practice(92)



九十二





 口の中を思い出しているように未だ乾いていないガムの前に群がる蟻は,後ろに追えば追う程に行儀よく隊列になって右方向にある壁の下に触れて止まっていた。その一点を真ん中にして,さらに向こう側からも緩やかな行進と数匹の行ったり来たりが行われていたから,多分その先に彼らの巣穴が広がっていると思えた。しかしここは最上階の突き当たり,階段もさっと終わってしまって,「ひと部屋」と数える僕らのお家以外にはドアも何も見当たらないのだからその壁の向こうはやっぱり僕らのお家,もっと言えば山積みにされた箱からもはみ出ていた衣装を片付けたばかりの僕の部屋だった。貰ってきた机と前からある椅子をくっ付けて,カーペットが転がって広がったままになっていることぐらいに目立つことはないから,蟻の行儀のよい歩き方は目に付くはず。けれど昨日,一昨日と振り返ってみても彼らの歩みは見られなかった。あえて僕が眠った後の真夜中に出たり入ったりを繰り返しているのだとすると,蟻は黒いから,見分けなんて付かなくなるけれど,こうして彼らは遅い昼間も活動しているのだから,必ずしもそうとは限らない,そういう言い方で合っているはず。ずっと動かしている触覚を合わせる時には瞬間に立ち止まる,それから離れてまた立ち止まる。そういう手の内を隠さない彼らはあの点からどこに隠れて,どこに帰っているのだろう。勾配というものを感じないガムの様子を囲んで,近くで聞いても分からないし,彼らより大きな「人」として離れても,それはそれで分からないと思う。
 きいっと一階の外玄関が開いて,階段を上がる足音は二階分で居なくなり,しばらくしてから二階分で去って行く。手短なやりとりから,郵便屋さんは簡単なものを渡したんだろう。一階の玄関が開いて,きいっと閉まったのも聞こえた。
 五階分。エレベーターがないこの建物にある手摺りにはいつも木の匂いがする。階段の一部にされてとても長いこと経っているはずなのに,と明かりの中に舞っていることが目に見える白く小さな埃とともに息を深く吸って感心するあの人は,僕が紙袋の中のお菓子を気にしていることを気にしないでそう言った。一段ずつ折れ曲がって下っていた早い夏の日のある日で,管理人さんが持っている道具が無いと回して開けることもできない窓がどれも閉まっていて,暑さが積もりそうな気配がぎしぎしと鳴っていた頃。甘い紫の匂いに混じって,鼻に抜けていたハッカの香りはそれを邪魔した。おまけに建物にも感じていたよそよそしい感じが新しく残っていて,口の中で迷子になった返事はうんともすんとも言わなかった。いつまでも気にしないあの人はさっさと残りの階段を駆け上って,置いてけぼりをくらいそうな距離がそれを追った。二階,三階と上がるたびに疑いは気持ちの顔を出したり引っ込めたり,声をかけるより息を整える方が先だった。かたちにそって歩く音が聞こえたから,遅れて登ったところで四階は通りすぎて,一段飛ばしはここで使って,続いていた手摺りと一緒に階段は最後の一段でなくなった。顔をあげれば,あの人は,ちょっとした広さの前にある静かなドアの前で待っていた。ノックをする手の仕草を作って,叩いたりしないでそこが何かを教えていた。ドアノブは回せる木の作りで,その時には背伸びしてやっとこさ手が届くくらいだった。
「いいんじゃない?」
 それぐらいの言葉でしか,色々なものは表れなかった。 
 十分なことはその時々なのだと,ニスを使った跡が上手とは言えない形で長く長く伸びて,言う。そのどこかには補助輪付きの自転車で付けた傷があって,まだ危ないというから部屋の中で走ってみて,それが原因となってほれみたことかと言われてしまったんだった。補助輪を外して一階まで僕らで運んで,停めるところに困ったからそれを買った近くの自転車屋さんに預けて乗り降り出来るようになるまで。不器用はともに暮らして習慣となる,なんていう言葉を信じて,だからきっと不器用になると決め付けた人の針の練習とかにも付き合わされた。料理は美味いのに,と常に僕が言った不平に関すること。口を動かしながら手を動かしな!は,あの人が心に誓っている。その完成品はお互いに渡し合っても家の中でしか使わないのは言われなくても同じところなのだから,上手になった僕であって,尖った先よりも糸を睨んで努めるのはあの人で変わらない。食材選びを教わって,良しというだけなのもあの人らしい。紙袋を分け合って,駆けっこだってし合う。それは新しいことだと気付いている。新しい呼び方も。その時々だと。
 いつも持ち歩いていた鍵をすっかり忘れてしまった今日は訪れてから何周年かは忘れてしまったという乱暴な記念日,秘密のカードを伏せて待つ楽しみだからと,気付きそうなところに気付かないで,外に開く一番下の玄関を開いた。それから待つのは五階分の足音。ここまで続く木の匂いに,無くならない埃は陽光との関係性をちらほらと見せつける。変わった季節に増す温かみはまだ冷たい飲み物が欲しくならない。日付けよりも早い夏にはまだ会えていないのかもしれない。ガムに群がる行儀よい蟻に,それは聞いても分からない。すくっと立ち上がってから覗き込む,ズボンのポケットにない鍵を探して階段に沿うかたちの再会を待ってる。驚きは驚くようにしなければいけない。その時々を握りしめて。
「マム!」
 見上げる顔は忘れない。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-05-07

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