おわり

 僕は今、世界中で流行している病気にかかっているらしい。全く未知の病気らしく、病院はどこも飽和状態。今や街は、いや、世界中が大パニックだ。発見されてから半年。既に世界の人口は五十億人を下回ったらしい。僕の周りでも、この病気で亡くなった人は多い。
 けれど、この病気にかかった人は皆、苦しまずに逝くという。なんでも、除々に現実と夢との区別が付かなくなって、最期には穏やかな気持ちで意識を失うらしい。
 二か月前、この病気を神からの救いだと信じるカルト宗教団体が、街中でウイルスを撒き散らす事件があった。僕もその被害者で、一度は他の被害者と共に病院へ行った。既に病院に居た人たちのほとんどは虚ろな目をしていた。皆下を向いて、今そこに居るという事に違和感があるようだった。僕と一緒にここに来た人たちは皆怖がっていたけれど、僕には何が怖いのか解らなかった。病気が流行る前から、ずっとこうだったと思ったからだ。
 検査を受けて、ウイルスを取り込んでしまっている事が解った。けれどその病院も既に飽和状態だった。警察に行き、事件の状況を解る範囲で説明した後、真夜中の帰り道を、交通機関は使わず、一時間、歩いて帰った。寒くはなかった。

 昼食を済まして、コーヒーを飲みながらニュースを見ていた時、チャイムの音がした。玄関へ行って誰か確認すると、見覚えのある女性だった。ドアを開ける。
「えっと、こんにちは」
「こんにちは」
「私の事、覚えてる?」
「え、ああ、うん、もちろん」
 微笑む。思い出せなかった。傷つけてしまっただろうか、申し訳なく思う。彼女も微笑んでいる。
「上がっても、い?」
 上目づかいで問いかけてくるその姿は、確かに過去に見たものだと感じた。名前を思い出せないことが少し悲しい。
「もちろん。コーヒー飲む?」 
「ありがとう、いただきます」
 キッチンに向かい、彼女の分のコーヒーを作る。彼女はさっきまで僕が座っていた椅子の向かい側に座った。彼女の前にコーヒーを置く。
「僕、今流行りの病気なんだけど」
「知ってるよ」
「ならどうして来たの? 一応、人と会っちゃいけないって言われているんだけれど」
「どうしてだろう、私にも解んないよ」苦笑い。
「はは、そうか、それは、うん。嬉しいな。けど、君まで病気にさせる訳にはいかないよ」
「もう、意地悪?」
「え?」
「メールで言ったよ、私も感染したって」
「ああ、そう言えば、そうだったかな」
 病気の影響だろうか、最近、忘れっぽくなっているように思う。彼女の名前はもちろん、恋人の名前、家族の名前も。忘れていると思い込んでいるだけかもしれないけれど。
「ねえ、あなたは怖い? こんな、いつ死んじゃうかも解らない病気になっちゃってさ」
「いつ死ぬか解らないのは、病気になってもならなくても同じだと思うけれど」
「ああ……そう、確かにそうかもね。だけど、怖くならない? 昨日の出来事は本当にあった事? 今ここであなたと話しているのは現実? 私は今どこに居る? 生きているの? 本当に? ……ねぇ、そう思わない?」
 彼女のこの手の悩み相談は、何度もしてきた。彼女は僕に依存しているからだ。頻繁に会う事は無かったから、主にメールで、だけれど。僕は人に依存される事が喜びだったし、それを生き甲斐にしている淵もあった。きっと彼女もそうだろう。僕らはそういう関係だ。
「それも、病気になってもならなくても同じじゃない?」
「そうかな?」
「僕はそう思うけれど」
「そう……今はそうは思えないけれど、そう思えるようになれたら、少しは楽になれるのかな。それとも、それより先に死んじゃうのかな」
「この病気で死ぬ人は、皆幸せそうに死ぬって聞くけどね」
「それって、死んだほうが楽みたいな言い方だね」
「そうでしょ?」
「そうかな」
 コーヒーから立っていた湯気が消えた。

 僕はもう死んでいるのかもしれない。もしくは、誰かの夢の中を生きているのかも知れない。物心ついた頃から、ずっとそう思って生きてきた。自分が今生きている違和感。見えているものは何故見えているのか。触れている物は何故触れているのか。不思議だった。僕も、僕の周りの物も、何もかもが無くて、全部誰かの妄想なんじゃないかって。そう思っていた。
 あの頃教室に居た皆も、そう思っていただろうか。
 そうだな、この病気のせいで、そう思っているかもしれない。
 彼女はこの病気の事を怖がっていたけれど、僕は、特に思う事はない。病気になってから、少しはこの気持ちに変化があったようにも思うけれど、それも錯覚の様な気がする。
 次眠ったら死んでしまうかもしれない。そうであってとしても、そうで無かったとしても、僕は夢を見続けるだろう。僕というメディアを通して、誰かの夢を見続ける。そんな風に思う。今までと同じだ。ため息を吐く。
「こんな世界の終りで、こんな僕が、こんな日記を書いている今を、どうしてくれますか、神様」
 独白は、空になったマグカップに注がれるばかりだった。
 



 

おわり

ありがとうございました。

おわり

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-12

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