音色

【トラック・通学路・銀色】

 吐く息がすべて音色になる。空気を震わせて、どこまでも遠くへ。いつのまにか溶けるように消えていく音を追いかけるように息を吐き出す。次の音を出すために吸い込んだ空気が鼻腔をくすぐり、夏の終わりを知らせた。銀色のボディが太陽光線を反射して強い光を放っている。俺はマウスピースから唇を離して音のない息を吐いた。
 トランペット奏者の父は世界的に有名なオーケストラの一員として世界中を飛び回り、ほとんど家にいない。父親らしいこともしてもらった記憶がない。各国のお土産を買ってくることもないし、日本以外でのコンサートのチケットも航空券も、もらったことがない。そんな父が唯一俺に与えたものが、このトランペットだった。高校生だった父が初めて自分で貯めたバイト代で手に入れたトランペット。
 ずっしりと重くて、長時間練習していると腕が疲れて姿勢が悪くなって、よく父に指摘された。
 あの頃より重く感じなくなった今でも、プロをたくさん輩出している有名音大のオーケストラで演奏するようになった今でも、学校から帰ればこのトランペットを吹く。家の近くの空き地。公園と呼ぶには何の遊具もなく、雑草が好き放題に繫茂している。住宅地を抜けた先のマンションが建ち並ぶ通りに大きな公園が出来てからは特に、わざわざ裏通りに面したこの空き地に立ち寄る人はおらず、人通りもほとんどなく閑散としている。
 俺は空地の奥のフェンス際に置き去りにされたみたいにぽつんと設置された木のベンチに陣取って、もう一度マウスピースを唇に当て、夏の終わりを肺いっぱいに吸い込んだ。音の行先を見つめるように視線を遠くへ。山の向こうの街まで、その向こうの海まで、届くように。フェンスの向こうの通りのさらに向こうの山に向かって音を放つ。
 ベルから丸い音が放り出される。丸く大きく遠くまで届く音を。どこまでも響いて、しかし素早く空気に溶ける音を。楽譜を見なくても指が覚えている通りにピストンを押していく。
 外国映画で使われていた軽快なメロディー。最近ではテレビコマーシャルでも耳にするようになった。トランペットを始めたばかりの俺に、父が選んだ曲。と言っても、適当に手に取ったCDがその外国映画のサウンドトラックアルバムだったのだ。その中から一番初心者の演奏に適している曲を選んだだけだろう。それでも、俺はすごく嬉しくて、次に父が家に帰ってくるまでに覚えようと、必死に練習した。父が選んでくれた曲はその1つだけ。それ以降は父の部屋の本棚を漁って適当な楽譜を自分で選んで吹いてきた。もう何年も。そしてこれからも何十年も吹き続けるのだろう。
 逃げていく夏を引き留めるように吸い込んで、吐き出す音色はさらに夏を遠ざけるようだった。どこまでも響いて、帰ってこない音。夏の終わりを込めた音。
 一曲吹き終えると、太陽光線は夕方の穏やかな空気によって和らいでいた。俺はのんびり楽器をケースに片付けて空地を出た。家に向かって歩き出すと、正面から近所の高校の制服を着た少女が歩いてくるのが見えた。通学路なのだろうか、重そうな学生鞄を抱えてぼんやりと歩いている。俺に気付いた少女は小さく会釈をしてすれ違って行った。歩くたびに左右に揺れるポニーテールから、秋の香りがした。

音色

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-08

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