SS12 幽霊の帰還
僕は思い切って憧れの彼女に声を掛けた。
昼食を終えて外から戻ると庶務課にいるのは彼女だけ。フロアを見渡しても人の姿は数えるほどしかいなかった。
これは神が与えたチャンスに違いない。
誰にも邪魔されず、憧れの佐々木さんと言葉を交わすなら今しかない。
しかし一体何を話せばいいんだろう? 普段業務以外で接する機会がない僕は、彼女がどんな話しを好むのかまったく見当がつかなかった。
それでも絶好の機会を逃したくはないばかりに、僕は咄嗟の思い付きを口にした。
「佐々木さんて富山県出身だったよね? 実は僕もそうなんだけど、”へそ昆布”って知らないかな?」
「へそ昆布?」
「お土産の定番で佃煮らしいんだけど、どこにも情報がなくってさ」
「さあ? 聞いたことないけど……。関さんて、どこら辺の人?」
「県の東。魚津市っていうところ」
「私は西の方だけど……」彼女はかわいらしい表情を傾ける。「やっぱり記憶にないですねぇ」
すっかり彼女に魅せられて、僕は返事をするのも忘れてしまう。
「どうかしました?」
そんな不自然な”間”を埋めてくれたのは、がやがやと近付く足音だった。
***
ほんの少しお近付きになれた彼女との”思い出”を引き摺りながら迎えた最初の休日を、なんとなくダラダラ過ごしていると、ひょっこり訪ねて来たのは兄だった。
やはり地元を出て大阪に住んでいる兄は、出張で近くに来たから寄っただけ、格別の用はないと笑うが、兄の魂胆は見え見えだった。
大方、どんな生活をしてるのか確かめてこいと両親に言い付けられて来たんだろう。そうでなければ電話の一本も入れないはずがない。
もっとも部屋を見れば、慎ましい暮らしぶりも、付き合っている彼女がいないのも一目瞭然。報告されて困ることなど何もない。
僕は冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。
二人切りの兄弟がテーブルで顔を突き合わせるという時に、喉を潤すのが水じゃ何かと照れくさい。……というのは単なる言い訳。アルコールに滅法弱い兄に口を割らせるのが目的だった。
案の定、お互いの近況報告が終わる頃にはスパイ容疑は確定し、饒舌になったその口はさらに郷里の話題を口にした。
「お前さ、”へそ昆布”って知らない?」
「へそ昆布?」
「今、地元で有名なんだってさ」
なんでそれを知っている? もしや彼女と知り合いなのかと疑って、似通った向かいの顔を凝視した。
しかし顔を真っ赤にした兄は、ビン詰めされたその中身、色や味付けについてひと通り説明すると、最後にこう付け加えてビールをちびり。
「噂には聞くんだけど、どこにも実物がなくってさぁ」と、のたまった。
生返事を返した僕は、缶ビールの残りをごくりと呷って息を吐く。
そりゃ、ないだろう。
元々そんなものは存在しない。あれは彼女に話し掛けるきっかけに作った架空の代物なんだから。
二人に接点があるわけじゃないらしいと胸を撫で下ろす一方で、僕は”幽霊”の辿った道を考えた。
ネット? 口コミ? どっちにしたってあれから一週間も経っていない。
なのに勝手に姿形を作られて、今じゃ大阪でも話題になっている。
……一体どうすればそんなことになるんだろう?
すべては謎に包まれたままだけど、彼女が発端なのは間違いない。
これは気に掛けてくれてるって証拠じゃないか?
勝手に妄想モードに突入してニヤつく僕に、「気持ち悪いやつだな」と小突いた兄は、それでも元に戻らない弟を不審に思い、今度は額に掌を当てた。
SS12 幽霊の帰還