超人旋風記 (4)

超人旋風記 (4)

異世界の物語は嫌いではない。
しかし何一つ鍛錬もしていない主人公が、突然異能の力を持ち、大活躍するなんてあり得ないと思っている。
その力が誰かに与えられたものだとしても、使いこなすために血の滲むような訓練が要る筈だ。僕も大して丈夫でもなかった身体を、徹底的にいじめ抜くことで強くしてきた。
だから僕の描く主人公にも、そうさせたい。そうあらせたい。

結構な長編になります。気長にお付き合い願えれば幸いです。

中盤に差し掛かり、物語もちょっとした小休止を迎えます。謂わば間奏曲のようなものです。

ブラックペガサスの暴走の裏で糸を引いていた、巨大財閥〈R〉。彼らの目的は、もう一度冷戦を復活させ、先細りしていく自分傘下の軍需産業を活性化させることであった。そのためにカサンドラの〈エスメラルダ機関〉に巨額な援助もしていたのだ。しかし彼らの御機嫌を取ってみせながらも、実はもっと遠くを見つめるカサンドラの眼差し。

そして3人の超人兵士と剣吾も、それぞれの時間を過ごす。
そしてパリで剣吾の帰りを待つマリアは、巡り合わせの不思議さに思いを馳せながらも、剣吾の無事を祈る。
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第4章 決死行前夜

第4章 決死行前夜

     (1)

 …木目も鮮やかな桧の壁に囲まれた執務室に、柔らかな電話の呼出音が鳴り響いた。
 淡い照明の照らし出す執務室は広かった。テニスコートが丸ごと3面は入るその壁の一角を占めるのは書架だ。収められるのは法律から最新電子工学に至るまでの実用書ばかりだ。飾りではない。全ての本が付箋だらけだ。その書架の前で働くのは、2人の女性秘書だ。2人ともジル・サンダースのスーツ姿だった。実用的とは言えない、目立ちたがりが着たがるブランド物のスーツは彼女らの上司の趣味ではない。
 1人が立ち上がり、執務室の隅で紅茶を淹れていた。広い室内に、アールグレイの香りが漂う。コーヒーを好まない上司だったが、紅茶には少々うるさかった。だから彼女も真剣だ。葉の寝かせ具合からお湯の沸かし具合まで、毛筋程の狂いもない。紅茶に限らず、2人とも実に有能だった。恐らく一般企業になら、総合職の幹部或いは幹部候補として破格の待遇で招かれることだろう。
 その彼女たちが秘書の仕事に甘んじているのは、政府からの給金が良かったからというのは大きい。だがそれ以上に、一度政府の中枢に関わった者は、守秘義務を負わされ、簡単に転職が出来ないという規定があるのだ。
 そして彼女たちは、家族にすら自分の職務のことを漏らせない、特殊な機関に勤めていた。一身上の都合で辞めようものなら、一生背中を監視されるであろう特殊機関に…。
 紅茶を淹れる手が僅かに強ばっていた。上手く淹れられなかったからと言って叱責が待っているわけではない。しかし秘書たちは、一見優しい上司の前で、常に緊張を強いられていた。
 緊張せざるを得ない何か、失敗を許して貰えそうにない何かが、上司にはあった。
 電話を取ったもう1人が、執務室奥の、白い軍服に身を包む上司に声を掛けた。
「ロンドンの〈R〉からです」
 見事に片付いた巨大なマホガニーの執務卓に、数冊のファイルが置かれていた。彼女たちの上司が椅子にくつろぎ、柔らかく渦巻く前髪を弄りながらそれらに目を通し、時折ペンでチェックを入れていた。ちらりと秘書に目を遣り、「有り難う」と声を掛け、卓の上に唯一置かれた電話機のボタンの一つを押して保留を解除した。
「カサンドラです」
 エスメラルダ機関の責任者、ジェームス・カサンドラは、カトラーの眼鏡の奥から夢見るような眼差しを虚空に向け、穏やかに応答した。イギリス首相でさえ陰では頭を上げられないというロンドンの〈R〉に対しても、彼には緊張の欠片もない。
 対して、卓上スピーカーから流れてきた声は、この上なく横柄で不機嫌だった。
 ――例の作戦は進んでいるんだろうな?
「発動は3日後とのことです」
 ――随分待たせるものだな。
「仕方ありませんね。作戦の方は恐らく順調に行くでしょう」
 ――当たり前だ。これ以上、飼い犬に手を咬まれ続けて堪るものか。
 飼い犬、か。カサンドラは唇の隅だけで冷笑する。
 そう、世界初の第6世代コンピューター〈ペガサス〉は、彼らの出資により、完成にこぎ着けたのだ。完成だけではない。水面下で動き、ゴリ押しで合衆国政府に採用させたのも彼らだった。並外れていたのは処理能力だけだった筈が、やがて考えることを覚え、自我すら持ち始めることになるペガサスに、双方向対話型プログラムと外部情報プログラムを密かに組み込ませていたのも、彼ら傘下の企業とその最先端技術部門であった。合衆国の中枢に収まり、政治、国防になくてはならないツールとなりながら、やがて暴走を始めるその発端を作ったのは、〈R〉だとも言えたのである。
 それは世界に根を張る金融財閥〈R〉の、次なるビジネスになる筈だったからだ。
 実は金融だけではなかった。彼らは金になるものであるなら、それこそ何にでも手を出してきた。証券、流通、食糧、果ては玩具に至るまで。その数世紀に亘る経験が、戦争こそが一番の利益を叩き出すという結論を彼らに与えた。2度の世界大戦で彼らの得た富は、天文学的な数字に及ぶ。
 90年に入って世界の迎えた変化は、そのバランスを根底から覆しかねないものだった。その代表がソ連の崩壊である。誰もが半ば永遠に続くと信じてきた東西冷戦の片方が、いとも簡単に戦いの土俵から去ったという事実は、表向きには世界中から歓迎された。しかし同時にそれは、危うい均衡の上にこそバランスの取れていた世界経済と、世界中の企業に大打撃を与えた諸刃の剣でもあった。
 大打撃を食らった筆頭が、軍需産業である。
 戦争こそ最大の金儲け…、その経験則に従い、〈R〉が手塩にかけて大きくしてきた軍需産業は、文字通り世界中に根を張ってきた。爆撃機を作る航空会社、戦車や装甲車から技術を転用した自動車会社、ミサイルを思い通りの場所に飛ばす技術を日々進化させる電子工学産業。
 その企業全部を動員してもお釣りが来るはずだったSDI計画が頓挫し、冷戦そのものがなくなった。軍需産業はまさに存亡の危機に立たされた。一般市民に向けたセールスだけでは、肥大化した己の社の巨体を支え切れない。少なくとも10年に1度、世界の何処かが巨大な戦場にならなければ、冷戦中に膨れ上がった軍需産業全体を生き永らえさせることさえ出来ないのだ。湾岸戦争でさえ、彼らにとってはちょっとしたイベントに過ぎなかった。
 思い余った彼らは国連に大量の手先を送り込んだ。現在でも難民高等弁務官事務所やPKO事務局の裏方にいる人間の幾許かは、彼らの息の掛かった人間だと思って差し支えない。
 平和調停という名のセールスが始まった。名のある国連大使の補佐官という肩書で付いて行くのが兵器商なのだ。マスコミのスポットライトに隠れた場所で猛烈に売り込まれる兵器の数々が内戦を激化させ、それがまた新しい兵器の購入に繋がっていく。過去にカンボジアなどで十分な実績がある方法だった。
 しかしその方法も、痩せ細っていく軍需産業そのものを活性化させるには至らなかった。このままでは軍需産業の下にある企業も枯渇しかねない。ロッキードとて爆撃機が売れ、その利益を回すことができなければ、旅客商売の方も成り立たなくなってしまうのだ。
 こんな方法では駄目だ。軍需産業は――つまり、その元締めである〈R〉は考えた。もっと根本的な打開策を考えなければ。危機を煽れば煽るだけ、先進国首脳が軍備増強の口車にいとも簡単に乗ってきた時代に戻るような打開策を…。
 だとすれば、ソ連に代わる新しい敵を作ればいいのだ。
 だから〈R〉は中国の台頭を待っていたのだ。しかし膨れ上がりすぎた指導部は内部での権力闘争に明け暮れ、国の隅々に心と経済の豊かさを届けられず、遅々として大国になれない中国に痺れを切らしたと言ってもいい。
 こうなれば全く新しい敵を一から創り出すのだ。それも世界を震撼させる強大な敵だ。そいつらが途方もない騒ぎを起こせば、再び世界は緊張を取り戻す。世界は再び軍備増強の必要に迫られる、と…。
 人間に生み出されながら、その人間に牙を剥く最先端のコンピューター。それは充分にセンセーショナルな話題だったし、“敵”の設定としても申し分なかった。
 ペガサスの国防省からの脱出に手を貸し、その全プログラムが収まる秘密基地建設に金が回るよう仕向けたのも、ロンドンとパリの〈R〉だ。同時にその一方で、自らが生み出した敵との来るべき戦いに備え、傘下の企業に様々な兵器開発を指示、儲けになりそうな世界中の兵器開発に出資も始めた。
 超人兵士開発と、それへの出資は、最大の目玉商品を売り出すチャンスとなる筈であった。
 しかし新たな敵として君臨するだけでよかったコンピューターは、しなくてもいい暴走をし始めた。
 勝手に超人兵士の量産を始め、兵器の売り込み市場に割り込んでこようという気配を見せ始めたのだ。
 ペガサス内部には、エスメラルダ機関がほぼ完成させていた超人兵士製造のマニュアルが収まっていた。しかもペガサスの造り出す超人兵士は、プロトタイプよりもリスク、コストともに遥かに低く、性能も上だ。
 怒った〈R〉はペガサスの活動を止めさせようとした。ペガサスの背後に誰かがいて、糸を引いているのではと疑ったりもした――実は今でも疑っているらしい――。手を回せる表組織裏組織をことごとく動員、ペガサス掃討に乗り出した。
 ところが、彼らがペガサスの新しい秘密基地に送り込み、詳細な報告を送ってくる手筈になっていた技術者の面々が全員死体となって帰ってきた。建設した秘密基地の場所、規模、設備、防衛に至るこれまでの報告は、全て改竄されていることも判明した。ペガサスはその行方を完全に眩ました。
 作り出した仮想の敵が、本物の敵に変わったのである。
 直後、ペガサスが造り出した超人兵士軍団が、世界の各地で騒ぎを起こし始めた。もちろん、売り込みのデモンストレーションである。〈R〉は各国の軍隊を動員した。主要国首脳の大半は、〈R〉にとっては小間使い同然だ。ドイツではその命に従った首脳が、白昼の市街に戦車まで出動させた。
 全てが返り討ちに遭った。捕虜を取って秘密基地の在り処を聞き出すという目論みどころの話ではない。出動した軍隊で撃破されないものがなかった。その事態はニュースでは一切流れなかった。主要国の大手マスコミに首輪をつけている〈R〉が報道を規制していたからだ。しかし噂は広まった。後にインターネットという一大産業になるオンラインの通信網には〈R〉の規制も届いておらず、超人兵士の活躍は情報通たちの知るところとなった。これまで兵器購入の得意先であった中東の首脳たちが、ペガサスの超人兵士に並ならぬ興味を寄せていると知った〈R〉一族は大いに慌て、激怒した。
 何の手も打てぬうちに、ペガサスの報復が始まった。
 軍需産業だけではない。車から石油、コンピューターに至るまでの、〈R〉一族が束ねる企業グループがその的となった。破壊活動は企業の本社にとどまらず、関連企業や工場にまで及んだ。生産ラインは大幅な遅れを取り、各企業の株価は暴落した。一族の被った被害総額は、それこそ先進国一国の国家予算に匹敵した。
 そしてペガサスは遂に国連本部までを襲った。〈R〉子飼いの“セールスマン”たちの大多数が血祭りに上げられた…。
 秘書の1人が緊張の手つきで紅茶を運んできた。目だけで礼を言ったカサンドラは、明朗に言った。「あなたは常に、ビジネスはギャンブルだとおっしゃっていたではないですか。次のチャンスを待てばいいでしょう」
 ――簡単に言うな。ギャンブルを通り越した大損害だったんだぞ。
「お願いした現金の方はどうなっていますか?」
 ――もう揃う。ウィーンとパリの方にも手を回して貰っている。1000ドル以下の小額紙幣で300億ドルともなれば時間も掛かる。今日のうちにはこちらを出発できるだろうが。
「有り難うございます」
 ――君も追い打ちを掛けてくれるものだ。ただでさえ苦しいこの時期に、多額の金を出せなどと。我々とて魔法のポケットを持っているわけじゃないんだ。
 カサンドラは再び冷笑する。苦しい時期、だと? その隠し財産を合わせれば、合衆国国家予算の数倍を資産として持つ〈R〉の筆頭当主が何を言うか。流石世界にその人ありと言われたケチ、ロンドンの〈R〉だ。情婦の1人はパーティの席ともなると必ず、愛人の渋さ加減を愚痴っているとか。ウィーンとパリにも手を回している? その金の穴埋めに、どこの国から金を吐き出させるかの相談でもしていたのだろう。他人の金を毟り取ることには何の痛痒も感じない癖に、自分が金を失うとなるとどこまでも執念深い。恐らく次の標的にされるのは、ロシアか、或いはまたしても日本か…。
「この作戦を無事に乗り切れば、損害もなくなりますよ」
 ――作戦は成功するんだろうな?
「4日後には良い報告を差し上げられると思います」
“あの方”の予言が正しければ、必ず…。
 …電話が切れた後、カサンドラは呟いた。物事全てを金という尺度でしか測れない吝嗇漢め。目の前の利益にだけ一喜一憂するしか能のない貴様たちには、この世の真実など見えはしないのだ。
 我々はもっと大きなもののために働いているのだ…。
 眼鏡の下の、夢見るような眼差しは変わらなかったが、指が机を打ち鳴らす微かな音と、背中から立ち上るものは、秘書2名にも伝わった。この仕事が長くなりつつある2人には、それがカサンドラが不機嫌になった時の合図だとわかるようになっていた。そんな時のカサンドラは恐ろしい。立ち上らせる雰囲気は、この執務室を氷漬けにしかねない。直接に罵声を浴びるとか、物を投げられるとかの方が、まだマシに思える程だ。国防省に勤めて数年、時には国防長官にもついたことのある2人だったが、カサンドラは長官などより遥かに恐ろしい。
 それは何か、自分たちが…、人間というものが、触れてはならない領域に触れそうになる恐怖だ。
 だから2人の秘書は顔も上げず、自分たちの仕事に没頭した。背後のカサンドラが卓上の書類に目を通し始めてくれるのを待ちながら…。


     (2)

 …ドアが開いた。
 いつ嗅いでもけだるいゲランの香りが漂ってきた。シャンデリアの光が廊下に漏れた。その灯りをバックに、ドロシー・ヘンダーソンが立っていた。束ねていた髪を解き、胸元がV字に深く切れ込んだサンローランのイブニングドレスを、非の打ち所のない身体にフィットさせている。メロンを半分に切ったような球形の乳房が、胸元からこぼれそうだ。
「待ってたわ」
 瓜生鷹は鼻の下をだらしなく伸ばしてみせながら、不必要に広い部屋に入った。フェイエットビル最高を名乗るホテル、クラリオンの最上階スイートルームだ。座り心地のよいソファに、無遠慮に腰を下ろす。流石に調度品は一流どころを揃えているようだ。壁の大理石の暖炉は飾りのようだが。
 チューリップ型のグラス2つを持ったドロシーが、横に座った。テーブルにはカミュのVSOPの瓶が置かれていた。
「お疲れ様。まずは乾杯と行きましょ」
「お仲間のとこから抜け出すのは、大変だったろ」
「そうでもないわ」ドロシーはほくそ笑む。フェイエットビル中心街の安ホテルに泊まるマッコイ、エマーソンともに、ドロシーが既に眠り込んでいると信じている筈だ。「ちょろいもんよ。あの2人、あたしにぞっこんなんだから」
 酒を注がれたグラス2つが涼しい音で鳴った。掌で温めるなどという作法など糞食らえ、瓜生はコニャックを一息に呷った。
「ああ、効くなあ」
 お代わりを注ぎながらも、物欲しげなドロシーの視線は瓜生の横顔から離れない。
 2杯目は少しピッチを落とし、瓜生はそのドロシーの肩に手を回した。「写真の方は撮れたかい?」
「何とかね」背中に下りてくる瓜生の手を躱し、ドロシーは笑った。「大変だったけどね。あなたたち、電波の届かない場所にいたでしょ? 随分待たされて、いい加減くたびれた頃になって、やっと声が拾えたんだから」
 すぐにバンを走らせ、基地の門の前に回した。エマーソンがニコンに装着した300ミリ望遠レンズで、正面ゲートにまで見送りに来た軍人たちを瓜生とともに収めることには成功した。安ホテルに戻ってすぐさま現像に掛かったが、夕方の逆光だったこともあり、どれも思わしい写真ではなかった。
 その1枚を手に取り、瓜生が言った。「俺の隣にいるのが、デルタフォースのホプキンスだ。しっかしこれじゃあ確かに、雑誌の一面を飾るにゃ地味だわな」
「ねえ、それより…」
「わかってるわかってる」
 瓜生は擦り寄ってきたドロシーの前で、セーム革の上着襟の裏からピンマイクを抜いた。そして内ポケットからは磁気ディスク式の小型レコーダーを。
 狂喜したドロシーはバッグからメモ帳とボールペン、ウォークマンのイヤホンとを持ち出してきた。再生ボタンを押す。
 録音は剣吾と若林が会議室に入ってきたところから始まっていた。イヤホンの片方を耳に突っ込んだ瓜生が解説する。「ここで偉そうに喋ってるのが国防省のアレンとかいう馬鹿。ああ、今の聞き取りにくいのが、CIAのデービッドとかいう胡散臭いオッサンだ」
 ドロシーは夢中になってメモを取った。凄い…、何度も喘ぎ声に似た溜息が漏れる。主要国をパニックに陥れつつあるあのテロ組織が、人間に反乱を起こしたコンピューターに率いられていた。しかもそのコンピューターを造ったのは、誰あろう我がアメリカだった…。
 映画で見たSFが、現実のものとして進行していた。これを記事としてスクープできるのが自分だと思うと、コニャックの酔いも手伝って、ドロシーは居ても立ってもいられなくなった。ディスク30分程を纏め終えると、ボールペンを放り出し、瓜生にのしかかってこようとする。
「待てよ。慌てなさんなドロシー」
 瓜生がドロシーを制した。目を潤ませトロンとした顔で見上げる彼女の顔を覗き込む。「このままじゃまだ記事には出来ねえだろ?」
 わからない顔のドロシーに、瓜生は言った。合衆国の軍人やらCIAの人間やらとの会話を録音できたからと言って、それを書き下ろしただけじゃ弱いんだよ。証拠がねえ。ラッセルだのデービッドだのがCIAにいないとか言われたら、どう反論する? 俺たちにゃ、奴らの身元を照会する方法なんてねえんだぜ。情報公開制度を使ったとしても、国家機密に関することは漏れねえように出来てんのさ。
「じゃあ…」ドロシーは興奮を冷まされたような顔で言った。「どう、すれば…」
 そのドロシーに、瓜生がそっと耳打ちした。ドロシーは信じられないと言いたげに目を見開いた。
「ほ、本当なのそれ?」
「言っただろ。プレゼントしてやれると思うって」
 瓜生はドロシーの顔の間近で、器用にウィンクしてみせた。ドロシーは絶叫に近い歓声を上げ、瓜生に抱きついた。赤いアップルベレーを剥ぎ取り、艶やかな禿頭にキスの雨を降らせる。
 くすぐったそうに身を捩りながら瓜生は言った。「これで文句ない記事が出来上がると思うぜ。ああ、しかしドロシー、俺の顔は撮らせるなよ。それに出来た記事はちゃんと読ませてくれ。俺にも書かれたくない微妙なプライバシーってもんが…」
 キスに忙しいドロシーは聞き取れない返事をしながら、毟ったアップルベレーを放り投げた。それを信じ難い程の反射神経で、身を捻ってキャッチした瓜生は、壁の帽子掛けにヒョイと投げた。ベレーは宙に弧を描き、見事にフックに引っ掛かる。その間にもドロシーはクーガーの貪欲さで瓜生の禿頭を舐め続ける。手は上着を剥ぎ取り、モーゼルの収まるホルスターを外させ、トレーナーを脱がせ、Gパンのジッパーに指を掛ける。俺、シャワーまだだよ、と言う瓜生の言葉に、最早全く耳をかさない。
 熱い吐息を浴びた瓜生の武器は、たちまち青筋立てて怒張した。瓜生の体からすると、規格外の男根が鎌首をもたげ、ドロシーは躊躇なく、その先端にしゃぶりつく。
「おお、巧い。巧すぎる。トレーシー・ローズも真っ青だ」
 などとヨガってみせながら、瓜生の眼差しはどこか遠くを見つめていた。
 涎でベトベトになった先端から唇を離し、ドロシーはドレスの胸元からたわわな乳房を露わにした。硬く勃起した乳首を瓜生に含ませ、目を閉じて喘ぐ。ドレスの裾から手を入れてみると、ドロシーはガーターベルトの上にパンティを穿いていなかった。処理した毛の間から、煮立てたローションのような潤みが指を包んだ。硬くなった芽を愛撫してやると、意味不明の声を漏らし、腰をガクガクさせた。
 途方もなく興奮したドロシーは必死の形相でドレスをかなぐり捨て、意味不明の言葉を喚きつつ瓜生に跨った。用意したコンドームをまたしても忘れ、鋼のように硬い瓜生を開いたぬかるみに迎え入れる。彼の頭を抱き締め、悲鳴を上げながらの猛烈なグラインドが始まった。相変わらず物凄いボリュームの叫喚だ。この前は口を押さえていなければならなかった。
 しかし、このオンナのこの派手な声やら動きやらは、多分使えるんだよな。
 頭におぼろげに浮かんでいる作戦に…。
 ニヤリと笑った瓜生はソファに座ったままで、その筋肉を縦横に活躍させた。ドロシーの子宮口の上辺りを抉り、その期待に充分応えてやる。早々に絶頂に達したドロシーは、瓜生が抜くと、顎を痙攣させながら大量にお漏らしした。ソファとカーペットが台無しになる。瓜生は休む間も与えず再びドロシーを貫き、子供の小指程に膨れ上がった芽を親指で弄りながら、ぬかるんだ中を存分に掻き回してやる。しかし彼女を見つめるふりはしながら、実はその向こうの飾り窓を見つめる眼差しは、やはりどこか遠かった。
 見た目には完璧なドロシーのプロポーションも、瓜生には体温のあるマネキンにしか見えなかった。大きいには大きいが、恐らくシリコンパックに海水でも詰めている乳房も揉み心地がいいとは言い難い。手入れを怠っていない積もりでも、膚の肌理が粗いのは、食生活から悪いためだろう。髪も化粧も金を掛けて飾ってはいるが、所詮はそれだけだ。これだからアメリカ女ってのは…。
 俺は飾り立てた薔薇園より、野に咲くヒナギクの一群の方が好みだな。かと言って、あのマリアみたいなのは苦手だ。あの娘は薔薇にもなれるくせに、男に夢を見させすぎる。オンナに執着心のないこの俺に、側にいたい、側に置きたいと思わせる程のあの娘は、男を骨抜きにするために生まれてきたに違いない。ヒナギクってのは咲く場所に自己主張だって出来るもんだ…、そんなことを考える瓜生の脳裏に蘇るのは、たった1人の女の面影でしかなかった。それは瓜生にとってさえ、あまりに痛みの伴う記憶…。
 苦々しげに首を振り、三本眉を顰める。もう済んだ話じゃねえか。
「どうしたの…?」ドロシーが潤んだ目で瓜生を見つめていた。汗で頬に張り付いた髪を掻き上げ、「ねえ、もっと激しく可愛がって」
「わかったわかった」対して、笑顔の瓜生はほとんど汗をかいていなかった。「こうか?」
「そう、そうよ。そこ、そこがいいの! いいわ、突いて、もっと突いて!」
 ドロシーは瓜生の思いなど察さなかった。言葉にしなくともお互いがお互いを案じていれば、人の想いは伝わるものだが、自分の欲望しか考えない彼女はそんなものを感じ取れる女ではなかったし、瓜生の演技力も堂に入っていた。ソファの下からの突き上げで彼女を数度頂点に運んだ瓜生は、その腰を掴んで立ち上がった。最も感じる子宮口の上を貫かれたドロシーは、瓜生の細い体に手足を巻きつかせた。防音になっているスイートの室内に、甘美な悲鳴は消防車のサイレンよりも延々と響き続け…。


     (3)

 …派手派手しい瓜生のコルベットでフェイエットビル郊外まで運んで貰った相馬圭一郎は、そこからタクシーを3回捕まえ直し、ラディソン・プリンスにまで戻った。部屋に入るともう外出するのも面倒になり、晩飯は部屋に運ばせることにする。
 ザリガニの山盛りと、ソフトシェルクラブも入っていますよと言うのでそれも頼んだ。それにサラダと豆のスープ、エトゥーフェと呼ばれる特製ソースの掛かった飯も追加する。料理通と名乗るアタマの悪い連中から繊細さに欠けるなどと貶されるアメリカ料理だが、それを真に受けてどうこう言う趣味は相馬にはない。肉体なり神経なり酷使した後に食うメシが不味いわけもないし、スパイスと大蒜の微妙に効いたソースがライスに絶妙に絡むエトゥーフェなど、条件抜きで絶品だと思う。それを旺盛に口に運び、指を潮臭くしながらザリガニの殻をうず高く積み上げていると、ボーイが後で注文する積もりだったコーヒーを運んできた。サービスだと言う。シェフにまでチップをばら撒いたお返しなのだろう。南部風ですよ、の言葉に飲んでみると、たしかに変わった味がした。チコリの茎が入っているのだそうだ。
 トイレに40分こもって腹を軽くし、30分風呂に浸かり、黒のジャンプスーツに着替えた相馬は、ソファに横になった。ボーム&メルシェもGショックに替える。コーヒーを飲みつつ煙草に火を点け、ようやく一息つく。しかしまだ油断はしていない。基地での会談は罠ではなかったとは言え、今の自分が安全だとは決して思わなかった。このフェイエットビルに軍団の来襲がないなどと、誰が断言できるだろう。認めたくはないが、いつも瓜生が言っている通り、相馬は貧乏症なのである。
 それでもソファで6時間近い睡眠は取れた。
 翌日の午前10時、相馬は荷物を纏め、チェックアウトした。1日早い滞在の切り上げに、何か不都合でもありましたかと、年配のマネージャーが心配顔で訊いてきた。仕事の予定が早まっただけだと答え、残り1日分の宿泊費はチップ代わりだと言うと、シェフからボーイまでが見送りに出てきた。こういう場所が残っているから、アメリカの南部は嫌いではない。
 ホテルに用意させたレンタカーは、クライスラーのラングラーであった。古き良き時代の名残を車体に留めるそのジープで、フェイエットビルの南西に向かう。途中でマーケットに寄り、缶コーラと缶ビールを1ケースずつ買ってくる。昨日より多少雲は多いものの、今日もいい天気だ。レイバンを架けていても日差しが眩しい。
 ラングラーはのんびりと走る。時速60キロそこそこだ。自分で車を動かすのは久しぶりだった。相馬は滅多に運転はしない。銃を握る手が塞がれてしまうのが嫌だからだ。瓜生や若林のようにスピードを楽しむ趣味は彼にはない。しかし開けた車窓から南部の乾いた風を受けるのも、そう悪いものではないと思う。
 地平線まで続くと思われた綿花畑が途切れると、黒い岩と赤黒い土ばかりの荒れ野が現れた。そこで相馬は初めてシフトレバーを5速に上げた。80キロでジープを走らせ、1時間近くして周囲に何も見えなくなったところでようやく停めた。
 ジープの荷台から、トランクを引っ張りだす。今はゴルフバッグに収めたガリルARM自動小銃もだ。ラゲッジにシートを広げ、三重底のトランクから出したもう一組の銃の部品を並べる。
 3分後、奇妙な外観のライフルが組み上がっていた。
 今年初めのヨーロッパ・ガンショーで発表されたばかりの、モーゼルM93狙撃銃だ。モーゼル社が次期ドイツ陸軍の制式採用を狙って開発した代物だが、相馬は知己を通じていち早く手に入れていた。木製の銃床の代わりに、ハイポリマーとマグネシウム・アルミニウム合金で出来たストックを備えるのはもちろん軽量化のためだ。ボルトアクションの機関部は、ボルトハンドルを交換するだけで簡単に左利き射手にも対応できる。弾倉は6連発の着脱式ボックスマガジンだ。
 もちろん相馬はそれを手に入れた段階で、あちこちにチューンナップを施させた。300口径ウィンチェスター・マグナム弾を撃てる銃身は削り出しのステンレススチールのものと交換させ、その上にテフロン加工までさせた。銃床と銃身の間には、ハイポリマーの上にグラスファイバー製のフローティング材を挟み込んだ。ネジも別注した。戦場ではスコープをロックタイトなどの接着剤で増締めする狙撃手もいたが、相馬はいろんな銃と部品を試し、アルミとチタンの合金で造ったネジなら歪みも少ないと結論づけた。
 ライマンのメタリック・シルエット競技用36倍スコープを装着し、狙撃銃を抱えた相馬はラングラーを降りた。トランクから銃弾の箱も持ち出す。ウィンチェスター300マグナム弾50発入りのプラスチック箱だ。
 破壊力だけを競うのなら、ウィンチェスター458、ウェザビー460のマグナム弾があるし、ブローニングM2機関銃にも用いられる50口径キャリバー弾などを撃てるライフルもあるにはある。相馬も1丁買ってみたりもしている。しかし傭兵生活が馴染んでくる頃、重く嵩張るだけのライフルでは山岳を走る邪魔になること、反動の大きいだけの銃は撃った瞬間に跳ね、スコープや銃身のバランスを微妙に狂わせてしまうことを知った。対人殺傷力に秀で、尚且つ彼にとって大きさ、軽さ共に最も使いやすかったのがこの300マグナムというわけだ。だから軍団にいた時分から今日に至るまで、相馬は狙撃とくればこの弾丸を使ってきた。
 最大の殺傷能力を得るために、弾丸も特別注文している。相馬は銃や部品の入手、修理などを傭兵時代に紹介され、出入りするようになったヨーロッパやアメリカのガンスミス数軒に今も頼んでいた。M29カスタムの44マグナム・セーフティ・スラッグ弾もその一軒から入手している。それらガンスミス全てに同じマニュアルを渡し、どこにいても同じコンディションの銃弾を注文できるのだ。170グレインの水銀入り弾頭、工場ではなく職人の造った真鍮製薬莢、詰めるのはデュポンIMR4350の炸薬58グレイン、嵌め込む雷管はレミントン・ナインハーフ・マグナム。炸薬は多ければいいというものでもないし、弾頭は重すぎても軽すぎてもよくない。要はバランスだ。戦場で得た経験値から出したこの数値を、相馬は全ガンスミス工場に厳格に守らせている。但し値は市販の弾丸の5倍は掛かる。
 もっとも並外れた超人の視力を持つ相馬に、本当は弾丸の特注など必要ない。特別に性能の良いライフルも必要なかった。1発撃てばその弾道も見えてしまう相馬だ。風による弾道変化も、重力によるドロップ軌道も、銃身やスコープのちょっとしたズレも、修正しようと思えばその場で修正できてしまうことだろう。
 相馬がそこまで銃や弾丸に拘るのは、自分が銃器のエキスパートであることを他人に誇示し、そこにどうにか自分のアイデンティティを見出したいためだけかも知れなかった…。
 ライフルをジープの車体に立て掛けた相馬は、背広の上着も脱がないまま、ガリル自動小銃を抱えて歩き出した。左手にビールとコーラのケースを持つ。一度立ち止まって周囲を見渡すが、監視されている気配はない。瓜生のような百発百中の看破能力はないものの、神経を研ぎ澄ませば知覚程度は相馬にも出来る。
 もっとも人工衛星で宇宙から監視されれば気配どころの話ではない。あの瓜生にだって感じ取れなどしまい。思わず上空を振り仰いだ相馬だったが、首を振って苦笑する。今はまだ大丈夫だろう。
 あらゆるコンピューターをハッキングできるブラックペガサスに、乗っ取れない人工衛星はない。アメリカがこの10月に打ち上げたランドサット6号は、かつてない準備と費用を掛けて製造された。武器こそ積んでいないが軍事色が強く、地上を数センチ単位で探査できるカメラは、今後のアメリカにとって見張り役の決定打となる筈であった。もちろんその最初の任務は、ブラックペガサスの基地発見だった。
 それが打ち上げと同時に乗っ取られ、勝手に地球を数周し、爆破された。
 国防総省の慌て様は尋常ではなかったらしい。己の作った超高性能カメラで、己の国土を隈無く探索されたようなのだ。
 ランドサットだけではない。ブラックペガサスは世界中の気象衛星、スパイ衛星を自在に操っていた。主要国は秘密の軍事施設から地下シェルターに至るまで、あらゆる場所を覗き見、把握されるに至った。現在合衆国政府は、一部の気象衛星を除き、人工衛星の稼働を禁じていた。
 まあ、上空ウン千メートルから地上を監視する機械がある事自体、異様なことでもあるんだけどな。瓜生辺りは知らないが、若林なども心のどこかで危惧しているんじゃないかと思う。この先、先端技術はますます進歩し、超人1人では太刀打ちできない世の中がやってくるのかも知れない。それを人間が操るというのがまた恐ろしい。果たして人間にそんな力を与えていいものなのかどうか。
 だとすると、ブラックペガサスの存在というのは、人間が行き過ぎた力を持たないための一つの抑止力になっているんじゃないか、という気もした…。
 歩測で約200ヤード、400ヤード、600ヤードの場所にビールとコーラの缶を起きながら歩く。1200ヤードのところにビールの缶を2本置く。一度車に戻り、荷台から標的枠と紙製の標的を、缶とは別方向の200ヤード先に立てに行く。
 トランクからペンタックスの双眼鏡を取り出した相馬は、そこで初めて上着を脱いだ。ラゲッジに敷いていたシートを地面に敷き直す。ホルスターからM29カスタムを抜き、俯せた傍らに置いた。ネクタイを外し、生温くなりかけたコーラを一口飲み、スコープに右目を近づけ…、
 まずは標的紙を狙っての射撃を開始した。発射とともに銃口の下から砂煙が舞い上がる。標的に空いた弾痕を双眼鏡で1発毎に確認しながら、スコープの上下角左右角を調整していく。
 弾倉を3回替える頃、弾痕が標的の中心に集中し始めた。一旦休憩する。加熱され、陽炎の上り始めた銃身を冷ますためでもある。コーラを飲みながら、ペルメルに火を点け、辺りを見回す。
 こんな場所ではなく、ちゃんとした射撃レンジで調整したいものだ。手に入れた100億ドルで広い土地を買い、長距離射撃の訓練も出来る射撃レンジを作る。室内射撃場もだ。同時に自前で弾丸をローディングしたり銃のチューンナップを行える設備も建てるのだ。
 100億ドルが手に入ったら、か。相馬は頭の隅でそればかり考えている自分に苦笑した。射撃を再開する。
 しかし…、相馬は200ヤード先のビールとコーラの缶を無駄撃ちもせずに撃ち飛ばした。水銀入りの弾頭は、直撃と同時に爆発にも似た破裂を起こさせる。缶は木っ端微塵になって消え失せた。ボルトを引き、空薬莢を弾き出しながら考える。問題は置き場所だよな…。
 夕方には基地に届くらしいが、基地に置きっぱなしにはしたくない。金を持ってそのままトンズラという手も考えたが、軍団に加えて合衆国まで敵に回すのは考えものだ。作戦に従事して無事に戻れる保証もない。無事に終わったとして、基地に金を取りに帰るなど愚の骨頂。奴らが俺たちを逃がすわけがないではないか…。頭の片隅で考え事をしながらも、400、600、800ヤードの2本の缶を次々と撃ち飛ばしていく。その間外したのは僅か3発。
 2発の誤射の後、1200ヤードのビール2本が立て続けに破裂した。
 相馬はライフルの試射をそこで終えた。スコープ調整は終えたものの、所詮は気休めだ。狙撃銃とスコープの関係は実にデリケートで、ちょっとした衝撃ですぐに微妙なズレが生じるのだ。飛行機で作戦現場に向かっている最中、或いはパラシュートでの降下中、どこかにぶつけないわけがない。それに狙撃を狂わせる大きな要因の一つに湿度がある。南半球(・ ・ ・)はこことは随分気候が違う。どちらにせよ戦闘に突入する寸前、または戦闘中、もう一度狙点の調整をやり直さねばならないのはわかっている。
 この辺りなら悪くないかもな…。
 相馬はガリルを収めていたゴルフバッグに、マニフレックスのクッション材とともにモーゼル狙撃銃を仕舞った。ガリルをスリングベルトで肩に吊り、辺りを歩き回ってみる。ジープから1キロ程度離れた場所に、小高い丘にも見える黒い岩の塊があった。ここに着いた時から気になっていた、玄武岩の重なりだった。切り出した岩の捨場に困って、放置したものかも知れない。
 比較的大きな板状の岩を持ち上げてみると、下がかなりの空洞になっていた。小さな黒蜘蛛がさあっと散り、眠りを妨げられたガラガラ蛇十数匹が鎌首をもたげた。背筋の寒くなる威嚇音が、尻尾から聞こえ始めた。
 左手で1トンはある岩を持ち上げたまま、相馬はスリングを回してガリルの銃把を掴み、親指で安全装置を解除した。跳びかかってきたガラガラ蛇4匹を1秒で射殺する。
 残りの十数匹もフルオートで撃ち殺した。223口径の高速弾を食らったガラガラ蛇どもは胴体を引き千切られ、バラバラになった。咬まれたところで今の肉体に大したダメージはないが、相馬は脚のない動物と脚の多すぎる動物が嫌いだった。玄武岩を一度その場に置き、相馬はジープに戻った。運転して戻ってくる。
 もう一度玄武岩を持ち上げた相馬は、ジープから抜いたガソリンを撒いた。ブーツ底で点けたマッチを放り込む。奥に残っていたガラガラ蛇や黒蜘蛛を纏めて焼き殺す。炎に焼かれるのを嫌がって出て来た蛇3匹を、抜く手も見せずに引き抜いたM29カスタムで吹っ飛ばす。
 あくまで仮に、ではあるが、隠し場所が出来た。
 頭を撃たれ、胴体をのたくらせる蛇を見ながら、相馬は思っていた。人工衛星も動いていない今、恐らくは気づかれないだろう。それでもカネをここに隠した後、合衆国内動けるところは動き回って、撹乱してやろうとは思っている。文句を言わせないために、瓜生も連れてくるか。ラッセルやらがガタガタ言い出した際は、若林にでも残ってて貰うか…。
 1トンの岩のプレートを持ち上げ、すぐ側でガソリンが燃えているのだ。流石に汗ばんできた。相馬は岩を置き、ワイシャツを脱いだ。タオル地のハンカチで汗を拭っていると、左肘と顎の下に吹き出物を見つけた。潰す。血膿とともに白っぽい芯が飛び出した。
 超人兵士にされて間もなくの頃は、この吹き出物が身体の至るところに出来たものだった。何かの病気かと思った相馬に、クルーガー博士は言った。
 ――代謝がよくなったせいだな。だから身体のあちこちに溜まっておった悪いものが外に出てきたのだ。
 どうやらこれまでの相馬の身体は、胃腸の栄養の吸収、毒素の体外への排出の機能が随分不完全らしかった。それが肉体を強化され、食べる量は変わらずとも栄養を完全に栄養と化してこの肉体を維持する機能、逆に余分なもの、悪いものを排出する機能もとんでもなく向上したのだとの話だった。
 トレーニングを開始して、汗で悪いものを出せるようになってからは、吹き出物も減っていた。軍団を抜けて以来、まともなトレーニングが出来ていない。その分、自分の超人兵士としての寿命までが縮む気がして仕方がない。金を手に入れたら射撃場の前に、まずトレーニングルームだな。設計はクルーガーの爺に任せよう。
 ――飛行機の胴体に張り付いてる真似など、儂に出来るか。気が向いたら儂を助けに戻ってこい。
 ――馬鹿野郎。脱出できたら2度と戻ってくるもんか。
 ――じゃあ、仕方ないな。まあ、お前たちの気が向くのを祈っとこう。
 白い頭髪と白い髭に顔中覆われたクルーガーは、大して熱意のない口調で肩を竦めたものだった。いつもそうだった。助かるとか自由になるとか、あの爺にはさほどの大問題ではなさそうなのだ。
 ハワード・クルーガー。55歳とのことだったが、相馬はもっと年配だと思っていた。何やら浮世離れした仙人めいた超然とした佇まいが、クルーガーにはあった。
 オタワ出身のカナダ人。精密電子工学の権威だと聞いた。1980年代に本業ではない分野で作った機械製義足が世界中の医療機関から引っ張りだこになったこともあったそうだ。巨額の富を生み出す筈の特許も取らなかったのだと言う。相馬は軍団の他の技師からその話を聞かされた。
 ――金にも名声にも興味が無いわけか。
 ――儂は窮屈なのが嫌いなだけだ。
 結婚もしたが2度とも5日で終わった。トロント大学での教授生活は10日で飽きたそうだ。軍団には1991年に自宅で拉致された。ブラックペガサス本体の調整を任せられる科学者だからだ。基地には金で雇われた技術者以外に、彼のように捕まってしまった科学者も結構な数がいた。
 捕まった連中の大半が塞ぎ込み、ノイローゼになった挙句、首を括ったりした者も多い中、クルーガーは軟禁生活をまるで苦にせず、命じられれば黙々とブラックペガサスの調整や整備、部品の開発などをやり続けた。
 ――儂は趣味の世界に生きられればそれで構わん。
 実際、超人兵士や技術者たちと違い、外に出ることを許されない科学者連中の中で、クルーガーだけが余りある自由時間を、多様な趣味で独り楽しんでいた。相馬の銃のチューンナップにも手を出してきたし、相馬専用のトレーニング器具を設計したのもクルーガーだ。
 何にでも興味を持ち、何にでも手を出す。何でも知りたがり、そして何でも知っている。クルーガーとはそんな男だった。
 ――ここでの生活に満足出来てるってことかい?
 ――苦にはしとらん。あの偉そうなコンピューターに威張られる以外はな。
 相馬たちが逃げ出す積もりなのをいち早く見抜き、それを密かに手助けしたのも彼だった。多趣味を利用し、基地内部にも有形無形のネットワークを作ってきた彼は、藤堂が出掛けるスケジュールも誰より早く掴んでいた。人間を侮り、彼のことも趣味に生きる老人だとしか思っていないブラックペガサスに、疑う知恵はなかったと思われる。
 ――戻るとは断言できないからな。期待するなよ。
 ――ああ、期待はしとらんよ。
 どうやら気が向きそうだぜ…、火が消え、地面が冷めるまでの間、マーケットで買っておいたチーズホットドッグを頬張っていた相馬は思った。今度の戦いで何を優先するかといえば、クルーガー救出であった。若林もその次になってしまうだろう。瓜生や合衆国関係者、あの那智剣吾なども最初から見捨てる積もりだった。相馬は自分に得にならない存在は、平気で切り捨てられる口なのだ。
 火の消えた空洞とその周辺に、蛇避けのガソリンを撒き、蓋に出来る巨石を探してくる。44マグナム・セーフティ・スラッグ弾を装填し直し、ガリルのボックス弾倉を替えた相馬は、ラングラーのエンジンを始動させた。太陽が傾いていた。気温も下がってきたようだ。相馬は生ぬるいコーラでホットドッグを胃に押し込み、上着を着た。拾い集めた吸殻を紙袋に放り込む。
 最後の1本を吸い終え、ガリルを助手席に立て掛け、車を出した。さて、今から基地に向かえば、約束の時間だ。
 この時ばかりに遅れずに着いたら、瓜生に言われそうだな。お前も大金が掛かると遅刻しねえんだな、と…。


     (4)

 …鉄の扉が開いた。
 剣吾は目も開けなかった。若林だとわかっていたからだ。
 果たして、渋い顔の若林が入ってきた。手ぶらだ。剣吾を見て首を振る。
「駄目だった。まともなコーヒーは置いてない」
「そうか」
「あちこちにサーバーは置いてあったんだが、どれも煮出した泥水みたいだった」
「仕方ないさ」壁際の床に直に胡座で座り、肩に立てた刀を抱いた剣吾は薄く微笑んだ。「ここであんたや相馬みたいな凝り性を探すこと自体難しいと思うよ。そこのダンボールにインスタントは入ってるみたいだ」
 SAVのジャケットをパイプベッドの支柱に掛けた若林はボヤきながらも頷いた。「サービスが悪すぎだよな。まあ、居残ったのは俺だから文句を言う筋合いじゃないんだけど」
 剣吾は笑い出した。鉄格子に囲まれた窓の外に目を遣る。
 …会談の後、剣吾はともかく、若林もフォートブラッグ基地に残った。剣吾は行く当てがなかったし、若林は若林で、剣吾が残るなら自分もと言い出した。2人の扱いに困ったのはラッセルだ。兵士の家族までが住む士官用宿舎に2人の超人兵士を入れるなど論外だったし、基地内の下士官用宿舎も空きがなかった。彼らが近くにいること自体、基地の人間が怖がるでしょうと言ったのはホプキンス大尉だった。
 結局2人が落ち着いたのは、以前は営倉として使われていた倉庫の一角だった。
 日当たりも換気も悪かったが、そんなことに文句をつける2人ではない。しかし若林は食事には辟易した。出されたのは何と、野戦兵士用糧食のパックMREだ。
「兵士用の食堂に僕たちを入れたくないんだそうだ」
「まあ、俺たちと一緒に飯を食いたくないって気持ちはわからんでもない」折り畳み椅子に座った若林はパイプテーブルの上にコルト・キングコブラを置いた。「で、誰かがこいつの入ったダンボールを置いていった、か? せめて一声あってもよさそうなもんだろ。随分な扱いだ」
 それとクリスタルガイザーの1ガロンボトルが3本。愛想も糞もない。若林はぶつくさ言いながら、MREのパックを開けた。ちょっと大き目のレトルトサイズのビニール袋に入っている薬剤に水を注ぐと、主成分のマグネシウムが化学反応を起こし、火傷しそうな熱湯にしてくれるのだ。糧食の入ったレトルトやラミネートパックを、その熱湯の袋に入れ、温まったところを食うという仕組みだ。若林のパックは照り焼きと呼ぶにはあまりにも珍妙な味つけのテリヤキビーフ、剣吾のはグリルチキンだった。それぞれに、もそもそして消化に悪そうな白米とメキシカンライスとが付いていた。
 剣吾は文句も言わずにそれを食べ始めた。
「あんたの作った食事に慣れ始めていたから、これも味気なく思えるよ」剣吾は笑った。「贅沢を覚えると人間、我儘になるね。メシの美味い不味いだけは言わないように躾けられてきたのに」
「叔父さん叔母さんにだな? いい人たちだったんだな」
 実際、剣吾にとって、これは格別ひどい食事ではなかった。日本にいた頃も贅沢な飯は少なかったし、超人兵士にされて駆り出された戦闘ではまともな食い物もないに等しかった。デービッドと行動を共にしている間も、食わされる物と言えばファーストフードみたいなものばかりだった。
 それに比べれば遥かにマシだ。温かいし、塩やタバスコのミニボトルも入っていたし、粉末レモンジュースとアイスティーのパック、インスタントコーヒーまで同封されていた。しかも側には若林がいる。
「住めば都、って言わないか?」
「お前には敵わない」
 若林も苦笑しながら、黙って食う以外にない。
 食後、紙コップにインスタントコーヒーを注ぎながら、その若林が剣吾に訊いた。「で、どうするんだ?」
「何が?」
 アジトでの話の続きになるけどな…、若林は言った。「作戦が無事に終わったならば、ここの連中と縁を切るって言ってたろう。あれは本音なんだろ? 問題はその後だ。どこか当てはあるのか?」
「あるわけがないよ」
「故郷に戻るとかは考えないのか?」
「戻っても、もう、誰も残ってない」剣吾は言った。そう、もう誰もいないのだ…。「僕はマリアを陰から守っていくだけだ」
「そうか…」
 食後、若林はテーブルに置いたキングコブラの手入れを始めた。分解し、各部品をセーム革で丁寧に拭い、機械油を注し、組み立てる。この銃は相馬がくれたものだそうだ。当然のようにチューンナップされている。ネジは全部アルミ合金、引き金や撃鉄はステンレスとアルミの合金製で、1万回撃ってもまだ使えるのだと言う。チェックのシャツの上につけるホルスターは、ストラップを除いて艶やかな鰐革製だった。これも相馬がビアンキ社に特注して作らせたものなのだそうだ。
「軍団を抜けた後に、要るだろって言って、両方くれたんだ。鷹の奴には何もやらなかったなあ。まあ、鷹は勝手に相馬のコレクションを持ってっちまったけどな」本当はルガーP08――と言っても剣吾にはわかるまい。第2次大戦中のドイツの名銃で、尺取虫のような動きをするトグルが特徴的な銃。保存のいいものは大層高価なのだ――を持って行こうとして、流石に相馬に嫌がられ、代わりに今の(モーゼル)をせしめたんだそうだ。若林はそう言って剣吾を笑わせる。「この銃にも随分助けられたよ」
 キングコブラに市販の357マグナムの弾丸を込め、シリンダー弾倉をカチリと嵌めた若林はキャメルに火を点け、しばし何かを考えていた。
「あのな、これはあくまで仮の話なんだが…」
「何だい?」
「マリアを日本に連れてっちまうってのは、ナシかな?」
 これには剣吾も意表を突かれた。キングコブラをホルスターに収め、あくまで仮にだ…、と言い置いて、若林は続けた。お前さんはマリアを守りたい。マリアもそれは了承済みだ。しかし彼女を守るのに、パリはあまりに危なくないか? お前さん、あの街には詳しくないだろ。外出一つにしても、思うようにならないだろう。マリアは顔を知られてるし、お前さんは出掛けただけで目立つ。
 それなら日本の方が安全じゃないか? お前さんには慣れた場所だし、マリアとお前さんを狙ってくる外国人がいたら、それこそ見分けやすい。CIAだって日本人の始末屋を探すのには苦労するだろうからな。
 どうだい…? と問われ、今度は剣吾が考え込んだ。思ってもみなかった手だが、考慮すべき一案だとは思えた。
「でも、マリアが何と言うか…」
「提案するだけしてみたらどうだい?」キャメルを床で消した若林は言った。「最終的に彼女に決めて貰えばいいよ」
「うん…」
「まあ、それを心配する前に、俺たちが生きて帰る方が先だけどな」
 剣吾はコーヒーを啜り、頷いた。西の空にあった太陽が、窓の外で沈もうとしていた。横を見ると、若林も夕陽を見つめていた。
「やっと戻れる…」
「基地にか?」
「うん、まあ…」
 用があるのは基地にじゃないけど…、若林はそこで言葉を濁した。その後に続いた言葉は、剣吾の耳をして、聞き取れなかった。
 誰かの名前のようでもあった…。
 日が沈み、急速に暗くなる空に星が見え始めた。営倉の外から靴音が近づいてきた。報酬が到着したのだろう。瓜生と相馬もそろそろ舞い戻ってくる時間だと思われた。
 しかし剣吾は振り返りもせず、窓の外の星を見つめていた。今、パリは、何時頃だろうか。
 今頃どうしているだろうか…。


 …メインディッシュはこれまで食べたこともない濃厚なソースの掛かった鱒だった。
 しかしサラダを除いてはまたも食べ残してしまった。運動らしい運動をしていないのだから、腹も減るわけがない。料理を作ってくれているルノワ夫人に悪いと思いつつ、今日も冷蔵庫に残り物を押し込むこととなってしまった。
 この3日間の残り物で、空っぽに近かった冷蔵庫は一杯になろうとしていた。これでは本当にルノワ夫人に申し訳ない。明日はドアに貼り紙でもしておいて、残り物を片づけることにしよう。
 働かないでいると体がおかしくなりそうだった。出入りできる若林の部屋、リビング、それにトイレとバスルームは、これ以上はないというくらいにピカピカにした。だが、それが終わるともうやることもない。修道院に預けられて以来、働き通しだったマリアには、食っちゃ寝の生活など送ったことがなかった。19歳にして初めて、額にニキビを作ってしまった。
 今日でこの部屋に閉じ込められて6日になる。ジロンドーさんは大丈夫だろうか。修道院長様やマルカーノさんは私のことを心配してるんじゃないだろうか。
 管理人のルノワ夫妻は親切だった。もっとも主人の方と顔を合わせたのは1度だけだ。男性への恐怖が消えないマリアをなるべく怖がらせないようにと、若林が頼んでいったものだとは、ルノワ夫人から聞いた。身の回りの必要なものの手配は夫人がやってくれた。
 夫妻はマリアのことを、ワカバヤシの大事な女性だと思っているようだった。
 ――あのウリューってのは得体が知れないが、シーグはいいヤツだよ。
 シーグというのはワカバヤシの名前らしい。シゲルというニッポン語は欧米人には発音しにくいのだ。ムッシュー・ルノワはソーマとか言うあの強面の人の友人らしい。しかし今は夫人とともに、友達としてつき合うならワカバヤシの方だと言っていた。確かにあの人はいい人に思える。
 だが、彼がどんなに“いい人”であっても、マリアの恐怖を和らげるには至らない。彼女の受けた心傷はそれ程深かった。
 だから、そんな自分がケンゴに対しては、どうして恐怖を抱かないのかが不思議だった。
 ケンゴには2度、抱き竦められた。恐怖に陥った自分を、彼はしっかり抱きとめてくれた。男の人に抱き締められたなんて何年ぶりだろう。
 ジロンドーにさえ嫌悪を禁じ得なかった自分が、ケンゴに対してだけは抵抗がないのはなぜなんだろう。相手が男である以上、パン屋の客でさえ手を触れられたくもなかった自分だ。それなのに、ケンゴに抱き締められた時には不思議と落ち着いていた。
 口が裂けても言えないが、心地よくさえあったのだ…。
 時刻は夜の11時半を回ろうとしていた。
 自制していたのに、今日も午後、うたた寝してしまった。これまで12時まで起きていたことすら珍しかったのに。夜が更けると自然に眠りについていた生活のリズムが、体が、だんだん狂わされていくような気がした。それに連れて起床時間もだんだん遅くなっていた。御免なさい修道院長様、マリアは悪い子になってしまいそうです…。
 この日2度目の風呂に時間を掛けて浸かり、身体が温かいうちにベッドに入った。もちろんすぐに眠れるわけもない。ベッド脇に置いてあった日本製のラジオを点けると、軽快な音楽が流れ始めた。照明を落とし、ラジオの音量を下げ、毛布を顎にまで引き上げる。
 音楽はいいものだな、と初めて思えた。幼い頃は覚えていない。叔父の家でも、修道院でも、〈ジラールモ〉で働いている時も、ラジオはおろか音楽らしい音楽を聴いたこともなかった。だからマリアには、今ラジオから流れてくるポップスもわからない。エディット・ピアフやポール・モーリアさえも知らないのだ。
 私には随分、いろんなものが欠けているのね…。
 それはこれまで幾度となく、マリアを悩ませてきた思いであった。こんな自分がこの先、普通の社会で普通の生活が送れるんだろうかと真剣に悩んだこともあった。だが、今の自分には逃げ場があった。剣吾の顔を思い出すだけで落ち着いた。悩みが薄らいでいった。
 彼のあの眼差しが、自分の欠如を埋めてくれるようにも思えた。
 ――君だけは、守りたいんだ。
 拙いフランス語で告げられたその言葉が、マリアの耳から離れなかった。それを聞いた時、マリアはどうしても剣吾に触れたくなったのだ。自分から男の人の手を握るなんて、思えば何てはしたない、恐ろしいことをしてしまったのだろう。
 しかし同時に思っていた。こんな汚れてしまった自分にも、いつの日にか救いの手が差し伸べられるかも知れないと、心のどこかではいつも夢想していた。私はその人と、遂に巡り逢ったのかも知れない。だから怖くないんだ。瞼を閉じると、そこにはベッド脇に蹲る剣吾の姿があった。自分を見つめる、あの真っ直ぐな美しい目があった。
 修道院長様が言っていた。人には必ず役割というものがあるのです。そのために私たちは生かされています。そして私たちに訪れる出会いに偶然などありません。それは全て、私たちが己の役割を果たすための運命なのです。
 私たちは出逢うべくして誰かと巡り逢うのです。
 私があの人と出逢ったのが運命なのだとしたら…。
 珍しく夜空が晴れていた。カーテンの隙間から見える夜空に、マリアは見入った。あそこで輝く星々を、あの人も今、どこかで見ているのだろうか。そして心の片隅ででもいい、私のことを考えていてくれるだろうか。そうであって欲しいと思った。
 ベッドの上で両手を合わせ、マリアは祈った。
 剣吾が無事に帰ってきますように、と…。

超人旋風記 (4)

超人旋風記 (4)

合衆国の秘密組織《エスメラルダ機関》の研究が、不死の超人をアメコミの世界から現実に引きずりだした。 那智剣吾――彼はアメリカにその肉体を不死身の超人兵士に、その運命を戦う者に変えられてしまった。 最初はテロ事件の解決者として、次は主要国に牙を剥く、『自我を持ったコンピューター』の破壊の使命を負う者として、彼は世界中を飛び回る。 不幸な少女マリアと出会い、彼女の庇護者とならんと決意した時、彼はエスメラルダ機関と訣別する。そして自我を持つコンピューターに作られた超人兵士若林がかけがえの無い友として、彼とともに立つ。 この物型は、生きる運命を誰かに弄ばれることに抗う剣吾の、愛と、血と、暴力と冒険の黙示録である。

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-05-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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