悲しい人形と壊れた人間の街5
5. 外の世界
底抜けに暗かった。暗いという表現が正しいのかも分からなかった。視覚が光を捉えることを止め、音と匂いが失われ、そして空気や服が肌に触れる感覚がなくなった。自らの実体すら感じることができなくなり、自分が存在することに自信が持てなくなった。
僕はそこにいたのか。世界は本当に存在しているのだろうか。
言葉が巡り、そして意識が途切れた。
「大丈夫ですか」
やまびこのような遠い声が聴こえた。
「これは人の声?」自然と口を開き、声を出していた。
「そうです」
「穏やかな声。僕はこの声を穏やかだと感じる」視界に薄っすらと二郎の顔が見えた。「あなたは二郎さん。その笑顔を僕は穏やかだと感じる。僕はここに存在している」
「確かに存在しています。少なくとも私には君の姿が見えます」
薄暗い空間に立っていた。目の前には木製の重そうな扉があり、扉の縁から金環日食のように光の線が漏れていた。大輔は体の重さを感じ、床から足に伝わる反力を感じた。
「僕はずっと立っていたの?」
「ずっと立っていました」
大輔は白い半袖シャツから伸びた自分の腕を軽く上げてから、黒い綿ズボンを履いた足を少し持ち上げ、それらの重さをじっくりと確かめた。
「ところで二郎さん達は大丈夫だったの? 僕はなんだか溶けて無くなってしまったような感覚だった」
「私達も闇に入った瞬間はそんな風になりました。だけど、ずっと手を握っていたから、何となく隣の存在を感じて、すぐに元に戻りました」
上下薄緑のおそろいの服を着た斉藤夫妻は、まだ手を繋いでいた。
「僕も一緒に手を繋いで入れば良かった」
「そうですね」二郎が微笑んだ。「それより扉を開いて下さい。私達には無理なようです」
大輔は大げさな扉の前に立ち、取っ手に手をかけた。軽く引いてみると、かなりの重さを感じた。大きく息を吸い力一杯に扉を引くと、ジリリと音が立ち、両開きの扉の中央から光の線が現れた。光の線は徐々に太くなり、途中から光の中に青空が見えてきた。
青色の空には不揃いの雲がいくつか浮かんでいた。空の奥から来る強力な光が顔の肌を熱くさせた。空間に光がいきわたると、壁も天井も地面も全てが石を重ねて作られていることが分かった。人形作りの家に繋がるはずの扉は当然のように消えていた。
扉から外に出ると、ところどころに雑草が顔を出す八畳程度の石畳の地面が広がり、その周囲を腰の高さ程度に積まれた石の壁が囲んでいた。一部壁の無い部分には石の階段が下に伸びていた。階段の両側にも石が積まれ、その外側には針葉樹が広がっていた。
「ここを降りるのですか?」二郎が階段を覗いた。
「見た限り階段を降りるしかないみたいだ。ずいぶん長い階段なので、ゆっくり行こう」
大輔は一歩階段を下りた。階段は見た目以上にでこぼこしていて、足元が落ち着かなかった。足に蹴られた小石が何十段も下に転がり落ちていくと、胃に冷たい氷を流し込んだかのように、恐怖が下腹部を締め付けた。二郎と絹子は手を握り合って階段を下り始めると、すたすたと大輔を抜いて先にいった。
途中、騒がしい鳥の声が聴こえて振り返ると、深緑色をした数十羽の鳥が階段の上の方を埋め尽くしていた。鳥達は巣を荒らした敵を追い払うように、こちらに向かって叫び続けていた。半分辺りまで下ると、階段の根元にようやく道路が見え始めた。終わりに近づくと、空気の中に微かな埃っぽさが加わり、鼻から吸い込む息に重たさを感じた。ゆらりとした風が吹くと、コンクリートから熱気が舞い上がった。
階段が終わり、道路に足を降ろすと、靴の下から激しい熱が伝わってきた。周りを見渡すと、道路の数十メートル先に簡単な屋根を四本の棒で支えただけの小屋が見えた。
大輔と斉藤夫妻は、道路の脇の歩道を歩いてその小屋に行き、気休め程度に出来た影の中に身を置いた。小屋の前には、石の重りと木の棒で出来たバス停の標識があった。棒の先端に付いた丸い看板には「石作り神社」と書かれていた。時刻表のようなものはどこにも見つからなかった。大輔は仕方なく車が流れる上流に視線を向けてバスを待った。全ての車が轟音を立てて恐怖を煽っていた。
しばらくして中型のバスが速度を緩めながら、バス停に向かって来た。
「バスが来たよ」大輔がそう言うと、二郎と絹子は微笑みながら頷いた。
バスが完全に停止してガタガタと扉が開くと、冷えた空気がバスから降りてきた。二郎と絹子が先に乗り込み、最後に大輔が続いた。バスの中は、二人掛けの席がびっちりと二列で奥まで並んでいたが、他に乗客は一人もいなかった。
「あの……」大輔は運転手に話しかけた。「言いにくいのだけど、お金を持っていないんだ」
「どこに行くつもりだ?」紺色の帽子を被った三十半ばの男性が興味無さそうに言った。
「それがよく分からないくて」
「行先も金も無くてバスに乗ったのか?」
「僕達はバスに乗ることが目的なんだ」
「変な客だな」運転手はボタンを押して扉を閉めた。「まあ、俺も誰も乗ってないバスを運転することに嫌気が差し始めていたんだ。正直言うと、金をやってもいいから誰かに乗ってもらいたかった。空っぽのバスって意味が無いだろ」
「そういうことなら僕達がバスに乗る」
「頼むよ」運転手は前方を向いた。
斉藤夫妻は最後列の一つ前の席に座っていた。大輔は最後列に一人で座った。
「バスに乗るのは久しぶりです」二郎が言った。
「あの町にはバスどころか車もないからね」
バスはゆっくりと発車した。ある程度速度が落ち着くと、静かな景色が窓の外に流れ始めた。片側三車線の道路の両側は深い色をした森だった。太陽は真上から強い光を送っていたが、木々の間には闇が続いていた。たまにトンネルに入って抜けても同じような森が続いていた。
大輔は体の力を抜いて、延々と続く木々を見ていた。連続した単純な風景は、すぐに眠気を誘い始めた。瞼が閉じかけた時、過去の記憶がふと沸き起こり、感情が大きく揺れた。それでも瞼は重みを増していき、大輔の意識を遠くに運んでいった。
悲しい人形と壊れた人間の街5