アヒルのグワスケ
グワーグワワワワワ、グワワ。
グワァ。グワワワワワワ、グワワ、グワワワ。
グワァ。グワワワ、ワワグワ。
グワ?グワワ…。
グワワ。
(訳 とあるアヒルの物語です。)
アヒルのグワスケ
キーボードをタップしていたグワスケの指が止まる。パソコンの画面には、長く打ち込まれた文章の羅列がズラリと並んでいた。左手をマウスから離し、まだ湯気が立つコーヒーをすすった。
一息つくと、我が子の様に自分の書いた文章を一通り見て席を立った。ギシギシ言う木製の床を軋ませながら水垢のはびこったキッチンでコップを水に浸す。
昨日も見直ししたし、さっきも軽くだが見直したし誤字脱字はもうないだろう。長く座っていたせいで痛む腰を軽く叩き、印刷を始めた。
グワスケは普通学校を卒業し、小説家を志す一人の青年である。フリーターとして生計を立てていて、毎日がギリギリの生活を続けている。
彼は生活ため、生活費が余るほどあるときも貯金し、娯楽を削りに削っていた。親からの反対を押し切ったし、友人の誘いにだって一度も行ってない。
その苦労の末に、彼はついに一冊の本を完成させた。
その本はグワスケにとっての希望である。今までの生活を全て賭けて製作した、チップである。
彼の手持ちのチップはもうない。ここで負ければ後がない。ここで成功を収めねば、これまで削りに削った生活も破綻する。多くの投稿者から生き残り、1位を取ることで得られる賞金でようやく今月の家賃も支払える。
ようやく支度を終えたグワスケは、自分の352ページに渡る小説を片手に玄関を出た。道行く人々をかいくぐって出版社へ向かう。自信が無いわけではないが、裁判に出廷する被告人の様な気分になる。
「大丈夫グワ。何も心配なんて無いグワよ…」
そう何度も口ずさみ、小説を出した後にあるバイトのことを頭の中に描き、失敗のないように考えを練りに練っていた。
やがてスクランブル交差点を抜け、周りにすっかりと溶け込んでいて分かりにくい「傑作!今月の小説集」を出版している「ヨコナベ会社」到着した。間違いのない様に地図を何度も何度も確認し、中へ入って行った。
グワスケは受付前に立ち、受付に居る女性に何とか話そうとしたが足が短いため、話すことはおろか姿を見せることもできなかった。どうにか話しかける方法を考えている内に、受付の女性と話す人が3人も用事を済ませ、帰って行った。
「グワワワーッ!受付のヒトー!ここにいるグワー!」
原稿を下に置き、飛べない翼で何度も跳んで受付嬢に気付いてもらおうとする。それでも気付かない。
「おい、そこの君。家鴨の受付はその隣だグワ」
蒼い羽毛の家鴨がメガネの位置を直しながら話し掛けてきた。何とも几帳面そうな顔をしていて、でも瞼は眠たそうに半分が閉じている。
「そうだったグワそうだったグワ。ちょっとパニクってしまったグワ」
床に置いた原稿を拾いなおし、ホコリを叩いた。その蒼い家鴨に一礼して家鴨の受付へと向かおうとする。
「君は小説の投稿者グワ?」
グワスケはそうですが…と答える。見た感じ受付の家鴨には見えないし、一体何なんだろう。
「まあ俺もここの会社の家鴨だグワ。受付には渡しておくグワよ。」
グワスケは頭を下げて原稿を蒼い家鴨に手渡しした。手渡ししたときにスーツから漂う香水の匂いが鼻についた。香水に詳しいわけではないが、あからさま過ぎる程に上品な香りはこの蒼い家鴨の身分が高い事を物語っていた。
これからお世話になるとしたら、彼との面識があるのは良い事かもしれない。グワスケはポケットより財布を取り出し、数枚しかない名刺を渡した。
「グワスケと申しますグワ。よろしくお願いしますグワ。」
蒼い家鴨は顔に出て嫌そうな顔をしていた。相手に頼ったばかりでよろしくと名刺を出すのは失礼だっただろうか…。
ちょっと冷や汗をかいていると、受け取った蒼い家鴨も名刺を取り出し、素っ気無くではあるが渡してくれた。
彼が背を向けて去った後、もう一度頭を下げて時計を確認した。
「グワーッ、遅刻するグワワワワワ!!」
予定より時間をつぶしすぎてしまったグワスケは、急く気持ちを抑えつつ中々入らない名刺を何とか財布に直しつつ走って会社を飛び出したのだった。
12月末。彼は暖房器具の一つもない、壁の隙間から入る寒風に耐えながら朝の8時を迎えた。今日はバイトも何もいれていない。小説の賞が分かる大切な日だった。
当選者には、賞を渡しに直接に「ヨコナベ会社」から社員が来るらしいのだ。…それは、7時~9時半くらいには必ず来るらしい。
その途中で何度も何度も、このまま9時半を迎えるのではないかと考えてしまう。その度に頭を振り、不安を振り切った。
その時、玄関の扉からノックする音が聞こえた。グワスケはビクリとし、歓喜の心と不安の心を交えつつ玄関に向かう。この廊下がとても長く感じる程に緊張が走る…。
玄関の扉は、いつもの軋む音を立てながら開かれる。そこには、いつの日かあった事のある顔があった。
「やあグワスケ。生きてるみたいで安心した★」
それは、グワスケの学生時代の友人のヤンダだった。色あせるはずもないウザ顔は今も現役のようである。グワスケは間髪いれずに、その扉をそのまま閉じた。
「ちょww、待ってww」
仕方なしにチェーンロックをしたまま扉を開けた。
「冷やかしならお断りグワよ」
「違うよ~。酷いな~。心配してご飯を持ってきてあげたんだよ~」
実のところ、ここ3日間何も食べていない。それが何であれ、喉から手がでる程欲しい…。グワスケは悩む頭とは別に手が勝手に動かしていた。
彼は扉を開けて中に入る。そして中に座り、早速に鞄の中からタッパを取り出した。タッパの中にはおでんが入っている。周りには水滴がついていて、今朝作ったそれらしさが残っていた。
そうして、無事に数日ぶりに「朝食」を済ませて彼と他愛のない話をしていた。彼は卒業してからもその飄々とした様子で世間をぬらりくらりとした社会人生活を送っているようである。
「そういえば、知ってる?最近、アルラっていう小説家がこの辺に来てるの。外国でかなり有名な家鴨なんだけどその息子さんも来てるんだって。」
グワスケは思い出した。月刊の傑作!今月の小説集に昔、投稿されていた小説である。内容はグワスケにとってもハイクオリティであった。
確か、名前は本名を名乗っていて「ユッキー」という家鴨らしくない名前だった。まさか小説家の息子だったとは…。
当選すれば賞金、下手すれば会社で雇ってもらう程なのだが、グワスケはそれを聞いて不安が膨れ上がった。ヤンダも顔から青ざめるグワスケの様子に慌て、フォローをする。
「ま、まあ血筋じゃないって!グワスケの小説は絶対に通るよ!」
グワスケも返事を返すが、心ここにあらずと言わんばかりな生返事だった。ヤンダは居心地も悪くなり、反省しつつ「それじゃあね」と帰って行った。
グワスケはパソコンを見た。小説家にあこがれて買ったパソコン。丁寧に使っていたものの、使い込んで黄ばんだり傷が入ったりしている。
もう、電源は入らない。
投稿日、最後はざっと見直してヨコナベ会社に持って行った。そう、最後の見直しは大雑把だった。…自分の生活を削りに削って作った小説の確認を、怠った。
グワスケは、何事も熱心に取り組んだ。
だが、学生時代では一度も1位の段に立てたことは無かった。
思えば、いつも最後の確認は甘かった。
結果、小さいミスが重なってチャンスを逃していた。
そして、それに気付くのがあまりに遅かった。
時計の針の音がグワスケの不安を煽るようだった。
午前9時。時間まで残り30分しかない。
よろよろした足取りで、ごちゃごちゃしたテーブルからコップを取り、水道まで向かった。蛇口をひねって水を飲もうとする。コップは僅かに震えていた。
水は出ない。もう止められてしまっているようだ。
「…瀬戸際グワ。ヨコナベ会社員が来るのが早いか、大家さんが来るのが早いか…グワ」
台所にコップを置いたまま、リビングルームに戻る。逆光が邪魔であまりあけなかったカーテンを開けた。外は鉛色の雲に覆われ、今にも雨が降りそうだった。
ピンポーン。
またチャイムが鳴る。
グワスケはぺたぺたと玄関まで歩き、扉を開けた。そこには、とても暖かそうな服を着ていて、高級感ある靴を履いた男性が立っていた。
…それは見間違うことない大家だった。
「グワ…。こんにちグワ。」
頭を下げるグワスケに、頭を下げようともしない。温厚に話し合いも出来そうにない……。大家の重厚な声で、次に何と言われるのか想像するだけでも恐い。
「グワスケ君。困るなあ、家賃を払ってくれなきゃ」
踏み躙るような、吟味するような、そんな声が上から重圧となって降りかかる。グワスケの毛穴は逆立ち、汗がふつふつと浮き上がる。
「あの、この間の…支払金で残金がなくなってしまったグワ。あ、後30分後には何とかするグワ。少し待って欲しいグワ…。」
大家は耳が悪い。消え入りそうな声を振り絞って出した。大家には聞こえたようだが、発言に対して眉一つ動いていない。
「そうなの?その30分後には明日?その明日には1年後に支払うって?あのねえ、支払金が後3万円足りないの。それに前からのツケもたまってるし、もう待てないんだよ。分かる?」
グワスケは、極力は家賃に注いでいた。
ただ、季節や時期に左右されるこの職柄では安定した生活をするのはあまりに困難を極めた。大家には毎月、必死に説得した。これまでは払えなかった家賃の残額も少なかったために大目に見てもらっていたのだ。
大家の鋭い眼光がグワスケを捕らえる。グワスケは、ここが正念場だと感じた……。
「い、今までご迷惑をかけt…」
ガタン!
その時、隣の部屋から一人のおばちゃんが出てきた。
二人の目線はおばちゃんに釘付けになる。彼女は王者の貫禄のあるような雄雄しい歩行で二人の間までやってくる。一瞬だけ、グワスケと目が合った。
「大家さん、ちょっといいかしら。台所の調子が悪いのよ」
「………」
彼女は、このアパートに来てから、引っ越してきて右も左も分からないグワスケに何から何まで厳しく全てを叩き込んでくれた恩人である。
始めは決まりごとを押し付けてばかりで嫌いだったが、その決まりには一つ一つの意味があり、グワスケがこの地域で暮らすための知恵だった。
夜遅くまで小説を書いているとき、焼きすぎで焦げ目の多い、しかも甘みの少ないクッキーを焼いてくれた。その独特の味は一般ニーズには受けないだろうが、その独特さがグワスケは大好きだった。
大家はグワスケに一瞥し、おばちゃんと中へ入って行った。
命拾いをしたグワスケは、部屋に戻った。一応支度は済ませて、天に祈り続けた…。時計の針は9時15分をさしている。
隣から声が聞こえる。始めは優勢だったが、大家は的確にそれらを論破し、台所には異常がないことを証明する。…次第におばちゃんの声色にも焦りが現われ始め、これ以上の引き伸ばしも時間の問題なのは明白だった。
…ピンポーン
グワスケは、今度こそ確信した。全てを賭けたこのゲームのルーレットの目が当たった事を。…目からは涙を流し、口を閉じるのも忘れて玄関へ向かった。
そして、扉を、開いた
そこに立っていたのは、服から帽子まで橙色に染めた人だった。まるで宅配便の人のようだ。こんな人が審査員とは思わなかった。
「あ、クラノスケさん?」
グワスケの思考は白く濁った。全てのことが白昼夢のようにとろけた。ふらつき、後ろに倒れそうになる。このアパート番号は部屋と部屋の間にあるため、少々分かりづらいのでときどきある事なのだ。
「クラノスケさんは、隣の部屋です。」
大家は静かにそう伝える。宅配便の人は頭を下げて、隣へ行った。大家の後ろでおばちゃんが申し訳なさそうな顔をしている。
「…支度は済んだか?」
時計は9時半をさしている。グワスケは静かに返事をし、小さいバッグを持ち、部屋を出た。二人に一礼すると、二度と戻ってくることのないだろうアパートを何度も振り返りながら、港へ向かった。
「グワ…、これから、どう生きていけばいいグワ…」
近くに貨物船がある。回りを見渡す限り、今は人はいないようである。
雨はぽつぽつと、濡れたグワスケの頬だけでなく全身を雨水で濡らした。この貨物船の近くなら風向きである程度凌げるかと思ったが、風向きがまた変わってしまい、グワスケを苛んだ。
「グワワ、…グワァ」
一つ、皮肉の効いた自嘲ジョークでも呟こうとしたが上手く声に出来なかった。声の変わりに、大粒の涙はぽろぽろと目から零れ落ちた。
雨の音に、小さな家鴨の男泣きの声はかき消される。その声は誰にも届くことは無かった。
「…どこか、遠くに行ってしまいたいグワ。思い出を振り切れる、どこか遠いところへ…グワ」
グワスケは、周りに人がいないことを確認しながら、貨物船へと入った。このまま誰にもバレずにどこか遠くへいけると信じて。
幸運にも、見張りの監視カメラが切り替わるタイミングで通路を通り、荷物がつんであるところまで行く事が出来た。無用心なことにも電子ロックも外れている。
グワスケは、奥へと進んだ…
グワスケのぼろぼろの財布の、しっかり奥まで詰め込んだつもりだった名刺が貨物船の付近に落ちていた。ほのかに香水の匂いが残っている。
『ヨコナベ会社 課長 ユッキー』
グワスケのいたアパート。そこにはおばちゃんも大家の姿もなかった。…代わりに、蒼い家鴨が元・彼の部屋の前に立っていた。
「いないのグワ?」
取り敢えず部屋に入ってみると、中は日用品でごちゃごちゃしていた。足の踏み場は何とか確保してあるが、ゴミ袋にさえ入れていない。
奥に、充電すればまだ使えるパソコンが一台おいてあった。近くには電池は切れそうだが正確に時を刻んでいる時計がある。
「……グワ?俺の時計、5分も遅れてるグワ。」
彼は9時30分に到着する予定が、仕事に予想以上に時間がかかり、遅れてしまった。それも、この時計での遅れもあって15分分ほどの遅れをしてしまったのである。
多少は時間にルーズなのだが、今回は審査をする係りに任せず、自分で目を通した小説に感動して自ら急いで出向いたのである。
もう、ここにはいないグワスケに一等賞の賞金と雇用勧誘の用紙を用意して…
ユッキーは待ち続けた。…大家が荷物整理にここへやってくる、その時まで。
「グワッ、グワワワワワ♪ここは凄いグワ。食べ物がいっぱいあるグワよ!」
両手に持ちきれない肉を大きなくちばしでかぶりつき、キャップを外したスポーツ飲料をくちばしでくわえて上に持ち上げ、ラッパ飲みをしていた。
今までの生活を振り返れば、ここは天国のようである。手を伸ばせばすぐそこに食べ物がある。喉が渇けばそこらのペットボトルのキャップを外すだけ。
ちょっと寒いが、それはアパートの部屋の寒さと変わらない。
グワスケは、後鉛筆と紙があれば最高だと贅沢を考え、これからの旅路に思いふけっていた…
大空のもと、大海を進む船はどこまでも北を目指していた。
曇天はまだ晴れないままだったが、前よりもすっきりとしている。
グワスケが満腹でコンテナに背もたれて寝ている。そのコンテナの上にある紙が、粘着力の衰えたテープがはがれた事で落ちてくる。
それは、グワスケの足元にヒラリと落ちた。
「南極行き」
…終わり。
アヒルのグワスケ
ワーワ、グワワワワワワ(グワワ)
グワワワワ、グワワ。
グワワ?グワワワワワ?
グワワワワワ。
「グワーグワグワグワグワ」
グワワ。グワ、グワワ。
(訳 本当にすみませんでした。もしかしたら続きを書くかもしれません。)