兄妹
兄妹
一
それは、ある安らかな夜の出来事でした。
まだ、頬に赤みが残る小さな女の子は、少し年の離れた兄と二人で暮らしていました。女の子の名前はローリエといって、まだ若々しい青年の名はクリコと呼ばれていました。二人は、あたりを森に囲まれた家に住んでいて、とても仲睦まじく暮らしておりました。
二人が暖炉の前で温まっていると、ドアを「コンコン」とノックする音が聞こえてきました。兄は、玄関の覗き穴から、外の様子を伺います。
すると、覗き穴の外には、恐ろしい姿をした老婆が一人で立っていました。身に纏っているボロボロの黒い布は薄汚れていて、乱れた白髪は老婆のおそろしい顔を、より一層悪辣なものにしています。皺だらけの手でドアを延々と叩く老婆のぎょろりと見開いた眼は、あたりを見張るような目つきで、まるで蛇のように見えました。
驚いた兄は急いで妹のところへ戻り、悪い老婆に見つからないようにと、妹を小さな籠の中へ隠しました。
「誰か! 誰かおらんのか!」
外では老婆の喚き立てる声と、つい先ほどから降り始めた雷雨とがゴロゴロと家中に響き渡っています。温かな気配はすでに消え去り、ガタガタと震えるドアは悪魔のような顔でこちらを睨んでいるようでした。激しい雨音と共に「ひらけ、ドアをひらけ…!」と唸る怒気を含んだ声は、ますます大きくなってゆきました。
身を隠した兄は、両手で耳をしっかりと塞ぐと、しゃがみ込んで息を潜めていました。こうして老婆の恐ろしい声が聞こえないようにと必死で耳を押さえつけてはいましたが、雨の音にさえも過敏になって恐怖心は膨らむ一方でした。薄暗い物陰の隅にある、引き戸棚の中でうずくまった兄は「見つかりませんように…! どうか見つかりませんように…!」と神に祈りました。引き戸の内側から、自分が吐く息の音も、まばたきの音さえも消えるように、ぎゅっと目を閉じながら祈っておりました。
どのくらいの時間をそうしていたでしょうか。しばらくすると、フッと火が消えてしまうように、今まで頭に鳴り響いていた怒号と喧騒がなくなっていて、ポツポツとした雨音だけが聞こえていました。固く閉ざしていた瞼をやっとの思いで見開いたクリコは、「嵐が去ったんだ! 老婆は、あの悪い老婆は私の決して屈することのない精神に服従したのだ!」と、そう思いました。爛々と輝いた眼は、すぐにこの感動を伝えるために、妹の姿を探しましたが、妹のローリエを隠していたはずの籠の中には何もありません。
そればかりか、たしかに閉めていたはずの天板はずれ落ちており、籠からさきは、人の歩いたような水跡が玄関を通って外へと続いていました。
妹は、老婆に連れ去られてしまったのです。
二
忽然と姿を消してしまった妹の身を案じて、兄は恐る恐るドアをあけてみました。目を凝らすと、何かを引きずったような跡が暗い森の奥へと続いています。クリコは、瞼を閉じ、耳を塞いでいた自分を激しく後悔していました。もし、目を開いていれば老婆の侵入に気付けていたはず。耳を塞いでいなければ、愛らしい妹の助けに応じられたはず。すぐに駆けつけねばならない責任を放棄して、ただ恐怖に慄き震えていた臆病者の自分をクリコは何度も叱咤しました。
夜空にもう雨雲はありません。跡に残るは可哀そうな妹が引きずられた道標。早く老婆に追いつかなければ。兄は意を決して森の中へと入って行きました。
森に入ると、月明かりが丁度道すじを照らしていて、勢い出したクリコは半ば駆け足で木々を縫い進んでいました。
すると、何処からかウォーン…ウォーンという声がしてきます。狼の声です。クリコはおおきく息を切らしながら走りました。しかし、獣の声はどんどんと大きくなってきます。草木を掻き分けながら進むクリコの顔は、思わずぞっとして青くなりました。なぜなら、もう狼はすぐ後ろまで迫ってきていたのです。
クリコは、思わず悲鳴を上げそうになる恐怖をじっと堪えて走り続けました。走って、走って、一心不乱に走り続けました。呼吸の音と心臓の音とがドクドクと高鳴り立てて、そして消え去り、完全に混ざり合って、ほんの小さな勇気の塊が溶けてしまいそうになるまで。つぶされるような恐怖心と戦いながらも、腕で森を掻き分け、足では駿馬のように走り続けました。同時に、クリコは妹のローリエに心の中で何度もあやまりました。老婆のやってきた時に手を握っていなかったことを。怖い思いをさせてしまったことを。クリコでも震えあがったほどの恐怖が妹にとっての恐怖でないわけがありません。傍で一緒にいるべきだったのに、隠れてしまった自分に怒りがこみ上げてきました。
兄は心の中で懺悔をしました。
「神よ、私を許したまえ! 神よ、私は自分の身のみを案じてしまった。自分だけが助かりたいと思ってしまった。神よ、ここに私は私の罪を懺悔いたします―! 神よ—―」
クリコは自分の心の中を、全て神に打ち明けました。本当は、老婆が入ってきた時に気が付いていたことを。そして、妹の泣き叫ぶ声が幽かに聞こえていたことを。しかし今では、自分だけが助かりたいと思っていた、邪悪な心から脱却したいと強く願っていました。
目からは自然と涙が溢れ出て、様々な思い出をクリコの脳裏に浮かび上がらせました。妹の朗らかな笑い声。愛らしい姿。ゆらゆらと流れるような純粋無垢の天使。そんな妹を思い出しては、頬を伝う涙はとどまるところを知らず、ただ潺湲と流れてゆきます。
「もう二度と離すことはしない。もし、もう一度だけでも会うことが叶うのならば必ず守り続ける」
そう心に強く誓ったクリコは、前を向いて走り始めます。愛と勇気の意味を知ったクリコは進み続けました。
三
—森を抜けたクリコは、あたりを見渡していました。
何度も走り回って老婆と妹の行方を捜しましたが、森の中では一向に見つかる気配がありませんでした。しかし、遠くで煙のようなものが上がっているのに気付いたクリコは、よく目を凝らしてそれを見つめていました。たしかに石炭から出る煤煙に違いありません。煙が立つところには人がいるはず。クリコは妹の行方を見た人がいるかもしれないと考え、すぐにその場所へ向かうことにしました。
高々と夜空へ流れている煙の元に近づいてみると、どうやらその煙は小高い丘の上にある立派な家から漂っているようでした。大きくしっかりとした木で出来たその家は、汚いところが見当たらないほどに整っていて、馬小屋の脇には真新しい薪が高く積み上げられていました。クリコとローリエが住んでいた所と同じ様に、まわりには青々とした木々が立ち並び、月夜に照らされた素朴な作りの家は、とても暖かい雰囲気のするものでした。
窓枠の中から洩れている橙色の光と、暖炉から出る煙につられるようになったクリコが中を覗いてみると、「スープの良い香り」「水水しい果物」それに、「香ばしい焼き色のついた小鹿の丸焼き」が、まるでそこからふわりと浮かぶような甘美な食事への誘い文句を歌っているようでした。クリコはとてもおなかがすいていたのです。
思えばもう長い時間を緊張の渦中で過ごしていたクリコは、温かい家庭の安堵感に触れる機会を何よりも求めていたのかもしれません。普段過ごしている、慎ましくも穏やかな日々が、どれだけ尊いものかをクリコは感ぜずにいられませんでした。
そんな想念を抱きながら、ぼんやりと家の中を眺めていると、二人の男女が奥のドアから入って来ました。
「—っ!」瞬間、クリコは思わず大声をあげてしまいました。
なんと、その家の中にいる男女は、幼い頃の記憶にある両親の顔そのもの。
呆然とその二人の姿に目を奪われたクリコは、その場でたじろぎ一歩も動けませんでした。クリコは、その、母と父に似た顔を何度も交互に見返しました。確かに母の笑みのようでした。彼女の微笑みは、ローリエの可愛らしさをブドウのようにおおきくふっくらと成熟させた聖母のようで、慈愛に満ちた清い優しさが溢れていました。父親に似た男性も、黒々とした豊かな髪や髭に、逞しい体躯から生え出た丸太のような腕。まさに幼い頃に見た、太陽の光を受けて燦然と輝く大きな背中のようでした。
「誰か…? そこに、誰かいらっしゃるのですか」
その時、母親のような女性が窓の外にいるクリコに気付きました。
「まぁ、あら……あら。よくこんな夜更けにおいで下さいました。どうかしましたか? いや、まずは。さあ、お入りください。中には暖かいスープも、ちょうど今夜捕まえた肉料理もありますよ。ぜひ、こっちへいらっしゃいまし」
戸惑いつつも、優しい母の声に導かれるようにドアを開け放ったクリコは、男女の顔を見て思わず「父さん! 母さん!」と叫び声を上げてしまいました。
妹を探す為にあたりを走り続けたクリコは、もうヘトヘトに疲れていたのです。このまま、この家の暖かいベッドで眠れたらどんなに幸せなことでしょうか。恐怖に耐えながらも、森の中を駆け抜けた勇気を褒め称えられたらどんなに自尊心が満たされることでしょうか。
クリコはすがるような目をして訴えかけていました。すると、男女は顔を見合わせて
「おやおや、僕たちを親と間違えるだなんて。迷子かい? どこの子だい? 僕たちに子どもはまだないよ」
「いやぁだ、あなた。そう言っちゃいけませんわ。今夜はこの子もいれて、豪勢な食事としましょうよ……」
そう言いながら男女はクスリと笑い合い、クリコを見やりました。
"豪勢な食事"と聞いたやいなや、グウと出た腹の音と共に、正気へ戻ったクリコは急に恥ずかしくなってしまいました。それもそのはず、目の前にいる男女をよく見ると、自分の両親とは似ても似つかない他人だったのです。
空腹のせいか、はたまた寂しさの見せたまぼろしか、クリコは真っ赤な顔をしながら慌てておいとまを告げると、またすぐに駆け出そうとしました。しかし、先ほどの女が後を追いかけてきて、「あなたがいればきっと、楽しい晩餐になるのです。どうか、どうか……」と、先を急ぐクリコを引き止めるのでした。何度断っても女は食い下がって、クリコを引き止めようとするのでした。
何度目かの問答の後、女はやっと諦めたように「ならばこれだけでも」と、自家製のパンをクリコに手渡しました。素直な、そして空腹だったクリコは、しっかりと感謝のお礼を伝え、小さな少女を連れた老婆の行方を知らないかと尋ねてみました。
すると、少し考え込んだようになった女は、「この平原を抜けた所にある、決して強風が吹きやまぬ谷間のさらに先に、ほとんど誰とも会わず、決して心を通わせることのない老婆の住む洞窟がある」という話をしました。しかし、その洞窟は狭く、自分のような大きな大人が無理に入ろうとすると、棘のような岩で怪我をしてしまうと言うのです。クリコは不安に思いましたが、これより先に行く見当もなかったので、教えられた場所へ向かうことにしました。その返答を聞くと、女はやっと満足気になり、さきほどの家へと引き返していきました。
クリコは、またひとりぼっちになってしまいました。しかしもう寂しくはありません。なぜなら、道中でパンを見つめる度に思い出す、本当の両親二人の姿が、クリコを応援しているように思えたからです。ローリエに食べさせてあげよう。たった一切れのパンだけれど。
とてもお腹のすいていたクリコでしたが、いま食べてしまうのはもったいのないような物に思え、そのパンを大事にポケットへとしまい込みました。両親のことを少しでも思い出せた感謝に、心まで温かくなったクリコは、また涙を流していました。
慈愛の涙が一粒。あたりは、星の瞬く美しい夜空となっていました。
四
丘の上から平原を抜け、強い風の吹きすさぶ谷間を苦心惨憺の末に進み続けたクリコはついに辿り着きました。眼前には、あの白髪の老婆が住むという洞窟が口をあけています。はやる気持ちを抑え、ゴクリと生唾を飲んだクリコは洞窟の中へと入って行きました。
女が話していた通り、狭い入口を抜けた先には、鋭く尖った棘のような岩肌が四方を囲んでいました。軽く触れただけでも怪我をしてしまいそうな此処では、慎重に歩くしかありません。ゆっくりと進むクリコを包んだ仄暗い洞窟は、じっとりと充満した湿った空気に、蝙蝠の羽ばたきや風の音が反響し、その響きはまるで、何かを訴える叫びのよう。『なんと恐ろしい所だ』クリコはそう思いました。一刻も早く妹を見つけ出し、すぐにここから立ち去らなくては気が変になってしまいそうでした。
ギィギィと止むことのない蝙蝠の獰悪な鳴き声と、張り出すように突き出た棘。異常な緊張感にさらされながらも、クリコは着々と奥の方まで進んでいました。覚束ない足元でしたが、一歩、また一歩と確実に進んでいるその姿は、逞しい青年のよう。そんなクリコの目の前で、何かがモゾモゾと動いていました。
老婆!!
クリコは身構えました。
あまりの緊張に体は硬直し、一気に全身の毛穴が開いて粘度の高い液体が体中へ痺れを伝えました。毛はそそけ立ち、瞳孔は大きく開き、その謎の物体から発せられる妖気というか、異様さのみが際立って、一気にクリコを青年からひ弱な少年へと退化させてしまいました。未知との遭遇が、闇と相俟ってクリコの体を揺さぶります。指、肩、そして膝がガクガクと震えだして操縦の効かなくなった体は抑制できず、太刀打ちのできない重圧に殺されてしまいそうでした。よろよろと、後ろへ倒れこみそうになると── 棘。
背中に棘が突き刺さりました。しかし、その痛みでクリコはやっと自我を取り戻しました。クリコは息を持ち直し、静寂な暗闇の中でよく目を凝らしました。
よく見ると、この前方にある物体はその前方にある物体は、膝下ぐらいまでの大きさで、柔らかそうな毛に包まれていました。さらに微かですが、その物体は、動物のような鳴き声を発していたのです。怪訝におもったクリコは、モゾモゾと動く何かへ近づくと、はっきりとその姿を確認しました。それは、傷ついた小さな狐だったのです。先程までの頭が痺れたような感覚が次第に薄れてゆき、警戒していた体から力が抜けると、クリコは足からへたり込んで膝をつきました。
「クゥーン…クゥン…」
どこからか迷い込んだその狐は、洞窟の棘にやられたのか、体のあちこちから血を滲ませて弱っていました。頭上の蝙蝠たちは、狐が力尽きて死骸になるのを今か今かと待ち構えています。
逆さ吊りの悪魔達を睨みつけ、すぐさま狐のそばへと這い寄ったクリコは、頭を優しく撫でてやると、先程分け与えられたパンを鼻先へ置いてやりました。大事にしていたパンでしたが、これが慈愛の心に満ちたクリコの優しさなのです。狐は、そんな優しさを敏感に嗅ぎ取ったかのように、鼻を近づけることもせず、安心してパンを食べ始めました。
パンを咀嚼してゆさゆさと揺れる黄金色の毛は、まるで暗がりに浮かぶ稲穂のように見えました。豊穣の大地を夢想させる輝かしい煌めきは、疲弊したクリコの心を癒してくれ、顔からは自然と笑みがこぼれてきました。しかし、そんな麗らかな日和を懐かしんでいるクリコをよそに、恐ろしいことはゆっくりと、しかし確実に迫ってきていたのです。
五
突然のことに、クリコはただ呆然とするしかありませんでした。
始まりは、パンを食べていたはずの狐が、激しく身体を痙攣させ、痛切な呻き声を上げたところからでした。
狐は、絶叫しながら辺りを猛然と走り回り、棘の突き出している壁に向かって体当たりを始めたかと思うと、逆立った黄金色の毛を鋭い岩に何度も突き刺し、ギャウギャウと大きな鳴き声をあげていました。一向に落ち着く気配のない暴れ狂う狐の、今にも飛び出すかと思えるほどに凶暴化した目と、血で真っ赤に染まった身体からは、既に腸がはみだし、何度も打ち付けたであろう耳は千切れかかっていました。自殺行為を繰り返していた狐は、びくびくと震わせた足を引き摺りながらも狂乱し、いつしかその足をだらしなく開くと、遂には動けなくなってしまいました。冷たい土の上で横たわりながらも、剥き出しになっていた爪で、空を裂きながら苦しみ続けると、やがて口の端から泡を吹き、次第に目から光を失っていきました。そして、最後に大きく呼吸をしたかと思うと、そのまま息絶えてしまったのです。
「毒じゃ! 毒餌じゃあ!」
悪夢はまだ続いていました。クリコの背後から、あの、老婆の声がしました。
「殺されてしまったのじゃ! 貴様がやった毒入りのパンで、狐が…! おお、かわいそうな狐…! しかし、かわいそうな…もっとかわいそうなローリエ!」
ローリエ! ローリエ、ローリエ、ローリエ! 老婆はクリコにそう捲し立てます。混乱。わけのわからないクリコは警戒しつつも、妹をさらってしまった老婆に対抗するため、足元にあるナイフのように尖った石を拾い上げました。
「だから…! ううう! だから迎えに行ったのじゃ! なのに、お前はどこかへ行ってしまっていた。仕方なくローリエだけを連れ帰ろうとしたら、あいつらに、憎きあいつらにローリエは捕まってしまったのじゃ。この毒を作った、あの憎き夫婦に! 痛い! ああ、痛い痛い。たまらなく頬が痛むのじゃ。お前の妹、ローリエを奪われた時に……ほれ、こんなに」
老婆はそう言って、手に持っていた燭台で自分の顔を照らしました。するとそこには、今しがた焼きゴテを当てられたような赤黒い大火傷がありました。見るも無惨な悍ましい傷です。そして、その痛々しい裂傷の他にも、体のあちこちには殴られたような痕があり、とても嘘をついているようには見えませんでした。老婆をよくよく眺めて見ると、恐ろしいと思っていた姿は、腰も曲がっていてクリコよりも小さく、貧相な布をマント代わりにしたひ弱な老人そのものでした。そして、悔しそうな顔をしながら必死に訴えていたその老人は、狐の元へと駆け寄ると、その亡骸を抱きしめて、まるで善人のようにおいおいと泣き始めるのでした。
「ああ、痛い! しかし、これからローリエに起こる事を考えるともっと胸が痛い! まさか、あの恐ろしい二人組の晩餐にだなんて…!」
老婆が言うには、丘の上に住んでいた夫婦は、身寄りのない子供をさらってきては、鍋で煮て喰ってしまう悪人だというのです。"豪勢な食事"とは近くから駆り集めた子供たちの事で、そんな彼らの行動を阻止しようとした老婆は、逆に傷つけられてしまったのです。
「信じない! 信じられるわけがない!」慟哭する心を、クリコは止める事ができませんでした。しかしなぜ、夫婦はクリコをしつこく食事へと誘ったのでしょうか。なぜ、パンに毒が盛られていたのでしょうか。そしてなぜ、老婆の顔にはおぞましい傷跡が残っているのでしょうか。足下では醜くなってしまった老婆が依然、おいおいと泣いています。
クリコはローリエを探すために老婆を押しのけ、急いで男女の家へと引き返しました。
六
—星空を駆ける天馬の如く。そして、疾風よりも早く。
クリコは走っていました。
円形になった汗は、煌めく星を反射するように輝くと、光の玉となって後方へ飛散してゆきます。全身から飛び散った光の玉たちはキラキラと輝いて、クリコの走った軌跡を舞う妖精のようでした。妖精たちは、兄と妹の物語をずっとみていたかのように、いつまでもキラキラと舞い続けています。しかし、時に笑い、時に慈しみ、時に憎む妖精たちも、いつかは深更の闇に溶け込んで冷えた露となることでしょう。
まず、男女の家に着いたクリコは、外から中を覗いてみました。先刻の暖かな雰囲気とは打って変わり、明かりが消されて暗くなった室内は、ひんやりと冷たい空気が渦巻いているようでした。妹、妹はどこだ……。焦るクリコでしたが、外からでは探すことなど到底叶いません。意を決したクリコは、洞窟からずっと手に持っていた先の尖った石を使い、器用にドアを開け家の中へと入って行きました。しかし、台所をさがしても、居間をさがしても、書斎をさがしても、どこにもローリエの姿は見当たりません。捜し残っているのは、寝室だけです。
寝室のドアの前に立つクリコは、願いました。しかしそれは、神にでも、両親にでもなく、自分自身にでした。この部屋の中では、夫婦が寝息を立てて眠っていることでしょう。人を喰らうという恐ろしい夫婦です。『今夜で、この命が尽きてしまうかもしれない』そう思ったクリコでしたが、不思議と怖くはありませんでした。≪必ず、この手で助け出す≫そんな願いで胸がいっぱいになっていたのです。
キィという音をさせながら、ゆっくりドアを開くと寝室から男女二人の大いびきが聞こえてきました。すぐそばに人喰いがいる恐怖は尋常ではありません。が、クリコは勇敢にもそのいびきの合間を縫って、部屋の中へとはいってゆきました。部屋の中ほどまでくると、どこかで誰かがシクシクと泣いて鼻をすするような声が聞こえました。クリコはその微かな声を頼りに、男女が寝ているすぐ脇を通り抜け、とある暗がりへと目をやります。
窓の外で浮遊している、月の光にちょうど照らされたそこには、小さな檻が置かれていました。
そして、その檻の中からシクシクと声がしているのです。ローリエ。クリコは危険も顧みず、急いでその小さな檻へと近づきました。すると、そこには俯き座り込んで泣く女の子の姿があったのです。ローリエ! 思わず声をあげてしまいそうになる衝動を抑えて、クリコは大きく目をみはり、檻へ手をかけて囁きました。
「ローリエ…ローリエ……。もう兄が来たから安心だ…今すぐにここから出してやるからな」
寝ている夫婦に聞こえないように、消え入るような声でクリコは囁きました。すると、今まで泣き続けていた少女は顫える顔をあげ「ああ……やっと助けが来たのですね。早くここから出してください。私は、明日には食べられてしまう運命なのです」と、助けを乞いました。
なんと恐ろしい事でしょう。現実にこんなことが、本当に、人を食べる夫婦が存在しているだなんて。
クリコは大きな衝撃を受けて眩暈がしてきました。この女の子がローリエでなかったことは、もう問題ではありません。ともすれば、既にローリエは食べられてしまったかもしれないのです。今は、なんとかこの少女を助けたいと強く思っていました。しかし、檻には頑丈な鍵がかかっていて、クリコの持っているようなただの石では開けられそうもありませんでした。すると少女は、「あの夫婦の首もとをご覧ください。鍵はあちらにございます」と、ベッドの上で大いびきをかいている夫婦の首飾りを指さしました。
その通り。きらりと光る首飾りの先には、鍵が付いていました。男の首に大きい鍵、女の首には小さい鍵の全部で二つの鍵が。
「あの、小さな鍵があればこの檻から出られるのです」と、少女。しかし、無理矢理に鍵を取れば夫婦は起きてしまうでしょう。クリコは頭を抱え悩みました。
……その時です。クリコの脳裏に狐の姿がよぎりました。
クリコは残っていた毒入りのパンを、小さく二つにちぎって夫婦の口へそれぞれ放り込みました。すると、夫婦は目を覚まして
「誰だ! てめえは!」
「あんた、この坊やはさっき来た子だよ! 性懲りもなく戻ってきたんだね……お前も殺してやる!」
「殺して食ってやる!!」
そう言いながらクリコへ襲いかかってきました。万事休す。もう駄目だ、もはや我が命もここまでか。と覚悟を決めて天を仰いだ瞬間、――「ぎゃあ!」と女の声がしたかと思うと、続けて男の野太い悲鳴も上がりました。
何事かと思い視線を戻すと、そこには老婆の姿がありました。老婆の手には真っ赤に焼けた焼きゴテが握られていて、それを夫婦の体に何度も押し当てていました。
「毒の量が少なかったようじゃが…じきに効いてくるじゃろう。ほれ、もうこんなに苦しんで震えておる……」
醜くなった顔をした老婆の言う通り、この夫婦はもうじき死んでしまうでしょう。鍵を取ったクリコは少女を助けてやると、共に家の外へ出ました。
外ではもう空が白んでいて、遠くからは鳥たちの声が聞こえています。今日も、何万年と続いた偉大なる日課を始めようとしている朝なのでした。暁の太陽が東の空から煌々と姿を現すと、クリコはローリエを思い出さずにいられませんでした。妹の姿を考えると、景色が滲みだして焦点を失ったようにぼやけていき、鼻の奥からは悲しみとがとめどなく溢れ出てきます。クリコは、ローリエの顔を、肌を、微笑みを、愛しいすべてを思い出しては、泣き崩れるのでした。
「待ってください。ここにも私のように囚われた子供たちがいるのです」
男の首についていた、もう一方の鍵を持った少女がそう言って馬小屋の戸を開け放ちました。すると、なんと中からは大勢の子供たちが飛び出してきました。どの子供も親のいない連れ去られてきた子供でした。そして、その中にはローリエの姿も……
こうしてクリコはローリエを救い出し、兄と妹は残りの人生を幸せに暮らしてゆきました。
おわり
兄妹