アサコ対アトピー

パソコンを整理していたら2008年くらいに書いたのがでてきました。
未発表だったため、アップしてみました。

アサコ対アトピー

 
 アトピーという名前のついた皮膚の病気が発症したのは赤ん坊のころだったらしいけれど、自分が病気なのだとはっきりと自覚したのは、小学生になってからで、人の視線と人の言葉と母の笑っているときでさえ悲しげな眼差しからだった。母は夜になると毎日、一人息子の僕が眠るのを待って、僕の体を痛いくらい抱きしめながら涙をこぼしていた。母は僕が気づいていないと思っているが、僕は急にうごめきだす痒みのせいで、ほとんどきちんと眠ったことなどないのだ。
 母には怒られたことがない。父は、ふつうの子としてあつかってくれたけれど、しかっているときでさえ、その目にはやっぱり哀れみみたいなものがあった。家族がたった三人ということは別に、僕が物心つく前から、僕の家は家の外でも中でもきわめて静かな生活を営んできた。台風がきても、地震がきても、停電しても、だれも大げさにさわいだりしなかった。なにか、もう一番よくないことはすでに家の中におこっていて、それより悪いことなどおこるはずもないのだと、そういう重苦しい空気が常に僕といっしょに漂っているのだった。とくに、母が僕をつれて外出するときには、彼女の緊張がその歩き方やけしてひとところにはとまらないおどおどした視線やきつく結ばれた口元にあらわれて、決まって僕の病状を悪化させた。
 僕の家族の夢は昔からたったひとつで、僕の病気がすっかりよくなることだけだった。だが彼らの希望はことごとくうちくだかれて、僕の病状は思春期にかけてこれでもかというくらいひどくなっていった。
 小学生のころからそういう兆候はあったのだけれど、中学にはいると病気のせいではなく、病気が周囲にひきおこす嫌悪感によって、ほとんど生と死の瀬戸際で生きなければならなくなった。高校生になって、暴力からのがれられるまでの三年間、僕は両親を恨み、そのくせけしてどれくらいひどいことをされているかなどうちあけず、毎日死ぬことばかり考えていたけれど生き残ってしまった。そのあいだだれになにをされたかなんて、もうよそう。僕は今、アサコという女を待っている。すでに二十分の遅刻だが、彼女は必ずくるはずだから。
 
 アサコは喫茶店にいつもと同じ、なにかに怒ったような顔をして飛び込んできた。背が高くて体つきも堂々としているから、彼女のぶんの風がかきわけられて、店内の温度が上昇したように感じた。「待った?」と彼女は体に巻きついていたいろいろなものを乱暴にとりのぞきながら、息をきらしてあやまりもしない。でも、僕はまた首を横にふる。やっぱり声にはならない。仕事の問いかけをされるときだけは、ふつうにうけこたえできるのに、仕事に関係のない話をされると、口がきけなくなる。
「すみません、ココアお願い」
 ウエイターがくる前に大きな声でカウンター内に叫ぶ。ココアが運ばれてくるとさっそくアサコはそれを一口のんで、僕をおもしろそうに見ていった。
「ムコウヤマくんって、人間嫌いなの?」
 杉山アサコは僕と同じ会社で働いていて、名前と僕より年上であることしかしらない。年上であるということは推測だけど。
「ほら、だまる。真っ赤になってるし。」
 大学生になって故郷をはなれたとたんに、僕の病状はびっくりするくらいましになった。季節の変わり目になるとやっぱり痒みはやってきたけれど、一番気になっていた顔の傷跡はニキビ痕程度に、ほとんどわからないくらいに消えてくれた。だが、僕は深刻な対人恐怖症になってしまっていて、ただの一度も友達も恋人もできなかった。でも、それはそれで寂しいだけのことだった。いつ終わるのかわからない地獄を味わった僕には、かくれなくていいということ、ふつうに息ができることすら、幸福とみわけがつかないくらいなのだ。アサコがパートタイマーとして会社にはいってきたのは、先月だった。先月なのに、アサコは僕より長くいるようにみんなとつきあっていた。だが僕はみぬいていた。アサコが彼らに本当には心を開いていないことを。
「迷惑?」 
 僕は首を横にふる。喫茶店はほどよくこんできた。アサコはココアをすすった。湯気にくもった顔をちょっと見て、おいしそうにのむな、と思った。僕は人前でなにかのむことすら、うまくこなせないような気がして、アサコがきてから一口もコーヒーカップに手をださなかった。
 僕はいつからか、人の顔を真正面からみることができなくなっていたので、アサコの唇の斜め上にほくろがあることや、眉毛の形が左右でだいぶ違うことや、奥二重であること、ほっぺたがふくらんでいること、などに気づくのは、彼女がほかのものに気をとられているときに限っていた。そういうのを一つ一つ発見するたびに、僕は彼女をおそれ、彼女に親しみを抱き、彼女の考えていることをさぐった。
「そんな無口で面接とかどうやったの」
 アサコがいらいらしてくるのがわかって、僕は命令されたように口をひらいた。他人が不快に思っているのがわかると、僕じゃない、ほかの人間がかってに僕を弁護しはじめる。
「面接は、マニュアル化されてますから、そのときだけ一番印象をよくすれば、うまくいきます」
「そんなふうにしゃべれるなら、最初からしゃべったら、いいじゃない」
「そうですね」
 アサコはカップを上にむけてココアを全部すすりきると、すばやく舌をだして唇を一なめした。
「ここにきた、あなたの本性がしりたいわ」
「本性……ですか?」
「あなたが今、何考えてるのか、ってことよ」
「たとえば?」
「たとえば、ってなによ」
 僕はとたんにつまった。アサコは僕を遠慮なくじろじろと観察し、それからふと体を僕のほうによせて、耳元でささやいた。
「わたしとセックスしたいか、とかそういうこと」
 僕は頭に針をつきたてられるように感じると同時に立ち上がっていた。
「それは、ちょっと、無理じゃないでしょうか。無謀です。不可能です。」
 喫茶店の中は急激に静まり、アサコはそばにあったマフラーを手に巻き付けて、僕をみていた。僕は僕が言った言葉に驚いていた。体の奥のどこかで自分ではコントロールしようのない黒々したものが動いているのがわかった。



 僕はなぜ自分があんなふうになったのかを考えて、たぶん人と関係を結ぶのがこわいのだと解釈した。だが、アサコのあのにおい、あのかすれたような声、あの「セックス」という言葉は僕からはなれなかった。僕はそれがどういうものかきちんとはわかっていなかったけれど、いやらしいことをするのだという知識くらいもっていた。
 僕なんかに声をかけてくるだけのことはあって、アサコはあんなことをいわれても誘うのをやめなかった。よくみればアサコの瞳、かたちこそ平凡にみえるその瞳の奥の輝きは、人並みはずれていた。いきいきしているとか、オーラがあるとかそういうのとはまたちがって、なんだか目をそらせたくなってしまうような、人を威圧するような、その眼力でゴキブリくらいなら殺してしまえるような、そういう邪悪な力の輝きに思えた。
「こないかと思ってたわ」
 アサコは前とは違う喫茶店で、今度は僕を待っていた。僕は黙って頭をさげた。
「なにする?」
 僕はホットコーヒーと言ったが声にならなかった。それでもシーシーというようなその音をアサコは理解してくれて、自分のぶんのココアといっしょにたのんでくれた。
「ココアが大好きなの。別に体にいいからのんでるんじゃないわよ」
「本当はすいたくもないのに、かっこつけてたばことか吸う女とかも、ばかみたいだと思うの」
「あとね、新聞にどうでもいいこと投稿する人っているでしょ。これからも夫婦仲良く二人三脚で、とか平気で書く人。人生相談とかは好きなのよ。回答者に怒られたりするのみると爽快だし」
 アサコは一人でしゃべっていた。喫茶店の中にはピアノジャズが流れていた。僕はそれをセロニアス・モンクだと知っていた。そういうこと、ほかにいろいろある、リヒャルトシュトラウスとかマーラーとか、三島由紀夫とかバルザックとかプルーストなどを話題にできたら、僕じゃない僕が勝手にしゃべりだす危険もなくなりそうなのに、どこかでつまっているみたいに、そういう知識はけして発音されなかった。だって、それはあまりにも今のこの時間に比べてつまらなすぎる。どれほどの価値があるとしても、アサコを待っているあいだの僕の気分、アサコを目の前にしている僕の気分とはひきかえにならない。
「ねえ、なんで、またきたの」
 なんできたのだろう。ことわれないから? きたかったから? 話をしたかったから? 
 僕はこたえられなかった。すると彼女は鞄から携帯電話をとりだして、なにか文字をうちはじめた。そして僕にそれをつきつけた。
《ここをでて、二人きりになれるところへいきたいんだけど》
 彼女がこのあいだと同じ目的をもっていながら、アプローチのしかたを変えているのだと気づいた。僕は黙って頷くと彼女のあとにしたがった。ミニスカートに包まれた彼女のおしりが、足を踏み出すたびに、弾むように揺れた。僕は迷子の子供みたいにそのおしりについていった。まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だという声がしていた。



 はじめておとずれたラブホテルは玄関から薄暗くて、受けつけの人は顔がみえなくて、とても事務的な、だがこの上もなくなげやりな女性の声だけがした。
「はじめてなの?」
 それが「セックス」に関してなのか、ここへきたことに関してなのかわからなかったが、どっちにしても、僕ははじめてだった。なにもかもがそうなのだ。
 アサコがつれてきた部屋は501番で小さな部屋の中には大きなベッドが一つだけおいてあった。テレビと小型の冷蔵庫もあった。
「シャワー、あびてきたら」
 アサコは絨毯に鞄を置くなりそういって僕がいる目の前で脱ぎ始めた。僕はすぐに瞳をそらせてシャワーがある場所をさがした。シャワーをあびるのがふつうらしい。そのあいだに、自分がどうするべきか考えをまとめようとした。シャワーをさがしているのに、アサコのくるんと折り曲げられた腕がまぶたにやきついていた。
 シャワー室はすぐにみつかったが、僕はお湯のだしかたがわからなくて、それをききにいくのも恥ずかしいので、我慢して水をあびた。胸から腹にできた見慣れたケロイド状の傷跡が水滴をすいこんで醜くピンク色に輝いた。年寄りの歯茎の色だった。僕は鳥肌だらけになってふるえながらそこにあるバスタオルで体をふき、また服を身につけた。シャワー室をでると部屋の暖房がきいているのがわかった。アサコはスリップ一枚でベッドに腰掛けていて、僕をみると笑った。足をくんでいて太ももが見えた。その奥の暗い、得たいのしれない陰を見たとき僕はまた、自分じゃないものがうごめき出すのを感じた。
「なんで、また服きたの?」
「……寒いんで」
「やっぱり、はじめてなんだね」
「なにがですか」
 アサコは立ち上がると僕に近づいてきた。僕はあごをつかまれた。
「なにするんですか」
 自分でもその声が殺気だっているとわかった。アサコをしりたい、だけど、僕の中のなにかが、僕に彼女を近づくことを許さない。傷跡をみられたくないからか?
「じゃあ、いったいあんたは、ここになにしにきたのよ」
 アサコがいらだっている。僕はわかりません、と言った。はじめてなんです。これからどうするんですか。
 アサコはまた柔和になってほほえんだ。彼女がほほえむと唇の横にとりかえしのつかないような皺ができた。
「大丈夫。気持ちいいだけよ。ここにはゴムだってあるし。あなたはただ私にみちびかれて気持ちよくなるだけ。」
 そういいながらアサコは僕をさわった。昔ベッドで母が僕をさわっていたのと同じようなさわりかただった。僕はベッドに押しつけられた。その上から彼女がかぶさってきて、たちまち僕の唇はふさがれた。やわらかい。異物だ。僕は自分でもよくわからない声をだして、唇を腕で遠ざけた。
 アサコが僕をにらんだ。僕はあせって顔から汗をたらした。
「アトピーってしってます?」
「ええ? ……アトピー性皮膚炎のこと?」
 アサコからその言葉がすらすらと正式に口にだされると、不思議な感じがした。いまどき、知らない人のいない病気なのだ。だが僕が病気のピークをむかえていたころ、確実な治療法など一つもなかった。
「あなた、アトピーなの?」
「もしそうだったら、どうしますか」
「別に。だってうつるもんじゃないでしょ」
 アサコはつまらなさそうにそういいながらも、僕の顔をあらためて見るように少し遠目になった。僕はかつては、この顔全部を土俵にして痒みとの壮絶な戦いをくりかえしていた。眉毛はなくなったし、朝になるといつもまぶたが傷からでる膿みでひっついてあかなかった。唇は三倍くらいに腫れ上がった。胸と腹はましになったとはいえ完全には治っていない。かくれているからわからないだけだ。
「でも、気持ち悪いですよ」
 アサコはますますけげんな顔つきになって今度は僕の全身を、首をかたむけてみた。
「どこが、そうなの?」
 僕が答えに迷っていると、あ、とアサコは口に指を近づけた。
「それで、わざわざ服きたのね」
 アサコは僕の体にまた触れた。そして大丈夫よ、そんなの気にしなくたって、といいきかせるように言いながら僕の唇にむかってきた。
 僕はそれをうけた。そして彼女にくるまれていった。僕の体の無数の傷跡を彼女はいとも簡単に無視した。そんなことができる人がいるとは思っていなかった。アサコの唇が僕の股のあいだにきて、僕は身をよじったが、彼女はひるまずにそれをくわえた。僕の唇はかすかにゆがんだまま浅く早い息をくりかえし、そのうち爆発するように叫んでいた。ほんの短いあいだに僕は導かれて体からなにか、毒素みたいなものをいっぱい放出した。
 気づいたとき鼻がゆがむような、おそろしく生臭いにおいの中に僕は横たわっていた。
「もしかして、射精したのもはじめてなの?」
 はじめてだった。なぜなら、僕はそんなところを快楽を得るためにさわる余裕がなかった。そこは長年のあいだ患部で、いつも血だらけで、ときおり排泄に支障をきたすくらいだったからだ。
 アサコは続けていった。
「この大きなのが私の中へ入るのよ」


 心配していたことがすべて杞憂に終わり、僕は一晩で二十五年かけてもできなかった、なにもかもを手にいれた。だが幸せではなかった。アサコの痙攣する体をみても、アサコのか弱い声をきいても、アサコのむきだしの体がこんなそばにあって息をしていることがわかっていても、僕は幸せとはかけはなれていた。
 僕はかつて一度だけ恋をしたことがあったからだ。青空、という一風かわった名前の女の子に、なんともありがちだが、悲しい道化師みたいな恋をしたことがあったからだ。アサコには恋していなかった。嫌い、ではない。どちらかといえば、母親をのぞく、ほかのどの人間よりも、いまのところ、一番好きかもしれない。だけど、これは恋ではなかった。もしここに横たわる女が、青空だったら、僕はこのできごとを信じられなかっただろう。だが、アサコだったからすべては明白で、単純な色をしていた。
「私結婚してたの。でもすぐ別れちゃった」
 アサコはけだるそうに、そして少し自慢がかった口ぶりで言った。
「しばられるのがいやなの。同じ生活をずっと繰り返すのもいや」



 薄暗い部屋の中でみる裸のアサコは彫刻みたいで、僕は服を脱がなかった。体をさらしたくなかった。むりやり服を脱がされた小さな頃、僕はせいいっぱい強がって笑ってみせたけれど、今はあのころよりもっと弱くなってしまった気がする。「服ぬいで」
 アサコは淡々と言った。僕は彼女の手を感じた。もう終わりだと思った。アサコの手が僕にだけわかるくらいにとまって、それでも彼女はそのまま僕のケロイド状態の肌に手でふれた。許されたのかと思った。だけどちがったのだ。アサコの体は微妙に僕との肌の触れあいをこばんでいた。僕がそうしたのだ。けれど、彼女もまた、それをのぞんだのだ。心では、彼女らしさを発揮したかったことだろう。だが彼女のからだは、僕のからだを拒否していた。それをさとられまいとするから、彼女の心と体はバラバラだった。

 その日に別れたわけではない。僕らはもう一度肌をかさねあわそうとさえしたのだが、やっぱりうまくいかないのだった。僕は最後のデートの約束をやぶった。以来、僕らは二度と二人きりではあわなかった。アサコも理由はわかっていただろう。僕がデートの約束をやぶったことについて、喧嘩にさえならなかった。


 かゆみがぶりかえしたのはアサコと別れてからだ。ここ一週間、僕の皮膚はパサついて常に砂漠のように乾いている。まるで音楽がはじまる前みたいに、痒みがおきる前には皮膚のその部分が熱をもってくる。そしてそれはわずかな時間で、それを意識したときにはもう、指の餌食になっている。ひとかきしたあと、痒みは飛び火してゆき、かいてもかいてもかきたりなくなる。まにあわないのだ。季節も悪かった。ちょうど秋の終わりで、自分の部屋の中以外、そこらじゅうが、エアコンのヒーターで乾ききっていた。僕のからだはほんの少しの乾燥が、致命的なダメージになる。すべてが痒みに結びついてしまうのだ。
 かきはじめて一時間近くなると、爪にむけた肉がめりこんでくる。ちょうど巨峰を食べるときに、どうしても爪の中が皮の紫色に染まってしまうのと同じように。そうすると血と体液がねたねたとねばりつく。いやなにおいがしてくる。だがいっときも休まずかかなければ、発狂してしまいそうになるからかきつづける。電話の音がした。かきつづけながらナンバーをみる。母からだ。
「はい」
「トオル、お母さん」
「うん」
 僕はかいていることを悟られたくないから、爪をつきたてた。
「今日料理おくっておいたからね」
「ああ、ありがと」
 母は一ヶ月に一回こわけにして冷凍した調理済みの食品を送ってくれるのだった。
「あんた、からだどう?」
「ああ、平気」
「かゆくなったらいいなさいよ」
「うん」
 電話ではなにもかわらなかった。かゆいといったら、母は薬を送ってくるだろう。薬は塗りたくないし、のむのも危ない。僕は長年医者とアトピーを把握しきれていない医者の出す薬に苦しめられてきたといってもいいのだ。薬に体のバランスや免疫力を犯されるのはもうごめんだった。かゆみは、なにかを必死で訴えているのだ。乾燥、ほこり、ダニ、卵、ピーナツ、チョコレート、季節のかわりめ、そしてなによりもストレス……

 アサコは僕の体の下で僕の皮膚がつくことをおそれた。それをよみとらせまいとせいいっぱい僕の首に回した細くて冷たい腕。僕のやけどしたみたいな肌があのきよらかな乳房にふれたとき、アサコは歯を食いしばって目をとじた。
 
 体の中にはなにか得たいのしれない生き物が住みついているのだろうか。僕は皮膚の下の微細な動きを感知した。はるかかなたの異次元から、何かに命令されでもしたかのように、小走りでかけはじめる「痒み」という感覚。そして痒みを終わらせるのもまた、自分の意志ではなかった。あれほど荒れ狂っていたかゆみは、どこか違う場所から命令されたかのように、たくさんの軍隊をひきつれてかえってゆく。そこからはじめて、ただ耐えることだけをしいる、痛みとむかいあうことになるのだ。
 
 自分より不幸な人間はインターネットをみれば確かにいるのだった。だが、それを読んで安心することは、汚らわしい生き方だ。アサコはなぜ僕に近づいてきたのだろう。たった一度だけ好き、と言った。泣きそうな顔をしていた。アサコの顔をもう五日みていない。僕の体は外出できないくらいひどくただれていたからだ。

 アサコから手紙が届くとは思ってもみなかった。
「メール書いても返事くれないから、もうずいぶん書いてない手紙などをかいてみることにしました。会社にこないから心配してます。もしまちがってたら恥ずかしいんだけど、ムコウヤマ君は自分の体のことを気にして、っていうか、私が気にしてるって思ってないですか。だとしたら誤解です。もちろん全然びっくりしなかったといえば嘘になるけど、だってアトピーの症状ってどんなものかわからなかったし、もしかして、私のそのびっくりした様子をみてムコウヤマ君が気を悪くしちゃったのかな、って思って。でも、あなたがアトピーだからといって、なにもかわらないのです。私は傷つけられてきてそれをかくしながら生きている人を探していたの。私もそうだから。今なにしてるの? 私はムコウヤマ君のことしか考えられないよ」
 
 僕は何度もそのアサコとは結びつかない稚拙な、学生が書いたんじゃないだろうか、と思われるような手紙を読み返した。「びっくりした」とアサコは書いている。あのときのあの反応を、そんな一言で片づけようとしている。僕はアサコの本当の気持ちを書いてみたくなった。
「私はびっくりしただけじゃなくてうろたえました。こわいくらいでした。あんなにひどい状態の、それもあんなに広範囲にわたったひっかき傷をそれまでみたことがなかったからです。私は目を閉ざしました。でもいやだとしりぞけることなんてできませんでした。私はどうしよう、どうしよう、ととまどいながらムコウヤマ君にそのとまどいを感じさせないようにあなたと接しました。ごめんなさい、私の体は、とても嫌悪感に正直にふるまいました。あれほど正直に反応するなんて、自分で自分がおそろしくなりました」
 僕はこう書きながら、同時におさえがたい興奮のただなかにいた。
 私もそうだから・・・・・・アサコはなにに傷ついてきたというのだろう。僕にはなにもいわなかった。僕はそれがしりたくなった。そして、それが僕と同じくらいひどいことであるように祈っていた。


 アサコに会ったとき僕は病院にいて顔をのぞいてすべて包帯だらけで、その姿はミイラを思わせた。アサコは最後に会ったときとまったくかわらない感じで枕元に立って僕を見下ろしていた。足の細い金髪の人形みたいなのに、顔はすごく日本人していて、決然とした面持ちだった。
「どうしてこんなになるまで、黙ってたの」
「そういう病気なんだ」
「手紙読んだ?」
「うん」
「ごめんね、苦しんでるのに、あんな脳天気な手紙だして」
 うれしかったよ、といいたいけれど、言えなかった。そのかわりに、アサコ、アサコの傷ってなに? すぐそういえた。
「たいしたことじゃなくてもいい?」
 アサコはそう口ごもった。僕は早くききたくて固定された首をわずかにふった。
「九つのときに両親が離婚したの。離婚の原因はお母さんの浮気なの。私、なんだかもうなんでもわかってて、妹はまだ幼稚園児で、なんにもわかんなくて、妹がうらやましくって。なんで私だけなんでもわかってるんだろうって、くやしくて、さみしくて、でも、だれにも相談できないし、めずらしくもなんともないことだけど」
「なんで、そういう話をしなかったの」
「ムコウヤマ君だって、病気のこと黙ってたじゃない」

「僕気持ち悪かっただろ」
「どうして、そんなこといわそうとするの?」
「正直な気持ちをしりたいから」
「じゃあ、これで、満足なの? 気持ち悪かった、最悪だった、もうさわりたくない、みるのもいや」
 アサコは泣いていた。僕は満足していた。言葉にではない、涙が透明で、きれいだったから。僕は自分がどこまでも意地悪になれるのだと知った。けっきょくは、だれのことも許せなかったのだ。
「そこからはじめたい」
アサコは泣きながら、不思議な顔をして包帯だらけの僕をみていた。
僕は静かに勃起してくるのを感じていた。

アサコ対アトピー

自分をふくめて身内にはだれもアトピーの人いなかったのですが、
話にきくことは多かったので、書いてみたのだと思います。
アトピーの方、気を悪くされたらごめんなさい。

アサコ対アトピー

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
更新日
登録日
2014-05-07

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