ひまわり

ひまわり

夏は静かにやってこない。煩く鳴いている蝉に、ひとつ文句を言ってやろうと木を見上げてみれば、次は後ろから声がする。いくら声を追っても結局、蝉は見つからなかった。じわりと肌が汗ばんで、熱が身体に溜まって気持ちが悪い。
あと一本だけ。
公園の隅にある若いケヤキを見て終わりにしようと足を踏み出して、木蔭のベンチに腰を下ろす老婆と目が合った。忙しなく公園を歩き回る姿をずっと見られていたと思うと、身体に澱んだ熱がせり上がって、汗が吹き出した。熱い日差しにさらされているのに、鳥肌が立っておさまらない。慌てて出口に向けて走り出すと、目の前を蝉が飛び去って、蝉の声が笑っている。公園のあちらこちらで笑い声があがっている。
公園から抜け出しても付いてくる蝉の笑い声に耳を塞ごうと腕をあげたとき、ポケットの携帯電話が静かに鳴った。
「由紀、いまどこにいるの」
声を聞くと、いまにももつれそうだった足が軽くなった気がした。走るのを止めて、ゆっくり歩くと風が気持ちいいことに気が付いた。風が葉を鳴らして、塀の上を猫が優雅に歩いている。私は何を気にしていたんだと、少しだけはずかしくなった。帰り道の途中だと伝えると、家で待ってるから気を付けてねと優しい声がした。
ずいぶん長く走っていたのだろうか、まだ動悸が止まらない。
浩太とは一週間ほど会っていない。夏休みに入ってしばらくしてから母親の実家に行ってしまって、なにぶんその実家が遠いために一週間ほど泊まることになり、会うことができなかったのだ。連絡は欠かさずとっていたとは言っても、期間が空いてしまうと会うことにすこしだけ緊張する。
彼とただの幼馴染でなくなってから随分経つけれど、きっといつも私に構ってばかりで苦労しただろう。そう思うと、息が苦しくて涙がこみ上げてくる。それでもきっと、私の顔を見ると嬉しそうに笑って、こんな私に優しく話しかけてくれるのだ。
早く帰ろう。
申し訳なく思っていても、私はやっぱりあの笑顔に頼ってしまう。

家にはいると、テレビの音が聞こえてくる。買い物袋を置いて靴を脱ごうとしゃがみこんだら、うしろから足音がした。
「おかえり、由紀」
さっき聞いたばかりのその声は、電話よりもずっと澄んでいて、上がったままの心拍数は落ち着きを取り戻した。
振り向いて顔を見ると、やっぱり嬉しそうに笑っている。私は抑えきれずに、座り込んだまま顔を歪ませて声をあげて泣いた。
一年に一度の夏、浩太が帰ってくるこの季節に、私は飽きもせずに泣いてしまうのだ。
ひとしきり泣いてもおさまらない嗚咽のままに、頼まれていた買い物袋をお母さんに渡した。お釣りをこっそりポケットに忍ばせた私を見て眉をひそめるお母さんに、「浩太と旅行に行ってお金がないから、ジュースも買えないんだもん」と大げさな言い訳をして、逃げるように浩太の手を引いて部屋に戻った。
最近、お母さんは私によく頼み事をするようになった。牛乳を買ってきて、だとか、ポストに入れてきて、だとか、放っておくと浩太が来るまで部屋から出ようとしない私を、無理矢理に外へ引きずりだそうとしている。最初は嫌がって出なかった私も、お母さんが今にも泣きそうな顔をするものだから、泣きそうになりながら道の隅っこを頼りに、おつかいの時にだけ出歩くようになったのだ。
久しぶりに出る外は日差しが強かった。春だというのに、汗が滲みそうなほどからだが火照って、ポストに大きな封筒を投げ入れるとすぐに小走りで引き返した。家の扉をすぎた途端に、こもっていた熱が足から抜けていった奇妙な感覚を、鮮明に覚えている。

部屋の中は朝起きてからそのままで、浩太はこの光景を何度も見ているのだろうけれど、なんだか恥ずかしい。
「ごめんね散らかってて」
そう言って、放ったままのパジャマを隅に寄せて、ベッドに座り込んだ。
「いつもとあんまり変わらないじゃん」
隣に座って笑う頬を、軽く抓ってやった。
「おばあちゃんの家、どうだった?」
「相変わらず田舎だったよ。星がすごく綺麗だった」
星が見えているみたいに天井を見上げる浩太はいい匂いがして、彼のいない日常が怖くて震えていた私は、ようやく家に帰ってきた気がした。
さっきくすねてきたお母さんのアイスのフタをあけると、すでに半分食べられていた。勝手に食べられないように、私があまり好きではないチョコレート味のアイスをお母さんはよく買ってくる。食べるか迷っていると、横から取り上げられた。
「勝手に食べたらまた買いに行かされるよ」
「いいもん。浩太が帰ってきたから」
短いデートがてら買ってくればいいでしょ、とムキになって奪い返す。あまり好きではないけれど、食べるとやっぱり冷たくて美味しく感じてしまう。もう一度口に入れると、外に出たくなくて、浩太に付き合わせるのは申し訳なくて、冷凍庫に返すことにした。
「やっぱりあんまり美味しくないね。バニラじゃないとだめだ」
戻ってきたら、浩太は眠そうに大きなあくびをしていた。うんと遠くから帰ってきたばかりなんだから、眠いに決まっている。気を使えていなかった自分が情けないけれど、私は謝らなかった。
「私もちょっと眠たいし、すこし寝ようよ」
謝ってしまえば、きっと浩太は眠くないと言い張る。
「うん、そうしよう。一時間だけ」
布団にもぐりこむと、あっという間に寝息が聞こえてくる。こっそりと布団から抜け出して、散らかしたままの部屋を、音を立てないように片付けた。
浩太はきっちり一時間で目を覚ました。寝ぼけた顔で部屋を見渡して、口許を弛ませる。
「きれいに片付いたね」
おもしろそうに喉を鳴らして、背伸びをしてから布団から這い出した。それから棚の上を見て、驚いた顔をする。
「現像したんだ。ぼくにも一枚ちょうだい」
写真立ての中では、私と浩太が山を背に手を繋いで、楽しそうにピースをしている。夏休みに入って、二人で行った旅行の写真。私は帰ってきてすぐに、こっそり現像してきていた。
「いいよ、一枚だけなら」
「他の写真は現像してないの?」
「うん、写真撮った人が下手くそだったのかな。ほとんどブレてた」
嘘をついた。みんな綺麗に撮れていて、今も引き出しの中にしまってある。
「せっかくひまわり畑に行ったのにもったいないなあ」
机の上に置いていた封筒から、たった一枚しか入っていない写真を取り出して渡した。不満を言っていたわりに、受け取った浩太は嬉しそうな顔をして、鞄の中に丁寧に仕舞った。また行こうね、と彼は笑うけれど、たぶん私はもう行かないだろう。
電気をつけないまま話していると、太陽の色が変わり始めていることに気が付いた。眩かった光が赤みがかってきて、時計を見ればもう夜が近い。浩太はいつの間にか、帰り支度を始めている。
「そうだ、今から家に泊まりにおいでよ。お母さんも由紀に会いたがってたよ」
どきり、と心臓が強く高鳴って、何か言おうと思っているのに口がうまく動かない。辛うじて首を縦に振って、喉が渇いて張り付いた。
「じゃあ、お母さんに言ってくるね」
ペットボトルのお茶で固まった喉を柔らかくして、私は部屋を出た。
違うんだよ。浩太にそう言ってやりたかった。彼女は、私に会いたいわけではなかった。浩太のお父さんが亡くなる少し前に、私たちは付き合い始めた。なかなか家から出ることのできない私に気を遣って、浩太はいつも私のところまでやって来る。夫を亡くして、一人息子も私に盗られ、お母さんは仕事を終えて帰ってきても家でひとり。私に会いたいのではなく、浩太に帰ってきてほしいだけなのだ。
部屋の外は、冷房が効いていなくて蒸し暑い。すぐに私から汗が出てくるけれど、首のまわりは冷たい空気が回っているようだった。
外は家の中よりも暑く、夏バテになったみたいに全身が重たくなる。私たちは手を繋いで、閑散とした道を蝉の鳴き声を聞きながら歩く。
浩太はさっきからあまり喋らなくて、私の慌ただしい鼓動と蝉の声だけが鼓膜を打って、なんだか息苦しい。家を出てからあまり歩いていないのに、長い時間歩いているような気がする。浩太の家にこのまま着かなければいいのに、と口の中で呟いて、咄嗟に「おばさんごめんなさい」と小さく謝った。
「どうかした?」
浩太が無意識にを強く握ってきて、私は薄暗くなった空をあおいだ。
「やっぱり星は見えないね」
こんな時間に見えるはずはないのに、必死に目を凝らす私を浩太は笑いもせずに、一緒になって空を見上げた。
「次は星が綺麗に見えるところに行こうか。うんと田舎の方に行ってさ」
「そうしようよ。きっと人も少ないから、私も安心して行けるね」
何度か、お母さんに田舎に引っ越したいと言ったことがあった。そうすれば、きっと私は怖がらずに外へ出ていけるだろうし、浩太にも迷惑を掛けることはないと思ってのことだった。しかし、お父さんもお母さんも都会の出身で、田舎に頼れる知り合いもいない上に、お父さんの仕事の都合で引っ越すわけにもいかなかった。
仕方ないことだとは思ったけれど、もう少し娘のことを考えてくれてもいいんじゃないかと理不尽にも思った自分に、今でも少し腹が立つ。
「あ、ひまわり」
遠回りをしようと言って、よく知らない道を曲がったところに一輪だけひまわりが咲いていた。種が重たいのか、ぐにゃりと頭を垂れて下を向いている。
とっくに気付いていた私は、あんまり見たくなくて星を探しながら歩いていた。
「あ、ほんとだ。もう、枯れちゃいそうだね」
遠回りなんてするんじゃなかった。こんなところに咲いているなんて、思ってもみなかった。
「種がたくさんついているし、きっと来年も咲くよ」
浩太は私の心に気付いていないのか、立ち止まってひまわりを見ていた。
「ねぇ由紀、たくさん咲いているのもいいけど、一本だけっていうのも力強くていいね」
鼓動が早くなって、空いた右手が徐々に痺れていく。少し寒気がして、慌てて浩太に声をかけた。
「ね、ねえもう行こうよ。暗くなっちゃうよ」
「あ、ごめん。そうだね、行こうか」
急かした私の手を引いて、浩太が歩き始めた。ひまわりから目を逸らそうとして、道の反対側に視線を移すと、ゆっくりと歩いているお婆さんと目があった。本当に目があったのかわからないけれど、私の視界が折れ曲がって、まずいと思った時には、もう踏み出した足は地面を捉えることができなかった。
繋いでいた手が離れ、体が地面にぶつかった。気が遠くなりはじめた私の耳に、お婆さんの声が遠く聞こえる。
「救急車呼ばないと!」
ひどく慌てた声だ。かちゃかちゃと何かを弄る音がして、そして浩太が言った。
「いえ、救急車は呼ばないでください。大丈夫ですから」
「なに言ってるのお兄ちゃん、その子すごく苦しそうなのに」
「大丈夫です。たまにある発作で、10分もしたら落ち着きますから」
このまま死んでしまうのではないかと錯覚するような吐き気が襲って、口の中が苦くなる。我慢しようと口を結ぶけれど、耐えきれずに吐き出した。チョコレートアイスの味がして、やっぱり美味しくないな、と思った時には、まわりの声はもうほとんど耳に届かなくて、目の前も真っ暗になっていた。

2

本田浩太は、時間を掛けて貯めた金で、安い中古車を買った。古い車ではあるが、問題なく走る上に内装も綺麗で、文句の一つもない。
初めから車を買うと決めていた。電車に乗ることはおろか、外へ出ることさえ躊躇う彼女でも、小さな車であれば僅かでも安心して外出ができるだろうと考えてのことだった。
「いつか旅行もできるようになったらいいね」
彼女の言った言葉が、今も浩太の胸に残っている。いつか叶えてやろうと意気込んで、ようやく夢がかなうのだ。
「由紀、車で旅行行こうよ。小さい車買ったんだ」
そう言うと、由紀は顔を綻ばせてから、少し不安そうに目を伏せた。
「旅行の練習がてら、いまからドライブしようよ。六甲から夜景でも見に行こう」
急で怖がるかもしれないと思っていたが、浩太の想像よりも素直に由紀はついてきた。
それから何度も短いドライブを重ねながら、二人で旅行の計画を立てた。あまり遠くへ行っても疲れるだろうと、少し離れたひまわり畑に行き先を決め、浩太が夏休みに入ってすぐに向かうことになった。
念のため、後部座席の窓にはカーテンを取り付けた。道が混むであろう朝は避け、午前も終わりはじめた頃から、ゆっくりと目的地へ向かう。
車窓からの景色は、郊外へ出るとなんの変哲もない落ち着いた田舎道になった。高速道路を使ってもよかったが、免許を取ってまだ浅い。それに、由紀のことを考えると、下道を通る以外には思い浮かばなかったのだった。
「どう? 辛くなったらすぐに言ってね」
由紀は晴れ渡った空に夢中で、あまり話を聞いていない。晴天に浮かぶ一つの雲を指差して、「あれなんだか美味しそう」などとはしゃいでいる。家の外で、こうも楽しそうな 由紀を見るのは久しぶりだった。
ひと気のない空き地に車を停め、後部座席を倒して、由紀の作ってきた弁当を食べる。トランクを開ければ、初夏の風が車内の空気をさらって気持ちがいい。小さな車であったので、窮屈で心地が悪いかと浩太は思っていたが、こうして二人で外出する分には何の不自由もない。このまま寝そべって、昼寝でもできそうな居心地のよさで、浩太は軽く欠伸をした。しかし、「勝手に停めてたら怒られちゃうかも」と急かしたために、浩太はゆっくりする間もなく車を走らせたのである。

「うわぁ、これ全部ひまわりなの?」
一面に広がるひまわり畑に、由紀は目を輝かせている。旅行に行くことに多少の不安はあったが、こうして喜ぶ姿を見ると、これから次第に具合も良くなっていくのではないかと思えた。彼女にとって広すぎる世界でも、こうして嬉しく思えるものがまわりにあれば、きっと彼女は外へ出ていけるのだ。浩太は手を引いて、外の楽しい世界を教えようと走り出した。
「見て見て、お母さんにデジカメ借りてきたの。ほら浩太、笑って」
誇らしげな顔でカメラを顔に近づけて、浩太が笑顔になる前にシャッターをきった。
「あーあ、変な顔」
したり顔で撮った写真を眺めてから、つぎつぎとひまわりをレンズに収めていく。ひまわりは由紀よりも背が高くて、道を外れて中に潜り込んでしまえば、もう由紀を見つけられないような気がした。
時間が経つにつれて、ひまわり畑にも人の姿がたびたび見受けられるようになった。由紀の表情も時折強張り、その度に浩太の手を強く握っている。
夕方が近づき、ひまわり畑に沈む夕日を見にきたとおぼしき男女が、見渡せる場所を探して奔走している。たまに立ち止まっては、ひまわりを指差して笑っているが、いつの間にか由紀と浩太のまわりにはひまわりしかいなくなっていた。
夕焼けに照らされて、彩りをぼやけさせ始めた大輪のひまわりは、少しずつ花びらの輪郭を失っていく。
「綺麗だね」
そう呟くと、由紀が不意に立ち止まった。
「ひまわりってかわいそう」
浩太が振り向くと、由紀は夕焼けに目もくれずにひまわりを見ていた。
「見せ物じゃないのにみんなに覗きこまれて、ずっと見られてる」
なんと声を掛ければいいのか、浩太にはわからなかった。それでも黙っているのはいたたまれなくて、なにかに弁解するように口をひらいた。
「でもさ、綺麗なものを持っていたら人に見せびらかせたくなるでしょ?」
ひまわりだってそれを望んでいるかもしれないと言いかけて、口をつぐんだ。先ほどの男女は、きっとこれを見て笑っていたんだと悟って、続きを口にすることが憚られた。
「ねぇ浩太、このひまわり、私に似てるよね」
まわりのひまわりが夕日に背を向けているなかで、一輪だけ西を向いている。由紀の言葉を止めなければいけないと思ったが、浩太にはその言葉を持たなかった。
「ちょっと調子が悪くて、好きでみんなと違う方を向いてるわけじゃないのに。そうじゃないのに、この子を見てみんな笑うんだよ。こんな自分、見られたくないのに」
涙を流すわけでもなく、ただその場に佇んで夕日を受けている。由紀は、ひまわりを同じ方を向かせてやろうと、折らないようにそっと首を回してやるが、手を離してしまうとまたそっぽを向いてしまう。
「お父さんとお母さんだって、本当は嫌なんだよ。私がまわりから引きこもりだって見られてるのが。だからお母さんは私を外に出したがるし、お父さんは仕事で遅くまで帰ってこない。私のせいなんだって、私はわかってるのに、浩太がいないとなにもできない」
「じゃあ」
もう、なにも言わせるわけにはいかなかった。
「由紀がちょっとでもみんなと同じ方を見られるように、僕がこうやって、支えておいてあげるから」
そっぽを向いてしまったひまわりを、もう一度やさしく向きを変えてやる。そうすることが、自分にはできると、浩太は思った。できないなら、自分も由紀と同じ方を向こうと思った。
「ほら、そろそろ帰ろうか」
出口に向かって歩みを進めると、初老の男が写真を撮ってあげようと声を掛けてきた。カメラを預けて、二人が山を背にして立つと、男は不思議そうに首を傾げた。
「これでいいんですよ」
怪訝に眉をひそめて一度ひまわり畑を振り返ったあと、渋々といった体で、カメラを覗き込んだ。かしゃり、と音がして二人の旅は終わった。

由紀をおぶっての帰り道、浩太は自分の失態を恥じた。旅行を大きな発作もなく終えることかできたことに胡座をかいて、外に連れ出しても大丈夫だろうと生まれた油断を祟った。
遠回りをしたからか、発作の起きた場所からは幸いなことに浩太の家よりも由紀の家が近かった。通りがかった老婆には簡単に説明はしたが、機会があれば詳しく話をして、安心させてやった方がいいかもしれない。背中の由紀は、寝ているのか気を失っているのか判然としないが、時々びくりと身体がはねるところを見ると、まだ発作は鎮まっていないようだ。
家の前で、由紀の母親が待っていた。発作が起きてすぐに、連れて帰ると浩太が連絡をいれていたのだった。
「ごめんねこうちゃん。また迷惑かけちゃって」
眉尻を下げて、二人の鞄を受けとり、急いでドアを開ける。
「玄関までで大丈夫だから、あとはわたしが部屋まで連れていくから」
「いえ、もう母には連絡したんで、発作がおさまって目を覚ますまで部屋にいますよ」
由紀を背負って階段を上るのは、何回目だろうか。最近は落ち着いていたから久しぶりだけれど、随分らくになった気がする。
ベッドに下ろし、布団を掛けてやると、由紀はいくらか落ち着いたようで、呼吸も規則正しくなっていた。浩太は水を貰うためにリビングへ下りていった。
リビングには、すでに水と薬が置いてあった。台所で、由紀の母親が粥を作っている。
「あの子、発作が出ちゃうとあんまりご飯食べないからね。流し込めるものじゃないと何も食べないのよ」
疲れた顔で鍋をかき回す姿を見て、やめてほしいと浩太は思った。そんな姿を普段から由紀に見せているのだろうか。自分の娘が辛い目にあって苦しいのはわかるが、そんな顔を由紀に見せてしまえば悪循環にしかならないと諌めてやりたかった。
部屋に戻ると、由紀が目を覚ましていた。いく度となく、ごめんねと繰り返す由紀に、浩太は水を差し出した。水を飲み干すとすこし落ち着いたようで、今日はもう大丈夫だから、と浩太に帰るように微笑みかけた。
「また明日、いつもの時間に遊びにくるからね」
「うん、待ってる」
帰ってもいいのか逡巡した浩太であったが、由紀があまりにも大丈夫だと言うので部屋を後にした。リビングへ顔を出して帰る旨を伝えると、母親は申し訳なさそうに、「無理して来なくてもいいからね、由紀のことはわたしもがんばるから」と浩太の腕を捕まえて言った。浩太は一言、おやすみなさいとだけ応えて、玄関へ向かった。
靴を履いていると、階段を下りる音がして振り向けば、由紀が封筒を片手に立っていた。
「これ、ブレてなかった写真だけ集めておいたから、浩太が持ってて」
渡す手が震えていた。発作が収まりきっていないのかと聞くと、右手だけだからと浩太を玄関から押しだした。
「じゃあね」
「うん」
短く言葉を交わして、ようやく帰路についた。
家に帰ると、どっと疲れが押し寄せて、風呂を出てベッドに倒れこんだまま、どろりとした眠気に浩太は落ちてしまった。つけたままの電気が、たまに点滅している。何度も繰り返して、明け方には、後ろから何かに引っ張られるようにして一度瞬いて、もうつかなくなっていた。
浩太が目を覚ますと、約束の時間が近づいていて、ゆとりを持って行こうと思えばもう家を出なければいけない頃合いになっていた。携帯電話を開くと、電池が切れていてだんまりを決め込んでいる。服を着替えて外へ出ると、今年で一番暑い夏の日だった。
「お兄ちゃん、昨日は大丈夫だったの?」
道すがら、由紀の発作に居合わせた老婆が浩太に声を掛けた。心配で、何度も外へ出て浩太を探していたらしかった。これだけ心配をしてくれている老婆に由紀の抱える問題について何も説明せずに立ち去るのは居心地が悪く、詳しく説けば、「大変ねぇ」「苦労してるのねぇ」と、実のない返事がかえってくる。そのくせもっと詳しく教えなさいと言わんばかりに尋ねてくるので、約束の時間を過ぎていることに浩太はすぐには気がつかなかった。
結構な時間遅れてしまったと、慌てて由紀の家へ駆け出して、時間を見ようと携帯電話を開くが、やはり電源が入っていない。
由紀はきっと不機嫌だな、と呑気に思ってインターホンを鳴らすと、由紀の母親が浩太よりも慌てて出てきた。
「さっきから由紀が部屋から出てこないの。声を掛けても返事がないし。朝ごはんは食べたんだけど、発作でも起きたのか心配で」
浩太は母親が部屋へ上がってこないよう、携帯電話の充電を頼んで、階段を駆け上がった。ノックして声をかければ、いつものように出てくるものかと思ったが、いつまでたっても出てこない。嫌な汗が首筋を舐めて、浩太はドアを引いたが鍵がかかっているようでビクともしない。ポケットの財布から小銭を取り出して、鍵の窪みに合わせて捻った。かちゃり、と音がして、ドアを引くと、高い音を上げて苦もなく開いた。
部屋の中央には椅子が倒れ、由紀は、梁から伸びるロープにぶら下がっている。種をたくさん蓄えたひまわりのように頭を垂れ、来年も咲くのではないかと浩太の頭をよぎった。
そういえば、リフォームした名残で、古い梁が残っていると言っていたな、ロープなんて持ってたんだこいつ、などとぼんやりと考えて、由紀を抱きかかえて、ロープを解いた。昨日背負った時にはあんなにらくに背負えたというのに、息のない由紀は全身が蒟蒻のようにだらしなくて、抱えるのに苦労する。やっとの思いで由紀を解放して、浩太はベッドに下ろしてやった。
由紀の母親には、早く救急車を呼ぶようにだけ伝えた。電源だけはつくようになった携帯電話を引っこ抜いて、留守電が入っていることに気がついた。
「浩太、嫌だったら、来なくても私はもう大丈夫だからね」
由紀の母親との会話を聞いていたのだと即座に悟った。あの会話を聞いていたからこそ、時間になっても姿を見せない浩太が、きっともう来ないのだと感じとったのだ。
浩太は、こういう事態を覚悟していた。由紀の病は、自ら命を絶つ人が多いことは知っていた。もしそうなってしまったらどうしようという想像は何度も繰り返してきたのだった。そうなってしまえば、由紀に掛ける言葉は、一つしかないと心に決めていた。救急車のサイレンが遠くから聞こえてくる。母親が階段を駆け上がってくる音が耳に障る。
そして浩太は、由紀を頬を優しく撫でて、落ち着くように布団を掛けてやった。
「由紀、お疲れさま、これからも大好きだよ」

ひまわり

理由があって、手早くシンプルに書こうとした結果、読みづらく慌ただしいものになってしまいました。いずれ、時間を掛けて書き直そうと考えていますので、ここは何卒見逃していただければ。
知っている方であればわかって頂けたかと思いますが、由紀はある病気にかかっていました。この症状で、病名を明記せずに察していただこうと思って書いた結果、ごちゃごちゃとわかりづらくなってしまった節があります。書いてはみたものの、私にとって特に思い入れがある病、というわけではありません。ただ、こういう人もいるんだな、と思ったときに、どんな恋愛をするんだろうと想像したのがきっかけです。もし、症状や認識について間違っている部分があれば教えて頂ければ助かります。

ひまわり

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-08

Copyrighted
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