーで二人は待ち合わせた。午前6時発のリムジンバスで成田空港へ行くことにしたのだった。先にロビーに到着したのは正樹だった。朝のホテルはがらんとしていて静かだった。幾つか置かれたソファーにも誰も座っていなかった。正樹は玄関脇のベルボーイのデスクでリムジンバスの予約の確認と支払いを済ませてから、樫村が自分を見つけやすいように、ロビーの中央の長椅子にどっかりと腰を下ろした。まだ、バスの出発時間まで30分あった。ホテルのフロントに一人とさっきの玄関脇のベルボーイと正樹の三人だけが豪華なシャンデリアの下の空間を占領していた。続いてこの贅沢な空間に入って来たのは樫村ではなかった。タクシーから降りた二十歳前後の少女が大きなスーツケースを押しながら正面玄関より現われた。どうやら、正樹たちと同じリムジンバスの利用客のようだった。彼女も正樹と同じ様にベルボーイにバス代を支払い、正樹の近くのソファーに座った。正樹はその少女の顔に見覚えがあった。しかし、確かではなかった。正樹が勤めていたコンビニの前の通りを、毎朝、風を切るようにして横切って行く女子高校生の横顔に似ていた。早足で歩くその姿を正樹はとても凛々しいとおもっていた。話しかけてきたのはその少女の方からだった。
「すみません。この6時のバスは、渋滞はありませんか? あたし、9時過ぎのフィリピン航空に乗りたいのですが、間に合うかしら?」
彼女も同じ飛行機だった。正樹はすぐに答えた。
「私は何度か、このバスを利用していますがね、フライトに遅れたことは一度もありませんよ。渋滞はあまり心配しなくて大丈夫ですよ。」
「そうですか。ありがとうございます。いつもは成田エクスプレスか車を使っているものですから、心配で、・・・・・・。」
「あなたもフィリピン航空ですか。それじゃあ、僕と同じだ。・・・・・・、失礼ですが、僕の顔に見覚えはありませんか? ほら、駐車場の大きなコンビニの、・・・・・。」
「はい、はい、そうです。そうです。制服を着ていらっしゃらないから、気がつきませんでした。あー、あそこのコンビニの店員さん、・・・・・・。」
「えー、そうです。私はすぐにあなたのことが分かりましたよ。毎朝、あなたが学校へ行く姿を見ていましたからね。えー、驚きだな、フィリピンですか。あなたのようなかわいい女性が・・・・・・、フィリピンですか。」
「ネグロス島へ行きますのよ。」
「ネグロス、それはまた驚きだな。もちろん、誰かと一緒に行くのでしょうね?」
「いえ、あたし一人でまいります。」
「それは、それは、またまた驚きだな。一人ですか。・・・・・・あ、そうだ、私は正樹と申します。」
「あたしは理沙です。どうぞ、よろしく。」
「いやいや、こちらこそ、よろしくお願いします。」
「正樹さんもお一人ですか?」
「いや、もうすぐ連れが来るはずなんですがね、バスが出るというのに、遅いですね。」
「正樹さんはマニラですか?」
「いいえ、私たちはボラカイ島へ行きます。」
「わあ、ボラカイ島ですか。いいな。きれいな島だと聞きます。あたしも行ってみたいな。」
「ボラカイ島は有名になり過ぎましたね。世界中から観光客が大勢押し寄せて来ていますからね。聞くところによると、韓国では新婚旅行の定番になってしまったようですよ。行きたい新婚旅行のベスト3に入っているそうです。フィリピン政府もボラカイ島を観光の目玉として特別に力を入れていますからね。治安も完璧だし、あの国の芸能人たちがボラカイ島の砂浜を歩く姿を毎日のように放送していますからね、フィリピン国民のあこがれの島になってしまいましたね。今では島に渡るのに入島税というか、観光開発税までとっていますからね。どんどん発展しますよ。ホテルも豪華なやつがたくさんできています。」
「いいな、あたしも行ってみたいな。」
「でもね、ボラカイ島に何も無かった頃を知る人々は悲しんでいるでしょうね。発展することで素朴さが失われてしまったから、秘境だった頃のボラカイ島は現在の百倍もきれいだったと僕もおもいますよ。でもね、島の人々は豊かになったのだし、あの国が豊かになることは良いことだから、私は島の開発には反対しませんよ。まだまだ、あの島の大自然は人間の力を上回っていますからね。あの雄大な白い砂浜は人間のちっぽけな営みを笑っていますよ。」
「長い砂浜があるんでしょう?」
「ええ、4kmも続く白い砂浜があります。世界が認めた最高の砂浜ですよ。何万年もかかってできた砂は真っ白です。海も遠浅で波も静かです。北欧やイギリスでは、度々、世界最高のビーチとして紹介されています。年々、ボラカイ島は発展していますね。」
理沙と正樹がすっかり打ち解けて話をしていると、樫村直人が母親の遺骨を抱えながら現われた。むき出しの遺灰を見て正樹が言った。
「バックの中にお母さんを入れた方がいいな。成田に着いたら、何か入れるものをさがそう。」
「そうか、やっぱり変か?」
「変じゃないけれど、周りの人間が気を使うからな。まあ、座れや、まだ、少し時間があるから。お前のバス代は払っておいたから。」
ここで樫村と理沙の目が合った。正樹が言った。
「こちら理沙ちゃん。ネグロス島へ行くそうだよ。」
「ネグロス、え、あの貧困、飢餓の島へ、こんなかわいいお嬢さんが・・・・・・。失礼、俺は樫村です。樫村直人といいます。」
「理沙です。よろしく。」
正樹もさっきから聞きたかったことを樫村はすぐに理沙にぶつけた。
「何でネグロス島へ行くんですか?」
理沙はその樫村のぶっきらぼうな質問に淡々と答えた。
「おじいちゃんがネグロス島にいますの。退職金をおばあちゃんと半分子して、一人で島へ移住してしまったものですから。」
「そうなんだ、それは奥が深い話だな。」
樫村は遠慮を知らない男だ。続けざまに理沙に質問を浴びせた。
「おじいちゃん、ネグロス島で何をやっているんだい?」
「実はね、戦争の時、うちのおじいちゃんはネグロス島にいたんです。その当時の話はあたしたちには一切してくれませんけれど、会社を辞める前から決めていたんでしょうね。ご存知かどうか知りませんが、ネグロス島は砂糖の産地でしょう。ネグロス島が砂糖の国際価格の暴落で危機に落ち込んだと知ると、おじいちゃんは迷わずに島に行ってしまったんです。それもたった一人で農業指導を始めるとか言ってね。」
三人はリムジンバスに乗り込んで、まだ眠っている東京を離れた。高速道路に乗ると、樫村はすぐ眠ってしまった。理沙と正樹はさっきの話の続きをした。
「理沙ちゃんのおじいさんはネグロス島の人たちに農業を教えているんだ。」
「ええ、そうよ。山を一つ借りて、棚田をこしらえたのよ。すごいでしょう。おじいちゃん、いったい、いつ、どこで農業を覚えたのかしらね。」
「きっと、勤めをしながら勉強したんだよ。」
「そうかな。それに、あそこの言葉も話せるのよ。」
正樹はネグロス島へ行ったことはなかったが、テレビや新聞でネグロス島の惨状を聞いたり見たりしたことはあった。
「私はあまり詳しくは知らないけれど、ネグロスの人々は農園労働者がほとんどでしょう。土地を持たない、言ってみれば雇われ労働者だ。農園主が砂糖の価格の変動で砂糖の栽培を辞めたら、即、食えなくなってしまう。そこが単一栽培の恐いところだよ。砂糖の他には何も栽培していないから、賃金をもらって、そのお金で他の島から食料を買って生活していた人々は一瞬で飢餓状態になってしまう。」
「そうなの。ネグロス島はフィリピンで最大の砂糖の産地だわ。オクシデンタル州だけでも国内の半分の生産だそうよ。製糖精製工場の中には世界最大級のものもあるそうよ。農地のほとんどがプランテーションだから、労働者たちの食料は他の島から買っているの。だから地主が砂糖栽培を放棄したら、すぐ、労働たちは飢餓状態になってしまうの。ユニセフとか幾つかの日本のNGOが飢餓救済を始めたけれど、ネグロス島の人々は苦しんでいるわ。誰かが助けてあげないと、・・・・・・。おじいちゃん、たった一人で頑張っているのよ。百人以上の人たちと自給自足の生活を始めたの。戦争中、アメリカ軍に追われて山に逃げ込んだ時の経験が、今、役に立っているみたい。」
「そうなんだ。理沙ちゃんのおじいちゃん、すごいね。そういう日本人ばかりだといいんだがね。しかし、現実はあの国ではおそまつな日本人ばかりが目立つ。恥ずかしいかぎりだよ。」
樫村が大きな鼾をかいて眠っている。それを見ながら理沙が言った。
「樫村さん、よく眠ってらっしゃること。」
「ああ、さっきまで、配送の仕事をしていたからね、仕方がないよ。何とか無理をお願いして、三日間だけ休みをもらったんだ。彼のお母様の遺灰をね、ボラカイ島の丘にある、私たちの共同墓地に入れようとおもってね、それが今回の旅行の目的なんですよ。」
「さっき大事そうに抱えていたのがお母様なのね。」
「ええ、そうです。彼は医者がお母さんを殺したと思い込んでいるんです。誰かを恨むことで悲しみに耐えているみたいだ。ボラカイ島の大自然が彼の憎しみをきっと解き放してくれると僕はおもってね、彼をこの旅行に誘ったんです。」
「ボラカイ島か、いいな、あたしも行きたいな。」
「理沙ちゃんの航空券、ちょっと見せてくれる。」
「いいわよ。・・・・・・はい、これよ。」
「この航空券は変更がきくよ。少し予定を変えてさ、ボラカイ島へ来ないか。案内するよ。二三日、島で遊んでから、おじいちゃんのところへ行ったら?・・・でも、駄目か、おじいちゃんが心配するか。」
「いえ、それはないわ。だって、おじいちゃん、あたしが今日行くことを知らないもの。」
「じゃあ、ボラカイ島に来なよ。ネグロス島へは僕が送って行くから。」
「いや、それは大丈夫よ。あたし一人で行けるから。」
「違うんだ、僕ね、君のおじいちゃんに会ってみたくなったんだ。だから、ネグロス島まで送って行くよ。」
「樫村さんは?」
「彼をマニラから日本へ送り返したら、一緒にネグロス島へ行こう。それでいいよ。」
「正樹さんは日本へ帰らなくていいの?」
「実はね、僕の家はボラカイ島にあるんだ。日本へは出稼ぎに行っているだけなんだ。」
「へー、そうなんだ。さっき、私たちの共同墓地とか言っていたから、何かなとおもっていたんだけれど、それで分かったわ。それなら尚更、あたし、ボラカイ島へ行きたくなりました。」
「じゃあ、決まりだ。ちょっとボラカイ島で遊んでいきなさい。」
「はい、よろしくお願いします。」
成田空港は混んでいた。特にフィリピン航空のチェックインをする列は長かった。国にいる家族へのお土産なのか、皆、大きなダンボールの箱を幾つも持って帰る為に余計に時間がかかった。出国手続きの列も長蛇の列で、よく、これでみんな飛行機に乗り遅れないものだと感心したくらいだった。樫村と理沙ちゃん、そして正樹の三人は最終搭乗案内のランプが点滅している下をくぐり抜けて、機内へ滑り込んだ。樫村はどうせすぐに寝てしまうから窓際に、理沙ちゃんを挟んで正樹は通路側に席をとった。機内を見回すとほぼ満席状態だった。
マニラまでの飛行時間は約4時間、食事をしたり、入国カードを書いたりしていると、そんなに長いと感じる時間ではない。今回は特に可愛いお嬢さんが一緒だから、正樹は時間が経つのを忘れていた。
「理沙ちゃんは、もう、何度もネグロス島へ行っているの?」
「今回が3回目よ。お姉さんと交代でおじいちゃんに色々なものを届けているわけ。」
「兄弟は二人?」
「ええ、そうです。姉は、以前はよくボランティアで東南アジアを回っていましたけれど、おじいちゃんがネグロス島に移住してからは、ネグロスにいることが多くなりましたね。」
「ネグロスか、僕の知り合いでネグロス出身者はスコットだけだな。ボラカイ島の隣の島で獣医をしているんですがね、そう、彼は確かネグロス島の人間ですよ。でも、お父さんはオーストラリアの人だから、ハーフということですか。」
フィリピン航空だけはマニラ国際空港内の敷地に新しく出来たフィリピン航空の専用ターミナルへ横付けする。国際線と国内線を同じターミナルにしたことで、旅行者の便宜をはかり利用客を増やしている。樫村と正樹はこのターミナルで国内線に乗り継いでカリボ空港へ向かうことになっていた。幸い、その飛行機には空席があり、理沙も同じ便に乗ることになった。乗り継ぎの搭乗手続きを終えて、三人はカリボ行きの飛行機が出る登場口の前のソファーに腰を下ろした。樫村が言った。
「きれいな空港ですね。大きくて、それにとても清潔だ。」
正樹が答えた。
「確かに、立派な空港になったよ。昔のマニラ国際空港を知っている者にとっては驚きですよ。あの頃は随分重たい荷物を持って炎天下の中を歩かされたからね。飛行機のタラップを降りてから、ターミナルまで雨の中を何度も歩かされたこともある。出口から出ると、大勢の客引きが近寄って来てさ、もみくしゃ状態、恐いくらいだった。まあ、あの頃はあれで楽しかったけれどね。」
「すると、俺たちは大都会マニラには降りずに、このターミナルからすぐにボラカイ島へ行くのかい?」
「ああ、そうだよ。ボラカイ島には空港がないから、隣の島のカリボという町で降りることになる。フィリピン航空は飛行機が大きいから、大きな滑走路のあるカリボの空港で降りる。ボラカイ島の近くにあるカティクランの飛行場は小型機しか使えないからな、少し離れているが仕方がないよ。」
「そのカリボまでどのくらいかかる?」
「時間か?」
「ああ、そうだ。」
「カリボまでは一時間もかからないな。乗ったらすぐに到着してしまう感覚だよ。正確な時間は分からないけれど、40分くらいなもんだな。だけどカリボからボラカイ島へ渡る船着場のあるカティクランまでが遠い。車やバスで100キロ近くのスピードで飛ばして、一時間くらいかかる。」
理沙が楽しそうに言った。
「暗くなる前にボラカイ島へ着けるのかしら?」
「何事も起こらなければ、太陽が沈む頃、ちょうどボートに乗ってボラカイ島の夕日が拝めるのだけれど、今日はどうやら無理みたいだね。ほら、あの搭乗口の掲示ボードを見てごらん。僕らが乗る飛行機の到着が遅れているみたいだよ。」
「あら、本当だわ、いつの間にか出発時間が変更になっているわ。」
「僕、ちょっと行って聞いてくる。」
正樹は搭乗口のデスクへ小走りに向かった。樫村と理沙はソファーに座ったまま、正樹が航空会社の職員と話をしているのを黙って見守った。
5分ほどして正樹は二人のところに戻って来た。
「エンジントラブルだそうだよ。今、代わりの飛行機をさがしているみたい。」
理沙は楽しそうな表情のままだったが、樫村が急に機嫌が悪くなった。
「なんだよ、待たされるのかよ。」
正樹が笑顔で言った。
「だいぶ前のことだったよ、国際線の飛行機だったけれど、日本から来た友人が帰ろうとしたら、マルコス大統領とイメルダ夫人が外遊するとかで、飛行機を全部持っていってしまってね、その友人は三日間もホテルに待機させられたことがあった。もちろん、そのホテル代と食事は全部、飛行機会社が負担したけれどね。」
「国内線もそんなことってあるのかしらね?」
「分からないな、何が起こっても不思議ではないのが、この国だからね。」
一時間が経過した。搭乗口のボードに欠航の文字が点滅し始めた。
「あら、いやだ、欠航みたいよ。」
真っ先に理沙が欠航のサインに気がついた。樫村がまたぼやいた。
「何だよ、いいかげんにしてくれよ。飛ばないのかよ。俺は休みがやっと取れたんだぞ、むちゃくちゃだな。」
正樹はちっとも慌てていない。搭乗口の係りに欠航を確かめてから、二人のところに戻り言った。
「今日はフィリピン航空も他の航空会社も無理みたいですね。でも、まだ、チャンスはありますよ。今日は土曜日ですよね、ちょっと、警察へ行ってみましょうか。」
「警察?なんじゃ、それ?警察へ行くと何でボラカイ島へ行けるんだ?」
樫村は正樹がおかしなことを言うので、そう言いながら正樹のことを睨みつけた。そんな樫村の質問に正樹は答えなかった。
「もしかすると、今日中にボラカイ島へ着けるかもしれない。兎に角、警察へ行ってみましょう。」
三人は空港ターミナルで待機しているタクシーには乗らずに、飛行場を出て少し歩き、大通りを流しているタクシーをひろった。理沙が正樹に聞いた。
「正樹さん、さっき何でターミナルの横でタクシーに乗らなかったのですか?」
「最近はだいぶ良くなってきましたがね、昔はひどかったんだ。どうも空港に待機しているタクシーは性質が悪くてね、そのことが頭にあるものだから、通りを流しているタクシーにしました。もっともこれはマニラだけじゃないよ。日本だった同じだけどね。僕は空港で待機しているタクシーがどうも好きになれないんだ。」
「そうなんだ。あたしはあまりタクシー乗らないから分からないけれど、最近は空港には料金前払いの公営タクシーがあるとガイドブックで読んだことがあります。」
「ああ、そうらしいね。それは安全だけれど、それなりに高いはずだよ。」
「やはり、そうなんだ。」
マニラの街はいつものように熱気に包まれていた。気温だけではない、車も人も商店も活気に満ちていた。贅沢にすっかり慣れきった日本人にはこの街は不向きだ。正樹は注意深く樫村と理沙の表情をうかがった。以外にも四畳半で暮らしている樫村が悲鳴をあげた。
「すげえー所だな、ここは。おまけに暑すぎるぜ!」
理沙はネグロスを知っているから、別に驚いた様子もない。信号待ちで近寄って来る裸足の子供たちに小銭を渡していた。正樹はそんな理沙の自然な振舞いを見ていて、彼女のおじいさんにますます会いたくなってきた。
彩花
マニラ東警察の署長も歳を重ねてしまった。正樹と初めて出会った頃のあの血気盛んな勢いはもうなくなり、渋くて落ち着いた表情を見せるようになっていた。正樹が彼の部屋に入って来るのを見ると、いつものように大きな机から立ち上がり、両手を差し出しながら正樹に近づき握手を求めた。
「おー、これは、これは、正樹くん、元気にしていましたか?」
「ええ、お蔭様で、署長もお元気そうでなによりです。飛行機が飛ばなくて、参りました。」
正樹の後ろで樫村と理沙が驚いた顔をしながら二人の会話を聞いていた。署長室には他に二人の訪問者が来ていたが、署長はその者たちを後回しにしてしまった。正樹は自分の視線をその二人の先客に当てながら、署長に小声で言った。
「どうぞ、僕たちは後ろでお待ちしますから。」
署長はうなずきながら握手だけ済ますと、席に戻り二人の先客と仕事を続けた。理沙が正樹に言った。
「正樹さんは署長様とお知り合いだったのですね。」
「僕が学生の頃からの、・・・何と言うのか、・・・署長は僕にとってはこの国の父親のような存在ですよ。ある意味ではそれ以上かもしれません。恩人とでも言うのかな、何度も命を救われたこともありますしね。僕は困ったことがあるといつもここに来るんですよ。」
樫村が大きな声で言った。
「俺はあまり警察は好かんな。それに、何でここに来るとボラカイ島へ行けるんだよ?」
「あんまり大声で喋るなよ!まあ、お前の話は日本語だから、署長に聞こえても心配はないけれど、兎に角、ちょっと静かに待ってろ、今に分かるから!」
十分ほどで話はまとまったようで、二人連れは署長に丁寧に礼を言いながら部屋から出て行った。署長は机の上の書類を整理しながら正樹に目で合図を送った。続いて机の前の椅子に座るように手招きしたので、正樹は理沙と樫村を椅子に座らせて、自分自身は理沙の後ろに立った。署長が言った。
「今、もう一つ椅子を持って来させましょう。」
正樹が言った。
「いえ、結構です。僕はこのままで、ありがとうございます。」
「早苗さんはお元気かな?」
「つい先日、生まれ故郷の病院で、早苗は、・・・・・・、病気で死んでしまいました。僕のそのバックの中には彼女の骨が入っているんですよ。ボラカイ島の私たちのお墓に入れようとおもってね、・・・・・・。」
正樹は言葉が途中で出なくなってしまった。署長はしばらく目を閉じてから、ゆっくりと言った。
「何ということだ!無常ですな。早苗さんのご冥福をお祈りいたしますよ。」
「ありがとうございます。でも、どうしてなんですかね?この世の中、悲しいことが多過ぎますよ。」
「まったくだな。警察で仕事をしていると感覚が麻痺してしまうが、本当につらい事が多すぎるな。わしは時々、教会へ行ってね、神様に向かっておもいっきり説教をすることがあるんだ。どうしてなんですか?何で我々に、こんなつらい試練ばかりお与えになるんだとね。」
「確かにそうですね。僕もよく落ち込んでしまった患者さんを慰める時に、神様は越えられないハードルは用意しないんだからと言い聞かせますけれど、大地震などで罪もない人々がたくさん死ぬと、神様の存在を疑いたくなりますね。」
「まったくだな。わしはしばらくボラカイ島へは行っていないが、ヘリコプターのパイロットたちの話では、ボラカイ島は随分とにぎやかになってしまったらしいな。」
「ええ、この国の代表的な観光地になってしまいましたよ。豪華なホテルが幾つも出来ましたし、新しい桟橋が完成して、浜のボートステーションで腰までずぶ濡れになって下船する情緒がなくなってしまいましたね。」
「まあ、それも良し悪しだな。ところで飛行機が飛ばなくなってしまったと言っていたね、定期便は午前中に飛んでしまったけれど、すぐにヘリを準備させるから心配するな。」
「いつもすいません。我がままばかり言いまして、署長には感謝しております。」
「心配するな。子供たちの面倒をお願いしているのだから、それくらいのことはあたりまえだよ。」
ここでやっと、署長の注目が樫村と理沙に向かった。正樹が紹介を始めた。少し難しい英単語を選んで、樫村が分からないように説明した。
「こちらは樫村と言います。少し前にお母様を亡くされまして、やはり、僕たちの共同墓地に一緒に入れてあげることにしたんです。彼は手術をした医者がお母様を殺したと思い込んでいるのですよ。まだ怨みと憎しみの世界にいるものですからね、僕はボラカイ島のあの大自然が彼の気持ちを変えてくれるとおもったものですからね、一緒に連れて来ました。」
「そうか、それはいいかもしれないな。前に君が言っていたけれど、ボラカイ島は心の病院だからね。自分のことを捨てた親を、あれだけ憎んでいた子供たちが立派に成長しているんだ。彼の心もきっと癒されるだろうよ。」
「そして、こちらは理沙ちゃん、彼女のおじいさんがネグロス島で農業の指導をしていらっしゃいます。空港で偶然に知り合いましてね、ネグロス島へ行く前にボラカイ島へ寄ること勧めた次第です。」
「ネグロスですか、砂糖の島だ。あと、南部のセブ島に近いところにシリマン大学があるな。学園都市のドゥマゲッティは治安が比較的良い。確か、あの大学はプロテスタント系の大学のはずだが、カトリックのこのフィリピンでは珍しい存在だよ。」
正樹が理沙に質問した。
「理沙ちゃんのおじいさんはネグロスのどこにいるの?」
「ドゥマゲッティからそんなに遠くないわ。姉がね、シリマン大学にICUの交換留学生として、そこに在籍していますのよ。」
正樹は理沙のその言葉を聞いて、また不思議な力を感じた。これもまたボラカイ島の魔力なのだろうか?今、署長が話をしていたシリマン大学に理沙の姉がいると言うのだ。偶然にしては出来過ぎている。正樹は理沙に確認するように聞いた。
「お姉さんがシリマン大学にいるのですね。もし良かったら、お姉さんのお名前を聞かせてくれませんか?」
「ええ、いいですよ。姉は彩花といいます。韓国や日本のミッション系の大学からはけっこう行っているのよ。例えば、フェリス女子学院大学やICU、それから四国学院大学なども交換留学を行なっているわ。」
「へー、そうなんだ。すると、彩花さんは学生ビザでネグロスにいるわけなんだ。理沙ちゃんの滞在ビザは観光ビザですか?」
理沙はこくりとうなずいてから言った。
「あたしもね、もっと長くおじいちゃんのところにいたいから、ビザの変更を考えているの。もしかするとシリマン大学へ入るかもしれないわ。あの学校は海のすぐ側にあってね、とても静かな学校よ。キャンパスは緑に囲まれていて、とてもきれいな大学なの。ドゥマゲッティの町の大きな部分を大学が占めているわ。」
「ネグロスか、ドゥマゲッティね、彩花さん、それにシリマン大学、ますます理沙ちゃんのおじいさんに会ってみたくなってきたよ。」
樫村がじれるようにして正樹に言った。
「おい、ボラカイ島はどうしたんだよ。早く何とかしろよ!」
「心配するな!もう30分もしないうちに島に行けるから。」
「本当かよ?」
その正樹の言葉通り、三人を乗せた警察のヘリコプターはボラカイ島の岬にある豪邸の中庭に到着した。
樫村と理沙はヘリが地上に着陸する前に完全に言葉を失っていた。真っ青な空、エメラルドグリーンの海、そしてどこまでも延びている真っ白な砂浜を二人は360度の空間全体で感じて放心状態になっていた。正樹は案内してきた訪問客がボラカイ島の空気に触れて驚く様子を見るのがとても好きだった。樫村と理沙の二人も間違いなく感動していた。
ヘリの到着した岬の豪邸にはマニラで親からも社会からも捨てられた日比混血児たちが
保護された後、彼らの自分の意思でもって、この家で仲間と共同生活をしていた。その数は以前ほどではなくなったが、まだ多くの子供たちが岬の家で暮らしていた。市場の近くにある正樹の診療所はここの子供たちの健康管理を任されていた。正樹が日本へ行って留守の間は、すっかり貫禄が出た主任のヨシオと他の青年医師たちとで手分けして診察にあたっていた。正樹の診療所で働く医師たちはヨシオも含めてすべて岬の家の出身者たちだ。かつてはマニラの裏道で残飯をあさっていた子供たちだった。
三人が降りると、ヘリはよく晴れ上がった青空の中に消えて行った。豪邸の中庭に造られたヘリポートにはこの家で勉強を続けている子供たちが、さっき、午前中に飛び立った定期便が再び戻って来たことに驚き、大勢集まって来ていた。しかし訪問者が正樹だと分かると安心して、それぞれが担当している場所に戻って行った。この岬の家を運営している渡辺コーポレーションの担当重役の佐藤と、その妻のナミだけがヘリポートに残った。ナミは亡くなってしまった早苗の親友だ。ナミは既に診療所の主任医師ヨシオから早苗のことは知らされていた。真っ赤な目をしてナミが正樹に言った。
「正樹さん、このたびは・・・・・・、」
ナミは溢れ出る涙で、すぐに言葉が途切れてしまった。正樹はもう大丈夫だった。手で持っているバックを見せながら言った。
「ほら早苗さんを一緒に連れて来たよ。この島の、あの丘の上の共同墓地で眠りたいと本人が言っていたからね。約束どおり連れて来た。長野の親戚の人々はあまりいい顔をしなかったけれど、早苗さんの遺言だからね、特別に分骨してもらった。だから、早苗さん、半分は長野の先祖代々のお墓に残してきました。」
佐藤とナミは悲しい表情のままだ。正樹が話を続けた。
「紹介が遅れましたが、こちらは理沙ちゃん、リムジンバスでたまたま一緒になってね、おじいさんとお姉さんがネグロス島にいます。寄り道ですね、ボラカイ島にちょっと寄ってもらいました。それから、こっちは樫村、東京での仕事仲間です。やはり、お母様を最近、亡くされてね、・・・・・・、まあ、いつまでも部屋に置いておくのも何ですからね、特に彼の場合は色々と訳ありでね、様々なことを考えてしまうものだから、部屋にお母様を置いておくよりもお墓の方がいいとおもったものですから、それでね、彼のお母様を僕たちのお墓に入れることを提案した次第です。」
佐藤が二人に丁寧に挨拶をしてから、三人を豪邸の中へ招き入れた。吹き抜けの豪華なリビングに理沙も樫村も圧倒されていた。正樹が小さな声でナミに一言耳打ちをした。ナミは軽くうなずき言った。
「この家にはゲストルームがたくさんありますから、どうぞ遠慮なさらないで使ってくださいね。ちょっと町まで遠いけれど、その分、静かだから、ゆっくり出来るとおもうわ。」
理沙と樫村は驚いた表情のまま、正樹の方を見た。
「後で、僕の家へ案内しますけれど、あそこは狭いので、ここがいいでしょう。」
理沙が聞いた。
「正樹さんは?」
「小さいですけれど、僕は自分の浜辺の家がありますから、そっちの方で寝ます。・・・・・・、そうか、二人が島にいる間は僕もここで世話になろうかな、そっちの方が楽かな?」
ナミが言った。
「正樹さんもどうぞ。たくさん話が聞きたいし、それに、独りで浜辺の家にいるなんて寂し過ぎるわ。」
「そうだね、それもそうだ。」
その夜、正樹は樫村と理沙の歓迎パーティーを抜け出し、独りで海が見下ろせる大きなテラスに立っていた。早苗が初めてこの岬の豪邸にやって来た夜のことを思い出していた。ボラカイの海が月の光に照らされてキラキラとあの日と同じ様に光っていた。波の音しか聞こえない、本当に静かだった。正樹は自分に言い聞かせていた。ディーンを失い、今度は早苗が先に旅立ってしまった。こんなに寂しい想いをするのなら、もう恋などしたくない。・・・・・・正樹はそこで苦笑いをした。何だよ、これじゃあ、まるで歌の歌詞のようじゃないかと独りで呟いてみた。そしてまたぼんやりと眼下に広がるボラカイの海を見下ろしていた。
テラスのベンチに腰を下ろすと、夜の空が正樹のことを被った。雲が幾つも闇夜の中を通り過ぎて行った。雲も月の光を受けて鈍く輝いていた。
ナミがグラスを片手に現われた。その足どりはたどたどしかった。
「やはり、ここだったわね。今日は独りなんだ。」
「ええ、ここに来ると、・・・思い出が一気に溢れ出してしまって、・・・動けなくなってしまいました。」
「そうね、あたしが初めてこの島に来た、・・・あの夜もさ、早苗と正樹さんはこのテラスにいたものね。」
「ええ、そうでしたね。」
ナミが正樹の目の前の欄干のところまで行き、ゆっくり振り返って正樹のことを見た。均整のとれたそのナミの身体はすべての男たちの憧れだ。あの時のままだった。ナミのプロポーションは完璧でちっとも崩れていなかった。ナミは外交省のバリバリの外交官だった。ところがボラカイ島の魔法にでもかかってしまったように、この岬の家の現在の管理責任者の佐藤とあっけなく結婚してしまった。
「ねえ、正樹さん、あたしね、この島で暮らすようになって変わったわ。」
「それはそうでしょう。世界中を相手にしていた外交省だったからね。いつ呼び出されるかわからない24時間勤務の外交官が、生活も時間もゆっくりと流れるボラカイ島に嫁に来たのだからね、変わって当然でしょう。」
「忙しいという字は心を亡くすと書くでしょう。本当にその通りよ。この島に来てそのことがよく分かったわ。」
「確かに、忙しいという字はこころ偏に亡くすと書くね。漢字を考案した人はすごいね。よく考えて漢字をこしらえている。僕は仕事もなくてさ、ただブラブラしているよりは忙しい方が良いと思うけれど、忙し過ぎると何もかも忘れてしまうものだ。とっても大切なものまで知らず知らずのうちに忘れてしまうこともある。」
「そうよね、忙し過ぎると心に余裕がなくなってしまって、相手の悩みに気がつかない事だってあるものね。」
佐藤がナミと正樹が話をしているテラスに飛び出して来た。
「あー、やっぱりここにいたのか、正樹さん、ちょっとリビングへ来てくれませんか。」
ナミが言った。
「どうしたの?」
「いいから、早く! テレビの画面を見て下さい!」
三人は急いで豪邸の中に入った。吹き抜けのリビングに置かれた大きなテレビには白いドレスを着た女性たちが映し出されていた。佐藤が言った。
「これ、どうやら、シリマン大学の学園祭のようです。美人コンテストのようなんですけれど、この一番左の子なんですけれど、・・・・・・ほら、この子です。」
そう言って佐藤は白いドレスに赤いタスキを肩から下げた女性を指差した。ナミが真っ先に叫んだ。
「やだ、早苗じゃない。」
正樹は黙ってその子のことを見つめていた。佐藤が言った。
「ねえ、早苗さんにそっくりでしょう。」
樫村と理沙も何が起こったのかと驚きながらテレビの近くに寄って来た。そして理沙がポツリと言った。
「あら、いやだ。お姉さんだわ。彩花ねえさんがテレビに出ているわ。」
佐藤とナミ、そして正樹の三人は今度は理沙の方を見た。佐藤が理沙に向かって言った。
「赤いタスキの人は君のお姉さん?」
「ええ、彩花ねえさんですよ。」
命
命
樫村と理沙の歓迎会は深夜にまでおよんだ。病で天国へ行ってしまった早苗にそっくりな理沙の姉がテレビの画面に映し出されてからは、話題は早苗とその理沙の姉の彩花のことばかりになった。早苗の親友だったナミが言った。
「世の中には自分とよく似た人が何人かいると言われているけれど、本当だったんだ。理沙ちゃんのお姉さん、こんな言い方をしてごめんなさいね、気味が悪いくらい早苗とよく似ているわ。ねえ、正樹さん、正樹さんもそうおもうでしょう。」
正樹は揺れ動く心とは裏腹に平静を装った。
「ああ、よく似ている。でも、早苗は早苗で、理沙ちゃんのお姉さんは理沙ちゃんのお姉さんだよ。まったくの別人さ。」
「正樹さんは彩花さんに会ってみたくない? あたしは、会ってみたいな。双子だってあんなには似ていないわよ。ドラマじゃないけれど、もしかしたら早苗と理沙ちゃんのお姉さんの彩花さんは双子だったりして、そうでないとしても遠い昔に、先祖が一緒ということもあるわよ。早苗は長野の戸隠の生まれ。理沙ちゃんたちのお生まれは?」
少し飲みすぎてしまった理沙が、ハッと我に返り、ナミの質問に答えた。
「東京です。東京生まれの東京育ちです。長野には親戚は一人もおりませんし、戸隠へは一度も行ったことはありません。」
「それじゃあ、違うか。早苗とは縁がなさそうね。でも、ボラカイ島の魔法が正樹さんと理沙ちゃんを引き合わせた。そして、彩花さんも・・・・・・。」
正樹が話を逸らせた。ネグロス島にいる理沙と彩花のおじいちゃんについてまた話し出した。
「理沙ちゃんのおじいさんは退職してから、単身、ネグロス島に渡られて農業指導をされている。その話を聞いて、僕は理沙ちゃんのおじいさんにとても会ってみたくなりました。理沙ちゃんにしても、お姉さんの彩花さんにしても、そのおじいさんのそばにいたいと望んでいらっしゃるのだから、きっと、すばらしいおじいちゃんに違いない。ネグロス島へ行ってみたくなりました。」
「ほら、やっぱり。正樹さんは理沙ちゃんのおじいさんじゃなくて、彩花さんに会ってみたいんだ。まあ、いいか。・・・ネグロス島って、砂糖の島でしょう。だけど最近では飢餓ですっかり有名になってしまった島でしょう。」
ナミはそう言ってから、樫村に新しいビールを渡した。正樹が話を続けた。
「そうだよ。理沙ちゃんのおじいさんは戦争をあの島で体験されている。ネグロス島の人々が砂糖の価格が暴落して危機に陥ったと知ると、退職金を理沙ちゃんのおばあちゃんに半分残して一人でネグロス島で農園を開いたそうですよ。つらい体験をした人にしか、他の人の悲しみや苦しみは理解できないものです。苦しい体験はまちがいなく人を成長させてくれますからね。理沙ちゃんのおじいさんは、きっとすばらしい人にちがいないと僕はおもいますよ。会ってお話をたくさん聞きたいですね。」
さっきから黙って飲み続けていた樫村が口を開いた。
「確かに、こんなにかわいらしいお嬢さんたちが、何も不自由しない東京を離れてさ、何もないネグロス島で暮らしているんだから、理沙ちゃんたちのおじいさんはよっぽどの人だな。魅力的な人に違いないな。それに年寄りを大切にしないのが現代の若者たちの流行なんだろう。だけど、理沙ちゃんたちは偉いな。本当に偉い!」
正樹が思い出したように言った。
「最近行われた世界的なアンケート調査なんだけれど、お年寄りを大切にする国のランキングなんだ。フィリピンが堂々のトップで二番目が韓国でしたよ。日本は残念ながら十位以内には入っていなかったようです。この調査結果がなくても、僕は前々からフィリピンの人たちは自分の親やお年寄りを大切にするやさしい国民だということは感じていました。日本人がどんなに偉そうなことを言ったって、この国民性には敵いませんよ。それに最近では、老人大国になってしまった日本ではお年寄りの介護をする若者が足りなくて、隣国に助けを求めているのが現実ですものね。」
飲み過ぎて真っ赤な顔をしたナミの夫の佐藤も口をはさんだ。
「老人の経験と智慧を大切にしない国はいつか衰退しますよ。若者は時として老人の体験と智慧を学ぶべきだ。子供もお年寄りも一緒に暮らすのが東洋のすぐれた伝統だったはずなんだが、日本はどうなってしまったんだろうか。悲しいかぎりだ。」
正樹が佐藤の意見に同感した。
「確かにその通り。戦争を体験した者にしか、その悲惨さを語り継ぐことは出来ませんものね。元来、戦いが好きな人間を、誰かがさ、戦争をさせないようにしなくてはならないからね。ストッパー役が必要なんだ。その役目ができるのは老人しかいないよ。」
その時、静まりかえった岬の豪邸の庭に一台のトライシクルが入ってきた。中古のオートバイのエンジン音は正樹たちが話をしているリビングの中にまで響いた。次の瞬間、リビングの扉が開き、白衣を着た医師のヨシオが飛び込んで来た。
「正樹先生、急病人だ。僕では無理だ。ヘリを頼んで下さい。」
正樹がまず立ち上がって、ヨシオと一言二言、話をして、それからゆっくり振り返って、佐藤の方を向いて言った。
「佐藤さん、すみませんが署長に無線でヘリを飛ばしてくれるように頼んでくれませんか。ケソン市の病院へ患者さんを運びたいので、お願いします。」
佐藤が迅速に動いた。
「承知、ヘリはすぐに手配しましょう。他に何か?」
「いえ、それだけで結構です。」
ヨシオと正樹は庭に待たせてあったトライシクルに飛び乗り、闇夜の中に消えて行ってしまった。
樫村直人が言った。
「何だ、あいつ、医者かよ。ただのコンビニのおやじだとばかりおもっていたのに、俺の一番嫌いな医者だったとはな。」
ナミが答えた。
「正樹さんはここの子供たちの健康管理や島の人たちの診療を無料で引き受けている立派なお医者様ですよ。」
樫村が吐き捨てるように言い返した。
「俺のお袋はな、手術で殺されたんだ。だから医者はみんな信用できんよ。」
その言葉を聞いて、みんな黙ってしまった。重くて暗い空気がしばらく続いた。それを吹き飛ばしたのは、介護の勉強をしてきた理沙だった。
「樫村さんのお気持ちはよく分かりますわ。あたしも、もし樫村さんと同じように自分の母を手術で失えば、医学に対して不信感を持ちますもの。きっと、あたしもすごくお医者様を憎むことでしょうね。でもね、ネグロス島のおじいちゃんのところにいて、少しずつ分かってきたことがあるのです。日本では考えられなかったことでしたけれど、たくさんの人々があたしたちの目の前で死んでいくんです。それでね、おじいちゃんと村の人たちの話を聞いていて多くのことを感じました。人は愛する人の死に直面して、やっと愛の深さを知るんだなってね。おじいちゃんはよく聖書の言葉を引用して村人と話をしていますわ。私たちの身体は病にもかかるし、とても壊れやすい土の器のようなものだって。日本では人が死ぬと火葬場へ運んで行って、すぐに火葬にしてしまいますでしょう。こちらではコンクリートの箱の中へそのまま入れてしまいますのよ。地方によっても違いますけれど、火葬はしませんね。日本だって、以前は土葬の習慣はあったそうです。現代では先祖代々のお墓に遺骨は入れずに山や海に散骨したり、遺骨を固めて置物にしたり、ペンダントにして肌身離さず持っている人もいますよね。ビルの中に回転式の共同のマンション墓地もあったりして、時代とともに葬儀の形式も墓地も多種多様化してきていますけれど、でもやはり、人はみんな土に還るんじゃないかしら。地球に還ると言った方がいいのかな。おじいちゃんは、人にはみんな定められた定命があるんだって言っていたわ。死のうとおもっても、定められた命が尽きるまでは人は死ねないものだって、結局、私たちは毎日を一生懸命に生きていくしかないそうです。明日、いや事故で何時間後に死ぬことだってあるんですからね。だから、今現在をしっかりと生きるしかないんだって。大切なことは壊れやすい土の器ではなくて、そのもろい土の器の中に入れるものなんだって。きれいな澄んだ水なら、器が壊れても、地面にしみ込んで、その水によって新しい芽が生えてくるでしょう。受け継がれていくものは容器ではなくて、その中のものだけなんです。」
樫村が理沙に質問した。
「理沙ちゃんは天国とか極楽があるとおもうかね? 死んだ後の世界さ、そんなものがあるとおもいますか?」
「死後の世界があるのかないのかは、死んだ人にしか分からないものでしょう。生きている私たちには分からないことだわ。それだったら、あるとおもった方が素敵じゃない。」
ナミが言った。
「確かに、医療の進歩は倫理的に多くの問題を引き起こしているわね。今までは、当り前の死だったものが、そうでなくなってしまっているもの。医療は厳粛であるはずの死を時として無駄にしてしまうこともありますものね。最新鋭の機器を備えた病院は余計なことをやりすぎてしまうこともありますものね。」
岬の豪邸の外は熱帯特有のスコールが襲っているようで、ものすごい雨音がしていた。その場にいるものは皆、さっき出て言ったヨシオと正樹たちのことが気にかかった。医者をあんなに嫌っている樫村直人でさえも正樹たちのことが心配になっていた。もう、誰もアルコールを口にする者はいなかった。重たい空気が広いリビングを支配していた。
一時間、いやもう少し経った頃だった。豪邸の中庭に再びトライシクルの音が響きだした。正樹が患者さんと付き添いの母親を連れて戻って来た。正樹とトライシクルのドライバーによって豪邸の中に運び込まれてきたのは中年の男性だった。激しい痛みが続いているらしく、その表情は苦しみに満ちていた。連れ添って来た母親はもう腰が曲がってしまっていて、80歳をとっくの昔に超えているように誰の目にも映った。ヘリはすでにマニラを飛び立ったという連絡が入っていた。母親は涙声で正樹に話しかけていた。
「こんなにやさしい子がどうしてこんな目にあうんでしょうね。」
正樹が言った。
「おかあさん、まもなくヘリが到着しますからね。」
しかし、事態はかなり深刻だった。ソファーの上に寝かされた患者の心臓が停止したことに正樹はすぐに気がついた。
「樫村、ちょっと手伝ってくれんか。」
「ああ、いいよ。」
「足を持ってくれんか、二人で患者さんを床におろすから。」
「わかった。」
「俺が人工呼吸をするから、その合間に心臓を両手で強く押してくれないか。
ナミさん、医務室から電気ショックのあの装置をお願いします。」
「分かったわ、今、とってきます。」
正樹の言葉があまりにも真剣で気迫がこもっていたので、医者嫌いの樫村はそれを拒否することは出来なかった。二人は汗びっしょりになりながら、心臓マッサージと人口呼吸を交互に何度もおこなった。電気ショックを与えても、再び、心臓は動くことはなかった。その場にいたすべての人々の願いも空しく、その患者さんは永遠の眠りについてしまった。泣き崩れる母親が何度も同じことを繰り返していた。
「何で、こんなにやさしい息子が、こんなに苦しんで死ななければならないのかしら。先生、どうしてなんですか。」
誰もこの母親をなぐさめる言葉など持ちあわせてはいなかった。正樹は彼女の息子を抱き上げてソファーの上に寝かせた。たった一つだけ救われたことがあった。それはさっきまであんなに苦しんでいた表情が安らかな笑みにかわっていたことだった。母親はその顔を何度もさすりながら涙を流していた。
「この子は、わたしたち家族のために何度も出稼ぎに行ってくれたんですよ。熱い熱い砂漠の国へね。仕事がない時だって、いつだって、みんなのために尽くしてくれたやさしい子なんだ。そんな優しい子がどうしてこんなに苦しいおもいをしなくてはいけないのですか。何で、あたしより先に行くんだね。あたしが代わってやりたかったよ。・・・・・・。」
どんな言葉もきっとこの母親の慰めにはならないだろう。正樹は年老いた母親の肩をしっかりと抱きしめて言った。
「あなたの息子さんはみんなの苦しみをぜんぶ背負って召されたんですよ。それは選ばれた本当にやさしい人にしかできないことなんです。選ばれし者にしか許されていないことなんですよ。立派な息子さんでしたね。見てごらんなさい、息子さんの顔を、安らかに眠っていますよ。もう苦しんでなんかいませんよ。・・・本当にお悔やみ申し上げます。」
その正樹の言葉を聞いて、母親はもう返事をしてくれない息子にむかって話しかけていた。
「あんたはさ、あのジーザス・クライストと同じだよ。お礼を言うよ。ありがとう。みんな、どれだけ助かったことか、あんたがいたから、みんな生きてこれたんだ。みんなの苦しみを、あんたはひとりで・・・・・・。ありがとうよ。・・・どうか、ゆっくり休んでおくれ。あんたは、あたしの自慢の息子さ、・・・・・・。」
ナミも理沙も涙が溢れていた。樫村の目も赤かったが、小さな声で理沙に聞いた。
「ジーザス・クライストって誰だ?」
理沙が小さな声で答えた。
「キリストさんですよ。」
「十字架のキリストさんかね。」
「ええ、そうよ。」
ヘリコプターが岬の豪邸のヘリポートに到着した。正樹はすぐに外に飛び出して、パイロットに事情を説明した。ヘリはエンジンを切らずに、そのまま飛び去って行った。それを聞いていたトライシクルのドライバーが帰ろうとしたので、正樹はそれを止めた。
「悪いがもう少しそこにいてくれ。親子を家まで送ってやってくれないか。あっ、その前に警察へ行ってくれるかね。ちょっと待っていてくれ。」
リビングに戻った正樹はすぐに最上階の佐藤の書斎へ行き、今度は無線で患者の到着を待っているケソン市の病院へ連絡を入れた。簡単だったが丁寧に礼を述べて無線を切った。次に豪邸の庭の手入れをお願いしているスタッフに外で待機しているトライシクルで島の警察に行って巡査を連れてくるように指示を出した。
大切な息子を失ってしまった母親は自分の膝の上にその息子の頭をのせながら、まだ温かい息子の顔をさすっていた。もう、さっきのように泣き叫んではいなかった。樫村直人はじっと目をつぶって溢れ出す感情を抑えている様子だった。正樹が日本語でそっと言った。
「死因は解剖してみないと分かりませんが、たぶん、樫村さんのお母様と同じ大動脈解離でしょう。心臓に血液が流れこんでショック死したと考えられます。ケソン市の病院でも、この時間に、この大手術ができる医者がいたかどうか疑問ですね。どんなに医学が進歩しても死を征服することは出来ませんよ。肉体は老化し、時には病気にもなります。いずれは朽ち果てる運命にあります。それが人の定めなのですからね。命にはかぎりがあるわけで、そのかぎられた命をどう生きるかが、人に与えられた勤めなのかもしれませんね。重要なことは身体よりも健やかな心を保ち続けることですよ。医者の力には限界があります。」
理沙が言った。
「正樹さんは、うちのおじいちゃんと同じだわ。同じことをおじいちゃんも言っていたわ。」
「僕はただ、当り前のことを言っただけですよ。」
樫村直人は考えていた。さっき心臓マッサージをしていた自分はある意味、自分の母親を殺した医者と同じではないのかと、・・・。俺は確かに命を救おうとしていた。俺は医者ではないが、あの医者と同じことをしていたのかもしれない。・・・そんなことを無意識のうちに感じていた。ボラカイ島の魔法が樫村直人に効き始めていた。
まだ暗いが、夜明けは確実に近づいていた。正樹が理沙を誘った。
「理沙ちゃん、ちょっと海へ出てみませんか?」
「こんな時間にですか?」
「出ると言っても、舟で沖へ出るわけではありませんよ。少し浜辺を散歩してみませんか。」
「ええ、喜んで。」
二人は岬の豪邸のテラスから階段を降りて浜辺へ向かった。
「けっこう月の光だけでも歩けるでしょう。」
「ええ。」
理沙が振り返って階段の上を見上げて言った。
「でも大きなお屋敷ですね。プライベート・ビーチまであるんだ。びっくりですね。」
「そうでしょう。日本で生まれ育った人には、まったく想像もできない別世界ですよ。」
二人は椰子の木の下にある流木で作られたベンチに腰をおろした。理沙が言った。
「上のお屋敷にいる子どもたちはみんな日比混血児なんですか?」
「ああ、そうですよ。マニラの裏道に捨てられていた子供たちです。以前は常時500人くらいはいましたけれど、今はだいぶ少なくなりました。現在では50人から70人の間で数はいったりきたりしていますね。成人するとみんなこの家を巣立って行きますからね。だから、ここの家で育った子供たちはね、すでに世界中に散らばっていますよ。そして、その中で成功している者たちはこの家を裏から支えてくれています。経済的にね。」
「すごいですね。」
「大きな葬儀がある時には本当に驚きますよ。訃報を聞きつけて世界中からこの家の出身者がこの岬の家に集結するんです。家の中に入りきらずにね、中庭に大きなテントが幾つも張られるんですよ。ええと数だけれど、何万人いるんだろうか?今度、名簿で調べてみます。」
「ええ、そんなにマニラの裏道に日本人と血のつながった子供が捨てられていたんですか?」
「ほんの一部にすぎませんよ。実際にはもっともっといるんじゃないのかな。」
正樹は流木のベンチから立ち上って言った。
「ちょっと、ホワイトサンド・ビーチへ行ってみましょうか。来る時にヘリから見えた、あの白くて長い砂浜です。」
「ええ、長さはどのくらいあるのですか?」
「4キロメートルあります。真っ白な砂浜が4キロメートルも続いているんですよ。」
「素敵ですね。」
とびっきりの笑顔を理沙は見せた。二人はゆっくりと砂浜を歩いた。
「理沙ちゃんと同じように、理沙ちゃんのおじいさんもいつもニコニコしていませんか?」
「ええ、そうよ。その通りですよ。うちのおじいちゃんはいつも笑顔だわ。」
「それは素晴らしいことですよ。なごやかな顔を他人に施す。誰に対しても笑顔で接すること。すばらしい笑顔を交わせば、そこには争い事は起こりませんからね。それからもう一つ、人を惹きつける一番の方法はどんな時でも笑顔でいきいきしていることです。年をとっても、理沙ちゃんのおじいさんのように生きている人はボケたりはしませんよ。」
「あたしたちね、おじいちゃんのそばにいると、何と言ったらいいのかしら、生きているという実感がありますのよ。」
「そうでしょう。分かるな。僕はますます理沙ちゃんたちのおじいさんに会ってみたくなりました。」
理沙は正樹の本心をすでに見抜いていた。
「うちのお姉さん、そんなに早苗さんに似ていますの?」
「ああ、似ている。正直に言うと、テレビで君のお姉さんを見てから、僕の心臓は速くなってしまいましたよ。でも、その反面、彩花さんは早苗とは違う人だと、別人なんだと自分に言い聞かせています。早苗と僕はね、お互いの引きずってきた悲しい過去を、二人で半分にしてきたんです。それから喜びは、二人で二倍にしてきました。」
正樹は少し瞼を閉じて、また話しだした。
「早苗は死ぬ前にありがとうと言ってくれました。その一言は僕にとっては救いでしたよ。生まれてきて良かった。あなたに会えて本当に良かった。感謝しますと言って去って行きました。ありがとうの一言は残された者にとってどんなに助かることか、悲しみを引きずらなくてすみますからね。あとは時の癒しを待てばいいのです。忘れるという特技を人は兼ね備えていますからね。」
理沙が言った。
「なんか、正樹さんって、うちのおじいちゃんみたい。さっきから、おじいちゃんとおんなじことばかり言ってるんだもの。きっと真剣に命と向かい合っている人たちには共通することが多いんですね。それに感性の豊かな人は、過去に何度も涙を流していて、苦しみを知っている人じゃないかしら。さっき、正樹さん、早苗さんと悲しみを分け合ったと言っていたでしょう。」
「偉そうな事を言ってごめんなさいね。確かに、苦難逆境は人生を豊かにしてくれます。より生き甲斐を感じさせてくれるものです。人の幸せって、つらいことに出合うことが少ないとか、ないとかではなくて、むしろ難題や苦難に立ち向かってそれに打ち勝つことじゃないのかな。」
空は明るくなりかけていた。浜辺を掃除している島の人間はみんな正樹の知り合いだ。すれ違う度に「先生、おはようございます。」の声がかかった。正樹も軽く会釈をしてそれに答えていた。理沙は履いていた靴を脱いで、それを両手にぶら下げて歩きだした。
「裸足の方が歩きやすいわね。それにこっちのほうが気持ちがいいです。」
「僕も島にいるときはビーチ・サンダルか裸足ですよ。滅多に靴など履きません。」
「そうだ、さっき、樫村さん、複雑な表情をされていましたね。お医者様が嫌いな人でしょう。正樹さんがお医者様だと分かると、急に黙りこんだりして、表情が暗くなりましたのよ。でも、正樹さんと一緒に心臓マッサージをされているときの樫村さんの顔はとてもいきいきしていて真剣でした。」
「彼、何か感じてくれればいいんですがね。このボラカイ島に来て、彼の気持ちが少しでも癒されればよいのですが。」
「そうね、お母様を手術されたお医者様を憎んでいても仕方がないわよね。・・・・・・でも、もし、あたしが樫村さんと同じ立場だったら、どうかな?・・・やはりお医者様を嫌いになるかもしれませんね。」
「確かに、外科医は成功率の低い手術と分かっていても、また自分のもっている以上の技術を要求されたとしても、やはりメスをとってみたいとおもうものです。患者さんの犠牲があって、次第に外科医はその腕を上げていくものです。それは否定できません。だから、尚更、医者は病んだ臓器ではなくて人間に深い情けがなければいけない。絶対に医者が忘れてはならないことは手術台にいるのは病んだ患部、臓器ではなくて、人だということです。生きた人間だということを忘れてはいけない。驕ってはいけない。どんなに医学が進歩しても医者は死を征服することなどできないのですからね。」
二人は市場の近くまで来ていた。正樹が市場の近くにある自分の診療所に理沙を誘った。
「ちょっと、うちの診療所に寄っていきますか?」
「ええ、ぜひ。」
二人は浜辺から上がりビーチ・ロードへ出て、朝の市場を抜けた。すでに市場は人がいっぱいだった。ブロックだけで簡単につくられた診療所につくと医師のヨシオが待合室の長椅子で眠っていた。奥の正樹の部屋にもタカオ医師が床に敷物を敷いて眠っていた。そこには理沙と正樹の居場所がなく、二人は診療所をすぐに離れた。
「ごめんなさい。二人ともよく眠っているから、起こすのはかわいそうだ。」
「いいんですよ。昨夜のあの患者さんで、きっと疲れているんだわ。」
「あの二人、岬の家の出身なんですよ。ストリート・チルドレンだったんです。」
「そうなんですか。」
「他にも、うちの診療所には六人の医師がいます。みんな岬の家からきた者たちばかりです。看護婦も五人います。この子たちもみな日比混血児です。」
「まあ。そんなに。」
「僕が日本に出稼ぎに行くのはね、みんなの生活費を稼ぐためですよ。」
「えー、でも、診療所でしょう。診察代とか、保険料とか、ないんですか?」
「うちの診療所はね、自己申告制でね、患者さんがお金がある時にね、診療所の入口に設置してある診療箱に入れてもらっています。」
「でも、それじゃあ、・・・・・・。その診療箱にはお金が入っているんですか?」
「入っていませんね。みんな入れたくても入れられないのが現実ですよ。」
正樹と理沙は軽く朝食をとってから、教会と警察へ寄って、早苗と樫村の母親の遺骨を共同墓地に納骨する準備をしてから、トライシクルで岬の家へ戻った。
丘の上の共同墓地で納骨式が始まったのは正午過ぎだった。警官と神父様が立ち会って、樫村の母親は茂木さんとボンボンが眠っている墓へ、早苗はディーンの眠っている墓へそれぞれ入れられた。海から吹き上がってくる風がやさしかった。丘の上の共同墓地はとても清々しい場所で、見晴らしも良く、そこは正樹の一番好きな場所だった。
納骨を終え、樫村が正樹に言った。
「ここはいいな。きっと俺のお袋は喜んでいるぜ。俺も死んだらここに入りたいな。」
「まあ、お互いに定命が尽きるまでしっかり生きて、ボラカイ島とまだ縁があったら、入ればいいさ。」
「あんたは医者だったんだな、・・・・・・。すまん。ちゃんとした礼も言わずに、お袋をここに連れて来てもらって感謝している。」
「いいんだ。お礼なんて、それより、あと一日しか、おまえはこの島にいられないんだ。日本に帰る前に少し島を案内してやるよ。これから山に登ってみるか。」
「この島に山があるのか?」
「まあ、小さい山だがな、この共同墓地よりもっと見晴らしは良いよ。とても気持ちの良い場所だよ。理沙ちゃんも一緒にどう?」
「ええ、ご一緒しますわ。」
納骨のために集まってくれた人々を見送ってから、三人はトライシクルでルホ山に向かった。何度も樫村と正樹はトライシクルから降りてバイクの後ろを押した。中古のエンジンは急な坂道を四人を乗せたまま登りきることはできなかったからだ。
見晴らし台からはボラカイ島の裏側、ホワイトサンド・ビーチの反対側の海岸線を望める。遠くを行く船の白い線がとてもきれいだった。開放的な青い空、緑色と青色の入り混じった大海原、これ以上何を望めというのか。そこは簡素なつくりの見晴らし台だったが世界一の展望台と言っても過言ではなかった。理沙が樫村に言った。
「樫村さん、嬉しそうね。」
「ええ、気持ちがスッキリしました。不思議なんだ。胸のつかえがスーっと取れたようでね。」
「お母様もお墓でゆっくり眠ることができますね。」
「そうだね。それもあるよ。もっと不思議なのはさ、今までの俺がさ、ちっぽけに見えてな。この雄大な景色を見ていると、いったい今まで俺は何をやっていたんだと反省しているところなんだ。ずいぶん無駄に生きていたような気がしてな。」
正樹はニコニコしていて、何も言わなかった。さっきから理沙が樫村の相手をしている。
「ボラカイ島は不思議な島ですね。訪れた人をみんな幸せにしてくれますものね。」
「確かにそうかもしれないな。俺の場合は恨みとか憎しみが消えちまったよ。」
正樹は笑顔のまま黙って二人の話を聞いていた。
「樫村さんは明日東京に戻られるのでしたね。」
「ええ、そうです。なかなか休みがとれなくてね。明日、俺は日本に帰ります。でも、また来ますよ。お袋に会いにこの島に来ることを考えると、何と言うのか、希望みたいなものが生れてきてね。・・・・・・明るい気持ちになるんだ。」
「それって大事なことよ。おじいちゃんはネグロス島の人たちにいつも言っているわ。どんなに小さなことでもいいから希望を持ちなさいって。希望を見つけることができれば幸せになれるんだって。ねえ、そうおもうでしょう。正樹さん?」
正樹は見晴らし台の欄干に手を添えて、空に向って話しだした。
「皆、幸せになることを望んでいます。だけど、自分が幸せであることを実感することは難しくて、逆に不幸であると思うことはたやすいんじゃないかな。幸せのかたちはみなそれぞれ違うけれど、ただ、共通していることは心が持続して安らかな状態にあることだよ。人間は強いものでね、どんなに不幸な境遇でも耐え忍ぶことができます。どんな困難の中でも小さな希望が一つあれば幸せを実感することだってできるんですよ。希望は心をあたたかくしてくれます。それから希望は決して高望みはしないんだ。どんなに小さな希望でも人の心を十分にあたたかくしてくれます。希望は願望や欲望とは別もので、満足することを知っています。どんどんふくらんでしまう願望や欲望を持って生きるのではなくて、小さな希望をもって生きることが大切だと僕もおもうよ。人間、足ることを知らないとだめだよ。」
理沙が言った。
「正樹さんはうちのおじいちゃんと同じことばかり何度も言うからびっくりだわ、・・・・・・。あたし、知っているわよ。おじいちゃんなら、きっと次はこう言うわよ。生きているという実感は自分を他人のために役立てた時に感じるものだってね。」
「正解!忘己利他だね、大乗仏教では我を忘れて他人の利益を優先しなさいと教えています。わがまま勝手、自分のためだけに生きると周りの者は離れていきます。裕福ですべてを与えられて満ち足りると非常に空しくなります。何をしても嬉しさを感じなくなりますからね。それほど人の願望ははてしないものです。身体や境遇に欠陥や欠点があっても心は健やかでいること、小さな希望を胸に毎日を生きることが大切なんです。」
翌日、樫村は東京へと帰って行った。もう、彼の医者へ対する恨みや憎しみは完全に消えていた。
また一つ、ボラカイ島は魔法を使ったようだった。
孤独
孤独
樫村直人は必ずまたボラカイ島に戻って来ると言い残して日本へ一人で帰って行った。その三日後、理沙はネグロス島のおじいさんと姉のもとへ正樹を連れて向かうことになった。隣のパナイ島へ渡るボート乗り場で、見送りに来ていたナミが正樹に言った。
「正樹さん、やっぱり行くことにしたんだ。」
正樹は返事をせずにコクリとうなずいた。理沙がナミにお礼を言った。
「いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました。」
「また、いらっしゃいね。いつでも、大歓迎だから・・・・・・。」
「ええ、ありがとうございます。」
「小さい島だから、どうしても退屈。ほら、話に飢えちゃって、きっとよ、また来てね。そうだ、今度はお姉さんと一緒にいらっしゃいよ。」
「ええ、必ず。ナミさんもドゥマゲッティに遊びに来て下さいね。」
「そうね、あたしはいつも暇だから、きっと行くわよ。」
二人を乗せたバンカーボートはゆっくりとボラカイ島を離れ、次第にそのスピードを速めていった。それはまるで飛び魚のように元気よく青い海を飛び跳ねていた。やがてボートはそれを見送るナミの視界から消えていった。
(ネグロス島南部)
岡田拓実はわかっていた。もう自分の命が残り少ないことを、それは年齢からくる寿命ではなくて、自分の体が重篤な病に侵されていることを知っていた。そのことを孫の理沙や彩花、そして一緒にネグロス島で暮らす周りの者たちには告げずに慎重に振舞っていた。しかし、医者である正樹は岡田拓実と会ったその日のうちに、彼の顔色の悪さや痛みを堪える仕草に気がついていた。
「岡田さん、一度、精密検査を受けられてはいかがですか?」
岡田拓実は顔色を変えずに正樹の質問にゆっくりと答え始めた。その言葉は途切れ途切れではあったが、十分に正樹の心を震わせた。
「そうですか、無理でしたか、・・・・・・やはり正樹さんにはかくせなかったようですね。以前、テレビのニュースであなたのことをお見かけしましたよ。あなたがお医者様であることも知っています。そう、・・・分かってしまいましたか。・・・・・・でも、もう少しだけ待って下さい。どうしてもやっておきたいことがあるのでね。」
「いつからですか?」
「・・・・・・以前から調子は悪かったのですがね、先月あたりから、急に痛みが激しくなってきましてね、・・・・・・。でもね、この村の人々は、やっと、自給自足の生活ができるようになってきたんだ。あとは、私がいなくなっても、何とか現金収入を得られるようにしてやらないと、・・・・・・。」
「ご親戚で過去に病で、例えば癌でお亡くなりになった方はいらっしゃいますか?ご両親、ご兄弟は?」
「私は終戦をこの島でむかえました。戦争が終わって、日本へ帰ると、父も母も、それから・・・たった一人の姉も東京のあの大空襲で行方不明になってしまっていました。」
「すみませんでした。辛いことを聞いてしまいましたね。お許し下さい。ではご親戚の方で、誰か病気で亡くなられた方はおありですか?・・・・・・ご記憶にありませんか?」
「親戚も、みんな、あの戦争で・・・・・・・亡くなりました。東京の焼け野原に立ち尽くし、あの時、私は涙を出しながら孤独というものを本当に実感しましたよ。」
「そうでしたか。」
「私はあの時から小さな希望を見つけて、一日一日を大切にすることにしました。大金持ちになってやろうとか、総理大臣になってやろうなんて一度もおもったことはありませんでした。だってそうでしょう、正樹先生、戦争が終わっても何が起こるか分かりませんからね。交通事故で突然に命を失うことだってあるんだ。先のことなんか誰にも分らないことですものね。将来のことを悩んで心配のあまりに今現在を無駄にしてはもったいないですからね。」
「確かにおっしゃる通りです。」
「人間、生まれてくる時もあの世に行く時も一人なんだ。人はどうあがいたって孤独なんです。そのことをしっかりと分かっておかないといけない。孤独だからといって寂しがってばかりいたら何も出来やしないですからね。」
「そうですね。人は孤独ゆえに人生をともに過ごしてくれる伴侶をさがすのかもしれませんね。孤独な者同士がそれを癒そうとおもって一緒になる。結婚したりもするわけですね。でも何年かすると、子どもたちは自分の生活がありますからね。当然、巣立っていくし、パートナーともいずれは別れなくてはならない。病になることもあるでしょう。結局、人は・・・みんな・・・最後は孤独なのです。それは仕方がないことなのですね。」
岡田拓実と正樹は理沙の姉の彩花が運んできた手料理に箸をすすめながら話を続けた。理沙が日本からみやげに持ってきた日本酒も惜し気もなく出されていた。二人は屋外の棚田がよく見渡せるテーブルで、とても初対面とはおもえない、極めて打ち解けた二人だけの宴を開いていた。
「正樹先生、先生は日本のコンビニでバイトをしていらっしゃると、理沙が言っていましたが、何かこの島の人たちの生活が安定する、・・・アイディアというか、方法はないでしょうかね?」
「それは難しい質問ですね。この国の人々が誰もが望むことですものね。そうですね、お店では、最近ではマンゴーやバナナ、それに、ナタデココなどが、また人気商品となっていますね。ナタデココもそうですけれど、僕はココナッツにとても興味がありますね。まあ、ココナッツはココナッツオイルのようにたいへん貴重なものも含めて、まったく捨てるところがないほど素晴らしいものです。以前からずっと考えていることなのですが、あの殻の繊維質をうまく利用できないでしょうかね。固い殻をほぐして園芸とか、食品とは別の方面に使えないでしょうかね。土の代わりとか肥料とか、うまく加工して商品にならないでしょうかね?」
「園芸ですか。・・・・・・例えば、道路のセンター分離帯にある植木とか、・・・・・・。」
「なるほど、それはおもしろいかもしれませんね。」
「燃料として使われることもありますが、捨てられている殻をもらってきて再利用する。」
「いいかもしれませんね。」
二人は村人の喜ぶ顔を思い浮かべながら、話に花を咲かせた。正樹と岡田拓実は考え方や生き方に共通したところが多く、初対面からすぐに打ち解けた良い関係になった。
「岡田さんはタロウという芋焼酎をご存じですか?」
「ええ、よく知っていますよ。よくテレビで話題になる幻の焼酎ですよね。」
ちょうどその時、彩花がチャップソイと呼ばれる野菜料理をテーブルに並べていた。正樹は早苗にそっくりな彩花にも一緒に話をしないかと誘った。彩花は妹の理沙も連れて来るからと言ってキッチンへ戻っていった。・・・・・・途切れた話の続きを正樹がした。
「そうです。その芋焼酎です。川平太郎さんがこちらで新しい品種の紫芋をみつけて、それで焼酎を作ったところ大当たりしたものです。僕らは商売のことを考える時、どうしても日本とのつながりを考えてしまいますよね。でも、太郎さんは日本を抜きにして、こちらで成功した人です。長い目で見たらどうでしょう。ここの村人のことを本当に考えたら、為替の変動や両国間の関係に左右されないこの国の中だけで生活の道を切り開いた方が良いのかもしれませんね。」
岡田拓実は正樹の話を聞きながら笑顔でテーブルの上にひろげられた料理に箸をつけていた。
しばらくすると、理沙と彩花がエプロン姿でやってきた。岡田と正樹はテーブルを挟んで向かい合って座っている。二人はそのテーブルの両脇にわかれて座った。覚悟はしていた正樹だったが、早苗とそっくりな彩花が隣に座り、さすがに平常心ではいられなかった。彩花の登場は正樹の心を大きく揺さぶり始めていた。理沙が岡田拓実に不思議なことを言い始めた。
「おじいちゃん、さっきね、お姉ちゃんが変なことを言っていたのよ。正樹さんと会ったのは今日が初めてなのに、前にも会ったような気がするんだって。」
瞬間ではあったが、理沙のその一言でもって、その場にいた者はみな凍りついた感覚に陥っていた。岡田が彩花に聞いた。
「どういうことなんだ。」
彩花は恥ずかしそうに言った。
「それが、自分でもよく分からないのよ。でも、どこかで正樹さんに会ったような気がして、・・・・・・とても不思議なの、よくあるじゃない、前にもこんな風景があったなんて、そんな感じが、初めて来た場所なのに前にもここに来たことがあるような錯覚が、・・・さっきから、ずうっとそんな感覚が続いているの。」
理沙が茶化した。
「デージャーブーか、・・・もしかしたら早苗さんの霊がお姉ちゃんに乗り移ったとか?」
岡田が理沙のことを叱りつけた。
「こら、理沙、馬鹿な事を言うものじゃない。失礼だぞ!・・・・・・正樹さん、ごめんなさいね。気にせんで下さい。」
「いや、いいんですよ。僕の方こそ、彩花さんに謝らないといけないのかもしれない。あまりにも亡くなった早苗とよく似ているものだから、もしかすると、おかしな目で彩花さんのことを見てしまっていたのかもしれない。正直に言うと、彩花さんは、ただ早苗に似ているというだけでなく、仕草もまったく早苗と同じなんです。だから、僕もさっきから早苗が戻ってきたような気がして、・・・そんなことがあるわけがないのにね。すみません。」
「いいんですよ。」
「彩花さん、趣味は何か?」
「旅行かな、あたしの好きな場所は京都、何度行っても飽きないわね。京都の街を歩くのが大好きです。」
驚きを隠せない正樹であった。恐る恐る次の質問をしてみた。
「京都の、・・・・・・京都のどこがお好きですか?」
「そうね、一番好きな場所は、詩仙堂、・・・・・・そう詩仙堂だわ。きっと、正樹さんは知らないわよね、小さいなお庭だから。」
正樹は真っ青になり完全に言葉を失ってしまった。早苗だ、今、隣に座っているのは早苗にまちがいない、それは偶然にしてはありえないことだった。早苗が一番愛してやまなかったお庭の名前を彩花が言ったからだ。素早く理沙が正樹の心の変化に気がついた。
「どうしたの、正樹さん。お顔が真っ青だわ。」
「いえ、大丈夫です。・・・・・・いや、ちょっと飲み過ぎたのかもしれないな。」
正樹はまだ早苗が元気だった頃ことを思い出していた。二人で砂浜に寝転がり、冗談で死後の世界について話し合ったことがあった。
「ねえ、もし、どちらかが先に死んでしまったら、死後の世界がどういうものなのか、知らせに来ない。」
「いいよ。化けて出てくるわけだね。」
「そうよ。」
「でも、何か合図を決めておかないといけないな。二人にしか分からない秘密の合図をさ・・・、そうしないと他の悪い霊に騙されちゃうからね。」
「そうね、じゃあ、何にしましょうか?」
「早苗ちゃんの一番好きな場所はどこ?」
「そうね、京都の詩仙堂かしら。正樹さんは?」
「そうだな、僕は今、二人が寝転がっているホワイトサンド・ビーチかな。」
「この浜じゃあ、みんなが好きだもの、念のために、もう一つ、二人にしか分からない合言葉を決めておかないとダメよ。」
「じゃあ、二人に共通した事柄がいいな。」
「分かったわ、二人とも、とてもつらい失恋しているから、失恋にしましょう。」
「失恋ね、・・・よし、それにしよう。でも、どうやってその話を確認するんだい?」
「そうね、・・・・・・わかんないや。まあ、いいっか、そんなこと。」
そこで二人の話は途切れてしまった。
理沙の言葉で正樹は再び現実に戻された。理沙はしばらく東京の実家に帰っていたから、岡田が急にやせ細ってしまったことにやはり気がついていた。
「おじいちゃん、ちょっと見ないうちにスマートになったわね。何かダイエットでもしたの?」
「ああ、お前が留守の間にな、ちょっと調べたいことがあってな、村中を歩き回っていたからね。少し痩せたかもしれないな。」
「そうなんだ。」
彩花はいつも岡田のそばにいたから祖父の体の変化には気がつかなかった。
「そう言われてみると、おじいちゃん、痩せたわね。」
正樹が岡田に助け舟を出した。
「いや、人間、食べ過ぎ、肥り過ぎは体には良くありませんよ。バランスのとれた食事が大切ですね。アスリートやスポーツ選手は別として、普通の生活をしている分には小食で十分なんですよ。そうね、岡田さんくらいの細さがベストじゃないのかな。」
医者の正樹の言葉で理沙と彩花は安心した様子だった。その夜は月がくっきりと四人の頭上に輝いていた。正樹がぽつりと言った。
「お月さんはさびしくないのですかね。ああやって、ぽつんと一人ぼっちだ。僕らのことを見守りながら照らしてくれているんだろうけれど、僕は月を見る度に人も孤独なんだと知らされますよ。」
岡田はさっき正樹に言ったことをまた繰り返した。
「人間、生まれてくる時も死ぬ時も独りなんだよ。自分は孤独だと嘆いてばかりいてはだめだよ。人間は所詮、孤独であることを承知した上でしっかりと最後まで生き抜いていかなくてはいけない。特に、これからの日本では高齢化がどんどん進んでいって、一人ぼっちのお年寄りが激増するだろう。誰にも気づかれずに孤独死する老人がたくさん出てくる。例え、一人であっても、あとどれくらい生きられるのかと悩んでばかりいてはだめだよ。どんなことだっていいんだ、小さな希望をみつけて毎日を感謝しながら生き続けることが大切なんだよ。」
そう言いきってから、岡田はゆっくりと立ち上がり、正樹に言った。
「私はこれで失礼して寝させてもらいますよ。あとは若い者だけで・・・・・・。」
少し飲み過ぎたようだったが、岡田の足どりはまだしっかりしていた。理沙が付き添って、寝室へ岡田を連れっていった。正樹は不思議なことに、その夜はいくら飲んでも酔うことがなかった。彩花と正樹が二人っきりになった。彼女が言った。
「正樹さんは失恋したことがおありですか?」
「失恋」という言葉を聞き、正樹が動揺しないはずはなかった。早苗との秘密の合言葉だったからだ。早苗だ!目の前にいる彩花は早苗に間違いないと正樹はおもった。いっこうに返事をしない正樹に向って、彩花が再び言った。
「ごめんなさいね。失礼なことを聞いちゃったみたいね。」
「いえ、いいんですよ。僕は二度、失恋しましたよ。二度とも死別しました。」
「あたしってバカね、何でそんなことを突然に聞いちゃったのかしら、どうかしているわ。本当にごめんなさいね。許して下さい。」
「いいんですよ。早苗さん。」
「え?・・・・・・・。」
「失礼。・・・・・・僕はちっとも気にしていませんから。彩花さんはどうですか。失恋したことはおありですか?」
「はい、あたしも正樹さんと同じように二回も失恋しましたのよ。でも、どちらも片想い、恋と呼ぶには恥ずかしいものでしたけれど。」
「失恋の失という字ですがね、よく見ると人ノ土と書きますよね。人は命を失って、最後には土に戻る。それから失恋という字の恋の字ですがね、無理をして亦(また)と読めば、また心を失って孤独になるとも解釈できますよね。さっき、岡田さんが言っていましたけれど、人は結局はみんな孤独なんですよ。家族がいればまだ救われますが、家族もいないで、しかも近所の人たちからも社会からも厄介がられて生きていくのはとても寂しいものですよ。自分の存在を忘れられるだけではなくて、みんなから嫌がられて暮らすわけですからね。」
「もし、正樹さんがそんな町の厄介者として扱われるようになったら、どうしますか?小学生や中学生のいじめのような目にあったらどうしますか?」
「そうだな、僕だったら、朝早く起きて町中のゴミを拾って歩くでしょうね。誰も見ていなくてもいいんだ。それは小さなことだけれど、自分も何かみんなの為に役に立っているとおもうだけで心は救われますからね。でも、みんなから無視されて生きる続けることは本当に孤独でしょうね。例えば、足腰が動かなくなって、社会のために何もしてあげることが出来なくなった時の苦しみは計り知れないでしょうね。」
「では、まったくの寝たきりの状態に正樹さんがなったらどうしますか?」
「それはきびしい質問だね。岡田さんも言っていたけれど、小さな希望を見つけるようにするね。どんなことだっていいんだ。窓の外の植物を見て、その花が咲くのを待つことだっていいしね。」
「理沙がボラカイ島で日比混血児にたくさん会ったと言っていましたが、島には孤児院か何かあるのですか?」
「いや、孤児院ではありませんよ。彼らは自分の意志で共同生活をしているだけですからね。彼らは以前はマニラの大都会の裏道で孤独な暮らしをしていた連中です。無責任な日本人の父親にも・・・、それだけじゃあない、完全に母親や社会からも無視されてきた子供たちです。だから誰よりも人は孤独だということを知っている子どもたちです。」
理沙がテーブルに戻って来た。
「おじいちゃん、何だか苦しそう。ベッドに横になる時もすごくゆっくりだったわ。それに陰から見ていたんだけれど、何だか辛そうだった。どこか痛いのかしら?」
彩花が大きな目を見開いて正樹に言った。
「おじいちゃん、さっき正樹さんに何か言っていませんでした?お医者様の正樹さんに、どこか体が痛いとか・・・・・・何か?体の不調を相談していませんでしたか?」
正樹は岡田がもう少しだけ待って下さいと言った言葉をおもいだいしていた。
「いえ、何も言っていませんでしたよ。」
「そうですか。」
夜とはいっても、ここは南国で30度近くはある。理沙は日本酒に氷を入れて、正樹にそれを勧めた。
「正樹さん、どうぞ。・・・・・・あの、少しここにいてくれませんか?あたし、おじいちゃんのことが心配だわ。」
彩花は即座に言った。
「まあ、理沙ったら、勝手なこと言って、無理よ、正樹さんは忙しい人なんだから。」
何も予定のない正樹であった。
「いえ、僕なら大丈夫です。しばらくこの島で勉強しようとおもってやって来たんですから、お邪魔でなければ、しばらくこちらにおいてくれませんか。」
その言葉を聞いて、彩花の表情が明るくなった。
「邪魔だなんて、どうぞ、お好きなだけここにいて下さい。お願いします。」
「ありがとう。」
まんまるの月が三人を照らしていた。都会では決して味わえない満点の星、そのきらめきを仰ぎながら三人は夜遅くまで話し合った。まっさきに睡魔に襲われたのは理沙だった。二人を残してさっさと寝室へ入ってしまった。また二人っきりになってしまった。正樹は前に早苗が嬉しそうに、それも自慢げに語ってくれたことを思い出した。それを彩花にぶつけてみた。
「さっき京都のお庭がお好きだと言っていましたが、竜安寺の石庭についてはどんな感想をお持ちですか?」
「竜安寺の石庭、・・・・・・ぽつんぽつんと石が置いてあるだけのお庭ですね。」
「そうです。十五個の石が置いてあるだけのお庭です。」
彩花は突然突きつけられた正樹の質問に迷いはなかった。それは本当に不思議な感覚だった。どこかで聞いた訳でもないのに自然と口から禅の教えが出てきたのだった。
「その十五個の石ですけれど、あのお庭の縁側からはどこからみても十五個全部の石が見えないように設計されているんですよ。つまり全部が見えなくてもよろしい、欲張るなということですね。あまりうまく説明はできませんけれど、自分がこれまでに得たこと、何でもよろしいのですけれど、小さなこと一つにでも満足して感謝することが大切だと教えているような気がします。こうして自分は四十歳まで生きることが出来きました感謝します。今日もおいしい食事がいただけました、本当にありがとう。今日も家族みんなが健康であることに感謝しますとか、自分が受けた恩恵に感謝して満足することを知りなさいと竜安寺のお庭は語ってくれているとおもいます。」
「禅でいう知足の境地ですね。先のことを悲観して悩むことなく生きる最高の方法ですね。もっと、あれも欲しいこれもしたいと欲張って生きることよりも、ここまでこうして生きることができたと感謝することが大事なんですね。・・・・・・それ、誰からお聞きになりましたか?・・・・・・何かの本でお読みになったとか?」
「いえ、何も。・・・・・・今、ふと思いついただけです。ごめんなさいね。偉そうなことを言っちゃって。」
「そうですか。・・・・・・では、彩花さんはボンボンという人物はご存じですか?」
「いえ、知りません。・・・・・・どうしてですか?」
「実はね、早苗が以前、今、彩花さんが言ったと同じことを話してくれたことがあります。彼女がね、ボンボンと茂木さんと三人で京都を旅した時の話を何度もしてくれましてね、
ただ石ころを置いただけの、あの殺風景なお庭を初めて見て、ボンボンがね、十五個全部が見えなくてもいいんだと言い出したと、私に何度も嬉しそうに話して聞かせてくれたんです。」
「そうですか。それで、そのボンボンというお方は今どこにいらっしいますの?」
「ボラカイ島の丘の上です。早苗の隣の墓で茂木さんと一緒にボンボンも眠っていますよ。」
「そうでしたか。」
そこでその夜は眠ることになった。テーブルの上を二人で片づけて流し場へ運んだ。彩花は洗い物を続けたが、正樹は来客用の寝室に入った。ベッドの上に横になってもいろいろな感情が渦巻いていた。彩花と出会えたことは奇跡と言っても過言ではなかった。すべての偶然が確かに彩花とつながっていた。その夜はいつまでたっても眠りにつくことが出来なかった。
正樹のネグロス島での生活はまるで夢のようだった。何の事件も起こらずに平和な日々がたんたんと続いた。ここはあの幻の竜宮城なのだろうか、すべてを忘れ、気がついてみると一か月の時が流れていた。夕食の後、岡田の爺さんと話すことがすこぶる面白くて、正樹をこの島に引き留めていた。いや、一番の理由はやはり彩花の存在だったのかもしれない。
恋、再び
恋、再び
ネグロス島の南部にあるドゥマゲッティは明るい町だ。大きな建物があまりないせいか、その分、空が大きく、南国の空が街並みの大半を占めている。あまり背丈はないが南国特有の樹木も多い。広い道を歩いていると、すれ違うのは車ではなくて、白い制服を着た女学生ばかりがやたら目立つ。ただそれだけでも心が自然と和んでくる。正樹は理沙と彩花が暮らしているこの静かな学園都市ドゥマゲッティが好きになった。この町に来てまだそんなに日は経っていないのだが、ボラカイ島にいる時とは違った心の安らぎを正樹は感じ始めていた。それは岡田姉妹のせいなのかもしれないが、早苗を失った悲しみから解き放たれ、気持が明るくなっていた。
正樹は地元の漁師に聞いた熱帯魚観察のスポットへ彩花を誘った。二人を乗せたバンカーボートは30分ほど真っ青な海を走ったところで小さな孤島に先端を乗り上げて停まった。
先にボートから降りた正樹は板をつたって降りてくる彩花の手を支えながら言った。
「この島の周りは熱帯魚の天国だそうですよ。日本の熱帯魚マニアがびっくりするような高価な魚が平気な顔をして泳いでいると船頭さんが言っていました。」
彩花はその細い足で海に降り立ち、海面を見渡しながら言った。
「でも、ここで簡単に熱帯魚たちを捕まえても、日本へ運ぶのは大変なことよ、多くの魚たちが運搬の途中で命を亡くしてしまうわ。私はだいたい水槽で熱帯の魚を飼うことには絶対反対だわ。無理だとおもうのよ!海水魚の飼い方は特に難しいし、私たち人間の身勝手な観賞のためだけにさ、魚たちが死ぬのは悲しいことだわ。人間のエゴよ。水槽内の塩分濃度のミスとか、ヒーターの故障なんかで、遠く故郷から無理やり連れてこられた魚たちが、あっけなく死んでしまうなんて、とてもかわいそうなことだわ。」
「でも、魚たちを鑑賞することで病んだ人々たちが癒されることもある。色彩の鮮やかな熱帯魚たちは趣味として多くの人々から支持されていることも事実だよ。」
「そうだけれど・・・。」
二人は海から出て、少し歩き、かなりせり上がった砂浜を息を切らしながら上った。大きな岩の上に腰を下ろすと、紫がかった青い海と真っ青な空が二人の正面に広がった。この小さな島には人家はないようだった。
「彩花さんは交換留学の後、東京のICUに戻ってどうするの?」
「卒業したら、また、ここに戻って来ますわ。ここの大学の看護師のコースに編入するつもり。」
「看護士ですか。」
「ええ、そのつもりです。卒業したら正樹先生のところで雇ってもらえませんか?」
「うちは高い給料など払えませんよ。気心の知れた仲間と一緒にやっているだけの小さな診療所ですからね。もしよかったら、うちの診療所の親病院とでも言うのか、ケソン市にある大きな病院を紹介しますよ。」
「大きな病院は研修の時だけで結構、私は先生のところがいいな。早苗さんのようにはなれないけれど、先生のお手伝いがしたいの。」
「彩花さん、僕はね、時々、医者という職業が嫌になることがあるのですよ。患者さんの命を救えなかった時に、その家族の人たちから、涙を流しながら責められたりしたら、ひどく落ち込みますよ。高い崖の上から突き落とされたと同じ感覚になってしまいます。僕ら医者は完全でもないし、神でもないのです。その能力にも限界がありますからね。どんなに患者さんの命を奪った重篤な病について説明しても、大切な家族を失った者にとって、そんな説明は分かりませんよ。その病を理解しろと言う方が所詮、無理な話ですからね。」
「でも、先生、ある意味では現代の医学はすでに神様の領域にまで踏み込んでしまったのかもしれませんね。心臓外科の世界では手術中に人工心肺を使って、患者さんの心臓を停止させてから治療にあたることもありますし、臓器の移植も、人間の力を超えてしまっているのでは?」
少し離れた細長い島の上に白い綿雲がかかっており、海鳥たちもゆっくりと旋回していて、気持ちの良い日だった。打ち寄せる波を見ながら正樹は言った。
「その通りですね。学生時代からの友人ですがね、外科医として超一流の技術を身につけてから、とても傲慢になってしまった奴がいますよ。毎日、幾人もの患者さんたちの命と向き合っているうちに知らず知らずのうちに人間が変わってしまって、彼は患者さんを選ぶようになってしまった。目の前で助けを求めている患者さんよりも病院の利益や評判、自分の名声を優先するようになってしまいました。」
悲しげに彩花が言った。
「先生もご存じのように、日本人が、中国や東南アジア諸国、アメリカ、そして、このフィリピンにも臓器移植をするために、たくさんの人たちが海を渡って来ますよね。その患者さんたちにしてみれば、生きるための手段というか、最後の決断なのでしょうが、そこにはいろいろな問題が生じてしまいます。日本国内であっても臓器の移植は様々な倫理的なトラブルがあるのに、それが世界を巻き込んで、しかも金銭が絡んだ斡旋業者が入ってくると、これは複雑で厄介な問題になってしまいます。でも、移植手術をしなければ命がなくなってしまうのだから、患者さんは真剣ですよ。募金でその高額な費用を工面したりもします。国によって法律も宗教も違います。死刑囚の臓器を提供している国もあります。社会的な状況でお医者様は神様にもなり、悪魔にもなります。」
「確かに、そうですね。」
「日本の法律は臓器移植に関して、他国より何十年も遅れているとおもいません?」
「その通り。例えば、体内には腎臓は二つありますよね、そのどちらかが病んで摘出する場合があるでしょう。その患者さんは腎臓が一つになっても生きていけますからね。・・・さて、その取り出した腎臓なのですけれど、・・・悪い部分だけを切り落とせば、まだ使えるわけです。両方の腎臓が病んでしまって人工透析をしながら腎臓移植の順番を何十年も待っている人々にその摘出され修復された腎臓を移植することは日本の法律では禁じられています。もし、その摘出した腎臓を完璧に修復して、適合する患者さんに移植することが出来るようになれば、もっともっと多くの命が救えると僕はおもいますよ。」
「人工透析も、週に三回、血液の浄化を数時間、それをずっと続けなければいけないのですよね。水分の補給も制限され、生活にも色々制限がありますね。とても苦痛ですよね。」
「医学の進歩は確かにすばらしいことです。しかし進歩すればするほど、様々な倫理的問題が生まれてきます。例えば羊水検査です。生まれてくる赤ちゃんの染色体の型が分かってしまう。ちょっとだけ他の子供たちと違った特徴を持った子を親は誕生前に選別してしまうわけです。」
「先生、それは命を選別してしまうということですか?」
「そうです。同じ人間なんていないのです。みんな、それぞれ違った特徴を持って生まれてくるのです。お腹の中に宿った神聖な命を親のエゴで絶って良いわけがない!」
「でも、現実問題として、羊水検査の結果で中絶してしまう親が多いというわけですね。」
「ええ、残念なことにそうです。しかし、そのことを誰も責められない。」
そこで二人の会話は途絶えた。打ち寄せる波の音だけが長く続いていた。彩花は両手を海に向かって突出し、その手を今度は頭の後ろで組み背筋を伸ばした。彩花のさわやかな香りが正樹のことをやさしく包んだ。青空に向かって立ち上がった彩花が今度は正樹のことを見下ろしながら言った。
「難しいことはいいの。あたしは・・・・、ただ、先生と一緒にいたいだけなの。こんな素直な気持ち・・・あたし、はじめてです。こんなことを言える勇気、あたしにはないもの、きっと早苗さんが・・・あたしの中にいるのね。・・・でも、そんなことは、もう、どうでもいいことよ・・・。あたし、決めたわ。日本には戻らずに、このままこちらの学校に・・・編入しようとおもうの。看護師になるわ。」
正樹もまったく同じ気持ちだった。面倒な恋愛の手順はもうごめんだった。素直に彩花のことが愛しかった。彩花が手を差し伸べ、正樹もその手をしっかりと握りしめた。二人の気持ちはその手を通して確かに通じ合った。
それからの二人は何をするのにも、いつも一緒だった。まるで母親にすがる幼子のように正樹は彩花のそばを離れなかった。それは傍から見ていて滑稽なほどだった。
あっという間に半年が過ぎ、そして一年が経っても、正樹はボラカイ島へも東京にも戻らなかった。
彩花が言った。
「正樹さん、島に帰らなくていいの?」
「ボラカイ島のことかい?大丈夫、診療所はヨシオがちゃんとやってくれているからね。」
「理沙が言っていたけれど、正樹さんの診療所は患者さんたちから治療費をいただかないから、経済的にはとてもたいへんだって、きっと、ヨシオさん、困っているわよ。」
「損得なんか考えて、島の診療所なんか出来ませんよ。」
「でも、少しは、・・・患者さんたちからいただいたら・・・・どうです? また日本へ出稼ぎに行かなければなりませんよ。」
「僕はね、今、何も考えたくないのです。無責任と言われても仕方がありません。こんなこと、初めてかもしれないな。でもね、僕は、今、とても幸せなのですよ。彩ちゃんが学校に行っている間はおじいさんの手伝いをしながら、ゆっくりと一日を過ごす。夜は月明かりの下で彩ちゃんと時を忘れて語り明かす。ただそれだけの毎日、同じことの繰り返し、何も起こらない平凡な日々だけれど、僕はね、とても大きな喜びを感じているのですよ。」
「あたしだって、正樹さんがこちらに来てから、毎日が楽しくて、楽しくて、どうか、この幸せが、ずっと、続きますようにと、放課後、学校のチャペルで祈っているわ。人を好きになるのに理由などありませんものね。こんな気持ちは初めてだわ。」
二人は何度も夜中に起きては崖のラウンジへ行った。ラウンジと言っても、民家を改造した質素なもので、崖に張り付くように建てられた民家のリビングとテラスが一体となり、窓はなく、そこから180°海が見下ろせた。そこらからの眺望はすばらしく、昼間は空が9割で海が1割、それにさわやかな風も加わる絶景だった。これが夜になると別世界となり、星空と波の音だけの静かな空間になった。この大開口のテラスは二人だけの恋の舞台だった。
「ボラカイ島の正樹さんのおうちは海の近く?」
「ああ、海に面しているよ。ベランダを出て数十歩も歩けば、足は海の中さ。でも、こことはまったく比べ物にならないよ。小さな掘っ立て小屋だからね。嵐で何度も屋根が吹き飛んで、継ぎ足し、継ぎ足しで、穴がいくつも開いていますよ。雨がそこからポタリポタリとね、下で待ち受けるバケツと協奏曲を奏でます。夜はうるさいくらいですよ。
でもね、あそこの海を見ているとね、人間の営みがどんなに小さく情けないかを感じてしまうよ。反省させられる。不思議な島だよ、ボラカイ島はね。」
「ねえ、今度の休みに、あたし、ボラカイ島へ行きたいわ。ダメかしら?」
「休みはいつだい?」
「来月よ。」
「来月か、・・・おじいさんの具合次第だな。」
「おじいちゃん、そんなに悪いの?」
「口止めされていたけれど、隠し通すのにも限界がある。誰が見ても・・・、おじいさんの体は細くなり過ぎましたからね。いろいろ試してみましたが、抗がん剤の治療は断念しました。今は、痛み止めだけを投与しています。」
「あたし、聞くのが怖くて、・・・・・・、知らないふりをしていたけれど、やはり、そうでしたの。・・・もう、手術の可能性は?」
「ありません。無理です。それに、おじいさん自身がそれを望んでいません。」
「そうだったの。先生、おじいさんにもボラカイ島の海を見せてあげたいわ。」
「・・・・・・、いいでしょう。三人でボラカイ島へ行きましょう。あの島はこれまでに数々の奇跡を生んできましたからね。もしかすると・・・・・・・。」
しかし岡田拓実じいさんはネグロス島から出る気はまったくなかった。彩花が誘うと、
「わしはこの地で最後を迎えたい。わしはいい、お前たちだけで行ってきなさい。」
と言い残して散歩へ行ってしまった。
ふくれ面になってしまった彩花に正樹は言った。
「一緒にボラカイ島に行こうと提案したのは間違いでしたね。・・・失敗でした。・・・・おじいさんの気持ち、僕にはよくわかりますよ。」
「あたしは、わからないわ。いいわ、二人だけで行きましょうよ。」
「いや、今回はやめときましょう。ボラカイ島へ行くチャンスはこれからいくらでもありますからね。」
正樹のその判断は正しかった。岡田のじいさんはそれから間もなく寝たきりになってしまった。村人が交代で岡田じいさんの世話をしにやって来た。そしてその中に毎日やって来る老婆と娘の姿もあった。知らせを聞いて東京から理沙も飛んで来たが、理沙と彩花にはその老婆と娘が岡田じいさんのもっとも大切な人であるということがわからなかった。それは岡田じいさんの生涯を通しての秘密だったからだ。
正樹は彩花と理沙に言った。
「東京にいる皆さんに連絡をして下さい。おじいさんの・・・・・・。」
「わかりました。あたしが連れて来ます。」
理沙が正樹の言葉を最後まで聞かずに答えた。
理沙たちは、結局、間に合わなかった。パスポートや航空券の手配に時間がかかってしまったからだ。岡田じいさんの最後を看取ったのは隣町から来たその老婆と娘の二人だけだった。静かな最後だったと正樹に言い残して、二人は静かに去って行った。もちろん、岡田じいさんの葬式に顔を出すこともなかった。正樹には二人の気持ちが痛いほどよくわかった。日本から来たじいさんの家族への配慮だったのだ。戦争によって引き裂かれた国境を越えた家族の絆、誰も悪くはないのだ。あの戦争はまだ終わっていなかったのだ。
これほど涙の少ない葬儀もなかったかもしれない。悲しみ以上の何か大きな感情に包まれていた。岡田じいさんのことを誰もが惜しみ、じいさんの偉業を村人たちはみな称え感謝していた。
抗がん剤治療を中止することを二人で決めた夜、岡田拓実じいさんは正樹に言った。
「正樹先生、いろいろありがとう。もう、わしには思い残すことはありませんよ。納得いくまで、・・・十分に生きることができた。・・・とても良い人生でしたよ。」
岡田拓実の人生とはいったい何だったのだろうか?あの戦争に青春と戦友を奪われ、戦地で巡り合った妻と娘とも引き裂かれた。帰国後は荒廃しきった日本を立て直すために家族を犠牲にして働き通した。そして退職後はすべての貯えを使って、ネグロス島で困窮していた村人たちに生きる糧を与え、結局、無理をし過ぎて病魔に命を奪われた。何をもってして、すばらしい人生と言えるのか、正樹は考えていた。一言も言葉にはならなかった。
「わしには彩花と理沙がいる。二人の孫に命のバトンを渡すことが出来た。それこそがわしが生きてきた証だよ。命がつながった。」
「では、子孫を残すことが出来ない者の、子供を産むことが出来なかった者の役割とは、人生の意味は何なのでしょうか?命をつなぐことが出来なかったわけですから。」
「自分を愛してくれている者を愛するのは当たり前の話だよ。家族を大切にすることは当たり前の事だ。親が子供を愛するのは当然のことだ。子供が親を大切にすることも自然だ。正樹先生、自分と血のつながりがない者を愛することこそが最も意味があることだとわしはおもうよ。どんなに愛し合って結ばれた夫婦でも子供に恵まれなければ、離婚する確率が高い。愛だけじゃ、愛が覚めた時に何もなくなってしまうからからね。子供がいることで夫婦の関係も保たれる場合も多い。でもね、先生、子供に恵まれなくても、それでも寄り添って、自分の子供たちに与える愛情を他の子供たちに与えることが出来れば、もっと価値の高い人生と呼べるのではないかね。自分の家族に注ぐ愛情を他人に惜しみなく注ぐことが出来れば、人生の価値はもっと高まる。でも、それは簡単なことじゃない。自分の子供を育てること以上にな。」
ドゥマゲッティの町から学生たちの姿が消えた。休みに入ったからだ。彩花と正樹の二人もボラカイ島に向かった。
小説ボラカイ島